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罪と罰
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【この小説が収録されている参考書籍】
罪と罰の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.33pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全369件 61~80 4/19ページ
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第3巻は紆余曲折をたどる複雑な構成であり、主人公ラスコーリニコフが苦悩を経て罪を告白し、さらには自首するに至るまでを、作家が技巧を凝らし考え抜いて描いたものである。 まず、マルメラードフの葬礼の宴席で、肺病病みの妻カタリーナが興奮状態に陥り、家主や間借り人と大騒動を引き起こす。ドストエフスキーお得意のカーニバル的な場面であるが、そこにルージンがソーニャを陥れる悪巧みが挿入され、にわかに緊張が高まる。この悪巧みはルージンの思惑通り展開するが、最後に決定的な証人が現れて、一挙に形勢が覆される。まるで被告に嘘を長々と弁じさせてから動かぬ証拠を突きつける反対尋問のように痛快な場面だが、これはドストエフスキーが通いつめた陪審裁判の影響だろう。この小説では、その他にも予審判事ポルフィーリーの捜査手法やエピローグの裁判の場面などで詳細で正確な法律知識が示されているのが興味深い。 ポルフィーリーについては、第2巻のレビューで刑事コロンボのモデルと書いたが、第3巻でも神出鬼没ぶりを発揮し、その話術で主人公を油断させつつ、最後は「犯人はあなたしかいないと確信している」とコロンボのようにズバリと切り込む。その一方で主人公の苦悩にも理解を示し、自首の機会を与える人間味も示している。主人公に感情移入して読むと油断ならない恐ろしい捜査官だが、コロンボのイメージを想像するとユーモラスで人情のある人柄が見えてくる。 第3巻で最大の謎は、怪人スヴィドリガイロフであろう。女好きで少女陵辱や妻殺しの噂にまみれたこの人物にドストエフスキーはなぜ重要な狂言回しのような役割を与え、かなり長いページを割いてその行動を描いたのか? 主人公が最後にこの怪人と対決する長い対話で明らかになるが、この人物は主人公の利己主義と犯罪の鏡のような存在であり、いわば主人公の分身なのである。 スヴィドリガイロフはソーニャに、主人公に残っている道は「額にピストルを撃ち込むか、囚人街道を下るか」だと告げるが、その究極の選択は、欲望が実現せず絶望に陥ったスヴィドリガイロフ自身にも突きつけられていた。 主人公は苦悩の末にソーニャに罪を告白し、スヴィドリガイロフとの対話を経て「囚人街道」を選んだわけだが、注意しなければならないのは、主人公は自らの罪を悔いて自首したわけではないということである。 主人公はその傲慢な思想を捨てず、自らがナポレオンのようになれなかったことに苦しみ、その重圧に耐えられずに告白し、自首したのである。 ただ、主人公は「死」ではなく「生きて苦しむこと」を選んだ。そこにはソーニャや妹ドーニャ、あるいは母や友人ラズミーヒンといった、主人公を愛して温かく見守る人たちの存在の意味がある。 死ではなく「苦しみを受ける」こと、これはポルフィーリーもソーニャも語ったキーワードである。自首、裁判、そしてシベリアでの受刑がこの「苦しみを受けること」に当たるわけだが、エピローグの最後のシベリアの場面でようやく主人公には「蘇りの光」が見えてくる。いわば悪霊のように主人公に取り憑いていた「観念」にかわって「生命が訪れてきた」のである。 ただし、更生はまだ始まったばかりだとして、希望の余韻を残したまま物語は閉じられる。 | ||||
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全三巻ですが、ここに感想を書きます。 この長編(だと思っている)のPNRは、おそらくここだろう。主人公とおせっかいの友人の間を通り過ぎて行った冷たいもの、それは友人が信じたくなかったものが一瞬に理解できてしまった瞬間ではないだろうか。 主人公の状態は、今風で言うと鬱なのかもしれない。目まぐるしく変わる心の変化を、ドストエフスキーは良くここまで正確に記述できるものだと感心させられてしまった。 ドン底まで沈んだ、いや追い込んだ自分を、表面しか見ないまま見下す奴らに証明して見せたかった。それを実行する勇気があることで、本当の勝者は誰であるのかを。 バレたら一巻の終わり、身の破滅であることは分かっている。反面、黙っていることの苦しさと、証明したい、認めさせてやりたいという欲望が渦を巻いて、結果的に自分が仕掛けた罠に足を咬まれてしまう。 あの決定的な「4~5分」から最後まではドキドキしながら一気に読んでしまった。やはり、ドフトエフスキーは面白いのである。 | ||||
