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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
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最近では老境に入ったこともあり、それまでずっと棚上げされてきたシリーズの完結に勤しんでいる田中氏だが、本書はその前に書かれた19世紀のヨーロッパを舞台にした、実在の人物を登場させた冒険活劇が描かれていたが、本書もそのうちの1つ。作者あとがきによればこの後『髑髏城の花嫁』、『水晶宮の死神』と続き、全部で三部作となるようだ。
で、私はこの田中氏の19世紀のヨーロッパを舞台にした冒険活劇は実に楽しみにしている作品である。なんせこの前に読んだ『ラインの虜囚』が無類に面白く、久々に胸躍る童心に帰って冒険活劇の躍動感に胸躍らせたからだ。 さてそんな期待を抱きながら繙いた本書もまた『ラインの虜囚』とまでもいかないまでも実に楽しい冒険小説となっている。 まず本書にはあの有名な文豪チャールズ・ディケンズと童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンが登場する。デンマークの作家アンデルセンがディケンズの許に遊びに来ているという設定で、なんとこれは作者自身のあとがきによれば史実のようだ。 その2人の冒険に巻き込まれるのは語り手であるエドモンド・ニーダムとその姪メープル・コンウェイの2人だ。 ニーダムはクリミア戦争からの帰還兵で元々ジャーナリストであったが帰還後、彼の勤めていた会社は既に倒産しており、幸いにしてその社長が紹介してくれた貸本会社ミューザー良書倶楽部の社員に姪と一緒に雇われることになる。この2人が実在の人物であるかは不明である。 そんな2人が社長の命でディケンズの世話をすることになり、そしてディケンズのスコットランドのアバディーンへの旅行に随伴することになる。そしてその地でディケンズと因縁深いゴードン大佐と再会し、彼の所有する月蝕島に行くことになる。そしてそこで彼ら街の権力者であるゴードン大佐とその息子クリストルと対決することになるのだ。 まず貸本屋が当時一大産業として成り立っていたというのに驚く。主人公2人が就職するミューザー良書倶楽部は会員制の貸本屋で客層は上流階級で会員費で潤沢な資金を得て話題のある、内容的にも評価の高い本を扱っていた。19世紀当時はまだ本は買うものではなく借りる物だったのだ。 従って作家連中は自作を貸本屋に置いてもらわないと死活問題であったため、貸本屋は売れる本を書くよう作家に指示できる立場であったのだ。いわば編集者も兼ねていたとのことだ。また逆に売れる作家に対しては将来への投資として旅行費の立替なども行い、まさに今の出版会社と変わらぬ役割を果たしていたようだ。 さて今回ニーダム一行が月蝕島を訪れるきっかけとなったのは新聞で氷山に包まれたスペインの帆船が流れ着いたというニュースが入ったからだ。しかもその帆船は16世紀にイギリスに攻め入って返り討ちに遭い、帰国の途中に行方知れずとなったスペインの無敵艦隊の1隻だともっぱらの、しかし確度の高い噂が流れていたからだ。 ここでまた田中氏によってこのスペインの無敵艦隊について蘊蓄が語られるわけだが、イギリス侵略に失敗したスペインの無敵艦隊は西方の英仏海峡にイングランド艦隊が待ち受けていた関係でなんと東からグレートブリテン島を北上し、アイルランドへ回って帰還するしかなかったと述べられている。そしてそれほどの距離を航行する予定ではなかったため、食糧が尽き、おまけに北の暴風と嵐に巻き込まれて130隻中67隻が帰還し、残りの63隻のうち35隻が行方不明のままだったとのこと。 つまり田中氏はこの史実に基づいて氷山に包まれたスペインの無敵艦隊が200年の時を経てスコットランド沖の月蝕島に流れ着くという実に劇的なシーンを演出する。 そしてこの月蝕島の成り立ちがまたすごい。 この島の領主リチャード・ポール・ゴードン大佐は暴君とも云える存在で財力に物を云わせ、農民から土地を巻き上げ、借地料や借金を払えない農民たちを強制移住させて追い出していた。さらに安い賃金で雇い長時間労働をさせて過労で次々と死なせていた。また月蝕島を買い取ると島民たちが生業にしていたガラスの材料となる海藻取りを、海の中まで自分の土地だと宣言して禁じ、貧困にあえがせていた。それは彼の目的のためだった。 やはり都会よりも歪んだ思想を持つ権力者が幅を利かせる田舎の方が怖いというがまさにゴードン大佐の支配するその街はその典型だ。 ちなみに私は昔からイギリスの小説で大佐という肩書の登場人物が出ることに違和感を覚えていたが、今回の田中氏の説明でその疑問が解消できた。 貴族や爵位の持たないが、広大な土地を所有する大地主などを「郷紳(ジェントリー)」と呼ぶらしく、そしてそういう身分の人物が敬称で呼ばれたいときに使うのがコロネルという位であり、これを「大佐」と訳していたわけだ。つまり大佐とは決して軍人の階級を示すわけではないのだ。 しかしこれは今回初めて知ったが、やはり大佐という肩書は軍人を想起させるので解ったと云えど違和感は当分払拭できそうにないだろう。 またこの悪辣な親にして子もまた同じく心底悪党である。 次男のクリストルは長身でハンサムだがプライドが高く、またすぐに女性が自分になびくものだと思っており、メープルに対して異様な執着を持つ。さらに剣の名手であり、力量の劣る敵を自らの剣で思う存分傷つけ、嬲り殺そうとする異常な性格の持ち主だ。 さらには気に入った女性を島まで連れて行ってはお気に入りの服を着させてもてあそび、飽きてしまえば殺してはまた新しい女性を物色して連れてくるを繰り返していた卑劣漢だ。 そんな悪党親子と立ち向かうディケンズ一行の面々もまた個性的だ。 ディケンズは貧しい家庭の出であることにコンプレックスを抱いているが、情に厚く、自分が気に入った者たちへの支援を怠らない人物だ。 翻ってアンデルセンは大人になって子供で少しのことで狼狽え、嘆き、そして喜ぶ。ちょっとした知的障碍者のように描かれている。 そしてメープル・コンウェイはおじのニーダムに憧れ、将来ジャーナリスト志望の若き娘で作家の悪筆を見事に読み取る能力があり、それを買われてミューザー良書倶楽部に雇われる。そして女性の地位向上、識字率向上に努力を惜しまず、また悪党クリストルにも一歩も引かない気の強さを見せつける。 そして主人公のニーダムは案外深みのあるキャラクターであることが次第にわかってくる。 彼は戦争から帰還後貸本屋の従業員として雇われ、また姪に対して気の良い兄的存在のいわば“いいお兄さん”的存在なのだが、クリミア戦争の後遺症で神経症を患っていることが明かされる。 とまあ、ヒーローとヒロイン、ボス的な存在であるディケンズと道化役のアンデルセンと冒険仲間としては典型的でありながらも申し分ない面々以外にも『カラブー内親王事件』の張本人メアリー・ベイカーも加わる。さらに周辺では先に述べた桂冠詩人アルフレッド・テニスンや『月長石』の作者ウィルキー・コリンズなど実在の人物が登場するのもこの田中氏の19世紀冒険活劇の特徴である。 とまあ、実在する人物が実にのびのびと動き、さらに胸をむかむかさせる悪党が登場し、意外な人物の正体が明かされながら、なじみのない西洋の近代史の蘊蓄も散りばめられ、エンタテインメントてんこ盛りの作品だ。 そして本書の隠れたテーマとはやはり教科書で学んだ歴史の裏側や教えられない当時の人々の生活やイギリスの社会や風習などを事細かく盛り込み、そしてその時代の人々に命を与えることだろう。 例えばゴードン大佐は急速に発展したイギリスの産業革命によって生み出された、一大財を成し、その資金力を己のエゴのためだけに使ってきた悪魔のような権力者であり、社会の高度経済成長の暗部でもある。 また教科書では決して学ばない当時の人々の生活様式や風習を書き残すことで読者が興味を持ち、次世代の歴史小説家が生まれることを期待しているのではないだろうか。 本書を書いた当時、作者田中氏は59歳。そしてこれが三部作の第1作目であることを考えると、やはり後続のまだ見ぬ作家の卵たちに向けた花束ではないだろうか。 本書の巻末には本書の登場人物が生まれる1789年から1907年の年表と数えきれないほど膨大な量に上る参考文献が載っている。やはりこのことからも田中氏が自分の趣味だけでこのシリーズを書いているわけではないことが判るというものだ。 このシリーズ、作者あとがきによれば「ヴィクトリア怪奇冒険譚」三部作と銘打たれているようだ。そしてこのあとがきにも本書に登場した実在の人物やイギリスの通貨の単位や長さや面積の単位などについても触れられている。 『銀河英雄伝説』という歴史を紡いだ田中氏が晩年に着手したのは英国の歴史を舞台にした冒険活劇三部作。 それまでの19世紀西洋冒険活劇譚も併せて、彼が遺そうとしている田中芳樹版歴史の教科書。それは単に勉強ではなく、かつて胸躍らせて本を繙いた少年少女の心をくすぐる作品群になるに違いない。 幸いにしてこの後残りの2作も近いうちに刊行されるようだから、楽しみにして待つことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ12作目の本書ではリンカーンはNY市警を辞め、大学で鑑識技術の講義を行っている。
従っていつものようにアメリア・サックスとコンビを組んでの捜査とはならず、それぞれがそれぞれの事件を追っている。 アメリア・サックスが追っているのは未詳40号と付けられた、異様に背の高く、痩せた風貌の殺人容疑者だ。しかしリンカーンの手助けを借りれないアメリアは遅々として進まないNY市警の鑑識結果にイライラしながら、それまでの捜査で培ってきた洞察力で容疑者を追っていく。 一方リンカーンはそのアメリアが偶然出くわした容疑者を尾行中に入ったショッピングセンターで起きたエスカレーターの事故の調査を行っている。上りのエスカレーターの上り口の乗降板が開き、そこに落ち込んだ店の従業員がモーターに挟まれて圧死した原因を突き止め、残された家族のために賠償金を請求するための証拠集めを強引に休暇を取らせた相棒メル・クーパーと講義の熱心な聴講生である、同じく四肢麻痺の生涯を持つ、元疫学研究者のジュリエット・アーチャーと共に当たる。 この2つの捜査(調査)はやがて1つへと繋がっていくのだが、これまで読んだリンカーン・ライムシリーズとは異なり、非常にじっくりと時間をかけて進むのだ。 今まで彼らが相手にしてきた犯人は次から次へと犯罪を、殺人を繰り返し、事件を未然に防ぐために証拠類と奮闘するリンカーンとの秒刻みの戦いが醍醐味だったが、アメリアが捜査する未詳40号は、彼の犯罪が発覚した被害者トッド・ウィリアムズ以降の殺人がなかなか起きないでいる。 またリンカーンサイドも自室内に実物大のエスカレーターのモックアップを設けてまで、事故を起こしたメーカーのエスカレーターの調査を行うが、彼らが想定する誤作動の原因探しは試行錯誤の連続で、なかなか捗々しく進まない。 これほどじれったく長く続くこの2人の捜査も珍しい。 この並行する2人の捜査は300ページを過ぎたところでようやく交わる。アメリアの追う未詳40号とライムの調べるエスカレーターの事故が繋がる。 エスカレーターの事故は内蔵されたスマートコントローラーを意図的に遠隔操作した者の仕業だった。その人物こそが未詳40号だった。 いつもながらディーヴァーは色んなテーマを扱い、我々の生活と彼の対峙する敵の犯罪が実に近いところで繋がっていることを知らしめてくれるが、本書ではさらにその距離が縮まっている。 今回の敵、未詳40号が殺人に利用するのは我々の生活を便利する通信技術だ。スマートフォンのアプリで遠隔操作するシステムの穴から潜り込み、誤作動を起こさせて人を殺す、なんとも恐ろしい敵だ。 まずはエスカレーターの乗降板を意図的に開放させ、人を落としてモーターに巻き込んで殺害。 次に家庭のガスコンロを意図的にガス漏れさせ、ガスが室内に充満したところで点火し、住民を丸焼きに。 そして大型テーブルソーを誤作動させて腕をスパッと切るかと見せかけて電子レンジの出力を何倍にも上げておいて温めていた飲み物とマグカップの中に含まれている水分を水蒸気爆発させる。 さらには自動車の制御システムも遠隔操作して猛スピードで逆走させ、衝突事故を起こさせて渋滞を招き、アメリアの追跡を交わす。 生活が発展し、便利になるとそれを悪用する輩も出てくる。スマートフォンのアプリで色んなことができ、色んなものとリンクすることが可能になったが、ウィルスを侵入させて壊したり、スパイウェアを侵入させて個人情報を搾取したりと枚挙にいとまがない。 しかしディーヴァーは過去に『ソウル・コレクター』で他人の情報を奪って成りすまして犯行を行う犯人を描いていたが、今回は便利さを利用して人を殺すという誰もが被害に遭いそうな犯行方法を生み出した。 何とも恐ろしい犯行を、犯罪者を生み出したものである。あまりにリアルすぎて背筋が寒くなる。 更には街ですれ違って自分を罵倒した弁護士の素性を調べ上げ、アパートのセキュリティシステムに侵入して、幼児誘拐まがいの悪戯を仕掛けることもできる。 また恋人との情事を盗み聞きしていた隣人を防犯カメラで捉え、自分たちのプライベートを汚したことで殺害する。 題名の「スティール・キス」とはこれら便利な物たちの誘惑を比喩した“鋼鉄のキス”という未詳40号の比喩に由来する。 また一方でアメリアも刑務所に服役していた元警官で恋人だったニック・カレッリが再び彼女の前に姿を現す事態に出くわす。彼は強盗事件に関わった容疑で逮捕され、服役していたが、実は冤罪でそれは彼の弟のやった事件で彼は弟の身代わりになったというのだった。しかしその弟も今は亡く、彼はやり直すために当時の事件の資料を調べ、潔白を証明したいとサックスに協力を求める。 そしてサックスもかつてと変わらぬニックに心を傾けていく。 またロナルド・プラスキーはプライベートでヤクの売人と接触し、独自の調査を行っている。 そんな複数のエピソードを交え、今回も大なり小なりのどんでん返しを見せてくれた ディーヴァーだが、ある程度パターン化してきた感は否めない。 行く末が逆に判っているからこそヒヤヒヤさせられることも無くなってきた。そう、免疫がついてきてしまった。 あといささかあざとい仕掛けも感じた。 そんな風に思っていたら、なんと今回の結末は意外にもリンカーンとアメリアにとっても苦いものとなる。 人生全てが順調ではなく、万全ではない。生きていれば一度や二度、挫折もし、苦汁を舐めさせられることもある。 しかしそれを乗り越えて生きてこそ、人はまた成長し、そしていつかは笑って話せる過去へと消化できるよう、心が鍛えられるのだ。 転んでもただでは起きない者もいる。 今回色々な悪が描かれてきた。 巨大企業のビジネス優先主義によって製品の欠陥を隠匿しようとした悪。 その犠牲になり、復讐のために次々と人を殺してきた悪。 自らの犯行を正当化し、かつての友人や恋人を騙してまで大金をせしめようとした悪。 それぞれの悪が円環のように巡り、そして殺しの連鎖を導く。人が利己的にならなくなった時に犯罪は無くなるのだろうか。 スティール・キス。 それは便利さの裏側に潜む甘美な罠。 もう我々はスマートフォンなしでは生活できなくなってきている。我々の便利な生活が危険と隣り合わせであることをまざまざと痛感させられた。便利と危険は比例することを肝に銘じよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『ドランのキャデラック』に続く短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の2冊目の訳書である。
本書は「献辞」で幕を開けるが、これはいわゆる本の冒頭に書かれるそれを指すのではなく、れっきとした短編の題名である。しかしその内容はまさに本の冒頭に掲げられる献辞についてのお話だ。 蛙の子は蛙という言葉もあれば、トンビが鷹を生むという言葉もあるように、時にはこの親にしてこの息子と云った至極当たり前な子供ではなく、突然変異的に秀でた子供が生まれることがある。本書は黒人の最下層の夫婦の間に生まれた子供が小説家になった理由を実にキングらしい生々しさで語る。 本作ではそれ以外にもこのベストセラー作家の創作の苦悩など作家ならではのエピソードに溢れていてなかなか興味深く読んだ。その辺についてはまた後ほど述べることにしよう 次の「動く指」は実にキングらしい奇妙で恐ろしい話だ。 ある日突然排水口から人間の指が現れたら、どうする? そんなシュールなシチュエーションをホラーにしたのが本作だ。 手指というのは不思議な物で、神経が集中し、細かで繊細な動きが出来ることから、手指の動きだけで感情すらも表現出来る。実際多彩なフィンガージェスチャーがあり、自分の感情を表すのを強調するために手指で補う。例えば映画『アダムス・ファミリー』で登場する手首だけの存在ハンドなんかはその好例だろう。 洗面所からにょっきり飛び出して来る1本の人間の指。いつも見慣れた物で自身も持っている物なのに、なぜそんなところから1本だけ出てくるとこれほどまでに気持ちが悪いのか? ただそれは神経を逆撫でするようにカリカリと音を立てる。気持ち悪い上に気に障るため、次第に主人公の精神を苛む。しかも意地が悪いことに主人公が洗面所にいるときだけ姿を現し、彼の妻の前には現れない。 主人公は自分だけが見る幻覚かと思うが、やがて劇毒物である排水口クリーナーと電動植木鋏で立ち向かう。 そこからの展開はキングの独壇場だ。もだえ苦しむ薬傷した指はいくつもの関節を持ち、どんどん伸びてくる。このアイデアは実に秀逸。人間の指から異形の物へと変わる瞬間だ。 しかしワンアイデアでよくもここまで凄まじい作品を書くものである、キングは。 「スニーカー」は都市伝説ような作品だ。 アメリカのトイレのブースは扉の下部が大きく空いているのが特徴だが、そこから人の靴を見て使用中かを判断する慣例になっているようだ。 この主人公は3階のトイレの一番手前のブースに1組の薄汚れた白いスニーカーがあることに気付くが、それがいつ行ってもその持ち主が入っているので気になりだす。そしてそれが怪事であることを示唆するように周囲に虫の死骸が増えていく。 今回この奇妙な現象にキングは理由を付けている。 また本作では音楽業界の裏話などもあって、洋楽好きな私にとっては面白く読めた。ショックだったのは本書が発表された1993年の時点で主人公がロックはもうかつての栄光を取り戻す力がないという意味の言葉を放っていることだ。確かに90年代からヒップホップが台頭してきたが、この時点でもうそんな境地だったとは。 更にバンドの中でもベース・ギタリストの存在についての話も面白い。華やかさに欠けるゆえに慢性的に人手不足らしい。 またローリング・ストーンズのビル・ワイマンが演奏中に居眠りしてステージから転げ落ちたという逸話は本当だろうか。そして個人を名指しして大丈夫なんだろうか? また地味でないベース・ギタリストとしてポール・マッカートニーを挙げているけど、スティングも忘れないように。 トイレのブースからいつも見えるスニーカーからこんな話を紡ぎだすキングの着想の冴えを感じる作品だ。 ところで物語の主要人物のファーストネームがジョンとポールとジョージィなのは意図的なんだろうか? 「スニーカー」は音楽業界が舞台だったが次の表題作はさらにその色を濃くする。 ドライブ旅行で道に迷った挙句に辿り着いた街は普通ではなかった。 これは数あるホラーの中でも使い古された物語で、作中登場人物も意識的に自分たちが『トワイライト・ゾーン』の世界に紛れ込んだんじゃないかと自嘲気味に話す。 しかしこのありふれた物語の設定にキングは実に面白いアイデアを注ぎ込んだ。 それは私にとってはまさに夢のような街なのだが、うまい話は簡単に転がっていなかった。 