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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数694

全694件 181~200 10/35ページ

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No.514:
(7pt)
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イスラエルという国の抱える矛盾と苦悩

私は特段中東問題に関心があるわけではなく、意識的にムスリムやイスラエルにまつわる書物に触れてきたわけではない。これは私の特異な読む作家の選び方に起因しているだけであり、マイケル・バー=ゾウハーの作品を読むようになったのもその一環に過ぎなかった。
そして本書を手に取ったのも、私がシェッツィングの諸作を読んでいるからこそのごく自然な流れなのだ。

しかしマイケル・バー=ゾウハーとニシム・ミシャルとの共著『モサド・ファイル』を読んだのは本書を読むためだったではないかと改めて読書がもたらす見えざる導きという奇縁を実感せずにはいられない。
そういえば大学時代に専攻した科目に地域研究というのがあったが、あれも中東諸国を扱ったものであったから、もしかしたらそこからアラブ諸国には薄いながらも縁があったのかもしれない。

総ページ数1,870ページの上中下巻の大作で語られる物語の舞台は今最も危険だと恐れられているイスラム諸国。これは今なお抗争が絶えないイスラエルという歪んだ構造を持つ国が建国され、それに翻弄されたユダヤ人たちの苦難に満ちた物語である。

物語は大きく2つに分けられる。
1つは危険に満ちた彼の地で活動するドイツ人ジャーナリスト、トム・ハーゲンがイスラエル政府の闇の歴史に触れたがために政府と反政府組織に追われる身になった逃亡劇だ。

もう1つは20世紀初頭にユダヤ人でパレスティナに移住してきたカーン家とシャイナーマン家という2つの家族の通じて描いたイスラエルの建国から現在に至るまでの苦闘の日々だ。

610ページ以上もある上巻の内容はほんのイントロダクションに過ぎない。上に書いた話の幕明けが入れ代わり立ち代わり語られるだけで正直物語の全体像がはっきりと見えない。
物語の核心に迫るのは中巻になってからだ。イスラエルの情報機関<シン・ベット>の極秘データをコピーしたCDをトム・ハーゲンがハッカーから手に入れるところからようやく物語は動き出す。

CDに入っていたのはシン・ベットが行ってきた標的殺害の記録だった。これが公開されれば、イスラエルが秘密裏に行った暗殺の数々が白日の下にさらされ、また世界中に潜入しているシン・ベットのエージェントの存在が明るみに出され、各国政府のターゲットにされてしまう危険性を孕んでいた。
しかしCDの中身を見ただけでは部外者であるトム・ハーゲンにとっては何の意味もないデータに過ぎなかったのに、ベテランジャーナリストとしての勘と推察力から、ハーゲンはかつての首相アリク・シャロンに対して行われた行為、つまり入院した彼は意図的に誤った処置をされ、シン・ベットによって暗殺が計画されたことを読み取ってしまう。それが災いの素となり、ここからシン・ベットと謎の第3の追手にハーゲンは追われる身になってようやく物語が加速し出す。

しかしそれでも物語はアリク・シャロンが権力の階段を上っていく有様とそれに翻弄されるカーン家の歴史がところどころに挿入され、なかなか前に進まない。

しかし読み進むにつれてアリク・シャロンの幼馴染であるカーン家がイスラエル政府の、いやアリク・シャロンの“ブルドーザー”と称される強引な政治的手腕によって住むところを転々とし、軍隊に入った息子を喪い、コツコツと築き上げた一大農場を手放す羽目になり、難民同様の生活を強いられるようにまでになる。

このカーン家が辿る数奇な運命は決して大げさな話ではないのだろう。常に周囲のアラブ諸国と、数多存在するイスラム原理主義者たちによって構成されるテロ組織の標的となってきたイスラエルという国が無理に無理を重ねて国政を維持するために行ってきた、無策とも思える政策によってそれこそ何千何万ものユダヤ人が人生を変えらざるを得なくなってきたほんの一モデルなのだろう。

世界各国に広がるユダヤ人。この旧約聖書の時代から存在し、今なお1,340万人がいると云われている、もはや原初の定義さえもあいまいになりつつある民族にはロスチャイルド家に代表される富豪もいれば、アインシュタインに代表される高い知性を備えた人物も輩出している。ノーベル賞受賞者の22%がユダヤ人であり、チェスのチャンピオンの54%を占めるという。
これら高い知性と文明、そして文化を育んできた彼らの歴史は迫害の道のりであった。そんなユダヤ人が突如聖書に謳われているシオンの丘、すなわちエルサレムに還って自身の国を持とうと提唱したシオニズム運動がそもそもイスラエル建国の始まりである。世界中に散らばるユダヤ人たちに安住の地を与えるためのこの運動が、1917年イギリス外相が支援を認めるバルフォア宣言を誘発し、1948年にイスラエルが建国される。

しかしエルサレムはまたユダヤ教のみならず、キリスト教の、そしてとりわけムスリムの聖地であったことがこの運動の大きな問題だった。
私はこの1点こそが、イスラエルという国が今なお抱えるアラブ諸国との紛争の火種だったように思える。

アラブ諸国が密集する中東とアフリカのいわば要の位置に突如ユダヤ人が押し寄せたがためにそれによって生まれた諍いは時間が解決するような程度の物ではなく、年月を重ねるにつれて刻々と深刻化するだけだった。

そしてもはや安住の地を得たユダヤ人はアラブ諸国の迫害を甘んじて受け入れなかった。彼らはモサド、シン・バットといった諜報機関を設立し、戦いを挑む。高い知性を持つ民族が作った組織はアメリカのCIAやFBI、イギリスのMI5、MI6に比肩するほど恐るべき組織となった。
『モサド・ファイル』で語られる彼らの活動内容は平和裡に暮らしている我々日本人には想像を超える内容であったことはすでにその感想に述べたとおりである。

しかし戦いは新たな戦いと多くの犠牲者を生むだけである。周囲の軋轢に押しつぶされそうになりながらどうにか国として機能するためにイスラエル政府は一つまた一つと領土を明け渡していく。そのたびに国民は移住を強いられ、難民同様の生活を強いられるのだ。

世界中に点在するユダヤ人たちに安住の地を提供する名目でいきなり作られた国でありながら、それがために周囲のアラブ人たちの反感を買い、常にテロと戦争の脅威にユダヤ人たちを晒し、穏やかな日々が訪れない。
ユダヤ人によるユダヤ人の国でありながら、その実ユダヤ人たちを苦しめている、それがイスラエルと云う歪んだ国の正体だ。そしてそれはやがてユダヤ人自身がイスラエルと云う国を崩壊させようという思想まで生み出す。

虐げられた国民の心を利用し、入植者の父と呼ばれている、いわば椅子られるの象徴的人物であるアリエル・シャロンをユダヤ人の手によって暗殺させようとする者。

ユダヤ教とイスラム教の聖地である神殿の丘を破壊し、世界中のムスリムの反感をイスラエルに向けさせて国を滅ぼそうと企む者。

物語の最後にシン・ベットの作戦本部次長のリカルド・ペールマンが述懐する。
自国を、国民を守るために周囲の国々と戦い、パレスティナ過激派集団と戦い、テロと戦ってきたのに平和が一向に訪れず、報復による報復が繰り返されるのみ。暴力の螺旋に取り込まれ、崩壊の道を辿っているのではないかと。

これほど国民や諸外国に愛されない国も珍しい。

本書はそんな周囲のアラブ諸国のみならず自国民からも恨まれるようになったイスラエルの元首の死の謎を扱った物語である。

しかし単純なエスピオナージュ的な物語ではなく、なぜそこまで疎んじられなければならなかったのかをシェッツィングはアリエル・シャロンの生い立ちと彼の友人とされる一国民であるカーン家の歩み、そしてイスラエル建国から現在に至るまでの闘争の歴史を踏まえてじっくり語っていく。

しかし私はこのイスラエルが抱える矛盾が生み出した悲劇を描くのに果たしてこれほどの分量が必要だったのか、はなはだ疑問に感じられる。実在の政治家をふんだんに盛り込みながら仔細に語る内容はそれが故に盛り込みすぎて冗長で冗漫に思えてならない。

相変わらず引き算をしない作家だという思いを新たにした。“調べたこと全部盛り”と勘繰らざるを得ないほど、情報過多であり、正直上巻の中身を読むと、これほどの紙幅を割く必要があったのかと首を傾げざるを得ないエピソードが満載である。しかも文体はどこか酔ったところがあり、その独特のリズムに馴れるのも難しいし、またなかなか頭に入ってこないきらいもある。

また過去のパートが異常に長く、これが現代の物語のスピード感を殺いでいるように感じた。
アラブの国々の真ん中に突如建国されたユダヤ人の国イスラエルの成立ちとこの国と周囲のアラブ諸国の因縁の争いの歴史は戦争と和平の道の二者選択の中で国内でも意見が割れ、矛盾を抱えて歴史を刻んでいくのだが、果たしてこれを詳細に語ることがこの小説にとって有益であったのかと疑ってしまう。
カーン家の苦難に満ちた人生の道程の物語も読ませることは読ませるが、これらのエピソードは通常の小説であれば物語の後半に1、2章割いてターニングポイントを子細に語ることに集中するだけで読者の心に、この一家族が抱いた苦しみを刻み込むに十分だろう。

そしてこれほどタイトルと内容がそぐわない作品も珍しい。原題が“Breaking News”だからこの邦題は間違いではないが、この題名から想起されるスクープや特ダネを追うジャーナリストたちの戦々恐々とした日々を描いた物語やもしくは戦地で死と隣り合わせのジャーナリストたちの紙一重の命を削る姿を描いた物語を想像するのだが、開巻してみればやり手のように見えるが過去の栄光に縋って落ちぶれつつある戦争ジャーナリストのグチの羅列だったり、シオニズム運動でイスラエルの地に移住してきた家族のアラブ人たちとの確執が延々と語られる。
物語の焦点が絞りにくく、自分が何の物語を読んでいるのか解らなくなることがしばしばだった。

何度諦めようかと思ったが、最後まで読んで思ったのは、読む価値は確かにあるという思いだ。
大著であり、上に述べたようにとにかく長すぎる作品だが、それでも得られるものはあった。

それはイスラエルという国に対する疑問だ。

世界でも有数の知性を誇るユダヤ人がルーツにこだわり、アラブ諸国のただなかに新たな国を敢えて作ったのだろうか。それまで慣習や言語の壁を乗り越え、世界中の国々に順応してきた民族がなぜ火の無い所に火種と油を注ぐような行為をしたのだろうか?
私はイスラエル建国の場所こそが最大の過ちのように思える。これが当時候補に挙がったウガンダやアルゼンチンだったらこんな血腥い歴史にはならなかったではないだろうかと強く感じる。

複雑怪奇な中東問題をこれだけの筆を割いてもきちんと書けたかが解らないと作者自身もあとがきで述べているように、読者である私も十分理解したとは云えないだろう。
ある程度前知識が必要な作品である。しかし世界にはまだこれほど危難に満ち、安寧とは程遠い国があるのだ。

そしてテロリスト集団イスラム国の標的に日本人もなっている昨今、既にこの物語は対岸の火事ではなくなっているかもしれない。
そう、もしかしたら今そこにある危機の1つなのかもしれない。


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緊急速報 〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)
フランク・シェッツィング緊急速報 についてのレビュー
No.513:
(7pt)

世紀末ゆえの割り切れなさ

ローレンス・ブロックの第3短編集。長編のみならず短編の名手であるブロック。今回もヴァラエティに富んだ作品集となっている。

まずはスカダー物の1編である表題作で幕を開ける。
ブロック自身がまえがきで述べているように本作は『聖なる酒場の挽歌』で起きる3つの事件の中の1編だ。このエピソードに2つの事件を肉付けしたのが『聖なる酒場の挽歌』であり、この作品がきっかけとなって『八百万の死にざま』で終焉を迎えようとしたマット・スカダーシリーズが再開されたのだから、ブロックにとってはマイルストーン的な作品となるのだろう。

「夢のクリーヴランド」は「世にも奇妙な物語」に使われていそうなおかしみのある1編だ。
夢の中でドライヴしているために寝た気がしないという実に奇妙な相談とそれを解決するこれまた実に奇妙な方法。そしてそれだけで終わらず友人も同じ夢を毎晩見て疲れている。しかもそれが毎晩3人の美女の夜の相手をするためにクタクタになっているという男の願望が詰まったような次の展開。
しかし他人の夢で起きたことが自分の夢で体験できるとは限らないのに男って奴は…。

「男がなさねばならぬこと」は奇妙な味わいを残す1編。
法の網をかいくぐり、暗躍する悪党たちに対して法の遵守者である警察は無力である。犯罪を犯したことは明白であるのに決定的な証拠がないばかりに逮捕できない。マット・スカダーでもその手の類の犯罪の容疑者がよく現れ、その都度マットを惑わしてきた。
そんな法で裁けない真の悪党たちを次々と暗殺する殺し屋を目の前にした警官が選択したのは法律的には許されないが、道徳的に実に納得のできる決断。こういうことは実際起きているのではないだろうか。

後のシリーズキャラクターである殺し屋ケラーが初お目見えするのがこの「名前はソルジャー」だ。
初登場の殺し屋ケラーのこの顔合わせともいうべき作品ではまだ彼がどういった人物かは解らない。依頼により、証人保護プログラムで身分を変えた男を見つけてもすぐには始末せず、いつも食事を共にし、また街をぶらぶらして満喫する。しかし彼が勝手に抱いていた妄想が崩れると、まるで夢から覚めたかのように非情なまでにターゲットを屠る。実に気まぐれな殺し屋である。
ケラーの為人については今後の作品群で理解していくことにしよう。

「魂の治療法」も実に皮肉な物語だ。
殺人を犯したという妄想に悩まされる男。それが妄想だと証明する刑事。
慣例や先入観と云うのは実に恐ろしい物だと笑い話では済まされない奇妙な味わいを残す1編だ。

短編集に必ず登場するシリーズキャラクター、悪徳弁護士エイレングラフは今回も例に漏れず登場だ。「エイレングラフの選択」では愛人殺しの容疑で捕まった女性の弁護を担当する。
相変わらずブラックな味わいを残す。

「胡桃の木」はなんとも暗鬱な物語だ。
レンデルの作品を髣髴させる、とても痛々しい夫婦の物語。
育った環境の、両親の影響で諍いを起こす衝動に駆られる夫婦。この負のパターンを打ち崩すべく妻が選択したのは夫を殺害する事だった。
寂寥感がただただ漂う1編だ。

