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罪と罰
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【この小説が収録されている参考書籍】
罪と罰の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.33pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全369件 261~280 14/19ページ
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以前読んだ「カラマーゾフの兄弟」より読みやすいと感じました。 なぜか、呼吸が最小限になり、奥歯をかみ締めながら読み進めていたので、 ちょっと息苦しかったりした。 ラスコーリニコフの心の葛藤と行動に、目が離せなくなり引き込まれていきました。 相変わらず、ロシアの地域性とかわからない部分がたくさんあったけれど、 それでも何か心に共感するものがあるような不思議な感覚が残っています。 個人的に、カチェリーナが苦手で、彼女に照準が絞られていたときは ちょっと、読んでて辛かったりもしたけれど。 でも、また他の作品を読んでみたくなりました。 (2009.3読) | ||||
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高校時代、有名どころの名作をかったっぱしから読んでやろうと意気込んでいた。赤と黒、戦争と平和、風と共に去りぬ。読めた読めた。だが、罪と罰。重たかった、あまりに重たかった。耐えられず金貸し老女を殺したあたりで挫折。あれから30余年たった。最近、新書の類の本しか(それも時々)読んでいなかった。老眼になって、根気もなくなっていた。こんなとき亀山氏の番組を偶然見た。食い入るように見てしまった。もしかして読み通せるかもしれない予感がした。恐る恐る第一巻だけを買って読んだ。すらすらと読めるじゃないか。そして、第二巻、第三巻あっという間にお盆休みに読んでしまった。ラスコーリニコフだけではなく彼を取り巻く人物が生き生きと縦横無尽に動き回る。五十を過ぎてやっと内容に頭が着いて来たか、はたまた亀山氏の名訳のおかげか。罪と罰読破挫折人間よ。もう一度挑戦してみては如何か。こうなったら、カラ兄いくっきゃないでしょう。 | ||||
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分かる気がした。 この世界観に浸ってしまえば、中々抜けられない。 読書が苦手な方には、お勧めできないが、好きなら、一度読んでも損は無いはず。 ちなみに、今、下巻を読んでます。 | ||||
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言うまでもない傑作だが、トルストイの外に広がる客観的思想に対して この作品はドストエフスキーならではの内へと探求を深める主観的思想 につながっている。 そのために、より人間の内省的な部分を刺激している。 ドストエフスキーは小さな一室に閉じこもってこの作品を書いたというが 、そのとおり心の深淵にある洞窟に潜り込むような作品だ | ||||
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この岩波文庫では、全三巻なのですがこの巻が一番引き込まれて読んだ気がします。 これだけの長編ですから、個人的な面白さの起伏は当然あります。 また、独特の表現法を用いたり、登場人物が多数いたりで、「あれ、何か良く分かんなくなってきたなぁ・・・」とか、「コイツ誰だっけ?」みたいなことは、しょっちゅうです。 まぁ、それが比較的少なく、一番集中して読めたっていうことですね。 | ||||
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かなり、熱中して読んだ・・・。 ようやくこの巻で、ラスコーリニコフが、何故、高利貸しの老婆を殺したのかが、ハッキリする。 非凡人と凡人を分ける、明確な境界線とは・・・? 自ら課せられた使命のためならば、殺人を犯しても良いはずだ・・・、そして、自分は、それを出来る人間だろうか? ラスコーリニコフは、自らの運命をこの一事に賭けた。 しかし、激しい自責の念にかられた彼が、最期にとった行動とは・・・。 絶望の真っ暗闇の中、かすかな一条の光が差し込む、個人的に意外なラストが待っていた。 | ||||
