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(短編集)
一茶
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一茶の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全22件 1~20 1/2ページ
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新品同様です。気持ちよく読めました。 | ||||
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人間としての小林一茶の新しい発見ができます。 | ||||
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田辺聖子「ひねくれ一茶」(菊池寛賞)を読もうとしたら、難しい俳句の引用が多く、会話まで俳句調なので辟易してこちらを読んだ。こちらは普通の伝記小説で、一茶の生涯が簡潔に分かる。 | ||||
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本書に記されているのは、「我と来て遊べや親のない雀」の句から想像されるような、弱いものに温かな視線を向けるほのぼのとした俳人の話ではありません。 俳諧の道で名を上げようと野心を抱きながらも、江戸でもてはやされる俳人たちの俗物性をひどく嫌う。その一方であちらこちらで居候をし、俳諧の旅を続けるための路銀名目の僅かな収入に頼らざるを得ない、そういう我が身をいつも嘆いている。いわば根無し草のような俗人の人生です。 弟との相続争いも克明に描かれています。放り出してきた故郷の財産を遺言通りに半分受け取るにとどまらず、田畑から生じていた収入の元金利息相当分まで弟から搾り取ろうという執拗さ。陰鬱な話でありながら辟易させないのは、藤沢周平の筆力だと思います。 古典を江戸文化に反映させようとした芭蕉の情熱とは異なり、大衆文化の只中にいた一茶を突き動かしたのは、巻末解説のインタビューで藤沢周平自身が語っているように「何でも詠んでやろう」という貪欲さです。生涯で2万句を超える俳句を詠んだ一茶の情熱は、十一代将軍家斉の「大御所時代」の貨幣経済がもたらす自己増殖のドライブとは無関係ではないでしょう。 スポンサーとの関係に汲々とし、相続処理をビジネスライクに進める一茶の姿を、藤沢周平が淡々と描いています。 | ||||
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句からは余りに掛け離れた生き方に、驚かされた本。初めは読むのが、辛かった。しかしこうした赤裸々な生き方があったればこそ、情味のある句が生まれ得た、と云えなくもない。今もって、評価の狭間で、読後感が揺れ動いている。情感に流れない記述には、好感を抱く。 | ||||
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けさ秋や瘧(おこり)の落ちたやうな空 一茶 一茶の句を初めて知ったのは小学校の国語の授業。一茶という人はなんと愉快な人なのだろうとずっと思っていました。 実際は生涯を通じ薄幸の人。15歳の時江戸に奉公に出されますが馴染めず、生まれ故郷の信濃に帰り、初めて結婚したのは52歳の時。生まれた長男はすぐに他界。その後、長女「さと」が誕生します。 めだたさも中くらいなりおらが春 這へ笑へ二つになるぞ今日からは と詠みますが、その「さと」も初夏に亡くなり、二ヵ月して詠んだのが揚句です。 さて、藤沢周平の一茶。読んで心に重い一冊でした。赤貧と漂白に疲れた悲哀の俳人を美化することなくその人となりに迫った書。 藤沢周平は一茶のことを、「ある時は俗物であった。また、まぎれもない詩人だったのである。」とエッセイに記しています。 一茶は、二万におよぶ句を残しました。その中で、藤沢氏の最も好きな句は 木がらしや地びたに暮るる辻謡ひ 霜がれや鍋の墨かく小傾城 の二句だと言うことです。 | ||||
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とくになし | ||||
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田辺聖子の渾身作「ひねくれ一茶」のあとに本作を読みました。田辺聖子の作とともに傑作だと思います。有力な百姓家の長男であるにもかかわらず15歳で奉公に出されてから65歳で土蔵の中でこと切れるまで、貧乏と不幸の中でもがきながら俳諧の道を究めていく姿を丹念に描いています。なぜ江戸で宗匠として立つことができなかったのか、どのようにして独自の俳諧を詠むにいたったかを追っています。そこが田辺聖子作との違いかなと思います。一茶がこと切れる際をまるでろうそくが自然にふっと消えるかのような描写など優れた描写が随所にあり、読む人のこころをえぐります。 | ||||