さて泥棒バーニイ・ローデンバーは「泥棒はプレスリーを訪問する」で奇妙な依頼を受けることになる。
「エルヴィスはまだ生きている」とは有名な都市伝説の1つだが、彼の生家グレースランドが観光地となっており、この2階が観光客はおろかスタッフですら入れない万人禁制の聖域であるらしい。人は秘密があれば色んな想像を巡らせるが、この誰もが入れない2階でエルヴィスは生活しているのではないかと噂が立っているようだ。
実在する部屋の秘密を暴くのはさすがにブロックも躊躇らわざるを得なかったようだ。

「交歓の報酬」は誰もが抱く旅先の開放感を描いた作品。
海外旅行と云う非現実な空気に包まれるマジック・アワー。そんな時間や日々は日常の殻を破って冒険したくなるのが心情と云うもの。
旅先で親しくなった夫婦がスワッピングを愉しみたくなる甘美で淫靡なムードにほだされるが、物語は意外な結末を迎える。
しかしそれもまた白昼夢のような出来事。何が真実で何が虚構なのか、誰にもわからない。

「死にたがった男」はツイストの効いた一編。
想像の斜め上を行く結末に思わず唸ってしまった。アメリカの警察のずさんな捜査ならばこの方法は完全犯罪になりそうだ。

マット・スカダー2編目の「慈悲深い死の天使」は実に考えさせられる物語だ。
物語はちょうどエイズウィルスが突如流行した90年代初頭の世相を反映している。この未知の不治の病に苦しむ同性愛者たちに安らかな死と云う眠りを授ける女性はその苦しみから患者たちを解放するための言葉を授ける。
しかし物事は必ずしも上手く行かない。どんなに言葉を掛けようとなかな死出の旅に赴くことが出来ない患者もいるのだ。そんなとき、彼女は…。
スカダーはその事実を当人から聞かされながらも敢えて依頼人には話さない。それは彼女がやっていることが慈悲だと思うからだ。自らの保身やエゴの為に死を与える輩はどんな人物でさえも許さないマットだが、他者を思って行う殺人には寛大のようだ。
法律では裁ききれないことがある。彼女のやっていることは善か悪か解らないがマットにとっては悪い事のように思えなかったようだ。

「タルサ体験」は季節ごとにアメリカ国内旅行に出かけている仲の良い兄弟の旅行記。
犯罪大国アメリカならばありそうな話だけに怖さがひしひしと伝わってくる。

「いつかテディ・ベアを」も何ともおかしな話だ。
年に何回もアバンチュールを愉しむプレイボーイの映画評論家はテディ・ベアのぬいぐるみを抱かないと眠れないという設定は面白い。
同族意識が芽生えた二人は結婚するのだろうか?

「思い出のかけら」も奇妙な味わいを残す作品だ。
人に対する警戒心が強いアメリカなのに、大学の掲示板で車でシカゴまで乗せてくれる人を募り、誰とも知れない見ず知らずの相手の車に同乗するとはなんと無防備な女性だろうと思ったが、案の定、募集に応募した男性は快楽殺人者だった。
しかしそれだけでは物語は終わらず、とにかく奇妙な作品だ。

「ヒリアードの儀式」もなんと評してよいか解らない作品だ。
人生何をやっても上手く行かない時もあれば、何事も上手く進む時もある。アトゥエルというシャーマンが施す儀式はその人の持つ運を開放するきっかけを後押しすることかもしれない。
一見何の関係のないことがきっかけで運命が好転する、そんな人生の不思議さを語った作品なのか。とにかくヒリアードが受けた儀式で突然彼の生活が薔薇色に変わる根拠は全く解らないが、それでもなぜか納得させられる不思議な小説である。

本書での2度目の登場となる「エイレングラフの秘薬」では妻殺しの容疑者の弁護を引き受けることになる。
依頼人の冤罪を晴らすために別の角度から犯罪を捏造し、それによって依頼人を不起訴にし、別の犯人を仕立て上げる。
しかし有罪と無罪の境とはなんとも曖昧な物かとエイレングラフ物を読むと痛感させられる。

「フロント・ガラスの虫のように」もまた善悪の境を揺るがされる作品だ。
人は実はギリギリのところで善の境に踏み止まっていると思わされる作品だ。特に自動車の運転と云う非常に身近な行為にテーマを持ってきたところが上手い。
乱暴な運転をして、こちらに被害を被るような危ない目に遭った時、「いっそぶつけてやろうか」と思ったことは誰しもあるのではないか。長距離トラック運転手と云うストレスが溜まりがちな職業ゆえにその境界をいつ超えてもおかしくないのだ。そしてウォルドロンもまた…。

「自由への一撃」は銃を持ったある平凡な男がそのことで力を得た気になり、徐々に性格が変わっていく物語。
その男の心情は解るものの、なんと評していいか解らない作品だ。

たった7ページと本書で最も短い「どんな気分?」は動物虐待をしているのを見かねた男がその飼い主に制裁を加えていく。
老馬に激しく鞭打つ御者を同様に鞭打ち、飼い犬を蹴り飛ばす飼い主を安全靴で完膚なきまでに蹴り飛ばす。
ブロックのストーリーテリングの上手さが光る1編だ。

最後を飾るのはまたもやマット・スカダー登場の1編「バットマンを救え」はマットが探偵事務所に雇われて海賊版のバットマン商品を町の露天商から回収する仕事に就く。しかしマットは言葉もろくに話せないアフリカ人たちから回収する行為に腑に落ちない物を感じていた。
本作も正しいことをすればそれにより不利益を被る人がいる。それらが社会的弱者であるとマットはどうしても非情になれないのだ。それが法律的に正しいことであっても社会の底辺で半ば犯罪に手を染めながらも必死に生きている人々と付き合いが深いだけに、いやそこにかつてアル中だった自分を重ねてしまうのかもしれない。
マット・スカダーと云う男の本質を謳った物語だと思う。


ローレンス・ブロック短編集第3集の本書はシリーズキャラクターであるマット・スカダー物3編、泥棒探偵バーニイ・ローデンバー物が1編、エイレングラフ物が2編、そして以後シリーズキャラクターになる殺し屋ケラー物が1編含まれた全20編で構成された実に贅沢な短編集である。

今回の作品では前の2集とは異なり、何とも云えない後味を残す作品が多い。

その何とも云えなさは大別すると次の3つに分かれる。

法律と道徳の狭間で善と悪の境が曖昧になる物。
例えば「男がなさねばならぬこと」、スカダー物の「慈悲深い死の天使」、「フロント・ガラスの虫のように」がそれに当たるだろう。

次に人間の衝動の怖さを知らされる物。「魂の治療法」や「タルサ体験」、「思い出のかけら」が該当するか。

そしてとにかく煙に巻かれたような思いで終わる物。これは殺し屋ケラー初登場の「名前はソルジャー」、「いつかテディ・ベアを」、「ヒリアードの儀式」、「自由への一撃」になろうか。

収録作が80年代末から90年代に掛けての物が多いせいか、当時の流行を反映してサイコパス物や人間の不思議な習慣や行動に根差した作品が多く感じた。
これが発表当時、世紀末だったことに起因する特異性なのか解らないが、奇妙な味わいを残すオチが多い。割り切れなさとでも云おうか。

従ってウィットの効いたオチや切れ味鋭いオチを期待するといささか肩透かしを食らった感じがするかもしれない。
実際そういった類の作品は「夢のクリーヴランド」、「死にたがった男」、「どんな気分?」ぐらいしかなく、大半が敢えて結末をはっきりと書かないことで余韻を残すような書き方をしている。
これはブロックに限った話ではなく、国内作家でも見られる形で、いわゆる大団円的なフィナーレやスパッとした切れ味といったカタルシスを残す遣り方は少なくなってきており、登場人物たちの人生という1本の線のある時期を切り取った描き方をして、今後も彼らの時間が続いていくような区切のつかない終わり方が多くなってきている。これは物語の在り様の変化なのだろう。

さてそんな短編集の個人的ベストは「胡桃の木」、「慈悲深い死の天使」、「フロント・ガラスの虫のように」、「どんな気分?」の5つを挙げる。

これら4作品に共通しているのは先にも述べた世紀末特有の厭世観がもたらす法律による善悪よりも道徳としての善悪、つまり死に値すべき者、そして死を望む者に敢えてそれを施す行為がなされていることだ。特に「胡桃の木」はDVに悩まされる暗鬱な夫婦関係と遺伝と云う家系の業をひたすら重く語り、最後にサプライズを仄めかす、まるでレンデルが好んで描く抗えない血の呪いといった運命の悪戯が描かれており、ブロックの新たな境地を垣間見たような気がした。

本集の前の2短編集よりも全体としての評価は落ちるが、だからといってクオリティが低いわけではなく、本書もまた短編のお手本ともいうべき作品のオンパレードである。
ただ扱っている題材やプロットが前2作とは異なっており、例えようのない余韻を残す。
世紀末だからこそ書かれた作品群と思えば、本書は今後文学史を語る上で貴重な資料となり得る短編集と云えよう。こんな短編集が絶版で手に入らないのは誠に勿体ない話である。


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夜明けの光の中に ローレンス・ブロック傑作集3 ローレンス・ブロック傑作選
ローレンス・ブロック夜明けの光の中に についてのレビュー
No.512:
(7pt)

新機軸への意欲的な作品

マクリーン16作目の舞台は厳寒の北極海。ベア島なる孤島に向かうハリウッドのロケ隊の一行。主人公はその映画会社オリンパス・プロダクションに雇われた医師マーロウ。
今までのマクリーン作品の読者ならば、厳寒の海が舞台であればまたも過酷な環境と苦難の連続の航海が一行に待ち受けているだろうと想像するが、本書はそんな読者が抱く先入観を裏切り続けて物語は進行する。

まず一行を運ぶモーニング・ローズ号、この豪華客船はかつてトロール船として海を馳せた老船である。そんなもはや老朽化という言葉を超えた船の乗客や乗組員が直面する災難は荒々しい波濤や物の数秒で凍てつくブリザードでも、触れるだけで大破するほどの絶望的な大きさを誇る流氷などが現れる極寒の環境ではなく、なんと激しい船酔いなのである。

この船酔いは主人公の医師マーロウによって集団食中毒であることが判明する。さらに死亡者が出るに至り、それは何者かによる毒殺事件へと発展する。
そんな不穏な空気を助長するかのように船内で連続して不審死や失踪事件が発生する。そして無線機も何者かによって壊され、疑心暗鬼の中、船は目的地であるベア島に到着する。
ここまでが物語の中盤だ。

物語の後半はベア島が舞台となる。そこでもたとえば『ナヴァロンの要塞』で我々読者をそこまでしなくてもいいだろうと思わせるほど危難に次ぐ危難、肉体の限界を超えた戦いが登場人物たちには待ち受けているわけではない。
まず到着早々にマーロウと親しくしていた航海士スミシーが失踪する物々しい幕開けを見せるが、実は航海士スミシーは主人公の医者マーロウと同じ組織に属するイギリス政府から派遣された者であることが判明する。彼らは第二次大戦中にナチスが各国から略奪し、世界中に隠した金、宝石、絵画、有価証券の在処を探る任務に就いており、映画製作者の1人で脚本家のヨハン・ハイスマンがその一人であることを突き止め、彼のそばについて隠し場所と思われるベア島のロケに同行したのだった。

そしてベア島に着くと一行は島にある観測隊が以前使用していた小屋に落ち着くが、いきなり第一の殺人が起こる。それを皮切りに次々と関係者が一人また一人と不審死を遂げる。犯人は島にいる関係者の中にいるというシチュエーション。
つまり厳寒の島で繰り広げられるのは何と本格ミステリでいうところの“嵐の山荘物”なのだ。しかしなんと島に留まっているのは主人公のマーロウを含めて22人にも上る。なんとも容疑者の多すぎる孤島物ミステリだ。

とこのように本書は極寒の海と島を舞台にしながらも従来のマクリーン作品の定型を全く裏切った展開を見せる。

そして物語は事件の謎を追いかけるうちに関係者たちに隠された過去を掘り出し、またマーロウの目的である盗まれた金の在処を探る冒険もあり、そして最後にはそれらの謎に加え、真犯人の思惑などサプライズが複層的に織り込まれている。そして最後には関係者を一堂に集めてマーロウによる推理が開陳され、黄金期の本格ミステリを髣髴させる。

しかし私が最も意外だったのは主人公マーロウの設定だ。ロケに同行する医師と見せかけて政府の者というのは確かにマクリーン作品の常套手段ともいうべき手法だが、今までの作品では掴みどころのない性格で一見軽薄そうな人物が実は情報部の諜報員だったという、素早い判断力と超人的な運動神経で危難を幾度となく克服するヒーローという設定だったのに対し、本書のマーロウと中盤で仲間だと知れる航海士のスミシーはスーパー・エージェントではなく、大蔵省の役人でしかない。
彼らは銃を持たず、また格闘術を教わっているわけでもなく、ましてや肉体の限界を超えて自然に立ち向かうストイックさもない。いわゆる我々のような一般人ぐらいの体力しかないのである。
このあたりからもマクリーンが新機軸を打ち出そうとしているのが行間からひしひしと伝わってくる。

さて毎回アイデア豊富のマクリーンだが、本書では彼の得意とする武器、兵器、機械や乗り物の専門知識や過酷な環境下で起こる災厄の詳細な描写はなりを潜めている。しかしマクリーン作品の中でも全450ページ弱という比較的厚い本書には第二次大戦後の世情やマクリーンの体験が盛り込まれているように感じる。

例えば映画会社の面々が登場人物の中心になっていることが本書では特徴的だ。
これはやはり出せば映画化と当時人気絶頂だったマクリーンが自作の映画化の際に接した映画会社の人々のその特異性が非常に印象に残っていたのではないか?元教師であるマクリーンにとって、何もかもが破天荒で常識外れが当たり前のエンタテインメント界の不条理さこそ、きな臭い陰謀を持つ組織の隠れ蓑として最適だと気付いたに違いない。

また本書の犯人の1人で中心的人物であるヨハン・ハイスマンはシベリアに囚われの身であり、そこから脱走して映画会社に入ったという異色の経歴を持つ。彼は第二次大戦中に二重、三重のスパイとしてソヴィエトとドイツを股にかけて活躍していたという彼の設定も昔アメリカ映画界を席巻した赤狩りの遺児を思わせ、また映画界で有名な人物が実は元スパイだったというのもキム・フィルビーを想起させる。

