義民が駆ける
- 歴史小説 (99)
※タグの編集はログイン後行えます
【この小説が収録されている参考書籍】 (違う表紙に投票したい場合もこちらから) |
■報告関係 ※気になる点がありましたらお知らせください。 |
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点0.00pt |
義民が駆けるの総合評価:
■スポンサードリンク
サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
現在レビューがありません
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
流石、藤沢作品と思いました。お若いころの作品なのでしょうが丁寧な時代考証に基にした 作品なので安心して読むことができます。小さな力でも結集すれば大きなことができることの 証のようです。生きている時代の指導者の力量を見定めることの大切さを教えてくれた小説と思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ありがとうございました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
越後長岡への転封を命じられた庄内藩の侍、商人、農民が、それぞれの立場で藩や生活を守ろうとした、天保義民事件を題材にした小説です。 著者ははじめこの義民事件から距離を置いた立場だったそうです。あまりにも美談に仕立て上げられていると感じたからです。 そういう背景もあって、単純な義挙としてではなく、色々な立場の者がそれぞれ自分たちの利益を考えて、ある者は自主的に、ある者は追いつめられて行動して、それが交錯して大きな流れになっていく様子が描かれています。 交錯する立場、複数の正義を語るために、著者は膨大な資料の読み込みを自らに課したことでしょう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「春秋山伏記」に続いて読んでみた。これも鶴岡を舞台にした作品。史実でもある「三方国替え」に巻き込まれた庄内藩がどのようにしてこの苦境から抜け出したかがテーマの作品。 話は江戸と荘内双方で展開する。時間的には天保11年で約8月の期間が扱われる。つまり、荘内(庄内?)の秋、冬、春、夏とすべての季節が登場する。 読後感はどうもいまいちだ。登場人物は多数にわたる。幕府の上層部、外様大名、荘内藩の上層部から有名な本間家や農民、いや農民の中でも階層や地域は細かく区分される。これらの名前を把握するのだけで大変だ。また、これは歴史的な資料からの引用だろうか、江戸時代の文書がそのまま引用される部分も多数で、これを理解するのも結構困難。本書が初めて発表された時点(1975年)での読者はこの部分を大した困難もなく理解できたのだろうか。 本書の肝は荘内の農民の江戸への上京と駕籠訴なのだが、この組織化の黒幕という部分がどうもわかりにくい。庄内藩の財政を支えていた有名な本間家も重要な役割を与えられるような当初の書き振りなのだが、途中からはトーンダウンしてしまう。スパイスとして配置されたであろうある人物(万平)もあまり登場することなく最後まで行ってしまう。最後は江戸町奉行の御裁きともいうある種のdeus ex machinaともいうべき仕掛けの登場で一応はめでたしめでたしとなるのだが、あまりにも安易な感じが否めない。本当のところはどうだったのだろうか。ただ本書の夏の最後のシーンは映画の一シーンにしても素晴らしい。 ところどころに顔をのぞかせるのが、農民と武士との利害のズレや農民の保守的な基盤の指摘。ここにこそ作者の思いがあったのかもしれない。全集での602ページから603ページの部分を引用してみたい。 「半ば本能的に、彼らは変革を嫌悪する。昨日のように今日があり、今日が何ごともなく明日につながることに、彼らは暮らしの平安を見る。そうである限り、たとえ細々とした暮らしでも、父祖以来の手馴れた生き方を頼りに、彼らは生き続けることが出来る。国替えの沙汰は、そういう彼らの生き方に、一方的に変革を強いる恐れがある無体なものとして立ち現れたのであった。帰ってきたのは、手垢に汚れた変わりばえもしない日日であるはずだった。だがその変わりばえしない暮らしが、いまは眩しく光りかがやくようだった。」 天保11年といえば、西暦では1840年。黒船まで後13年。明治まで27年。巨大な変革までもうあとちょっと、そういう時代のお話だった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本作の主人公は、「義民」たるべき庄内藩の百姓達ということになろうが、実はもう一人の「義民」がいた。その名は、矢部左近将監定謙(さだのり)。3か月前に、問題の「三方国替え」を策した老中首座水野忠邦が江戸町奉行に「登用」した人物である。尤も「以前に、忠邦と意見が衝突して役(勘定奉行)を解かれ」たこともあったが、忠邦には『町奉行にしたのは、儂じゃ。まさか、楯つきもしまい』との「権力の座にいる者の、肥大した自負」があった。しかし矢部は、例え「立場は苦しくな」っても、忠邦に「見くび」られるのを潔しとせずに、「江戸町奉行として、天下が注目している事件を一気に裁いてみせたい功名心」もあって、「国替え一件をそもそものいきさつから」「公けに」する「取り調べ」で臨み、結果老中首座を追い込み、「三方国替え」は「停止」となったのである。この経緯が描かれるのは、全体の2割足らずの分量であるが、権力内部での決着の付け方として、様々な示唆を持つとともに、物語をどんでん返しする箇所として、読み応えを感じさせた。 しかし本作の中心は、表題からして残りの8割ということになろう。言うまでもなく、庄内百姓達の信念に充ちた画策から粘り強く用意周到な決起(強訴)に至る経緯とその結末である。これに決起(強訴)の標的となる忠邦ら幕閣と、決起(強訴)に力を得た庄内藩主及び藩政中枢との複雑な思惑、駆け引きが、水戸藩や周辺諸藩を巻き込んで展開する様も加わり、本作全体を成す。 結局は、どう読み込むかということになるが、一様では済まない。敢えて指摘すれば、決起(強訴)は、百姓達が自ら考え、判断し、行動してのことであるが、それらを成さしめた要因に関し、記述が薄いことである。作中の百姓達は実に沈着冷静で、しかも高度な戦略性と計算された戦術性を兼ね備え、のみならず処罰覚悟の決死の訴えを、時を見計らって見事に進退させており、その様は、感動を越える。また彼らの強い精神性や指導者の優れた統制力は、眼を見張るものがある。小説の域にないことかも知れないが、本作では、何故それらが可能となったか、の分析が、百姓達の「昨日のように今日があり、今日が何ごともなく明日につながる」という保守性としか描かれていない。史実であるにも関わらず、迫真性に欠ける印象を拭い切れない所以か、と思料する。とともに小説の醍醐味を削いだ嫌いも否めなくしている。 | ||||
| ||||
|
その他、Amazon書評・レビューが 14件あります。
Amazon書評・レビューを見る
■スポンサードリンク
|
|