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正欲
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正欲の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.90pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全48件 41~48 3/3ページ
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マイノリティ当事者の気持ちはなんとなく分かるように書かれてるけど、根本的にあんまり面白くない。先が気になるから早く先が読みたいってならない。 | ||||
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結末がもやもやしました、あまり後味が良くないと感じました。 | ||||
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「何者」の時も思ったけれど、朝井リョウは人間の醜悪さを描くことに長けている。 本作も読んでいて、登場人物達の卑屈さ、傲慢さ、身勝手さに辟易した。 そもそも人の人生はこれほど性欲に支配されているだろうか。 性欲が特殊だと友達も出来ない、家族ともまともに対話出来ない、職場でも疎まれる。果たしてそうだろうか。 単にこの人達が自己憐憫に溺れ、他者を見下し、自らを特別視し過ぎているせいで上手くいかないのではないのか。 根底にあるのは、単なるコミュ力の低さであり、性癖はさほど関係ない。 小児性愛と誤解され蔑まれるのは気の毒だが、彼等も決して無実とは言えない。 自分と同じく動画を見ている者の中に、子供を性的に見ている人間がいることを知りながら、何も知らない小学生相手に、いわば自分にとっての「AV」を撮影させる無神経さ。視聴目的を知っている大人が相手だと気まずいから何も知らない子供の方が利用しやすいという身勝手。 他所の子供が絡んで来て服を脱ぎ出しても計画を続行し、撮影を止めず、画像を共有、保存していた事実。参加する人間を全く審査しなかった結果、小児性愛者の児童ポルノ撮影会を手引きしてしまった迂闊さ。 どれも、自分の不幸で頭がいっぱいで他者を思いやろうとしなかったことが、結局は身を滅ぼしたように見える。 単なる水の映像が規制されるわけないだろう。そこに無自覚な子供が絡んでいるかが問題で。被害妄想過多にも程がある。 だから終盤の八重子の主張に最も共感できた。どんな性的嗜好であれ、加害することは許されない。異性愛者だって痴漢をすれば捕まる。性欲は誰もが自制するものだ。自分を特別と思うあまり、そんな当たり前の事にも気付けない。 一方でそういう八重子も、盗撮とストーカー行為を犯している。 好奇心で兄の女関係を暴いてやろうと不在時に部屋に忍び込み、パソコンまで覗いておきながら、自分は何も悪くないのにトラウマを背負わされた等と言う始末。 冷静に見れば見るほど、登場人物達は矛盾に満ち、醜い心の持ち主だ。 作者は彼等に同情させるつもりでこの話を書いたわけではないだろう。 多様性を尊重と叫びつつ、本当には多様性を理解していない偽善の糾弾と、そもそも本当に多様性を手放しで許容して良いのかという疑念のジレンマ。 本書が描いているのはそういう事だと思う。 | ||||
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以前、ちょっと気になったので、 この商品をかごに入れたのですが、ずっと忘れていました。 今回、別の本を購入して、商品かごにこの本が入ってるのを気が付かないまま、注文してしまいました。 今の所、興味がないので、まだ読んでいません。 | ||||
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読んだ印象は凪良ゆうの流浪の月と同じでした。 読後感が同じで、言いたいことも同じだと感じます。 どちらも「多様性」という言葉では括れないもっと細かい嗜好と悩み。 それを分かち合える人だけでひっそり生きていくしかないのが今の世の中だ、という結論に至っているし、 二人はそれで絆は切れないし息を潜めるように生きていくんだろうと想像できる。 そしてどちらの小説でも「児童ポルノ」「児童性愛」という罪で捕まっている。 他人から見ればそうだけど、実はそうじゃない。 私はこれを読み始めた時「ゆたぼん」や「おじさんずラブ」を出してきて 割と批判している形に取り上げているのが面白いなと感じ読み進めました。 でもどちらも、それらに関してはふんわりとフェードアウトしていく印象で、ここはすっきりしなかったです。 