■スポンサードリンク
スクイズ・プレー
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
スクイズ・プレーの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.21pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全13件 1~13 1/1ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
最後までわくわくしながら犯人を追える一流の探偵小説でした。 犯人というより、もっと恐ろしい存在を用意してあり、重層的で奥深い、人間の怖さが最後の最後に用意されていました。 しかし、チャンドラーを意識した言い回しが必ずしも成功しているとは言えませんでした。 翻訳のせいか、チャンドラーのようには、気障で洒落た言い回しがヒットしなかった。チャンドラーもすべてで成功したわけではありませんでしたが。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
野球の場面が素晴らしい | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
雑誌で紹介されていたので購入 評価通りおもしろかったです | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
小説家ポール・オースターの処女作が推理小説の本書『スクイズ・プレー』であると、巻末の池上冬樹氏の解説で知った。 なにげなく本書に興味を持って入手した評者とってポール・オースターの他の小説を読んだことなどないから、なんの感慨もなく本書を読むことになった。 ポール・ベンジャミンの筆名で本書が書かれたのが1976年だから時代考証をしながら読者は読まなければならない作品です。 ストーリーの半ばほどで結末が判ってしまったから、ハードボイルド小説としてそんなに優れている作品とは思えなっかったのですが、著者の描く主人公の探偵マックス・クラインはじめ登場人物の性格やマックスと登場人物との会話がなかなかユニークで面白い。 マックスは、サム・スペードやフィリップ・マーロウ系なのだが、少々教養のある正義感の持ち主で、語る言葉のはしはしで皮肉と諧謔で楽しませてくれる。 大富豪のチャールズ・ライトのオフィスへ聴き取りに行ったとき鼻先であしらわれた描写と、二度目にライトに会うため豪邸を訪れた時との落差を上手くストーリーに生かしている。 ライトが命より大切にしている切手帳を、マックスがガラス棚から放り投げるところがこの小説のハイライトだろう。 ライトが手配した凸凹コンビに部屋を荒らされ、殴られたり蹴られたりして酷い目に遭ったことで、マックスが大富豪相手に仕返しをしたから、多くの読者はここを読みながら溜飲を下げるだろう。 この件の翻訳を読みながら、このジャンルの本を訳させたら他を寄せ付けない上手さを発揮する田口俊樹さんの独壇場だと思ってしまったのです。 が、翻訳のベテラン田口俊樹さんでも間違うことがあることを見つけてしまったのです。 16章の書き出しのところでライトの豪邸を訪れたマックスがその豪邸へ集う上流階級の人々のことを想像して「白いドレスの女性や、音楽の夕べや、テディ・ローズヴェㇽトの外交政策は、アメリカ経済に利するや否やと喧々諤々とやっている。」(P282) ここで喧々諤々という四文字熟語を使用していますが、「侃侃諤諤かんかんがくがく」と「喧喧囂囂けんけんごうごう」が混じり合った誤用だと思います。 正しくは、「喧喧囂囂」です。(喧喧囂囂=たくさんの人が口々に喧しく騒ぎたてるさま) 評者の好きな翻訳家の田口俊樹さんなので些末なことながら付記してしまいました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