さて旧ナチスが隠した金の在処を巡って発生する連続殺人など一連の事件の真相はかなり複雑であるが、しかし、これらの謎が一気にマーロウの口から述べられるのはいささかバランスが悪いように思える。
確かにこれらは本格ミステリの典型であろう。マクリーンが本書で目指したのが本格ミステリであるならばそれも受け入れるが、マーロウが述べる内容は読者の前に伏線として提示されていない物も多く、マーロウが潜入する前に仕入れた情報に基づく内容の比重が大きい。
つまり意外な真相が明かされるものの、アンフェア感が拭えないのだ。
さらに登場人物の多さ。前述したように最終的に島に残る人物だけでも22人もいるのである。物語の前半はこれにモーニング・ローズ号の乗組員も加わり、大方30名前後の登場人物が出てくるのだ。
これだけ登場人物がいればやはり登場人物表は必要だろう。特に今回は船員のみならず映画会社という特殊な職業の人間たちばかりなのだから、人物紹介も容易であろう。
したがってそれらがないばかりに各登場人物たちの意外な素顔が最後で明かさされても、人物像がなかなか結び付かなく、サプライズを満喫できなかった。今回登場人物表を省いたのは出版社の怠慢と云わざるを得ない。

ただやはりマクリーンはサプライズを好む作風であるのだが、どうもそれがうまく機能していないように感じる。
今回は主人公のマーロウがそれほど思わせぶりではなく、また物語の中盤で自身の正体を明かすため、ほどなく物語に入り込めたものの、最終章で一気呵成にマーロウの口から新事実が次々に明かされる構成はやはりバランスが悪く、作者の独りよがりだという感は否めない。専門知識や機器の詳細などの微細な描写や説明、そして不屈の精神を持った人物の描写などは抜群に上手いのだが、物語を書くのがそれほど上手くないのだ。
本書のようにミステリ趣向の作品を読むと如実にそれが表れてくる。手掛かりや伏線の出し方の匙加減が下手だと云ってもいいだろう。

しかし後期に属する本書は世の書評家がいうほど出来が悪いとは思えなかった。
先に書いたように冒険小説と見せかけて実は本格ミステリ的という読者の先入観を裏切る作品であり、意欲的だ。恐らく北上次郎氏のような当時の書評家はリアルタイムでその時代の冒険作家の作品を読んできたがために、時代の変化に対応して作風を変え、新たなテーマを見つけ、変化し続けている作家たちに比べて相も変わらず同じ作風で不屈の主人公を描いているマクリーンがつまらなく思えたのだろう。それ故に後期のマクリーン作品の評判が悪いのではないか。
実際北上氏の『冒険小説論』ではそのように書かれている。しかし裏返せばそれは常に軸がぶれなかった作家だという証拠でもある。いわゆる北上氏がいうところの欧米の冒険小説家が直面した『70年代の壁』は今の読者にとっては壁でもなんでもない。『女王陛下のユリシーズ号』も『ナヴァロンの要塞』もこの『北海の墓場』も全て同じマクリーン作品なのだ。だから時代性に囚われず、純粋に作品の良し悪しで判断できる状況にあるのだ。

恐らく今後読むマクリーン作品の私の評価は世の中の評判とは異なることになるだろう。しかしそれこそ今過去の作品を読む意義ではないか。
後世の今、本書もまた全く話題に上らない作品だが、マクリーンが冒険小説と見せかけて本格ミステリ的手法で旧ナチスの財宝探しを描いた本書は定型を裏切っただけに私にとって案外印象に残る作品なのである。


▼以下、ネタバレ感想
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北海の墓場 (1979年) (ハヤカワ文庫―NV)
アリステア・マクリーン北海の墓場 についてのレビュー
No.511: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

理系教授の文学風味満載

S&Mシリーズもまずは5作目を経て一休みと云ったところか。本書はノンシリーズの連作短編集。

冒頭を飾る「虚空の黙禱者」は夫に突然失踪された1人息子を抱えた女性に纏わる物語。
夫の失踪の謎が最後に明かされる。残酷な行為はしかし田舎の牧歌的な風景でゆったりとした時間の中、明かされる。

詩のように紡がれる物語「純白の女」は一日に電車が一本しか止まらない田舎にある白い建物を訪れた一人の女性の物語。
ファンタジーのような世界観を乙女チックな詩のような文章で綴られる本作は物語の最後でサイコの様相を成す。90年代に流行したサイコ物の森ヴァージョンといった作品。

敏腕女性刑事物と思いきやそれが作中作であることが解る「彼女の迷宮」もまたサイコ物の変奏曲である。

「真夜中の悲鳴」では大学内での事件を扱ったオーソドックスなミステリ。
まず大学での実験風景が実に懐かしい。私は理論研究だったので実験室に籠っての卒業論文の作成を経験をしていないのだが、それでも大学の授業で体験した実験の匂いが漂ってくる。しかも主人公のスピカたちがしているのは深夜の実験。実に魅力的ではないか。
そんな中で発生している学内での連続暴行事件と実験で発見される奇妙な現象。それらが連続暴行事件の犯人に繋がる展開は実にオーソドックスで、主人公のスピカが犯人によってピンチに陥るのも定型と云えば定型。しかし最後の数行が効いている。

次の「優しい恋人へ僕から」は漫画同人誌仲間であるスバル氏と篠原素数が出逢った2日間を描いた作品。この内容は森氏の奥方が佐々木スバル氏であることを考えると半自伝的な小説だろうか。最後のオチは作者が見せた照れ隠しと取っておこう。

続く2編「ミステリィ対戦の前夜」と「誰もいなくなった」は本編ではあまり語られることのない西之園萌絵のミステリ研究会での活動を描いた作品。
前者はミス研の合宿に初参加し、そこでなんと殺人事件に巻き込まれる、と見せかけて…、といった話。
後者はミス研が学校でのイベントで仕掛けたある謎を巡る物語。学校の記念講堂で突如現れた焚火の周りで踊る30人のインディアンがどこから現れ、どこに消えたのかという謎をミス研が仕掛ける。しかし10組の参加者は誰も解らなかったのだが、犀川がその話を聞いた途端に謎を解き明かすという物。犀川の天才性を再認識させる短編だ。

ジャンル的には幻想小説になるだろうか。「何をするためにきたのか」は退屈な大学生活を送る甲斐田フガクが主人公。
因果律の物語。一見何の関係のない人間と事象が次々と連なることで運命の扉が開けるという一種人生の構図を表したような物語だ。
S&Mシリーズの『冷たい密室と博士たち』で犀川が云う、「役に立たないものだからこそ面白い」ことを突き詰めた作品だ。

「悩める刑事」は意外な結末が面白い作品だ。
どんでん返しが鮮やかに決まった作品。これは上手さを素直に認めよう。

「心の法則」は教授である森氏ならではの思弁的な小説と思わせてこれまた意外な展開を見せる。
幻想的な物語だ。どこまでが夢でどこまでが真か、その境界線があいまいになっていく。

最後の「キシマ先生の静かな生活」は大学の異端児であったキシマ先生と主人公の想い出を語った物語だ。
これはミステリではなく、回顧録といった方が正確だろう。その天才性故に大学で孤立した存在であったキシマ先生と彼が助手として所属していた研究室の院生だった私だけが知るキシマ先生の人物像。彼の我が道を進む人生は誰も侵すことのできない世界を形成している。最後はそこはかとない寂しさが過ぎる作品だ。


S&Mシリーズでデビューし、その後連続して『封印再度』の5作まで全て同シリーズを著してきた著者による初めての短編集、となるとてっきりS&Mシリーズの連作短編集かと思いきや、なんとシリーズとは離れたノンシリーズの短編集だった。全く人を食った作風の森氏らしい計らいだ。

しかしこれほどまでに短編を書き溜めていたとは思わなかった。その作風は実にヴァラエティに富んでいる。

景色を丹念に書き綴った田舎風景が印象的な作品もあれば、一転してファンタジックな詩を思わせる作品もある。そして奇妙な味のような作品もあれば、S&Mシリーズを髣髴させる大学を舞台にしたサスペンス物もあり、半自伝的な恋愛物もあったり、作中作に幻想小説と物語のエッセンスがふんだんに盛り込まれている。

森氏の作品の特徴である現役教授ならではの大学風景の瑞々しいまでの描写が本書でも見事に活かされている。
「真夜中の悲鳴」、「ミステリィ大戦の前夜」、「誰もいなくなった」、「何をするためにきたのか」、「キシマ先生の静かな生活」など11作品中5作品と約半分がそれらに該当する。
またそれまでのS&Mシリーズでもその片鱗が見られる幻想的な趣向が短編では全面に押し出されており、作者の自由奔放さが溢れている。「純白の女」、「何をするためにきたのか」、「心の法則」がそれらにあたるだろう。

そしてさらには理系の教授ならではの学問に特化した内容が実に専門的に語られているのも特徴的だ。その内容はもう理解できない者は置き去りにすることも厭わないほど容赦がない。しかしそれを理解できる自分がいるのがどこか誇らしくも思えたりする。

しかし一番面白いのは森博嗣という作家そのものだろう。なんせ現役の建築学科の教授、つまり理系の教授がこれほどまでに色んな物語を書いていることだ。特に1作目の「虚空の黙禱者」の匂い立つような田舎の風景描写には驚かされてしまった。

正直に話せばS&Mシリーズは大きな謎1つで400~500ページの長編を引っ張る構成に冗長さを覚えていたが、短編では森氏独特の奇抜なワンアイデアを中だるみなく楽しめることが出来、この作家は短編向きではないかと思った。
さて次からはS&Mシリーズ後半戦に突入する。とにもかくにも西之園萌絵の存在が私にはシリーズに没入する障害となっているので、今後の変化に期待したい。それとも私が萌絵に馴れるべきなのだろうか?

さて本書のタイトルは『まどろみ消去』。
私は本書を読むことで眠気も覚めるという作者の自信を森氏ならではの文体で表現した物だと理解していたが、英題は“Missing Under The Mistletoe”、直訳になるが『寄生木の下での消失』といささか幻想めいたタイトルである。この英題から想起させられるのは明るい日差しの中、寄生木の下で読んでいるといつの間にか異世界に連れて行かれた、そんなイメージだ。どちらにせよ、実に森氏らしいタイトルである。
さて貴方の眠気は覚めるだろうか?


▼以下、ネタバレ感想
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まどろみ消去―MISSING UNDER THE MISTLETOE (講談社文庫)
森博嗣まどろみ消去 についてのレビュー
No.510: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

虐げられた人々がいるからこその今を訴える作品集

海外放浪から帰ってきたばかりの当時京大の医学部の学生の頃の御手洗潔がサトルという京大を目指す予備校生に京大近くの進々堂で語った話を集めた連作短編集。

まず「進々堂ブレンド 1974」は軽いイントロダクションの物語。
若き思春期の苦い恋の想い出話。これはミステリではなく青春物語といったところだろう。

「シェフィールドの奇跡」は知的障害者の物語。
21世紀になって島田氏は脳生理学の分野を積極的に物語に取り入れ、精神異常者のみならず学習障害者、アスペルガー症候群など、現代細分化されている様々な知的障害者をテーマにした作品を著しているが、本書は知的障害者が被ってきた社会的差別、虐待を扱っている。
ギャリーと云う学習障害者が唯一の取り柄である他者より抜きん出た体格の良さと発達した筋力を活かして重量挙げの選手として成功していく物語はしかしそれまでに彼が強いられた数々の苛めや虐待、社会的差別が詳らかに語られ、胸が痛む。私自身、次男が軽度の知的障害者であるが故、無縁の話とは思えないだけに痛切に胸に響いた。
さすがに21世紀の今では本作の時代である1970年代の社会よりも同じ境遇にいる人々への研究と理解が進んでいる為、作中に書かれているほど厳しい現実ではないが、それでも自分たち夫婦が同化する錯覚を覚えた。恐らくそのような身内を持たない人々にとっては典型的な感動の物語なのだろうが、私にとっては応援歌のような物語であった。

続く「戻り橋と悲願花」でもマイノリティに対する虐待の歴史が題材に扱われている。
戦時下の朝鮮人が受けた迫害の歴史は島田氏にとって昔からのテーマの1つだった。あの名作『奇想、天を動かす』はその最たるものだった。
本書もまた日本に渡って豊かな生活を夢見た貧しい姉弟が辿った数奇な運命と太平洋戦争で行われた風船爆弾という史実と島田氏ならではのミラクルストーリーが混然一体となっている。
路傍の花としてよく見かける彼岸花をモチーフにその球根が毒性を持つこと、実は生物学的にも特異な物であることを京都の一条にある戻り橋が持つ歴史の由来を上手く交えながら感動的な物語に昇華する。まさに物語作家島田の独壇場とも云える作品である。

最後の「追憶のカシュガル」は春の嵐山を訪れた御手洗がサトルに語る、中央アジアに位置するウイグル族の街カシュガルで出逢ったある老人の話だ。
路傍の賢者とも云うべき風貌と学識を備えた浮浪者。しかし町の人々は彼を無視し、彼の歩く周囲から遠ざかる。そこには老人が悔やんで悔やみきれない若き日の過ちがあったからだ。
カシュガルと云う数々の民族によって侵略され、数々の民族が混在して世界侵略の要となった都市ゆえに時代の流れに翻弄された男の悔恨の物語だ。


日本の古都京都はその永き歴史ゆえに様々な言い伝えや伝承が今なお息づいており、点在する名所や史跡にはそれらが成り立った理由や逸話が残っている。

そんな古都にまさか御手洗潔が住んでいたとはミタライアンでも驚愕の事実であっただろう。しかも京大の医学部出身だったとは。
横浜の馬車道を住処にしていた御手洗が関西ならば神戸辺りが適所だと思うが、京都とは意外だった。そんな京大時代に御手洗は休学し、海外放浪をしていた。そして京大を目指す予備校生サトルを相手にその時に出遭った人々の話を始めるというのがこの連作短編集だ。

島田氏の物語作家としての手腕はいささかも衰えていない。
一軒だけ異世界のように存在するアメリカの雰囲気を湛えたスナックがある寒々しい日本海の漁師町の風景、イギリスのある都市に住む知的障害者を子に持つ親子を取り巻く街の社会事情、戦時下の日本に夢と希望を抱いて日本に渡った朝鮮人兄弟が辿った苦難の日々、そして最後は浮浪者として町の人々に忌み嫌われるようになった老人の過ちなど、実に心に痛く響く物語が収められている。
同じような経験をしたことがないのに、それぞれの物語の主人公の心象風景色鮮やかに眼前に繰り広げられるのはこの作家の筆力の凄さだろう。

そして特徴的なのは御手洗潔の短編集でありながら本書では御手洗潔は推理をしない。つまりミステリとしての謎はなく、御手洗はあくまで彼が海外放浪中に出逢った人々から聞かされた話をサトルに語るだけなのだ。
謎を解かない御手洗の姿がここにある。
しかしこれら彼が経験した出逢いは御手洗にとって人間を知る、歪んだ社会の構図を知る、そして島国日本に留まっているだけでは理解しえないそれぞれの世界のルールを知り、その後快刀乱麻の活躍ぶりを発揮する名探偵としての素地を形成するための通過儀式のように思える。社会的弱者に対する優しき眼差しはこの放浪で培ったものなのだ。