ゆたぼんは将来どうなるかわからないし結論を今出せるものでもないのでいいのですが おじさんずラブに関しては、当時1話からリアルタイムで見た者としてそこまで深いテーマは全く感じず ただただ「BLの王道エピソードを演技派男優がやってる!」という贅沢感で見ていて 作り手もそうだと感じていました。それくらい王道の浅いエピソードだったのです。 ですが世間で受けて、作り手もだんだん社会問題に置き換えて地位を上げたような気がしていました。 この小説はそこをズバッと切り込んでいるようにも感じ、なかなか勇気のあることを書くなあと思いました。 全体的にすごく消化不良で終わった印象です。 いろんな問題をフェードアウトさせたまま最悪な結果で締めた。 夏月たちの感覚を理解する世界はまだ来ないし、この先くるような気もします。 そうでなくても日本の漫画文化はずいぶん変態的嗜好に優しい世界ですし、鉛筆と消しゴムを攻めと受けに置き換えて萌える、ということを当たり前にする若者がたくさんいますから 日本は他の国に比べたらとても寛容だと思います。 その上で、犯罪は犯罪なのです。 そもそも蛇口を盗むのも壊すのもトラックでぶつかるのも犯罪ですし。 その域を超えてしまった登場人物には全く同情できません。 男3人のパーティだってなぜ児童がくる可能性のある公園でやったのか。 独身の女性だって今時、公園に一人で行ってブランコ乗ってたら不審者扱いです。(本当にマジで母親に変な目で見られてどこかへ行くよう注意されます) 多様性というものを声高に叫んでくれる人がいるからこそ 生きやすくなっている人もいる。私もそうです。自分では叫ばないけど、そうやって社会の動きを変えてくれる人がいる、だからこそ 子供を産まなくても別居婚でも独身でも同性と住んでても、昔ほど変な目で見られなくなった。 たとえ浅くてチャラい社会の動きだったとしても、昔よりずっとマシです。 ここまで進んできたからこそ、次のステップとして「本当の多様性」ということに目が向く時期に来たのかもしれない。 そんなふうに感じました。 | ||||
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他のレビューにもある通り、本書は「現代の多様性礼賛は、LGBTなど『新しい正常』となった性的欲望に対しては門戸を開いているが、人間が裡に秘める根本的な了解不能性に対しては理解も想像もしようとしない、上辺だけの薄っぺらなものではないか」という著者の実感をもとに書かれている印象がある。実際、そうした読みに沿って、本書に快哉を叫びつつ「ダイバーシティ」や「リベラル」の欺瞞を腐すような書評も多く出ている。 この「了解不能な内面」を端的に表すシンボルとして、本書では「極めてマイナーで、同じ嗜好を持つ人間は非常に少なく、でも現実世界に全然いないというわけでもない」性的欲望として、対物性愛(objectophilia)が設定される。対物性愛で多く言及されるのは塔や橋梁などの巨大構造物への性愛だが、主人公たちの場合は大量の水の動態への性愛を持っている。朝井本人もこれをインタビューで「自分の中にある分からないモノ、結局つかめないモノの象徴」と語っている。 主人公たち3人(桐生夏月・佐々木佳道・諸橋大也)が共有するこの性的欲望は、それが物自体に向かっているために、本質的には他者を必要としない。そのことが逆に、彼らが「他者と普通に関係し、共に生きること」を不可能にしている。異性愛をひな形とするカップル主義に満ちた世界のなかで、3人は社会的に強い疎外感を感じ、誰にも理解してもらえない地獄を生きている。そんな彼らはネットや現実世界を通して互いに巡り会い、性的欲望を理解し合える相手を得たことで自己受容でき、生き続けることに希望を見い出す。佐々木と夏月は、誰にも理解されなかった性的欲望を共有できる同志として、結婚する(このあたりで、序盤で執拗に描写された3人の孤独感はおおむね解決しているともいえる)。そこで一転して悲劇が起こる。 佐々木と大也は、矢田部という仲間からシェアされた画像をめぐって児童ポルノ所持法違反で警察に逮捕され、男児小児性愛者と誤認され、メディアに報道され、社会的制裁を与えられる。彼らの性的欲望を「誤解」する無理解な検察官に、主人公たちは諦念と沈黙で応じる。彼らはようやく得た同志との繋がりを「いなくならないから」という言葉に託し、前向きに生き続けることを選ぶ。 …というのが本書のざっくりした展開なのだけど、実は朝井のいう「自分の中にある分からないモノ、結局つかめないモノの象徴」であるマイナーな対物性愛と、彼らが終盤で被る辛い体験のあいだには、直接・必然の繋がりはない。プロットを整理して読み直すと、最後の「悲劇」は主人公3人の性的欲望の特殊さや了解不能さそれ自体によってではなく、その性的欲望が男児小児性愛と混同(誤解)されたせいで起きたことに気づく。 ■物語をドライブする前提としての「小児性愛=〈悪い性欲〉」 この物語の梃子になっているのは、登場人物たちと読者の間に成立している「小児性愛は〈悪い性欲〉である」という隠れたコンセンサスだ。 本書タイトルの『正欲』が、異性愛主義と、それを性的対象や性的同一性に沿って拡張した「きれいな性的多様性」(たとえばLGBTQIA+...)のことだとすれば、主人公たちの対物性愛は一貫して〈正欲ではないが、罪のない性欲〉として描かれている。〈正欲〉から逸脱してはいるが、あまりにマイナーで一般の理解を超えているため、社会から「倒錯性欲」として名指しで糾弾されたり排除されたりすることもない。実践においても(本質的にはモノをめぐる欲望なので)自己充足的で、他の人間を傷つけることもない。社会に認められてはいないが、イノセントな性欲なのだ。一方で小児性愛については、主人公たちも他の登場人物も、はっきりと「社会が許容してはいけない類の性的多様性」=〈悪い性欲〉と位置づけている。そして朝井は、大半の読者もこの価値観を共有していることを知っている。 この暗黙の合意を梃子として使うことで、主人公たちの「罪のなさ」と悲劇性が際立つ。彼らの〈正欲ではないが、罪のない性欲〉が、世間の無理解によって〈悪い性欲〉と混同されたせいで、彼らは不当に罰を受けることになるのである。一部レビューでも指摘されているが、もしこの「〈悪い性欲〉との混同」という偶然の要素がなかったら、主人公たちの物語は「マイナー趣味の仲間とオフ会で出会えて癒されました、生きる希望が湧きました」という平和で平坦な話で終わってしまう。〈悪い性欲〉はこの平和に悲劇性を注入し、物語としての起承転結を整えるための欠かせない小道具として使われている。 その一方で、ここで〈悪い性欲〉とされている小児性愛が「なぜ・どのように〈悪い〉のか」という問題には、朝井はおそらく意識的に深入りを避けている。主人公たちの対物性愛は、物語序盤から少年youtuberという存在を通してうっすらと小児性愛の領域と紐づけられ、終盤に向けての伏線とされているのに、多様性を浅薄に賞揚する脇役たちも、保守的で頑迷な脇役も、そして主人公3人も、小児性愛がなぜ・どうタブーなのかについては触れないし、そのタブー性への異議申し立てもしない。逮捕の発端となったパーティー参加者・矢田部の心理はほとんど描写されず、読者が彼に感情移入を促されることもない。矢田部が本筋の外で犯した児童買春事件も、捜査のきっかけとして軽く言及されるだけで終わる。終盤の取調べのくだりは、実際には男児たちに性的関心がない佐々木や大也に対し、彼らの本当の性的欲望を理解できない警察や検察官が児童ポルノ所持容疑をかける、いわば理不尽な誤認逮捕のように描かれる。小児性愛が〈悪い〉ことは、本書では物語が語るべき対象というよりも語りの前提になっていて、その〈悪い〉ことを行ってしまう当事者の内面や動機や主張は一切顧みられない。 だからこそ多くの読者は、主人公たちが受ける処遇を不当で非合理だと〈安心して〉憤ることができるし、「何も罪のない主人公たちのことを理解も受容もできない『多様性の賞揚』なんぞマジクソ欺瞞ですわ〜」という感想にも誘導されていくことになる(実際、amazonにはそういうレビューが多い)。 では、もし仮に主人公3人が、矢田部と同様に小児性愛の傾向も持ち合わせた人物として設定されていたら? あるいは、矢田部が4人目の主人公として、その内面的葛藤や、仲間と出会えたことによる救済や自己受容を克明に描かれていたらどうだったろう? その場合は、主人公たちへの共感と憐憫、そして類型的な多様性賞揚への疑問や批判がレビューの多くを占めることはなかったのではないか。もしそういう筋書きだったら、この話は「一般社会に理解されない、孤独で善良な人たちの救済と悲劇と再生」の物語ではなくなってしまうからだ。主人公に共感し、彼らの運命に憤るような読みは、〈悪い性欲〉自体の容認・肯定にもつながってしまうからだ。それは、読者を居心地良くさせない。 〈悪い性欲〉をめぐる問いを周到に避けたのは、筆者の思慮深さによるものなのかもしれない。実際、多くの人はそんな葛藤を突き付けられることを読書体験に求めていないのかもしれない。自分自身の性的想像力の範囲をほんの少し拡げてみて、今まで想像したことのない〈非-正欲〉のありように思いをめぐらすという試みにさえ、戸惑ったり衝撃を受けたりする読者がこれだけいるのだ。〈悪い性欲〉の〈悪さ〉自体を懐疑し、それまで読者が内面化してきた倫理観を問い直すような強いプロットを筆者が選ばなかったことは理解できなくもない。 