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第2巻はクライムミステリーのような展開であり、主人公ラスコーリニコフの揺れ動く精神状態の心理描写と、予審判事ポルフィーリーとの2度にわたる息詰まる対決に読者は一気に引き込まれる。 ただし、その間に主人公の犯罪の背景となった思想が詳しく語られ、その対極となるソーニャとの長い対話が配置されていることは見落とせない。 それにしてもポルフィーリーの主人公への追及は硬軟取り混ぜた見事な心理戦であり、無関係な雑談や冗談を交え、おだてたりなだめすかしたり、わざと事実関係を間違えて相手を引っかけようとしたりといったふうで、まるで刑事コロンボである(実際、刑事コロンボの脚本家はポルフィーリーをコロンボのモデルにしたとのこと)。 他方、ポルフィーリーの追及に立ち向かう主人公の心理の動きやあわや崩壊寸前に追い込まれる動揺ぶりも濃密に描かれ、緊迫感を高めている。 主人公の思想はポルフィーリーとの1回目の対決で語られるが、天才や非凡人には大衆を踏み越えていく権利があるというグロテスクなものである。「ナポレオン主義」と戯画化されているが、訳者によると元はナポレオン3世の著作に由来するとのこと。 他方、主人公は当時のフーリエ流社会主義思想に対しても批判的であり、彼らは論理だけを使って本性を切り捨てる、「生活の、ほんものの生きたプロセスも嫌ってる、生きてる魂なんていらないってわけ!」と厳しく批判する。かつてドストエフスキーが「反動的」と批判された由縁であるが、人口都市ペテルブルクの急速な近代化と社会的混乱を背景とした思想状況がうかがい知れて興味深い。 主人公とソーニャの対話は、舞台がソーニャの賃借している「カペルナウーモフ」の家で行われ、またヨハネ福音書の「ラザロの復活」の朗読が山場となっており、聖書と深く関係する場面である。言うまでもなく「カペルナウム」はイエスが伝導の拠点とし、悪霊を追い出す奇跡を示した場所である。ソーニャは主人公に頼まれて「ラザロの復活」の節を朗読するが、復活の奇跡が顕現する場面ではソーニャ自身が大きな勝利感に包まれる。この時点ではまだ主人公の心には響いていないが、この「ラザロの復活」は『罪と罰』の全体を貫く信仰による魂の救済というモチーフとなっている。 (第3巻へ続く) | ||||
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『罪と罰』を初めて読んだのは中学時代で、その後も何度も読んだが、読むたびにその素晴らしさに圧倒され、小説を読む醍醐味を味わう。 1990年代にはサンクト・ペテルブルクを訪れ、小説の舞台となったセンナヤ広場周辺や冬宮殿を望むネヴァ川の橋のあたりを散策したが、「ラスコーリニコフの家」があったのには驚いた(もちろん観光用である)。 この第1巻は主人公ラスコーリニコフが金貸しの老婆とその妹を殺す場面を最大の山場として、そこまでに至る主人公の葛藤と逡巡の濃密な心理描写が素晴らしい。そして、計画や下見段階では空想としか思えずに一度は断念するものの、いくつかの偶然から運命の歯車が回るように計画の実行に押し出されるその過程の緊迫感が、驚くべきリアリティとスピード感で描かれていく。さらに、殺人の実行と現場からの逃走後は、主人公が精神的動揺で心身ともに病的な状態に陥り、犯行の隠蔽から自首寸前に至る心理と行動が手に汗握るスリリングな筆致で描かれる。 まさに、≪人を殺す≫ということが人間にとっていかに極限的なことであるのかを、犯人の心理面と行動面で描き尽くした傑作といえる。 他方、物語の横糸としては、酒で自滅した元九等官マルメラードフとその家族の悲惨な生活、ソーニャの自己犠牲、母からの長い手紙、主人公が子供の頃見た、痩せ馬を無残になぶり殺す恐ろしい夢といったエピソードが巧みに組み合わされて、主人公の人間的側面が浮き彫りにされる。 ここに描かれているのは「冷酷な殺人鬼」ではなく、人間味と情愛あふれる主人公がニヒリズムに傾く理性の罠によって殺人に至るドラマなのである。 (第2巻へ続く) | ||||
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すごく状態が良かった | ||||
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プライム会員はKindle版が無料なので、試しに1巻を読んでみました。初めはロシアの人物名が頭に入ってきづらいので、メモしながら読みました。翻訳自体は読み易いです。翻訳について色々と批判する人もいるようですが、そもそも150年以上も前に書かれたロシア文学の作者の本当の意図などわかりようもないし、そこまで誤訳でなければ、小説なんだから面白ければいいんじゃないかと思います。最近の小説は仮想世界や超能力など、虚構がすぎる題材が多いので、途中で嫌になりつつ読破してますが、これは主人公の心理描写を通じて考えさせられることが多く、続きが読んでみたいです。 | ||||
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日本語訳がとてもわかりやすく、すらすらと読める。全三巻だが、あまり時間がかからずに読めた。 物語自体は、ダラダラと長いし、主人公は最後まで自己中心的で、被害者に申し訳ないという気持ちもなければ、反省もないので、読後はやりきれない気分になる。 | ||||
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本が綺麗 | ||||
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ナメクジの歩みのようにゆっくりと、この饒舌な小説を読了しました。齢73歳にしての、長年の重荷がとれた気分です。ともかく独白に次ぐ独白で、上巻・中巻は青春の日々に残してきた忘れ物を取り戻すべく、半ば義務感で読み進めてきました。 下巻に入って、ソーニャに光があたるのにつれ、暗かった場面に明るい陽が射し、暖かな気分になりました。 ヴァーグナーの楽劇にあるような、乙女によって救済される男性というテーマが、なんとなく期待外れだったのはなぜか、よく反芻してみることにします。 | ||||
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ラスコーリニコフは床にひれ伏すと、ソーニャの足に接吻する。そのときの言葉がこれ。 ソーニャは「神」を知る人だった。それ故、期せずしてラスコーリニコフも「神」を知ることになる。 しかし、まだそのことに気が付いていない。 全人類の苦悩を背負って生きて行かれた方がおられることを。 | ||||