現代アメリカ文学の第一人者ポール・オースターがデビュー作「ガラスの街(1985)」以前に著した、氏の「幻のデビュー作」という謳い文句に惹かれて購入した。 本書「スクイズ・プレー」はそもそも、若きオースターが極貧生活を送る中、当時読み耽っていたハードボイルド探偵小説(おそらくはダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーの作品群だろう)に着想を得て執筆された作品だ。完成にこそこぎつけたものの、出版に際し様々なトラブルがあり、ごく少数が出回ったほかはどこかの倉庫の片隅で忘れ去られていたという。「幻のデビュー作」というのはそういうわけだ。 彼のエッセイ集「トゥルー・ストーリーズ」にこんな記述がある。 「……ある夜、ベッドに横になって不眠症と闘っている最中、新しいアイデアが浮かんだ。アイデアというほどでもない、ちょっとした思いつき、漠たる考えである。その年、私は探偵小説をさんざん読んでいた。大半はアメリカのハードボイルドで、それらがストレスや絶えざる不安を癒してくれたことはむろん、それに加えてこうしたジャンルに属す何人かの書き手に私は敬意を抱くようになっていた。このジャンル最良の作家たちは、何の気取りも衒いもない書き手であり、アメリカ社会についていわゆる純文学作家たちよりよほど実のあることを言っているばかりか、文章自体も純文学の連中より気がきいていて歯切れがいいように思えた。」 以降はネタバレになりうるので割愛するが、見ての通り「スクイズ・プレー」は紛れもなく、優れたハードボイルド探偵小説の書き手たちへの憧れを原動力として書かれている(もっとも、困窮に喘ぐオースターがちょっとした金を稼ぐために書かれた側面も大きい。そのあたりについては「トゥルー・ストーリー」をぜひ)。ハードボイルド探偵小説という既に確立されたジャンルにおいて、何よりも重要視されるのは「型に嵌っている」ことだ。物語は心理描写を極力排した乾いた文章で綴られる。語り手は都会で細々と探偵家業を営む男、依頼を持ち掛けるのは別世界に暮らすセレブ、そして美しく謎めいた魔性の女(ファム・ファタール)。これらありきたりな要素は、優れたハードボイルド探偵小説において「様式美」に昇華される。血が流れ、人が斃れ、語り手は痛い目に遭う。しかし彼は自らの規律に従い歩みを止めず、遂には哀しき真相に辿り着く。「スクイズ・プレー」はこういったハードボイルドの勘所をきっちり押さえた作品である。 さすがオースター、というべきなのだろう。文章は既に洗練の域にあり、新人作家らしい粗さやストーリーの破綻は見られない。本書のタイトル「スクイズ・プレー(Squeeze Play)」に代表される言葉遊びのセンスは燦然と輝きを放っている。先達の手法の模倣に専心するあまり、傑出した作品だけが持ち合わせる瑞々しいまでの自然な躍動感が失われているのは残念ではあるが、本格的な雰囲気を湛えた読み応えのある見事な佳作を生み出している。いわゆるハードボイルド探偵小説を読みたい、というなら本書は決して期待を裏切らないだろう。ガワだけを拾って書き散らされ、生まれる前から生命を失った小説たちとは明らかに隔絶した、血の通う文章がここにはある。 しかしながら、本書にはポール・オースター最大の特徴とでもいうべき資質、すなわち「脱構築」の要素が何一つとして存在しない。オースターの作品、特に最初期の「ガラスの街」「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」、いわゆる「ニューヨーク三部作」の読者にはそれがよくわかるはずだ。これら三作はミステリ小説の手法をもって書かれてはいるが、謎は謎を呼ぶだけで解決には至らず、むしろより大きな謎となっていつまでも残り続ける。似た小説を読んだことがあると感じていたはずなのに、いつの間にか予想だにしない地点に辿り着く。ミステリという枠組みが与えてくれる既視感からの新鮮な脱出。オースターは既成の枠組みから飛び出すことで産声を上げた作家なのだ。一方「スクイズ・プレー」は優れた小説だが、すべてはハードボイルド探偵小説の枠の中で完結する。謎は明かされ、物語は閉じられる。読み手に与えられるのは真逆の、経験済みの良質な読後感だ。本書を読み終えた人はこう思うに違いない。「ポール・オースターにはこんなものも書けたのか」と。それこそがオースターが本書にペンネーム「ポール・ベンジャミン」を用いたままにした理由に違いない。 「スクイズ・プレー」は良く書かれた小説だ。しかしこの作品が日の目を見たのは、それがポール・オースターによって書かれた作品だからだろう。少なくとも、出版社側が「ポール・オースターによって書かれた作品」という付加価値に目をつけ、ある程度の売れ行きを期待したうえで再版に至ったというのは的外れな推論ではない。仮にこれが一作限りの無名の新人による作品だったなら、ほぼすべての人に知られることなく、この世から消失していたはずだ。何かの賞を得たわけでもない無名の作家による、何かの賞を得たわけでもない無名の作品の再版など、およそ多くの人が手に取るものではない。