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ヴァリス
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ヴァリスの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.46pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全28件 1~20 1/2ページ
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映画ブレードランナーの原作「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」の作者P.K.ディックによる作品。 過去ディックの作品を読みふけっていた時期があったが、30年ぶりにディックの作品を手に取った。 読み始めると冒頭全くSFではない、しかも小説の体をなしていないような感じなのである。 読み進めていくうちに丁度主人公だと思っていたホースラヴァー・ファットの他に僕なる主人公が現れたところあたりで小説の体になってくる、読み進めやすくなってくる。 そして作中に映画「VALIS」が登場。この映画がディック的なSFの内容なのだが、映画はフィクションではなく現実を反映したものであるという展開となり、作品はSFへとなっていく。 昨今、ホログラフィック宇宙論・世界シミュレーション仮説・時間は存在しない等といった物理学での仮説を聞くことがでてきたが、そのような認識を40年も昔に作品に取り込んだディックはさすがである。 | ||||
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前半、これは薬物中毒者の幻想の話なのだろうかと思うスロースタートなのだけれど、60%程読み進めていくとジェットコースターに乗っちゃった感じ。 これは著者のディックの神秘体験とそこから出てきた神学哲学に関することがめちゃくちゃ乱暴だけどカラフルなビジュアルで迫ってくる。文字情報読んでるのに…というもの。仏陀もでてくる。ディックの宗教観もすごいのだが、これ陰謀論につながるやつではないかと思ったら、やはりご本人が襲撃されたことがあり、それについて陰謀論の傾向にあったと。なるほど。著者の人生を色濃く反映した作品なのだな。重い。重いよ。自分が正常だっておもってることなんてほんと不確かだわとしかいいようがない。そんな不安定な感じで最後まで読んでいくしかないのだ。 宗教的なものに興味がある人は、個人の宗教観をのぞきみる気持ちで読めると思う。本当に個人的なものが反映されていると思う。生後一ヶ月で死別した双子の妹の死について彼はずっと考え続けているのだ。それが登場人物に反映されている。 | ||||
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でもガキだろうがあれは読み取れた状態じゃないから初読の気で読むとこれが実に分かりやすい。内容が凄いというか解説が親切。 | ||||
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人間の精神と個の認識、現実と空想が入り混じった世界を題材にした作品。宗教関連の記述が多く、また散文的記述が多々含まれるので、読んでいて途中で流れを見失い、2,3ページ戻って読み返すということが度々あった。一般の「筋が一本通っている」SF小説と期待して読むと、面食らうだろう。ディックの「精神世界」ファンであれば読むに値するかとは思うが、それ以外の読者に対しては個人的にはおすすめしない。 | ||||
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まだ読書には支障ありませんが、もう少し年月が経ったら、焼けが更に進んで、読みにくいのではないでしょうか。 新訳の前に旧訳を購入しましたが、意外と読みやすく、選択は間違っていなかったように思います。 ヴァリス三部作(他二部はまだ端緒についたばかりです)のうち、最も一般的で理解できる作品です^^b | ||||
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ディックは、独特の世界観をもった風変わりなSF作家と思われているが、とんでもない。彼は私が思うに、文学史上に残る巨人である。 ディックは長編40本以上という非常な多作だが、初期から晩年の『ヴァリス』にいたるまでテーマは一貫している。彼の描く世界観は、一言で言うと「胡蝶の夢」そのものである。すなわち、現実への不信、虚構の世界観である。『ユービック』では時間が退行し、『流れよわが涙、と警官は言った』では自分の存在が世界から忘れ去られ、『高い城の男』では虚構の世界と現実の世界の境目が崩れたりする。神秘体験にたびたび遭遇したディックは、この世のあり方に常に不信感を感じていたのだろう。 それ以上に彼が現実に不信感(というか納得いかないという感じ、理不尽)を抱いたのは、愛する人々が次々と死んでいくという事態だろう。ヴァリスは、友人が自殺するエピソードから始まる。それをきっかけとして、主人公ファットは狂っていく。