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何者
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何者の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.95pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全61件 1~20 1/4ページ
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リアルな就活生を描いてる。 | ||||
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プレゼント用で不明 | ||||
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いろんな人がいるし、別にそれでいいじゃないと思うけど、 普通に読んで楽しめました。 | ||||
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途中からの展開が面白くて一気読みしました。誰でもあるよね、表と裏の顔。Twitterで複数アカウントを持ってる人が多いのも、裏の顔(本音)を吐き出したくて、誰かに聞いて欲しいのだと思う。読後、なぜ人はありのままの自分を出せないのだろうかと考えました。人からよく見られたい、人より秀でていたい。と思う気持ちがありながらも、理想と現実のギャップに落ち込み自信をなくす。人間が社会的動物であるゆえ仕方のない特徴なのかなと思うと、これも一つの愛すべき性質じゃないかと思いました。 そして年齢は関係ありません。就活をとうの昔に終えた私も、いまだ同じことで悩んだりしてます。 だから就活生たち、あまり悩むことなく頑張って欲しいです! | ||||
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全体を通してあまり刺激がない作品だった。導入部分の話が私にとってはかなり長く途中で飽きてしまいそうだったが、後半は前半の伏線が見事に回収されていて大変良かった。勝手ながら想像していた作品とは少し違かったことが残念でした。 | ||||
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終盤の展開に大きな無理が生じています。二宮は理香の携帯番号を知らなかったため、本人に鳴らしてもらおうと自分の携帯を渡しパスコードを解除させたことで恥ずかしい検索履歴がバレて怒涛の説教を食らうわけですが、なぜLINEの通話を鳴らさなかったんでしょうか。2ページ前に「一応ラインしたんだけど」という二宮のセリフがあるのに。 気になって読了後に調べたのですが、本作の初出は2012年でありそもそもがスマホ以前の時代だったようです。私が読んだのは令和三年五月二十日 第二十七刷の文庫版ですが、作中序盤に出てくるTwitter投稿にInstagramの文字列があるため勝手にスマホ時代の話だと思っていました。当時の版ではTwitpicだったようです。おそらく、Twitterに画像添付機能が実装されたことで役割を終え、サービスが終了したTwitpicの文字列をそのままInstagramに置換したのでしょう。上述の「ラインしたんだけど」も同様に「メールしたんだけど」だったのであれば、苦しいながらも展開に無理は生じません。しかしラインにしてしまったがゆえにあまりに無理のあるシーンになってしまいました。小規模な改変ですが、大学生を取り巻く就活とSNSが物語の根幹を成す本作において、彼らが持っているものがスマホであるかガラケーであるかという問題は、彼らのコミュニケーションの形を定義するほどの大きな意味を持ちます。文中の「携帯」をまるごと「スマホ」に置換するのは流石に憚られたといったところでしょうか。 2021年の現在はInstagramにすら通話機能が搭載されています。スマホのアップデートのスピードに出版が追いつけるはずがありません。こうした時代の出版社がやるべきことは、固有名詞だけを安易に置換して字面だけを"いま"に合わせる小手先のアップデートではなく、Twitpicに *2012年当時のTwitterには画像をアップロードする機能がなかったため、画像共有専用の外部サービスが用いられていた といった脚注を添えることなのではないでしょうか。 | ||||