夢はその瞬間を愉しむから楽しいであって、これが夜ごと続く、しかも強制されると悪夢でしかないのだろうな。 「自宅出産」はその地味なタイトルから全く予想もつかない展開を見せる。 アメリカの、メイン州の沖合に浮かぶ島で暮らす漁師の夫婦の苦難の生活が描かれたと思いきや、いきなり物語は転調する。 そして物語の主人公マディー・ペイスはかつて一家の長として頼りにしていた夫が蘇るに至り、マディーは身籠った子供を護るためにかつて愛した夫を撃退するのだ。寄る辺のない妻から一人逞しく生きていくことを決意した母親の誕生である。 この内容と全くそぐわないタイトルはこんな状況の中だからこそ自宅出産を決意するという一人で生きていくことを選んだ女性の決意表明なのだ。パニック小説とヒューマンドラマをミックスした、なんとも云えない味わいとなっている。 本書の最後はまたもやシュールな作品「雨期きたる」だ。 キングファンである荒木飛呂彦氏の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』にも大量のカエルが降ってくるエピソードがあったが、これがネタ元だったのか、それともちょうど連載前公開された映画『マグノリア』がネタ元だったのか、定かではないが、しかしカエル以外にも魚やオタマジャクシなどが空から降ってくる怪異現象は実際に起きているようで、その原因は竜巻で空に巻き上げられたそれらが降ってくると考えられている。 恐らくキングもその怪異現象を聞きつけ、この作品の着想に至ったと思われるが、やはりキング、そんなニュースさえもホラーに変える。 なんとも奇妙な物語である。 短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の2冊目の本書は6作が収録され、総ページ数は330ページ強。1冊目が7作収録で320ページ弱だったから2冊合わせて13作と650ページほどの分量だ。 しかもまだ半分なのだから、キングの短編集の分厚さには驚かされる。 2冊目の本書には貧困層の黒人夫婦の息子が作家になった秘密、洗面所から出てきた動く指に悩まされ、格闘する男の話、トイレの決まったブースに入っている白いスニーカーの持ち主に纏わる話、迷った挙句に辿り着いた街の恐怖、一家の長を喪った女性の一大決心と世界の終末の話、田舎町を訪れた若いカップルを襲った怪異現象の正体などがテーマになっている。 そしてそれぞれの物語のアイデアは単なる思い付きに過ぎないものも多い。 ろくに教育も受けていない両親から生まれた子供が作家になった。 もし排水口から人間の指が覗いていたら怖いなぁ。 いつもあのトイレのブースに同じ靴があるんだよな。 折角の旅行だから知らない道を通って“冒険”しようじゃないか! 我が身に起きた不幸のために世界の終りだと感じた時、本当の世界の終りが来たら? 空から雨じゃない物が大量に降ってきたら気持ち悪いよな。 それらは我々の周囲にもよくある話だったり、またふとしたことで頭に浮かぶふざけ半分のジョークのような思い付きだったりする。 しかしキングがすごいのはその思い付きからその周辺を肉付けしてエピソードを継ぎ足して立派な読み物にすることだ。 そんなことが起こる人々、そんな奇妙なことに直面する人たちはどんな人だったら物語が生きるか、その人たちは職業に就き、どんな生い立ちを辿ってきたのか、独身か結婚しているのか、家族と暮らしている子供か、それとも一人暮らしなのか恋人と同棲しているのか、とどんどん肉付けしていく。そして普通の生活をしている我々同様に彼らは自分たちに襲い掛かる災厄に対して信じようとせず、一笑に附することで最悪な結末を迎えることになるのだ。 また一方で日々を懸命に生きる人々への救済を感じさせるものもある。 例えば最初の1編「献辞」では最下層の黒人夫婦の息子が作家になる話だが、学もない夫婦から生まれた子供がそんな知的階級の仲間入りをするわけがないことに対して、キングはある仕掛けで人生の転機を、チャンスを掴むことを示唆する。 アメリカはチャンスの国と云われており、社会の底辺の人間が子供に自分のようになってほしくないとの理由で教育を施して、立身出世をする話はよくあるが、キングはあるチャンスの素なるものを加えた。 チャンスは誰にでもある、そしてその時に行動することが大事なのだと云っているようだ。 自身が作家を目指し、ごみ箱に捨ててあった原稿を妻が投稿したことでデビューすることになったキングにとってこのチャンスの素は夫人だったのだろう。 あとこの母親が間接的に作家のDNAを受け継ぐベストセラー作家のピーター・ジェフリーズは素晴らしい作品を書くのに、その人物像はろくでなしで人種差別者であると書かれているが、これは実際のモデルがいるに違いないと思っていたら、ちゃっかりあとがきに書かれていた。 また「動く指」はキングには珍しく狂気と正気の境の曖昧さを描いている。排水口から蠢き出てくる複数の関節を持った動く指と格闘して血塗れになる主人公はある瞬間にプツンと神経が切れて狂気に陥ったかと思えば、警官が来た時には自分の名前と職業をきちんと答える冷静さを見せる。 「いかしたバンドのいる街で」に出てくる主人公クラーク・ウィリンガムに自分の姿を重ねてしまった。 遠出をした時についついナビにない道を通って“冒険”したくなる性癖が私にもあるのだ。そんな時、妻は呆れていつも制止しようとする。本作はそんな私にとって戒めなのだろうか。 「自宅出産」は本書における個人的ベストだ。まずは典型的な父長制である家族が頼りにしていた父親が死に、その代わりとなる夫もまた死ぬことで身重である女手一人で生きていくファミリードラマ風の展開から一転して全く予想もつかない展開に思わず声を挙げた。 こんな奇妙な女細腕奮闘記、キングにしか書けないだろう。 また本書でも恐怖のイマジネーションを喚起させるキングならではの描写が目立った。 「動く指」の関節がいくつもある長い指が排水口から蠢き出てくるイメージや「スニーカー」の1つの鳩目に紐を通し忘れている描写も何気ないがトイレに行くといつも見えるスニーカーを気にするとそんな些細な事が気になって仕方なくなる心理状態、そして「自宅出産」の海から蘇った腐乱死体と化した夫の手からお腹の中の子を護るために、その子のために靴下を編んでいた編針を眼窩に刺したことで網かけの靴下が骸骨の鼻先でぶらぶらと揺れるシーンなど、よくもまあ思い付くものである。 「雨期きたる」の次から次へと降っては湧いてくるヒキガエルたちを次々と潰す描写と雨上がり後のヒキガエルが溶けていく様もまたグロテスクである。 これほどまでに物語を紡ぎながらも我々の心の奥底にある恐怖を独特のユーモアを交えて掻き立てるキングの筆致はいささかも衰えていない。 さてようやく半分の折り返し地点である。次はどんなイマジネーションを見せてくれるのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ある日目覚めると女になっており、しかも5年の月日が流れていたというトリッキーな作品『僕を殺した女』でデビューした北川歩実氏の3作目が本書。デビュー作同様に「自分探し」、即ち自分の存在意義そのものがミステリという作品になっている。
本書の謎は1点に尽きる。 それは木野杏菜と名乗る女性は本物なのか? この木野杏菜という女性は4年前に殺害されたはずの女性なのだが、再び娘を殺された親たちの許に姿を現す。しかもその登場の仕方は10年前と同じで、彼女の育ての親、木野茜によって指定のホテルのレストランで待ち合わせる。 しかし彼女は連続婦女暴行犯江尻静夫によって彼女の友人森島美緒、日田麻夜らと共に殺害されたはずだった。しかし過去を調べていくうちに木野杏菜は江尻の恋人であり、それが原因でクラスの中でも孤立し、親しかった美緒と麻夜たちから避けられていた節があり、彼女はそんな2人に対して復讐するために江尻と狂言誘拐を図り、そして江尻と共に2人を殺し、自分の身代わりを仕立てて杏菜自身も殺されたと見せかけようとしたとの疑いが出る。 しかし一方で事件の4年後に再び木野茜によって美緒と麻夜の親である森島とその息子政人と日田、そしてかつて杏菜が養子として世話に預けられた外川家の長男大樹らに引き合わされた木野杏菜は交通事故で記憶を亡くした別人の三原理香子という女性であると彼女の親で精神科医の西浦義明という人物が出てくる。彼は娘を亡くしたショックで心神喪失状態だった彼女の生みの親、外川円夏の依頼で自分の娘理香子を円夏に与えて彼女を第2の杏菜にしたのだという証言まで出てくる。 そのどれもが信憑性があり、そしてそのどれもが疑わしい。 この1人の女性、木野杏菜の正体が本人なのか、それとも木野杏菜の記憶を刷り込まれて作られたコピー、即ち模造人格を植え付けられた別人なのかがはっきりしないのは渦中の人物である木野杏菜が記憶喪失であるからだ。 謎自体はシンプルながらデビュー作同様、とにかくこの北川歩実という作家はこの1つの謎をこねくり回す。 再び現れた木野杏菜、即ち外川杏菜は本人ではなく、木野茜が外川の遺産を横取りするため外川杏菜の記憶を刷り込ませた別人だ。 いや、4年前に殺された杏菜は別人で、彼女こそは交通事故で記憶喪失になった本当の外川杏菜だ。 この2つの選択肢を行ったり来たりする。 上に書いたようにこの2つの選択肢をそれぞれ真実として補強するために関係者が現れ、新たな事実が判明していく。 しかし驚かされるのはたった1人の女性の正体を突き止めるのにかなり多くの人物が関わっていることだ。 最初は子供に恵まれない夫婦木野茜と鹿島幸平の2人に杏菜という赤ん坊が授けられた。 この赤ん坊は木野茜が懇意にしていた小学校時代の先生だった山内ミサと夫で診療所を経営する順次から紹介された。未成年の少女が身ごもって生んだ子供がその赤ん坊だった。 しかし夫と別れた茜に代わって杏菜を育てる人物が現れる。その人物外川円夏は実は山内夫妻の娘で杏菜の実の親だった。 木野杏菜は外川仁という医者と彼の連れ子である大樹を加えた4人家族の一員となり、外川杏菜となる。 そして外川家と親しい同じく医者の日田昭夫とその娘麻夜、弁護士の森島治郎とその息子政人と娘の美緒が加わり、杏菜は政人に恋をし、麻夜と美緒と友人になる。 そしてこのグループに亀裂が入る原因となったのが森島が弁護を担当していた連続婦女暴行犯江尻静夫が杏菜と美緒と麻夜を誘拐して殺害することで狂ってくる。そしてその中には会田由紀子という別に誘拐された少女もいた。 更に西浦義明という精神科医が加わり、彼の娘で交通事故で記憶喪失になった三原理香子という女性が木野杏菜のコピーか否かという謎へと展開する。 1人の人物の記憶を巡り、その波紋がどんどん大きくなり、そして影響を及ぼしていく。 それは単純に人助けではなく、外川家の資産を巡る金儲けの側面を孕んでくる。 さてこれほどまでにこねくり回された木野杏菜を巡る事の真相は一応解決されるが、我々の記憶というものは何とも薄弱なものだろうかという思いが残る。 これは単に物語の上での話ではない。 例えば仕事でも自分のミスを認めようとしたくないがために、やっていないことをやったと記憶をすり替える。 また声の大きい人が語った根拠もない話を事実だと受け止めようとする。 それほど我々の記憶というのは薄くて弱くて脆いものなのだ。 では自我を形成する人格とはいったい何によって立脚しているのだろうか? 自分が自分であることの根拠はそれまで歩んできた人生という記憶ではないか。 しかしその記憶が薄くて弱くて脆いものであるならば、いとも簡単に人の人格は変えられてるのではないか。 これが本書の語りたかったことだろう。 もし貴方が貴方であると訴えても周囲が信じようとしなかったら、貴方は貴方であることを自分自身が信じていられるだろうか? 結局我々の現実というのは自分だけの確信だけで成り立っておらず、それを支持する他者の意見によって補強され、そして確立しているのだ。 どれだけ自分を信じてもそれを他人が受け入れなければ、そして他人が頑なに信じたことを押し付けれれば、そしてそれが多数を占めれば我々一己の存在などすぐにでも上書きされてしまう。 なんともまあ、恐ろしいことを見せつけてくれたものである、北川歩実氏は。 この作品を読んだ後、貴方は確かに貴方自身であると胸を張って証明できるだろうか。 正直私は自信が無くなってきた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1993年の鮎川哲也賞の候補になり落選しながらも刊行されることになった貫井徳郎氏デビュー作である本書はその年の『このミス』で12位にランクインするなど好評を以て迎えられた作品だ。
そんな期待値の高い中で読み進めた本書だったが、最後まで読み終わった感想は微妙というのが正直なところだ。 さて本書は北村薫氏をして「書きぶりは練達、世も終えてみれば仰天」と驚嘆させたと当時評判だったが、確かにその内容と筆致はとても新人の作品とは思えないほどどっしりとした重厚な読み応えを備えた作品だ。 本書は幼女連続誘拐殺人事件の捜査を進める警察の話と心に大きく空いた穴を埋めるために新興宗教へとのめり込む30代の男性の話が並行して語られる構成で進む。 まずメインの警視庁捜査一課のキャリア出身の佐伯課長が陣頭指揮を執る捜査の内容は新人とは思えないほどの抑えた筆致で、キャリアとノンキャリアの確執、もしくはキャリア同士の確執、さらには佐伯の微妙な生い立ちと現在の立ち位置など縦割り文化が顕著な警察組織の中で軋轢を上手く溶け込ませ、よくもデビュー前の素人がここまで書けたものだと感嘆した。 それは後者の新興宗教にのめり込む30代の男、松本の話も同様で、新興宗教の内情とそこに所属する人々の描写は実に迫真性に満ちている。この細やかな内容は経験しないと判らないほどリアリティに富んでいる。 街中で幸せを祈らせてほしいという修業に興味を持った松本が出くわす、マンションの1室で行われる講話、そしてひっきりなしの入会の勧誘、更に合宿と称した監禁状態での洗脳行為に暴利としてか思えない高額な参加費やテキスト料。 これらは作者自身が実際にその手の新興宗教の集会や講習、そして合宿に自腹を切って参加しないと書けないことばかりだ。もし彼が実際に入会したのであれば、新人賞の応募作品でここまで金を掛けて取材したことになり、その気合の入り方には驚かされる。 また新興宗教が実に“おいしい商売”であることも詳らかに書かれる。 本書が刊行された90年代初頭の時点で日本に存在する新興宗教の数は23万にも上っていたことや元手がかからず、出版物やグッズ、財施などでどんどんお金が入ってくること、宗教法人であることから税の優遇措置を受けており、さらに33種類に亘る収益事業を許されていること。 浴場業、料理飲食業、遊技業、遊覧所業、貸席業、理容業、美容業、興行業、不動産販売業、倉庫業、駐車場業、金銭貸付業とほとんどの業種が網羅されている。 これらは巨大な宗教団体が政治内部にも強いコネが古来からあることからこれらの優遇措置が認められてきた悪しき風習と云えるだろう。 ただこれほど読者の共感を得られない主人公も珍しい。 どうにもこの男に対して嫌悪感が先だって罵詈雑言が止まらない。 微妙な読後感の後に訪れたのは一人の身勝手で無能な男に対する大いなる憤りだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングの短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の邦訳を4分冊で刊行した第1冊目。しかし1冊の短編集が4冊に分かれて刊行されるのは出版社の儲け主義だと思われるが、キングの場合、逆にこれくらいの分量の方が却っていいから皮肉だ。
さてその短編集の1作目は本書の表題作「ドランのキャデラック」だ。 妻を殺された相手に復讐するどこにでもいるような中年オヤジの奮闘譚というどこにでもあるような題材である。彼は頭の中に響く亡き妻エリザベス励ましの言葉にほだされて復讐の方法を思い付き、そしてその決行のために典型的な中年太りの身体を鍛え、そして工事現場で修業をして重機の運転を身に着ける。彼が思い付いた復讐とは敵が運転するキャデラックを偽りの工事の迂回路におびき寄せ、大きな落とし穴で敵の愛車キャデラックごと生き埋めにすることだった。 この実に荒唐無稽な復讐を成すために身体を鍛え、重機の運転を身に着けるというのはよくあるが、数学者の友人に自身が創作しているSF小説のためと偽って必要な落とし穴の寸法を割り出してもらうところはキングならではのディテールが細かさだ。いわゆる荒唐無稽な話をリアルにするアプローチの仕方が面白い。 そして復讐成就のために偽りの迂回路案内の看板を用意したり、復讐の相手が通る前までにただ一人でアスファルトを剥ぎ取り、巨大な落とし穴を満身創痍になりながら掘る一部始終は絶対不可能と思われる状況に立ち向かう冒険小説の主人公のようでなかなか面白い。 次の「争いが終わるとき」はハワード・フォーノイというとある作家の手記である。 いやはやこんな話を思い付くのはキングしかいないだろう。 とにかく手記を遺すことに拙速な作家の手記から始まり、やがて自身が超天才であることとさらに弟もまた誰も予想がつかないことを発想する超天才であることが次第にわかり、そしてその弟が発明した世界平和をもたらす蒸留酒へと至る。 何の話をしているのか皆目見当のつかない発端から、超天才兄弟の生い立ちと現在までの経緯、そして手記の体裁で語られることの意味が最後で判明する展開含め、物語自体に謎が含まれており、技術としてはかなり高い作品だ。 それに加えて最後のオチも面白いのだからキングはすごい。しかし繰り返しになるがこんな話、キング以外誰が思い付くだろうか。 次は厳格な教師が登場する「幼子よ、われに来たれ」だ。 生徒に慕われる者、生徒に見下される者、はたまた特に話題にも上らない者など教師にも色々いるが、本書に登場するミス・シドリーは昔気質のいわゆる“教室の支配者”のような厳しい教師で自分の授業中の私語は許さなく、また他の科目の教科書を開くことも許さない、生徒から恐れられている先生だ。 しかしそんな教師も異形の物に対峙すると1人の女性となる。 彼女が見たのは本当に異形の物だったのか、それとも気が触れた彼女の妄想だったのか。 生徒に舐められまいと厳格に振舞う先生が自分を恐れない生徒に出くわすと自身の精神基盤が不安定になることはよくある。自分の教義に生きる者ほど他者にもそれを要求し、それに従うことが当たり前だと思うようになるが、それが適わなくなると意外にも脆く崩れていく。 しかし本作の邦題は内容から外れているように思う。原題は“Suffer The Little Children”、つまり「幼子に苛まれる」だが、なぜ「幼子よ、われに来たれ」としたのだろうか。 次も異形物だ。「ナイト・フライヤー」は地方の小空港で連続する殺人事件を週刊誌記者が追う話。 オカルト専門の週刊誌では吸血鬼などは特別なものではなく、存在して然るべきらしい。私はこの話を読んでいるとき、そんなものをまともに追い求める雑誌があるのか判断つかなかったため、吸血鬼ありきで記者が取材していることになかなかのめりこめなかった。 この手の週刊誌がキングの創作か判らないがこの導入部をすんなり受け止めるか否かで物語の没入度が変わると思う。私はキングの作品を読んでいるにもかかわらず、妙に常識に囚われた頭で読んだのでのめり込むまで時間がかかってしまった。 キングが書きたかったのはこの手のベテラン記者であっても、本当のモンスターには恐怖を覚えることか。そしてその光景を一生抱えて生きていくと述べる記者の独り言は実に説得力ある。これぞ恐怖、これぞトラウマだ。 ちなみにこの週刊誌記者リチャード・ディーズは『デッド・ゾーン』に登場していたというのは作者の作品解説で知った。 またまた異形物が続く。「ポプシー」はギャンブルで多額の借金を抱えた男の悲惨な末路を描いた作品だ。 『ニードフル・シングス』で崩壊したキャッスルロックが再び舞台となるのが「丘の上の屋敷」だ。