やがてファットは、超越的な存在(それを彼はVALISと名づけた)から、息子の病気や歴史の真実や時空のありかたなどの知識を授かりだす。それらを彼は釈義としてつづっていく。物語は中盤まで延々とこの釈義がつづられる。ここまでで、挫折してしまう人も多いだろうが、正直言って釈義は斜め読みでかまわないと思うので、がんばって読みすすんでいただきたい。 この小説も語り手が実は主人公の分裂した自己であったりと、複雑なつくりをもつ。さらに、小説の頭にソ連の辞書からの引用としてVALISの説明が書かれている。小説中では、VALISがソ連のスパイ衛星のようなものではないかと語られるシーンがあるが、この引用のために、読者はVALISが何なのかますますわからなくなってしまう。 さて、このようにヴァリスでも世界の虚構性がいやというほど描かれるわけである。ディックが「神なき世界の生き方」として与えた回答は、ヴァリスでは「神」とのふれあいによるディックの再生として見事に描かれている。ディックの回答は、単当直入にいうと「愛」である。「神なき世界に何を信じて生きるか」という問いに、彼は「愛」と答えたのである。物語終盤の「神」の言葉を読んでみてほしい。ほとんどキリストの言葉と同じである。それをいかにディックは熱を込めて書いているか!彼はここを書きながら涙していたに違いない。 ディックの思想は『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』でもっともわかりやすく描かれている。この作品が彼の最高傑作とされているのは、わかりやすさのためだろう。しかし、わたしに言わせれば電気羊はメッセージが単刀直入すぎてしらけてしまう。メッセージの中身は同じなのだが、こうもストレートに言われると、押し付けがましいし、説得力がない。物語を通して暗に伝えられるからこそ、ディックの思いが胸をうつのである。その点で、映画の『ブレードランナー』のほうがはるかにディックの思想の核心をうまく捉えることに成功している。ここでは、奴隷として生まれたレプリカンとたちが、愛を知ったころにはもう死が待っているという絶望的なまでに理不尽な状況の中で、必死に生きようとする姿が描かれている。レプリカンとこそ、われわれ人間のあり方にほかならない。不条理な世界にあっても懸命に生きていかなくてはならず、そこに愛と共感がなくてはならない。これがディックの与えた回答である。 本作のほかにも『ユービック』、『スキャナー・ダークリー』、『去年を待ちながら』などの傑作があるので全部読んでほしい。個人的には『去年を待ちながら』が好きだなぁ。 | ||||
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この、レビューとされる文章を書いたのは4月のことだが、投稿するのは9月のことだ。さて、わたしのこのごろはちかごろという言い方もあるのだが、さいきん、といってもここ数ヶ月、といえば、そこそこ長い期間といえるんじゃないだろうか? 年初から、その期間、わたしはディックの『ヴァリス』(訳・大瀧啓裕)を読んでいる。そうだ。ディックという、SF小説の傑作をいくつもモノにしている一人の作家が、かつてその晩年に書いた、『ヴァリス』(訳・大瀧啓裕)という名の小説を読んでいるのだ。ディックは映画『ブレードランナー』の原作者といえば、その映画について見聞きしたことのある人なんかには、少しは響くんじゃないだろうか? 関心を寄せてもらえるんじゃないだろうか? そのディックが晩年に執筆したこの『ヴァリス』(訳・大瀧啓裕)だが、内容がとてもむずかしくて、わたしの手に負えている、わけがない。しかし何度も繰り返し読んでいる。読んでしまっている。年初から。わからないのに、内容をちっとも理解できないのに読む。理解できてないのに面白いなんて、言ってしまっていいんだろうか? それはとても無責任なのかもしれない、と思うからだ。その『ヴァリス』(訳・大瀧啓裕)をわたしはこの数ヶ月、年初から読みつづけているというわけだ。そして、じつは、この小説に触れることで、わたしはSF小説に本格的に触れるという経験を、はじめて持つにいたったのだ。おっと、それはすこし間違えだ。これが2つ目なのである。つまり、『ヴァリス』(訳・大瀧啓裕)を手にするまえに、わたしは別なSF小説の読者となっていたのだ。そんなことはいいとして、この『ヴァリス』(訳・大瀧啓裕)だ。SF、と先述してしまったわたしだが、これはほんとうにSFなんだろうかと疑問する。たしかにSF小説の大家が書いた作品ではある。それが本当ならばの話だ。本当だとしよう。そして、本作はSFと思しき一つの作品であるが、いやそもそも、これは小説でさえあるんだろうか? たしかにSF作家の大家が書いた文章群ではある。きっとそうだろう。文章群とは、たくさんの文章が群れているという意味だ。だから、そうなのだろう。しかし、小説なのかどうかには、一個の疑問の余地はある。すくなくとも。そんな一つの作品をわたしはここ数ヶ月、触れつづけてきているわけだが、はたして、この作品は、生きているんだろうか? わたしは生きている。もちろんだとも。いや、もしかしたら、そうでないのかもしれない。わたしとこの作品、どちらが生きていて、どちらが、そうでないのだろうか? どちらがホンモノで、どちらがニセモノなんだろうか? この作品は本当に、SFで、小説なのだろうか? そして、このわたしは本当に、人間なのだろうか? | ||||
