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罪と罰
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【この小説が収録されている参考書籍】
罪と罰の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.33pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全369件 121~140 7/19ページ
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まず、『罪と罰』は思想小説です。その観点から見ると非常に難解な小説です。2回読みましたが、2割ほどしか理解できていないと思います。この小説を深く理解するためには、聖書や著者の生きた時代の状況なども知る必要があります。 一方、娯楽小説の観点からは、難解な表現や読みづらい箇所がいくつかあるものの、とても面白いです。特にラスコーリニコフを始めとする登場人物たちの何ページにも渡る語りのシーンは圧巻です。また、エピローグも非常によく、優れた小説はまとめ方、あるいは、終わりが秀逸であると再度認識させられた。 | ||||
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罪とは何か?心とは何か?愛とは何か? ラスコーリニコフは、「1つの罪悪は100の善行によって償われる」という思想を持っていた。 しかし、それは間違いだった。 彼は殺人という罪を犯し苦しんだ。 平気で人を殺す人がいる。 肉体を殺す人、心(精神)を殺す人は老若男女問わず存在する。 特にそのような人達に読んでもらいたい。 本書を読んで悩み苦しんでほしいと思う。 「苦しむこともまた才能の一つである」(ドストエフスキー) | ||||
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ロシア近代文学の最高峰に位置するこの作品は謎に満ちている。高利貸の老婆とその妹を殺害した学生ラスコーリニコフの罪の告白を巡る謎がこの小説読解のポイントである。一般的にはソーニャの献身的愛によって、ラスコーリニコフが改心し、罪を告白したと理解されている。その通りでもあろう。 殺人者というものは、殺人の痕跡を消し、他人の視線に怯えながら、捜査の行方を絶えず気にしながら精神的に追い詰められていく。では、ラスコーリニコフの場合はどうか?老婆とその妹を殺害後、高熱にうなされ、夢遊病者のように不可解な行動と言動に明け暮れる。そして何より特筆すべきことは、自分の罪を告白したいという衝動に駆られ、自分が殺したことをそれとなく仄めかすような言動を取ることである。刑事ポリフィーリーに対して(彼はラスコーリニコフが犯人であることにいち早く気づいていた)は、真相を自白するように追い詰められたからではなく、自ら自白せざるを得ないようになっていく。恋人のソーニャに対しては、彼女のキリスト教的献身的な愛によって改心したのではなく、告白の契機になった。 かつて作家の加賀乙彦氏は中公新書から『ドストエフスキイ』を出版し、精神科医としての立場から、ドストエフスキーの「癲癇気質」に着目し、これこそドストエフスキー文学の本質であるという、異論を発表した。ラスコーリニコフは、ドストエフスキーの「分身」なのである。 こう考えると、ラスコーリニコフの殺人から告白までの熱病病みにとりつかれたような不可解な言動と行動の謎が解ける。金貸老婆殺害を正当化するエリート思想、ソーニャの愛による感化、捜査の進展、反省と後悔は重要ではない。ラスコーリニコフを罪の告白へと駆り立てたもの、それは癲癇気質であった。 それゆえに殺人から告白までの謎めいた行動と言動の記述が作品の大半を占めているのである。では、作者が癲癇文学を確立するためにこの作品を書いたのかというと、そうではない。バフチーンが述べているように、様々な人物の多声的な「ホリフォニー」によるところが大きいであろう。しかし、作者の癲癇気質が登場人物の関連性と相互の結び付きを弱め、それぞれの登場人物の独立した物語にも読めるような作風に仕上げるのに一役かっているのかもしれない。 ソーニャの献身的な愛によるラスコーリニコフの改心は、後書きでの話である。 ドストエフスキー文学を謎めいた作品に色づけしているのは、作者の癲癇気質であった。このような視点を持つことによって、他の作品、例えば『カラマーゾフの兄妹』なども新しい読み方が可能になるかもしれない。 癲癇気質がドストエフスキーという作家の作品を謎めいたものにしている。興味ある方は、加賀乙彦氏の『ドストエフスキイ』を読まれることをお勧めのする。 | ||||
