むらさきのスカートの女

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むらさきのスカートの女の評価:

3.46/5点 レビュー 201件。 C ランク

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Amazonレビュー一覧

Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全398件 321〜340 17/20ページ
No.78
(5pt)

奇想天外な、ストウリー

黄色いカーディガンの女は、むらさきのスカートの女の、ストーカーだつた。黄色いカーディガンの女は、むらさきのスカートの女なりたかった。そしてなった。
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女 Amazon書評・レビュー: 【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女より
4022516127
No.77
(5pt)

普通に楽しめる芥川賞作品!

前の芥川賞候補作『星の子』でいいなと思ってたら今回受賞、楽しみに読み始めた。

読み始めて最初、色が印象的。タイトルのむらさきのスカートにはじまり、クリームパン、黄色いカーディガン、青い衣装。このむらさきのスカートの女が色々な人に似て見えるのは、後から考えれば自分の憧れの人物像の投影か。

その憧れが近づくにつれ普通の人に見えてきて、今度は自分が憧れの人物そのものになると捉えるのが妥当か?その過程もいいテンポで語られ、最初むらさきのスカートの女が異常な人と思っていたら、徐々に主人公こそが異常であることに気付かされる流れは静かな表現なのになんとも不思議な迫力があった。

むらさきのスカートの女が忽然と姿を消すことでその実在さえもが疑わしく感じさせ、最後のシーンにつながることで余韻を持たせたのかな?ちょっと不思議な終わり方。

最後は何故か安部公房『箱男』を思い出した。
むらさきのスカートの女 (朝日文庫) Amazon書評・レビュー: むらさきのスカートの女 (朝日文庫)より
402265046X
No.76
(5pt)

優れた作家性。受賞歴なんて関係ない。

今村夏子は世の中からちょっと外れた人間を描くのが物凄く(物凄くという言葉では足りない。これは才能の域)上手い。「こちらあみ子」を読んだ時の「この作家は凄いのでは?」という予感は「あひる」「星の子」で確信に変わった。流石にそろそろネタ切れを起こすのでは……と思っていたけど、本作もまた違った「少し変わった人」の視点で描かれている。

今村夏子の本は……びっくりするくらい、リアリティがある。胸が痛くなるほどに。切なくなる。読み手である自分自身がマイノリティだから、「今村夏子は〈わかってる〉」と泣きたくなる。
一般に受ける本だなんて思わないけど、今村夏子の小説に救われるような気持ちになるマイノリティはきっとたくさんいる。自分だけじゃなかったんだ……って硬質化した孤独が溶け出す。
ゆっくりでいいから、この先も小説を書き続けて欲しい。

この小説にどんでん返しとか、ストーリーそのものの面白さを期待するのは個人の自由だけれど、今村夏子の小説の面白さはそんなところではないのだ。最初から最後まで、どの本も私には面白かった。
今村夏子の才能は……非常に貴重なものです。社会が定義する「ふつう」から外れた人を特別扱いせずに描くのが上手い。日本で今この感性を持っている作家はとても珍しい。正直、賞なんて取らなくても良かった。関係ない。受賞歴なんて関係なく優れた作家だと思う。
むらさきのスカートの女 (朝日文庫) Amazon書評・レビュー: むらさきのスカートの女 (朝日文庫)より
402265046X
No.75
(1pt)

