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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数889

全889件 181~200 10/45ページ

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No.709: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

Vシリーズにはどこかアダルトな香りが漂う

Vシリーズ第2弾の舞台は長野県の別荘地蓼科(ちなみにシリーズの“V”は瀬在丸VENIKOのVから来ているらしい)。そこにある人形博物館で殺人事件が起きる。
調べてみたがこの人形博物館は実在せず作者の創作らしい。

さて今回の事件は大きく分けて3段階に分けられる。

まずは劇場で上演されていた人形文楽の最中に出演者が襲われ、もしくは殺される事件。
一方が毒を呑まされ、その騒ぎの間隙を縫って何者かが櫓上の老婆に近づき、背中から刺殺する。

もう1つは2年前に起きた悪魔崇拝者岩崎亮が何者かによって刺殺された事件。
死体発見者の妻麻里亜は3メートルを超す馬頭人身と人頭馬身の2種類の悪魔が現れ、神の白い手によって殺害されたというオカルティックな事件。

最後は瀬在丸紅子が巻き込まれた真夜中の人形博物館で起きた館長岩崎毅の毒殺事件と密室状態の病院に何者かによって喉を切られた麻里亜殺害未遂事件。

上に書いたように事件は3段階で起きるが、事件の種類は大きく2つに分かれる。
毒殺と刺殺。
毒殺は未遂も含めて岩崎麻里亜と岩崎毅の2人。刺殺は未遂も含めて岩崎亮と岩崎雅代と岩崎麻里亜の3人。
どちらの事件にも遭遇しているのが岩崎麻里亜でしかもいずれも未遂である。この辺がキーだと思われる。

しかし森ミステリのもはや定番ともいうべきか、本筋の殺人事件の真相には驚きがなく、むしろサブストーリーの謎やガジェットの真相の方に実は大きなサプライズがあるが、本書も例外ではなかった。

本書はタイトルにもあるように人形がモチーフとなっている。
世界中の人形を集めて展示している人形博物館にそこで上演されている人形を操って劇を行うばかりか演者自らが人形となって演じる乙女文楽なる伝統芸能。さらに著名な彫刻家が遺した千を超えるモナリザ人形と数々の人形が物語を彩る。
しかし人間こそが操られた人形ではないかと保呂草は最後に辿り着く。
誰かに操られているという意識は実は自らを苦難から解き放つのに最適の思い込みなのかもしれない。

さてこのVシリーズ、S&Mシリーズと違い、男女の恋のもつれ合いが前面に押し出されている。前シリーズでは西之園萌絵が准教授の犀川にアピールするものの、犀川が知らぬふりをしてさらりとかわす一方で、萌絵のピンチになると命を擲ってでも彼女を救おうとするギャップがファンには受けていたが、このシリーズでは主人公の瀬在丸紅子に離婚歴があり、その元夫林は愛知県警の刑事でダンディーな風貌で女性にもて、結婚中に部下の女性刑事と愛人関係にあったというドロドロとした愛憎劇が底流に含まれている。

かてて加えて本書の登場人物の岩崎家も乙女文楽の創始者岩崎雅代の夫の家族と彼女が愛人だった彫刻家江尻駿火との間に生まれた子供たちの家族とが混在している奇妙な関係性がある。つまり通常の家族の形とは違ういびつな関係の人々が物語を形成しているのだ。

前作のシリーズを踏襲しているのは惚れやすい香具山紫子と保呂草潤平との関係だろうか?
保呂草に恋心抱く紫子が冗談交じりでモーションをかけるのに対し、保呂草は常にクールに切り返すが、相手にしないわけではない。そして保呂草はどこか瀬在丸紅子を気にしているといった奇妙な三角関係にある。
女装癖のある小鳥遊練無はそれらの関係の中ではニュートラルな位置にあり、紫子のグチ相手となってこの奇妙な4人の関係の緩衝役といったところだろうか。

しかしどこか浮世離れしたシングルマザー瀬在丸紅子の特異なキャラクターに、謎めいた探偵保呂草潤平に紅子の元夫で刑事の林とどこか善人とは云いきれない怪しい魅力に満ちた登場人物が主役であることで実際何が起こるか解らないミステリアスな雰囲気に満ちている。
それを中和するのが小鳥遊練無と香具山紫子のコミカルな2人。実に面白いバランスで成り立っている。

あらゆる意味で先行きが興味津々なこのシリーズ。次作も非常に愉しみだ。


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人形式モナリザ―Shape of Things Human (講談社文庫)
森博嗣人形式モナリザ についてのレビュー
No.708: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

昭和の香り漂うテーマもカーに掛かれば…

本書はHM卿シリーズ14作目で比較的後期の作品だが、実に読みやすく、また展開も早いため、クイクイ読まされた。

決して許されない恋に落ちた男と女が先のない行く末を儚んで心中する、というよくある悲劇が一転して2人は至近距離で何者かに撃たれた後に崖から転落したという不可解な犯罪へと転ずる。この辺の転調が実にカーらしいケレンに満ちている。

この実にシンプルかつ不可解な事件を調べていくうちに意外なことが次第に判明してくる。

本書のテーマ“信用のならない語り手”の裏には “家族であってもそれぞれが十分に理解しているとは云えない”という実に普遍的なテーマが隠されていた。

駆け落ちする男女を犠牲者にすることで色恋沙汰の悲劇という実にオーソドックスな作品かと思いきや、ディクスンの思わぬ意図に感心させられてしまった。

そして本書ではさらにイギリスに迫りくる第二次大戦も本書にほのかに影響を与えている。

ところで毎回HM卿のコメディアンぶりがこのシリーズの定番になっているのだが、本書でもそれは健在。
足の指を骨折して電動車椅子に乗っての登場となるが、車椅子の性能を存分に試そうといきなり暴走しながら登場する。実にはた迷惑なオッサンである。
毎度毎度カーもいろんな趣向を考え出すものだと呆れるやら感心するやら。未読作品でもこの無茶ぶりが健在なのか、手に入れ次第確認していきたい。

また本書ではカー自身が得意としていた足跡トリックを当時の最新科学でミステリのように偽装することは不可能だと作中で解説しているのが実に興味深かった。作者自らがお得意のトリックを敢えて封じたことに潔ささえ感じた。

今回は新訳改訂版であったため、上にも書いたが実に読みやすかった。せっかくのカーの諸作を旧訳の古めかしい文体で読むよりも遥かにいいので、東京創元社にはこのまま新訳改訂版の出版を継続してもらいたい。


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貴婦人として死す (創元推理文庫)
カーター・ディクスン貴婦人として死す についてのレビュー
No.707:
(7pt)

アメリカ人作家の奥深さを感じさせるアンソロジー

ニューヨークはマンハッタンを舞台にした短編のアンソロジー。
そもそも本書以前に本国アメリカでは『ブルックリン・ノワール』というブルックリンを舞台にした同趣向の短編集が編まれ、それが好評だったため、シリーズ化することになり、マンハッタンを舞台にしたアンソロジーの編纂をマンハッタン在住のブロックに編者として白羽の矢が立ったらしい。

さてそんな小洒落たアンソロジーの一幕を担うのはディーヴァーの「見物するにはいいところ」。
ヘルズ・キッチンを舞台にした本作は実はディーヴァーの短編集『ポーカー・レッスン』所収の「遊びに行くには最高の街」である。正直『ポーカー・レッスン』で読んだ時はレナード張りの小悪党と悪徳警官が蔓延るクライム・ストーリーにディーヴァー特有のどんでん返しを加えた粋な作品と云う風に捉えていたが、本書のようなマンハッタンに舞台を絞ったワンテーマのアンソロジーではその読み応えは異なる。
酸いも甘いも呑み込む世界一の街マンハッタンの裏側にいきなり招待してくれるイントロダクションとして実に軽妙な一編となるのだ。
『ポーカー・レッスン』では掉尾を飾ったが本書では冒頭を飾り、いきなり読者をマンハッタンへと誘う。同じ話なのに編まれ方で斯くも味わいが違うとは、これもアンソロジーならではの妙味だろう。

続くチャールズ・アルダイの「善きサマリア人」の舞台はミッドタウン。
チャールズ・アルダイと云う作家の名は初めて聞き、当然ながら初めて読んだが、実に叙情豊かな作風で好感が持てた。
浮浪者の傍にふと佇む1人の紳士。彼は微笑みを湛えながら煙草を勧める。浮浪者にとってそれは嬉しい施しの1つであったが、それは死に向かう前のひと時の安楽に過ぎなかった。

グリニッチ・ヴィレッジを舞台にしたキャロル・リー・ベンジャミンの「最後の晩餐」は離婚の手続に訪れる夫をバーで待つ女性の物語。
夫を待つ間に様々な思いを巡らすエスターの思考が面白い。やはり女ほど面白く、そして怖い存在はないのだと思い知らされる好編。

現代アメリカミステリを代表する1人、トマス・H・クックの「雨」は雨降りそぼるマンハッタンで様々な人々が織りなす大なり小なりの犯罪を描写した群像劇。
雨は誰にでも降り注ぐ。殺人者にも窃盗犯にも変質者にも遺棄された赤子にも。そしてまた犯罪を捜査する警察官にも、そして犯罪の世界から足を洗う男にも。本作はそんなマンハッタンに住む人々を点描した作品だ。

ジム・フジッリの「次善の策」はろくでなしのバンドマンと同棲する女性の物語。
同棲男が企む銀行強盗を逆手にとって彼女を慕う女性がまんまと金をせしめ、逃亡するという市井の女性の汚れたアメリカン・ドリーム。叙情豊かな文体は悪くない。

「男と同じ給料をもらっているからには」はガーメント地区を舞台にしたロバート・ナイトリーの作品。日本から出張で来たホシ・タイキという日本人が娼婦殺人の容疑で逮捕され、警察署内をたらい回しにされるのがストーリー。
意外な展開に正直面食らうが、外国人のホシが体験する警察署での尋問の一部始終は実に面白く、興味深かった。

大御所ジョン・ラッツの「ランドリールーム」は奇妙な後味を残す作品だ。
ローラは洗濯中、息子デイヴィッドの衣類に血の痕のような痕跡を見つける。どうも最近学校にも行っていないらしく、夫のロジャーに相談するが彼は一笑に付して相手にしない。しかし彼女の懇願もあってロジャーは息子の後を付けることにした。
息子の行先は物凄いブロンド美人の住むアパートだった。ロジャーは妻に電話し、場所を説明する。ローラが現地に着くと既にデイヴィッドは帰った後だった。ローラは息子の訪れた女性を訪ねることにする。しかし彼女2人が見たのは喉を掻っ切られて横たわる女性の遺体だった。
ここまではよくある話だが、さすが『同居人求む』というサイコサスペンスを書いたラッツ。本書でも同種の展開を見せてくれる。

リズ・マルティネスの「フレディ・プリンスはあたしの守護天使」は実在したコメディアン、フレディ・プリンスが一ファンだった少女の守護天使として現れる。
どこか不思議な浮遊感を持った本作はジョー・ヒルの短編に似たテイストを持っている。実在した人物が登場し、実に軽い調子で人の人生に忠告する雰囲気が似ているのだ。
しかし結局ラケルを不幸に追い込んだフレディ・プリンスは一体何だったのか?明らかに守護天使ではなく、疫病神でしかないのだが。

マアン・マイヤーズの「オルガン弾き」も奇妙な話である。
ロウアー・イーストサイドという貧民地区で手弾きのオルガンを鳴らしながら歌を歌っては小銭を稼いで糊口をしのいでいるアントニオ・チェラザーニの生活を中心に、弱い者が常に食われるような荒んだマンハッタンの最低部での生活風景が語られる。
一介のオルガン弾きをからかい、その小銭を強奪する悪ガキたち。拾った金歯を金に換えようとする警官。そこに巣食うイタリアの犯罪組織の内偵を続ける警察官。そして何者かに殺され遺棄された身元不明の女性。
それらがロウアー・イーストサイドの空気を、臭いを感じさせる。

マーティン・マイヤーズの「どうして叩かずにいられないの?」も荒廃とした物語だ。
本作もまた社会の底辺で生きる人々の物語。ろくでなしを好きになってしまう男好きの女性の哀しい物語だ。
題名は彼女が男を殺害した後に吐露する言葉だ。しかし逆に私は「どうしてそんな男を好きにならずにいられないの?」と問いかけたい。

創元推理文庫で好評のリディア&スコットシリーズを刊行中のS・J・ローザンは私がいつか読みたいと思っている作家の1人だが、彼女の手によるハーレムを舞台にした「怒り」もまた社会の最下層の人々の物語だ。
犯罪者の再犯率は極めて高いというデータがあるらしいが、それがために前科者は更生して出所しても身の回りに犯罪が起きると真っ先に疑われる。
レックスも怒りに駆られて見境なく暴力を振っていたが、その衝動を改めて真っ当に生きようとする。しかし彼の周囲で犯罪が起こると刑事たちが執拗に訪ね、尋問する。犯罪大国アメリカで今でも起こっている哀しい事実なのだろう。
少年を救うためにレックスが起こした行動はレックスが更生した証なのだが、少年以外誰も気付かないことが哀しい。

マンハッタンでもハイソな場所チェルシーを舞台にしたジャスティン・スコットの「ニューヨークで一番美しいアパートメント」は弁護士と不動産という中流層の人たちを主人公にした物語で他の作品とは一線を画しているように思えるが、中流層は中流層なりにある狂気に駆られていることがこの作品を読むと解る。
安定した職業を持つ人々にも上昇志向という性があり、それが行き過ぎると狂気に及ぶ。これはそんな物語だ。
今まで全てにおいて2番手に甘んじていた主人公が今度こそ一番を目指したのがマンハッタンのチェルシーにあるクラシックなアパートメント。そここそが彼が子供の頃に夢見たニューヨーク・ライフの象徴だった。
一方で極上のアパートメントを妻に奪われた不動産屋もそのステータス・シンボルを略奪された思いから妻の殺人衝動を日増しに募らせ狂気へと進む。アパートメントと云う富の象徴が生んだそれぞれの執着。スコットが上手いのはそこからのツイスト。
所詮人々は幻影を求めて生きているのだと痛感させられる1編だ。