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高校時代、気が〇ったとき、読んでいた。訳者は大瀧啓介。 自分の頭で起こっていることすらわからなかったのに、さらにわけのわからないものに出会った。不思議な体験だった。 まともに歩けなくなり、授業中も酔っぱらっていた。酒に溺れていた。 「ディックよ、お前は狂っている」…大瀧啓介より。 狂気の人間が書いた、気〇い宗教の聖典である。僕はすっかりイカれてしまっていた。 「帝国は終わらない」、結局、ディックは狂ったまま死んだ。精神も人格も破綻してしまっていた。 僕の人格も精神も破綻していたから、新興宗教の教祖にすがるごとく読んでいた。気〇いとしかいいようがない。 根本敬や村崎百郎もこのころ読み始めた。それが運のつき。自分の暗黒時代の始まり。僕はディックにレイプされたのだ。 「フィネガンズ・ウェイク」「ユリシーズ」も、破綻した脳ミソで読んでいた。当時を思い出すと涙が溢れる。 気が〇うということはこういうことである。「ユリシーズ」は健康になってから再読したっけ。 「ヴァリス」という疑似宗教の神典。僕もイカれた。本気でディックに傾倒してしまった。 自分の人生はそれで狂った。 狂った人間はどんなこと考えているかの、ある種のカルテだろう。こういうのは僕も精神神経科のペーパーに書いたかも。 以後、僕は15年、狂ったままである。 僕はディックを恨み続けるけど、それで人生は取り戻せない。 佐々木倫子や大島弓子、川原泉によって、癒された。彼女らもディックとかハインラインとかクラークとか、読んでいたかも。 僕の復讐は、終わらない。 頭も悪くなったから、レムの「ソラリス」を読んでも、さっぱりだった。 でも、ペッキンパーとクーブリック、ゴダールにストーンズ、ピストルズにも救われた。「気〇いピエロ」は今でも好きだ。 「帝国は終わらない」…まったく意味不明。 なのにのめり込んだ。患者が教祖にすがるようなものだった。 僕の復讐は、終わらない。 | ||||
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筒井康隆が、後期ディックはイメージの貧困さを難解な哲学でごまかしてると批判していたので、 読んでなかったのですが、本当に損したと思う。 これを人間が書いたということが信じられないような傑作だった。ドストエフスキーなんか足元にも及ばない。 「禅とオートバイ修理技術」を連想させるんだけど、ネットを見ると、「同じように退屈」と書いている人もいた。 でも、ヴァリスの方が圧倒的に面白い。 夢枕獏が、人生最後に神をテーマにした小説を書く!と宣言していたので、非常に期待しているんだけど、 書くからには、この作品を乗り越えてほしいな、と思うくらい、この作品は金字塔の域に達している。 | ||||
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やっと日本語訳が出たという感じですね。 旧訳版にあった宗教学的なキーワードに対する解説はありませんが、 その分、読みやすくはなっていると思われます。 現在、グノーシスなどについては研究書なども多く出ているので、 割愛したのは英断だと。 さて、これは話の筋たるものは少ししかなく、あとはひたすらディックの分身である ホースラヴァーファットと友人たちの神学談義です。 ですので、つまらないと思う方は、ひたすらつまらないと思いますが、 他の作品を読んでディックはどういう考えの人だったんだろうと思われた方には、 ある種の答えをくれると思います。 | ||||
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作家は同じテーマを角度を変えて描き続ける。 フィリップ・K・ディックの場合、一つの軸は「記憶と自我の問題」(=わたしの記憶は本当にわたしの記憶といえるのか、という疑い)で、映画化された作品はほとんどこっちの軸から出ている(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』等々)。 もうひとつの軸は「グノーシス的世界観」(=この世界の存在根拠に対する疑い)で、こっちの軸も作品数は多いのだが、映像化困難?なせいか映画化されたものはないような気がする。(『ユービック』、『ヴァリス』、『聖なる侵入』。『高い城の男』もこっちに入るか?) なかでも最大の問題作とされる本作『ヴァリス』は、果たしてこれを小説として読むべきなのか? それとも寓話の形を借りた教理問答として読まれるべきなのか? で翻訳者の見解も分かれている。 最初に出た大瀧啓裕訳は後者の見解を取り、膨大な注釈付きの翻訳が刊行された。最近になって出た山形浩生訳は、大瀧訳のようにディックを神話化する必要はない、として前者の立場に立った。 山形氏のいうことももっともだけれども、私は大瀧訳『ヴァリス』のおどろおどろしいファンジン的な雰囲気が好きだ。なんとなく、TV版「エヴァンゲリオン」のアレゴリーを読み解こうとして皆が躍起になっていた時代の雰囲気を思い出す。そんな不毛なことはやめて小説本体に集中しよう、というほうが知性的な態度なのは分かってるんだが。 ただ、個人的には、大瀧訳『ヴァリス』を膨大な注釈と共に読んだあとで『ユービック』や『聖なる侵入』を読んだことで、「ああ、これはこういうことだったのか」という気づきが数多くあったのも事実。だから、私にとって本作『ヴァリス』はディックの最後の作品であると同時に、ディックの作品世界を読み解く入り口にもなっている。 | ||||