読むだけ、損。

今村夏子「むらさきスカートの女」は第百六十一回芥川賞受賞作。その書き出し。
<blockquote>
 うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。いつもむらさき色のスカートを穿いているのでそう呼ばれている。
</blockquote>
 「呼ばれている」が二度繰り返されている。「受け身」である。では、だれが呼んでいるのか。「うちの近所」のひとということになるが、この小説の「うち」はかなり広く、そこに暮らす人(登場人物)もわりと幅広い。「あひる」と同様、「大人」と「こども」、その中間に「わたし」がいる感じだが。「うち」が「わたし」だけの主張であるために、「大人」「わたし」「こども」の交渉が明確にならず、「呼ばれている」が「浮いている」。
 この「呼ばれている」は「受け身」というよりも、一種の「逃げ」である。
 ほんとうは「わたし」が「呼んでいる」だけなのに、「呼ばれている」と書くことで「客観」のように書く。他者に「共有」されているように書く。「うち」という書き出しがそういうところへ読者をひっぱって行く。
 これは非常に「ずるい」書き方である。
 これから始まる小説は一風変わっているが、「主観(うち)」的なもの、あるいはファンタジーではなく「客観」的なものである、つまり「共有」されたものであると作者は主張するのだ。もし、このストーリーが「共有」されないとしたら、それは読者が悪いのだ、と先に言ってしまっている。あるいは、これから始まるのは「客観」なのだから、「共有して」と哀願から始まっているというべきか。「呼ばれている」の繰り返しの中に、私は、そういう「作者の地声(こころの声)」を聞く。
 この書き出しで、私は読む気力をそがれたのだが、少しがんばって読んでみた。
 すぐに「むらさきのスカートの女」とは別に「黄色いカーディガンの女」が登場する。彼女は「呼ばれていない」、つまり共有された呼称にはなっていない。「わたし」が勝手に呼んでいるだけだ。黄色いカーディガンの女は「そと」の人間であり、しかも「うち/そと」を決めたのは「わたし」なのである。
 この「微妙なずれ」を作品のなかで深めていけばいいのだが。
 これもあけすけな「手法(ずるさ)」にすぎない。
 「呼ばれている」と「まだ呼ばれていない」(わたしが呼んでいるだけ)をすれ違わせることで、「わたし」が「むらさきのスカートの女」と「呼ばれている」人間であり、その「呼ばれている」から「呼んでいる」人間になるために「黄色いカーディガンの女」を登場させたことがわかる。
 どっちにしろ、「わたし」ひとりなのだ。「共有されたわたし」が「むらさきのスカートの女」であり、「共有されていないわたし」が「黄色いカーディガンの女」なのだ。「わたし」は「わたし」を「分裂」させながら、ストーリーにしている。「客観」と「主観」を交錯させる。
 これは「あひる」の、「このあひるは、いままでのあひる?」「それとも別のあひる?」という交錯のさせ方に似ている。「事実」を知っている人と、知らない人がいる。知らない人も、実は知っていて知らないふりをしているだけ、とか。もう、細部は忘れてしまったが、「新しいあひる」は「いままでのあひる」と「呼ばれていた」のだったか。呼んだのは両親であり、こどもは知っているのに知らないふりをしてだまされ、「わたし」は疑問に思いながら「共有」を受け入れたのだったか。
 まあ、いいか。
 こういう「交錯」は「あひる」のように短い作品か、もっと長い作品でないと「交錯」が「作為」としてしか見えてこない。この小説も五十枚くらいの長さなら楽しいかもしれないが、長すぎる。
 舞台が「うちの近所」から「わたしの職場」(うちのホテル)に移ってからは、もう「呼ばれている」は消え。「うちの職場」なのに、ひとりひとりが固有名詞を持ち「うち」が「そと」になってしまう。むらさきのスカートの女は「日野」という名前がつけられ、「そと」の世界では「風貌」のかわりに「人間性」が「噂される」。「風貌」よりも「行為」そのものが「共有」される。「噂」は「呼ばれる」の別の言い方である。ストーリーがここからは別なものになってしまうのだ。
 それをもとにもどすために、作者は「ファンタジー」を持ち込む。不倫の上司が会談から落ちて死んでしまう。ほんとうは気絶だった、と言いなおす。
 「呼ばれる」「呼んでいる」を強引に「気絶を死んだと呼んだ(呼ばれた)」という形に転換できないこともない。「わたし」が「所長が死んだ」と「呼び」、それが「むらさきのスカートの女」には「所長が死んだと呼ばれた」と。
 ばかばかしくて、やめようと思ったが、最後まで読んだ。
 すると「予定調和」そのままに「わたし」が「むらさきのスカートの女」としてこどもたちに「共有」される。

 最近おもしろかったのは「コンビニ人間」だけだなあ、と思う。あの小説には「音の発見」があり、それが小説の「文体」をつくっていた。
 この小説では「呼ばれる(暗黙の、うちの世界)」が「飾り」で終わっている。「ホテル」からは通俗小説になってしまっている。
むらさきのスカートの女 (朝日文庫) Amazon書評・レビュー: むらさきのスカートの女 (朝日文庫)より
402265046X
No.74
(5pt)

普通に楽しめる芥川賞作品!

