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罪と罰
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【この小説が収録されている参考書籍】
罪と罰の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.34pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全356件 341~356 18/18ページ
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この本を読んで考えさせられたことは、いったい人にとって罰というのはなんなのか?ということです。私は初め、罪を犯したあとに罰があるものだ!と考えていました。しかしこの本を読んで思ったのは、罰とは常に罪と一緒にいるのだ、ということでした。吸い寄せられるように読んでしまいます。ぜひ一度この本を開いてみてください。 | ||||
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今まで読んだどの小説とも比べることのできないすばらしい物語だった。今までに何回読み返したかわからない。これとカラマーゾフの兄弟が彼の代表作だが、この二作がほかの長編と比べても抜きん出ていると思う。人間の強さ、弱さ、悲しさ、愛おしさ、滑稽さが余すところなく描かれていると同時に、全編を通して人間を暖かく見守る作者の思いが溢れている。トルストイ同様にキリスト教の影響が非常に色濃く現れていて、人間を慈しむ神の存在を髣髴とさせる。文句なしの5つ星である。 | ||||
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この本の中核を成しているのは、やはり主人公の元学生ラスコーリニコフによる殺人の動機でしょう。それは、予審判事ポルフィーリイとの言論対決によって徐々に明らかになっていきます。非凡な人間には、自分自身が納得する理由があれば、法律を破る(殺人を犯す)権利がある、という理論が殺人の動機になるわけですが、その後主人公は、殺人を犯したことに対する倫理的な問題よりも、自分は殺人を犯すに足る非凡な人間ではなくてただの凡人なのではないか、という問題に悩みます。この問題にドストエフスキーは、最終的に理屈で説明の付かない結論を与えていますが、その説明をあまりしないところに、かえって著者の深い洞察力がうかがえます。軽いカタルシスではなく、重たい問題意識を読者に与え、考え悩ませるのが狙いであるとすれば、まさに絶妙のエンディングと言えるでしょう。ところで、この本を古典たらしめているのは、殺人を犯したことによって苦悩するラスコーリニコフの姿が、多くの青年が成長の一時期に持つ悩みを具現化しているからだと思いますが、ドストエフスキーの問題意識は別のところにもあるようです。本書は、爛熟のロマノフ王朝下、農奴解放期の大混乱の中で、知的階級に属する若者たちが、生半可な理論を振りかざして、革命運動をしていたことに対する批判なのではないでしょうか。金貸しの婆さんを殺すこと、つまり現体制を転覆すること、それは同時に頭の弱いリザヴェータ、すなわち普通に生きている庶民の生活を破壊することにつながる、その責任が取れるのか、とドストエフスキーはこの本で警鐘を鳴らしているように思えます。その意味で私は、金貸しの婆さんはともかく、リザヴェータを殺したことにはほとんど言及しないラスコーリニコフに不気味さを感じると同時に、著者の視点の鋭さを見ます。 | ||||
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下巻はいわば「クライマックス」の連続でした。ミステリーであり、哲学小説であり、恋愛小説であり、社会小説であり、演劇作品。いろんな要素が終末に向かって収斂していく様は凄いものがあります。 この作品は主人公がころころ変わります。つまり登場人物たちのキャラがみんな(他を圧倒しうるほどに)たっている。下巻の冒頭の主人公はマルメラードフの妻カチェリーナである。ちょっと圧倒されます。 ポルフィーリィが最後の登場する。今回は何の打算も無く、ただ彼に自首を勧めに。ポルフィーリィに有利な証拠は無い。けれども彼は確信している。この対決は確実にポルフィーリィの「勝ち」である。この対決だけでもこれは優れたサスペンスだった。このあと彼は2度と登場しない。何とかっこの良い舞台!の去り方なのか。エンターテイメントとはこうあるべきである。 中盤の主人公はスヴィドリガイロフであった。詐欺師としての半生。彼はどんな女もナンパ出来ると豪語する。ラスコーリニコフの妹ドゥーニャでさえ、あともう少しのところだったと彼は言うのである。ラスコーリニコフよりスヴィドリガイロフに共感してしまう私は異常なのだろうか。結末近く、自分が殺した(かもしれない)妻の幽霊を待ち望んで会うことが出来ない場面。私には彼の孤独がいたいほど分かる。 終盤はラスコーリニコフの魂の救済が描かれる。彼は「予定通り」自首する。ソーニャから十字架のペンダントを貰って。ところが、である。彼は監獄の中でさえもまだ自分の「罪」を認めていないのである。私は物語の最後に至っても彼は殺人を犯!すに至ったあの論理を捨てていないように思える。私の読み方は間違っているのだろうか。間違っていなかったなら、この論理の扱いを我々はどうしたらいいのだろうか。ところで、救済は別のところから現れる。つまりソーニャから。「二人を復活させたのは愛だった。」「思弁の代わりに生活が登場したのだ。」 | ||||
