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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
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オッド・トーマスシリーズ3作目。
前回の事件の後、オッドは元恋人ストーミーの伯父が司祭を務めるシエラネヴァダ山脈にあるセント・バーソロミュー大修道院に住み込むようになる。本書はそこでオッドが遭遇した怪事件について書かれている。 前回はダチュラという悪役がオッドの敵であったが、今回は骨の化け物と修道院の学校の生徒の1人ジェイコブに“いなかった”と呼称される顔の無い修道士の出現と、クーンツお得意のモンスターパニック小説の趣が強い。特に人間に寄生して生まれる骨の化け物はエイリアンを想起させた。 前2作での舞台ピコ・ムンドを出たオッド。従って彼の良き理解者だったピコ・ムンド警察署長ワイアット・ポーターもいなければその妻カーラもいない。さらに彼の心の支えでもあったベストセラー作家のリトル・オジーもいない。つまりお馴染みのメンバーがいないわけだが、それでも今回登場する修道士たちも個性豊かな者たちばかりである。 世界でもっとも優秀な物理学者とタイム誌に賞賛されながら、セント・バーソロミュー大修道院で隠遁生活を送るブラザー・ジョン。 ブラザー・ナックルズは元マフィアの用心棒で、修道院の中でオッドの理解者であり、一番親しい人物でもある。 そして今回の惨事の第一犠牲者となるのはキットカット中毒と揶揄されているブラザー・ティモシー。 LAでソーシャルワーカーとして働き、幾人もの若い少年少女を構成させたシスター・ミリアムは、一部の心無い者たちからその遣り方を非難され、否応無く解雇された過去を持つ。 しかし今回の影の主役は得体の知れないロシア人ロジオン・ロマーノヴィッチになるだろう。眼光鋭い眼差しを持ったクマのような男で決して他者と交わろうとはしないが美味いケーキを焼くことに長けている、となんだか訳が解らないとにかく怪しいロシア人なのだが、物語の終盤で彼の役割が明らかにされるに至り、キャラが非常に立ってくる。 このオッド・トーマスシリーズは死者が見えるというスーパーナチュラルな要素を盛り込みながらも物語の語り口にミステリ的手法を取り入れているのが興味深い。 つまりファンタジー的な約束事を前提にした物語を紡ぎながら、ミステリ的サプライズも用意しているという非常に贅沢な作品なのである。 よくよく考えると舞台設定も本格ミステリでは王道とされる「嵐の山荘」である。 そしてこの手法はこの前に読んだ『一年でいちばん暗い夕暮れに』でも見られた複数の事象が一転に収束する鮮やかさを髣髴させる。どうやらクーンツは特殊な能力・状況・現象を前面に押し出したスーパーナチュラル作品にミステリ技巧を施すジャンルミックス的創作法が非常に効果的であることに気づいたのかもしれない。 個人的にはこの試みは成功していると素直に認めたい。 しかし一点苦言を呈するならば、この広大な修道院を舞台にするならば、やはり見取り図が欲しかった。 聖堂に図書館に学校に寮と広大な敷地を東奔西走するオッドの様子がなかなか頭に入ってこない。位置関係が解らないため、オッドが今どこにいるのかが非常に把握しにくい。 本格ミステリ作家でないデミルでさえ、『ニューヨーク大聖堂』では大聖堂の見取り図が付けられていたのだから、これはやはり出版社の怠慢だろう。次作の舞台設定が解らないが、この辺の配慮はお願いしたい。ミステリを専門に出版する会社としたら当然の配慮だと思うからだ。 ところでクーンツの犬好き、レトリーヴァー好きは最近になってますます拍車が掛かったようだ。 本書でもブーという名の雑種ながらもラブラドル・レトリーヴァーの血を引く犬が登場する。そして最後に意外な正体が判明するのだが、彼のトリクシーという愛犬を喪ったバックグラウンドを知っているものの、昨今の犬好き露出振りにはちょっと辟易してしまう。 そんな理由もあり、本書は裏表紙の紹介文にあるほどには傑作とは感じなかった。バカミスと賞される可能性大だが標準作だといえる。やはり1作目のインパクトが大きすぎた。 今回で1作目から連れ添ってきたエルヴィスも成仏し、オッドの許を去り、シリーズとして一段落着いたような趣がある。しかしエルヴィスに変わり、最後にサプライズ・ゲストが現れ、物語は次作への続きがほのめかされて終わる。このサプライズ・ゲストがどういう風にオッドと絡み合うのか、興味が非常にある。 それを期待して次作を待つことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ライツヴィルシリーズ3作目。本作ではかなり意識的にライツヴィルという町がエラリイにとって運命的な何かを持っている存在として描かれる。
シリーズ1作目『災厄の町』同様、本書では手紙が重要な役割を担う。『災厄の町』では夫が妻の毒殺計画をほのめかす3通の手紙だったが、本書では息子が母への恋情を認めた4通の手紙だ。 『フォックス家の殺人』が未読なので手紙が出てくるのか解らないが、本書は共通する手紙の内容がまったく正反対でしかもスキャンダル性を両者とも帯びている。 そして本書では『靴に棲む老婆』と同じ示唆殺人がテーマとして扱われている。『靴に棲む老婆』がマザーグースに擬えていたのに対し、本作では聖書の十誡がモチーフ。 したがって『靴に棲む老婆』のテーマ性に『災厄の町』の味付けを施した作品という印象を持った。 そしてそれら2作のエッセンスをさらに凝縮したかのような濃さがここにはある。特に本書の主要人物はエラリイと彼の友人ハワード、そしてその父親ディードリッチにその妻サリー、ディードリッチの弟ウルファートのたった5人というのが驚きだ。 そんなごくごく少ない人間関係の間で起きる殺人事件だから、必然的にドラマ性が濃くなる。 まずエラリイの友人ハワードは突発的に短時間の記憶喪失症に陥るという特異性を持っている。さらに彼の父親ディードリッチは捨て子だった彼を養子に迎え、さらには若き妻サリーも彼が支援していた貧しい家庭の娘を妻として引き取った経緯がある。 このハワードとサリーが姦通し、その内容を記した手紙が謎の脅迫者の手に渡ってしまうというのが物語の骨子といえよう。 本書におけるエラリイの役回りは謎の脅迫者を突き止める探偵役、ではなく、このハワードとサリーの2人に翻弄される哀れな使い走りであることが異色。前にも述べたがこういう役回りを配される辺り、国名シリーズ以降のクイーンシリーズはパズラーから脱却してストーリーを重視し、ドラマ性を持たせることに重きを置いているように感じる。 特に驚くのは事件の真相が解明するのは一旦落着した1年後であることだ。これほどまでに事件を引っ張ったことは今までなかったし、これがエラリイのに初めて犯人に屈服する心情を吐露させる。 しかしライツヴィルという町はなんとも問題を抱えた家族が多い町だ。事件に関わるたびに人間不信に陥りそうになり、探偵クイーンも気が滅入るのも無理はない。 また本書ではクイーン作品の弱点とも云うべき点が自己弁解気味に書かれているのが面白い。 華麗なるロジックを前面に押し出しているクイーンの諸作だが、そのロジックの美しさには惚れ惚れとするものの、いかんせん情況証拠の列挙に留まっていることが多々あり、実際私も感想にその事に触れ、苦言を呈しているときもある。本書ではその事に対し、エラリイが言い訳めいた理由を述べる。 曰く、「証拠集めは、証拠集めを仕事としている人たちに委せることにしている、(中略)ぼくの任務は犯罪者を発見することで、彼等を罰することではありません」 う~ん、なんとも苦しい弁解だ。つまり殺人事件など刑事事件を扱いながら警察捜査にはまったく自信がないと告白しているようなものである。 リアリティがないとチャンドラーたちハードボイルド作家連中にこき下ろされたことに対し、ほとんど屈服しているように思える。 エラリイが探偵業に自信を喪失したこと、そして上の台詞から読み取れる、作者のリアリティの追求を放棄したことを併せると本書は作者クイーンの敗北宣言とも取れる作品かもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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92年に『交通警察の夜』という題名で刊行された短編集。元の名が示すように本書に収められた短編は交通事故を題材にしたミステリである。
まずは改題された書名にもなっている「天使の耳」。 交差点での出会い頭の事故という題材に、盲目の目撃者をあしらい、信号機の色が変わる時間を秒刻みでロジックとして展開するところに実に面白く読めた。 被害者である女性を美少女に配し、加害者の疑いがある外車の運転手を軽薄なフリーターに設定しているところがミソ。最後に背筋が寒くなるどんでん返しが用意されているが、果たしてそれが真相か否かは解らない。 次の「分離帯」も午後11時過ぎと深夜の時間帯に起きた事故を扱っている。 これは非常に巧い。登場人物のエピソードとプロットが見事に呼応しており、それが最後のうすら寒さを感じさせる結末に見事に結実している。 そして「分離帯」という題名もテーマと溶け合い、もう1つの意味を最後に醸し出している。法律が時に見せる弱者への容赦ない仕打ちを逆手に取って復讐する彩子の執念がすさまじい。 誰でも一度は経験するだろう、初心者マークをつけた車の運転にいらいらすることは。「最後の若葉」はそんな経験が思いもよらない結末を迎える一編。 いやはやこれもよくある光景でしかもかつてそんな経験があったなぁと思わされた。 もし当て逃げされ、後日加害者から連絡が入り、修理しますと持ち出したらどうするだろうか。もちろんラッキーだと思って頼むだろう。「通りゃんせ」はそんな状況から始まる。 「分離帯」同様、路上駐車を扱った一編。このあまりにも身近な軽犯罪は一般的過ぎて罪の意識すら感じない人が多いが、本編ではその軽率な行動が復讐にまで発展する恐怖を扱っている。 続く「捨てないで」では実は警察はあまり介入してこない。そういう意味では元の『交通警察の夜』として編まれた本書では異色の作品とも云える。 