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海辺のカフカの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.76pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全345件 321~340 17/18ページ
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村上春樹の作品とは付き合いが長い。最初に呼んだのは高校生の時だったか、学校で「ノルウェイの森」がやたらはやってたのを思い出す。当時は何が言いたいのかさっぱりという感じでした。でも、村上さんの本は、表紙の絵とかカッコ良くて、「パン屋再襲撃」「TVピープル」「回転木馬のデッドヒート」なんかも読んだなあ。 最初はおしゃれ感覚で読んでた、村上氏の作品が、今では新作を必ずチェックするほどに…。「ねじ巻き鳥のクロニクル」には、大学生の時に出会ったんだけど、何かすごいものの到来を予感しながら読んでました。 「海辺のカフカ」については、題名からして意味深かなって思いましたが、やはり不思議ワールドでした。しかし、強烈な魅力はこの作品にも健在で、「影が半分しかない」などという表現には、一種独特の存在論を感じます。愛する人への喪失感という、春樹流「生の宿命」的なテーマがやはり底に流れていて、結局人間は自分探しを続けてる存在なんだなって感じさせられました。 | ||||
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▼村上春樹の小説はページが残り少なくなってくると切ない気持ちにさせられる。いつまでもその世界に浸っていたいと思わされる。いつまでもその世界に突き動かされていたい。それだけのものを村上春樹の小説はいつも抱え込んでいる。▼読み終ると世界が違って見える。うつろになっている。小説の中にぎゅう詰めに詰め込まれていたものの存在を感じる。そこに何が詰め込まれていたのか、すぐには言い表せない。それがとても重大なことのように思われるだけだ。▼星野青年は、音楽は人を変えられるということを知った。ささやかなように思われるけれど、それはとてつもなく重大なことだ。▼村上春樹は音楽に挑んでいるように見える。一瞬で人を変えてしまう音楽に、何百枚、何千枚と書き連ねることで挑んでように思える。まるでドンキホーテだ。ロバに乗って風車に挑むドンキホーテ。その鎧の奥に村上春樹の目が光っている。▼そんな心に触れたくて、そのうちまた彼の小説を読む。 | ||||
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自分を捜す旅・・・してみたい。でも、現実的には今のところ無理なので、この本を読んでそんな旅をした気分になりました。「星の時計のLiddle」(内田善美)が好きな人にお勧め。というか、この本を好きな人、是非「星の・・・」も読んでみて下さい。「カフカ」を読んだら思い出して懐かしくって読み返してしまいました。もちろん、少女まんがなのでおんなじという訳ではないのですが。 | ||||
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一回この本を呼んでみて、自分で簡単に読めたつもりになってはいけない。初めから最後まで読んでみると必ず幾つか引っかかる所が出てくるでしょう。それを読み飛ばさずにひとつひとつ丁寧に解き明かしていくことで、とても深くてファンタスティックなこの物語の本当の魅力に気がつけるはずです。 | ||||
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現実から足を浮かせ、心をからっぽにして、日常の中にある常識を何も考えずに読むべき本です。人々が日々の暮らしの中でこだわったり、とらわれている観念、そういうものが何の意味も持たないのではないかと、この本は訴えかけてくるようです。人は何のために生きるのでしょうか?今この世にある私たちの体は、魂を入れる単なる「いれもの」に過ぎないのでしょうか?でも、それでも人は生きていかなければならないのです。さまざまな出来事を経験して少年は、新しい世界への一歩を踏み出そうとします。その姿にほっとして、なぜか救われたような気持ちになりました。「おのれを無にして読む」、感動的な作品でした。 | ||||
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村上春樹さんは実は非常に器用な作家であることが分かる。特に今回の星野ちゃんとカーネルサンダースの会話は秀逸。でも読み終えるとちゃんと「文学」として成立している。芥川賞や直木賞などのカテゴリーを大きく超えた読み物になっている点が海外からも高評価を得ているところだろうか。連休中に充実した時を過ごさせていただきました。 | ||||