前の芥川賞候補作『星の子』でいいなと思ってたら今回受賞、楽しみに読み始めた。

読み始めて最初、色が印象的。タイトルのむらさきのスカートにはじまり、クリームパン、黄色いカーディガン、青い衣装。このむらさきのスカートの女が色々な人に似て見えるのは、後から考えれば自分の憧れの人物像の投影か。

その憧れが近づくにつれ普通の人に見えてきて、今度は自分が憧れの人物そのものになると捉えるのが妥当か?その過程もいいテンポで語られ、最初むらさきのスカートの女が異常な人と思っていたら、徐々に主人公こそが異常であることに気付かされる流れは静かな表現なのになんとも不思議な迫力があった。

むらさきのスカートの女が忽然と姿を消すことでその実在さえもが疑わしく感じさせ、最後のシーンにつながることで余韻を持たせたのかな?ちょっと不思議な終わり方。

最後は何故か安部公房『箱男』を思い出した。
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女 Amazon書評・レビュー: 【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女より
4022516127
No.73
(5pt)

優れた作家性。受賞歴なんて関係ない。

今村夏子は世の中からちょっと外れた人間を描くのが物凄く(物凄くという言葉では足りない。これは才能の域)上手い。「こちらあみ子」を読んだ時の「この作家は凄いのでは?」という予感は「あひる」「星の子」で確信に変わった。流石にそろそろネタ切れを起こすのでは……と思っていたけど、本作もまた違った「少し変わった人」の視点で描かれている。

今村夏子の本は……びっくりするくらい、リアリティがある。胸が痛くなるほどに。切なくなる。読み手である自分自身がマイノリティだから、「今村夏子は〈わかってる〉」と泣きたくなる。
一般に受ける本だなんて思わないけど、今村夏子の小説に救われるような気持ちになるマイノリティはきっとたくさんいる。自分だけじゃなかったんだ……って硬質化した孤独が溶け出す。
ゆっくりでいいから、この先も小説を書き続けて欲しい。

この小説にどんでん返しとか、ストーリーそのものの面白さを期待するのは個人の自由だけれど、今村夏子の小説の面白さはそんなところではないのだ。最初から最後まで、どの本も私には面白かった。
今村夏子の才能は……非常に貴重なものです。社会が定義する「ふつう」から外れた人を特別扱いせずに描くのが上手い。日本で今この感性を持っている作家はとても珍しい。正直、賞なんて取らなくても良かった。関係ない。受賞歴なんて関係なく優れた作家だと思う。
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女 Amazon書評・レビュー: 【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女より
4022516127
No.72
(1pt)