実に上手い。小道具である缶コーヒーの空き缶が実に効果的に皮肉な結末に寄与している。 空き缶から犯人を突き止めるのかと思いきや、結局被害者側の役には立たないのだが、完全犯罪が深沢の知らないうちに放置された空き缶のために綻ぶという展開は秀逸。 仕返しをしていたことに気づかない被害者の2人もなんだか微笑ましい。 最後の「鏡の中で」はもっとも東野氏らしい作品と云えよう。 スポーツの世界ではスキャンダルが最も恐ろしい敵であるが、この作品はそれを扱ったもの。オリンピック出場が有力視される会社の選手が起こした事故をコーチが身代わりになって加害者となる。この手の真相の隠し方と物語運びはまさに東野圭吾氏の真骨頂だろう。 本書は今までの短編集と違い、交通事故という、通常のミステリで起こる殺人事件よりも読者にとって非常に身近な事件にクローズアップしており、それが非常に新鮮だった。従って諸作品で起こる事故が読者にとっても起こりうる可能性が高く感じ、私を含め特に車を運転する人々には他人事とは思えないほどのリアルさがある。 扱っている事件も交差点での信号の変わり目での出会い頭の事故、中央分離帯がある道路での急な飛び出し、初心者マークの車を脅かす煽り運転、雪の日の路上駐車中での当て逃げ、高速道路での空き缶の投げ捨て、交差点でのハンドルミスと、非常に日常的である。 そして事故に遭った人ならば誰もが一度は抱くと思うだろうが、交通事故の解決というのは被害者・加害者双方が納得いくようなものではなく、道交法に忠実に則って処理されるため、一種理不尽な扱いを受けたような思いを抱き、不平等感といったしこりが残る。つまり法律的には正当性が証明されても、感情的にはどちらが被害者か解らないといった感情を抱いたりする。 また交通事故の多い日本では機械的に処理する警察官もいるくらいだし、本書でも出てくるが、偶然起こった事件などは警察も捜査しても犯人が挙がる可能性が低いから、被害者の心情を慮らずに投げやりに応対したりもする。 そんな交通事故で遭遇する理不尽さが本書では語られている。特に前半の3編は泣き寝入りするしかない被害者側の、加害者に対する怨念が最後のサプライズとして用意されている。しかしそれは決して胸の空くような清々しいものではなく、弱者と思っていた者が最後に見せる狂喜や冷徹さが立ち上るようになっており、うすら寒さを覚える。 また他の3編でも被害者が実は間接的に加害者へ被害を加えていた、知らないうちに被害者が加害者へ仕返しをしていた、などとヴァリエーションに富んでいる。 個人的に好きな作品は「分離帯」、「通りゃんせ」、「捨てないで」の3編。特に「捨てないで」は先が読めないだけに最後の皮肉な結末にニヤリとしてしまった。 いやあ、しかし交通事故だけに絞ってもこれほどの作品が書けるのかとひたすら感服。 その読みやすさゆえに物語のフックが効きにくく、平凡さを感じてしまうが、実は完成度は非常に高い。この人はどれだけ引き出しがあるのだろうと、途方に暮れてしまう。この軽い読後感が私を含め本書の評価をさほど高くしていないのがこの作家の功罪か。 しかし東野作品を読んだことのないミステリ初心者がいたら、『犯人のいない殺人の夜』かもしくは本書を勧めるだろう。東野氏のエッセンスが詰まった、非常に損をしている作品集とだけ最後に云っておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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重厚長大とはまさにこのこと。
しかし単に長くて厚いだけなら退屈を促すだけだが、驚くべきことに本書とはそれは無縁の言葉だ。一言で云うならば、圧巻。この言葉に尽きる。 日本のミステリシーンにその名を留めさせたのが本作『深海のYrr』。上中下巻の三分冊で合計1,600ページ以上もありながら、刊行された2008年の年末の『このミス』では11位に食い込んだ。 深海に埋蔵されているメタンハイドレードの氷塊に巣食う大きな顎を持ったゴカイの発現を皮切りに、クジラやオルカたちが人間を襲い、世界中で猛毒性のクラゲが異常発生する。そしてフランスの三ツ星レストランではロブスターがゼリー状の物質に侵食され、人間にも害を及ぼす。 さらにゴカイはメタンハイドレードを侵食し、とうとうノルウェー沖の大陸棚の崩壊を招き、大津波がヨーロッパに起き、数万人もの命を奪う。そして被害の外だったアメリカにも白くて眼のないカニが数百万匹という単位で上陸し、病原菌を撒き散らし、ニューヨークを死の街にしてしまう。 地球全体の7割を占める海だが、その正体はほとんど謎に包まれており、作中でも語られているがメタンハイドレードなる次世代エネルギー資源が地球規模で埋蔵されているのが発見されたのもつい最近の事だ。 この未知なる神秘の世界で起こる世界的変事を大部のページを費やし、詳らかに作者は語っていく。神秘であるが故にそれが起こりえると納得してしまうような内容だ。 さてこのイールと名づけられた太古からの単細胞生物の襲撃はもちろんこれには人類が地球に及ぼした環境破壊が根底になっているのだが、それにも増して強調されるのは人間がイルカやクジラ、オルカなどの海棲類にしてきた仕打ちに対する怒りが込められている。 本当かどうか解らないが、本書ではアメリカ軍がイルカやオルカの脳に電極を入れて思考回路を解明しようとし、動物兵器を作る計画があったことが語られる。その仕打ちは正に人類のエゴ以外何物でもなく、動物愛護者でなくとも憤懣やるかたない所業だ。 しかし裏返せばこれほど西洋人の自然に対する保護意識を高める内容もないなと気付かされる。最近のマグロ漁獲規制やシーシェパードによる蛮行とも思える捕鯨反対運動など、こと海の生き物に対する西洋人の反発の強さは最近日に日に強さを増している。 本作が書かれたのは2004年だから現在に続くそれらの運動に繋がっているように感じる。作者シェッツィングはドイツ人だが、彼も海棲類にはそれらのグループに共通する愛着以上の感情を抱いているのかもしれない。 またパニック小説でありながら、登場人物のキャラクターにも彫り込んでおり、そこにもページを随分割いている。 主役の1人、レオン・アナワクは自身がネイティヴ・アメリカンの出自である事をひたすらに隠そうとする。翻って彼が忌み嫌うジャック・グレイウォルフはアイルランド人の父親とネイティヴ・アメリカンの混血児である母親の間に生まれたが故に、自身がネイティヴ・アメリカンであるアイデンティティがないのだが、逆に彼はオバノンという姓を使わず、グレイウォルフと名乗り、ネイティヴ・アメリカンたろうとする。 この両者の二律背反な位置づけは、逆にレオンをして近親憎悪を抱かせている。つまり彼はジャックが鏡に映った自分のように感じられてならなく、それがかえって彼の反感を買っているのだ。 またもう1人の主役シグル・ヨハンソンもスタットオイル社の社員で友人であるティナ・ルンを愛していると知りながら、恋人がいることを知るが故、本心を隠す。 そしてティナも恋人がいて初めてヨハンソンへの恋慕に気付かせられるのだ。 彼ら以外の脇役にも人物造形にはページを割いており、中編から陣頭指揮を執るジューディス・リーは真の天才である人生が語られ、くじけることがない強靭な精神が起因するところまでしっかりと描かれる。 ティナの退場で新たなヒロインとなるジャーナリストのカレン・ウィーヴァーもまた、どんな僻地や未踏の大地まで恐れずに身体を張って取材する姿勢が過去両親を幼い頃に亡くした際に心が折れ、転がるように堕落していった人生がある日入水自殺からの生還を期にタフな心と身体を持つに至る経緯が語られる。 彼女の造形には『砂漠のゲシュペンスト』の主役ヴェーラを想起させるものがあった。 本書3冊で登場人物表に挙げられた人数は37名。それらのほとんどにエピソードが織り込まれているからこれだけ長くなるわけだ。 さらに加えて様々な分野に関した詳細な情報がふんだんに盛り込まれており、読者の知的好奇心をそそる。 最新の深海調査内容については前述したとおりだが、他にもジョディ・フォスター主演の映画『コンタクト』で取り上げられた地球外知的文明探査機関、通称SETI―おそらく実在するのだろう。数万年後に返事が返ってくる地球外知的生命体との情報交換を生業としている国の機関があるというのはアメリカという国の懐の深さに感服する。日本ならばかつて話題となった事業仕分けで真っ先に切り捨てられることだろう―や石油会社の台所事情、津波のメカニズムについての詳細な記述、最新鋭空母についての詳細な説明、などなど、通常我々が触れることのない分野の情報が事細かに書かれている。 本書を著すにこの作者が費やした労力を考えると気が遠くなるような思いがする。 それらの中でも特に興味深かったのが、長年枯渇が叫ばれている原油について実はそれが全てではないことが書かれている。 本書によれば原油はあるにはあるのだが、それを採掘するコストと売上の採算が合わなくなってきているというのが実情らしい。自噴する油井がやがて圧力低下により、人工的に汲み上げるしかなくなったとき、莫大なコストがかかり、ここでコストバランスが崩れてしまうため、撤退せざるを得ないらしい。従って石油採掘会社は現在オートメーション化を推し進めているが、それにより従業員の大幅な解雇が問題になってきているというのだ。 また産業界と学術界の価値観の相違についても興味深く読んだ。 曰く、学術界は不明な点について明らかになるまでゴーサインは出さないが、産業界は不明点が致命的と判断されないならば、すぐさまゴーサインを出すというもの。この辺は学術探求者集団と資本主義者集団の意識の違いが如実に表されていて面白かった。 そしてこれまでの著作ではドイツ、しかもケルンと、自身の熟知したフィールドを舞台に作品を著してきたシェッツィングだが、本作ではノルウェー、カナダのバンクーバー、ニューヨークからはたまたイヌイットの住む北極、そして空母の上まで舞台がワールドワイドに展開する。なにしろ最初のプロローグの舞台はペルーの沖である。 開巻と同時に今まで読んだ彼の作品とは一味も二味も違うことが一目瞭然なのだ。 そして各地で語られる内容もまた濃密である。舞台となる場所の名所やレストランはもとより、そこに生活する人々の独特な風習や生活様式まで書き込まれている。