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罪と罰
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【この小説が収録されている参考書籍】
罪と罰の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.34pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全43件 21~40 2/3ページ
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どんな理由があろうと殺人はあかん。 とにかく長くロシア名が短縮で誰が誰か分からなかった。 翻訳者はロシア名を統一する配慮がほしい。 | ||||
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マーケットプレイスで買うと、違う本が届いて料金はしっかり取られますので注意してください | ||||
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訳者の亀山氏はロシア語、ロシア文学研究の大家のようで、巻末の解説を読むと「ここにはこういう意味が隠されている」「文面をなぞるだけではこの作品は理解できない」「当時のロシアの宗教を理解していないと・・云々」知ったかぶりのオンパレードで、うんざりします。ドストエフスキーも読者に謎解きさせるつもりで本を書いている分けではないでしょう。読んだ人それぞれに、感じることはあるはずです。日本人だって日本の宗教なんかろくに理解していませんが、日本文学は楽しめますよ。文章ごとに無理やり答えをさがすような読み方して、疲れないのかなと思います。それ故、原文にないような恣意的な訳し方をしていると批判されるのではないでしょうか。 | ||||
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皆が言うほど良い作品なのでしょうか? 色々な本を読んできましたが難解というより混乱します。 まず一人の人物に対して複数の名前があり新しく登場した人物なのかと思う箇所があります。 また、異常な性格の登場人物が多いためか会話が噛み合っていない場面もあります。 何とか読み終わりましたが、登場人物が多いのか出てくる名前が多いのかわかりませんが「イリアス」やギリシャ神話を初めて読んだ時の混乱を思い出しました。 読解力のないであろう私にとっては「神曲」以来の苦行となりました。 哲学書だとしても脱線が長過ぎます。 やはり小説は楽しくなければならないと思います。 | ||||
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現代という時代は、マスコミや出版業界の商業主義一直線の姿勢や、似非翻訳者、似非研究家のエゴによる知名度や名誉欲しさに、偉大な作品が捏造され、その価値が貶められている。 亀山郁夫氏のやっていることは、偉大なドストエフスキーを飯の種にしているだけであって、ドストエフスキー文学の理解も解釈もまったく乏しい、むしろ冒涜している、作品の価値を貶めているとしか思えない点が多く存在する。 ネットで公開されているが、なぜこれほど多くのドストエフスキー識者から大々的な痛烈な批判を浴びているのかと言えば、単に誤訳問題だけにとどまらず、最低限必要な翻訳者としての日本語としての文章力、又一番重要なのが、亀山氏の突拍子もない愚劣な作品への解釈であると思う。 亀山氏の翻訳した作品には、氏の自説を押しつけるような長々とした解題がよく書かれているが、このような作品の価値を著しく損なうようなとんでもない解釈、作品への理解にまったく乏しいと思わざるを得ない翻訳者が、良識なドストエフスキー識者達(ドストエフスキー文学の理解を深めるために、無私、無益で活動されているような方々)を納得させうるような翻訳ができるとは到底思われない。 このレビューが参考になるか、ならないかは、私は問題にはしていない。又、誹謗中傷目的でこのレビューを書いているつもりもない。 現代で海外文学を読むにあたって、読者自身が本当に信頼できる翻訳者を選ばなければいけない時代に来ていると感じる。 良識のある読者は、マスコミや出版社の金儲けにいたずらに惑わされてはならない。このような商業主義に乗じた、知名度や名誉、権威欲しさの翻訳者による愚劣な駄本を読まされて、読者は虚偽の満足感をただただ押しつけられることになるだけだ。 