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ららら科學の子
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ららら科學の子の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.92pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全13件 1~13 1/1ページ
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矢作俊彦というのは器用な作家である。 そのテーマというのか、趣旨とでもいうのかによって、作品毎に文体を書き分けてみせるということが出来るのだ。 本作では、19歳の時に中国に密航したが、文化大革命、下放を経て三十年振りに日本に戻ってきた男が主人公だ。 その為なのだろう。語り口はシンプルというか、スパン、スパンとぶった斬った様な形を採っている。 その気になればレイモンド・チャンドラーを彷彿とさせる様な比喩に富んだ文章だって書けるというのに、だ。 勿論、だからと言って決してその文章に粗さを感じさせることはない。ただ単に端的な物言いというだけであって、なんとも絶妙と言える塩梅なのである。 さらには、主人公を「彼」と呼ぶ三人称形式でありながら、「彼」の視点で物語を紡いでいき、また、その心情に関してもつぶさに表現している。ということはつまり、もうデビューした頃のハードボイルド作家というものに囚われている訳ではない、ということだ。ハードボイルド小説とは、客観的な視点で、ドライに事実だけを書き表わす形式の作風であるのであり、本書は純文学の類とも言える出来栄えで、やはり1990年代に入ってから、著者が作風の幅を広げてきたその成果が如実に感じられるのである。 そこで作品を面白くさせる為に肝となる大事なことは、「彼」のキャラクター造形及び、その表し方となる。それと、今現在日本に居る「彼」を取り巻く人々にも勿論興味を引く訳なのだが、物語自体がやや平坦な展開をしている割には、続きが気になってついつい読み進まされてしまう当たりからして、そういった作劇も良い具合に成功している作品と言えよう。 三十年前。 殺人未遂で指名手配されたことも無関係ではなかったが、国を捨てること、それが主題の行動だった。 その「彼」は、密入国を果たし、東京へとやってきた。 変わり果てた様で、昔からこうだった様な気さえしてくる街並。中国の片田舎の村ではお目に掛かることのない現代日本のモノたち、ヒトたちに戸惑ったり、不思議なほど驚かなかったりもする。 もっとすべてが新しくなっている筈だった日本。だが、あちこちが、ただ汚くなっただけに見えた。 「片すかしを食ったってところだ」 そう言いながら、「彼」は三十年前に気まずく別れたままの旧友、何ひとつ別れの言葉も残さないまま袂を分かった父、母、妹の消息を慮る。 また、身の置き所も無い筈の現代の東京で新たに出会った、日本で生きる人々との遣り取りもまた面白い。 この作品を書いていた頃から、また更に二十年が経過している。その為、今この物語を読むとすれば、当然それなりにギャップはあるだろう。 しかし、「彼」を中心に据えながら展開していく物語は、当時のことを想像力で補完さえ出来れば、とてつもなく読み応えたっぷりだと思う。 本作は、1997年から連載され、2003年に完結、単行本化された。そして、2004年に第17回三島由紀夫賞を受賞している。 映画監督の川島 透から、「ららら」を付けた方が絶対にいいと言われ、ああ、なるほどと思ってその案を採用したと言うこのタイトルは勿論『鉄腕アトム』の主題歌からの引用だ。 で、その示唆するところは何か? 三十年振りに生まれ故郷へ独り戻ってきた「彼」が選択するのはなんだろう? | ||||
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商品大変良かったです!どうしても読みたい本だったので手に入り、感謝しています! | ||||
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矢作俊彦「ららら科學の子」を再読。おもしろいよ。毛沢東なんかが出てくる。学生の頃、友達に連れられ、ゴダールの「中国女」を観に行ったときは、わけがわからなかったけど。矢作俊彦にはアリストテレスの「政治学」みたいなおもむきがある。 | ||||