本書の序文によれば本作が収録作中最も古い作品とのこと。 キングの数あるホラー作品のテーマの1つに“サイキック・バッテリーとしての家”というものがある。それは家そのものが住民やその土地に影響されて負のエネルギーを溜め込み、恰も生きているが如く住民たちに災厄をもたらすと云う考えだ。 本書はその系譜に連なる1編で、財を成すたびに増築を繰り返した住民が遺した屋敷に纏わる話だ。 そして上にも述べたようにその家が建つのはあのキャッスルロック。キングによって作られた町の1つであり、そして崩壊を迎えた町だ。つまり町そのものも忌まわしき因縁があり、さらにそこに建てられた屋敷もまた不穏な雰囲気をまとっている。また崩壊後のキャッスルロックに残された老人たちの物語が集って語るような退廃的な雰囲気も感じられる。キングが親しんだ彼が作った町への鎮魂歌とも云える作品だ。 最初に読み終わった時はこの話はキング特有の丘の上に屋敷を建てた事業家の盛者必衰の歴史を綴ったものかとだけ思ったが読み返すとこれは意志持つ屋敷の話だと気付いた。 本書最後の収録作の題名「チャタリー・ティース」はゼンマイ仕掛けの足がついた入れ歯のおもちゃの名前を指す。私はこの題名で初めて知った。 本作はキング作品のジャンルの1つ、“意志ある機械”のお話だ。機械とはいえ今回はゼンマイ仕掛けのおもちゃで、電気で動くものではない。今まで見たこともないほど大きなゼンマイ仕掛けの歩く歯のおもちゃを譲り受けた男の危機をそのおもちゃが救うと云う思い付いてもキングしか書かないようなお話だ。 読んでいる最中、荒木飛呂彦氏が漫画化したような映像が頭に浮かんだ。 冒頭にも述べたように本書は短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の邦訳を4分冊で刊行した第1冊目だが、本書だけで320ページ弱ある。これが4冊続くとなると軽く1,200ページは超える分量。本書には7作が収録されているが、これだけで通常の作家ならばこの1冊で十分な分量である。 その内容は妻を殺された男の復讐譚、ある発明をした弟を殺した小説家の告白文、厳格な教師の哀しき末路、吸血鬼の連続殺人事件を追う記者が出くわした真の恐怖、ギャンブルで抱えた多額の借金を返済するために子供の誘拐を請け負った男が辿った悲惨な結末、人を食うと噂される屋敷の歴史、ゼンマイ仕掛けの歩く歯の玩具を貰い受けた男がカージャックに遭う話とこの1巻目だけで実にヴァラエティに富んでいる。 そんな中、収録作中3作が怪物を扱った作品だ。 この頃キングは45歳。この年になるとサイコパスなど人間の怖さを扱う作品が多くなりがちで、なかなか怪物譚などは書かなくなると思うのだが、キングは本当にモンスターが好きらしい。 またキング作品のおなじみのモチーフであるサイキック・バッテリーとしての家の物語や“意志ある機械-正確には今回は器械だが―”の話もあり、初心を忘れないキングの創作意欲が垣間見れる。 しかしそれらおなじみの、いわばパターン化した作品群であるが、成熟味を増しているのには感心した。 「丘の上の屋敷」ではキャッスルロックの数少ない年老いた住民たちの群像劇と彼らの会話が延々と続く中で、彼らの話題の中心となっている丘の上の屋敷を主のいない今誰が増築しているのかと語ることでもはや家自体が自ら増築していることを仄めかされる―この作品は2回読んだ方がいい。1回めではキングの饒舌ぶりも相まってとりとめのなさが先に立ち、作品の意図を掴むのが難しい―。 そして最後の「チャタリー・ティース」ではゼンマイ仕掛けの歩く歯のおもちゃが新しい主を待ち受けていることが判るのだが、なぜそのおもちゃが彼を選んだのかは不明だ。 そう、作家生活19年にしてキングの描く恐怖はさらに磨きがかかっているのだ。しかもそれらが映像的でもあり、また鳥肌が立つような妙な不可解さを感じさせる。 西洋人の恐怖の考え方はその正体の怖さを語るのに対し、日本人は得体の知らなさそのものの恐怖を語る。つまり恐怖の正体が判らないからこそ怖いというのが日本式恐怖なのだが、本書のキング作品もどちらかと云えば後者の日本式の恐怖を感じさせる。 そんな円熟味を感じさせる作品集のまだ4分冊化されたうちの1冊目なのだが、早くもベストが出てしまった。それは「争いが終わるとき」だ。 この作品は最初何を急いで書き残そうとしているのか判らないまま、物語は進む。つまり物語自体が謎であり、メンサのメンバーになっている両親から生まれた兄弟の生い立ちが語られ、どこに物語が向かっているのか判らない暗中模索状態で読み進めるとやがて強烈なオチが待ち受けていたという構成の妙が光る。久々唸らされた作品だ。 まだ3冊も残っているのにここでベストを上げるのは早計かと思われるが、そんなことは関係ない。それぞれを独立した短編集と捉えてとりあえずそれぞれの1冊でベストを挙げることにしよう。 しかしこの頃のキング作品がどんどん長大化しており、饒舌ぶりに拍車がかかっていると思っていたが、それは本国アメリカでもそうらしく、『ザ・スタンド』から『ニードフル・シングス』に至る作品群では書き過ぎだと非難されたとある。 大作家だからこそ、またページ数が増せばその分価格も高くなるからこそ出版社もまた読者も長大化ぶりを歓迎していたかと思ったが、やはり海の向こうでも読者の思いは一緒であったか。 しかしそんな非難を受けてもキングの創作意欲というか頭に浮かぶ物語は減らないようで、短編が売れない昨今の出版事情の中、敢えて短編集を出すのは彼には大小さまざまな物語を書かずにはいられないからだ。そしてそれは今なお続いており、つい先日も『わるい夢たちのバザール』という短編集が分冊で訳出されたばかりである。 ちなみに冒頭にも述べたが本書は“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”、即ち“悪夢と夢のような情景たち”と題された短編集の一部である。つまり本書刊行後、28年を経てもなおキングの悪夢は続いているのだ。 それではその悪夢を引き続き共有しようではないか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2019年のミステリランキングを総なめにした『メインテーマは殺人』のコンビが帰って来た。
前作同様本書も作者自身がワトソン役になり、元刑事のダニエル・ホーソーンが探偵役を務める。 彼らが今回捜査する事件は離婚専門弁護士リチャード・プライス殺人事件。自宅でワインボトルで殴られたことが死因だ。さらに壁にはペンキで大きく“182”と数字が書かれていた。事件の直前、ゲイである彼の恋人スティーヴン・スペンサーと電話中だったが、通話中に客が訪れたため、掛け直すと云ったきり電話はかかってこなかったらしい。その時リチャードは知っている人間が訪れたような感じで、「もう遅いのに」と云っていたという。 凶器のワインボトルは2000ポンドもする高級ビンテージワインだが、被害者はお酒が飲めない。そのワインは彼の依頼人エイドリアン・ロックウッドが離婚調停が上手く行ったことに対する感謝の意を込めて贈られたものだった。 そしてその依頼人の離婚相手は作家の日本人の純文学作家アキラ・アンノで彼女は事件前にレストランで出くわしたリチャード・プライスに歩み寄って残っていたワインを彼にぶっかけ、さらにワインボトルがあれば殺してやれたのにと暴言を吐いた人物だった。それがゆえに彼女が最有力容疑者となっていた。 さらにリチャード・プライスの遺言状には相続人としてスペンサー以外にダヴィーナ・リチャードソン夫人という名が挙がっていた。彼女は彼が昔洞窟巡りをしていた時の仲間の1人チャールズ・リチャードソンの元妻だった。 その仲間にはもう1人、ヨークシャー在住で経理の仕事をしているグレゴリー・テイラーがおり、彼らは3人で毎年1週間ほど各地の洞窟探検に行くのが通例になっていたが、2007年の≪長路洞(ロング・ウェイ・ホール)≫と呼ばれているリブルヘッド近くの洞窟で雨に降られ、2人は命からがら逃げ出したものの、ダヴィーナの夫は途中で道に迷い、洞窟を脱けられずそのまま還らぬ人となった。 未亡人となった後もリチャードは彼女を経済的にも支援し、インテリア・デザイナーである彼女の仕事の斡旋も行っていたのだった。さらに彼女の息子コリンの名付け親でもあった。 しかしリチャード・プライスの死の前日、もう1人の仲間グレゴリー・テイラーがロンドンのキングス・クロス駅でホームから落ちて列車に轢かれて死んでいたことが判明する。 ヨークシャー在住の彼がなぜロンドンにいたのか。 そしてリチャードの死に彼は関係しているのか、というのが今回の事件の謎だ。 今まで作家自身が作品の中に登場して探偵役もしくは相棒役を務めるミステリはたくさんあったが、ホロヴィッツのこのホーソーンシリーズはホロヴィッツの実際の仕事や作品が登場するのがミソで現実と隣り合わせ感が強いのが特徴だ。 例えば本書では彼が脚本を務める『刑事フォイル』の撮影現場に訪れるのが物語の発端だが、その内容は極めてリアルで1946年を舞台にしたこのドラマのロケハンから当時の風景を再現するための道具立てや舞台裏が事細かに描かれ、映画ファンやドラマファンの興味をくすぐる。そんな製作者たちの苦心と迫りくる撮影許可時間のリミットの最中にホーソーンが傍若無人ぶりを発揮して現代のタクシーでガンガンにポップスを鳴り響かせながら登場する辺りは、本当に起こったことではないかと錯覚させられる。特に最後に附せられた作者による謝辞を読むに至っては作中登場人物が実在しているようにしか思えない。 今回ホーソーンが担当する事件の警察側の担当者はカーラ・グランショー警部でかなり押しの強い女性警部だ。表面上は協力的だが、ホロヴィッツの許を訪ねたかと思うとホーソーンが事件の捜査に関わることを苦々しく思っていることを口汚く述べて、ホロヴィッツを脅し、逆にホーソーンの知り得た情報をリークするようにスパイ役を命じる。 ただこの警部は単に上昇志向が強いだけでなく、独裁志向も強く、とにかく自分が一番に自分の意に沿わない場合は傍若無人に振舞う。『刑事フォイル』の撮影許可も簡単に取り下げて、ドラマスタッフを狼狽えさせるし、スパイの働きが悪ければ書店ではホロヴィッツのカバンの中に未精算の本を忍ばせ、万引き犯扱いし、書店との関係を悪化させようとする。まさに悪漢警察そのものだ。 特に私が面白いと感じたのはこのホーソーンシリーズをホロヴィッツは自身のホームズシリーズにしようと思っているらしく、その場合、謎に包まれたホーソーンの過去や私生活を徐々に明らかにするには固定した警察側の担当、ホームズ譚におけるレストレード警部やエラリイ・クイーンに対するヴェリー警部と定番の警察官がいたため、彼としては前回登場したメドウズ警部を望んでいたのだが、現実の事件捜査ではそんなことは起きないことを吐露している点だ。 この辺がリアルと創作の歪みを感じさせ、いわゆる普通のシリーズ作品にありがちな固定メンバーによる捜査チームの確立を避けているところにホロヴィッツのオリジナリティを感じる。 他にもワトソン役であるホロヴィッツ自身の扱いが非常に悪く書かれており、警察の捜査に一作家が立ち会うことについて警察が面白く思っていないこと、また自分の捜査の実録本の執筆を頼んだホーソーン自身でさえ、彼の立場を擁護しようとしないこともあり、本書におけるホロヴィッツは正直少年スパイシリーズをヒットさせたベストセラー作家でありながらも至極虐げられているのだ。 特に面白いのは彼らが行く先々でホロヴィッツの名前を聞くなり、彼の代表的シリーズ、アレックス・ライダーの名前を誰もがまともに云い当てることができないことだ。これがホロヴィッツとしてのジレンマを表してもいる。 いかにベストセラーを生み出しても所詮ジュヴィナイル作家の地位はさほど高くはならない現実を思い知らされる。それこそが彼がホームズの新たな正典である『絹の家』を著した動機でもあることは1作目の『メインテーマは殺人』でも書かれている。ちなみに今回の事件はホロヴィッツが次のホームズ物の続編『モリアーティ』の構想を練っている時期に起こっている。 この扱いのひどさがワトソン役であるホロヴィッツにホーソーンやグランショー警部を出し抜いて事件を解決してみせるという意欲の原動力となっている。 つまりこのワトソン、実に野心的なのだ。だから彼はワトソン役にも関らず、警察の事情聴取の場でも自ら関係者に質問する。何度も口出しするなと釘を刺されてもいつもついつい質問していしまうのだ。 1作目では彼の不用意な質問が自身を危険な目に遭わせたにも関わらず、彼は止めない。 しかしそれがまた警察の、ホーソーンの不興を買ってさらに関係を悪化させる。 作家の好奇心がいかに疎んじられているかを如実に示しているかのようだ。 物語は1作目同様、さらに複雑さを増していく。 人間関係の網が複雑に絡み、誰もが何か後ろ暗い秘密を持っていることが判明していく。 いやはや本当ホロヴィッツのミステリはいつも複雑で緻密なプロットをしているものだと思わされた。したがって私もなかなかな犯人が絞れないまま、読み続けることになった。 ところでこのシリーズはホロヴィッツの相棒ダニエル・ホーソーンの謎めいたプライヴェートを探るのも1つの大きな謎だ。 1作目では元刑事の職業とは分不相応な高級マンションに住んでいることの解答が得られたが、プラモデルを作るのが趣味でゲイを嫌悪しているという以外まだよく彼のことをホロヴィッツも読者も知らない。 今回は同じマンションの住人たちで開催されている読書会に彼が参加していることが判明する。 さらにその中の1人でインド系のチャクラボルティ家と親しくしており、特に筋ジストロフィーに罹っている車椅子の少年ケヴィンとは親しいようだ。 この事実がしかしホーソーンの驚くべき情報収集の高さの秘密を露呈することになる。 ただ私がこのシリーズを大手を広げて歓迎できないのはこのホーソーンの性格の悪さとマイペースすぎるところにある。彼は常に自分のためだけに周囲を利用するのだ。 冒頭の登場シーンも自分の仕事のためならばドラマの撮影など邪魔するのはお構いなしだし、本書では食事代やタクシー代は全てホロヴィッツに負担させる。まあ、作家である彼はホーソーンの事件を作品化することで全て取材費として経費に落とせるが、それを当たり前のように振舞うのがどうにも好きになれない。 通常ならばアクの強い登場人物、特に主役は物語が進むにつれて好感度を増していくが、このダニエル・ホーソーンは逆にどんどん嫌な人物になっていく。 行く先々で作家と云う微妙な立場で尋問や事件現場に立ち会うホロヴィッツを周囲の誹謗中傷から擁護もせず、ホロヴィッツが口出しをすると自分から依頼したにもかかわらず、この仕事は間違いだった、もう止めた方がいいとまで云ったりする。 また率直な物の云い方、質問の仕方は相対する人物を不快にさせ、協力的だった相手が次第に顔から笑みを消し、退出するよう促すが、ホーソーンは決してそれを聞き入れない。 自分のその時の気分で周囲に当たり、そして自分のペースで物事を運んでは周囲を困らせる、実に独裁的な男である。 しかし今回も手掛かりはきちんと目の前に出されているがあまりに自然に溶け込んで全く解らなかった。ホロヴィッツのミステリの書き方の上手さをまたもや感じてしまった。 そして本書ではシャーロック・ホームズの影響を顕著に、いや明らさまに出している。『緋色の研究』の読書会しかり、作中の期間でホロヴィッツが『絹の家』を発表し、2作目のホームズ物の『モリアーティ』を構想中であることと述べていることもまたホームズ色を強めている一因かもしれない。ホーソーンもあの有名なホームズのセリフを引用したりもする。 1作目においてもホロヴィッツが自分なりのホームズシリーズとしてこのホーソーンシリーズを書いている節が見られたが、本書において作者自身が明らさまにそれを提示していることからこれはもう宣言したと思っていいだろう。 さて私は1作目の感想でこの小説は探偵を探偵する小説だと書いたが、云い直そう。 このシリーズは探偵を探偵するシリーズなのだと。 解説によればシリーズは10冊の予定でその10冊でダニエル・ホーソーンという探偵の謎が明らかになるということだ。1作目の原題が“The Word Is Murder”、2作目の本書が“The Sentence is Death”、つまり1つの単語から始まり、次にそれらが連なって文章になることを示している。それは即ちシリーズを重ねていくうちに物語が連なり、ダニエル・ホーソーンと云う人間が形成されるという意味ではないだろうか。 しかしこのホーソーンと云う男、ホームズほどには好きになれそうにない。今のところは。 このダニエル・ホーソーンをどれだけ好きになるかが今後のシリーズに対する私の評価に繋がってくるだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は前作の『ジェラルドのゲーム』と同じく皆既日食の時に起きた事件の話だ。
アメリカの東西で皆既日食の時に起きた事件を語る趣向のこの2作はしかし厳密な意味ではあまり関連性がない。 本書は章立てもなく、ひたすらドロレス・クレイボーンという女性の一人語りで展開する。 通常こういう一人称叙述の一人語りは短編もしくは中編でやるべき趣向だが、なんとキングはこれを340ページ強の長編でやり遂げたのだ。 まあ、もともとキングは冗長と云えるほどに語り口は長いので、キングなら実行してもおかしくはないのだが。 さて全くの章立てなしで最初から最後まで通して語られる物語はドロレス・クレイボーンという女性が犯した殺人の告白であり、彼女の半生記でもあり、またセント・ジョージ家の家族史でもあるのだ。 そしてふてぶてしい老女の一人語りはなぜ彼女がふてぶてしくなったのかが次第に判ってくる。彼女は理不尽な日々を耐えるうちにふてぶてしさの鎧を身につけていったことに。 前半はドロレスが長年家政婦として仕えていたヴェラ・ドノヴァンとのやり取りが語られる。 ヴェラ・ドノヴァンにはいわゆる彼女なりの流儀があり、それをきちんとこなさないと家政婦の職を首にされてしまう。2度同じミスをすれば給金が削られ、3度目のミスで首になる。その流儀は以下の通り。 シーツを干すときは洗濯バサミは4つではなく6つ使わなくてはならないこと。 焼き立てのパンを出したら置く棚の場所も決められている。 自分のことはミセス・ドノヴァンと呼ぶこと。 浴槽はスピック・アンド・スパンを使って磨くこと。 ワイシャツやブラウスのアイロン掛けの際、襟に糊をスプレーするときはガーゼをかぶせてから行うこと。 揚げ物するときは台所の換気扇を回すこと。 ゴミ缶はゴミが回収されたら近くにいる者が元の所へ戻すこと。その際ガレージの東側の壁に沿って2個ずつきちんと並べ、蓋は逆さまにして載せること。 ドアマットは週に一度ほこりが舞い上げるぐらい叩くこと。そして元に戻すときは必ず“WELCOME”の文字を外から来た人が読める方向に敷くこと、などなど。 特に凄絶なのは彼女の下の世話だ。キングはこの下の世話の戦いだけで20ページも費やす。 3時間ごとにおまるを持っていけばその都度、小を足し、お昼の排泄の時は大も一緒に足すが、なぜか木曜日だけは不規則でヴェラとの頭脳戦だったと延々と語られる。シーツを汚されるのが先か、見事おまるを用意するのが先か。もよおしていない時にあらかじめおまるをするのはヴェラにとっては言語道断。 そんなドロレスの“糞”闘ぶりが延々と描かれるのである。そして最悪なのはまんまと相手に出し抜かれ、痴呆老人の如くシーツのみならず、ベッドからヴェラ自身、そしてカーテンまでが糞まみれになった時もあった、なんてことまでドロレスは告白するのだ。 このヴェラの世話の一部始終を読んで立ち上るのは介護の問題だ。ドロレスが長年やっていたのは裕福な老女の世話でそこには介護の苦しみが描かれている。 そういう意味では介護問題が社会的問題になっている今こそ読まれるべき作品であろう。 しかしドロレスは見事それをやり遂げる。