個人的にはアナワクが父親の死を悼むために帰郷する北極圏のイヌイットでのエピソードがとりわけ印象に残った。 特に本書はイールに対抗する国として全てのディザスター作品の例に漏れずアメリカ合衆国を中心に据えており、そして例によって世界のリーダーシップを取りたがるアメリカ人の醜いエゴが揶揄的に描かれている。 この辺はフリーマントルの諸作でも常に見られる傾向だ。欧州人はやはり似たような反米感情を持っているだろうか。 とにかく派手派手しく大規模なカタストロフィを次から次へと繰り出しながらも内容は全く荒唐無稽さを感じさせない。それは上述したように作者はその1つ1つに現代科学の最新情報を織り込み、専門知識を詳細に説明しながら、それらが起こりうるべくして起こったのだと納得させる。 上に挙げたような構成だから各々ページの上中下巻という大部になるのはもう致し方ないか。しかし不思議な事に全くだるさを感じない自分が居た。むしろ毎日読むのが愉しみでパニック小説でありながらも結末を早く知りたいといった性急さにも焦がれなかった。ただこの作品に出てくる人物達の生き様や世界が崩壊していく行く末をじっくりと読みたい自分がいた。 今までシェッツィングの作品を読んできた私の感想は決して好意的ではなかっただけにこれは今までになかった感情である。 正にフランク・シェッツィングが作家として全身全霊を傾けた渾身の一作である本書。『砂漠のゲシュペンスト』で見せたエンタテインメント作家としての洗練さが花開いた感のある大作だ。 しかしだるさを感じないとはいいながらもやはり1,600ページ強はやはり長く、再読するには躊躇ってしまう。次作はもっとコンパクトにさらにエンタテインメントに徹した作品を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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アイリッシュ=ウールリッチお得意のサスペンス。1人の女性の運命が翻弄されるプロットが実に心憎い。やはりアイリッシュは、こうでなくてはならないという期待に必ず応えてくれる信頼できる作家だ。
アイリッシュの作品の登場する女性には悪女という冠がつくことが多いが、本書の主人公ヘレン・ジョーゼッソンは列車転覆事故がきっかけで実業家の息子と結婚した女性に成り代わるのに、彼女は決して悪女ではないのが特徴的だ。 彼女は運命に翻弄されるか弱い女性であり、常にいつ自分のついた嘘がばれないか、怯えている。しかも彼女を受け入れてくれたハザード家がこれまた善人たちの集まりであり、そんな善良な人たちを騙す行為に常に罪悪感が抱いているのだ。 しかし彼女は決して真実を話そうとはしない。なぜならば折角得た幸福を逃したくないという願望が強いからだ。 冒頭で語られる人生が変わるまでの彼女の人生はなんとも悲惨なものだ。8ヶ月の胎児を孕んだ身重でありながらその父親は賭博師で認知もせず、彼女にたった5ドルと彼女の故郷までの切符を郵送で送りつけただけ。貧乏のどん底に逢った彼女のよすががこのろくでなしの彼スティーヴンだけだったのだ。 そんな彼女に降って湧いたような豊かな生活。これは誰しもそう簡単に手放せるわけでないだろう。 アイリッシュのプロットはよくよく考えると非現実的だ。本書でも実業家の息子ヒューの花嫁パトリスが相手の両親に逢った事もないのに結婚をしている。これは今では考えられないシチュエーションだ。 しかし詩的な文体が織成す前時代性的雰囲気、そして行間に流れる登場人物の哀切な心情が読者の共感を誘い、一種の酩酊感すら覚え、これが一種荒唐無稽な設定に疑問を抱かせず、流麗な筆致で語られる物語へ没入させられるのだろう。 しかし私が本書で語りたいのは本来の幸せの形ということではなく、作者アイリッシュに対する母親という存在についてだ。 本書が発表されたのは1948年。『暗闇へのワルツ』、『喪服のランデヴー』と同時期に書かれ、正にアイリッシュが作家として爛熟期にあった頃だが、実はこの頃アイリッシュは同居していた母親が重病となるという不幸に見舞われている。恐らく彼女の看病をしながらの執筆活動だったと思われるが、本書でも義母グレースが重病に瀕しており、いつ死んでもおかしくない状況であり、ヘレンを含めた家族はとにかく刺激を与えるような事を知らせないように神経質に動いている。 まさにこれこそ当時のアイリッシュの状況を髣髴とさせる。 そんな意味からも本書は今まで読んだアイリッシュ作品の中でも、実に彼の素顔が色濃く現れており、それが悲痛な叫びと感じられる、物語の外側が妙に意識させられる珍しい作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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いやあ、バー=ゾウハーの新作がまさか読めるとは思わなかった。なんと原書刊行2008年。正真正銘の新作だ。
私がこの作家が好きなのはエスピオナージュを書きながらもストーリーやプロットにミステリマインドが溢れているからだ。私が好んで読む同じジャンルの作家フリーマントルも同様だが、バー=ゾウハーの場合はスピード感と緊張感に溢れている。 さて本作ではどうだろうか。 まず冒頭、ロンドンで宿泊していた男がベルリンのホテルで警察に叩き起こされ、そのまま逮捕されてしまうという、いきなり窮地から始まる。その逮捕もなんと60年以上も前に犯した元ナチス将校殺害事件の容疑者としてだから驚きだ。 作中人物の話によればドイツには殺人罪には時効がなく、市民が訴えれば捜査は開始されるらしい。 そこから長らく絶縁状態だった息子ギデオンが登場し、ルドルフがロンドンにいた事実を探ろうとする。しかし何かを恐れるかの如く、ルドルフに関わった人たちは彼と逢ったことを否定する。 この辺はアイリッシュの『幻の女』を髣髴する。 更にネオナチの狂信者たちのルドルフに対する感情は募り、やがて魔の手が迫り行く。 今回の主役は逮捕されたルドルフと疎遠だった息子ギデオン・ブレイヴァマン。父親の意向に背き、世界中を旅した後、民俗学者になった男だ。 彼が拘束中の父親の許を訪れ、久方ぶりに邂逅するシーンは2人の間に広がる溝が明らかにまだ存在している事を感じさせ、ぎこちない。しかしギデオンは父親が訃報逮捕された証拠を掴もうと躍起になる。 そして彼の前に立ち塞がるのがベルリン州女性上級検察官マグダ・レナート。 今回の任務に賭ける意欲は並々ならぬものがあることを知らされるのだが、それも無理もないことが物語半ばで判明する。なんと彼女の祖父はユダヤ人のパルチザンだったルドルフによって殺されたSS将校の1人だったのだ。 しかしその事実もある事実で彼女にとって屈辱に代わる。親しかった祖母から教えられた亡き祖父像は第2次大戦で英雄的な戦死を遂げた将校ではなく、ユダヤ人収容所でのホロコースト実行の中心的人物だったからだ。 このくだりを読むと、やはりドイツ人はナチスが第2次大戦で行ったホロコーストを忌むべき過去とし、歴史の汚点としているのが解る。自分の先祖が大量虐殺行為に関わっていた事はやはり不名誉であり、隠したい過去なのだろう。この憶測が裏打ちされるのは、ルドルフ逮捕に隠れた陰謀が明かされる段になってからだ。 ルドルフが今回の陰謀に巻き込まれる引鉄となったのはかつて愛した女性をロンドンで見たという戦友からの手紙である。第2次大戦の恐怖を伴う呪わしき記憶が残る彼の地ヨーロッパを踏ませた原動力が愛する人に一目逢いたいという想いだったのはなんともロマンチックではあるが、これが実に共感できる。 もし私にも同じ報せが入れば、どうにかしてそこを訪れ、再会したいと思うだろう。私もそんな齢になってきたのかと苦笑してしまった。 北上次郎氏も云っていたが率直に云ってかつての名作から比較すれば冒頭に述べたスピード感は減じている。 しかしそれを補う物語はここにはある。 傑作とは云えないまでもやはり続けて読みたくなる作家である事は確か。 バー=ゾウハー御齢80歳。同年代のフリーマントルが旺盛な執筆活動を見せている今、この作家にも次作を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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この頃の東野作品には『宿命』や『変身』といった人間の心や過去の因果によって引き起こされる運命の皮肉を扱ったミステリと、片や『白馬山荘殺人事件』、『仮面山荘殺人事件』など、昔からのトリッキーな舞台設定でペンションや館といった閉鎖空間で繰り広げられるオーソドックスなミステリと、2つの大きな流れがあったように思うが、本書はその題名から連想されるように後者の流れを汲むミステリだ。
かつて愛した人を、その男が実業家の隠し子で遺産を相続する権利があるという理由で無理心中という形で殺された元秘書が、実業家一族と懇意である老婆に変装し、遺言公開が行われる回廊亭という旅館で、犯人を見つけ出し、復讐するというプロットがメインだが、やはり東野氏はそんな通り一辺倒に物語を展開せず、容疑者の目処が付いた時点でその容疑者を殺し、復讐者が警察と一緒になってその犯人を探し出すという物語の転換を見せる。つまり倒叙物に犯人探しを織り込んだ作品だといえる。 実にさらっと書いており、しかもその流れが実に淀みが無いので普通に読んでしまいがちだが、限られた登場人物で捜査が進むに連れて判明する新事実に容疑者が二転三転するこの物語運びはなかなか出来るものではない。 特にその淀みない筆致こそが曲者であり、読んでいる最中、どうにか作者の術中に嵌らないことを念頭に読んでいたが、今回もすんなりと騙されてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『深海のYrr』でミステリ界の話題を攫ったフランク・シェッツィングは第1作は歴史サスペンス、2作目はコージー・ミステリと作風をガラリと変えてきたが、邦訳最新作で実質3作目となる本書は女探偵を主人公にした正々堂々たるミステリ。湾岸戦争の怨念の正体を追う探偵物にして、本格ミステリ風のサプライズまで備えた作品となっている。