しかし、本書の狙いのひとつが「性的多様性を賞揚する世の中の流れは、その背後に〈社会が許容してもよい性的欲望/許容できない性的欲望の区別〉という傲慢な線引きを隠している」という欺瞞を暴くことにあるなら、むしろ主人公たちの〈正欲に入れてもらえないが、罪のない性欲〉よりも、この〈悪い性欲〉こそが問題の核心なのではないか、とも思う。 佐々木は冒頭の独白で、軽々しく「多様性」という言葉を使うマジョリティを「想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする」と非難しているが、実はこの物語の中で、彼らの対物性愛についてマジョリティが「直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じる」シーンは一度もない。あまりに「想像を絶する理解しがたい」ものだから、そもそもマジョリティはそれが性的な欲望だととらえないし、主人公たちもその欲望をマジョリティに向けて説明しようとは一度も試みない。実際には、本書で「直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたい」欲望として取り扱われているのは、誰でもはっきりと想像し、理解できる〈悪い性欲〉=小児性愛のほうなのである。 このあたりの、微妙に辻褄の合わない感じに、筆者のどういう思惑が現れているのかを読後ずっと考えているが、せっかく『正欲』というタイトルを冠した小説なのだから、この「〈悪い性欲〉はなぜ・どのように〈悪い〉のか(あるいは悪くないのか)」という問題には、もう少し真正面から向き合ってもらいたかったなあと思う。私達の社会が〈悪い性欲〉と規定しているものの筆頭が小児性愛、獣姦、近親姦だが、いまは獣姦をテーマとしたノンフィクションの『聖なるズー』がベストセラーになる時代だ。小説よりもノンフィクションのほうがタブーの領域を直視し、読者もその葛藤と向き合っているのだとしたら、何だか癪だなと思った。 ■「多様性の欺瞞」の告発としては、微妙に成立していないプロット 著者は性的な多様性を容認する社会の動きを、異性愛のカップル主義を踏襲したまま相手の性別を違える自由を加えただけの、表面的でうわべだけのもののように描く。それを体現するのが、八重子・よし香・優芽ら、いかにも浅薄に造型された斬られ役たちだ。 だが現代のLGBTQIA+運動は、アセクシュアルやアロマンティックのように「性的な欲望のない人」や「性的欲望とパートナーシップを結合させて生活を構築する意志のない人」も配慮と社会的受容の視野に入れている。クィア理論以後のセクシュアリティ運動の根底にあるのは、他者の権利侵害や抑圧構造の再生産を伴わないすべての性的欲望(あるいはその不在)を肯定する論理だ。「他人を害しない限り、個人の性的な好みや生活形態にとやかく言わないでくれ」という不干渉の倫理を、あらゆる関係や対象に拡げようとしている、と言い換えてもいい。その意味では、冒頭の佐々木の言葉にある「ほっといてほしいんです。ほっといてもらえれば、勝手に生きるので」という訴えは、性的マイノリティの運動の根本部分にちゃんと先取されている(なお90年代の米国のレズビアンゲイ運動は、「十全な判断能力を持たない未成年者への性的アプローチは、たとえ相手の同意を得ていても、他者危害原則に反する」という理由で小児性愛者の団体を運動体から排除した。この経緯を見ても、小児性愛は昔から「性の多様性」をめぐる喉の小骨、包摂不能な異物だったことがわかる)。 その立場から改めて見てみると、主人公たちの〈非-正欲〉は、自給自足的で他者危害もない、平和なものだ。現代社会が認めた「きれいな性的多様性」(LGBTなど)と絶望的に折り合わず、今後も「性の多様性」をめぐる運動から排除され続ける宿命にあるような〈悪い性欲〉ではない。多様性を賞揚する人々が今後も「解像度」を上げていけば、いずれ彼らの対物性愛が〈正欲〉の側に包摂される可能性は充分あるのだ。おめでたい多様性礼賛者として描かれる優芽やよし香たちも、その浅薄なおめでたさゆえに、彼らに普通に共感を示すようになるかもしれない(よし香が「価値観をアップデート」して「知らないんですか? オブジェクトファイルっていう人達もいるんですよ」なんて言い出す姿を想像するのは、とても容易い)。そして八重子は、大也が逮捕された後も彼との「繋がり」を維持する決意を滲ませている。 一方で物語終盤には、田吉という人物が登場し、佐々木を「男もいけるロリコン」と決め付け、彼らのような「異常者」への憎悪と蔑視を滔々と語る。彼は佐々木や小児性愛者を上から目線で断罪し、「社会にとって害悪なんだから、ずっと牢屋に入れといてくださいよ。ほんとに。できるだけ重い処罰にして、できるだけ出所しないようにしてくださいね。社会から隔離ぐらいすべきですって」「社会復帰支援とか、そういうのあいつらには意味ないんですって。仮に性犯罪者がうちの会社に再就職とかしようとしてきても、もう絶対拒否しますね、俺は。