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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数902件
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裏表紙の本書の紹介にはスピルバーグによって映画にもなったミュンヘン・オリンピックでのイスラエル選手団惨殺事件の背景を描いた事がメインのように書かれているが、実はそうではない。通称“血まみれの王子”と呼ばれたパレスチナ・ゲリラ“黒い九月”のリーダー、アリ・ハサン・サラメの生涯を70年代に繰り広げられたアラブとイスラエルの対立の時代から詳細に綴ったドキュメントである。
また本書の原題は“The Quest For The Red Prince”、つまり『血まみれ王子の追跡』であり、題名のミュンヘンでの事件は彼の人生における断片にしか過ぎない。明らかにこれは版元である早川書房の、映画に便乗した商業戦略が加味された題名である。 中学・高校と歴史を習ってきたが、なぜか第二次大戦以後の歴史は概要をなぞるだけで詳細に教えられた記憶がない。従って本書で語られる70年代のパレスチナ問題に関しては単純にその単語を知るだけで、どのような物だったのかは今まで知らないままだった。私にとって歴史の空白部分であるその時代を知るのに本書はいい教科書となった。 これは報復の時代に生まれた人間の血の物語だ。 血とは流血も指すが、それ以上にテロリストの息子として生まれた男が引き継ぐ血筋をも指す。 住み慣れた領地の奪い合いがイスラムとユダヤの宗教間の争いのみならず、アラブ人・ユダヤ人の民族間の争い、更には国を跨っての戦争にまで発展していく。そしてそれを利用して己の領土を拡張しようと企むものまで出てくる。 特に驚いたのは第二次大戦においてパレスチナ・ゲリラがドイツ軍と手を組んでいたことだ。確かに双方ユダヤ人を憎んでいたのだから利害は一致する。そして逆にイギリス軍がユダヤ人を利用して軍隊を組織しようとしていた事も今の今まで知らなかった。 これら歴史の暗部とも云うべきイスラエルとパレスチナの血を血で洗う暗闘の日々を詳らかにしていく。 本書の主人公とも云うべきアリ・ハサン・サラメは父親ハサン・サラメの遺志を継いでテロリストとなる。忘れてならないのは父サラメは元々貧困層の出身で彼が成り上がっていくために選んだ手段が暴力だったという事だ。これが発展途上国が抱える闇だろう。 私がいたフィリピンでも銃は簡単に手に入り、たった4,000円の報酬で人を殺す輩が大勢いる。 そんな事実に輪を掛けて驚くのはカリスマ性を持った指導者がいれば、アラブ人は国民全てが残虐の徒と化し、一般市民でも即席の兵士となってユダヤ人を殺すことを全く厭わないということだ。これは文化的な暮らしをしている欧米、日本では全く考えられない事だ。 彼らが憎むユダヤ人のバスが通りかかるとそれを襲撃し、平気で乗客や運転手を八つ裂きにするのだ。なんとも恐ろしい種族ではないか。 中東が危ない危ないと云われているが、それは犯罪者が蔓延っているのと、テロやクーデターのような事件がいきなり起こること、イスラム過激派がのさばっている事などを想像していたが、実は普通に歩いている人々が一瞬にしてみな人殺し集団と化すというのが危険の根源だと悟った。 そして彼らの民族は復讐こそが絶対だという倫理観に捉われているようだ。このほぼ1世紀にも渡る民族間の闘争で犠牲になった一般市民の多いこと。しかもこの闘争の火種は中東だけに留まらず、ヨーロッパまで飛び火し、無垢な命が数多く奪われた。 暴力には暴力を、という非文化的な行動原理、思想が何も生み出さないことをなかなか解らない。単なる動物的な闘争本能で彼らは行動しているだけに見える。唯一無二神という幻想に抱かれ、殺戮を繰り返す狂信的民族、そういう風にしか私には見えなかった。 本書で残念なところはイスラエルとパレスチナを始め、レバノンやエジプトなど中東諸国の当時テロに関わった人間が数多く登場するが、彼らムスリム系の名前はどれもが似たり寄ったりで、どちらがイスラエル側でどちらがパレスチナ側なのか混乱する事が多かった。恐らくムスリム系の名前にはさほどヴァリエーションがないのだろう。数多くのアブーやらムハンマドやらが敵味方の区別なく登場するので、非常に理解に困った。多分半分ほど誤解している部分があるだろう。 前世紀に中東で起こったシオニズム運動に端を発した民族間抗争を総括するのに本書は優れた書物であるといえよう。本書の末尾でも語られているように、第2の“血まみれ王子”は既に生まれている。 オサマ・ビンラディンという新たな恐怖の王にいかにして世界は対抗していくのか。いや、それだけではなく、なぜビンラディンを差し出す人間が現れないのか。 この本を読めばその理由がはっきりと解るだろう。世界の正義は必ずしも1つではないことが。 |
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ローレンス・ブロックのシリーズ物は数あれど、アル中探偵マット・スカダーシリーズと泥棒バーニイ・ローデンバーシリーズこそが2大シリーズキャラクターと云えるだろう。本書は後者の第1作目だ。
まず驚くのはその軽快な筆致。とてもマット・スカダーシリーズと同じ作家が書いたとは思えないほど、軽妙でユニークだ。 特に絶妙なのは会話だ。突然話があらぬ方向に向かうバーニイと、彼を取り巻く人物たちのやり取りは洒落た漫才のようで実に面白い。しかもジョークを持ち味にするキャラクター―例えばネルソン・デミル作品のジョン・コーリー―にありがちな嫌味が全くなく、逆にバーニイの人柄の良さが滲み出てくる。 初登場作である本書でバーニイが出くわす事件とは、謎の小男からある部屋に忍び込んで革張りの小箱を盗んできてほしいという物だった。しかし仕事中になぜか巡回中の警察官が部屋に入ってき、しまいには家の主の死体がベッドに転がっていて、バーニイは危うく殺人犯にさせられそうになるという物。 バーニイの小気味良い会話はもちろんながら彼を取り巻く面々もなかなかに面白い。 まず何といってもいきなり潜伏中のバーニイの許に突如現れる美女ルース・ハイタワーことエリー・クリストファーが実にいい。 とにかく指名手配中で外出ができないバーニイの代わりに捜査を買って出て、しかも謎の依頼人探しにあらゆる方面から手を尽くして情報を手に入れる凄腕。しかし何かを隠してバーニイに協力しているところがあって、それが事件の真相に繋がっている。 またバーニイのへらず口として語られる彼の過去の失敗談や逃亡中に間借りする知り合いの俳優についての解説が巧みに事件の要素として関わってくるのは驚いた。単なるエピソードとして読み過ごしていると読者は何のことだっけ?と呆気に取られてしまうだろう。 これは謎の依頼人がハリウッド映画によく出てくる名もない脇役を務める俳優だったことも関係しているのかもしれない。 数ある映画を観ていて見過ごしがちな存在ながらも、ある人やある場面では特定の意味を持った存在となるというのは、この単なるエピソードも事件の重要な情報になり得る、つまり不要な物などはないのだということを暗示しているように私は感じた。 正直第1作目の本書は最初の導入部が実に面白かったせいもあり、途中バーニイが身動きとれずにいる辺りは中だるみを感じてしまったのは否めない。が、さりげない手がかりや伏線と云った意外に本格ミステリな趣向が凝らされており、最後の真相には感心してしまった。 陰鬱で重厚なマット・スカダーシリーズとは対極にあるような軽妙で洒脱なミステリ。この後のシリーズの展開が非常に愉しみ。 しかしなぜこれも現在絶版なのか?どうにかしてほしいものだ、早川書房。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書のテーマはアメリカ大統領選挙戦である。
アメリカの石油不足と年々高騰する原油価格という負のスパイラルを打破すべく、OPECに軍事的介入を辞さないと主張する新進気鋭の議員とOPECと友好関係にある現副大統領との一騎打ちにOPECの議長がその地位の安泰とOPECの地歩を盤石にすべく、アメリカの石油会社の社長と共に新進の議員の失墜を画策するという政治的紛争を描いた作品だ。 そして本書でもナチスが関わってくる。特に本書ではOPECによる石油生産抑制にて価格高騰に苦しむアメリカを背景にした次期大統領選挙戦で次々と相手方のスキャンダルとお互いの政治的活動を引金した種々の事件を引き合いに足の引っ張り合いを繰り広げる精神の削り合いのような攻防と合わせて、かつての栄光を再びと再起を図るノンフィクションライターのクリント・クレイグが次回作の題材にとナチスの元帥ゲーリングの死と彼が指揮したファントム作戦なる、ドイツの各地に隠匿し、今なおその大半が見つからない略奪された欧州各国の財宝や美術品の行方を探る物語が並行して語られるが、クリントのゲーリングに関する取材の内容はこれだけで1冊のノンフィクションが物に出来るような実に深く、しかも面白い読み物となっているのが凄い。 さらにこのゲーリングの謎が本筋である怒涛の攻勢を見せる次期大統領候補の隠された過去に関わってくるのが実に心憎い。アメリカ大統領選挙とOPECとアメリカの争い、そこにナチスの昏い翳を投げかける。 バー=ゾウハーにとって果たしてナチスとはどれほど根深いテーマなのだろうか? しかし1980年に発表された当時ではまだ第二次大戦がそれほど遠い過去ではなく、あの大戦で何らかの任務に携わった人々が当時それぞれの道で功を遂げている、または政界へ乗り出そうとしていること、つまり1980年現在と地続きであったことが知らされ、隔世の感を覚えてしまった。 バー=ゾウハー作品初期のソーンダースシリーズは少ないページ数の中でとにかく場面展開が目まぐるしく、危機また危機の連続で謎が明らかになるごとにさらに別の謎が深まり、実に複雑な事件の構図が最後になって明らかになるというスピード感と国際謀略の奥深さを思い知る内容だったが、本書ではそれらの作品の約1.5倍の分量がありながらも事件の構図は明確で、逆にその目的に向かってタイムリミットが迫るというサスペンスが盛り込まれている。しかも当時の石油問題やアラブ諸国の特異な勢力争いと思想、さらにゲーリングの自殺に纏わる数々のエピソードが盛り込まれ、単純な活劇ではなく、情報小説としての読み応えが実にある。 その中で最もなぜか忘れられないエピソードが本書で初めて知った男性のみならず女性にも割礼の儀式があるアラブの風習。男性のそれと比べて女性へのそれは永遠にオルガスムスへの歓びを剥奪し、姦通に走らないようにするためだと思われるが、しかしあまりに非人道的すぎる。 またOPECが蹴落とそうとする次期大統領候補の1人ジェファーソンがゲーリング殺害に関わっていた疑惑がじわりじわりと濃厚になっていくのが実にスリリングだ。 またジェファーソンの人物像が自信家であり、典型的なアメリカン・エリートの肖像を持っていることも、読者に共感を得るキャラクターとなっていないことで逆にクリントにジェファーソンが悪人であることを証明してほしいという思いにさせられる演出が上手い。それを決定づけるような342ページの1行もまた印象的だ。全くバー=ゾウハーの小説作劇は何とも読者の興趣をそそらされるのだ。 彼に加え、主人公のノンフィクション作家クリント・クレイグ、彼に偶然を装って近づきながら父親ジェファーソンの間者となりながらもクリントに惹かれるという複雑な立場に苦悩するジリアン・ホバースなど本書の数ある登場人物の中で最もミステリアスなのは敵役であるOPEC議長アリ・シャズリだ。OPEC議長と云う現在の地位を固執するために勢いのある次期大統領候補ジェファーソンを目の敵にして蹴落とそうとしながらも、OPEC内部の政治抗争に勝つための手段としてその作戦を利用し、更に目的が果たせないことが分るや、その懐の深さでジェファーソンを取り込み、煙に巻く。さらにアラブ人でありながら民族衣装を身に纏わず、高級スーツに袖を通し、常に身ぎれいに洗練された西洋人然として佇むその造形はどこか作者であるバー=ゾウハー自身を思わせる。 さてカタカナ名詞に二字熟語を重ねた題名はもはやこの頃のバー=ゾウハー作品の代名詞ともなっているが、本書のファントムとは第二次大戦中にナチスのゲーリング元帥が指揮した各国の財宝・美術品の隠匿作戦が<ファントム作戦>と呼ばれていたことに由来する。主人公のクリントが未だにその大半がその在処が不明となっているナチス時代の財宝・美術品の謎を探るノンフィクションを著すためにその痕跡を辿る、まさに邦題は作品のテーマを実に的確に表している。これは訳者の仕事を素直に褒めたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ディーヴァーのシリーズキャラクターと云えば、リンカーン・ライムだが、そのシリーズから派生した、相手の仕草や言動から嘘を見抜く、“人間噓発見器”、キネシクス分析の名手キャサリン・ダンスシリーズの第2作が本書。