そして22歳で家政婦になってからこれまでずっと彼女に仕えるのだ。 そこには単なる主従の関係を越えた、お互いの秘密を共有した鉄の絆めいたもので結ばれるのだ。 また彼女にはジョー・セント・ジョージと云う夫がいるが、これがキング作品に登場する家族の例にもれず、問題のある亭主である。 暴力亭主であり、定職を持たず、さらには自分の娘にも性的虐待を行うろくでなしである。 彼女はそんな夫との16年の結婚生活の間に3人の子を儲けた。長女のセリーナ、長男のジョー・ジュニア、次男のピート。これらの子供たちもまた父親に対して抱く気持ちは三者三様だ。 まず長男のジョー・ジュニアは暴力を振るい、怒鳴り散らす父親を恐れている。 逆に次男で末っ子のピートはジョーのお気に入りでジョーのように悪びれてそれを痛く気に入られて褒めてくれる父親を慕っている。 一方、娘のセリーナは少し複雑だ。 夫ジョーは家族に日常的に暴力を振るい、それはドロレスも例外ではなく、しばらくは耐えていたが、ある日抵抗してからジョーはドロレスに手出しをしなくなった。 それをたまたま見ていたのがセリーナで彼女はその時に母に脅され、血を流す父を見て可哀想に思うのだ。そして逆にそんなひどいことをする母親を憎み、彼女の代わりに父親に優しくしようと誓う。そして事あるごとにセリーナは父親の傍にいるようになるのだが、彼女が成長するにつれて父親は娘に“女”を感じるようになり、性的悪戯を仕掛けるようになる。 またセリーナは父親からいかに母親がひどい人かを刷り込まれていたので、そのことを母親にも相談できずに次第に家族の中で孤立していくのだ。 ヴェラ・ドノヴァンは次第にドロレスに心を許すようになる。そして時々、日曜か夜中に彼女は妄想に陥る。綿ぼこり坊主が襲ってくるという幻覚に囚われ、ドロレスに助けを乞うことが多くなるのだ。 最初ドロレスはそれが彼女の幻覚でそんな綿ぼこりはないにも関らず、追い払うふりをしてヴェラを安心させる。しかし彼女もまたその幻覚を見るようになる。 綿ぼこり坊主とは綿ぼこりのような生首で、目が両方ともでんぐり返り、口がポッカリ開いて、ギザギザの長いほこりの歯がびっしり生えている化け物だ。このイメージはまさにキングらしい。 そして弱みを見せられるのは相手を信頼をしているからこそだ。ヴェラが弱みを見せた時、ドロレスは彼女にとってなくてはならない存在となった。それはドロレスもまた同じだ。 皆既日食の日を共通項に2つの異なる密室劇を描いたキング。片や脳内会議が横溢した決死の脱出劇、片や1人の女性の記憶で語られる半生記。 その両者の軍配はどちらも地味ならばやはり余韻が深い本書に挙げる。 さてキング作品は数多く映像化されているが、本書もまたキャシー・ベイツ主演で映画化されている。この65歳の老女の一人語りという実に地味なお話がどのように映像化されたのか実に興味深い。なぜなら上に書いたように結構生々しいシーンばかりがあるからだ。 しかしなかなかテレビ放映がないのは現代の放送コードをクリアできないからだろうか。BSあたりで是非とも放送してほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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バラバラ殺人事件ばかりを扱った連作短編集『解体諸因』でデビューした西澤保彦氏はその後特殊な設定の下でのミステリを多く輩出していく。それらは読者の好みを大きく二分し、賛否両論を生むようになるが、作者2作目にしてまさにその特殊設定ミステリ第1弾であるのが本書である。
本書の主人公は山吹みはる。SKGという会社の警備員をしている凡庸とした青年で特徴としては2mに届かんとする巨漢の持ち主。しかし身体は大きいが性格は至って温厚、というかちょっと鈍く、どんな女性も奇麗に見え、また敢えて喋ってはならないことも思わずポロっと喋ってしまう、社会人慣れしていない男である。 しかし彼にはある特殊能力があるのだ。それは話している相手の潜在意識を言語化させることができるのだ。 つまり簡単に云うと山吹みはると話している相手はいつしか自分の記憶の奥底に眠っていた、当時気になってはいたが、そのまま忘却の彼方へと消えてしまったとある出来事を想起させ、案に反してみはるに喋ってしまうことになるのだ。 それは彼と喋ると突然不思議な浮遊感に襲われ、たちまち立て板に水の如く、話してしまう。そして当の山吹みはる当人は相手に異変が起きていることに気付かず、単に話を聞いているだけなのだ。 さらに話し手の方はみはるに話すことで当時の違和感を思い出し、推理を巡らし、相手の隠されていた真意、もしくは当時は気付かなかった事の真相に思い至るのだ。 つまり山吹みはるが相手の話を聞いて事件を解決するわけではなく、あくまで真相に辿り着くのは話し手自身なのだ。つまり山吹みはるは話し手が抱いていながらも忘れていた不可解な出来事を再考させ、新たな結論へと導く触媒に過ぎないのだ。 作中では人は勝負において勝ちたいという願望があるのと同じく負けたいという願望も同時に抱く、それを自己放棄衝動と云い、山吹みはるはその衝動を活発化させる能力を持っていると説明されているが、私としてはもっと解りやすく解釈した。 例えば私の場合、いつもは話そうと思わなかったことを思わず話してしまうことになるのはお酒を飲んでいるときである。思わず酒杯が重なるとついつい口が、いや頭の中の引き出しに掛けていた鍵が開けられ、話し出してしまうことがよくあるが、山吹みはるはそんなお酒のような存在なのだ。 物語の本筋は白鹿毛源衛門の孫娘が高知大学を卒業してもなお高知に留まり、就職した理由を山吹みはるが探ることで、一応長編小説の体裁を取っているが、山吹みはるが遭遇する登場人物たちの抱える過去の不自然な、不可解な出来事が短編ミステリの様相を呈しており、それらが実に面白い。 それらのエピソードの数々は時に忌々しい思い出が思いもよらない善意を知り、逆に胸に仕舞っておいた良き思い出が秘められた悪意を悟らせる。 まさにネガはポジに反転し、ポジはネガに反転するのだ。 そしてこれらのエピソードは次第に蜘蛛の巣に囚われた餌食のように関係性を帯びてくる。 また山吹みはるの能力も万能ではなく、例えば話そうとしていた矢先に他人から話しかけられると意識がそちらに向いて浮遊感は雲散霧消するし、強い意志があればその力に抵抗できるようだ。 一方山吹みはるの登場するメインの物語とは別に1人の少女が登場するfragmentと題されたサブストーリーが節目節目に挿入される。それは一種幻想小説のようで、主人公の少女が慕っていた家庭教師の“彼女”がある日差し入れで持ってきたケーキの箱を開けるとハトの死骸が入っており、その日を境に少女は“彼女”に少しだけ嫌悪感を抱くようになる。そして“彼女”との関係が悪化したハトの死骸をケーキの箱に入れた犯人を捜すことを少女は決意する。 このサブストーリーを間に挟みながら、やがてメインの物語は次第にそれぞれの登場人物たちの繋がりを見せ始める。 本書は日本の本格ミステリの歴史の中でもさほど評価の高い作品ではなく、ましてや数多ある西澤作品の中でも埋没した作品である。しかし個人的には面白く読めた。 それは私がこのような複数の一見無関係と思われたエピソードが最後に一つに繋がっていく趣向のミステリが好きなことも理由の1つだ。 そう、私がこの作品を高く評価するのはデビューして2作目である西澤氏の野心的で意欲的なまでのミステリ熱の高さにあるのだ。それは明日のミステリを書こうとするミステリ好きが高じてミステリ作家になった若さがこの作品には漲っているのだ。 上に書いたように山吹みはるが遭遇する登場人物たちそれぞれのエピソードが1つのミステリとなっている。 この設定が作中のショートショートがメインの殺人事件の解くカギとなっている泡坂妻夫氏の傑作『11枚のとらんぷ』を彷彿させたのだ。 また1つ、私の偏愛ミステリが生まれた。好きなんだなぁ、こういうの。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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カリ・ヴァーラ警部シリーズ4作目にして最後の作品。しかしそれは作者が想定していたシリーズの最後ではない。
既に有名な話だが、作者の交通事故死という不慮の死によって終結せざるを得なくなった最終作なのだ。 但し前作の感想で作者の夭折によって4作で完結となったこのシリーズは起承転結の結に当たる物語になるだろうと私は書いたが、果たしてどのようになっただろうか。 今回カリ達仲間が関わる事件は2つ。 1つはカリ・ヴァーラ自身に起こる数々の嫌がらせ行為の犯人を捜すもの。最初は脅迫状に包まれたレンガがガラスを割って投げ込まれたり、車の窓ガラスが全部割られたりと質の悪い悪戯の様相を呈していたが、やがて車の爆発と犠牲者を生むようにまでエスカレートしていく。 もう1つはカリの噂を聞きつけて訪ねてきたエストニア人の失踪した娘捜しだ。ヘルシンキで秘書の仕事があると云われて入国し、そのまま行方不明になったダウン症の娘の行方を探る。 1つ目の事件は内務大臣によってカリがサウッコの長男から奪った1千万ユーロを引き渡すための脅迫を行った彼の部下ヤン・ピトカネンの仕業だったが、内務大臣に手を引くように命じるも、今度は個人的な恨みでピトカネンは継続し、とうとう1人の犠牲者を生み出すようになる。 もう1つの事件はロシア大使館の人間が関わる人身売買組織が浮上する。カリはロシア大使の妻に接近し、いなくなった娘の行方を突き止める。 しかしこれらの事件はあまりメインで語られない。3作目でもその傾向はみられたが、本書でメインに語られるのは壊れてしまったヴァーラ夫妻の修復と彼らの命を付け狙う権力者たちを一網打尽にする工作の過程だ。 それらの物語は何とも痛々しい。精神的にも肉体的にも。 精神的痛みは何よりもまずあのケイトがカリ・ヴァーラの許を去ってしまうことだ。彼女は前作の事件で夫とその仲間たちを救うために犯人を殺してしまうが、それがもとでPTSDになってしまい、娘のアヌを連れて別居する。 それが前作での結末だったが、本書ではさらにアヌをカリの許において何も云わずアメリカに帰国してしまうのだ。彼女が戻ったのはジャンキーの弟ジョンの許だ。そこで彼女は人を殺めた自分は子供を育てるに相応しくない人間だと自責の念に駆られ、酒浸りの日々を送る。 1,2作の仲睦まじいヴァーラ夫妻を見ていただけにこの展開は何とも痛ましい。3作で確かにこの2人の関係は壊れてしまったのだ。 そしてそんなケイトをなお愛してやまないカリの想いもまた痛々しい。 しかしそれにも増して大怪我を負って不自由なカリとその娘の世話を献身的にする魅力的な美人看護婦、ミロの従妹ミルヤミのカリへの恋もまた痛々しい。 カリ自身も認める魅惑的でまぶしいほどの美人で知的で頭の回転が速く、ユーモアのセンスもあり、慈愛深く、親切で一緒にいて楽しく、そしてセックスアピールがものすごい。こんな完璧な美人であってもカリは妻への操を立てて魅力的を感じても決して抱こうとしない。 彼女はその時誰よりもカリを愛していた女性だったが、その恋は叶わず、涙に暮れる。特に自身の誕生日プレゼントとしてカリに抱いてもらおうと全裸で添い寝しながらも彼女を抱くことを頑なに拒むカリの隣でマスターベーションに耽る姿は何とも痛々しい。 しかし一方で前作で利き腕を犯人によって撃ち抜かれ、一生自由に動かせない障害を負うことになったミロは逆にそれまでの自己顕示欲の強さが前面に押し出されたいわば“大きくなった子供”の状態から大人の落ち着きと自信を持ち、成長した。 そして肉体的な痛さもまた本書は目立つ。 このシリーズはもともと1作目から陰惨な事件を扱い、死体に対する冒瀆的なまでのひどい仕打ちや痛々しい人の死にざまが描かれてはいた。 しかしこの4作目は折に触れ残酷な暴力シーン、殺害シーンが登場し、またはエピソードとして織り込まれる。 例えばピトカネンに雇われてカリのサーブの窓ガラスを割ったバイク乗りの1人をスイートネスは踏みつぶすように膝の裏から蹴りを入れて靱帯や腱を断ち切ればカリは仕込み杖のライオンの牙で脂肪を抉り取る。 スイートネスはイェンナと諍いになり、彼女に鼻を殴られて鼻の骨が折れ、横向きになる。それをカリは自己流でまっすぐにしようとして何度も失敗する。 また本書で初登場するスイートネスの従弟アイの生い立ちもすさまじい。 3歳の時にお菓子を取ろうとしたら母親に鉄のフライパンで叩かれ、手と手首の骨を折り、泣き叫んだところにさらに腹を立てた母親は煮えたぎるお湯にその手を入れて3日間放置したために神経が全て死んでミイラのような腕になってしまう。 このように、さながら流血だらけの残酷ショーのような強烈な描写がいつにも増して多かった。 私は本シリーズ第1作目の感想で作者トンプソンは扱っている題材と生々しいまでの陰惨な死体の状況が描かれていることからジェイムズ・エルロイの影響を多大に受けている感じを受け、このシリーズを「暗黒のLAシリーズ」に準えて、「暗黒のフィンランドシリーズ」にしようとしているのではないかと書いた。 しかしその思いは本書を読み終わった今では少し変化している。 本書はフィンランド・ノワールともいうべき作品であるとの思いは変わらないが、一方でカリ・ヴァーラ警部のビルドゥングス・ロマン小説、つまり立身出世の物語でもあるのだ。 ヘルシンキ警察署殺人課の刑事で犯人追跡中に負った“名誉の負傷”によってフィンランドの一地方キッティラの警察署長となったカリ・ヴァーラは人種差別問題も含むソマリア系映画女優スーフィア・エルミ殺人事件解決を足掛かりに首都ヘルシンキ警察へ返り咲くも、夜勤担当の閑職を割り当てられ、優れたIQを持ち、MENSAの一員でもあるが、自己顕示欲が高く、人の秘密を知ることに執着するサイコパス気味な若手同僚ミロと組まされる。 しかし国家警察長官ユリ・イヴァロから“フィンランドの英雄”アルヴィド・ラファティネンの第2次大戦時のホロコーストの主導者としてドイツ政府からの引き渡しを食い止める任務を極秘裏に与えられ、なおかつゼネコン会社々長夫人殺害事件を担当して、思わぬ政府高官たちのスキャンダルのネタを掴み、さらにその困難な2つの任務をアクロバティックな方法で解決することで長官直々に非合法特殊部隊のリーダーに任ぜられる。それはマフィアらの麻薬取引資金、武器売買の資金を横取りして政治家たちの資金にするために組織された部隊だった。 そしてその部隊でカリは相棒のミロと用心棒的存在スイートネスら3人で次々とマフィアの金を奪い、麻薬不足で抗争が始まれば、自分たちに捜査が及ばぬよう抗争の犠牲者たちを極秘裏に消し去るという汚れ仕事を請け負い、さらにのし上がっていく。そして悪徳実業家ヴェイッコ・サウッコの息子誘拐事件を担当し、事件を解決するが、瀕死の重傷と愛妻ケイトとの別居という代償をいただくことになる。 そして本書ではそれまでの布石が一気に開放される。 作者の夭折によって本書はここまででシリーズを終えることになるが、私はこの結末でいいのではないかと思う。 「亢龍の悔いあり」という言葉があるように、上り詰めた者はあとは落ちるしかないからだ。3作目の結末で別居することになったケイトとの仲も彼女のPTSDからの回復とともに完全ではないが修復され、明るい兆しを孕んで終える本書こそシリーズの「結」に相応しいと思う。 回を重ねるごとにカリ・ヴァーラの任務が重くなり、それにつれ内容も過激になり、それが私生活にも侵食するようになってきた。従って本書のその後のカリ・ヴァーラの人生はさらなる苦難の苦難の道を歩むことになったことだろう。 北欧のフィンランドを舞台にした警察小説として始まったカリ・ヴァーラ警部シリーズは4作それぞれでその趣を変えていった。 特に本書は3作目からその傾向はあったが、事件そのものを語るよりも非合法部隊となったカリ達の悪行とそれによって精神が壊れていくヴァーラ夫妻が中心になり、事件は起こるものの、それらはサブでメインは超えてはいけない線を越えたヴァーラ達がいかに周囲の敵から身を護るかという物語へ移行した。 特に遺作となった本書では自分たちの身を護るために権力者たちを一斉に葬り、もはやカリ・ヴァーラ達は司法の側でなく、組織的な犯罪グループそのものとなった。 いやはや誰がこの展開を予想しただろうか。 そしてこのまま続けていけば必ず物語はさらなる過激さ・過剰さを増し、死人が増えていき、そして彼らの心的ストレスも増えていくことだろう。 夫婦の回復とカリの地位向上という明るい明日が見える結末で物語を終えるのを作者急死という不幸によって迎えることになったのは何とも皮肉としか云いようがない。 願わくば誰も彼らのこの次を書き継がないでおいてくれることを願おう。ここら辺がいい引き際と思うからだ。 カリとケイトのヴァーラ夫妻。 ミロ・ニエミネンにスイートネスことスロ・ボルヴィネン。 そして彼の恋人イェンナ。 彼らの将来が明るいものであることを祈ってこの感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ガンスリンガーシリーズ3作目の本書は前作で新たにローランド・デスチェインの仲間になったエディ・ディーンとスザンナとの邂逅から数か月経った、森で療養中のローランドが彼ら2人にガンスリンガーとしての技術を教えているところから始まる。
