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苦役列車
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苦役列車の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.84pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全54件 21~40 2/3ページ
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期待して読みましたが、すこし期待外れな作品だと感じます。。。 まぁなんとか最後まで読破しましたが。。。 あまりお勧めのできる本ではない気がしますね。。。 | ||||
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若い頃、ガテン系バイトを渡り歩いた身としては、 本作を読んで懐かしい陶酔感に浸らせて貰った。 あの頃の錯誤と不安、疲労と鬱屈、そして何よりの野心を思い出した。 ――きっとどこかで挽回してやる。 主人公、貫多のキャラクターは、その野心の欠落に於いて、著者の小説の 中心人物となり得ている。私小説がそれとして、リアリズム表現されるべき ものであるならば、彼、貫多は巧みに込められたフィクションだ。 それ故に小説は、ファンタジックな現実を走り出す。 その勢いで作者は何れ罪悪を、父親を、その先々をも捉えることになるだろうか。 そこにはきっと、思想や権力や人の本性の問題も横たわることだろう。 ふと、阿部公房の飢餓同盟が思い浮かぶ。 作家の今後を楽しみにしています。 | ||||
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西村賢太「苦役列車」は、書き出しに驚いてしまった。 曩時(のうじ)北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。 いきなり「ことば」から始まるのだ。もちろん小説(文学)だから、それが「ことば」でつくられていることは承知しているのだが、しかし、私は驚いてしまうのである。 「曩時」って何? 私はこんなことばはつかわない。広辞苑で調べると「さきの時。むかし。以前。曩日(のうじつ)」とある。意味はわかったようで、わからない。「いま」ではなく、「むかし」ということ、なのかもしれない。つまり、ここに書かれていることは、「むかしむかし」で始まる「物語」ということなのかもしれないが……。 うーん。 言い換えると、ここに書かれているのは「現実」ではなく「物語」なのだ。そして、この小説は、あくまでも「物語」なのである。この小説は「私小説」、西村の体験を描いたものというふうに言われているけれど、それが西村の体験だとしても、西村はそれをあくまで「物語」として提出している。「ことば」の運動として提出しているということになる。 よくみると、たしかにそうなのである。ここに書かれているのは「日記」のことばではない。「日記」の文体ではない。自分を語るときのことばではない。自分の行動を記すのなら、 北町貫多(私)は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立っていった。 ということになる。けれど、西村は、そうは書かない。あくまで「北町貫多」を「私」という視点ではとらえない。「自動詞」の主語にはしないのである。「自動詞」としての行動を描くときでも、それを対象化する。つまり、つきはなす。 北町貫多は便所へ行った、ではなく、北町貫多の一日は便所へ行くことから始まるのだ、と対象化する。 そして、そのつきはなしによって、読者が主人公と向かい合うようにするのだ。読者が主人公になってしまうことを拒絶する。読者を主人公にはしない−−という操作で、主人公を「私(西村)」に引きとどめておく。そういう形での「私小説」である。 これは同時に芥川賞をとった朝吹真理子の小説と比べるとよりはっきりする。 永遠子(とわこ)は夢をみる。 貴子(きこ)は夢をみない。 ふたりの主人公が登場し、ふたりの行動は「自動詞」として書かれる。「夢をみる」「夢をみない」。そこに書かれているのは「私」ではないが、彼女たちは「私」として行動する。このときの「私」とは、「私=朝吹」ではなく、「私=読者」である。 ふたりの主人公を、読者は「私」として読みはじめる。