■スポンサードリンク


Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数688

全688件 121~140 7/35ページ

※ネタバレかもしれない感想文は閉じた状態で一覧にしています。
 閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
No.568: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

キング作品を読み解いていく上でも羅針盤となる短編集

短編集『深夜勤務』と合わせて二分冊で刊行されたキング初の短編集のこちらは後半部分。

「超高層ビルの恐怖」はマフィアの妻を寝取った元テニス・プレーヤーの男が巻き込まれたある賭けについての話だ。
ロアルド・ダールの有名な短編「南から来た男」を彷彿とさせるシンプルかつ人生を賭けた危うい賭けという題材。たった5インチ幅の手摺の上を歩いてビルを一周するというアイデアもさることながら、主人公を妨害しようと嘘をついていたと話したり、リンゴをビルから落としてグシャリと割れる音を聞かせたり、癇癪玉を突然鳴らしたりと心理的に追い込む相手の策略や既得権を発揮し、主人公に襲い掛かる鳩の存在などシンプルな題材で置いてもアイデアが尽きない。
しかしその割にはちょっと詰めが甘いかな。

次の「芝刈り機の男」は実にシュールだ。
よくもまあこんなこと考えつくよなぁというのが素直な感想だ。業者に芝刈りを頼んだら芝刈り機が独りでに庭中を駆け巡り、男が素っ裸になってその後を追って刈った草を次から次へと食べていく…。悪夢のような光景である。
このシュールさは実にジョジョ的だ。いやキングが本家なんだけど。
しかし前巻の「人間圧搾機」といい、「トラック」といい、キングは意志を持つ機械にそこはかとない恐怖を覚えるようだ。

そのジョジョ、いや荒木飛呂彦がいかにも書きそうな話が次の「禁煙挫折者救済有限会社」だ。
薬も使わない、集団催眠に掛けるような説教も行わない、特別な食餌療法もしない、更には1年間煙草を吸わなくなるまでは一切料金はいらないという実に摩訶不思議な禁煙専門会社の療法は、その人物の良心に訴えるものだった。
しかもそれが冗談ではなく、実際に成されるのだから、怖い。
更に職員が24時間監視しており、それも期間が過ぎるにつれて、監視の頻度も薄まるが、いつどこで誰が見張っているのかは対象者は解らないため、常に見られているという強迫観念の下、生活を強いられる。それでも成功率98%というのだから、残り2%の顧客は家族や自分の生活の平穏よりも喫煙を選んだ人がいるのだから、煙草の中毒性の恐ろしさが判るという物だ。
そしてそんな不利益を自分だけ被るのは面白くないとばかりに顧客は喫煙者にその会社を口コミで知らせるようになる。
特に最後の一行が本書では効いている。
しかし喫煙を始めなければこんなことも起こることはなかろうに。

女性にとって理想の男性とは?「キャンパスの悪夢」はある女子大学生の前に彼女の望むものを全て適えてくれる男性が現れる話だ。
今でいうストーカーの話。自分の好みを知り、いつも期待に応え、願望を叶えてくれる、そんな理想の相手が現れたら、男であれ女であれ心惹かれてしまうだろう。なぜなら共感を持てる人物に人は惹かれるからだ。本作で登場するエド・ハムナーは黒魔術を使って彼女の心を読み、また彼女と自分が付き合うのに障害となる物や人を排除して彼女と近づくことに成功した。それは小学生の頃からの淡い恋心が生んだ情念のようなものの産物だったのだが、私はこの事実を知らなければエリザベスはエドと幸せに暮らせたのではないかと思う。
つまり幸せとは知らなくていいことが潜んでいるものであるとキングは本作で暗に示しているのではないだろうか。

「バネ足ジャック」はその名から連想されるように切り裂きジャックをモチーフにした短編。
う~ん、なんとも微妙な終わり方だ。
バネ足ジャックと云えば藤田和日郎氏による黒博物館シリーズに挙げられており、そちらを連想したが、正直藤田氏の作品の方が怖かった。
しかしバネ足ジャックという都市伝説は実際に切り裂きジャックが登場する数十年前にあったらしい。それを知っただけでも収穫か。
ちなみにイチゴの春とは冬の寒さがまだ抜けやらぬ春を指すらしい。

表題作はいわゆる田舎町の得体のしれなさを描いた物語だ。
人っ子一人いない田舎町。アンファンテリブルと思しき薄気味悪い子供たち。そしてなぜか雑草も害虫もいない繁茂したトウモロコシ畑。
正直トウモロコシ畑に馴染みのない私たちにはいまいちピンとこない恐怖なのだが、バーボンを生み、映画『フィールド・オブ・ドリームス』のように切り開いてグラウンドにしたトウモロコシ畑に往年の野球選手が集うようなマジックが物語として語られる国であるから、トウモロコシ畑には日本人には理解できない畏怖や幻想味があるのだろうか。
なかなか腑に落ちないのだが。

一風変わって次の「死のスワンダイブ」は抒情的な作品だ。
何とも云いようのない余韻を残す作品だ。
美しかった妹は美人が陥る不幸せな結婚を経て、身持ちを崩していく。やがて大好きだった兄とも疎遠になり、数年ぶりに兄が目にした記事に踊っていた文章は「コールガール、死のスワンダイブ」という記事。やがて彼の許に届いた手紙には幼き頃に兄に助けてもらった納屋での事件の時に死んでいた方がマシだったという悔恨の一文。
特に本作では幼い兄弟が両親に内緒で納屋に積まれてある干し草の上に70フィートもの高さ、つまり21メートルもの高さから飛び下りる遊びに興じていた思い出とそれにまつわる事故のエピソードが眩しいだけに切ない。
あの時、兄が咄嗟の判断でどうにか助かるように壊れた梯子にぶら下がる妹の下にかき集めては敷いた干し草のことには全く気付かずにダイブした妹の心中には兄ならば何か助けてくれるに違いないという確信があった。だからこその決死のダイブだった。
彼女にとって兄は妹を助けてくれるスーパーマンだったのだ。しかし現実にはそんなスーパーマンはいない。
何ともやるせなさの残る作品である。

その男は道行く人が振り返るほどハンサムで、なおかつ幸せに満ちた顔をしていた。その通り彼は恋人のノーマに逢いに行くところだった。途中、花売りのところで店のおじさんのお勧めの花束を携え、彼は足取り軽く恋人のところに向かっていた。道すがら誰もが彼を祝福するかのように見たが彼の目には何も映らなかった。そして彼女のところに行く着くと、確かにそこにはノーマがいたので、彼は声を掛けた。
こんな風に休日の昼、幸せそうな男の風景を描いた「花を愛した男」はキングらしい皮肉な結末を迎える。

“呪われた町”<ジェルサレムズ・ロット>の恐怖はまだ終わらない。次の「<ジェルサレムズ・ロット>の怪」は再びあの吸血鬼に支配された町が舞台となる。
前巻でも長編『呪われた町』を舞台にした短編「呪われた町<ジェルサレムズ・ロット>」は吸血鬼ではなくドルイド教という邪教に傾倒する一族によって支配されていた町という設定だったが、こちらは長編と同じ吸血鬼に支配された町であり、スピンオフ作品となっている。
既に町は無くなっているから長編のその後の物語であることは間違いないが、今なお吸血鬼は健在で時折訪れる人々を襲っては渇きを癒しているようだ。ベンが決着を付けに来るその日までジェルサレムズ・ロットの恐怖は収まらない。

最後の「312号室の女」は胃癌を患った母親を看取る息子の心情がつとつとと語られる。
本書の中で最も現実的な問題を扱った作品だ。あとはただ死に向かうだけの寝たきり生活を強いられた母親に安楽死を与えようと逡巡する息子の心情が語られる。
もはや回復の見込みがなく、ただ死ぬその時までの時間を苦しみながら生きていくだけになった実の親に安らかな死を与えることは罪なのか。いや今後いつまで続くか解らない母親の世話に疲弊していく自分を救うことは過ちなのか。
先般読んだ『ロスト・ケア』同様、この答えの出ないジレンマは70年代当時から東西問わずに抱えられた問題であるようだ。


キング初の短編集『ナイト・シフト』の後半に当たる本書は前半にも増してヴァラエティに富んだ短編が揃っている。

未来に賭けて超高層ビルの手摺を一周回ることに同意した男。

奇妙な雰囲気を漂わせた芝刈り業者の男。

98%の確率で禁煙が成功する禁煙を専門に扱う会社。

常に自分の望むものを叶えてくれる不思議な学生。

バネ足ジャックと呼ばれた連続殺人鬼。

生い茂ったトウモロコシ畑を持つゴーストタウン。

幼い頃、共に干し草の上にダイブして遊んだ美しい妹の末路。

恋人に会いに行く幸せそうな男。

豪雪で忌まわしき村に迷い込んだニュージャージーから来た家族。

死の間際にいる母親を看る息子の胸に去来するある思い。

前巻も含めて共通するのは奇妙な味わいだ。特段恐怖を煽るわけではないが、どこか不穏な気持ちにさせてくれる作品が揃っている。

ただ前巻では全ての物語が怪物、超常現象、邪教といったSF的、オカルト的趣向に根差し、つまり現実的には起こりえない設定の上で物語が紡がれていたのに対し、後半の本書では現実でも起こりうる現象、事件または主人公が抱く悪意などを描いているところに違いがある。

超高層ビルの手摺を一周回ることの恐怖、町を震撼させた連続殺人鬼の正体、美しかった妹が自殺した真相、サイコパス、病気の母親を看取る息子にほのかに生まれた悪意、などが相当する。

まあ、本書は前巻を合わせて1冊として刊行されていたものを日本が独自に分冊して刊行しただけなので、実は1冊のうちにそれら虚構と現実を併せ持った趣向の短編が満遍なく収められていることにはなるのだが。

またクーンツ作品とは決定的に違うのは災厄に見舞われた主人公が必ずしもハッピーエンドに見舞われないことだ。生じた問題が解決されることはなく、また主人公が命を喪うこともざらで、救いのない話ばかりだ。

それは―どちらかと云えば―ハッピーエンドに収まった作品でも同様だ。
何かを喪失して主人公は今後の人生を生きることになる。人生に何らかの陰を落として彼ら彼女らは今後も生きていくことを余儀なくされるのだ。

個人的ベストは「禁煙挫折者救済有限会社」か。
煙草は案外アメリカでは根深い社会問題になっているみたいで『インサイダー』なんて映画が作られたほどだ。作中にも書かれているが、刑務所で煙草の配給を廃止しようとしたら暴動が起きただの、昔ドイツで煙草が手に入りにくくなったときは貴族階級でさえ、吸い殻拾いをしていただのと中毒性の高さが謳われている。

そんな代物を辞めさせるには家族を巻き込まないことには無理!というのが本書に含まれたブラック・ジョークだ。
しかし本書の面白いところはその手段が喫煙者に単なる脅しではなく、行使されるものであるところだ。
つまり本書は煙草を辞めることはこれぐらいしないとダメだと痛烈に仄めかしているところに妙味がある。しかし本当にこんな会社があったら怖いだろうなぁ。

次点では「死のスワンダイブ」を挙げたい。
これはとにかく田舎で農家を営む両親の下で育った兄弟の、納屋での、70フィートの高さから干し草の上にダイブする禁じられた遊びのエピソードがなんとも胸を打つ。そしてそのダイブで起きた事故で兄の咄嗟の機転によって奇跡的に助かった美しい妹が大人になるにつれて辿る不幸な人生とのコントラストがなんとも哀しい。そして彼女が最後に頼ったのはあの時助けてくれた兄だった。もう人生に落胆した彼女はまた兄が助けてくれることを信じてもう飛ぶしかなかったのだ。そんな切なさが胸を打った。

また前巻と合わせて本書でも『呪われた町』の舞台となったジェルサレムズ・ロットを舞台にした短編が収められている。
2編は外伝と異伝のような合わせ鏡のような作品だが、どうやら本書においてこの忌まわしい町に纏わる怪異譚については打ち止めのよう。その後も書かれていないことを考えるとキングが特段この町に愛着を持っているというよりも恐らくはアマチュア時代から書き溜めていたこの町についてのお話を全て放出するためだけに収録されたのではないだろうか。

本書と『深夜勤務』は『キャリー』でデビューするまでに書き溜められていた彼の物語を世に出すために編まれた短編集だと考えるのが妥当だろう。とするとこのヴァラエティの豊かさは逆にキングがプロ作家となるためにたゆまなき試行錯誤を行っていたことを示しているとも云える。
単純に好きなモンスター映画やSF、オカルト物に傾倒するのではなく、あらゆる場所やあらゆる土地を舞台に人間の心が作り出す怪物や悪意、そして人は何に恐怖するのかをデビューするまでに色々と案を練ってきたことが本書で解る。
つまり本書と『深夜勤務』には彼の発想の根源が詰まっているといえよう。特に『呪われた町』の舞台となるジェルサレムズ・ロットを舞台にした異なる設定の2つの短編がそのいい証拠になるだろう。あの傑作をものにするためにキングはドルイド教をモチーフにするのか、吸血鬼をモチーフにするのか、いずれかを検討し、最終的に吸血鬼譚にすることを選んだ、その発想の道筋が本書では追うことが出来る。そんなパイロット版を惜しみなく提供してくれる本書は今後のキング作品を読み解いていく上で羅針盤となりうるのではないかと考えている。

しかし本書を手に入れるのには実に時間と手間が掛かった。なぜなら絶版ではないにせよ置かれている書店が圧倒的に少ないからだ。
現在でも精力的に新たな作風を開拓しているこの稀有な大作家が存命中であるにも関わらず過去の作品が入手困難であるのはなんとも残念な状況だ。既に絶版されている諸作品も含めて今後どうにか状況改善されることを祈るばかりである。



▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
ナイトシフト〈2〉トウモロコシ畑の子供たち (扶桑社ミステリー)
No.567:
(7pt)

創作意欲が滾々と湧き出ているのが解るよう

キング初の短編集。日本では本書と『トウモロコシ畑の子供たち』の二分冊で刊行された。

まずは長いはしがきで幕を開ける。初の短編集であるせいか、はしがきでさえ熱がこもっており、キングの物語に懸ける思いの強さが漲っている。

そんな思いが詰まった第1編「地下室の悪夢」は独立記念日の週に行われる地下室の大掃除を扱った物。
夜の熱気にさらされたのか、学生のホールは自ら危険を求めるかのように異常発達したネズミと、それらが突然変異したかのように見える大きなコウモリの巣窟へと主任を誘って自ら降りていく。鼻持ちならない主任を懲らしめるための思い付きだったのかもしれないが、ホール自身も暗闇と巨大ネズミたちの大群で次第に正気を失っていくのが解ってくる。
暗闇によって引き起こされる感覚の麻痺と従業員に不遜に振る舞う上司への反抗心が生んだ、奇妙な味わいの作品だ。

次の「波が砕ける夜の海辺で」はある長編の断片を切り取ったような作品だ。
たった26ページで語られる物語は新種のインフルエンザによって人類が死滅しつつある世界。そんな世界の一シーンを切り取ったかのように唐突に物語は始まり、そして唐突に終わる。
彼らの行く末はどうなるか解らない。しかし明日に希望を持たないモラトリアムな若者たちにとってそれはどうでもいいことだった。そんな若者の倦怠感を謳った作品。しかし大きなラジカセを担いだ若者の姿が時代を感じさせる。

一見少年殺害の現場を偶然見た男の告白と思わせて意外な展開を見せるのが「やつらの出入口」だ。
本書が書かれた70年代はアメリカとソ連の宇宙開発競争がまだ激化している時であり、また本書発表の1978年は映画『スターウォーズ』公開の翌年で一大SFブームの真っ只中でもある。逆にそんなブームの中で宇宙開発に警鐘を鳴らすキングの特異性が浮き彫りになる短編だ。

さて次の「人間圧搾機」はキング独特の根源的な恐怖を扱っている。
クリーニングの機械が人間の血の味を覚え、それ以来意志をもって人間を意図的に巻き込んでミンチにする。そんな狂える機械の恐ろしさを語ったのが本書だ。
しかし本書ではその機械の圧倒的な力に人々は屈するしかないというバッド・エンディング。
命を持たない機械が意志を持って人間に襲い掛かるとどうなるのか。人間の作業を楽にする機械が牙を人間に向けた時の怖さを本書では十二分に語っている。

次の「子取り鬼」も奇妙な作品だ。
ブギーマンと云えば映画『13日の金曜日』のジェイソンの原型とも云える映画『ハロウィン』に出てくる連続殺人鬼ブギーマンを想起してしまうのが私の世代だが、本書で初めてブギーマンが子取り鬼とも称されていることを知った。
物語は奇妙な味わいのホラーである。言葉にすることで具現化するという言霊の恐ろしさを描いた作品とも取れるだろう。

冬の酒場を舞台にした「灰色のかたまり」もまた昔ながらのホラーストーリーだ。
本書で書かれるように不定形の怪物というのは理解を超えた恐ろしさを持っており、実際のゲームのようには易々と倒せるような相手ではないように思える。
本書で恐ろしいのは怪物に変化している男ではなく、父親がどんどん変わってしまう少年の心を襲う大いなる不安だろう。働きもせず、ただただビールを飲んで家じゅうを真っ暗にしてテレビを見ているだけの父親に対しておかしいと思いながらも従順に従う息子のティミーが愛おしい。彼の抱いた哀しみの深さと恐怖こそが本書の最も恐ろしい部分だろう。

「戦場」はどこかで読んだような話だ。
まさにこれは『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部『ダイヤモンドは砕けない』の虹村形兆のスタンド「バッド・カンパニー」である。というかその元ネタがこれだったのか。
人によっては『トイ・ストーリー』の方を思い浮かべるかもしれないが、内容はまさに『ジョジョ』。

次の「トラック」もまた予想外の物語だ。高速道路のサービスエリアにいるのは若い男女とトラックの運転手にレストランのカウンター係に男性2人。彼らはそこに閉じ込められていた。
いきなりトラックやバスなどの大型車両が自ら意志を持って人を殺し始める。
どこからそんな着想が来るのか、全くキングの想像力は不思議だ。いやあるいは我々が子供の頃に玩具のトラックでまるでそれらが生き物であるかのように口で擬音を発しながら、ぶつけ合っている、そんな遊び心をそのままホラー小説に仕立て上げたかのような作品だ。
誰もが経験した遊びをこんなデストピア小説へと結びつけるキングの発想力にはただただ驚くばかりだ。