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楽天的で、出たとこ勝負。仕事を無断欠勤してまで風変わりなナカタさんに付き合うホシノくん。彼の愛らしさから目が話せない。ホシノくんに自分を重ねていると、小説を読みながら、私もホシノくんと同じように、「ナカタさんの目を通してものを見られる」ようになったような気がする。ほんのちょっとだけだけどね。彼は自分で言うほど頭悪くないと思うよ。彼が「人生なんてどう転んでもクソみたいなものなんだ」と言うのを聞くと、これからの人生程よく、リラックスして生きていけそうな気がする。ありがとう。ホシノくんからこの小説で得たものは大きかったよ。勿論田村カフカくんから得たこともある。人それぞれ胸に響くポイントは異なるかもしれないけれど、きっと皆何かを得られる。それだけ仕掛けの多く施された小説。読む価値はある。ところで、村上氏の小説には必ず、手をたたいてそうそう!と思えるたとえが出てくる。今回の私のヒットは「趣味の雪かき」byホシノくん。分かる!! | ||||
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~全く予備知識なしに読み始めた。すぐにストーリーに引き込まれ、厚めの上下巻ながらするすると7時間で読了。猫と話ができるナカタさん。ミステリアスな大島さん。過去に生きる佐伯さん。気さくな星野さん。そして、思索する15歳、田村カフカが主人公。現実とうまく折り合いをつけて生きていけない都市生活型個人主義者。これまでの作品~~の主人公はこういうタイプが多かった。様々な事件に巻き込まれ、再び日常に戻っていく。今回の主人公も現実にうまくなじめず、家出を企てる。個性的な人々と出会い、様々な出来事がある。しかし、70年代の作品のように、最後に全てを失ったことに気づいて海辺で泣いたりはしない。よりタフになり再び現実に戻っていく。書き下ろしされた当時、~~そして現在もだが、15歳前後の少年による胸が痛くなるような犯罪が多い。彼らは特異な例ではなくて、その世代の代表だろう。努力すれば今よりよくなる、世界は進歩する、などという考え方を多少なりとも抱けた高度経済成長時代に少年時代を過ごせた私たちに比べて、現代の15歳は希望を抱けない厳しい時代に生きる。そんな世代に向けて、作者は、主人公が自~~らの力で必死に考え努力することにより再生へと至る物語を書きたかったのではないか。「アフターダーク」以降、積極的に社会と向き合おうという作者の方向転換があった。本作品にもその流れを感じる。主人公には名前があるし、住所もある。旅した先も高松だし、「吉野屋」なんかも出てくる。ま、相変わらず主人公はあっさりセックスするので、~~中学校の推薦図書には選ばれないだろうが。カフカと大島さんとの間でかわされる文学論も面白い。ちなみに、漱石の「抗夫」に関する記述は作者自身の過去の作品に言及しているような気がする。~ | ||||
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上下に分かれている長編を、1日で一気に読み終えました。実に快適な読書体験をしました。作者は非常にサービス満点であり、大変に分かり易い文章で、細部まで良く理解出来るように表現してくれています。また、登場人物たちも非常に能弁で、通常の人はことばでは言わない所まで、丁寧にことばで述べてくれています。ですから、読者としては、考え込んだり、立ち止まったりする必要が無いのですね。まるで、遊園地で遊んでいるように、目の前を興味あるアトラクションが次々と繰り広げられると言う感じです。読み始めたもう止まらなくなりますね。 つまり、小説でありながら、文章をほとんど意識しないで読めるのです。 ですから、読書は苦手、長編なんかとんでもないう人にも、充分に読めるものです。楽しみながら読めて、大長編を読み切ったのだという大きな満足感が得られますよ。 特に、読書を苦手としている人たちへお奨めします。きっと読書の自信が得られますよ。 | ||||
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村上作品はずっと少し背伸びをして読んでいたような気がする。学生時代に自分より何でも知っていて妙に落ち着き払っていた友達がいた。彼はナガサワさんみたくストイックでもなかったし、オオシマさんみたく僕を諭すようなことはなかったけれど僕と話をしている彼の瞳の中にはどこか僕を落ち着かせない気持ちにさせる挑発的な煌きがあった。僕は彼との会話の中にはいつでも何気ない機知を持ち寄り、どこかから借用してきたアイロニーをまるで自分の言葉のように吹聴した。彼と話をすることはとても刺激的だったし何より自分自身の存在価値が4段階くらい上の次元に持ち上げられたような気がして良い気持ちになったものだった。しかしその会話に費やされる僕の消耗は相当なものだったと今では思える。〈神の子らはみな踊る〉くらいから村上作品は等身大の僕に近づいてきた気がする。それとも僕がただ年を取っただけだろうか。〈海辺のカフカ〉を読んでいて気付いたことは背伸びをして知識を語ることじゃなくタムラくんとともに僕が学んで悩んで成長しているのだというある種の共時性だった。僕は自分の変化とともに村上作品の変貌をとても大事にしたいと思う。前述した友達とは今でも時々会うけれど以前よりはずっとざっくばらんに冗談とか言い合える仲になっている。うまく言えないのだけれど〈海辺のカフカ〉は僕にとってそういう意味合いを帯びた作品である。 | ||||