C・J・サリバンの「最終ラウンド」は下りを迎えたプロボクサーの物語。
新聞の社会欄の片隅にほんの数行のみ報じられるであろう小さなニュースだが、そこに至った人々にはかくも深いドラマが眠っている、そんな気にさせられる1編だ。

恐らくは中国系作家と思われるシュー・シーの「オードリー・ヘップバーンの思い出に寄せて」はニューヨークに暮らす中国系移民の女性のある半生の物語。
栄枯盛衰。誰しも訪れる人生の光と影。やはりこのような話はしんみりとして哀しみを誘う。

最後は編者ブロック自身による「住むにはいいところ」。
いわゆるハニー・トラップの話。
いやはや都会の夜は恐ろしい。


冒頭にも書いたように本書は先に『ブルックリン・ノワール』なるブルックリンを舞台にしたアンソロジーが先にあり、それに続くシリーズとして今度はマンハッタンを舞台にしたアンソロジーをローレンス・ブロックが編者を務めた物。

従って原題は『マンハッタン・ノワール』であり、マンハッタンの暗部を活写するようなクライム・ストーリーで構成されている。

作者の選出はブロック自身が行ったようだが、日本の読者には馴染みのない作家の作品で構成されているのが特徴的だ。本書に収録されている作家の内、日本で知られているのはジェフリー・ディーヴァー、トマス・H・クック、ジョン・ラッツ、S・J・ローザン、そしてブロック本人ぐらいだろう。その他10名の作家は邦訳がなく、あっても1冊のみと云った未紹介作家の名前が並ぶがそれぞれが個性的でしかも読ませる。アメリカ作家の懐の深さを思い知らされた次第だ。

人種のるつぼニューヨーク。冒頭ブロックがニューヨークで“街”と云えばマンハッタンを指すと述べている。つまりマンハッタンこそがニューヨークの中心であり、アメリカの中心であり、そして世界の最先端の街である。
しかし本書に収められた作品に描かれたマンハッタンはそんな大都会の片隅で這いつくばりながら生きる人々が描かれている。彼らの生活は決して華やかではない。むしろ弱肉強食の世界に放り込まれた弱者たちで力に従い、したたかに生きている人々たちだ。

それは原題にノワールと掲げられているからかもしれないが、全体的に物語は暗鬱でペシミスティックだ。そしてどちらかと云えば誰もが誰かを出し抜こうと手ぐすね引いて待っている、そんな悪意が行間から立ち上ってくる。

そんなノワール色濃い短編集だが、個人的ベストはS・J・ローザンの「怒り」、ジャスティン・スコットの「ニューヨークで一番美しいアパートメント」、C・J・サリバンの「最終ラウンド」を挙げたい。

ローザンとサリバンの作品は底辺で暮らす人を主人公に据えながらも最後に前向きで明るい光が見えるような話になっているからだ。罪のない子供が冤罪で逮捕される所を身代わりになる元犯罪者と最盛期を過ぎ、家族を強盗で喪ったプロボクサー。決して明るい結末ではないが、善行による魂の救済が見られる。

そしてスコットの小説は中流層の人間が陥りがちな資産に自分のステータスを見出すことによる過ちを描いたのが特徴的で他の作品群と一線を画す。最後の皮肉な結末も含めて飽きさせない。

最近は編者としての技量も発揮しているブロック。創作よりもアンソロジーを編むことに専念する大御所作家が多い中、ブロックはその後も自作を発表しているところが素晴らしい。本書はニューヨークに馴染みのない日本人にはなかなか街の空気までも感じられないだろうが、日本未紹介作家の佳作たちに触れる数少ないチャンスである。

ジャスティン・スコットとC・J・サリバンの作品が読めただけでも収穫があった。他の未紹介作家の邦訳が進めばいいのになと思わされた短編集である。


▼以下、ネタバレ感想
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マンハッタン物語 (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロックマンハッタン物語 についてのレビュー
No.706: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)
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御手洗が瀬戸内海を巡る巡る

久々の御手洗潔シリーズ長編はなんと島田荘司氏の故郷福山を舞台にした瀬戸内海を巡るミステリ。
短編からは『進々堂世界一周 追憶のカシュガル』以来2年ぶりだが、長編としては2005年に出版された『摩天楼の怪人』以来、なんと8年ぶりの刊行となった。

本作は『ロシア幽霊軍艦事件』の後1993年頃に遭遇した瀬戸内海を舞台にしたミステリで、つまり海外を舞台にしたミタライではなく、往年のシリーズファンには非常に馴染みやすい石岡和己との名コンビが味わえる作品となっている。

本書は文庫で上下1,140ページ物大長編であるが、文字のフォントが大きいため、90年代に毎年のように記録を更新するが如く刊行された大長編ほどの大部では無いように感じられる。そして物語の枠組みはそれらの作品で見られた様々なエピソードをふんだんに盛り込んではいるものの、全てが御手洗の扱う事件も含めて広島県の鞆という町が舞台となっている。

まず御手洗が今回扱う事件は愛媛県の松山市の沖合にある島、興居島で頻繁に死体が流れ着く怪事から物語は幕を開け、やがてその源である福山市の鞆に行き着き、そこで新興宗教が起こした奇妙な征服計画に対峙する。

この物語を軸にして他に3つのエピソードが盛り込まれる。

1つは小坂井茂という鞆で生まれ育った男が巻き込まれた数奇な半生の話。

もう1つは村上水軍と福山藩主阿部家について研究している大学助教授滝沢加奈子に纏わる『星籠』という謎めいた言葉に関する物語。

そしてもう1つが鞆で飲み屋を営むシングルマザーの子供宇野智弘と彼を支える造船会社々長忽那との世代を超えた交流の話。

しかしこれらのエピソードが実に読ませる。これだけで1つの話として十分読むに堪えうるものとなっている。

特に1つ目の小坂井茂という端正な容姿だけが取り柄の優柔不断な男が辿る、女性に翻弄される永遠のフォロワーの物語が後々事件の核心になってくる。一歩間違えば誰しもが陥るがために実に濃い内容となっていてついつい先が気になってしまうほどのリーダビリティーを持っている。

小坂井茂自身が事件を起こすわけではない。この主体性の無さゆえにその時に出遭った女性に魅かれ、云われるまま唯々諾々と従いながら人生を漂流する彼の生き方が自分を犯罪へと巻き込んでいく。つまり何もしない、何も考えないことが罪であると云えよう(ここで重箱の隅を1つ。小坂井の友人田中が経営する自動車整備工場でガソリンをポリタンクに入れているという件があるが法律では禁じられているのでこの辺は重版時に修正した方がいいかと)。

また3つ目の忽那と智弘との交流のエピソードにも島田氏は社会問題を盛り込むことを忘れない。1993年が舞台である本書であるが、原発のある南相馬で育った智弘は幼い頃から川や海で遊んでおり、工場排水に含まれる放射性物質で被曝して白血病を患って亡くなるのだ。実は放射能問題は大震災前から起きているのだと島田氏は現在稼働している原発周辺の住民にも警鐘を鳴らす。

また今回御手洗が立ち向かう相手は日東第一教会というネルソン・パクなる朝鮮人によって起こされた新興宗教というのも珍しい。最終目標の敵が明らかになっていることも珍しく、いかに彼を捕えるかを地方の一刑事である黒田たちと共に広島と愛媛を行き来する。
とにかく今回は御手洗が瀬戸内海を舞台に縦横無尽に動き回るのだ。私は読んでいてクイーンの『エジプト十字架の謎』を想起した。

御手洗によって語られる日東第一教会は世界的規模で信者を増やしており、日本の鄙びた港町鞆を足がかりに日本の侵略を計画しているという。

都会よりも限られた人口で共同意識を持つ田舎の方が、逆に御しやすく、牛耳りやすい。そして狭いコミュニティでは異分子は排他されるがために同一行動を採らざるを得なくなる。日本だけでなく世界でも田舎ほど怖い所はないのだ。

政界、財界の有力者を信者にし、反米感情を植え付けるような怨嗟教育を施し、誘導する。さらに本国で作った覚醒剤を持ち込み、日本で売り捌いて金や貴金属を購入し、本国に持ち帰る。そして犯罪者を匿うことで信者を増やし、それが更なる信者を生んでいく。

また異性と縁のない独身者に信者から候補者を紹介して結婚を斡旋する。聞こえはいいが、その実は朝鮮からの流れ者をあてがうだけで、いざ結婚したか思うと言葉も通じず、困り果てるが、教祖が紹介した相手を断ると報復が待っているから離婚も出来ないと二重苦三重苦に苛まれる。

これらは恐らくある実在する新興宗教をモデルにしているのだろうが、このようなことが実際に行われていると考えると実に恐ろしい。
社会的弱者に対してこのような宗教は巧みに心に滑り込み、救済という名目で洗脳を行う。それは自分も含め、誰しも起こり得ることなのだ。今現在自らに縁がなくて本当に良かったと思う。

この瀬戸内海に関する情報も実に面白い。
本書に登場する中国工業技術研究所は実在するようで、産業技術総合研究所で1973年に瀬戸内海を模した水理実験室が建設されている。瀬戸内海が他の海と違って急流があり、地形の複雑さ故に潮の流れが複雑で、また6時間ごとに潮流が変化する、ど真ん中を境に潮の流れが分断されていると述べられている薀蓄は実に興味深い。
恐らくは長らく瀬戸内海沿岸で暮らす人々にとっては既に当たり前の事なのだろうが、実に興味深く読んだ。

本書は比較的万人受けするミステリだろう。
とはいえ、死体が流れ着く島からやがて地方都市で繰り広げられる新興宗教の陰謀へと繋がり、そこに一介のベビーシッターの過失が奇妙に絡まって、更には村上水軍に纏わる『星籠』という兵器の謎と歴史ミステリの要素もありと単純に人が殺されて誰がどうやって何故殺したのかを追うだけのミステリに留まっていないのが御大島田氏の凄い所だ。
ただかつて90年代に出された、古代エジプトやタイタニック号沈没などのエピソードに大部の筆を費やし、一大伽藍を築くような荘厳たるミステリを経験してきた一ファンとしては物足りなさを覚えるものの、御手洗が初対面の人物の性格や生活の有様を一目で看破し、次から次へと暴露していく辺りはかつてホームズのオマージュである御手洗シリーズの原点回帰であり、特に嬉しいのが御手洗の奇人ぶりが復活しているところだ。アメリカでは歯を抜いた後、歯医者がアイスクリームを勧めるとか、本当かどうか解らない薀蓄を語るのが実に御手洗らしい。

ドイルが築いた本格ミステリに冒険的要素を加えた正統な御手洗ミステリの復活を素直に喜びたい。とにもかくにも故郷を舞台にした島田氏の筆が実に意欲的で、作者自身が渾身の力を込めて書き、また愉しんでいるのが行間から滲み出ている。
本書は映画化されたのでそちらも愉しみだが、それを足掛かりに国内のみならず世界を駆け巡る御手洗の活躍をスクリーンで今後も観られることを期待しよう。


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星籠の海(上) (講談社文庫)
島田荘司星籠の海 についてのレビュー
No.705:
(7pt)

おおっ、『ジャッカルの日』だな、こりゃ

日本から戻り、再び閑職のデスクワークに従事して燻っていたチャーリーにもたらされた任務はまたもやロシアからのKGB要員の亡命に関するもの!

いやあ2作続けてロシアからの亡命者をテーマにするということは、恐らく彼が取材で得たKGBの情報を余すところなく自作で使いたかったようだ。

前作『暗殺者を愛した女』ではKGBの暗殺者の亡命がテーマだったが、本書ではKGBの暗号作成部門の上職位者による亡命で名も無きKGBの暗殺者がどこかの誰かを暗殺するという情報からチャーリーがその計画を阻止するという、いわばフリーマントル版『ジャッカルの日』とも云うべきミステリとアクション風味が色濃く合わさったエンタテインメント作品になっている。

そんな謎の暗殺者を突き止めていくMI6、CIA、モサドのそれぞれの代表者たちのうち、やはりチャーリーの冴えが光る。自分が生き残ることを第一義としてきた窓際スパイゆえの周囲の欺き方、身の隠し方、振舞い方に加えて一時期ロシアで暮らした事で得た彼らの国民性をも熟知しており、一見何の隙もないと思われた影なき暗殺者のロシア人故の不自然な振る舞いを手掛かりに突き止めていく辺りは実にスリリングでしかも痛快だった。

そんなチャーリー・マフィンの明敏さを目の敵として本部より非協力的であれと命ぜられていたCIAエージェントのロジャー・ジャイルズも認め、本部の命令に背いてまでチャーリーに力を貸す。
プロがプロを認めたこの瞬間だ。こういうエピソードは本当に胸のすく思いがする。

そして本書のミソは舞台がスイスのジュネーヴであることだ。
永世中立国であるスイスではテロに対する部門はあるものの、そもそもテロが起きるという発想がなく、平和のイメージを損ねることを嫌う。従って本書の防諜部長ルネ・ブロンはそんなスイスの空気の読めなさを象徴するような道化役になっている。

さて本書では今までにも増して諜報機関に従事する人々の織り成す人間喜劇と云う色合いが濃くなっている。

まず前作から引き継がれるハークネス次長とチャーリーの確執は一層強まっており、経理畑の長かったハークネスはチャーリーが経費を騙くらかそうとしているのをどうにか阻止しようと様々な書類を提出させようとしている。この辺はもう会社のお堅い経理部長そのもので、日本のサラリーマンならば苦笑を禁じ得ないところだろう。
そしてチャーリーの経費に腐心するあまり、MI6としての本来の任務―工作員の捜索と国の安全維持―に関する作戦の立案については全く考えていないところを部長のウィルソン卿に指摘され、何も云えなくなる件は実に傑作だ。

またチャーリーだけに留まらず、各国の諜報活動に携わる人物たちも同様で、例えば円満な離婚を迎えようとしているCIA情報部員のロジャー・ジャイルズの妻バーバラは離婚の理由については思い当たるふしがないとしながらも、情報部員の妻であるのに夫の仕事に何もドキドキハラハラしない事が不思議でならないと述べる。
つまり彼女にとって情報部員の妻として描いていた生活が一般人のそれとなんら変わらないことが不満だったのだ。

しかし本書のタイトルはディック・フランシスの競馬シリーズを想起させる『狙撃』の二文字のみでシリーズに共通してきた『~した男』や『~した女』という定型から離れている。
また原題もそれまでチャーリー・マフィンの名前が冠されていたが本書では“The Run Around”と異なっている。さらに本書は『亡命者はモスクワをめざす』から始まったKGB対チャーリー・マフィンの流れを汲んでいるようだ。

しかもエピローグではKGBのベレンコフがとうとうナターリャ・フェドーワに目を付けたところで幕を閉じ、不穏な空気を纏わせている。

それなのに次作“Comrad Charlie”は未訳のままで、恐らく邦訳はされないだろう。
ナターリャに一体何が起きたのか。シリーズのその後を読んでいる ので彼女らの安穏は保たれたようだが、シリーズ読者としてはその経緯を読みたいのが性。どんな事情があるのか不明だが、全く残念でならない。

さて失礼だが、高齢ゆえにシリーズの先々が気になるところ。新潮社には決して途切れることなく最後まで邦訳を出してほしいと切に願う。


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狙撃 (新潮文庫―チャーリー・マフィンシリーズ)
ブライアン・フリーマントル狙撃 についてのレビュー
No.704:
(7pt)

チャーリー、日本へ!