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藤沢周平氏の作品を文庫本で読んでいくうちに、全集で揃えたい気持ちになり購入していたが、年金生活になり、新品を買えるゆとりがないので、インターネットで価格の安いものがあれば購入することにしています。今回、格安の商品があったので、購入しました。本の状態も良く、郵送状態も良かったので、満足しています。 | ||||
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車で30分ほどの場所に住んでいます。 知らない人はいない環境下で生きてきましたが。 こんなにも、生々しい一茶を教えられてしまったというのが感想です。 人間一茶は、必死に自分の道を生き切りました。 一茶が、晩年出逢えた女性達の逸話は、痛々しくもありますが、良かったなあとも感じる事でもありました。 ご子孫が今もご存命と云うのが、嬉しい事です‥‥が、哀れをも感じています。 | ||||
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ひょうひょうとした。主人公の表情が浮かんでくる。ときには、ニヤリとさせ、考えさせながら、物語にのめりこませる、著者独特の文章力は、さすが。 | ||||
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一茶に関する小説は、随分前になりますが、「ひねくれ一茶」(田辺聖子)以来となります。 こちらは、タイトル通りで「ひねくれ」た一茶の世の中を斜に構えてみる様な生き方を描いており、どちらかと言えば、一茶の明るい面を彼の句風さながらに描いています。 一方、藤沢周平のこちらの小説は、彼の神経質とも取れる様な心の暗い面を捉えているように思います。 ただ、こちらの方が非常に現実的である様に思います。 継母のいじめから江戸に出奔し、「俳諧」と言う自分の得意とする道を得て、「俳諧師」への道へ進みます。 しかし、金持ちの手慰み的な要素から、いつまでも「乞食」同然の旅暮らし主体の人生から抜け出せません。 家族とのすったもんだの末、故郷へ戻り自らの生きる道を見つけるまでの話になっています。 ただ、その時は、すでに彼自身も高齢になっており、身体の調子は必ずしも順調ではなく、満足のゆく生活とは言えないものです。 この本を読んで感じるのは、一茶の句の裏にあるものの「深さ」です。 表面的には、「滑稽さ」が表に出ているような句であっても、実際は非常に深刻な状況があったということが、良く分かりました。 一茶に関する二作品を読んで、一茶の真実により近づけたような気がしました。 | ||||
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小林一茶に関しては、昔教科書か何かに出ていた「やせ蛙負けるな一茶これにあり」などの句から、正当な俳句と違う剽軽な句を読む面白い人、というイメージを勝手に抱いていたが、本書を読んで全くそれが思い込みであったことがわかった。 本書では、幼少のころ生母に死に別れ、義母から苛められ故郷を離れ江戸に出て、そこで俳諧師として身を立てようとするが、常に貧困につきまとわれるという一茶の生涯が赤裸々に描かれている。 こう書くと随分暗い小説と思われるかも知れないが、実はそうではない。ふてぶてしい一面もある一茶の人柄なのか、作者の話の展開がうまいのか、次々と面白いエピソードが出てきて読み進めてしまうのだ。晩年になり、妻を娶った一茶にこれでもかという悲劇が押し寄せるが、最後は少しほっとするような終わり方でよかった。 | ||||
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一茶は生きている間に成功しなかった。時流に乗った俳人がちやほらされ、一茶はとうとう江戸から田舎へ戻らざるを得なかった。 この屈辱、悔しさはこの小説で藤沢周平が書いたよりも、もっとも激しいものであったに違いない。 一茶という男は俗物中の俗物である、とぼくは思う。名声欲、性欲、金銭欲、どれも凄まじい。そこにはもちろん、作句欲もある。生涯二万句というのは凄まじい狂気にも似た情熱なくしてありえない。凄まじい、というのは良くも悪くも才能なのだ。 この小説では、その作句欲があまり伝わってこない。あらゆることを、自分の私生活も、全部句にしてやろうと思わなければ二万句も作れないだろう。飢えている時も、財産をぶんどってやろうと目論んでいる時も、性欲が強まった時でも、一茶は常に句を考えていたのではないか。 しかし、それでもその努力は報われなかった。現実は厳しい。 でも一茶の生き方は、ぼくに重要なことを教えてくれた。一茶の人生には作句というすがれるものがあった。それが度重なる困難にみまわれても、彼の支えになった。成功するかどうかが問題なのではない、人生をいかに生ききるか、それこそが問題なのだ。 | ||||
