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顔のない裸体たち
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顔のない裸体たちの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全17件 1~17 1/1ページ
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少し長めの短編といった印象の本作。 平野啓一郎による新書『私とは何か』によると、本書はネットとの関わりで「本当の自分」について考えた作品だと言います。 以下、『私とは何か』からいくつか引用してみます。 ネット上で、体育の授業が行われている小学校のグラウンドに全裸で立つ女性の写真を発見した作者。 ただし顔にはモザイクがかかっている。 人に見られて恥ずかしい自身の裸でも、顔さえ出ていなければ恥ずかしくないのか。 (ここで私は昔読んだ永井豪の漫画を懐かしく思い出しました) 人に応じて、自身の人格は、無意識の変化しているものですが、それでも人があの人は〇〇だ、と認識するのは、顔が同じだから。 「あらゆる人格を最後に統合しているのが、たった一つしかない顔である。逆に言えば、顔さえ隠れていれば、私たちは複数の人格を、バラバラなまま生きられるかもしれない。」 「リアルな世界の自分が本当の自分で、ネットの世界の自分は、嘘の自分なのか、はたまた逆なのか」 このようなテーマで書かれた物語が本作『顔のない裸体たち』です。 中編だけに、長編一冊読んだときの読後感には届きません(短編集の中の一作品との印象で少し物足りなさを感じます)が、平野啓一郎が多くの作品で取り上げるテーマを、新たなシチュエーションを用いて物語を作り上げた、一連の繋がりを持つ作品の一つとして読むことができます。 本作からも、自分の持つ情報を伝える手段として読者の興味を引く題材を用いて物語を作り上げる平野啓一郎の技術の高さが感じられ、ネット世界における露出という題材を取り上げたのは正解だと感じました。 | ||||
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顔にモザイクがかかったエロ写真 モザイクが掛かると別人格だから 大胆になれる。 しかし現実は 画像解析ができるので本人確認出来る しサイトに出た物は世の中から消す事は 出来ない。 この本を読んで思い出した事が 道を歩いていたら弱いチンピラに絡まれた 周りの人は携帯で撮りだした。 チンピラより撮っている奴らを殴りたくなった 事を思い出した。 | ||||
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違う経過で、違う種類の劣等感を持つ中年男女が 性の快楽に浸り、ネット上でも露出を展開し、 そして事件が生じて終わる。 事件はあたかも読者の周知のことがらのように 語られ、事後の視線から、淡々と、リポートが されていく。 三人称の語りが神の視点ではなく、あくまでも 取材をベースにするような、それでいて 感覚描写が鋭く、文学的な香りを維持していた。 性の悦楽は、多くの人々が味わうところであるが、 それが変態的な趣味になるところが、設定の 面白さではあると思うが、どことなくこの2人に とってそれが必然であったかのようにも思わせる 来歴が示されている。 感覚描写は風景的だが、心理描写は抑えられていて、 読者はこの一見して普通ではない2人に自分を 投影することも可能な気がした。 単なるエロ小説ではなく、近著、『私とは何か』 においても、これがネットの自分とリアルの自分の 境目の本当の自分をテーマにしていたことが 書かれているが、ネット的な要素はそれほどなく、 他者との関わりにおいて自分がいかに自分であるのか を考えたすえの小説であろうと思った。 文章がよく、テーマの割に短くまとまっていて、 私はとても好きな小説です。 | ||||
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芥川賞作家・平野啓一郎氏によるネット社会をテーマにした文学作品。特にネット人類達の秘められた性生活にスポットが当てられており、中々の意欲作である。 作家本人の公式サイトの作品解説によれば、「人格が漂流するネット空間を舞台に、顰蹙の中でしか生きられない男女の特異な性意識と暴力衝動に迫る衝撃作!」とある。意表を突く言葉遣いに驚かされるが、所謂「変態」「淫靡」「猥褻」等々の実存的内実を、作家なりに表現しなおしたものと捉えれば納得がいく。 物語は平凡な中学教師の「ミッキー(吉田希美子)」と、こちらも風采の上がらない公務員の「ミッチー(片原盈)」の男女2名が主人公となる。