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面白かったです。 ただ、正直言うと最初のあたりは読むのだるくてめんどくさーって感じてました。 加えて、一度読んで面白かったけど、再読したいと思わせるほどのものは個人的にはなかったです。 後半の大どんでん返しはうまくできているな、と思いました。その構造くらいかな~面白いのは。って思ってしまいました。この作家さんに限らないと思うのですが、昨今の作家さんの文章力ってこんなものでしょうか。 私はアラフォーに足を踏み入れた中年のおばさんですが、他人の批判をしてしまうなんて、人間なんですもの、当たり前じゃない?と思ってしまいます。ただそれを、表に出すか出さないかってことじゃないかと。批判が浮かんでしまうこと自体には苦しむ必要ないと思います。しょせん人間だし。結局、相手に知れた時どうなるかってことですよね。だから、悪口言うな、書くなってことなんです。だから、本作の主人公が自身の裏アカがバレた時の動揺ってのは、正直アホだなとしか思えませんでした。過去の検索履歴だって、他人に見られたくなかったらどうにか対策すればいいのに。そんなITリテラシーも低い状態で、無防備だなぁと。他のレビュワーの方が、本作は「若い」と書いていらっしゃいましたが、中年である私も同感、若いなと感じました。そういう意味では、10代20代の方々が読むのが良いのかもしれませんね。しかしながら、それゆえに、文学作品としての普遍性は本作にはなく、これも他のレビュワーの方にありましたが、エンタメであり、”携帯小説”なのだと思います。 さらに、中年の大人として感じたのは…。結局、本作の中で内定をもらえている人たちって、「いい人」ばかりですよね。しかし、実際の世の中って、「いい人」がまっとうに認められるっていうことはなかなか無いですよ。むしろ損をつかむ。立ち回りのうまい奴が出世しますし。そういう意味では、本書はなんだか浅い道徳本のような…。まぁ友人にするには「いい人」の方が絶対良いですが。 とまぁ、本の一冊も書き上げたことのないような私が、「観察者」として偉そうなことばかり書いてしまいましたが、巨大なブーメランが私自身に返ってきてますね。そういった面で、本書は「お見事」と言えそうです。 | ||||
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若い作者さんなだけあって若々しい小説だと感じました。考えさせられますが、なにかを得た感覚はありませんでした。評価が高い小説で期待が大きかったこともあり、評価に見合うくらい面白いとは言えないかと思います。若い世代には共感とラストの展開が面白く感じられると感じます。大人はあまり何も感じないかもしれませんね。 | ||||
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就職活動を行う男女5人の話し。 就職活動というのは、自分がどういう考えを持ったどういう人間であるのかということと、自分が何をやりたいのかをひたすら突き詰めるものだと思う。 なので、就職活動を通じて理想の自分になるとか、今の自分ではない何者になるとか、そういうことなんだっけ?と思いながら読んでいました。 他人に笑われるような痛々しい言動の先にある理想の自分って何?そんなのにならない方がいいでしょ。この本の登場人物ほとんど痛い奴と恥ずかしい奴しかいない。読んでいていてイライラした。 最後は目くそ鼻くそ同士でなじりあって終わる。最悪です。(それで主人公は目を覚ますわけですが) | ||||
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どの点が気になってブックマークをしたのか忘れてしまった上で読んだので、結果はがっかりだった。 まず、青春群像劇とでも言うのか、就活を始めた学生5人の就活を基盤とした各々の何気ない日常の物語。その何気ない日常だけで、この小説は終わってしまう。何の起伏もない。 登場人物も全員が薄い。著者は大学時代に余り友人は居なかったタイプなのかな?と思ってしまう程、登場人物に特徴が無い。 特徴が無いと言う書き方は悪いか。特徴はあるが、取って付けたような感じなのだ。学生で実際に居そうなのは、光太郎ぐらい。 語り手である拓人は作者自身の投影かな?と感じた。で、この物語の決定的なつまらなさは、物語の最初から何事に対しても一歩引いている感じのキャラクタ設定が、最後のオチの段階で仲間である理香から指摘されるが、読んでいる側からすると、「いや、最初からそんなキャラクタじゃん!?」となる。何の意外性も無いのだ。 小説の登場人物には下衆な輩も出てくる。でもそれなりに作者の愛情やキャラクタ設定への苦心が見える。しかし、本作品の登場人物には作者の愛情と言うものが一切感じられない。作者自身もまた、中小しか内定が取れなかった光太郎、留学経験があり内定を貰っても母親に問題があったりする瑞月、学生時代の様々な学外活動はさかんだが内定の取れない理香、口ばかりの隆良を、拓人を通じて小馬鹿にしている感じがした。 | ||||