そして今回の目的は<暗黒の塔>を目指すとともに1巻で亡くしたジェイク・チェンバーズを再び彼の世界からこちらの世界に引き入れ、仲間にすることだ。 つまり前作で手に入らなかった3人目の仲間こそがこのジェイク・チェンバーズであることが明らかになる。 さてこのジェイク。最初にガンスリンガーの世界に来たときは彼の住む世界、つまり我々の住む世界でガンスリンガーの宿敵<黒衣の男>ウォルター・オディムによって道路に突き出された結果、車に轢かれて亡くなってしまい、そしてローランドたちの世界、今回<中間世界>と称されている世界に移るわけだが、そこでもローランドの<暗黒の塔>を取るかジェイクの命を救うかの二者択一の選択に迫られ、そして亡くなってしまう。 私が第1作目の感想に書いているように、このジェイクという少年がそのまま終わるわけではなく、本書で再び蘇る。中間世界で一旦命を落としたジェイクは再び我々の住まう世界で新たな命を授かり、日常を生きている。 しかし彼には以前自分が双方の世界で亡くなった記憶を持っていた。 この辺のパラドックスについてキングはローランドとエディとの対話で説明がなされる。 一本の人生の線があり、その時々で選択せざるを得ない状況に出くわし、そこで道が2つに分岐するが、それは実は2つではなく、その2つの選択肢と平行に別の分岐点が生まれ、それらが並行している。そして選んだ選択肢の記憶は残しながらも選択によって生まれた別の分岐点、即ち新たな世界に人は亡くなると移行し、再び人生を歩む。しかも一旦自分の世界と<中間世界>での記憶を留めたままに。 昔の映画で『恋はデジャヴ』という何度も同じ日を行き来する男の物語があったが、つまりはそれと同じか。 <中間世界>に来た人間は一旦そこで命を喪うとリセットされ、また別の次元の世界を生きることになる。しかし記憶は留めたままだから、自分が命を落とした事件も知っているのだ。 しかしそれが再び起こるとは限らず、実際、「その日」が訪れた際に死を覚悟したジェイクには結局前回自分を殺したウォルターは現れず、生き長らえる。 ただこういう設定はあまり好きではない。それはある特定の人物を特別視し、いくら死んでも再びどこかの世界にいて同じような暮らしを送るならばそこに死に対する恐怖が生まれないからだ。 したがってキングが描いたのはジェイクの「ここではないどこか」を渇望する心だ。ジェイクは自身が生きている現実世界よりもローランドが<暗黒の塔>を目指す<中間世界>こそ自分の居場所があると確信するようになる。物語の前半は生き死人と化したジェイクが本来いるべき場所<中間世界>に行くまでの物語を濃厚に描く。 このジェイクが<中間世界>に再び舞い戻るシーンは新たな生の誕生のメタファーだ。 例えば彼をこちらの世界に引き入れるためにはその場所を守る妖魔がおり、それと戦っても勝つことはできない。したがってジェイクを引き入れるためにはそれを引き付けていなければならないがその方法がセックスをすることなのだ。 セックスは妖魔の武器であると共に弱点でもあり、その相手をするのがスザンナである。即ちジェイクがこちらに世界に来るまでの間にセックスし続けなければならない。 そしてジェイクが<中間世界>に来るシーンについて作者自身も明確に比喩しているようにそれはまさにお産を象徴している。 我々の世界と<中間世界>とを結ぶドア。その中に入り込み、漆喰男によって<中間世界>への扉をくぐるのを阻まれていたジェイクをローランドが助け、そしてエディがローランドもろともジェイクを引き入れるさまをキングは産婆の役割を果たしたと例える。 つまり1巻で印象的な登場をしながらも特段目立った活躍もせずに消え去った少年ジェイクを再びこの物語に引き戻すことこそがシリーズの新たな生の誕生、即ちこの<暗黒の塔>シリーズの新たな幕開けを象徴しているのだ。 そして本書の後半は<荒地>を横断する高速のモノレール、ブレインを求める旅へと移る。そのブレインはジェイクが彼の世界の図書館で借りた『シュシュポッポきかんしゃチャーリー』に由来する。 このかつてはみんなの人気者だった物云う機関車チャーリーがその後に導入された最新鋭の機関車にその役目を取って代わられ、その機関士もまた配置換えされるが、イベントの日に最新鋭の機関車の異常が発覚し、忘れ去られていた存在だったチャーリーが再び日の目を浴びて再生を果たすこの物語は実在する絵本の話だが、これもまたジェイク自身の再生を象徴しており、そしてこの誰もが親しむ絵本のチャーリーと機関士ボブ、そして喜ぶ子供たちを描いた絵を見てジェイク達は和むどころか狂気を感じ、そして喜ぶ子供たちは無理やり乗せられて知らない場所に連れていかれそうになって泣いていると、全く真逆の受け取り方をする。 そしてそれはそのままキング自身が感じた恐怖の原初体験なのだろう。 我々の世代で人語を解する機関車と云えば『きかんしゃトーマス』だ。だからそれになぞらえて考えれば、確かにどこか不気味なものを感じる。 私が『きかんしゃトーマス』を観たのは幼少時代ではなく、我が子が興味を持ったからで、つまり大人になってから観たのだが、最初は確かに薄気味悪くてどこに可愛さを感じて、これほど人気があるのかが判らなかった。しかし次第に慣れてくるといつしかそんな思いは消え去ってしまっていたのだが、そんな恐怖を大人になっても覚えているのがキングの凄さか。ある意味、自身の子供時代をコミカルに描いた『ちびまる子ちゃん』の作者さくらももこに通ずるものがある。 そしてそのモチーフをそのまま畏怖の対象としてキングはブレインという人語を解する機関車として登場させる。それはさながらスフィンクスのように謎解きに正解しなかったら容易に業火で焼き尽くす恐怖の存在として。 このブレインを始めとする機械たちは二極性コンピューターというものを備えていて、彼が<ラド>の町を制している。そこに住む人間たちの命は彼らによって生殺与奪されているのだ。物語の後半でジェイクを仲間に引き入れようと企む、圧倒的な絶望感を与えるほどの威圧感があるチクタク・マンことアンドリュー・クイックでさえ二極性コンピュータを恐れている。 そしてそれを裏付けるかの如く、<ラド>の町は町を管理しているコンピュータとブレインによって業火が巻き起こり、毒ガスが散布され、そしてそれらの名状し難い恐怖に囚われ、次から次へと自殺していく。それは将来機械に支配された社会の悲惨な末路を示唆しているかのようだ。いやもしくはいつか都会で起こるであろうサリン散布などの毒ガステロへの警告なのかもしれない。 ところで何とも憎たらしい存在として登場する超高速モノレール、ブレインだが、どうにか彼の掛けた謎を解いて車内に入ると最新鋭の技術と設備を備えた乗り物であることが判明する。 私が特に驚いたのは拡大透視装置と呼ばれる最新鋭のヴィジュアルモードだ。それは車体の壁に外の画像を映し出し、あたかも中空にいるかのように錯覚させる技術だ。実はこれは今開発がなされている、ドラえもんの透明マントの実用化ともいわれる光学迷彩技術だ。今導入が考えられている案の一つが自動車の車内の壁に施して外部の様子を見せ、360°死角なしでドライヴァーや同乗者が見れるようにして事故を未然に防げるようにするというものだ。 これをキングが1991年の時点で考えていたとは驚きだ。単なる着想の1つかもしれないが。 しかしキングがこのガンスリンガーシリーズの世界観をどこまで作っていたかは知らないが、私はどうも行き当たりばったりで書き始めたかのように感じる。 描かれている世界観がなかなか頭に映像として浮かばなかった。作者のイマジネーションが共有できないのだ。 特に本書独特の単語の意味を理解するのに記憶を掘り返す必要がある。もしかしたら<暗黒の塔>シリーズ用語集を作る必要があるかもしれない。 例えばようやく本書で最後の仲間ジェイクを得て3人の旅の仲間ができたが彼らのことを<カ・テット>と呼ぶこと。その意味は運命によって結束した人々の集団を指す。 その中の<カ>は1巻では邪な心を抱かされる力のように書かれていたが、正直あまり理解できていない。本書の目的である<暗黒の塔>を目指すにはどうしても通り抜けなければならない荒地は<ドロワーズ>と呼ばれていること ただし最後に登場する荒地の光景を見てスザンナが『指輪物語』の<モルドール>の中心、<運命の亀裂>というのは即ちこのことかと零すシーンでようやく共有できた。 そうそう忘れていた。本書が『夕陽のガンマン』と『指輪物語』に触発されて書かれていたことに。 とにかく今後どのように展開するのか、次巻を待つことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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カリ・ヴァーラ3作目では前作『凍氷』で担当したイーサ・フィリポフ殺害事件の捜査の過程で得た目の上のタンコブ的存在、国家警察長官ユリ・イヴァロの淫らな行為の一部始終を収めたビデオを手に入れ、その代償として彼はユリ・イヴァロの配下で非合法的行動を取ることが可能となった特殊部隊の指揮官に任命されることになった。
その名もなき特殊部隊のメンバーはカリ・ヴァーラを含めて3人。元々彼の相棒だった天才にして倒錯者のミロ・ニエミネンとバーの諍いで出くわした無職の巨漢スイートネスことスロ・ボルヴィネンだ。統率力のあるリーダーに知性豊かな異常者、そして怪力でうわばみのように酒を飲む巨漢。まさに王道の組み合わせといえよう。 そしてこの特殊部隊は犯罪組織の資金をせしめて組織の運用資金とする、窃盗団と変わらぬものだった。但し彼のバックには国家警察長官と内務大臣という巨大な権力の持ち主がいた。 カリは自分の現状を見つめて次のように云う。3か月前はいい警官だったが今では悪徳警官だと。 物語は非合法特殊部隊となった彼とそのチームの日々からやがて移民擁護者の政治家リスベット・セーデルンド殺害事件の捜査、そして実業家ヴェイッコ・サウッコの誘拐され行方不明となった長男アンティの捜索へと移る。 そこに加わるのがフランスの諜報部員アドリアン・モロー。彼はサウッコ直々に息子の捜索を依頼された人物だった。 ただこれらの事件の捜査も語られるが、本書はそれまでの作品と異なり、新たな仕事を与えられたカリ・ヴァーラと彼の部下ミロとスイートネスとの公私にわたる付き合いの様子が色濃く描かれる。 まずカリ・ヴァーラの異動に伴い、彼の身辺もまた変化が起きている。 ようやく彼とケイト夫婦の間に子供が誕生したことだ。前作では前々作で懐妊した双子を流産で亡くすという悲劇から始まったが本書ではアヌと名付けられた愛娘を授かる幸運から始まる。 そして前作の最後に明かされたカリの脳腫瘍は手術によって無事摘出された。そして隠密行動を行う特殊部隊を率いることで、前々作で顔に負った銃創と過去の警官時代に負った膝の傷をも手術し、カリ・ヴァーラは生まれ変わったようになる。 しかしこの手術で前作カリがさんざん悩まされた片頭痛は収まったものの、それと引き換えに彼は大切なものを失ってしまう。 それは妻ケイトと愛娘アヌに対する愛情だ。彼はそれを見透かされないように笑顔を鏡で練習して、普段と変わらぬように振舞おうとする。 最初それは女性全般に対する欲情の減退かと思われたが、ケイトの同僚アイノのグラマラスな肉体に欲情し、そして部下のミロとスイートネスの連れの女性に勃起する。 また暴力に対する抵抗はさらに薄まり、目的のためには手段を選ばなくなる。 麻薬の調達金を横領したことでマフィアの抗争が勃発し、死者が出れば、足取りから自分たちの仕業をばれないように死体を硫酸で溶かして隠蔽し、さらにその運搬に使った車を難題も山奥で全焼させる。また平気で部下のスイートネスに相手を半殺しにさせれば、また自身も仕込み杖で相手の番犬をたたき伏せ、ミロに足を一本切り落とさせたりもする。 ミロは非合法の特殊部隊員という立場を大いに気に入り、その豊富な武器の知識を生かして次々とマフィアからせしめた金で武器を買い漁る。 スイートネスことスロ・ボルヴィネンは自分を雇ってくれたカリに感謝し、用心棒的立場となるが、一方で語学の知識を生かして通訳の仕事も受け持つ。そして彼はまたいとこのイェンナに惚れていて仕方がない。 しかしこれほど巻を重ねるごとに主人公と彼を取り巻く環境が劇的に変化するシリーズも珍しい。 ソマリア人女優の陰惨な殺人事件の捜査を担当することで人種差別問題に巻き込まれながらもどうにか解決する田舎の警察署長だったのが第1作のカリ・ヴァーラだった。 そして第2作ではその事件を足掛かりにして首都ヘルシンキの警察署へ栄転し、そこでまたロシア人実業家の妻殺人事件とナチに加担したフィンランドの英雄の保護というどちらもスキャンダラスな事件に否応なく巻き込まれる一介のヴェテラン警察官となっていた。 そして3作目の本書ではカリ・ヴァーラは国家権力の傘の下で強奪と暴力も辞さない、アンタッチャブルな班を率いる指揮官となっている。 正義の旗印の下で彼が次々と麻薬組織やロシアマフィアからから大金をせしめ、それがさらに街中での彼らの血なまぐさい抗争を生みだせば、自分たちの足取りを消すために抗争で出来た死体を隠密裏に処分する。次から次へと悪徳の奈落へと堕ちていく様が描かれる。 一方でカリは自分が政治家たちの手先となり、自分もまた彼らの仲間に取り込まれようとしていることに気付いて、いざというときのために自分を守るために彼らを貶めるための準備も怠らない。 さて本書の特徴はそれほど詳しく語られることのなかったフィンランドの社会事情や慣習が描かれていることだ。 例えばフィンランドでは医療費が基本的に無料であるのは有名だが、それが例えばカリが今回受ける脳腫瘍摘出手術のような難易度の高い手術であっても無料であると知らされると流石に驚かされる。ただ民間保険に入っていないと入院費を払わされるようだ。 そして本書ではやたらと酒を飲むシーン、そして大酒飲みが登場するが、やはりフィンランドの死因の1位はアルコールとのこと。それなのにヴァップ、つまりメーデーでは朝から晩まで酒を飲んで楽しむ。 そして何よりも本書で色濃く語られるのはフィンランド社会に根強く残る人種差別主義だ。人種差別主義者たちはフィンランドが事あるごとに移民を受け入れたことに腹を立てている。ソマリアからの黒人移民たちのために自分たちの税金が使われていることに憤り、バスの運転手が黒人なら大きな声で罵倒する。しかもそれに年端もいかない子供たちが同調する。 1作目から黒人差別についても書かれていたが、本書はその内容がもっと頻繁に出てくる。事実かどうかは判らないが、人種差別雑誌まで刊行されていたようだ。しかもそれを楽しんでいた人たちが大勢いる。 さて上述したように本書では前作にもまして血と暴力に満ちている。その最たるものが物語のクライマックスだ。 カリは脳腫瘍摘出手術にてケイトと愛娘に対する愛情を失ってしまうが、それを表に出さずに仮面を被って良き夫を演じる。 ケイトはカリを信じてついていくが、次第にエスカレートしていく彼の犯罪まがいの捜査と彼の部下たちが持ち込む物騒な武器や設備、そして不正な窃盗で得たマフィアの軍資金を元手に購入した身分不相応の高級品の数々に精神の均衡を失い、乳幼児を持つ母親であるにもかかわらず毎晩お酒を飲むようになる。 本書はいわば壊れていく物語だった。ヘルシンキという新天地で手柄を立て、さらに待ち望んだ子供を手に入れ、全てが順調と思われた夫婦が夫の異動で壊れていく。 また夫は非合法の任務を任されることで次第に善悪の境が曖昧になり、家庭に武器や最新の捜査設備が持ち込まれ、しかも汚い金がどんどん増え、高級品がどんどん買いこまれて、彼の正義に対する信条が壊れていく。 このシリーズはそれぞれの巻がカリ・ヴァーラとケイトの人生の道行きを描いているようだ。 つまり第1作が起とすれば第2作は承。そして盤石だと思われた2人の愛に転機が訪れる本書は転に当たるだろう。 偶然にして作者の早逝で本書は4作で訳出が途絶えている。つまりこのまま行けば次の4作目がカリとケイトの物語の結に当たることになる。 2人の愛の行方は一体どうなるのか。 危ういながらも献身的にカリについてきたケイトと不器用ながらもケイトを愛してきたカリの夫婦の仲睦まじい風景がこの暗鬱なフィンランドの現状を舞台にした物語のオアシスであるだけに、全てが丸く収まる結末であることを期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Gシリーズ3作目は嵐の山荘物だ。
岐阜県と愛知県の県境の山奥に位置する≪伽羅離館≫という屋敷で密室状態の中、超能力者と呼ばれている館の主、神居静哉が何者かによって殺害される。そして外部は雷雨降りしきる嵐でなぜか外部に通じる扉が鍵も掛かっていないのに開かない状態になる。 その事件に出くわすのが加部谷恵美ら3人と探偵赤柳初郎ら一行と神居静哉を取材に来た新聞記者富沢とカメラマンの鈴本、そして彼らを伽羅離館へ案内する不動産会社の登田達一行だ。 本書では上の密室殺人以外にもう1つ謎がある。 それは超能力者神居静哉が加部谷恵美をアナザ・ワールド、異界へと連れて行った謎だ。それは同じ部屋にいながら互いの姿が見えない、いわば異なった次元もしくは位相に連れていくというマジックだ。同じ部屋にいるのでその部屋にある物は触れられるのだが、他の位相にいる人物が触った者は別の位相の人間には触った者がいないのにひとりでに動いたように見えるのだ。 今までの森作品でも垣間見れたが、このGシリーズでは特に顕著でミステリで解かれるべき謎が全て明かされるわけではない。 密室殺人事件のトリックを解き明かした犀川創平に対し、警察は犯人は誰かと問うが、犀川は知りません、それを探すのが警察の仕事でしょうと一蹴する―この件はかなり笑った―。現実世界では当たり前すぎるが、この当たり前なことを本格ミステリで実践するところに森氏の強かさを感じる。 本書でも登場人物たちが述べるように加部谷恵美、山吹早月、海月及介らが遭遇する事件は押しなべてギリシア文字が関係しており、本書の奇妙なタイトルは被害者神居静哉が死の直前に聴いていたラジオ番組のタイトルに由来する。 この何とも腑に落ちない一連のタイトルの意味―『Φは壊れたね』、『θは遊んでくれたよ』、『τになるまで待って』―は不明なままであるのが本書の特徴であるが、あるいは森氏独特の言語感覚から生まれた言葉に過ぎないのかもしれないと思ったりもする。 そしてシリーズ3作目を読んでこのGシリーズのシリーズキャラクター達が出くわす事件は『四季』シリーズの『四季 秋』から『四季 冬』にかけての真賀田四季の歩みを語る過程に起きた事件の末節に過ぎないのかもしれない。 エピローグでは萌絵の叔母佐々木睦子の前に現れた赤柳初郎の髭を見て彼女は「年季は入っているようだが私の目は誤魔化せない」と述べ、微笑んで去っていく。 この赤柳の正体もおいおい明かされていくことだろう。 最初は何とも読者をバカにしたシリーズだと壁に投げたくなったGシリーズだが、3作目にして作者の狙いが見えてきたように思う。 森作品はシリーズを追うごとにミステリ風味は手を変え品を変え、ヴァラエティ豊かではあるのだが、謎解きの妙味はどんどん希薄になり、寧ろ投げやりになっている感さえ漂う。 ただGシリーズの読み方が3作目にしてようやく解ってきた。謎めいたタイトルについてはとにかくそれぞれの作品の中ではほとんど意味を成していないと理解しよう。 そして事件は十全に解決されないと腹を括ろう。 また真賀田四季の影が常に背景に隠れていると意識しよう。 赤柳初郎にはもっと注意を配ろう。 これら4箇条を念頭に置いて次作に当たろう。 そうすればもっと楽しめるだろうと期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は元々エラリイ・クイーンシリーズに一区切りをつけるために書かれた作品だと云われている。