読むだけ、損。

今村夏子「むらさきスカートの女」は第百六十一回芥川賞受賞作。その書き出し。
<blockquote>
 うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。いつもむらさき色のスカートを穿いているのでそう呼ばれている。
</blockquote>
 「呼ばれている」が二度繰り返されている。「受け身」である。では、だれが呼んでいるのか。「うちの近所」のひとということになるが、この小説の「うち」はかなり広く、そこに暮らす人(登場人物)もわりと幅広い。「あひる」と同様、「大人」と「こども」、その中間に「わたし」がいる感じだが。「うち」が「わたし」だけの主張であるために、「大人」「わたし」「こども」の交渉が明確にならず、「呼ばれている」が「浮いている」。
 この「呼ばれている」は「受け身」というよりも、一種の「逃げ」である。
 ほんとうは「わたし」が「呼んでいる」だけなのに、「呼ばれている」と書くことで「客観」のように書く。他者に「共有」されているように書く。「うち」という書き出しがそういうところへ読者をひっぱって行く。
 これは非常に「ずるい」書き方である。
 これから始まる小説は一風変わっているが、「主観(うち)」的なもの、あるいはファンタジーではなく「客観」的なものである、つまり「共有」されたものであると作者は主張するのだ。もし、このストーリーが「共有」されないとしたら、それは読者が悪いのだ、と先に言ってしまっている。あるいは、これから始まるのは「客観」なのだから、「共有して」と哀願から始まっているというべきか。「呼ばれている」の繰り返しの中に、私は、そういう「作者の地声(こころの声)」を聞く。
 この書き出しで、私は読む気力をそがれたのだが、少しがんばって読んでみた。
 すぐに「むらさきのスカートの女」とは別に「黄色いカーディガンの女」が登場する。彼女は「呼ばれていない」、つまり共有された呼称にはなっていない。「わたし」が勝手に呼んでいるだけだ。黄色いカーディガンの女は「そと」の人間であり、しかも「うち/そと」を決めたのは「わたし」なのである。
 この「微妙なずれ」を作品のなかで深めていけばいいのだが。
 これもあけすけな「手法(ずるさ)」にすぎない。
 「呼ばれている」と「まだ呼ばれていない」(わたしが呼んでいるだけ)をすれ違わせることで、「わたし」が「むらさきのスカートの女」と「呼ばれている」人間であり、その「呼ばれている」から「呼んでいる」人間になるために「黄色いカーディガンの女」を登場させたことがわかる。
 どっちにしろ、「わたし」ひとりなのだ。「共有されたわたし」が「むらさきのスカートの女」であり、「共有されていないわたし」が「黄色いカーディガンの女」なのだ。「わたし」は「わたし」を「分裂」させながら、ストーリーにしている。「客観」と「主観」を交錯させる。
 これは「あひる」の、「このあひるは、いままでのあひる?」「それとも別のあひる?」という交錯のさせ方に似ている。「事実」を知っている人と、知らない人がいる。知らない人も、実は知っていて知らないふりをしているだけ、とか。もう、細部は忘れてしまったが、「新しいあひる」は「いままでのあひる」と「呼ばれていた」のだったか。呼んだのは両親であり、こどもは知っているのに知らないふりをしてだまされ、「わたし」は疑問に思いながら「共有」を受け入れたのだったか。
 まあ、いいか。
 こういう「交錯」は「あひる」のように短い作品か、もっと長い作品でないと「交錯」が「作為」としてしか見えてこない。この小説も五十枚くらいの長さなら楽しいかもしれないが、長すぎる。
 舞台が「うちの近所」から「わたしの職場」(うちのホテル)に移ってからは、もう「呼ばれている」は消え。「うちの職場」なのに、ひとりひとりが固有名詞を持ち「うち」が「そと」になってしまう。むらさきのスカートの女は「日野」という名前がつけられ、「そと」の世界では「風貌」のかわりに「人間性」が「噂される」。「風貌」よりも「行為」そのものが「共有」される。「噂」は「呼ばれる」の別の言い方である。ストーリーがここからは別なものになってしまうのだ。
 それをもとにもどすために、作者は「ファンタジー」を持ち込む。不倫の上司が会談から落ちて死んでしまう。ほんとうは気絶だった、と言いなおす。
 「呼ばれる」「呼んでいる」を強引に「気絶を死んだと呼んだ(呼ばれた)」という形に転換できないこともない。「わたし」が「所長が死んだ」と「呼び」、それが「むらさきのスカートの女」には「所長が死んだと呼ばれた」と。
 ばかばかしくて、やめようと思ったが、最後まで読んだ。
 すると「予定調和」そのままに「わたし」が「むらさきのスカートの女」としてこどもたちに「共有」される。

 最近おもしろかったのは「コンビニ人間」だけだなあ、と思う。あの小説には「音の発見」があり、それが小説の「文体」をつくっていた。
 この小説では「呼ばれる(暗黙の、うちの世界)」が「飾り」で終わっている。「ホテル」からは通俗小説になってしまっている。
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女 Amazon書評・レビュー: 【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女より
4022516127
No.71
(1pt)

届いた現物 最悪

新品を注文したはずなのに、本誌カバーの一部は破れてるし、カバー通り越して、本自体 一部 陥没したような深いキズがついてるし。おまけに 本の中には 長い髪の毛が挟まってるし。

なかなか忙しくて、本屋にもいってる時間ないし、少し定価より高くなるけど まーいっかと思ってAmazonで注文したのに。
何だか詐欺にあった気分。
面倒くさいから、返品も交換もしないけど、こんな事 2度と誰にも 起きてほしくないと思って レビューを書きました。
星1個つけるのも 勿体ないと思える気分です。
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女 Amazon書評・レビュー: 【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女より
4022516127
No.70
(3pt)

サスペンスのようで面白いが純文学?