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美品でとても良い商品でした。未読ですが面白いと思われるので5点です。 | ||||
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『あ・じゃ・ぱん!』に続いて本棚から引っ張り出し、時間をかけて通読した。タイトルは、テレビ漫画・鉄腕アトムの主題歌に出てくる一節。ただ、この長編小説のおしまいの方に少し出てくるだけで、メインストーリーとはほとんど無関係。というか、ストーリーをどんな狙いで組み立てたのかよく分からず、読みやすい半面、中身は難解というほかなかった。 作者本人を映し込んだ主人公は、1950年生まれの団塊世代。東京に生まれ育ち、進学した大学(東大または慶応?)で学生運動に関わり、バリケードの内側で起きた機動隊員に対する殺人未遂の罪で指名手配される。主人公は中国に逃げ、文化大革命のさなか、紅衛兵と一緒に南西部の農村に「下放」され、以来30年、ずっと山奥の農村で農業に励む。物語は、50歳になった彼が日本に戻り、浦島太郎の目で大きく変わった故国に目を見張り、街中をさまよい歩くというもの。全共闘時代の親友が世話を焼き、30年前に別れた妹を探し、ナゾめいた少女がまとわりつくというストーリーのアヤこそあるとはいえ、日本から脱出した「1968年」に対するノスタルジーと、彼自身の再生への模索を描くという展開で、これが込み入った情景描写や会話が重なって延々と。団塊世代のための長編戯作小説といったところだろうか。つまらなくはないものの、『あ・じゃ・ぱん!』よりはだいぶ落ちる読後感だった。 | ||||
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この本は、読む年代を選ぶ気がする。 50代後半以上の世代には、背景が一致して面白く感じるのかもしれないが、、、。 個人的には、文化大革命も、渋谷のプラネタリムも、長嶋も、十分知っていますが、、、、。 スイスイとストーリーが、私には浸透してこない。 なにか、ゆらゆらと彷徨う感じの主人公に、共感出来ず、イライラしてしまう。 タイトルの「ららら科学の子」も、何故?、どこに繋がるのと思ってしまう。 | ||||
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少し傷んでいる紫色のハードカバーをブックオフで、105円で買った。奥付をみると 2003年9月30日第一刷発行となっている。さらにその前のページに、本書は「文學界」 1997年6月号〜2001年11月号までの連載をもとに加筆したものです、とある。 そんな時代背景であったか。 とにかく、久々に感に堪え、興到る読書をした。矢作さんありがとう。哀愁、感傷、 ノスタルジー、全共闘世代(ビートルズ世代)への贈り物、ライ麦畑の妹。 登場人物の全てがなんとも、かんともいい味わいをかもしだしているのは、矢作さん の人間関係を映し出しているからなのか。矢作さん、ありがとう。 p.S. 全共闘世代、ビートルズ世代、ともう一つ言い忘れた。長嶋世代だ。 | ||||
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ベルリンの壁が崩壊し、天安門事件が起こった1989年から20年以上が経過した。 そんな2010年にいまどき、「社会主義」を擁護すれば笑われるのがオチだ。「失敗したものを、また実験することはないわ。何億人もの人生が失われるような、riskyな実験、するほどの価値がある思想なんかないもの」(P402)と。 私たちも、1968年に大学に立てこもった全共闘世代に、このセリフを繰り返す。だが、時代というのは、あるいはその時代を貫いた思想というのは、政治的成果の「勝ち負け」から帰納されるようなものなのだろうか。 本書は、全共闘世代に属し、30年ぶりの日本に帰ってきた「彼」が、現代の東京を放浪する記録である。 金髪ピアスで「東京大学教養学部」の講義要項を開ける学生や、短いスカートで「オヤジ」という女子高生などなどに驚く。そして、変わってしまった東京の街並みと、30年前の東京の記憶が交差される。 だが、もしこれらの記述が、それが過去を礼賛する単なるノスタルジーや、あるいは「負けてしまったもの」として過去の自身の「愚かしさ」を恥じるものとして総括されるのであれば、そこに大した魅力はなかっただろう。 