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冷血
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冷血の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全35件 1~20 1/2ページ
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中西部で幸せに暮らす一家が二人組の強盗に惨殺された。西部開拓時代の白人と先住民との間にあったような、襲った側と襲われた側の越えることのできない出自と現況の差を的確に捉えたドキュメント。 | ||||
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描写がわかりやすい。不思議な魅力を持った文体だ。ノンフィクションの頂点。 | ||||
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ノンフィクションだが、当然作者の意図はあるし、ある程度「こういう書き方をしてるな」と思えることがある ・ペリーは悲惨な生い立ちを繰り返し語られ可哀想なやつとして描かれる ・ディックは「奥行きが無い」軽薄な奴である この本の背骨は、ペリーの生い立ちとそこから生まれた行動、だと思うが 自分はディックの「奥行きの無さ」がどうにも気になった というのは、社会の悪や失敗の殆どが、ディックの持つ、その場しのぎで感情を抑制出来ないという特性から生まれている気がするからである ペリーとディックについて長々と語られ、犯罪者についてわかりけたような錯覚がする終盤に、また新たに三人の死刑囚が「大いなる闇」として登場する 彼らはペリーとディックとはまた別の変な奴等、として描かれる、彼らの謎は解明されない 実際にあったことなのだろうが、我々に対する警告のように思えた ディックが逃避行のさなか、プールでのんびりしてる金持ちを見て俺と何が違う?と憤るシーンが特に印象的である 当たり前の話だが彼らは望んでコーナーに行ったわけではなく、一つ一つの行動の積み重ねだろう 恐らくは「まとも」に生きる為の交差点もあるはずであり、それを思うと何とも言えなくなる 人生とはこういうものだ、ということを突きつけてくるパワーのある作品である 自分はおそらく一生忘れないだろう、この本を読んだ日のことを | ||||
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全くの善良な家族が、ちょっとした間違い、または手違いによって、一家惨殺という事件から、犯人たちのが死刑に至るまでの、ドキュメンタリーだが、確かに、これ以降のカポーティが書けなくなってしまうほどに、綿密に詳細に調査され、犯人たちにも何度どなく面会された内容が「まとめられて」いる。 「冷血」というタイトルはだれのことなのだろうか、もしかしたら、カポーティ―自身なのか、彼は、この作品を世に出すのに、犯人たちの死刑の執行を願ったというではないか、というほど、よく書かれた傑作です。 | ||||
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大分前にこの話をベースにした高村薫の「冷血」を読んだことがあったので、物語の大体の予想はついていたが、本家の方が面白く感じた。被害者一家の何でもない日常生活の細かな描写があり、その細かい描写があるがゆえにそれがあっさりなくなる不条理が際立っている。実際の犯罪被害とはまさにそういうものなのだろう。犯人たちの独特な風貌、性格についての細かな描写も秀逸だった。ネットで犯人のディックとペリーの写真を見たが、これが小説を読んで得た印象とドンぴしゃりだった。カポーティの描写力に素直に驚嘆した。 | ||||
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殺人者に、なぜやったかと問うても無駄なことがある。理由なき殺人。事故みたいなもの。たとえば猛獣に襲われて命を落とすのと同じ。猛獣に死刑制度が無力であるように、一定の人間たちに対して死刑制度は抑止力を持たない。 | ||||
