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やがて満ちてくる光の
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やがて満ちてくる光のの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.78pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全9件 1~9 1/1ページ
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初出一覧をみると1998年が最も古いものになるでしょうか。 20年以上にわたる文章を読んでもそれほどブレが無いように思います。 点が線、面となり、次第に立体になっていくようです。 次第に光が満ちて行くような本でした。 | ||||
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著者の長年にわたるエッセーの数々を一つに集めた本。 中に「かまくら春秋」に載った一篇の収録の記載があることを確認し、思わずニヤッとした。 それは掲載当時、かまくら春秋にエッセーが載ると知った私が(知った経緯は多分、今はなき活字倶楽部などの情報誌の梨木さんの特集号を買ったことで情報を入手したのだろう)、鎌倉という遠い市で発行されるタウン誌であるそれをどう手に入れるか……通販した。その号はまだ書棚にきちんと保存されていた。 だが、そうやって見つけられたのはあくまでも少数であり、特に「ミセス」の随筆など、私にとってはミセスなどは遠い雑誌であったし、数々、この本の中身は未読の物が多く、読んでいて喜びを感じた。 長い時間の間に書かれた数々を、今、一つにまとめるのだ。 読みながら時折、これはいつ頃に書かれた、いつの話だろうと考えることがあった。それがまた興味深い。 中には著者の身近なことや、少し作品に触れることもあり、特に沼地のある森を抜けての上梓にあわせて行われたインタビューは読み応えのある物だった。 梨木氏の一番知られた作と言えば、映画化もされた「西の魔女が死んだ」になるのだろう。多分、そうだと思う。この作について、私は近年、どうも自分が感じていることと一部の感想が違うようだ、と気づき始めていた。 そしてその理由は、「西の魔女が死んだ」が学校の課題図書となったことをきっかけに読んだり、読書感想文を書いたりしている世代がいることが関係しているらしいとも察知していた。 Twitterで「西の魔女が死んだ」や「梨木香歩」の名で検索をかけると、どうも「感動した」「心癒やされる物語」「名言」といった系統の感想が目につくような気がしたのだ。 そうか??そうかな……???と思ってしまったのは、自分と感じていることが違うと感じたために生じた反発心が大きいだろう。それに、140文字という文字数制限で思っていることを表すには限界があるので、そのつぶやきを発した人たちにももっと細やかな感じたことがあるだろうが、言い尽くせないからとりあえずわかりやすい一言に凝縮させてもいるだろう。 だが、意固地になった私は、その感想の波にどうも釈然としない…と腕組みをしていたが、収録されたエッセイ、インタビューを読み、その中に微かに見える、梨木さんの筆者として作品ときちんと距離を取った姿、スタンスに安堵し、これは上手く決着がついた。 中には「西の魔女が死んだ」の映画化の頃に書かれたエッセイも収録されている。その中に、自然に植物を口にし、またそれを他者にも食べさせる癖があることを筆者は告白しており、それがなんとも「らしい」と感じ、好ましく思えた。 私自身は、洗わずにそれを口にすることは無理だが、だが、自分にとっては自然であっても、親にも知人にも自然と渡してしまうことを反省されている向きのことを発せられ、自分と人と、違っているし、違っていていいことを当然とされる考えが見える筆致は心落ち着くものだった。 中で最も心惹かれた話は、著者ととある家との出会いの話であった。 古くに建てられたとある家は、某大学の学長などに就かれた某宗教哲学者のM教授のかつての住まいであり、氏と妻君の暮らしのたたずまいを残された良建築であり、購入を大変に悩まれたという話である。 購入を悩む、それだけで話は終わらない。著者はM教授の気配にピンとくるものがあり、自分と学問的なゆかりがあることを調べだし、縁から教授の人となりをたどっていく。 このM教授の家は、梨木さんが買えば梨木さんの家になってしまうと言う知人の言葉にハッとしたという一節もあり……この随筆については時代的にいつだろうかとかなり気になり、M教授の経歴に繋がる情報もちりばめられていたので、一体いつの話で、どんな方だろうかと調べてしまった。 この一連の話、結末まで、なんとも面白く興味深い随筆だった。 小石川植物園の話も、山小屋の話も、なるほどあれに繋がるのだろうな…と小説の著作に思いをはせることができ、著者の小説のファンで随筆も読みたいという人には面白く読める一冊となっている。 ところで、上記したTwitterの検索についてだが、それは今年に著者が毎日新聞日曜版に載せているエッセイ「炉辺の風おと」の画像がTwitterで突如として話題になったからだ。調べたところ2018年から連載が始まっていたらしい。知らなかった。知らなかった。あああああ。読んだとき、知らなかったことに本当にショックを受けた。 これに関しては、中に心をざわつかせる単語が中にあり、それについてが衝撃を受けた理由であるのだが、とりあえずその画像が回ったことをきっかけに著者名で検索をかけてみたのであった。 著者は自分でどこに何を書いたかなどを発信するサイトなどを持っているわけではなく、どこに何が掲載されるかを察知するのはなかなかに難しい。知らないところで連載があって(もっとも今の時代、ネット上で定期的に探せば発表媒体の宣伝でそれを見つけることは本当はたやすいのだろうが)知らないうちにそれが終わる。繰り返されたそれをまとめてくれるこの一冊。 ファンとしてはありがたい書である。 願わくば、またいつかこうした本の第二弾が出ることを願っている。 | ||||