チャーリー・マフィン、アジアへ!
シリーズ7作目の舞台はアジアでまず最初に訪れるのが何と日本!題名も“Charlie Muffin San”とフリーマントルらしく人を食ったタイトルだ。

今回のチャーリーの任務は亡命を企むKGBの暗殺要員ユーリー・コズロフの奇妙な依頼に対応することだ。それは彼自身はアメリカへ、妻イレーナはイギリスへ亡命させたいというもの。しかしMI5とCIAは共同作戦と云いながら両方を得ようと企んでいる。そしてその作戦の白羽の矢が立ったのがチャーリー。

まずコズロフがCIAと出会う場所が鎌倉と云うのがミソ。東京タワーや東京駅といった80年代当時の外国人が抱く日本の典型的な観光地を選ばず、都心から離れた観光地を選ぶところが日本の情報に通じていることを感じさせる。
しかしその後は銀座線に乗ったり、銀座でしゃぶしゃぶを食べたり、イレーナと落ちあうのにはとバスを思わせる観光バスに乗ったりと、恐らくは来日したフリーマントルが経験した日本訪問時の出来事をそのまま利用しているように感じ、なかなか面白い。
また80年代当時の日本の風景も懐かしさを感じる。この頃はまだ駅の改札口は自動化されてなく、切符バサミの音を蟋蟀の鳴き声のようだと例えるフリーマントルの発想が実に興味深い。

とにかく前述したように今回フリーマントルは日本での滞在で入念に取材を重ねたようで特に複雑な東京の鉄道網の乗継について正確に説明しているところに驚きを覚えた。恐らく海外作家でこれほど細かく日本の公共交通機関の乗継に触れたのは彼の他にはいないのではないだろうか?

しかし本書の邦題には唸らされた。
『暗殺者を愛した女』とは妻イレーナを指しながら、コズロフのために馴れない暗殺に挑戦する愛人オーリガをも示している。どちらもしかしこの1人の暗殺者の犠牲者であるのは間違いない。作中でしきりに描写されるイレーナの、女性としてはあまりにも大きすぎる体格について彼女自身が涙ながらに自身のコンプレックスについて吐露するシーンには同様の悩み―その体格ゆえに女性らしく淑やかに慎ましく振舞おうとしても威圧的になってしまい、相手が委縮してしまう―を抱える女性には痛切に響くのではないだろうか。

ただ1つだけ重箱の隅をつつくなら、日本はちょうど雨季の最中だったという件だ。
これは恐らく“rainy season”を訳したものだと思うが、雨季とは熱帯地方のそれを指すのであり、日本に雨季はない。ここはやはり梅雨時と訳すべきだろう。実に細やかな訳がなされている稲葉氏の仕事で唯一残念に思ったところだ。

しかしフリーマントル作品でこのチャーリー・マフィンシリーズは安心して読める。それはチャーリーが必ず生き残るからだ。
フリーマントルのノンシリーズの主人公の扱い方のひどさには読後暗鬱になってしまうほど悲劇的である場合が多い。
確かにこのシリーズもチャーリーが生き残る為に周囲に行う容赦ない仕打ちによって情報部員としての生命を絶たれる登場人物も多々あり、読者は決して組織の中で正当に扱われていない風貌の冴えない一介の窓際スパイが長年培った処世術と一歩も二歩も先を読む明察な頭脳でMI5のみならずCIAやKGBを手玉にとって最後には生き残る姿に胸のすく思いを抱くからだ。
これは今日本で多く親しまれている池井戸作品と同様のカタルシスがある。本来であれば池井戸作品同様に評価されてもいいのだが、国際政治という舞台が日本の読者に敷居の高さを感じさせるのであろう。

しかしそれでもチャーリー・マフィンシリーズはフリーマントル特有の皮肉さが上手く物語のカタルシスに結びついた好シリーズであるとの思いを本書で新たにした。
となるとやはり読みこぼしたシリーズ作品は読まないといけないな。新作は期待できないが過去の未読作品で改めてこの窓際スパイの活躍を愉しむことにしよう。


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暗殺者を愛した女 (新潮文庫―チャーリー・マフィンシリーズ)
No.703:
(7pt)

1985年の『犬の力』

おとり捜査と云えばたとえば婦人警官が一般女性に成りすまして、痴漢を誘って実行犯逮捕するといったチープな物を日本では想像するが、アメリカでは特にFBIによって大々的に行われており、その仕組みも複雑だ。
題名がその物ズバリである本書ではさすが一流ジャーナリスト出身であるフリーマントルだけあってダミーの投資会社設立による麻薬カルテルのマネー・ロンダリングの実体を掴んで検挙する方法での一斉検挙を目論むFBI捜査官と、図らずもFBIの思惑で架空の投資会社の代表取締役を担うことになったウォール街随一の投資家ウォルター・ファーを主人公に物語が進む(ちなみに原題は“The Laundryman”つまり『資金洗浄屋』とこれもかなり直接的)。
このウォルター・ファーの深い知識を通じて会社設立の詳しいノウハウやさらには中南米のいわゆるタックスヘイヴンと呼ばれる小国で実際に行われている複雑な資金洗浄の方法や資金運営のカラクリが語られ、一流の企業小説、情報小説になっているところが面白い。

本書では囮捜査のターゲットとしてフリーマントルは麻薬大国コロンビアの一大麻薬カルテルの元締めの検挙を取り上げている。南米、とりわけコロンビアやボリビアの麻薬事業はもはや地元の警察も袖の下を摑まれ、全てが麻薬カルテルの意のままにされており、その市場がアメリカのマフィアを通じて拡大しているのは現代でも問題となっており、ドン・ウィンズロウの『犬の力』でも圧倒的な熱を持って語られたのは記憶に新しいところだ。
1985年に発表された本書でもその状況は変わらず、唯一違うのは本書でFBIのターゲットとされる元締めのホルヘ・エレーラ・ゴメスが一大麻薬組織のボスとなるため、アメリカのイタリア系マフィア、アントニオ・スカルレッティと組んで、一大麻薬コネクションを作り、さらに市場をヨーロッパに拡大する取っ掛かりであることだ。つまり現在の大組織メデジン・カルテルをモデルにした物語であるということだろうか。

高校生の息子が実はヤクの売人だった廉でFBIの麻薬捜査に協力するため、業務の合間を縫ってカイマン諸島に資金洗浄を目的とした投資会社を設立させられるマンハッタンの一流投資家ウォルター・ファーの敏腕ぶりが実に際立つ。
業務の合間を縫ってカイマン諸島とニューヨークを行き来し、長らく没交渉だった息子の回復の様子を見にボストンにも赴く。さらに作戦に参加したFBI女性捜査官ハリエット・ベッカー(美人でグラマラス!)と恋に落ち、再婚するに至る。開巻当初は8年前に病気で亡くした妻アンへの未練を引きずっているセンチメンタルな人間だったが、ハリエットと出遭ってほとんど一目惚れ同然で徐々にアタックしていき、恋を成就させる、まさに仕事もでき、恋も充実する絵に描いたような理想の男性像で少々嫌味な感じがしたが、いやいやながら協力させられた囮捜査で頭角を現し、作戦の指揮を執るFBI捜査官ピーター・ブレナンを凌駕して捜査のイニシアチブを取るほどまでになる。
世界を股にかけた彼の投資に関する緻密で深い知識も―正直私が全てを理解したとは云い難いが―彼の有能ぶりを際立たせ、次第に彼を応援するようになっていく。

しかしそこはフリーマントル。すんなりとハッピーエンドとはいかない。
現実は甘くないと、マフィアの恐ろしさを読者に突き付ける。主人公のやむを得ない善行の報いがこの仕打ちとは何とも遣る瀬無い。
本当、フリーマントルは夢を見させない作家だなぁ。

目には目を。歯には歯を。古くはハムラビ法典にも書かれている復讐法をウォルター・ファーは実行する。
しかしそこに達成感はなく、荒涼とした虚無が広がるばかりだ。正義を成すにはその代償も大きい。
フリーマントルはフィクションだからと云って単純なヒーロー物語を描かない。しかしこれほど現実的なエンディングを描くことでますます市民が正義を成すことで恐れを抱くことを助長させているように思われ、正直手放しで歓迎できない。
せめて物語の中では勧善懲悪の爽快感を、市井のヒーローの活躍譚を味わいたいものだ。

しかし今なお麻薬カルテルの際限ない戦いの物語は紡がれており、それらの読後感は皆同じような虚無感を抱かせる。
それは麻薬社会アメリカの深い病巣とも関係しているのかもしれない。麻薬を巡る現実は今も昔もどうやら変わらないようだ。


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おとり捜査 (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントルおとり捜査 についてのレビュー
No.702:
(7pt)

結末が現実的すぎる!

ジャーナリスト出身のフリーマントルがイギリス紙のワシントン特派員レイ・ホーキンズを主人公にして著した作品はかつて偉大な新聞記者として勇名を馳せた父親も関係したヴェトナム戦争の書かれざるある真実だった。

今なおアメリカ人にとって歴史上の汚点とされるヴェトナム戦争には曰くつきの逸話が残されており、またソシオパス(人格障害者)を数多く生みだした暗い歴史を孕んだ、まだ記憶に新しい史実であり、調べれば調べるほどおぞましい話が出てくるのだろう。恐らく兵士の数だけ忌まわしい話があるに違いない。

そして通常このような戦争に隠された真実を暴く物語ならば、その作戦に関与していた生存者たちは口を閉ざし、頑なに秘密を守ろうとし、そのため全てを明るみに出そうとする主人公に対して危難が襲い掛かるのが定型だが、フリーマントルはそんな定石を踏まない。

なんと物語の中盤では孤児救出作戦に関わり、戦死したと思われた元グリーン・ベレー隊員4人はヴェトナムで捕虜として生存しているが判明し、その救出作戦にかつて同じ任務に就いていた生存者2人を採用するのだ。
つまり記録の空白の原因だと思われた2人は隠された事実に固執せず、実は目の前で4人が亡くなるところ目撃したために自ら真実を暴こうと積極的に関わるのだ。

この辺の身の躱し方がフリーマントルらしいと云えるだろう。

そして当事者によるアメリカ人捕虜は無事救出されるが、彼らの精神状態は無反応なままで一向に回復する兆しが見られない。最後の手段として彼らが囚われの身となった孤児救出の一部始終を撮影した件のビデオを見せるという荒療治を行うが、そのことが救出作戦に隠された忌まわしい秘密を暴くことになる。

レイ・ホーキンズに一連の救出劇の生存者たちの証言が実に都合よく捻じ曲げられた真実であったかを悟らせるきっかけが実に見事だ。これには思わず唸らされてしまった。

自身のジャーナリズムを貫徹するために彼が選んだのは真実を暴く事。それは大統領に選出されたピーターソンを失脚させるのみならず、英雄視された花形記者であった自身の父の名誉をも汚すことになる。そうなれば世界的ベストセラーが見込まれている父の伝記の出版も中止され、父の功績に泥を塗る行為になるのだが、それでも彼は躊躇わずに真実を白日の下に晒そうと決意する。
その行動原理は確かに上に書いたように彼の強いジャーナリズムに起因しているのだが、それを超える動機は次期大統領夫人エレナを自分の物にしたいという愛欲なのだ。

結末はやはりフリーマントルらしい皮肉を孕んでいる。作り物の物語であってもそうそう正義は簡単には貫けないのだと仄めかしているようだ。
しかし逆に物語だからこそ現実では難しい「正義は勝つ!」というセオリーを描いてほしかったのが私の本音ではあるのだが。

安定と混迷。
真実を暴くことで正義はなされるがそれによって国が被るのは大きなダメージ。
大人になればなるほど後々の結果を考えて予定調和を目指して敢えて真実から目を背けようとする。
そんな苦い結末を見せるとは。う~ん、なんて現実的な人物なんだ、フリーマントルは!


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空白の記録―孤児救出作戦の真相を知った男 (新潮文庫)
No.701:
(7pt)

まさにスパイゲーム!