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”冷血”初出は1965年に雑誌ニューヨーカーに連載、翌年に単行本化された、 すでに半世紀以上経過した現在では当時のようなセンセイショナルな作品ではなくなっているが(マンソン・ファミリーのような更なる凶悪犯が登場したからである)、後に類書を頻出させるきっかけとなった古典中の古典としての価値は永遠だと思う、 2005年版単行本で読んだが、人名一覧と登場人物関係図、そして関係個所地図が付属していればより読書しやすいと思う、 特に文中に登場する町々がどれほどの距離にあるかを知っているか、いないかで面白みに差が出ると思う、 初訳文庫本を読んで以来二十年ぶりに新訳を読了、 翻訳文の通りの良さからだろうか、初読時ほどの寒々として印象は薄くなっていた、 あまりに突出して不可解な動機不明の大量殺人事件が地元民たちの平穏な暮らしを準パニック状態にしてゆく描写が興味深い、 各人の心にわく不安が地域全体に徐々に波立ってゆくのは今日現在のコロナ禍にそっくりだ、 結果、不安の大きい家族が何軒も村を捨てて他所へ引っ越してしまうのだった、 映画「カポーティ」を見ると著者本人が犯人の一人ペリー・スミスに異常に肩入れしてゆく様が克明に描写されている、 ところが本書には取材の過程で著者と犯人が濃密に接触したことはまったく記述されていない(定期的に面会を許されたジャーナリストとあるのがカポティと思われるが、人名は記されていない)、 結果、冷徹できょくりょく衡平な観察が微に入り細に入り書き込まれた傑作になったのだと思うが、もしカポーティ本人にまだエネルギーが残っていたら彼自身の観察とペリーとの関係を綴ったもう一冊の「冷血」が残されたようにも思うのだった、 読了してみると、真夜中のカウボーイ・スケアクロウなどの放浪系バディ映画は本作の分身、 そして恋はフェニックス等のジミー・ウェッブ作品は冷血の陰惨さを裏返した希望や愛の歌として作られた可能性を感じた、 以下蛇足、 初読時にも思ったが、まるで狂言回しのように日本が繰り返し話題として登場するのは何故なのだろうと思う、 それもクラッター家が被害者となったと同じ単なる偶然の積み重ねだろうが、 単行本P.30に”蜜のような黄色”とある、 おそらく原文は”Yellow like a honey”だろうと思うが、アメリカ人は日本人が茶色と認識する範囲まで黄色/イエローと認識するのだった、 1970年に世界的に大ヒットした”イエローリバー”というポップスの名曲がある、 いわゆる一発屋ヒットの代表曲の一つだが、南北戦争が終わり故郷への帰還を喜ぶ兵士の歌である、 歌われるイエローリバーとは川の水が日本人が思う黄色ではなく茶色に近い黄土色なのだった、 P.183には”チェロキー族特有の薄い紅茶色の肌の輝き”とある、 こちらの褐色はおそらくbrownもしくはtannedと思われるが、日本人の色彩感覚でははちみつと紅茶は同じような色なのだった、 以下興味深い記述のメモ、 P.329のヒコックの思い出独白はブレードランナーのRハウアー演じるレプリカントが最後に残す台詞とまったく同じ構造、 P.336 開拓地の墓地は、自分たちが厳しい自然と戦って切り開いた平地にある町や牧場・畑とは異なり、穏やかな場所として街々を見下ろせる高台に意図して作られた → 映画ポルターガイストや西部劇映画に登場する墓場と町の関係と同じ、 ペリーは映画「黄金」を八回見た、 ペリーはルートビアの濃縮液1ガロンを持参した、 猫の突然死ならびに尼さんによる幼児虐待 →レッド・ドラゴンのネタ? ディックは時速60マイルを保って走りながら →ディックは人格に大きな問題がありながらもアメリカ人らしく遠乗りでは車を流して走り続けられる、さて、前の車に追いつくまで加速し続けなければけして満足できない大多数の日本人の心のありようをどのように解釈したらよいか? 映画「ゆきすぎた遊び」→原題Blue Denim 1959年キャロル・リンレー主演の十代の妊娠を扱った作品、シェーンのブランドン・デ・ワイルド共演、 ペリーの父はキャンプでパンを焼けた→キャンプ芸人ヒロシがまだ焼けず、どうやるのかわからないと言っている、 リンゴの酢漬け→甘くないリンゴを漬ける? ドロシームーア(1946-)の出た映画:歌手なので作品数はすくないはずだ、 Shuffle of the Buffalo :1933年 ミュージカル 42nd Streetの有名曲、 You must have been a beautiful baby :1938年 映画Hard to get挿入歌、 P.294 より正常な人間なら耐えうる挫折感に彼は耐えることができません。反社会的行動を通じてしか挫折感をうまく免れることができないようです。 P.297 非常に小さな友人の輪の外にいる他人には、ほとんど感情らしい感情を抱かず、人間の命のほんとうの価値をほとんど重視していません。 | ||||
