■スポンサードリンク
Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数170件
閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
最近の島田作品には多い形式の200ページ前後の中篇を併せた中編集。本書には表題作と『傘を折る女』が収録されている。
表題作は、題名が指すUFO大通りはその名のとおり、夜な夜な行列を成しては現れるUFOと宇宙人の集団戦争話と、密室状態の中、白いシーツを体にぐるぐると巻き付け、オートバイ用のフルフェイスのヘルメットを被り、バイザーも閉め切った上にマフラーを首に巻き、両手にはゴム手袋を死んでいた男の謎についての話である。 う~ん、これは明かされる真相に論理の光明が差すとまでの驚きはないなぁ。逆に普通のことを大げさに比喩したことを謎にしただけという感慨が強い。 続く『傘を折る女』は御手洗が留学する直前の春、1993年頃の事件の話。 島田版『九マイルは遠すぎる』とでもいいたくなる作品。夜中に土砂降りの雨の中に必要不可欠な傘を故意に折る女性の奇妙な行動の話を御手洗が演繹的論理展開から殺人事件の発生を推理するというもの。 さらにラジオの深夜放送の奇妙な話から全てを見通したが如くの御手洗の推理は新たな事実の浮上により、再考を余儀なくされるのだ。 これには読んでいる私も思わず身を乗り出した。御手洗の神の如き推理が覆される趣向に新味を感じたからだ。同じ構成で単にソフトを変えただけの話を読まされるだけかと思っていたが、自作を発展させた次のステップが上乗せされている。 そしてまたもや御手洗の奇妙な推理に眩暈に似た当惑を覚えてしまった。もう読者はこの当惑を理解に変えるために次へ進まざるを得ない。 いやあ、もろに島田氏の術中に嵌ってしまった。 とはいえ、たった少しの事実で事件の背景に隠された雑多な事実をあれほど正確に見抜くのは御手洗の天才ぶりを感じるというよりも、作者が描いたプロットの代弁者になっているだけのように感じ、非常に人為的な物を感じてしまった。 御手洗潔物の短編には奇想がふんだんに盛り込まれているが、本書もとんでもない設定だ。 表題作ではUFOと宇宙人が現れた怪事と実に奇妙な服装と状況で密室状態の部屋で死んだ男の謎を扱っているし、『傘を折る女』ではその題名どおり、土砂降りの雨の中、わざわざ傘を車に轢かせて折る女性の奇妙な行動の謎がテーマだ。 そんな魅力的な謎をいかに論理的に解明するか。これが本格ミステリそして巨匠島田荘司作品を読む最たる悦楽だが、しかし昨今の作品では逆に御手洗の登場と共に色褪せてしまうように感じてしまう。 最近の御手洗物に顕著に見られる“全知全能の神”としての探偵というテーマを強く準えているため、快刀乱麻を断つがごとき活躍する御手洗の東奔西走振りを読者は手をこまねいてみているだけという印象が強くなってしまった。 謎が奇抜すぎて逆に読者が果たしてこの謎は論理的に解明されるのだろうかという心配が先に立ち、明かされた時のカタルシスよりも腰砕け感、これだけ風呂敷を広げといてこんな真相かという落胆を覚えることが多くなった。 また謎を過剰にするが故に、明かされた真相に現実味を感じないようになった。2作目では傘を折る動機はなかなか面白いにしても、その後の現場に別の女性の死体があった真相は話としては面白いが、果たしてここまで奇妙な偶然が重なるだろうか?と疑問を感じてしまう。 本格ミステリの醍醐味はどう考えても不可能な事象や不可解な状況が、至極当たり前の常識でもって腑に落ちていくところに謎が解かれる魅力やカタルシス、そして論理の美しさを感じることだ。しかし本書ならびにこの頃の島田氏の作品は強引にありえなさそうな現象や事実が積み重なって起きたという、作り事の色合いが濃くなってきているように感じ、こんなの思いつくのは島田氏だけだよ的な謎になっているのが残念。 確かに元々その傾向はあり、この作者しか書けないスケールの大きな謎が魅力でもあったのだが、本書などを読むと幻想的な謎を創出しなければいけないあまりに無理が生じてきているように思えてならない。 本書は島田が怒涛の連続出版を行った2006年の出版ラッシュの時の作品でこの頃に出版された一連の作品群は構成が似ている。 特に2編目の「傘を折る女」は御手洗が推理を開陳し、それを裏付ける加害者側のストーリーが展開する。これは『最後の一球』と同じ構成と見てよいだろう。 もっと遡るならば『ロシア幽霊軍艦事件』の構成と同じだ。そしてそれは本格推理小説の始祖アーサー・コナン・ドイルが創出したシャーロック・ホームズの長編と同じ構成でもあるのだ。 すなわち鮮やかな推理で真相と犯人が解明された後の、なぜ犯人は犯罪に至ったのかというサブストーリーを語る2部構成の作品といってよい。これは当時島田氏が提唱した物語性への回帰を実践するものだが、犯人側のストーリーにだんだん比重が置かれ、構成がアンバランスになってきている。 確かに第2部で語られる話は実に面白い。日本人の判官びいき気質を助長する社会的弱者、ボタンを掛け違えたためになぜか人生が上手く転がっていかない者たちの話は犯人を応援したくなる味を持っている。それら犯人側のストーリーに島田氏の社会的弱者への眼差しが強く盛り込まれ、社会の理不尽・不条理さに対する怒りのメッセージが色濃く投影されているが故にそのパートがどんどん長大化してきているのだ。 正直脱稿後読み返しているのかと疑うくらいのバランスの悪さを感じてしまう。 しかし島田氏も冤罪事件に関係することでわが国の裁判における証拠物件の内容や法医学の知識も増え、そして脳生理学への興味からその知識も得ているだけに、短編にそれらの知識を盛り込んでしまうため、昔なら50~100ページ弱で終わっていた短編が膨らみすぎて200ページくらいまで拡大してしまっている。 確かにこの辺の専門分野の話も面白いが、そのために話が無駄に長くなり、スピード感に欠けてきているように感じた。もっと謎に特化した往年の切れ味鋭い作品を期待する。特に昔の奇想溢れる長編が読みたい。 とはいえ、もう60過ぎだからなぁ。難しい注文かもしれないなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
最愛の人が政情不安定な異国の危険地帯で拉致されたら貴方はどうしますか?
本書の主人公ジャネット・ストーンはCIAや関連組織に連絡を取ってもなしのつぶてだったため、マスコミと政治家を味方につけ、世論を巻き起こし、さらに若き女性のみでありながら単身、現地へ乗り込むことを選択する。 そうした時に起こりうる利害関係者が取る対応について知るのにうってつけの小説と云えるだろう。CIAの慇懃無礼な対応や現地大使館、現地警察の圧力など非常にリアルに迫ってくるものがある。 過去に夫を肝臓癌で亡くし、そのときに何もしてやれなかった無力感がジャネットのレバノン行の原動力となっているのはわかるものの、非常に脇の甘い女性だなぁと終始思ってしまった。 レバノン渡航へのつてを得ようと、現地の詐欺師に簡単に騙され、一万ポンドのもの大金を簡単に渡してしまうわ、漁師たちの船に若い女性の身でありながら単身で乗り、強姦されそうになるわと、作中でキプロスの刑事がいうように「甘やかされた、金持ちの、愚かな女」で、「安っぽい小説の主人公のようにふるまっている」のだ。 この台詞は本書が安っぽい小説だと作者が自虐的に述べているようにも読み取れるがさすがにそれは穿った読み方か。 しかしハーレクインとして発表されてもおかしくないほど典型的なロマンスミステリではないか。フリーマントルが別名義で発表した作品かと思ったが、調べてみると違っていた。 ジャネットの年齢は明記されていないが、前夫との死別を経験していることから、おそらくは20代後半から30代前半と推測できる。つまりは分別のついた大人の女性であるはずなのだが、何かにつけ女性蔑視だと決め付け、それに対し激しく嫌悪し、激怒する。特に微妙な国際間の緊張を孕んでいるだけに無難かつ穏当に拉致事件を処理したい政府側に対して常に喚き、強引に関わろうとする。 さらに読み進めるにつれ、ジャネットはジョンの救出に力を貸すフリージャーナリストデイヴィッド・バクスターと恋に落ち、愛を重ねるようになるのだ。この辺、それまでのジャネットが経験してきた辛い仕打ちを考えれば、ようやく辿り着いた拠り所となるのだから判らないでもないが、救出するのが婚約者であることを考えると、どうにも共感できかねる背徳行為だと云わざるを得ない。 フリーマントルには『ディーケンの戦い』という誘拐された妻のために夫が奮闘するという小説があるのだが、本書の展開はその作品のやるせなさと救いのなさを思わせる。このような似た趣向の趣向の作品を2作も書いているフリーマントルは男女の真実の愛なんてものは存在しないとはなどと鼻であしらっているように思える。 以上のような性格だから、このジャネット・ストーンはなかなか読者の共感を覚えるキャラクターではなく、境遇は解るものの、物分りの悪い上昇志向の自意識過剰のヒステリックな女性としか見えず、応援しようと思えないのが本書の欠点だろう。 さて本書のタイトル『裏切り』。実に素っ気無い題名だが、この本には数々の裏切りが含まれている。 まず夫ジョンのジャネットに対する裏切り。職業が実はCIA工作員だったことを婚約者ジャネットに隠す。 まあ、これは裏切りと捉えるかは微妙なところだろう。文中にもあったがスパイは職業柄家族にも自らの職業については伏せておくようだから。 さらにジャネットの金を狙って次々と協力を装い、大金をせしめようとする詐欺師ども。これも裏切りだ。 そして最大の裏切りはジャネットのバクスターへの愛情だ。その他ストーリーが進むにつれてCIAのジャネットを利用した作戦やバクスターが実はモサドの工作員で自分達の捕虜を奪還する為にジャネットの愛情を利用して取引する作戦など、裏切りとも取れる物は数々ある。 しかしこういった諜報物にはこの手の二重三重のカバーストーリーは付き物だから、上のように書いていてもしっくりこない。通常諜報物にはFBI、CIA、KGBやSISなど情報を操作することに長けた人物達しか出てこないが、本書はそれらの人物に素人の女性が関わっているところが特徴なのだろう。 つまり一般人にとって彼らのやる情報戦やカバーストーリーは裏切り行為としか取れないのだ。 が、やはりタイトルの真の意味は最後にジョンが語る、自身を正気に繋ぎ止めておいたジャネットへの想いを読むと、ジャネットの浮気以外何ものでもないことは明白だ。 さて冒頭に書いた問いかけの答えとなりうる手法がここには書かれているが、マスコミ、政治家を利用するというのは実に普通だったなと思ったものだ。もう少し捻りが欲しかったが、一個人が同様の事態に陥ったときに取るべき行動の指南書としては参考になるだろうと思う。 しかしどうしてフリーマントルはこういう後味の悪い作品を書くのだろう?英国人はこういう苦いジョークが好きなのだろうか。不思議でならない。 |