それは「私」ではないけれど、小説を読むことで読者は「永遠子(私)」になり、「貴子(私)」になる。ふたりは別個の存在だが、そのどちらにもなる。ときには、同時にふたりになったりもする。 こういう主人公と読者の「同化」を西村のことばは拒んでいる。「主人公=読者(私)」を拒絶することで、「主人公=西村(私)」という形をとる。 「主人公=読者(私)」ではない世界では、「ことば」はけっきょく「読者(私)」のものではなく、西村のものである。そのことが、 あ、ここにあるのは、ことばだ、 という印象を呼び起こすのである。 しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思いきりよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りにして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上にふたたび身を倒して腹這いとなる。 若い肉体が書かれているのだが、私には、その肉体よりも、それを描写する「ことば」ばかりが見えてしまう。勃起したペニスは見えない。勃起したペニスを描写する「ことば」が見える。 「顔でも洗ってしまえばよいものを」ということばには、顔を洗わない主人公ではなく、顔を洗わない主人公を描写する「作者」が見える。 どの描写をとっても同じである。そこには「主人公」はいない。「主人公」を描写する「ことば」があり、その「ことば」を書きつらねる「作者=西村」がいる。 なるほど、そういう構造をもった作品が「私小説」なのか、と私は、考えながら納得してしまった。 もう一か所、具体的に書いておく。日雇い労働の昼飯どき。弁当が配られ、それを食べてしまう。そのあとの描写。 当然、これでは到底もの足りなく、むしろ底抜けな食欲の火に油を注がれたみたいな塩梅である。 西村の小説に何度も出てくる「塩梅」。自分のことを語るときにも「塩梅」ということばはつかうかもしれないが、ここではあくまで自分ではない誰かをみて、それを描写している。「食欲の火に油を注がれた」ように感じているときは、そんな自分を「塩梅」というように悠長に描写してはいられない。狂ったように動く感覚を、飢えを語ってしまうのが「自分」のことば、「主人公=私(読者)」のことばである。はげしい飢えがことばになっているとき、読者(私)は、その飢えを私自身のものと感じ、その感じのなかで主人公と一体化する。 「塩梅である。」という描写(ことば)では、読者(私)は主人公の飢えと一体化しない。離れたところから主人公を眺めてしまう。主人公と読者(私)のあいだに、「ことば」があって、その「ことば」を眺めてしまうのである。そして、あ、この「ことば」が西村なのだと思うのである。 金がないから主人公は弁当だけですませるが、金のある日雇い仲間は、自動販売機のカップラーメンやワゴン車が売りにきた焼きそばなどを食べている。それを眺める主人公の描写。 金のある者は弁当と共にそれらを添えておいしそうに食べているさまが、貫多には腹立たしく眺められて仕方がなかった。 食べている者を眺め、腹立たしかった、ではない。また、腹立たしく眺めた、でもない。「貫多には腹立たしく眺められて仕方がなかった。」と、はげしく動く感情を突き放して描写するのである。「ことば」にしてしまうのである。 感情を生きるのではなく、「ことば」を生きるのである。 「私小説」とは「ことば」を生きる作家の生き方なのだ、と思った。あ、こんなふうにして西村は自分を救ってきたのだ、「ことば」を生きることで現実を超越してきたのだ、と感じた。 これは最近ではめずらしい形の「ことば」と作家の関係であると思った。 | ||||
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近年の賞(アカデミー賞や日本の各賞など)は選考者の多様な価値観を感じさせられる。その世界の偉い人の判断も一つの相対敵なものである。 | ||||
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伝え方は上手で、なんともまぁ古風に作られております。 そこまで本を読まない自分としては難しい所もありましたが雰囲気は抜群。 うん、雰囲気は としか出てこない。 ストーリーは面白いとは思わない。 いわゆる【普通】のダメ人間の描きに徹している ほんとコイツ駄目だなぁという感情のみで、考えさせる事も特にない。 うーん ☆5を付けている人は一体なにに惹かれたのか文才でしょうか 「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」はとてもよかったです。 ただ受賞したのは苦役列車 面白いとは難しいです。 | ||||