出会い系サイトを通して知り合った2人はたがが外れたように淫靡な世界へと突き進む。ネット空間というメディアのフィルターを通した、変態ストーリーを軸に展開されていくのだ。愛無き憎悪の変態プレイとでも云おうか。もっとありていに云えば、投稿雑誌、投稿サイト等に繰り広げられる露出趣味の性的プレイに嵌まり込んでいくという訳である。 表題の「顔のない裸体たち」というのは、モザイク処理で顔を消された写真を指している。デジカメの普及とともに、投稿サイト、投稿雑誌の類にはそうした「顔のない裸体たち」が氾濫するようにもなった。これもまた若手作家のラディカルな思いが篭った、意表を突いたネーミングだと云えるだろう。そしてそれがまた、現代社会の隠された相貌を抉り出すことにもつながっている。 ネット社会という匿名性の殻の中で演じられる変態プレイは、決してリアルと訣別した行為ではあり得ずにエスカレートしつつ、滑稽な現実とショートしていく。風俗を素材として取り上げながら風俗小説に終わらせない為に、作家は様々な仕掛けを施している。風俗を描写するのではなく、それを掻き毟っていこうとする意思の表れだと捉えることも可能である。 作品中には妙に分析的な作家の言葉が顔を出し、ところどころでストーリーの邪魔をしていくのだ。それはある意味の才気を噴出させているのだが、あまりスマートではなく、万人を納得させるものとは云い難い。幼稚さもあれば偏見も感じ取れる。ただし、実験的に様々なスタイルを取り入れようとしている姿勢には感嘆させられるものがある。決して読後感は良くはないのだが、稀有な読書体験であることを、実感した。 | ||||
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一歩間違えば,下品でえげつないポルノ小説になってしまう恐れのある内容にもかかわらず,抑揚のきいた端正な文体で綴られているため,作品全体を覆う下品さは全くない.非常にうまくかけている文章だと思う. 顔さえばれなければ,何万・何十万の人間にも裸を見せられるかというのが,本書の主題.逆に言うと,「自分」というもののアイデンティティーは,ただ唯一顔だけにあり,首から下は自分の所有物でもなく,他人のものでもいい単なるお飾りなのだろうか,などと考えさせられてしまう.そう考え出すと,自分とは一体なんであろうとか,何ゆえこの脳が考えることこそが自分なんだろうかと,哲学的命題にまで考えが及んでしまう. また,ごくありふれた女性が,何故あのような事件を起こしてしまったのか,という過程が非常に緻密に書かれており,ことのなりゆきにわざとらしさを感じさせない.それぞれの行動には,それぞれの理由があってのことだということがわかり,話の筋がつかみやすい.内容的にも退屈な部分は少なく,一気読みできる類の小説ではないだろうか. | ||||
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彼の旧作が文庫化されたので、早速読んでみた。野外露出プレイにはまった男女が巻き起こした事件について、主に女性の方の視点から描き、現代の性の問題を激しく突っ込んで、取り上げた小説。 いろんな小説あるけど、投稿サイトとかを取り上げたのはあまりないだろう。表には出ないが、こういった投稿ってすごく流行ってる。ある意味、現代の荒廃した性のモラルを象徴しているんだろうけど、世の中、文学界はそういったことを存在しないように扱う中、平野はむしろそういったことに小説の題材を見いだす。目のつけどころが違う。 小説としては短く、冒頭でほのめかされていた事件自体もそんなに意表を突いたものではなく、自分の好みではないが、着眼点は買う。 | ||||
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平野さんにとって、 ネットに溢れている、 顔を出さずに卑猥な行為を露出する、 いわゆる“けっこう仮面”な人たちは、 謎だったのだろう。 そのわけのわからなさを、 理解するために書かれた小説、 というような感じがした。 「哲学をしたければ小説を書きなさい」 そんなことを言った人もいたけれど、 ふつうに暮らす、 ごくごくありきたりな人が、 なぜ、「そんなこと」をしてしまうのか。 ひとつの思考実験として、 堕ちていく過程が小説として描かれている。 (語り口も「観察日記」のようだ) 平野流「けっこう仮面ができるまで」。 内容よりも、一所懸命に、 理解をしようとして考えている姿勢に感心してしまった。 | ||||