だからこそ「ポール・ベンジャミン」のペンネームは意味をもつ。この名は当時用いたからそのままにしておかれたのではない。他でもないポール・オースター自身の意志に基づき、「ポール・オースター」というブランドに釣られた、私のような読者への抵抗としてそこにある。「ポール・オースター」には決して書けない作品を書き上げた、不遇の作家「ポール・ベンジャミン」への餞として。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「決まり悪くなると、軽口を叩いてごまかそうとする」し「肉体は解決にはならない」し、「私のことを不調法なホストとは誰にも言わせない」。けれども現代(1980年前後)では「電話を拒絶することは無政府主義と同義であり、社会構造そのものへの叛乱である」ことも理解している。 そんな私立探偵が超一流の元プロ野球選手が脅迫状を受け取ったことで調査依頼を受ける。事故で片足を失った経緯、球団との契約、妻との関係、上院議員への立候補予定、暗黒街とのつながりなど謎だらけのなかで探偵はなんども痛めつけられるがさすがにタフガイ。窮地を切り抜け真実を突き止めるものの意外な相手に見事にスクイズを決められてさどうする!というお話です。 当時のプロ野球への愛情あふれる描写も含めて堪能できました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ポール・オースターがその名でデビューする前に別名義で書いた私立探偵小説。 オースターにはハードボイルドのイメージを持っていたので、何の違和感もなく。 ちょっとテクニカルにハードボイルド小説を書いているような感じを受けつつも、面白く読んだ。 構成力、編集力のある作家なのだろう、そつがないという印象。 でも、上手に書かれた王道的ハードボイルド小説かと言うと、そうでもない。 主人公が息子を連れて野球場に行く。 ゲートを抜けてグラウンドを目にする時の情景がとても良い。 観戦初体験の息子の姿も素敵だ。 この章が本作の肝、だと思う。 見事にスクイズを決められた読後感。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
大学生の時、恵比寿の映画館で「スモーク」を観て感動した時から、ポール・オースターは私にとって気になる現代米国文学の作家の1人です。続編の「ブルー・イン・ザ・フェイス」も同じ映画館に観に行きましたし、彼の作品は、全てというわけではありませんが、それなりの数を読んでいると思います。 そんなオースターが筆名を使って書いた幻のデビュー作ということで、読まないわけにはいきませんでした。 「デビュー作には、全てがある。」と言いますし、最初の作品というのは本人にとっても忘れ難いものでしょう。 先ほど読了しましたが、ニューヨークを舞台にしたハードボイルド探偵小説で、普通には面白いと思いました。ただ、チャンドラーやハメットの作品を何度も読み返してきた1人としては、正直なところ、それほど新鮮な内容ではありませんでした。あのポール・オースターの幻のデビュー作として読むことに価値があると思いますし、それ以上のものでもないです。ただ、デビュー作がニューヨークのメジャーリーグ絡みの作品というのは、野球マニアかつニューヨーカーのポール・オースターらしいですね。主人公が息子さんを初めての野球観戦に連れていってあげる場面は初々しく、必要以上に詳細な叙述になっており、その点はデビュー作らしくて新鮮でした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
アメリカの私立探偵の元に元野球選手の議員から相談があり・・・というお話。 現代文学で活躍しているポール・オースター氏が、その前に別名義で推理小説を書いていた事は割と有名だと思いますし、私も知っておりましたが、今まで未訳だったその作品がここにきて唐突に翻訳されました。オースター氏の最初の探偵三部作は好きだったし、この小説も前から読みたかったので、理由はどうあれ翻訳されて嬉しいです。 内容ははっきりいってありきたりの感もある、私立探偵小説/ハードボイルドですが、きっちりまとまっていたり、主人公と家族の交情のシーン等は素直に読ませる小説なので、この手の作品が好きな方は読んで損はないと思います。 若島さんの「殺しの時間」という評論にも本作が取り上げられておりますが、「ここでは、独自の文体で新鮮な反探偵小説を書いたオースターの姿を発見するのは難しい」と書いてある通り、後の活躍を予見できる萌芽を見た、とか後出しじゃんけんっぽい事は言えませんが、読んでいる間は安心して読める娯楽推理小説でした。