CIAとKGBの共同作戦と云えば同作者のFBIとモスクワ民警のコンビ、ダニーロフ&カウリーシリーズを想起させるが本書はそれに先駆ける事12年前に書かれた作品。CIAとFBI、KGBとモスクワ民警といった違いはあるものの、恐らくはダニーロフ&カウリーシリーズの原型となる作品なのかもしれない。

さてこの水と油とも云える2大諜報組織の長を務めるのはCIAはジェームズ・ピーターソン。大統領から直々に作戦の指揮と失敗した時の全責任を負うことを担わされた男。そして彼は長官の地位と引き換えにバラバラになった家族を抱えている。

家庭を省みない夫に愛想を尽かし、日々のパーティの繰り返しでアルコール依存症となった妻ルシール。

優秀な成績を修めて大学を卒業しながらも今や法の目を潜り抜けて犯罪を繰り返し、新聞紙上を時折賑わせている息子ポール。

新興宗教のコミューンに入り、消息不明の娘ベス。

KGBとの合同作戦と云う前代未聞の大プロジェクトを抱えながらも家族の問題にも目を向けなければならない境遇を背負っている。

片やKGB議長のディミトリー・ペトロフは政敵リトヴィノフの執拗な攻撃を疎ましく思いながらも自分の地位を維持している実力者。かつて世界的バレリーナ、イレーナ・シニヤフスカヤとの情事に溺れていたが、彼女の亡命を機に縁が切れるや否や愛する妻ヴェレンティーナを癌で喪った男だ。彼の唯一の弱点は今もまだ未練の残るイレーナへの想いだ。

そして初の米ソ共同作戦のメンバーに選出された面々は以下の通り。

CIA側は宇宙センターで働いた実績のある科学者マイケル・ボウラー、聖職者になる寸前で工作員となったヘンリー・ブレイキー、ヴェトナム戦争で代位級の勲功を立てた陸軍将校ハンク・ブラッドリーとその部下たち。

KGB側はドイツ人の血を持つソヴィエト宇宙探査本部から転身した科学者ゲルダ・リンツ、ロシア正教の司祭を祖父に持つウラジミール・マコフスキー、KGB工作員の長官で自身の自慢の部下をチャドの秘密基地潜入作戦で3人も喪い、復讐に燃えるオレグ・シャラコフとその部下たち。

彼ら彼女らで編成されるチームは大きく分けて3つ。

まず典型的とも云えるのがブラッドリーとシャラコフをリーダーとして構成される軍隊で基地を武力で制圧するチーム。

もう1つはボウラーとリンツで構成されるロケット技術者を装ったボンからの査察団として内部からの破壊工作を行うチーム。

最後の1つは異色で聖職者の血筋を持つブレイキーとマコフスキーのチームは司祭を装って枯葉剤と青酸を村々に盛ってこれらの災いが基地からもたらされていると風評を流して外部から打ち上げを妨害させるチームだ。

そしてこれらのチームは通信衛星打ち上げ妨害にそれぞれ成果を挙げて近づいていくが、あと一歩のところで失敗に見舞われる。

本書が発表された1980年当時の世間一般のモサドに対する知識がどれほどだったか解らないが、やはり世界の諜報合戦の主役はCIAでありKGBであったことだろう。そしてジェイムズ・ボンドで有名なイギリスのMI6がそれに続く世間で知られた諜報組織だったのではないだろうか。

しかし一方で原題“Misfire”もまたフリーマントルらしいダブルミーニングを孕んだ皮肉な題名である。
ここでいう“不発”は米ソ共同作戦の失敗を意味しつつ、通信衛星打ち上げの失敗をも意味している。読み進むにつれてその意味が変わってくる抜群のタイトルだ。

個人的にはいぶし銀の活躍を見せるCIA副所長ウォルター・ジョーンズがアカデミー助演男優賞を与えたいくらい気に入ったキャラクターだった。

なお前書きでフリーマントルは本書で書かれた中央アフリカに作られた民営企業数社による通信衛星打ち上げ会社は実在すると述べている。2020年現在も存在するかは不明だが、宇宙を制する者が世界を制するとしてスターウォーズに目を向けていた世界はこんな仇花をも生み出していたことに改めて驚愕する。

国対国ではなくテロ対国家という敵の構図が変化した現代、再びこのような形で争いの火種を生む民間企業が生まれていないことを強く望みたい。


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最後に笑った男〈上〉 (新潮文庫)
No.700: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

刑事、会社の重役とその部下、老夫婦、やくざ、女子高生、看護婦、主婦とその子供、ニートの若者。貴方はどのタイプ?

東野圭吾氏によるSFサスペンス長編。3月13日13時13分13秒に起きたP-13現象なる超常現象で世界中の人々が一部を除いて一瞬にして消失するパニック長編である。

まず驚いたのはP-13現象が起きた後の世界ではほとんど全ての人間が消失し、運転していた車がところどころで衝突し、事故の山を築き、飛んでいた飛行機もまた墜落している、まさに地獄絵図のような状況が繰り広げられることだ。
私は最初この情景描写を読んだ時にアメリカドラマの『フラッシュフォワード』を想起したが、その後度重なる巨大地震と集中豪雨で川が決壊し、地震と重なった起きた津波の描写で東日本大震災を想起した。
しかし本書は2009年4月に刊行された作品で東日本大震災は2年後の3.11なのだ。まさに本書で描かれた状況は当時の被災地の人間が体験したそれのように思えるのだ。
『天空の蜂』もまた3.11で起きた原発事故を予見するような内容だったが、それに加えて被災地の状況をも予見した作品として読むと驚愕に値する。

そしてほんの十数人を残して消え去った人々の世界を東野圭吾氏は持ち前の想像力とシミュレーション力で克明に描いていく。食糧危機にライフラインの根絶、あまり小説で描かれない登場人物たちのトイレ事情なども忘れずにきちんと書くところがこの作家が他の作家とは一線を画した存在であると云えよう。実にリアルである。

最も印象に残るのは度重なる危難の際に集団のリーダーとして皆を先導する久我誠哉の冷静な判断だ。

翻って腹違いの弟冬樹は感情に任せた判断をしては兄の誠哉に諌められる。しかし冬樹の判断こそが通常我々が陥る一般常識だ。

しかし有事の時はその常識が役に立たなくなる。

例えば1人の死にかけた人間が出れば、可能性がある限り、一命を取り留める措置を全力でするのが常時だが、未曽有の災害が起きた時では助かるか解らない1人のために全員を犠牲にするわけにはいかないから、見殺しにすることが求められる。

これまで自分が絶対だと信じていたものが、次々と壊れていくのを彼は感じていた。

これは冬樹の心情を表した作中の一文だが、実に正鵠を射ている。

もはや国家と云う拠り所が無くなった状態では今までの道徳や決まりごとが無意味となり、彼らが最大数で合致する価値観に添って物事が決められる世界になることを節目節目で語っていく。

ただ一方で冷静に判断を下していた誠哉も理性や論理だけでは全てが解決しないことを知らされる。

皆がインフルエンザに次々に感染していく中、冬樹はタミフルを飲ませるために嵐の中、病院に取りに行くという一か八かの賭けに出る。幸いにして満身創痍になりながらもその試みは成功するが、それは常に皆の安全を考えて消極的に行動する誠哉にはできない事だった。

つまり常に安全圏にいては何も変わらず、ただ死を待つだけであり、時にはリスクを抱えて行動しなければならない事、そして人間はその意志の強さで思いも寄らない成果を挙げることを誠哉は目の当たりにするのだ。

そして次第に誠哉の論理的思考はエスカレートしていく。
極限状態の中、もはや生存者が彼らだけとなった事実を突き付けられた後、誠哉は残された人類だけで繁栄する方法を披露する。それは皆がアダムとイヴとなって子孫を増やしていくという選択だった。流石に好きでもない相手とセックスは出来ないと女性陣は皆、強い拒絶反応を示し、それが仲間たちの団結に亀裂を生じさせてしまう。
皆がそれぞれの考えで生き方、死に方を選ぶようになるのだ。つまり論理的思考が全てではなく、理屈では割り切れない物が人間にはあるのだ。

論理的思考型人間の久我誠哉と感情的行動型人間の弟冬樹の2人を対照的に描くことで物語に起伏を、そして読者の思考に揺さぶってページを繰る手を止めさせない東野氏の筆致に改めて感心した。

『プラチナデータ』の時も思ったが東野氏のSF物は結末が正直に云ってカタルシスに欠ける結末が多い。

本書でもP-13現象によって図らずも並行世界に取り残された面々は再び起こるP-13現象で救われるわけではない。いや並行世界で死んだ者は揺り戻しによって再び亡くなり、生き長らえた者たちのみ死を免れるのだ。このドライさが何とも云えない苦さを後味として残す。

本書のキーワードは一同のリーダー格である久我誠哉が苦難に見舞われた時に呪文のように唱えるのが「天は自ら助くる者を助く」だ。

これがもしクーンツ作品ならばP-13現象というパラドックス現象を逆手にとって彼らの苦難を全てリセットされたかのように全員生還する、もしくは生まれ変わりになって新しい人生を歩むと云った何らかの救いを設けるのだが、東野氏は敢えてそんな安易な道を選ばず、生と死のシビアな二者択一のカードを切り、犠牲者を容赦なく切り捨てる。

これをどう捉えるかは読者次第なのだが、私はやはりパラドックスを成り立たせた上のハッピーエンドが欲しかった。確かに本書の結末もハッピーエンドではあるのだが、あまりにもドライすぎると感じるのは私の甘さだろうか。

ただ本書は単にSF的興味やクライシス小説として読むには勿体ない。大災害が発生した時に生存するためにいかに行動し、どのような選択をしてくかを示した一種の指南書にもなり得るからだ。
絶望的状況に見舞われた老若男女たちがそれまでの人生の中で培った価値観によってどのような選択をしていくかもまた読み処だ。それぞれが己の人生観に添った選択をするため、それぞれに一理ある。
刑事、会社の重役とその部下、老夫婦、やくざ、女子高生、看護婦、主婦とその子供、ニートの若者とメンバーは実にヴァラエティに富んでいる。
そのどれに自分を重ねるか。そんな風に自分と照らし合わせて読むのもまた一興だろう。


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パラドックス13 (講談社文庫)
東野圭吾パラドックス13 についてのレビュー
No.699:
(7pt)

9・11を経た殺し屋稼業の意味に迷う心の振幅が興味深い

殺し屋ケラーの第2短編集。彼は今回も依頼された仕事を遂行するため、そしてそのついでに趣味の切手を買うために軽快に全米を飛び回る。

「ケラーの指名打者」ではケラーはターポンズの指名打者フロイド・ターンブルの暗殺を依頼される。
メジャーリーグの指名打者がターゲットと野球好きのブロックらしいネタで幕を開ける。大記録を目前とした大打者がターゲットである理由が正直解らないのがこの話のミソだ。
ケラーへの依頼は斡旋人のドットを通じてくるわけだが、ドットもまた仲介人を経て依頼を受けるため、目的については不明。ケラーは野球観戦で知り合った野球通の男から聞いた話からターゲットになった理由を推理するが、実際にこんな選手はいるのだろうと思わされるから面白い。

2番目の「鼻差のケラー」は一風変わった趣の作品だ。
しかしなぜかケラーは観戦場でよく話しかけられるものだ。そんな雰囲気を纏っているのかもしれない。

ここまでの作品は正直これまでの作風と変わりないが、次の「ケラーの適応能力」はあの9・11が前面に出た作品であり、本書の中で最も多い120ページの分量で語られる。
9・11を経てヴォランティアに参加して、救助隊員へ食事を配ったり、またそれまでに行った仕事の犠牲者に思いを馳せるなど、実に“らしくない”感傷的なケラーが語られる。
作品のトーンはこれまでと同様なのだが、かかれる内容は明らかにこの前に書かれている2作とは趣が異なる。特に仕事を成し終えた後、オレゴンからニューヨークに戻る道中で寄り道をしてジェシー・ジェイムズやジョン・ディリンジャーらの西部開拓時代の悪党たちの博物館に立ち寄って、彼らの人生を殺し屋稼業の自分と重ねあわせているケラーがいる。そしてケラーは引退を決意する。かつて同様の決心をしたがそれよりも強い意志で。

そんな過程を経て次の「先を見越したケラー」では殺しを自分で営業するケラーが登場する。
作中でドットが述べているように本作はケラー版『見知らぬ乗客』。帰りの飛行機で隣り合わせたビジネスマンに殺したい人物がいると持ちかけられ、ケラーは顔を知られていながらもその依頼を受けることになる。
前作で引退のために残りの余生の軍資金稼ぎのためにしばらく殺し屋稼業を続けることにしたケラーだったが、いきなりその顔を知られた相手の依頼を飛び込みで受けるとは大胆。しかしそれを伏線として皮肉な結末に持ってくるのがブロックの上手さ。
9・11を経てもやはりケラーはこうでなくちゃならない。

ケラーの犬好きは作中でもしばしば語られるが「ケラー・ザ・ドッグキラー」はそのタイトルが示す通り、ケラーに犬殺しの依頼が舞い込む。
犬殺しと云うショボイ依頼から思わぬ展開を見せる本書はそのシチュエーションが実に面白い。
自分の大切な飼い犬を殺された夫人2人からそれぞれ別の殺しを依頼される。一方は共同出資者の片割れを、もう一方は自分の夫を。
そうでいながら陰惨さがまるでない。本当に不思議な味わいのあるシリーズだ。

次の「ケラーのダブルドリブル」はインディアナポリスでの殺しの依頼を受ける。
今回のケラーは投資会社が仕掛けた株価操作に巻き込まれ、しかもケラー自身もその標的になるという異色の作品。
また本作では幼少のケラーのバスケットに対するトラウマについても描かれており、それもまた興味深い。

株取引は次の「ケラーの平生の起き伏し」でも続いており、ドットの趣味にもなってしまっている。
今回のケラーは同好の士の殺人。依頼を受けた時は有名な切手収集家シェリダン・ビンガムで顔を見知っている程度だったが、切手展の会場で図らずも接触してしまい、意気投合してしまう。そしてケラーは初めて彼を殺せるのかと自問自答する。しかしこれをどうにか克服するケラーのドライさと感情のスイッチの切り替え方には思わず感心してしまった。
しかしそれまでの彼は標的を殺害した後は独自のメンタル・コントロールで記憶を雲散霧消してしまっていたが、今回は記憶に留めることにしたようだ。ケラーにも徐々に変化が起こってきている。

続く「ケラーの遺産」は前作のシェリダン・ビンガムの死を受けて、もし自分が亡くなった後の自分の持ち物の整理を斡旋人のドットに頼むところから始まる。それはケラーに何かが起こる不吉な前触れのように感じさせたが、ドットが持ちかけた身元不明のアルという人物からの依頼を引き受け、なんとほとんど日帰りで依頼をこなして帰って来てしまうという物。
そしてこのことがつまりケラーにある迷いを吹っ切ることになる。
本書は「ケラーの適応能力」に対するブロックが自身で見出した回答編となっている。従って本書についての感想は後述する事にする。