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. 本書を読んで、何かに「気づかされる」人は少なくない。しかし、本気で「考えさせられる」人は、ほとんどいない。 たとえば、本書のレビュアーたちのうち一体どれだけが、自分のレビューが、本作中に描かれた「ツイート」と「どこかで似てしまうかもしれない」と怖れてみただろうか。「単なる自己顕示」以上のレビューを書こうと明確に意識したレビュアーが、一体どれだけいたことか。 本書に書かれたことを「我がこと」として考えることもなく、漫然と本作の感想を書いて投稿したのだとしたら、それは、本作に描かれた登場人物たちの「イタさ」の意味を、他人事としてスルーしてしまった、何よりの証拠にはならないだろうか。 (※ 以降、本作の「弱点」を論証的に説明する上で、本作における、ある〝仕掛け〟について、あらかじめ言及しなくてはならない。したがって「一切のネタバレは困る。白紙の状態で読みたい」という方は、本作読了後に、当レビューをお読みください) . 本作は「若者たちの自意識」の「イタさ(痛さ)」を描いた作品であると言えよう。 社会心理学的には、すでにありふれた指摘に類することだが、ネット上に見られる若者たちの言説に、色濃く看取できるのは、彼らの「承認欲求」の、痛々しいほどの強さだ。 平たく言えば「自分をひとかどの人間と認めてほしい。凡庸一様の人間ではなく、特別な存在であると認めてほしい」という、満たされない欲望の強さだ。 言うまでもなく、こうした「若者の欲望」は、昨日今日に始まったものではない。若者というのは、昔からたいがいは、こうした強い「自意識」を持ち、それに苦しめられてきた。 しかし、それがこんにちほど目につくようになったのは、もちろん、ネットが社会を覆い、SNSなどで誰もが自身で発信できるようになったからだ。 多くの若者たちは知らないだろうが、ネット以前の社会においては、「公的な発言」をする「権利」というものは、一部の「知識人」や「著名人」に限られていた。たとえば「無名の市井人」が政治について物申したいと思った場合、いったい何ができたか。 「多くの人に、自分の意見を知らせたい、読んでほしい」と思えば、まず可能だったのは「新聞の読者投稿欄への投稿」くらいだった。これに採用されれば、何百万人という新聞読者に、自分の意見を読んでもらうことが出来る。しかし、これは多数の投書の中から「幸運にも選ばれたら」の話であり、「幸運」とは滅多に訪れはしない。それに、そこには極めて厳しい字数制限などもあって、自分の意見を根拠を示して理路整然と語るほどのスペースは与えられていない。要は「読者の声」などというものは、新聞編集部の意図の(順逆の)代弁として採用されるだけで、書き手本人の「個性」などは、そもそも問題にされていないのだ。 では、どうするか。 小説や詩歌などの創作なら「同人誌」を作って、そこへ発表することも出来るが、それを読むのは全国でせいぜい数百人程度だ。同人誌は、書店には置いてもらえない。自費出版も基本的に同様である。今でなら「文学フリマ」などもあるだろうが、それとて読み手は「同好の士」に限られて、けっして「世間一般」に届くことはない。 こうした「同人誌」や「自費出版」などでは物足りないというのであれば、あとはその人が「プロの文筆家」になって、公刊されている雑誌や新聞などに作品を発表できるようになるしかない。ただし、うまくプロになったとしても、売れっ子にならなければ、書きたいものを自由に書くというわけにはいかない。言い変えれば、書きたいものが書けるわけではない。つまり、あなたの「個性」など、求められはしないのである。 以上のように、ネット以前の社会では、「名も無き人」が「世間にむけて発信する」というのは、ほとんど不可能事であった。「名も無き人」というのは、世間一般的には「その他大勢」であり、言論表現的には、ほとんど「いないも同然の人々」だったのである。 したがって、特別な才能を持たない多くの人は、「自己表現欲求」や「承認欲求」を、おのずと自身の周囲に向けるしかなく、そこからせいぜいどのくらいまで広げられるか、という問題でしかなかった。自分の「声・言葉」が、世間の誰からでも接続しうる場所に提示される、などといったことは絶えてなかったのである。 だからこそ、ネットが普及すると、それまでは自分の「身の程」を知って諦めていた、そうした「自己表現」の可能性に、多くの人が「希望」を抱き、ネット上で自分を表現するようになった。 「ネットの広い世界でなら、自分を正しく(高く)評価してくれる人が出てくるのではないか」と期待して、それまで「何者」でもなかった自分が、「何者」かになれるのではないか、と期待するようになったのである。 しかし、その「期待」や「夢」や「希望」が満たされる人というのは、ごく一部である。 