今度の芥川賞受賞作は「女性がむらさきのスカートの女に興味をもちつけ回す話」ときいてそれだけで面白そうだと購入。期待通り面白くはありました。サスペンス要素もありどうなるのかドキドキして一気読みはしました。
しかし後に残るものはないです。読み返す気にもならず単行本での購入は高く感じました。読みやすいだけで純文学要素はかなり薄いです。

時代設定は10数年前か、職場の描写はリアル。登場するスタッフ達は関わりたくないタイプの人ばかり。今なら「なぜまだ若い女性がこんな生活してるのか」と思いそうですが、若者が日雇いバイトで食いつなぎホームレスも珍しくない、フルタイムのバイトは争奪戦の時代があったのでありえますね。
むらさきのスカートの女 (朝日文庫) Amazon書評・レビュー: むらさきのスカートの女 (朝日文庫)より
402265046X
No.69
(4pt)

とにかく貧しさに負けずに己を信じてしぶとく精一杯人生を全うして欲しいですね。

私にとって初読みとなる今が旬の人気作家・今村夏子さんの芥川賞受賞作です。良い悪いは別にして文学賞の受賞は作家の勢いと時の運が絶妙なバランスで微笑むのかなと思いましたね。スピン(栞紐)の色が紫で表紙イラストも奇妙な味わいでビジュアル的にも中々にインパクトがありますね。女主人公の「むらさきのスカートの女」に対するストーカー的な監視と献身は些か異常ですが理屈抜きでそれ程に運命の人だったのでしょうね。友達になる悲願の夢が消え去ったのは残念ですが、彼女の代役を務めて何時か帰って来る日を待つのが一生の仕事でしょうね。

「むらさきのスカートの女」日野まゆ子は惨めだった生活を脱して幸福な安定した人生を歩み始めたのに欲張り過ぎて道を踏み外してしまったのがとても惜しかったですね。彼女を静かに見守る「黄色いカーディガンの女」権藤チーフの行動を、滑稽を通り越して狂気と見る方もいるかも知れませんが私はそうは思いませんね。彼女の人生の好転を我が事の様に喜び身を削ってでも救いの手を差し伸べ例え裏切られても少しも恨まない、これはもう疑いなく真実の愛だと思いますし、とにかく貧しさに負けずに己を信じてしぶとく精一杯人生を全うして欲しいですね。
むらさきのスカートの女 (朝日文庫) Amazon書評・レビュー: むらさきのスカートの女 (朝日文庫)より
402265046X
No.68
(3pt)

サスペンスのようで面白いが純文学?

今度の芥川賞受賞作は、女性がむらさきのスカートの女に興味をもちつけ回す話、ときいてそれだけで面白そうだと購入。
そして期待通りとても面白いものでした。サスペンスのような要素もあり、どうなるのかドキドキして一気読み。時代設定は10年ぐらい前でしょうか。
今なら「なぜまだ若い女性がこんな生活してるの」と思いそうですが、10~20年前なら「誰でもありえる話」だった気がします。
若者が日雇いバイトで食いつなぐ。女性のホームレスも珍しくない。フルタイムのバイトは争奪戦。採用されやすい職場はろくでもないから離職率が高い。
高級ホテルの客室清掃の仕事は面白そうでした。登場するスタッフ達は関わりたくないような感じの人ばかり。
同じく清掃の仕事など点々として突然解雇されたりと不安定だったであろう作者は、時々作家の主婦みたいなので「なんだ。私の方が不安定で貧しそうなのに高い単行本買うんじゃなかった」と思わされました。
最近の芥川賞は昔より軽い作品が多いのでしょうか。「ちょっと面白い小話」とは思ったけど、純文学なのかは謎です。
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女 Amazon書評・レビュー: 【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女より
4022516127
No.67
(4pt)