そのためか本書はクイーン作品史上、解決に至るまで最も永い時間が掛けられている。事件の発生から27年後になってようやく事件の真相が明らかになるのだ。 しかし物語の発端としてはそのさらに25年前から始まる。それはエラリイ・クイーン自身が生まれた年だ。 そう、本書はエラリイが生まれてから1957年当時に至るまで、本書刊行が1958年であるからほぼリアルタイムでの作家生活の道のりと共に歩んだ事件なのだ。 そのような背景もあって本書はそれまでのエラリイ・クイーンシリーズの作品とは思えないほど、ドラマチックな幕開けを見せる。 それは本書のキーとなる人物、若き新鋭の詩人ジョン・セバスチアンの出生の秘密から語られるからだ。 身重の妻とクリスマスの休暇をニューヨークで豪勢に過ごすことにした出版会社社長夫妻が遭遇した自動車事故の悲劇の最中で生れたジョン・セバスチアン。しかし彼は1人息子でなく、もう1人双子の弟がいたのだった。しかしその2人目の子供の出産が妻の命を奪うことになったことで夫は2人目の子を取り上げた老医師夫妻に渡してしまう。そして間もなく当人も事故の後遺症で亡くなり、双子の存在は老医師夫妻のみぞ知ることとなる。 そして四半世紀の月日が流れ、25歳となった遺児ジョン・セバスチアンが実の両親が遺した莫大な遺産を相続するその夜に奇妙な事件が発生する。そしてそこに居合わせるのがこの詩人ジョンの友人でもある、エラリイ・クイーンだ。 そしてこの時まだエラリイは処女作『ローマ帽子の秘密』を刊行したばかりの駆け出し探偵作家なのだ。この事件は彼にとって2番目の、実質的には最初の殺人事件であると書かれている。 つまり作家デビュー間もないクイーンに探偵役を担わせ、刊行前年に解決に至る設定を盛り込んでいることからクイーンの作家生活の裏側で本書の事件もまた進行していたことが明らかにされているのだ。 そしてそれは新人作家エラリイが登場することから原点回帰的な印象をも受ける。 本書はジョン・セバスチアン出生の1905年の出来事、25年後の遺産相続記念のクリスマス・パーティで起こる奇妙な事件、そしてさらに27年後の1957年それら全ての謎が解決するパートの3部構成になっているのだが、原点回帰を思わせる証拠としてなんと第3部に『ローマ帽子の秘密』からの引用という体裁ではあるが、「読者への挑戦状」が付されているのだ。 本書の謎は大きく分けて6つある。 1つは双生児として生まれながら、取り上げられた医師の子として育てられたジョン・セバスチアンの弟の行方。 2つ目はジョン・セバスチアン25歳の誕生日を祝うクリスマス・パーティに訪れた謎のサンタクロースの正体。 3つ目は12夜に亘って行われるクリスマス・パーティに毎夜届けられるメッセージカードとアイテムの意味。 4つ目はそれらを贈る人物は一体誰なのか? 5つ目は図書館で亡くなっていた謎の老人の正体。 6つ目は最終夜にジョン・セバスチアンを殺害したのは一体誰か? そのうち最たる謎は12夜に亘って開催されるクリスマス・パーティに毎夜謎の人物から贈られる謎めいたプレゼントとメッセージカードの意味だ。 第1夜では白檀の雄牛の彫刻と作りかけの人形の家、合金で出来た皮に包まれた駱駝の像。 第2夜では小さなドアとステンドグラスの窓で作りかけの家に合うものだ。 第3夜では鉤のように折り曲げられた釘が、第4夜では小さな木の柵が、第5夜では掌にXの文字が刻まれた石膏で作られた男性の手、第6夜は小さな鞭、第7夜ではなんと作りかけの家のために設えた小さな金魚鉢と小さな本物の魚が贈られる。 第8夜では鋏で胴体から切り離された人形の頭でおまけに片目がつぶられたような模様が書かれている。 第9夜では布で出来た猿の人形、第10夜で第8夜で贈られた人形の頭に上向きの歯が付け加えられていた。そして第11夜ではミニチュアの家の柱につける看板でXの文字が書かれており、そして最終夜の第12夜では最後の一撃と書かれたメッセージカードと共に宝飾がついたナイフがジョンの背中に突き立てられる。 そのいずれもがいつの間にか滞在客が気付かないうちに邸のどこかに置かれている―最後のナイフのみ被害者の背中に突き立てられるが―。 そしてこれら一見何の関係もなさそうなアイテムとカードの内容に若きエラリイ・クイーンは悩まされるのだ。 またしばしば記憶喪失に襲われ、また瞬間移動したとしか思えない状況で出くわすジョン・セバスチアン。常に同じ服を2着揃えており、また時に出版社々長のダン・フリーマンに遺産相続の暁にはもともと父親の会社だった出版社を自分に明け渡すことを申し立て、弁護士のローランド・ペインの女癖の悪さを脅迫のネタにして英文学教授をしている息子に自分の詩集を絶賛されるよう強要したりと黒セバスチアンが現れることの事実からエラリイは彼が実は双子であることを看破するが、ジョン・セバスチアンの出生の秘密の捜査を依頼したクイーン警視とその部下ヴェリーによって双子の弟がいたことは確認できたが、ある事実が判明し、エラリイの推理は敢え無く崩壊する。 これには意外な真相が待っているのだが、正直私はそれは解ってしまった。 あと本書では出版関係の仕事に携わる面々出てくるせいか、やたらと1930年当時の小説などに登場人物たちがやたらと触れているのが目立った。 例えばエラリイが読んでいる小説がバークリーの『毒入りチョコレート事件』であったり、第6夜では年配連中がヘミングウェイの『武器よさらば』、ピュリッツァー賞受賞作品のジュリア・ピーターキンの『スカーレット・シスター・メアリー』、チック・セールズの『スペシャリスト』などを俎上に挙げて文学談議に興じたり、ジョン・セバスチアンの部屋の書棚にレックス・スタウトの『神の如く』が置かれていたり、シンクレア・ルイスという作家についても語ったり、最終の夜でも文学の座談会に興じるなど、かなり頻度は高い。 それだけでなく、1957年に至るまでの時事についても触れられ、さながらクイーン作家生活の追想のような様相を呈している。 そんな意欲作であった本書は最後まで読むに至り、いささか肩肘が張りすぎたような印象を受けた。 真相を知ると時代が、世相が起こした事件であった。 そしてそれはそのまま作者クイーンが歩んできた道のりでもあった。彼が作家生活を振り返ったときにそれまでの歴史的出来事を物語に、ミステリに取り込むことを思いついたのが本書だったのではないか。 しかしこの本書の最後の一行に付された“最後の一撃(フィニッシング・ストローク)”に私は気負いを感じてしまった。 文学に行き、そして言葉に、文字に敏感であったクイーン自身が最後にたどり着いた一撃に関心こそすれ、さほどインパクトを感じなかったからだ。 作者のミステリ熱と読者の私の謎解きに対する熱に大いに温度差を感じた作品であった。 確かに力作である。 後期の作品においてこれほどの仕掛けと演出とそして複雑なロジックを駆使しただけにクイーンコンビの本書にかける意欲がひしひしと伝わった。やはりクイーンはとことんミステリに淫した作家であったのだ。 初心忘れるるべからず。本書はそれを自らの肝に銘じた作品ではなかっただろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『図書館警察』所収の中編「サン・ドッグ」でも触れられていたように本書は長らくキングの数々の物語の舞台となったキャッスルロックの物語である。
ニードフル・シングス(Needful Things)、つまり「必要なもの」とか「必需品」を指す言葉だが、本書における意味はそれぞれの客にとって「無くてはならない物」、もしくは「喉から手が出るほど欲しいもの」である。 リーランド・ゴーントの店は客が集めている物や興味を持っている物、更には小さい頃に欲しくて手に入らなかった物などが置いてあり、客がそれに触れると物に宿った記憶が呼び起こされ、頭の中に映像として浮かび上がる。そしてそれが客の所有欲を掻き立て、欲しくてほしくて堪らない衝動に陥るのだ。 何もかも犠牲にしても構わないほどに。 そんな激しいまでの欲望をゴーントは利用し、客にそれを買わせる。相場よりも破格に安い値段と足らない分を町の住民への悪戯との引き換えに。 そしておかしなことにそれらは喉から出るほど欲しかったものなのに、誰しもが使うことなく、もしくは飾ることも見せることもなくそっとタンスや倉庫の奥にしまうのだ。それを見せることで生れる妬みや嫉み、もしくはそれを横取りされるのではないか、更には壊されるのではないかという猜疑心のため、結局その欲しかった物は明るみに出ることはない。手に入れた者はそれをひっそりと眺め、そして愛でて愉しむだけだ。 これはまさにコレクターの心理だろう。絵画や骨董品のコレクターは稀少品や高価な美術品は飾るのではなく、倉庫に入れて保管するという。もし誰かに披露したかったらわざわざレプリカを作るか購入して飾るのだという。本当に手に入れたい物は皆そんな風に秘密にしておきたいのかもしれない。 しかしそれらはやがて持ち主の心を支配する。欲しい物、ようやく手に入れた宝物は持ち主の執着心を煽り、やがてそこから聞こえる声に従うようになる。 それはリーランド・ゴーントの声で、彼は物に囚われた人たちの心を操るように約束した悪戯をするよう促すのだ。 つまり彼らの手に入れたニードフル・シングはリーランド・ゴーントの依り代であるのだ。 しかしよくまあキングは人の欲望について様々な視点から語るものだと感心した。 喉から手が出るほど欲しい物とは人それぞれによって様々だ。 例えば蒐集家は長らく探し求めていたレア物を目にしてどうしても欲しくなるだろうし、子供の頃の思い出の品を見つけると同様に欲しくなるだろう。 また大ファンのアーティスト関連のグッズもまた垂涎の的であろう。 一方で自分の人生が崩壊しようとしているまさにその時にその状況を打開できるものが現れれば、何を差し置いても手に入れるだろう。 また長年悩まされる病の苦痛を少しでも和らげてくれるアイテムがあれば最初は半信半疑だったとしても実際にその効用を感じれば、もう手放せなくなるだろう。 つまり「喉から手が出るほど欲しい物」の理由は実にヴァラエティに富んでいるのだ。 これら町の人が欲しがるもの、望むものを売る謎の骨董屋≪ニードフル・シングス≫の店主リーランド・ゴーントの正体はキャッスルロックに折に触れ蔓延るフランク・ドッド、クージョ、サド・ボーモントのような系譜に連なる存在だ。 彼は人の心を読み、そしてその人の欲望を、願望を掻き立てる品物を提供することで人の心を操る。そして人の前から姿を消すこともできる能力をも持つ。 そんなゴーントの特殊能力を見抜く力を持った者がいる。その一人が保安官のアラン・パングボーンだ。 彼はキング作品に登場する“きらめき”という特殊能力を持った人物ではない。敢えて云うならば普通の人間だ。しかし彼には保安官の任務に対する忠実さという芯があり、そして怪異を目の当たりにした経験を持つ。 『ダーク・ハーフ』でサド・ボーモントという作家が生み出したもう一つの人格という異形の者を目の当たりにしたことで、彼にはその存在を認識したのだ。つまりリーランド・ゴーントにとって容易に操る事の出来ない、寧ろ自分の正体を見破る恐れのある人物、即ち天敵として立ち塞がる。 人間には2種類あると云うが、私にとってそれは“それを知る者”と“知らない者”だ。 “それ”とは何でもいい。例えば野球をやった者とやったことない者の2種類としよう。この2つの人間の隔たりはごく小さな違いなのだが、実は大きな差がある。プロ野球観戦1つ取っても野球をやった者とやったことのない者の知識の差や肌感覚、勝負の見どころや展開の予想はかなりの差があるのだ。 つまり経験の差ほど大きなものはない。従って怪異を経験したアラン・パングボーンは“それを知っている”がゆえに他者と異なるのだ。 それが如実に出てくるのが最後の対決のシーンだ。 誰しも近隣住民との間に何らかの不平不満を抱いているものだ。それは性格的に合わない、生理的に受け付けないといった本能から由来するものでいわゆる苦手意識から来るものだったり、表層化したいざこざや諍いが今に至って尾を引いていたりと、大小様々だ。 人はそんな負の感情を仮面に隠して世間に向き合い、近所付合いを続けている。 しかし自分に何か不利益なことや謂れのない悪戯といった害を被るとそれが引き金となって潜在下で押し留められていた不平不満が鎌首をもたげたかの如く、頭をよぎり、そして証拠もないのに犯人だと確信に変わる。 もしくは相思相愛だと思っていた関係もたった1枚の写真と手紙で愛から憎しみへと変わる。 または隠しておきたい背徳的な趣味嗜好を明らかにされることで怒りが生まれる。 我々の住む生活圏とはこんな些細な異物で狂う歯車のような微妙なバランスの上で成り立っているのだ。 キングはこの人間たちが持つ感情の機微を実に的確に捉えるのが非常に上手い。 例えば野球カードを集める少年ブライアン・ラスクは稀少なカードを破格の値段で手に入れる代わりにリーランド・ゴーントからウィルマ・ジャージックに悪戯を仕掛けるよう頼まれ、洗濯したシーツに泥を投げつけ、泥だらけにする。 攻撃的な主婦ウィルマ・ジャージックはそれを見て、犬の鳴き声で散々苦情を述べた女性ネッティ・コッブが犯人だと決めつけ、彼女に報復を図る。 幼い頃父親が車のアンテナに括りつけていたキツネのしっぽを手に入れた飲んだくれの労働者ヒュー・プリーストはその代償としてネッティ・コッブに悪戯を仕掛けるよう頼まれる。しかもシーツを汚した報復だとまるでウィルマの仕業であるかのように見せかけて愛犬のレイダーを万能ナイフで刺し殺す。 そしてブライアン・ラスクは再びゴーントに脅迫されるままにウィルマ・ジャージックの家に石を投げつけ、ガラスや家具、電化製品などを破壊する。まるでネッティの報復であるかの如く手紙と一緒に。 そしてそれが引き金になってネッティとウィルマはお互い憤怒に駆られて包丁で決闘し、絶命する。これがゴーントによる仕掛けの最初の犠牲者となる。 上に書いたネッティ・コッブとウィルマ・ジャージックの諍いはほんの一例に過ぎない。 保安官連中と利害関係と正義の狭間でいがみ合っている町の行政委員ダンフォース・キートンは横領の罪を暴かれぬよう次第に皆殺しへのシナリオを描き始めるし、教師のサリー・ラトクリフは同じ教師仲間で恋人のレスター・プラットの浮気現場の写真と手紙を盗み読んで嫉妬の炎を燃やす。 またカトリック派とバプティスト派の宗教の違いによる反目もある。 他にも数々の住民たちの些細で潜在的に抱いていた嫌悪感や怒りをチクリと刺し、増殖させる。 全ての人が全ての人とうまく付き合えるわけではない。複数の人が集まるコミュニティではそりの合う人合わない人がどうしても出てくる。 ゴーントはそんな人間関係の歪みを巧みに利用して全く関係のない客に品物を売る代償として悪戯という形で後押しすることで小さな火種を自らを焼き尽くす業火にまで発展させる。 やがてそんな悪戯が町の住民たちの猜疑心を生み、そして町の暴動を生む。 アメリカで、中国で起きた警察に対する、政府に対する暴動はそれぞれが小さな発端から市を、州を、国中を、そして世界中を巻き込む抗議活動に発展し、そして暴動へとエスカレートしていった。 さてキングは町の人々を、「その日」が来るまでの顛末を濃密に描く。 そのためキングの饒舌ぶりは今回拍車が掛かっている。上下巻ページに亘って語られるこの奇妙な骨董品を中心にした作品には随所にキングの与太話が詰まっている。 例えば新しい店が開店するだけでキングはそういう時の都会と田舎の人々の反応の仕方、もしくは知人が開く場合と外部の人が開く場合の対応などを4ページに亘って語る。 また出戻りの女性で裁縫屋を営むポリー・チャーマーズがキャッスルロックを身重の身で出て行き、17年後に戻ってくるまでの間のことを延々18ページを使って語る。 また保安官アラン・パングボーンの天敵ダンフォース・キートンがかつては生真面目な役人であったが、それまで縁のなかったギャンブルに嵌り、やがて公金を横領してまでギャンブルに染まっていく様を15ページに亘って描く。 そして『スタンド・バイ・ミー』に登場したキャッスルロック一の不良エース・メリルも物語の中盤になって現れる。既に齢四十八となったエースのキャッスルロックを離れ、戻ってくるまでの物語も11ページ費やされる。 つまりキングが選んだ主役はその住民たちだったのだ。 彼ら彼女らはそれぞれそこで生まれ、育った者もいれば、他所から来た者もいる。そして彼ら彼女らは一様に何の問題もなく、それまで生きてきたわけではない。 保安官アラン・パングボーンは町の有名人だった作家サド・ボーモントの奇妙な事件の後、妻と子供を事故で亡くし、哀しみに未だに浸り、そして遺された長男との関係に亀裂が入った状態だ。彼は妻と息子の事故が自分が彼女の状況に、脳腫瘍で頭痛に悩まされていた事に気付かなかったせいだと呵責の念に囚われている。 彼の恋人で裁縫屋を営むポリー・チャーマーズは若い頃の過ちで子供を妊娠し、キャッスルロックを出て行った。その後一人で子供を産み、育てていたが、ベビーシッターの不注意によってアパートが火事になり、子供を喪って町に戻ってきた。そして彼女は慢性的な両手の関節痛に悩まされている。 人は皆物語の主人公だという言葉があるが、キングは本書でまさにその言葉通りに皆が主人公の物語を紡いだのだ。 それを可能にしたのがキングの見事なまでのキャラクター造形の腕前だ。とにかく全てのキャラクターが立っている。 人にはそれぞれ個性と主義、信じる宗教など様々な相違がある。社会はそんな多種多様な人間が形成して創られる。それは人という輪っかが織り成す重なる部分、つまり公約数によってなされている。従ってその重なる部分以外はそれぞれが抱く他との異な部分であるのだ。 それはつまり護るべき自分のテリトリー、不可侵領域と云っていいだろう。そしてそこに土足で踏み入るような行為をした時、人はそれを護ろうとして攻撃的になる。 キングが本書で描いたのはほんの些細なことで人は不可侵領域に押し入り、そして諍いが起きて社会が崩れ去る様だ。 我々の共同体とはなんとも脆い楼閣であるのか。そして物語とは云え、その一部始終を上下巻1,300ページ強を費やしてじっくりとねっとりと見せつけられる後ではやはり人は心底信じあえることはできないのだと痛烈に嘲笑している作者の姿が目に浮かぶようだ。 私はこの作品を読んで想起したのが小野不由美氏の『屍鬼』だ。あの2500ページ強の超大作はキングの『呪われた町』のオマージュとされているが、吸血鬼を彷彿させる屍鬼の登場による外場村の崩壊を描いた濃密さは本書に通ずるものがある。 つまり『屍鬼』は『呪われた町』と本書のハイブリッド小説だったのだろう。 また本書の中で気になった点をいくつか挙げておく。 まずはエルヴィス・プレスリーだ。このエルヴィス・プレスリーは殊更アメリカ人にとって特別な存在であるようだ。クーンツもオッド・トーマスに登場させているくらいだ。 そして彼はキング・オブ・ロックンロールと呼ばれており、通称キングと云えば彼を指すらしい。しかし作者もまたキングと同じであることを考えるとどうもこのプレスリーの扱いに関しては作者自身の潜在下の何かが表出しているように思えるのだが、穿ち過ぎだろうか。 またポリー・チャーマーズがゴーントから買ったアズカの中に入っていた生き物が蜘蛛だったことについて。 この蜘蛛、割れたアズカから出てきたときは小さかったが、その後どんどん大きくなり、猫の大きさまでになってポリーと対決する。 このシーンを読んで想起したのが『IT』だ。デリーを恐怖に陥れた殺人ピエロ、ペニーワイズの正体もまた大きな蜘蛛だった。そして主人公たちは死に物狂いでその蜘蛛を退治するのだ。 尋常ならざるものの正体に2つの作品で蜘蛛を使うあたり、キングにとって蜘蛛というのは最大なる恐怖の対象なのだろうか?確かにキング以外にも蜘蛛は悍ましい恐怖の対象物としてよく扱われるのだが。 さて私は本書に対して思うところがある。 それは本書はキングにとって作家生命の再生の物語でもあったのではないかということだ。 この長らく親しんできたキングが生み出した架空の町キャッスルロックを舞台にしたこの物語はつまり当時スランプに悩んでいたキングが再生を図るための物語であったのではないだろうか。 登場する人物や舞台はそれまでのキング作品で登場したものばかりだ。 そしてキングもまた意識的にそれを作中で謳っている。 本書の前夜祭とも云える中編「サン・ドッグ」に登場するポップ・メリルの話から遡り、『ダーク・ハーフ』でサド・ボーモントと対峙したアラン・パングボーン保安官、彼はその後妻と子供を亡くしている。 『デッド・ゾーン』に登場する連続殺人鬼フランク・ドッドに「スタンド・バイ・ミー」に登場する不良エース・メリルは「刑務所のリタ・ヘイワース」の舞台となったショーシャンク刑務所に入ったこともある。 そして彼が叔父のポップ・メリルが町中に埋めたお宝探しに焦点を当てるのは『クージョ』の舞台はキャンバーの家は廃屋になっている。 つまりそれらキングのキャッスルロック・サーガを意識的に取り上げることでデビュー作と同様の栄光を掴み、作家として更なるステップアップを望んだのではないだろうか? しかし全てを葬り去るために費やした分量はあまりに多すぎた。なぜならデビューの時とは異なり、キングの描いた世界には上に書いたようにキャッスルロックの住民、そしてそれに関わる人物が大勢いたからだ。 とはいえ、やはり上下巻合わせて1,315ページは長かった。 多くのキャッスルロックの住民が登場するが、最後の方はどんな人物なのか解らない者も大勢いたからだ。大量死の中に「その他大勢」と埋没させぬようキングは出来得る限り登場人物の多くに名を、職業を、役割を与えたが私の記憶力では追いつかなかった。 これから読む方はメモを取ることをお勧めしよう。 本書の後には『ドロレス・クレイボーン』、『グリーン・マイル』といった映画化もされた作品が生まれ、復活を遂げている。更にその後また低調期を迎え、2010年代に再び傑作群を物していく。 破壊と再生を繰り返す作家キング。彼がなぜ再び傑作群を発表するようになったのか、本書以降からそれまでの作品の変化を追う興味が湧いてきた。 物語の最後、ゴーントが去る馬車の腹には次のような一文が書かれていた。 “すべては買い手の責任” 何かを手に入れれば何かを喪う。 欲望に駆られて衝動的に買い物をすればそれには大きな代償を支払うことになる。 本書は物欲主義に陥った資本主義に対する警告を促す作品か。それとも単に何でも欲しがる子供たちに向けての説教のための物語なのだろうか。 ともあれ何かを買うときは慎重に考えることにしよう。 でないととんでもない代償を払わされることになる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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カリ・ヴァーラ警部シリーズ2作目の本書では舞台はキッティラからヘルシンキに移り、カリも署長から深夜勤務の新人と組む新参刑事となっている。