ケルンで起きた拷問の末の殺人事件が91年に起きた湾岸戦争で仲間に置き去りにされたスナイパーの復讐劇の始まりのように思わされる導入部。これに纏わって当初は謎めいた捜索願が女探偵の許へ依頼されるという形を取っている。 しかしこの謎は上巻の220ページ弱のあたりで早々に明かされる。 しかし冒頭のプロローグから連想されるプロットに反して、ヴェーラの捜査が進むに連れて、登場人物はどんどん増えていく。お宝に関わった3人以外にも外人部隊、それもZEROと呼ばれる精鋭たちで構成された部隊に所属していた戦争の亡霊たちが次々と事件に関わっていく。 そして復讐者と思われたマーマンも実は湾岸戦争時代の類い稀なる残忍さと拷問の技量を備えたイェンス・ルーボルトの標的である事が解り、物語は混迷を極める。 その混迷は下巻の242ページでようやくすっと霧が晴れるように消失する。 そして本書ではプロットのみではなく、登場人物の描写力も格段に良くなっている。今までは平板でプロトタイプ的な登場人物ばかりで、物語が上滑りしているように感じられたのがシェッツィングの欠点であったが、本書では登場人物の過去が因果となる性格形成をプロファイリングで説明するという手法を取っているからだろうか、なかなか厚みがあった。 ヴェーラの依頼人バトゲはヴェーラのガードを解きほぐす魅力を備えており、また謎めいた物腰がなかなか興味をそそる。 そして災厄の根源ルーボルトも怪物として描かれているが、単純に人智の及ばない怪人物として描かず、彼がなぜ怪物となったのかを生い立ちから語ることで、創造上の人物からどこか現実的にいる人物に感じられるようになっている。 その中でもやはり最も印象に残る人物は主人公である女探偵ヴェーラ・ジェミニだろう。最初はコンピュータに精通した、活きのいい気の強い女性と典型的な女探偵像で語られ、実に画一的な印象を受けたが、下巻、依頼人のバトゲにとうとう身体を許すようになって回想される彼女の結婚生活の失敗のエピソードで彼女の人物像に厚みが出てくる。 かつて同じ警察の鑑識員として働いていた元夫カールと離婚に至るまでに受けた彼女の肉体的、精神的苦痛と残る傷痕。そこで吐露されるヴェーラの男性観がなかなかに鋭く、身につまされる点もあった。カールの、男が社会で気を張って頑張らざるを得ないがために陥った自我の崩壊が理解できるだけに痛い。このエピソードでヴェーラの貌がようやく見えた。 さらに個人的にはほんの少ししか登場しなかったが軍隊時代のルーボルトの上官であったシュテファン・ハルムが印象に残った。こういう端役の人物に深みを感じるようなことは今まで彼の作品を読んで、初めてのことだ。 しかしそれに反して警察の面々は戯画化されたように書かれている。この凄惨な事件を任されたメネメンチやその部下クランツのやり取りは、残忍な事件を語る物語に挟まれる笑劇のようである。特にメネメンチは独身である事を実に悔やんでおり、前回読んだキュッパーもまた長く付き合っていた恋人との別れに愚痴を連ねていた。 シェッツィングはどうも警察官を女々しい人物と描く傾向があるようだ。それは権威的存在である警察官を読者のレベルまで引き下げる事で親しみを持ったキャラクターにしているのかもしれないし、黄金期の作家たちがよくやっていたように、権威を貶める事で読者の溜飲を下げているのかもしれない。 そうそうキュッパーと云えば、本作でカメオ出演しており、プロファイリングを披露する。『グルメ警部キュッパー』を読んだ時はそんなことしたかいな?と首を傾げるような感じではあるのだが、ケルンを舞台にして作品を著す著者にしてみればやはり警察に所属するこの2人が面識がないというのもおかしな物だと思ったのかもしれない。 本書の登場人物に共通するのは自らの存在意義への問い掛けだ。 自分が自分であることはどうやって証明できるのか? また自分はどこから来て、どこへ行くのか? 誰かに見ていられることで自分は存在するのではないか? そういう問い掛けを登場人物は行う。夫の暴力を克服して獲得した自分という物は果たして誰かに必要とされるのかと疑問視し、人に愛される事で自らが存在する事を解りながら、過去の結婚の過ちがトラウマとなり、一歩踏み出せない主人公ヴェーラを筆頭に、厳格な父親に育てられる事で、自分が幼少の頃にされた仕打ちを部下に強いる事で父親の翳を克服しようとするルーボルト、名前を変え、異国に隠れてルーボルトという驚異に怯えて暮し、あえて自らの存在を殺そうと務めるマーマン。現実世界に愛想を尽かし、仮想空間に真実を求めるマーマンの妹ニコラ、などなど。 最後にルーボルトが演説する、メディアに見られてこそ、事件は事件となり、存在は存在として認識されるという言葉は、名前ではなく、エンジニア、運転手、スナイパーと役職だけで語られるプロローグの匿名性を示唆しているようで興味深い。 匿名性と存在に対する他者の認識、そして人ならば必ず抱える自らの存在意義など、本書の主題とこれらのテーマが結び付いて、前作、前々作よりも明らかに出来映えが増している。 本書の後に1作挟んで発表されたのが『深海のYrr』である。ますます期待感が高まる。 しかしやはりこの邦題はどうにかならないだろうか?宣伝効果を煽るために「ゲシュペンスト」なる聞き慣れないドイツ語(「亡霊」という意味らしい)を冠するのはなんともダサい。 逆にドイツ語を知る人はそれほどいないのだから、自由に邦題を付けられるのだから、それを利点にしてもっとしびれるような邦題をつけてほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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晴れて浪速大学に合格し、念願のミステリ研に入った吉野桜子とミス研の面々、黒田、清水、若尾ら3先輩が遭遇する日常の謎系ミステリ短編集。
「消えた指輪(ミッシング・リング)」は浪速大学ミス研の面々が合宿先のセミナーハウスにて入浴中に密室状態の脱衣所で起こった財布と指輪の盗難事件の謎を解くという物。 正に軽いジャブのような作品。事件はあまりに単純で犯人も容易に解る。工夫がなされているのは指輪の隠し場所と犯人の動機だろうか。日常の謎系ミステリを作るために少しばかり無理を感じさせる謎である。 表題作はこの短編集を貫く1本の軸のような物語。桜子の大叔父の暗号で書かれた遺言状をミス研の面々が解き明かそうとチャレンジする。しかしこれは発端に過ぎなく、この遺言状の謎を巡って桜子はある決意をする。 インタールード的な作品となろうか、その間に挟まれる2編は実に軽いミステリ。 まずその1編「『無理』な事件」は関西ミステリ連盟交流会、略して関ミス連のイベントでミステリ作家大槻忍先生を招いてのトークショーで起きた、睡眠薬入り緑茶事件を浪速大学ミス研の諸氏が推理する話。 もう1編「忘レナイデ・・・・・・」は小学校の時に転校で別れ別れになった男の子から届いた十年以上も前の暑中見舞い。しかし相手はつい最近交通事故で亡くなっていたという謎を扱う。 1枚の葉書きから男女の三角関係に潜む複雑な心情を推理する本編はどこかケメルマンの「九マイルには遠すぎる」を髣髴させる。 そして物語は再び表題作によって閉じられる。 光原百合氏が創元推理文庫で出版した文庫オリジナルの連作短編集。 彼女の実質的なデビューは東京創元社から単行本の版型で出版された『時計を忘れて森へ行こう』だった。しかしその前に彼女は光文社が主催する鮎川哲也が審査員を務める『本格推理』シリーズに投稿をしており、実際に作品が掲載された。本書にはそのシリーズに掲載された作品(「消えた指輪」)も挟まれている。そして投稿時のペンネームが本書で主人公ならびに語り手を務める吉野桜子でもあった。 浪速大学ミステリ研究会に所属する吉野桜子が出くわすちょっとした謎をミステリ研究会の面々が解決するというスタイルで語られているが、そのメンバーの個性が類型的過ぎて、なんとも少女マンガ的だなぁと苦笑してしまった。 よく似ているなぁと思ったのは田中芳樹氏の『創竜伝』シリーズの主役、竜堂4兄弟である。 例えば黒田はやんちゃな終であり、清水はおっとり型の余、そして若尾は毒舌家の続と家長の始以外、非常に似通ったキャラクター設定である。 ミステリとしての出来映えは中の下ぐらいか。どれもが見え見えの内容で、解けない謎でも真相は想像の範疇、つまり読み手が予想していた選択肢の中に納まっている物である。 しかしこの連作短編集はミステリそのものとして読むよりも語り手の吉野桜子のある成長物語と読むのが正しいだろう。日常の謎系ミステリの先駆者である北村薫氏が描く主人公「私」も確かに物語を重ねるにつれ、純粋な文学少女から大人の女性への階段を上っていく味わいがあるが、それは彼女が出くわす事件を通じて、大人の世界を知っていくといったもので、これといった主軸があるわけではない。 しかし本書では大学受験に合格し、憧れのミステリ研究会へ入会した吉野桜子が本書の表題作に登場するミステリ好きの大叔父との「遠い約束」、大人になったら大叔父と2人でコンビを組んでミステリ作家になる約束のため、いつか作家となる夢に向かう姿が描かれている。自分の身の回りの小さな宇宙を通じて作家になることへの覚悟を固めていく姿が背景になっている。 この吉野桜子が前にも述べたようにかつての光原氏のペンネームであったことから解るように、作者自身を投影した人物であるのは想像に難くない。従ってその文章からは自身がようやく憧れのミステリ作家になれた歓びが満ち溢れているのだが、いささかはしゃぎすぎて苦笑を禁じえないのも確か。 一人称叙述で語られる地の文はライトノベル好きの文学少女が書きがちな、ユーモアと皮肉に溢れており、悪く云えば悪ふざけが過ぎるように感じる。高校生の時に読めば、この手のミステリ愛好者をくすぐるような、ところどころに挟まれる古典ミステリへのオマージュや固有名詞にはニヤリとさせられるのだが、やはり40代の身には、白けて映ってしまう。 しかしそれらはやはりこの光原百合という作家が抱くミステリへの愛の深さゆえの発露であることがひしひしと伝わってくる。読み手から書き手へと脱皮したい衝動を主人公吉野桜子に存分に投影しているし、とりわけラストの大叔父の手紙ではミステリを愛する者が必ず抱く思いが綴られていて、胸を打つ。 こういうのにやっぱり弱いんだな、私は。 斜に構えて評価しようとも思ったが、それはやはりこの作家に対して失礼だと感じた。ミステリを愛する人、特に高校生に読んで欲しい作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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切ない。なんとも切ない物語だ。