気持ち悪すぎる。ありえないです。あいつらは永遠にどっかに隔離しといたほうがいいんですって」とまで罵る。この田吉の長広舌は、主人公たちへの社会の無理解と蔑視・排除の感情を印象づけるハイライトとなっている。 しかしこの田吉は、多様性礼賛のムーブメントに共感して「価値観をアップデート」される類の人間ではない。旧弊な社会秩序と価値観に固執し、それ以外には想像力を巡らせることなく切って捨てる人物で、LGBTだのダイバーシティだのといったお題目を認めるとも思えない。筆者はこの物語のハイライトで、結局は多様性賞賛派ではなく、田吉というステレオタイプな超保守的人物に主人公たちを執拗に非難させることで『自分の中にある分からないモノ、結局つかめないモノの象徴』への社会の無理解・差別・排除などを表現することを選んだわけで、ここも「多様性を賞揚する社会の欺瞞」という本書のモティーフとうまく折り合っていないように感じる。 大也に「自分が想像できる"多様性"だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」とまで詰られた八重子が、それでも大也との「繋がり」を維持しようとする姿勢と、同僚の佐々木に対する田吉の圧倒的な切断と排除の姿勢を比べると、結局主人公たちを実際に苦しめている本丸は、たとえ浅薄でも「価値観をアップデート」して「解像度」を上げて彼らと繋がりを持とうとし続ける多様性賞揚派ではなく、田吉のように自らの価値観を一切疑うことなく「正常」以外を蔑視し断罪し続ける人々のほうだった、と読むこともできる。見方を変えれば、本書は「多様性賞揚の欺瞞」を描こうとしながら、その主題から逸脱するような要素がちゃんと含まれているわけで、これは筆者の意図以上の読みの可能性に向けて常に開かれている、小説というメディアの妙味かもしれない。 「上辺だけで多様性を礼賛するリベラルたちに、重大で本質的な問題提起を突き付けている」という論調で本書を賞賛する人達のなかには、実際にはこの田吉のような心性にもとづいて「リベラルの多様性賞揚」を論難したい人々が結構含まれているように見える。「朝井先生、よくぞ言ってくれました!」と快哉しつつ、といって、本書の主人公たちのような孤立した個を尊重して、彼らに寄り添おうという気持ちはさらさらない人々。「理解しえないものを理解しようとする姿勢」自体を否定し嘲笑し、自分たちがこれまで信じてきた「正常」の線引きを守りたい人々。他者を排除し断罪することに対して、誰かのお墨付きを得て安心したい人々(田吉は検察官の寺井に対して、繰り返し「そう思いません?」と同意を求める)。そういう、現実世界にたくさんいる田吉たちの「多様性批判」や「リベラル批判」の文脈で本書が持ち出されるのは、本書に含まれた問題提起の射程をごく狭く切り詰めてしまうことでもあり、残念だなあと思う。 最後に、本書の登場人物はわりと顔の肉が重力に負けがちである。 | ||||
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こんなものを絶賛してると、自分の読書量のなさを自己紹介してるようなものだからやめたほうがいい。 何か軽い小説を読みたいと思っていたところ、高橋源一郎さんが帯で絶賛してたので、読んでみたらがっかりした。 なんというか、最近沸々と湧いてきた多様性みたいな言葉を小気味よく使い、 いかに読者を釣ることを意識した売るために書かれた作品 ちょうど60点ぐらいの小説 | ||||
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ピンポイントに 八重子、お前のそれはトラウマじゃなくて、自業自得と言うんだ。と思ってしまった。たまたま目に入ったならトラウマでいいだろう。しかし、パスワードを入れた時点で発生した「罪と罰」だ。もしくは「好奇心猫をも殺す」だ。そして多分「素人JKなら誰でもいい」ではないだろうと。大也は優しいな。「一緒に考えるとしても、一緒に考えたい相手は少なくともあんたじゃない」と言い放たない辺りが 「理解」ってのはどの辺りを言うんだろう?性的嗜好に関しては「その部分は割とどうでもいい」って理解が一番楽な気がするんだが…半端に「分かってます」ってのが一番タチ悪いと。ついでに言えば「そういう事があるってのは知ってるが、自分はそこの部分は生理的にダメ」で、ダメな場合距離を取っても責められない位が程が良い。わざわざ石を投げに行かなきゃそれでよい が、法曹の場合は↑って訳にゃいかんだろうなあ。役割が違うから。社会正義の為というより安全な社会生活の維持の為に 楽しく面白く読みました | ||||
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