皆さんは小さい頃、悪ガキ連中に絡まれたことはないだろうか?もしあるならばその時の怖さを覚えていることだろう。「やつらはときどき帰ってくる」はそんな誰もが持っている少年の頃の苦い思い出が恐怖となって襲い掛かる物語だ。
少年時代の不良グループやいじめっ子たちから暴力を振るわれたり、カツアゲをされたりする経験は当時としては恐怖以外何ものでもなく、絶望の日々を送るような思いをしたことは誰しもあるのではないだろうか。しかし普通そのような思い出は大人になれば懐かしい思い出となり、同窓会で彼らと再会しても笑い話として済ませ、当時の恐怖が甦ることはよほどのことがない限りないだろう。
しかしもしも当時の不良たちが同じ悪意を持ってそのままの姿で現れたら?
これは確かに恐怖以外何ものでもない。彼らは精神的に成熟しておらず、自らの思うがままに振る舞い、他者の迷惑など顧みず、相手を虐め、苦痛を与えることに快楽を見出す悪意の塊だ。そんな大人の道理が通じない輩ほど怖い物はない。そんな誰しもが持っている根源的な恐怖をまざまざと蘇らせる、実にリアルなホラーだ。

さて本書の掉尾を飾るのは「呪われた村<ジェルサレムズ・ロット>」。キング2作目の長編『呪われた町』と同じ名前だが、舞台はどうも違うようだ。
長編ではジェルサレムズ・ロットに訪れた吸血鬼が徐々に町民たちを吸血鬼に変えていく侵略の物語だったが、本作はチャールズ・ブーンという男のボーンズという友人に宛てた手紙と彼の友人で付き添い人でもあるカルヴィン・マッキャンの手記によって構成されている。
本作で描かれるのはジェルサレムズ・ロットにある教会に纏わるブーン家の忌まわしい過去の話。ジェルサレムズ・ロットが先祖のジェイムズ・ブーンなる怪僧の近親結婚者たちによって形成されたおぞましい村であったこと。そしてジェイムズはドルイド教に傾倒しており、数々の魔術的な儀式を行っていたことが語られる。
そんな先祖の負の遺産を清算するために手紙の送り主であるチャールズ・ブーンが出くわした怪物との戦いが描かれている。
最後の最後まで気の抜けない作品だ。


はしがきにも書かれているようにデビュー作『キャリー』以来、『呪われた町』、『シャイニング』と立て続けにベストセラーのヒットを叩き出した当時新進気鋭のキングが、その溢れんばかりに表出する創作の泉から紡ぎ出したのが本書と次の『トウモロコシ畑の子供たち』に分冊された初の短編集である。

今まで自分の頭の中で膨らませてきた空想の世界が世に受け入れられたことがさらに彼の創作意欲を駆り立て、兎にも角にも書かずにいられない状態だったのではないだろうか。

その滾々と湧き出る創作の泉によって語られる題材ははしがきで語っているように恐怖についてのお話の数々だ。

古い工場の地下室に巣食う巨大ネズミの群れ。

突如発生した新型ウィルスによって死滅しつつある世界。

宇宙飛行士が憑りつかれた無数の目が体表に現れる奇病。

人の生き血を吸ったことで殺戮マシーンと化した圧搾機。

子取り鬼に子供を連れ去られた男の奇妙な話。

腐ったビールがもとでゼリー状の怪物へと変わっていく父親。

殺し屋を襲う箱から現れた一個小隊の軍隊。

突然意志を持ち、人間に襲い掛かるトラック達。

かつて兄を殺した不良グループが数年の時を経て再び現れる。

忌まわしき歴史を持つ廃れた村に宿る先祖の怨霊。

これらは昔からホラー映画やホラー小説、パニック映画に親しんできたキングの原初体験に材を採ったもので題材としては決して珍しいものではない。ただ当時は『エクソシスト』やゾンビ映画の『ナイト・オブ・リビングデッド』といったホラー映画全盛期であり、とにかく今でもその名が残る名作が発表されていた頃でもあった。

そんなまさにホラーが旬を迎えている時期に根っからの物語作家であるキングが同じような恐怖小説を書かずにいられるだろうか。

その溢れ出る衝動の赴くままにここでは物語が綴られている。

はしがきでも述べられているが本書の諸作では特にキングが少年時代に数多く作られた巨大な昆虫や突然変異した怪物が人々を襲うパニック映画の影響が大きいようで必ず異形の物が現れて、人々を恐怖に陥れるパターンが多い。10編のうち6編がそれに相当するだろう。

しかしこの着想のヴァラエティには驚かされる。
上にも書いたが、今ではマンガや映画のモチーフにもされている化け物や怪異もあるが、1978年に発表された本書がそれらのオリジナルではないかと思うくらいだ。

例えば『ジョジョの奇妙な冒険』の作者荒木飛呂彦はキングのファンである事で知られているが、私は『シャイニング』を読んだときに遅まきながらそのことに気付いた。そして本書には彼のアイデアの源泉がキングにあることを改めて知らされるのである。

特に顕著なのは「戦場」という短編だ。この小さな玩具の兵隊が意志を持って人間を襲うのは『ジョジョ~』のスタンドでも使われている。さらにそこから想像を広げると例えば「灰色のかたまり」の父親は同じく『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部に登場する、「弓と矢」で怪物と化した虹村兄弟の父親を想起させる。

本書の個人的ベストは「やつらはときどき帰ってくる」だ。この作品は少年時代にトラウマを植え付けられた不良グループたちが教師になった主人公の前に再びそのままの姿で現れ、悪夢の日々が甦るという作品だが、扱っているテーマが不良たちによる虐めという誰もが持っている嫌な思い出を扱っているところに怖さを感じる。
無数の目が体に現れたり、小さな兵隊が襲ってきたり、トラック達が突然人を襲うようになったりと、テーマとしては面白いがどこか寓話的な他の作品よりもこの作品は誰もが体験した恐怖を扱っているところが卓越している。

また最後の短編「呪われた村<ジェルサレムズ・ロット>」は長編とは設定が全く異なることに驚いた。一応長編の方も再度確認したが特にリンクはしていないようだ。ただ後者は全編手記によって構成されるという短編ゆえの意欲的な冒険がなされ、最後の一行に至るまでのサプライズに富んでおり、長編の忍び来る恐怖とはまた違った味わいがあって興味深い。

さて本書は最初に述べたようにキング初の短編集でありながら、次の『トウモロコシ畑の子供たち』と分冊して刊行された。いわば前哨戦と云ってもいいかもしれない。それでいて現在高評価されている漫画家へも影響を与えたほどの作品集。
次作もキングの若さゆえのアイデアの迸りを期待したい。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
ナイトシフト〈1〉深夜勤務 (扶桑社ミステリー)
スティーヴン・キング深夜勤務 についてのレビュー
No.566: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ミステリ度数はかなり高いのだが…

Vシリーズ5作目は再び那古野市に舞台を戻し、阿漕荘と瀬在丸紅子といったお馴染みの面々が事件に巻き込まれる。
今回の舞台は航空ショー。衆人環視の中、なんと演技中の飛行機の中でパイロットが射殺されるという、これまでにない非常に限定的な密室殺人を扱っている。

しかしそれにも増して正体不明の美術専門窃盗犯であった保呂草潤平に危機が訪れるのが面白い。
各務亜樹良というジャーナリストの強引な依頼でエンジェル・マヌーヴァという特大のエメラルドを埋め込まれた短剣を盗み出すことを依頼された保呂草が飛行機の中の密室殺人の容疑者となった各務を助けたことで自身も警察から追われる身になってしまう。

また被害者宛てに送られたエンジェル・マヌーヴァを魔剣と称する詩めいた内容のカタカナで書かれた脅迫状の存在に、加えて発生する見習パイロットがホテルの一室で射殺事件。そこにはまた同じようなカタカナで書かれた一行のメッセージが残されていた。また機内で射殺されたパイロットの口の中からヒューズが発見されるという異常な事実も発覚する。
ヘルメットを被った状態で口の中から異物が発見される。最小の密室状態で更なる不可解事の発生。それに加えて保呂草の逃亡と本格ミステリとサスペンスが融合した、森氏にしてはミステリ色の濃い作品である。

また本書ではサブストーリーとして小鳥遊練無の過去についても語られる。
事件の中心となるエアロバティックス・チームの一員である関根杏奈が彼の憧れの存在であり、練無が少林寺拳法を始めたのも彼女の影響であることが判明する。さらに女装も杏奈の影響によるものであることが解る。女装が趣味で少林寺拳法の有段者という個性の強いキャラクターだけの存在だった―個人的には漫画ハンター×ハンターのビスケをイメージとして重ね合わせていたのだが―が、今回は女装をせずに物語に登場する。

物語後半で明かされる関根朔太と西崎勇輝、そして関根杏奈出生の秘密は非常にオーソドックスな真相だろう。

関根杏奈がスカイ・ボルトは人の命を奪うほど価値があるものなのかという祖父江七夏の問いに対して頷き、その後にこのように云う。

「人の命なんて、大したものではない。命をかけるものが、あるからこそ、人は生きているんです」

この言葉はそのまま彼女の母親の生き様に繋がる。奇しくも2人は同じ覚悟を持って人生を生きていることに気付かされる。ここに2人の強い絆を感じた。

たった2人しか入ることの出来ない飛行機のコクピットという極限的に狭い密室殺人でこのようなすっきりとした解答が得られる森氏のミステリスピリットは非常に素晴らしいと思うのだが、また今回も犯人の動機が不明なまま終わるのが不完全燃焼でがっかりである。
多分森氏が「人が人を殺す理由は他人には到底わかるものではないから敢えて書かない」というスタンスを崩さない限り、私は彼の作品を高く評価することはしないだろう。
前にも書いたがそれは我々が生きる社会の中では至極当たり前であるが、せめて作り物の物語の中くらいははっきり答えが出てもいいではないかと思うからだ。割り切れない世の中を生きているからこそ答えのある世界を欲しているのだ。

今まで書いてきたように本書は森作品の中でもミステリ色が濃い作品である。
10億円は下らない特大の宝石が埋められた短剣の行方、密室殺人、脅迫状、ダイイング・メッセージとミステリど真ん中のシチュエーションと小道具が散りばめられているし、また保呂草の逃亡劇というサスペンス要素も加わっている。さらに瀬在丸紅子が最後に警察に持ってくるウィスキーのボトルに付いた指紋の件は刑事コロンボの『二枚のドガの絵』を彷彿とさせる演出だ。

しかしそんな盛り上がってしょうがないと思われる材料を実にあっさりと料理してしまうのだ。
例えば保呂草が依頼された宝剣エンジェル・マヌーヴァの在処も特に謎解き要素があるわけでもなく、最後に仄めかすに留まるし、保呂草の逃亡劇の顛末も瀬在丸紅子の推理ですっきり解消してしまう。
またカタカナで書かれた脅迫状は特に暗号でも何もないままに処理されるだけだ。

この辺のあっさりさがどうにも腑に落ちない。せっかく色々な設定を施しながら全てが中途半端な感じで終わるのが残念なのだ。

恐らくは関根朔太の数奇な運命こそがこの物語の主眼だったのかもしれない。
人が命をかけるからこそ人は生きている。このテーマを書いたところで森氏にしてみれば物語の目的は達成したのかもしれない。それ以降は物語を畳むための作業に過ぎなかったというと云い過ぎだろうか。

またシリーズも5作目となって次第に各登場人物のキャラクターに踏み込んだ内容が書かれるようになった。
小鳥遊練無の憧れの存在関根杏奈は彼が唯一惚れた女性だ。そして林と紅子が別れた件もほんの少しだが明かされる。
本書はシリーズの折り返し地点でもあるから、後半になると更にみんなの過去が明かされるだろうと期待しよう。

さて本書の隠されたテーマは全ての章題に付せられた「形」というキーワードか。森氏はエッセイでも述べているように無類の飛行機好きでその形に機能美を超えた美しさを感じているようだ。その心情は本書のプロローグで遺憾なく開陳されているが、本書では飛行機の形だけでなく、家族の形、過去の形、友人たちの形と人と人を繋いで形成されるものを指しているのではないだろうか。
保呂草が冒頭に述べる多少の演出を交えた形が本書の物語であり、最後に瀬在丸紅子の笑顔を求める形と述べている。つまりそれらの形がその人の生き様を、人生を作る。即ち人生とは形の集合体であるということだろうか。

そうであるならばまだ形は変わっていく。今回の形はこの事件が起きた時の形だ。シリーズが最終作に至る時、どんな形を描くのだろうか。その形こそがこのシリーズの最大のミステリなのかもしれない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
魔剣天翔―Cockpit on Knife Edge (講談社文庫)
森博嗣魔剣天翔 についてのレビュー
No.565:
(7pt)

先入観を排して読むこと!

スティーヴン・キングがもう1つの筆名リチャード・バックマン名義で発表した作品。これがバックマン名義での第1作となる。

オーランドのナイトクラブで銃乱射事件が発生したようにアメリカのハイスクールでの無差別銃乱射事件は多く、一番有名なのは映画にもなった1999年に起きたコロンバイン高校の銃乱射事件だろう。本書はそれに先駆けること1977年に発表されている。
これは1966年に起きたテキサスタワー銃乱射事件を材に取ったと思われるが、その後コロンバイン高校の惨劇を想起させるということでキング本人が重版を禁止した作品でもある。過激な内容を扱いながらも無差別銃乱射事件を美化したような内容が逆に同様の事件を助長させていると作者自身が懸念したからかもしれない。

そう、美化したような内容というのはいわゆる銃社会アメリカでたびたび起きているような無差別殺人を本書が扱っていない点にある。
ライフルを持った一人の頭のおかしい生徒が同級生たちを人質にして教室に立て籠もる。そう聞くと息詰まる警察と狂人の駆け引きと、1人、また1人と生徒たちが亡くなっていくデスゲームのような荒寥感を想起させるが、本書はそんな予想を裏切って、籠城状態の教室という特殊空間の中で高校生たちの日常生活に隠された仮面を次第に剥がして本音をさらけ出して語り、もしくはぶつけ合うという実に意外な展開が広がるのだ。

正直この発想は全くなかったため、非常に驚いた。

事件を引き起こしたチャールズ・デッカーは実は取り立てて目立つような存在ではない高校生だ。しかし彼は元軍人で時々暴力的衝動に駆られる父親と規律と礼儀を重んじる、優しくも厳格な母親の許で育った。好奇心旺盛で衝動的な破壊行動を抑えられない彼は悪戯をしては父親の衝動的暴力の犠牲に遭い、それがもとで父親に対して憎悪を常に抱くようになる。また頭がよく、ディベート能力に優れ、大人たちの説教も煙に巻く弁舌を振るう。そんな彼が教室を支配することでクラスの様相が変わっていく。

とにかく色んな読み方の出来る小説だ。
読了後まず想起するのはスクールカーストの変転を扱った実に特異な小説と読めることだ。

一見銃を手にした一生徒の反逆の物語と見せかけながら、彼の行った籠城行為によって生徒たちが大人への反発心を開花させる物語でもあるのだ。
原題の“Rage”は主人公チャールズ・デッカーの反逆だけでなく、彼の同級生全ての大人に対する反逆心の芽生えも指している。

また学校一の人気者が、同級生による銃を持った立て籠もりという異常な状態ゆえに、日常的に抑えてきた感情が非日常によって解放されたことで通常ならば触れるべきでないことを告白しだす。
それは彼らの両親が行っているクラスメイトの両親に対する噂話だったり、初体験の告白だったり、そんな秘密の暴露がされる中で学校一の人気者が丸裸にされ、その地位が陥落する様は実に面白い。

一方、変わり者としてみなされていた主人公チャールズ・デッカーはいきなり銃を持ち込んで先生を2人撃ち殺し、降伏するよう説得を試みる校長先生、学校担当の精神科医、そして駆け付けた警察署長らを見事に出し抜くことで人質である生徒たちの尊敬を集めていく。

そういう意味ではストックホルム症候群を扱った小説ともいえる。この症候群の名の由来となったストックホルムで起きた銀行人質立てこもり事件が1973年。そして本書が発表されたのが1977年だから当時キングがこの起きたばかりの事件に由来した新たな症候群を知っていたかどうかは疑わしい。
もし知らなかったとすると同様の状況を扱った本書の、いやキングの先駆性は驚くべきものがある。

鬱屈した高校生の反逆の物語。スクールカーストが無残にも崩れ去る物語。犯人に同調する集団意識の変転の恐ろしさを描いた物語。

そのどれもが当て嵌まり、どれもが正解だろう。

しかし私はここからさらに次のように考える。

これは意味のないところから意味を生み出した物語なのだ、と。

まずセンセーショナルな幕開けとなるチャールズ・デッカーの銃立て籠もりの顛末はチャールズが授業中に校長先生に呼び出され、説教をされたことに腹を立て、ロッカーに隠し持っていた銃を持ち出していきなり先生2人を殺したことで始まる。
これは今まで暴力的な父親に虐げられてきた彼が物理の授業で先生を衝動的に傷つけたために精神科医によってカウンセリングを受けるようになったことについてねちねちと云われることが気に食わないために起きたことで正直ここには短気で暴力的衝動が常に潜んでいるチャールズ・デッカーの衝動以外、理由がない。

従って彼は教室に立て籠もるものの、誰一人生徒を殺そうとしない。自分を理解してほしいと云わんばかりに自分のことを語り出し、そしてクラスメイトの話を聞く。それはそれまでお互いに云えなかった打ち明け話をするだけの行為だ。

チャールズの行った籠城には何の意味もなかったのだが、クラスメイト達が思い思いに胸の内を打ち明け、それぞれが抱えていた秘密を暴露することで共通の敵を見出すという意味を持ち、それに復讐する目的を確立する。