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あれは大学生の時、新潮文庫の「罪と罰」に手を出した。下宿の洋式便所に座ってウンウンうなりながら、何とか上巻を読み終えて、そして下巻は買わなかった。面白みを感じないどころか、苦痛だった。 10年後。「カラマーゾフの兄弟」で虜にさせられた亀山訳を買ってみた。本当にあれと同じ物語なのか。熱病の主人公がずぶりずぶりと沼に足をとられていく様。この読み手を捉える吸着力が新訳の魅力だ。 ただ、「カラマーゾフ」に比べ、いくらか訳が軽く、それでいて「新訳」になりきっていない、古い表現も目に付いた。たとえば、2巻の帯にある「ぼくをなぶりものにはさせませんよ」。なぶりものって、いかにも岩波文庫で使われそうな表現じゃないか。「ぼくを弄ばせたりはしませんよ」とかでいいんじゃないのかなあ。 | ||||
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1865年、帝政ロシアの首都ペテルブルグは暑かった。青年ラスコーリニコフは金貸しの老婆とその妹を惨殺し、金品を奪う。この陰惨な殺人事件を犯した彼にはあるひとつの信念があった。 1995年、ある新興宗教団体が日本を震撼させた時、私はその15年ほど前の中学時代に読んだ「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフのことを想い起こしていました。ロシアの青年が、大義のためには許される殺人があると考えるこの小説をドストエフスキーが著わしたのは19世紀中葉のこと。社会主義革命までまだ数十年があるという時代です。それなのにこの小説の中には20世紀末を生きる日本の私たちが描かれているのではないかという気持ちに強くとらわれ、めまいがしたものです。 今回 ゆえあって再び、3巻合計で1200頁を超えるこの長編小説を手にしたのですが、ラスコーリニコフの物語は決して古びることなく、今も私たちを描いているといえます。 「『非凡人』は権利をもつというのは公的な権利ではなくて、自分の良心に対してある種の障害をふみ越える権利を持つということなんで、それも、彼の思想の実現(ある場合には、全人類を救済するような思想かもしれませんがね)にとってそれが必要である場合に限るのです」(中巻 143頁)。 この言葉が20世紀末のある教祖の言葉でもなく、今世紀初頭に中東の国の一部の人々を突き動かした言葉でもなく、そしてまたその中東の人々に向けて戦闘機を放った政権担当者たちの言葉でもなく、150年も前の帝政ロシアの青年の言葉であるということを、大きなため息とともに再認識するのはひとり私だけではないと思います。 この小説が今も読み継がれるということが、果たして人類にとって書を読む喜びといえるのか。 この小説を今も必要とする原野が世界に広がっているということに思いが至り、大変複雑な気持ちとともにこの書を閉じました。 | ||||
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この『罪と罰』も同じ翻訳者による『カラマーゾフ』もすばらしい!と思います。ロシア語を勉強しておりますので『罪と罰』の原文を、いろいろな翻訳とつき合わせたりもしています。今までは江川卓氏の岩波版を標準としてましたが、亀山氏訳の方が原文の意図するところを、より生き生きと伝えているように感じます。『カラマーゾフ』同様、小さな誤訳はきっと発見出来るでしょう。翻訳者のクセもあるでしょう。でも、そんな誤訳やクセはどんな翻訳にも付きものだし、それで作品全体の意図が歪められたりはしないでしょう。ロシア語読解の実力はプロの翻訳家の先生方なら、誰にでもありあまるほどあるでしょう。でも、ロシア語の原文をこんなにわかりやすく、こんな自然な日本語に仕立て上げるセンスは誰にでもそなわっているわけではないでしょう。 世の中は広いので「この翻訳はダメだ!」とめくじらを立てる人もいるでしょう。私はそういう人達に「いや、この翻訳はいいんですよ!」と説得しようとするつもりも、詳細について議論するつもりも全くありません。そんなことは時間の無駄ですから… これまで、私は亀山氏の翻訳に感動させてもらったとともに、翻訳というものについて深く考える絶好の機会を与えてもらったことに、いたく感謝しております。翻訳については、いろんな人がああだ、こうだ言いたがります。一種の野次馬的な快感すら伴います。推理小説の謎解きみたいでもあります。