今回カリ・ヴァーラが主に扱う事件は2件。 1つは夜勤明け直前に出くわした不倫中カップルの女性の拷問殺人事件。 もう1つは国家警察長官ユリ・イヴァロ直々の命令によるフィンランドの公安警察ヴァルポの生き残りでフィンランドの英雄であるアルヴィド・ラファティネンが第二次大戦時にユダヤ人の虐殺に関わっていたとの容疑でドイツが引き渡しを求めているのを阻止することだ。 通常の殺人事件の捜査とフィンランドの歴史の暗部を探る壮大な事件。しかし通常の殺人事件も被害者の夫が富裕層で国家警察長官ユリ・イヴァロとも親交がある事からコネを使って捜査を妨害するという権力の壁に阻まれる。 さて1作目では日本人には馴染みの薄いフィンランドの国が抱える暗い社会問題が氷点下40度の極寒の地で起きた殺人事件の暗欝と共にやたらに語られていたが、本書では一転してカリの妻ケイトの妊娠のタイミングに合わせて来訪した弟と妹へのガイドの側面もあるのか、フィンランドの文化紹介となっており、トーンとしては明るい。 例えばフィンランドのサウナの習慣。サウナはフィンランド人にとっては無くてはならないものでカリはヘルシンキの自宅に小さいながらもサウナを作ることは決して譲らなかったようだ。 また福祉国家のフィンランドの側面もケイトの妊娠で垣間見れる。フィンランドで出産する母親はマタニティー・ボックスと呼ばれる育児道具一式を無償で貰うか、140ユーロを支給されるとのこと。何とも素晴らしい政策ではないか。 1作目が陰ならば2作目は陽とも云える。 それはケイトの心情がそのまま作品に投影されているかのようだ。 初お目見え作であった1作ではケイトは複合レジャー施設の総支配人という華々しい立場でありながら異国の地で難しいフィンランド語に苦戦し、いつも沈黙を以て接する周囲の人々に対する不平と不満を、初めての妊娠、しかも双子を授かるという幸福な時期でありながらマタニティ・ブルーが前面に押し出されていた。 しかし2作目の本書では同じくケイトは妊娠をしているが、フィンランド一の都市である首都ヘルシンキでの生活とそこで得た高級名門ホテル<ケンプ>の支配人という新たな職で生き生きと勤務する姿が描かれている。 キッティラとヘルシンキの違いは首都であるがゆえに英語を話すフィンランド人が多いことだ。つまりケイトは自分の意思を自分の言葉ではっきりと伝えることができ、そしてそれが周囲にケイトを認めさせているポジティヴな相乗効果をもたらしている。 つまり同じアメリカ人でフィンランドに移住した作者はケイトに自身の心情を映し出し、それが作風にも表れているように思えるのだ。 しかしとはいえ、このシリーズの色調は基本的には暗い。 ケイトの弟ジョンはとにかくどうしようもない愚弟であることが判ってくる。 また妹のメアリはことごとくアメリカの常識で物事を見てフィンランドの習慣や常識を否定的な意見で批判し、そしてアメリカがフィンランドに対して過去に行ってきた支援などを持ち出してアメリカの優位性を誇示してはヴァーラの親類や友人たちの怒りや反感を買う。 ケイトは母親が亡くなった後に彼らの母親代わりとして世話をしてきたが、その変貌ぶりに思い悩むようになる。 もちろんフィンランドの社会問題が一切語られていないわけではない。 例えばヘルシンキはフィンランドの他の地域よりも自殺が多く、年間平均120件ほどの自殺の検視があるとのこと。本書刊行時のヘルシンキの人口が約59万人だから約0.02%の人間が自殺していることになる。 参考までに東京は年間2000人強である。東京の人口が2015年現在で1350万人だから0.015%に満たないからは人口の比率で考えるとやはりヘルシンキは多いようだ。そしてその一因が性的マイノリティの存在で地方から同士を求めてやってくるが希望が打ち砕かれて自殺する者が多いとのことだ。 アメリカの学校内銃乱射事件を後追いするように1989年以降同様の学内銃乱射事件が起きていることだ。ただしアメリカの件数に比べると2008年までに3件と少ないようではあるが、銃社会ではない日本にしてみれば嘆かわしい事件だ。 またフィンランドの歴史の暗部が本書では大いに関わってくることが特徴的だろう。 元々スウェーデン領だったフィンランドはロシアに二度侵攻された際にスウェーデンがロシアに割譲され、そしてロシアはフィンランドのロシア化政策を行うがそれをフィンランドは抵抗し、やがてドイツ軍の援助を借りてソ連を打とうとするが失敗し、ソ連と休戦協定を結んでドイツの追い出しを約束させられ、今度はドイツ軍と戦争する羽目になる。従ってフィンランドにはロシアに嫌悪を示すものとドイツに嫌悪感を示す者たちが存在するのだ。 そしてフィンランドの英雄たちがドイツのホロコーストに加担していたことが判明する。しかも現在英雄と呼ばれている歴史上の人物たちによって下された命令でもあったという衝撃的な事実が判明する―これらは恐らく本書の中でのフィクションだろう―。 いやはや近代史の暗部にはドイツのナチスが関係しているが、フィンランドもまた同様だとは思わなかった。実にこのナチスドイツの闇は濃い。 そんな清濁併せ持つ本書の結末は実に愉快だ。 業の深い人間たち。 どこか精神の箍が外れた人間たち。 そして幼い頃の父親からの虐待に幼き妹の死から始まった事件のみならず自分を取り巻く人々の死。 それらを目の当たりにしながら極寒の地で正しくあろうと奮闘するカリ・ヴァーラ。 これからのカリ・ヴァーラは更に過激さを増しそうで期待よりも不安が勝ってしまうのは単に私の杞憂に過ぎないのだろうか。 とにかく次作を楽しみにすることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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倉知淳氏の数ある作品の中でも名作と呼ばれている本書はいわゆる典型的な“嵐の山荘物”である。
山奥にある買収されたコテージ村に体験宿泊しに来た9人の男女のうち1人に犠牲者が生まれる。警察を呼ぼうにも記録的な猛吹雪で町へ下りる道路は雪崩で寸断され、しかも電話は引かれておらず、携帯電話も所持していない―この辺りは本書が1996年の作品であることを流石に意識させられる―。完全に外部との連絡が断たれた状態の中、第2の殺人が起きる。 そして雪の中に立つ左右2つの道沿いに5つずつ建てられたコテージ。最初の殺人はそのうちの1つで起きるが、足跡は宿泊客の物と犯人と思しき人物が往復した物のみ。そしてなぜかコテージの裏には宇宙人が舞い降りてきたかのようなミステリーサークルのような同心円状の痕跡が雪上に残されている。 更に第2の殺人では被害者は予め誰かが侵入して来たら解るようにドアに糸を張ってもう一方の端をやかんに結び付けて、ドアが開くと糸でやかんが引っ張られて落ち、騒音と共に目覚めるという工作をしながらも殺害されてしまう。ドアの糸は遺体発見者たちによって切られるまでそこにあり、従って犯人は糸を切らずに侵入した可能性がある。 このように実にオーソドックスな本格ミステリである。まさに新本格のお手本のような本格ミステリだ。 更に登場する面々も実にオーソドックスなキャラクター付がなされている。 本書の物語進行役を務めるのは杉下和夫で本書の主人公である。彼は広告会社に勤めるサラリーマンで上司を殴って会社が抱えるタレントのマネージャーを務める部署に異動になるという、マンガやドラマでありがちな流れからタレントの星園詩郎のマネージャー見習い、つまり付き人になった男だ。 そして彼が付き人を務めるタレントの星園詩郎の職業はスターウォッチャーという実にいかがわしい物で、ギリシャ人を髣髴させる彫の深い顔と均整の取れた長身でお茶の間の女性たちのアイドル的存在として人気急上昇の、いわばタレント文化人だ。勿論その名前は芸名で本名は桶谷留吉と実に老人めいているのは秘密である。 最初は星園の、女性たちの視線を意識したいちいち気障な素振りと物云いが気に入らず、一方的に彼を嫌っていた杉下だったが、彼が9年前の大学卒業する年に生まれ故郷の岡山県の片田舎の村で起きた独り暮らしの老人の密室殺人の謎を解き明かすための資金を集まる目的でタレント活動を行っていることを明かされると協力的になる。 この2人が本書の舞台である渡河里岳コテージ村で起きる連続殺人事件の捜査に挑む。 またコテージ村に集まった面々はそこを買収した不動産会社社長の岩岸豪造にその片腕財野政高。 彼らが宣伝のために星園詩郎と同様に集めた人々は売れっ子女流作家の草吹あかねとその秘書の早沢麻子、そしてUFO研究家の嵯峨島一輝に一般人代表(?)の女子大生2人、小平ユミに大日向美樹子ら総勢7名がコテージ村で体験宿泊をする。 本書の最たる特徴は各章の冒頭に作者からの注意書きが付されていることだ。そこにはミステリを解く上でのヒントが書かれている。 例えば冒頭では「探偵役と助手は犯人ではない」と明言されており、更には「不自然なトリックは使われていない」とほとんど推理の幅を狭めるような核心を突いたものまで登場する。 つまり本書はミスディレクションを極力排した形で物語が展開するのだ。 この究極的なまでにフェアである本書はその反面、究極的なまでにミスディレクションに満ちていた本格ミステリだった。 いやはやすっかり騙されてしまった。久々に犯人が明かされた時に「えっ!?」と声を挙げてしまった。そして作者の周到な仕掛けに初めて気づかされ、驚かされるのだ。 してやられた、と。 作者は実に用意周到にミスディレクションを張り巡らせている。 しかしなんという犯人だ。これまでのミステリで最も卑劣な探偵役かつ犯人ではなかろうか。 とにもかくにもまだ本格ミステリにはこのような手が残っていたのかと素直に驚かされ、感心した次第だ。 そしてこの手法は本書唯一無二の物ではないか。もうこの手は誰も使えないのではないか。 実にフェアで独創的かつ斬新な本格ミステリであった。これは確かに末永く読まれるべき本格ミステリである。 本当に普通の本格ミステリなのである、読んでいる最中は。 しかし「普通である事が一番難しい」とはよく別の意味で使われるが、本書もある意味普通であるがゆえに真相を暴くには難しいミステリであろう。 綺麗に騙され、そしてスカッとする、本格ミステリならではのカタルシスを感じさせる作品であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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数あるチェスタトンのシリーズキャラクターにまた1人奇妙な人物が加わった―というよりも彼の描くシリーズキャラクターは全て奇妙奇天烈なのだが―。
ホーン・フィッシャー。通称“知りすぎた男”。本書は彼の出くわす事件を描いた短編集である。 まず彼の自己紹介がてらの1作目「標的の顔」では彼のワトソン役となるジャーナリストのハロルド・マーチとの出遭いで幕を開ける。 知りすぎた男ホーン・フィッシャー初登場の本作は名刺代わりの挨拶的なミステリ。しかし新聞記者マーチと邂逅し、同じ目的地に向かう道すがらに出くわす人々の事を話すうちに彼がかなりの情報通、事情通であることが判ってくる。フィッシャーはその人の過去や経歴、癖や習慣なども知り尽くす、実に謎めいた人物として描かれる。 そして自動車事故と思われた射殺事件。知りすぎた男は即ち知りたがる男でもあった。彼はこの新たに起きた事件の謎を知るために名士が集う屋敷へと赴く。 早くもチェスタトンならではの逆説が堪能できる作品だ。 次の「消えたプリンス」は若かりし頃に出遭った事件の話だ。 本作は軽いジャブのような作品だ。この真相には私も気付いた。これは現代の捜査技術では銃弾の出所が解るだけに成立しない偽装工作だろう。 しかしブラウン神父シリーズもそうだったが、2作目で捜査の側の人間が犯人というのはチェスタトンが好む趣向なのだろうか。確かに意外性はあるが。 次の「少年の心」では再びホーン・フィッシャーはハロルド・マーチと登場する。 かなり物語の背景を掴むのに苦労する、実に解りにくい話なのだが、銀貨が無くなる事件が起き、そしてそれが見つかって、フィッシャーによる謎解きが開陳されて再び読み直すと作者が周到に手掛かりをばら撒いているのが解るばかりか、最初は意味不明だったフィッシャーの言葉が腑に落ちてくる。彼は最初から銀貨が誰がどのように盗んでいたのか知っていたことに気付くのだ。 大人になっても少年の心を持つ、それは即ち大人になり切れないという意味でもある。う~ん、身に摘まされる話だ。 「底なしの井戸」はとあるアラブのオアシスが舞台 船上で殺人事件が起きた時になぜ犯人は死体を海に投げ込まなかったのか?そんな不可解さに似た状況である。そして本作でも大義を重んじて小事を収めるフィッシャーの判断が下される。 それは事件の真相を明かせば英国が底なしの井戸に嵌ったかのようにその威光が失墜していくとフィッシャーは思ったことだろう。 物語の舞台は砂漠から今度は氷の張る池のあるイタリアへ。「塀の穴」はプライアーズ・パークという大きな庭園が舞台だ。 忽然と消えた地主の行方を追う物語。プライアーズ・パークを所有するブルマー卿の許を訪れた面々が仮装パーティと凍った池でのスケートに興じるが、翌朝地主が忽然と姿を消す。訪問客の中には妹の婚約者がおり、彼のことを好ましく思わない兄は彼に喧嘩を吹っかけていたことが解る。 正直この真相はアンフェア極まりないが、本作の狙いはミスディレクションにある。フィッシャーはだれそれが○○によると聞いて、人は自分で調べもせずに納得する。その危険性について述べているのだ。本作のタイトル「塀の穴」は実はまやかしの由来に来ていることを指している。人は権威ある者の言葉や話を真実として信じてしまう教訓から来ていることを考えるとなかなか感慨深いタイトルである。 「釣師のこだわり」は再びフィッシャーとマーチの政治要人巡礼の話だ。 突然亡くなった海運王の死。 しかしフィッシャーはまた動機があるがゆえに犯人ではないと述べる。 正直この内容はわかりにくい。しかしフィッシャーの大局を見つめる目は理解した。 しかし犯人が「塀の穴」と同じ設定なのが気になる。 ホーン・フィッシャーはかつて国会議員に立候補したことがあったらしい。「一家の馬鹿息子」はその時の顛末が語られる。 またも政治がらみの話である。フィッシャーが現在のような人脈を持っているのは彼の一族が広く政界に進出していたからだったことが判明する。そして彼もまたかつて国会議員に立候補し、見事当選したことが明かされる。 その時の選挙運動の顛末を語ったのが本作だが、今の選挙活動とは異なった内容で実に珍妙である。候補者が他の候補者の許を訪れ、共闘を申し入れたり、選挙から身を引くようにと話すのだ。これは主人公フィッシャーの知りすぎたゆえに行き過ぎた行動なのか、それともこのような活動が選挙時には日常茶飯事に行われていたのかは寡聞にして知らないのだが。 またホーン・フィッシャーはヴァーナーがどうやって地所を手に入れたのかも突き止める。 さて本書の最後を飾るのは「彫像の復讐」。 この衝撃の真相はしかし大局を見つめるからだからこそ出来た行動の結果だ。 ホーン・フィッシャー。自ら自身の信念に基づいて自分の人生を捧げた男だった。 “知りすぎた男”ホーン・フィッシャー。本書は彼の登場と退場までを描いた連作短編集だ。 1作目「標的の顔」で初お目見えとなるホーン・フィッシャーは登場する人物の為人、そしてディープな情報まで知っている、謎めいた知りすぎた釣り人として登場する。 そして話を重ねるにつれて彼の氏素性が判明する。彼はかつて当選しながらも一度も国会に行かなかった国会議員であった男であり、彼の親戚一同は政界に進出した上流階級の人物であった。実の兄ハリーは陰の政治家の私設秘書でもう一人の兄アシュトンはインド駐在の高官、陸軍大臣と財務長官を従兄弟に持ち、文部大臣を又従兄弟に持ち、労働大臣は義理の兄弟で、伝道と道徳向上大臣は義理の叔父であり、首相は父親の友人で外務大臣は姉の夫というまさに政治家一族である。 そして数々の事件を解決しながらも決して彼は司法の手に犯人を委ねない。彼は真相を知るだけでそれ以上のことをしないのだ。 それは過去数多の名探偵に見られた傾向であり、いわゆる謎さえ解ければ満足なのだという自己中心的な探偵の1人に思えるが、実は彼は大局観で以って物事を捉える。 例えば1作目の「標的の顔」では釣り師として登場する彼にとって大きな魚は逃がさなければならないという意味深な台詞が活きてくる。 また「底なし井戸」でも英国の威光が衰えるのを憂慮してフィッシャーは敢えて事件を隠匿することを勧める。 なぜ彼がいわばコラテラル・ダメージを重んじるのか。その理由も「一家の馬鹿息子」で明かされる。 ここで彼は必要悪を学ぶのだ。それが最初の短編で彼が述べる「大きな魚は逃がさなければならない」に繋がるのだ。 しかし彼のいわゆる大局観には現代の日本人の常識からみても首を傾げてしまうものもある。 例えば最後の短編「彫像の復讐」でハロルド・マーチがホーン・フィッシャーの忠告に従って彼らの悪行を見逃していたら、いつの間にかイギリス政府はとんでもない輩たちの巣窟になってしまったと云って、数々の悪い噂を並べる。 これらは正直今の時代では政治家生命を失うほどのスキャンダルだが、フィッシャーはそんな噂を持つ彼らを誇りに思うと云う。そんなことをやってまでも頑張っているからだと。 この発言は眉を潜めざるを得ない。我々は彼らを糾弾しようとする友人の新聞記者ハロルド・マーチ側に立つ人間だ。 有識者によれば本書執筆時のチェスタトンは当時の英国政治に不信感と不満を抱いており、その葛藤がフィッシャーとマーチ2人に現れているとのこと。つまり悪を認めながら必要悪として断じないフィッシャーの諦観とマーチが抱く義憤はそのままチェスタトンが内包していた思いなのだろう。 そして本書はまた1つ別の側面を持っている。 それはこのハロルド・マーチという新聞記者の成長譚でもあることだ。 新進気鋭の新聞記者として第1作に登場し、ホーン・フィッシャーと出遭って友人となった彼はフィッシャーの人脈を利用して他の記者では得られない政治家の情報を次から次とスクープし、最後の短編では当代一流の政治記者と云われ、自由な裁量権を与えられた大新聞を預かるまでになる。 彼はいわばフィッシャーによって育てられた、そしてフィッシャーの唯一の友人にまでなった男にまで成長するのだ。 しかし覚悟はしていたが、やはりチェスタトンの紡ぐ物語は衒学趣味に溢れ、なかなか本筋を追うのが難しく、一読目で状況を理解するのは困難で、粗筋を書くために読み直して初めて物語の筋とそして彼が散りばめた含みある言葉の数々が解ってくるし、こうやって感想を書くことで再び本書を紐解き、再構成していくことでこの連作群に込められた作者の意図が見えてくる。 本当の内容を知るために本書はまさに“二度読み必至”な作品なのだ。 そして久々のチェスタトンの短編集はやはり逆説に満ちていた。 1作目の「標的の顔」からそれが堪能できる。 見当違いの的に当てる射撃の下手な人物は名手だからこそ見当違いの的に当てることができた。 人の注目を浴びないように敢えて平凡で戯画化した風貌を選んだ。 2作目以降も例えば次のような逆説が出てくる。 そこにあるから逆に調べない。 明白な動機があるがゆえに犯人ではない。 また色んな警句にも満ちている。 人は人の話を聞いただけでそれが真実であると信じ、決して疑って自分で調べない。そしていつの間にかその誤った情報や言い伝えが真実となる。 自分は誰にも迷惑かけずに自立して生活していると主張する者ほど他人に依存している部分で大きな迷惑を掛けている。 それらの言葉の数々はこの令和の時代でも色褪せない機知に富んだ味わいがある。 またチェスタトンのシリーズキャラクターの特徴として通常の名探偵物が自分の事務所に依頼人が訪れて事件に関与するのに対し、ブラウン神父やポンド氏、そして本書のフィッシャーのように彼の訪問先で事件に遭遇することだ。従って物語の舞台は実にヴァリエーションに富んでいる。 イギリスの荒地の奥にある屋敷、アイルランドの塔、ロンドンのくたびれた礼拝堂跡、アラブの砂漠のオアシス、イタリアの広大な地所、イギリス西部地方の屋敷、などなど。 そして彼が最も活動的になるのが最後の短編「彫像の復讐」だ。 彼は英国を危機から護るために、文字通り東奔西走する。彼が貰草として重要書類を自ら携え、前線へ持っていく。 このフィッシャーの始末の付け方こそチェスタトンが当時の政治家に望んだ姿だったに違いない。 本書はそれまでのチェスタトン作品を読んでいるとミステリとしての謎としては簡単な部類に入るだろう。しかし真相に隠された犯人の真意やフィッシャーの意図は深みに溢れている。 本書は、彼は知りすぎているがゆえに自分の知らないことに興味を覚えるとホーン・フィッシャーの特徴が紹介されている。 しかし彼は知りすぎたがゆえに大局が見えたが、それを伝えるには時間がなかった。知りすぎたがゆえに自ら行動せざるを得なかったのだ。 そして周囲は彼の理解力に追いつかなかったゆえに彼の真意が解らなかった。 ホーン・フィッシャー。彼はチェスタトン作品の中で最も哀しい探偵であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2010年代のミステリ界の最大の収穫の1つとして質の高い北欧ミステリが次々と刊行されてきたことが挙げられる。