最後はたった4ページの小編「ケラーとうさぎ」。標的の許へレンタカーで向かっていたケラーがカーラジオを入れると前の使用者が忘れていったうさぎの物語の朗読が流れてくる。しかし次第にその物語に夢中になる自分に気付いたケラーは標的の許を訪れると続きが早く聴きたいがためにさっさと殺してしまう。
正直本当にこれだけの話なのだが、実はこの作品もまた書かれるべき作品だったのだと思わされる。これについては「ケラーの適応能力」と「ケラーの遺産」と合わせて後述する事にする。


殺し屋ケラーシリーズ3作目の本書は1作目同様の短編集で、始まりはそれまでのシリーズ同様の雰囲気だが、それまでのシリーズと決定的に違う所がある。
それは本書が9・11を経て書かれていることだ。

本書中最も多い分量の3編目「ケラーの適応能力」はケラー自身が9・11を通じた変化について語られる。そこにはケラーが物語の主人公として成立するためには非常に困難になってきた9・11以後のアメリカの姿が描かれている。

飛行機のチェックインで厳密に身分証明を求められるようになったため、ケラーはニューヨークからオレゴン州までレンタカーを借りて陸路で向かうのだ。
正直この時点でケラーシリーズは終わりを迎えたとブロック自身は思ったのではないだろうか。アメリカを横断する陸路で標的を殺しに向かうケラーが成立するのか。ブロックにとってこのようなケラーを書いてみることがある意味シリーズ存続の可否を占う一種の挑戦だったのではないだろうか。

そして9・11を経験したケラーは感傷的であり、9・11当時では偶然依頼のためにニューヨークを離れていたケラーはテレビで衝撃のテロを目の当たりにし、断続的に嘔吐する。殺しをしても標的を人間と故意に認識しないことで心から消し去っていたケラーが、テロによって不特定多数の人間の命が失われていく様を目の当たりにして、知らず知らずに精神的ショックを受けるのだ。
そしてそれがそれまでケラーが行った仕事の標的について語られ、ケラー自身が思いを馳せさせる。それはまるでシリーズの総決算のような趣を湛えている。

恐らくこれは『砕かれた街』同様、ブロックにとって9・11を消化するために書かなければならなかった作品なのだろう。“あの日”を境に変わってしまったニューヨークの、いやアメリカの中で彼が想像した人物たちがどう折り合いをつけて物語の中で生き続けているのかを確かめるために。

そして奇妙なことにドットの許に身元不明のアルと云う人物から殺しの依頼をされるが内容が不明のまま、前金のみ送付されるのみの奇妙な依頼が残されて終わる。

その後のケラーの物語はヴァラエティに富んでいる。
まずデトロイトの殺しは標的が逆に依頼人を殺害して実行前にキャンセルになり、帰りの飛行機で話しかけられた男が殺したいと思っている男の殺しを請け負うことになる。

更に犬殺しの依頼を受けたケラーは2人の依頼人がお互いに相手を殺したがっており、逆に2人と1人の浮気相手、更にターゲットだった犬の飼い主を殺害してしまう。

そして次の依頼では標的ではなく、殺し屋である自分をも殺そうと企んでいる依頼人を殺害して、逆に標的にそのことを教え、株の売買で報酬を得るというツイストを見せる。
更に顔見知りの切手収集家が標的になり、案に反して標的と親しくなってしまい、殺害すべきかどうか苦悶する姿もまた見せる。

つまりこれら一連の物語では単に依頼を引き受け、標的の生活や習慣を見守り、また彼・彼女が住む町に身体を委ね、じっくりと仕事を遂行してきたケラーに、自分の意志が仕事に介入して単純に依頼を遂行するだけではなく、全てを合理的に解決するために依頼以外の殺しを行ったり、また逆に依頼人を殺して標的を助けたりと、依頼の動機などまったく斟酌しなかったそれまではありえなかった感情が介入してくるケラーの姿が描かれるのだ。

依頼よりも自分の感情に左右されてしまうケラーは殺し屋としては失格であり、さらに自分の遺産整理をドットに頼むに至って正直これらの物語を最後にケラーは引退するかと思われた。

しかし「ケラーの遺産」でドットに訪れる依頼は「ケラーの適応能力」でドットの許へ前金のみ送ってきた正体不明の依頼人アルからの物で、ケラーはこの依頼を最速で遂行して帰ってくる。そしてそれが彼にある踏ん切りをつけらせることになる。

恐らく余生を過ごす軍資金を得て引退しても、ある時期が来れば何かすべきことが自分にはあるのではないかと思い始め、再びドットに電話して依頼の有無を確認する自分がいることに気付くのだ。つまり自分はやはり生粋の殺し屋であり、この稼業を辞めることはできないのだと悟るのだ。

そして最後の「ケラーとうさぎ」ではレンタカーで子供向けの物語の朗読CDに図らずも夢中になり、その続きが気になって早く聴きたいがために実に簡単に人を、しかも2人の子供を学校に送り迎えするごく普通の主婦が自分の都合で厄介払いしたくなった夫の依頼で始末され、ケラーは再び朗読CDの続きに思いを馳せるのだ。
つまりドライな殺し屋ケラーが最後に見事復活するのだ。

ブロックが選んだのは9・11を経てもケラーはケラーであることをケラーに気付かせることだった。本書にはブロックが模索しながらケラーを書いている様子が行間から浮かび上がってくるが、どうにか本当のケラーを見つけたようだ。
ケラーよ、お互い変わらぬ姿でまた次の作品で逢おうではないか!


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殺しのパレード  (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック殺しのパレード についてのレビュー
No.698:
(7pt)
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ウィンズロウ版『ナヴァロンの要塞』

久々のウィンズロウはノンシリーズの復讐劇。妻子をテロリストに殺された元デルタフォースの男が遺族たちの賠償金を募ってそのお金でかつての上司が率いる世界各国の精鋭たちを集めた傭兵部隊を雇い、テロリストを追い詰める物語だ。

とにかく物語の展開はスピーディで、勿体ぶったところがなく、デイヴが精鋭たちを雇うのは全ページ610ページ強のうち、178ページと3分の1に満たないところだ。そこからウィンズロウは主人公デイヴ達が標的に迫っていく様を世界中を舞台に入念に語っていく。

航空機爆破テロ。9・11を経験したアメリカならば即大統領は声明を発表し、テロに屈しないとメッセージを出し、どんな手を使っても犯人を見つけ出し、報復行為に出るはずだ。
しかし本書では逆に相次ぐ報復行為で疲弊したアメリカが事件を事故と発表して穏便に済ませようとする。従って本書でテロリストに行う報復は一個人によるものだ。
つまりデイヴの行う襲撃は全て犯罪に変わってしまう。従って異国で行われる作戦は絶対にその国の政府に見つかってはならない。見つかると部隊は全て刑務所にぶち込まれるからだ。

従ってデイヴの行為が各国政府に知られると国際問題に発展しかねない危険性を孕んでいる為、政府としても彼らを止めなければならない。アメリカ国防情報局のデーナ・ウェンデリンはデイヴ達を執拗に追う。デイヴは追う側でありながら追われる側でもあるのだ。
しかしウェンデリン本人もデイヴ達の行為こそ自分たちがすべきことだと思っているジレンマを抱えている。にもかかわらずウェンデリンはデイヴの資金源を、情報源を絶ち、じわりじわりと追い詰めていく。

さてそんな物語の中心となるデイヴの上司マイク・ドノヴァンが率いる“ドリーム・チーム”の面々はウィンズロウらしく実にキャラが立っている。

まず“ドリーム・チーム”の長マイク・ドノヴァンはデルタフォース時代のデイヴの直属の上司であり、共に死線を駆け抜けた同志でもあるため、デイヴは絶大な信頼を置いており、命を補い合った者同士が持つ断ちがたい絆が2人の間にある。ピッツバーグ郊外の鉱山町生まれで安定した食事と寝場所を求めて陸軍に入隊。そんな下層階級の出でありながらノートルダム大学で憲法史の文学士号を持ち、海軍大学院で特殊作戦と低強度紛争課程を履修し、文学修士号を授与されたエリートでもある。彼の決断は信頼する元部下デイヴであっても能力が不足していると思えば切り捨てる意志の強さを持つ。しかしそれは自分の部下を一人たりとも死なせたくないという優しさの裏返しでもある。

コーディ・ペレスはメキシコ出身の元アメリカ空軍パラレスキューで医療及び高度特殊作戦の訓練を受けた兵士。アフガニスタンのタンギ渓谷でSEALs隊員を助けるために死線に飛び込みながら、1人の隊員を救えなかった苦い過去を抱えて生きている。

ドイツ人のウルリッヒ・マンは元ドイツ連邦陸軍特殊戦団出身で破壊工作のプロフェッショナル。アフガニスタンの任務でタリバンを目の前にしながら上からの命令で敵を抹殺せずに捕獲を要請されたため、自身を危険に曝しながらも観察を強いられた事から隊を辞任した。

金のために戦うと公言して憚らないのが元イタリア陸軍空挺部隊のアレッサンドロ・ボルギ。兵士でありながらモデル並みの容姿を持ち、ダウンヒルのスキーヤーでもある。報酬は全てフェラーリと女性へと消える。

チームの中で興味深いのは歴史的犬猿の仲であるイスラエル人とパレスチナ人が同居していることだ。
前者のレヴ・ベン・マロムはイスラエルの選りすぐりの精鋭で構成された極秘組織“ザ・ユニット”出身で多くのテロリストを殺した。
後者のアミール・ハダドは難民キャンプの出でイスラエル軍に母親を殺害された拭いきれない過去を持つ。従って彼はイスラエル軍と戦ってきたが、ある任務で爆破テロを命ぜられながらも出来なかったことから組織だけでなく父親からも勘当され、追い出されたところをドノヴァンに拾われた。しかしイスラエルに対する憎しみは続いており、レヴとの仲は今でも険悪だ。
この2人が死闘の中でお互いの立場を理解し、認め合うところが意外なアクセントとなっている。

ドノヴァンの片腕で前線での作戦の指揮を任されるミッシェル・ディアロはフランスの海軍コマンド出身。しかし軍への緊縮政策による予算削減の際にアフリカ系フランス人であるという理由で除隊を命ぜられたところをドノヴァンに拾われた。

今ではジンバブエと云う名の別の国になったローデシア出身で隊最年長のロルフ・フォルスターはセルース・スカウツ出身の格闘術のプロ。祖国を失い、各国で雇われ用心棒をしながら流浪していたところをドノヴァンにスカウトされた。

マイク・ドノヴァンと云うカリスマの許に集められた精鋭たち。激しい訓練と死地を幾度となく潜り抜けてきた彼らの絆は海よりも深いと考えられていたが、意外な形で彼らの作戦は綻び始める。それはメンバーの裏切りだ。

上にも書いたように訳者が変わったせいではないだろうが、短い文章でテンポよく物語を運ぶのはウィンズロウらしさがあるものの、彼の持ち味であるユーモア交えた小気味いい文体が本書では一切ない。
実にストイックに家族を喪い復讐に燃える男の物語が、専門知識をふんだんに盛り込まれながらも悪戯に感傷を煽るようにならず、ほどよい匙加減で切り詰められた文章で進んでいく。
特に描写がリアリティに満ちていて実に痛々しい。
例えばよく映画で目の前で敵の頭が吹き飛び、血漿を浴びるセンセーショナルなシーンがあるが、本書ではさらに砕けた頭蓋骨の破片が顔に突き刺さり、それらを除去しないと感染症に罹ってしまうという実に生々しい説明が付け加えられる。

また飛行機から飛び降りる高高度降下落下傘にしても単に潜入するだけに留まらない。高高度から飛来することの危険性―気温が摂氏マイナス48度であるから凍傷や低体温症の危険性がある、飛来する人が“X”の形で降りるのは風の抵抗を受けて少しでも落下スピードを落とす為で、落下スピードが速すぎるとパラシュートを開いた瞬間の衝撃で関節が外れてしまう、等―を詳らかに数行に亘って説明する。それも決して熱を帯びていなく、あくまで淡々と。
『野蛮なやつら』や『キング・オブ・クール』で見られた実験的な文体を書いた作者と同一人物とはとても思えないほどの変わりようだ。

特に最後のテロリストの巣窟への襲撃戦はさながらマクリーンの『ナヴァロンの要塞』のようだ。

そしてウィンズロウ版『ナヴァロンの嵐』がいつか読めることを期待しよう。


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報復 (角川文庫)
ドン・ウィンズロウ報復 についてのレビュー
No.697: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

当時の世相が色濃く出ている

前作『新参者』で日本橋署に転勤になった加賀が同署で再び相見えたのは一見簡単だと思われた行きずりの殺人事件。そして『赤い指』の事件でタッグを組んだ松宮刑事と再び捜査を共にする。

新宿に本社を持つ建築部品メーカーの製造本部長を務める男性がなぜ日本橋で殺害されたのか?
しかも腹を刺されながら日本橋交番を素通りしたのか?
そしてなぜ麒麟の像の下で彼は息絶えたのか?