でも、私が一番面白いと思うのは、褒める人・批判する人によって全く正反対の主張をしている場合です。「真っ向から対立する価値観」とでも言えるでしょうか。例えば、哲学の理論についての議論であれば「真っ向から対立する価値観」がこんなに赤裸裸に表には出て来たりしないでしょう。翻訳についての議論の場合は、本当に「価値観が対立する」なんて生やさしいものでなくて、「人間の種類が違う」感じがします。だから、私は、私の反対の立場の人達(私とは違う種類の人種)に「これは良い翻訳ですよ!」なんて言えません。 恐らく、この『罪と罰』も前回の『カラマーゾフ』と同じく、ある人達から「目の敵」にされ、さんざんたたかれることでしょう。そして、再び、大変な話題作りをするでしょう。理由は? 一つは、彼らの嫌いな亀山氏の翻訳だから。もう一つは、ドストエフスキーの『罪と罰』だから! あの世ではきっとトルストイも、シェイクスピアも、ゲーテも、セルヴァンテスも、ダンテも「自分も翻訳のことであんな風に騒がれてみたいよ!」とつぶやいていることでしょう… そう、ドストエフスキーというのはそれぐらい偉大なのです。だから、読んでない人はぜひ読みましょう。私の書いてることにちょっとでも共感される方は、この版で、そうでない方は正反対とも言える工藤精一郎氏の版(新潮文庫)で。 | ||||
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ラスコーリニコフより下の年齢(高校・浪人・大学初年かのいずれかの時代)に、始めて「罪と罰」を読み、小説を読んで受ける満足感がそれまでと別のものになった。どの訳かは忘れたが、なにしろ自分がラスコーリニコフになった感じにさせられ、まだ知らなかったサンクトペテルブルグを熱病にうなされながら歩いている感じになった。小説とはこういうものか、と強く感じ、それ以後同じような「快感」を求めながら次々とロシア文学を読みあさった。何度も「罪と罰」には立ち戻った。多くの訳の中では、米川訳が好きで、読んだ回数も最も多いだろう。いずれにしても、最初の「罪と罰」読破を契機にして、ロシア文学への興味は当然として、最初に訪問したい外国が当時のソヴィエト連邦の、シベリアかサンクトペテルブルグ(当時はレーニングラード)になった。そういう意味で、私の小説の読み方の原点を与えてくれた「罪と罰」の亀山訳が出るというので、当然飛びついた。亀山訳は「カラマーゾフの兄弟」で感心したからである。少なくとも1巻を読んだ結果は、それなりの満足を覚えたが、不思議と過去の「罪と罰」を読んだときとは違った感覚だった。いうなら、「罪と罰」が私にとって特別な小説ではなく、普通の意味での面白い、かつ考えさせてくれる小説の仲間入りをはたしたのだ。もう今はラスコーリニコフの年齢をはるかに超えてしまったからかもしれないし、過去は名前でしか知らずにさまよい歩いたセンナヤ広場付近やフォンタンカ運河・ネヴァ河・ネフスキー大通りなどを実際に歩き回ってよく知っているからかは不明だが、過去の各種の訳本とは違っている。最大は、やはり訳語が現代的で読みやすくなっているのが原因なんだろうと肯定的に捕らえている。このために、どういう反応が出るのか。少なくとも私の場合である。なにしろ文脈を追いやすいがために、深く小説に没入しないのだろうが、グイグイ読める。そして、小説の背後を常に考えながら読めるようになる。読みながら、現代の世相を考えることができる。特に、強く思ったのは、金貸し老婆殺人での考え方だ。ラスコーリニコフが学生と士官から聞いた話にある、人を苦しめるだけで無用の人間を殺してもいいという殺人の論理だ。彼の殺人には、このような、優れた人間が悪質な人間を殺人しても許されるという「特異な」論理の裏づけがされている。これは、あくまで小説の中であって、ラスコーリニコフも、結局はあれこれさいなまれ、最後に福音書での助けによって再生するのだが、今の日本の世の中を見るとどうだろう。少し前までは考えもされなかったような殺人も多いし、人命軽視がはなはだしい。多くは、ラスコーリニコフのように苦悩もしないのだろうし、再生も望まない人たちが増えている。このような日本に何故なってしまったのだろう?多くの若者が、テストと偏差値で追いまくられ、夢も希望も持たなくなった国に誰がしたのだろう?こういうことを考えさせてくれるのが、亀山訳だ。改めて翻訳の重要さを思い知らせてもらった感じがする。「カラマーゾフの兄弟」でもそうだったが、この訳のお陰で、今まで「罪と罰」を敬遠していた人たちも読みやすくなるのではないだろうかと思う。どこかの国の総理大臣のように、漫画しか読まない人にはまだ難解なのだろうが。なお、1巻では巻末に読者用にセンナヤ広場近くの地図がつけてある。これは非常に便利だ。ここに、直接小説に関係しないから記入してないのだろうが、折角だから「ドストエフスキー博物館」の位置も加えてもらうといいと思う(「マリンスキー劇場」は入っているのだから)。 | ||||