脳を移植された男が次第に移植された脳に支配され、性格を変貌させていく。 プロットを説明するとたったこの一行で済んでしまうシンプルさだ。しかしこのシンプルさが実に読ませる。 この魅力的なワンアイデアの勝利もあるだろうが、やはり名手東野氏のストーリーテラーの巧さあっての面白さであろう。 実はこの作品にはかつて別の形で接していた。 それはこの作品の漫画化作品で確かヤングサンデーで『HEADS』という題名で連載されていた。作者は『イキガミ』でも名を馳せている間瀬元朗氏。 当時私は東野作品を読むことは全く考えていなかったのですぐに読んだが、脳移植手術を施された主人公が徐々に自分らしさを失っていく当惑と恐怖が次回への牽引力となっていたのをよく覚えている。そしてその作品がきっかけで間瀬氏の作品を読むようにもなった。 しかし幸いにして当時の私はどんな理由だったか解らないが、その漫画を最後まで読むことはなかった。従って結末は知らないままなので、初読のように読めた。また各登場人物のイメージが『HEADS』で描かれた人物像だったのは云うまでも無い。 人の臓器を移植された時点で人はもうその人そのものでなくなってしまう、そんな感慨を抱く人もいるようだ。 そして本書は臓器の中でも人格を形成する脳を移植されるわけだから、アイデンティティに揺るぎが出てくるのは必然だろう。 21世紀になって18年経つ現在、本書に書かれているような脳移植手術は実現していない。現在から遡る事28年前に発表された本書は、脳移植がアンタッチャブルな領域である事をひしひしと感じさせ、その恐ろしさをじわりじわりと感じさせる。 しかし作者は別に警鐘を鳴らしているのではない。本作の前に書かれた『宿命』では脳を対象にした人体実験が物語の隠し味として扱われていたが、本書ではそれを前面に押し出して実験体となった男の行く末を一人称で語っていく。 つまり脳、そしてそれによって形成される自分という物の正体を脳移植というモチーフを使って探求しているようだ。 確かに科学的根拠としてこんな事が起きるのかという疑問はあるだろう。出来すぎな漫画のようなプロットだと思うかもしれない。 しかしそんな猜疑心を持たずに本書に当って欲しい。 90年代に自分探しというのがちょっとしたブームとなった。 自分は一体何者でどこから来たのかというルーツを探る、一人旅をして裸の自分と向き合う、そんな風潮が小説はもとより映画やあらゆるメディアで用いられた。この作品はそんな自分探し作品の変奏曲だ。 失われつつある自分を必死に引きとめようとすることで他者を意識し、自分という存在を意識する。脳移植をモチーフに変身していく男の苦悩と恐怖を描く事で凡百の自分探し作品に落ち着かない作品を描く東野氏。さすがである。 自己のアイデンティティへの問い掛けから最後は人生について考えさせられる本書。 物語の閉じられ方がそれまでの過程に比べ、拙速すぎた感が否めないが、ワンアイデアをここまで胸を打つ物語に結実させる東野の物語巧者ぶりに改めて畏れ入った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のチャーリー・マフィンシリーズ。前作『城壁に手をかけた男』でナターリヤとの結婚生活に終止符を打ったチャーリーがまたまたロシアを舞台に暗躍する。
騙し騙され、嵌め嵌められ。全く諜報活動の世界とは何が真実で何が虚構なのか全く予断を許さない。 最後まで読んだ今はそんな思いでいっぱいだ。 今までと一味違うと思ったのはチャーリーが嵌められて、いいようにあしらわれることだ。大使館内のスパイ潜入疑惑の捜査の一環としてチャーリーそのものが嘘発見器にかけられ、危うくナターリヤとの生活がばれてしまうのではないかと恐れを抱く。 また記者会見を開く直前にロシア民警捜査官で、チャーリーの協力者であるパヴロフの部屋に招かれた際の一部始終をVTRに撮られ、全国ニュースにその内容がロシア側に同情を誘うように編集され、世界中の笑い者になるなど、今までのチャーリーに比べるといささか精細さを欠く。 文中で時折挟まれる自身の技能の衰えの有無に関する独白から推定すると、本作では現場を離れた超一流スパイのブランクを描く事が1つの目的であったのではないだろうか。 例えば『待たれていた男』や『城壁に手をかけた男』などは身元不明の死体の正体捜しや暗殺の模様が映された映像の分析や容疑者の尋問など、謎の核心にチャーリーが関係する諸外国の機関との軋轢を乗り越えながら迫っていくものだったが、本作では身元不明の片腕の男の死体があるにもかかわらず、その身元を探るところから始まるのではなく、この死体が英国大使館内で殺されたか否かにまず腐心する。 まあ、大使館内で死体が発見されるというシチュエーションだからこの手続きは定石なのだろうが、どうにか探りを入れて事件に介入しようとするロシア側と事なかれ主義を貫こうとする大使館の面々からの妨害や横やりへ対処することばかりが語られ、一向に被害者の正体探し、犯人探しへ進まない。 まあ、これらはいわゆる役所仕事と揶揄されるずさんな仕事ぶりや1つのことにいろんな部署が介在してたらい回しにされるところも想起させられるのが面白いところではあるのだが、それでも謎解きの牽引力よりも状況の打開策に苦心する姿と、再会したナターリヤとの関係修復に苦悶する姿の繰り返しなのはちょっと引き延ばしているのでは?と上巻を読んでいるときは感じてしまった。 今回の話は物語の冒頭に引用されている2006年に起きた元KGBのアレクサンドル・リトヴィネンコをロンドンで暗殺した容疑者アンドレイ・ルゴヴォイ引渡しを当時のロシア大統領プーチンが拒否した事件をモチーフにしている。グラスノスチ以後、ペレストロイカで資本主義社会にシフトしていったロシアが今なお社会主義的秘密主義に覆われている事を世界に知らしめた事件だ。 フリーマントルはここにエスピオナージュの鉱床を見つけ、更にロシアの暗部と畏怖を掘り下げようとしている。その好敵手として選んだのがロシアで長年海千山千の強者どもを出し抜き、危機を脱して生き残ってきたチャーリー・マフィンだ。 しかしこの引用ですら、実はフリーマントルによるミスディレクションだった事に最後になって気付かされるのである。これについてはネタバレで述べよう。 しかし本当にこのシリーズは一流のエスピオナージュ小説でありながら世のサラリーマンの共感を得る、中間管理職の苦労を痛感させられる作りになっているのが面白い。 例えばチャーリーが派遣されるロシアの英国大使館の警備責任者を含む面々は、歴代の駐在員たちから見れば、信じられないほど楽天的で牧歌的な雰囲気を纏った人物ばかりだ。かつてのロシア駐在員たちはいつ謂れのない理由で民警に逮捕され、監禁されて拷問を受ける恐怖が常に付き纏っていたのに、彼らは壊れた監視カメラの修理でロシア人を何の疑問もなく大使館内に入れ、おまけに再び壊れた監視カメラを直さずに何日も放置しているという体たらくだ。しかもその行為に誰も疑問や危機感を感じない鈍感さも伴っている。しかもチャーリーは派閥争いで劣勢に立っている現部長の地位堅守のため、どうしてもこの事件を解決しなければならないのだ。 これをサラリーマンに照らし合わせると、万年赤字を抱えている地方支店に配属され、そのあまりにひどい現状に幻滅する姿が目に浮かぶではないか。派閥争いに巻き込まれるあたりはもうサラリーマンの苦悩そのままである。 そしてそんなチャーリーが最後の最後に誰もが信じて疑わなかった真実から開眼し、事件の裏に隠された真実を突き止める。 訳者あとがきによれば本作は新たな3部作の第1作目であるとのこと。恐らくチャーリーとナターリヤの関係もこの3部作で結着が着くことだろう。即ちようやくフリーマントルは長きに渡ったチャーリー・マフィンシリーズに終止符を打とうとしているのだ。 本書の評価は上に書いたとおり、個人的には全面的に受け入れ難いため、7ツ星評価に落ち着いたが、三部作の最後を読んだ後ではまた変わるかもしれない。 とにかくフリーマントルのライフワークとも云えるこのシリーズの恐らく掉尾を飾る三部作の最終作を愉しみにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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海外を舞台にすることが多かった薬師寺涼子シリーズだが、本書では前作に引き続き日本の避暑地軽井沢が舞台となっている。不況による取材費の引き締めか。
いや下衆の勘ぐりはよそう。 今までのシリーズ同様、ドラ避けお涼こと薬師寺涼子の自由奔放、傍若無人ぶりは健在で今回も権力の壁を乗越えて、カツカツとハイヒールの音高らかに闊歩する。 今回の敵はアメリカの食品業界を牛耳るUFAのオーナーである女性大富豪マイラ・ロートリッジ。不老不死を夢見るこの女帝は実の娘を若返り用クローンとして育てているというのが今回の趣向。 この自らの延命のためにクローンを育てる金持ちというテーマは21世紀になって数多書かれた物で、内容的には驚きはもたらさない。このシリーズはアイデアの斬新さを求めるのではなく、色んな敵に薬師寺涼子がいかに勝利するか、そのプロセスを愉しむべきだろう。 しかしこのシリーズに放り込むオタク度、マニア度の高いカテゴリーの豊富な事。コスプレ、メイド、女装趣味と現代日本の歪んだ多様性、いわゆる萌え要素があらゆる限り反映されている。 そしてそれらに没入する社会的地位の人間が警察や官僚の高官だったり、医者だったり、実業家だったりとかなり高い地位の人々であるのが皮肉か。ストレス社会と云われる日本の現在を田中氏なりに毒を込めて盛り込んでいるのだろうか。 で、今回いつもにも増して気付かされるのが薬師寺涼子の部下泉田警部補に対する愛情だ。 今までは単純に独善的に泉田を引っ張りまわし引き連れていた感があるが、今回は泉田と共有する時間を敢えて取ったり―冒頭の軽井沢へ向かう列車にわざわざ乗り合わせる―、泉田に女性としての自分を売ったりー交通事故に遭った泉田に食事を手ずから食べさせる―する。 シリーズも7作目になってようやく単なる師従の関係から進展してきた感がある。まあこれは鈍感な私が今までの作品でそれに気付かなかったところもあるかもしれないが。 しかし無敵の美貌を誇る薬師寺涼子はある意味究極のツンデレだ(これももはや死語か)。 とはいえ、やはり読みやすいが故に1ヵ月後には忘れてしまいそうなお話ではある。まあ、嫌いではないので次巻が出たら買うだろうけど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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いまや本家北村薫と双璧を成す日常の謎系ミステリ作家の地位を確立した加納朋子の鮎川哲也短編賞受賞作を含むデビュー短編集。