とにかく貧しさに負けずに己を信じてしぶとく精一杯人生を全うして欲しいですね。

私にとって初読みとなる今が旬の人気作家・今村夏子さんの芥川賞受賞作です。良い悪いは別にして文学賞の受賞は作家の勢いと時の運が絶妙なバランスで微笑むのかなと思いましたね。スピン(栞紐)の色が紫で表紙イラストも奇妙な味わいでビジュアル的にも中々にインパクトがありますね。女主人公の「むらさきのスカートの女」に対するストーカー的な監視と献身は些か異常ですが理屈抜きでそれ程に運命の人だったのでしょうね。友達になる悲願の夢が消え去ったのは残念ですが、彼女の代役を務めて何時か帰って来る日を待つのが一生の仕事でしょうね。

「むらさきのスカートの女」日野まゆ子は惨めだった生活を脱して幸福な安定した人生を歩み始めたのに欲張り過ぎて道を踏み外してしまったのがとても惜しかったですね。彼女を静かに見守る「黄色いカーディガンの女」権藤チーフの行動を、滑稽を通り越して狂気と見る方もいるかも知れませんが私はそうは思いませんね。彼女の人生の好転を我が事の様に喜び身を削ってでも救いの手を差し伸べ例え裏切られても少しも恨まない、これはもう疑いなく真実の愛だと思いますし、とにかく貧しさに負けずに己を信じてしぶとく精一杯人生を全うして欲しいですね。
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女 Amazon書評・レビュー: 【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女より
4022516127
No.66
(1pt)

芥川賞作品としてはどうか?

この作品が芥川龍之介賞受賞後に読みましたが、大衆文学としては兎も角、純文学として選出されることはどうかなと感じました。近年の芥川賞の受賞作が純文学か否かは何年も前から議論されることですが、この作品は明確に純文学とは言えないと感想します。

その理由の第一が『伝えたいことが何なのか』さっぱり伝わらないこと。
むらさきのスカートの女や黄色いカーディガンの女の人生観や願望など、私にはまったく伝わりませんでした。
人生観も願望も何もない女を描いているのかもしれませんが、それならそれで退廃性や利己主義を表してほしかった。
伝えたいことがない作品ならば、読者との共感は生まれません。共感がないものが、学校の教科書に載っても構わないような純文学と言えるかどうか。
一方、共感がない作品もあります。ドキュメンタリーなどの作品も共感がない場合もあります。
金原ひとみさんの『蛇にピアス』、綿矢りささんの『蹴りたい背中』、田中慎弥さんの『共喰い』などなど、共感するかというとそうでもないタイプの読者もいたはずです。しかしそういう作品は、自分が知らなかった世界に驚くから感動するわけです。でも、むらさきのスカートの女や黄色いカーディガンの女のような変わり者は皆の近くにわんさかと居ます。今さら驚きません。
共感も感動も何もない作品が純文学と言えるのだろうか。

第二の理由が『進行の視点が変わること』です。
黄色いカーディガンの女という『私』の語り口で物語りは進行しますが、度々途中で『私』が見えないはずのところを描写します。
まるで劇画や脚本作品のようです。
漫画や映画も好んで観ますが、その手法を純文学に持ち込むと読んでいて疲れます。

 *  *  *

作品としては面白いのかもしれません。僕は全く面白くなく、どこでどんでん返しが起こるのかと思っていましたがそれも起こらず消化不良でしたが、多くの人には興味ある作品なのでしょう。
でも、純文学作品の登竜門、芥川賞ということに関してはどうなのか。そういう気持ちで読み終えました。

芥川賞には、純文学であること、新人であることという条件がありますが、これが選考を苦しめているのではないでしょうか。純文学を書ける新人を年に二回も選出することが難しいのではないでしょうか。ならば、新人という条件を捨て、ベテラン作家が何度も芥川賞を受賞しても誰も不愉快にならないと思いますがいかがでしょうか。
むらさきのスカートの女 (朝日文庫) Amazon書評・レビュー: むらさきのスカートの女 (朝日文庫)より
402265046X
No.65
(4pt)