たった300ページ足らずの、しかも舞台は高校の教室内で繰り広げられるというのになんとも中身の濃い小説ではないか。
但し現代のような銃立て籠もり事件が頻発する昨今、犯人であるチャールズ・デッカーを反逆のヒーローとして描く本書は確かに読んだ者の心に危うい発想を生み出す危険性を孕んでいることは頷ける。

現在絶版であるのは非常に惜しいと思いながらも、それを決断したキング本人の想いもまた理解できる、読んでほしいにも関わらず復刊することには躊躇を覚えるジレンマに満ちた作品である。

私は本書を古本で手に入れたが、もし興味があるならばぜひとも読んでほしい。本書を読んでどのように受け取るかはあなた次第だ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
バックマン・ブックス〈2〉ハイスクール・パニック (扶桑社ミステリー)
No.564:
(7pt)

勝者のいないマネーゲーム

フリーマントルがジョナサン・エヴァンス名義で発表した企業小説。新進気鋭のホテル・チェーンがイギリスの格調高い由緒ある豪華ホテル・チェーンの買収に乗り出すマネーゲーム小説だ。

アメリカの新興ホテル・チェーン≪ベスト・レスト≫を取り仕切るのは若き会長ハリー・ラッド。妻を出産の事故で亡くしたことをきっかけにその哀しみを忘れるために仕事に没頭した結果、たった10年でボストンの取引高300万ドルのモーテル・チェーンを年商5億ドルの国際レジャー産業に仕立て上げた、ウォール街でも噂の男だ。

一方イギリスの≪バックランド・ハウス≫は誰もがその名を知っている5ツ星の最高峰のホテル・チェーンだが、その経営は創始者一族にて代々引き継がれてきた一族経営で、内情は経営体制のない、伝統に胡坐をかいた経営母体で権威とブランドのみで運営しているような会社だ。
その経営を担う現会長サー・イアン・バックランドは祖父と父親の遣り方を単にまねているだけの凡庸な経営者だとみなされており、その実ギャンブルと愛人との情事に耽り、会社の小切手で自身のギャンブルの借金を清算していたことを財務担当から糾弾されるほどのおぼっちゃんでもある。

飛ぶ鳥を落とす勢いの新興ホテル・チェーンの会長というイメージから想起されるのは生気に溢れ、半ば強引な方法で欲しいものを手に入れてきた傲慢不遜を滲ませた辣腕経営者というイメージを抱くが、≪べスト・レスト≫会長のハリー・ラッドはむしろその逆だ。
小柄で何事も慎重に事を運ぶ男でギャンブルはやらず女性には奥手で恋人はいるが身体の関係を特に望むわけではない。まだ若い頃に今の会社の社長であるハーバート・モリスンの1人娘と結婚したが、結婚を好ましく思わなかった義父の画策によって乗っ取りを仕掛けている≪バックランド・ハウス≫の象徴的存在ベリッジ・ホテルに修行に出されていた時に妊娠で妻と子供共々亡くしてしまうという苦い過去を持つ。それ以来その哀しみを忘れるために仕事に打ち込んできたような男で、仕事一筋の、どちらかと云えば一昔前の日本人ビジネスマンに近い人物像だと云える。

億単位、いや数十億単位の金が動くマネーゲーム。誰もが甘い汁をすすろうと金のあるところに集る。

有力な対抗馬が出た政治家は地元の票を集めるため、ホテルを誘致しようとすればそのついでに政治資金が欲しいと新興ホテル・チェーンの会長にせびる。

由緒と伝統と格式のみが唯一の拠り所となった世界最高峰のホテル・チェーンの会長は愛人との情事とギャンブルに狂い、会社の金を使う放蕩ぶり。知らぬ間に会社の財政は火の車となっていることに気付かず、銀行が経営に介入するのを阻止するため、必死になって金策に走る。

新興ホテル・チェーンの会長はその勢力を拡大しようとテキサス州の議員から持ち出された誘致の話を自分の有利な形に持ってこようと手練手管を駆使する。そしてサウジアラビアの王子に持ち込まれた名門ホテル乗っ取りを機に世界一のホテル王になる夢を抱く。

あまり詳しく語られていないが、ハリーはかつて買収先の≪バックランド・ハウス≫の旗艦的ホテルであるベリッジ・ホテルで働いていたこともあり、その経験がいつかは自分もこのような由緒あるホテルのオーナーになりたいという原初的な欲求が今回の買収には働いていたのかもしれない。

しかし今まで数々のプロジェクトを成功に導いてきたハリーに今回は様々な危難が降りかかる。


そして女性に対して朴念仁であったハリー自身が予想外なことに買収先のホテル・チェーン会長の妻と不倫関係になってしまう。

また買収工作が発覚すると取引銀行のハッファフォード銀行もカウンター・ビッドを画策する。

そんな金の亡者の集まる魑魅魍魎と化した世界にラッドは文字通り身銭を切って破産寸前にまで追い込まれながら≪バックランド・ハウス≫株の買収を進めるが、最後の6パーセントの壁を超えることができない。そしてその最後の障害は意外な形で解決を見るが、それはネタバレ感想にて述べることにしよう。

さてフリーマントル作品の醍醐味は目の覚めるようなアクションではなく、やはり知と知のぶつかり合いの高度なディベート合戦にある。企業小説である本書では役員会議や非公開の役員同士の密談などが多々挿入されているが、株主総会とラッドが仕掛ける会社登録法違反の裁判が本書の白眉であろう。

まず株主総会ではギャンブルでの損失を会社の小切手で返金し、家族の友人を愛人として会社の所有する宿泊施設で囲っていることを暴かれた≪バックランド・ハウス≫会長イアン・バックランドの解任を求められるが、圧倒的な不利の中、完璧な理論武装と弁護士を同席させるというラッド提案の奇手によって有利に進め、見事提案を退ける。
こういう議論のシーンが実にフリーマントルは上手い。ただそこには大口株主のファンド・マネージャーの支持が少なかったというスパイスも忘れない。ここに一流のジャーナリストだったフリーマントルのシビアな視点を感じる。このような茶番劇では海千山千の投資家の目はごまかせないと暗に示しているのだ。

そしてそれを証明するかのように一転して乗っ取りを仕掛けたラッドによる会社登録法違反の疑義を申し立てる起訴裁判では株主総会で雄弁に切り抜けたバックランドの答弁はメッキが剥がれるが如く、次々と論破されていく。残されたのは由緒ある貴族階級の一族の裏に隠された数々のスキャンダルの山。伝統と格式に飾られたバックランド一族の装束は容易に剝ぎ取られ、ギャンブルと女遊びにうつつを抜かす一人の裸のお坊ちゃんがいるだけとなる。

後半は株主総会、役員会議、裁判のオンパレードだ。企業小説であり、しかもやり手の若手会長が自社と買収先の株価の大幅下落というリスクを負いながらも血眼になって買収を成立させようと東奔西走する作品であるから仕方がないかもしれないが、ディベート合戦がフリーマントル作品の妙味だと云ってもこの繰り返しはいささか辟易した感じがある。

本書のサイド・ストーリーとして仕事一辺倒だったラッドが買収先のホテルの会長の妻マーガレットと道ならぬ恋に落ちる物語が展開する。それは近い将来敵対的存在となる自分にとって決して取ってはならぬ選択肢だったが、若き頃に亡くした妻の面影を見たラッドにとってマーガレットは仕事だけに目をくれていた彼の目を向けさせる運命の女性だった。

そして彼女との逢瀬はやがて彼女との安らかな生活を望むようになる。そんな背景を織り交ぜてフリーマントルがラッドに差し出した究極の選択は彼女を取るか最後の6パーセントの株を取るかだった。

しかし己の上昇志向に任せて踏み切った今回の乗っ取り工作は実に不毛なものだった。彼は得たものもあるが、心の充足はなかったのではないか。
勝者のいないマネー・ゲーム。やはり今回もフリーマントルは決して甘い夢を見させてはくれなかった。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
名門ホテル乗っ取り工作 (新潮文庫)
No.563: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

御手洗の未発表事件を知りたかったら読むべし!

御手洗潔の非ミステリ系短編集。

まず「御手洗潔、その時代の幻」はアメリカに留学中の御手洗が読者からの質問に答える作品。そこで挙げられる質問の数々はそれまでの作品に登場したエピソードに因んだものが多く、まさにファンサービスの1編。
ここで父親について質問が成され、御手洗の父親に関するあるエピソードが語られる。普段飲んだくれの父―これは予想外!―が駅のホームでの若者同士のケンカによって当時5歳だった御手洗潔がホームに転げてしまうというちょっとした事故が遭い、それに激昂した父親の姿が意外だったという話だが、それが次の短編「天使の名前」に繋がっていく。

その「天使の名前」の主人公は御手洗潔の父直俊。
御手洗潔の父親直俊が「御手洗潔、その時代の幻」で飲んだくれ親父だったという衝撃の事実の真相がほんの僅かだが明らかになる本書で最も長い1編。
第二次世界大戦前、外務省に勤める御手洗直俊がどうにか日本とアメリカとの戦争を食い止めようと奔走する姿が描かれるが、周知の事実のように日本の真珠湾攻撃を発端としてアメリカと開戦してしまう。そのゼロ時間までの御手洗直俊の奮闘と愚直なまでに日本国の勝利を信じる軍部との確執。そしてなぜか忠告したとおりに日本の敗色が濃厚になっていくのを不吉なことを云うからだと一手に責任を負わされ閑職に追いやられる直俊の姿は従来島田氏が作品で語っていた日本人の面子を重んじる権威主義の犠牲者である。
やがて直俊は友人を訪ねて神戸の三宮に渡るが、空襲により買い出しに行っている最中に友人一家全てが犠牲になり、教会の伝手でかつて東京で知り合った椎名悦子を訪ね、広島に行くがそこで御手洗は原爆投下直後の広島の姿を見て絶望する。
戦時の日本政府の愚かさと志半ばで挫折した一人の男と戦争の惨たらしい現実を幻想的に仕上げた1編。

次の「石岡先生の執筆メモから」もファンサービスの1編。犬坊里美によるとある雑誌に依頼されたエッセイという体裁だが、書かれている内容は御手洗潔の未発表事件の紹介という、これまたファン垂涎の内容となっている。
本作は「INPOCKET」誌の1999年10月号にて発表された、実に17年前の作品であり、その後実際に発表された作品も挙げられているが、未発表の作品もまぎれており、実に興味深い。
特に『ハリウッド・サーティフィケイト』の最後の一行で言及されている次の事件「エンジェル・フライト」事件に興味を持った。あの陰惨な事件が単なる序章に過ぎないと云わしめたこの事件はどのような物なのか。御手洗が死をも覚悟した事件とはどれほどの物なのかと非常に気になる作品だ。
あと「A Mad Tea Party Under The Aurora」は『魔神の遊戯』だと思われる。その他「ケルトの妖精」事件、「マンモス館の謎」、「伊根の龍神」事件、「ライオン大通り」事件は未発表作品に属するだろう。
全ての事件について今後書かれるかは解らないがまだまだ御手洗物のネタは尽きていないと解っただけでも大収穫の1編だ。
しかし犬坊里美の文章はどうにかならないかね。

続く「石岡氏への手紙」もファンサービスの1編。
御手洗が国外へ飛び出した後、馬車道で一人暮らしを続ける石岡の許に届いた手紙の主は御手洗かと思いきやハリウッド女優として活躍している松崎レオナからの物だった。彼女の近況と御手洗への想い、そして映画の都ハリウッドの現状と映画界の内幕が語られる。
しかし彼女が吐露する内容は一部作者島田氏本人の心情が混ざっているのではないだろうか。本作が発表された2000年は恐らく島田氏がLAに滞在していた時期ではないだろうか。従って松崎レオナによる手紙の体裁を借りて島田氏がLAで感じる異邦人ゆえの孤独感や日本でのバッシングを遠き異国の地で知っても何もできない無力感を覚えたことがこの作品で松崎レオナの言葉を借りて思わず出てしまったのではないだろうか。
「手紙を書くことで自分の気持ちが見えた。他人に誹謗中傷されてもびくともしない心のよりどころ、強く太い柱がほしい」
このあたりの件はまさに作者の本心の表れだと思うのだが。

次の「石岡先生、ロング・ロング・インタビュー」はなんと作者島田本人が石岡和巳に直接逢い、読者からの質問に答えるというメタフィクショナルな1編だ。
インタビューの場所が山下公園のコンビニの前というのが可笑しい。しかも独身の石岡の食事はコンビニ弁当で最初に質問はコンビニに入って好きな弁当の紹介から始まる。その後普段の暇つぶし方法や好きな絵、音楽といった個人的な話から、過去の作品に纏わる話が島田を通じて語られる。
『異邦の騎士』の事件で失われた記憶はまだ戻っていないこと、「数字錠」で登場した宮田君が無事刑務所から出所したこと、「糸ノコとジグザグ」のある場面について、そして外国へ発った御手洗に対する気持ちなどシリーズファンにとっても関心の高い内容が語られる。
しかし全編通じて感じるのは石岡氏が人生を楽しんで生きているわけではないということだ。コミュニケーション障害を持った大人で常に自分の存在を卑下している。何度も島田氏が励ますも効果がないほど人生に諦観を抱いている。女性にとっては母性本能がくすぐられるタイプなのかもしれないが、同性としてはなんとも情けない男だなぁと感じてしまう。
とはいえ、御手洗去った後の彼の境遇が不憫でならない。そんな風に感じさせる1編でもあった。

続く「シアルヴィ」は物語の中に盛り込まれるぐらいのエピソードともいうべき1編。スウェーデンのウプサラ大学の教授となった御手洗が医学系教授の集まりでスウェーデンのメーラレン湖の湖畔に建てられたシアルヴィ館に飾られた異形の十字架に纏わる話を語る。
北欧神話をモチーフにしたシアルヴィ館の意匠に込められたエピソードの数々は設計者の想いを解きほぐすような面白さがある。解る人にはすぐに解る謎解きでちょっとした箸休めのような1編と云えるだろう。

そして最後の「ミタライ・カフェ」はスウェーデンへと発った御手洗のパートナーとなったハインリッヒによる御手洗のウプサラ大学での日々が紹介されるが、いつものようにとも云うべきか、話は御手洗が研究する大脳生理学の研究テーマへ脱線し、その専門的な話に少々辟易した。
また最後に本作の前の短編「シアルヴィ」で登場したシアルヴィ館でのお茶会で御手洗が週末の金曜日に豊富な殺人事件の探偵談を語ることから本作のタイトルとなっている「ミタライ・カフェ」と呼ばれるようになったことが明かされる。つまりこの二作は同じ場所を違う名前で指し示していることになる。
しかしハインリッヒは御手洗のスウェーデン時代の活躍の語り部、つまりスウェーデンの石岡和巳であり、この短編では御手洗は彼の地でも色々と事件を解決しているようなのだが、あまり発表されているようには感じていないのだが。後々これらも発表されるのか、それとも島田氏の頭の中に留まるだけなのかもしれないが。


本書は冒頭に書いたように同文庫で刊行された『御手洗潔と進々堂珈琲』同様、御手洗潔が登場する非ミステリの短編集。シリーズの中心人物御手洗潔と石岡和巳に直接読者からの質問をぶつける、もしくは近況を語らせるというメタフィクショナルな内容がほとんどで、唯一の例外が御手洗の父親直俊が外務省に勤めていた第二次大戦の頃の話が語られる「天使の名前」だ。

この作品も非ミステリではあるが、元々物語作家としても巧みな筆を振るっていた作者のこと、実に読ませる物語となっている。
日本の敗戦を予想し、首脳陣へ戦線の拡大を留まらせようと粉骨砕身の努力を傾注したにもかかわらず、無視され、謂れなき誹りを受けて外務省を後にせざるを得なかった直俊の不運の道のりが描かれ、胸を打つ。特に島田氏が常々自作で披露していた日本の縦社会に根付く恫喝を伴う権威主義への嫌悪感がこの作品でも横溢しており、その犠牲者として直俊が設定されているのはなんとも哀しい限り。
しかし戦中は報われなかった彼の最大の功績は御手洗潔をこの世に生み出したことであると声を大にして云ってあげたい。それが彼にとっての救いとなることだろう。

それ以外のファンサービスに徹した作品では読者からの質問に回答したり、未発表御手洗作品について触れられていたり、登場人物の近況が報告されたり、御手洗がウプサラ大学教授時代の彼の博識ぶりを彷彿とさせるエピソードがあったりと御手洗と石岡が実在するかのような語り口である。特に作者島田氏自身が石岡に読者への質問をぶつける作品では錯覚を覚えるくらいだった。
しかし石岡君はどうしたものかねぇ。

本書は2016年6月に新潮社にて文庫オリジナルとして編集された作品であるが、収録作品は1999年から2002年に各種媒体で発表されたもので14~7年前と比較的古い話ばかりである。従って収められている話では2016年の今日ではすでに実現されている物もあり、興味深く読むことが出来た。

一例を挙げれば「御手洗潔、その時代の幻」と「ミタライ・カフェ」で語られるある特殊な細胞の話は現在のiPS細胞のことであろう。
御手洗潔シリーズ未発表の事件を列記した短編では現時点でも発表されていない作品もある代わりに「パロディ・サイト」事件や「大根奇聞」、「UFO大通り」などその後きちんと発表された作品名を挙がっていることから99年の段階で構想があったことにも感嘆してしまった。

今では日本を代表する名探偵シリーズにまで成長した御手洗潔が逆にそれほどまで支持されるようになったのは本書のように事件のみに挑む彼の姿以外の素顔を折に触れあらゆる媒体で作者が語ってきたことが要因であろう。一作家の一シリーズ探偵として登場した御手洗潔が今日これほどまでに人気があるのはこのような地道なファンサービスの賜物であろう。一瞬で事件の構造を看破する天才型の探偵という浮世離れした御手洗潔に血肉を与えることに見事に成功している。

しかし作者がすでに還暦を超えており、即ち御手洗もまた同じような世代であることを考えるとこれからのシリーズは御手洗の過去の活躍を紹介するような形になるのではないだろうか。そしてそれらの事件がまだまだ眠っていることが解っただけで本書は読む価値のある1冊なのかもしれない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
御手洗潔の追憶
島田荘司御手洗潔の追憶 についてのレビュー
No.562: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