容疑者となったのはかつて男の勤める会社で働いていた派遣社員。彼は警察の職質で逃げ出し、トラックに轢かれて意識不明の重態に陥る。そして彼は男の会社の労災隠しで派遣契約を打ち切られたことが発覚する。

当時社会問題となっていたいわゆる「派遣切り」問題を扱いながら、ある会社の本部長を務める男がなぜ日本橋七福神を参っていたのかという小さな謎が加賀を奔走させる。
さらに調べていくと被害者は七福神の1つ、水天宮で千羽鶴ならぬ同一色の折り紙で折った百羽鶴をお供えしていたことも判明する。
一つの謎が明らかになると浮かび上がる被害者の謎めいた真意。加賀は軽い臆測で事件を片付けず、とことん真相を追及していく。

さらに今回加賀は『赤い指』で亡くなった父親加賀隆正の三回忌を迎えようとしていており、その際に隆正の看護を担当した看護婦金森登紀子の世話になっている。
この金森が加賀に隆正の三回忌の打合せをしている時に放つ言葉が今回の事件解決のヒントになるところが本書のミソだ。

この2つの構図をなんと上手くリンクさせることか。
そしてこの加賀の父親との不和が『赤い指』を経て徐々に浄化されていく過程こそ、シリーズを読んできた者が得られるカタルシスであり、特権だ。

加賀恭一郎シリーズの例に漏れず、今回の真相も苦い。

また本書は事件が残された家族に招く社会の冷たさにも触れている。
『手紙』では加害者である殺人犯の弟が受ける理不尽とも思える社会の冷たさを扱ったが、本書では被害者の遺族が、被害者が会社の労災隠しの首謀者と報じられたことでマスコミや周囲から遠ざけられていく。突然の悲劇に追い討ちをかけるようにのしかかるスキャンダル。

一方で結果的に冤罪となった容疑者八島冬樹の唯一残された同棲相手の中原香織もまた事件の影響でバイト先から暇を告げられる。
加賀が呟く「殺人事件とは癌細胞のようなものだ。ひと度冒されたら、苦しみが周囲に広がっていく」の台詞に全てが集約されている。

そしてタイトルとなっている“麒麟の翼”には伝説の獣、麒麟には本来備わっていない翼が日本橋の麒麟像にはついていることに由来している。それは日本の全ての道の原点である日本橋から人々が日本中に飛び立っていく、そんな思いがその翼には込められているそうだ。

それは加賀にもまた当て嵌まる。『赤い指』で一旦決着したかに見えた父親との不和。しかし看護婦金森を通じて、何も解決していなかったことを悟らされる。冒頭の振り込め詐欺を見破るエピソードに象徴されるようにシリーズにおいて常に全てを見抜いているかの如く、事件の捜査に当たる加賀が初めて見せる動揺が家族についてのことだった。つまり周りのことは見えていても自分のことは一切見えてなかったことを知らされるのだ。

恐らく次は再び加賀が父隆正へ向き合う物語になるのではないか?
本書では青柳家が父親の死に直面して改めて父親のことを知らなかったことを再確認させられ、また父親の真意を汲み取ることで父親が向けた家族への眼差しを改めて知ることになった。

さて次は加賀恭一郎の番だろう。次作『祈りの幕が下りる時』を読むが愉しみだ。


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麒麟の翼 (講談社文庫)
東野圭吾麒麟の翼 についてのレビュー
No.696:
(7pt)

9・11を経たNYでの事件をブロック流に描くとこうなる

ニューヨークに生まれ、マット・スカダーシリーズを中心にニューヨークを描いてきたブロックが9・11後のニューヨークを描いたのが本書。そこにはスカダーは描かれず、ニューヨークに住む人々を描いた群像劇の様相を呈している。

ニューヨークで知り合いや友人の掃除代行をして生計を立てているジェリー・パンコーが出くわす殺人事件を軸にニューヨークに住む人々の生活が語られる。

画廊を経営するスーザン・ポメランスは殺人事件の被害者マリリン・フェアチャイルドに不動産を紹介してもらった縁があった。彼女は彼女の専属の初老弁護士モーリー・ウィンタースを筆頭に男と女区別なくセックスに溺れていた。

殺人事件の容疑者にされた小説家のジョン・ブレア・クレイトンは自分の無罪を晴らすためにモーリー・ウィンタースを弁護士として雇い、保釈金を払って釈放される。事件の話題がホットなうちに次作を物にして、ベストセラーを狙っている。

元ニューヨーク警察本部長のフランシス・バックラムは次期市長選に乗り出そうと画策している。

そして9・11の事件で家族を喪った男は殺人を重ねていた。
ニューヨークの歴史の中で起こった数々の悲劇。南北戦争時に起きた徴兵暴動。ドイツ系移民をぎゅうぎゅう詰めにした遊覧船が全焼して沈没したジェネラル・スローカム号事件。150人もの針子が工場火災で亡くなった<トライアングル・シャツ>社火災事件。ニューヨーク・ギャング、マフィアの抗争。
それらの事件はこのニューヨークという市が甦る為に捧げられた犠牲だと彼は考えた。従って彼が殺人を重ねるのはもまた9・11で破壊された市を甦らせるための人身御供を捧げるためであり、建物に放火していくは再建するためだった。

そんな彼の正体は案に反して早々に判明する。下巻の76ページで彼の素性が警察の捜査で明らかになるのだ。
広告会社の元調査課長である彼はしかし隠れ家を転々としながらニューヨークを離れない。寧ろ自分の痕跡を残すことで彼の名前と偶々犯罪でハンマーと鑿を使用したことから付いた綽名“ハービンジャー・ザ・カーペンター”の存在をニューヨーカーたちに知らせ、畏怖させようとする。

一方でもう1つの物語の軸となるのは美人の画廊主スーザン・ポメランスのエスカレートするセックス・ライフだ。専属の弁護士とたまに情事を愉しむだけだったのが、ボディ・ピアスを開けたことで潜んでいた性に対する飽くなき探求心が高まり、性欲の赴くままに街を徘徊しては男たちを誘い、アブノーマルなセックスに興じる。その相手が当初殺人事件の容疑者とされていたクレイトンへと繋がっていく。

それぞれ関係のないと思われた登場人物が次第に事件とスーザンの夜の活動によって繋がりを形成し出す。

そう、この800万もの人間が巣食うニューヨークで起きる、9・11のある犠牲者によって引き起こされる狂信的な連続殺人はなんと1人の奔放な性活動を多種多様な人物と繰り広げる女性によって解決の糸口が見出されていくのだ。

これはブロックなりのジョークなのだろうか?
アラブ人のテロリストによって破壊されたニューヨークで悲劇のどん底に突き落とされた人々。どうにか傷が癒え、再興に向けて歩き出している人々が再び出くわした悪夢に対して、セックスによってそれまでの価値観を崩され、新たな自分に目覚めていく男たちを生み出す一人の女性がそれぞれの事件を繋げていく。
つまりスーザン・ポメランスのセックスこそは再生の象徴と云っているのだろうか?

率直に云ってスーザンが繰り広げるセックスの開拓はほとんどポルノ小説のようである。いやそのものと云っていいほど詳細に、且つ濃密に描かれている。
これが1人の哀しきテロリストによる狂信的なニューヨークの再生を謳った暗い色調の物語を一変させているのだ。しかもこの2つは物語に上手く溶け合っているとは正直云い難い。このスーザンの物語は本当に必要だったのか、甚だ疑問である。

さてニューヨークを舞台にしていながら探偵は出てくるものの、それはスカダーではなく、全く別の人物である。しかしそれでも本書とスカダーシリーズは同じ世界で書かれていることが明かされる。

それは『死者の長い列』で登場した三十一人の会に所属する不動産会社を経営するエイヴァリー・デイヴィスが登場した事だ。また事件発見者のジェリー・パンコーがAAの会にも出ているなど、随所にスカダーシリーズを想起させる世界観が内包されている。

そう考えるとニューヨークのハイソサエティの世界で奔放な性活動を繰り広げるスーザン・ポメランスはエレイン・マーデルの代役とも考えられる。つまり本書はエレインの側から事件を描いた作品なのだと。

いやこれはやはり穿ちすぎだろう。

ニューヨーカーであるブロックにとって9・11は途轍もないショックをもたらしたことだろう。しかしブロックが紡いだ9・11後のニューヨークは悲劇を乗り越え、それでも強かに生きている人々の姿だった。
9・11は終わりではなく、また始まりでもない。確かに以前と以後では変わった物も事もあったが、それはニューヨークの歴史の中での通過点の1つであった。
それが証拠に我々はまだ生きているではないか。生活を営んでいるではないか。ブロックが人生讃歌の物語を書くとこんな風になる、いい見本だと思った。


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砕かれた街〈上〉 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック砕かれた街 についてのレビュー
No.695: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

単純面白主義万歳!

文庫書き下ろしで刊行された本書はまたもやスキー(スノボ?)シーズンの雪山が舞台となる。そして主人公を務めるのは『白銀ジャック』でも登場した根津昇平と瀬利千晶の2人だ。

しかし彼ら2人が本格的に事件に乗り出すのは物語の中盤185ページごろだ。それまでは今回の物語の核である新種の炭疽菌『K-55』が盗まれた泰鵬大学医科学研究所の栗林とその中学生の息子秀人のコミカルな捜索劇が繰り広げられる。

そう、本書は細菌テロという重いテーマを持ちながらも、雰囲気は軽妙でコミカルな装いで物語は進む。

まず新種の炭疽菌『K-55』の名自体が作者の名前をもじっていることからも深刻さを避けようとしているのが明白だろう。

しかし構成は単純ながらもさすがはベテラン作家東野氏、ストーリーに様々な要素を織り込んでいる。

まず脅迫者が事故死したことで『K-55』の隠し場所が解らなくなるというツイストもなかなかだ―ディーヴァーの『悪魔の涙』に成り行きが似ているという声もあろうが―。
さらに必死になって不祥事を揉み消そうと躍起になる東郷&栗林のコンビとは別に『K-55』を先に手に入れて3億円どころかそれ以上の身代金を請求しようと企む研究員、折口真奈美という第3の影。

そして捜索に同行させた栗林の息子秀人が現地で知り合う地元の中学生山崎育美の同級生高野一家に降りかかったインフルエンザで亡くなった妹の死に絡む母親の昏い情念と、コミカルながらも不穏な要素をきちんと用意している。
いやあ、いい仕事してますわ、東野氏は。

そしてそれらがきちんとクライマックスに向けて二転三転するストーリー展開に寄与していくのだから凄い。単に思わせぶりなエピソードに終わらず、それぞれがそれぞれの事情で正体も知らずに『K-55』の争奪に関わり、利用しようとする。
どうにか被害が広がらないように『K-55』を隠密裏に回収したい栗林。『K-55』を手に入れて脅迫金をせしめて大金を手に入れようと企む折口姉弟。妹の死に悲嘆にくれる母親を改心させようと自分のクラスに再び重病者を出して後悔させようとする高野裕紀。
正体を知っている者たちの思惑と知らない者たちの思惑が交錯して、クライマックスではスキーヤーとスノーボーダーの滑走しながらの一騎討ちといった活劇も織り込んで最後の最後まで息をつかせないノンストップエンタテインメント小説に仕上がっている。

さらには栗林が中学生の息子とのぎくしゃくしていた関係が事件を通じて次第にお互いに理解を深め合っていくといった、思春期を迎えた子供とのコミュニケーションに困っている親子がスキー、スノーボードを通じて親子の絆が深まるといった温まるエピソードまで加味されており全くそつがない。

正直これだけの物語を文庫書き下ろしで出す東野氏のサーヴィス精神に驚くばかりだ。

恐らくおっさんスノーボーダー東野圭吾は経営難で苦しんでいる日本中のスキー場を救わんととにもかくにも爽快で軽快な物語を愉しんでもらいたいという思いで本書を著し、そして多くの人に手に取ってもらうために文庫書き下ろしという形での発刊を選んだに違いない。

従って本書は徹底的に娯楽に徹したエンタテインメント小説である。難しいことは考える必要は全くない。
従来の東野作品の読者ならばこの単純さが、ベストセラー作家の走り書きとか、ストーリーに厚みがなくて物足りないなどとのたまうかもしれないが、単純面白主義の何が悪いと開き直って読むのが吉だ。
逆にこれだけウィンタースポーツとしてのスキー、スノーボードの疾走感やスキー場の臨場感も行間から滲み出てくるような躍動感に満ちていることをきちんと気付いてもらいたい。読みやすいが故にこの辺の技術の高さが軽んじられているのが東野圭吾氏の長所であり短所でもある。

普段読書をしない人たちに「何か面白い本、ない?」と訊かれたら、今はこの本を勧めるだろう。そして『白銀ジャック』に続いてドラマ化されてもおかしくないくらい映像化に向いている。

こうやって東野圭吾氏の読者が増えていくわけだが、それも仕方がないと納得せざるを得ないリーダビリティに満ちた作品だった。

疾風ロンド (実業之日本社文庫)
東野圭吾疾風ロンド についてのレビュー
No.694:
(8pt)

名匠の手による短編は実に心酔わせる

長編のみならず短編の名手であるブロックの久々の短編集。その出来栄えは『おかしなことを聞くね』以来、ファンが渇望していた切れ味が健在であることを証明してくれる珠玉の作品ばかりだ。

まず初めの編はスポーツを題材にした作品だ。

「ほぼパーフェクト」はアメリカの代表的なスポーツである野球だ。
「野球は何が起きるか判らない」とよく云われるが、これはまさにその常套句を逆手に取った異色作だ。

次の「怒れるトミー・ターヒューン」の題材はテニス。
激昂してラケットをへし折るテニスプレイヤーとしてすぐに思いつくのはジョン・マッケンローだ。本書のトミー・ターヒューンのイメージは彼しかなかった。
私自身も短気で怒りの衝動を抑えられない事があり、自分もこの性格を変えたいと思っているが、なかなか上手く行っていない。従ってこの短編は実に興味深く読んだが、やはり抑えられた怒りはどこかに捌け口を求めているのかと痛感した次第だ。
ああ、全てに寛容になれるのはもはや悟りの境地に過ぎないのか。

「ボールを打って、フレッドを引きずって」はゴルフ場が舞台。
淡々と物語が進むため、ローランド・ニコルスンという男の不可解な行動の真意が解らなく、読者はとにかく彼の言動に翻弄されながら物語を読み進めることになる。
タイトルの意味は作中で紹介されるあるゴルフのジョークであるため、ニコルスンがヘドリックに打ち明ける殺人計画もまたジョークなのか本気なのかが解らない不安定感をもたらしているのも上手い。

次の「ポイント」はバスケットボールが扱われているが、それまでの短編とは趣が違い、NBAの試合を観戦しにきた、元バスケットボール選手の親子の対話で物語が進む。
それは久方ぶりに出逢う親子の、今だからこそ云える打ち明け話。こんな夜の対話はどんな親子にもいずれは訪れる。そんなある一夜の物語だ。

スポーツシリーズ最後の1編「どうってことはない」はボクシング選手の話。
格闘家を夫に持つ妻の気持ちとはいかほどなのだろうか?
最初は試合での夫の強さに魅かれ、結婚したのだろうが、結婚することは人生を預けることであり、そうなると人生のパートナーが公然と殴り殴られる姿を見なければならないのはかなり辛い事なのだろう。
色々と興味深い結末でもある。