このシリーズもライム作品同様、日本のミステリ読者に好評を以て受け入れられ、その年の『このミス』でも9位に選ばれた。 今回のテーマは年々過熱するSNSの書き込みに対する誹謗中傷だ。 ネット炎上という言葉が一般的になって久しいが、匿名性ゆえの舌に衣を着せない、読むに堪えない悪意の塊のような批判がその人の人生を狂わせることも珍しくなくなってきた。 本書でも2ちゃんねるを思わせるチルトン・レポートなるブログが数々のスレッドを立ち上げ、そこから不特定多数の人間が、ある人のご近所で起きた事件について自由気ままに語り、対象者を槍玉に挙げる。さらにそこから更なる中傷が生まれ、拡散していく。そんな騒動の渦中にいつの間にか担ぎ出された人は現実世界でも周囲から嫌がらせを受け、日々の生活に昏い翳を落とすようになる。 まさにネットが生んだ現代的なイジメだ。しかもその範囲が自分の居住圏という限られたコミュニティではなく、世界中に広がっていくのがこの上なく恐ろしい。 またディーヴァー作品に特有の薀蓄は今回も健在。特に『青き虚空』や『ソウル・コレクター』以来、ウェブ社会の現在を反映したような、電脳世界での犯罪を主題にしているが、今回もこの世界での新語について薀蓄が語られる。 ブログ日記を書く人々を“escribitionist”、ブログに書いたことがばれて会社を解雇されることを“dooce”、就職面接で以前の上司についてブログに書いたことがある云々を訊かれる事を“predoocing”と云ったりと様々だ。 しかし2009年に発表された本書で書かれたこれらの言葉が4年後の現代でも生きているかどうかは定かではないので使用については注意が必要なのだが。 また今回はさらに踏み込んでオンラインゲームの世界にもダンスは介入する。容疑者であるトラヴィスが現実の学校生活では冴えないオタクの青年だとみなされているが、ネットの世界、本作に登場するオンラインゲーム『ディメンション・クエスト』では神と呼ばれるほどの有名人であることが判明する。 昨今ではネトゲ廃人なる言語も生まれたように、日がな一日中ゲームの世界に浸って世俗との交流を絶つ者や、ウェブマネーを巡ってのトラブルなど、決してポジティヴに捉えられることのないオンラインゲームだが、ディーヴァーの筆致は決して否定的でなく、寧ろそういう世界の存在を認めている節がある。 しかしまさかゲームの登場人物の戦い方をキネシクスで判断して、性格を把握するとは思わなかったが。 このシリーズの前作『スリーピング・ドール』の感想に私は「物質のライム、精神のダンス」と2つのシリーズの特徴について述べたが、本書では図らずもそれを裏付ける記述があった。 ライムの鑑識能力は物証による推測であるが、ダンスのキネシクスは話す相手がいないと発揮できないのだ。ライムが人物よりも物証を最大に重視するのに対し、ダンスは人を、話す相手を最大に重視する。それぞれのシリーズの特徴が実によく表れている。 しかし前作でも思ったが“人間噓発見器”の異名を引っ提げて『ウォッチメイカー』で登場したダンスの前では誰もが嘘を付けないと思わされていたが、彼女のシリーズになるとなぜかその万能性が損なわれる。特に今回の事件の引き金となっているブログ、チルトン・レポートの主、ジェームズ・チルトンの前で説得を試みるも、逆に云いように操られて逆上するダンスがいて、思わず驚いてしまった。 特にこのシリーズではダンスの過去や生活に筆を割いており、それが逆にダンスを尋問の天才という偶像から、どこにでもいる再婚をどこかで願っている二児の母であることが強調されている。 つまりダンスも冷徹な人間ではなく、間違いもする人なのだということを再認識させてくれるのだ。 本書ではまたもう1つの事件が語られる。それは前作『スリーピング・ドール』の事件で殉職した刑事を安楽死させた容疑でダンスの母イーディが逮捕されるというものだ。この家族に起こった突然の災禍がロードサイド・クロス事件を追うキャサリンの人間性を揺るがす。 そう、今回のダンスはいつにも増して人間臭いのだ。マシーンのような敏腕ぶりを発揮するのではなく、素人にも見透かされ、切り返されるようなミスを犯す。 さらに未亡人である一人の女性として2人の男性に心を揺さぶられる。1人は長年仕事のパートナーとなってお互いを知り尽くしている保安官事務所刑事のマイケル・オニール、そしてもう1人は今回の事件をサポートするために捜査に協力することになったコンピューターの専門家であるカリフォルニア大学教授のジョン・ボーリング。 ダンスが女性であることが、2人の子供を抱えて働く女性であることが父親不在の不安に心惑わされて、それが捜査にも影響を与えていくようにもなる。 しかしライムが感情的になってさえも冷静な頭で数々の証拠物件から犯人を割り出すのに対し、ダンスは感情に突っ走るきらいがあり、それが時に冷静な判断を誤らせているのも確か。特に不意な一報に弱く、常に最悪のケースを想定し、心泡立たせて、焦燥感を駆り立てて、妙な先入観を抱いていらぬ心配をしたり、ヒステリックに怒鳴ったりする。 この辺のギャップに実に戸惑ってしまうのだ。 『ウォッチメイカー』の時の彼女とシリーズに登場する彼女にはその有能ぶりという面ではかなりの格差を感じる。シリーズではダンスは決して万能ではなく、キネシクスの専門家という看板を持ちながらも自身の振る舞いが相手に自分の感情を悟られないように自制しているわけでもなく、また妙な先入観で判断を鈍らせることも一度だけではない。その欠点を補うのが先述のオニールであり、TJやレイ・カラネオなのだ。 さてもはや専売特許ともなったどんでん返しだが、本書でもそれはあった。 最初にこの件を読んだ時は、どんでん返しを強烈にするためのあざとさを感じ、正直ガッカリしたが、読み進むにつれてその妥当性が理解でき、今ではまたもやディーヴァーにしてやられたという思いでいっぱいだ。 ディーヴァー作品の大黒柱的存在であるライムシリーズの犯罪が個人ではなく、もはや不特定多数を標的にしたテロ事件へと次第にスケールが大きくなっているのに対し、ダンスのこのシリーズはまだ2作目と云う事もあるせいか、1人の人間がある個人に対して行った犯罪と、限られた範囲での物語であることが同じ殺人事件を扱いながらも種類の異なる特色になるだろう。 恐らくダンスのシリーズも回を重ねるうちに殺人事件から無差別テロへ発展していくかもしれないが、そうであったとしても物証解析のライム、精神解析のダンスという区分けがある限り、その深みは増すに違いない。 さて今回はウェブ社会がもたらした誰もが情報発信者となり、評論家となり、またはご意見番となるこのご時世に起こる情報による冤罪や苛めについて手痛い警告が成されている。それは悪意をもって誹謗中傷し、騒動を煽るようなことをしてはならないという数億人のブロガーに対する警鐘であると同時に、個人の主観で語られるがゆえに記事を読む人々は決してそれを鵜呑みにせず、自分の頭で判断し、考えることが必要だということをも強く促している。 こうやって読んだ本の感想をウェブで挙げている我々も同じような過ちを犯さぬよう、感想を挙げる時は感情的にならずに、また他者の感想はあくまで参考程度に読むなど、気を付けていきたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アル中の無免許探偵マット・スカダーシリーズ第2作。殺された娼婦と警官の悪行を検察官に売ろうとした悪徳警官のために警官たちの反感を買いながら真相を探る。
誰もが憎む相手の無実を証明しようと奮闘する探偵と云えば、最近ではドン・ウィンズロウの『紳士の黙約』が思い浮かぶ。しかし本書では同書よりも四面楚歌ではない。 ウィンズロウ作品では主人公の許を仲間が一旦離れ、しかも親友が敵となる絶妙な設定だったが、本書では嫌われているのは依頼者であり、主人公ではないため、それほど阻害されているような印象は受けない。 ただとにかくこの本を読むのが今の私には実にマッチしていた。色んな人に捜査を辞めるよう諭されながらも真実を知りたいという一心で妨害に抗い捜査を進めるマットの心情が今の私の心情に重なったのだ。周囲に理解されずとも己の信ずる道を歩むスカダーの姿に今の私を写したように感じた。 またマットが依頼人ブロードフィールドの妻ダイアナと逢瀬を重ねるのが実に興味深い。恋とか愛とかを期待することの無くなった男が一時の迷いから留置場に夫を入れられ、怯える女性にほだされてしまう。それはお互いが孤独を怖れたからだ。 マットは長い孤独に嫌気が差しており、ダイアナは子供を抱えてこれからどうすればいいのか不安に駆られている。そんな状況で生まれた恋情はしかしマットに余計な犠牲者を増やすという過ちを犯させてしまう。酒に溺れるだけでなく、今回は女に溺れることで有力な手がかりを持つであろう男を喪うマットはこのように有能でないからこそ、実存性をリアルに感じさせる。 さらにマットが娼婦エレインと今のような関係になった経緯についても語られている。 元警官が娼婦と懇意になる、このことは確かに悪意ある取引を連想させるが、この2人はそんな下世話な部分とはかけ離れた、純粋に人間同士の付き合いという美しさと潔さを感じていたが、やはりそうだった。 時に一人の客とその相手として、時にそれぞれ一人の男と女として、そして時に友人同士として協力し合う関係。彼ら2人の関係はことさらドラマチックな化学反応があったわけではないのだが、それが逆に私達読者が持つ人間関係の始まりと実に似通っていて、腑に落ちるのだった。 真相と真犯人は実に意外だ。というよりもこの真相を読者は当てることが出来ないのではないか。それほどそぐわないように感じた。 今回はこの素晴らしい邦題を褒めたい。この物語にはこの題名しかないとしか思えない絶妙な仕事だ。 原題は“In The Midst Of Death”、『死の真っただ中に』とでもなるだろうか。これが“Deaths”と複数形ならば今回出てくる3つの死人の中心にある物という意味になるのだろうが、恐らくはそれが正解なのだろう。しかしやはり本書では冒頭マットと出逢い、すぐに死んでいくポーシャ・カーが印象的だからだ。1章の最後でふとこぼれる台詞が非常に強く印象に残るからだ。そしてマットもまた冬を怖れる理由を探る。この実に詩的な謎が本書に深みをもたらしている。 短いながらもこんな風に大人の心の機微を考えさせられる作品だ。そしていまだに私は彼女が怖れた冬とは何だったのかと考えに耽っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書の謎は2つ。
まずは犯罪方法としての物だ。それは衆人環視下における凶器のすり替えはいかにして成されたか? もう1つは催眠術下にある人物は殺人を教唆されたら術者の云う通りに実行するのかという物だ。 まずは後者の謎は本編を彩るガジェットとして使われている。催眠術といういかがわしい代物に懐疑的な人々はその存在をなかなか認めようとはしない。それでは百聞は一見にしかず(なおこれが本書の原題となっている)とばかりに実演してみせることになる。 その内容は催眠術で人に殺人を犯させることは可能かと云うかなり過激な物だ。現代ではそれは不可能とされているが、それと悟られないように指示することで殺人も自殺も可能とされている(宮部みゆきの『魔術はささやく』がそんな話だった)。 カーが巧みなのは、この前段に夫が浮気の末に若い娘を殺害したことを妻が知らされていることが冒頭で読者に知らされていることだ。果たして不貞を働いた夫を妻は許せるのかと云うバックグラウンドを盛り込んで、この催眠術による殺人教唆のスリルを盛り立てている。 その設定から一転、明らかに人を殺せない凶器がいつの間に本物にすり替わって、被験者が皆の目の前で殺人を犯してしまうというショッキングな謎にすり替わるのだ。この辺の謎から謎への移り変わりの巧みさはまさにカーならではだろう。 さて本書のメインとなるこの不可能犯罪、一室に集められた人々の目の前に置いてある凶器がすり替えられたという謎だが、殺人の目撃者が一様に凶器が目の前にあり、誰もそれに触れた者はいないと証言しているとさらに不可能性を強化させていく。そんな実にシンプルかつ難しい謎にどんなトリックがあるのかと実に興味深く読んだ。 そして本書の原題“Seeing Is Believing”は邦訳では前述のとおり、「百聞は一見にしかず」という意味だが、本来ならば最後に“?”が付くことが本書における意味を最も示しているように思う。 見ていることが必ずしも真実ではないのだと、カーは本書に仕掛けられたミスディレクションの数々で示しているように思えてならない。 さてこのシリーズではいつもH・M卿の奇妙な振る舞いがアクセントとしてユーモアを醸し出しているが、本書では口述による自叙伝の内容が実に面白かった。いつもながらH・M卿のドタバタぶりには笑わせてもらえるが、本書も幼年時代の破天荒ぶりには心底笑わせてもらった。 H・M卿を描くカーの筆はいつも躍動感があって実に楽しい。 こんなに楽しい名探偵が活躍する作品群が、そしてこんな本格ミステリの巨匠の作品が数多く絶版だった状況は非常に好ましくない。 カー作品を後世に伝えるためにも今後の永続的な新訳・復刊を望みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は一種変わったクライム小説だ。救急救命士という真っ当な職業に就く人物が主人公であると変化球を見せれば、新宿に蔓延る中国マフィア連中によって翻弄されるいつものパターンもある。そして最後には都知事爆破を企むというクライムノヴェルの様相を呈していく。
しかし根っこにあるのは家族を喪った心に獣を飼う男と貧しくも逞しく生きる、東京に親を剥奪された子供達との適わなかった幸せだ。 この救急救命士の織田と云う主人公は暗黒小説の雄である馳氏の作品とは思えないほど、クリーンだ。昔消防士だった頃に地下鉄サリン事件で妻と子を亡くしたという苦い過去を持つ男だ。 彼は今までの馳作品の主人公のようにドス黒い憎悪の塊や業深き欲望のような負の要素を持たない男でもある。未成年で、しかも日本国籍のないファッションヘルスで働く儚げな美少女笑加を前にしても性的欲求が頭をもたげずに通常通り振舞う。 こんな普通な主人公は初めてではないだろうか? しかしそこは馳氏。作風転換と見せかけてやはり織田は他の馳作品のようにドス黒い感情を孕んだ人物であることが明かされる。 地下鉄サリン事件を契機に日常がいかに危ういバランスの上で成り立っているかを思い知り、疑心暗鬼に陥り、自分の身を守るために武器をまとうようになった。 殺る前に殺る。心に獣を飼いながらそれを押し隠して救命士の職を務めていたが、笑加たちとの出逢いで彼らの不遇とこの世の理不尽さに、鎖で繋いでいた獣を解き放とうとする経過が刻々と語られる。 とはいえ、この織田の情念は今までの主人公たちに比べれば常識人でもあり、我々一般人が一種理解し難い狂気ではないことが特徴的だ。 云いたいことが云えない世の中で誰もが抱えるストレスに近い物を感じ、織田がいつキレるのかを待ち受ける読者はどこか自分を重ねて見ることが出来るようなキャラクターのように思える。 その証拠に織田は道を踏み外そうと決意し、中国人の暗黒街のボス李威の下で犯罪に手を染める手助けをさせられるが、自分がどんな犯罪に加担しているのか知ろうとし、また李威によって利用され食い物にされる人々と接するごとに罪悪感に苛まれる。なかなか悪の道に踏み入ることが出来ない善人なのだ。 これも馳作品では異色のキャラクターと云えよう。 特に織田の人生が破綻していく動機が他者のためであるのが特徴的だ。 今までの馳作品の主人公は己のエゴや黒い欲望のために他人を出し抜き、一攫千金を夢見て、のし上がる、もしくは理想の楽園へ逃れようと実に利己的な動機だったのに対し、織田は親を祖国へ強制送還され、自分たちだけの力で生きていかざるをえなかった明たち不法就労者の残留児たちの生活を守るために、悪事に手を染め、安定した救急救命士という職を擲ち、窮地に陥っていくのだ。 彼が求めたのはかつて持っていた家庭と云う温もりと長きに亘った孤独への別離。明や笑加を筆頭にしたたかにも逞しく生きる子供らとの生活が長く続くことを願ってやまなかったことだ。 