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梨木香歩のエッセイ集の新刊。 声に出して読みたい文章。というか、読み飛ばすと意味が取れなくなる。無駄に言葉を重ねていないので。川の向こう岸まで、石が飛び飛びに顔を出していて、その上を一歩ずつを大切に歩いて行く感じ。 いちどに読み終えず、毎日1編くらいのペースがよさそう。 そのひとつ。八〇歳のおばあちゃんの子ども時代の水くみの苦労と、その喜びの話。 水くみに喜びなどあるものかと思ってしまうけれども、著者が例える、「LINEもメールもない時代の、文通相手から手紙が届いた喜び」や、「原稿をメール送信ではなく、速達で送らなければならない時代、郵便局に持ち込んで手を離れた瞬間の喜び」とか、それなら私もよく分かる。 <以下、引用> (略)…苦労の向こうにセットされた喜びは格別のものだ。便利さと引き換えになった大切な何か、その「何か」こそがつまり、生き物が生きている証なのだろう。 …(略)…何かがおかしくなり始めたとき、どの時点で、どの「快適さ」、「便利さ」をストップさせるか、というようなことも。自分の意志で、決意して。(『やがて満ちてくる光の』梨木香歩P27) 毎朝、一編ずつ、写経のように書き写していきたいくらい。 | ||||
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様々な機会に書かれた短いエッセイ集です。 著者がふれあった美しい自然、魅力的な人々、心をうつ人々の生の営みなどが、簡潔な抑制されたそれでいて心をうつ文章で表現されています。最後の東日本大震災に関わる文章も淡々とした控えめな表現ながら勇気づけられる文章です。 | ||||
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こまごまとした文章が集められています。 梨木さんが下訳などお手伝いされてて、彼女に作家デビューするきっかけをあたえた河合隼雄氏の本についてふれている文章もありますね。 195ページからの文章では、梨木さんの高校生のときのご友人の思い出を書かれているのですが、そのご友人についての描写が悉く自分自身の高校時代のことのようで、ちょっと笑い泣きしてしまった。 梨木さんの人生にまるで自分が登場していたかのようで不思議。 ・・・・・・・・・・ 「私は、帰りのバス代を彼女に借りた。いいよーと、彼女は即座に私に貸してくれた。そのおよそ10年後、私は何かの偶然で、そのとき彼女が自分のバス代を私に貸し、自分自身は二時間近くかけて歩いて帰ったのだということを初めて知った。なぜ、そのことを言わなかったのだ、と責める私に、「うーん、まあいいか、と思って」。」 進学校に通いながらほとんど勉強していなかったという、そのご友人。 自分の利害を圧倒してしまうほどに他人への「イマジネーションの瞬発力」のはたらく、そのご友人。 他人の価値観に振り回されない意志の強さのある、そのご友人。 ・・・こういう性分で賢い生き方をするというのは本当に難しいけれど。 私もまだ生きているので、私たち頑張りましょう。 ・・・・・・ 実在・非実在、いずれのいろんな人々に深く理解をもちこつこつ理性的に言祝いでいく梨木さんのお仕事の素晴らしさを思う。 | ||||
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エッセイ集『やがて満ちてくる光の』(梨木香歩著、新潮社)に収められている「長襦袢は思想する」は、私の知らない世界を教えてくれました。 「つつましい常着や、すました訪問着の一枚下に、こんなに豊かで自由闊達な世界が広がっていたとは、それはよほどの近親者でないかぎり、決して人目には触れない,という約束ごとの上で展開していく世界である。袖口などから、色調ぐらいは垣間見えることがあっても、その全貌は決して表だって明らかにされない。その安心感の上に展がっていく、『個性』というもの」。 「友人が、『長襦袢は、その昔遊女にとって、仕事着だったのよ』と教えてくれた。確かに長襦袢は上着ではないが下着でもない。建前ではないが、全くの本音でもない。その中層を、生業の場として選びとり、そこにはっしと立って生計を得る遊女たち。私に欠けているのは、おそらくこの徹底したプロ意識なのだろう」。 「忘れられない言葉――あの子はああいう子なんです」という一文からは、子供にとって大切なものを教えられました。 「小学生の頃は憑かれたように毎日本ばかり読んでいた。・・・テストのある日は嬉しかった。さっさとすませてあとは(先生の目を盗んで)思う存分読んでいられるから。その日のテストもいつものように『さっさとすませて』本の続きに没頭していた。