わからない。続編を書いてほしい。

「むらさきのスカートの女」は、常に紫のスカートをはいているわけではない。子どもたちと視点人物にだけはには有名だが、実はそれほど世の中に認知されているわけではない。どれが客観的事実でどれが主観的意見なのか、判然としない部分がある。
 視点人物にとって「ともだちになりたい」とはどういう感情なのだろうか。友達になりたい人に対して、肉屋のショウケースに激突するほどの勢いで全身で体当たりしに行くか?名前を知っているのに心の中で迄「むらさきのスカートの女」と呼んでいるのはなぜなのか。
 謎だ。視点人物の容姿が想像できない。続編「黄色いカーディガンの女」執筆希望。
むらさきのスカートの女 (朝日文庫) Amazon書評・レビュー: むらさきのスカートの女 (朝日文庫)より
402265046X
No.64
(1pt)

芥川賞作品としてはどうか?

この作品が芥川龍之介賞受賞後に読みましたが、大衆文学としては兎も角、純文学として選出されることはどうかなと感じました。近年の芥川賞の受賞作が純文学か否かは何年も前から議論されることですが、この作品は明確に純文学とは言えないと感想します。

その理由の第一が『伝えたいことが何なのか』さっぱり伝わらないこと。
むらさきのスカートの女や黄色いカーディガンの女の人生観や願望など、私にはまったく伝わりませんでした。
人生観も願望も何もない女を描いているのかもしれませんが、それならそれで退廃性や利己主義を表してほしかった。
伝えたいことがない作品ならば、読者との共感は生まれません。共感がないものが、学校の教科書に載っても構わないような純文学と言えるかどうか。
一方、共感がない作品もあります。ドキュメンタリーなどの作品も共感がない場合もあります。
金原ひとみさんの『蛇にピアス』、綿矢りささんの『蹴りたい背中』、田中慎弥さんの『共喰い』などなど、共感するかというとそうでもないタイプの読者もいたはずです。しかしそういう作品は、自分が知らなかった世界に驚くから感動するわけです。でも、むらさきのスカートの女や黄色いカーディガンの女のような変わり者は皆の近くにわんさかと居ます。今さら驚きません。
共感も感動も何もない作品が純文学と言えるのだろうか。

第二の理由が『進行の視点が変わること』です。
黄色いカーディガンの女という『私』の語り口で物語りは進行しますが、度々途中で『私』が見えないはずのところを描写します。
まるで劇画や脚本作品のようです。
漫画や映画も好んで観ますが、その手法を純文学に持ち込むと読んでいて疲れます。

 *  *  *

作品としては面白いのかもしれません。僕は全く面白くなく、どこでどんでん返しが起こるのかと思っていましたがそれも起こらず消化不良でしたが、多くの人には興味ある作品なのでしょう。
でも、純文学作品の登竜門、芥川賞ということに関してはどうなのか。そういう気持ちで読み終えました。

芥川賞には、純文学であること、新人であることという条件がありますが、これが選考を苦しめているのではないでしょうか。純文学を書ける新人を年に二回も選出することが難しいのではないでしょうか。ならば、新人という条件を捨て、ベテラン作家が何度も芥川賞を受賞しても誰も不愉快にならないと思いますがいかがでしょうか。
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女 Amazon書評・レビュー: 【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女より
4022516127
No.63
(4pt)

わからない。続編を書いてほしい。

「むらさきのスカートの女」は、常に紫のスカートをはいているわけではない。子どもたちと視点人物にだけはには有名だが、実はそれほど世の中に認知されているわけではない。どれが客観的事実でどれが主観的意見なのか、判然としない部分がある。
 視点人物にとって「ともだちになりたい」とはどういう感情なのだろうか。友達になりたい人に対して、肉屋のショウケースに激突するほどの勢いで全身で体当たりしに行くか?名前を知っているのに心の中で迄「むらさきのスカートの女」と呼んでいるのはなぜなのか。
 謎だ。視点人物の容姿が想像できない。続編「黄色いカーディガンの女」執筆希望。
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女 Amazon書評・レビュー: 【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女より
4022516127
No.62
(5pt)