||||
|
||||
|
|
||||
【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
|
||||
---|---|---|---|---|
実に摑みどころの無い事件である。
最初に心臓病で死んだ隠遁生活を送っていた老人に端を発した事件はその後、実業家の自殺へと続き、“町の乞食”もしくは“町の呑んだくれ”と称されていた男は行方不明になっているが、追いはぎに殺された可能性が高い。“町の泥棒”と呼ばれた男は揉み合ううちに銃の暴発により死亡する。そして“町の聖者”とも呼ばれる清貧の医者は交通事故で死んでしまう。 これら自殺を除けば、不運な事故の遭遇もしくは人命を全うしたとしか思えない連続する死亡事件。また雇われる先々で雇い主が奇妙な死を迎える“町の哲人”ハリイ・トイフェルの存在もオカルト風味をもたらしている。つまりこれら殺人事件とも思えない連続的な事故に対し、エラリイは誰かの作為が介在して意図的に起こされた殺人なのだと固執して事件の関連性を調査するというのが、本作の主眼なのだが、上に書いたようになんとも地味な内容なのだ。 そしてエラリイが周囲の反対を押し切って捜査を続ける理由が、“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒・・・”と歌われる童謡どおりに事件が起きている事実、それのみ。 人智を超えたところで作用する避けられない巨大な意図が今回のエラリイの敵、それがテーマなのだろうか? つまり偶発的に連続する死亡事故にも実は論理の槍を付きたてて事件性を見出すというのが作者クイーンが語りたかったことなのだろうか。 話は変わるが、本書はクイーン作品としては珍しく素っ気無い題名だ。これは事件に纏わる二という数字から来ている。 まずはエラリイが述べる「物事には二通りの見方がある」という台詞から端を発している。 その後、この二の符号は広がり、上に述べた童謡には二通りの文句が存在すること―“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒。お医者に弁護士、インディアンの酋長”と“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒。お医者に弁護士、商人のかしら”―、さらにその二つ目の文句には句点の入れ方で二通りの解釈が出来ること、などなど。 二が二を生み、どんどん拡散していく。その他にも二に纏わる符号は出てくるが、それは本書を読んで確認して欲しい。 今回、エラリイは明敏な探偵ではなく、迷える名探偵という位置づけだ。この作品の前の作品に当たる『九尾の猫』でもリアルタイムで起こる無差別殺人に手をこまねいていたエラリイだったが、本書でもそのスタンスは変わらない。 しかし後期作品のエラリイは事件に翻弄される役回りばかりだ。初期のエラリイは事件を高みから眺め、全てを見抜く、全知全能の神のごとく振舞う存在だったのがはるか昔のことのように感じる。 唯一の救いは今までの作品では真実を知ることで失う代価の多さから打ちひしがれる姿が多かったのが、本書では清々しく閉じられていることだ。 前作のエラリイの探偵廃業を決意するまでに絶望に落ち込んだ彼は一体何だったんだと叫びたいくらい、立ち直りが早い。まあ、これはよしとして次作がもっと面白いであろうことを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
エラリイ・クイーンが敬愛するドイルが生んだ稀代の名探偵シャーロック・ホームズの1944年当時世の中に流布していたパスティーシュ、パロディ小説の数々を集め、1冊に纏めたアンソロジー。巻頭言によれば本書が世界で初めてのホームズパロディ短編集だそうだ。
全部で4部構成となっており、第1部が探偵小説作家編で、ミステリ作家の手によるホームズのパロディ物。 第2部が著名文学者編でその名の通り、今なお文学史に名を残す偉大な作家達がなんとホームズのパロディを書いていたという物。 第3部がユーモア作家編、そして第4部が研究家その他編とかなりコアな内容になっている。 さてまず第1部探偵小説作家編。 1作目はロバート・バーの「ペグラムの怪事件」。ここで出てくるのはシャーロー・コームズに友人のホワトスン。ロンドンからペグラムに向かう列車で死体となって発見されたバリー・キプスン氏の事件の謎を解くというもの。 依頼人のジャーナリストの話から全てを看過してフィールドワークでその裏付けを取り、推理を強固なものにするといった趣向で、当時まだ本家の最初の短編集が出た翌年に発表された作品とされている。そのためストーリー展開、主人公シャーローの振る舞いや性格付けはかなりシャーロック・ホームズに近いものがある。 しかしせっかくの列車内での殺人事件という魅力的な謎を設定しながら、真相はなんとも腰砕け。 次はアルセーヌ・ルパンシリーズでお馴染みのモーリス・ルブランによる「遅かりしホルムロック・シアーズ」。本書ではホルムロック・シアーズになっているが、後に原典のシャーロック・ホームズに改名されている。 ティベルメスニル館のお宝をルパンが盗み出すというもので、この屋敷に招かれていた名探偵ホルムロック・シアーズが遅れて到着し、最初の邂逅を果たすというもの。ルブランの物語作家としての技巧については認めていたが、イギリス人のホルムロック・シアーズの騎士道精神とフランス人のルパンのエスプリとが対照的に語られているのが上手い。 続く「洗濯ひもの冒険」は探偵小説収集家のキャロリン・ウェルズによるもので、収集家らしく色んな作家の手で生み出された名探偵たちが名探偵協会に所属しており、会長であるホームズからの奇妙な謎について推理合戦を繰り広げるというもの。謎は裏庭を横断する形で窓から窓に張り渡された洗濯ひもになぜ美女がぶら下がっていたのかというもの。これはほとんどお遊びのような作品で、オチもかなり失笑を禁じえないものとなっている。 「稀覯本『ハムレット』」はドイルのホームズ譚のフォーマットに忠実に則った作品で、ドイルの未発表原稿と云われても納得してしまうほどよく出来た作品。 シェークスピア直筆の献辞と署名が入った『ハムレット』の初版本を借り出したシェークスピア収集家が賊に襲われて借用した稀覯本を盗まれてしまうという事件の真相をホームズが解明するというもの。ここに登場するホームズは依頼人の話を聞いて一発で真相を看過するあたりは万能型探偵の典型で、ちょっとホームズからは離れているような印象を受けるが、まあ許容範囲か。 ここからはビッグネームが相次ぐ。 黄金ミステリ時代の推理小説の大家アントニイ・バークリーの手による「ホームズと翔んでる女」も手遊びのような掌編。 プロポーズを受けた女性が一転して相手に婚約破棄された理不尽な行為を覆して欲しいと頼む女性の依頼を受けてホームズが意外な解決をするというもの。これはほとんど冗談のような物語。これってシャーロッキアンはどんな感想を持ったんだろう? アガサ・クリスティーによる「婦人失踪事件」は冒頭でシャーロック・ホームズの推理能力について触れられているものの、内容的には純然たるトミー&タペンスシリーズ物の1編になっている。 北極遠征から帰還した冒険家が婚約者に合わせてくれない隣人達の不審な行動の意図を解明し、婚約者に合わせて欲しいと依頼する話。真相はまあなんともほのぼのとした感じ。 今なお偉大なる書評家として名を残すアンソニイ・バウチャーによる「高名なペテン師の冒険」は隠居したホームズらしき老人が最近新聞で取沙汰されている自分の正体はドイツ軍からの高名な亡命者だと名乗るホルンという老人についての推理を開陳するという物。 これは実際にあった事件について題材が採られているのか寡聞にして知らないが、恐らくそうであろう。その推理にホームズらしき人物を設定したのがこの作品のミソだろうか。 また当時のイギリスミステリシーンを反映して、スコットランドヤードの警官にはホームズの時代とは違って、フレンチやウィルスンといった有能な刑事たちが揃っていると語らせるのは面白い。 そして編纂者のエラリイ・クイーン自身が著したのが「ジェイムズ・フィリモア氏の失踪」。原典であるホームズの短編「ソア橋」に少しだけ触れられている、“雨傘を取りに自宅に引き返したジェイムズ・フィリモア氏なる男がそれ以来二度と姿を現さなかった”という事件を扱ったもの。 クイーンが面白いところはその同姓同名の末裔がこのホームズ譚で触れられている事件と同じ事件を起こしたという趣向を採っているところだろう。なぜか叙述形式は戯曲形式。ラジオドラマで書き下ろされた作品だろうか? やっぱりこういう失踪物のアイデアはこの時代ですでに出尽くした感があるのか?後年クイーンとカーが語り合った結果、人間消失こそが最も魅力的な謎と結論づけ、それに触発されてカーが『青銅ランプの呪』を著したが、クイーンはこの魅力的な謎に対して本作では魅力的な真相を提供していないのが辛いところだ。 続く2編はいずれも10ページ前後と非常に短い掌編。「不思議な虫の冒険」はクイーン同様、「ソア橋」の作中に触れられていた不思議な虫の入ったマッチ箱を凝視して発狂したイザドラ・ペルサノの事件を扱っている。 しかしこれが単なる冗談話。医学的なものがまだ市民にまで知られていなかったからこそのオチだ。 次の「二人の共作者事件」はメタな内容。この作者サー・ジェイムズ・M・バリーがコナン・ドイルと共作したオペラ作品について、皮肉っているといった内容。 したがって依頼の内容もなぜ自分達のオペラに客が入らないのかを探るもので、しかもホームズはその2人に存在を握られているというメタミステリ(?)なのだ。この作品はドイル存命中に書かれたもので、この内容をドイルは当時大絶賛している。