本書は児童書「ななつのこ」を読んだ主人公入江駒子が作者にファンレターを送った事をきっかけに、同書に収録されているお話に準えて彼女が出逢ったちょっと不思議な体験について作者の佐伯綾乃に手紙を書き、その返事によって謎が解かれるという体裁を取っている。 まず「スイカジュースの涙」は駒子がある早朝に短大へ通っている時に遭遇した点々と続く血痕の謎について語った物。 散りばめられた事実は雄弁すぎるほどに血痕に隠された事件について語っているため、謎の難度は比較的軽い。作者の世界観と物語の構成に関して紹介を行った軽いジャブといった作品だ。 続く「モヤイの鼠」は渋谷を舞台にしたある奇妙な出来事の話。 題名にあるモヤイ像に群がる鼠たちは果てしてこの物語に何をもたらしているのだろう? しかし渋谷駅は通勤の乗換駅なのでよく行くため、書かれている情景がすぐに解った。こういうのを読むとやっぱりミステリ含め、小説というのは東京ありきなのだなと思う。 「一枚の写真」はある日長年空白だったアルバムの、駒子が3歳前後だった頃の写真が19歳の今頃になって友人から返される理由を推理する。 本格ミステリの賞だということを勘案すればもっといい短編になっていたに違いない。 「バス・ストップで」の謎は自動車教習所に通いだした駒子が遭遇した老婦人と少女の奇妙な行動について。 しかし本作はそんな謎よりも駒子のロマンス相手となりそうなバス停で出逢った男性の出逢いに集約される。バス停でバスを待っている間という場面に加え、突然雨が降り出して傘が必要だと思い、相手に傘を差し出すシチュエーションなど、状況的にかなりベタなのが惜しいところだ。70~80年代の出逢いのシーンといいたいくらい古めかしい。 「一万二千年後のヴェガ」では再びバス停で出逢った青年と駒子が再会する。 「バス・ストップで」で出逢った瀬尾と再会するという、本短編集にロマンス風味が加わってきた作品。従ってメインの謎であるブロントサウルスの移動よりもやはり瀬尾と駒子との触れ合いが物語の主旋律となっている。 本書の中でもとりわけ文学色が強いのが「白いタンポポ」。 謎としては少女がなぜタンポポを白く塗るのかということになるが、それが前面に押し出されているかと云われればそうではなく、やはり主題は真雪と駒子の交流だろう。自分にも同年代の子供がいるせいか解らないが、こういうホッコリするような話が最近特に印象に残る。 そして本書の締めとなるのが表題作「ななつのこ」だ。 連作作品を締めくくるだけあって、それまでの関係者が一同に会し、そしてまた全体の謎が解かれる。 謎は歯医者で治療中の時は2鉢だったペチュニアが、1階の喫茶店から見上げると4鉢に増えているという物と、プラネタリウムの最中に少女真雪が失踪してしまうことだろう。どれも謎の妙味としては実に希薄だが、物語性は逆に濃い。また題名に示されているように「7」に拘ったモチーフがそここにあしらわれている。プレアデス星団、通称昴の第7の星に関するエピソードや7歳の真雪。七話目というのも隠れた7だろう。 北村薫に端を発する日常の謎系ミステリの新たな書き手の誕生と騒がれた加納氏だが、本書に収められた作品は読み進めるにつれて謎のスケールが小さく萎んでいっているように感じた。いや正しく表現するならば、日常の謎よりも駒子を取巻く人物達の物語を描く事に力点がシフトしていったように感じた。 その転換点となるのが、キーパーソンである瀬尾が登場する「バス・ストップで」からだろう。この瀬尾という存在が短大の友人達とで構成されていた駒子の世界が外側へと広がり、他者との関係性が深化していく。 オリジナリティ感じる点はやはり作中作である児童書「ななつのこ」のお話に擬えた駒子が体験する日常の不思議という設定だろう。どちらがニワトリでどちらがヒヨコか解らないが、よくだれずに最後まで貫き通したものだ。 ミステリという視点から論じれば各短編での謎よりもやはり作品全てに共通する児童書「ななつのこ」の作者佐伯綾乃の謎こそがこの短編集で語りたかった謎だ。 先に述べたように鮎川哲也賞受賞作として捉えるならば、首を傾げざるを得ないほどミステリ色は希薄だが、ここはいまどき珍しい純粋かつ甘酸っぱい物語と行間から感じ取れる作者が本作に込めた想いに素直に賞賛を贈って、8ツ星としよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回オッドが対峙する敵はダチュラという名のテレフォンセックス業者。彼女は超常現象マニアでとりわけ幽霊を見る事を切望している。それも連続殺人鬼が殺した犠牲者だったり、性倒錯者の霊だったりと、筋金入りの変態だ。
そして彼女はテレフォンセックス相手でオッドの友人ダニーから幽霊を見ることが出来るオッドの話を聞いてオッドを捕まえ、その能力を取り込もうとダニーを誘拐したのだ。 オッドを殺し、その血肉を得ることで自ら霊視能力者になるという妄想を抱いたダチュラは、なんだかコミック物の悪役そのものである。どうやらクーンツは初のシリーズでアメコミ物に挑戦しているように思える。 そもそも女性の悪役という事自体、クーンツ作品では珍しい。パッと今思いつくのは『対決の刻』に出てくるシンセミーリャ&プレストン・マドック夫妻ぐらいだ。しかもそちらは夫妻であるから共犯だ。 オッドが捜している人や物に引き寄せられるように目的へ達するシックス・センスを持っているのも大きな特徴だが、今回はその能力を逆手に取ってスリリングを増しているのが素晴らしい。 即ちダチュラもまた軽い霊感を備えており、従ってこの能力ゆえにお互いのシックス・センス(ダチュラ曰く、「霊的磁力」)が惹かれ合って、好むと好まざるとに関わらず、出遭ってしまう。つまりオッドは犯罪者の追跡の手から逃れようと思っても、自然に出遭ってしまうのだ。この辺は実に上手い。 また今回オッドは前作で起きたショッピングモール内でのテロ事件を防いだ英雄としてピコ・ムンドではその名を知られるようになっていることが前作と違うところだろう。 従って彼の平穏な生活はいささか破られ、ピコ・ムンド・グリルでの仕事もままならない状態だ。またオッド自身は逆にあの惨劇で救えなかった人々に対して自責の念を抱き、更に失った恋人ストーミーの思い出に引きづられてもいる。 そんな中で起きるのが親友ダニーの誘拐事件。養父のジェサップ医師の幽霊がオッドの許へ現れることを皮切りにオッドは否応なくダニーの捜索に関わっていく。 しかもオッドはモールのテロ事件の傷心を癒すために手記を残している時期にダニーが1年前に癌で亡くした母親への哀しみを癒す手助けが出来なかったことが今回の事件を招いたのだとまで自戒する。 とにかく全編自虐的なまでのオッドの自戒の念に覆われている。 それ故、最後に至ったオッドの選択はなかなかに興味深い。 第2作目となる本作は1作目、いや通常のクーンツ作品と違って冒頭のスペクタクルというのがない。 いや知り合いのジェサップ医師の殺害事件というのがあったが、この話はダニー誘拐事件のきっかけとなる事件だったから純粋に1つの事件のみを語った作品だ。そういう意味ではやはり1作目と比べると落ちるか。 まあ、1作目の瀬名氏の解説によれば、シリーズの中でもこの2作目はそれほど評価が高い作品ではないとのこと。 ならば次作への期待はいつになく高まるものだ。一刻も早く訳出される事を期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本来であれば本書は中編集というべきだろう。表題作の誘拐事件を扱った「帝都衛星軌道」と亡くなった詐欺師との回想に浸るホームレスの男の独白ような「ジャングルの虫たち」という2つの作品が収録されているからだ。
しかし通常の中編集と違うのは、前者の表題作が前後編に別れ、しかも前編と後編の間にもう1つの中編「ジャングルの虫たち」が挿入されるという、極めて特異な特徴を持っていることだ。 ノンシリーズである本書には島田氏のシリーズキャラクターは出ないものの、警察の実捜査を噛み砕いた内容や、詐欺師のありとあらゆる詐欺の手口を会話調で説明する語り口は非常に読みやすく、相変わらずのリーダビリティを誇る。登場人物の仕草や台詞や地の文に織り込まれる心情など、その登場人物の生活レベルに根ざした言葉が選ばれているようで、血が通っているように感じる。 年齢を重ねるごとにその筆致は練達の域に達しているようだ。特に飾り気のある文章ではないが、その人と成りがすっと頭に入っていく自然さを持っている。 そして表題作の後編で立ち昇るのは島田氏のライフワークとも云うべき、冤罪事件と日本の都市論だ。 そして東京の地下鉄はかつて戦時中などに作られた無数の地下経路を結んで作られているという事実。だから東京の地下鉄路線は歪な形をしているのだと島田氏は述べる。私も東京に来て通勤に地下鉄を利用することになり、路線図を眺めて思ったのはなんともおかしなルートをしているなぁということだった。この素朴な疑問に1つの回答が得られた思いがした。 ただ途切れないトランシーヴァーの真相はあまり驚愕を抱かない。 山手線に乗る美砂子との通信が途切れない謎の真相はなるほどとは思った。 しかし2番目の被害者の紺野貞三のマンションへの連絡方法に関する真相はいささか残念な思いがした。 21世紀に生み出された島田作品にはこういうある特殊な知識を持っていないと解けない謎が多いように気がする。この是非については既に述べているのでここでは語らないが、とにかく読者との知的ゲームという観点での本格ミステリであればアンフェアであると認めざると得ない。ただ新たな知識を得るという観点での本格ミステリであれば、肯定も出来るだろう。 また中間に挟まれる中編「ジャングルの虫たち」はミステリではなく、一種のファンタジーともいえるだろう。 表題作の後編を読むとこの中編が後編を補完するような役割を果たしているのが解る。しかし非常にそれとなく書かれているので上のようにある関係性を持っているとも書けるし、全く独立した2編でなぜ表題作の前後編の間に挟んでいたのかが解らない読者もいることだろう。 私は本書を1つの新しい中編、いや長編の形の試みと評価する。成功しているか否かは別にしてやはりこの意欲は買いたい。 御年60を超える島田氏のアイデアを物にするストーリーとプロットを思いつく知性はまだ新しい本格の型を模索する貪欲さがあり、後続の本格ミステリ作家にはまだ負けないという気概さえ感じる。もっと後輩作家、特に新本格作家連中は島田氏を見習ってほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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現在、ジャンルを問わず、日本のミステリ・エンタテインメントシーンで毎年精力的に作品を発表し、女流作家としての地位を確立した恩田陸氏。その最初期の作品が本書で、私にとって初恩田体験となった。