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自分も学がなく、社会の底辺に属する職業に就いてたので共感する部分は多々ある。 終盤、作者の「ざまぁ~みろ」的なところも納得できる。 でも、文学的な美しさ、爽快感はない。 | ||||
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表題作は芥川賞受賞後の「文芸春秋」で読んだが、単行本は新潮社のナめた装丁に買う気が起こらなかった。それで「落ちぶれて…」は今まで読む機会がないままになっていたが、今ごろになって読むことになった。 まあ、さすがに、うまいし、面白いのだが……。芥川賞作家として読むと、単なる面白話になってしまいそうだ。ビートたけしが文化人になって、全然面白くなくなってしまったのに、お笑い芸人としてしがみつく不様が頭をよぎった。作中で貫多が心配している負け犬としての落ちぶれ方でなく、芥川賞で勝ち犬となった著者の行く末に一抹の危惧を覚えた次第である。 | ||||
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芥川賞とゆうので一度読んでみようと思い購入しました。 文才のない私にはどこが良いのか良く解りません。 | ||||
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まだ西村賢太が芥川賞を受賞する前のこと。偶然、書店で文芸誌(『新潮』2010年12月号)の表紙に「苦役列車」というなんとも直球なタイトルと西村賢太という未知の著者名を目にし、なんとはなしに心惹かれて、平素はほとんど買うこともない文芸誌を購入してしまった。 帰ってすぐにその「苦役列車」を読んでみた。現代(80年代)を舞台にしたバリバリの私小説であるのが物珍しく、いささか古風な言葉づかいが印象に残った。一気に読ませる力はある小説だとは思ったが、さほど目を見張るような作品だとは思わなかった。 芥川賞受賞後、西村賢太の他の作品を読んでみて驚いた。なんと目を見張るほど面白いではないか! そして、「どうで死ぬ身の一踊り」から始まり「暗渠の宿」、「二度とはゆけぬ町の地図」と読み進むうちに、超マイナーな大正期の私小説作家 藤澤清造への常軌を逸した偏執や、恋人へのせこいDVなど、普通に考えればあまり面白くはならなさそうな題材を、どこかユーモラスで良質なエンターテイメントにしてしまう西村節がどんどんやみつきになっていったのだ。 芥川賞受賞作はあまり面白くない、とはよく言われることだが、西村賢太の小説を読むなら、この作品ではなく他の小説から始めることをお勧めしたい。 | ||||
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少し面白い。でも普通だな〜と読み終えて感じた自分にとって 1番唸った箇所は最後の石原慎太郎さんの解説でした。 | ||||
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豊かな何でもある日本の国で、報われない働きかたをする労働者の紹介小説。人間は快楽(=お金)を感じる方へ動く。青年も中年も高齢者もできることの中で快楽の取り方に差があるだけで快楽を求めて活動する。この話しは無学歴、無資格で体だけを唯一の道具にして単調労働で働くモデルはいかに対価が薄いかを紹介している。アルバイト、契約社員、正社員とあるなかで、同じ作業をするにも付くオプションが違う。無学歴、無資格の身で作業をすると単調な一本の筋でしか対価は生まれないカタログ。一本の筋道で真面目に働いても報われないという見本カタログだろう。そこから脱け出すためには何を信じれば開けるのか!と思った。宗教か、資格取得か。人はお金稼ぎができる何者かになる為に宗教をしたり、資格取得に精をだす。稼げる身になる為に何に気づけばいいのか!何をおもい実践すればいいのか!そこを活字にできる人はいないものか。高校生、青年、中年も高齢者までそれを探している。現代日本には家電から食物、TSUTAYAにコンビニと何でもある国なのに、人を意欲的にする思想的なソフトがない国になった。そんなアプリがあっていい。 恵まれた国に生まれているのに、やるべき事が見つけられないのは何故だろう。そんな自分を他人のように大切に思える気持ちが読後にでた。逆転する働きかたは芥川賞授賞に匹敵する資格取得だけか。一般の労働者にとっては。小さな芥川賞に匹敵するものなら見つかりそう、そんなことをおもった。 | ||||