・・・それほどのものとは思えないが。 なお構成はこのバリーの作品から第2部になっている。 次はアメリカ文学の大家マーク・トウェインによる「大はずれ探偵小説」。これはある恥辱を元結婚相手から受けた女性が、わが子の、犬並みに人の匂いを嗅ぎ分ける能力を活かして、逃げた元夫を探させ、復讐をさせるという話に突如ホームズが絡むというもの。 正直これにホームズを登場させなくても良いかなというくらい、プロットが面白い。冒頭の言葉でクイーン自身も述べているが、マーク・トウェインはおふざけを目指しているのであり、純然たる探偵小説批判をしているわけではない。したがってこの作品でのホームズの推理は悉く覆される。 しかしその推理が反証されることを前提に書かれているから、逆にホームズらしい鮮やかな推理でないことに注目しなければならない。本書で最も長い70ページ強の作品だが、あまり成功しているとは思えない。 次のブレット・ハートの「盗まれた葉巻入れ」は探偵ヘムロック・ジョーンズの持ち物である葉巻入れが盗まれ、その犯人を推理するもの。 しかしこれがなんと本格推理ではなく、心理小説となっている。 そして第2部の最後を飾るのはなんとO・ヘンリー作の「シャムロック・ジョーンズの冒険」。これもシャムロック・ジョーンズの妄想としか思えない独断的偏見に満ちた推理が開陳されるもの。こうやって読むとアメリカ文学の権威たちは推理小説を下に見ており、揶揄はすれどまともに書く気になっていないような感じを受けた。 第3部はR・C・レーマンの「アンブロザ屋敷強盗事件」から始まる。ここに出てくる探偵ピックロック・ホールズもアメリカ文学の大家の作品同様、狂人的な妄想推理を常としているのが実に気にかかる。ただこちらはユーモア作家の手によるものだから、ユーモアであることは判るが。 続く2作はいずれもJ・K・バンクスなる作家の手によるもの。「未知の人、謎を解く」、「ホームズ氏、原作者問題を解決す」は共に黄泉の国でのシャーロック・ホームズ(後者はシャイロック・ホームズとなっている)の活躍を描いており、前者ではホームズの正体が最後の一撃になっているが、これは非常に解りやすい。 後者はシェイクスピアの戯曲を誰が書いたのかをホームズが解明するものであるが、この2作に共通するのはどれも凝ってて解りにくい点だ。あまり記憶に残らない作品だ。 「欠陥探偵」と「名探偵危機一髪」は共にスティーヴン・リーコックという作家の作品。 前者はブルボン王家の子孫と思われるプリンスの誘拐事件を扱っている。 後者もたった2ページの作品で1本の髪の毛から犯人を捜し出す物。これは逆にオチが効いていて、見事なショートショートになっている。 最後の第4部は研究家たちによる作品だが、その内容はホームズに敬意を表するどころか、その超人的推理をあげつらう作品が多い。 まずゼロ(アラン・ラムジイ)による「テーブルの脚事件」は資産家の婆さんに惚れられた男性の息子がどうにか父親が結婚せずにその財産を手に入れる方法を画策しようとしたのに、誤って父親がプロポーズしてしまった謎について名探偵シンロック・ボーンズに依頼するもの。もうこれも脱力物のオチで、まともに読む方が損をするような作品。 R・K・マンキトリックの「四百人の署名」はある夫人の寝室に賊が押し入りダイヤモンドが盗まれた事件がテーマだが、はっきりいってこれは何が面白いのかよく判らない作品。ホームズが犯人に至った推理を開陳するが、全く意味不明。英国人には解るんだろうけど、日本人向きではない。 オズワルド・クロフォードの「われらがスミス氏」はジョン・スミスなる謎の訪問者について名探偵バーロック・ホーンが正体を推理するもの。これもかなり揶揄しており、ホームズの推理とは妄想と紙一重だとこき下ろさんばかり。けっこうキツイギャグの作品。 「天井の足跡」というクレイトン・ロースンの作品を思わせるタイトルの作品はジュール・キャスティエの作品。 なんとシャーロック・ホームズがドイルのもう1人のシリーズキャラクター、チャレンジャー教授の失踪の謎を推理するという、ドイルファンの耳目を惹く作品だが、内容的には正直訳が解らない。推理になっているのかなっていないのかすらも意味不明だ。 「シャーロック・ホームズの破滅」は正体不明の作家A・E・Pなるものの作品。たった6ページのショートショートだが、出来は一番いい。 オーガスト・ダーレスの「廃墟の怪事件」とウィリアム・O・フラーの「メアリ女王の宝石」はホームズ作品の方程式に則ったような正統派作品。 どちらも依頼人が来るまでにワトスンを驚かす小さな推理が披露され、そして依頼人が来てからはその氏素性を難なく云い当ててしまう。依頼人が到着するタイミングまで推理するのも2作とも同じだ。 さてそんな正統派パスティーシュ作品は前者が最近事業家が買った屋敷の近くの廃墟に謎めいた明かりが灯り、またそれに伴って妻の様子が変だという謎の解明をホームズに依頼する。まあ、なんというかホームズの万能振りばかりが披露される読者には解けない類のミステリになっている。 後者は来英したアメリカ人が手に入れた云われのある宝石がホテル宿泊中に何者かに盗まれる事件をホームズに解明を依頼するもの。残された手がかりは犯人の衣類から引きちぎったボタンのみ。これも唐突なまでに犯人が絞られ、ホームズが傲岸不遜なまでに犯人に近づき、勝手に部屋に忍び込んで証拠品を探し当てるという、今なら噴飯物の作品。とはいえ、やはりこれは時代性か、ホームズならばこれらの犯罪行為が許せてしまうのだから不思議だ。 ヒュー・キングズミルの「キトマンズのルビー」はラッフルズとホームズの対決という長編のうち、最後の結末の2章の抜粋という形を取った、ちょっと変り種の作品。ラッフルズが盗み出したキトマンズのルビーを彼の相棒バニーの返還を条件に返却する一幕を、ホームズ、ラッフルズそれぞれの相棒が変に気を回したことで生じる誤算がテーマ。内容的にはよくある話か。 レイチェル・ファーガスンの「最後のかすり傷」は亡くなった父の財産の相続人である双子の弟からの、兄が戻ってきてから周囲で起こる怪異の謎についてホームズに助けを求めるという話だが、これはドイルが著した数々のホームズ譚のエッセンスが盛り込まれており、その演出をほめるべき作品だろう。有名な「まだらの紐」や「ブナ屋敷」などを髣髴させるエピソードが盛り込まれており、最後の一文までそれが行き届いている。 「編集者殺人事件」の著者フレデリック・ドア・スティールはなんとホームズ譚の挿画を描いていた画家で、内容も本人自らが殺人者となり、それをホームズが今までの作者の仕事に恩を感じて彼の冤罪を晴らすというメタフィクション物になっている。しかし内容はなんというか、作者の積年の編集者達への恨みつらみが爆発した内容になっており、結末も含めてあまり面白いものではない。 この作品をホームズ物というにはいささか疑問が残る。なぜならフレデリック・A・クマー&ベイジル・ミッチェルの「カンタベリー寺院の殺人」はシャーロック・ホームズの娘とされるシャーリー・ホームズとジョン・ワトスンの娘とされるジョーン・ワトスンのコンビが事件解決に当たるからだ。 物語は題名通り、カンタベリー寺院で出くわした一見自殺と思われる死体を巡る殺人事件の謎をシャーリーとジョーンのコンビが追うというもの。内容的にはミステリ短編として構成も巧みだが、いささかキャラクターに弱さを感じ、あまり印象に残らなかった。 医学博士までもがホームズ物を書くことに魅力を感じるらしい。ローガン・クレンデニングは医学書以外に「消えたご先祖」でそれを実現した。 ただ内容はたった2ページのショートショートだが、あの世に逝ったホームズが行方不明になったアダムとイヴの捜索に当たるというもので、医学博士らしいオチで短いながらも笑わせてくれる佳作になっている。 リチャード・マリットの「悪魔の陰謀」は全国でピアノのキーが無くなり、サーカスの象の盗難が増加したという怪事にはある秘密結社の陰謀が絡んでいるという内容の作品だが、いまいち掴み処の解らない作品で、特に最後のオチがよく解らない。 戯曲調で書かれたS・C・ロバーツの「クリスマス・イヴ」は無くなった真珠の行方を捜す話。ホームズの超人型探偵の側面のみが色濃く現れており、結末が唐突に訪れる感は否めない。 最後の作品、マンリイ・ウェイド・ウェルマンによる「不死の男」は隠居したホームズの許に訪れたドイツのスパイとの静かな戦いを描いた作品。これを最後に持ってきたところにクイーンのアンソロジストとしての技量を感じる。 ストーリー展開も読み応えがあり、また登場するホームズがすでに老境に入っておりながらも、題名どおり「不死の男」としてドイツのスパイのブラフを鮮やかに見破る件は、ホームズの偉大なる探偵像を思い浮かばせ、重厚感すら感じる。 冒頭にも触れたが本書は1944年当時に世に散在していたホームズに纏わるパロディ、パスティーシュを1冊に纏めたアンソロジーなのだが、それぞれの作品の冒頭にクイーンのコメントが付されており、それを読むと当時でもかなり希少価値の高い作品が集められているのが解る。 主にそれぞれの作家の短編集やアンソロジーからの収集が多いが、中には雑誌に一回こっきり掲載されてそのままになったものや、私家版で刷られた書物のみ現存する作品もあったりと、収集家クイーンの情報収集能力の高さが実感される、実に資料的価値の高いアンソロジーとなっていることが解る。 こういう仕事振りを見せられると、今日本でマニアックなまでに作品を発掘し、アンソロジーとして出版している某収集家兼書評家の魂はこのクイーンの仕事に影響されていることが解る。いやあミステリ収集の血は海を越えて極東の地日本で色濃く残り続けているのである。 しかしそんな偉業とも云える本書だが、収集された作品の内容の出来はそれほどいいものではなく、寧ろ傑作と呼べる作品はなかったというのが率直な感想だ。 クリスティやバークリー、そして編者のクイーン自身の作品もあるが、あまり出来はよくはなく、寧ろ肩の力を抜いて気楽に書き流している感がある。高名な大家、マーク・トウェイン、O・ヘンリーによる作品はなんだかホームズの人気を妬んでいる節も無きにしも非ず。 特に総じて感じるのは、ホームズのパロディの色が濃く、この偉大なる探偵の高名を利用して戯画化している作品が多いことだ。これは世界一有名な探偵ホームズとその作者ドイルへの親しみと敬意の表れと見えるものの、中には悪意すら感じさせるものもあった。 したがってこの4部構成で計33編にも渡るアンソロジーは歴史に埋もれそうになりつつあったホームズのパスティーシュを残すための文学的功績以外、その価値はないだろう。特に文学史にも名を残す大家マーク・トウェインやO・ヘンリーらがホームズ物を書いていたというのは今に至るに知らなかったし、それを知るだけでも価値はあるだろう。 私はホームズに特別な愛情を感じていないから、作品に対する評価は非常にフラットなのだと思っているが、本書をシャーロッキアンが読めば、どのような感想を抱くのか、興味深いところだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