強い道徳心が差別を生む。

息子が知的障害者と知ってショックで子育てを放棄し、失踪する親がいる。

知的障害者というだけでスポーツ選手の代表になることを嫌う社会がある。

移民というだけで迫害する社会がある。

一見平和だと思える現代の裏には実はこのような昏い時代があったのだ。

今や社会は弱者に対して優しくなったと思う。バリアフリーは進み、知的障害者に対する理解も増え、学校では支援学級が必ず存在するようになった。
また外国人への規制も緩くなりつつあるし、さらにはトランスジェンダーへの理解も広がり、性同一障害者がテレビをにぎわすほどにもなった。

しかしそんな社会もかつて虐げられた人々の犠牲の上にごく最近になって築かれてきた理解の賜物であることを忘れてはならない。この御手洗潔が語る弱者への容赦ない仕打ちこそがほんの10年位前にはまだ蔓延っていたのだ。

本書は御手洗の海外放浪記であるとともに世界の歴史の暗部を書き留めておく物語でもある。
人間の卑しさを知った御手洗がその後弱者の為に奔走する騎士となる、そんなルーツが知れるだけでもファンにとっては読み逃してはならない作品集だ。


▼以下、ネタバレ感想
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御手洗潔と進々堂珈琲 (新潮文庫nex)
島田荘司御手洗潔と進々堂珈琲 についてのレビュー
No.509:
(7pt)

フェイクゲームはまだ続く

『片腕をなくした男』から始まる三部作の完結編である本書は相変わらずそれぞれの部門長の椅子の安泰と自らの進退を賭けたディベート合戦で幕が開く。

しかし前作『顔をなくした男』から3年弱も経っているので正直どんな話だったのかは失念していた。
しかしそこは筆巧者のフリーマントル。前作でチャーリー・マフィンがロシアの空港で撃たれるというスキャンダルを利用して危機管理委員会を開き、そこで議長の口を通して今までの事件のおさらいをしてくれる。

事件の発端となったモスクワ駐在イギリス大使館構内で発見された身元不明の片腕の死体。その事件の捜査のため、チャーリー・マフィンがロシアに派遣され、見事解決するが、一方で同時期に行われていたロシア大統領選挙で立候補していたステパン・ルヴォフ候補が実はCIAのスパイとされながら実はロシア側の二重スパイだったこともチャーリーは暴露してしまう。つまり片腕の死体の正体がルヴォフがKGB時代の同僚であり、彼がCIAに情報を提供しようとしたために抹殺されたのだが、ロシアはその秘密を暴かれる前にルヴォフの恋人と名乗るイレーナ・ノヴィコワという女性スパイを送り込み、陽動しようとした。
しかしそれをチャーリーが看破し、彼女は陽動の為ロンドンに送り込まれながらアメリカ側に移ることを選択し、CIAの手に渡る。しかしイギリスはロシア連邦保安局副長官という大物マクシム・ラドツィッチを亡命させ、手中に入れることに成功する。
しかしチャーリーは一方で妻のナターリヤ・フェドーワと娘のサーシャをイギリスへ亡命させるため、ラドツィッチの亡命を陽動作戦に使うが、ラドツィッチ亡命をなんとしても成功させようとするMI5部長ジェラルド・モンズフォードの陰謀によって暗殺させられそうとなり、凶弾に倒れる。

ただしこれら複雑な様相を呈する一連の事件の真相が解る3部作の完結編という重要な位置にある作品にしては実に動きのない話である。何しろ展開されるのはまず亡命したマキシム・ラドツィッチへのMI6による尋問と同じく亡命したイレーナ・ノヴィコワに対するCIAによる尋問、そしてナターリヤ・フェドーワに対するMI5からの尋問、そしてロシアに拘束されたチャーリーのロシア連邦保安局による尋問、そして英国官房長官アーチボルト・ブランドを議長にする危機管理委員会におけるMI5部長オーブリー・スミスとMI6部長ジェラルド・モンズフォードを中心としたそれぞれの立場と自尊心を賭けたディベート合戦なのだ。

まず尋問シーンではそれぞれの尋問者が有効な手掛かりと情報を被尋問者から訊き出すための試行錯誤、手練手管が繰り広げられるが、被尋問者は自分の立場を有利に保つためにやすやすと情報開示しないため、延々と同じようなシーンが繰り返される。

また危機管理委員会も同じく日常的にいがみ合っているMI5とMI6との駆引きに終始紙幅が費やされる。特にチャーリー暗殺を企て、未遂と云う失敗に終わったモンズフォードはその事実を露見させないよう嘘八百を並べ、時に有意に立ち、時に八方ふさがりの状況に陥る、その繰り返しだ。

しかしやはり三部作の最後を飾る本書はそんな退屈なシーンを我慢するに値するサプライズが待ち受けている。下巻の230ページで明かされる衝撃の一行。

そこからの展開はまさに怒涛。五里霧中状態で暗中模索しながらチャーリー・マフィンをいかに救出する方策を決めあぐねていたイギリスの危機管理委員会がFBIとCIAと共同戦線を敷いてロシア側を欺こうと奮起する。
尊大に振舞っていたラドツィッチとFBIの尋問官を手玉に取っていたイレーナは一人の凄腕尋問官の軍門に下っていく。

その尋問官の名はジョー・グッディ。下巻の後半で登場しながらも堅牢なロシア側スパイの防御を切り崩し、ひれ伏せさせる尋問のプロ中のプロ。彼の登場で一気に物語が加速する。

その爽快さはそれまでの実に退屈な物語を我慢してきた甲斐があったと十分思わせるほどの物だった。

さらにチャーリーが解放された後の振舞いもまたチャーリー・マフィンと云う男の深さを改めて再認識させられる。
通常ならば監禁生活を強いられた者ならば解放される否や何をさし措いても家族と会うものではないだろうか。しかし完璧無比な諜報員であるチャーリーはその実に人間的な感情を敵国ロシアが利用していることを察して敢えてそれを味方にも悟られずに振舞う。それは彼の体内に追跡装置が埋め込まれていたからだ。チャーリーがそれを確信するシーンもさりげなく物語に溶け込ませているのだから、フリーマントルという作家の筆巧者ぶりには畏れ入る。

そしてナターリヤの過剰な疑心暗鬼ぶりも最後の最後でその真意が明かされる。

ただし、それでも小説全体の評価は傑作とまではいかなかった。それはやはり前述したように物語自体が全体的に動きに乏しかったこともそうだが、今回の訳は日本語として体を成していない文章がところどころ目立ったことも大きな一因である。
訳者は昨今のフリーマントル作品の訳を担当している戸田裕之氏なのだが、中学生や高校生が教科書に書かれた構文をそのまま訳しているような、実に解りにくい文章が散見させられた。例えば次のような文章だ。

(前略)いまは拒否している大使館との面会と、どうしても必要となる導きを得ることが出来るかもしれない。

あなたがわたしたちに協力し、あなたが心を開いて話してくれているとわたしたちが示すことが出来るかもしれない本当の何かを私たちに提供してくれ、(後略)

こんな実に読みにくい文章が続くのだ。しかも上の2つの文章は登場人物たちの独白である。
こんな言葉を話す人などいやしない。行間を読むような話し方をするインテリジェンスに携わる人々の特殊な会話を表現する意図があったのかもしれないが、このような文章では決して成功しているとは云えないだろう。
例えば私ならば上の文章は次のように訳す。

(前略)いまは大使館との面会は拒否しているが、いずれ必要となるきっかけが得られるかもしれない。

あなたがわたしたちに協力し、信用して話しているという確証めいた物が得られれば、(後略)

原文がどう書かれているかは知らないが、せめて日本語として文章を書くのであれば作者の意図する内容を噛み砕いてほしいものだ。

しかし最後の最後まですっきりとしない物語だ。
諜報活動には終わりがない。常に騙し騙されるかの戦いだ。結局本書でも何が本当で何が虚構なのか解らないまま物語は閉じられる。
私はこの三部作こそが長きに亘って書かれたチャーリー・マフィンシリーズの終幕として著された作品と思われたが、どうやらそうではないらしい。
窓際の凄腕スパイ、チャーリー・マフィンを世界は必要としている。“Show Must Go On.”


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魂をなくした男(上) (新潮文庫)
No.508:
(7pt)

この不透明感が馴染めないのだが

北上次郎氏の『冒険小説論』によればマクリーンは冒険小説に謎解きの要素を加えた作家であるとのこと。
確かにそうだが、以前から感想で述べていたようにマクリーンは読者をいきなり物語の渦中に投じ、人物背景や設定などを一切語らずにストーリーを進め、それら自体が謎となっているため、開巻してしばらくは非常にすわりの悪い読書を強いられるが、本書もまたその手法に則って書かれているおり、ジプシーのキャラバン隊の指揮者チェルダが一員のアレクサンドルを追跡の末、殺害する顛末が描かれるプロローグはこのチェルダという男がただの巡礼者でなく、ある秘密の目的を持っていることが分かるものの、いきなり彼らジプシーたちに命を狙われることになるネイル・ボーマンの逃走劇に何の前知識もないまま付き合わされることになる。

その逃走劇自体は非常に映像的でわかりやすく、なおかつスリリングであるのだが、やはり物語の前置きがなく、状況がよく解らないままに進むため、なんとも居心地の悪い思いをしながらの読書となった。

まず主人公のネイル・ボーマンだが登場シーンでは親が遺した数億という財産で何不自由なく生活している有閑人であると紹介されるが、滞在地に訪れたジプシーたちに接触したことでいきなりジプシーたちに命を狙われることになる。
彼がジプシーと接触したのは暇を持て余した金持ちの余計なおせっかいにすぎないのか、それとも有閑人を隠れ蓑にした秘密組織のエージェントなのかはページに至るまで判明しない。したがって読者はそれまではボーマンを自らトラブルに首を突っ込む世間知らずの道楽息子のようにしか見えない。つまり彼が巻き込まれるトラブルは彼が行った余計なお世話で自ら招いた災いである―実際登場人物の1人セシル・デュボアのそのように揶揄する―ため、軽薄かつ軽率な男として映り、なかなか彼に共感を覚える読者はいないのではないだろうか。

しかし読む進めるうちに彼がどこかのエージェントのようであり、そして軽口を叩きながらも正義を重んじる性格であることが解ってくる。つまり道楽者は仮初めの姿であり、キャラバン隊の指揮者チェルダが秘密裏に行っている事を探るために派遣されたようだ。

彼が美女の相棒セシル・デュボアとこの悪徳キャラバンの企みを阻止しようとするのだが、時に彼はセシルに結婚することを仄めかしながら、その実セシルがその気になると一線を引いて自分が冷酷な人間であることを示し、距離を置こうとする。軽薄な仮面の下には卑劣な行為を断じて許さない強い芯を持った意志が潜んでいるのだ。

そしてこの物語で最もキャラが立っているのは自称ジプシー研究家のクロワトール公爵なる人物。大食漢の巨躯と怪力を誇る偉丈夫で、ボーマンを落ちぶれたボクサー紛いの男と揶揄し、歯牙にもかけず、どんな脅しにも状況の変化にも動じない太い肝を持つ。なぜかジプシーたちに同行する彼がいったい何者なのかも物語の大きなキーだ。

さて彼らの標的であるジプシーキャラバン隊の指揮者チェルダは秘密を守るためには命を奪う事も、若い娘の背中の皮を剥ぐことも厭わない残虐な性格の持ち主だが、物語では心底の悪人のようには見えない。

まずは彼らのボスとして振舞っているクロワトール公爵の押しの強い性格に翻弄されて、ほとんど顎で使われているようになっていること。また秘密を守るために部下たちを連れてボーマンを亡き者にしようと執拗に追いかけるが、いつも出し抜かれ、そのたびに部下が返り討ちに遭って大怪我を負っていくことで、どこか憎めないドジな悪役のようなイメージになってしまうからだ。

そんな彼らが人を殺めてまで守ろうとした秘密の任務はまさに冷戦時代の作品だからこその真相である。

また本書で特徴的なのはヒロインが2人もいることだ。
まずは旅先でボーマンと知り合った美女セシル・デュボア。彼女は美しさと機転の速さを武器にボーマンの無理難題をこなし、立派なパートナー役を務めあげる。

もう1人はクロワトール公爵に気に入られ、彼のジプシー研究に同行する事になったリラ・デラフォントだ。
彼女は豪胆な公爵に翻弄されながらもなぜか愛想をつかずに同行する。

今ではマクリーンは『ナヴァロンの嵐』を最後に、作品の質は下り坂を辿り、後期の作品には読むべき物はないとされている。
北上次郎氏は前掲の評論で自身の作風に固執して時代の流れに乗りきれなかった作家として切り捨てている。
特に冷戦の緊張緩和、CIAのスキャンダル発覚でもはやスパイやエージェントがヒーローで無くなった時代になってもなおエージェントを描いて空回りしているのがまさにこの頃のマクリーンで、確かに本書も当時の時代背景を考えると一種お伽噺のような感がしないでもない。
しかしそれでもなお絶壁での逃走劇に荒ぶる巨牛との闘牛シーン、さらにはボートによる海上での戦いなど随所に盛り込まれるアクションシーンの迫真性はやはりこの作家ならではのりアリティに溢れている。

終わった作家とされていたマクリーンの以後の作品を冒険小説界に新風を巻き起こした作家としてではなく、1人の冒険小説家として今後の作品を読んでみることでその中にある宝石を探ってみたいと思う。


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巡礼のキャラバン隊 (1977年) (ハヤカワ文庫―NV)
No.507: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

物語は普通。題名は秀逸

S&Mシリーズ5作目の本書ではまたもや密室殺人と1つのパズルが謎として提示される。密室殺人は過去と現代に起きた全く同じシチュエーション。

過去の密室は昭和24年に起きた蔵の中で死んだ仏画家の死。明らかに自殺と思われたが狂気が見つからなかったという物。

もう1つの密室は密室状態から消えた仏画家が近くの橋の下で遺体となって発見されるという物。密室状態から開け放たれた部屋では大量の血痕が発見されていた。しかも凶器は昔の事件と同じく凶器は見つからなかった。
なぜ蔵は閉じられていたのか?
なぜ被害者は河原で見つかったのか?