一読して上手いと思うのは、誰もが経験した庶民的な風景を映像的に、また世間話のような親しみやすさで語る、その文体にある。 本書の舞台となる谷津は、地方に住む人間なら誰もが持っている故郷の風景、つまりどこかで見たことのある田舎の街並みなのだ。このノスタルジックな高校生の時の心象風景を切り取ったような作品世界は、非常に取っ付きやすかった。 更に扱うテーマも非常に親近感を覚えるもので、いわゆる都市伝説的な学生間に広まる妙な噂やおまじないだ。 本題である5月17日にエンドウという生徒がUFOに攫われるといった噂から、金平糖をばら撒いて好きな人がそれを踏むと両思いとなって結ばれる、木の穴に願い事を録音したテープを入れておくとそれが正しいと見なされたら願いが叶うなどといった物。これらは誰もが学生時代に一度や二度経験した、信憑性もない言い伝えだ。 これらも含め、作品の舞台に横溢する風景や高校生の思春期に感じる想いなどは俗に云う読者の「あるある」感を引き出し、読者の共感を誘う。実際私もそう感じることがしばしばだった。 やがて物語はそういった地方都市のありがちな風景と高校生のありがちな生活から超常的な内容へとシフトしていく。その因子となるのがある能力を持った4人の高校生たちだ。その中の1人、地歴研のメンバーでもある一ノ瀬裕美は霊感の強い高校生として描かれているが、彼女には他の人が見えない物が見え、異質な物を「臭い」で感じる能力を持つ。そしてそれらが日常生活で見えないように自分に「わっか」を被せている。 そしてさらに他の丹野静、潮見忠彦・孝彦兄弟、そして藤田晋という能力者が出てくる。これらのキャラクターはその後恩田氏が書く常野物語という能力者の物語の原点なのだろう。いや、もしかしたら既にこのデビュー間もない本作で一連の構想があり、常野物語でも彼らの家族について触れられているのかもしれない。 とにかくこの頃から既に恩田氏は自身の作品世界を作ることを想定していたように思う。つまり本書には彼女の作家になりたい野心が込められていると云えるだろう。 そして彼ら彼女らが共有しているある世界、「あそこ」がある。そこは暗くて殺伐とした風景が広がっているだけのところなのに、何故か妙に落ち着く場所だ。 それは誰もが思春期の頃に抱く逃亡願望、つまり「ここではない何処か」なのだ。 現在膨大な著書がある恩田氏の作品群に本書の系譜に連なる作品が既にあるのか、寡聞にして知らないが、ここに出てきた谷津の人々、とりわけ主人公でもあるみのりのその後をまた見たいと思わせる、実に瑞々しい作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回は考古学の世界によくある事件(捏造)をテーマにした構成になっている。これは作中でも語られている実際の事件―ピルトダウン人事件―がモチーフになっているのだろう。
毎回新たな知識を提供してくれるこのシリーズだが、本書でもビックリするような話が続出する。その中でも最たるものはネアンデルタール人が90年代のDNA鑑定によって今の人類の祖先ではなかったということだろう。 私が高校生の時はクロマニョン人から一連の進化のプロセスに盛り込まれていた既成事実が最近の科学では全くひっくり返されてきている。特に恐竜に関しては私たちが子供の頃図鑑で見たそれと現代のそれらは全く趣きが異なっている。つまり考古学は今なお発展途上にあるということだ。 そして我々も子供の頃の知識のままでいるといつの間にか狂言回しのように見られてしまう。知識はやはりこのような書物を読むことでリニューアルされていかなければならないのだ。 さらにギデオンがこの講演会で開陳する知識とは人が二足歩行をするという進化のために出た弊害というもの。四足歩行よりも心臓の位置が高くなったため、静脈瘤が起きやすくなった、十分に足が進化しないうちに二足歩行に移った為、扁平足が生まれた、云々。 中でも最も蒙が啓かれる思いがしたのは直立する事で骨盤が狭まり、逆に頭蓋が発達した事で出産が困難になったということだ。21世紀になってもまだこのような人間の進化に歴史を探る事で新たな知見が得られる。確かに考古学は刺激的だ。 また旅行ガイド的な側面もこのシリーズの特徴で、例えばジブラルタルの空港の滑走路は町の幹線道路と交差しており、時たま車がエンストして飛行機が降りられなくなるなんていう珍事も本書を読まなければ知りえぬエピソードであっただろう。 しかし他方で本来ミステリとして添え物であるべきこれらの情報がシリーズを重ねる事で際立ち、逆に主題である殺人事件の発生が遅くなっているのもこのシリーズの悪い特徴であると云われ、それは間違いではない。 本書ではギデオンの殺人未遂的な事件は早めに起きるものの、殺人事件は174ページでようやく起きる。404ページに物語の最後が書かれているから、おおよそ約半分のあたりである。これはやはり遅すぎるといわざるを得ないだろう。 しかし今回は薄れつつあったミステリ的趣向が改めて見直されるような緻密な伏線に満ちた構成になっている。 前回の『密林の骨』でもアマゾン河という特異な場所を活かしたあるトリックが使われていたが、これはクイズの類いに過ぎず、児戯に等しい物であったから、本書における物語に散りばめられた風景描写と観光ガイド的土地情報が最後のある1つの単語に収斂していくことを考えると実に味わい深いものがある。 今回は実は事件自体が曖昧でミステリ興味が湧かなかったが、最後になってみると、この何かはっきりとはしないが確実に事件は起きている空気の中で見事もやもやとしていた雰囲気が一気に晴れていく妙味はセイヤーズの作品に通じる物があると感じた。 しかし今回はレギュラーメンバーのFBI捜査官ジョン・ロウが出なかったのが物語としての面白みを半減させていると思う。声を出して笑ってしまうほどのウィットがなかったし、ジョンの存在こそがエルキンズのウィットを最大限に引き出すファクターだから、やはり彼の欠場は痛い。 2009年の9月に本国で発表された次作にはジョンが出ていることを大いに期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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題名が表すように本書は『龍臥亭事件』で登場した美少女犬坊里美を主人公にしたスピンアウト作品だ。
当時一登場人物に過ぎなかった彼女がこのような1つの物語の主人公を任されるとは誰が想像しただろうか? しかしこの物語の意図は明確だ。2009年から始まった裁判員制度について、一般の人に馴染みの薄い裁判という仕組みを解り易く噛み砕いて紹介する事だ。 そのために犬坊里美というキャラクターを弁護士の卵とし、その他司法に関わる法律家の卵たちを配して、裁判官、検察官、そして弁護士それぞれの立場と役割を述べていく。 このまだ詳細に知られていない裁判員制度はミステリ作家諸氏にとって新たな鉱脈であるようで、昨今では続々と同類のミステリ作品が発表されている。 しかし私は逆にこういう犯罪に関わる新たな制度を知らしめる事こそ、ミステリ作家の役割であると強く思っているから、このような働きは手放しで奨励したい。 また島田氏はLAに住んでいることもあり、アメリカの陪審員制度にも馴染んでいた事もあって、裁判員制度には早くから着目していた。確かエッセイで日本でも陪審員制度を導入すべきだとも述べていた。 また自ら冤罪事件にも積極的に関わっていたから、日本で犯罪が起き、容疑者が逮捕され、起訴され、法廷で争う一連のシステムには詳しかったはずだ。もしかしたら島田氏はいつかはこのような法廷ミステリを書きたかったのかもしれない。それが裁判員制度導入に伴って当初発表の2006年こそがその時だと決意したのではないだろうか。 2008年から2009年にかけて続々と同種の作品が刊行されたことを思えば、島田氏の先見性は瞠目に値する。 そして裁判に関わる事の意味が色々包含されてもいる。 例えば一度被疑者となった人が冤罪だったとしても、常日頃の素行が悪ければ無実を勝ち取っても社会生活の復帰は難しい故に、敢えて刑務所行きを選ぶ者。世間体を気にするが故に、嘘の証言をする者たち。法廷で犯行の詳細を理路整然と証明するために検察側が嘘でも無理のないストーリーを考え出す事。 それら歪んだ社会の構造、そして日本の弁護士が刑を軽減したいがためにこの手の司法取引に応じる事が逆に真犯人を世にのさばらされているのだと島田氏は登場人物の口を借りて糾弾する。これこそが本書で最も語りたかったテーマだろう。 ただ法曹関係者が本書を読んだ時にどう思うだろうか?メッセージは立派だが、修習生である里美が法廷で弁論を行ったり、最後のシーンの大団円など、夢物語のように思え、失笑を買うのではないだろうか。逆に云えば里美というキャラクター性からこのようなテイストを持ち込んだのかもしれないが、個人的にはいっぱしの法廷ミステリを期待していただけに何か物足りなさを感じる。 