「大富豪殺人事件」と「ペントハウスの謎」の2つの中篇からなる中編集。
まず1編目の表題作は株式仲買人として莫大な富を築き上げたピーター・ジョーダンからエラリイの許へ看護婦の手配を要請する手紙が送られてくるところから始まる。 80ページ足らずの短編とも云うべき作品。大富豪の被害妄想が現実になって殺人事件に発展するという趣向を取ったのだろうが、非常にオーソドックスな内容になっている。大富豪の屋敷の中だけで繰り広げられるという非常に限定された舞台設定であるため、あまり動きがない。 まただからといって閉鎖空間ならではの濃密な人間関係が描かれるわけでもない。本当に小編というべき作品だ。辛辣になるが単純に法律の知識を活かした作者の自己満足に終わっていると云えない訳もない。 続く「ペントハウスの謎」は一度創元推理文庫の『エラリー・クイーンの事件簿Ⅰ』で読んでいたため再読。しかし内容はすっかり忘れていたのだが。 本来この作品は買う予定ではなかった。というのも創元推理文庫の『エラリー・クイーンの事件簿Ⅱ』に表題作は収録されており、それを買えば補完できたからだ。 しかし肝心のその本は長らく絶版状態。じっと待ってても良いが、世のミステリファンの話からこれら短編に出てくるニッキー・ポーターはクイーンシリーズで出てくるそれとは別物のような設定であるから、二度と『~事件簿Ⅱ』は再販する可能性が低いことを知ってしまったからだった。 とにかく今手に入れられる本を買うべきと思って購入したが、内容的には薄味だった。『大富豪殺人事件』がクイーンファンにとってマスト・バイであるとは正直お勧めできない。 とはいえ、ここはこの作品を絶版にせずに今なお目録にその名を留め、書店の棚に収めている早川書房の志を敢えて褒めるべきだろう。 だから早川さん、早く『フォックス家の殺人』とか『最後の一撃』とか『心地よく秘密めいた場所』とか『第八の日』といったクイーン絶版本を復刊して下さいね。頼みます。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
建築探偵桜井京介シリーズ第2作。前作がスペイン風建築で今回のモチーフはインド。しかしタージ・マハルに代表されるような豪奢な宮殿ではなく、町中にある小さな宿のような建物。
本格ミステリとはその現実離れした特異性ゆえ、いかに物語世界に読者を引き込み、その中でのリアルをいかに感じさせるかが鍵である。 したがって中途半端なことをやるよりもやるならばとことん別の世界の話とまで思わせる、もしくは隔絶された過疎地域のような地域の特殊性が出るような場を提供する方がいい。 さて今回の惨劇の舞台となる恒河館は、本格ミステリで云うところの“嵐の山荘”である。つまり作者は今まで決して本格ミステリ然とした舞台設定を好まなかったが、今回はあえてそれに挑戦している。 しかしなんとも読みにくさを感じる小説だ。特に場面が思い浮かばない。添付された舞台となる恒河館の見取り図と作内で騙られる場面が結びつかないのだ。 見取り図にはない部屋の室名で場面が語られるため、非常にシンプルな構造をしているにもかかわらず、いやそれがゆえにそれぞれの人物がどの部屋にいるのか、どの部屋を指しているのかが解りにくい。 また加えてホテルとして開業するにはこの恒河館という屋敷の部屋数が少なすぎるのもまた気になった。たった2階建てで客室が3部屋しかない構成はまるでドラクエの宿屋のようだ。どうやって経営を成り立たせるのか。このまるで現実味を覚えない設定が物語世界にのめり込むのを阻んでいた。 そういった意味ではせっかくの舞台設定が生きていないと云わざるを得ないだろう。 また物語のテーマが今回はインド神によるところが大きいのも逆にこちらの興味を殺ぐ結果となった。過去の死亡事件に関わった人々にそれぞれインド神を擬えるというのはなんとも漫画的で愕然としたものだ。ミステリアスな死者の言葉がなんとも陳腐なものとして響いてしまった。 恐らく作者自身も自覚的だったのだろう、作中登場人物の間でミステリ談義が交わされるが、そこで持ち上げられるのは中井英夫氏の『虚無への供物』。つまり日本の三大ミステリの1つであり、アンチミステリの代表作だ。あらかじめ今回は観念的な宿命論を持って来ますよということを投げかけていたのだが、その設定にはちょっと違うだろうと思わされてしまった。 こんな絵空事な宿命よりも運命の皮肉という物語の妙で勝負して欲しい。そういう意味では前作の方がよかった。 この作家に期待するのは自分の好きなものを垂れ流し的に書くのではなく、もう少し読者の目を意識した作品を著す事だ。 デビューから一貫して他の新本格ミステリ作家とは一線を画した作風で勝負をしていることは賞賛に値するが、そのマニアックな内容はあまりに排他的で、「好みが合う人だけ付いてきな」とでも云わんばかりの傲慢さを感じる。 桜井京介、蒼、そして今回出演の機会がなかった栗山深春といったレギュラーメンバーの面々は正直嫌いではない。本格推理小説でありながら推理の対象は建物に秘められた謎が主であり、殺人事件はあくまで副次的という主題性も他の本格ミステリ物と一線を画す特徴があって好ましい。 後は物語のパンチ力か。ページを繰る手を休ませないリーダビリティと心に残る物語を期待したい。 |
||||
|
||||
|
|
||||
【ネタバレかも!?】
(7件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
|
||||
---|---|---|---|---|
|
||||
|
|
||||
【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
|
||||
---|---|---|---|---|
クーンツの犬好きは非常に有名だが、とうとう犬をテーマに小説を著したのが本書。
犬を前面に押し出した作品では既に『ウォッチャーズ』という大傑作があるが、本書ではもっと犬と人間との関わり合いについて書かれている。何しろ主人公はエイミー・レッドウィングといい、<ゴールデン・ハート>というドッグ・レスキューを経営しているのだ。 このドッグ・レスキューとは、その名のとおり、ペット虐待が日常化している家庭などで育てられている犬を買い取ったり、繁殖犬として劣悪な環境で育てられ、生殖機能を酷使され、人間の愛情すら受け付けられなくなった犬を保護したりする職業だ。このような仕事が実在するのか、はたまた犬好きのクーンツの生み出した願望の産物なのか、寡聞にして知らないが、とにかく犬に対する愛情なくては出来ない仕事である。 そして今回の目玉はニッキーという名のゴールデン・レトリーバーの存在。逢うもの全てが魅了され、どこか普通とは違う特別な犬だと悟らされる犬だ。 またも例に出して悪いが、『ウォッチャーズ』のアインシュタインを彷彿させる犬キャラだ。そういえばアインシュタインも同じ犬種ではなかったっけ? そして昨今のクーンツ作品に顕著に見られる裏テーマが幼児虐待だ。『ドラゴン・ティアーズ』で“狂気の90年代”を謳ってから、彼は一貫してこの虐待を扱っているように思う。 今回は幼児のみならず、犬に対する虐待を大きく取り上げ、声高らかに反論する。今回も“仔豚(ピギー)”と呼ばれる母親から虐待を受ける少女が現れる。彼女はダウン症で、母親は娘のせいで幸せが摑めないのだと逆恨みをぶつけて虐待を重ねるのだ。 そんな物語は実に緩慢に流れる。ドッグ・レスキューのエイミーとその恋人ブライアン、そして何か人智を超えた力を感じるゴールデン・レトリーバーのニッキーの話を軸に、ハローとムーンガールという不気味なカップル、そしてエイミーの過去を探る探偵の話が交互に語られる。そしてそれらはやがて一点に収束する。 しかし最近のクーンツ作品にありがちなエピソードを幾層にも積み重ねる語り口からはどうも最初にこのプロットありきとは感じられず、筆の赴くままに物語を書いていった結果、こうなったという印象が強い。 特にそれが顕著に感じられるのは、謎めいた存在を醸し出すゴールデン・レトリーバーのニッキーの謎が最後まで明かされないところ。 しかし本書の冒頭の献辞には、恐らくクーンツ自身が飼っていたであろうガーダ(解説の香山二三郎氏は瀬名氏による『オッド・トーマスの受難』を引用し、トリクシーが犬の名であるとしている)という名の犬―しかもゴールデン・レトリーバーのようだ―への感謝の気持ちが綴られており、どうやらその犬も既にあの世へと行ってしまったようだ。 そして虐待された少女ピギーことホープがニッキーのことを“永遠に光り輝くもの”と呼ぶことからも、これはガーダへ捧げる物語だったのだろう。エイミーが犬と暮した日々の追憶は作者のそれが重なっているに違いない。彼にとってガーダはニッキーであり、だからこそニッキーの謎については触れなかったのかもしれない。 犬を飼っている人にはこの気持ちが解るだろう、そう、クーンツは云っているようにも取れる。 本書の題名は原題をそのまま訳したものである。この「一年でいちばん暗い夕暮れ」とは実は登場人物たちが抱える闇を指しているのではなく、クーンツが経験したガーダを喪ったその日の夕暮れを指しているのではないか。 消化不良感がどうしても残る作品だが、愛犬を亡くしたクーンツを思うと、これは彼が哀しみを乗越えるのに書かねばならなかった作品だと好意的に解釈すれば、それもまた許せるというものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
|
||||
---|---|---|---|---|