というのも、拡張されたのは「表現の権利であり場所」であって、「表現者の能力」ではないし、その一方「評価者(読み手)」の方は、「読み手」としての特権的な、昔の評価基準(=プロの物書きに対する評価基準)のまま、彼ら「新たな参入者(素人)」を「選別」することができたからである。 つまり、人々は、「表現者」としては「百円ショップ」にならべられた商品のように、「評価者(買い手)」の厳しい選別に、その身を委ねなければならなくなったが、いったん「評価者(買い手)」の立場にたてば、「評価者としての能力」について、何の評価を受けていない「ズブの素人」であっても、「お客様は神様」的な特権的立場から、商品棚に並べられた「表現者」たちを、無造作かつ残酷に選別する権利を保持していたのである。 そして、一人の人間が、「表現者」であると同時に「評価者」であるということ、言い変えれば「商品」であると同時に「買い手」でもあるという「立場上のギャップ」を抱え込まざるを得なくなった時に、本作に描かれたような「タテマエとホンネ(表現と評価)」の極端な二分化が、多くの人たちのなかに生まれざるを得なかったのだ。 ○ ○ ○ さて、本書である。 前述のとおり、本作は「若者たちの承認欲求にかかわる葛藤」を描いた物語であり、それはその内面における「ギャップによる苦しみ」の問題を描いているといえるだろう。「自分はこういう人間なのに、他人はそれを正しく認めてくれない」という問題である。 しかし、「自分はこういう人間なのに、他人はそれを正しく認めてくれない」という、このシンプルな認識には、二重の不確実さがある。一つは「その自己評価は、はたして正しいのか?」という問題。二つ目は「他人は、本当にそう評価しているのか?」という問題である。 言うまでもなく「自己評価」というのは、ほとんど当てにはならない。その多くのものは「過大評価」だろうし、時に「過小評価」であって、「適切妥当な評価」というのは、極めて困難なものなのである。だが、そんなことにすら気づけないような評価無能力者が自分の評価をするのだから、自己評価が間違っている蓋然性は極めて高い、と言えよう。まして、自分のことも冷静に見られない人が、どうして他人のことを、その内面まで正しく評価できるだろうか。 このように考えていくと「自分はこういう人間なのに、他人はそれを正しく認めてくれない」という「認識」は、ほとんど「独り善がりの戯言」でしかないということになってしまう。 そして、多くの若者は、こうした「独り善がりの戯言」という「迷宮」の中で、ナイーブに悩み苦しみ傷つきながら、彷徨うことになる。 もともと「自分への正しい(肯定的)評価」などという出口自体が「幻想」でしかない蓋然性の方が高いのだから、そこから「正しく」脱出することなど、ほとんど不可能。「脱出者」つまり「承認された者」となれる可能性は、原理的にほとんどないのである。 つまり、多くの若者が、その辛く苦しい「迷宮」から脱出する為には、多くの場合、その迷宮には「出口が無い」ということを認め、その迷宮から出ることの不可能性を認めることしかないのだ。それを認めた時にこそ初めて、その迷宮は消えてなくなり、彼は自分が迷宮の外に立っていることに気づくのである。 本作では、主人公(一人称の語り手)拓人による、友人たちへのツイートに対する辛辣きわまりない評価が語られていく。ひと言で言えば「おまえらのツイートは、イタいんだよ」ということになる。 実際、友人たちのツイートはしばしば「イタい」。聞かれもしないのに、自分の「価値観」や「他者評価」や「理想」を語り、その中身によって、自分が「非凡な人間」であるかのように見せようとするのだが、しかしそれは、そうした「自己顕示」の意図が簡単に見透かされる程度のものでしかないから、友人たちは、「評価者」である主人公から「三流の表現者」だと評価されてしまうのだし、その評価は間違いではないのだ。 そのため、読者の多くも、主人公の、友人たちへの評価に共感する。「そうそう、こういうイタい奴、多いよね」と。 しかしながら、それは自分を「評価者」の位置に置いているから言えることで、いったん自分が「被評価者=評価をされる側」である場合を考えるなら、自分もまた十二分に「イタい奴」でしかないことに気づくだろう。しかし、そういう「自己相対化」ができる人は、きわめて少数でしかない。そして、それができる人だけが「少数の選ばれた表現者」になれるのである(つまり、自身を他人の評価に晒し、さらには、それとの対決も辞さない覚悟を持つ者だけが「表現者」たりうる)。 したがって、主人公もまた、多くの読者と同様に、自身を「評価者」の側に措くことはしても、自分を「被評価者=評価をされる側」に措こうとはしない。それは、自分が友人たちに対して、内心で極めて残酷であるように、友人たちの目もまた、自分に対して残酷である蓋然性の高いことを知っているからだ。 だから彼は、その本音(評価)を友人たちの前で語ることはなく、ツイッターの「裏アカウント」でこっそりと書き連ねることになる。