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海辺のカフカ
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海辺のカフカの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.76pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全78件 21~40 2/4ページ
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海辺のカフカ いや かいべの可不可 いや 砂浜の過負荷 いや TOYOTAの株価 | ||||
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村上作品はそんなに読んだことありません。ノルウェイとタサキツクルくらい。 村上作品が好きな人に聴くと、何人かにカフカをおすすめされたので読んでみた、という感じです。 全く面識の無い15歳の少年とおじいさんの話が平行して進み、後半になるにつれて、、、という感じのストーリー です。 物語のキーにもなってくる図書館の描写がとても心地いいです。そこにある、本、椅子、音楽、窓からの眺め、、、 読んでいると図書館に行きたくなります。 仕事で疲れて帰っても、疲れに寄り添ってくれる内容というか、心地いいネガティブさと少年の嫌みじゃないタフさで元気づけられる場面も多々。会話の中にふとでてくる文学と音楽の話も教養があって、それがまた登場人物のキャラクターを印象づけているといった感じで飽きること無く3日くらいで読み切りました。 15歳の時に読んでたら良かったなという思い(現25歳)と、15歳の自分に読ませても全く分からんだろうなという気持ちが半々。 すぐに下巻を手に取りたくなる本です。 | ||||
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村上春樹の作品としては面白い部類に入ると思うが、前後半のバランスがとても悪い。 前半はとてもキビキビと面白く読ませるが、後半のグダグダ感がひどい。 明らかに息切れしているというか、後半までのプロットを全く考えてなかったように感じる。 内容と比較して、ちょっと長すぎるようにも感じた。(全ての村上作品にあてはまることだが) | ||||
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得体の知れない物が出てきたり、メタファーが多用されたり、消化不良です。 ナカタさんと星野青年のやり取りは楽しめた。 | ||||
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奇想天外な発想(想像)に興味を持ったが、見方によっては、作品には精神分裂症の傾向を感じさせる一面があるのではないか。 | ||||
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自分にはなじめなかっと思います。春樹の作品はいつも何度も読み返しますが、 1度しか読んでません。 なじめなかった、理屈じゃなくて。それだけ。 | ||||
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今更ぐだぐだ言うことはありません。ただ、ひとつだけ言いたいことがあるので言います。 私はこの本でがっかりさせられた。それは上巻の最後のほうに出てくるお話。女性差別を許さない団体さんが出てくるところです。 村上春樹にしてはえらくはっきりとした主張が見られます。村上春樹はなんかよくわからないが、多分こんなことを言っているのだろうと思わせる小説をこれまで書いてきて、はっきりとした批判や主張、自らの思いを大胆に見せつけるようなところは少なかったのですが、この女性差別のところではえらくはっきりと主張している。 ここは要するに、主人公たちがいる図書館は女性差別をしているんじゃないかといって突っかかってきます。とはいえ、べつに村上春樹は女性差別を批判しているわけではなく、ここに出てくる団体が物凄くうるさい、細かいことまで突っかかってきて、やれ差別だと喚き散らす鬱陶しい奴らなのですが、ここではそうした自身の主張だけを永遠と垂れ流し、いくらこちらが弁明しても聞き耳を持たず批判だけをしてくる馬鹿な奴ら、想像力がない奴らに対して批判しているんです。