「三人まとめてサイドポケットに」はふらりと入った酒場である男が出くわす典型的な美人局の話だが、ブロックは実に奇妙な余韻を残して物語を閉じる。

16ページと短い分量で語られるのが「やりかけたことは」だ。
主人公ポールは出所したばかりでシンプルに生きることを肝に銘じているが、彼が何の罪で服役していたのかは最後の1行で明らかになる。
それが性というものだと痛感する1編だ。

本書中約120ページと最も長いのが「情欲について話せば」は警官、軍人、医者、司祭の4人がトランプゲームに興じている奇妙なシーンで幕を開ける。
なんとも奇妙さ作品である。
まず司祭、警察官、軍人、医者と全く職業の異なる人物たちが一堂に会してトランプゲームに興じているというシチュエーション自体が奇妙である。そして彼らが語る“情欲”に纏わる話もまた奇妙である。
司祭の話はかつて彼が赴任先で親しくしていた仲睦まじい夫婦に隠されたある不道徳的かつ壮絶な過去の話。その夫婦は実は実の姉弟で弟の夫が13歳の時に父親の折檻から慰めようと姉が施したある癒しから次第にエスカレートして恋するまでに至った姉弟だった。
続く警察官の話は猛烈な性欲を持つ年長の元同僚の話だ。彼には美しい妻がおり、浮気をしていないか日に何度も頻繁に電話をするほどの執心ぶりだったが反面彼は特に犯罪者の妻と寝ることを日常的に行っていた。そしてある日赤毛のジョニーという美しい女性を目にしたことで彼は次第に彼女にのめり込んでいく。しかし一方で彼の妻に男が出来たことを強く疑っていた。そして相棒に自分が不在の時に見張るように頼むと果たして彼女を訪れる男がいたとの報告を受ける。彼は見境なくその男を襲撃しようとするが返り討ちに遭う。
軍人が紹介した男はかつて軍の名狙撃種だった男の奇妙な性欲の話だ。彼はいつしか戦争で人を狙撃する事にエクスタシーを感じていた。退役後、妻も出来、結婚したがセックスでオーガズムに達する事が出来なかったが、戦争中の狙撃のシーンを思い出すと最後まで達する事が出来た。
医者の話に出てくるのは奇妙な女性の話。連続レイプ魔に襲われた女性は自らの命を助けるため、絶頂に達した演技をし、あまつさえ彼に自分の家に来てくれるよう懇願する。
この話には正直オチはない。しかし「情欲」とは一体何なのかを探ろうとしたこの奇妙な四人組同様、知れば知るほど解らなくなるのが情欲の正体であることに気付かされるのである。

さて表題作もまた奇妙な味わいを残す。
ある意味これは前編の「情欲について話せば」に連なる作品と云えよう。
そして最後に明かされる「やさしい小さな手」の意味するところが解ると、果たしてこれが短編集の表題にすべきだったのか、思わず赤らんでしまった。

「ノックしないで」はかつて付き合った男と女の関係の物語。
折に触れ男はかつての恋人を訪ね、自分の近況を語って、泊まっていく。しかしそこに肉体関係は生まれない。
彼女はそれを知りつつも彼の訪問を断れずにいつも彼を受け入れてしまう。彼女は心のどこかで復縁を期待しているのだ。しかしとうとう彼女は2人がかつてのように愛し合う仲ではなく、単なる友人同士で、しかもちょっと都合のいい女になってしまっていることに気付くのだ。そして彼女は新たな一歩を踏み出す。心に刺さった苦い棘の傷みと共に。
ブロックは奇を衒わず、男女の心の機微を淡々と謳っている。

最後の4編はマット・スカダー物。
「ブッチャーとのデート」は長編『慈悲深い死』の原型となった作品でここでは敢えて取り上げないでおこう。

その次の「レッツ・ゲット・ロスト」はまだ警察官だった時代にエレインの依頼で対処したある事件の顛末の回想記の体裁で語られる。
突然巻き込まれたある他人の死をどうにか擬装して逃れようとする男たちを警察官の視点で事件の疑わしい所を浮き彫りにして逆に事件を真の姿に戻すことにする若いマットの熱心さが新鮮だ。
まだ前妻アニタと結婚生活を送っていた頃のマットの話。それが今ではエレインと再婚し、実に豊かな生活を送っているのだから、人生とは本当に解らないものだと感慨深く思わされる1編。

次の「おかしな考えを抱くとき」もスカダーがまだ警察官だった頃の話。しかもまだエレインと逢う前の話。
突然家族の団欒に訪れた夫の銃自殺。スカダーは当時相棒のヴィンス・マハフィとその事件を担当し、ヴィンスが施したある救済の話をする。
それは実際にヴィンスが図った便宜だったのか、はたまた妻が犯した罪を隠した事なのかは解らない。真相は藪の中だが、逆にもはや真相を知ることが目的ではなく、全てが丸く収まるような処置をしたことに満足をしているマットの考えが、己の正義に基づいて生きてきた人生の落伍者だったかつての彼とは真逆であることに感慨を覚える。

そして最後の1編「夜と音楽と」はたった8ページの小編。内容もスカダーとエレインがオペラを観劇した夜に、寝ずにニューヨークの夜を徘徊する、ただそれだけの物語。
事件も起きず、ただ2人の過去を懐かしむ会話が続くだけ。取るに足らない話なのだが、最後の2行にスカダーとエレインの真の思いを見た。


本当に久々のブロックの短編集である。早川書房が2009年に突如企画したハヤカワ・ミステリ文庫での「現代短編の名手たち」シリーズにブロックが選ばれ刊行されたのが本書。名手の名に恥じない傑作が揃っている。特徴的なのは全体的にブラックなテイストに満ちていることだ。

まずはスポーツを絡ませた短編が続く。野球、テニス、ゴルフ、バスケットボール、ボクシングと続く。

そして面白いのはそれぞれ殺人を扱いながらも微妙に時間軸がずれていることだ。

「ほぼパーフェクト」では殺人を“犯した” 男が完全試合を成し遂げようとし、「怒れるトミー・ターヒューン」では殺人を“犯す”までに至った男の奇妙な経緯を、「ボールを打って、フレッドを引きずって」では殺人を“犯そう”と計画している男の奇妙な予行練習を、最後は夫を殺された妻が復讐のために行おうとしている奇妙な殺人を語っている。それらが全て物語の最後の最後でサプライズを以て明かされるのだから、ブロックの小説テクニックは相当に高い。

また本書中最も長い「情欲について話せば」の警官、軍人、医者、司祭と奇妙な取り合わせの4人がトランプゲームに興じているシーンはどこかある有名な本格ミステリのシチュエーションを想起させる。

そして表題作は穏やかな題名にそぐわないエロティックでブラックなテイストに溢れている。このギャップがすごくてインパクトを残す。

そして「ノックしないで」を前奏曲としてマット・スカダー物の短編4編が続く。正直「慈悲深い死」の原型となった「ブッチャーとのデート」を読んだ時は失望感を覚えたが、その後の3編は味わい深く、長い年月を重ねた人生を経た者たちの達観を感じさせる。

さて個人的ベストを挙げるとするとやはり本編で一番長い「情欲について話せば」になろうか。短編4つ分のネタが放り込まれた内容はもとより、トランプゲームに興じる警官、軍人、医者、司祭と云う奇妙な取り合わせが寓話めいていて奇妙な印象を残す。

「ノックしないで」も捨てがたい。ブロックには珍しくシンプルな作品だが、求めつつもそれを自分から求めない元恋人の女性の心の機微が静かに心に降り積もるかのような作品だ。

そしてスカダー物4編から1編を挙げるとすると「夜と音楽と」になる。
なぜ単にスカダーとエレインが夜のデートをするだけの何の変哲もない8ページだけの1編を挙げるのか。それは最後の2行、スカダーとエレインが2人して「誰も死ななかった」ことを喜ぶシーンが妙に痛切に胸に響くのだ。

元警察官で無免許探偵をしていたマットは彼を訪ねる人達に便宜を図って人捜しや警察が相手にしない取るに足らない者たちの死を探る。人捜しであっても彼は誰かの死に必ず遭遇する。しかし警察官であったマットは死自体には何の感慨も抱かず、ニューヨークによくある八百万の死にざまの1つを見たに過ぎないと振舞う。

しかしエレインが襲われることになり、そしてエレインを伴侶とし、安定した生活を得たことで彼らにとって死はもう沢山だと思い始めたのではないか。
探偵をする限り、彼は陰惨なシーンに出くわさざるを得ない。しかし2人で一夜を過ごすときは忘れたいのだという思いをこのたった2行に感じさせる。
しかし初めてこの短編集でブロック作品を読んだ人たちには「何だったんだ?」で終わる話だろう。つまりこれはシリーズを読んできた者だけが行間から読み取れる深い内容だと云える。そういう意味では今回の「現代短編の名手たち」という企画にはそぐわないのかもしれない。

いやはややはりブロックは短編も読ませると再認識した。
確かに上に書いたようにブロック初体験の読者にとって解りにくい作品もあるし、何よりも短編集でしか読めない悪徳弁護士エイレングラフ物が1編もなかったのが残念でもある。

しかし本書以降ハヤカワ・ミステリ文庫でブロック作品が全く刊行されていない事実が非常に残念でならない。ブロック作品再評価の為にも彼の作品を既刊のみならず未訳作品も刊行してくれないだろうか。
毎回早川書房の本を読むとこの締めの言葉に落ち着く現況が哀しい。


▼以下、ネタバレ感想
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現代短篇の名手たち7 やさしい小さな手(ハヤカワ・ミステリ文庫)
ローレンス・ブロックやさしい小さな手 についてのレビュー
No.693:
(8pt)

まだまだ驚かせてくれる、この作家は!

現代のシャーロック・ホームズ、リンカーン・ライムが対峙する今回の敵は“電気”。正確には電気を武器にニューヨークを翻弄する敵が相手だ。

普段はその有難みが解らないが、いざ台風や地震で停電が起きるとその大事さに気付かされるのが電気だ。
3・11の東日本大震災で計画停電が行われ、当時東京に住んでいた私はネオンサインがない渋谷の街を毎日目の当たりにして、夜闇に乗じて犯罪が起きてもおかしくはないと半ばこの世の終わりのような思いを抱いたものだ。

「電気は、市民の道徳心にもエネルギーを供給しているのだ」の作中の一文には激しく頷いてしまった。

この電気、実は私も仕事で縁がある代物だが、非常に便利であるが反面、非常に恐ろしい物だ。それは本書でも実に詳細に語られている。

いわゆる“見えない凶器”であり、電線のみならず帯電している金属から人間の体内を通って地面に通り抜ける間に絶命してしまうからだ。

最初の被害者は過剰な電流がある特定の変電所に集中することでアークフラッシュを起し、最寄りの金属製品が細かい礫になって人々の身体を突き抜けて、それら1つ1つが高熱を放ち、身悶えしながら死んでいく。

第2、3の被害者は大量の電気を流されたビル、エレベーターの金属部品に触れることで感電し、激しい痙攣をしながらも手を放すことが出来ず、恰も死のダンスを踊りながら全身から煙を出して死んでいく様が描かれる。

アメリアやロナルド・プラスキーたちは現場での惨状を見て、金属に触れることを怖れ、半ばノイローゼになって捜査に携わる。この感覚は非常に腑に落ちた。

今回の事件の首謀者はレイ・ゴールトという電力会社元社員で修理技術者だった男と早々と明かされる。この男が仕事で高圧の電気近くで長年作業することで白血病を患い、その復讐として電力会社に混乱を起こして脅迫を重ねているとライムたちは焦点を絞る。
そして一方で“地球の日(アースデイ)”イベントを控えていることで何らかの環境テロ組織が絡んでいるとFBIは捜査を進める。その結果“ジャスティス・フォー”と“ラーマン”という2つの名前が浮かび上がる。

さらにライムはキャサリン・ダンスたちがメキシコ警察と共同してメキシコシティに潜伏しているウォッチメイカーの逮捕にも携わる、いくつもの要素が絡まった物語となっている。

メインの物語の焦点は昨今日本でも3.11以来、物議を醸しだしている電力会社の半ば強引なやり方だ。
火力、水力、原子力と云わば発電所“三種の神器”で大量の電力を賄うアルゴンクイン・コンソリデーテッドは日本に存在する電力会社そのものだろう。
それに対抗するのが風力、太陽光、地熱、波力発電、メタンハイドレードといった再生可能エネルギー、つまりクリーンエネルギービジネス。やり手の“女”社長アンディ・ジャッセンはこれらエネルギー対策に前向きではない。それがこの事件に潜む真の動機になっている。

更にディーヴァー自身もこのシリーズを現代のホームズ物と意識して書いているようだ。特に下巻220ページの次の台詞

考えうる可能性を全て排除したあと、一つだけ排除できなかったものがあるとすれば、一見どれほど突飛な仮説と思えても、それが正解なんだよ

はホームズが短編「ブルース・パーティントン型設計図」での台詞

ほかのあらゆる可能性がダメだとなったら、どんなに起こりそうもない事でも残ったことが真実だ

とまるで同じである。もはやこれは確信的ではないか。

そしてそれら一連の事件の絵を描いたのは意外な人物だったことが判明する。

とにかくすごい犯人だ。どんでん返しの帝王とも云えるジェフリー・ディーヴァーだが、もう騙されないぞと思いながらもやはり驚愕させられてしまった。

また今回『悪魔の涙』で主役を務めた筆跡鑑定のスペシャリスト、パーカー・キンケイドが登場する。これで同シリーズで2回目の登場となった。もはや大事なサブレギュラーになりつつある。

しかし振りかえれば『ソウル・コレクター』から3年ぶりのライムシリーズである。もはやネタは出尽くしたと思ったがこれほどのサプライズをまだ見せてくれるとは、やはりディーヴァーは只者ではない。


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バーニング・ワイヤー
No.692:
(7pt)

原点回帰であるが昔のようではないマットがいる

今回マットが対処する事件は強盗による弁護士夫婦殺害事件。強盗が入っている間に家主が帰って来て強盗によって殺される。
これはもう1つのブロックのシリーズ、泥棒探偵バーニイ・ローデンバーがしばしば巻き込まれるシチュエーションだが、その場合は軽妙なトーンで物語が進むのに対し、マット・スカダーシリーズでは実に陰惨な様子が淡々と語られ、恐怖が深々と心に下りてくるような寒気を覚える思いがする。この書き分けこそがブロックの作家としての技の冴えだ。