しかし本書における死体消失のトリックは前半にエピソードとしてさり気なく書かれた事が実は大いに関わってきて、なかなか面白かった。 やはり島田氏は普通の本格ミステリが合うのだ。 またよく云われる事なのだが、島田氏の描く女性キャラクターは女性から見ると男性が心に描く女性像であり、全く腑に落ちないらしい。 本作における犬坊里美の年齢は27歳であるが、これがとても年相応とは思えないほど落ち着きがなく、涙脆い。とにかく自分の無能さに絶望し、将来を悲観し、何かにつけて泣くのだ。これでは二十歳前後の女性だし、せめて24までというのが正直な思いだ。 また石岡との恋も20代後半の女性とは思えぬほどの純粋さである。横浜という大都市に住んでいてしかも美貌とスタイルの良さを持つ里美に云い寄って来た男は数知れずいるだろうに、この純粋さは高校生の恋愛物を読んでいるようで、なんともむず痒い。 少し気になったのは作中で島田氏は何かと固有名詞を出し、露骨なまでに糾弾していることだ。文科省は落ちこぼれ官僚が行くところだの、倉敷の水島にはコンビナートがあるから腐敗がらみの訴訟の宝庫だのと歯に衣を着せない。 更に検事の法廷取引や事件のあらましを創作するなど、けっこうキツイ内容も含んでいる。これが現代日本の行政・司法の実態だと云わんばかりだ。 しかし内容的にはこれほどのページを費やすべきだったかはやはり疑問。里美という素人から見た起訴から裁判までの流れを描くという趣向はよかったが、里美の泣き虫キャラが悪戯に物語を長く引き伸ばしている感も否めない。 この作品に次があるのかは解らないが、もしあればもっと引き締まった内容の作品を期待する。 |
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前作『琥珀の城の殺人』の時代背景が1775年のオーストリアで、今回は1670年のイタリア。またも中世ヨーロッパを舞台にしたミステリである。
そして舞台は前作が古の塔を抱いた山奥に聳え立つ古城であったの対し、本作では僻地の村に存在する豪奢な庭園。 登場人物は伝説の美女とまで謳われたエレオノーラの美貌を受け継ぐ美少女エルミオーネと、その婚約者である美丈夫アントーニオ。そして亡きエレオノーラに誘惑され、その妖艶かつ魔女めいた美貌に魅了されながらも、拒絶し続けた現侯爵ジューリオ。その養女で、自分の平凡な容姿と内気な性格に嫌悪を感じる、劣等感の固まりようなチェチーリア。語り手はチェチーリアの侍女で対照的に明るく奔放な娘オルテンシアが務め、探偵役はその家庭教師でありながら、一張羅の擦り切れた黒外衣と踝まであるマントを着込んだ一見風采の上がらぬ青書生グエルチーノと、なんともまあ、細い線で描かれた美麗な絵が目に浮かぶ少女マンガを読んでいるような舞台設定、登場人物設定だ。 そして探偵役のグエルチーノは上に書いた人物描写からすぐに連想したのは横溝正史の金田一耕助。ルネッサンス文化のゴシック調の舞台設定に典型的な探偵像とこれまた本格ミステリのコードに忠実に則った作品である。 本書で起きる殺人事件は4つとこれまた非常に多い。そのうち3つが毒殺である。その3つの毒殺で使われるのは作中アコニトゥムと呼ばれるトリカブトである。 しかし本作では毒殺トリックで主眼になる誰がどのようにどの時に毒を盛ったのかという謎解きについてはあまり言及されない。 本格ミステリでは殺人事件が起きたときに警察が介入しない条件としていわゆる「嵐の山荘物」と呼ばれる設定がある。つまり自然現象もしくは人為的妨害行為、もしくは関係者達の拠所なき事情によって外部との交通手段、通信手段が絶たれ、閉鎖空間で次々と事件が起き、当事者自身で犯人と殺害方法の謎を解かねばならない設定だ。 しかし篠田氏は時代設定をまだ警察捜査が成熟していない中世、さらに警察の介入の手を容易に無視できる高貴な階級社会を舞台にしているところが他の本格ミステリと一線を画している。 しかし逆に云えばこれは警察が行う犯罪捜査のセオリーを完全に無視できるということ。即ち現場の保存や死体の検死、鑑識による指紋やその他証拠の捜索といった一連の作業を取っ払い、当事者達は平気で事故現場を忌まわしいと云って清掃し、死体も片付けてしまう。しかしこれは作者自身が警察捜査に精通していないことを逆説的に露呈してしまっているようで、なんとも素人気分が抜けないように感じられないでもない。 また本書では『琥珀の城の殺人』でも採られた叙述方法が用いられている。前作ではジョルジュという登場人物の手記を交えて物語が語られたが、本書でも養女の侍女オルテンシアの手記が挿入され、彼女が素人探偵役として事件の整理を行う。 しかしこの少女マンガ的本格ミステリも2回目であったせいか、読み難さは相変わらずあるにせよ、慣れもあり、以前よりも浸れた。 最後に明かされる祝福の庭に隠されたメッセージは殺人事件以上の謎解き妙味に満ち、作者が書きたかったテーマがこちらにある事が容易に解る。そしてそれらメッセージの数々は欧州文化の豊かさと欧州人の洒脱さの蓄積であり、こういう薀蓄が好きな私にとっては逆にこの謎解きがあることで救われた思いがした。 物語全編に陰として存在するエレオノーラが生涯通じて真に愛した相手とはジューリオだったのだが、彼がそんなに愛情を注がれるほど魅力的な人物として描かれていないので、最後に立ち昇るエレオノーラの献身的愛情にいささか違和感を持たざるを得ないのが勿体ない。 とはいえ、最後にドミノ倒し的に解明される庭園に秘められた彼女のメッセージには胸を打つものがあった。少女マンガ趣味といえばそれまでかもしれないが、私は敢えてこれは欧州人的愛情表現だと理解しよう。 前作の作者あとがきでもあったが、この特異な舞台設定は単純に作者がこの時代のヨーロッパに造詣が深く、また慣れ親しんだ世界であったからとのこと。 しかしそれは云い換えれば自分が好きな物を書き散らかしているだけとも云える。 続く建築探偵シリーズが篠田氏が読者を意識し、寄添った作品群とすれば上に並べた不満は今後解消されていると期待したい。もうしばらくはこの作者の作品を追っていくことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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地下1階にあるカウンターのみのバー『スリーバレー』に通う常連3名。某私立大学教授の三谷氏にその美人助手、早乙女静香。そして雑誌のライターで在野の研究家宮田。
この3人が一同に会する時、宮田が常識を覆す珍説が開陳し、喧々諤々の歴史談義が花を咲かす。 本書は発表当時『このミス』でも8位にランクインするなど、予想外の好評を以って迎えられた連作歴史ミステリ短編集。 5W1Hで語られる歴史の謎6編―正確に云えば4編目の“WHAT”は動機を尋ねているから“WHY”と同じなのだが―。歴史は覆されるとは別な意味で使われるが本書は正にこの言葉がぴったりの逸品。 今までそういう風に教わっていた事は実はよくよく考えてみるとおかしな部分がある、というのは良くある事で、本作は誰もが常識、通念として捉えていた歴史的事実に潜む矛盾に論理の一突きを食らわす知的興味溢れる歴史ミステリだ。 歴史学者や考古学者、古典文学研究家など、古代史に携わる人々によって確立されてきた歴史的事実。しかし実はこれらが口承や伝聞でしかないことも確かで、それが恰も既成事実として語られ、いつの間にか我々の常識になっている。それはやはりその道の権威ほど通説、定説に目を眩まされてしまうからだ。 象徴的なのは表題作と3編目の「聖徳太子はだれですか?」だ。 日本史の研究者達は昔から伝わる書物を解明の手掛かりに歴史の謎を探る。つまりそこに書かれている意味を見出す事で歴史の空白を埋めていく作業を行うわけで、つまり歴史書の類いを鵜呑みにしがちである。 しかしこの2編では邪馬台国について書かれている「魏志倭人伝」を、聖徳太子の事が書かれている「日本書紀」の記述を疑う事でそれぞれの真相に迫っていく。これら2つの書物は学校の教科書にも出ている有名な物で、これを疑うという行為自体、かなりの冒険的なのだが、本書の面白さはそういった権威を疑い、覆す事にある。 また面白いのは日本語の意味の解釈の仕方によって事実の捉え方が変わることだろう。なるほど、日本語の意味が時代と共に変わっていっているのは知られているが、現代の意味で紀元前や1000年以上前の記述をそのまま訳すとまったく違った解釈になる。これが本作での肝である。 仏陀が王族の息子と捉えられていた事実は、学校に通っているという事実から王家の者ならば自宅に先生を呼びつけるはずだという常識的観点から矛盾するし、卑弥呼が占いによって人心を惑わせていたという記述は「惑わせる」という言葉は昔は「摑む」、つまり信頼を得ていたという意味だったということで卑弥呼の統治に対する印象がガラリと変わる。 これら珍説を肯定するために書かれたたった50ページ前後の短編に注ぎ込まれた知識の膨大さ、調査内容の豊富さを考えると作者鯨氏が費やした時間と労力に賞賛を贈らざるを得ない。本書で検証されていくプロセスは世に知られる歴史書の数々に記載された記述はもとより、在野の研究者や作家たちの検証結果にも及び、単に読者へ驚きをもたらすためだけでは済まされない物がある。なんとも誠意溢れる仕事だ。 恐らく作者の本懐はそういう裏方仕事を想像せずにただ愉しんでもらえればそれでいい、それだけかもしれないが、私はこれを面白かった!だけで済ますことが出来ない。 巻末に記された各短編における参考文献の数は最低でも5冊を数える。短編1作を著すにしては異例の数だろう。 しかし作者の本質がここにあるのならば、この調査自体は生みの苦しみではなく、自らの知的好奇心の探求と自説の啓蒙というカタルシスを得るがために行った、実に楽しい頭脳労働だったのではないかという気がする。 在野の一研究者であった鯨氏が満を持して放った論説集。正直云えば最後の方の作品には息切れを見え、完成度は落ちると感じたが、私は十分に愉んだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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