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読むのに時間はかかったけど、生きているうちに読めてよかった。 | ||||
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29歳の現在、初めて読みました。もっと早くに読んでおけばよかったという後悔と、今だから面白いのだという喜びに震えています。なんて素晴らしい作品でしょうか。タイトルから感じる暗さから、長年手に取ることをためらっていたのですが、想像以上の闇と光に目眩がするほどです。10年後20年後、読むのが今から楽しみで希望になりました。 | ||||
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私はこれ読んでる時に、障がい者施設の事件が起こったものだから。 中途から主人公が、事件の犯人と重なって思われて。 「それで?なんで?あんたは人を殺したんだ?」ってその殺人を正当化する理由ってものを、 犯人の考えを、小説の主人公に求めながら読むうちに。 ・・・たぶん、とんでもない形相をして、読み進めていたかもしれない。 事件が悔しいのと、その殺人の理不尽さと。 物語そのものについては、やっぱドストエフスキーって心理描写がうまいなぁっていう・・・。 | ||||
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僕は昔、ある罪を犯した。その施設にこの本が置いてあった。久しぶりに読みたくなり購入。ラスコーリニコフの心情を読むとあの頃を思い出す。名作だと思う。 | ||||
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23年ぶりに再読した。ほとんど初読のような新鮮さであったが、最後まで主人公に感情移入はできなかった。 英雄は一人の人間を殺そうとも大したことではない、というような選民思想というか優生思想というか、 わからなくもない。 一人殺したら殺人者だが一万人殺したら英雄だとの言葉もあるし、人類は突き詰めれば殺し合いの歴史でもある。 本作を執筆当時ドストエフスキーは賭博やら借金やら近親者の死やら、人生の辛酸をなめていたようであり、 主人公ラスコーリニコフの思い迷いながら迷走、妄想する様は、作者のそんな境遇も影響したのかもしれない。 とはいえ、読み物として読者を飽きさせないストーリテラーぶりは素晴らしく、登場人物もそれぞれ個性が際立っている。 ソーニャにキリストを具現化したような聖母を感じる場面や、 主人公に対する母と妹の痛ましいまでの愛を感じる場面など、描写が心に刻まれることが度々あった。 スヴィドリガイロフをどう捉えればいいのかよくわからなかった。狡猾で詐欺師的な与太者なのであるが、死んだカテリーナ の孤児たちを世話したり、自殺前にソーニャに大金渡したりする。 ストーリー的には、いなくてもいいような気がするが、、、。 もしかしたら当時のドストエフスキーをモチーフとしてるのだろうか。自殺したのは新たな自分に生まれ変わる意志なのだろうか。 | ||||
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波乱万丈な人生を送ったドストエフスキー。 そんな彼だからこそ深く向き合う事が出来た決して一言では言い表せないであろう人の複雑な内面、それによってもたらされる表現はまるで生きた人間達の言行録とも言える程に血の通ったものです。 彼の作品が長きに渡って人々に求められるのも頷けますね。 | ||||