おかしいのにおかしくない

23年間生きてきて人生で初めて小説を読みました。本を読むのが苦手な私でも一週間も掛からずに読み終えることが出来ました。
美しい言い回しや回想シーンなどがないためか、とても読み進めていきやすい作品でした

むらさきのスカートの女は現実世界の街中でもたまに見かける風変わりな女性です。
「あの人って普段どんな生活しているんだろう?」という地味に気になる存在を、主人公の「わたし」が代わりに探っていってくれる感覚です。

最初から話しがおかしいのに、途中からそのおかしさが普通になっていき
いつの間にか、「主人公→むらさきのスカートの女」という形が 「読み手→主人公→むらさきのスカートの女」 という私達が主人公のストーカーへとなっていきました。結局のところ私達は主人公のような人物にになり得るし、むらさきのスカートの女のような存在にもなり得るんだと思いました。
それをめちゃくちゃ激しく書いたような感じです。
初めて読む本をこの本で本当に良かったと思いました。これから本を読もうと思わせてくれる作品に出会えて本当に良かったです。
むらさきのスカートの女 (朝日文庫) Amazon書評・レビュー: むらさきのスカートの女 (朝日文庫)より
402265046X
No.61
(4pt)

怖い「黄色いカーディガンの女」

序盤あまり面白くないと思いましたが、黄色いカーディガンの女が誰か分かったあたりから
どんどん読めてしまいました。
語り手の黄色いカーディガンの女は、むらさきのスカートの女にシンパシーを感じて友達になりたいと思ったと
思うのですが、ある出来事から黄色いカーディガンの女は彼女に裏切られたと感じた瞬間があったと感じました。
殺人犯?になってしまったむらさきのスカートの女を逃亡させる黄色いカーディガンの女の行動の裏には、冷酷さが隠れている気がします。
黄色いカーディガンの女が欲しかったのは、むらさきのスカートの女という「友達」ではなく、誰からも相手にされず誰とも関わろうとしない、自分の鏡のような人間だったのではと思いました。
むらさきのスカートの女 (朝日文庫) Amazon書評・レビュー: むらさきのスカートの女 (朝日文庫)より
402265046X
No.60
(5pt)

おかしいのにおかしくない

23年間生きてきて人生で初めて小説を読みました。本を読むのが苦手な私でも一週間も掛からずに読み終えることが出来ました。
美しい言い回しや回想シーンなどがないためか、とても読み進めていきやすい作品でした

むらさきのスカートの女は現実世界の街中でもたまに見かける風変わりな女性です。
「あの人って普段どんな生活しているんだろう?」という地味に気になる存在を、主人公の「わたし」が代わりに探っていってくれる感覚です。

最初から話しがおかしいのに、途中からそのおかしさが普通になっていき
いつの間にか、「主人公→むらさきのスカートの女」という形が 「読み手→主人公→むらさきのスカートの女」 という私達が主人公のストーカーへとなっていきました。結局のところ私達は主人公のような人物にになり得るし、むらさきのスカートの女のような存在にもなり得るんだと思いました。
それをめちゃくちゃ激しく書いたような感じです。
初めて読む本をこの本で本当に良かったと思いました。これから本を読もうと思わせてくれる作品に出会えて本当に良かったです。
【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女 Amazon書評・レビュー: 【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女より
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No.59
(4pt)

怖い「黄色いカーディガンの女」

序盤あまり面白くないと思いましたが、黄色いカーディガンの女が誰か分かったあたりから
どんどん読めてしまいました。
語り手の黄色いカーディガンの女は、むらさきのスカートの女にシンパシーを感じて友達になりたいと思ったと
思うのですが、ある出来事から黄色いカーディガンの女は彼女に裏切られたと感じた瞬間があったと感じました。
殺人犯?になってしまったむらさきのスカートの女を逃亡させる黄色いカーディガンの女の行動の裏には、冷酷さが隠れている気がします。
黄色いカーディガンの女が欲しかったのは、むらさきのスカートの女という「友達」ではなく、誰からも相手にされず誰とも関わろうとしない、自分の鏡のような人間だったのではと思いました。
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