科学者が必ず直面する倫理との戦い

探偵ガリレオシリーズ第8作目である本書は一度「猛射つ(う)」という題名で短編として発表されたものに加筆して文庫化の際に長編として発表された。
長編での探偵ガリレオ作品は湯川の葛藤を中心に描かれた物語となっているが、本書もまたその例にもれず、母校の後輩が事件に絡んでいる。

本書の中心人物となる古芝伸吾はかつて高校時代に自分の所属するサークル物理研究会がサークル員が自分1人になったことで存続の危機に立たされて際、新入生の入部勧誘のためのパフォーマンスを行うために先輩たちに助けを求めたところ、学生時代に同じサークルに所属していた湯川が一肌脱いで古芝の手伝いをしたことが縁で、湯川を尊敬し、努力の末に湯川が所属する帝都大学に入学した好青年だ。

さらに彼は両親を亡くし、9歳年上の姉と一緒に暮らしている苦労人でもある。

そんな背景の中で、たった一人の肉親である姉が突然亡くなったことで念願の大学を辞め、町工場に就職するという、既にここで読者の心に遣る瀬無さを誘う設定が織り込まれている。

更に湯川は古芝の入学を喜んでおり、時折彼と連絡を取っていた間柄でもあった。そんな古芝がある事件をきっかけに突然失踪し、東京各所で起きる怪現象にかつて湯川が古芝に授けた部員勧誘のパフォーマンスに使われた技術が関わっていることが判明する。

一人の真面目な青年が身寄りの死によってこれから開けるであろう明るい未来への扉を閉ざされてしまう。本書は初めから人生の皮肉さによって読者の心を鷲掴みにする。

しかしそれが表向きの理由だったことが次第に解ってくる。例えば冒頭に挙げられる偽名を使って東京のシティホテルに宿泊していた女性が翌日に大量の血を流して死体となって発見される。そこに古芝伸吾の許に掛かってくる姉の死を知らせる電話。そして謎の失踪。

作中、科学技術は扱う人の心次第で禁断の魔術にもなると湯川が語るシーンがある。機械の技術者で世界を飛び回っていた亡き父を尊敬し、そして高校時代に出逢った先輩湯川に憧れ、機械工学の道に進んだ彼、古芝伸吾はそのまっすぐな性格ゆえに自分には復讐する武器と知識があることに気付き、復讐の道へ進む。
純粋であるがゆえに人生に折り合いを付けられない。そこに古芝伸吾の哀しさがある。

そして湯川も含め科学者とはその道を究めんとする純粋さが必要なのではないだろうか。古芝伸吾は高校の時に湯川から励まされた言葉

「諦めるな。一度諦めたら、諦め癖がつく。解ける問題まで解けなくなるぞ」

を胸に抱いてきたからこそ難関校である帝都大学に合格した自負がある。つまり求道心が強いからこそそのベクトルが殺人という誤った方向であっても軌道修正が出来なくなるのではないだろうか。
悪は悪であるから裁かれなければならない。
もちろんそうだろう。しかし罪に問われない人物に事情はどうあれ復讐するのはおかしいのだ。求道心は道徳―それが受け入れがたいものであってもーをも凌駕するのかもしれない。

東野氏は『手紙』、『さまよう刃』、『容疑者xの献身』など一貫してこの法律では割り切れない部分を描き、犯罪に走らざるを得ない社会の犠牲者の辛い立場を描いてきた。
古芝伸吾もまたその系譜に連なる犠牲者の1人と云えるだろう。

そしてその古芝が師である湯川から授かった技術がレールガン。これは本当に実在するらしい。米軍で開発も進んでいるという。
私がこの武器の存在を知ったのはゲーム『メタルギア』でかなりずいぶん前だった。確かあのゲームでは連発していたが、実際は一日に1発しか打てない代物で、撃った後も研磨などの整備に何日もかかるらしく、軍事用には向いていないのが湯川の弁だ。しかし数キロ離れたところから標的を捉えられることから実用化すれば恐ろしい兵器になるに違いない。
そんな武器を高校を卒業したての青年が姉を見殺しにした相手の復讐心で完成させる。それは純粋さゆえの過ちだった。

しかし今回最も辛かったのは湯川自身だったのかもしれない。自分が目を掛け、将来を期待した年の離れた後輩が突然の不幸から道を踏み外し、科学を悪用する立場になってしまった。しかも自分が教えた技術で以って。

「科学は世界を制す」が口癖だった古芝の父親はそれが我が子たちに向けたメッセージでありながらも実は科学は使う者によって善にもなり悪にもなる、世界を制するのも豊かな社会にして制する、もしくは軍事的に使われて制するという二律背反性を備えた禁断の魔術師なのだと自身に刻み込んだ戒めの言葉だったことが最後に解る。

300ページ足らずの長編で、元は短編に加筆した作品だったがそこに内包されたメッセージ、とりわけ科学者とはどう生きるべきかという根源的な命題を刻み込んだ作品で中身は濃かった。
そして今までは科学を悪用した相手に博識でトリックを看破してきた湯川だったが、今回初めて自身で授けた技術の悪用と愛すべき後輩に対峙した湯川の心境はいかばかりだったのか。
この事件を経て湯川はさらに人間的な魅力を備えて我々の許に還ってくるに違いない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
禁断の魔術 (文春文庫)
東野圭吾禁断の魔術 についてのレビュー
No.561:
(7pt)

警察が捜査情報をダダ洩れするのはあまりに現実離れすぎるのだが

Vシリーズ4作目のテーマは夢。かつて結婚を約束した相手を交通事故でその女性の飼っていた愛犬と共に喪った放送会社のプロデューサ柳川の密室殺人事件がメインの謎である。

しかもその柳川は悪夢の中に出てくる女性に殺されたという実に不可解なシチュエーションである。その女性はかつて結婚を約束した女性で交通事故でその女性の愛犬と共に亡くしてしまう。しかしその女性が毎晩悪夢に登場しては自分を殺害し、さらには夢で登場する劇場に誘われ、実際にそこに行ってみると当の本人が踊っていることに驚愕するという非現実的な話が繰り広げられる。

また舞台がテレビ局というのも非日常的であり、一行が那古野を離れて東京で事件に携わるのも新味があり、なかなか面白い。彼らが宿泊するビジネスホテルの描写など何気ないところに妙にリアルな雰囲気があって、共感してしまう。

また彼らが訪れるN放送は駅が渋谷であることからNHKがモデルであるのは間違いなく、そこもかつて自分が訪れたことがあるだけに土地鑑や建物のイメージが出来たことでいつもより物語に没入できた。

しかし物語の展開にはかなり違和感を覚えた。特に事件に乗り出す警視庁の人間が紅子に色々と事件の内容を明かすことが実におかしい。紅子が人の警戒心を解く笑顔を武器に色々と話を聞くのだが、捜査上の秘密を素人にペラペラと話さないことは今では一般読者でも知っていることだろう。そこを作者は「紅子に対面すると男性は妙に素直になる傾向にある」と全く説得力のない答弁で逃げている。

更に事件の関係者であり最有力の容疑者である立花亜裕美が小鳥遊練無と共に車で建物から出るのを知っていながら見過ごしていることも実におかしい。普通ならば血眼になって2人の行方を捜すのではないか。そういう緊迫感が警察の口調からは感じられない。
この傾向はずっと続き、さらにエスカレートして紅子が望むままに事件関係者たちに逢わせたりと非現実的な昔の推理小説を読んでいるかのような錯覚を受ける。

それはそのまま踏襲され、警察一同集めての推理シーンまでもが演出されるのだが、その謎解きシーンはいつになく派手だ。なんとクイズ番組収録中に真相に辿り着いた紅子がそのまま犯人まで明かすのだ。そこから出演者、司会者、テレビスタッフ、そして刑事の前で紅子の推理が開陳される。

かつて川柳に「名探偵 みなを集めて さてと云い」というほど事件関係者を集めて推理を披露するのは本格ミステリでは定番なのだが、本書では実に聴衆の多い謎解きシーンとなった。番組出演者が32名だから、少なくとも50人近くはいることになる。またこのような場で推理を臆面もなく披露する紅子もらしいと云えば実にらしい。

しかし今回の物語は実にシンプルというか森氏にしては真っ当なミステリであった。小鳥遊練無が容疑者と失踪し、そしてそのために犯人に狙われるというツイストはあったものの、メインの殺人事件が本編の謎の中心であった構成は実に珍しい。なぜならば森ミステリではメインの事件よりもサブとなる謎の方に大きなサプライズがあるからだ。
例えば本書では保呂草の他に稲沢真澄という探偵が出てくる。このダブル探偵という設定ゆえに何かサプライズがあるのではないかと思っていたが、実に普通であった。いや実際は叙述トリックを色々仕掛けていたのだが、これに関しては後に述べよう。

そうそう、副産物として今回初めて瀬在丸紅子のイニシャルが明かされる。このシリーズがなぜVシリーズなのかが初めて明らかにされるのだ。

さて前述のとおり、本書には色々叙述トリックが仕掛けられていると書いたが、それは実に単純なものでいわゆる男女の錯覚である。小鳥遊練無という実に魅力的な女装趣味の男子が登場することでジェンダーの逆転がこのシリーズでは起きているのだが、それ以外にもこの性別の違いを利用した叙述トリックが本書では多い。

さて本書のタイトルは『封印再度 Who Inside』に次いで日本語と英語の読み方が同一のタイトルである。『夢・出逢い・魔性 You May Die In My Show』本書も同じく夢とショーで死ぬという趣向が一致しており、実に上手く感じるのだが、素直に『夢で逢いましょう』とした方が自然で作為を感じないと思うのだが。
しかしそれではいかにも普通であり、森氏独特の語感を味わえないため、やはり今の題名にした方がよかったのかもしれないのか。しかし『封印再度』とは異なり、あまりダブルミーニングの妙は本書では感じられなかった。確かに題名の通り夢とショーで殺されるという趣向は含まれているのだが、あまりインパクトがなかったように感じた。

しかし今回は阿漕荘メンバー東京出張編ということもあって紅子と犬猿の仲である祖父江七夏と元婚約者で刑事の林が登場しなかったこともあり、男女の痴情のもつれというドロドロした一面がなかったのがよかった。それ故に瀬在丸紅子、小鳥遊練無、香具山紫子、保呂草潤平たちの活躍に余計な騒音がなくて愉しめた。特に小鳥遊練無は大活躍である。ちなみに私の中の練無像は椿姫彩菜である。そして最後に美味しいところは瀬在丸紅子がかっさらっていく。
可哀想なのは香具山紫子だ。今回も三枚目に甘んじている。彼女が一番凡人であるがゆえにどうにか報われてほしいと思うのだが。

やはり西之園萌絵のいないシリーズの方が面白い。キャラもさらに魅力を増し、次を読むのが実に愉しみだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
夢・出逢い・魔性―You May Die in My Show (講談社文庫)
森博嗣夢・出逢い・魔性 についてのレビュー
No.560:
(7pt)

究極的に道を究めた者たちはやがて天空の極致に辿り着く

デビュー作にして直木賞候補となった藤原伊織以来の鮮烈なデビューを飾った宮内悠介氏。惜しくも直木賞は逃したものの日本SF大賞を受賞した。

それはどんな作品かと問われれば、盤上遊戯、卓上遊戯、つまりは古来より伝わり、今なお嗜まれている囲碁、チェッカー、麻雀、古代チェス、将棋といったゲームをテーマにした短編集。

まずは第1回創元短編賞で山田正紀賞を受賞した表題作はある女流棋士の数奇な物語だ。
なんという物語だろうか。卒業旅行先の中国で狡猾な罠に嵌って両手両足を喪い、そのまま賭碁師の人買いに買われ、今までしたことのない囲碁を覚え、瞬く間にその才能を開花させ、棋界の上位への階段を昇っていく灰原由宇という女性棋士の奇妙な半生。
物語にはサプライズがあるわけでもなく、この女性が棋士になるまでと短い棋士人生、そして行方不明となったその後がエピソードの積み重ねで語られていく。そのエピソード1つ1つが濃厚でしかも深い。
四肢を喪うことで碁盤と同化し、いつしか囲碁の石が自分の手足となった灰原由宇が極限まで囲碁の世界を上り詰めていくその精神世界が語られる。囲碁という盤上にある天空の世界を彼女は氷壁を昇るかのように上を目指し、やがて言語がその精神世界を表現するのには足らなくなり、彼女の頭の中で飽和し爆発してしまい、とうとう彼女は棋界を去る。
この至高の域に到達しようとする氷壁登攀は実に孤独で冷たく、寂しい。しかし彼女は登るのを止めようとしなかった。
読後、あまりに濃密な2人の精神世界にため息が出て茫然としてしまった。
これを応募作で書くのか。いやはや言葉にならない。

続く「人間の王」ではチェッカーなるチェスの前身とも云うべき盤上遊戯で40年間無敗を誇ったチャンピオン、マリオン・ティンズリーと彼を打ち負かすことが出来たプログラム、シヌークを生み出したシェーファーというチェッカーに命を捧げた孤高の2人の物語。
物語は作者と思しき人物が40年間も無敗を誇ったティンズリーと彼のライバルとなったシヌークを生み出し、2007年にチェッカーの完全解を出したシェーファーという2人の人物の肖像とエピソードを探るノンフィクションの体裁を成している。
このマリオン・ティンズリーとシェーファーという2人は実在し、ここで語られる彼らの対局もまた実際の物である。従って本作はほとんどノンフィクションである。
ただ語り手がインタビューする相手が最後になって明かされる。
チェッカーという今は忘れられつつあるゲームを極限まで突き詰め、そして完全解を出すに至った2人の人間が到達している精神世界の深淵さを語る言葉が見つからない。
シェーファーは棋界が人を超えることを目指し、ティンズリーは神というプログラムを背負って対決に臨む。純粋に勝負をすることを求め、強者と出逢うことで生きる意味を見出し、勝つことで神の座に近づいていくことを実感する。誰もが到達しえない境地に辿り着こうとする天才、いや天才という二文字を超えた至高の存在。
彼らは何を見たのか。それを見ることは我々凡人には適わない世界なのだろう。

次の「清められた卓」も実に奇妙な読後感を残す。
恐らく作者は無類の麻雀好きであろう。この作品における作者の筆致の躍動感は自身の麻雀愛が溢れ出ている証左に過ぎないからだ。
常識破りの打ち方でプロ雀士のみならず天才麻雀少年や歴戦のアマチュア雀士を翻弄する「シャーマン」と呼ばれる真田優澄のキャラクターに尽きる。この4人が対峙する対局を手に汗握る攻防戦として再現する作者の筆致の熱にまた思わず読む方も力が入ってしまった。そして明かされる真田優澄の強さの秘密は実に途方もないものであった。
いやはや誰がこんな真相を見破れるだろうか。いやさらに云えば、よくもこれほど人智を超えた真相を作者は思いついたものである。
全てが想像を凌駕しており、ただひたすらに脱帽だ。

古代インドで生まれたチャトランガは将棋やチェスの起源とされているらしい。「象を飛ばした少年」はそのチャトランガがある人物によって生み出されようとした物語。
その人物とは仏教の祖であるブッダことゴータマ・シッダールタの息子、日蝕や月蝕を意味する<蝕(ラーフ)>と名付けられたゴータマ・ラーフラ。聡明でありながら数学や盤上に思索を重ねるその男は王者の相がないと云われていた。そしてその証拠に彼はインド山麓の小国カピラバストゥの最後の王となる。
元々王になるのではなく、学問に親しむラーフラは状況の犠牲者だ。彼は10歳の時に初めて出席した軍議である遊戯を着想する。その遊戯に思いを馳せるが王であるがゆえにそれを誰かと嗜むことが出来なかった。更には象という駒を2つ飛ばすことが誰しも理解されなかった。これは今なお親しまれ、広く遊ばれている将棋やチェスの原型を生み出した悲運の天才の、王の哀しい物語だ。
史実にこの事実はない。これは恐らく作者の創作であろう。しかしブッダの影にこのような悲運の王がいたことは史実であろう。偉大な父が出家したために王にならざるを得なかった男ゴータマ・ラーフラという男とチャトランガなる遊戯を組み合わせ織り成された物語は途轍もなく切なかった。

次の「千年の虚空」は王道の将棋がテーマだ。予想通り、ある天才棋士の物語なのだが、その生い立ちが実に破天荒なのだ。
未来の、まだ見ぬ天才将棋棋士の物語だが実に想像力に富んでいる。まず思わず眉を潜めてしまう葦原兄弟と織部綾のとんでもない幼少時代の日々が鮮烈な印象を残す。
他とは違う性格ゆえに本能のまま動く3人。やがて自我に目覚めた兄一郎のみがその依存状態から抜けるが、実は彼こそが綾に向いてほしいと願っていた。そして弟恭二は綾が持ってきた麻薬によって覚醒し、類稀なる将棋の才能を開花させるとともに統合失調症を患い、生涯綾の世話なしでは生きられなくなる。
そんな精神状態の中、彼は誰もが到達していない将棋の世界の彼岸を、神を再発明する領域に達しようとする。人は極限に到達するためには人間らしさを、異常性を持たなければならない。常人にとっては悲しいほどの悲劇に見えても彼ら彼女らにとっては望むがままに生きた末の結末だったから、幸せだったのだろう。
とにもかくにも凄絶な物語である。

最後の「原爆の局」では再び灰原由宇と相田が登場する。
壮絶なる棋士であった灰原由宇が再登場する。海外へ渡った2人を追ってライターの私はプロ棋士の井上と渡米する。


まさに鮮烈のデビューであろう。そして創元SF大賞は第1回の短編賞受賞者にこの素晴らしい才能を見出したことで権威が備わったことだろう。そう思わされるほど、この宮内悠介なる若き先鋭のデビュー短編はレベルが高い。

とにかく表題作に驚かされた。四肢を喪った女性棋士灰原由宇の半生が描かれるこの物語はミステリでもなく、また宇宙大戦やモンスターが出てくるわけもない。ただ彼女の棋士のエピソードが語られるのみだ。
しかしそこには道を究める者が到達する精神世界の高み、本作の表現を借りるならば天空の世界が開けているのである。この天空の世界はまさにSFである。精神の世界のみでSFを表現した稀有な作品なのだ。