だが、主人公の名前を最後まで与えられない「彼」は、「二本の足で飛翔し」、1968年を30年間に渡って生きた自分の人生の意味を最後まで問い続ける。 自分は何と戦ってきたのか。そして、何に負けたのか。「共産主義」や「大学民主化」といった太文字の正義ではなかったはずだ。 それは、直接的なセリフではなく、様々なエピソードの堆積によって語られる。その一つが、「犠牲バントをした長嶋茂雄」のエピソードだ。 「監督の川上は、長嶋に犠牲バントを強いた。それは成功した。覚えているのはそれだけだ。 (中略)翌々日、その一件は四〇〇番教室前の立て看板に引用され、彼を驚かせた。長嶋にさえ目的のために犠牲バントを強いる。この厳しさに学べ! 『まさしく手段は目的を結果する』 トロツキーのこの言葉を、それは見事に裏切っていた。 この国では、右も左も誰も彼も、目的を最優先してはばからない。その目的はただ勝つことだ。 考えると溜め息がでた。勝つと言っても、誰が何に。いったいどんな戦いで?溜め息は一度や二度ではなかった。どこか、ゲップに似た感触があった」(P135) 1968年に、全共闘世代の「みんな」が倒そうとした資本主義も、全共闘世代の闘争方法も、そして2010年の私たちも、長嶋に「バント」を命じるシステムの中にいる。 1968年に、「彼」が問うた、個人と組織の問題はいつしか、社会主義対資本主義という、「結果の勝ち負け」を競うものとして曲解され、今日に伝わっている。 「彼」は、物語の最終部で、表題にある鉄腕アトムのエピソードを思い出す。 「最終回のはるか以前、アトムは人類に楯突き、ロボット法を犯していた。海のカモメに、あの向こうにはどんな国があるのかと尋ねたロボット少年はガラス瓶に入れられて流れ着いた手紙に誘われるまま、海の彼方を目指した。悪漢に捕らえられ、はるか南洋の海底で奴隷労働を強いられている少女を救うために。 空を越え、海の彼方へ飛んでいる行けるジェットエンジンは、そのとき、たったひとりの人間のために法を犯し、海を越えた」(P477) そして「戦う相手も方法もそう的外れじゃなかった。間違いは戦う理由だ」と過去を総括し、「革命的敗北主義」として「たとえゲッツーをとられても、絶対にバントなんかしない」ことを誓い、中国に妻を取り戻すため戻る。 それは、本質的な意味で全共闘的な行動であり、2010年の私たちはやはり時代遅れだといって彼を笑うだろう。 だが、今の東京が、それがいいか悪いかに関係なく、30年前の東京を破壊した堆積として存在しえないように、2010年の私たちもそういう全共闘世代がいた、という歴史の上に存在しているのではないだろうか。 戦後や戦後思想への評価は、それがいかなる政治的起源をもって始まったかやいかなる政治的効果をあげたかの立証によって終結するわけではない。それは出発点にすぎず、その後、私たちはそれをいかに生きたかこそが検証されるべきだ。 戦後という、ある種の人々にとっては愚かしい日々もまた歴史なのであり、だからこそ、私たちは「戦後」との対話を忘れてはいけないのだ | ||||
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矢作俊彦「ららら科學の子」を読了。2003年の作品です。 60年代後半の大学紛争の最中、警察と学生の小競り合いの中、偶発的なことで殺人未遂の罪で警察に追われることとなった主人公が、文化大革命中の中国に逃げた。そして30年後日本に戻ってみれば、そこはバブル崩壊直後の日本社会があったのでした。。。 作者はハードボイルドのイメージでしたが、本作も主人公の行動をみても、ハードボイルド作品といって構わないと思います。30年間浦島太郎状態の主人公がいわば「タイムマシン」に乗ったかのように未来にやってくる状況設定は秀逸。主人公の人間性も読者を理想の世界に連れて行ってくれる。 ただし、大学紛争中、つまり60年代後半の日本にあまり関心のない人にはピンと来ないかもしれない。ノスタルジーに浸るわけではないだろうが、少しその時代の哀愁を感じさせる作品であった。 ちなみに私は69年生まれ。だから主人公が中国に逃げた頃生まれたのでした。 | ||||