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小説のテーマとして多々あるのは、「自分とは何か」を探す、というものだと思います。 本書はそのテーマの中で、自分=自我をどのようにとらえるのかという課題を、現代社会の病巣の中から描き出そうとしているといえます。 リアルとヴァーチャル。その二つの世界が織りなす、まさに二つの自分。 いったいどちらが「本当の自分」(本書では太字で出てきます)なのか。 別々に存在するはずの二つの世界が接してしまった時…。 これが本書での「事件」です。 自分自身も、リアルとヴァーチャルはやはり別世界です。たとえばamazonのレビューはハンドルネームで書いていますが、自分自身をリアルの世界で知る人に、自分が書いたすべてのレビューを見られると、多少恥ずかしい気もします。それにみられることは全く想定していません。 ん、ん、ん、、、非常に深く考えさせられる本です。 | ||||
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匿名が確保されたネット世界の中で、衆人環視のもとでの「普段のわたし」から遊離した「(ネットでの)わたし」を考察して小説化した意欲作。 誰もが覚えがありますよね。匿名性が確保された場面では、普段の自分とかけ離れた行動する自分を感じるときが。 普段は周囲との協調を大事にするとされる日本人が、知人友人がいない場面のおいては途端に利己的になるという観察研究を読んだことがあります。 では「(ネットでの)わたし」はさらに分裂しないのか・・・?と言う問いに対しては 近著「 決壊 上巻 」の中で展開されています。 興味ある方にはおススメです。 | ||||
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屋外露出のエロイメージづくりに没頭する中年男・片桐と、強引にその被写体にされてしまう女教師・希美子。ふたりの匿名ユニット〈ミッキー&ミッチー〉がおくる、顔バレリスクのない「安全な」裸体画像は、ネット投稿欄の賞賛をあつめ、彼らは一気に話題の中心に踊り出る。人生初の主役。ふたりはいつしか、恋を遠ざけ小さく生きた青春時代を否定するように、ブーム維持のためやっきになって迷走する。そこには遅れてデビューしたものが、過ぎ去った青春の夢を無理やり精算しようとする気負いが満ちていじましい。結末に控えるリアル世界での悲劇は、たちまちネット世界に波及・大炎上し、ふたりからすべてを奪い去る。そして、焼け野原には、哀しい男と女が過去に置き去りにした思春期の夢の残骸だけが残る。あまりにグロテスクで痛すぎるおっさんとおばさんの失敗。ネット世界の危険をみごとに描き出すもう一方で、若い著者がひそかに放った浮薄なるバブル期世代への批判の矢が胸にささって消えない。 | ||||
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日常生活に於けるコミュニケーションのツールとして確立されたインターネット。 そこは、或る意味社交辞令的な意味での日常社会の延長であると同時に、日常を逸脱した社会の暗部をも併せ持つ、いわば世界の総体である。 『最後の変身』という平野氏の短編作品の姉妹編と見なされるこの中篇作品は、このような情報が入り乱れ流通する社会状況に於いて、「本当の自分」とは何なのか、ということをやはり提示されます。ネット上でニックネームを持つ自分、そのネット上の自分を飼い慣らすことで、社会的な自分でなく、そのネット上の自分こそが「本当の自分」へと反転してしまうようなことは、ネットに依存しすぎる人には、実際に起き得ることだと思います。そして、社会的に立派な人であっても、いや寧ろそうであるからこそ、社会の暗部へと容易に潜入出来るのがやはりこのネットの世界であって、下手をすれば、この小説のように、社会的な存在であった一個人が、ネットの闇に陥る余り、一気に堕落してしまうという危険性を感じました。また、この歪で禍々しいネット社会で生き延びていくには、「本当の自分」というものを、社会的な自分が常に把握し、周りに流されない客観的な判断力というものを養う必要性を感じました。 この小説での「事件」とは、架空のものなのでしょうが、何か実際に起きていても不思議ではないような、ジャーナリスティックな書き方(マルケスの『予告された殺人の記録』を彷彿とさせられる!)であり、文学を用いて社会とコミットメントするという、作家という職業の一つの使命を、平野氏は本作で果たせていると思います。現代に於ける「本当のリアリズム」を把握するには、我々はこのような暗い側面から眼を背けてはならないのでしょう。 また、性を主題にした作品ということで、平野氏も好きな鴎外の『ウィタ・セクスアリス』のことも想起せられました。発禁になった『ウィタ・セクスアリス』ですが、具体的な性描写自体は皆無です。それに比べ本作品の放埓とした性描写は、アメリカン・グローヴァルに支配された、現代という性が日常的世界に飛び交う時代のリアルな活写として上手く表現されており、鴎外が生きた、西洋文明が介入してきたとはいえ、未だ純日本的な風情があった時代との差異を考えながら読み比べると、より感慨深いものを感じられるかと思います。 | ||||