亀山氏の翻訳したドストエフスキー作品はドストエフスキー作品ではない。 亀山氏一人のみが「世界の最先端」と称している自説を読者に押し売りするために、原典をねじ曲げた翻訳をした単なる読み物小説に等しい。 心底からドストエフスキー作品を愛し、作品の理解を深めたいと思っているのであれば、このような誤訳だらけの、とんでもない解釈を押しつける翻訳者の書いたものなど、目に触れることすら極力避けるべきだ。 私は亀山氏こそ、この言葉をよく理解し、固く心に留めておくべきだと声を大にして言いたい。 『よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。』 亀山郁夫氏の訳業を正当に批判しているサイトを下記にあげておく。 誤訳問題にとどまらず、亀山氏の所業がどれほど愚劣で酷いものか、是非とも眼を通してほしいと切に願う。 <ドストエーフスキイの会> <国際ドストエフスキー学会副会長 木下豊房氏のホームページ> <連絡船 木下和郎氏のホームページ> <こころなきみにも 萩原俊治氏のホームページ> <光文社古典新訳文庫についてのフォーラム> | ||||
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ドストエフスキーの作品に対する訳者の思い入れは理解しようと思う。しかしその思いが強すぎるためか、全体にニュートラルな翻訳ではない。さらに、新訳というが古くさい日本語表現が結構ある。何度か読み返してみたがこの翻訳は理解しやすいとはいえない。訳者はロシア語は専門かもしれないが日本語は下手なのだろう。私のロシア語も日本語もそうほめられたものではないが・・・ | ||||
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翻訳については、他のものと比べてはいないが、良好だと感じた。 極めて悪質なのは、訳者による「読書ノート」である。こんな解説は、まとめて最終巻にでも収録すればいいし、 私は、最終巻まで読んでから、1~3巻の「読書ノート」に取り組んだが、他のドストエフスキー作品のネタバレがてんこ盛りで、まったく翻訳者としての越権行為も甚だしい。 極めて不愉快であった。特に第3巻に収められた他作品のネタバレは、出版社に抗議したレベルである。 | ||||
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亀山氏は、まったく読書好きの心を踏みにじる人物である。 なぜドストエフスキーの代表作「罪と罰」の解説を読むことで、「白痴」や「悪霊」のネタバレをされなくてはならないのか、理解に苦しむ。 正直、この1点だけでも金返せ!である。 亀山氏の嫌がらせによって、私が、「白痴」や「悪霊」を読むことは、この人生でないだろう。 編集担当は止めなかったのか? こうした悪辣な連中が、日本から読書文化を破壊する。 | ||||
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本が重すぎました。 普通の文庫本にしときゃよかった・・・です。 | ||||
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江川訳を注文したのに、なぜか中村訳を送ってくれたか意味が分からない。 | ||||
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ネットでこの訳者の名前を検索すると「誤訳」という言葉が出てきます。 マルメラードフが「私が豚でないと言いきれますか?」→「私が豚と言いきれますか?」 ラスコーリニコフとポーレチカが初めて会うシーンの訳も酷いです。 学生ラスコーリニコフを「おじさん」と呼び父親の事を「パパ」「お父様」「お父さん」と訳していく・・・。 わずか2ページ足らずの1シーンでです。 物語ハイライトのソーニャとのシーンでも訳が酷い・・・。 ラストの有名な「たった7年!!」の結びも「7年が7日であったらいいのにと思った」と。 「7年が7日のように感じられた」が正解です。 「住所」も「アドレス」と訳されたり古典なのに情緒がありません。 | ||||
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ドストエフスキー作品は『罪と罰』、『死の家の記録』『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』、そして 『地下室の手記』を読みました。 あとがきで訳者の工藤さんが『ドストエフスキーの作家としてのデヴューはまれに見る華々しいものだった。』と書いていましたが、これデヴューで はなくてデビューじゃないですか? | ||||