つまり、彼は「裏アカウント」によって「透明な存在」となり、「一方的な評価者」としての「安全圏」から、心置きなく友人たちを断罪していくのである。 しかし、物語の終盤で主人公は、ある友人に「裏アカウント」を暴かれ、その「裏表のある卑怯なふるまい」を断罪されることになる。「たしかに私たちのツイートは、イタいかもしれない。でも、それを、正体を隠して、上から目線で一方的に馬鹿にしている、あなたの方が、もっと救いがたく根性悪で卑怯で、イタいのではないのか」と、真正面から批判されてしまう。 主人公は、その「正当な告発」に対し、ただ「否認」するしかない。それを認めてしまえば、自分が自分に見ていた「本当の自分という幻想」を、完全に打ち砕かれてしまうからである。 また、ここに至って、主人公の語る「友人たちへの酷評」に共感してきた多くの読者は、この「告発」が、自分にも向けられたものでもあることを知って、ショックを受ける。 その「告発」を「否認」することしかできない、主人公の見苦しくも弱々しい「負け犬」のような姿に、読者の多くもまた「自分の本性」を見なければならないからである。「私も主人公と同様に、身の程知らずで独り善がりな、愚か者であった」と。 だから、本書には、読者に対する「告発」とまでは言えないにしろ、一定の「問題提起」がなされているというのは確かだ。「君自身は、どうなんだ?」という問いである。 しかし、「本書の問題点」は、その先にある。 本書のラストで、主人公の拓人は「一方的な評価者」という「安全圏」から踏み出して、自分を「他者の評価に晒す」ようになる。彼は、人を評価し、人から評価される、という「社会」のなかへと、一歩踏み出したのだ。彼は、たしかに「成長」したのである。 一一こうして、この物語は「ハッピーエンド」を迎え、読者は気持ちよく、本作を読み終えることができる。「ああ、面白かった」と。 しかし、その時にはすでに、読者は、自分が主人公の拓人とはちがい、「卑怯な一方的評価者」の位置に止まったままであるという事実を、忘れてしまっている。 主人公の拓人が成長し、それによって「救われた」ことで、彼に共感していた自分までもが成長し「救われた」ような気になってしまうからである。 しかし人は「娯楽小説を1冊読んだくらいで、途端に成長したりはしない」のだ。 つまり、本書の決定的な「弱点」とは、このラストにおける「安易な救い」の提供でなのである。 これによって、読者に対して適切に提起された「問題意識」が、無効化されてしまったのだ。 言い変えれば、本作がそのテーマ性において、何がしかの価値を持とうとするならば、最後の「救い」を、主人公にも読者にも、安易に与えるべきではなかった。 むしろ「人は、そう簡単には変われない」という、困難な現実を読者に提起した上で、それを読者に委ねるべきだったのだが、作者の意識は、「エンタメ」的な「心地よさの提供」という慣習に流されてしまったのである。 したがって、本作を「所詮はエンタメ」と割り切るのであれば、充分に高い評価を与えることもできようが、それ以上の価値を見いだそうとするのであれば、本作はラストを誤った「失敗作」だと評価せざるを得ない。そこに、「エンタメ」の限界を見、「エンタメ作家」としての作者の限界を見ないわけにはいかないのである。 そして、これこそが「作品」を世間の評価に委ねる、ということなのだ。作者は、本作の主人公拓人のように、読者の盲目的な追認にだけ、その身を委ねて満足していてはいけないのである。 じっさい、本作の問題点は、本書文庫版の、三浦大輔による「解説」文にも、はっきりと表れている(三浦は、映画『何者』の監督)。 三浦はその「解説」で、露悪趣味的に、自分も「内心での負けず嫌いだった」だと告白したうえで、しかし、そんな自分でも、この『何者』という小説には兜を脱ぐしかなかったと認めて、その上で、作者・朝井リョウを次のように褒め上げる。 『 でも、朝井さんは、過去の自分のような人間のために、この小説を書いたわけではないだろうし、この小説の登場人物のような人間たちに、「罰」を下そうとしたわけでもないと思う。むしろ「赦そう」としたのではないだろうか。朝井さんの作品は、社会に警鐘を鳴らすような、強い問題意識を提示するような、いわゆる説教じみたものであるはずがない。ただ、そこにいる人間のをありのままに描き、その愚かさをも含めて、全てを受け入れる。高尚なテーマを掲げたがる、頭でっかちな作家たちが目もくれない「俗」を見つめ続け、そこに無防備に石ころのように転がっている「本質」を逃さず拾い集める。』(P345) ここに示された「読者・三浦大輔の醜態」こそが、そして、三浦の姿の象徴される「自分に対し盲目的甘い読者に、自己正当化お墨付きを与えるしか能のない作品」というこの点が、この小説の「弱点」なのである。 三浦が、ここで書いていることとは何か。それは所詮「独り善がりで一方的な、自己承認欲求」の表現でしかない。