いくら話し合っても、相手の主張が支離滅裂ではっきりいって言いがかりでしかなく、もはや話し合いすらまとも成立しないような状態になるんですが、私としてはこんなヤクザのような奴らをいったい村上春樹はどうやって退治をするのか、どうやって処理をするのか、読んでいてお手並み拝見と思っていたんですが、残念なことに主人公たちが奥の手を出すんです。つまり、お前は女性差別だと訴えていた相手が実は女性だったというオチです。それがわかると相手はもう黙るしかありません。渋々帰っていきます。一件落着です。 でも私はすごく不満でした。これはつまり議論をしないという結論に至ったということです。話し合いができないような奴らとは話し合いなんてできないと言っているんです。村上春樹の短篇集の中に「沈黙」という物語があり、その中で主人公は同じように想像力がない馬鹿な奴らに迫害を受けて苦しみますが、そういう奴らに対して春樹は無視しろ言います。そんなどうしようもない奴らなんかとはかかわるなと言います。今回の問題に対しても、最終的には奥の手を持ち出して強引に相手をねじ伏せ議論を終わらせました。 正直、この展開にはがっかりさせられました。 要するに、話し合いもできないような奴ら、まったく考え方の違う奴らとは関わらないほうがいいと言っているようなものです。そうすれば互いにいがみ合う必要もなく、それぞれ価値観が同じ者同士で仲良く暮らせるはずだと。たしかに、戦争なんてものは価値観が合わないからいがみ合い、相手をねじ伏せようとするから起きるものなんですが。でも、それは間違っていると思います。そりゃ、同じ価値観同士のもの、仲良しグループで集まったほうが絶対に楽しいですし、余計な喧嘩もなく、きっと幸せでしょう。でもあなた方が幸せであればあるほど、それを見ている人には腹立たしいんです。隣の芝生のほうが青く見えるように、幸せな奴らを見るとむかつき、壊したくなるものなんです。で、結局侵略が起きます。話し合いを放棄して、ただ自分たちの中だけで生きていたとしても、決して平和にはなれない。どうしても相手との会話が必要になるんです。相手と会話をして価値観を共有して、争いを起こさないようにしないといけないんです。たとえそれがまったく話し合いにもならないような野蛮な奴らでも、話し合っていかないといけないんです。面倒だ、わからない奴らは放っておけ、いいじゃないか自分たちさえ幸せであれば。その生き方は楽でしょうが、それでは必ず侵略されてしまいます。 この小説では話し合いを拒否してしまった。これは私としてはすごく残念でした。 | ||||
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カフカは、海辺に似合わない、唯一のカフカだと思います。 山の天のように高く舞う流馬ははやぶてのごとく言うのでありました。そこには天があると。 だから、海辺のカフカといって、海辺のカフカなのです。 おわりーはじまり、はじまり。 | ||||
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中身が下巻でした。中身をよく確認してから送付するひっありますね? | ||||
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それまでの村上春樹像というものを破壊しようとしたのかなぁ?という作品に思えました。 どこかで誰かが村上春樹のことを「ロックスター」と表現したのを眼にしたことがありますが、やっぱりどこか「かっこいい」だったり「おしゃれ」だったり「二枚目」だった作者(と作品)がナンセンスだったり下品だったり奇妙なことをあえて書いている感じがします。筒井康隆作品を抽象表現したような作品です。 ナカタさんや星野君のしゃべり方はそれまでの村上春樹のクールな会話の魅力を意図的に否定しているように見えます。お決まりの食事のシーンもパスタは登場しなくて白飯が頻繁に出てきます。 カフカ君の章はこの作品以前の村上春樹的な世界観をカフカ少年がさまようことによって、虚構性だったり薄っぺらさを自から暴いているような感じです。 このように村上春樹がどうして自己批判するようになったか?それはノンフィクション作品「アンダーグラウンド」がそのきっかけになっているような気がしてなりません。