従って本書ではそれら壊れやすい貴重な宝石のような物が次第に失われていくような儚さがある。危ういバランスの上で成り立っていた疑似家族と云う幸せという薄氷、その象徴が再生不良性貧血という重病で弱っていく笑加の存在だ。 たった15歳で風俗に身を落とし、生活費の大半を稼いで彼らを養っている母親役の少女。しかしそんな気丈なところがあるようには思えないほどその存在感は儚げなのだ。 彼女の容態の推移が本書の抗えずに向かう悲劇へのカウントダウンとなっている。 さらに文体もまたかつての馳作品とは全く違う。抑制の効いた文章で新宿界隈の忌まわしい事件を語る。その抑えた筆致が逆に新宿の荒廃感を醸し出している。 そこにはラップのようなリズムもなく、刻むような体言止めも存在しない。淡々と事実を、風景を、織田の心情を語る文章があるだけだ。 そしてさらには呪詛の羅列のような唾棄すべき内容の文章だったのが、ここでは織田と笑加、明たち少年たちの交流を瑞々しく描いている点だ。 彼らは生き抜くために犯罪に手を染め、大人を出し抜き、更には自分たちの不遇を呪って都庁爆破と云うテロを企てているという、いわばとんでもないアウトローの集団なのだが、実の素顔は日々不安を抱えて生きている少年少女であり、それが子供と妻を地下鉄サリン事件で亡くした織田にとっては何物にも代えがたい宝石となっているのだ。 その心温まる交流が随所に挿入され、テロを計画するという陰謀とは裏腹に家族愛を感じさせるのが皮肉だ。 まさにこれは馳流大家族ドラマとも云えよう。 そしてその家族愛と双璧を成すのが新宿都庁爆破と云うテロ計画だ。 本書では新宿都庁のセキュリティの甘さが衝撃的に描かれている。展望室へ至るエレヴェーターが実は全ての階に停まり、容易に各階へ侵入できることが書かれている。そしてこれが地下鉄サリン事件を経験し、アメリカの9・11を目の当たりにした国の中枢のセキュリティなのかと警告を発している。 私が件の場所を訪れたのは2011年だったが、その時は本書のような状態ではなく、エレヴェーターにはきちんと案内人が乗っていたように記憶しているが、もしかしたら本書がきっかけで改善されたのかもしれない。 つまり本書は日本のセキュリティの甘さを痛烈に批判する警告の書という側面もあるのだ。 また地下鉄サリン事件という未曽有の都市型テロで家族を喪った織田が、明たちと共に都庁爆破と云うテロに手を染めていくとはなんと皮肉なことだろうか。 テロの仇はテロで返す、そんな不毛な原理主義が実に虚しく響く。 これは家族を守ろうとする一人の男の愛の強さを描いた物語だ。しかし馳氏の手に掛るとその愛の強さはテロをも生むのだ。安定した生活を擲って家族のために犯罪に手を染めていく不器用で愚直な織田に、どこか昭和の男の香りを感じてしまった。 |
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19世紀末から20世紀初頭にかけて一世を風靡した二大奇術師の対決の物語。
しかしそこはプリースト、単純な話にはならず、得体のしれない双子の存在が物語の物陰から見え隠れする。それはまたプリースト特有の、自身の存在、そして住まう世界が揺らぐ感覚でもある。 今回は死んだと思われていた子供が成人して生きていた。さらには世界のどこかにまだ見ぬ双子の兄弟がいるという感覚に付き纏われるという、どこが地に足がつかない感覚が物語を包み込む。 更には稀代の奇術師たちが挑んだ瞬間移動奇術の謎とその因縁が主人公たち2人の男女の現在に纏わるという重層的な構造を持っている。 しかし物語の大半を占めるのはこの2人の奇術師アルフレッド・ボーデンが生前遺した自伝とルパート・エンジャの日記という手記だ。その中心にあるのはそれぞれが発案した瞬間移動奇術の正体だ。 アルフレッドの「新・瞬間移動」は完璧な奇術であり、まずはルパートがその謎を探るべく、彼の許に自分の愛する女性を助手として送り込む。しかしアルフレッド側に寝返った助手の女性から偽の情報を渡されたルパートはそこに書かれたアメリカの発明家ニコラ・テスラの許を訪れ、アルフレッドから全く違う方法で瞬間移動奇術「閃光の中で」を編み出す。 ここからがファンタジーの領域になっていく。 そしてそこから物語は双子、いや二通りのもう一人の自分の存在について語られる。 瞬間移動奇術の謎を解く話がいつの間にか一人の人物の存在というものへの疑問へと変わっていく。 瞬間移動奇術を通じてアルフレッド・ボーデン、ルパート・エンジャという名前を持つ存在は一人の男だけの物なのかを問う物語、というのは大袈裟な表現だろうか。 さらに物語は混迷を極めていく。それはプリースト独特の語り口故に。 語り手は「わたし」という一人称叙述に変わり、これがどの「わたし」を指しているのか解らなくなってくる。さらにはこの「わたし」は自分の死を語り、生者なのか死者なのかも不透明になっていく。 ここで思うのは名前という物の重要性だ。しかし名前という確定要素さえもプリーストにかかれば存在意義を揺るがすものとして扱う。 貴方の名前は誰の物?本当に貴方だけの物だろうか? 貴方の名前を名乗って貴方の人生を生きる存在がいる、などという人は皆無に等しいだろうが、同姓同名の人と出逢って、妙な違和感を抱いた経験がある人はいるだろう。その時に感じる自分の名前を横取りされたような感覚。本書のテーマはその違和感が肥大した物なのかもしれない。 なぜこのように感じるのか? それは2人の奇術師の手記で構成された内容でさえ、作中の登場人物によって改竄させられたものだからだ。 そして驚愕の真相が明かされるのは最終章。 正直この真相は分かりにくい。なぜなら上に書いたようにこの顛末を語るのは誰なのか解らない「わたし」だからだ。 この私はルパートなのか、それともアンドルーなのか最後まで解らないからだ。 プリーストの、存在という基盤が揺らぐ書き方はさらに曖昧になってきている。読者もその理解力を試される作家だと云えよう。 二度目に読むとき、違和感を覚えた記述の意味が解る、二度愉しめる作品の書き手でもある。 しかしこれほど頭を揺さぶられる読書も久しぶりだ。次は読みやすい本でも手にしよう。 後日、本書を原作にした映画『プレステージ』を観たが、複雑なストーリーが換骨奪胎されており、実に解りやすく、かつ傑作だった。本書の場合は最初に映画を観てから読むことをお勧めする。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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傑作『白夜行』の続編と呼ばれている作品。
本書の主人公の1人新海美冬は東京のブティックで働いていた過去を持つ女。この新海美冬が唐沢雪穂であることを仄めかす描写が本書では見え隠れしている。 例えば以前ブティックに勤めていたこと、自分の人生のためには殺人を犯してまでも邪魔者を排除する強い意志、昼間の道を歩くのではなく、夜の道を行けという台詞、美冬が経営する会社の名前「BLUE SNOW」、そして新海美冬とは全く別の人物がいたこと、以前経営していたブティックの名前が「ホワイトナイト」だったこと、などなど。 そしてもう1人の主人公水原雅也は二代目桐原亮司という役割だ。叔父殺しという犯行を美冬に見られた雅也はしかし美冬に脅迫されるまでもなく、美冬の人生を成功させるために影となって働く。 物語は1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災を皮切りに同年3月20日の地下鉄サリン事件、長野オリンピック、2000年問題と世を騒がせた事件を背景に語られる。 『白夜行』が昭和史を間接的に語った2人の男女の犯罪叙事詩ならば『幻夜』は平成の新世紀を迎えるまでの事件史を背景にした犯罪叙事詩と云えよう。 ただそういう意味では本書は『白夜行』の反復だとも云える。史実を交え、2人の男女の犯罪履歴書のような作りは本書でも踏襲されている。違うのは『白夜行』では亮司と雪穂の直接的なやり取りが皆無だったのに対し、本書では雅也と美冬との交流が描かれることだ。 さらに『白夜行』では雪穂と亮司は絆よりも太い結びつき、魂の緒とでも呼ぼうか、そんな鉄の繋がりで人生を共にしていたのに対し、雅也と美冬の関係はちょっと色合いが違う。 雅也は平凡な生活を夢見ているが、殺人を犯した瞬間を見られた美冬という呪縛に運命を握られ、それに抗えずに魂をすり減らす人生を送っている。 つまり美冬は雅也を使役し、雅也は彼女の従者なのだ。 それが故に雅也は美冬に対して絶対的な信頼を置いていない。美冬に惹かれながら、平凡な生活を夢見ている男だ。そして美冬が自分の人生を変えるため、上のステージに上るために雅也を踏み台にし、殺人まで犯させたことに気付くにあたり、雅也は美冬に復讐を誓う。 ここに『白夜行』との違いがある。『白夜行』では男女2人の共生の物語であったのに対し、本書は女王と奴隷の関係にあった男が女王に背反する物語なのだ。 雪穂、すなわち美冬は以前と同じようにまた彼女の前に立ち塞がろうとする女性どもを排除するために男どもを利用するのに同じ方法を用いたが、それは水原雅也と云う男には通用しなかった。 全ての男が美冬の魔性の魅力に騙されるわけではなく、悪はやはり滅びるということを示した作品なのではないか。 結末を読むまで私は上のように考えていた。 本書のタイトル『幻夜』とはすなわち“幻の夜”のこと。それは震災に見舞われ、着の身着のままで雅也と美冬が出逢った夜の事を指す。 あの時雅也は自分の殺人を見られた美冬とはもう逃れられない強い結びつきを感じて、美冬に全てを捧げる決意をしたが、本物の美冬は別人だと知らされ、あの時の夜が幻に過ぎなかった思いに駆られる。 しかしそれでも雅也は美冬を守ろうと決意を新たにする。理屈では割り切れない感情がそこにはある。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
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スキャンダル専門のカメラマン、いわゆるパパラッチの栃尾を主人公にした連作短編集。
最初の「DRIVE UP」では落ち目の女性タレント古谷とすでに忘れられたアイドル歌手佐竹が神妙な面持ちで多国籍料理店で話しているというネタを手にする。 まずは軽いジャブと云った作品。この連作の設定である金貸しの吉井とパパラッチの栃尾の主従関係が形成される導入部的作品。 以後、物語は吉井が取り立てに応じない厄介な客の弱みを掴むために栃尾を利用するという構成が続く。 「DRIVE OUT」では政治の大物重久洋一の孫娘岡本洋子を、「POLICE ON MY BACK」では新宿署の悪徳警官の浅田正次が、「GOING UNDERGROUND」では亡くなった銀行の支店長森脇誠から、。「PRIVATE HELL」では政財界の大物たちが顧客の占い師遠藤和江から借金を取り返すために秘密を探り、そして最後の「SHOULD I STAY OR SHOULD I GO?」では吉井秀人から逃れるために彼の秘密を探る。 吉井の依頼を通じて栃尾が探るこれら顧客の秘密は週刊誌記事で高額で取引される淫靡なスキャンダルの数々だ。 そして標的も落ち目の芸能人と忘れられたアイドル歌手や大物政治家、暴力団を食い物にする悪徳警官、ホモの銀行支店長に、少女買春をする政財界の大物と次第にスケールが大きくなっていく。 判明する事実も行き場の無くなった芸能人たちの醜い争いだったり、近親相姦、ホモのまぐわい、少女買春、更には親殺しと見るも聞くもおぞましい醜悪の極みだ。 また各編の題名は最初の2編以外は主人公栃尾が愛聴するバンドの曲名から取られている。 「POLICE ON MY BACK」はザ・クラッシュの、「GOING UNDERGROUND」はポール・ウェラーの、「PRIVATE HELL」はザ・ジャムの、最後の「SHOULD I STAY OR SHOULD I GO?」は再びザ・クラッシュの曲から取られている。 それらが物語のBGMとしてグルーヴ感を高めている。いや各編に挿入される“Driiiive!”というマンガ的効果音のような単語が物語をシフトチェンジさせ、栃尾の狂気を、出歯亀根性を加速させる。 いや、寧ろ馳氏は物語にロックの持つ躍動感とパンクの放つ破壊的欲望や煽情性を織り込むために積極的に取り込んだのだろう(ただ本書のどこにも著作権使用の断りがないのが気になるが)。 そして面白いのは栃尾がエクスタシーに達するが如く、その覗き見趣味の好奇心が増せば増すほど、吉井への憎悪が募れば募るほど、“Driiiive!”の“i”の数が増えていく。第1編目では4つだったのに対し、2~4編目は6つに、5、6編目は7つに増えていく。 “i”はすなわち“I”、つまり「私」だ。この“i”の数が主人公栃尾の自我が覚醒し、増大するエゴのバロメータを表しているようだ。 本書の中心人物は3人。 スキャンダルこそが自分にエクスタシーをもたらすという覗き見ジャンキーのパパラッチ栃尾と金を取り返すためには他人をとことん利用し、人生を破滅させることも厭わない冷血漢吉井。 この2人は『不夜城』シリーズの主人公劉健一を二分したようなキャラクター造形である。 劉健一は『不夜城』では台湾マフィアのボス楊偉民に云いようにこき使われていたしがない故買屋だったが、その後の『鎮魂歌』、『長恨歌』では影の存在となって人を使い、翻弄する。これはまさに栃尾であり、吉井でもあるのだ。 そしてそこに加わるのが高木舞。3話目の「POLICE ON MY BACK」の標的となる悪徳警官の浅田正次の娘だ。彼女はなんと浅田が親子ドンブリをするために育てられた美少女で、父親に処女を奪われる前に栃尾に体を捧げ、それ以降栃尾の情婦となって付き纏う淫乱女子高生だ。 このように吉井の借金取り立ての相手となる者たちもまともでなければ、主人公たちもとち狂って壊れている。 そんな彼らの関係は近親憎悪とでも云おうか。お互いが忌み嫌っているのに、なくてはならない存在となって依存している。特に吉井と栃尾は先に述べたように劉健一を二分したかのようなキャラクターゆえにお互いが貶めようとしているのに最後はさらに関係は深まって手を組むのだ。 そして彼らは再び秘密を探るため、ポルシェで夜を疾走する。 しかし本書の時代はバブル全盛期。崩壊後の彼らは一体どうなったのか? なんだかんだでこの今でもしたたかに生きているに違いない。 |
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『野蛮なやつら』が還ってきた!