前作『災厄の町』から始まった第3期クイーンシリーズだが、この2作に共通しているのは事件が起こる前にクイーンが渦中の家族の中に潜り込み、その過程に隠された秘密を探っていくという趣向にある。これは調査を進めるうちに家庭内にどんどん入り込むチャンドラーのマーロウやロスマクのアーチャーなど私立探偵小説に通ずる展開がある。
もっと下世話に云えばドラマ『家政婦は見た!』のようなワイドショー的な立入り捜査となるだろうか。 今回は6人の息子を持つ靴屋チェーン店をアメリカに展開する老婆の家で起こる殺人事件を扱っている。その6人の息子というのが前夫の間に生まれた3人が気違いであり、現在の夫の間に生まれた3人が優秀でそのうち双子の兄弟は実質的に会社を切り盛りしているといった具合。 そしてこの靴屋の老婆と6人の子供という状況がマザーグースの歌に出てくるのだ。そしてその歌の歌詞を具現化するかのように事件が起きる。 マザー・グースの歌に擬えた殺人事件。この童謡殺人というテーマは古今東西の作家によっていくつもの作品が書かれているが、クイーンも例外でなかった。 しかしクリスティの『そして誰もいなくなった』然り、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』然りと、他の作家たちのこのマザー・グースを扱った童謡殺人の作品が傑作で有名なのに対して、本書はクイーン作品の中ではさほど有名ではない。 読了した今、それも仕方がないかなという感想だ。 今回の事件というのは、空砲での決闘になるはずだったサーロウとロバートの異父兄弟が実弾が放たれたがためにロバートが死に、そしてまたその双子の弟マクリンも決闘する段になってその前夜、何者かに撃たれて死んでしまうという物。 さらにポッツ一族の長であるコーネリアが死の間際に遺した告発状に自身がそれをやったのかと残されていたが、その告発状は偽物である事が発覚する。 空砲にすり替えたはずの銃弾を誰が実弾にすり替えたのか? そしてマクリンはマザーグースの歌に擬えるが如く、死んだのか? さらにコーネリアの告発状を偽造したのは誰か? これらが謎の焦点になっているのだが、事件としては小粒でいささか牽引力が弱い。 最後の蛇足交じりの重箱の隅を。 ロバートが決闘にて射殺される事件が起きるにいたり、ポッツ製靴会社の社主コーネリアはスキャンダルによる株価下落を予想して自身の所有する株を売りに出すことを命じるが、これは明らかにインサイダー取引だ。 まあ、恐らく本書が刊行された1940年代にはそういったモラルが確立されていなかったのだろうから、インサイダー取引に関する法律も整備されていなかったのだろう。当時の常識を知る意味でもなかなか興味深い一幕だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
今やバカミスの第一人者として名高い霞流一氏。
彼は動物を作品のモチーフにしているのが特徴だが、本書はその題名が示すように全編に馬に纏わるものが散りばめられている。 まず物語の舞台となるのが岡山県の羅馬田町。勿論これは架空の町である。 そこに纏わる平家の落ち武者伝説に端を発した馬の頭をした馬頭観音に、一瞬にして馬を巻き上げ、落命させる堤場風の伝説から派生したダイバ神。さらに第2の死体はユニコーン像によって撲殺されている、などなど。 そしてそんなガジェットに包まれた事件は死体の周囲に足跡のない不可能犯罪、密室殺人に、袋小路で消え失せた犯人と、本格ミステリの王道を行くものばかり。 それらは実に明確に解き明かされる。その真相は島田氏の豪腕ぶりを彷彿させるような離れ技が多い。 しかし霞氏のコメディに徹した文体が不可能犯罪の謎を薄味に変えているように感じてしまった。 本格ミステリの不可能趣味とはその謎が不可解であればあるほど、魅力的に読者の目には映るわけだが、霞氏の軽い文体はその不可能趣味を茶化しているように感じて、謎の求心力を薄めてしまっているように思えてならない。 従って、私に限って云えば、いつもならば謎解きを考えながら読むのに、今回は物語が流れるままにしてしまった。謎解きを主題とした本格ミステリのフックを感じなかったのだ。 また読者の心に残す物語の主要素の1つ、キャラクターだが、これも設定がマンガ的に留まっており、個性的であるものの、読者の共感や憧れを抱くような血が通った者は皆無である。これは探偵役天倉とそのパートナーで語り手を務める魚間もそうで、非常に記号化された駒のような扱いである。 そのため、最後天倉が謎解きを魚間の前で開陳した後の事件関係者の成行きは後日端的エピソードの域を出ず、そこに関係者の台詞は全く挟まれていない。従っていわゆる一昔前のノベルス版で数多書かれたような本格ミステリという風に私は感じた。 しかし改めて振り返ると本書に挙げられた謎とその真相はなかなか面白いものである。 本書は1999年の書でようやく世間にバカミスなるジャンルを声高にアピールした頃に書かれたものだ。その時期に敢えて馬鹿の字の「馬」を選び、作中人物に事件の状況を指して「バカミステリー」と云わせているところが霞氏の歩む道を謳っているようで興味深い。 初めて彼の作品を読んだ印象としては、彼の言葉遊びの要素、コメディタッチのストーリー運びと戯画化されすぎたキャラクターが逆に損をしていると感じた。 しかし昨今の作者の評判は年々高くなっている。ここはしばらく彼の作品を追ってその真価を確認していこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
本書の紹介には「殺された被害者には一角獣の角で刺されたとしか思えない不思議な傷痕があった」と強調されており、それが題名と相俟って、伝説の獣による殺人というカー得意のオカルト趣味が横溢する作品だと思ったら、これがとんでもない間違いでなんと怪盗物だ。
パリを賑わせている神出鬼没の怪盗フラマンドを捕まえるべく、「島の城」に集まった面々。その最中に上に書いたような傷痕を残した奇妙な死体が衆人環視の中、起こるという物。確かに事件は不可能趣味溢れているが、これがメインというよりも変装の名人フラマンドは果たして誰なのか、そしてフラマンドの宿敵であるパリ警視庁警部ガスケも変装の名人で、それは誰なのかと怪盗探し、犯人探しに加え、探偵探しまで盛り込んだ内容になる。 ところでフランスが舞台となると、やはり怪盗が付き物なのか、本作では神出鬼没のフラマンドなる怪盗が登場する。勿論これはモーリス・ルブランの『怪盗ルパン』による影響が30年代当時、かなり強かったのではないだろうか―というよりもルパンシリーズは世紀を超えてなお世代を問わずに親しまれているのだが―。 その証拠に「島の城」城主のダンドリューが各人の枕元に一夜の友として置いている書物の中に当のルブランの『怪盗紳士アルセーヌ・ルパン』が添えられているのだから、カーも堂々と意識していると謳っているのだ。 しかしそんな趣向満載の設定ながら登場人物が多すぎるのと、犯人・怪盗・探偵探しそれぞれがごちゃまぜになって、整理がつかずに物語が流れ、唐突に終わったような感じがしてしまった。特に最後HM卿の口から延々と開陳される事件のあらましはなんとも複雑であり、ちょっと造りすぎではないかと思われる。 しかしケン・ブレイクが出るシリーズはなぜこうもドタバタになるのだろう。 本書はシリーズ初期の作品であるが、この頃カーはケン・ブレイクを情報員であることを利用して、物語を複雑化する不幸な男としてミステリの味付けにしようと思っていたのだろう。 今回思ったのはやはり作品紹介というのは読み手の先入観を否が応にも刷り込んでしまうことだ。上にも述べたが、紹介は一角獣という実在しない怪物をモチーフにした事を前面に押し出し、一見カーの最たる特徴であるオカルト趣味を纏ったものだと思わせるが、蓋を開けてみればフランスを賑わす怪盗を捕らえる事が主眼の、HM卿の国際犯罪に携わる情報部の長という諜報活動の一面が色濃く反映された作品である。 確かに原題も“The Unicorn Murders”と一角獣と名を冠しているが、やはりこの紹介は間違いだろう。例えるならば、パッケージツアーで伊勢海老料理をメインに謳っておきながらその実、伊勢海老は添え物程度で鍋料理がメインだったような感じと云えば解るだろうか。 読者の作品評価に直結するので各出版社はもっと紹介文に配慮して欲しい。 まあ、感想を云えば、出来は残念といいたいところだが、文中、本格ミステリの謎に対する推理についてHM卿がなかなかに含蓄溢れる言葉を述べているのでそれを抜き出して終わりとしよう。 「人間が仮説をひねくり回しておるのは、その人物が推理しているというわけでは決してない。その人物だったらどうやるか、という事を披瀝しておるだけなのだ。しかし、そこから、その人物の性格がよく掴めるからな。」 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
本作は3部で構成されているが、それぞれ別の事件が起き、一応解決し、完結している。そしてそれら3つの事件を貫くのは“運命の女(ファム・ファタール)”ともいうべきゲイブリエル・レゲットだ。