村上春樹は「アンダーグラウンド」によって、それまで嫌悪してきた日本的な一般大衆(と文化)を好きになったというようなことを述べています。一般大衆に対する嫌悪から生じる独立心は、村上春樹の原動力でもあったはずです。それがなくなった後の作品がこの海辺のカフカです。 そういうわけで、これまでの村上春樹ファンを突き放す作品でもあります。ただ多くのファンが突き放されても、それについてきてるようです。その結果をみると、それまでの作品の功績と、今作品がファンを突き放す性格を持ちながらも、高い完成度を持っていることがうかがい知れます。 きっと、古くからの村上春樹ファンはそれなりに覚悟を持って読んだほうが良いです。そして、この作品からはじめて村上春樹作品を読む方は、世間一般的な村上春樹像を捨てて、まっさらな気持ちで読まれたほうが良いのではないでしょうか。 | ||||
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作品の分析、といった事はできませんので、素直な感想だけ書きます。 カフカ少年と佐伯さんはナルシストすぎて疲れました。佐伯さんは大変つらい経験をしたので同情はしますが。 一方、ナカタさんとホシノ青年の章は楽しめました。ナカタさんは、通称ジョニー ウォーカーというものに操られて、「結果的」にはカフカ少年と佐伯さんに癒しを与えるために利用されたんだ、という憤慨は感じますが、ホシノ青年に巡り会え、最後まで彼の必死の助力(本当に、必死の!)を受けられ、そして最後にはナカタさん自身が本当に求めていたものを知ることができた(そして、多分手に入れたんだと思います)ことが救済でした。 あと、私は猫が好きなので、ねこさんとナカタさんの会話は楽しかったですね。カワモトさんとミミのやり取りなどは、本当の猫同士によくありそうな光景でした。ミミが「ウオー」というすごみのある声で鳴き、カワモトさんが首をすくめてむにゃむにゃ反応していたんでしょうね。 | ||||
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遅ればせながら、「ねじまき鳥クロニクル」に続き、村上氏の長編を読んでみました。著者がドストエフスキーとカフカから特に影響を受けたと語っていること。本作がフランツ・カフカ賞を受賞していること。村上春樹が世界に多くの読者を獲得していること。以上の情報に接してのことです。読むと、賛否両論がよくわかる内容でした。気になったことだけを書きます。先ず、主人公について。典型的な中年のおじさんの発想が見え隠れした後で、僕にはわからないことが多いと弁解して15歳の少年を演出する。読んでいて楽しくありません。しつこい性描写の場面では、田村カフカよりも田村ボッキの方が相応しい。著者は、主人公の文章は一人称にこだわりたいようですが、三人称で書けばもう少し読みやすくなると思います。主人公と平行して語られるナカタさんの話が読みやすいのは、内容の特異性を上回る三人称の文章力にあると思うからです。次に、思想について。安全な自分の城の中から世界を見回して、世界に攻撃をしかけようとする。他者の自分に対する想像力の欠如は赦せないが、自分の他者に対する想像力の欠如には能天気。現在の若者に多く見られる発想で、好きになれなせん。また、ドストエフスキーやカフカの世界には、神の存在が大きな重しとして君臨していますが、ここには神はいません。深刻を装っても内容は軽い。クラシック音楽の世界で、指揮者の小澤征爾氏が、日本以上に欧米の聴衆から高く評価されていることが連想されますが、村上氏の作品が小澤氏の指揮と似ているのか全然違うのか、その辺は未だわかりません。本作には、古代ギリシャ悲劇、シェイクスピア、日本の古典文学、ベートーヴェンなどが賑やかに引用されていて、登場人物の成長を支援する教養小説の趣もあります。しかし、神や集合無意識のように全体をまとめて上げるコンセプトがないため、雑然とした印象を拭えません。メタファーがあるじゃないか、という見方もありますが、そういう妖怪趣味はなんだか気持ち悪い。結局は好みの問題なのでしょうが。いずれにせよ、私の素朴な関心は、ドストエフスキーやカフカとはずいぶん違う(父親殺しから『カラマーゾフの兄弟』を連想することもできますが、背景が全然違う)本作が世界に多くの愛読者を獲得しているらしいこと、その要因は何か、ということです。「サディスティックなナルシストのマスターベーション」という要素が支持されているのであれば、心配になります。世界一タフな少年を目指すのもいいが、自分の外の世界に対して、もう少し愛情を注いでほしいと思う次第です。世界と自分はつながっているのですから。 | ||||