前作で華々しい最期を遂げた彼らの続編はその事件の前日譚。流石に前作に見られたあの鬼気迫る短文と固有名詞の乱れうちのような文体は鳴りを潜めているが、それでも彼ら3人を語るオフビートテイストな、ちょっと特異な文章と短い章で刻んでいくストーリー運びは健在。ちなみに第1章が一行で始まるのもまた同じだ。 その第1章が前作では「ざけんな!」であったのに対し、今回が「あたしとしてよ」だったのには思わずニヤリとしてしまった。 日本語では解らないが、これは前作が“Fuck you!”であり、今回が“Fuck me.”と対語になっているのだ。もうこの1章から一気に彼らの世界に引き戻されてしまった。 今回は二つの軸で物語が展開する。1つは現代の(物語の世界では2005年)ベンとチョンとOの物語が、もう1つは1967年、フラワー・ムーヴメント華やかな時代でのサーファー、ドクが相棒のジョン・マカリスターと共にスタンとダイアン夫妻を交えラグーナに後に“連合”と呼ばれることになる一大麻薬コネクションを作っていくオフビートなビルドゥングス・ロマンが繰り広げられる。 この2つの時代を行き来する物語の仕掛けが解ってくるのは物語の半ばを過ぎてから。ドク、ジョン・マカリスター、スタンとダイアン夫妻、そしてトレーラー生活からその類稀なる美貌でのし上がってきたキムたちが実はベンとチョンとOに密接に関わってくるのが見えてくる。 いわゆる一般市場では市場競争が原則であり、他社の製品よりもシェアを拡大するために品質の追及を行うのが通常だが、麻薬市場は自分たちのシェアを拡大するために常に裏切りと買収、そして自分の地位を脅かす者の排除と非常にネガティヴだ。 これが麻薬が非合法の品物であることに起因しているのならば、オランダのように合法化すればこのような警察と麻薬カルテルとの永遠のイタチごっこは、同業者たちの殺戮の連鎖はもしかしたら終わるのかもしれない。 さてウィンズロウ読者には嬉しいサーヴィスが。 なんとボビーZとフランキー・マシーンが客演するのだ。ボビーZはまだ伝説を作る前の姿でドクの“連合”の一員として、フランキーはドクが組もうとしたメキシコ・マフィアの用心棒として、そしてジョンにドクを殺す方法を教える教師として。 しかし最近のウィンズロウは麻薬をテーマにした作品が多い。しかもそれらは常に血みどろの惨劇になる。また麻薬は関係ないかと思われた作品でも麻薬が絡むことで昏い翳を落とす。『犬の力』を構想中に得た麻薬業界の知識と麻薬捜査の現状の虚しさが作者に怒りを与え、もはやライフワークの感がある。 ファンの1人としてはあまり麻薬に固執せずに物語のアクセントとしてこれからも面白い物語を紡いでほしいと願うのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シリーズ10作目にしてなお衰えず。
いや巻を出すたびに変わる警察機構と高まる犯罪の複雑さと巧妙さを物語に巧みに織り込み、その情報量とリアリティで他の警察小説と一線を画すステータスを保ち続けている。 警察に復讐を企む正体不明の大男の出現と云うインパクト強烈な導入部から復讐者と鮫島との手に汗握る攻防戦を予想させたが、多様化する日本、特にその中心都市である東京の人種の混在が著しい新宿の犯罪の国際化が否応にもストーリーを複雑化させていく。 銃を求める男が20年以上も刑務所の中にいたことで銃を手に入れるのでさえ、様々な利害関係が絡んだ暴力団と中国系犯罪グループが絡み合い、死屍累々の山を築いていくことになる。 正体不明の大男こと樫原茂の人物像はレイモンド・チャンドラーの『さらば愛しい女よ』の大鹿マロイを想起する読者も多いだろう。斯くいう私もそうだった。登場シーンもいきなり出てきて話しかけるところといい、恐らく作者も意識をして造形したのではないだろうか。 但しチャンドラーがマーロウとマロイを物語の冒頭で邂逅させたのに対し、大沢氏は鮫島が樫原の正体に行き着くまでにかなり筆を費やし、簡単には対決させず、逆に樫原の起こした事件の痕跡を追わせて最後に樫原を邂逅させることで樫原の凶暴性を伝聞的に記述することで、まだ見ぬ大男の恐ろしさを描くことに成功している。 またマロイと樫原が不器用なまでに自分の感情と信念に率直で、瞬間湯沸かし器のように暴力に及ぶのは一緒だが、マロイが女性に女々しいほどに愛情深いのに対し、樫原が家族に注ぐ愛は実にストイックだ。誰にも揺るがせることのない鋼の背骨がある。 私は前作を読んだ時にシリーズ10作目となる次回作がシリーズの最終作となるのではないかと予想したが、それを裏付けるかの如く作中にはそれまでのシリーズを回想するかのごとく、それまでのシリーズで語られたエピソードや事件、鮫島の前から消えた人々の事が触れられる。 新宿鮫も8巻の『風化水脈』を境にレギュラーメンバーが次々と退場していく。真壁に仙田、そして彼らとは違う形で鮫島のライヴァルだった香田もいなくなった。 その流れに倣うかのように本書でもまた新たな別れが語られる。 前作まで積み上がってきた新宿鮫の世界を彩るバイプレイヤーは本書にて一掃されたと云っていいだろう。 しかし最後に鮫島の前に残ったのは警察機構の爆弾として周囲から疎まれたジョーカーだった鮫島の後押しをする仲間たちだった。 そして前作『狼花』同様に最後に残ったのが物語のキーとなる中国人だったというのは今後のシリーズのある種の予兆なのかもしれない。 次作からはまさに新生“新宿鮫”の幕明けとなるだろう。作者の飽くなきチャレンジ精神に敬意を表し、これからも応援していきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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SF作家の雄クリストファー・プリーストによる本書はハヤカワ文庫FT、つまりファンタジー小説を扱った叢書から刊行された記憶喪失の男を主人公にした物語。
しかしその内容はファンタジーとは程遠く、爆弾テロに巻き込まれたショックで記憶を喪った男が元恋人の来訪を機に記憶を取り戻す努力をしていく物語が綴られる。 本書の原題は“The Glamour”、本書の中で“魅する力”と称されている力を指している。 この物語の2/5辺りで唐突に出てくる言葉の正体はなかなか読者には理解できない。主人公リチャードの恋人スーだけがその力を理解している。 その力とはすなわち不可視人であるという魔法だ。知らず知らずに雲のようなオーラに包まれ、そこにいるのに周囲の人物に気付かれない特性、それが“魅する力”なのだ。そんな彼らの住む世界を彼らは一種の皮肉を込めて“魅力ある世界(グラマラス)”と呼ぶ。 スーザンはその世界でナイオールと云う強烈な不可視の力を持った男と知り合い、同棲することになる。最初は個性的な彼との生活が刺激的だったスーザンだったが、次第に魅力を感じなくなってき、またナイオールの身勝手さが鼻につくようになる。 そんな世界から脱却したがっているスーザンが出逢った男がリチャードだったのだ。彼の特殊な“魅する力”が不可視人の自分を可視の世界へ連れ戻してくれるのだ。 さてこの“魅する力”の正体だが、誰もが気付くことがあるのではないか。即ちクラスや会社の中でも妙に存在感の薄い人がいるが、その存在感の無さこそが“魅する力”なのだろう。 存在感が薄いことは世の中ではネガティヴな意味に捉えられるが、本書では逆にそれこそが万能の力であり、実に魅力的な力なのだとされている。 確かに誰にも気づかれずに他人の家に住むことも出来れば交通機関も無料で利用でき、映画館で無料で観ることも出来るのだ。そして他人に見えないが、いつ気付かれるかというスリルさえも味わえるのだ。 つまり本書では目で見えていることが真実ではないということを訴えているようだ。それは現在の脳科学の分野でも脳が都合の良い物を選択して見せており、あらかじめ像を予想して見せているとまで云われている。 特に350ページ辺りで不可視人の仕組みを脳の認識に関する考察を交えて語る件は非常に面白く読んだ。つまり人は見ているようで見ていない。これは乱歩が好きだった言葉“うつし世はゆめ よるの夢こそまこと”そのものである。 しかし本書をジャンル分けするならば、恋愛小説となろうか。特に記憶を失くした主人公リチャード・グレイが元恋人スーザン・キューリーと出逢ったフランス旅行でのロマンスが語られる第三部の眩しさと切なさと云ったら…。 旅と云う非日常的なシチュエーションで将来一緒に添い遂げるであろう女性と出遭うという素晴らしさ。2人の旅路はただの旅行よりもきらびやかに映ったことだろう。 しかしスーザンの旅は恋人に会いに行くための物。そしてスーザンはリチャードとの新しい恋のためにその男に訣別を告げに行くのだった。 それ以降のグレイの独り旅とはまさにその名の通り、灰色だ。適度に名所に行きながら適度に女性と出遭い、一夜限りの関係を愉しむが、その後に訪れるのはスーザンがいないことの寂しさ。旅をするごとに彼女がいない喪失感が募る。淡々と語られるだけにその思いはひとしおだ。 本書を含め、プリーストの物語は落ち着くべきところに落ち着かず、明かされるべき謎がさらに謎として深まっていくばかりだ。 本書では結局どの記憶が正しかったのかが解らなくなってしまう。つまり我々が立っている世界がいかに不安定なのかを思い知らされるのだ。 答えを知りたいという読者にはこれほど向かない作家はいないだろう。正直私自身またもや放り出されたままの結末にどうしたらよいのかいまだに解らないのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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どんでん返しの宝箱と評される傑作短編集『クリスマス・プレゼント』。本書はその第2弾。
まずは「章と節」。 本格ミステリの代表的なトリックにダイイング・メッセージがあるが、本作はそれを逆手に取った物。 死の間際に遺されたメッセージがパソコンのウェブサイトで調べないと解らないくらい複雑な物であるはずがなく、夜を徹して苦闘する刑事の姿が実に滑稽だ。しかも周囲の人物の意見で襲撃者の計画を鵜呑みにする刑事の主体性の無さ。左遷で証人保護プラグラム担当になったという設定の刑事だが、確かにそれだけのことはある。 続く「通勤電車」はある男が直面する転落を描いた話。 さりげないエピソードが主人公を悪夢へ叩きのめすという展開はディーヴァーお得意の物。ただミスディレクションとまでは行かず、これは先が読めた。主人公を傲慢で鼻持ちならない人物にしたことでその破滅ぶりにカタルシスを覚えるのが上手い。 時代物の短編「ウェストファーレンの指輪」ではニヤリとする演出が成されている。 1892年のロンドンを舞台にした窃盗犯と警察との丁々発止のやり取りを描いた作品、と書けば案外普通に思えるが、これにはディーヴァーならではのファン・サービスが詰まった作品だ。 まずこの時代はスコットランド・ヤードが科学の手法を警察捜査に取り入れた頃であり、現場に残された証拠から犯人を特定する高度な捜査が繰り広げられる。しかし敵もさるもので警察が嗅ぎ取るであろう痕跡を巧みに利用し、街の悪党を逮捕する方向へ見事に誘導する。 「監視」も味わいは「ウェストファーレンの指輪」に似ている。 本作におけるオンライン情報の監視はディーヴァー作品では『青い虚空』や『ソウル・コレクター』で見られた手法だが、本作はそれらから生み出された副産物のような作品だ。ミュラーの狡猾な犯人による捜査の誤導は面白いのだが、すでに前に挙げた作品を読んだ身にしてみればさほどの驚きはなかったかな。 「生まれついての悪人」は実に皮肉。 これもディーヴァーならではの反転。しかしこれも案外見え見えの展開だ。 そして裁縫が得意なリズは自分の服に色んな隠しポケットを仕込んでいるが、これはやはり『魔術師』と同類だろう。 「動機」はそのものズバリ、犯人が殺人を犯した動機を探る物語。 先の「通勤電車」と同じ手法の作品。 次の短編「恐怖」の舞台は珍しくイタリアのフィレンツェ。 至極単純なサイコ・ホラーと見せかけて予想外の結末に導く。女性が殺人鬼と思われた男性から逃げるために籠った部屋を予め男性が予想していたのはちょっと出来過ぎだろうと思ってしまうが、この展開は見事。 「一事不再理」は前回の短編集でも収められていた法廷物の1編。 