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大学生時時代に一度読もうとしましたが、冒頭に近いかなり前の方で挫折しました。 今から考えると、おそらく主人公であるラスコーリニコフの陰鬱な心理描写を読むのが 精神的にしんどかったのかなと思います。 大学時代というのは良くも悪くも頭でっかちになり、自分の思考の殻に閉じこもる ラスコーリニコフ的部分があるからだと思います。 あと、皆さんがおっしゃっていることですが、同一人物の名前が色々な言い方で呼ばれたり、 似たような名前の人が登場するので常にネットで人物相関図を確認して読み進めなければ混乱します。 10年ほど経ってから本棚に眠っていた本書を取り出して読んでみると、 意外とスムーズに読めました。 特にソーニャの父親であるマルメラードフが自分の家族について語りだすシーン、 ラスコーリニコフの母の手紙、予審判事ポルフィーリイ・ペトローヴィチの追求など、 文章に勢いのある部分はすらすらと読めます。 古畑任三郎や刑事コロンボのように、読者は反抗を行った犯人が分かっている状況で 物語が展開していきます。 この作品を理解する上で、下巻の巻末の工藤精一郎氏の解説がとても役に立ちました。 この作品を理解するには、ドフトエフスキーの経歴と人物の理解、当時の社会情勢、 ロシアにおけるキリスト教へのが必要不可欠であると感じました。 過激な仲間と政治秘密結社を作ったり、それが理由でシベリアに投獄されたり、そこでは聖書のみ 読むことが許される状況であったり・・・。ドフトエフスキーは波乱万丈な人生を送る中で、 理性だけによる頭でっかちな改革が地に足の着かないものであり、結局は破綻してしまうということに 気付いたのだと思います。 この『罪と罰』という作品では、ラスコーリニコフが陰鬱で狭い部屋で貧乏生活を送りながら 考え出した彼の正義を描き、対立軸としてソーニャの生活とキリスト教に立脚した自己犠牲の愛を描き、 最終的にラスコーリニコフの正義はソーニャの愛に最後の最後で屈します。なぜそういう作品を 書こうと思ったかはドフトエフスキーが生きた当時の社会状況、政治的・宗教的背景がわからないと ほんとの意味で理解できないのだろうと思います。この作品を読んだことで、もっとそういった部分の教養を 身につけたいと思いました。個人的には舞台であるペテルブルクの当時の社会風俗や庶民の生活状況も 知ることが出来て良かったです。 娯楽としての面白さという点において、現代にはこの作品より勝るものは沢山あるのだろうと思います。 あえて現代にこの『罪と罰』という古典を読む意味はどこにあるのだろう、探ってやろう、という姿勢 で読んだ方が良いと思います。むしろ、そうしないと娯楽作品としてはそこまで面白くないという認識を 持つかもしれません。 | ||||
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さぞ難しい内容の本だという思い込みがあって、長年手つかずにしておいたが、いったん読み始めると、心臓をわしづかみされたように一気に読み終えてしまった。下巻の前半のみ少し中ダレする感じはあったものの、他は息つかせぬ勢いがあった。 主人公は、高貴な精神、理性、それに反する罪悪感に引き裂かれながら、私的幻想を支えに最後まで戦い続ける。最終的には愛によって救われるのであるが、「殺人前、殺人、殺人後」と、主人公の動揺する心的描写、その精緻さは圧倒的である。一言で言えば、なんとも恐ろしい小説である。 | ||||
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ロシアの人名は把握難しいけど、そこに慣れればこの小説はすごく面白い。上巻では、人を殺めたあとの心のわだかまりが、次第に青年を取り巻いていく。 | ||||
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高校生のころに最初の方だけ読んで終いだったのをちゃんと読み直す。ロシア文学はロシア人名周りの知識の有無によって難易度が大幅に変わることを痛感した。いまなら読める。 | ||||
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ヨーロッパの文学は香り高い。 美しい。 とあらためて感じます。 生きることは 罪の闇の中を 這い 苦しみに のたうつこと。 強い風の中 罰に身もだえる。 いきるということの 現実を ありありと感じます。 闇はそれに勝たなかった。 それは真実。 いきることの真実が迫る 文学作品ですね。 | ||||