訳もオースター氏の作品を多数翻訳したいた方ではなく、ハードボイルド/クライム・ノベルの翻訳に定評のある田口さんなのも嬉しいです(因みに、この人のチャンドラーの「長い別れ」がこの作品の決定訳だと思っております)。 出版社の宣伝に遂に解禁、と書いておりますが、やはり90年代以降のアメリカの現代文学を先導したオースター氏が普通の推理小説を書いていたのが判ると、作家としてのステータスが落ちる、売り上げが落ちるという心配が出版社のあったのかとか、思いました。娯楽小説が現代文学よりも格が落ちる、という認識が90年代くらいまではまだあった様に記憶しているので。今はジャンルや属性を超えたスリップストリームやスプロールフィクションが受ける時代になったので、そろそろ解禁してもいいかもという出版社サイドの意向が伺えます(単なる憶測ですが)。 瀬戸川猛資さんの評論で知りましたが、司馬遼太郎さんにも推理小説があって、本人が嫌いで全集にもはいっていないとか(尤もシムノンのメグレシリーズは好きで読んでいたという話しも聞いた事はありますが)。ウィリアム・フォークナーも自分では書かなかったけど、推理小説を読むのは好きだったそうで、娯楽小説よりもステータスの高かった文学者の人でも好きな人は結構いるらしいです。 ともあれ、翻訳されて素直に嬉しい作品でした。機会があったら是非ご一読を。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ポール・オースターが、デビュー前に書いていた、しかもハードボイルドという、いわくつきの珍品。しかも、1978年に脱稿したが、6年後の1984年にペーパーバックで刊行という執念の一作である。ポール・オースターをぼくは読んでいないが、彼の書いたものとは思えないくらい作風が異なる正統派ハードボイルド作品が本作であり、彼の手になるハードボイルドはこれ一作きりである。 そうしたハードボイルド書きではない作家による渾身のハードボイルド小説という舞台裏を思うと、もったいないほどの秀作が本書である。主人公のマックス・クラインは、もちろん私立探偵。キャラクターが立っているのでシリーズ化されてもおかしくないくらいのだが、残念なことにポール・ベンジャミンは幻の作家であり、そのハードボイルド作品はこれ一作だそうである。 探偵は元大リーガーのスターで、交通事故で片足を失ったチャップマンからの依頼を受ける。少しすると、暴力専門の二人組がやってきて探偵をぼこぼこにして、依頼のことは忘れろと脅迫して去ってゆく。探偵は減らず口、あきらめの悪さ、一握りの幸運を携えて、元プロ野球選手を包む闇に挑む。 見事なほどのホンモノのハードボイルド。何より一人称の文体と藪にらみの視線。ジョークとメタファーの切り口。美女と悪党たち。業界のプロたちと、見上げるばかりの豪邸に住むこれ以上ないほどの大金持ちの鼻持ちならさ。 そして二重三重に逆転してゆく真実と、死体の数々。有象無象の男と女とが交錯するニューヨークの闇。汚れた街をゆく高潔な騎士譚。これぞ忘れ去られているあのハードボイルドの極致。そういわんばかりの作品なのに、シリーズにもなることがなかった。ポール・ベンジャミンは、ポール・オースターに名を変えて、別の偉大な作家になり、探偵はニューヨークの街角に姿を消してゆく。 それにしても懐かしくも楽しい一作だった。しかし、これも彗星の如き作家の腕による一瞬のハードボイルドのきらめき、とでも言うしかないだろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
チャンドラーやロスマクを想起させる、ワイズクラックに満ちた私立探偵もの。懐かしい雰囲気が溢れている。オースターがこんなにも古典的なハードボイルド探偵小説の型を継承した作家だったとは、おどろいた。依頼人が死んで、探偵はそこで捜査を放り出してもいいのに、死の真相を探り出そうとする。彼の追求の物語であり、依頼人の死にざまは結末まで伏せられている。彼の死の状景が恐ろしいものだったことを読者は結末で知る。この状景は未読の読者にはしゃべるべきではない。いわば、ミステリ小説の読者の仁義であり、レビューででも結末をあかすのは掟やぶりである。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