絶対不利と云われた裁判で無実を勝ち取るというのは法廷小説の一種の醍醐味で本書も実に巧妙な切り口で弁護士ポールが四面楚歌状態から優勢に持っていく素晴らしい弁護の過程が存分に楽しめる。 しかし本書では法廷の逆転劇が読書のカタルシスではなく、さらにもう一捻り加えてあるのがミソ。 強引とも云える辣腕弁護士による無実というどこかアンフェアな読後感を一掃する被害者の一手がその不満を浄化してくれる。しかし一事不再理というアメリカ独特の裁判制度は色んな作家が題材にしているということは誰しもがその裁定に納得のいかないことを潜在的に感じているのだろう。 「トンネル・ガール」は老朽化したビルの地下室に閉じ込められた女子高生の救出劇を描いたもの。 テレビの実況中継を髣髴するライヴ感に富んだ作品だが、本書の結末は実に奇抜。 ディーヴァーを語る上で外せないのがリンカーン・ライム。今回も「ロカールの原理」で登場する。 トム、アメリアはもとより、セリットーにデルレイ、そしてクーパーとオールスターキャストで飾る贅沢な1編。そして本作も「トンネル・ガール」に勝るとも劣らない強烈な展開を見せる。 そしてライムの推理がミスリードされるように手掛かりを残しておく周到さも見せるが、さすがはライム。犯人よりも一歩上を行く。 しかしこの偽の手掛かりというのは最近ディーヴァーはよっぽどお気に入りなのだろう。どんでん返しが強烈に決まるからかもしれないが、あざとすぎて少々食傷気味だ。 「冷めてこそ美味」はひょんなことからある陰謀が発覚するという魅力的な導入部から始まる。 一風変わった題名は英語圏独特の云い回しだろうか、“復讐とは冷めてこそ美味い料理である”という慣用句に由来する。 何の繋がりもない人物から命を狙われている可能性があると聞いたら人は疑心暗鬼に陥るのではないだろうか?通常ならば気にも留めない物音や人影も全てが疑わしく思え、あらゆる可能性が自分の死に直結すると考えてしまう。 本作の狙いはそんな疑心暗鬼に陥った人の過剰反応を滑稽に描くところにあるのだろうが、ディーヴァーはそこを逆手に取って、人の恨みの恐ろしさを描く。 確かにトロッターのように犯罪にならない程度の悪戯を施して悦に浸る人ほどたちの悪いものはない。 スティーヴン・キングやクーンツの作品を想起させるのが「コピーキャット」だ。 本に書かれた事件の通りに殺人事件が起こる。 この題材は古くから使われていた手だが、ディーヴァーはそこにメタフィクションの要素を入れた結末を一味加えた。 しかし個人的には犯人を作者と特定せず、リドル・ストーリーのように終える方がよかったかなと思う。まあ、これは好みの問題だが。 女性の縁のない男が出逢った絶世の美女。誰しもそんな女性とはお近づきになりたいと思うだろう。「のぞき」はそんな冴えない中年男の物語。 ストーカーというのはそれ自体非常に恐ろしい物だが、これはそれを逆手に取ったコメディだ。 ギャンブルの世界は実に奥深いが表題作「ポーカー・レッスン」はそんなギャンブラーの思考を垣間見せてくれる好編だ。 映画「ハスラー」を髣髴させるような若い青年とベテランギャンブラーとの交流と勝負を描いた傑作。勝負師ケラーを出し抜いた青年の意外なトリックとさらにその上を行く老人ギャンブラーの狡猾な仕掛けというディーヴァーならではのどんでん返しも楽しいが、たった一夜の物語の中に百戦錬磨のギャンブラーが駆け出しの青年ギャンブラーに大人のギャンブルの世界のルールとマナーを教える様子、そして大勝負の緊張感と勝負師の精密機械張りの読みとフェイクの数々が実に読み応えがある。 長編のクライマックス場面を凝縮したような非常に贅沢な作品だ。これが個人的ベスト。 「36.6度」はこれまた実にディーヴァーらしい作品だ。 あちらが脱獄囚と見せかけて実はこちらが…と見せかけてさらに意外な展開を見せる。しかしやはりあざといな…。 最後の「遊びに行くには最高の街」は先行きの見えないクライム・ストーリーだ。 ニューヨークのダウンタウンを舞台にした悪徳の街のクライムノヴェルと思いきややはり最後はディーヴァー印のどんでん返しが待っている。 しかし本作の文体はそれまでの彼の作品とは違い、安っぽい悪が横行するエルモア・レナード張りのクライムノヴェルとなっている。実は最後に明かされる大仕掛けの種明かしはいらないかもと思ってしまうほど、クライムノヴェルとして面白かった。 これだけ大掛かりじゃなくても少しばかりの引掛けでよかったのになぁと思った作品。 これほど長く待たされたと思わせられる訳出も珍しい。前作『クリスマス・プレゼント』の刊行が2005年。原書刊行が2006年。 だからいつ出るのかいつ出るのかと心待ちにしていたが、これが一向に出ない。 そして2013年。8年の月日を経てようやくの刊行。今や現代アメリカミステリの巨匠となったディーヴァーの超絶技巧が詰まったどんでん返しの宝石箱だ。 この表現は全く以て偽りなし。16編全てにどんでん返しが織り込まれている。そして本書におけるどんでん返しはリンカーン・ライムシリーズで培った技法が大いに下敷きになっている。 特に多いのはわざと状況証拠を並べて警察の捜査をミスリードさせるもの。 しかしこれも行き過ぎれば作り物めいた作品になってしまい、それほど先読み出来るものかと疑ってしまって、存分に愉しめなくなっているのは確か。どんでん返しが高度になり過ぎてもはや訳が分からなくなってしまっている。 そんな中、本書における個人的ベストは表題作。本作ではディーヴァー特有の予想の斜め上を行くどんでん返しも面白いが、何よりも物語の中身が実に濃密。若い駆け出しのギャンブラーと百戦錬磨のギャンブラーの交流と息をつかせぬ大勝負の描写が実に面白い。 そしてディーヴァーはこんなギャンブル小説も書けるのかと脱帽。ディーヴァーの新たな才能の片鱗を見せてくれた。 他には「恐怖」も捨て難い。 逆にどんでん返しが邪魔になったのは最後の「遊びに行くには最高の街」だ。これは逆にクライムストーリーのままで進み、最後にちょっとした仕掛けを施すプロットの方が楽しめたように感じた。 しかし今回は歪んだ社会に潜むどんでん返しというのが目立ったように思う。特に一見普通の市民がその裏では変態的な犯罪者の側面も持っているという隣人に心を許すなかれというメッセージが含まれた作品が多い。 しかし地域交流もこんな話を読むと恐ろしくて気軽に出来ないなぁ。 しかし今回のどんでん返しにはあまり納得がいかない物も多く、正直云って前作より出来は劣る。これだけ物語やシチュエーションにヴァラエティを持ちながら、落ち着くところはどんでん返しという所が設定を変えただけという風に思えてしまうからだ。 前作は語り口でものの見事に騙されたというような鮮やかなどんでん返しがあり、どんでん返しそのものにヴァリエーションがあったように思えた。 今回はほとんどが説明的などんでん返しだったとでも云おうか。 私が好きなどんでん返しはすなわち価値観の逆転。正と思った方が負であり、善が悪に反転するというものだ。 本書にもその趣向に該当する物があるが、前述のようにそれらが非常に説明的だったのが残念。 この辺は語り口の好みの問題なのだろうが、やはり小説を読むのであれば説明的な文は避け、物語の中でさりげなく語り、読者に悟らせるべきだろう。そういう意味では小説の一歩手前のような印象を受けた。 とはいえ、現代気鋭の物語巧者であるディーヴァー、先ほど述べたようにそのシチュエーションのヴァリエーションは実に多彩。さらに一つ一つのディテールが濃く、本当にこの人は何でも書けるという思いを強くした。 特に感心したのはギャンブラーの世界を描いた表題作と最後にクライムノヴェルを読ませてくれた「遊びに行くには最高の街」だ。 更に上に書いたどんでん返しのあざとさはいわばディーヴァー作品を読み慣れた読者の私にとって感じることであり、それはすなわち期待値の高さによる。 ある意味本書は読書の功罪を孕んだ作品集と云えよう。 短編集では全ての短編にどんでん返しが盛り込まれており、特に初めてディーヴァー作品を読む人は読書の至福を感じるだろう。 しかし逆にこれが基準となればその後の読書に多大なる影響を与えることになりかねない。 さて彼ほど読者の期待を一身に受けている作者はいないだろう。次の短編集ではどんな奇手を見せてくれるか、実に楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1977年に発表された本書は一世を風靡し、映画を変えたとまで云われた『マトリックス』の原型となる作品だろうか。
リドパス投射器という死体安置所の抽斗のようなところに寝かされ、投射された人々はウェセックスという仮想世界でそれぞれの仕事に就き、生活を営むのだ。 それはセカンド・ライフのような仮想空間であるが、催眠状態に陥って自身の意識がその空間に飛び、体感する有様はまさに『マトリックス』のようだ。 仮想空間に飛んだ人々は回収係という人間によって強引に引き戻される。それは鏡を使って誘導されるのだが、これが『マトリックス』の電話と同じ役割のようだ。 ただ『マトリックス』では仮想空間マトリックスにいる間も現実世界の記憶を留めたままなのに対し、本書では投射世界で現実世界での記憶を忘れてしまうところだ。ただ出逢った人間によってお互いが初めて逢う人間ではないといった既視感や懐かしさを感じたりするのだ。 しかしこの投射世界という想定された未来世界に人を投入するウェセックス計画の内容が読者に解るのは150ページを過ぎたところ。つまり物語の約4割を過ぎたあたりからだ。それまではジューリア初め、他の参加者たちが投射される目的が全く分からないまま物語は進行する。 そして特徴的なのは仮想の投射世界と現実世界のやり取りがシームレスで交互に語られることだ。つまり読者には物語の世界が現実世界の事なのか投射世界でのことなのか区別がなかなかできなくなってくるのだ。 特に物語の鍵を握るポール・メイスンが介入してきた後半はその特性が高まる。なぜなら投射世界の中に投射器が出てくるからだ。そして現実世界ですら、投射世界から投射されたもう1つの投射世界ではないかという混乱をももたらす。 そして物語の最終局面に至ってはデイヴィッドのいる投射世界の投射器の中に再び投射されたジューリアの肉体が収容されているというパラドックスが訪れる。そして果たしてどちらが現実でどちらが仮想世界なのか、ますます混乱を来してくるのだ。 逆にこれこそが作者プリーストの狙いなのだろう。2つの世界を行き来する登場人物たちが抱く感覚を読者にも共有することが。そしてこの狙いは成功していると云えよう。 しかしこの物語で登場するポール・メイスンとは何と云う卑劣漢だろう。主人公ジューリアの元恋人でハンサムでカリスマ性のある人物像だが、自己愛が強く、自分の願望を満たすために強引な手も厭わない。そして自分を嫌いになる人などは存在しないと思い、好意を持たない人物には徹底的に苛め、破滅させようと追い込む。 クーンツ作品によく出てくる絶望的なまでな悪意を備えておきながらも当事者以外には好人物として振舞うエゴの権化のような悪党だ。 この2つの区別のつかない世界を与えられた時、そして仮想空間の方が心地よい居場所だった時に、その人にとって現実とは果たしてどちらなのか。これが作者の本書におけるメッセージであると思う。 1977年に書かれた本書は今のネット社会を予見させる内容だ。現にネット社会に耽溺し、廃人となる人々もいる。全く以て余談だが、私もオンラインゲームを嗜んでいるが、日々の雑事で週末の休日ぐらいしか訪れない。しかしそれでも常にそこにいるユーザーが居て、この人たちは一体現実世界ではどのように生活しているのだろうかと訝ることもしばしばだ。 閑話休題。 しかしこの2つの世界を行き来するという設定の基礎となるウェセックス計画と云うのが今いち弱いと感じる。 数年後の想定未来に被験者は行って、どうやって現代の社会問題をクリアしたのかを調査するのがこの計画の目的というのはいささか難がある。なぜなら想定未来自体が作られた物であり、今直面している危難や社会問題のない世界、つまり理想郷だからだ。そうなるべき姿にどうやってなったのかを調べるというのはつまりは人間の意識下における創造の産物にしかならない。 あ、そうか、これは弁護士や経済学者、生化学者などの専門分野の人々を集めて投射世界という理想郷に送り、問題解決の方策が書かれた文献の調査と云う名目でその実、彼らの意識の奥底にある解決への道を考えさせるというのが本来の目的なのかもしれない。 しかし作者がそこまで考えていたのかは甚だ疑問だ。やはりこの設定には苦しさを感じてしまう。 また私は本書を別な方法で物語を閉じる方が良かったように思う。特に360ページ辺りでジューリアが投射世界の投射器に入った自分を発見する件では、世界がひっくり返るような眩暈を覚えたものだ。 結局物語は何も解決せずに終わった。なんとも厭世観濃いこの結末にまだ戸惑ってしまう自分がいるのだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は80年代のEQMM誌に発表された短編を集めたアンソロジーの第1弾。その顔触れはまさに錚々たるメンバーだ。