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この本は、装丁的にもそうですが過激な性描写やネットの怖さが目に付きます。が、本当に筆力を感じさせるのが「書き手の位置感」。描写における対象と書き手の距離の置き方が絶妙。なので過激な表現でも読者が耐えうるだけの作品に仕上がっています。物語を書こうとする人にとっては参考になる一冊になるかもしれません。他の作品に比べ文章が読み易い(おそらく想定したターゲットにあわせているのだろう)ので「平野啓一郎」の名前で手にとった人にはちょっと物足りないかもしれません。 | ||||
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ネット社会が、常識化してから、まだ、社会は10年ほどしか経過していない。それだけに、それが後から出来た便利な道具のレベルにしか考えていない熟年層と、まだ、白紙に近い子供の頃から接し、決定的な影響力を受けてきた若い世代とでは、その意味も違う。 いまさらながらに、大きな警告を含めて描かれた本作は、単にネット社会の危険という当たり前のことを警告している、と考える層と、ここに描かれた世界が、いかに、想像以上に危険で、しかも、身近で、当たり前で、一般的な優等生でさえも、簡単に陥る可能性を秘めた世界として間近な恐怖と捉える層とに分かれると思う。 一般に警告といわれるものは、黄色のイメージであるが、ネット社会の危険性は、社会的エリートさえも破滅させる力を持つ赤のイメージがあるし、その身近な危機感が、今回のこの作品を生むことに著者を赴かせたのだろう。過去との徹底的な違いは、安易さであろう。とにかく、簡単、安易に取り返しのつかないことが出来るという点である。 著者にとっては、どうしても描いておきたかった視点の作品だろうし、ただ、物語としては、最後の詰めがもう一工夫欲しかった、という点、4つ星にした。 | ||||
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現実があった。目の前に恐ろしくリアルに見えた。でも、この現実に私もいるのかもしれない。そんな恐ろしさを感じた。48歳にして思うにこの世界は遠いといってくれる人がいるだろうか。もしかして、明日からこの世界の住人に自分が置かれるかもしれない。 まるで、昭和30年代の方たちが大いに筆を振るったときのあの時代を予感させるようなそんな作品に思えた。歌がはやり、映画は明るい時代から影を差すようなそんな予感が・・・・。 | ||||
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ろっきいのプログ「しばわんこ」にこの小説の書評を載せています。 ご覧ください。平野啓一郎『顔のない裸体たち』[...] 雑誌『新潮』で読みましたが、単行本を手元に置いておこうと思います。 | ||||
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鮮やかな時代性が感じられるノンフィクションノベル風中篇小説。男と女の「事件」に向かって収束していく展開にリアリティが溢れているのは、生い立ちから遡って丹念に分析的に心情描写を積み重ねているからだろう。「性」という観点から(かなり赤裸々に)人格がどのように形成されていくかを描き、そこにインターネット社会の「匿名性」が絡んだ場合に、どのような作用をもたらすのかが詳述されている。衝撃を受けながらも激しい共感を抱いて貪るように読んでしまった。形而上的なものを論理的な言葉でもって構築していく手腕に驚かされる。短篇「高瀬川」がこのように進化、深化を遂げていくとは思わなかった。著者の確実な手応えのようなものを本作から感じ取った次第。 | ||||
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不思議なことに、私自身、露出の趣味はもちろんありませんし、またネットにはまっているわけではないで、登場人物の趣味には共感できないのですが、とても親近感がわきました。 出会い系サイトで知り合った男性と、性的な関係を持ち、さらに野外で露出することや、恥ずかしい行為を行う女性は、自分とあまり変わらない人間なのではないかという気持ちにさせられたのです。 きちんとした生活を送る自分と、淫らなこともする自分がいるであろうことをはっきり認めることができた、ある意味、気持ちのいい小説です。 | ||||
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