今回はマットとTJの機転で警察組織を巻き込んで大規模捜査網が敷かれる。かつて個人が巨大な悪に立ち向かうためにミック・バルーと云う悪の力を借りて対峙したマットだったが、前作でミックの組織は瓦解し、彼を残すのみとなった。
今回総勢12人も殺害したシリアル・キラーと立ち向かうために組んだ相手が警察組織だったことは元警官であったマットにとって自分の立ち位置が原点に戻ったように思える。

原点回帰と云えばシリーズも15作目になって、マットは更なる過去へ対峙する。それはシリーズが既に始まった時から離縁関係にあった元妻アニタと彼の息子マイケルとアンドリューとの再会である。

既に2人の息子は成人となって働いている。齢62となったマットの元妻アニタが心臓発作で亡くなったことを息子の電話で知らされる。
決してシリーズに大きな影響を与えていたわけではない、元家族との意外な形での再会はしかしスカダーにとってもはや遠い日の追憶でしかないことを悟る。
2人の息子の内、次男のアンディは危うい橋を渡るような生活を送っている。長男のマイケルにたびたび無心をしては職を転々とし、そして今回もまた会社の金を横領した廉で警察に突き出されそうになっている。それはかつて警官と云う職に就きながら、心に傷を負うミスを犯して身持ちを崩してしまったマット自身の姿とどこか重なる部分がある。彼も元父親としてアンディに横領金の肩代わりを半分担い、その金でアンディは事を免れるが、マット自身も云っているようにそれが最後になるとは思えない。アンディの厄介事はこれからも続きそうだ。

敢えて証拠を残して警察や探偵に誤った方向へ捜査を導く。証拠から導かれるロジックが完璧であればあるほどそれを信じて疑わなくなる。
これはエラリイ・クイーンが抱えた“後期クイーン問題”から連綿と続くテーマである。現代のシャーロック・ホームズと云われているジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズでも既にこの問題に直面し、ますます捜査の難度と物語の構造の複雑さは増してきている。
まさかこのシリーズでこのようなテーマに出くわすとは思わなかったが、長らくミステリを書いていると作家はこの問題に直面する運命にあるのだろうか?

さて私がこのシリーズを読み始めて足掛け2年4ヶ月の付き合いになる。既に本書までは既刊だったため、シリーズを1作目から本書に至るまで通して読むことが出来たが、この2年4ヶ月という凝縮された期間であっても本書を読むにここまで来たかと感慨深いものを感じるのだから、シリーズを1作目から、もしくは有名な“倒錯三部作”からリアルタイムで読み始めた人々のその思いはひとしおではないだろうか。

本書で語られているように、マットが断酒してから18年の歳月が流れ、作中での年齢は62歳と既に還暦を超えてしまっている。

しかしマットは登場当初の、人生に打ちひしがれた元警官の無免許探偵という社会的には底辺に位置する人々の一員であったが、15作目の本書では元娼婦の妻エレインが蓄財した不動産収入でニューヨークでマンション暮らしをし、安定した生活に加え、エレインが趣味で始めた画廊からの収入もあり、マットは探偵業を気が向いた時に営むといった、人が羨むような生活を送っている。
もはやホテルの仮住まいで定職に就かず、毎日アームストロングの店に入り浸ってアルコールを飲み、時折訪れる人のために便宜を図るように幾許かの金で人捜しや警察が扱わない事件の掘り返しを請け負い、依頼金の1割を教会に寄付して過去の疵を癒す慰みにしている、人生の負け犬のような彼の姿はもはやそこにはない。陰の暮らしから日の当たる世界へ出たマットの姿をどう捉えるかは読者次第なのだろう。

ただマットの生活も変われば彼の捜査方法も変わったのも確かだ。TJにパソコンを与えてから人捜しも市井の人々の間を逍遥することで不意に得られる奇妙な縁から全てが繋がっていく、そんなマットならではの方法ではなく、インターネットによってアーデン・ブリルという本名か偽名かも解らぬ名前を手掛かりに犯人を特定していくようになる。

そして犯人もまた闇サイトでの評判を愉しみにするサイコパスと、現代的な犯人像なのも特徴的だ。いや“倒錯三部作”から既に時代に添った犯人像をこのシリーズは描いていたと云えるので、これは本書での変換点ではない。

ともあれマットが裕福になり、エレインとの夫婦生活が充実していくにつれて、このシリーズ特有の大切なペシミズムやムードが失われていくような気がするのは私だけだろうか。

相変わらず読ませる物語であることは認めよう。
しかし上に書いたようにかつて読んでいたようには私の中に下りてくる叙情性といったような物が薄れているのは確かだ。
しかしそれでも私はいいと思う。エレイン、TJ、ミックと彼を慕う人々の中でマットが事件と対面していくのもやはりこのシリーズの特徴であるからだ。

さて次の『すべては死にゆく』は未だ文庫化されていない。このシリーズ全作読破のために一刻も早い文庫化を望む。
しかしブロックの新作は文庫で出ているのになぜこの作品だけ文庫化されないのだろうか?気になって仕方がない。


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死への祈り (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック死への祈り についてのレビュー
No.691: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

9作目にして作者大いに趣味に走る!?

S&Mシリーズ9作目の本書ではこのシリーズの原点回帰とも云える密室殺人事件を扱っている。しかも同時に2つの密室殺人が離れた場所で起こるが、どちらも容疑者は同一人物だったという、魅力的な謎をいきなり提示してくれる。

一方の密室殺人は大学の実験室で起こる。共同実験者の上倉裕子が扼殺されて横たわっていた。その部屋の鍵を持つのは被害者の上倉裕子と助教授の河嶋、そして研究室の学生用の1つでそれは容疑者の寺林が持っていた。

他方の密室殺人の舞台はオタクの祭典、模型展示会が行われている公会堂の控室。そこにいたのは首のない、しかし体型からコスプレモデルとして来ていた筒井明日香の遺体、そして頭から血を流して昏倒していた寺林だった。そしてその部屋の鍵は寺林と管理人のスペアキーしかなかった。だが鍵を持っていた人物は部屋で昏倒していたので誰がどうやって鍵を掛けたのかが解らない。

さらに筒井明日香の兄紀世都もまた自分のアトリエで萌絵、寺林、大御坊、喜多、犀川ら衆人環視の中で殺害される。死因は感電死だが、浴槽に浸かっていた彼の遺体は白い塗料が吹き付けられていた。それは恰もフィギュアのようだった。

本書で特徴的なのは『幻惑の死と使途』以降付されていなかった登場人物表が復活していることだ。
『幻惑の死と使途』、『夏のレプリカ』、『今はもうない』は登場人物表を付けられない、凝った構成の作品だったからだが、本書でそれが復活しているということはつまり原点回帰的な密室殺人ミステリであることを意味している。

さて本書では森氏の趣味がある意味横溢していると云っていいだろう。
まず事件の舞台となるのが模型作品展示・交換会、つまりモデラー達の集いである。作者自身がかなり本格的な鉄道模型マニアであることから、これは満を持してのテーマだったと思われる。そのためか登場人物が模型やフィギュアに対する哲学を語るシーンがそこここに挟まれており、それらは作者自身の考え・意見であると窺える。

そしてもう1つ特徴的なのはコスプレイヤーも登場するところだ。
モデラー達よりもその色合いは薄いものの、本書では西之園萌絵がコスプレしているところに注目されたい。まずは上記の展示会でのオリジナルキャラクターのコスプレに、事件の容疑者寺林に話を聞くために彼が入院している病院の看護婦に成りすまして潜入する。
コスプレマニアにとってはある意味萌え要素が盛り込まれており、やはり西之園萌絵の名の由来はオタクやマニアにとって馴染みの“萌え”から来ているのかと思わず勘ぐってしまった。

もう少し云えば、本書の章題に注目したい。「土曜日はファンタジィ」、「日曜日はクレイジィ」、「月曜日はメランコリィ」とラノベ的な軽さを持っており、これもオタク要素を盛り立てている。本書の題名に隠されたもう1つの意味、「数奇にして模型」≒「好きにしてもOK」の如く、森氏は奔放に本書で遊んでいるようだ。

さて真相を読めば至極面倒な手続きを踏んだ事件だったと云える。
正直「夜はそんなに長いか?」と疑わずにいられない。この真相のバランスの悪さがカタルシスを感じさせないのが残念だ。

しかし本書では真相に至るまでの経緯も含めて色んなミステリのガジェットに満ち溢れているように思える。

例えば録画好きの大御坊の8ミリカメラの映像で第3の殺人事件、筒井紀世都の遺体が発見されるまでの彼のアトリエで起きたイベントの一部始終を振り返るところはジョン・ディクスン・カーの『緑のカプセルの謎』を髣髴させるし、犯人の動機である理想形の人物をシリコンで型取って等身大のフィギュアを造る件は島田荘司氏の『占星術殺人事件』のアゾートを想起させる。

さてシリーズ9作目になると固定メンバーの知られざる事実が小出しに明かされていく。犀川の友人喜多が鉄道マニアであったこともそうだが、特に今回は萌絵の同級生で同じ犀川研究室に所属する金子勇二が姉を萌絵の両親が遭った同じ旅客機事故で亡くしていることがちょっとしたサプライズだった。これが彼と萌絵との関係にどのように展開していくかは今の段階では解らない。

さらに初登場の萌絵の従兄、大御坊安朋もまた実にエキゾチックなキャラクターである。
妾の子という暗い生い立ちにありながら作家にして女装家でオネエ言葉を連発する、1998年と今から17年前の発表当時では実に濃くて生理的に受け付けない人物であっただろうが、オネエタレントが芸能界を闊歩する今では免疫が出来て寧ろ魅力的に映った。あと1作を残すのみとなったS&Mシリーズの終盤では登場するに遅すぎたと残念に思った。

本書はフィギュアにコスプレにとオタクたちの集いと云った趣のある内容、大御坊安朋のオネエキャラは刊行当時ではそれほどこれらの世界が認知されていなかったせいか、比較的その濃度は控えめだが、現在ではもはや珍しくもない題材なので、いささか早すぎたテーマだったのかもしれない。逆に昨年ドラマ化されたことはようやく時代が本書の内容に追いついたことということか。

またこのシリーズのもはや特徴となっているが、殺人を犯すことの動機の浅薄さ、不可解さは逆にネット社会で人とのコミュニケーションがリアルよりも電脳領域での比率がかなり高くなっている現在の方が実に解りやすくなっている。

そして9作目にして初めて犀川は犯人と対決する。犯人の毒牙に落ちようとする萌絵を救うため、身体を張って彼女を護り、怪我を負う。ドライでクールなミステリだったシリーズがホットでフィジカルな色を帯びて正直驚いた。

このようにシリーズの評価は私的には尻上がりに好ましくなってきているが、唯一変わらないのは西之園萌絵に対する嫌悪感である。本書でも彼女は我儘で傍若無人、傲岸不遜であった。萌絵と私には決して近づくことができない斥力が働いていると認識しよう。
いやはや身の回りにいなくてよかった。


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数奇にして模型―NUMERICAL MODELS (講談社文庫)
森博嗣数奇にして模型 についてのレビュー
No.690:
(7pt)

解説本必須の難解作品

SF作家のプリーストが今回取り上げたテーマは第2次大戦時代を扱った改変歴史物語。J・L・ソウヤーと云う名の双子の奇妙な人生譚だ。

第2次大戦時の英国首相として有名なチャーチルの手記が言及する良心的兵役拒否者でありながら現役の英空軍爆撃機操縦士という相矛盾する価値観を内包するソウヤーと云う人物の正体は同じイニシャルを持つジャックとジョウゼフのJ・L・ソウヤーと云う全く同じイニシャルを持つ双子のそれぞれの来歴が混同されたことだったと判明する。
戦争の混乱期にありがちな間違いであるのだが、プリーストの語りならぬ騙りはそんな定型に陥らない。

まずJLとジョーという同じJ・L・ソウヤーという名前の双子が片や英国軍の軍人の道を、一方は兵役拒否者として赤十字で働く道を選んだそれぞれの人生が手記や記事の抜粋などの様々な形式で語られる。

メインとなるのが戦争ドキュメント作家スチュワート・グラットンが興味を示したチャーチル直属の副官となったほとんど無名のソウヤーなる人物で、それが読者の1人が自身のサイン会に持参した手記によってJ・L・ソウヤー大佐であることが高い確率で確認される。

しかしそこに書かれている内容と関係者の証言や手記とは異なる事実が判明してくる。

これらの記述は様々な人物による手記や著作、記事の抜粋によって構成されている。これが全て“信頼できる語り手”であるか否かは不明であり、それらによって物語が進んでいることに留意されたい。
従って前に書かれた内容が新たな事実によって否定され、物語のアイデンティティが揺らいでいく。

これは夢か現か妄想か?この足元が揺らぐ感覚はまさにプリースト作品ならではのものだ。

さて誰が嘘をつき、誰が真実を語っているのだろう?
いやもはや事実の受け取り方はその者に与えられた情報や体験によって構成されるが故に、純然たる真実はあり得ないのか。

一見ストレートな物語と見せかけて読み返すと様々な語り―騙り?―が散りばめられていることに気付かされるという実に複雑な構成を持っていることに解ってくる。
とにかく読書中は付箋だらけになってしまった。しかしそれこそが本書を読み解くのに必要な作法であることは物語の最後に気付かされる。
上に書いたように2人のソウヤーの手記の内容は異なり、さらには挿入される様々な記事や手記においてもまた辻褄が合わないことが多々書かれているため、前に書かれた文章を行きつ戻りつしながら補完していくことが必要なのだ。
しかしそれがまた物語の、いや本書で語られる歴史の真実を揺るがせることになるのだから侮れない。全くプリーストは相変わらず一筋縄ではいかない作家だと思いを新たにした。

この複雑な物語を解き明かす一つの解釈として巻末の大森望氏の解説に書かれた緻密な説明は必読。ホント、この作品には解説本が必要だ。


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双生児 (プラチナ・ファンタジイ)
クリストファー・プリースト双生児 についてのレビュー