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ドストエフスキーを読んでみたいと思ってたところで、無料で読めることを知り初めてKindleを利用。買うほどではないのかもと、興味あるものは気軽読めてとても良かったです。ドストエフスキーの世界に魅力されました。 | ||||
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よかった | ||||
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まあよかった | ||||
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これはよかった | ||||
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ロシアの名作。暗いお話ですが、一度は読んでおきたいですね。 | ||||
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一生に一度は読んでおきたい。 | ||||
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文学書です、読まれる事をお勧めします。 | ||||
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非常に暗くて辛い状況を見事な表現力で書かれていた。正直全てを読み終わるまで根性が必要だった。ところが最近見た映画のトランスポーター3を見ていたらこの名作の事を言っている場面があって笑えた。 罪と罰を読んでいて良かったと思った。 | ||||
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たくさんの翻訳版が出ている中、まぁ一部から批判の声も聞こえるが 比較的読みやすく情緒を失わない翻訳になってるかと思います。 酔っ払いの独白や母からの長~い手紙、この辺りで挫折してしまう人は多いでしょうね。 登場人物が多いので大変、名前が似ててわからない、と言われているけど全然気になりませんでした。 主要人物はどれもアクが強いのであっという間に頭に入るし、主人公の呼び名がいくつもあるけど、 そんなに頭がこんがらがるほどではない。これが難解で読めないって人は「飛ぶ教室」や「老人の海」なんかが 読みやすいんじゃなかな、あちらも名作文学ですし。 | ||||
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初めて読んだのが35年前、高校生の時でした。あまりの衝撃に読むのを止められず、睡眠時間を削って2日で一気に読みました。その後、ドストエフスキーの作品は全部読みました。その中でも「罪と罰」は「地下生活者の手記」と並んで大好きな作品です。今でもよく読み直します。 僕がドストエフスキーから学んだのは、思想・哲学とは「解析」するものではなく「体験」するものである、ということです。多くの場合、思想家・哲学者は思想を体系的に理論化・構造化して説明しようとしますが、ドストエフスキーは思想・哲学とは客観的・第三者的に外から「説明」するものではなく、自らがその中にどっぷりつかって「体験」するものであること教えてくれました。主人公の意識の流れに身を任せて、一緒になって流れを体験することの重要性です。そうでないと本当の意味での本質には近づけない。 ラスコーリニコフが「理屈で正当化して」金貸しの老婆を殺害するときの意識の流れと、その直後にたまたま居合わせてしまった老婆の妹を「理屈でなく」殺害する時の意識の流れのコントラストは凄い。結局、理屈で考えて行動しても、偶然(居合わせた妹)に翻弄されて理屈も崩壊してしまうという現実の迫力。犯行後、橋の上からコインを川に投げ捨てて、自らを「すべてのもの」(自分を愛してくれている母親や妹)から切り離す時のラスコーリニコフの意識。でも結局は愛する者と自分を切り離すことはできないという現実。ラスコーリニコフがソーニャに殺人を告白する時の両者の心理描写の凄さ。家族のために自らの尊厳を捨てて娼婦に身を堕としたソーニャが唯一の拠り所としているのが「神様はわかってくださる」という信仰。その信仰を「理屈」で踏みにじるラスコーリニコフ。ところがソーニャは「理屈」ではなく「心」で反応する。ソーニャは「理屈」で信仰を踏みにじられても傷つかない。ラスコーリニコフは空虚な「理屈」に振り回されているだけで、自分がでっち上げた「理屈」を全く信じていないという「本質」を「心」で見抜く。そしてラスコーリニコフが苦しんでいることを「心」で感じて救おうとする。 当時、数学と物理学が大好きで「論理」の信奉者だった青臭い高校生だった僕には頭をハンマーで殴られたような衝撃でした。論理というレンズだけで見ることがいかに視野狭窄症であるかを思い知らされた本です。その後の僕の人生観を変えた一冊です。 ちなみに、大学は工学部に入りましたが、ドストエフスキーを原文で読みたくて、第一外国語は迷わずロシア語を履修しました。幸運なことに当時大学でロシア語を教えていたのは江川卓先生でした。もっとも「江川卓」は訳者としてのペンネームで、大学では本名の馬場宏先生でした。50歳を過ぎた今、まだまだ頼りないロシア語ですが、原文での読破に挑戦中です。 | ||||
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