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実際にあった事件を作者であるカポーティが3年間の調査を行なって書き溜めた文章を元に作った本書。様々な立場の人達が様々な思いを話しています。中でも印象に残ったのは「因襲主義の中には、かなりの偽善が含まれている。ものを考えている人間なら、誰でもこの逆説に気付いている。だが因襲的な人間を扱う時には、かれらが偽善者でないようなふりをして接するのが得策なのだ。これは自分の考えに忠実であるかどうかの問題ではなく、きみが因襲の圧迫という耐えざる脅威にさらされることなく、一個人として存在できるための妥協の問題なのである。」という話。古い考えを持った人間にどう接するか、本書の思わぬ言葉が考えさせられます。 | ||||
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"そのとき、眠りに落ちていたホルカムでは、その音−結果的に六人の命を絶つことになる散弾銃の四発の轟音−を耳にしたものはいなかった"1965年発刊【実際に起きた一家4人惨殺事件】に5年間の緻密取材を行って発表されたノンフィクション・ノベルの本書は、著者の代表的傑作にして『ニュージャーナリズム』の始まりの一冊。 最初に言っておくと、ごめんなさい。ノンフィクションとして事件を題材にした小説ジャンルには主に個人的先入観【事実のねつ造や美談化】【著者のふりかざす正義感】みたいなイメージから苦手としていたのですが。重ねて、ごめんなさい。本書は驚かされるくらいに傑作です。圧倒的に面白かった。 さて、そんな本書のあらすじ的な紹介は冒頭で紹介したとおりで、殺人事件として予想される『犯人探し』も意外にも始めの方であっさり開示されるわけですが。何がそんなに面白いかと言えば、二つ。一つはその【徹底取材の緻密さ】被害者と加害者のみならず、登場する全ての人(や動物)にスポットに当て、それが後半にかけて【無駄なく組み合わさってくる構成力】には尋常ではない才能と迫力を感じます。 また、もう一つは明らかに犯人の一人、ペリーに著者自らの不幸な生い立ちを重ねて寄り添っているにも関わらず、描写に関しては突き放すかの様に(私はこの態度がタイトルの意味と感じました)【書き手である自分を徹底的に作中から排除】して、『通常』は重きを置かれそうな『犯行理由や善悪』に関しては【読み手に委ねる俯瞰的態度】です。 何故なら、これは現代にも通じる、事件の度に【安易な犯人探し、正義を振りかざすマスコミ糾弾】に日々触れる世界に生きる一人として、普遍的な意味をもって考えさせられる指摘だと感じたからだ。(あと、新訳においては、あえて『差別的言葉)を残す翻訳者の姿勢、言葉の選択のこなれ具合もまったく素晴らしい) 実際の事件を題材にした圧倒的に面白い『小説』を探す人へ、また安易な善悪決めつけ報道や『正義マン』の横暴にモヤモヤする人へオススメ。 | ||||
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"そのとき、眠りに落ちていたホルカムでは、その音−結果的に六人の命を絶つことになる散弾銃の四発の轟音−を耳にしたものはいなかった"1965年発刊【実際に起きた一家4人惨殺事件】に5年間の緻密取材を行って発表されたノンフィクション・ノベルの本書は、著者の代表的傑作にして『ニュージャーナリズム』の始まりの一冊。 最初に言っておくと、ごめんなさい。ノンフィクションとして事件を題材にした小説ジャンルには主に個人的先入観【事実のねつ造や美談化】【著者のふりかざす正義感】みたいなイメージから苦手としていたのですが。重ねて、ごめんなさい。本書は驚かされるくらいに傑作です。圧倒的に面白かった。 さて、そんな本書のあらすじ的な紹介は冒頭で紹介したとおりで、殺人事件として予想される『犯人探し』も意外にも始めの方であっさり開示されるわけですが。何がそんなに面白いかと言えば、二つ。一つはその【徹底取材の緻密さ】被害者と加害者のみならず、登場する全ての人(や動物)にスポットに当て、それが後半にかけて【無駄なく組み合わさってくる構成力】には尋常ではない才能と迫力を感じます。 