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体が濡れるほどではないが、絶え間なく降り続ける小雨が 読書中バシバシと顔に当たっているような感じだった。 被害はないけど邪魔な雨で、読むのにとても時間がかかった。 読後はそんな小雨が上がって、すっきりした。 面白かったとは思わないが、すっきりはした。 | ||||
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大変ベタな言い方になるが「文学性」と「通俗性」が極めて高いレベルで融合しているのが村上作品の素晴らしさと認識していたのだが本作品では後者がやや(かなり?)強く表れ過ぎているようだ。もちろん作家としては「確信犯」ではあろうが匙加減を少し間違えたのでは?と言わざるを得ない。特にナカタ老人とホシノ青年の珍道中がカフカ少年のメインストーリーと最後まで絡まなかったのは個人的には不満。結果として「父なる」ジョニーウォーカーと「子なる」カフカ少年の対決と相克というひとつのクライマックスが極めて消化不良であったのは残念。 | ||||
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私は文体云々や他の人と比較してなんてことはわからないので、素直に読んだ感想を書きます。 批評的な文章は沢山あるので、肯定的なことを。 私は世界の終わりとねじまき鳥しか読んだことがないのですが、それらの作品と比べると描きたかったであろう内容が明確だったと思います。それはズバリ生きるということ。この人間の宿命ともいうべき命題に真っ向から挑んで作者なりの答えを提示した作品だと私は解釈します。 村上さんの考えを一番素直に感じられた気がしました。村上春樹の作品に慣れていない人でも取っつきやすいのではないでしょうか。総括として、他の方が述べられるように納得いかないところはあるかもしれません。確かに、モチーフの使い回しは否めないですけれど。しかし、それを差し引いても余りあるメッセージ性がこの作品にはあると思いました。ただの駄作でくくれるようなものではありません。 一読の価値はあるのではないでしょうか。 | ||||
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これは極論すれば、生と死をテーマにした物語だ。登場人物は生と死の境で、それぞれの向かう場所を選び、戻るべき場所へ帰って行く。 どこかのサイトで1Q84について、国語的想像力と数学的解析力が必要な本だ、と書かれた(著名な?)方がいたが、まったくその通りだと思う。それはこの本にも当てはまる。だから読書を選ぶ。よく村上春樹は謎を投げっぱなしにする、といった意見を目にするが、それは違う。材料はテーブルの上にちゃんと置かれいる。それもきちんと必要な分だけ。あとは読者がどう料理するかは自由だ。例えばラストの謎の白い物体。私的には招かれざる者として描かれたジョニーウォーカーだと理解したが、解釈は人それぞれ違うだろう。 読後の独特な感覚。それは心の中にモヤモヤした混濁を抱えながら、しかし頭は自然とすっきりしている。そしてモヤの向こうに光に投影された何かの輪郭がぼんやり見える。村上春樹の作品を読むたびに感じるものだ。こんなことを感じさせくれる作家は滅多にいない。 | ||||
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主人公を軸とする物語とナカタ&ホシノ青年を軸とする物語が同時進行しつつ、徐々にシンクロしていくストーリー。後者の物語がほのぼの珍道中でとても面白い。一方、主人公側の話にはあまりのめり込めなかった。個人的に、頭で色々考える人間よりとっとと行動する人間の方が好きなので(もちろん主人公も行動しているけれど)、それが原因かもしれないし、美味しそうな料理が多いのも一因かもしれない。ホシノ青年は、あの部屋を出てからもネコの言葉が分かる人間なのだろうか。それがこの本で一番の気になるところだ。いずれにせよ、通常の村上作品らしくするすると読めるが、これは村上作品をあまり読んでいないか初めての人の方が評価が高いのではないだろうか。村上作品は、ねじまき鳥クロニクルを境として、方向性が微妙に変わっていったような気がする。その変化を好むか好まないかによって、評価も分かれるだろう。 | ||||