「成長した拓人」ではなく「成長前の独り善がりな拓人」であることを、そのまま「許されよう」という、度しがたい「甘え」でしかない。 たとえば、ここで三浦は『社会に警鐘を鳴らすような、強い問題意識を提示するような、いわゆる説教じみたもの』を書く『高尚なテーマを掲げたがる、頭でっかちな作家たち』を、もっともらしく「批難し見下している」が、この態度は、友人を見下していた時の拓人となんら変わるところのない、一方的なものだ。 自分が『演出家・脚本家・映画監督』(P346)と「肩書き」を並べなければならない、あるいは、並べることのできる、中途半端な「有名人」であることだけを根拠に、『社会に警鐘を鳴らすような、強い問題意識を提示するような、いわゆる説教じみたもの』を書く『高尚なテーマを掲げたがる、頭でっかちな作家たち』を見下すことができると「奢り高ぶり」、彼らの努力を無視して良いのだと「勘違い」している、「今の自分が見えていない、イタい人」なのである。 言うまでもないことだが、本作の作者・朝井リョウは、主人公の拓人を『その愚かさをも含めて、全てを受け入れ』ているわけではない。 だからこそ、彼に過酷な試練を与えて、彼の「成長」を促したのである。 そんなことすら、この「解説者」には理解できていない。 しかし、そんなことすら理解できなかったのは、もちろんその主たる理由が「解説者の承認欲求の強さとその無反省」にあるとはいうものの、本作が、この「解説者」三浦大輔に対して「反省を促す」力を持っていなかったからなのである。 最後の最後で、安易に「救い」の手を差し伸べてしまったからこそ、三浦大輔をふくむ少なからぬ読者が、十分な反省のないまま、その手にすがって、自己を「そのまま承認する」という「甘え」に逃避してしまったのだ。 解説者・三浦大輔は、そうした「朝井さんは、優しいから、私たちをそのまま承認してくれた」という、得手勝手な理解から、「解説」の最後を、次のように締めくくっている。 『 とある日、自分がツイッターに関して、ぶつくさ言っていたら、とあるギャルたちにこう言われた。 「別にそんなことどうでもよくないー。楽しければいいじゃーん」 彼女たちのことを知性がないと言い放つのは簡単だろう。でも、自分にはどうしても、その楽観としか捉えられないだろう言葉の中に、うだうだ考えてるこっちがバカバカしくなるくらい、芯食った、そこはかとない説得力を感じずにはいられなかった。堅物が「じゃあ、ツイッターなんか見なきゃいいじゃん」と、ほんとは気になってるくせに、達観しているふりをするために吐く言葉とは全然違う、どこか神々しさを感じるくらい、大仰だが、「真実」のようなものの気がした。 もしかすると、彼女たちは『何者』を読んでも、主人公のことを「こいつ、うざーい。きもーい」としか思わないのかもしれない。 でも、朝井さんは、このギャルたちのことを、「馬鹿だ」と一蹴しない。彼女たちの「俗っぽさ」を、きっと「愛」する。そして、彼女たちの価値観までも凌駕するような物語を、いつかきっと紡ぎ出すはずだ。 そして、ギャルたちは、こう続けた。 「ツイッターに、何書いても死ぬわけじゃなくねー?」 強敵だが、朝井さんなら勝てるはずだ。』(345〜346P) この文章に、「解説者」三浦大輔の「鼻持ちならないエリート意識」を読みとった人は、拓人なみの読解力がある、と言ってもいいだろう。つまり、その評価は、完全に正しい。 要するに、三浦は、ギャルたちを内心では馬鹿にし見下しているのだが、彼女たちを持ち上げることによって、自分自身を「朝井さんと同様の、人を見下さない良い奴(大人)」に見せかけ「イマドキの若者の支持を取りつけようとしている」だけで、このあたりの「三文芝居」は、本書作中人物たちの「自己美化の為の無自覚な演技」よりも、よほど「薄汚れた大人らしい、意識的な手管」である点において、悪質だ。 実際、三浦がギャルたちを、まったく見下していないのなら、そのまま肯定する気があるのならば、『強敵だが、朝井さんなら勝てるはずだ。』などと書くはずがない。 これはギャルたちの中に「倒すべき手強い負性」としての『馬鹿』を見ているからに他ならないのである。 そして、もしも三浦が正直な人間であれば、ギャルたちの「思考放棄としての感覚主義」については是正され、彼女たちも拓人と同様に「成長」すべきであり、その可能性において彼女たちも否定されるべきではない、と主張したはずなのだ。 ところが、三浦の「解説文」は、小説『何者』を解説するふりをしながら、じつは「自分を大きく見せる」ためにこそ書かれている。つまり三浦は、有名人の名前を引き合いに出して、自分を大きく見せようとした拓人の友人と、同じようなことをしているのである。 そして、このことが意味するのは、本書の「解説者」ですら、本書を読むだけでは、まったく「成長」できなかった、ということであり、本作『何者』は、そのような「文学としての力」を持たなかった、結局は拓人たちの弱点を「読者自身の問題として、思考を促すこと」ができなかった、ということなのである。 