特に孤高であった棋士が最後に放つ言葉が実に心地よい。こんな幸せな答えが他にあるだろうか。この台詞は今後も私の中に残り続けるだろう。

そして実在の機械と人との勝負を扱った「人間の王」はいわば伝記である。しかし実在したチェッカーというゲームの天才とコンピューターの闘いは本作以外の作者の創造した天才たちの精神性を裏付けるいい証左になっている。神を頭に宿し、全ての局面を記憶した天才が実在した。だからこそ彼はゲームの極北を見たいと思った。恐らく完全解を知りつつ、それを眼前に再現したいがために敢えて機械と戦った男。そんな人物が実在したからこそ、他の作品で登場する灰原由宇や真田優澄、葦原恭二たちの存在が生きてくる。

また麻雀を扱った「清められた卓」での息詰まる攻防戦の凄みはどうだろうか?
プロ雀士は面子を掛け、予想外の奇手を打つ謎めいたアマチュア雀士真田優澄と戦いを挑む。他のアマチュア雀士も今まで培ってきたキャリアを賭けて挑む。極北の闘い、宗教と科学の闘いと称された対局はそれぞれを今まで体験したことのないゾーンへと導く。
この筆致の熱さは一体何なのだろう。ただでさえ麻雀バトルとしても面白いのに―ちなみに私は麻雀をしないし、ルールも解らないのだが、それでもそう感じた!―、最後に明かされる真田優澄の秘密と彼女が成したことを知らされるに至っては何か我々の想像を遥かに超越した世界を見せられた気がした。

後世に残る、天才たちを生み出すゲームを創作したにも関わらず誰もが相手にしないがために埋没した1人の王を描いた「象を飛ばした少年」が抱いた虚しさはなんとも云えない余韻を残すし、狂乱の人生を生き尽くした2人の兄弟と1人の女性の数奇な人生を語った「千年の虚空」では人智を超えた神の領域に到達するには常人であってはならないと痛烈に主張しているようだ。
ここに登場する葦原兄弟と織部綾の人生の凄絶さは到底常人には理解しえないものだ。それがゆえに己の本能に純粋であり、人間らしさをかなぐり捨てて常に答えを追い求めることが出来た。

これら物語には盤面という小宇宙に広がる極限を求め続けた人々の、我々常人が想像しえる範囲をはるかに超えた精神の深淵が語られる。それぞれ究極を求めたジャンルは違えど、一つのことを探求する人々の精神はなんとも気高きことか。

ここに出てくるのは見えざるものが見える人々だ。その道を究めんとする者たちが望むその分野の極北を、究極を見ることを許された人々たちだ。
しかしそんな彼らは超越した才能の代償に喪ったものも大きい。四肢をもがれて不具となった女性、強くなりすぎた故に滅びゆくゲームの行く末を見据えるしかない男、「都市のシャーマン」となり、治癒に身を捧げる女性、統合失調症になったがために才能が開花した男。
物事を探求し、見えざるものを見えるまで追い求めていく人々の純粋さはなんとも痛々しいことか。本書にはそんな不遇な天才たちの、普通ではいられなかった人々の物語が詰まっている。

なぜこれがSFなのか。
それは上にも書いたように人々の精神の高みはやがて宇宙以上の広大な広がりに達するからだ。また四角い盤上や卓上は常に対戦者には未知なる宇宙が広がる。その宇宙は限られた人々たちが到達する空間である。
本書はそんな異能の天才たちが辿り着いた宇宙の果てを見せてくれる短編集なのだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
盤上の夜 (創元日本SF叢書)
宮内悠介盤上の夜 についてのレビュー
No.559: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

単純な科学の探究者から人を正しい道に導く人道的な指導者へ

お馴染み探偵ガリレオこと湯川准教授が活躍するシリーズの短編集。
早くもシリーズとしてはこれで7作目であり、短編集としても4作目となる。さらに本書は当時単行本で『虚像の道化師』と『禁断の魔術』とそれぞれ別の短編集として刊行されたが、後者の3編を合わせて1つの短編集にしたもの。後者の残り1編は『禁断の魔術』として文庫化の際、長編化して刊行されている。

さて初頭を飾る短編「幻惑(まどわ)す」は手を触れずに人がいきなり窓から飛び降りる現象を湯川が解き明かす。
手を触れずに人を動かす、いわゆる気功を扱ったのが本作。一見本当の奇蹟のように思わせられ、今回こそは湯川も解けないのではないかと読者は不安になるがそれでもきちんと科学的に立証する湯川の冴えは健在だ。
また本作を読んで、「もしかしたら…」と思い当たる実在の新興宗教の信者もいるのではといらぬことを案じてしまった。

次の「透視(みとお)す」は透視術に湯川が挑戦する。
今までのシリーズ作とは一風変わった作品。殺人事件は起きるものの、湯川が挑むのは犯行方法ではなく、犯行動機となった透視術の謎だ。
今現代テレビに出ているマジシャンもこの手法を使っているのだろうか。いやまた新たな方法を生み出しているのかもしれない。
よくよく考えると科学とマジックは永遠のいたちごっこを繰り返すようなものなのかもしれない。そんな風に思える作品だ。

「心聴(きこえ)る」では幻聴の謎に湯川は挑む。
最新科学の知識を利用したトリックがこのガリレオシリーズの最たる特徴なのだが、本作に限ってはちょっと行き過ぎの感は否めない。

湯川が直接事件に関わらない珍しい短編「曲球(まが)る」ではなんと野球選手の変化球について研究する。
シリーズとしては異色の作品。上に書いたように湯川は殺人事件には直接関与せず、草薙が事件を通じて知り合った落ち目のプロ野球選手の復活に力を貸すというスポーツ小説の風合いをも持った爽やかな作品となっている。
ただ全く事件に関与しないわけではなく、生前の野球選手の妻の不倫を思わせる不可解な行動について、野球選手の車の錆を手掛かりに真相を突き止めるといういわばサブストーリーに関する謎解きを行う。
「心聴る」でも思ったが、被害者の生前の行動について事件を解決した刑事がそこまで調査を掘り下げるものだろうかと疑問は残る。プライベート侵害として訴えられる恐れもあろうかと思うのだが。

双子には不思議な力があると云われているが「念波(おく)る」は双子の妹が胸騒ぎを感じて姉の夫に連絡したところ、姉が意識不明の重体で自宅で倒れていたというショッキングな幕開けで物語は始まる。
双子の間に不思議なシンクロニシティが働くというのはよく云われており、強弱の差はあれどそのような経験をする双子も実際にいるという。従って本作では敢えてまだ未開の分野である双子の研究にあらかじめ踏み込むのを避けるように物語が作られたようにも感じる。
本当に科学で証明されていないことはまだまだ存在する。それに直面したときには現代科学を熟知する湯川でさえ未開の分野ではまだまだヒヨコのようだ。

刑事と名探偵には常に事件が付きまとう。「偽装(よそお)う」では友人の結婚式に出席した湯川と草薙が殺人事件に出くわし、地元警察の協力をすることになる。
嵐の山荘物のシチュエーションを上手く活用して湯川と草薙が否応なく事件に関わらざるを得なくなったのが特徴的だ。正直事件現場の写真だけでそこまで推理できるかと思うが、湯川の新たな一面が解る1編だ。

最後の「演技(えんじ)る」は初期の東野作品を思わせる実にトリッキーな作品だ。
面白いのは元カノがなぜ彼氏を奪った彼女のためにあえて罪を被って身代わりになろうとするのかという謎。この一見不可解な謎が「劇団の女優」という登場人物の設定で氷解する。
この一種異様な動機は女優という特異な人物にこそ当て嵌まり、腑に落ちる。どこかチェスタトンの論理を思わせる1編である。


ガリレオシリーズ第7作目となる第4短編集。本書では内海刑事の登場以来、疎遠になりつつあった草薙刑事と湯川との名コンビぶりが復活しているのが個人的には嬉しかった。

今回も科学知識を活用したトリックが並べられている。

いずれもどこかで聞いたような物ばかり。生活家電に取り入れられているものもあれば、かつて学生時代に学んだ物もあり、また初めて聞くものもありと今回もヴァラエティに富んでいる。つまり必ずしも最先端の科学技術ではなく、我々の日常生活で既に活用されている技術を駆使したトリックなのだ(一部を除くが)。

また一方で現在研究中の分野についても湯川は踏み込む。
本書では双子の間に働くテレパシーを扱った「念波る」が該当するが、まだその原理が証明されていないその謎については特段新しい研究発表が開陳されるわけでなく、予定調和に終わった感が否めない。双子のテレパシーは現在実際に研究中の分野だが、さすがにこの謎は湯川自身も解けなかったようだ。

しかしこれらの技術をトリックとして使って恰も超常現象のように振る舞う犯人、もしくは事件関係者たちの姿はもはや特異ではなく、日常的になりつつある。
それはやはりネットの繁栄により素人が容易に手軽にそれらの技術を応用したツールを手に入れ、アイデア1つで奇跡のような事象を生み出すことが可能になったからだ。つまり科学技術が蔓延することは警察にとっても常に犯人と技術的な知恵比べを強いられることになることを意味している。

そんな科学知識を応用して紡がれる短編はとにかく全てが水準以上。シリーズ初期に見られた一見怪現象としか思えない事件を科学の知識でそのトリックを見破るだけでなく、事件の裏に隠された関係者の意外な心理を浮き彫りにして余韻を残す。
そんな粒ぞろいの作品の中で個人的なベストを挙げると「透視す」、「曲球る」、「演技る」の3編を挙げたい。

「透視す」は思っていることは話さないと人には伝わらない、そんなシンプルなことが出来なかったために起きたボタンの掛け違いが切なく胸に沁みる。

「曲球る」は湯川が今注目されているスポーツ科学に携わり、戦力外通告を受けたプロ野球選手の往年のピッチングを復活させるために一肌脱ぐ話であり、直接的には殺人事件に関与しない。野球選手の亡き妻の不審な行動の謎を湯川が看破するが、あくまでも主体はスポーツ科学への関与だ。どことなくパーカーの『初秋』を思わせる温かい物語だ。

本書のタイトルの基となった「演技る」は久々に東野ミステリの技巧の冴えを感じさせた1編だ。女優という特異な職業ならではの歪んだ動機が強い印象を残す。一種狂気にも近い感情でまさに「虚像の道化師」とは云いえて妙である。

さて以前にも書いたが湯川は『容疑者xの献身』以前と以後ではキャラクターががらりと変わっている。特に事件関係者に対して手厚い心遣いを、気配りをするようになった。
「透視す」ではホステス殺人事件の謎のみだけでなく被害者親子の確執に隠された被害者の真意を突き止め、遺族となった継母に魂の救済を与える。
「曲球る」では再起をかけたプロ野球投手に研究としながらも復活に惜しみなく協力し、「念波る」では双子姉妹に秘められた犯人に対する強い疑念を晴らすために嘘をついてまで協力すれば、「偽装う」では心中事件を殺人事件に偽装しようとした娘の痛々しい過去を汲み取り、明日への新たな一歩を踏み出す勇気を与える。

そこには単純な科学の探究者だった湯川の姿はなく、人を正しい道に導く人道的な指導者の姿が宿る。
前作『真夏の方程式』で否応なく事件に関わらされた無垢なる容疑者に直面したことが、今回のように予期せず犯罪に巻き込まれてしまいながらも今の最悪を変えようともがく弱き人々へ手を差し伸べる心理に至ったのだろうか。だとすればこのシリーズは間違いなく事件を経て変わっていく湯川学の物語であるのだ。単なる天才科学者の推理シリーズではないのだ。

以前は加賀恭一郎シリーズの方に好みが偏っていたが、今ではその天秤はこの探偵ガリレオシリーズに傾きつつある。
本書を読んでその傾きはさらに強くなったと告白してこの感想を終えよう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
虚像の道化師 (文春文庫)
東野圭吾虚像の道化師 についてのレビュー
No.558:
(7pt)

キングがヴァンパイアを書くとこうなる

キング2作目にして週刊文春の20世紀ベストミステリランキングで第10位に選ばれた名作が本書。
そんな傑作として評価される第2作目に選んだテーマはホラーの王道とも云える吸血鬼譚だ。

小さな田舎町セイラムズ・ロットを侵略する吸血鬼対人間の闘いを描いた本書はかつて少年時代に4年間だけこの町に住んでいた作家のベン・ミアーズと彼が町で知り合い恋仲になるスーザン・ノートンを中心にして物語は進むが、原題“‘Salem’s Lot”が示すように本書の主役はセイラムズ・ロットと呼ばれる町である。
メイン州が成立する55年前に誕生した人口1,300人の小さな町。しかしそこには曰くつきの屋敷マーステン館があり、そこに再び居住者が現れる。

上に書いたように本書の主役はこの町であり、その住民たちである。従ってキングは“その時”が訪れるまで町民たちの生活を丹念に描く。彼ら彼女らはどこの町にもいるごく当たり前の人々もいればちょっと変わった人物もいる。登場人物表に記載されていない人々の生活を細かくキングは記していく。

町一番朝早くから働くのは牧場で牛たちの乳搾りを行う18歳のハルと14歳のジャックのグリフェン兄弟。ハルは学校を辞めたがっているが父親の反対に遭ってむしゃくしゃしている。

彼らの搾った牛乳はアーウィン・ピューリントンによってセイラムズ・ロットに配達される。その牛乳は本書の主人公で作家のベン・ミアーズが泊まっている下宿屋のエヴァ・ミラーの許だけでなく17歳で生後10ヶ月の赤ん坊ランディの育児に悪戦苦労しているサンディ・マクドゥガルの許にも届けられる。彼女は日々ランディに対してストレスを溜めている。

ハーモニー・ヒル墓地の管理人マイク・ライアースンは墓地のゲートに犬の死骸が串刺しになって吊るされているのを発見し、保安官のパーキンズ・ギレスビーに届けた。その犬はアーウィンの愛犬だった。

スクール・バスの運転手チャーリー・ローズはバスの中では全知全能の神だった。彼のバスではだから子供たちは行儀良かったが、今朝はメアリ・ケート・グリーグスンがこっそりブレント・テニーに手紙を渡したのを見たので2人には途中で降りてもらい、学校まで歩いてもらうことにした。

エヴァの下宿屋で長年働いているウィーゼル・クレイグはエヴァとかつての愛人だった。
ごみ捨場管理人のダッド・ロジャーズ。
若い男と昼下がりの情事に耽る美しい人妻ボニー・ソーヤー。
学校に新しく入ってきたマーク・ペトリーは学校一の暴れん坊リッチー・ボッディンに因縁をつけられるが鮮やかに一蹴してしまう。

定年まであと2年の63歳の高校教師マット・バーク。
常にマーステン館を双眼鏡で見張っている町のゴシップ屋メイベル・ワーツ。

これらの点描を重ねて物語はやがて不穏な空気を孕みつつ、“その時”を迎える。

このじわりじわりと何か不吉な影が町を覆っていく感じが実に怖い。
正体不明の骨董家具経営者がマーステン館に越してきてから起きる怪事件の数々。キングは吸血鬼の存在を仄めかしながらもなかなか本質に触れない。ようやく明らさまに吸血鬼の存在が知らされるのは上巻300ページを過ぎたあたりだ。それまでは上に書いたように町の人々の点描が紡がれ、そこに骨董家具経営者の謎めいた動きが断片的に語られるのみ。それらが来るべき凶事を予感させ、読者に不安を募らせる。

そしてようやく上巻の最後に吸血鬼そのものと邂逅する。
それは犠牲者の一人で墓堀りのマイク・ライアースン。つまり既にセイラムズ・ロットが吸血鬼の毒牙によって侵食されていることが読者の脳裏に刻まれる。

しかし吸血鬼が現れても一気呵成に彼らの襲撃が始まるわけではない。一人また一人と被害者が現れ、そして彼ら彼女らを取り巻く人々が次々に容態を悪化させ、ゆっくりと、しかし確実に死に至る。しかしそれらの死体はいつの間にか消えてしまう。安置所から、墓穴から。そこでようやく町民たちは気付くのだ。この町には何か邪悪な物が蔓延っていると。

このねちっこさが非常にじれったいと思うのだが、逆にそれがまた恐怖を募らせる。いつ主人公のベンやスーザンに災厄が訪れるのか、読者はキングの掌の上で弄ばれているかのように読み進めざるを得ない。

物語の序盤で丹念に描かれたセイラムズ・ロットの町の人々の風景。それぞれの人々のそれぞれの暮らし。
そこで紹介された彼ら彼女らの生活が、日常が吸血鬼カート・バーローと彼らが増やした下僕たちによって次々と“仲間”にさせられる。

そしてその災厄を頭ではなく肌身で感じた一部の人々はベンやマットに与し、戦いを挑む者もいるが、大半は云いようのない胸騒ぎを覚えて、魔除けになるような物を携帯し、ただ何事もなく夜が過ぎるのを祈る。そして朝が来たら住み慣れたセイラムズ・ロットを離れる者もいる。

吸血鬼に立ち向かうのは主人公のベン以外に高校教師のマット・バーク、彼の元教え子で医者のジミー・コディ、ホラー好きの博学な少年マーク・ペトリー、そして飲んだくれ神父のドナルド・キャラハンらだ。

その中でも特筆すべきはマーク・ペトリーだ。早熟なこの少年は常に物事を一歩引いた視座で観察し、冷静沈着な判断で危難を切り抜ける。学校一の暴れん坊に目をつけられると、頭の中で作戦を立て、返り討ちに合わせて面目をつぶす。

オカルトやモンスターに深い知識を持ち、吸血鬼の出現にも知識を総動員して冷静に対処する。本書においてヒーローを体現しているのは実はこの少年なのだ。

キングの名を知らしめた本書は今ならば典型的なヴァンパイア小説だろう。物語はハリウッド映画で数多作られた吸血鬼と人間の闘いを描いた実にオーソドックスなものだ。
しかし単純な吸血鬼との戦いに人口1,300人の小さな町セイラムズ・ロットが徐々に侵略され、吸血鬼だらけになっていく過程の恐ろしさを町民一人一人の日常生活を丹念に描き、さらにそこに実在するメーカーや人物の固有名詞を活用して読者の現実世界と紙一重の世界をもたらしたところが画期的であり、今なお読み継がれる作品足らしめているのだろう(今ではもうほとんどアメリカの書店には著作が並んでいないエラリー・クイーンの名前が出てくるのにはびっくりした。当時はまだダネイが存命しており、クイーン作品にキング自身も触れていたのだろう)。

恐らくはそれまでの吸血鬼は仲間を増やしつつも本書のように町の人々たち全てを対象にしたものでなく、吸血鬼が気に入った者のみを仲間にし、それ以外は彼らが生き延びるための糧として血を吸った後は死体と化していたような気がする。
しかし本書は吸血鬼カート・バーローがどんどん町の人々を吸血鬼化していき、ヴァンパイア・タウンにしていくところに侵略される恐怖と絶望感をもたらしている、ここが新しかったのではないか。
従って私は吸血鬼の小説でありながらどんどん増殖していくゾンビの小説を読んでいるような既視感を覚えた。

吸血鬼として数百年もの歳月を生きてきたカート・バーローは深い知識と狡猾な知恵を備えており、抵抗するベンやマーク達をその都度絶望の淵に追い込んでは返り討ちにする。そのたびに貴重な理解者たちが亡くなっていく。
圧倒的な支配力の下でしかしベンとマークはこの大いなる恐怖に立ち向かう。

彼らも逃げたいがベンには理由があった。
それはこの町に戻ってくるきっかけとなった妻ミランダの死だ。自身の交通事故で妻を亡くした彼は居たたまれなさからセイラムズ・ロットに逃げ込んだ。そして第2の安住の地としてスーザンという新たな安らぎを得ながらも吸血鬼カート・バーローに蹂躙され、自ら手を下して彼女を救済せざるを得なくなった元凶を彼は今度は逃げずに立ち向かうことにしたからだ。それが彼の行動原理だ。

また本書の恐ろしいところは町が吸血鬼に侵略されていることをなかなか気づかされないことだ。
彼らは夜活動する。従って昼間は休息しているため白昼の町は実に平穏だ。いや不気味なまでに静まり返っている。人々はおかしいと思いつつも明らさまな凶事が起きていないため、異変に気付かない。しかし夜になるとそれは訪れる。
近しい人々が訪れ、赤く光る眼で魅了し、仲間に引き入れる。この実に静かなる侵略が恐怖を募らせる。
これは当時複雑だった国際情勢を民衆が知ることの恐ろしさ、知らないことの怖さをキングが暗喩しているようにも思えるのだが、勘ぐりすぎだろうか?