元メジャーリーガー「ジョージ・チャプマン」の 「悲劇的な自殺」(367頁)を心から悼(いた)みます。 本書『スクイズ・プレー』の初訳が読めて、うれしい。 何年も前から、英語の古本で悪戦苦闘して読んだつもりになっていました。 けれど、今、初訳で読み直してみると、新鮮な感動に心がふるえています。 死の恐怖で鳥肌が立っています。 「私はことのそもそもの始まりから取り憑かれた死の顔を見ていたのだった」(378頁) 「始まりから取り憑かれた死」だなんて、コワーイ。 「われわれはみな母の子宮で屍衣(しい)を得る。その屍衣は受胎のときからわれわれとともに成長し、われわれはその屍衣にくるまれてこの世に生まれ出る。というのも、われわれはみな墓を求めて生まれるからだ」(318頁) この言葉は、詩人ジョン・ダンの「緊急時の献身」(304頁)という詩の一節デス。 Devotions という英語を「緊急時の献身」と訳した田口俊樹さん。あっぱれ。 本書のタイトルにしたいくらいの良い訳です。 『スクイズ・プレー』というカタカナでは、意味わからないですよね。 「意表を突く野球の戦術」(342頁)では、一般的過ぎて、具体的にわかりません。 スクイズ・プレーとは、野球用語で、スクイズ・バント、犠牲バントのことです。 自分自身は一塁アウトになっても、三塁走者に得点させる犠牲バント。 「一挙二得点の見事なスクイズ」(341頁)からは、 「スクイズ・プレーがときにホームランとも変わらない威力のあることを教わった」(342頁) このことを小説にしたい。そう考えたのでは。 三塁と二塁にいて、犠牲バントによりホームベースに生還したのは、誰と誰か? 自己を犠牲にしてまで、犠牲バントを成功させ、一塁アウトとなったのは、 ジョージ・チャプマン。 自分で殺鼠剤を飲んで自殺したのでしょう。 これでは、殺人事件ではない。 どうりで。ジョージを殺した犯人が見つからないわけです。 「ジョージ・チャプマンは妻に殺されたわけじゃない。実際のところ、彼は誰にも殺されてない。自殺したのさ」(351頁) ですよね。 元メジャーリーガーのジョージらしい、自作自演のプレーです。 犠牲バントだなんて。 死に方までが、かっこいいよ。ホームラン以上。 かっこ悪いスクイズもでてきます。 「銃身を口にくわえると、彼は引き金を引いた(スクイズ)」(363頁) では、三塁と二塁の走者は? ジョージの犠牲バント(自殺)により、ホームに生還できたのは、誰と誰か? 三塁には、ジョージの妻がいる。二塁には、「球団オーナー」。 二塁の「球団オーナー」までが、ホームスチールするとは! ジョージの想定外。 緊急の危機状況: 「きみを殺すか、自分を殺すか」(377頁) 「ジョージはそんなことをするには紳士すぎた」(377頁) ジョージは「そもそもクソ真面目なやつだった」(271頁) 「チームを自分ひとりで背負わなきゃならないと思ってたみたいな」(272頁) マフィアとの「賭(か)け」(325頁)に負けて借金をしていた(秘密)。 「秘密を守り、自分の名誉を守るために彼は自ら命を絶った」(360頁) 私立探偵マックス・クライン(33歳、318頁)の哲学: 「裁判などというのは、自分たちで決めたルールと手続きに従うただのゲームに過ぎないことにね。ゲームである以上、そこでなにより大切なのは勝つことだ」(310頁) 不思議に思うこと。 1982年の原書が、いままでなぜ日本で和訳されなかったのか? そして2022年の今になって、四十年も経ってから 和訳本が発行されることになったのか? わけがわかりません。 ともかく、うれしいけれど。 「ポール・オースター主要著作リスト」(389頁)のトップに、 幻の本だった本書が、突如幽霊のように現れたことがうれしい。 本書が、オースターの「原点」として認知されたような気がしました。 うれしい驚きでした。 巻末の、池上冬樹さんによる「解説」を読むと、 オースターの「原点」は、 その後のオースターの作品の中に色々な形で、何度も何度も繰り返し フラッシュバックしてきていたことが分かりました。 「息子と野球場に行って野球を見る場面(第十九章)が繊細でリリカルで、とても美しい」(386頁) と池上さん。 異議あり。「繊細でリリカルで、とても美しい」とは思えませんでした。 「五年まえの私たち」(344頁)は喧嘩別れをして、別居中だったのです。 息子は、母親と父親ふたりの間の醜い緊張関係の中に挟まれていたのです。 その関係は、どうしようもなく哀しい。 実生活でもオースターは離婚して、オースターの息子は母親のもとで育ちました。 オースターは再婚して娘をつくり、元妻の名前は、彼の作品の中から 徹底的に「削除」されています。 忘れ去ってしまいたくなる過去の過ち。