また、もう一つは明らかに犯人の一人、ペリーに著者自らの不幸な生い立ちを重ねて寄り添っているにも関わらず、描写に関しては突き放すかの様に(私はこの態度がタイトルの意味と感じました)【書き手である自分を徹底的に作中から排除】して、『通常』は重きを置かれそうな『犯行理由や善悪』に関しては【読み手に委ねる俯瞰的態度】です。 何故なら、これは現代にも通じる、事件の度に【安易な犯人探し、正義を振りかざすマスコミ糾弾】に日々触れる世界に生きる一人として、普遍的な意味をもって考えさせられる指摘だと感じたからだ。(あと、新訳においては、あえて『差別的言葉)を残す翻訳者の姿勢、言葉の選択のこなれ具合もまったく素晴らしい) 実際の事件を題材にした圧倒的に面白い『小説』を探す人へ、また安易な善悪決めつけ報道や『正義マン』の横暴にモヤモヤする人へオススメ。 | ||||
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面白い、読みがいがある、とか全くなかった。翻訳がこれでいいのか?って部分が結構あって違う意味で考えさせられました。差別用語を読むたびに残念な気分になった。死刑回避とかイライラする。死刑の是非とか反対とか被害者側に立ったことのない人が言う事だと思います。 | ||||
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『ティファニー』で一躍時代の寵児となったカポーティが新たな表現形式を求めて、徹底的な取材を重ねていわゆるニュージャーナリズムと呼ばれる形式を世に問うたのが本書である。3年に及ぶ取材に基づきもちろん、事実関係の詳細な描写はいうまでもないが、それよりも関係者それぞれの人間模様が緻密に描かれ、凡庸な犯罪ルポとは一線を画している。ジャーナリズムの古典的手本である。なんのてらいもなく、淡々と書き進める姿勢もいい。不世出の古典となっている。昨今の言葉狩りにも抗して、きちんとした訳語を当てる翻訳の姿勢も好ましい。 | ||||
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最初はサスペンス、ホラーの印象が強かったですが、読み終えて考えると社会派、ルポルタージュの作品の感じでした。ある意味、村上春樹さんの「アンダーグラウンド」のようにほぼ実際の事件を扱ってる内容ですが、作家の視点で事件の展開を読みやすく整理するために脚色した内容でした。凶悪な犯罪事件の真相を追跡しながらも、その事件に巡る人々のあるゆる反応や行動、社会の動きに関する観察が今でも考えさせる部分があって、本作が書かれて何十年が経った現在でも本質的な意味で人間はあまり変わらなかったと感じました。 | ||||
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1950年代に起きた二人組による一家4人の殺人事件を、その被害者、加害者の紹介から事件発生の詳細、そして犯人の死刑執行までを、ひたすら克明にその事実を記した作品である。従い、事件の記述が始まるでは、特に盛り上がるところもなく、かなりの忍耐を要する。また、その記述も、取材で得られた事実だけをつなぎ合わせているので、話のつながりの面から違和感を覚えるところもある。 しかし、この残虐な殺人事件の記録において、以下の二点が強く印象に残る。 犯人の精神状態の異常さ。 一家4人殺害の直後、帰途の途中で、二人の犯人は、まだ血の付いた服を着ていながら、冗談を言い合っていた。そして、うち一人は、翌日には何事もなかったかのように、家族と昼食を共にした後、テレビを見て過ごした。 さらに、逮捕後も、事件を起こしたことには特に後悔を感じず、二人とも、脱獄の可能性を探していた。 裕福な被害者家族と貧困に育った二人の犯人 やはり犯人が育った貧困な境遇が、この犯罪に無関係とは言い切れない。二人の犯人のうち、実際に被害者全員を殺害した一人は、貧困かつ仲の悪い両親のもとで育ち、その後もかなり不遇な人生を歩んでいる。もし、この犯人がこの被害者と同じような裕福な家庭に生まれていたら、このような犯罪は起こさなかったと言い切れると思う。 最後に、事件から数年後、殺害された娘と相思相愛だったボーイフレンドが別の地に移り、別の女性と幸せな結婚をしたという話が、心を打つのはなぜだろう。 | ||||