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この本を読もうと思ったきっかけは、高村薫の『マークスの山』『照柿』、つまり合田雄一郎シリーズを読んだからである。合田刑事の同僚に吾妻主任がいる。かれの一般的なあだ名は『ペコ』であるが、合田刑事だけは密かにもう一つあだ名を付けている。「明晰という言葉に怪奇という言葉を足してじっくり練りあげると吾妻哲郎という食えない金太郎飴が出来る。冷利というのも少し違うこの屈折した怪物に進呈する名前は、ドストエフスキーの描いた予審判事ポルフィーリィ・ペトローヴィッチ。」私はこの記述を読んで『罪と罰』をまだ読んでいないことに気が付いた。どうやら手塚治虫の漫画を見て読んだ気になっていたらしい。 『罪と罰』のあらすじは簡単である。ロシアの貧しい大学中退生ラスコーリニコフが『強者が弱者を犠牲にしてよい』という信念の元、金貸しの老婆を殺して金を盗む。完全犯罪かの様にみえたが、そのときからラスコーリニコフの悩みは始まる。直感で彼を犯人だと思ったポルフィーリィ予審判事の追求もある。心の清純な娼婦ソーニャに出会い、彼は心をいれかえる。記憶に基づき書いているので本当は違うのかもしれない。ただ、このてのテーマは映画で何回も何回も描かれてきたことだ。もう飽き飽きした。ところが、原作を読むと『飽きる』どころではない。オープニング近く、ソーニャの父親のマルメラドーフの酒場での独白を聞くと、この一編だけで一つの演劇作品が出来るなあと思わせる凄さがある。退職官吏マルメラドーフの家庭の実情が延々と述べられるのだが、彼の情けなさ、娘ソーニャが娼婦になった事情、元良家の子女だった彼の妻が病気になっている事情、等々が決して説明口調ではなく、酒飲みだからこそいえる『真実』をとき折々混ぜながら、長い長い告白を一気に読ませるのである。 上巻は『ラスコーリニコフの悩み始まる』ところまで。まだポルフィーリィは登場していない。 | ||||
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ラスコーリニコフの若者特有の不安定な心を見事というまでに、繊細に描写しているさまは圧巻。地獄のどん底まで落としておいて、落としておいて、最後にやっと一筋の光を見出させるスリリングな展開は、時間を忘れさせる。 | ||||
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ドストエフスキーの作品の魅力といえば深遠な思想やスリリングな展開など枚挙に限りがないが、中でも忘れられがちでありなおかつ私が最も重視しているものとして、極度なハイテンションの滑稽さがあげられる。一見生真面目な小説と敬遠されがちなドストエフスキーだが、世の中これだけハイテンションな人々が出てくる作品も珍しいだろう。また外国語文学の翻訳独特の仰々しい文体がそれらの場面のハイテンションぶりをより絶妙なものにしていく。ことに飲んだくれの親父が妻に折檻されるシーンの訳、他の翻訳では『か・い・ら・く・なんだよー!旦那!』と訳すところをこの本では『う、うーれしいんだよー!学生さん!』と訳されているこの点などは作者のセンスが冴えておりまさに名訳といえよう。 | ||||
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ドストエフスキーなんともすごい作家である。驚くべき人間類型(それも私たちのめじかにいる)登場。リアリズムのすごさ。例、老婆を,殺すときの描写の精ちさ。それにしても,神になろうとした人間苦しむね。例、ニィーチェ間違いなく,10本の指に入る名作。 | ||||
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やはり工藤訳、新潮文庫がイイ! | ||||
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いわずと知れたドストエフスキーの不朽の名作。 自己をナポレオンに比し、衆人の抹殺さえも敢えておこなわんと、金貸しの老女を殺害する青年ラスコーリニコフの苦悩と葛藤、聖なる娼婦ソーニャとの愛と救い、人間存在に関する哲学的問いかけ...一見単純に見えるプロットの中にこれらすべてが仕組まれ、読むものに深い感動をあたえずにおかれない。 悲惨な物語をつづる自然主義作家の筆致はしかしながら、あたたかで美しい。 ソーニャが家族を助けるために初めて体を売った夜の描写。その夜「一体だれのために守っているんだい?」といって彼女を通りに送り出したのは、彼女の義母であった。帰宅したソーニャは何も言わず、手に入れた金をテーブルの上に投げ出す。そのままベッドに身を投げ出した彼女は、肩掛けで顔をかくしながら壁に向かって黙っている。義母はその足元にひざまずく。そしてソーニャの足にじっと顔をつけたまま、やがて眠り込んでしまう。そばでは、飲んだくれのぐうたら親父マルメラードフが人事不省におちいったまま、ぐうぐうと寝ている。 不幸と絶望の中にある人々が、不思議と明るい光に照らされているように感じられる。家族を助けるために自らを穢したソーニャは天使であり、聖母マリアである。罪深くも懺悔をし安らかな眠りにつく父親と義母は、神の迷える子羊である。 物語のエピローグは、自分が虫けら同然であることに絶望し、生に何の意味も見出そうとしないラスコーリニコフと、身を屈して愛をあたえるソーニャとの魂と魂のぶつかり合いである。最後にラスコーリニコフがソーニャの膝を抱き、愛にめざめるところは、あまりに感動的な場面である。 この物語を読むとき、人はどんな懐疑もどんな絶望も消え、ただ愛に対する信念が生まれるのを感じるだろう。そしてラスコーリニコフと同様、新生のよろこびを味わえることだろう。 | ||||