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「まだなんにも始まってもいないうちから、暗いことばかり並べたててもしょうがないものな。君はもう心をきめたんだ。あとはそれを実行に移すだけのことだ。なにはともあれ君の人生なんだ。基本的には、君が思うようにするしかない。」「そう、なにはともあれこれは僕の人生なのだ。」「しかしなんといっても君はまだ15歳なんだ。君の人生は、ごく控えめに言って、まだ始まったばかりだ。君がこれまで見たこともないようなものが、世界にはいっぱいあるわけさ。今の君には想像もできないようなものがね。」「君はこれから世界で一番タフな15歳の少年にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。そしてそのためには、本当にタフであるというのがどういうことなのか、君は自分で理解しなくちゃならない。わかった?」「そして、もちろん、君はじっさいにそいつをくぐり抜けることになる。そのはげしい砂嵐を。そいつは千の剃刀のようにするどく生身を切り裂くんだ。何人もの人たちがそこで血を流し、君自身もまた血を流すだろう。温かくて赤い血だ。君は両手にその血を受けるだろう。それは君の血であり、他の人たちの地でもある。そしてその砂嵐が終わった時、どうやって自分がそいつをくぐり抜けて生きのびることができたのか、君にはよく理解できないはずだ。いや本当にそいつが去ってしまったのかどうかもたしかじゃないはずだ。でもひとつだけはっきりしていることがある。その嵐から出てきた君は、そこに足を踏み入れた時の君じゃないっていうことだ。そう、それが砂嵐というものの意味なんだ。」「なんだかおとぎ話みたいに聞こえるかもしれない。でもそれはおとぎ話じゃない。どんな意味合いにおいても。」「ナカタさん、ここはとてもとても暴力的な世界です。誰も暴力から逃れることはできません。その事はどうかお忘れにならないでください。どんなに気をつけても気をつけすぎるということはありません。猫にとっても人間にとっても。」「しかし森の中が危険にみちていることを僕は実感する。その事を忘れないようにしなくては、と自分にいいきかせる。カラスと呼ばれる少年が言ったように、この世界には僕の知らないことがいっぱいあるのだ。森の中は樹木が支配する場所なのだ。深い海の底を深海の生き物たちが支配するように。必要があれば森は僕をあっさりとはねつけ、あるいは呑みこんでいくかもしれない。僕はたぶんそれらの樹木に対して、ふさわしい敬意やおそれのようなものをもたなくてはならないのだろう。」「僕はその輝く夜空の下で、再び激しい恐怖に襲われる。息苦しくなり、心臓の動悸が速まる。これほどすさまじい数の星に見おろされながら生きてきたというのに、僕は彼らの存在に今まで気づきもしなかった。星についてまともに考えたことなんて一度もなかった。いや、星だけじゃない。そのほかにどれくらいたくさん、僕の気付かないことや知らないことが世の中にはあるのだろう?そう思うと、自分が救いようのなく無力に感じられる。どこまで行っても僕はそんな無力さから逃げきることはできないのだ。」「僕はその光の中に腰を下ろし、太陽のささやかな温かみを受け取る。太陽の光が人間にとってどれくらい大切なものかをあらためて僕は知る。」 | ||||
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たぶん、この作品は人によって評価が分かれるだろう。共感できるかどうか個人差が大きいと思われる。私自身は、この本に共感できる部分はまったくなく、この本を読むのは退屈で苦痛だった。カフカとの違いはリアリティの違いである。カフカの小説では、「職業」をもち、社会と関わりのある人物が登場し、社会の縮図が描かれており、興味深く読める。これに対し、村上春樹の小説では、社会との関わりが言葉では記述されるが、それは書物から得た知識や論述であり、社会的なリアリティが感じられない。カフカが生涯、みずから働きながら小説を書き続けたことが、社会的リアリティをもたらしているのではないか。