口火を切るのはレックス・スタウトのネロ・ウルフ物の中編「殺人鬼はどの子?」だ。 正直いきなり縁のないシリーズ物での事件であるとは思わなかった。3人のうち犯人は誰という趣向は確かに邦題や原題を想起させる知的ゲームの様相を呈しているが、中身はずっと骨太。 3人の弁護士のうち誰が依頼人を殺したのかを探る物だが、内容としては弁護士の倫理を問うものになっている。邦題は原題の持つ雰囲気を忠実に表した好訳だが、そんな牧歌的な題名とは裏腹な深い内容が変なギャップを生んでいる。 次のジョン・D・マクドナルドの「罠に落ちた男」は買い物に出かけた男がいきなりさらわれ、現金強奪用の車として自家用車を奪われ、監禁される一部始終が語られる。 この作品にはあっというトリックもなければロジックもない。ただ事件の顛末が語られるだけだ。輸送会社を経営する男が機転を利かせて危うく命を拾うという話。 エドガー・ウォレスの「ウォーム・アンド・ドライ」はある詐欺師の物語が警視の口から語られる。ニッピイというあらゆる詐欺や軽犯罪を繰り返してきた男の顛末であり、裏切りとそれによる報復があるがサスペンスがあるわけでもない。物語としては実に淡々としている。 ただ題名にある「ウォーム・アンド・ドライ」という慣用句が場面場面で色んな意味に使われており、そこに妙味があると云えるだろう。 時には「誠実で虚飾のない」という意味であり、ある時には「猛りくるって酒はこりごり」であり、「仲良くかつ、割り切って」であり、更には「冷気及び湿気を禁ず」の意もある。言葉遊び好きなクイーンの好奇心をくすぐった作品なのだろう。 サスペンスの女王パトリシア・ハイスミスの「池」は夫を亡くした妻が借りた家の庭にある奇妙な池の話だ。 生き物のように復活する池と意志を持つ手のように近づく物を絡め取る水草や蔓。そこには理屈のない恐ろしさが存在する。 特に仰々しい描写はなく、淡々と物語は進むがそれが反って得体の知れなさを助長している。 期限切れの本の回収や紛失した本の捜索が仕事の図書館専門の探偵という設定が面白いのがジェイムズ・ホールディングの「やっぱり刑事」。 図書館の本の捜索が麻薬売りの犯罪証拠となるマイクロフィルムの発見に繋がり、そこから探偵が危機に陥るという物語の幅が広がるユニークな物語。 しかし図書館専門の探偵は作者の創作によるものだろうか?本当にいれば実に面白いのだが。 リチャード・レイモンの「ジョーに復讐を」は<ジョーの居酒屋>に訪れた突然の訪問者は店主のジョーを撃ち殺しに来たのだという。 わずか10ページ強の単純ながらも最後にツイストが効いている作品だ。正直ネタは途中で解るが、単純なストーリーに銃を持ったおばさんが店内の客まで脅迫するという奇妙なシチュエーションが印象を強めている。 マイクル・ギルバートの「ちびっこ盗賊団」は現代のロビンフッドと呼ばれる未成年たちの犯罪グループを警察が捜し出すというもの。 自ら信じる正義のためなら誘拐や強盗すらも辞さない。しかし盗んだお金は金に瀕して困っている人に全て与えるという義賊。短編でさらりと書いているが、このテーマは膨らますとシリーズ化できるまでに面白くなりそうだ。 L・E・ビーニイによる「村の物語」はある田舎町を舞台にした奇妙な味わいの物語が2編語られる。 1編目の「約束を守った男」は連続殺人の罪で死刑囚となった弟の許を訪れた男の話。 2編目の「どうしてあたしが嫌いなの?」は連続殺人を犯した脱獄囚が街を抜け出したと云う話。 実に奇妙なテイストの結末。死刑囚の兄は弟の面倒を見るという亡き母親への誓いを守るため、死刑直前で自ら弟を射殺する。それまでに淡々と描写される男のストイックさがその決断をゆるぎないものとして読者の心に落とさせる。 2編目は孤独な女が狂気に陥るまでが淡々と語られる。女性の寂しさが彼女に訪れる狂気を見事に納得させる。これは面白かった。 続くダグラス・シーの「おせっかい」は人気推理作家にトリックが非科学的であると作品ごとにアドバイスの手紙を送る大学助教授とその作家のやり取りで構成されている。 これはオチが痛快。特に手紙でこき下ろされる作品のトリックの数々には推理小説4冊分のネタが盛り込まれている。 もしかしたら推理作家はこのようなクレームの手紙を実際に受けているのかもしれない。アイデアの勝利! トリッキーな物語構成で独自の本格ミステリ路線を歩いたパトリック・マガーはなんとスパイ物の作品が収録された。「ロシア式隠れ鬼」はマガーのシリーズキャラクター、女スパイのセレナ・ミードがロシアの友人の頼みで観光客に成りすまして偉大な詩人でさらには共産主義者の唱道者であった友人の父の遺された自筆の詩の原稿を取り戻しに行くというもの。 夫が情報機関Q課のエージェントであり、妻の偽装旅行をあっさり看破し、彼女にあの手この手で忠告を与える。また友人の協力者がどのように接触し、詩を渡すのか、そしてQ課が介入するほどの詩には何が書かれているのか、さらにはKGBが見守る中、どうやってセレナは詩を持って帰るのかとミステリの要素満載の短編。 ポーの有名な短編からヒントを得た詩の原稿の持参方法がユニークで秀逸。結末は大人しめだが物語の起伏に富んだ作品だ。 心胆寒からしめる結末なのがジャック・P・ネルソンの「イタチ」だ。 果たして弁護士は本当に推定無罪の精神で弁護をしているのか?この原理的な問いに衝撃的な報復で疑問を投げかける結末。 なんと同情の余地もない殺人犯の無罪を勝ち取った弁護士の家族の許にその殺人犯を送るという形で被害者は復讐したのだ。これは今でも衝撃的。しかもハリウッド映画が1本作れる秀逸なアイデアだ。これが個人的ベスト。 歴史に残る短編シリーズの中にアイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』があるが、「ロレーヌの十字架」はそのシリーズの1編。 これは夜の車中だからと云うシチュエーションを勘案して納得のできる危うい結末。 その有名シリーズの向こうを張ったパロディがジョン・L・ブリーンの「白い出戻り女の会」だ。 全てにおいてアシモフ印の作品。『黒後家蜘蛛の会』というミステリにアシモフが唱えたロボット三原則を絡めた謎と云うニヤリとせざるを得ないミステリだ。 人の神経を逆撫でする人物とはいるものでデイナ・ライアンの「破滅の訪れ」に登場するエマはその最たるものだ。 人の云うことを聞かず自分のペースと思い込みで物事を進める人がいるがエマもまたその典型。 終始イライラさせられるが上手いストーリー運びだ。 プロンジーニ&マルツバーグの「不幸にお別れ」はたった6ページの最短の物語。 精神異常者とカウンセラーとの往復書簡で構成される本作は異常者がカウンセラーを逆恨みして殺されるが、それには意外な事実が隠されていたというもの。フランスのエスプリに満ちた1編。 シーリア・フレムリンの短編「魔法のカーペット」は実に現代的な作品だ。 育児ノイローゼは現代の社会問題となっているが、本書は高層マンションとご近所問題、そして小さい児を持つ親の育児ノイローゼを扱った物。 ジョン・ボールと云えば黒人刑事ヴァ―ジル・ティップスが登場する名作『夜の熱気の中で』が有名だが、「閉じた環」は仲の良さそうに見える隣人夫婦の見えざる妬みと屈辱を扱った作品。 これは最後の一行の皮肉が実に効いている。 神の見えざる手を感じる結末だ。 次の「仲間はずれ」は編者クイーン自身の作品だが、これは先般読んだ『間違いの悲劇』にも収録されており、ここでの感想は割愛する。 短編の名手であるロバート・L・フィッシュの「秘密のカバン」は実にウィットの効いた作品だ。 凄腕の金庫破りながら変に心配性の所があるクロードの焦り具合が面白い。 流れも自然なのにこれほど計算された作品も珍しい。さすが名手の業だ。 最後は中編とも云うべき長さの物だが、これがまた素晴らしい余韻を残す作品だった。ウィリアム・バンキアの「危険の報酬」は元大リーガー投手の物語だ。 実に味わいのある作品。落ちぶれたかつてのヒーローが行きずりの男女に引き込まれて誘拐の手助けをする。しかし彼は彼らが自分を生贄の山羊にしようとは露にも思わず、罠に嵌る。富豪の息子の殺人犯に仕立てられるのだ。しかし彼はその土壇場で誇りを取り戻す。警察に死体が自分の部屋にあることを告げ、わずかな手掛かりから2人の行方を辿り、2人を捕まえて自首しようとするのだ。 特にところどころに挿入される主人公ミリガンの回想や追憶シーンが読ませる。かつて自分はアメリカ人が誰もが憧れるヒーローだった。そんな輝かしい日々が挿話としてアクセントを加えている。そして彼を犯罪に導くヴェラとノーマンの2人はボニーとクライドをモデルにしたかのような、人生と犯罪を愉しむ享楽主義者だ。特にノーマンは裏切ったミリガンと再会してもそれを喜び、手を差し伸べるという理解に苦しむ性格をしている。前に読んだ東野氏の『殺人の門』の倉持修のような男だ。 最後のミリガンの結末と云い、発端から経過も含めて大人の小説だ。これがベスト。 本書はEQMM誌に収録した短編から選抜された短編集。 エラリイ・クイーンが選出したEQMM誌収録の短編集だからといって必ずしもトリックやロジックが横溢した短編とは限らない。いやむしろそのような本格推理物を期待しない方がいいだろう。 ジャンルはクライムノヴェルに誘拐物、サスペンスにホラーにスパイ小説、サイコ物に奇妙な味と実に多岐に渡る。 本書におけるパズラーはレックス・スタウトの「殺人鬼はどの子?」、アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズの1編「ロレーヌの十字架」、クイーン自身の「仲間はずれ」の3編。これはてっきり珠玉のパズラーのオンパレードかと思いきや実に意外だった。 しかしこれこそがクイーンが選者として名伯楽であることの証左のように思えてならない。 なぜなら本書にはクイーンが新しい形のミステリを模索し、その可能性を見出した作品が選ばれているように感じる。そのせいかミステリとしてはまだ粗削りであり、正直出来が良いとは思えない作品もある。しかしここには現代に繋がるミステリの原型とも思える作品が揃っているように思えた。 私のお気に入りの作品はジャック・P・ネルソンの「イタチ」、L・E・ビーニイの「村の物語」、ダグラス・シーの「おせっかい」、ジョン・L・ブリーンの「白い出戻り女の会」、ジョン・ボールの「閉じた環」、ロバート・L・フィッシュの「秘密のカバン」が挙げられよう。 これらはアイデアが実に秀逸で短編を読む楽しみに満ちた作品だ。 しかし個人的ベストを挙げるとすれば最後に収録されたウィリアム・バンキアの「危険の報酬」となる。久々に心地よい余韻に浸った味わい深い作品を読んだ。そしてこのような作品をクイーンが選んだことに彼の懐の深さを感じる。 本書は逆にそういう意味ではクイーンが選んだということである種の先入観を抱かせて、損をしているように思える。 現代の本格ミステリ作家が神格化した存在として掲げているクイーンは必ずしもパズラーに特化した作家ではなく、名アンソロジストであったということをミステリ読者は忘れがちなのではないだろうか。何より自身の名前を冠したコレクション(原題もそう)である本書はクイーンが自信を持って提供する短編集なのだ。 これは続く2巻目が実に楽しみになってきたぞ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人を殺すとはどういうことなのか。