そしてさらにこれら3つの事件の真相はかなり複雑だ。 まず事の起こりである第一部ダイアモンド盗難事件。 これだけでほとんど短編1本分の分量がある。 そこからまた第2部は宗教団体の神殿に住み込んだゲイブリエルの不可解な行動と彼女の周囲に続発する怪事について語られる。 そして第3部ではゲイブリエルに夫となったエリック・コリントン殺害の容疑が掛かる。 このゲイブリエルという女を中心に実に9人が殺される。正に死の連鎖であり、彼女こそ死の女神で、タイトル通りデイン家という血に呪われているとしか思えない不可解な事柄が起きる。 つまり本書はハードボイルドの意匠を借りたホラーであり、それに合理的な説明が付けられる本格ミステリでもあるのだ。 いや“運命の女(ファム・ファタール)”という観点から云えば、これはウールリッチのようなサスペンスの色合いが強いのかもしれない。 しかしウールリッチと違い、ハメットはこのゲイブリエルという女をさほど印象的に描かない。探偵の私の視点で紡がれるこの物語において、私は常に依頼された仕事をやり遂げるためにゲイブリエルに連れ添っているだけだからだ。周囲の人間が次々と死んでいく境遇に家系の呪いを感じる女性ゲイブリエルは薬物依存の弱い女としか描かれない。 このような作品を読むと、やはり作品の好き嫌いは登場人物に共感もしくは好感を持てるかが大きいのだというのが解る。 そういった意味で云えばハメットはあまりにドライすぎる。単純に仕事として関わっている私よりもやはり自分が納得したいがために仕事を超えて動くマーロウやアーチャーの方が私は好みである。 やはり私にはハメットは合わないのかもしれない。 そして各部で一応の解決を見た事件は最後の最後に意外な黒幕が暴かれ、また別の一面が曝されることになる。 また各部で明かされた真相が最後の最後でまた別の様相を呈すという趣向は現代の本格ミステリにも通ずる複雑な技巧である。 繰り返しになるが、本書はハードボイルドとして読むのではなく、呪われた家系をモチーフにした本格ミステリとして読むのが正しいだろう。 さらに本書が書かれたのは1929年と、まだクイーンが活躍する本格ミステリ盛況の頃。そして後年クイーンもこの示唆殺人を自作で扱っており、またクイーンはハメットらハードボイルド作家をライバル視していたので、この作品に何らかの影響は受けていたのではないだろうか。 しかし重ね重ね云うが事件の構造は複雑である。一読だけでは十分に理解できたとは云えないだろう。 なぜならば関係者がそれぞれ自身が犯罪者だと告白し、それぞれのストーリーを組み立てるのだから、真相が幾重にも折り重なり、何がなんだか解らなくなってくる。そういう意味ではコリン・デクスターの作風にも一脈通じる物があるのかもしれない。 作品としての出来は個人的にはあまり好みではないが、ミステリ史における本書の位置付けを考えると非常に意義深いものがあると読後の今、このように振り返ると思えてくる。 ただ歴史的価値のみで本書を勧められるかといえば、ちょっと頭を抱えてしまうのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
本書は篠田真由美氏のデビュー作。鮎川哲也賞の最終選考まで残り、受賞は逃したがその後改稿の上に刊行された作品だ。
異色なのは18世紀の東ヨーロッパという日本ではなく異国、しかも現代ではなく中世を舞台にしている点だろう。 この頃の価値観は現在とは全く違い、疑わしき者を公然と犯人に仕立て上げ、処刑する事が罷り通っていた時代である。それはカーの『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』でも理不尽な裁判の様子が詳細に描かれており、冤罪などは当たり前だった。 そういう風潮ゆえに成し得うる、このシチュエーション。つまり身元不明の部外者を犯人に仕立て上げ、その無実を晴らすために探偵役を買って出る事になる状況はなかなかに斬新である。 またデビュー作の本書では既に稀代の吸血夫人エリザベート・バートリが既に物語を飾るガジェットとして使われている。 先に読んだ『ドラキュラ公』では吸血鬼ドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュの伝記的歴史小説を著していることからも、作者が中世の、特に東ヨーロッパに伝わる忌まわしき負の歴史に大いに興味を示しているのが解る。ロンドン、フランス、イタリア、ドイツ、スペインといった一般的に知られている国々ではなく、ほとんどの日本人がその歴史に疎い東ヨーロッパにスポットを当てているのがこの作者の特徴だろうか。 その頃多く刊行された本格ミステリの例に洩れず、本書でも1つだけでなく、連続殺人事件が発生する。 先に述べた吸血夫人バートリ・エルジェベトから引き継がれたという呪われし深紅の琥珀の首飾り、夜な夜な館の周囲を徘徊する亡き前妻の亡霊、消失した伯爵の死体と、甲冑を着た伯爵に襲われ、瀕死の重傷を負う侍従などなど、幻想味溢れる謎の応酬に作中に散りばめられた奇行と伝説めいた逸話が最後に謎の因子の1つ1つとなって表層からは見えなかった真のブリーセンエック伯爵家の姿、犯人解明、そしてさらに真犯人の解明、更に本書でしきりにその存在を謳われた琥珀の存在意義が溶け合って明らかに真相と、本格ミステリのコードに実に忠実に則った作品である。 しかし何故かそれらは上滑りで物語は流れていくように感じた。 中世、しかも東ヨーロッパという馴染みのない時代及び世界ゆえなのかと思ったが、坂東眞砂子氏の中世のヨーロッパを舞台にした『旅涯ての地』という上下巻800ページを超える作品に没頭し楽しめたのだから、そこに原因はない。やはり両者の作品と決定的に違うのは「物語の力」だろう。 デビュー作と坂東氏の傑作の1つを比べるというのはいささか酷ではあるが、人の心に物語を浸透させるフックのような物を感じなかった。ベルンシュタインブルクという古の塔を囲んだように造られた古城という魅力的な舞台を設定しながらもその魅力が刻まれるような勢いを感じなかった。 更に忌まわしき言い伝えをもつ琥珀の首飾り、そして今では静電気で知られる当時未知の力であったエレクトリシタスなど、知的興味に尽きる題材には事欠かない。しかし読了後感じたのは、そこに城があり、湖があり、庭園があり、別邸があり、それらの舞台を使って事件を起こしてみました、それだけだ。忌まわしき逸話もステレオタイプでどこかで聞いたような話でしかない。没入する魔力に欠けているのだ。 そう、何となく一昔前の低迷期の少女マンガを読んでいるよう、そこまで云うと酷だろうか。 しかし、本書ならびに『ドラキュラ公』で見せた中世の東ヨーロッパという他の作家の例を見ない舞台を活用して物語を紡ぐのはこの作者の長所である。この知識を活かして、もっと行間から匂い立つような物語の世界に酔わせてくれることを願う。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ハリウッドシリーズ第3弾の本作は『ハートの4』でも精力的に導入されていた恋愛が事件に大いに絡んでいる。
従ってまずは事件ありきでその後探偵による捜査が続く本格ミステリの趣向とは違い、2人の遺産相続人の一方に起こる殺人未遂事件の数々が同時進行的に語られ、物語の設定はサスペンスになっている。 今回の主役はエラリーよりもその代役として活躍するボー・ランメルだろう。弁護士の資格を有する知性を持ちながら、ロンドンきっての伊達男ボー・ブランメルと名がそっくりだということでからかわれ続け、その都度腕っぷしに物を云わせて相手を黙らせ、職を転々とした無頼漢だ。 その彼がエラリーと組んで探偵事務所を設立する、『静』のエラリーに対し、『動』のボーという名コンビが生まれた。 また久方ぶりにクイーン警部とヴェリー部長が登場する。『悪魔の報酬』が未読なのでそこで登場しているかは解らないがもしそうでないとすると、『ニッポン樫鳥の謎』以来の登場だ。 そして本書にしてようやくクイーンは事件現場に対する常識的な配慮をしている。手袋をして現場検証に臨む事だ。しかしそれでも犯人の存在を証明する証拠を秘匿しようとしたり、犯行現場に自身の煙草の吸殻を置いたままにしたり―理由が吸殻だけではクイーンが現場にいた事は判らないというが、唾液の付いたフィルターが残っていたら判るんですけど―とまだまだ常識外れなところがあるのだが。 こういうシーンを読むと、探偵が警察と犬猿の仲になったのかが解るという物だ。 勝手に現場に入り込んで、傍若無人にやたらめったら触りまくり、あまつさえ有力な証拠を隠そうとする。現状保存を第一とする警察の捜査とは全く相反する行動であり、迷惑極まりない事この上ないだろう。これ以来、日本の本格ミステリでも探偵が同様の行為を現在に至ってなお行っているのはもしかしたらこのクイーンの影響が大きいからではないだろうか? 本作の奇妙な題名『ドラゴンの歯』とはギリシャ神話に出てくるカドマスという青年が蒔いたドラゴンの歯に起因している。恐らくこのドラゴンの歯とは災いの種という意味だろう。それは遺言状を作るときにデ・カーロスを大いにからかったカドマスの所業に起因し、これが基で今回の事件が起こったということになっているが、どうもしっくりこない。 やはり全体的にバランスの悪い作品だと云わざるを得ないだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
田中氏によるジュヴナイル小説のような読み物。14世紀のドイツならびにバルト海を舞台にした復讐譚。
ときおり挿入される当時のヨーロッパの情勢と風習が薀蓄のスパイスとしてまぶしてあるのはこの作者ならではといったところか。 ただ復讐譚と書いて想像するのは、不当に虐げられた人物が、その怨みを晴らすために情念を募らせるため、感情的な物語を想像してしまいがちになるが、本書においては史実に基づいて著しているせいか『銀河英雄伝説』、『アルスラーン戦記』、『創竜伝』といった、田中氏を代表する一連のシリーズに比べると、その筆致はかなり抑制された物となっている。作者特有の皮肉を混ぜた饒舌さも成りを潜め、淡々とした物語運びだ。だから読後感も非常にあっさりとしている。 そして題名ならびに若き船長という主人公の設定から、私は田中氏初の海洋冒険小説もしくは帆船小説なのかと想像したが、さにあらず、上にも書いたがやはり14世紀のドイツを描いた歴史小説となっている。 あとがきによれば小学生の頃に百科事典で出合った「ハンザ同盟」という言葉がこの物語を書く動機になっているとのことだ。 博学な田中氏のこと、物語に散りばめられた当時の風習や生活様式など、細かな知識、情報は我々が学校の歴史の授業では教わらない事が多く、また断片的に教わった情報を上手く物語に反映する事で、作中人物らの生活が非常にリアルに伝わってくる。 作中人物の中でとりわけ印象に残るのは漂着した主人公を助けるホゲ婆さんなる人物。この女性、数百年生きた魔女などとも呼ばれており、世界各地の豪商、貴族、騎士らがなんらかの形で助けられ、助成を受けた人物それぞれがその正体を憶測し、そのどれもが違っていながらもさもありなんと思わせる謎めいた女性である。 誰でも抵抗なく、すっと読み終わってしまう作品だが、それが故に残る物もあまりない。恐らく1ヵ月後にはどんなストーリーだったかも忘れてしまうのではないか。 小さく纏まったがために、物足りなさが残る作品であるのは残念である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
非国名シリーズ第1作(?)。