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それなりの内容ではありますが二度読み返したくなるものではなく、買うほどではありません。中卒で自意識過剰の救われない人間が書いた作品という意味では稀有ではありますが、文章力は作家の標準と比べて劣っているとさえ感じました。経済的困窮の象徴として、商業主義に基づいて選出されたんだと思います。 | ||||
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芥川賞受賞ということと、受賞式のニュースで見た西村氏の風貌や言動に興味を覚え、買いました。 著者をモデルにした主人公の小説、こんな人生もあるんだなと…一気に、興味深く読みました。※ネタバレになるので内容は省かせて頂きます。 私にとっては読み慣れない、聞き慣れない言い回しや言葉が若干多くて戸惑った感もあります。 | ||||
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芥川賞受賞直後に受賞作掲載の文芸春秋で読んだ。率直に言って小説としてはきちんと描けているし、特段の傷もない。だがいわゆる小説としてどうか?と言われると正直言って普通・・・。車谷長吉氏のような凄味と超絶的な巧さがあるわけでもないし、実際に西村氏は相当しんどい人生だったと思うのだがそのソウルが作品に表れておらず、戯画的に笑えるほどでもない。だが朝日新聞の広告記事やAMAZONのベストセラーリスト上位にあって「なんでそんなに売れてんの?」と思った際、はたと気付いた。 「格差社会だからなんだ・・・・。」 僕自身は「自分が感じている事を書いてくれてる」というノリで小説を読む生理や性分が無いのだが、大部分の人はそういう感覚で純文学を読む傾向が多い。それは太宰治と村上春樹氏の中核読者層が良い例だ。僕は若い時そういう傾向を唾棄すべきものと考えていたが、年をとったせいか「そういうありかたもあっていいじゃないか」と思うようになってきている。かつ純文学作家の若年デビュー=読書・経験不足で数年で消えてしまう傾向が続いてきていたが、40歳を超えた西村氏が受賞した事自体はいい傾向だと思う。色々書いてしまったが西村氏はもっと凄い小説をかけるようぜひ頑張って欲しい。 | ||||
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今時の小説では珍しい強烈な私小説です。 貫太(西村)が青春時代を過ごした時と、40代になった貫太という2部構成で書かれています。 父が性犯罪者という世間に対する強い劣等感を貫太(西村)は持っており中卒、日雇い労働者、短気、所謂``ダメ人間``で 毎日を日雇いで食いぶちを繋ぎ、自らの人生を先が見えず、どこまでもレールが続く``苦役列車``と表現してます。 文才はあると思いました。 | ||||
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主人公 の貫多が、西村氏なんだろうけれど。芥川賞受賞作の「苦役列車」、社会に対する反発、燃え盛るようなマグマのようなものを期待して読んだんだけれど、単に普通の、今まで自分はこのような生活をしていましたといった、そんな感じに終始一環。逆に、西村氏のみが発せるような熱い、社会に対する憤懣を猛然と書き綴ってほしかった。友達もいない、小説に没頭し、ものすごいコンプレックスの塊のような描写が数多くあります。辛い過去に反発し活字に没頭のようです。但し、芥川賞受賞作家として、今後文壇で活躍するには、この手の私小説以外に、もっと柔軟に幅広い作風を描けないと辛いと思いますよ。現状では次作を読んでみたいとは、正直思いませんでした。申し訳ございません。 | ||||