その2つの密室に共通するのは「無我の匣」という鍵の掛かった箱と「天地の瓢」という入口よりも大きな鍵の入った壺。1つのパズルとは、どうやってこの壺に鍵を入れたのかという謎だ。

これらの謎の解答はなかなかに興味深い内容だった。

しかし壺の中の鍵のトリックはそれで論理的に合っているとはいえ、実現の可能性としてはこれまた首を傾げざるを得ない。

しかしながらやはりこの西之園萌絵というキャラクターがどうしても好きになれない。
叔父が愛知県警の刑事本部長と云う地位を利用して他人の殺人事件に土足でずかずかと入り込んでくる無神経さがどうも気に入らない。いや押しなべてミステリに登場する探偵とはそのような物だが、西之園萌絵の場合は本部長の叔父が快く思っていないのにこそこそと事件に関わってくること、自分の容姿が他人の目を惹くことを知っているため、それを利用して事件に介入すること。

これが相性と云う物なのか。

シリーズを追うごとに作品のページ数は増えていくが、それが謎の複雑さに起因しているかと云えばそうではない。
その内容は探偵役である犀川が事件の解決に積極的でないため、西之園萌絵の試行錯誤に付き合わされているだけなのだ。
そのため事件が発生してから季節は移ろい、大学はセンター試験や研究室選びなどの行事を迎える。さらには犀川と萌絵の妙なラヴコメも挿まれていたりと何とも間延びした感は否めない。ファンならばこの辺の2人の間の進展は物語のアクセントとして愉しめるのかもしれないが、上に書いたようにどうにも相性が合わない当方にとっては苦痛以外何物でもない。

シリーズも5作目になって萌絵が不治の病に罹っており、それが契機で犀川が萌絵との結婚を決意するなど、シリーズのターニング・ポイントとなる物語かと思われたが、それは単なる世間知らずのお嬢様の悪意ある悪戯だったという脱力感溢れる物だったり、謎とトリックの真相が実に魅力的なのに、被害者の動機が非常に曖昧だったりと失望が禁じ得ない作品であった。

しかし本書の題名は実に優れている。邦題の『封印再度』は過去に起きた密室事件が現代に起こる意味と壺の中から取り出された鍵とそれによって開けられた箱は再び封印されたという二重の意味があり、更には英題の“Who Inside”は橋の下で死体となって発見された林水の部屋に、ではいったい誰がいたのかと謎の核心をついている。
同じ発音をしながら意味は違えどどちらも物語の本質をついているまさに見事な題名。言葉の魔術師だなぁ、森博嗣は。


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封印再度―WHO INSIDE (講談社文庫)
森博嗣封印再度 についてのレビュー
No.506:
(7pt)

あの名作からの脱却

作戦チームの中に裏切者、いやもしくはナチのスパイがいる!疑心暗鬼の中、極寒の地での救出作戦は続いていく。

難攻不落の要塞への進入行と云えばやはり『ナヴァロンの要塞』を思い起こさずにはいられないだろう。再びマクリーンが極寒の地にある要塞を舞台にした物語は拉致されたアメリカ高官の救出劇。

作者も『ナヴァロンの要塞』との区別をつけるために色んな特色を出している。
まず物語の目的は『ナヴァロンの要塞』が巨大な砲台の破壊だったのに対し、本書は上に書いたような救出劇であり、しかも『ナヴァロンの要塞』が男ばかりのチームだったのに対し、本書は女性のメンバーも加えていることが目新しい。

さらに吹雪の中でケーブルカーの屋根に捕まって要塞に潜入したり、また同様に敵と戦かったり、さらにはバスで豪快に脱出したりとまあ、何とも映画化を意識した作りになっている。

さてそんな物語はとにかく瀕死の状況で頑なに愚直なまでに任務を遂行していく『ナヴァロンの要塞』のようなストイックさもあるのだが、それらは寧ろ色を潜めており、スミス少佐の謎めいた思惑が秘められたまま、進行する。

後期のマクリーン作品は評論家によればスパイ・冒険小説と謎解きの融合が特徴であるらしく、唐突に物語が始まり、主人公の意図、目的が示されないまま、進行し、中盤以降でようやく主人公の意図が見えてくるという趣向もまたミステリの様式を汲んだものとして捉えられるが、今まで書いてきたように、個人的には成功しているように思えず、手放しで評価できなかった。

しかし本書の前に読んだ『北極基地/潜航作戦』は特にその色合いが濃く、前半は極寒の地での潜入劇、後半は潜水艦内で起きる連続殺人の犯人を突き止めるという本格ミステリのテイストが盛り込まれていた。

本書はその流れに沿うような形で、極寒の山頂に聳え立つ難攻不落の要塞への潜入劇とその任務の中で起きる仲間の不審死の謎と構造は全く以て同じと云っていいだろう。

もはや第2期に差し掛かったと云えるマクリーン作品のそれぞれを一つのエンタテインメント作品としてまっさらな心で読むように心掛けていきたい。


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荒鷲の要塞 (ハヤカワ文庫 NV 162)
アリステア・マクリーン荒鷲の要塞 についてのレビュー
No.505:
(7pt)

ため息しか出ない

競争心。
それはお互いのプライドと克己心を育て、向上心を伸ばす。しかしそれが行き過ぎると斯くも歪んだ大人になってしまうのかをこの作品は思い知らせてくれる。

イタリア系移民の家族に育てられたユダヤ人エディ・フランクスとその家族の長男ニッキー・スカーゴウ、この2人のある原初体験が物語の軸となっている。

ナチスの、執拗なユダヤ人狩りからの逃亡生活の末、アメリカに流れ着いたアイザック・フランコヴィッチの息子エドマンド・フランコヴィッチはエディ・フランクスと名を変え、エンリコ・スカーゴウに引き取られて、彼の実息のニッキーと常に競わされ、比較されながら育てられた。そのため彼にはニッキーに対して拭いきれない劣等感を抱えており、いつか彼を見返してやるというのが彼の成功の原動力となった。

これはイタリア系民族の、父親が絶大なる権威を誇る典型的な家系ゆえの慣習なのだろうが、この原初体験が逆にエディとニッキーの生活を脅かす結果になる。

幼き頃は全てに上回るニッキーが疎ましく思っていたエディはイギリスで有数の投資家として成功する。一方ニッキーはニューヨークのウォール街を舞台に仕事をする法律事務所に勤める弁護士となっていた。

しかしニッキーは成功者であるエディに負い目を感じ、それが故にエディに犯罪の片棒を担がせることになってしまう。
つまり2人を競い合わすことで相乗効果を狙った父親の教育は、2人の少年期に歪んだ劣等感を抱かせることになったのだ。

そこからはそれぞれの出自、つまり民族性がお互いの方向性を二分する。

ナチスのユダヤ人狩りで逃げ惑いながらも、イギリスで諜報活動に身を置き、敵と戦った父を見て育ったエディはマフィアとの戦いに挑む。

一方、マフィアが政府を牛耳る腐敗政治の只中で育ったイタリア人であるニッキーとエンリコはマフィアの容赦ない報復を恐れ、全てをなかったことにして穏便に済まそうとする。

ある意味、それはそれぞれの身を置く社会、国民性においてどちらも正しい選択なのだろう。迫害の歴史の中で生き延びた民族とマフィアが政治を牛耳っており、彼らが法であることが常態化している民族の軋轢がこの家族のそれに繋がっている。

さてこのエディ・フランクスと云う男、全てを自分の眼で、耳で確認しないと信じない慎重な性格であり、しかも買収した会社は全て有限非公開会社として株式を後悔せず、妻と自身の名義とする、排他的な男だ。正直最初はなんとも魅力のない男だと映っていた。

しかしマフィアに彼の会社が乗っ取られようとしたときに彼が見せた男気は物語のヒーローとして実に相応しいものだった。

勿論私はエディを応援し、どのような展開が起きるのかを愉しみにしていたが、一方で皮肉屋のフリーマントルが何とも後味の悪い結末を用意していないかと不安にもなった。

その懸念通り、エディは正義感を発揮してマフィアたちに対してあらゆる対抗手段を講じるが全てが裏目に出てしまう。
ビジネス界の雄としてヨーロッパに名を馳せている男がFBI捜査官に協力したり、会社を解散させたりとその判断は間違っていないように思えるが、訴訟の世界になるとそれらが全てエディが犯罪に関与していたことを認めて、それを隠匿しようとした行為にしか見えなくなってしまう。
道徳的観点からすればエディの選択は決して間違っていないが、法律家たちからすれば、それらが全て隙のある行為であるのだから、法律の世界は実に恐ろしい。ここにブライアン・フリーマントルならではの意地の悪い皮肉があるのだ。

しかし彼らも長年の仇敵である悪徳マフィア3人組を司法の手によって罰する事を欲していた地方検事とFBIはエディに無罪放免を餌に協力を申し出る。しかしそれは証人保護プログラム(作中では証人保護計画と書かれており、訳者あとがきでは当時このシステムを知らなかったようだ)を適用して、フランクス一家に全く別人の人生を選ぶことを条件にしたものだった。

正直この内容には無理があるように思う。
アメリカの法律に詳しくないが、エディは世界でも有数の投資家であり実業家である。たとえ有罪となったとしても罰金を払って釈放されるのではないだろうか?
またエディが巻き込まれた背景を鑑み、情状酌量の執行猶予付の判決もあり得るのではないだろうか?
この辺が実に腑に落ちない展開だった。

さらにエディ・フランクスが正義を貫くために払った犠牲は多大な物だった。

このエディ・フランクスという男の精神構造は実に不思議だ。
私ならば連続する凶事に気も狂わんばかりになるだろうが、エディはむしろ情事に耽るのだ。これは彼の強さの源が家族の支え、とりわけ妻のタイナにあったのか?
有限非公開会社として常に会社を切り回してきた彼は全て自分の判断で経営を進め、自分で問題を解決してきた。役員たちは他会社と兼務する雇われ経営者に過ぎなく、経営に対する決定権や裁権を持たない。つまりかなりのワンマンである。だからこそ彼の拠り所は家族に、妻に在ったのか。
それは幼き頃にナチスにさらわれて行方知らずになった母の温もりを知らぬがゆえに育ったエディの母性への飢えなのかもしれない。従って一緒に危難を乗り越えようと誓った妻タイナがノイローゼで自分を批判するようになる一方で、既に未亡人となって、夫を喪ったマリアの強さと包み込むような慈しみが彼の拠り所になったのだろうか。

そして物語はクライマックスの法廷への戦いに向かう。エディと地方検事、FBIのチームは積年の敵であるパスカラ、デュークス、フラミーニを司法の裁きで有罪にできるのか。

この法廷シーンは結構手に汗握る展開であり、被告側の弁護士とフランクスとの討論シーンは法廷慣れした凄腕の彼らの弁舌にたじたじとなる一方、持ち前の度胸でフランクスがやり返すところなど、エンタテインメント性も高い。
本書が書かれた1987年とは奇しくも世に法廷小説という一ジャンルを築いたスコット・トゥローの『推定無罪』が発表された年である。もしかしたらフリーマントルは同書に触発されて本書を著したのかもしれない。

さて本書の狙いとは一体何だったのだろうか?

成功した実業家がいつの間にか犯罪者によって利用され、犯罪の片棒を担がされ、しかも巧妙に主犯者となってしまう、現代社会の恐ろしさか。

それとも犯罪に巻き込まれた成功者の家庭が海千山千の強者であるマフィアと孤独な戦いの望むことで色んな物を失いながらも勝利する姿か。

もしくは個人の都合などは巨悪を滅ぼすためにその命さえも利用される歪んだ正義とそれを執行する検察とFBIの底知れぬ恐ろしさか。

恐らくはそれら全てが狙いであり、上述の3つの狙いが下に行くにしたがって包み込んでいく重層的な構造を成していることだろう。

日本人ならば2番目の狙いを物語の結末に持って来てほろ苦い美談として終える事だろう。多分ネルソン・デミルも同様の結末を採るはずだ。

しかしこれはフリーマントルによる物語。やはり一筋縄ではいかなかった。
『ディーケンの戦い』然り、『暗殺者オファレルの原則』然り、『スパイよ さらば』然り。本書もそれら一連の作品の系譜に連なるものだろう。
しかし一方で『ネーム・ドロッパー』のような快作もあるのだから、ある意味ハッピーエンドこそがフリーマントル作品の意外な結末のようになってしまったようだ。
母国イギリスでは“スパイ小説界のルース・レンデル”と呼ばれていないのだろうか。
しかしため息が出る結末だ、本当に。


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エディ・フランクスの選択〈上〉 (角川文庫)
No.504: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

萌絵に親近感を覚えるのはまだ先か

S&Mシリーズ第4作目の本書もまた密室殺人を扱ったものだ。もしかしたらこのシリーズは密室殺人事件のみを扱っているのだろうか。

もしそうであるならばシリーズの専売特許とも云える密室の謎だが、本書では3つの密室殺人が発生し、そのうち2つの密室殺人は物語の冒頭でいきなり起きるのにも関わらず、なんと全12章で構成されている物語のわずか第3章でそのトリックは明らかになる。

そしてさらに3番目の密室殺人は学園祭真っただ中のN大学の実験室で起きる。半地下のコンクリート試験室でまたもや下着1枚着けた状態で女性の死体が見つかる。そして肌には「A」の文字とも読み取れる三角形が書かれていた。

さらには同室にあるコンクリートのノッチタンクから一連の事件の容疑者とされたN大学を退学になったロックミュージシャン結城稔の遺体が入っていたというもの。

3つの密室に4つの遺体。連続殺人事件として実に申し分ないボリュームに満ちている。
それらの物語を構成するのがN大学生でありながらロックミュージシャンとして名を馳せている結城稔。そしてその兄、寛は大学院生で西之園萌絵が所属するミステリ研のメンバーであり、さらにはS女子大の助手、杉東千佳と結婚している。さらに同じくN大学生でありながら結城稔のマネージャーをしている篠崎敏治が加わる。

そして本書では密室の謎がメインではない。先にも書いたように冒頭2つの密室は早々に解かれる。
本書のメインの謎とはこれら密室を作るための至極面倒な手順を何故犯人は行い、密室を形成したのか?だ。

そしてその謎の解は常人の理解を超えるものだった。

精密なパズルを見ているかのようなトリックとロジック。心地よい頭脳労働を強いられる内容だ。

さて本書では建築学科に所属する学生が関わる事件であるせいか、密室のトリックに建築の専門知識がふんだんに盛り込まれているのが特徴的だ。

特に大学の建築学科の教授である森氏によるこのミステリで描かれる建物が他のミステリとは一線を画しているのはやはり現行の建築基準法に則って建物が作図されているところだ。動線が考えられた部屋の配置に二方向避難を考慮したドアの配置など、今までの作品でもきちんと考えられていることが同業者として実に座り心地のいい思いがした。
そして本書では数多あるミステリに登場する建物や館の珍妙さを専門家の視点から嘆いているのが実に面白い。特に推理小説は建築基準法や消防法のない世界なのだと萌絵が吐露する件は思わず何度も頷いてしまった。
4作目の本書で世間に流布する密室ミステリに対する痛烈な皮肉が開陳されるようになったのはシリーズが世間に認められた故にようやく常日頃云いたいことを思い切って述べるようになったのからかもしれない。