村上春樹の小説に登場する人物は作者の観念の流出として描かれており、その意味ではこの作品は小説ではなく、エッセイや論文の形式でもよかったのである。それでも、現代社会と現代の人間を知るために、梵語の教典でも勉強するようなつもりでこの小説を読んだ。村上春樹の小説が読まれることの社会的な意味に関心があるからである。現実の経験や生活の中で、現在の「生」を実感できている者にとってこの小説は無意味に感じられるだろう。しかし、現在の「生」の存在感が稀薄で自分のアイデンティティに不安を抱いている人はこの本に共感するのではないか。私も学生の頃であれば、この本に共感を持ったような気がする。自分が生きていることがあやふやな感覚、生きていることを実感できない感覚、生きる意味が見いだせないこと、運命に翻弄される感覚。自分のやりたいことが、その瞬間にどうでもよいことのように思え、あらゆることに確信が持てないこと。人間の意識は、現実と無関係に、「森」、「人間」、「生」をいくらでも空想でき、人間の意識は万物を支配する。人間の頭の中では、すべてのものは存在の根拠がなくあやふやであるが、それは人間の意識の産物だからである。人間が生きていること自体が、非常にあやふやで根拠がないもののように思えてくる。 しかし、自分の手、足、目、耳、味覚、皮膚などを通じて実感すれば、現実の自然界は安定した調和から成り立っていることがわかる。あらゆる存在は不可思議なメカニズムを持つが、人間の認識能力がそれに及ばないだけのことである。人間の意識が、安定した自然界に不安定さを持ち込むのである。村上春樹は、「世界はすべてメタファーだ」と述べるが、人工物で構成される都会文明は人間の意識の産物であり、この点が妥当する。自然物はメタファーとは関係ないが、自然物を人間が認識する時メタファーが混入する。人間の意識が隠喩として漏出し、世界を構築したものが、村上春樹の物語なのだろう。したがって、海辺のカフカは現在の社会と人間の意識を反映しているのである。人間の意識がもたらす不安定さは際限がなく、考えれば考えるほど、不安が強まる。カフカの不安定な世界は、人間の意識と、その産物である文化、社会、法律、技術がもたらしたものであり、人の脳ミソの中にのみ存在する世界である。ブータンの人たちやかつてのイヌイット、インディアンなどは、現代の先進国に住む人たちのような存在の稀薄さとは無縁だった。世界(自然)はそんなに難しいものではないのだが、今の社会が人間の生存と存在を難しくしているのであり、それは個人の責任ではない。村上春樹が言うように、小説家は、問題提起するだけで、問題を解決できない。この本は問題提起の本であり、この小説の結論は何の解決ももたらさない。「だから、どうなのか?」という読後感は、それでよいのである。結末部分で、少年が「僕には生きるということの意味がわからない」と言うが、生きることの意味は誰にもわからない。考えることに意味があり、生きる意味を考えないことの方が危険である。現代の戦争を回避するうまい解決策はないが、「人間が人間を殺戮し合う」ことの意味を考える哲学が重要である。現代社会の存在の稀薄さは、現実体験の稀薄さや人工的な現代の社会構造がもたらすものであり、経験、実感、感動などを一歩ずつ積み重ね、自分の実感を大切にし、自分は何かを考えていくことが重要ではなかろうか。誰でも「自分は○○である」と実感するところのものでしかありえないし、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。あるがままの自分を実感することが出発点になる。その実感は胎児以降の経験によって形成される。 | ||||
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マイクロソフト日本法人元社長の成毛真(無類の読書家)が勧めていたのがきっかけで読んだ。 初めての村上春樹であったが、読者を引き込む技はさすがだと思った。読書を楽しむ本としては悪くない。 何かしらのメッセージを持ってはいるが、白い怪物に代表される突飛な部分が 二流のおとぎ話風な印象を与え、強烈に心に突き刺さるほどではない。 名作には、作家の魂の底から滲み出るものを感じるが、 この本は、読み手や、その評判を意識し過ぎという感じがする。 ほかの村上春樹作品を読んでみたいとは思わなかった。 | ||||
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