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「辛うじて意識を保ちながら、ほとんど力もいれず機械的に、斧の背を老婆の頭に振り下ろした。そのとき力というものがまるでなかったようだったが、一度斧を振り下ろすと、急に彼の体内に力が生まれた」(本文より引用)驚くべき描写である。しかもこのときラスコーリニコフは斧の刃ではなく背を振り下ろしたという。この正常から悦脱した瞬間の彼に必要だったのは、刃の「鋭さ」ではなく斧の「重さ」だったのだろう。だが、次に老婆の妹を殺害するとき、彼は今度は斧の刃を彼女の頭上にまともに振り下ろす。この結果、彼女の頭蓋骨はほとんど耳の上まで断ち割られる!ドストエフスキーを読む醍醐味のひとつは、その粘着的ともいえる細部描写だ。そもそも物語自体がとても長いのに、そのいちいちがとても詳細に描かれている。生命の危機的状態で時間はスローモーションに流れるというが、ドストエフスキーの時間はまさにそれで、とても濃密で、ゆっくりと動く。だから、彼の小説を充分に理解するのはまったく容易ではない。それでも、一度この魔力に魅せられると、彼の呪縛から逃れるのは難しくなる。どうしても再読したくなる。一度目はストーリーを追いかけるのが精一杯だった、だが今回は、という具合に。そしてもちろん、ドストエフスキーからは何度読んでも新しい発見ができる。 | ||||
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個人的な意見では、物語は終り方によりそれ以上に素晴らしくなったり、それまでの感動を無にしてしまったりすると思っています。<罪と罰>の終り方は実に無心論者のドストエフスキーらしいものだった。決して”罪を犯した人間も祈れば許される”とかいう類ではなく、最後の3行のあたりの”彼を救ったのは・・・だった”という表現。この最後の3行が素晴らしく、それ以外の長いストーリーが全て<伏線>のように感じた。読んだことのない人には是非お勧めしたい作品です。罪を犯し罰を受ける。しかし罰を受けても罪は消えない。罪を背負い続けて生きる人間を救うものはなんなのか? | ||||
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この本の本質とやらはどこにあることだろう。古来からさまざまな批評・批判を受けたこの作品に、小林秀雄や江川卓が出した結論は「批評をしている人たち。あなたたち作者にからかわれているんですよ」ということのように思う。 例えば、ある人は志村けんが好きだし、ある人は合わないと言う。それは自分の中に持っている「志村けん幻想」の比重に過ぎない。そんな人間の性質をすらとかわした傍観者(作家)がドストエフスキーだ。 裏返せば、あなたの好きなように読める作品である。負けず嫌いの人は「こんな作品つまんない」と言っておいた方がいいだろう。 | ||||
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ドストエフスキーの初期の作品。全作品中、最も分かりやすく、読みやすい。そのため、ドストエフスキーって何と思う人は、この作品を最初に手に取るだろう。作品の内容は、刑事コロンボのような構成を取っている。まず、最初に、主人公の紹介が行われ、その心理が説明され、犯罪が行われる。その後、犯罪者となった主人公の心理的変化や行動が微細に描かれる。その中でも、担当刑事に追い詰められていく様子は、最も興味深い。最終場面も、他に類を見ない独特の結論である。読者は、この小説で、ドストエフスキーって、面白いなと思い、次の小説に手を伸ばすだろう。そのとき、次に書かれた作品ではなく、彼の最後の作品である「カラマーゾフの兄弟」をお勧めしたい。この作品もまた、父親殺しの真犯人は誰かが主題となっている、面白い作品だからだ。 | ||||
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検察官に、老婆の殺害を見抜かれ、追い詰められるラスコーリニコフ。下巻の中心は、検察官とラスコーリニコフの心理戦である。主人公の追い詰められる様、理論武装が崩壊していく様、そして消耗して、崩れ行く様がリアルに描かれる。上巻同様、読者の心理に迫るリアルな表現、緊張感、圧迫感。上巻のように、物語の内容は、やはり暗く、多少狂気がかったものである。しかし、その主人公を立ち直らせようとする弱き少女そーね地下の存在が一つのカギとなる。上巻から続く、暗い世界。暗く、鬱した主人公の世界観、これが物語りの空気を作り出している。しかしそこに最後の最後の部分で変化が訪れる。長いくらい物語の果てに訪れる主人公の世界観の変化。たった最後の数ページだけでありながら、物語!の印象をガラッと変えてしまうほどのインパクト。この部分のために今までの長く暗い物語があったのだと分かる。たった最後の数ページであるが、その部分を是非感じて欲しい。そのためにもこの長い物語を読んで欲しい。素晴らしい出来だと思うけど、長すぎるし、登場人物の名前(とその活用)が複雑なので、星はマイナス。 | ||||
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