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主人公の心情の変化が、上下巻を通して、読み手にまで胸の高まりや陰鬱となって伝わってきました。過去人生で読んだ中で最高の一冊でした。 | ||||
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ラスコーリニコフは、自分かルージンか、二つに一つと妹・ドゥーニャに迫る。一方、ドゥーニャの結婚の決意も固い。 ソーニャは未成年だが、少女ともいえるほど幼い。美人でもない。ソーニャは、父・マルメラードフの死に際して金銭援助をしてくれたラスコーリニコフを葬儀に誘う。 ポリフィーリイはなんとなくラスコーリニコフを疑っているらしい。ラズミーヒンはこれに憤慨する。 ドゥーニャがかつて家庭教師として住み込んでいた地元の地主であるスヴィドリガイノフもドゥーニャを狙う。彼もペテルブルグにやってくる。スヴィドリガイノフは好色であり、ルージンとドゥーニャの結婚を阻止したい。スヴィドリガイノフの妻は最近死んだ(スヴィドリガイノフによる他殺の疑いあり)。 ドゥーニャはルージンとラスコーリニコフに仲直りして欲しい。ルージンは婚約者と兄を同列に扱うことに不満を示す。この失言でドゥーニャもカッとなる。ルージンは徐々に高慢さを示すようになり、母もルージンに反感を抱く。結局、婚約破棄となる。 ルージンとしてはドゥーニャは惜しい。コツコツと金をためて、貧乏で若くて美しくおびえやすいドゥーニャのような女性をかしずかせることが長年の夢だった。自信満々だっただけにドゥーニャの抵抗は予想外。 このいきさつには満足だったが、ラスコーリニコフはソーニャに「きみしかいない」「呪われた者同士」と語りかける。ラスコーリニコフは、自分にはソーニャが必要だという確信がある。ソーニャには理解できないが、彼女にもラスコーリニコフが限りなく不幸であることはわかる。 ポリフィーリイは、ラスコーリニコフを訪ね、やんわりと語りかける。ラスコーリニコフは、からかうような真似をするくらいなら家宅捜査をしてくれと激高。ポリフィーリイは、明らかにラスコーリニコフを疑い、ラスコーリニコフは不必要に動揺する。しかし、庭番がなぜかアリョーナ殺しを自白するなど事態はまだまだ錯綜する。 | ||||
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ラスコーリニコフはペテルブルグの貧乏学生。金がないので数ヶ月も大学に行けていない。ラスコーリニコフには母と美貌の妹・ドゥーニャがいる。ラスコーリニコフは二人の希望。ラスコーリニコフのもとに、母からドゥーニャがルージンという45歳の弁護士と結婚することになったという知らせの手紙が来る。ルージンは財産家。母と妹はいずれ、ラスコーリニコフがルージンの助手となり共同経営者となることをなんとなく期待している。ラスコーリニコフは妹の自己犠牲的な結婚に大反対。 このころラスコーリニコフは酒場でマルメラードフという下級官吏と知り合う。マルメラードフの娘のソーニャは、家計のためにやむなく娼婦になったという話を聞く。ドゥーニャのやっていることはソーニャと同じ。 ラスコーリニコフは質屋の老婆・アリョーナに金を借りている。アリョーナの妹のリザヴェータ(35)は、臆病でおとなしく、アリョーナにこき使われている。ラスコーリニコフは、自分の才能や能力を発揮できないという金銭的苦境を脱するため、アリョーナ殺害を計画。 ラスコーリニコフは、アリョーナの家に入り、斧でアリョーナの頭を一撃。アリョーナは即死。盗みを働き、帰り際にリザヴェータに出くわしてしまい、やむを得ずリザヴェータも殺害。善良でまともに抵抗すらできなかったリザヴェータを殺害した事実が後にラスコーリニコフを苦しめることになる。目撃されてしまいかねない危ない場面もあったがなんとか無事に家に戻る。犯行後、ラスコーリニコフは発熱。 ラスコーリニコフは警察に呼ばれるが、犯行のことではなく、金銭取り立てに関する呼び出しだと知ってホッとする。しかし、このとき予審判事ポリフィーリイに疑われたかもしれない、と考えラスコーリニコフはまたまた自分の想像に苦しめられる。 警察は、アリョーナ殺しの犯人として、ペンキ屋を疑っているらしい。 ルージンは、ラスコーリニコフを訪ねてくるが、ラスコーリニコフはルージンに強い敵意を示し、このときはルージンを追い返す。 もともとは大して親しいというほどでもなかった友人のラズミーヒンは、ラスコーリニコフが発熱して以来、なにかとラスコーリニコフの世話を焼くようになる。 マルメラードフは、馬車に轢かれて死んでしまう。残ったのは継母とソーニャ以下の子どもたち。ラスコーリニコフの母と妹はペテルブルグにやってくる。 | ||||