終盤の「ドンデン返し」で「拓人の醜さは、読者の皆さんそれぞれのものではありませんか?」という「適切な問い」を突きつけておきながら、エンターティンメントとしての収まりの良さを優先して、最後の最後で、拓人への「無根拠な救い」を与えてしまった為に、そこで読者も「読者への問い」から逃げてしまった。そして、その結果が「私はギャルの理解者だよ」などと、鼻持ちならない上から目線で語る「解説者」を生んでしまったのだ。 小説『何者』が、単なる「うさ晴らしのエンタメ」にすぎないものでいいと、作者自身は考えていたのだろうか。 私は「そうではない」と考えるからこそ、本書の本質的な問題点は、是非とも指摘されなければならなかったのである。 . | ||||
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文庫本の小説の解説にはロクなものがない、という法則はこの本の三浦大輔の解説により初めて破られた。 その解説の書き出しはこうだ 「「何者」の解説である。直木賞受賞作である。」 この本の解説にこれ以上的確な言葉はない、と思う。 これが直木賞?いや、当然直木賞! 「桐島…」ほどの天才感は感じない。 面接官の世代のオッさんからすると、 就職活動なんて命とられるような人間関係ぶっ壊すようなもんでもねえよ、 と言いたくなるし、Twitterやってないとリアリティもイマイチ感じがたい。 でも、世代のリアルな代弁者の面目躍如な作品だ。 だから、直木賞、なんだろう。 好きともキライともハッキリしない曖昧模糊が魅力といえる。 そう、名は体を表す。「何者」感あふれる小説。ラストまで。 ひと昔前なら主人公の人格はだいたい崩壊して終わった。 これはそうではない???いやこれも一種の崩壊なのかも。 恐らく人によって取り方はそれぞれになるだろう。 そう、読んでみればわかる。そして、だから直木賞だ。 | ||||
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ほとんどがセリフで構成され(地の文も、主人公による独白調)、ライトノベルのような読みやすさです。表現も変ったものがいっさいなく、このまま脚本になるのではないかというほどわかりやすい。実際、映画になっていますね。 とくに、終りに近くなって、登場人物同士のぶつかりあいになるところ、なかなか作家の力量が見事です。 また、就職活動に挑戦する大学生にもある意味で役立つところもある小説でしょう。 しかし、すべての登場人物が類型的で、多かれ少なかれ、よくいるタイプであり、今の規格化社会のなかにはまっていくというストーリーで、文学としての面白みに欠けます。就活をしないギンジという登場人物も、今はとりあえず演劇一本なんだろうけれども、これじゃあ、何時まで持つか分からないという凡庸な人物に描かれていて、まったく危険な匂いがしない。文学には、もうちょっと危険で、アブナイ、規格外の要素があった方がいいでしょうね。 | ||||
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就活を中心とした大学生の話 映画を見た後に、嫌な気分が残る映画だなと思い手に取りました SNSを利用して人の黒い気持ちが書かれています 就活で他人に否定されたり、選ばれなかったり 他人を羨んだり妬んだりでそれまでの人生より濃い毎日だろうし こういうことはあるだろうし、あったけれど 読後感は良くなく、イヤミスかしら・・・と思いました 直木賞受賞とありますが、何も思うところはないです | ||||
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私にとっては、とても若い作家がとても若い人たちを描いた作品。 途中、読んでいて恥ずかしくなるほどに、登場人物たちがロマンチストでナルシスト。若い頃ってこんなだったかしらと読み進むと、ラストに仕掛けが。なるほど。 しかし、読み終わっても、この作者さんはロマンチストでナルシストであると思います。 若いなあ。自分の歳を思い知らされました。 | ||||