古くからある吸血鬼譚に現代の風俗を取り入れてモダン・ホラーの代表作と評される本書も1975年に発表された作品であり、既に古典と呼ぶに相応しい風格を帯びている。
それを証拠に本書を原典にして今なお閉鎖された町を侵略する吸血鬼の物語が描かれ、中には小野不由美の『屍鬼』のような傑作も生まれている。

もう1人のモダンホラーの雄クーンツの作品はほとんど読んでおり、私にとってこのジャンルは決して初めてではない。
しかしキングの作品はクーンツの諸作と違い、結末はハッピーエンドではなく、どこか無力感と荒寥感が漂う。
今なお精力的に作品を発表し、そして賞まで受賞しているこの大作家は今後どのような物語を見せてくれるのだろうか。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
呪われた町 (上) (集英社文庫)
スティーヴン・キング呪われた町 についてのレビュー
No.557:
(7pt)

ドイル最後の作品はヴェルヌ張りの海底冒険物語だ!

ドイル晩年のSF冒険譚。ウィキペディアで調べる限り、これがドイル最後の小説のようだ。
空想冒険小説ではチャレンジャー教授がシリーズキャラクターとして有名であるが、本書では海洋学者マラコット博士が主人公を務め、冒険の行き先は大西洋の深海だ。

潜降函なる金属の箱でカナリア諸島西にある、自身の名が付いたマラコット海淵から深海調査に乗り出したマラコット博士とオックスフォード大学の研究生サイアラス・ヘッドリーとアメリカ人の機械工ビル・スキャンランの3人が大蟹に潜好函が襲われてそのまま海底に遭難してしまうが、なんと独自の科学技術で深海で生活しているアトランティス人たちに助けられるという、ジュヴナイル小説のような作品だ。

もともとドイルは海に関する短編を数多く発表しており、新潮文庫で海洋奇談編として1冊編まれているくらいだ。そして深海の怪物に関する短編もあり、もともと未知なる世界である海底にはヴェルヌなどのSF作家と同じように興味を抱いていたようだ。

そしてそれを証明するかのようにマラコット博士一行が海底でアトランティス人たちと暮らす生活が恐らく当時の深海生物に関する資料に基づいてイマジネーション豊かに描かれている。

まずアトランティス人たちが海底で暮らすために透明なヘルメットを被っており、そこに空気が送られて一定時間活動できるというのは今の潜水服そのものだ。
調べてみると1837年にはイギリス人のシーベによってヘルメット潜水器の原型が発明されており、1871年には日本にも導入されているから本書が書かれた1929年では既に既知の技術だったことは間違いない。

しかし空気や水、食糧、ガラス材料などを作る装置が備わった海底でも暮せる防水建築という概念は今でも新鮮であり、さらに思ったことが映像として出てくるスクリーンなどは今でも発明されていない。

さらに彼らの生活を支えるエネルギー源が海底に豊富に眠る石炭であり、それらを採掘して動力にしているとなかなか抜け目がない。

またドイルが描く深海生物も特筆で博士たち一行を海中に追いやったエビと蟹の中間の大ザリガニのような化け物から、毛布のように人を包んで海底にこすり付けて食べるブランケット・フィッシュ、樽のような形をした電波で攻撃する海ナメクジ、群れで活動し、血の匂いを嗅ぎつけると集団で襲い掛かり、白骨になるまで食い尽くすピラニアのような魚、1エイカーほどの大きさを持つ大ヒラメなど、今なお未開の地である海底にいてもおかしくない生物たちが描かれている。

しかし物語のクライマックスと云える邪神バアル・シーパとの戦いは果たして必要だったのか、はなはだ疑問だ。

この戦いをクライマックスに持ってくるよりもやはり物語の中盤で描かれる、彼らの生還を詳細に書いた方がよかったのではないか。

唯一おかしいのは水圧に関する考察だ。本書では深く潜っても水圧が高くなるのは迷信であるとして彼らの深海行の最大の難関を一蹴している。
今ではそのような理屈だと物語の前提から覆るのだが、ドイルはどうしても深海冒険物語を書きたかったのだろう。最後の作品でもあるのでそこら辺は大目に見るべきだろう。

しかし最後の作品でも子供心をくすぐる冒険小説を書いていることが率直に嬉しいではないか。読者を愉しませるためには貪欲なまでに色んなことを吸収して想像力を巡らせて嬉々としながら筆を走らせるドイルの姿が目に浮かぶようだ。
翌年ドイルはその生涯を終えた。

最後の最後まで空想の翼を広げた少年のような心を持っていた作家であった。
合掌。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
マラコット深海 (創元SF文庫)
No.556:
(7pt)

仮面、仮面というけれどこの世は仮面舞踏会のようなもの

ホテル・コルテシア東京に勤めるホテル・ウーマン山岸尚美と警視庁捜査一課の“ルーキー”新田浩介。
本書は2人が連続殺人事件で出会う前に経験したそれぞれの“事件”を綴った短編集。

「それぞれの仮面」ではまだ就職して4年と間もない山岸尚美が出くわしたある事件の話。
山岸尚美若き(?)日のエピソードといった導入部としてはなかなかな物語だ。入社5年目で毎日孤軍奮闘している様子を描きながらもホテル・ウーマンとしてお客様の細やかな観察眼が日々養われていることもきちんと書かれてあり、山岸尚美が後に『マスカレード・ホテル』で一流のホテル・ウーマンぶりを発揮する片鱗がそこここに散りばめられている。
ところで本作に登場する元プロ野球選手大山将弘は大阪弁と“大将”というニックネームからやはりあの男をどうしても想起してしまうし、またモデルであるだろう。従って宮原が彼の不倫を糊塗しようと奮闘するその理由が52ページで語られるのだが、麻薬事件が生々しいだけに余計に痛切に響いた。

次の「ルーキー登場」はもう一方の主人公新田浩介の若き頃の話。
ルーキー、即ち新田浩介の若き日(?)の捜査を描いた作品。都内で起きた実業家殺人事件に潜む人間の醜悪さを描いた作品だ。日常の何気ないシーンから事件の糸口を結びつける新田の思考はどこか加賀恭一郎を想起させる。
物語のツイストはもはや東野作品での常とう手段なので今更の驚きはないが、敢えてそれが解決に結びつかず、新田の苦い捜査経験の1つとして刻まれるようにしている。

もう1つの山岸尚美の物語は「仮面と覆面」は東野氏自身も経験したのだろうか、作家のホテルカンヅメを扱った短編。
覆面作家のホテルのカンヅメ中に熱狂的ファンが訪れ、ホテルは秘密を阻止すべく彼らとの駆け引きを繰り広げる。しかしその作家当人にも不審な点があるとなかなか面白い話である。特にファンの一目作家に会いたいという思いの強さは強烈で正直ここまでするのかと驚いた。
そして覆面作家のサプライズを逆手に取った真相も面白い。しかしこの正体を出版社も知らないわけだから、もしかして世間に出回っている覆面作家の中にも同様の人がいるのかも?
またホテルの部屋の電話トリックも半ばで解った。しかし本当にできるのかな。今度やってみよう。
ちなみに本作で『~笑小説』で登場する出版社『灸英社』が出るのは作者のファンサービスだろう。

そして最後の表題作は山岸尚美と新田浩介の2人の人生が間接的に交錯する前日譚だ。
『マスカレード・ホテル』で覆面捜査官としてホテル・クラークに扮した新田浩介とその教育指導を務めた山岸尚美に意外な接点があったというのがこの作品。大阪に出来た支店に応援に来ていた山岸尚美が意外な形で新田の担当する事件に関わるというのがあらすじだ。
また本作で登場する穂積理沙という女性警官がなかなかいい味を出している。ちょっとがっしりしたタイプの女性で体力と粘り強さが取り柄の元気溌剌娘だ。
『マスカレード・ホテル』では新田の新人ホテルマンぶりが物語のアクセントとなったが、それ以前に新田にも応援者を教育する機会があったのだ。ベテランと新人のミスマッチの妙が本作でも発揮されている。まあ、新田はベテランというにはまだ若すぎるのだが。
事件は教授殺しの重要容疑者である准教授が殺人の容疑を晴らせるのにもかかわらずなぜか大阪での情事について黙秘を続けるという謎を探る物語となっている。こういう人の感情が作る一種の割り切れなさというか不整合性を扱わせると東野氏は抜群にうまい。
そんな事件の真相は女性の怖さを知らされる物語だ。
そしてこの人妻、畑山玲子と夫の義之の関係もちょっと特殊だ。お互いが存在を尊重しながらも夫婦生活は疎遠で、夫は妻の浮気をも甘受する。本作では仮面夫婦と述べているが、ちょっと違うだろう。同じ目的を持った同士といった関係に近いだろうか。
ちなみに事件の舞台となる泰鵬大学は『疾風ロンド』で炭疽菌が盗まれた大学である。事件の多い大学だ。


山岸尚美と新田浩介。本書は『マスカレード・ホテル』の文庫化を期に文庫オリジナルで刊行された名(迷?)コンビの2人の前日譚。

彼らの初々しさを髣髴させるエピソード集と云えるだろう。

例えば今ならば一流のホテル・ウーマンとなった山岸尚美ならばお客様に仮面を着けているなどとは心では思いこそすれ口には出さないだろう。1作目の「それぞれの仮面」の最後の方で元恋人宮原隆司と元プロ野球選手の不倫相手である女性に対して慇懃ながらも本心をオブラートに包んでチクリと皮肉を云うなどとは決してあるまい。
こういうところに未熟さを交えるところが東野氏のうまいところか。

そして「ルーキー登場」で捜査一課に配属になったばかりの新田の活躍が描かれる。これも若さゆえの青さを感じさせる物語だ。

また本書の美味しいところは山岸尚美のパートでは日常の謎系ミステリを、新田浩介のパートでは警察小説と2つの味わいが楽しめることだ。これらを卒なくこなす東野氏の器用さこそが特筆すべき点であるのだが。

この山岸尚美と新田浩介が登場シリーズは共通する題名から「マスカレードシリーズ」とでもいうのであろうか。
そもそもこのマスカレードは非日常体験を提供する一流ホテルの従業員山岸尚美が客は日常とは違う仮面を被ってホテルへ集う、そしてその従業員もまた仮面を被って接しているのだというホテルはマスカレード=仮面舞踏会の舞台のようなものだというところから来ているが、本書に収録されている作品はつまりこの世は全て仮面舞踏会に過ぎないのだと云っているように思える。

山岸尚美が接した元プロ野球選手の大山将弘も不倫相手との密会でホテルを使うが、その彼も実は外では皆に夢を与えるスポーツ選手としての仮面を被り、自らの真意は決して顔に出さない。

新田浩介が事件で出会った田所夫妻は結婚3年目の仲睦まじい熟年夫婦と思わせながら、自分は哀れな妻を演じる。そしてその仮面が剥がれそうになっても若い刑事を嘲笑うかの如く決して仮面を脱ごうとせずにのうのうと人生を生き抜く。

そして覆面作家の仮面を被る中年男性。

ただ題名にマスカレードと冠しているためか、仮面、仮面と強調しているのはいささか煩わしい。
押しなべてミステリの登場人物はいずれも仮面を被っているもの。最初には思いもかけなかった動機と犯人の素顔が明かされるのがミステリのカタルシスなのだから、何もホテルに来る人物はいつも仮面を被っているなどと強調しなくてもいいのだ。
ホテルに来る人だけでなく、我々は皆仮面を被っている。公的な仮面と私的な場面における素顔、いや私的な場面においても仮面を被って演じなければならない時もある。それが我々人間の営みなのだから。

しかし改めて新田に再会してみると、上にも書いたように若さに任せた行動力と自分に対する甘さを持っているのが彼の特徴だが、東野作品の代表キャラクター加賀恭一郎とのキャラクターの棲み分けが上手くいっていないように思えて仕方がない。
事件に対する着眼点は鋭く、また父親がシアトルで日系企業の顧問弁護士を務める、いわば上流家庭の出で麻生十番に住んでいるというサラブレッドであることから、高級調度品への造詣が深いのも特徴的だが、アメリカ帰りの金持ちのボンボンといった印象も否めない。そこに新田の個性を持たせているようだが、ちょっとまだ印象としては弱い。

しかしホテル・コルテシア東京のデラックス・ダブルのデポジットが7万円。プレジデンシャル・スイートが1泊18万円!我々庶民には泊まれない高級ホテルである。

さらに新田の登場シーンもホワイトデーの夜に都内のホテルで女性と一夜を過ごしたシーンから幕を開ける。さらに上に書いたような新卒の刑事とは思えない裕福な暮らしぶり。
う~ん、双方バブリーの香りがしてちょっと時代錯誤な印象があるなぁ。

ともあれ、日常の謎を含んだホテル・ウーマンのお仕事小説と初々しい若さ溌剌のルーキー、新田浩介が活躍する軽めの警察小説という万人に受けやすいブレンドコーヒーのような作品で、じっくり読むというよりも息抜きで軽く読める読み物といったテイストである。
思えば探偵ガリレオシリーズもそうであったが、果たしてこの2人の今後の活躍に我々の胸を打つような重く味わい深い作品に出会えるのか。

いやそれよりもまだシリーズは続くのか、そっちの方が心配だ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
マスカレード・イブ (集英社文庫)
東野圭吾マスカレード・イブ についてのレビュー
No.555:
(7pt)

何とも不思議な余韻を残す殺し屋物語

殺し屋ケラー4作目の本書は長編でケラーに最大の危機が訪れる。
第2作品も長編だったが、構成としては連作短編集のような作りであったのに対し、本書はケラーが州知事殺しの犯人として追われるという逃亡劇が全編に亘って繰り広げられる。

今回は前短編集のうち「ケラーの遺産」と「ケラーの適応能力」に登場した謎の依頼人アルが本格的にケラーを抹殺しようとする物語だ。
不穏な空気を纏わせた正体不明のアルが本性を現してケラーたちに牙を剝く。それは実に用意周到に計画された罠で、ケラーは依頼で訪れたオハイオ州で州知事暗殺の冤罪を着せられるのだ。犯行にはケラーの指紋がべったり付いたグロッグが使われ、それが警察に凶器として押収される。そして全米にケラーの顔写真が貼り出される。

さらに衝撃的なのはケラーの相棒であったドットの死だ。頭に銃弾を2発撃ち込まれた挙句にホワイトプレーンズの自宅を放火され焼死体となって発見される。
正直この展開には目を疑った。死体は人違いではないかと何度も繰り返して読んだほどだ。それほどまでにシリーズにとって衝撃的な出来事だった。

おまけにケラーの自宅にも魔の手が伸び、彼の唯一の趣味だった切手のコレクションが軒並み押収される。つまりケラーの住まいも安全ではないため、彼は逃亡生活に踏み切るのだ。

そして流れ着いたニューオーリンズでレイプされそうになった女性を助けたことでその女性、地元で教師をしているジュリア・エミリー・ルサードの協力を得て、ニコラス・エドワーズと名乗って建築業の仕事にありつき、別の人生を歩みだす。

どうだろう、この教科書通りの起承転結の物語運び。まさに無駄のないストーリーテリングでしかも読者の予想通りにはいかないのだ。

そんなストーリーの中にはケラーという人物を改めて再認識させるエピソードが散りばめられている。

例えば自宅の切手コレクションを盗まれることに気付くシーン。通常ならばこんな状況になればコレクターならば誰もが多大なる喪失感に襲われるだろう。しかしケラーは事実は事実として受け入れるだけなのだ。
おまけに250万ドルもの資産もドットがいなくなったことで引き出せなくなるのだが、それに対しても大して執着しない。普通悪に手を染めた人間ならば金に対する執着心が人一倍強いはずなのに、ケラーにはそれがなく、あるがままに受け止め、他人事のように処理する。