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ほとんど改行が無く、終始誰かと誰かが議論を交わしているのす。人物相関図を作成し、ロシア名の表記の仕方を確認しないと、楽しくもなんともなくて絶対に放り投げます。私にとってはやはり高く険しい山でした。しかし読了しました。登り切って初めて村上春樹と松本清張が分かったような気がします。すべての小説の原点がここにあります。負けずに、又、負けそうなときはドーンと飛ばして読んでも構いません。この罪と罰という山を是非、登り切って下さい。読む前の自分を見下ろすことが出来ます。他人の人生さえも。 | ||||
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罪と罰。 それは青春時代におそらく誰もが読むであろう一冊であり、 この作品を巡っては今後も人は様々な意見を交わすのだろう。 主人公ラスコーリニコフは金貸しの老婆を殺害してしまうが、 結局は自分で自分の良心に裁かれ煉獄の苦悩に苛まれる。 もちろん彼は金貸しの老婆を殺害した事を自分では「罪を犯した」という自覚は露ほどもない。 むしろ自分は依然として「正義」だと思っている。 しかし、ではなぜ彼は苦しむのか? なぜ、彼は絶望の淵にいる自分に気づかざるを得なかったのか? 「自分で自分を殺してしまった」からである。 ある意味、この物語は悲劇的トーンに支配された作品だが、 しかし彼には最後に救いとなる、自分のそばにいつも寄り添ってくれる、 「ソーニャ」という天使のごとき少女によって救済される。 シベリア流刑になった後も、おそらくふたりは結ばれることになるだろう。 そんな予感がする。 これは一読者であるわたしの感想に過ぎないが、 結局はハッピーエンドでこの物語は終わっているのである。 人間という生き物は、たとえどんな冷徹非情に徹したところで、自分の本心の領域に潜む「神」という存在によって、 悪しき行為には良心の裁きを受けるという事実をわたしはこの作品から学んだ。 ラスコーリニコフとソーニャの物語については興味深いが、 それはまた別の物語である | ||||
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全3巻を通してのレヴューです。 あまりに有名で且つ長大なため、なかなか手を出せずにいるかたも多いと思います。私も長年書棚に眠っていた本書をようやく読み終えたのですが、とにかく読み物として面白かったです。そしてこんなことならもっと早くに読んでおけばよかったと、おそらく読了した多くのかたたちと同じ事を思っています。 一般には、難解な哲学小説と見なされています。しかし、主人公ラスコーリニコフが殺人に到るまでの心理描写や、予審判事ポルフィーリイとの論争場面、さらに終盤のスヴィドリガイロフとドゥーニャとの緊迫したやりとりなどには、推理小説さながらの迫力とスリルが感じられます。また、エピローグなどは恋愛小説としても読めます。この作品には、小説という文学形式の実に多様な相貌が詰まっているように感じました。ときに難解と言われながらなお読む者を惹きつける所以の一つではないでしょうか。 ときに「現代の預言書」と称されるほどのこの物語の現代性は、冒頭に既に現れているように思います。或る暑い日暮れのペテルブルク、登場したラスコーリニコフは、不安・不穏・不機嫌・自意識を重苦しく抱えるまさに現代的な青年の姿と言えます。観念的で独善的で極端に走りやすく、自尊心が強く他者を見下し、疑心暗鬼と神経症に苛まれ、内省的で没社会的で都会の孤独の裡にありながら、内面において過剰な自意識が世界との闘争を演じている。そんな主人公の姿は、現代の私たちにとってもなじみ深い典型的な青年の登場であると感じられ、自分自身の物語として読むことができました。 | ||||
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