そして私もとうとうこのジャンルに手を出すこととなった。 しかし本書が他の北欧ミステリと一線を画すのはフィンランドを舞台にしながら作者はアメリカ人であることだ。 ジェイムズ・トンプソン。彼はフィンランドの妻を持つヘルシンキ在住のアメリカ人作家。数ある北欧ミステリの書き手の中でも異色の存在だ。 まず本書の目新しさはなんといってもそれまで日本人には馴染みの薄いフィンランドを舞台にしており、その風土や気候、文化に国民性が詳しく書かれていることだ。 人口は約550万人だが、暴力犯罪は多く、一人当たりの殺人件数はアメリカの大都市とほぼ同じで近親者による犯行が多い。殺人事件の検挙率95%とかなり高く、犯罪は多いのに死刑制度はない。そのくせ100年以上の中で有罪になった連続殺人犯はたった1人しかいない。 隠れ人種差別者で声高に明らさまに差別用語をまくし立てることはせず、暗黙的に差別する。わざと昇進させず、無関心を装い、蔑視する。 そしてアメリカ人ほど政治について語らない割には投票率は80%と関心は高い。 本書の主人公カリ・ヴァーラはフィンランド人で妻のケイトはアメリカ人でスキーリゾートの経営者をしていたが、フィンランドの会社にスカウトされ、<レヴィセンター>の総支配人となった。そしてそこで出会った警察署長カリと結婚したのだ。そして今彼女は双子の赤ん坊を身ごもっている。 翻って作者ジェイムズ・トンプソンはアメリカ人でフィンランド人の妻を持ち、ヘルシンキに住んでいる。つまり本書の主人公夫婦と作者は表裏一体なのだ。 そしてケイトのフィンランドについてのイメージギャップは我々日本人の読者が抱くものと同じだろう。 それはフィンランドという国のイメージは恵まれた美しい自然に囲まれ、秩序ある生活で国民の幸福度は高いというものだが、アメリカ人の彼女が実際に来てみると人々はあまり語らず、沈黙が多く、何を考えているか解らない無表情である。そして12月半ばからクリスマスまで日の光は差さない、極夜が長く続く。 氷点下が当たり前の環境下では人は無口になるという。日本でも東北の人のズーズー弁は寒さゆえに口をあまり開けずに話すからそのような話し方が生まれたという説もあるように、フィンランド人もあまり話さず、沈黙を以って“察する”のだ。 フィンランドは世界一自殺率の高い国のようで10万人に27人が亡くなっているという。それはやはり対話が少ないからではないか。沈黙は能弁ではないのだ。 更にフィンランドでは産休が105日あり、アメリカ人のケイトはそんなライフスタイルに馴染めずにいる。彼女は数週間産休を取ったら子供を保育所に預けて働くようだ。 この辺は日本人の感覚と似ている。つまりケイトの違和感はそのまま我々日本人の違和感となるのだ。 そんなフィンランドの、キッティラという地方都市で起きた殺人事件が本書のテーマだ。それは黒人映画女優が人とも思えぬ惨たらしい状況で殺害されているのが発見される。 全裸でマイナス40度の極寒の雪の中に半ば埋もれたその遺体は首に紐が巻かれ、身体全体が切り刻まれ、腹には“黒い売女”と蔑みの言葉が刻まれており、頭を金槌のような鈍器で殴られた痕跡もあり、割れたビール瓶が膣の中に挿入されている。そして彼女の両目は恐らくその瓶を使って刳り抜かれたようで、右胸の皮膚も一部切り取られ、遺体の傍に置かれている。 しかも彼女の遺体の周りには手足をばたつかせた跡、俗に“雪の天使”と呼ばれる天使の羽根のような痕跡が残っていた。本書の原題“Snow Angels”はここから採られているようだ。 このあまりに屈辱的な遺体の状況から黒人差別殺人の様相も呈してくる。 そしてほどなく容疑者が上がる。 それは彼女を愛人としていたヘルシンキの富豪セッポ・ニエミでしかも彼は主人公ヴァーラの元妻を奪った男だったという因縁の相手。従って元妻から過去の恨みから冤罪を着せようとしていると罵られ、更にはマスコミにリークさせられ、私怨逮捕の疑いを着せられるのだ。 しかも逮捕の決め手はセッポが遺体を捨てに来た車BMWの330iを持っていた事だったが、なんと彼女は複数の相手と性交を持っており、その相手のほとんどが同様の車種を持っていることが判明し、捜査が進むにつれて容疑者が増えていく奇妙な状況に陥るのだ。 BMWの330iは彼女が出演していた映画で使われた車種であり、彼女にとっても特別な、恐らくはセレブを感じさせる車だったのだろう。 更になぜかこの決して広いとは云えないキッティラで次々と人が死ぬ。 衝撃的なことにカリ・ヴァーラの片腕の部下ヴァリテリの息子ヘイッキが自宅で首吊り死体と発見される。しかも“彼(彼女)にやらされた”というスーフィアの事件に関与したかのような書を遺して。 更に彼のパソコンには女性との性交に溺れているかのような内容と黒人を蔑み、殺害するとまで書いた詩が発見され、ますます事件への関与が色濃くなる。 そして止めはヴァーラの元妻ヘリの死。彼女はヴァーラの妹が溺れ死んだ湖の氷の上でガソリンを溜められたタイヤを胴体に巻かれ、身動きできない状態で生きながら焼かれるという眼を覆わんばかりの拷問によって殺されるのだ。 さて黒人映画女優の死を発端にした本書は彼女の死を巡り色んなテーマが立ち上ってくる。 例えば本書メインの事件であるソマリア人の黒人映画女優スーフィア・エルミの目を覆うばかりにひどく拷問された死体はアメリカのエリザベス・ショートという娼婦が惨殺された事件、通称“ブラック・ダリア”事件を擬えていることでフィンランドの“ブラック・ダリア”としてマスコミに報道されることになる。 もしかしたら作者はこのカリ・ヴァーラシリーズをエルロイの「暗黒のLAシリーズ」に擬えて猟奇的殺人事件を扱った「暗黒のフィンランドシリーズ」にしようとしているのではないかと思った。 そしてヨーロッパ特有の移民問題が本書の事件に絡む。 被害者のソマリア人は90年代にフィンランド政府によって受け入れられたソマリア難民の出だった。雪深き白人の国に突如として5千人以上の規模で流入してきた黒人。そして彼らはフィンランド国民同等の社会保障を受けることになり、それが国民たちの反感を生んだ。 更には混沌とした社会情勢の中で彼らはパスポートがないまま入国した者が多く、従って身分を偽ってそのままフィンランドで暮らし、そして一定の社会的地位と保障を得ているといった歪んだ構造になっているのだ。 つまり一つの事件、一人の死によってヨーロッパ社会問題を浮き彫りにする、ヘニング・マンケルのテーマの衣鉢を継ぐシリーズとしているようにも思われるのである。 そんな様々な要素を孕んだ事件の真相は何とも云えない苦いものだった。 気付けば死者が5人も出た陰惨な事件となった。 これほどまで多くの犠牲者を出した事件となかなか太陽が差さない、氷点下の日が続く極夜は決して無関係ではない。 この鬱屈した時期、フィンランドでは家庭内暴力が頻発する。 サイドストーリーとして街でも評判の荒くれ兄弟ヴィルタネンの従順な母親がとうとう酔いどれの暴力夫を刺し殺す事件が起きる。 更にヴァーラもまた自分の元妻がセッポに奪われた時に彼を殺害しようと思っていたことを告白する。 極寒の氷点下の土地では人が凍死するのは珍しくない。つまり彼らにとって死は珍しいものではなく、ありふれたものなのだ。 おまけに日が差さない極夜は人の心を凍てつかせる。話せば吐息が凍り付くので自然沈黙が多くなる。彼らは察することでコミュニケーションをとるが、それでは十分ではなく、話さないからこそ鬱憤も溜まり、そして死も身近であることから暴力が起き、そして人が死ぬ。 本書の悲劇は終わりなき夜、極夜が招いた悲劇なのだ。 そんな鬱屈した町キッティラ、いやフィンランドを舞台にカリ・ヴァーラとケイト夫婦は今後どうなるのか? 早くも冬の陰鬱なフィンランドの気候に、マタニティー・ブルーも相俟ってケイトはアメリカに帰ることを希望している。まずはその足掛かりとして首都ヘルシンキに、かつてヴァーラが住んでいた街に引っ越そうと計画している。 しかし極寒の地フィンランドであることには変わりなく、カリとケイトのヴァーラ夫妻の将来はまだ山あり谷ありだろう。 49歳という若さで夭折したトンプソンの描くヴァーラ・サーガはわずかに4作。この4作でこの夫妻と彼らを取り巻くフィンランドの事件は何を我々に語るのか。 じっくり味わっていこうではないか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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村野ミロ2作目の本書は失踪したAV女優の行方を追う物。それはレイプ同然に犯される様を撮影された一色リナという女優を探し出し、告発することを目的としたフェミニスト運動家の依頼を受けての物で、その後内容はディープでマニアックなAV業界へと踏み込んでいく。
最近でもAVに騙されて出演させられるレイプ被害が問題になっているが、本書はなんと30年前にその問題を扱った作品である。それほども前に既に問題視されていたのは寡聞にして知らなかった。 作者の江戸川乱歩賞受賞作にして村野ミロ第1作の『顔に降りかかる雨』でも失踪したフリーライターの行方を追う依頼であったが、その捜査の過程でミロはネクロフィリアや性倒錯の世界をモチーフにしたアングラパフォーマンスへと踏み込み、かなりディープでダークな世界を我々に見せてくれたが、本書も同じくこのレイプ被害と思われる理不尽な撮影と自傷行為の様子を淡々と映すといったAV業界の闇を浮き彫りにする。 AVも多々あり、普通AV女優が出ているものから、素人ナンパ物、そして特殊な趣味嗜好に特化した企画ものまで様々だ。その裾野は幅広く、全てを網羅するのは困難だろう。従って星の数だけAVがあれば星の数ほどAV女優もおり、そして1作のみで終わる女優未満のモデルもゴマンといる。本書に登場する一色リナもそんな泡沫モデルの1人である。 さて本書を一言で表すならばそれは“今を生きようと足掻く女たちの物語”だったことだ。 本書に出てくる女性たちは様々で主人公の村野ミロはじめ、依頼人の渡辺房江、彼女がレイプ被害を訴えるための神輿としようと考えているAVモデルの一色リナ。そして渡辺の活動を陰ながら支援するセレブの料理研究家八田牧子。 四者四様の女性たちの生き様がミロの捜査で語られる。そして彼女たちの印象はミロの捜査の成り行きでガラリと変わってくる。 まず依頼人の渡辺房江。最初彼女の印象は猪突猛進の、自分の目的のためには利用できるものは何でも利用する旺盛な活動家という印象で現れる。 彼女は己の正義、つまりAV撮影と称してレイプ被害に遭っている女性たちを救おうと奮闘し、何が何でもその生き証人として一色リナを探し出して訴訟を起こしたいと考えている。それは自身と経営する弱小出版社の名を高らしめることも想定してのことだ。つまり半ば売名行為でもある。 そしてその熱心さはミロの捜査の妨げになる。 しかし次第に彼女の行為は熱意が裏目に出ただけのことだと解る。強かな女性だと思っていた渡辺は、ミロが単に一色リナという女性を捜し出すことが依頼内容であり、そこから一色リナを担ぎ上げて渡辺の活動の協力をする気はないと断言すると態度を軟化させてミロの捜査を支援するようになる。 彼女の支援者八田牧子はテレビにも出演している有名な料理研究家であり、大手ゼネコン社長の妻であり、名門中学に通う2児の子供の母でもあり、全てを手に入れた、多くの女性の理想像とも云われている女性だ。彼女は一色リナが自分の子供だと云って付きまとわれており、自分が出演したAVのビデオテープを送りつけられるなど、半ば脅迫行為を受けており、彼女を探そうとしている渡辺房江に協力してスポンサーとなっているのだ。 一色リナを捜し出すという目的は同じだが、渡辺が一色リナを悲劇のヒロインに仕立て上げようとしているのに対し、八田は彼女を脅迫被害で訴えようとしている。まさに呉越同舟と云った状態であることが判ってくる。 そして彼女たちの依頼を受けて捜査をする村野ミロ。彼女の女性像について語るには後ほどにしよう。 最後の1人は渡辺、八田、ミロ3人の女性が足取りを追う一色リナだ。彼女ほど変幻自在に印象が変わっていく女性も珍しい。 依頼人を反故にして男と寝る女性探偵に自身の身体を傷つけることでしか金を稼げない女性からサイコパスへと転ずる失踪人。これは今までになかった新しい女性探偵小説かもしれない。 しかしこれらの設定からは主人公含め一切共感を生まないことも凄いが。 一方で本書に登場する男たちの印象はどこか薄い。 その中で最も存在感を示すのはミロのアパートの隣人の友部秋彦と一色リナのAVの販売会社クリエイト映像の社長、矢代亘の2人だ。 友部はバツイチのゲイで新宿二丁目でバーを経営している。彼はミロに紹介された弁護士に友人のニューハーフ礼矢の窮地を救ってもらったことが縁で彼女の捜査に協力するようになる。 ミロは友部の男の色っぽさと繊細さに惚れているが、彼とは寝ることすらできない。彼らは隣人愛で繋がっている同志という関係だ。 一方矢代亘はそのカリスマ性で色んな女性を魅了する会社社長で家族を持ちながら六本木の億ションを持ち、そこで気に入った女性と寝たり、自身もAVに出演したりする。肉体美を誇示し、その彼の魅力に敵ながらミロも抗えないでいる。 また他にはミロの父親村野善三がミロの依頼で北海道から上京して捜査に協力するのが新機軸だ。レイバンのサングラスを掛け、ツイードのジャケットに上下黒のシャツとパンツを履き、柄物のシルクベストを着こなすダンディだが、元探偵とはいえ、堅気には見えない風貌で登場する。 逆に探偵がこんなに羽振りのよさそうな格好をしていていい物かと首を傾げてしまうのだが。 そしてもう1人、事件の鍵を握る男性が富永洋平。彼はかつて一世を風靡したロックバンドのボーカリストでソングライターであったが、その後凋落して忘れ去られたアーティストである。 彼は自分の車の中で首を絞められて殺害されたことでニュースに取り上げられ、再び話題に上る。なお本書のタイトル『天使に見捨てられた夜』は彼の往年のヒットソングのタイトルでもある。 この元ロックスターと一色リナが繋がるのが『雨の化石』と呼ばれる謎の土の玉だ。 一色リナの足取りを掴むこの謎めいた土の玉『雨の化石』がミロを真相へと導く。 一色リナは自分の境遇をこの『雨の化石』に擬える。自分も灰に降った雨が固まってできたようなものだと。 そんな女と男の因果が絡み合った事件を地道に紐解いていく村野ミロ。 しかし12年ぶりに再会した彼女に対して、私は当時抱いていた主人公ミロに対する嫌悪感は結局変わらなかった。 女性探偵という物に私がか弱き女性が魑魅魍魎の社会の暗部で孤軍奮闘する姿を先入観として持っているのかもしれないが、この村野ミロは男に対する警戒心が弱いのがどうしても腑に落ちないのだ。 1作目も協力者でありながら敵役であった成瀬に平気で捜査情報をばらす軽率さが目に付いたが、本書でもミロは依頼を受けて探している失踪したAV女優の撮影をした制作会社の代表の矢代亘の放つフェロモンに抗えなくなり、二度も寝るのだ。 心では矢代のことを嫌いながらも彼の屈強な肉体と人を寄せ付けるカリスマ性に魅了され、身体が反応し、自分から求めてしまうのだ。そして仕事は軽蔑しているが貴方のことは好きとまで言葉に出す始末。 この、例え敵であっても女は相手が魅力的であれば寝る、それが女という生き物なの、という村野ミロの倫理観、もしくは作者のメッセージが私には気に食わない。 大人の女の不思議さを演出しているようだが、逆に村野ミロという女性の安っぽさを感じてしまうのだ。 私ならば強がっていても女性は男には弱いことを出すならば、生理的には嫌だが、ミロが求めるのではなく、レイプされる方を選ぶ。そしてレイプされて心が折れそうになっても、それが男の世界で生きていくことを選んだリスクであると立ち直る、そういう女性探偵の方がよほど共感できるのだが。 その嫌悪感はその後物語に大きく作用する。 私は女性探偵物をあまり読んだことないのだが、こんなひどい探偵はいないのではないか? これではただの男日照りの淫乱女である。そしてその事実を警察と実の父親にも知られ、ミロは更に深い自己嫌悪に陥るのだ。 さてそんなミロが屈辱にまみれながらも―自業自得も云えるが―辿り着いた真相は実に意外なものだった。 冒頭述べたように最後に判明するのは今を生きようと足掻いている女性たちの物語だった。 しかし唯一今を足掻いて生きていない女が主人公の村野ミロだ。 隣人のゲイの男に恋をし、叶わぬ恋だと一人で嘆くと、次は依頼人の敵であるAV制作会社の社長と寝る。 自分の本能のみに生きる女で彼女には軸がない。本来自分の規律で生きる探偵が意外なことに本書では最も信念を持っていないのだ。 一方でそんな状況を作ったのがエンタテインメントの世界の住民である事だ。 ロックスターだった富永が当時14歳の鳴滝牧子に手を出したために山川雪江の不幸と八田牧子の忌まわしき過去は始まった。 それは矢代亘が作っているAVが望まれない妊娠をしてしまった女性たちを生んでいる温床となっているとも云える。 登場人物の1人、レンタルビデオの店主がこんなことを云う。 アダルトビデオとは人の不幸を笑う物なんだと。 つまり本書は男たちの欲望で女たちの人生が蹂躙されていると暗に訴えているように思える。 “天使に見捨てられた夜”とは即ち男たちの欲望に蹂躙された女たちの夜だ。 西洋では赤ん坊は天使によって連れられるイメージが描かれているが、なるほど望まぬして得た赤ん坊はまさに天使に見捨てられた存在なのかもしれない。 本書に登場するAV制作会社社長矢代亘の姿はそんな男たちの欲望の権化なのだろう。そしてそんな彼に惹きつけられる村野ミロの姿は過ちを犯そうとしている女性の権化か。 いやはや桐野夏生氏は自ら生み出した探偵にそこまでの咎を負わせるとは何とも手厳しい。そして本書の内容は男性にとっても手厳しい作者からの忠告だ。 しかし男と女がいる限り、この“天使に見捨てられた夜”は必ずある。 判っちゃいるけど、止められないのよ。それが男と女なのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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