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受験でしばらく本を離れてた自分でもどんどん読み進めることができました。この本に影響されてベートーベンの大公トリオ(もちろん百万ドルトリオのやつ)を買っちゃいました。主人公に感情移入がしやすく、頭の中で映画のように場面を想像することができます。またそれ以外にも車やファッションのセンスがいいことも読み進められた理由だと思います。本から関連して音楽、哲学などにも興味を持てるいい作品だと思う。 | ||||
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ねじまき鳥クロニクル以来の長編小説、ということで楽しみに、かつ味わいながら読みました。私のように物語を追うので精一杯の読者でも、深く読み込んで構造を的確に掴み出しながら読めるハイレベルの読者でも、それぞれに楽しめます。それを可能にするだけの豊穣さ、寛容さがこの小説にはあります。よく指摘されているとおり、『世界と終わりと・・・』に共通する部分があります。並行して進行する物語(最終的に交わる)、「記憶」を所蔵する図書館、「僕」が「僕」になれる場所・・・また、『ノルウェイの森』で使われた言葉「私を覚えていて」も、リフレインされています(。それらのことからも、この作品が著者の小説世界の幹を構成するものと考えられます。主人公が15歳でありながら人生の喪失と、喪失を抱えながらの再生をくぐり抜けるということ。暴力と性の描写が多いこと。物語に一見すると偶然性が満ちていることなど。それら、表面的に批判し得るところはあるでしょう。でも、登場人物が直面する「人生」はどれも切実で、物語の中で流される血も涙も汗も、どれもが真摯で、打算的なものはありません。この小説も、「完璧」というわけではないのでしょう(私には決定的な瑕疵は見つけられませんが)。でも、著者の真摯さは信頼して良いものと考えます(作品の結構や表現手法、隠喩の技術など、おもてづらの批判は見かけますが、この作品のテーマ=作品の中で流される血や涙の重さが間違っている、と言い得た批評は見かけません)。 | ||||
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個人にはとても気に入っています。小説はほとんど読んでいますが、中でも特に面白いと思ったものの一つです。本当はどうだったの?誰だったの?という部分が残るところはありますが、ある意味、それはどちらでもよいことのような気がします。妙な意見ですが、村上作品が気に入っている理由の1つは、悪意を持った悪人が出てこない点です。それに、作品から作者の教養の深さがにじみ出ているところが、心地よくさせてくれます。 | ||||
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小説とは、思考実験だ。少なくとも、この話は、観念の上での空想話だと思う。彼は、「メタファ」という言葉を引き合いに出した。その時点(メタファ、と言う考えを認めた時点)で、この話は、破綻したし、破綻するべきだったのかと思う。僕がバカなだけで、単純に、合理的に、この話を理解できないから、「破綻」とういう言葉を使うだけなのかもしれない。緩急が有り面白い。ナカタさん・・・個人的にはカワムラさんが好きだ。一章ごとに、視点が変わり、世界が変わるので、読むのにメリハリができる。ただ、この話は、僕の言うところの「破綻」をきたしてるので、そういう話、例えば、もっと具体的な話が読みたい、(こうなると、具体性とは何か?と言うことを考えないといけないが)、もたいな方は買ったら損だと思う。 | ||||
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村上春樹は進化している、そんなことを感じさせる一冊。以前の作品に比べると断然物語に厚みが帯びているのを感じるし、物語の広がりという点に置いても全く申し分なく、それぞれの登場人物たちがきちんと魂を吹き込まれいきいきと物語の中でダンスを踊る。一つ一つの場面が小説的なリアリティを持ちながら読者の脳裏に訴えかけ、それは映像との境界線を越えようとさえする。言葉というものの可能性を体感した。村上春樹はもう一つ向こう側へジャンプしようとした。それはとにもかくにも偉大なる跳躍であった。世界的にも評価の高い作品であり、原文で読める我々はこの幸せを享受しない手はない。 | ||||