すると教室の後ろのドアが開き、数人のいかにも視察に来たといった風情の恰幅のよろしい方々が担任に案内されてきた。そのうちの一人が何か耳打ちしたらしい。担任の晴れやかな声が聞こえた。『ああ、あの子はああいう子なんです』。私は異様に敏感な子だったので、この一言で、テスト中に本を読むという行為が人に不審を抱かせるらしいということ、そして担任が私のことを信頼し、かつその異端ぶりを誇りにすらしてくれているらしいこと等を瞬時に悟った。丸ごと受け入れられている感覚。あれはいいものだったと今でも思う」。 この件(くだり)を読んで、私が都立富士高1年の時の担任の唐木宏先生を思い出してしまいました。成績が酷く低迷していたので、先生から咎められることを覚悟していたのに、「君は、実にいい素質に恵まれている。好漢、奮起せよ!」と言われたのです。この時以来、気持ちが落ち込むたびに、先生の「好漢、奮起せよ!」という声に励まされて立ち上がってきたのです。 「アン・シャーリーの孤独、村岡花子の孤独」は、『赤毛のアン』(ルーシー・モード・モンゴメリ著、村岡花子訳、新潮文庫)を深く読み込んでいる著者だからこそ書けたエッセイだと感じました。 「誰にもわかってもらえない、誰もわからないだろう――その『孤独』は、彼女(アン)の中核をなしているはずなのだ。けれどそれがなんなのだ。生きているかぎり、『今』を目一杯楽しまなければ。少女時代の彼女のとめどない饒舌には、そういう圧倒的な不幸に打たれて終わらない、生命力のようなものが感じられる。自らの手で、運命を切り拓いていくしかない、素の人間としての気概。(『赤毛のアン』の訳者の)村岡花子もまた、少女の頃は家庭との縁が薄く、両親の意識レベルは高かったとはいえ経済的には恵まれなかった。その利発さで給費生として東洋英和女学校に入学を許され、授業料を免除され寮生活をしていたのだった。学生とはいえ、家庭教師もし、実家に仕送りもしていた」。 「(『赤毛のアン』の原作者のルーシー・モード・)モンゴメリも同様に家族の縁の薄い人であった。母とは幼い頃に死別、厳格な祖父母に引き取られ、育てられる。十代の一時期、父の再婚家庭で過ごしてみるものの、しっくりいかない。彼女の書く小説の主人公たちのほとんどが、平均的な家庭(両親ともに健在で仲のいい兄弟に恵まれている)を持たない少女たちなのである。彼女が繰り返し書いて乗り越えようとしたのは、自分の少女期の孤独であったのではないだろうか。・・・村岡花子は、アンの饒舌の裏にある深い孤独を感じ取り、これもまた深いレベルで共鳴していたのだろう。アンの物語を翻訳するということは、彼女の存在の核心に近いことだったに違いない。自分自身をかけて、戦中の言論統制、灯火管制のなか、戦火をくぐるようにして原稿を守り抜いたのだろう」。 「温かい愛情が与えられなければ、子どもは生きることがつらい。子どもでなくてもそうだ。『赤毛のアン』が私たちに与えてくれるものの中で、最も貴重なものの一つは、直接的な愛でなくても愛の代替になるもの、孤独を抱えたまま生きることへの励ましであった。モンゴメリや村岡花子が取り憑かれたようにアンの物語に向かい、そこで育んでいたのは――彼女たちが意識していなくても――自分自身の少女期でもあったのではないか。そのような一心不乱の真摯なものでなくて、なぜここまで読者がつくだろう。それぞれの孤独のさらに奥深くで、私たちは皆繋がっている」。 | ||||
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小説からエッセイまで梨木香歩さんの本はほとんど読みましたが、それらの作品背景や土台を感じるエピソードが多く貴重なエッセイ集。 | ||||
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梨木さんの小説も大好きですが、エッセイも大好きです。今回は長い歳月の間に書かれた、短いエッセイがたくさん、たくさん入っていて、ちょっとした時間に少しずつ読めて嬉しいです。 これらのエッセイが、この本のためでなく長い期間別々の媒体で掲載されていたことに驚いています(世界観が一貫している)。 梨木さんの文章は、森の中で深呼吸したように身心に自然の癒しが私にはあります。ヒヨドリのようなすぐ隣の自然から、地球の果ての自然、ふと思うことから人の心の奥底まで。どのお話も暖かく、美しいです。 | ||||
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今回最も大きな衝撃は 若いとき神学を学んでいたというものでした 神学に挫折し あるとき シュタイナーを学びにイギリスに渡った際 偶然の出会いから 高名な児童文学者の女性と出会い 彼女の家に下宿して数年 帰国するときには 彼女は作家となっていた という ことは 何度か作者自身が語っていました 50に近い 短いエッセイの集成 しかし 一つ一つが彼女の深い思索を感じさせ ひとつ読み終わるたびに 休止が必要でした もっとも 作者の作家生活25年の長さに比べれば 読了するための数日など なんと言うこともない長さですが それでも 読了するには 集中する必要がありました 発売後1ヶ月足らずですが この本どのくらい売れているのだろう 私には この上ない良書である と思われます | ||||
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