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作品そのもに対する評価であれば無論最上級の評価が相応しいのだが、正直この新訳は私には合わなかった。 新訳という画期的な試みには大賛成であるし、実際に非常に読みやすい。ただ、どうしてだろう、そこに「心」が感じられない。 旧訳の方は、まるで本当に作品の世界の中に入って自分の眼で作中人物や出来事などを見てきたかのような真実味があった。しかし、この新訳は完全に作品世界を俯瞰している。ちょうどガラスケースに入れられた箱庭を見るかのように。そこには苦悩するラスコーリニコフの姿は無く、物語の為に絶望させられているラスコーリニコフの姿しか見出すことができない。 | ||||
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下巻ですがスビィドリガイロフをやや後半部分から出場しているのですが… 何故に… 下巻及び全作品道して駄作扱いになるキャラクターを何故に後半部分に持ってきたのか解らぬ! ただペトロービッチの演出やエピローグのラスコーリニコフとソーニャのやり取りが全体のフォローをしているので少し救われた。 解説で二度三度読み替えそう…と記されているが私はイヤである | ||||
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読み始めてすぐに、文意の取りにくさを感じた。そこで、岩波文庫の江川訳(1999年刊)と比べてみたところ、こちらの方が遥かに明晰で文脈が読みやすく、日本語もしっかりしている。前半の第1部から幾つか例を挙げてみます。 (1)まずは、物語の冒頭、ラスコーリニコフが通りを歩きながら、頭の中で想念をぐるぐるとめぐらせる場面。 「それにしても、おしゃべりがすぎるな。何もせずにいるのは、このおしゃべりのせいだ。いや、逆にこういうことかもしれん。おしゃべりがすぎるのは、何もしていないからだ、一日中、下宿に寝ころがって……そう、ゴロフ王のことなんか考えながら、こうしてしゃべることを覚えたのはついこのひと月じゃないか。」(亀山訳p.11) 「それにしても、おれはどうもおしゃべりがすぎるな。おしゃべりがすぎるから、何もしないんだ。いや、待てよ、何もしないから、おしゃべりをするのか。こんなおしゃべりの癖がついたのも、おれがこの一カ月、のべつ部屋にばかりごろごろして、考えごと……なに、ゴロフ王がどうのと愚にもつかんおとぎ話をでっちあげていたせいだ。」(江川訳p.13) (2)すぐその後の、主人公のひどい身なりについて説明する箇所。 「それに、青年の心は、敵意にも似た軽蔑の念が溜まりに溜まり、もともとがごくデリケートで、ときには初々しいほど敏感ながら、今はこうしてぼろぼろの服で外出することすら、少しも恥ずかしいとは感じなかった。」(亀山訳p.13) 「それに青年の心は、敵意にも似た軽蔑にこりかたまっていたから、根が潔癖なほうで、ときには少年くさいくらいの彼も、こんなぼろ服で往来に出てきたことを、いっこうに恥じる様子がなかった。」(江川訳p.15) (3)続いて、マルメラードフの住まいの描写。玄関口から、一家の、みすぼらしくてひどくちらかった部屋が見わたせる。 「マルメラードフは、同じ部屋の片隅にではなく、独立した別の一室で寝起きしていたが、その部屋が、じつは通りぬけになっていることがわかった。」(亀山訳p.62) 「話とちがって、マルメラードフは部屋の片隅を借りているのではなく、独立した一室に住まっていたが、この部屋は通りぬけになっていた。」(江川訳p.56) マルメラードフ一家が借りているのは集合住宅の住居の一室である。ふた部屋借りているのではない。これは誤訳の一例ですね。 上記引用は、直前に酒場でマルメラードフが主人公を相手に、自分の一家は他人の家で「部屋の片隅を借りております」(江川訳p.40)と、くだを巻いているのを受けているのである。(亀山訳はこの照応関係を捉え損なっており、同じ箇所も、他人の家の「ひと間に住んでおります」(p.43)となっている。) 新訳『カラマーゾフの兄弟』でも感じたことだが、訳者はどうも原文の文脈(文と文の論理的前後関係)を十分に読み取っていないようである。 最後に、不適切な日本語の例を一つだけ挙げておきます。 (4)ラスコーリニコフは図らずも金貸し老婆の妹(リザヴェータ)をも殺害するはめになる。その後の主人公の恐怖と混乱を語る場面。 「(…)自分がここを抜けだし、下宿にたどりつくのにさらにどれほどの困難を乗りこえ、ことによると、悪事さえ重ねなければならないと理解できたら、彼はおそらくすべてを放りだし、ただちに自首して出たことだろう。」(亀山訳p.190) 「(…)自分がここを脱けだし、家にたどりつくためには、まだどれほどの困難を克服し、もしかすると、悪事をさえ働かなければならないかを理解することができさえしたら、おそらく彼はいっさいをほうり出して、すぐさま自首して出たことだろう。」(江川訳p.166) 「どれほどの〜」と来たら、正しく「〜か(を理解…)」と受けてほしいものです。 大量誤訳を指摘されている新訳『カラマーゾフの兄弟』ほどではないにせよ、本訳書もあちこちで不備が目立つ。訳者も出版社も仕事を急ぎすぎているのではないか。両訳書の不備が全面的に正され、また、続巻の訳文が入念に吟味されることを望みます。 | ||||
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こんなにも間違いだらけの本をよく作れたもの。ドフトエフスキーが泣きますよ。 これから読むなら、絶対他の人の訳をお勧めします。 | ||||
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あまりのお金の無さに精神に異常をきたし、自分に都合のよい理論を作り、犯罪を犯す。 その事によって追い詰められた精神状態、苦悩を永遠と書き続ける物語。 僕には少々長すぎました。 | ||||
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何たる冗長さ。 主人公が人を殺した後に内なる地獄を体験する、という一文をここまで引き伸ばせる著者の能力は大したものだと思う。 いや、これは少し言い過ぎた。 その中でいろいろと寄り道をしている。 実はその寄り道のほうが多い。 ところで、小説に限らず、文章というのは人に読まれなければ意味がない。 どうも著者はその基本的なところを理解していなかったか、あるいはひどく軽視していたかのような感じがする。 | ||||
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こういう古典作品を読みなれていないせいもあるんだろうけど読破するのに骨がおれた。むやみやたらと長ったらしいし、登場人物たちの独白がダラダラと永遠に続く。本編の内容とはあまり関係が無いようなことばかり書かれていて、こういうのを省いたらずいぶんとすっきりするのに、と思った。それにしても主人公のラスコリーニコフは人を殺しているくせになんでこんなにえらそうなんだろう、理解できない。 | ||||
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ストーリーは言ってしまえば、「英雄を気取った世間知らずの 青二才が金に困って高利貸しを殺し、なやんだあげくに、 女に出会って××××(伏せ字にしました)」というだけです。その、女性に 救われる(しかも売春婦に!)という設定が当時は大胆だった のでしょうが、高校生たちの援助交際文化をつい最近体験した わたしたち日本人にとっては、時代遅れ。この小説のテーマに 普遍性はありません。 ドストエフスキーが生きた時代に、この小説を書くということは かなりのブレークスルーであったにちがいありません。しかし、 いま改めて読んでも、たとえば、いまさら「人を殺すのが云々」 なんて議論は時代遅れでしょう。 わたしたちにとって、ドストエフスキーの、こうしたともすると 教条的な宗教モチーフは滑稽ですらあります。宗教モチーフを 楽しむのであらば、遠藤周作氏の作品(代表作「沈黙」)を オススメします。 また、この小説は長過ぎると私は思います。ここまでだらだら 引っ張って、この程度であれば、法倫理や法哲学の本を読んだ ほうがずっと刺激があって面白いのではないかと思います。 普遍性をもったすばらしい芸術作品が時代を超えて人々に愛され続け、 それが古典として生き残っていくことは素晴らしいのですが、 この小説にはそうした普遍性を感じ取ることができません。 でも読んでおかないわけにはいきません、なので星2. | ||||
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