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この作品は2003年に刊行されたらしい。もう10年も前だが、寡作の矢作俊彦にしては 比較的新しい方だ。そのためだろうか、以前と比べて作風に変化が感じられる。 まず、文章がまったくオシャレではないのだ。皮肉っぽい台詞も影を潜め、語彙もい つもの著者らしくない。ズボンのことはさすがにトラウザーというが、メルセデスと いわずにベンツだ。どこかちぐはぐな印象を受ける。それもこれも、主人公の素性の せいだろうか。いつもの探偵とかちんぴらではなく元学生運動の闘士で、30年も中国 の農村で蟄居していた、という過去を持つためか。 1960年代末の日本を逃れ、文革まっただ中の中国へ渡ったまま居着いてしまう日本人 というのは本当にいたのだろうか。下放政策や盲流の説明が細部まで詳しいので、全 体に説得力はある。ただ、今まで聞いたことがないので意外だった。そして彼は、30 年ぶりに祖国の地を踏むこととなる。 日本へ残した年の離れた妹への想い。かつて一緒に中国へ密航するはずだった旧友と の葛藤。30年の空白は埋めようにも埋められないまま、主人公は東京で漂泊をつづけ る。そもそも彼自身が一つの空虚と化している。空をもって空をあがなえるはずもな く、30年の年月は一切の弁解を拒み、また、説明を求めることもない。物語は再度密 航船に乗り込み、漂流を繰り返すほかなかった。 主人公は途中で、日本へ残した家族を思い出すことはあっても、その家族から思われ ることについては一切考えつかなかったことを反省している。人の思いにまとわりつ かれることの煩わしさを払拭するには、忘れるよりも思いつかないことだ。自らのエ ゴイスムの深淵をのぞき込んだ彼に、彼自身が与えた罰は、終わることのない放浪 だったのではないだろうか。 | ||||
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多くのレビューでこの本の素晴らしさが書かれていましたが,残念ながら私にはあわなかった. だらだらと単調なことが繰り返され,時々主人公が中国や昔に思いをはせる場面が 唐突に入り込み,それが読んでいて面白くなかったです. 皆様が絶賛するので買って読んだのですが,今回は失敗です. こんな意見もあることを御承知置き下さい. | ||||
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イトイさんが「ひとつのものを肯定したり賞賛したりするために、他のものを並列的にひいて、そちらを否定する」というのは止めようと書いていて、確かにその通りだとも思うけれど。ryuちゃんとかハルキくんより全然面白いぞ。finalventさんが絶賛する理由が分かった。 たしかに、性別・世代・読者を選らぶ作品であるのは間違いないけれど。 ダンディズムとか、ハードボイルドとか、昭和の男の矜持というのは、こういうことだと思う。 ひとつだけエピソードを紹介するのをお許しいただきたい。 付きまとう女子高生の肩にバーコードの刺青がある。彼が彼女に聞く「それ、金額が出るの?」と。ふたりでコンビニに入って店員に「ピッてやってくれませんか」とお願いする。音は出なかった。「良かった」と少女が微笑む。 そう、人間に値段を付ける事はできないのだ。(それは奴隷社会だ)人間の価値は、交換可能ではない「かけがえのないもの」の中にしかない。そうこの物語は教えてくれる。 大江健三郎の言う「読む者に力をあたえる小説」の一つだと思う。2006年に読んだ小説の中でベスト。 | ||||
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2003年初版で読んであまりに思いいれてしまったので、何年もらららブームが続いた。 本書を、あるいは矢作作品を新たに読む読書に対してはレビュアーのお1人が見事なコメントを寄せておられるので、ここでは本書から少し引用を。 <入る前からモーツァルトが聞こえた。交響曲、何番だろう。あまり好きなやつではない> 小林秀雄への揶揄も微かに・・・。 <誰も平気で地べたにしゃがんでいた。携帯電話と戯れていない者は、耳をおそろしく小さなヘッドフォンでふさいでいた。語り合い笑い合いする者も、目はお互いを見ていなかった。何を待っているのか。かれにはついに判らなかった> ゴドーは来ない。何も待っていないのか? <寿司屋の前に行列ができていた。銀行のようなガラス張りの店だった。誰もが無人カウンターに向って寿司を食べていた> 初読時ほどの感銘はなかったが、団塊世代のララバイ臭はともあれ、ニッポン社会の哀しさを描いた力作としてよくできていると思われる。 | ||||
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