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・・・・。がよかった。 人間ってきっとこういうものなんでしょうね。 | ||||
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「罪と罰」を読むのは、これで3回目である。いやいやながら読まされましたっていう感じの高校時代の第一回目、激しいお色気攻勢のさなか、学園騒動(決して紛争ではない!)のうごめきの中で読み進んだ第二回目、そして、今回社会人になって始めて読んだ第三回目、当然この三回目がいっちゃん面白かった。古典新訳の泰斗、亀山先生の真骨頂がこの文庫に現れているといっても過言ではない。言い過ぎても聞き取れないくらいのこの充実した翻訳内容である。 第2部第3章のラスコーリニコフ、ラズミーヒン、ナスターシャ、というここでの若者三人組の会話文の翻訳の新鮮さったらない、21世紀日本のトレンディ・ドラマを観ているようだ。 今まで読んできた「罪と罰」と同じあのドストエフスキー先生の書いたものかいなと勘ぐってしまうほど、ラスコーリニコフ自身のしゃべりも可笑しく、爽やか1粒300bである。ナスターシャって、ロージャに本当に気があるなあ・・・・・。 「カラマーゾフ」の巻末の「読書ガイド」も充実していたが、今回もなかなかいい。当時の時代背景を勘案しつつ、21世紀の今の経済と比較するのに有意義で、ラスコーリニコフ君のお財布の中身を除くのに好都合な「1ルーブル=○○円」というこの○○、「読書ガイド」で確認してみましょう。 | ||||
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賭博で一文無しになった44歳のドストエフスキーが、乾坤一擲の思いで書いた傑作。選ばれた者の例外的特権、大いなる善の為に小さな悪は許されるか否かなど、重い思想的テーマを扱うが、心理描写や推理小説のような緊張感が素晴らしい。亀山氏の新訳は、日本語としてとても読みやすい。日本語は関係代名詞をもつ西洋語と違い、複雑な構文を苦手としており、主語・述語、主語・述語と短い文章にバラして並列することによって、先へ先へと文章が流れるからである。たとえば、金貸しの老婆を殺した直後のラスコーリニコフの動揺場面を、既訳と比べてみよう。「けれども一種の放心が、瞑想ともいうべきものが、次第に彼を領しはじめた。そして彼は、ともすれば我を忘れて、というよりはむしろ大事なことを忘れて、瑣末な事にかかずらうというあんばいであった」(中村白葉訳、岩波文庫p135)。「ところが放心というか、瞑想とさえいえるような状態が、次第に彼の心を捉えはじめた。数分の間彼は自分を忘れたようになっていた。いやそれよりも、肝心なことを忘れて、つまらないことにばかりひっかかっていた」(工藤精一郎訳、新潮文庫p139)。「だが、ある種の放心といおうか、ある瞑想にも似た状態が、徐々に彼をとらえはじめた。ときおり、われを忘れたような状態に陥った。というより、大事なことを忘れつまらないことばかりこだわるのだった」(本訳p191)。 | ||||
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ドストエフスキーが1866年に発表した長編小説。ドストエフスキーなんて長いし、ややこしい名前だし、余程の本好きか、学者しか読まない筈だと思っていた。読み始めて、そんな先入観は吹き飛んだ。罪の定義、それに見合う罰。そんなものを、普通の人は決められない。だが、主人公ラスコ-リニコフは決めてしまう。「自分は特別な人間だから」という、もっともらしくも脆い根拠で、やってしまう。この男は悪意に満ちた悪い人間かと言うと、そんな事はなく、自分の根拠に確信が持てずに、悩んでいる。その様は滑稽で笑えてくるのだ。哀れだ。当然のごとく、自らも罰を受ける。その罰が妥当か、自分には分からない。生態系のルールに従えば、許される行為では無い。そして、そのルールは正しいと思う。 | ||||
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作者は人を殺したことがあるんじゃないかというくらいに殺人者の心理描写がリアル。それぞれのキャラクターもたっている。長い話なのに全く飽きない展開。よい演劇を見ているかのようだった。 人間の心理をこんなに深く重厚に描いてくれて、文学万歳と思った。 | ||||