これは殺し屋であるケラーが標的に対して感情移入せずに常にドライに対処することから来ているのだろう。つまり殺しをただの仕事として捉え、人の命を奪うという行為に罪悪感を覚えないのだ。
ならばケラーは精神異常者かと云えばそれも違うような気がする。但し殺しのスキルは身についており、レイプされそうになったジュリアを救うためにレイプ犯を何の躊躇いもなく殺害するのだから、心の置き方が人とは違うのだろう。麻痺しているというのが正しいのかもしれない。

しかしそんな彼でさえ、今回自身が標的となって全米で追われる身になって初めてこれまで殺害してきた人物に思いを馳せる。
特にこのシリーズの第1話とも云える証人保護プログラムで身元を変えた人物を殺害した件に関してはニコラス・エドワーズという別の人物に成りすましたことで自身のことのように彼のことを考えるのである。単なる仕事のための標的でしかなかった人々に初めてケラーは自身の感情を向けるのである。
また逃亡中にショッピングカートを回収する仕事をしている少年を見て、殺し屋稼業に就いた自分の人生について初めて過ちだったと後悔したりもする。

さらには赤の他人には決して明かさなかった自分の名前を初めてジュリアに打ち明ける。もうケラーはニコラス・エドワーズとして生き、ジュリアと2人幸せに過ごして暮らす覚悟がついていたのだ。

さらにケラーを追いつめる宿敵はアル、作中ではミスター“私のことはアルと呼んでくれ”とも表記されているが、恐らくこれは原文では“You Can Call Me Al”ではないだろうか。つまりポール・サイモンのヒット曲のタイトルである。
そんな風に考えて読むのもまた一興か。

閑話休題。

ケラーが逃亡者の境遇に置かれることで過去の仕事で始末した人々を回想するシーンがたびたび挿入されるため、本書はシリーズの総決算的な作品のように読める。
特にドットが亡くなった時点でブロックがこのシリーズにけりをつけようとしているのだと強く思った。

しかしそんな読者の感傷めいた思いを見事にユーモアで翻すのがブロックの筆さばきの妙だ。

しかしこの殺し屋を主人公にしながらも終始落ち着いた雰囲気で展開するこの物語はなんとも不思議な余韻を残す。

今まで書いてきたように今回ケラーは州知事暗殺の犯人に仕立て上げられ、全米に顔写真が出回り、指名手配され、逃亡の身となる。
しかしそれでもケラーには次から次へと危難が訪れるわけではない。見知った顔のマンションのドアマンには賄賂を渡して口封じをし、立ち寄ったガソリンスタンドで独り身の経営者に面が割れるくらいだ。それまでは終始逃亡者としてのケラーの猜疑心と過去に葬ったターゲットに対する思いが延々と綴られる。

やがて全米指名手配にもかかわらず、ケラーの周りにはとうとう警察の捜査の手は及ばず、ニューオーリンズでケラーの新パートナーとなるジュリアに出会ってからは髪型と色を変え、眼鏡をかけて人相が若干変わり、また新しい身分を手に入れたことで解決してしまう。

直接的にせよ関わりがないにせよ7人もの死人が出る物語である。これだけ人の生き死にも扱っていながら熱を帯びない作品も珍しい。血沸き肉踊らない殺し屋の物語なのだ。

しかしだからといって面白くないわけではない。エキサイティングには程遠いが読み進めるうちにケラーの足取りと読者自身の思いが同調するが如く、先の読めない展開を味わいながら愉しむのだ。
そう、美味しい酒をチビリチビリと呑み、悦に浸る味わいが本書の持ち味なのだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
殺し屋 最後の仕事 (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック殺し屋 最後の仕事 についてのレビュー
No.554: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

本格ミステリの幻想味そのままに

Vシリーズ第3作。本書では前作『人形式モナリザ』で小鳥遊練無と共にペンションでバイトしていた森川素直が阿漕荘に引っ越してくる。さらに同じく前作で登場した瀬在丸紅子の元夫林の恋人である祖父江七夏もまた登場する。シリーズを重ねるにつれてメインキャストも増えていくようだ。

そしてまたもや事件は密室殺人。1作目はヴァリエーションの中の1つだったが、2作目は衆人環視という密室。そして本書では鍵の掛けられた部オーディオ・ルームでの殺人と正真正銘の密室である。

このオーディオ・ルームが周囲の建物と構造が切り離されているのが通常の密室と違うところだ。
音の振動を壁に伝えない、つまり完全に防音するために別構造としているのだが、建築に携わる私は解るものの、素人にこの内容が十分伝わっているだろうか?簡単な図解があれば理解がしやすいと思うのだが。

さてそんな密室で服がズタズタに引き裂かれ、周囲は血塗れでさんざんに引き摺り回された跡がある。さらに被害者の直接の死因は頭を何か重い鈍器のようなもので激しく叩かれ、出血はそれによって生じたものだった。そして遺体の手首・足首には何か獣ような物が噛み付いた跡が残っており、なぜか部屋の一部は水で濡れていた。

本書では物語のガジェットとして月夜のヴァンパイアやオオカミ男が現れる屋敷といったオカルティックな噂がかけられているものの、物語のテイストは全くそのような雰囲気とは無縁でいつもの雰囲気。決しておどろおどろしいものではない。読中は正直何のためのガジェットなのか解らなかったが、真相を読むとこれこそが森氏なりのミスリードであることが解る。

彼のエッセイを読むと解るがいわゆる熱心な本格ミステリファンではない。従って彼はいわゆる本格ミステリのお約束事に頓着せず、自身の専門分野の視点からミステリを考える。
そして殺人の動機に頓着しないのも、結局人の心なんて解らないし、人間の行動や事象全てのことに意味を持たせることが愚かであると自覚的であるからだ。
それは確かに私も同感なのだが、現実社会がそうであるからこそ、ロジックで物語が収まるべくところに収まる美しさをせめてミステリの世界で読みたいのだ。それが読書の愉悦であるというのが持論なのだが、森氏はどうもそこに創作の目的を持たないようだ。

さらに加えていただけないのは小鳥遊練無達一行が飲酒運転をするシーンだ。これは今ならば校正で一発で撥ねられるだろう。
理由として非常事態、すなわち「小事にこだわりて大事を怠るな」と云っているが、作中人物とはいえ、こういうことをさせる作者の倫理観に大いに問題がある。またこのまま内容を修正せずに出版した講談社の倫理観もいかがなものかと甚だ疑問である。版を重ねる際はぜひとも修正願いたい。

このVシリーズはいわゆるミステリのお約束事を逆手に取って、読者の予想を裏切る真相が特徴的だと感じる。

また瀬在丸紅子も決して読者の共感を呼ぶキャラではない。美しい容貌ながら冷徹さと周囲とは別の次元で生きているような浮世離れした雰囲気を持ち、また元夫を巡って恋敵の刑事祖父江七夏へは決して歩み寄らない。女の怖さと扱いにくさの極北にいるような人物である。
しかし今まで述べたように小鳥遊練無と香具山紫子の存在がそんな陰の側面を彼らの陽の部分で埋め合わせている。

登場人物たちの関係に歪みと不安定さを備えたシリーズ物としては実に奇妙な風合いを持つVシリーズだが、特に瀬在丸紅子と保呂草潤平の2人の関係はどうなるのか?
恋愛パートではなく、好敵手同士としての2人の行く末が少し気になる。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
月は幽咽のデバイス (講談社文庫)
森博嗣月は幽咽のデバイス についてのレビュー
No.553:
(7pt)

あまりにも有名なデビュー作は実にシンプルな構造

モダンホラーの巨匠スティーヴン・キングのデビュー作にして幾度も映画化された有名作。

本書がこれほど好評を持って受け入れられたのは普遍的なテーマを扱っていることだろう。
いわゆるスクールカーストにおける最下層に位置する女生徒が虐められる日々の中でふとしたことからプロムに誘われるという光栄に浴する。しかし彼女はそこでも屈辱的な扱いを受ける。ただ彼女には念動能力という秘密があった。

この単純至極なシンデレラ・ストーリーに念動能力を持つ女子高生の復讐というカタルシスとカタストロフィを混在させた物語を、事件を後追いするかのような文献や手記、関係者のインタビューなどの記録を交えて語る手法が当時は斬新で広く受けたのではないだろうか。

さてとにもかくにも主人公キャリーの生き様の哀しさに尽きる。
狂信的な母親に育てられ、過剰なまでの清廉潔白ぶりを強要され、日に何度もお祈りを捧げる日々を送らされ、母の意志にそぐわなければ即刻クローゼットに閉じ込められる。そんな家庭環境であるがために一般常識的な知識さえもまっとうに与えられず、初潮という生理現象さえも知らないために自身の陰部から血が出ることでパニックになり、学校でクラスメートからタンポンを投げつけられる始末。従って幼少の頃はまるで人形のような整った顔立ちだったのが今ではニキビと艶のない髪の毛で、作中の表現を借りれば「白鳥の群れに紛れ込んだ蛙」のような有様だ。

そしてとにかく主人公キャリーの母親の狂信ぶりが凄まじい。
姦通することを何よりも忌み嫌い、自分が妊娠したことすらも穢れとする。そして自身の娘キャリーを男たちの誘惑の手から遠ざけるため、キャリーに他者との関わりを絶つことを強いる。もし自分の意志に背こうものならば、折檻をした上でクローゼットに何時間も、時には一日中閉じ込めて悔い改めさせる。
とても親とは思えない所業だ。

しかしそれまで母親に服従するしかなかったキャリーにある芽生えが生まれる。それが念動能力だった。
最初の兆候は彼女が幼い頃。折檻を受けたキャリーは突然氷の雨と石の雨を降らせる。しかしそれは常に起こるわけではなかった。そしてキャリーが初潮を迎えた後、その能力が開花する。そして彼女の思春期による親への反抗心と相俟って、彼女はついに母親からの逸脱を試みる。それがプラムへの参加だった。

初めて彼女が母親の反対を押し切り、自分の意志で選択した行動。それが大惨事の引き金になるという皮肉。報われなかった女性にキングは壮絶な復讐と凄絶な死にざまを与える。

ここでやはり注目したいのはキャリーの親の束縛からの自立だろう。
異様なまでの執着心で母親の支配を受けていた彼女が抵抗し、ついに自由を得る困難さは途轍もない大きな壁だっただろう。彼女に念動能力が無ければ叶わなかったことではないだろうか。親という大きな壁への抵抗というこの非常に身近な人生の障害もまた万人に受け入れられた要素なのかもしれない。

さらに本書が特異なのは女性色が非常に濃いことだ。
それは主人公キャリーが女性であることから来ているのだろうが、キャリーを虐めているのは男子生徒ではなく女子生徒ばかりでキャリーの生活の障壁となっているのも前述のように狂信的な母親だ。

さらに生理という女性特有の生理現象がキャリーの念動能力の発動を助長させ、またキャリーの死を看取ったスージー・スネルがその直後生理になっているのも新たなる物語という生命の誕生を連想させ興味深い。

これはキング本人が母子家庭で育ったからかもしれない。キングにとって母親は自分を女手一つで育ててくれた偉大で尊敬すべき存在だったことだろう。
つまりキングの成長には常に母親という強い女性の存在があった。それがゆえに女性の強さ、そして怖さというのを知っていたのではないだろうか。男にはない生理という現象すら毎月血を流しながらも家計を支える逞しさに何か人間以上の存在を感じていたと考えるのは穿ちすぎだろうか。

ところでキングがボストン・レッドソックスの大ファンだというのは公然の事実だが、このデビュー作で既にレッドソックスが出ているのには笑ってしまった。キャリーをプロムに誘ったトミー・ロスの死に関して同チームの監督がコメントを残しているのだ。三つ子の魂百までとはまさにこのことか。

閑話休題。

既に物語の舞台であるメイン州チェンバレンで大量虐殺が行われたことは物語の早い段階で断片的に語られる。
従って読者は物語の進行に伴い、訪れるべきカタストロフィに向かってじわりじわりと近づいていくのだ。しかしながら1974年に書かれた本書で描写されるキャリーの虐殺シーンはいささかおとなしい印象を受ける。

プロムの舞台となった体育館で突然扉が閉められ、スプリンクラーが回り、バンドたちの楽器のアンプなどから電気のコードが自然に放たれ、見る見るうちに感電していく。そして電気の発火による火災が起き、体育館は火の海に包まれる。

さらに外に出たキャリーは消火ができないように消火栓を次々と破壊しては水を大量に放出し、ガソリンスタンドやガスタンクに引火していく。

そして電線を切断しては街行く人たちを感電させる。いわば歩く無差別テロの様相を呈しているのだが、今日のこのあたりの描写はもっと強烈だろう。
血の匂い立つような細かくねちっこい描写や痛みを感じさせるほどの迫真性に満ちた生々しさが本書には足りない。

前後見境なくなったキャリーはチェンバレンの町を練り歩くのだが、その所業を町の人たちはなぜかキャリーの仕業だと認知する。私はここにキングの先駆性を見た。
いわば念動能力という脳内で発動する能力が活性化するとその者の意識は外側に放たれ、それを他者が感知することを示唆しているのだ。いわば外に開かれた意識の共有化ともいえる現象をこの1974年の時点で描いていることに驚嘆を覚えた。

440名もの死者と18名の行方不明者を出し、町は崩壊する。そしてキャリー自らも母親から受けた傷と恐らくは酷使しすぎた能力の反動で命を落とす。彼女は一身に背負った不幸を町中にばらまいたのだ。

そして物語は第2のキャリーの誕生をほのめかして終わる。この惨劇はあくまで一過性の物ではないとして。もしかしたら貴方の町にもキャリーはいるのかもしれないとメッセージを残して。

今では実にありふれた物語であろう。
が、しかし物語にちりばめられたギミックや小道具はやはりキングのオリジナリティが見いだせる。“to rip off a Carrie”などという俗語まで案出しているアイデアには思わずニヤリとした。

識者によればキングの物語にはあるミッシングリンクがあるという。本書を皮切りにそのリンクにも注意を払いながら読んでいくことにしよう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
キャリー (新潮文庫)
スティーヴン・キングキャリー についてのレビュー
No.552:
(7pt)

描いたのは未知の恐竜ワールドではなく…

シャーロック・ホームズに次ぐドイルのシリーズキャラ、ジョージ・チャレンジャー教授第1作目の本書は今なお読み継がれる冒険小説だ。

未開の地アマゾンの奥地に隆々と聳え立つ台地の上に独自に発展した生態系があり、そこには絶滅したとされた恐竜が生息していた。

この現代に蘇る恐竜というモチーフは現代でもなお様々な手法で描かれているが、今なお映画化されているクライトンの『ジュラシック・パーク』の原典が本書であると云えよう。

しかし本書ではイグアノドンやステゴサウルス、もはやおなじみといえるティラノサウルスなどの恐竜のみならずブドウ大ほどもある吸血ダニに、翼を広げると優に6mはあろうかと思える翼竜たち、魚竜のイクチオサウルスに巨大テンジクネズミのトクソドン、そして進化の過程に存在したと思われる猿人たちなど非常にヴァラエティに富んだ生物が数々登場して読者を飽きさせない。

しかし最も特筆すべきは冒険の舞台であるメイプル・ホワイト台地の精密な描写である。あたかもジュラ紀に舞い込んだジャングルの風景を詳細に描写する様はまさに目の前に映像が浮かび上がってくるようで、しかもそれらの映像は先に述べた映画『ジュラシック・パーク』シリーズの映像で補完されるがごとくである。
ジャングルの蒸し暑さと未知の世界を行く登場人物の緊張感の迫真性はとても1912年に発表された小説とは思えないくらい、リアリティを持っている。ドイルの想像力の凄さを改めて思い知らされた。

そして何より忘れてはいけないのは主人公チャレンジャー教授の特徴豊かなキャラクター性だろう。がっしりとした幅広い樽のような図体の上には語り手の新聞記者マローンが見たことのないほど巨大な頭が乗っており、ゲジゲジ眉毛を備えた雄牛そっくりの面構えは高慢な雰囲気を醸し出しており、とてもお近づきになりたい人物ではない。それを裏付けるように喧嘩っ早く、同業者や無知蒙昧な素人に対して口論ならびに毒舌を吐き、しまいには怪力で暴力を振るうという、とても主人公とは思えないほど性格の悪い人物だ。

しかし物語が進むにつれてこの傲岸不遜なチャレンジャー教授に好感を覚えてくるのが不思議だ。彼がたとえ英学会で干され、無視されようとも自分が正しいことを曲げずに主張するという一貫性に満ちているからだ。彼はどれだけ反論されようが決して諦めない、不屈のジョンブル魂を持った孤高の人物であるのが次第に解ってくる。

今やその原題“The Lost World”が全ての失われた秘境冒険物語の代名詞ともなっているまさに原型とも云える本書は現代の冒険スペクタクル小説に比べれば多少の見劣りはするが、上に述べたようにドイルの想像力が横溢して読者を退屈させない。

さて上にも述べたように本書は秘境冒険小説の原型とも云える記念碑的作品であるが、実は本書でドイルが最も語りたかったのは男の成長譚ではないだろうか?

特に語り手である弱冠23歳の新聞記者エドワード・マローンが野心だけが大きな実のない男から苦難の冒険を経て他者に認められる男として帰ってくるための物語、そんな気にしてならない。

そしてまた学会で異端児として扱われているチャレンジャー教授が自説を証明するための苦難の道のりを描いた物語でもある。
つまり権威として認められるには男は冒険をすべきだというのが本書の真のテーマではないだろうか?