この人間において最も深い罪と云える殺人に東野圭吾氏が深く切り込んだのが本書だ。 初めて死というものを目の当たりにした小学校5年生の時に起きた祖母の死からじっくりと主人公田島和幸の死に対する考察と興味の推移を描いていく。通常ならば彼の5年生の想い出は数ページのエピソードとして書かれる程度で、田島のキャラクターを形成するアクセントとして添えられるようなものだが、本書ではその彼の原体験である祖母の死とそれによって彼の家族にもたらされた死に纏わる町の噂や離婚、歯科医だった父親の凋落ぶり、そして彼の人生に翻弄され、転校や進学の変更を余儀なくされ、その先々でいじめや恋の略奪を経験する田島和幸の成立ちが丹念に描かれていく。 このなんとも遣る瀬無い転落人生の顛末の読み心地は島田荘司氏の作品に見られる濃さを感じさせる。 それは庶民が中流階級だと勘違いして陥る人生の陥穽の数々だ。 ホステスに入れあげては私財を全て失い、借金まで手を出して挙句の果てに破産して蒸発する主人公の父親のダメっぷり。 デカい儲けを夢見て地道に働くよりも善人を食い物にして生きる道を選ぶ主人公の宿敵、倉持修。 結婚してもブランド好き、社交好きの散財癖が抜けきれず、多額の借金を抱えても屁とも思わない関口美晴。 そんな破綻者たちがなぜか田島和幸の人生には立ち塞がる。 その中でも折に触れ田島の人生に関わる倉持修という男が本書の最大のミステリだろう。 なぜか主人公の田島和幸の人生の節々で関わり合い、彼の慎ましい人生を変えていく。それも悪い方向に。それは残った2枚のカードを眼前に突き出したババ抜きの最終局面を再会するたびに差し迫られているようだ。 この倉持と云う男は田島を嵌める悪意はあったのか? いや私は読中、恐らくなかったのだろうと思っていた。倉持という男は田島が好きだったのだろう。だから自分が面白いと思っていることに彼を引き込みたがるのだ。そして田島がそれに夢中になるのを見るのが楽しいのだ。そして自分の利益や保身を優先する性格であり、その犠牲として田島に来るべき災厄を振るのだ。しかしそんな倉持の行為に悪意はないだろう。恐らく彼が困ったとき、面倒事が起きたときに、軽い気持ちで田島に任せるか、ぐらいの気持ちでしかないのだと。 つまり倉持とは知らず知らずに自らが原因で周囲の人に迷惑を掛けてしまう男であり、そのことに自覚的でない人間だ、そう考えていた。 しかし読み進むにつれて次第に上昇志向が強く、他者を踏み台にして成りあがろうとする倉持は自分の人生に田島という踏み台を見つけたのだという風に思うようになった。 倉持にとって田島と云う男はカモなのだ。彼が成り上がるために手元に残ったジョーカーを引かせるための相手なのだろう、と。 それは物語の最終である人物の口から倉持の人となりを明かされる段でそれが間違いではなかったことが明かされる。 一方で田島は倉持の踏み台となるべくして生まれた、そうとしか云えない弱者、負け犬人生を歩む。 それにつけても主人公田島和幸の人生とは面白いほどに不幸だ。 名家だった家は父の浮気で没落し、借金苦から大学進学もままならず、また入学した学校や就職した会社ではなぜか誰かに目を付けられ、いじめを受ける。 そんな負の連鎖の人生で彼が望んだのはつつましいながらも家族を持ち、家を持って普通に暮らすことだ。しかしそんな庶民的な夢でさえ、結婚相手がとんでもない浪費家でコツコツと貯めた貯金を全て使われ、さらにはクレジットローンや街金の借金まで背負わされる。普通に暮らすことさえも望めない男だ。 しかしそれも自分に人を見る目がないこと、人を疑うよりも人の話を容易に信じる性格が災いしている。 何事につけ、そんな悲惨な結果を招いたのが自分の選択眼の甘さだということを知らされながらも同じ間違いを犯す。それは自分の将来を奪ったダメ親父と自分が同じだということに気づかない鈍感さによる。田島が身持ちを崩したのはホステスに入れあげ、破産した親父と全く同類なのだ。 またそんな生い立ちだからか、自分の失敗についての反省の念が強すぎるというのもまた欠点だ。借金を作った妻に浮気がばれ、その事で誓約書を書かされる体たらく。それまで妻が田島に行った仕打ちを考えれば、そこまでする必要がないのに、相手の糾弾に物凄い罪悪感を抱き、詳らかに浮気の状況を妻の云うがままに書くシーンではどこまでお人好しなのだと呆れた。 何をやっても上手くいかない男というのがいるが、田島和幸とはまさにその男だ。 弱肉強食という言葉があるが、本書における田島和幸と倉持修の関係がそれだ。 この両者を比べると面白いことが解ってくる。 まずそれはお互いの仕事だ。 倉持修は常に人の心を利用して一攫千金を狙う、大きな金を動かすことを夢見て人生の成功を目指している男だ。それはネズミ講や詐欺商法といった情報や紙切れといった実体のないものを操って金儲けをしている、いわば楽して儲けることを一義として考えている空虚な男だ。 翻って田島は慎ましいながらも物を作る現場や人と触れ合って家具を売ると云った自らで何かを生み出すような実のある仕事を訥々としながらも、器用な世渡りで常に羽振りのいい倉持に嫉妬しながらも羨望やまない心の弱い男だ。 さらに一目瞭然なのが、危険に対する感度の違いだ。 倉持は自分がやっていることが非合法すれすれのことであるを自覚しているからか、危険に対する感度が高い。危機を察するといち早く逃れ、安全圏から事の事態を見守る。世間の恐ろしさを熟知した男だ。 逆に田島は何かにつけ、自分が納得のいくまで物事に首を突っ込む。倉持の誘いで就職した詐欺会社の被害者訪問や彼の浮気の張本人である“幻の女”寺岡理栄子の捜索に、事の真偽を確かめるための別れた妻の実家への訪問、さらに倉持の会社の捜査に入った警察の尋問を受けたりと、通常ならばあるところで引くところをとことんまでやるのが田島の性分らしい。 そのために知らなければいいことまで知り、身も心もすり減らす。つまり危機に対する感度が実に低いのだ。 「手玉に取られる」という言葉があるが、これほど倉持に手玉に取られる田島の人生も珍しい。 そしてこの倉持は田島が折に触れて殺意を募らす卑しい男なのだが、なぜか田島に職をあてがい、更には売り上げに貢献して恋人まで紹介する。全く何を考えているのか解らない男だ。 そんな訳の解らない彼の考えが最終章で明らかになる。 この最終章を読むに至ってこれは『悪意』の変奏曲だということに気付かされる。人はここまで冷酷になれるものかと戦慄さえ覚えた。 本書のタイトルの殺人の門とはその名の通り、殺意が行為に変わって殺人に至るきっかけを指す。 主人公の田島は小学生の頃から人の死に触れ、時に自分が恨みを買って殺されそうにもなった。特に倉持修には人生の節々で殺意を覚えたのだが、殺人者の門を開けるまでに至らなかった。 また彼の貯蓄を食いつぶされ、更には莫大な借金を背負わされた元妻関口美晴に対しても殺人の一歩手前まで行きながらも思い留まった。 その一方で執念深く人を狙い、本懐を遂げる人間もいる。本書で刑事が人が殺人者の門を開けるのには動機、環境、タイミング、その場の気分で人は人を殺すが、人によっては引金が必要な人もおり、それがないと殺人者の門をくぐることが出来ない人もいると述べる。 彼はある意味殺人が出来ない人間だったのだ。 だからこそ最後はほとんどホラーのような結末になったのだ。 またもや救われない物語を東野圭吾氏は生み出した。読後の今は何とも言えない荒廃感だけが残っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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葬列。
そのタイトル通り、死屍累々の山が築き上がる。その有様は実に壮絶。 小川勝己氏が横溝正史賞を射止め、その年の『このミス』でも第16位にランクインした鮮烈なデビュー作がこれ。現在の奥田英郎作品の『邪魔』、『無理』のような、社会の底辺で貧困にあえぐ下層社会の人々が一世一代の大勝負に出るピカレスク小説だ。 これは宴である。 狂乱の宴だ。 性格破綻者の小市民たちとやくざとの抗争と云う名の宴だ。 ただただ一攫千金と云う無謀な夢を描くだけのように見えた中年女性2人と若い女性1人の3人組が落ちこぼれやくざの史郎と邂逅するしてから俄然現実味を帯びてき、明日美の勤めるラヴホテルの経営者の街金業者への襲撃からB級ヴァイオレンスアクション小説の色合いを濃くしていく。 そして街金襲撃から史郎の復讐譚へ移る九條組襲撃計画のプロセスの段になってもはや読者の心の中には明日美、史郎、しのぶ、渚4人が生き生きとした人物として刻まれ、彼女たちがもはや無謀な素人犯罪集団ではなく、プロの武装強盗集団に見えてくるから実に面白い。心を閉ざして他者の介入を容易に赦さない謎めいた女性、藤並渚も壮絶な過去が次第に明かされていくうちに稀代の無敵な悪女強盗になってくるのだ。 そして史郎、明日美、しのぶ、渚の4人組がいよいよ九條の別荘に乗り込む420ページからの約40ページは新人の作品とは思えないほどの勢いと迫力に満ちている。息を呑んでページを繰る手が止まらない自分がいたことを正直に白状しよう。 さてやくざが絡む大金を巡る下流社会の人々の抗争と云えば馳作品を想起させるが小川作品と馳作品とではテイストが全く異なる。馳氏の物語は人間の卑しいどす黒い負の衝動を物語が進むにつれて肥大させ、それが破裂して破滅の道を辿るという、終始暗いムードが漂うが、小川作品は登場人物たちの設定ゆえにどこか滑稽でこれら頼りない社会の底辺で生きる面々をいつのまにか応援してしまうのだ。 それは馳作品での殺戮は自業自得で泥沼に嵌ってしまった主人公がキレて自暴自棄になって人を殺しまくるという、同情も共感がどこにも得られない行動理由で起きているので、全くテイストは違うのだ。 小川作品での殺戮はそのゼロ時間へ向けて着々と準備が整えられ、殺された家族への復讐と一攫千金という目的のために動くというベクトルがはっきりしているところにある。 従って惨たらしい殺戮シーンながらもどこか爽快感とカタルシスが残り、主人公と同様のひと仕事を終えた心地よい疲労感が得られる。 それはひとえに小川氏の描く登場人物造形のユニークさがあるからだろう。白いマンションに住むことを夢見て過去にマルチ商法に嵌って夫を身体障害者にしてしまった三宮明日美。 明日美をマルチ商法に誘い、一攫千金を願いながらも上手く行かない人生を儚み、全身整形を施した人造美人の葉山しのぶ。 高校の先輩に誘われて極道の世界に入ったものの、生来の気の弱さからやくざになりきれない小心者、木島史郎。 アメリカ滞在時に両親をミリタリーマニアの学生らにゲームさながらに殺され、自身も輪姦されながらも唯一生き残った心をどこかへ置き忘れた帰国子女、藤並渚。 そして彼らを筆頭に敵役の九條、堺、海渡と云った極道連中と癖のある刑事隅田ら脇を固める面々一人一人が戯画的なキャラクターでありながらドラマを形作る。 どこかマンガを読んでいるような感覚と妙に詳細な銃器の説明と小道具となるラヴホテルの従業員たちの仕事の内容と、パロディとリアルが同居した奇妙なノワールの世界がこの作品にはあり、それが一種独特な雰囲気を醸し出している。 そして最終章に訪れる驚愕の真相と荒廃感漂う仲間共の理不尽な最期。 誰もがどこか狂っている。やはりこれは狂乱者たちの宴の物語だ。 正直、馳作品を読んだ後にまた人が大勢死ぬ作品を読むのはどうにも辟易だったが、案に反して実に面白く読むことが出来た。 馳作品を深作欣二監督の映画のように例えるならば、小川作品はクエンティン・タランティーノ監督作品のようなテイストを持っている。 アクの強い人物たちが最後に華々しく銃撃の花火を放って散りゆく。それは迫真に迫りながらもどこか滑稽で爽快感が漂う。 この鮮烈なデビュー作の後、『彼岸の奴隷』、『眩暈を愛して夢を見よ』といった話題作を放ちながら、昨今ではなかなか世の中の評価が高まらない小川勝己氏だがこのような不思議な読後感が残るパルプ・フィクション小説を書ける作家は非常に貴重なので再起の花火を打ち上げる様な作品を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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北海道を舞台にした全5編からなる連作短編集。