そういう意味で考えれば本書における密室殺人は全て建築の知識を用いて成された物。つまりはきちんとした建築の知識があれば密室などはいとも簡単に作れるということを暗に示しているように感じた。建築業界にとっては至極当たり前のことを本書では素人相手に示したことに意義があるのだ。

さて今回も今までのシリーズ同様、西之園萌絵は自身のちょっと行き過ぎた行動故に危難に陥る。この展開ももはやシリーズの定番となってしまった。
敢えてこの定型を崩さない森氏はもしかしたら『水戸黄門』シリーズなどに見られる「偉大なるマンネリ」の信奉者なのかもしれない。

しかしそんな典型的なストーリー展開でありながらもシリーズとしてはやや進展が見られる。
本書の主人公の1人、西之園萌絵は叔父が県警本部長である特権を大いに利用して事件に介入し、人の生き死に対して哀惜や喪失感と云った通常の人間が見せる感情とは無縁に、死者と犯人、関係者を単なる駒としてみなさずに事件のトリックやロジックを嬉々として推理する、無神経で厚顔無恥ぶりを発揮していた。本書でもその傾向はまだ完全に拭えないものの、彼女の中で心境の変化が見られてくる。それは事件の捜査に夢中になるのは自分が事件に興味を持っているわけではなく、事件を解き明かすことで敬愛する犀川に認められたいという願望ゆえだったことに気付かされる。それは自分が犀川に子供のように甘えていただけだったことでもあった。
この辺はシリーズの読者ならば早々に気付いていただろうし、これゆえに私が西之園萌絵を好きになれないのだが、ようやく気付いたのかと思わず苦笑してしまった。

そして萌絵は犀川に認められるために大学院への道を目指すと決意する。学生と教授の関係、大人と子供の関係から脱しようと奮闘するそれが萌絵の決意だった。

果たしてこの後、2人の関係はどのように展開していくのか。それがこのシリーズの読みどころであると解っているのだが、やはり西之園萌絵はまだ私には受け入れ難く、やたらと犀川にべたべたするのにはいささか食傷気味になってきた。
シリーズ物はいかにキャラクターに親近感を覚えるかがカギなので、この先のシリーズで萌絵が成長してほしい。私に免疫が出来るのとどちらが先だろうか。


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詩的私的ジャック (講談社文庫)
森博嗣詩的私的ジャック についてのレビュー
No.503: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ディーヴァー版ジェイムズ・ボンドはアプリを使いこなす

あのディーヴァーが世界的有名なスパイアクションシリーズである007シリーズを手掛けるニュースを聞いた時は正直期待半分不安半分だった。私自身007は映画は観ていたものの、小説は未読だったのもあったし、ライムシリーズやキャサリン・ダンスシリーズと云う2つの看板シリーズを持っているディーヴァーにそれらと差別化できる特色が出る作品が果たして可能なのかと疑問視していた。

しかしそれは杞憂だった。
ここには007シリーズを想起させながらも新たなジェームズ・ボンドがいる。若々しく、スマートフォンとアプリを使いこなす現代のスパイとしてのボンド像をディーヴァーは創り出した。
そうでありながらも彼のボスはMであり、スパイグッズの発明家Qも出てくるし、ボンドカーと彼を取り巻く美女がきちんと配され、ファンが期待するボンドの定番も忘れられていない。

だがやはり現代を代表するエンターテインメント作家ディーヴァーは単なるパスティーシュとしての007の新作を書いてはない。ディーヴァーならではのアイデアが放り込まれている。

まず原典との大きな違いはボンドの所属する組織がMI6ではなく英国秘密機関である海外開発グループODGのエージェントであることだ。そしてMI5やMI6よりも立場の低い、権限の制限された組織となっている。

そして独自性を出しながらもディーヴァーはファン・サービスも忘れていない。現代の若者として設定されたボンドながらも父親の名は原典と同じくアンドルーであるし、極秘文書に付せられる“フォー・ユア・アイズ・オンリー(For Your Eyes Only)”には思わずニヤリ。

そして何よりも日本の読者には嬉しいのはボンドカーにスバルのインプレッサWRX STIが選ばれていることだ。あのレーシング仕様のマシンをボンドが操るとは、似つかわしくも若々しい。

また原典を未読なので解らないが、登場人物表に記載されていないが、ジェームズ・ボンドに協力する人々や彼の回想に出てくる人物名なども007愛好家の方々には思わずニヤリとする内容が含まれていることだろう。

さてディーヴァー版ジェームズ・ボンドの相手となる敵は巨大ゴミ収集企業グリーンウェイ・インターナショナルの代表取締役セヴェラン・ハイトとその相棒で冷酷な殺し屋ナイアル・ダン。

今なお創られる007シリーズ映画の敵はもはやソ連の秘密組織や戦争を企む武器商人などではなく、世界を牛耳る巨大企業による、その得意分野に特化した世界征服の野望を持つ狂える企業人であるが、本書もその流れを汲む物だ。

しかしただのゴミ回収業を営む一企業人がスーパー・エージェント、ジェームズ・ボンドの敵になり得るのかと疑問を持つだろうが、そこはやはりディーヴァー、この業界が実に世界を脅かす恐るべき存在になり得ることを見事に示した。

まず今回は死体愛好家であるセヴェラン・ハイトが相棒のナイアル・ダンと企む「ゲヘナ計画」が何であるかを突き止めるのが今回のボンドの使命。それは近いうちに行われるある大量虐殺計画を示唆しているが、場所も日時も不明。ボンドはアフリカ各地で行われている民族大量虐殺の跡地を“クリーン”にする事業を請け負っているダーバンの起業家ジーン・セロンに成りすましてハイトに近づき、計画の正体を探ろうとするのが物語のメインだ。

そして明らかになるのは我々の想像を超える恐るべき計画だった。詳細はネタバレに記載するが、実現可能と思われるだけに実に恐ろしい物をディーヴァーは考えたものだ。

しかしそこから続く更なる隠し玉はいささかインパクトが弱く感じてしまった。ディーヴァーの読者を最後まで飽きさせないサービス精神が裏目に出てしまったようだ。

さて題名の白紙委任状とはジェームズ・ボンドにODGから渡される作戦指示書のような物。それがつまり白紙である、つまりミッションの全権を委ねられており、ボンドは自らの判断で施設への潜入から破壊、そして殺人をも遂行できる。つまり原典でボンドに与えられた殺人許可証に当たるものだ。この白紙委任状はかなりの効力を持つようで、これが与えられているがゆえにジェームズは世界各国でその地の政府直属の機関の協力を得て活動できるのだ。

さて世界で活躍するジェームズ・ボンドだが、前述したようにディーヴァーの描く彼は実に現代的だ。
スマートフォンのアプリを使いこなして読唇術や追尾、盗聴を行う。実際にこれらのアプリが某国の情報局によって開発されているように思うが、反面、情報漏洩のセキュリティの脆弱さから本当にスパイがこんなことをしているのかとも疑ってしまう。実際我々の仕事で情報オペレーションシステムを扱う会社にヒアリングした際、パソコン上のデータをタブレット端末で共有して現場でもチェックできるようにできないかと質問したところ、可能だがセキュリティ上の問題が解決していないと云っていたことを考えると、あまりにも不用心すぎると考えるのは穿ちすぎだろうか。

さてリンカーン・ライムシリーズは個性的な連続殺人鬼と現代のシャーロック・ホームズであるリンカーン・ライムとの一騎打ちならば、007シリーズは巨大企業の陰謀を阻止する政府の秘密エージェントの戦いを描いた物であり、同じ悪との戦いを描きながらもそのスケールは全く違うと云っていいだろう。
恐らくディーヴァーは個対個の物語から組織対組織、もしくは組織対個という国家規模の犯罪との戦いを描きたいがために007シリーズの新作の依頼を快諾したのではないだろうか。

ただリンカーン・ライムシリーズももはやシリアル・キラーとの対決からテロリストとの戦いと巻を重ねることにスケールアップしているのは事実。それが故にもっとスケールの大きい悪との対決を描きたかったのかもしれない。

ディーヴァー版007。その出来栄えはまずは及第点と云ったところか。
アクション満載のスーパーエージェントの活躍が愉しめるものの、ディーヴァー特有のどんでん返しが今回はあまりストーリーの面白さに寄与しなかったように思えたのが痛かった。

このシリーズの続編の話はまだ聞かないが、この経験を活かしてリンカーン・ライムシリーズやキャサリン・ダンスシリーズがさらに面白くなることを一ファンとして望む。


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007 白紙委任状
No.502:
(7pt)

こんなマクリーンを待っていた!

極寒の地での冒険小説はもはやマクリーンお得意のシチュエーションであり、最も彼の筆致が生きる題材と云えよう。
本書は突然消息を絶った北極の気象観測基地の作業員たちを救うべく、アメリカ最新鋭の原子力潜水艦で極寒の地に赴くという、これぞマクリーン!とも云うべき作品だ。

しかし本書はそれに加え、ゼブラを、ドルフィン号を襲う謎の魔の手がいる。つまり本書には犯人捜しと云う謎解き興味も盛り込まれているのだ。

まずは過酷な状況下で不可能とされる任務を遂行しようとする主人公カーペンターと彼の協力者である潜水艦の乗組員の苦闘はいつもながら心胆寒からしめる迫真性に満ちており、10作目になってもマクリーンのアイデアは尽きることがない。

氷原の氷を切り刻み、針のように尖らせ、渦を巻いて荒れ狂う氷嵐は保護ゴーグルをしていながらもゴーグル自体を傷だらけにし、視界を奪っていく。そしてそれら氷の針は冷たい麻酔薬のように人間の体温を奪い、肌の感覚を麻痺させる。
そんな視界ゼロの世界で頼りとなる磁気コンパスは最北の地ではぐるぐると回るだけで正確な方位を指し示すことがない。そして瞬く間に全て凍てつかせる氷点下の世界では双眼鏡を使えば、目の周りに皮が剥けて痛々しい血の眼鏡をかたどらせる。

かといって当時の先端技術の粋を集めた最新鋭の原子力潜水艦も安息の場ではない。分厚い氷山の下を航行する間に火災が起これば、換気が出来ず、たちまち煙と一酸化炭素に包み込まれた漆黒の地獄と化す。

そんな死線上を彷徨うかの如き状況の中で泰然自若として常に冷静さを失わない艦長のスワンソン。彼の信奉者である副長のハンセンにザブリンスキーにローリングズの巨躯でお人よしのコンビがカーペンターを支える。

とこのように我々が想像できない世界で目の当たりにする最悪のケースをマクリーンは実に見事に物語に溶け込ませ、それらの危難に立ち向かう乗組員と主人公を極限状態の中でも諦めることの知らない漢たちの姿を読者の心に刻み込んでいくのだ。

極限状態の中にあって、一歩間違えば死の状況に幾度も遭い、満身創痍の状態になりながら軽口を叩いて、眼前の危難を乗り越えていく。
さらには本書には連続殺人を犯す犯人探しの興趣さえも盛り込まれている。
繰り返しになるが、本書は私が期待していた「これぞ、マクリーン!」と快哉を挙げたくなる作品だ。


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北極基地潜航作戦 (1973年) (ハヤカワ・ノヴェルズ)
No.501: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

交通事故の多い今こそ読まれたい?

本書は長年お蔵入りしていた作品として発表時に宣伝文句として謳われていた作品だ。

バーテンダーの雨村が過去に起こした交通事故の復讐で被害者の夫に殴られ、意識昏倒の中、目覚めてみるとその事故の記憶がすっぽり忘れられており、周囲は忌まわしい記憶だから忘れた方がいいとなだめるが、雨村本人はなぜ今頃になって自分に復讐をしたのか知りたくなり、当時の事件を探っていくうちに奇妙な事実が判明していくと云うのが粗筋だ。

記憶喪失の主人公が過去を探る話と云うのはそれこそ世にゴマンとあるが、それが過去に起こした交通事故、しかも相手は亡くなっている事件であることが東野氏の着想の妙と云えよう。
通常ならば周囲の人間が勧めるように早く忘れた方がいい記憶であり、それが襲われたとはいえ、忘れる事が出来るのは非常に幸運なことだろう。実際、私の立場ならば忘れたままに放置するだろう。だから私はドラマの主人公に不向きであると云える。

それはさておき、過去を探っていくことで、寝た子を起こすことになるのは物語の常であるが、雨村の捜査をきっかけに彼の周囲にも変化が訪れる。

同棲相手の失踪、ファム・ファタールの出現、そして被害者岸中美菜絵の幽霊の出現と物語は一種オカルトめいた様相を呈していく。

交通事故と云うのは正直当事者の思い込みによって左右されることもあり、はっきりとした真相が曖昧になりやすくもある。実際私も2度ほど事故を起こしたことはあるが、それはどうにも納得できないことが残った。
走行の邪魔にならぬよう停止していたはずなのに、なぜかぶつけられ、ゼロヒャクの被害者だと思っていたら、進路妨害の加害者になったり、前車が急ブレーキしたのを見てこちらも急ブレーキし、ブレーキランプが消えたのでブレーキを解除したら、前車が再びブレーキをした―それはポンピング・ブレーキだったのだが―ために間に合わずオカマを掘ってしまった、などとどちらも十分に納得できない部分が残って今に至る。
それは運転と云う行為に癖や基準に明確な差が生まれるからだろう。黄色信号は「止まれ」の意味なのだが、人によっては急いで進めと理解しているだろうし、制限速度40km/hの道を40km/hで走る人もいれば、50、60km/hで走る人もいる。はたまた今や社会問題とまでなっている飲酒運転も、このくらいならば飲んだうちに入らない、自分はまだ酔っていない、まさか事故らないだろう、警察に捕まらないだろうとそれぞれが運転に対するハードルを持っているだけになかなか無くならないのが実状だと思える。

だからこそ交通事故には隠された真相が生まれやすいミステリとして宝の山とも云える。
実際本作でも事故の当事者と思われた雨村が、実際に被害者を轢き殺したのは別の車であったことが判明したり、さらに読み進めるうちに驚愕の事実が明らかになっていく。

銀座に高級バーを持つ男、事件をきっかけに大金をせしめて夢を叶えようとする男、社長令嬢の婚約者という玉の輿に乗ったゼネコン社員と社会の勝ち組(になろうとする人)たちへ慎ましくも幸せな暮らしを送っていた一介の主婦の怨念の乗り移った目こそが下した正義の鉄槌の物語は思いの外、心寒からしめる物語であった。

しかしなぜ本書が長い間お蔵入りしていたのか?道交法の改正によって物語の整合性が取れなくなったのだろうか?
お蔵入りするには勿体ないクオリティであったし、きちんと刊行されたことを一ファンとして喜びたい。


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ダイイング・アイ
東野圭吾ダイイング・アイ についてのレビュー
No.500: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

タイトルの意味を深く考えろ!