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一茶の生誕地は訪ねたが、この度藤沢周平作「一茶」が映画化されるとのことで購入。文庫本は字が小さく読みずらいので、単行本を探した結果、古本の単行本が入手できた。20年位前は東京・神保町の古本屋街を捜し歩いたものだか、なかなか目的の本を探し出すのに苦労した。今日アマゾンで探すことが出来るという便利な時代となり、ありがたい。☆が一つすくないのは、字が期待に反して文庫本程度の大きさであったこと。梱包は丁寧であった。 | ||||
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一茶の生涯をテ-マにした小説は、他に田辺聖子著「ひねくれ一茶」がありますが、どちらもメモ魔の一茶の記録をもとに描かれていて、おもしろいです。 田辺著の一茶は明るく、こちらは暗く、生活苦を前面に押し出しています。一茶を知る上ではこの二作品を読むことが必要かと思います。 | ||||
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俳人一茶の人となりに興味津々。俳句や川柳が生れた経緯が実に面白い。これかにの展開が楽しみです。 | ||||
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以前から読みたいと思っていた本が安価に入手できました。これからもよろしくお願いします。 | ||||
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貧乏句が多いのか―秋の風乞食が我を見くらぶる 一茶は、俗にまみれて、俳諧を詠んでいる。 芭蕉は、高く心を悟りて俗に帰すべし、と教える。そして一茶の師匠成美も「あなたはご自分の肉声を出してきた…、独自の句境が開けるか、俗に堕ちてそれだけで終わるか」と話す。はたして、いずれなのだろうか。 読後、一茶の素朴な作風が、したたかに変わって見えてくる。 たとえば、彼は人間が鬱陶しくなると、物言わぬ動物や草木に語りかけた。 痩蛙まけるな一茶是に有り 義弟と遺産争いで、しのぎを削り、家を得て詠んでいる。 是がまあついの棲か雪五尺 一茶は俳諧で喰った。飯を食う手段とした。だが彼は、俳人でもあった。“俗にまみれ俳諧をもって俗出ずる”―独自の作風を得た人だったのだろう。だから時に風化せず、今に残っている。 | ||||
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一茶の旅は「漂泊」でも「悠々」でも「気儘」でもない。一茶にとっての旅は「出張」なのだ。旅そのものが、喰うことであり、生きることなのだ。ひたすらパトロンになり得る裕福な同好の士を訪ね歩く。行く先々で俳諧の師としてもてなされながらも、句会を主催し、素人の句を添削し、それを集めて句集を出版する。その中で、数夜の食や宿を得、また餞別銭を押し頂いて恥じない。今の感覚で言えば、どう見ても芸術家の行動ではないし、風流でもない。しかし、田舎者で貧乏な一茶には江戸を去るまで、あるいは旗本、あるいは豪商・富農が占める一派の頭領の地位を築くことはかなわなかった。しかも一茶の句は田舎くさく、貧しく、日常でありすぎた。蕉風では全くなかった。米びつの底に地獄を覗くような毎日。老いて江戸を去り、弟の田畑、家屋の半ばを寝穢くもぎ取って暮らし始める。若い嫁をもらい子も4人授かるが、全て死別する。家も焼けて失う。なんとも哀しい人生ではある。にも関わらず、いやだからこそか、人々の心の琴線に響く数多くの、なんと2万もの句を残してくれたのだ。一茶の句が詩歌の歴史の中になければ、この国の人々の魂はずいぶんと貧しいものになってしまったような気がする。 山寺や雪の底なる鐘の声 涼しさや欠け釜一つひとりずみ 痩蛙まけるな一茶これにあり 小便の身ぶるひ笑へきりぎりす どちらから寒くなるぞよかがし殿 やれ打つな蠅が手を摺り足をする 目出度さもちう位也おらが春 名月を取ってくれろとなく子哉 雀の子そこのけそこのけ御馬が通る なまけるなイロハニホヘト散桜 | ||||
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