醜く哀しい過去の記憶です。 オースターが脚本を書いた映画『スモーク』(1995年)に登場した「作家」の名前が 「ポール・ベンジャミン」でした。 1982年の『スクイズ・プレー』の著者名「ポール・ベンジャミン」を、 1995年の映画『スモーク』にも登場させるとは! 「ポール・ベンジャミン」への強い愛着が感じられました。 その映画には、20代後半だった実の息子のダニエル・オースターが出演していました。 なんと「本泥棒」役で。この「本泥棒」はキーポイントとなる重要な役なのですけれど。 脚本家なのですから、脚本を自由に書き換えられるはずです。 息子の役なのですから、「本泥棒」ではなく、もう少しカッコいい役にしてほしかった。 いくらなんでも「本泥棒」だなんて。 「本書の第十九章がもつ艶(つや)やかな郷愁」(388頁)も感じられませんでした。 むしろ、まったく異質のものを読者は、感じました。 オースターが 「九歳」(136頁、308頁、334頁、337頁)の息子と一緒に野球を観た頃と、 二十代後半(1995年)になった息子のために映画のセリフを考えた頃とでは、 息子と父親の関係は、ずいぶん違ったものに変わっていたことでしょう。 「夢に描いた父への別れのことばだった。そんな父親にやさしく、この上なく思いやり深く、さよならと言っているのだった」(329頁) さよなら。 「もう親父とは話したくないんだよ」(330頁) 《備考》 2022年4月26日、息子ダニエル・オースター死亡。享年44歳。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ポール・オースターが1982年に別名義で発表した「私立探偵小説」。「スクイズ・プレー "Squeeze Play”」(ポール・ベンジャミン 新潮文庫)を読み終えました。 舞台は、ニューヨーク。探偵は、或る理由により検事補を辞め、私立探偵になったマックス・クライン。三十三歳。クラインは、メジャーリーグのかつてのスター選手、ジョージ・チャップマンから仕事の依頼を受けることになります。彼は、選手としての絶頂期、交通事故で片脚を失い、球界を去ることになりましたが、彼の名声は衰えることなく、世の中の求めに応じ、上院議員選挙に出馬すべく準備を進めていました。 そして、そのタイミングで彼の元に一通の脅迫状が届きます。一体誰がその脅迫状を送ったのか? マックス・クラインは、チャップマンの関係者を一人一人訪ね歩き、真実を明らかにすべく調査を進めていきます。ジョージの妻・ジュディス。イタリアン・マフィアのボス・コンティニ。その息子で弁護士のチップ・コンティニ。かつてチャップマンが所属していた球団、ニューヨーク・アメリカンズのオーナー・ライト、ワケありのコロンビア大学教授・ブライルズ。 そして、チャップマンが片脚を失った「交通事故」が過去から亡霊のように立ち現れ、ニューヨーク市警殺人課警部・グライムズもまた関連した或る事件によって、マックス・クラインの前に現れることになります。そう、「警官を除くと、警官に別れを告げる方法はいまだひとつなりと発明されていない」(「長い別れ」 田口俊樹訳)と思わせながら。探偵・クラインはフィリップ・マーロウを超えた饒舌さで彼らと<ワイズクラック>の応酬を繰り広げながら、命を狙われ、ファム・ファタールと出会い、死体と遭遇しながら、或る真実へと次第に辿り着くことになります。 チャンドラー・スクール・グルーピーたちにはこたえられない内容とオーセンティックなそのストーリーを私は好意的に読むことになりましたが、それは飽くまでかつての「私立探偵小説」へのノスタルジーに起因していますので、そこに例えば「ただの眠りを」(ローレンス・オズボーン 2020/1月)の持っていた濃密な「私立探偵小説」の<香気>を感じ取ることはありませんでした。 「私立探偵小説」とベースボールの関連は高いですね。ロバート・B・パーカーのいくつかの著作を想起しますが、手元にあった紙の本はすべて処分してしまったため、確認ができません(笑)。 それでも後半、マックスが九歳の息子を連れて野球場を訪れ、"Squeeze Play”を楽しむシークェンスは、野球を見ることへの<ときめき>を再現して、繰り返し読み返すことになりました。 野球という「牧歌的宇宙」を感じさせながら、ハードボイルドの真髄とも言える「女嫌いの系譜」を継承する本作を私はやはり嫌いになることはできない。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!