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ノンフィクションとのことだが、描かれ方は、事実の羅列ではなく、小説そのもので、 被害者、犯罪者にそれぞれのストーリーがあり、感情に訴えてくるものがある。 ペリーは、自分の生い立ちの不幸さへの恨みを、何の関係も落ち度もないクラッター一家にぶつけ、世間への復讐とする。 ディックは、平穏な家庭で育ちながらも、徐々に転落し、極悪な狂気となる。 ペリーがリスを可愛がったりし優しい側面もあるようだし、半生に同情の余地は多いにあるとはいえ、 やはり社会という共同生活で生きていくことを、認めることはできないだろう。 普段読む作り話の小説と同じ感覚で読んだ。これは事実であるということを改めて考えた時、 いかに悲惨な出来事も所詮他人事なのだ、と心のどこかで思っている自分がある。 そして自分の世界の狭さを知ると共に、人間社会の多様さ、前を向くことの大切さを知る。 ラストの、生気溢れる若い女の子スーザンの快活さが、救いを感じさせる。 | ||||
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殺人者の行為とその後の逃避行について書かれています。 淡々と話が進んでいくところが、かえって犯罪の残忍性を浮き彫りにしていきます。 読んでいて、背後が気になるような、怖い本です。 | ||||
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英文と一緒にこの訳を読みましたが、原文に忠実で素晴らしい訳だと思います。内容も文句無しで素晴らしいです。 | ||||
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この一冊は”ニュージャーナリズムの源流と評される作品”とあるが、ノンフィクションの域を越え、まるでミステリーノベルを読んでるようだ。殺人犯の一人であるペリーの物語といってもいい。彼の悲壮な境遇に自らの生い立ちを重ね合わせたカポーティーの執念を感じさせる。この華奢な殺人犯に次第に得意な同情を寄せてしまうカポーティーに知らず知らず共鳴してしまう。 無惨にも殺害された裕福な一家を”自分の人生の尻拭いをする運命にあった”と淡々と語るペリーの言葉に、強烈な運命の響きや重さを感じてしまう。この理由なき殺人に関しては様々な議論が出尽くすだろう。加害者の死刑判決に関しては、至極当然だし、良心的に見ても全うなものである。どんな境遇を経験しようが殺人は殺人だ。それも計画性があり、巧妙かつ残忍なのだから。 殺人には宗教的介入も許さるべきではないと思う。慈悲や猶予なんて慰めにすらなり得ないし、寧ろ加害者を凶暴化させるだけだ。加害者を幾分か有利にさせる精神鑑定もこの本を読めば、至極偽善に見えてしまう。それでも、このペリーの”群れを追われた獣”の追い詰められた孤独の中での理由なき殺人に、何とも言い難い何かを考えさせられる。彼に教育があったなら、相棒が浅薄なイカサマ野郎でなかったら、と耐え難い何かを感じてしまう。 トルーマンは、ペリーをまんまと罠に嵌め殺害を幇助した相棒のヒコックを冷淡にこき下ろし、実質の被害者はペニー自身ではないかと暗言してるフシがある。しかし、殺害を否定し拒絶する権利を有してたのは紛れもなくペリー本人だった。殺害に対する罪の意識は最後まで彼を苦しめる。逆にヒコックには人を殺す勇気はないが、殺人に対する罪の意識も殆どない。絞首台に上がる時も反省の色は全くない。ペニーは孤独であるが故にそんな相棒を頼るしかなかった。しかし、彼と手を組んだ時点でペニーの人生は終わってた。 この本では、ペリーに同情の念を寄せる人物が著者を含め、少なからず登場する。私もその一人だ。殺人自体は全く同情に値しないが、殺人に駆り立てられた哀れな人間の深層心理に、スポットが集中していく様は実に見事で興味深い。 | ||||
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1965年4月14日。 アメリカ・カンザス州の刑務所でふたりの男が絞首刑によりこの世を去った。 ひとりは36歳、もうひとりは33歳だった。 ベトナム戦争が始まった年。新幹線が走り始めた年。ぼく自身が生まれる、たった五年前のことだ。結構すぐそこのことだ、という感じがする(こないだの「ティファニー」が太平洋戦争前の出来事だったので、これはとても近しい時代の作品だ、という印象がある)。 彼らはこれに先立つ6年前のある日、カンザス州の田舎町に住む、富かな暮らしを送り、大規模農園を営む一家五人を縛り上げ、それぞれを惨殺した罪で処刑されたのだ。