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芥川賞らしいと言えば、そうだけど、 楽しめる文学でもない。 私小説であることを強調し、 それを売りにしているように思うのだが、 どうも、その辺が、僕には合わない。 もちろん赤裸々な告白とも受け取れるが、 一方では小説、物語でもある。 もう少し、 主人公が憎めない感じがあれば、良いのだが、 リアルであれば、それで良い、というものでもないだろう。 あとは、好みですね。 う〜ん、僕は、またほかの作品を読みたい、とは思えなかったなぁ。 | ||||
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読んでいて気持ちのよくなる小説ではない。 どこか『蟹工船』のような、表舞台にはあらわれない、最下層生活者の闇をえぐる、痛烈な作風だと思う。 舞台設定は昭和の終わりでも、ネオン街の裏でホームレスが横たわる、今の「格差」時代に非常にマッチしている。 そしてまた別に感じたことは、文章の書き方も、内容も、とても、男っぽいということ。 私は女性読者なので、作中にときどき現れる男性視点の女性の見方や、即物的な性表現に少し拒否感があった。 でもそれは、この作者が執拗なまでに、普通は人に見せたがらないような主人公の赤裸々な「生」を、痛みを伴いながら 正直にえぐりだした結果だと思う。 主人公は、女性から見れば絶対につきあいたくないタイプの、「不潔・性欲の塊・金がない・学歴がない・ひがみが強い」 という何拍子もそろった筋金入りの落ちこぼれだ。 自ら下層にいることを認識しながら、それでもねじれたプライドだけは卑しく持ち続けている男の、 目をそらしたくなるような、よこしまで醜い感情をそのままぶちまけている。 読めば読むほど苦しいし、報われない感情がつらい小説だ。 それでも、最終的には非現実的な大成功をおさめたり、最終的には女にもてたり、金をもうけたりするような、 「きれいな」内容でないことに、この小説の最大の魅力を感じる。 日常は、茫々と、続いていく。 多くの人の読書傾向に触れる仕事をしているが、きれいで、ハッピーな小説を求める人が本当に多い。 でも、それは、現実逃避だったり、思考停止だったり、成功した人間しか見ない、認めないという勝ち組思考に 即したもののようにも思う。 その面では、こうやって、人間の心の闇を正直に見つめたような作品は、受け入れられにくいだろうが、 現代にとって必要な本だと思うし、たくさんの人に読んでほしいと思う。 | ||||
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悪くはありませんが、取り立てて秀作とも思えません。 学歴も資格も金も覇気もない主人公の澱んだ日常を描いています。 日雇い労働の現場やら自堕落な生活ぶりはよく分かるのですが、共感はしにくい。「自分のことが書かれている」と読者に思わせるのが良い小説の条件のひとつだとすれば、この主人公にそう感じる人はかなり少数派では? もっとも、作者は「自分よりダメな人間がいると読者に思ってもらいたい」と話していました。もちろんそうは思いますが、そんな優越感に浸りたい読者ってどのぐらいいるんでしょう? 一連の出来事を通して主人公の内面などに変化が出れば面白いのでしょうが、ひたすらダメ男のまま。言葉遣いも奇妙に古臭く、違和感がありました。 | ||||
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この人文章がうまい。芥川賞作家にこういう言い方も失礼だが、ぐんぐんひきこまれるうまさを感じられた。文学界の対談にものっていたが、すべての表現に効果を期待しているとのこと。納得。私小説というのはとかく露悪的な面が強いジャンルでもあるとは思うが、わざと悪い面を体感的に気持ち悪さとして読者に伝えることに執心しているのではないか?と勘ぐってみた。というのも、読後感としては、ある意味最悪だったからだ。あとで思い返して「これも計算だったのでは?」と思った次第。やや物事を裏面からみる単純化された観点があるものの、それもまた一つのキャラとして考えれば納得がいく。 蛇足ではあるが、同時受賞の「きことわ」に比べてとても読みやすく、かつ肉感的に迫る小説の醍醐味があるような気がした。私小説なので、表現の幅はともかく書かれるキャラの幅に限りがあるとは思うものの、人物自体の考えにバラエティがでてくるともっと面白いのではないかと愚考。いわば一連の作品が認識面での成長小説のようになっていければ今後もっと面白い展開がみられるのではないかと期待している。 | ||||
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