S&Mシリーズ3作目の本書の舞台は三ツ星館なるオリオン座の3つ星を模した館が舞台。そして犀川と西之園萌絵が相手をするのは館の主である天才数学者天王寺翔蔵。
実質2作目である本書でいきなりエキゾチックな人物が登場する。

今回の事件の謎は大きく分けて4つある。

まずは天才数学者天王寺翔蔵が仕掛けた高さ5mものある巨大なオリオン像の消失トリックの謎。

そして鍵の掛かった館の外で亡くなっていた天王寺律子の死の謎となぜか律子の部屋で密室状態で死んでいた彼女の息子俊一の死の謎。

そしてもう1つは12年前にオリオン像が消失した翌日に亡くなった小説家で翔蔵の息子である宗太郎の死の謎だ。

それらの謎にはそれぞれ怪しげな事象が散りばめられている。

現代の事件では使用人の鈴木夫婦の一人息子昇のバイクが何者かによって盗まれていること。

過去の事件では宗太郎が亡くなった日に使用人の鈴木彰もまた行方知れずになっていること。

そして使用人の鈴木君枝は過去オリオン像がもう一度消失すると誰かが死ぬと云う手紙を受け取っていた事。

そして物語が進むごとに更なる意外な事実が判明してくる。

とまあ、このシリーズはミステリの定型を見事に擬えている。
奇妙な館に特異な人物、もしくは特殊な実験室があり、そこで起きる密室殺人。事件に関係する人物たちの尋問と隠された過去の因縁や事件が明かされる。さらには謎の真相に貪欲な西之園萌絵は好奇心を抑えられず、犀川の目の届かない所で冒険に挑み、危難に遭う。

本書を読んでいるとアーロン・エルキンズのギデオン・オリヴァーシリーズを読んでいるような錯覚を覚える。それほどこの両者の物語構成は似ている。それはまさに数学の証明問題を解くが如く、ミステリのセオリーをなぞっているかのように見える。

そして肝心のオリオン像消失はまさかと思ったが、そのまさかの真相だった。

しかし最大の謎は天才数学者天王寺翔蔵そのものかもしれない。十年もの間地下室の自室に閉じこもったまま、数学の研究に日々を費やしており、他者には何の関心も持たずに生活している。

本書はその後に繋がるデビュー作で実質的には4作目となる『すべてはFになる』への萌芽が見られる。
山奥に建てられた三ツ星館という特異な館にどこか奇妙な雰囲気の拭えない怪しい人々、そして何よりも天才数学者天王寺翔蔵は天才科学者真賀田四季のプロトタイプのように見える。特に最後現れる子供と戯れる謎の老人は事件後の真賀田四季の生存を髣髴させるエピローグではないか。

本書の中で特に印象的だった言葉がある。

人類史上最大のトリック……?
(それは、人々に神がいると信じさせたことだ)

このあまりに鮮烈な2行は見えない物を見ようとし、謎に翻弄される本書の登場人物に対して見えない物を信じ、縋る人々の存在とは非常に対照的だ。

内と外、見える物と見えざる物。本書はその対立する2つの項を行き来する人間の愚かさを描いた作品か。
そして真理を見抜く者は目で見た物を信じない。
我々が見ているのは現か幻か。
なんだ、本書は実は江戸川乱歩に捧げた書だったのか!


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笑わない数学者―MATHEMATICAL GOODBYE (講談社文庫)
森博嗣笑わない数学者 についてのレビュー
No.499:
(7pt)

その後のプリースト作品の原点?

クリストファー・プリーストと云えば『逆転世界』、『魔法』や『奇術師』など我々の価値観を超える世界観を提供し、物語世界を理解するのが困難な物が多いが本書はなんとH・G・ウェルズの代表的な2作、『タイム・マシン』と『宇宙戦争』を本歌取りし、1作のSF作品として纏めた労作なのだ。非常に知られた題材であるせいか、非常に読みやすいのにびっくりした。
まず一介のセールスマンで主人公であるエドワード・ターンブルと科学者の秘書アメリア・フィッツギボンとの淡いロマンスから物語は始まる。

まず高名な科学者サー・ウィリアム・レナルズの発明した時空を旅する機械タイム・マシンに乗って旅をするうちに近い未来にアメリアが死ぬ場面を見たエドワードが無理に未来に行こうとしたために操縦桿を引き抜いてしまい、そのために火星まで行ってしまい、そこで火星を支配する16本足のタコのような異形な生物と出くわし、その生物と共に地球に帰還するが、それが火星怪物の地球襲来になるという物だ。

しかしただの本歌取りに収まらず、そこここにプリーストならではの味付けが成されている。16本足の生物は人間に似た火星人が滅びゆく運命にある火星人の運命を打破するために人工的に生み出した怪物であり、それがやがて火星人そのものを支配するようになったのだ。

そして火星に辿り着いた主人公の2人は火星人の伝説で彼らの苦境を救う救世主として祭り上げられるのだ。

また火星の描写はプリーストならではの奇想に満ち溢れている。
赤い植物壁に金属のまばゆいばかりの塔などはまだしも、人間に似ながらもどこか違う火星人の風貌、半球状の透明なドームに囲まれた都市―スティーヴン・キングの作品『アンダー・ドーム』はこれに由来するのか?―に三本足で“歩く”走行物に直径7mもある雪を降らせる大砲は実は地球に向けて宇宙船を発射する巨大な発射砲であることが後に解ってくる。

さらにこの2人に途中で関わってくるウェルズ氏。哲学者と云う設定だが、彼こそ後に『タイム・マシン』と『宇宙戦争』を著すH・G・ウェルズ氏である。
そう、本書はこの2つの名作が氏の体験によって創作された物としているのだ。

だが、プリーストならではの味付けは成されているとはいえ、基本的に物語は『宇宙戦争』のストーリーに添って終える。

昨今、『バッドマン』や『猿の惑星』といった今なお語り継がれているヒット作の前日譚がたくさん創作され、好評を博しているが、本書はまさにその走りと云えるのではないか。

ところで本書は邦訳されている他のプリースト作品に比べても格段に読みやすく、またモデルとなった小説があることから非常に解りやすいのが特徴だが、その後のプリースト作品の萌芽となるアイデアが垣間見られる。

それはスペース・マシンという時空を旅することが可能なマシンが持つ特徴だ。時間を旅することは勿論だが、空間、すなわち異なる次元に移動することで存在を希薄化し、周囲から見えなくすることが出来るのだ。これは数年後に発表される『魔法』で見せたグラマーという能力の原点ではないか。
さらに「瞬間移動」を得意とする2人の奇術師の戦いを描いた『奇術師』もまたここから発展した着想であるように思える。
即ちこのスペース・マシンこそがプリーストがその後の作品のテーマとしている存在や実存という確かであるがゆえに不確かな物を作品ごとに色んな趣向を凝らして突き詰めていく源だったのではないだろうか?

そういう意味では私を含めたSF初心者の諸氏には名作と名高い『魔法』や『奇術師』にあたるよりもまず本書こそがプリースト入門に相応しいと思える。せっかく復刊されたこの機会を利用しない手は、ない。


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スペース・マシン (創元SF文庫)
No.498:
(7pt)

溺れたのは果たして溺死人だけなのか?

フィルポッツと云えば21世紀現在でも古典ミステリの名作として『赤毛のレドメイン家』を著した作家としてその名を遺しているが、実は彼にはそれ以外にもミステリの諸作があって、本書は私が前出の作品を初めて読んだ大学生の時には既に絶版で長らく手に入らなかった1冊である。実に初版から30年経ってようやく復刊フェアにてその姿を手にすることが出来た。

報われない人生を歩んできた一介の旅芸人が自殺のために訪れた断崖の洞窟で別の溺死体を発見したことがきっかけで、死者に成りすまし、別の人生を送る。
よくある、特にウールリッチの諸作に見られる設定の本書で、特に目新しさは感じないが、これがまず1931年に書かれたことを考えると、いわゆる身代わり殺人というモチーフの原型ではないかと思われる。

しかしありふれた物語だけに留まらないのが本書が2014年に至って復刊されることの証だと云えよう。なぜならこの他人の人生に成り替わったジョン・フレミングと云う男が愚直なまでに善人であることがその最たる特徴と云えよう。

不遇な芸人で宿賃も満足に払えなかった彼は他者に成り替わった後で、きちんと滞納していた宿賃も払い、おまけにお詫びの金も添えて返却する。彼は報わなかった自分の人生を変えるために他人になりすまして、生きることを選択したのだった。

しかしそんな入れ替わりも早々に破綻してしまう。なんと4章目にして失踪者ジョン・フレミングは追跡者メレディスによって発見されてしまうのだ。
全12章のたった1/3を過ぎたあたりだから、これはかなり早い段階だ。

そしてそこから新たな謎が生まれる。ではジョン・フレミングが成り替わった死体とは一体誰の死体なのか?
メレディスは失踪人情報と財布のイニシャルからそれは骨董商ライオネル・S・ダニエルであると確信する。しかし彼には単なる骨董商だけの収入以上の裕福な生活をしており、彼のもう1つの人生への謎、そしてなぜ彼がダレハムの断崖で亡くなっていたかとさらに謎が重なってくる。
たった300ページ弱の厚みに謎の連鎖が詰まっている。

しかし最後まで読むと本書はミステリなのかと疑問を抱えてしまう。上に書いたように確かに謎は連鎖的に連なっていくが、肝心要の溺死人を殺害した犯人は探偵の推理ではなく、犯人からの自白で判明する。しかもその犯人は恐喝者であった犯人ライオネル・ダニエルを毒殺したことを罪と思っておらず、むしろ町のダニを駆除した善行だと思っているのだ。

そして最終章で探偵は一部始終を友人の警察署長に話してこの事件の始末を委ねる。

そして最終章の章題は「われわれも、おもしろがってはいないが」と掲げられている。これはつまり人の死をミステリと云う謎解きゲームの器に盛ったミステリ作家たちは罪を犯すことの意味という最も根源的な事を忘れて、知的ゲームに興じているのではないかという作者からの警句なのだろうか。

また本書ではところどころに主人公メレディスと友人の警察署長ニュートン・フォーブス2人の政治談議が挟まれるが、それがミステリ論議にもつながっている物もある。例えば死刑制度が無くなればミステリは潰えてしまうと断じている。

本書の原題は“Found Drowned”。つまり『溺死人発見』が正確な意味だが、溺れた者とはミステリというゲームに溺れた作家たちを指すのかもしれない。
そう考えると本書の題名はミステリ作家に対して何とも痛烈に響くことか。
本格ミステリの雄であるエラリイ・クイーンがロジックとパズルに淫した後に行き着いた先を既にフィルポッツは1931年の時点で警告していたと考えるとやはりこの作家は『赤毛のレドメイン家』のみで語られるべき作家ではない。文豪はやはり文豪と云われるだけの深みがあることを再認識させられた。


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溺死人 (創元推理文庫 (111‐4))
イーデン・フィルポッツ溺死人 についてのレビュー
No.497:
(7pt)

新たなマット・スカダーシリーズの幕開けか?

『八百万の死にざま』で自らアル中であることを認めたマットのその後の物語が本書によっていよいよ動き出した。
在りし日々を振り返った前作『聖なる酒場の挽歌』でも語られていたように既にマットは酒を断っており、AA(アルコール中毒者自主治療協会)の集会に出ては時々司会を務めるようにもなっていた。そこでまた彼に新たな友人が出来る。

1人目はエディ・ダンフィ。AAの集会に出るようになって知り合った男だ。しかし素性は知れてはいないが妙にマットとは話があった。そんな彼が自分の「人には云えない過去」を打ち明けることを決意した時に、不審死を遂げてしまう。

もう1人はウィラ・ロシター。エディのアパートの大家の女性だ。彼女は若き頃に政治活動のグループに所属していた闘士の一人だった。そんな彼女の特殊な価値観と結局離婚した上、そうした活動に虚しさを感じて今の職に就いた。

今までもジャン・キーンのように捜査の過程で知り合った女性と懇意になるのはあったが、ジャンとの別れの寂しさが一層募り、酒を断ったマットは酒へ逃げることができないためか、前にも増して言葉を交わす女性に対して魅かれることが多くなったと述懐する。
そんな彼の前に現れたのがウィラ。昔警察の敵だった女と元警官。そんな奇妙な関係ゆえか、マットはエディの死を探る最中で逢瀬を重ねるようになる。それはかつての恋人ジャン・キーンの時よりももっと親密に。彼女はしかし酒飲みだった。それがマットに3年以上も続いた断酒の意志を削り始める。

今回マットが関わるのは2つの事件。
1つはインディアナ州で車のディーラーを経営しているウォーレン・ホールトキから失踪した女優志願の娘ポーラの捜索。
もう1つは上にも書いたAAの集会で知り合った友人エディ・ダンフィの死の真相だ。

1つ目の事件は意外な形で真相が判明する。前作『聖なる酒場の挽歌』はかつて酒飲みだったマットの回顧録であったが、その中に出てきていたミッキー・バルーなる巨漢の男がこの女性失踪事件のキーを握っていた。

田舎から出てきた女優志願の若き女性の末路としては言葉にならないほど哀しくも無残な結果。都会の片隅ではこんな死がゴマンとあるのだろうか。

もう1つの事件、エディの死の真相も意外だ。ここにもまた心を病んだ者がいる。

しかしこれは非常に危うい物語だ。断酒をして3年以上のマットだが、いつまたアルコールに手を出すのか終始冷や冷やさせられる。
原題“Out On The Cutting Edge”は作中の台詞でもあるように「刃の切っ先に立っている」状態、即ち断酒をしながらもいつまた酒を飲むか解らない不安定な心理状況を謳ったものだ。そして“Out”とはつまりそこから堕ちることを意味している。

そんな彼の前には飲酒で誘う因子が捜査の過程に付き纏う。
例えばミッキー・バルー。アイルランド系の用心棒から成り上がった通称“ブッチャー・ボーイ”と呼ばれたこの男はニューヨークの闇社会でドンと呼ばれる男の1人だが、かつての溜り場での常連だった縁ゆえか、長い間盃を酌み交わす―マットはコーラだが―ことで親密な関係を築き上げていく。
それは酒飲みだけが分かち合える時間と空間。そんな雰囲気がマットに酒への憧憬を甦らせる。