最初は浦河を舞台にした「ちりちりと……」から始まる。 主人公の堀口が山中へ向かう描写や彼の回想に現れる世捨て人で狩猟と炭作りをして生計を立てていた彼の祖父の生活描写は狩猟小説の雄、稲見一良氏の作品を思わせるような作り。しかしやはりこれは馳作品だから稲見作品の特徴であるそこはかとなく訪れる温かみはなく、荒廃とした荒んだ人の心と救いのない結末。 別の意味で山の厳しさ、冬の山の寒さを感じる読後感だ。 次は堀口の父の愛人と噂されていた未亡人田中美恵子が主役を務める「みゃあ、みゃあ、みゃあ」は富川が舞台。 肉親の介護に疲れる実子のどす黒い思いというのは馳氏の作品ではもう一つのノワールのテーマであり、ここにある美恵子の心の移ろいはさほど目新しい物ではない。 しかし富川と云う町で母の介護と同級生の経営する場末のスナックで生計を立てる美恵子の日常が寂しくて、それこそ北国の寒さのように心に降り積もる。特に美恵子が田舎町によくいる、少し目立った美人であることがその境遇の不幸に拍車を掛けている。 臨月を迎えた母の飼い猫と母三津の美恵子に対する態度が鬱屈を募らせ、最後にカタストロフィと行きたいところを馳氏は本書ではギリギリのところで押えている。 さて次はその美恵子に執心していた土屋の息子が主人公。「世界の終わり」は苫小牧が舞台だ。 これほど最初と最後の作品の印象が異なる作品もないだろう。 中古車ディーラーを経営する、離婚した父の下で暮らす中学生の智也はいじめられた経験のため、心に傷を負い、緊張すると声が発せなくなってしまう。そのため不登校児として愛犬と一緒にサッカーに興じる毎日を送っていたが、そこで将来を有望視されながらバイク事故で足に後遺症が残るほどの怪我を負った憧れの先輩から中古のバイクを売りつけられる。しかしそれは閉じられていた智也の世界を広げる道具となった、という心に傷を負った少年の再生を描く一種の青春ロードノベルのように思われたが、後半はバイクで辿り着いた工場建設予定地で骨を見つけたことでそこが愛犬と自分にとっての最後の地であるとし、全てを骨で覆い尽くすために近くの墓地から骨を掘り出してはばらまいていくというサイコホラー的展開へと移る。 これほどテーマの読めない作品も珍しい。 次の「雪は降る」では智也にバイクを押し売りした雅史先輩こと原田雅史が主人公。 Jリーガーの夢を挫かれ、親の臑を齧ってその日暮らしを続ける男と憧れの先輩でほのかな恋心を抱いていた訳ありの女性との苫小牧から函館への二人行。女は好きだった人に会いに行くと最初は云い、次には友達に会いに行くと云い、そして函館山で夜景を見に行こうと函館への目的は訊くたびに変わっていく。一方で男は女が付き合っていた男と別れていたことを知り、女への恋の炎を少しずつ大きくしていく。そんな中流れる、女の弟の殺人事件の一報。両親が旅行で不在中に発見された受験生の変死体。一緒にいた姉は行方不明。 登場人物2人だけで繰り広げられる儚く寂しい道行き。これは志水辰夫の世界だなぁ。馳作品にありがちな「世界の終わり」のような妙な裏切りとも云える結末もなく、若い2人がただ見えない明日に怯え、途方に暮れる。何をしたらいいか解らないがとにかく動いていたい、留まると気分が滅入ってしまうから。珍しく優しい物語だ。 最後の「青柳町こそかなしけれ」では前篇で雅史がオカマを掘った、名も知らない車の所有者の妻が主人公。 夫によるDV、そしてセックスといつもの馳作品かと半ば落胆したように読み進めたが、夫が妻の友人のDV被害を目の当たりにするという今までにない展開を見せて、いわゆる暴力の連鎖に陥らずに留まっているところに新機軸を感じた。 しかしやはり人は変われない。やり直しや更生といった明日への希望を馳氏は容易に信じない。やはり最後は馳作品そのものだった。 なお本作で登場する焼き肉店の店長がマコっちゃんこと堀口誠。これで一連の物語の環は閉じられる。 相も変わらず人生の落伍者を取り揃えた作品集となった。ただし本書はいつもの短編集とは違い、北海道の浦河、富川、苫小牧、函館を舞台に各短編で登場する脇役が次の短編で主役となるという連作短編集となっている。 今回収録された作品の特徴としては2005年以後の作品が集められたことだ。これは馳氏の鮮烈なデビュー作となった『不夜城』のシリーズ第3部の『長恨歌』を終えた翌年、そして新機軸と評価された『楽園の眠り』が発表された年に当たる。したがってマフィア、やくざ、セックス、クスリ、暴力、殺人に彩られたドロドロのノワールから殺人を排除し、一般の人の心の闇から生まれるノワールに転換した頃の作品だ。 したがってデビュー作に見られた極限までに削ぎ落とした体言止めを多用した文体ではなく、新たな文体を模索していた頃であり、各作品でその違いが窺える。 例えば1作目の「ちりちりと……」では稲見作品を思わせる自然の緻密な描写と漂う静謐感があり、その他にも坂東眞砂子氏、志水辰夫氏、天童荒太氏、風間一輝氏といった作家の作風を思わせる。 そういう意味ではヴァラエティに富んだ文体と内容の楽しめる作品集とも云えるのだが、中身はいつもの馳印。 登場する主人公たちは鬱屈した日々に疲れ、新しい生活や運命を好転させる転機などの希望を抱かず、ただ望まないながらもそうしなければいけない日々の業を成して毎日を過ごす人々ばかり。事業に失敗して死に場所を求める者、親の介護に神経と心をすり減らす者、上手く他者と付き合えず、不登校の日々を愛犬と紛らして過ごす者、自分の失敗で夢を絶たれ、親の臑を齧ってその日暮らしをする者、夫の暴力に怯えながらも別れられない者。普通に生活し、普通に給料を得て、普通に家族を持って普通に終える人生さえも望めない社会の底辺で鬱屈している人々だ。 そしてこれらの人々が各話の登場人物と直接的間接的に関わっているところに考えさせられる。つまりこれは普通の暮らしさえ望めない人が皆の周りに必ず一人はいるということを示唆しているように取れる。 あなたの隣にいる人も何らかの問題を抱えて毎日を生きているのだというメッセージ、いや気付かない事実を教えられたようにも思える。 そしてこれらが今回北海道の南の地を舞台に繰り広げられているのが特徴的だ。 各編に共通するのは凍てつくまでの寒さ。少しばかりの厚着では瞬く間に体が冷え切ってしまう。情熱的な愛を重ねても熱く感じるのはお互いが繋がっている部分だけで、その他はひんやりと冷たい。温まった部屋も少しでも外気に曝されればたちまち寒気のただ中だ。そんな場所である北の地ではなかなか人の温かみや温もりというのが持続しない。だから人は言葉少なに閉じこもって過ごすのだろう。その簡単に命さえも奪ってしまうような極寒の地だからこそ人の事よりもまず自分の事をしなければ生きていけなくなってしまうのだ。 本書のタイトルは『約束の地で』で発表は2007年。馳氏は北海道出身で作家デビューが1998年。つまりこのタイトルには作家生活10周年を迎えた暁にはその記念碑的作品を自らの故郷である北海道を舞台にしてという意味が込められているのではないだろうか? 故郷に錦を飾るという言葉があるが、馳氏は本書を以てそれを成したと云えよう。そして通常ならば自分の生まれ故郷を舞台にした作品を書くならば、それまでの作家の集大成的な作品として感動巨編的な物を書こうと思うのが普通だが、馳氏はあくまで自分の作風にこだわり、敢えて故郷を舞台に不幸な人間の遣る瀬無さが漂う物語を紡いだ。 これが彼の10年間で得た物です、そんな風に云っているように私には思えた。 多分これは私の勝手な思い込みだろうし、馳氏は一笑に付して歯牙にもかけないだろう。しかし私は氏の本心を隠した照れではないかと本書に収められた各編を通じて思ってしまう。 今まで馳氏の短編集は本当に救いのない話ばかりで、むしろ作者がわざと大袈裟に不幸を愉しんで書いているような節を感じて嫌悪感さえ抱いていたのだが、本書においては同じ不幸を描きながら、酒、ドラッグ、暴力、セックスに淫せずに我々市井の人々の中にいる不幸な人をじっくりと、しかし敢えて過剰な抑揚を排したこの物語群はそんな負の感情を抱かずに楽しめた。 これ以降の馳作品もこのような読み応えを期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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<地球市>と呼ばれる都市は軌道上に乗る動く7層からなる都市でその行先の測量をし、軌道を敷設し、断崖があれば橋を架ける。それがギルド員の仕事だった。
1年に約36.5マイル動く都市に住む人々の年齢もまた時間ではなく、距離で表現される。人は650マイル、即ち約18歳になると成人とみなされ、それら複数のギルドの中から自分が就くべき職業を選択する。そして成人になるまで都市の人々は外の世界へでることはないのだ。 クリストファー・プリーストが1974年に発表したSF小説である本書はそんな奇想が横溢する世界が舞台だ。 最適線と呼ばれる位置を目指して軌道の上を北進する都市。しかしそこは目的地ではなく、通るべき道筋に過ぎない。北への進路はすなわち進むべき未来。従ってその進路を測量する職人たちは未来測量ギルド員と呼ばれる。そして進行方向へ敷設する軌道は通過済みの軌道を回収して整備する。通過した軌道は過去と呼ばれる。そう、この移動する都市では過去が具現化して見えるのだ。 しかし物語が進むにつれて、北を未来、南を過去と呼ぶのが単なる通称ではないことが解ってくる。主人公ヘルワードの父は未来測量ギルド員だが、数日後に再会した時にはひどく老いており、また南へ下る旅の連れは次第に背が縮んでいく。 さらには山々や川が谷までもが縮んでいく。やがて地面と平行になって落ちていく感覚になり、南へ引っ張られる、南への張力が強まっていく。それは世界の遠心力によるもの。この遠心力に捉われないために都市は北へ動くのだ。やがてヘルワードは次第にこの世界がどんな仕組みであるのか解ってくる。 それは双曲線をy軸を中心に回転した縦と横に無限に伸びる世界であるとイメージを掴む。最適線とは原点にもっとも近づいた場所のことであり、そこでの1日の時間は24時間となり、もっともバランスの取れた地点なのだ。そして無限の宇宙にある有限の惑星がある地球の世界ではなく、ここでは有限の宇宙に無限の広がりの世界を持つ惑星が複数ある逆転の世界に住んでいるのが彼らなのだ。 むぅ、なんという奇想だ しかしそんな動く都市と歪む世界の摂理は第4部で驚くべき転換を見せる。 しかしこの真相の衝撃はものすごいものだ。 歪みゆく世界から逃れるために動く都市。彼らの行動原理には原因と結果が備わっており、この世を理解するに十分な論理が存在している。そんな安定した世界観を覆す奇想。 まさにコペルニクス的発想転換。当時のガリレオの地動説が発表された衝撃と黙殺しようとした学会の気持ちが実によく解る。 つまり本書の本当の戦慄すべきところは我々の住む世界の現代科学によって理論づけられ、補完されている原理原則が、実は科学者の独断と偏見による解釈によって成されているかもしれないという恐れだ。 地球には重力がある。地球は自転し、太陽の周りを公転している。紛れもなくこの世界に住む人々はこのような原理原則を信じているわけだが、果たしてそれを実際に目の当たりにした者はおらず、科学者や数学者による数式によって理論づけられているに過ぎない。 本書はそうしたことが盲信かもしれないという警句を投げかけているのだ。 しかし色んな要素を含んだ物語だ。都市に住まう人々の中にはなぜ都市は動かなければならないのかと疑問を抱く者も少なくない。しかしギルド員は南に下ることで知ったこの世の原理に基づき、それを他言することを禁じられているがために都市を動かすことを最優先事項として一心不乱に働くだけだ。 これは現代の我々の社会でも同じではないか? 会社の繁栄という大目的の中、大きな組織であればあるほど業務は細分化し、組織の末端になればなるほど自分の仕事が会社の利益にどのように寄与しているのか解らないにも関わらず、日々の仕事をこなさざるを得なくなる。なぜならそれが彼らにとって与えられた仕事、任務だからだ。 そんな社会の縮図がこの都市を動かすことに執心するギルドの仕組みに集約されているように感じた。 さらには都市の創立者のフランシス・デステインの指導書の存在だ。これはまさに聖書のようなものであり、都市の住民にとっては生きるための成すべきことが書かれた指南書だ。 これはまさに宗教であり、住民は信者という構図だ。 この読後感はまさに『猿の惑星』だ。もしこの作品を観ていなかったら本書の結末の衝撃はまさにカタストロフィが訪れたかのような衝撃に見舞われただろう。 しかしそんな先行作と比較することなく、本書の中に横溢する動く都市の業務に従事する一人の男の人生を中心にした奇想の物語にどっぷり浸って、驚いてほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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