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彷徨える帝
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彷徨える帝の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全2件 1~2 1/1ページ
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どうも最近読んだ山岡荘八の「太平記」が物足りなく、この時代についての時代小説を探していました。最近読んだ「世阿弥の世界」に世阿弥と絡めてこの小説への言及があり、さっそく手に取りましたが、さて読後感というと。エンターテインメントとしてはよくできています。そうでなければ出版まで至りません。逼塞を余儀なくされた南朝側と幕府側という構図はうまく抽出されています。ただここに鎌倉公方という本質的なわかりにくいnoiseが絡んでくるため、どうしても複雑になってしまいますが、これは時代の拘束でもあります。両陣営の人物の配置もエンターテインメントとしては定番ながらもよくできています。ただあまりにもformatにはまりすぎて進めば進むほど類型的な印象を与えるものでもあります。 ただ問題は面の謎をうたいながらも、どうもその謎がストーリーの展開とうまくはまっていないようです。上巻の最初に明確に提示されながらも、下巻の最後までその謎がわかりやすく解明されることはなく、最後に突然出てきるという仕組みでは読者にその意味合いが伝わるのかどうかは疑問です。僕には今でもよくわかりません。それにここからは好みの問題になるのですが、どうもアクションシーンと濡れ場が頻発しすぎのようです。 そして一番の問題は著者のアナーキックなユートピア願望による作品の締めくくりです。この色合いは下巻の後半に至って色濃く出てくるのですが、著者のような締めくくり方では、この選ばれた時代の意味合いが薄れてしまうのです。時代という枠組みは、作品の全体を支える役割を放棄してしまい、著者の個人的な世界観を描くためのただのパーツの役割にdebaseされてしまいます。このようなしめくくりなら時代小説というformatはいかほどの意味を持つのでしょうか。読者の好みは様々です。でもこれでは私のような「時代」の固有の可能性と拘束の抽出を求めるものには大いなる不満が残るのです。 | ||||
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これまで室町中期の小説には決定版がない。 司馬遼太郎は、つまらないからだと斬って捨てた。 室町期は、思想ではなく功利や家督争いで戦がおこっていたからだ、という。 しかし、室町期であっても優れたリーダーは経営理念をもっていたはずで、ようは書きようだと思う。 室町期は日本文化のほとんどが出揃った時代であり、特に京都人は浪漫をかきたてられるのではないだろうか。 それだけにこの小説は惜しい印象がのこる。小説として上手くできているとは思う。観阿弥・世阿弥が絡む南朝伝来の仮面の謎に、振り回される若き剣豪と将軍の近習。2人の運命は仮面を挟んで交錯し、やがて対決を迎える。 夢中で読んだが、やはり決定版ではない気がした。多分、時代の主役をメインに据えていないからなのだろう。 特に足利義教は早すぎた信長として興味深い人物なので、これをメインにしてほしかった。岡田秀文の義教は小説としての吸引力が少し弱かったので、安部さんには是非決定版義教を描いてほしい。 | ||||
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