ひとかどの人物であり、また周囲の人にも善人をもって知られていた主人の喉をナイフで掻き切り、顔面にライフル銃を撃ち放った。それを見ていた彼の自慢の高校生の娘の顔面を撃ち、同じく中学生の息子も頭を撃って殺害した。最後に病弱な妻を撃ち殺した。 彼らはそもそも強盗としてその家に侵入し、手違いからたったの四五ドルと、ちっぽけなラジオだけを盗んで逃げた。 事件発覚直後、捜査陣は動機が全く読み取れず、また手掛かりや目撃者もほとんどいなかったことから迷宮入りの寸前まで云った。 しかし偶然から捜査陣は彼らを犯人であることを知り、全米捜査網にかかった彼らを捉え、裁判にかけ、冒頭のような結果となった。 作家はこれを、執拗な取材でもって、ノンフィクションの小説の形に置き換えた。 作家はこの事件にかかわるあらゆる人物を丁寧に取材し、物語の中に登場人物として配した。関係者ひとりひとりの家族的背景を描き込むことで、物語の中心となった、惨殺された家族と、家族を失った惨殺者を極めて詳細に浮かび上がらせる。 その、“惨殺者”はしかし、物語を読む限りでは、いささか破滅的な傾向はあるものの、ユニークでかつ、愛すべき点もある、いわば普通の男たちだ。 例えば「羊たちの沈黙」のレクター博士のように、狂気に捕われたシリアル・キラーとは全く違う。 彼らの行った行為は、確かに惨殺そのものであるものの、それが如何に偶発的に起こったか、殺人という究極的な暴力そのものが、如何に日常からほんのわずかにずれた場所に、さりげなく転がっているものなのか、がこの本を読むとよくわかる。 また、被害者である家族が皆、誰も実に愛すべき人物であったことが、世間の情けを買い、必要以上にセンセーショナルに取り上げられた結果、その下手人は、狂気の殺人鬼で『なくてはいけなかった』。 作家がどのようなメッセージをこの小説に込めたかは別として、ぼくがこの実話をベースにした物語から得たものは、実にその一点だった。 例えば交通事故は、明日の朝、あなたが、そしてぼくが被害者やあるいは加害者になるかもしれない、という意味で、日常に限りなく近い非日常であると言えるかもしれない。 しかしこの小説に描かれた殺人もまた、そのような交通事故と本質的には存在と同じくする、偶発的なできごとである、ということだ。 それを敷衍するなら、ぼくが、そしてあなたが、あるいは明日、縛り上げて自由のなくなった家族を、ライフル銃で撃ち殺すことになるかもしれない。 いやそんなことは万にひとつもあり得ない、とあなたは言うかもしれない。いや、これを書いているぼくだってそう思う。 しかし1965年のカンザス州の最高裁判所に集った、ぼくやあなたのような普通の人々は、いわば偶然に起こってしまった交通事故のような殺人事件の犯人である若者たちに、死刑を選択した。その男たちは、二度と世間に戻ってきてはならないから、と彼らは言う。罰を与え、刑務所に閉じ込め、反省の機会を与えたところで彼らには更生の可能性は全くない、と彼らは判断した。 つまり陪審員である彼らは、その事件の偶発性を否定し、犯罪者の心に一瞬だけ宿った狂気を、あたかも壁に大写しになった子どもの影におびえるかのように過剰反応し、その若者たちを殺してしまったのだ。 朝、いつものように目覚め、歯磨きをして裁判所に向かい、その惨殺を実行した者たちを、彼らは殺してしまったのだ。それもまた、なんと偶発的な出来事であったことだろう! 死刑制度に矛盾があるとか、そんなことはどうでもいい。 いかに我々のモラルは、そして人生そのものは、一瞬の逢魔時によって変化してしまうのか。 それを実に稠密に描いたモザイク画(百人以上に及ぶ登場人物の描写)によって、トルーマン・カポーティ―はまざまざと見せつけた。 作家は、この作品を最後に、小説を二度と書けなくなった。 これもまた、魔を見てしまった故なのだろう。 「冷血」というタイトルは、この犯罪者を指すと一般的には言われている。 しかしこの作家自身にも脈々と流れる冷えた血液を、彼自身否応なく意識したのだろう。 そして、事件から半世紀たった今でも、普通の人である自分自身にさえ、その血は流れているということを、強烈に意識させられた作品だった。 | ||||
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いまいち面白くなかったですね。内容もあまり頭に残らないので自分的にはいまいちでした。 | ||||
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