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内容はいいのに翻訳がまずくて読むのに苦労する 実は、こんなバカげたことはないけど、そういうことが多いのも現実。原文がどうなっているか私にはわからないけど、本書の翻訳は非常に自然。解読するのに苦労するなんてことはない。さらに、ワイド版は字が大きく読みやすい。最初のページに載っている当時のペテルブルグの地図も見やすい。 内容については「完璧な文学がここにある!」と言えるだけだろう。世の中ではいろいろな解説者がいろいろなことを言っているけれど、深いとか、描写がすばらしいとか ドストエフスキーをそんな風に評価するのは間違いに近いと個人的には思ってしまう。こんな風に人物描写や心理描写が出来るのはテクニックや才能があるからだけでなくて、ドストエフスキーという人の心がまるで神の心の様に広くて深いから、としか言いようがないのではないか。無意識のうちにそれに嫉妬するのでなくて、素直にそれを認めよう。 他の作家の他の作品も「文学」であると認めるなら、ドストエフスキーの作品は「文学」を通り越えている。「文学を通り越える」と言っても様々な「通り越え方」があるけど、彼の作品は文学を通り越え「祈り」になっている。「カラマーゾフの兄弟」と異なり、泣ける場面が方々にあるというのと違うけれど、最後の最後まで読むと 涙が溢れ出て止まらない。我々は普通「泣くのは嫌」と思うけど、本当は「泣きたい」のだ。それも素直に認めよう。 | ||||
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すべての人間が、「凡人」と「非凡人」にわかれる・・・凡人は、服従を旨として ・・・非凡人は、・・・かってに・・・を越える権利を持っている。 『ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ』、どこか親近感を感じることも・・・危ないかな。 カラマーゾの兄弟に続いて、この作品を読んだ。 次は悪霊、そして白痴と決めていたが、しばらく、ドストエフスキーから離れたほうがよさそうだ。 | ||||
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選ばれた人間は、自らが正しいと信ずるならば、法律(殺人)を犯す権利があるという自らの思想を実行に移すため、ラスコリーニコフは金貸しの老婆を殺害し、彼女の金を有益に奉仕しようと決意する。しかし同時に彼は老婆のみならずリザヴェータまでも殺害してしまった。犯行後、様々な人物が登場し、様々な思考がラスコーリニコフを過るが、ソーニャの勧めもあり、遂にラスコーリニコフは自白してしまった。シベリヤの流刑地にて八年間の懲役に服されるが、そこでも彼を見捨てずにいてくれたのが、ソーニャであった……。 本書の粗筋は多くの人が前提として知っていることでしょうが、実際に通読するとその濃度は計り知れません。日数にしても場所にしても短く狭い話なのですが、その分、ラスコーリニコフと登場人物達の密室空間での対話(特にスヴィドリガイロフ、ポリフィーリイ、ソーニャなど)がそれぞれ色濃く、紙数の大半を占め、そのグルーヴに読者は呑まれるばかりの勢いで読み耽ることとなります。例えばスヴィドリガイロフとの対話では、その妖艶さに身震いする思いでしたが、ソーニャが福音書を読む場面では、反動的に救いを感じたり、キャラクターごとの特質をドストエフスキーは巧く描き分けています。しかし、本当に色々な人物(ラスコーリニコフ、ラズミーヒン、スヴィドリガイロフ、ドゥーニャ、ソーニャ、マルメラードフ、カテリーナ、ルージン、レベジャートニコフ、ポルフィーリイ、などなど)が出て来る為、珠に頭が混乱してしまうので、http://www013.upp.so-net.ne.jp/hongirai-san/kids/t-soukanzu.htmlのサイトで人物相関図を参照させてもらいながら読むと、より良く理解できると思います。「現代の予言書」とも言われる本作ですが、例えば進歩主義者のレベジャートニコフが、「ぼくはいま未来社会では他人の部屋へ自由に出入りできるという問題を、……」とルージンに言いますが、これはもしかして現代のネット社会の暗示ではないでしょうか。