前作『スペイン岬の秘密』で完結した国名シリーズから脱却した作品だが、本書のまえがきで作者自身が述懐しているように、本書はつけようと思えば『スウェーデン燐寸の謎』とつける事も出来たという。確かに本作ではマッチが重要なキーとなり、謎解きに大いに寄与するから、それでも良かったのだが、作者としてはやはり前作で区切りを付けたのだろう。 片や美しい妻を持ちつつも行商人として安物の品々を売る生活、一方で名家の婿になりながらも、相手は年増の性格のきつい女性という二重生活を送っていた被害者。しかしこういった設定にありがちな、周囲の人間関係を探る事で浮かび上がるこの被害者像は不思議な事に立ち昇らなく、犯人捜しに終始しているのが実にクイーンらしい。 そして今回では容疑者は早々に逮捕され、クイーン作品では初めてとなる法廷劇へとなだれ込む。 今までクイーンの作品では現場に残された指紋、血液、唾液といった証拠の類いが一切無視され、遺留品の数々と被害者の奇妙な姿などを基にロジックを組み立てて犯人を究明する趣向が繰り返されていたため、この法廷劇というスタイルは全く合わないだろうと思っていたが、指紋に対する調査結果を基にした証人喚問も成され、一応体裁は整っている。 つまり本作ではロジックゲームの場を現場から法廷へ移したのがクイーンの狙いだと云えるだろう(それでもエラリーは手袋もせず警察が来る前に現場を調査したりするのだが)。 面白いと思ったのは、今まで警部の息子という特権を大いに利用して興味本位で事件に携わっていたエラリーが本作で初めて他者からの依頼で事件の捜査に乗り出す点。今回エラリーは被害者が100万ドルという破格の保険金を掛けていたことで、保険会社からこれが保険金目当ての殺人事件か否かを探るよう要請される。趣味としての探偵でなく、仕事としての探偵に携わるのが新しい。 まあ、恐らくこの理由がなくともエラリーは自分の旧友が事件に関わっているというだけで自ら事件解明に乗り出すのだろうけれど、この辺の新機軸は当時チャンドラーやハメットに「リアリティがない」と揶揄されていた事に対する作者クイーンなりの配慮かなと思ったりもした。 本書でも“読者への挑戦状”は挿入されており、私も一応犯人を想定したがやはり当らなかった。 しかしなんともアンフェアな感じが漂う真相だ。 理詰めで犯人が突き詰められていくが、やはり大前提を無視したロジックはなんとも頭に染み込んでこない。事件自体も一人二役の生活を送っていた被害者という設定の面白さの割にはシンプルであり、全体として小粒である。 本書の舞台である「中途の家」同様、クイーン作品体系の中休みとも云うべき作品なのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
表題作と「ヘルター・スケルター」2編が収められたノンシリーズの中編集。
「エデンの命題」は正直云えば本作は過去の本人の作品のヴァリエーションの1つに過ぎないと云えるだろう。それは私にとって不朽の名作である『異邦の騎士』だ。 実は読んでいる最中に本書の企みが解ってしまった。というよりも恐らくほとんどの読者が解るのではないか。あまりに露骨過ぎるミスリードである。 原本の『異邦の騎士』がこの上なく好きなだけに、本作での見え見えの作意に憤りさえ感じた。 ただアスペルガー症候群という自閉症の1つに焦点を当てたことが島田氏の社会に目を向けたテーマの探求と今日性を表している。 特に自ら掲げた「21世紀本格宣言」をさらに実践すべく、本作にも最新科学の知識がふんだんに放り込まれている。今回扱われたテーマは遺伝子工学、それも特にクローン技術に焦点を当てたものだ。 これに関しては既に島田氏は自著『21世紀本格宣言』で述べられていたため、これを改めて実作のテーマに採用したに過ぎない。つまりあのエッセイで俎上に上げられた数々の最新科学のテーマは、島田氏が今後テーマに挙げる内容を列記した物だと云える。逆に云えば、島田氏の手による「21世紀本格」を楽しむのならば、同エッセイはむしろ読まない方が十分楽しめると云える。事前にネタを知らずに済むだけに。 この作者の意図は何なのだろうか?最先端の科学知識を導入すれば物語も新たな息吹を与えられることを証明したかったのだろうか?しかしそれは残念ながら失敗していると思う。知識の敷衍に力点が置かれ、物語が薄っぺらいものとなっている。 私が懸念するのは本作を読んだ方が後に『異邦の騎士』を読んで、「なんだ、これあの短編の引き伸ばしヴァージョンだ」などと陳腐な感想を抱くことだ。自らの名作を自らの手で汚してしまった、そんなやりきれない思いのする作品だ。 なお題名の「エデンの命題」というのは、具体的に何を指すという物ではなく、それぞれの人生における守るべき信条、達成すべき大いなる目標といったシンボル的な意味が込められているようだ。つまり自身の安息の地であるエデンを維持するために守るべき原則ということになるだろう。 2編目「ヘルター・スケルター」はトマス・クラウンという記憶喪失者の物語。 これも脳科学をテーマにしたミステリ。本作では脳の各部位、各分泌液の機能が明らかになった2005年当時での最新の知識を活用して人間の性格、趣味・嗜好にどのように作用するかが詳らかに専門的に説明される。 これは『ロシア幽霊軍艦事件』で登場した自らをロマノフ王朝の皇女と名乗る数々の奇妙な行動を起こす老女の行動原理を大脳生理学の視点から分析した手法と同等だ。 本作で取り上げられるトマス・クラウンという男性は、幼少時に動物虐待、万引きや盗難などの非行を行い、その後ヴェトナム戦争に駆り出された後、帰国して婦女暴行殺害で逮捕され、30年間の服役を終えた老人である。この、物語の登場人物としては別段珍しくもない、チンピラの行動原理を同じように彼の人生で負った脳への障害を根拠としてなぜ彼の人生がそのような足取りを辿ったかを明らかにしていく。 この辺の流れはミステリというよりも脳科学を扱った専門書の事例紹介のようにも取れる。もちろん1つ1つ、奇行の原因を解き明かしていく経緯はミステリ的興趣に満ちてはいる。 さて、本書で取り上げられた脳科学に関する記述は先に読んだ瀬名氏の『BRAIN VALLEY』にも取り上げられていることと重複しているものもある。特に1950年代にある科学者がてんかん患者に行った脳機能を分析する実験の話は同書にも取り上げられていた。 確か島田氏が編んだ書下ろしのアンソロジー『21世紀本格』に瀬名氏も寄稿していたように記憶しているから、『BRAIN VALLEY』の感想にも書いたように、島田氏が件の作品を読んで大いに刺激された事は間違いないようだ。そして島田氏は創作の重心があくまで本格ミステリにあるのが両者との違いか。 しかし島田氏や瀬名氏の諸作で説明される大脳生理学、遺伝子工学といった最新の生物工学の最新の研究結果、データを知るたびに私は知的好奇心を揺さぶられると共に云い様の無い不安に襲われる事がある。 本書を例にとってみると、最近解ってきたアスペルガー症候群患者の実態、左利きの人が感情を司る右脳を刺激するがために感情的な行動を取る確率が高いこと、ある脳の分泌液の量の大小、ホルモンの量の大小、摂取する栄養分の大小が犯罪者に特徴的に現れる事。本書では低セロトニン・高インシュリン・低血糖を犯罪者のスリーカードと呼んでいる。 これらが明らかになってくると次に起こるのは選民という行為ではないだろうか。今まで個性と思われていた性格の違いが、精神病の一種として片付けられ、それらを集めて一箇所に隔離する。各人の脳の分析を行って、上に挙げた犯罪を起こす確率の高い症状が現れた場合、脳手術を行って、性格改造を行う、云々。 犯罪率が高まっていくに連れ、それを未然に防ごうとそういう傾向が見られる子供たちにその種の施術を行うという考えが出てくるのもおかしくはなく、しかもそう遠い未来ではないのではないか。特に本書で挙げられた事例には私にもいくつか当て嵌まる事項があり、私ももしかしたら・・・と畏怖せずにいられなかった。受取り方によっては暗鬱になる作品だ。 この島田氏の提唱する21世紀本格というのが未だ実体を伴わないように感じるのは私だけだろうか。 彼の提唱とは、本格ミステリは密室や怪物の成した業としか考えられない不可能状況、アリバイ工作に拘泥ばかりしては衰退する一方なので、これからは脳に焦点を当てるべきだという示唆である。未知なる分野である脳にはこれからの幻想的な謎のアイデアに満ちているというのだ。 しかしこれは本格ミステリ作家に対する創作の示唆である。読者はその作品で敷衍される新知識に対しては無知であり、単に専門的な内容の授業を受けているだけに過ぎなくなってしまい、作者対読者の頭脳ゲームという一面を持った本格ミステリでは、読者は作者とは対等で無くなってしまうからだ。 80年代後半から90年代前半にかけて起きたサイコミステリブームは、「人間の心こそが最も不可解で恐ろしい」という新たなテーマに着目したムーヴメントだった。これを学術的視点から論理的に解明していこうとしているのがこの21世紀本格であるが、その新しい科学の成果に驚きはもたらされるものの、あまりに専門的に走りすぎて読者の推理の介在を許さないものになっている。 ミステリというジャンルにはやはり闇は必要だと思う。ここまで踏み込むか否かは作者の興味に留めるべきであり、読者にまで啓蒙すべきではないと私は思う。 21世紀本格は短命になるのではと以前私は述べたが、今回更にその思いを強くした次第だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
なんとフリーマントルの手による、ホームズのパスティーシュ小説。しかし、厳密に云えば純然たるホームズのパスティーシュではない。