それが特に最終章に現れている。
南米で原始の時代から生息する生物のみならず独自の進化を遂げた生物の発表をするために舞台に立ったチャレンジャー教授、ジョン・ロクストン卿、サマリー教授、そしてエドワード・マローンのなんと晴れやかなことよ!困難に立ち向かい打ち勝った男の晴れ晴れとした姿こそドイルが書きたかったものではないだろうか。

あくの強い面々によってなされた冒険譚。失われた世界に生きる生物の神秘よりもこれら愛すべき男たちの成長にエッセンスが込められていることに気づいたのが本書を読んで得た大きな収穫だった。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
失われた世界 (ハヤカワ文庫SF)
アーサー・コナン・ドイル失われた世界 についてのレビュー
No.551: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

Vシリーズにはどこかアダルトな香りが漂う

Vシリーズ第2弾の舞台は長野県の別荘地蓼科(ちなみにシリーズの“V”は瀬在丸VENIKOのVから来ているらしい)。そこにある人形博物館で殺人事件が起きる。
調べてみたがこの人形博物館は実在せず作者の創作らしい。

さて今回の事件は大きく分けて3段階に分けられる。

まずは劇場で上演されていた人形文楽の最中に出演者が襲われ、もしくは殺される事件。
一方が毒を呑まされ、その騒ぎの間隙を縫って何者かが櫓上の老婆に近づき、背中から刺殺する。

もう1つは2年前に起きた悪魔崇拝者岩崎亮が何者かによって刺殺された事件。
死体発見者の妻麻里亜は3メートルを超す馬頭人身と人頭馬身の2種類の悪魔が現れ、神の白い手によって殺害されたというオカルティックな事件。

最後は瀬在丸紅子が巻き込まれた真夜中の人形博物館で起きた館長岩崎毅の毒殺事件と密室状態の病院に何者かによって喉を切られた麻里亜殺害未遂事件。

上に書いたように事件は3段階で起きるが、事件の種類は大きく2つに分かれる。
毒殺と刺殺。
毒殺は未遂も含めて岩崎麻里亜と岩崎毅の2人。刺殺は未遂も含めて岩崎亮と岩崎雅代と岩崎麻里亜の3人。
どちらの事件にも遭遇しているのが岩崎麻里亜でしかもいずれも未遂である。この辺がキーだと思われる。

しかし森ミステリのもはや定番ともいうべきか、本筋の殺人事件の真相には驚きがなく、むしろサブストーリーの謎やガジェットの真相の方に実は大きなサプライズがあるが、本書も例外ではなかった。

本書はタイトルにもあるように人形がモチーフとなっている。
世界中の人形を集めて展示している人形博物館にそこで上演されている人形を操って劇を行うばかりか演者自らが人形となって演じる乙女文楽なる伝統芸能。さらに著名な彫刻家が遺した千を超えるモナリザ人形と数々の人形が物語を彩る。
しかし人間こそが操られた人形ではないかと保呂草は最後に辿り着く。
誰かに操られているという意識は実は自らを苦難から解き放つのに最適の思い込みなのかもしれない。

さてこのVシリーズ、S&Mシリーズと違い、男女の恋のもつれ合いが前面に押し出されている。前シリーズでは西之園萌絵が准教授の犀川にアピールするものの、犀川が知らぬふりをしてさらりとかわす一方で、萌絵のピンチになると命を擲ってでも彼女を救おうとするギャップがファンには受けていたが、このシリーズでは主人公の瀬在丸紅子に離婚歴があり、その元夫林は愛知県警の刑事でダンディーな風貌で女性にもて、結婚中に部下の女性刑事と愛人関係にあったというドロドロとした愛憎劇が底流に含まれている。

かてて加えて本書の登場人物の岩崎家も乙女文楽の創始者岩崎雅代の夫の家族と彼女が愛人だった彫刻家江尻駿火との間に生まれた子供たちの家族とが混在している奇妙な関係性がある。つまり通常の家族の形とは違ういびつな関係の人々が物語を形成しているのだ。

前作のシリーズを踏襲しているのは惚れやすい香具山紫子と保呂草潤平との関係だろうか?
保呂草に恋心抱く紫子が冗談交じりでモーションをかけるのに対し、保呂草は常にクールに切り返すが、相手にしないわけではない。そして保呂草はどこか瀬在丸紅子を気にしているといった奇妙な三角関係にある。
女装癖のある小鳥遊練無はそれらの関係の中ではニュートラルな位置にあり、紫子のグチ相手となってこの奇妙な4人の関係の緩衝役といったところだろうか。

しかしどこか浮世離れしたシングルマザー瀬在丸紅子の特異なキャラクターに、謎めいた探偵保呂草潤平に紅子の元夫で刑事の林とどこか善人とは云いきれない怪しい魅力に満ちた登場人物が主役であることで実際何が起こるか解らないミステリアスな雰囲気に満ちている。
それを中和するのが小鳥遊練無と香具山紫子のコミカルな2人。実に面白いバランスで成り立っている。

あらゆる意味で先行きが興味津々なこのシリーズ。次作も非常に愉しみだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
人形式モナリザ―Shape of Things Human (講談社文庫)
森博嗣人形式モナリザ についてのレビュー
No.550: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

昭和の香り漂うテーマもカーに掛かれば…

本書はHM卿シリーズ14作目で比較的後期の作品だが、実に読みやすく、また展開も早いため、クイクイ読まされた。

決して許されない恋に落ちた男と女が先のない行く末を儚んで心中する、というよくある悲劇が一転して2人は至近距離で何者かに撃たれた後に崖から転落したという不可解な犯罪へと転ずる。この辺の転調が実にカーらしいケレンに満ちている。

この実にシンプルかつ不可解な事件を調べていくうちに意外なことが次第に判明してくる。

本書のテーマ“信用のならない語り手”の裏には “家族であってもそれぞれが十分に理解しているとは云えない”という実に普遍的なテーマが隠されていた。

駆け落ちする男女を犠牲者にすることで色恋沙汰の悲劇という実にオーソドックスな作品かと思いきや、ディクスンの思わぬ意図に感心させられてしまった。

そして本書ではさらにイギリスに迫りくる第二次大戦も本書にほのかに影響を与えている。

ところで毎回HM卿のコメディアンぶりがこのシリーズの定番になっているのだが、本書でもそれは健在。
足の指を骨折して電動車椅子に乗っての登場となるが、車椅子の性能を存分に試そうといきなり暴走しながら登場する。実にはた迷惑なオッサンである。
毎度毎度カーもいろんな趣向を考え出すものだと呆れるやら感心するやら。未読作品でもこの無茶ぶりが健在なのか、手に入れ次第確認していきたい。

また本書ではカー自身が得意としていた足跡トリックを当時の最新科学でミステリのように偽装することは不可能だと作中で解説しているのが実に興味深かった。作者自らがお得意のトリックを敢えて封じたことに潔ささえ感じた。

今回は新訳改訂版であったため、上にも書いたが実に読みやすかった。せっかくのカーの諸作を旧訳の古めかしい文体で読むよりも遥かにいいので、東京創元社にはこのまま新訳改訂版の出版を継続してもらいたい。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
貴婦人として死す (創元推理文庫)
カーター・ディクスン貴婦人として死す についてのレビュー
No.549:
(7pt)

アメリカ人作家の奥深さを感じさせるアンソロジー

ニューヨークはマンハッタンを舞台にした短編のアンソロジー。
そもそも本書以前に本国アメリカでは『ブルックリン・ノワール』というブルックリンを舞台にした同趣向の短編集が編まれ、それが好評だったため、シリーズ化することになり、マンハッタンを舞台にしたアンソロジーの編纂をマンハッタン在住のブロックに編者として白羽の矢が立ったらしい。

さてそんな小洒落たアンソロジーの一幕を担うのはディーヴァーの「見物するにはいいところ」。
ヘルズ・キッチンを舞台にした本作は実はディーヴァーの短編集『ポーカー・レッスン』所収の「遊びに行くには最高の街」である。正直『ポーカー・レッスン』で読んだ時はレナード張りの小悪党と悪徳警官が蔓延るクライム・ストーリーにディーヴァー特有のどんでん返しを加えた粋な作品と云う風に捉えていたが、本書のようなマンハッタンに舞台を絞ったワンテーマのアンソロジーではその読み応えは異なる。
酸いも甘いも呑み込む世界一の街マンハッタンの裏側にいきなり招待してくれるイントロダクションとして実に軽妙な一編となるのだ。
『ポーカー・レッスン』では掉尾を飾ったが本書では冒頭を飾り、いきなり読者をマンハッタンへと誘う。同じ話なのに編まれ方で斯くも味わいが違うとは、これもアンソロジーならではの妙味だろう。

続くチャールズ・アルダイの「善きサマリア人」の舞台はミッドタウン。
チャールズ・アルダイと云う作家の名は初めて聞き、当然ながら初めて読んだが、実に叙情豊かな作風で好感が持てた。
浮浪者の傍にふと佇む1人の紳士。彼は微笑みを湛えながら煙草を勧める。浮浪者にとってそれは嬉しい施しの1つであったが、それは死に向かう前のひと時の安楽に過ぎなかった。

グリニッチ・ヴィレッジを舞台にしたキャロル・リー・ベンジャミンの「最後の晩餐」は離婚の手続に訪れる夫をバーで待つ女性の物語。
夫を待つ間に様々な思いを巡らすエスターの思考が面白い。やはり女ほど面白く、そして怖い存在はないのだと思い知らされる好編。

現代アメリカミステリを代表する1人、トマス・H・クックの「雨」は雨降りそぼるマンハッタンで様々な人々が織りなす大なり小なりの犯罪を描写した群像劇。
雨は誰にでも降り注ぐ。殺人者にも窃盗犯にも変質者にも遺棄された赤子にも。そしてまた犯罪を捜査する警察官にも、そして犯罪の世界から足を洗う男にも。本作はそんなマンハッタンに住む人々を点描した作品だ。

ジム・フジッリの「次善の策」はろくでなしのバンドマンと同棲する女性の物語。
同棲男が企む銀行強盗を逆手にとって彼女を慕う女性がまんまと金をせしめ、逃亡するという市井の女性の汚れたアメリカン・ドリーム。叙情豊かな文体は悪くない。

「男と同じ給料をもらっているからには」はガーメント地区を舞台にしたロバート・ナイトリーの作品。日本から出張で来たホシ・タイキという日本人が娼婦殺人の容疑で逮捕され、警察署内をたらい回しにされるのがストーリー。
意外な展開に正直面食らうが、外国人のホシが体験する警察署での尋問の一部始終は実に面白く、興味深かった。

大御所ジョン・ラッツの「ランドリールーム」は奇妙な後味を残す作品だ。
ローラは洗濯中、息子デイヴィッドの衣類に血の痕のような痕跡を見つける。どうも最近学校にも行っていないらしく、夫のロジャーに相談するが彼は一笑に付して相手にしない。しかし彼女の懇願もあってロジャーは息子の後を付けることにした。
息子の行先は物凄いブロンド美人の住むアパートだった。ロジャーは妻に電話し、場所を説明する。ローラが現地に着くと既にデイヴィッドは帰った後だった。ローラは息子の訪れた女性を訪ねることにする。しかし彼女2人が見たのは喉を掻っ切られて横たわる女性の遺体だった。
ここまではよくある話だが、さすが『同居人求む』というサイコサスペンスを書いたラッツ。本書でも同種の展開を見せてくれる。

リズ・マルティネスの「フレディ・プリンスはあたしの守護天使」は実在したコメディアン、フレディ・プリンスが一ファンだった少女の守護天使として現れる。
どこか不思議な浮遊感を持った本作はジョー・ヒルの短編に似たテイストを持っている。実在した人物が登場し、実に軽い調子で人の人生に忠告する雰囲気が似ているのだ。
しかし結局ラケルを不幸に追い込んだフレディ・プリンスは一体何だったのか?明らかに守護天使ではなく、疫病神でしかないのだが。

マアン・マイヤーズの「オルガン弾き」も奇妙な話である。
ロウアー・イーストサイドという貧民地区で手弾きのオルガンを鳴らしながら歌を歌っては小銭を稼いで糊口をしのいでいるアントニオ・チェラザーニの生活を中心に、弱い者が常に食われるような荒んだマンハッタンの最低部での生活風景が語られる。
一介のオルガン弾きをからかい、その小銭を強奪する悪ガキたち。拾った金歯を金に換えようとする警官。そこに巣食うイタリアの犯罪組織の内偵を続ける警察官。そして何者かに殺され遺棄された身元不明の女性。
それらがロウアー・イーストサイドの空気を、臭いを感じさせる。

マーティン・マイヤーズの「どうして叩かずにいられないの?」も荒廃とした物語だ。
本作もまた社会の底辺で生きる人々の物語。ろくでなしを好きになってしまう男好きの女性の哀しい物語だ。
題名は彼女が男を殺害した後に吐露する言葉だ。しかし逆に私は「どうしてそんな男を好きにならずにいられないの?」と問いかけたい。

創元推理文庫で好評のリディア&スコットシリーズを刊行中のS・J・ローザンは私がいつか読みたいと思っている作家の1人だが、彼女の手によるハーレムを舞台にした「怒り」もまた社会の最下層の人々の物語だ。
犯罪者の再犯率は極めて高いというデータがあるらしいが、それがために前科者は更生して出所しても身の回りに犯罪が起きると真っ先に疑われる。
レックスも怒りに駆られて見境なく暴力を振っていたが、その衝動を改めて真っ当に生きようとする。しかし彼の周囲で犯罪が起こると刑事たちが執拗に訪ね、尋問する。犯罪大国アメリカで今でも起こっている哀しい事実なのだろう。
少年を救うためにレックスが起こした行動はレックスが更生した証なのだが、少年以外誰も気付かないことが哀しい。

マンハッタンでもハイソな場所チェルシーを舞台にしたジャスティン・スコットの「ニューヨークで一番美しいアパートメント」は弁護士と不動産という中流層の人たちを主人公にした物語で他の作品とは一線を画しているように思えるが、中流層は中流層なりにある狂気に駆られていることがこの作品を読むと解る。
安定した職業を持つ人々にも上昇志向という性があり、それが行き過ぎると狂気に及ぶ。これはそんな物語だ。
今まで全てにおいて2番手に甘んじていた主人公が今度こそ一番を目指したのがマンハッタンのチェルシーにあるクラシックなアパートメント。そここそが彼が子供の頃に夢見たニューヨーク・ライフの象徴だった。
一方で極上のアパートメントを妻に奪われた不動産屋もそのステータス・シンボルを略奪された思いから妻の殺人衝動を日増しに募らせ狂気へと進む。アパートメントと云う富の象徴が生んだそれぞれの執着。スコットが上手いのはそこからのツイスト。
所詮人々は幻影を求めて生きているのだと痛感させられる1編だ。

C・J・サリバンの「最終ラウンド」は下りを迎えたプロボクサーの物語。
新聞の社会欄の片隅にほんの数行のみ報じられるであろう小さなニュースだが、そこに至った人々にはかくも深いドラマが眠っている、そんな気にさせられる1編だ。

恐らくは中国系作家と思われるシュー・シーの「オードリー・ヘップバーンの思い出に寄せて」はニューヨークに暮らす中国系移民の女性のある半生の物語。
栄枯盛衰。誰しも訪れる人生の光と影。やはりこのような話はしんみりとして哀しみを誘う。

最後は編者ブロック自身による「住むにはいいところ」。
いわゆるハニー・トラップの話。
いやはや都会の夜は恐ろしい。


冒頭にも書いたように本書は先に『ブルックリン・ノワール』なるブルックリンを舞台にしたアンソロジーが先にあり、それに続くシリーズとして今度はマンハッタンを舞台にしたアンソロジーをローレンス・ブロックが編者を務めた物。

従って原題は『マンハッタン・ノワール』であり、マンハッタンの暗部を活写するようなクライム・ストーリーで構成されている。

作者の選出はブロック自身が行ったようだが、日本の読者には馴染みのない作家の作品で構成されているのが特徴的だ。本書に収録されている作家の内、日本で知られているのはジェフリー・ディーヴァー、トマス・H・クック、ジョン・ラッツ、S・J・ローザン、そしてブロック本人ぐらいだろう。その他10名の作家は邦訳がなく、あっても1冊のみと云った未紹介作家の名前が並ぶがそれぞれが個性的でしかも読ませる。アメリカ作家の懐の深さを思い知らされた次第だ。

人種のるつぼニューヨーク。冒頭ブロックがニューヨークで“街”と云えばマンハッタンを指すと述べている。つまりマンハッタンこそがニューヨークの中心であり、アメリカの中心であり、そして世界の最先端の街である。
しかし本書に収められた作品に描かれたマンハッタンはそんな大都会の片隅で這いつくばりながら生きる人々が描かれている。彼らの生活は決して華やかではない。むしろ弱肉強食の世界に放り込まれた弱者たちで力に従い、したたかに生きている人々たちだ。

それは原題にノワールと掲げられているからかもしれないが、全体的に物語は暗鬱でペシミスティックだ。そしてどちらかと云えば誰もが誰かを出し抜こうと手ぐすね引いて待っている、そんな悪意が行間から立ち上ってくる。

そんなノワール色濃い短編集だが、個人的ベストはS・J・ローザンの「怒り」、ジャスティン・スコットの「ニューヨークで一番美しいアパートメント」、C・J・サリバンの「最終ラウンド」を挙げたい。

ローザンとサリバンの作品は底辺で暮らす人を主人公に据えながらも最後に前向きで明るい光が見えるような話になっているからだ。罪のない子供が冤罪で逮捕される所を身代わりになる元犯罪者と最盛期を過ぎ、家族を強盗で喪ったプロボクサー。決して明るい結末ではないが、善行による魂の救済が見られる。

そしてスコットの小説は中流層の人間が陥りがちな資産に自分のステータスを見出すことによる過ちを描いたのが特徴的で他の作品群と一線を画す。最後の皮肉な結末も含めて飽きさせない。

最近は編者としての技量も発揮しているブロック。創作よりもアンソロジーを編むことに専念する大御所作家が多い中、ブロックはその後も自作を発表しているところが素晴らしい。本書はニューヨークに馴染みのない日本人にはなかなか街の空気までも感じられないだろうが、日本未紹介作家の佳作たちに触れる数少ないチャンスである。

ジャスティン・スコットとC・J・サリバンの作品が読めただけでも収穫があった。他の未紹介作家の邦訳が進めばいいのになと思わされた短編集である。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
マンハッタン物語 (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロックマンハッタン物語 についてのレビュー