スヴィドリガイロフの自決の際も、アメリカを嘲笑しているように感じられますが、これは『カラマーゾフ』のミーチャの発言とも被るところがあり、意味深な予言として私には映ります。その他にも、様々な暗示が仕掛けられているようにも思えます。さらに、ラストの、流刑地でのラスコーリニコフの枕元にあるソーニャの福音書という結びですが、「彼は今もそれを開きはしなかったが……」、という、キリスト教による救済を描きつつも、それを絶対視させないで曖昧にさせ、読者に委ねる表現に、絶妙さを感じました。トルストイとドストエフスキーの違いは、こういったキリスト教信仰の差異でしょう。トルストイはキリスト教絶対主義のように思えますが、ドストエフスキーは何やら半信半疑のように思えます。いずれにせよ、内容が青黒いカオスで満ち溢れている本作の尾鰭に、この救いがあるのと無いのとでは、大きな違いでしょう。 『源泉の感情』という三島由紀夫の対談集の中で、小林秀雄は、「『金閣寺』は燃やすまでの動機小説で、『罪と罰』は殺してからの小説」と両者を峻別していますが、それでも両者に共通するのは、読者を乗せて運んでゆく魔的なものが乗り移った筆力であろうと個人的には思います。グングンと吸い込まれてゆく力に漲っているのです。それと、この『罪と罰』は、構成がとても素晴らしいです。全部で六章ですが、各章どれも凡そ百五十ページほどで、その中に1、2、3……と、大体二、三十ページごとに府割りされています。これが凄く読者にとっては読み易い構成なのです。兎にも角にも、推理小説として、思想小説として、恋愛小説として、老若男女問わず満足出来る、エンターテイメント性に富んだ純文学の傑作であることは断言し切れます。 | ||||
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何度心震える場面があったろうか、人間の心情をこれでもかと描写するドストエフスキーは本当にすごい。 しつこいぐらいの言葉の連続攻撃、くせになりそう。読み返してまた興奮する。 一度挫折したが、またチャレンジして本当に良かった! ラスコリーニコフの思想・論理は危険だが、本質をついてる気がする。登場人物の魂の叫びが伝わる。 人類史上最高の小説と言われるのも納得。訳者による解説もまとめとして非常に良いと思う。 ただ、訳自体は岩波文庫のほうが読みやすいかもしれない、若い人にとって。でも文句なし星5! 僕にも、そして誰にでもソーニャはいるのだろうか?? | ||||
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主人公ラスコリニーコフは、自惚れやで執念深く、ヒポコンデリーの症状のある男であり、 自分自身そのことに気づきながらも、自分には「しらみ」のような他の人間にはない「人間」 たる何か(例えば、世の立法者や権力者となる素質)があると信じている。 こうした主人公の特徴については様々な解釈があると思うが、私はこれらの徴候は全て自己 愛に基づくものだと考える。つまり、ラスコリニーコフは自己愛に生きているが故に孤独であ り、「病的な自尊心の持ち主」だったのである。例えば、親身になって自分や家族の世話をし てくれているラズミーヒンに対して、彼は「いい男」とは言うが、一言も礼など言わず、むし ろその親切に対して迷惑だと言ったり、軽蔑したりしている。また、他人をほとんど自分より 下等のものと見たり、馬鹿にしたりすることに何の罪悪感もない。 彼は刑務所に入ってからもしばらくの間は自分の犯した「罪」を自覚できなかった。彼があ の殺人に対して抱いたものは、老婆への心からの贖罪ではなく、「しらみ」のような老婆を殺 すために、彼が歩むはずだった偉大な人生に汚点をつけ、母と妹を苦しめたことへの悔やみ だった。 彼が罪の意識を取り戻すことができたのは、最後に、自分のソーニャに対する愛に気づき、 ソーニャの愛を受けたことによって、自己愛という孤独から救われ、周りがやっと見えた(愛 を周りにも与えることができるようになった?)ときである。その後彼は周りの囚人たちから も嫌われなくなった。 ソーニャは彼が刑務所に入る前に、「彼を生きさせるものは、死への恐怖と臆病しかないの かしら」というような意味のことを言っているが、自尊心からくる人生の苦悩や死への恐怖か ら人間を救えるものは、心からの他者への愛であるということをドストエフスキーは伝えた かったのではないかと思う。 (大変に感銘を受けたが、個人的にはスヴィドリガイロフの描写の一部が蛇足な気がしたので ☆四つ。) | ||||
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