通常ホームズのパスティーシュ小説と云えば、そこここに正典へのオマージュなり、パロディなりが挿入されていつつ、ホームズの快刀乱麻の如き名推理を堪能できるような作りになっているものだが、フリーマントルの手になる本書はホームズの登場人物を借りたスパイ小説となっている。 主人公はホームズでもワトソンでもなく、フリーマントルが創作した彼の息子セバスチャン。ウィンチェスターからケンブリッジへ3年飛び級で進学し、史上最年少で数学卒業試験首席第一級合格者となり、その後ソルボンヌ大学、ハイデルブルグ大学も首席で卒業という天才の遺伝子を引く彼の任務は第二次大戦中に中立国の立場にあったアメリカにあるという極秘裏にドイツに武器を売っている秘密組織を探る事。 自然、物語は政治色が濃くなり、シャーロックよりも官職に就いていたその兄マイクロフトの出番の方が多くなっている。実にフリーマントルらしいホームズ譚だ。 フリーマントルが正典のホームズ譚に兄マイクロフトと息子セバスチャンが出てこない理由として、彼らが政府の諜報活動に携わっていたからだという尤もらしい理由を付けているのがこの作家のそつの無いところだ。 その他にも英国から米国へ渡る豪華客船上でのロマンス、大陸横断鉄道を利用しての調査、富豪たちが所有する専用の馬車などなど古き良き時代の優雅さが漂う。 おまけに正典ではなかった旅先での恋まで語られ、濡れ場まで登場する。 更に今回フリーマントルはセバスチャンの諜報活動で欠かせない暗号文の作成にノーションとズィフというウィンチェスター・カレッジに代々伝わる独自の言語を採用している。作者は作中、これについてある程度詳しい説明を行っているが、全く以って複雑で判らない。英語を日常語として使っている私でさえ、理解するには遥かに及ばない領域の言語だ。 いわゆるその学校で話す独特の言葉、例えば眼鏡を掛けた人物の名前がトレヴァーだとするとその名前を取って、トレヴァーがノーションでは眼鏡を意味する、といった具合だ。これは実際にある言語らしく、辞書も出ているらしい。 しかしこのホームズ譚の登場人物によるスパイ小説という手法が果たしてよかったのかどうか、非常に悩ましいところだ。題名に堂々と『シャーロック・ホームズの息子』と謳っているから―因みに原題は“THE HOLMES INHERITANCE(ホームズの継承者、ホームズの遺伝子)”―、どうしてもホームズ譚のような物語を想像してしまう。私は正にそうだった。 元々フリーマントルはエスピオナージュ作家でありながら、本格ミステリ張りのどんでん返しが巧みな作家であるから、本作もその傾向だったと大いに期待したのだが、そうではなかったようだ。 確かにサプライズはある。最後に明かされるドイツ側のスパイの正体だ。そしてそれに関する手掛かりもフリーマントル流のさり気ない描写に挟まれているが、それは「あっ!」というようなものでなく「云われてみればそう読める」といった類いの物だ。つまり本格ミステリに求めるサプライズとはいささか質が違う。 ただホームズは国に乞われて国交間に跨る問題解決をしていた事は確かに正典にも書かれている。どの作品か忘れたが、ホームズがフランスかどこかの国に行ってて、なかなか本題の事件に着手できなかった設定を読んだ覚えがある。だからホームズが諜報活動のプロであり、その息子を後継者として国が採用する事に違和感はないのだが、では正典と本作では何が違うのかというと、それは物語の語り方だろう。 ホームズ譚の諸作は、まず発端に依頼人が自分の身の回りに起きた奇妙な出来事について相談し、その解決をホームズに委ねたところ、それが思いもかけぬ、国家の存亡を揺るがすような事件であった、という、小事から大事への謎の発展であるのに対し、フリーマントル版ホームズでは、最初から国の存亡を賭けた任務を任され、隠密裏に解決するといういきなり大事から幕開けだということだ。しかもセバスチャンはホームズの遺伝子を引き継いだ優秀な頭脳の持ち主であるが、初めての任務でいきなりの大役ということで綱渡りのように右に振れ、左に振れと非常に危なかしい捜査を続ける。ここに違いがある。 ホームズ物では読者は依頼人によって提示される謎という迷宮に放り込まれるが、それをホームズが鮮やかに解き明かす。つまりこれは謎という不安定な状況をもたらされた読者に安定をもたらす存在がホームズという万能の神であるというお約束事があるのだが、本書で読者は駆け出しスパイのセバスチャンと共に、五里霧中、四面楚歌の中、英国からの公的な協力もなく、たった一人で未知の秘密組織を暴かなければならないという終始不安の中に置かれる。つまりセバスチャンは正典における磐石の存在ホームズではないため、読者もセバスチャンが果たして任務を果たせるのかどうか懐疑的な中で物語は進行するのだ。 この小説作法は実は全く悪い事ではない。むしろそういう作品の方がスリリングだろう。しかしホームズの意匠を借りた作品でやるとなんとも違和感を生じてしまうのだ。 読書を十全に愉しむためにこの手の先入観は極力排して臨むべきだと解っていても、やはりこの手のパスティーシュ小説では難しい。 恐らくフリーマントルはチャーチルという英国の歴史に名を残す名政治家とその時代についての作品を著したかったのだろう。 そのプロットを練る過程で、どうせその時代の事を書くのならば、実在の英雄にもう1人の想像上の英雄ホームズをぶつければ、面白い読み物になるではないかと思いついたのではないか。もしくはその逆でホームズのパスティーシュを書く事を想定していて、その時代にチャーチルというかねてから書きたかった実在の人物がいたことに気付いたのかもしれない。 どちらにせよ物語巧者フリーマントルならではの演出である。そして本作ではチャーチルはかなりの策士として描かれ、読者の好意を得られる人物としては決して云えない。政治家について詳しいフリーマントルだから、後書で語られるチャーチルの行為も併せて、恐らく実際チャーチルとはこういう人物だったのだろうと思われる。彼の政治に対するシニカルな視点も手伝って、なかなか濃いキャラクターに仕上がっている。 本書はシリーズ化されており、続編も既に訳出されている。 初めて手に取った本書では上の理由により、面食らってしまい、なかなか物語にのめり込むことは出来なかったが、フリーマントルの意図するところが解った今、次作はもっと楽しめるのではないか。そんな期待をして、続けて読みたいと思う。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
国名シリーズ7作目の本作は今までとは違う怪奇趣味を押し出した異色作だ。
カナダへの休暇旅行からの帰り道で出くわした山火事のため、山の頂上に聳え立つ屋敷に泊まらざるを得なくなるクイーン親子。そしてそこにはなんだか怪しげな雰囲気を身にまとう住人たち。そしてクイーン警視自らも巨大な蟹のような化け物の幻想を見るという、今までにない不思議な導入である。 もっとも特徴的なのは山火事で周囲から隔離された《矢の根荘》で起きた殺人事件にクイーン親子たった2人で事件に挑まなければならないという「雪の山荘物」だということだ。こういういつもとは違う状況のためか、エラリーはいつもより饒舌で、自らの推理が確固たる物になる前から推理を披瀝し、悉く間違えを犯すという一面を見せている。 さらにもう1つの大きな特徴は“読者への挑戦状”が挿入されていないということだ。事件は密室でもなく、館にいる誰もが成しえるような状況であったが、2つ起きる殺人事件のいずれの死体の手には半分に切り裂かれたトランプが握られており、本作のメインの謎がこのダイイング・メッセージにあるに違いないと思われ、それに関して推理を巡らす事もできるので、私はなぜ挑戦状が入っていないのか不思議に思っていた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
国名シリーズ第6作目(作中の“読者への挑戦状”では7イニングと謳っているがこれは作者の数え間違いだろう)。
他の国名シリーズと違い、いささか巷間の口に上がらない本書。特に名作と名高い『エジプト十字架の謎』の次作であり、それに比して・・・ということもその原因の1つだろう。 開巻してまず驚いたのが、登場人物表に記載された人数の少なさである。挑戦状が織り込まれているこのシリーズでこの少なさというのはちょっと冒険に過ぎるのではないかと思った。 更に事件が起きるとその範囲はかなり狭められ、物語に終始関係する人物でもこの表に記載されていない人物―トニー・マースや《巻き毛》のグラント、ゴシップ新聞記者のテッド・ライオンズ、かつて軍人で今は映像技師であるカービー少佐、etc―もいるので更に戸惑いを隠せなかった。 今回は何か掴みようのないままに物語が進行していく。2万人の観衆と41人のカウボーイ・カウガール達というシリーズの中でも最大の容疑者数であることが捜査の方向付けを曇らせているのかもしれない。 なんだか作者クイーン自身が暗中模索しながら書いている、そんな印象を受けた。事実、最後の真相解明を読んでも、ところどころ歯切れが悪い。 今回のテーマは映像、弾道学による犯罪の検証になるだろうか。二度発生する衆人環視の中での射殺、しかも殺された場所、撃たれた箇所など全て同じ状況下でカメラが何を捕らえていたのか?これが物語の解決における要だといえる。これらについては当時作者クイーンが取材か何かで警察捜査の当時の最新情報を知った事からそれを活かして自作を著そうとしたのかもしれない。 とはいえ、映像の検証を自家薬籠中の物のように事件の最大の手掛かりとなるであろうショーの模様を映した映像の実見をなかなかしないところが実に不思議だった。物語も半ばになってようやく着手する。 それまで延々と関係者と観衆の持ち物検査、コロシアム内に隠されていると思われる凶器となった25口径の銃の捜索について語られるのだ。これは全く以って捜査手順としてはおかしいだろう。 率直に云えば、本作の出来はあまり良くない。やはり色々と無理が生じている。 まず物語の主眼となる消えた銃の謎。これについてはかなり意外であった。 しかし肝心の真犯人、これが全く納得できない(以下ネタバレにて)。 また輪を掛けて納得行かないのが犯行の実現性。この殺人方法はほとんどマンガの世界での出来事のようだ。 そして第2の殺人。これが果たして必要だったのかどうか、悩ましいところだ。 とまあ、本作は実にバランスが悪い。 そして片や映像検証、弾道学という科学捜査に言及しながらも従来から成立している指紋の検証、歯形の検証といった捜査技術に関しては何の関心も向けず、捜査が進められる、およそ世界中には存在しないだろう愚かな警察がここには歴然としてまかり通っているのが非常に痛い。 しかし1961年初版とはいえ、その後重版が繰り返され、私が手にしたのは1999年の第47版である。いい加減、訳を見直した方がいいのではないか。 ホリウッドは今ではハリウッドだし、特に十ガロン帽子には参った。これはそのままテンガロンハットでいいだろう。こういう細かい仕事を出版社には期待したいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|