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自我の物語として大変面白く読みました。客観的にストーリーを楽しむ読み方をしてもある程度楽しめますが、それだけだと物足りなく感じる人もいるだろうと思うし、何よりもったいないと思います。書評には謎が残ったままという意見も見られますが、もしそれらの答えが用意されていたとしたら、この本を読む楽しみは半減するでしょう。読者が自らの中にその答えを見出すべく、作者は魅力的な舞台設定を用意してくれている、と解釈するのが適切と感じます。この作品は、読者自身の物語を喚起する「触媒」として優れていると思います。また、登場人物達のキャラクターが生き生きとしていて、古くからの知り合いであるかのように親近感を抱かせずにはいません。100人いれば100通りの読み方ができ、何度も楽しめる、非常に奥深い作品です。 | ||||
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恥ずかしながら村上春樹氏の作品を初めて読みました。独特の寓話性というか発想に一種の衝撃を受け、今後過去の作品を読んで見たくなりました。この作品について言えば、読者のイメージ(創造力)を重視し、謎は謎のままあえて具体化してない点が良さかと思います。佐伯さんは、15歳の佐伯さんなのか50歳の佐伯さんなのか、田村カフカが愛したのはどちらなのか。またその佐伯さんを女性として愛したのか、失った母を求めたのか。また、佐伯さんはカフカに対し過去に失った恋人を求めたのか、それとも子供への愛なのか。過去と現在の時の狭間で動く心に永遠というテーマを感じました。また、ナカタさんという人間が入り口を開けてまた締めるというトリガーとして登場していますが、不思議な存在感を発揮し、作品全体の雰囲気を穏やかで神秘性のあるものにしているところも魅力かと思います。現実性に関し厳しい書評が多いですが、この作品に現実性は求める必要は無く、むしろ現実性は排除して読んで頂きたいと思っています。 | ||||
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文庫化するのを心待ちにしていました。今、下巻を読んでいる途中です。私的には期待を裏切らない素晴らしい作品ですが★4つで。理由は佐伯さんが50歳という年齢の割にはあまりに若く描かれている気がして、感情移入しにくかったからです。カフカ少年は大人びた15歳の少年とゆう感じでした。このお話はカフカ少年とナカタさんとゆうおじいちゃんの話が交互に展開していきます。ナカタさんのお話はとても心温まるものがあり、心安らかになれます。 | ||||
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書評を書くなんて大それた事は出来ない。何故なら一気に(イコール、結構雑に)読みきってしまったので、色々なことが分からないままである。それでも一気に読みきることを優先してしまったのは、単に「面白かった」からにほかならない。その「面白さ」は、所謂「エンターテイメント小説」的なそれである。言葉を変えれば表面的な部分で「冒険小説」として非常に「面白かった」のだ。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、「冒険小説」的パートと「純文学」的パートをパラレルに進行させることによって、「あっち」側と「こっち」側という村上ワールドを表現していた。しかし『海辺のカフカ』は「冒険小説」の皮を被った「純文学」という形式で、やはり村上ワールドを表現している。だから、「私は大沢在昌とか船戸与一とかの大ファンである」と言う人も楽しめるだろう。また、恋愛小説としても充実した仕立てになっているので、『ノルウェイの森』しか読んでない村上春樹ファンでも充分に楽しめる。しかし.....しかしである。きっとそれだけじゃないのだよね?もう一度読んでから出なおしてくる事にする。でも、「メタファー」の意味を未だキチンと理解できない「た」に、なにが分かるのだろうか? | ||||
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レビューや読書感想のようなものを見ると、よく目にする意見。 「この話には無理がある」 「あまりに現実味がない」 これらの意見は文学、殊に小説において妥当な意見と言えるのだろうか?これらの意見の矛先は「設定」に向けられている。確かに小説における「設定」は物語に大きな影響を及ぼすものであるが、小説とは「設定」の上に成り立つものが大事なのではないだろうか? 「海辺のカフカ」についてもそのような意見が多く見られる。 「還暦に近い村上春樹が中学生の物語を書くことには無理がある」こんな感じ。 そんなことは当たり前である。村上さんは昔中学生であった。すなわち今は中学生ではない。そして、昔の中学生は今の中学生ではない。 そんなことを言い始めたら、村上さんは五十後半の主人公の話しか創り出せないではないか? それよりも主人公を中学生にした村上さんの冒険心(?)と、どうして中学生でなければならなかったのかを考えるほうがよっぽど文学に対しての意見としては妥当であるし、的を射るものだと思う。 それに僕にはそれほど無理な設定ではないと思えるし・・・。 まあ、意見は人それぞれあるものだから仕様がないところですけど・・・。そんな意見ばかりじゃ作家がかわいそうだ。 | ||||
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