常に果たしてまたマットは酒を口にするのか?
『八百万の死にざま』で前後不覚になり病院に運ばれたマットに待ち受けるのは死であることを知っている読者は心中穏やかでない。

さらにかつては仕事の依頼を受けるとその報酬の1割を通りがかった協会に寄付していたマットだったが、今ではそれを止め、1ドル札に両替し、街行く先で出逢う物乞い達に渡しているのだ。

そんな以前の生活習慣を捨てたマットの物語はまさに新たなシリーズの幕明け宣言と云えよう。

思えばマット・スカダーシリーズは『八百万の死にざま』以前と以後とで分けられるのではないか。
シリーズ全体を読んだわけではないので、いわゆる“倒錯三部作”を読んだ後ではまたシリーズの転換期が訪れるのかもしれないが、それはそれらを読んだ時に検証することとする。『過去からの弔鐘』から始まり『暗闇にひと突き』までのマット・スカダーは警官時代に誤って少女を撃ち殺した自責の念からアルコールに逃げ場を求めながら、人生に折り合いをつけるために人殺しを仕方ないとする人たちを憎んでは断罪していた。

『八百万の死にざま』で初めて自分がアル中であることを認め、そこから古き良き時代を懐古する『聖なる酒場の挽歌』を経てこの『慈悲深い死』からはアルコールを断ったマットが始まる。

私には『過去からの弔鐘』でマット・スカダーという元警官の無免許探偵を見つけたブロックはその後3作の物語でこの男がどんな男なのかを探り、『八百万の死にざま』で彼がアル中でありながらそれを認めようとしなかった弱い男だったことを解き明かす、それがこのシリーズの流れのように思える。
そして『聖なる酒場の挽歌』でアルコールを介して知り合った仲間のエピソードを語ることでアルコールへの未練を断ち切り、過去を振り返っていた男が未来に向けたマットの物語をブロックが進行形で描き出したのが本作なのだ。

過去の過ちから酒に逃げていた男の物語として始まったマット・スカダーの探偵物語。云わばマットと云う人物の根幹を成す設定を敢えて放棄することで物語を紡ぐことは作家にとってかなり大きな冒険であろう。
その後シリーズは巻を重ねていること自体が今さらながら驚かされ、しかもそれらの作品群がシリーズの評価を高めているのだから畏れ入る。逆に枷を着けることで作者のチャレンジ精神が昂揚したということか。
何はともあれ、シリーズの新たな幕明けとなったいわばマット・スカダーシリーズ第2部が楽しみでならない。


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慈悲深い死 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック慈悲深い死 についてのレビュー
No.496:
(7pt)

事実を小説より奇にするモサドの日々

イスラエルの対外情報機関「モサド」は今やすっかりおなじみの存在だ。スパイ小説の類を読まない人でもハリウッド映画のアクション映画でも大敵として登場するくらいの知名度がある。そんな恐るべき存在として知られるこの組織の歴戦のスパイたちを綴ったのが本書。

まず宿敵イランの核兵器開発基地を悉く撃破し、イランが核所有国となるのを遅らせたこと、それらをCIAとMI6と共同で行ったなど、画期的な方法を用いた2003年に長官に就任したメイル・ダガンの功績が語られ、また時代は遡り、イサル・ハルエル長官時代の元ナチス高官アイヒマンの捕獲を成し得た顛末やフルシチョフの秘密の演説文書を手に入れた顛末などが語られる。

さらにはあわやイスラエル国内の宗教戦争に発展しかけた少年誘拐事件解決など我々日本人の価値観の尺度では計り知れない一触即発の出来事があったり、パレスチナのユダヤ人難民を現在に至ってまで救出しているモサドの活動などはそのために偽造のリゾート地を作り、ホテル経営まで行うなど、一国の諜報機関という一部門が行ったとは思えないほど大掛かりな物がある。

そしてモサドが関わった任務に登場する人々もまた実に個性豊かでドラマチックだ。
ラトビアのユダヤ人3万人虐殺に関与した“リガの殺し屋”ことヘルベルト・ツクルス暗殺の一部始終、エジプトの中枢にいながらモサドの最高機密スパイとして暗躍したアシュラフ・マルワンの生涯、イスラエルの核開発施設であるディモナ原子力研究センターの技術者ながら、自身の処遇に不満を持ち、重要な資料を携えて世界各国を放浪し、イギリスの≪サンデー・タイムス≫に売り渡す寸前でハニー・トラップに陥ったアトム・スパイ、モルデカイ・ヴァヌヌの奇妙な人生、長さ150メートル、重さ2,100トン、口径1メートルの射程距離1,000キロ以上というマンガのようなスーパーガンを開発した狂信的技術者ジェラルド・ブル、パレスチナ解放人民戦線代表のワディ・ハダドは大のチョコレート好きなためにモサドによってゴディバのチョコレートで毒殺される。

これらのエピソードはしかし実際に起きた命のやり取りの物語なのだが、我々の日常からかけ離れた非日常を生きるスパイたちの人生は実に劇的である。特に印象に残ったのはシリアで上層階級の仲間入りをし、大統領まで友人として取り込んだスパイ、エリ・コーヘンだ。
この今やイスラエルの英雄とされているスパイは最後の任務として臨んだ仕事で正体がばれ、逮捕されてしまう。しかもシリアのラジオ放送波を利用してイスラエルに情報を送っていたと、実に巧妙な方法を用いて長年に亘って気付かれずに済んだのに、偶々新型の通信装置に入れ替える作業のため、全軍の通信を24時間停止させていたその日に唯一生きていた電波がエリのそれだったという、まさに百万に1つの偶然が招いた失敗と云えよう。

このように一歩間違えば追う者自身の身を滅ぼすことになる極限状態での任務なだけに、読むこちら側も物凄い心的疲労を伴うのだ。

またモサドが成し得た作戦の大きな成功も全てが計画通りに行われたわけではなく、いかに偶然の産物であったかも詳らかにされる。それは単純に恋人との繋がりだったり、娘の付き合っている相手の話からだったりと実に様々だ。

しかし2010年にモサドによって遂行されたイスラム原理主義組織ハマスの指導者マフムード・アル=マブフーフ暗殺の顛末がドバイ中に設置された監視カメラでその一部始終が撮られることで、いわゆるスパイの暗躍は現代では実に難しくなったと溢してもいる。

だがこれら歴戦のスパイのドキュメントはバー=ゾウハーのアイデアの源泉となり得るだろう。
ソ連がモサドの工作員を勧誘して二重スパイに仕立て上げたり、ニューヨークのアクターズ・スタジオにて演技を学び、舞台を演じるようにスパイ活動し、脚本を書くように作戦司令を書き上げたスパイ、ツヴィ・マルキンなどフィクション上の人物ではないかと見まがうほど個性的である。
またミュンヘン・オリンピックでイスラエル選手団を襲撃したパレスチナのテロ組織“黒い九月”のリーダー、“赤い王子”ことアリ・ハサン・サラメ暗殺の顛末は映画化もされたあまりにも有名なモサドの任務失敗のエピソードだ。このエピソードはバー=ゾウハー自身も別著『ミュンヘン』で綴っているのだが、モサドの功績を纏めた本書では避けられない物だったのだろう。

本書の原書が刊行されたのは2012年。モサドの功績を綴った本書を著すことでバー=ゾウハーの創作意欲が刺激され、再び私のような読者の胸躍らす新作を発表してくれることを一ファンとして願っている。

モサド・ファイル――イスラエル最強スパイ列伝 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
No.495:
(7pt)

ODAを食い物にしているのは果たしてどの国か

世界の黒い構造にメスを入れる服部真澄氏が今回その刃先を向けたのはODA、政府開発援助を巡る汚職の世界。その利権に群がる日本の開発コンサルタントとゼネコンのピカレスク小説だ。

まず本書は主人公が逮捕されるという実にショッキングなシーンから始まる。
40歳前後という若さで日本大手の開発コンサルタント会社の重役に登りつめ、ビジネス誌でも現代のジャンヌ・ダルク扱いの取材を受けた黒谷七波に一体何があったのか。このたった9ページの導入部でいきなり物語に引き込まれる。

物語は1988年、本書の主人公黒谷七波が日本五本木コンサルタンツの入社試験を受けている時期から始まる。時はバブル全盛期(しかし最近バブルの時期を扱った小説に当たることが多い。景気が上向いて業界がバブル再燃に期待しているからだろうか?)で誰もが前代未聞の好景気に浮かれている最中、黒谷七波は新潟の貧しい農家に生まれ、京大に進みながらもバイトをして自身の生活費のみならず家業の借金返済の少しでも足しになるために仕送りもしている苦学生の身であった。
しかしそんな背景を聞けば、昭和の香り漂う純朴な女学生を想像するが、そうではない。彼女の人生は虚構に満ちているのだ。

大学では化粧気のない野暮ったい風貌をした、田舎出の、女子大生と呼ぶには抵抗感がある女学生として振舞い、無知を装って自分の必要な情報を周囲から集める。そして夜は派手なメイクと服装になり、男どもの相手をしてはあしらうキャバクラ嬢と変身し、これまたバカな女性のふりをして客の上役連中から企業や業界の貴重な情報を手に入れる。
そんな情報を統合して彼女が目指したのはコンサルタント業界への就職。一兆円もの金が動く国際支援の舞台で数億を稼ぐ女性へと成り上がるために自分の富裕な生活という目標に向かってまい進する様が描かれる。

自身の生活費を切り詰めながらどうにか貯金を蓄えて豊かな生活を夢見るが、そんな幸せの端緒が見えた途端に訪れるのが実家の牧場が抱える借金の返済の請求の電話だ。しかも代わりに返済をしても状況は好転することはなく、寧ろその金額は年々増大し、しかも街金にも借りるようになる。

学生の頃からそんな貧しい思いを強いられた彼女にとっての幸せとは潤沢なお金だった。お金こそが彼女の幸せの象徴なのだ。

そして本書ではもう一人の影の主役がいる。それは七波が勤める日本五本木コンサルタンツの相棒とも云うべきゼネコン名栗建設の営業部長宮里一樹だ。彼は日本五本木コンサルタンツと共謀してODAを食い物にして巨万の裏金を都合するブローカーのような存在。国際開発援助資金をさらに国内の政治家への裏金にも都合し、実質的に名栗建設の屋台骨を支えている存在。

黒谷七波は彼を利用して社内でのし上がっていくが、宮里は七波の地位を押し上げることでさらに有利に自社に仕事が回ってくるように暗躍している。
七波が孫悟空ならば宮里は彼女を掌上で操る仏様とも云えるだろう。つまり自社に金が流れるよう、絵を描くのが宮里でそれを実現するために実務を担当するのが黒谷七波という構造だ。

しかし金稼ぎを、裏金作りを自身の幸福への至上の目的としていた七波も次第に心境を変化させていく。
巨額の金を懐に入れるためにベトナム事務所の所長になり、数十億もの金を自由に扱うことになった七波に現地スタッフの1人がベトナムの生活を豊かにしてくれていることに感謝の言葉を贈るのに動揺し、止めは大規模なプロジェクトであるソンバック橋の橋桁が崩落する未曽有の大事故が起きるにあたって、それが手抜き工事であり、しかもその原因が下請けから受け取ったリベートによる予算不足に起因するに当たり、七波は初めて罪の意識を感じる。
今まで当然と思っていた金の抜取が人の命を奪うまでに発展したことで、自身の手が血で汚れているように感じるのだ。

そして黒谷七波は巨悪を罰するために立ち上がる。それが冒頭の逮捕劇に繋がるのだ。

しかしそこから物語は混迷を極める。
外為法違反を自ら告白して警察の手に渡り、そこからさらに殺人を告白する。そして彼女が借りたレンタルルームからは冷凍された人肉のミンチが発見される、と云った具合に一転猟奇的な物語に展開する。

しかしそれは黒谷七波と宮里一樹が仕組んだ巧みな断罪劇だった。自らを法で裁かれるか否かのギリギリのラインにまで持っていくことでODAから生まれる巨額の裏金に集るゼネコンと開発コンサルタントを司法の手に委ね、そして資金源である国民の税金がそんな悪事によって搾取されていることを知らしめるための大きな芝居であったのだ。
結局法律の隙間を縫って黒谷七波と宮里一樹は自らの私腹は保ったままで、そこがまた憎らしいのだが。

しかしこの手の物語を読んで思うのは、最後に罰が下るとはいえ、彼らの蜜月は実に長く、その対価にしては釣り合いが取れないのではないか、と。確かに彼らの今後の行く末にはきつい道のりが待ち受けているだろうが、それでも彼らは誰もが羨む生活を送れたのだ。
実は得するのは悪の側なのではないか。真面目にやっている人間ほど馬鹿を見るのがこの世の中の構図ではないかと実に虚しさを感じてしまう。

ところで服部作品と云えば実在する社名が頻出することが特徴だが、題材が生々しいだけに本書では架空の社名で物語は進む。何しろゼネコンによる政治献金、裏金工作、架空請求など企業詐欺のオンパレードだからさすがに配慮は必要だろう。

しかし本書の一連のODAに纏わるゼネコンの贈賄と政治家との癒着の歴史を開発コンサルタントの女傑黒谷七波とゼネコンの裏資金調達人宮里一樹2人を軸に当時の世情を絡めて追って行けたのは同じ業界の一端に触れているわが身にとっても非常に勉強になった。海外のみならず日本でさえ、新幹線、東名高速や名神高速、黒部第四ダムなど日本のインフラの根幹をなす事業が海外諸国の国際援助によって建設されたことなど、恥ずかしながら本書で知った次第だ。

私自身一時期海外赴任をしていたが、この裏歴史を上っ面のみでしか知っていなかったあの頃は何とも初な人間だったことかと恥ずかしく思う。
発展途上国のインフラを整備し、豊かな生活を提供する一方で、巨額のブラックマネーを動かすゼネコン。この清濁併せ持つ業界に対してぶれない軸を持って接するために、本書は良き参考書となった。

しかしこのような歪んだ社会の構図はいくら暴かれ、断罪されようとも新たな汚職の構図が描かれ、同様の巨額のリベートが動くシステムが気付かれていくのだろう。
それは発展途上国を一見日本が食い物にしているように見えながら、その実欧米諸国に日本が食い物にされているのかもしれない。アジアの雄である日本、しかし欧米諸国はその悠久の歴史を持つゆえか、百年に跨って自国に有利に働く国際社会の絵を描くという。上には上がおり、そして民族や風習の違いから生まれる我々が想像だにしなかったカラクリが今後も、いや今そこに潜んでいるのかもしれない。
またも服部真澄氏は社会の暗闇にメスを入れてくれた。そしてまたもやその読後感は苦かった。


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天の方舟(上) (講談社文庫)
服部真澄天の方舟 についてのレビュー