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友人に勧められて読み始めた。 就職活動の物語(最終的にそう感じた。)だったので、今の若者達はこんな感じなのだろうという感覚になっていった。 一方で自分はあまり就職活動はそれ程、熱を入れずにやっていたので、その事そのものが新鮮だったのと同時に、若者感覚として、主要登場人物達の心情に共感を覚えながら読み進めていった。 最初は主人公に対して「なるほど、こういう感覚はあるよな~」と思いながら読んでいたが、徐々に明らかに主人公にとって嫌悪感を感じさせる二人に関しても「いや、これは分かるんじゃないか。こういう感覚もありなんじゃないか。」と思うようになっていった。 それは、自分が就職活動から10年も経過している事、また専門職という特殊性をもって社会へ出た事、そして何より良くも悪くも大人として生きてきてしまった自分を振り返っている(主人公が嫌悪感を抱いている二人の考え方にしたたかさがある事に対して、それが必要だと感じている事が。)からだと思った。 また、主人公と主要登場人物の1人である女性との今後に期待を寄せながら読み進めた結果、主人公が彼女のある一言で、彼女に対して怯んでしまったと感じた事が(は、そんな事でどうした?普通だろ、それ。俺なら口説くけどな。・・・のような感覚)少し拍子抜けした気持ちになってしまったが・・・ その答えは終盤で明らかにされる。 SNSを通じて自己を表現出来る時代。主人公の中の魔物が、そこで生きている。 おそらく、私と同じように就職活動からある程度時間が経っている人たちにとっては、SNS上で自分の中の魔物を表現するという感覚は何となく理解出来るのではないか。いや、きっとやってきたのではないかと思う。 問題はそれをタイトルの如く「何者」か分からなく、あるいは自分自身も分からなくなってしまいたい、自分じゃないもののように表現出来てしまっている事だと思う。 文末に間接者が主人公が、傍観者から当事者になる瞬間がくると表現しているが、まさにそこからがたけなわ。 主要登場人物の女性の一人が「立っていられない。」と表現する。それが今の若者を描写していると思う。(就職活動時に自分はそこまで感じた事がないので。むしろ、今のほうがその感覚はある。) 自分の中の魔物に気づき、どう表現できるか・・・という事ではないか。 | ||||
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若者にありがちな勘違い、虚栄心をえぐりだされたようで、つらくなった。よく考えられた小説ですね! | ||||
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多少なりとも企業の採用に関わってきた者として,この事を書くべきと思った。 拓人くんは,人と長く暮らすことが出来る,空気の読める穏やかな性格で,高い社会性を持つ青年である。面接官は,「多少幼いところがあり,面接の準備も足りない点があるが,まあ,穏やかそうだし,いいんじゃないか。来てくれるのなら,教え甲斐もしごき甲斐もありそうで,まあ,内定出そうか。」と思うと思う。 理香さんには「多少,勘違い気味な頑張り方だが,努力家には違いないし,使い勝手も悪くなさそう。1から10まで教えれば,ちゃんとした戦力になってくれるだろう。」という解釈が下されると思う。 二人とも,光太郎くんや瑞月さんと同じく,「難易度の高いところから受けて,徐々に下げていく」という就活の王道で行っているので,いずれ「まあ,この辺で。」という落ち着き先が見つかると思う。隆良くんは,サラリーマンになる気があるのなら,多少の心の入れ替えは必要かもしれない。 この小説は良い出来えだし,読者数も多いようなので,これを読んで就活に過度に身構える大学生・高校生がでてくるだろうから,その彼らに,「あのくらいの若者なら,全然大丈夫だよ。」と教えてあげたいと思った。 ここからは蛇足かもしれないが,もう少し書く。 人の失敗や不幸を密かに喜ぶことや,自己弁護で心の平衡を保つことは,そんなに醜く,特殊なことだろうか。特に統計など無いのだが,殆どの人がやっていることだと私は信じている。そのような心を持っている事で,激しい自己嫌悪を感じなくてもよいと思う。裏アカウントが知人にバレてしまったら,頭を搔けばよいだけのこと。大人になっても老人になってもそうゆう心根は消えることがないので,そうゆう悪魔と上手に付き合って,拓人くんたちには自分らしいと思える人生を歩んでほしいと思った。 | ||||
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終わりは意外な時でした。途中の不思議な設定はラストで明らかになります。 | ||||
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この作者は、本来なら自分がブログでぶちまけたい感情を登場人物に代弁させてカタルシスを得ているのだろうな、と感じた。ただそれではもたないから、自己ツッコミとしての対立者も置いて小説の体にしているが。 物語の締め、その「自己の投影」の「上げ・下げ具合」の微調整に、作者自身の自意識との距離感や羞らいの度合が読み取れるという意味でちょっと面白い小説。計らずも日記公開、みたいな。 | ||||
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