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小説のつくりが壊れかかっている、というか壊れてしまっているところが読みどころ。 同じようなタイプ(と私には思える)の小説で、壊れそうで壊れていないのは、中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』だ。 ソフィアをいわゆる萌えキャラとして捉えてラノベとして読むのも面白い。大昔、サンリオ文庫版では、藤野一友の表紙絵と裏表紙のキャプション(佐藤守彦)に持って行かれたのだけれど、80年代は遠く過ぎ去った今なら落ち着いて読める。。 俺はどこにでもいる普通のSF作家。1974年3月にピンクの光線を浴びてから、ローマでキリスト教徒が迫害されていた時代と現代とを二重に生きるようになった。…というようなラノベ文体に翻案するとディックの日常雑記小説だとわかる。しかし、314頁に突然黄金比が小数で現れたりするので油断はできない | ||||
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短編集「変数人間」から信じられないスピードで定期的な発刊を続けているここんところのハヤカワ文庫。昔は映画公開に合わせて2年~3年ごとに短編集が1冊出ていたのに、2013年の12月から既に「ヴァリス」で4冊目。今月の10日には、新たな短編集が刊行されるんだから、アホなのか確信犯なのかわからない。もう読み飽きた短編を含め、装いを新たに新刊の香りに包まれてディックの世界を味わえるのは、とても嬉しいことなのだけど、果たしてどれだけ需要があるのだろう。まあ、ファンからしたらどうでもいいことだけど。 創元推理文庫の「ヴァリス」の難解度丸出しの版に比べると、今回の新訳はかなりくだけた訳になっていて、新しいディックファンには入りやすいのではないかと思う。 「巨大にして能動的な生ける情報システム(旧)」と「巨大活性諜報生命体システム(新)」 どっちもなんのこっちゃという感じだけど、旧訳がなんだか生きててメッチャ動き回るでっかい機械なのか?というニュアンスに比べて、新訳は生きてる大きな巨大コンピューターみたいなイメージで、なんかシュッとしてる。これも21世紀に生きている私たちだから理解できることなのであって、こんなことを "なめネコ" ブームの1981年に本にしているディックは、やっぱりブッとんでいる。 「ぼくはホースラヴァー・ファットだ。(P.13-3)」と言い切った次のセンテンスから、もうファットとフィルに分離してしまっている、この物語。村上春樹のぼくと影、カフカとカラスのような内省的な自己対話の世界が既にそこから始まっていく。そこから第8章までのめくるめく神学論と精神病の話はかなり読者を選ぶと思うが、第9章の映画『ヴァリス』から始まるハイスピードな物語を堪能するには、どうしても理解しておかねばならない知識が前半に詰め込まれているので、わたしみたいに読みながら熟睡してしまって、どこまで読んだかわからなくて、同じところを何度も読むハメになったとしても、ページは進めていくべきでしょう。 それにしても大滝版ヴァリスをまだ中坊の頃に読んで、さっぱり理解できなくて、だけど第9章からのちょっとサスペンスな感じが楽しくて、理解できないまま、また再読していたのを20年以上経って、なんだかポッと思い出してしまった。今後も「聖なる侵入」と「ティモシー・アーチャーの転生」が続けて刊行されるようなので、ハヤカワ文庫の無謀なディック推しを、わたしは諸手を挙げて支援したい。 | ||||
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作者自身の神秘体験もありいの、きちがいと言われて精神病棟に放り込まれることもありいの、古代ローマと1974年のカリフォーニャの重ね合わせもありいの、リンダ・ロンシュタットのミス・アメリカもありいの、いろいろありいの。 しかし、すべては、グロリアの自殺から始まった・・・・・・・・ 中国行のスローボートで中国へ行こうと思っても、ハルキ・ムラカミは同行してくれない。で、映画”ヴァリス"を観てからが、一気に全体像が見えてくる、で、ここまでが読者にも、グノーシスからみのキリストおたくのお付き合いも含めて、長々と辛抱が強いられるけど、ヴァリス以降はお話は一気に進む。 「あたしはあたしであるところの者じゃ」(どっかで聞いたことがあるような、ないような、あのモーゼがヤハウェの神さんからいただいたありがたーいお言葉であるやうな・・・・なかなかのキャッチーなコピー)。二歳のソフィアにちやほやされて、ナニされて、俺たちお笑い三人組は元気になる。 旧訳では途中で投げ出した読者がいたそうだけど、まあ、キリスト教の教義とか、グノーシスなんかが出てくるから、多神教社会に育った日本人には、確かに読むのが辛い面もある。そこを我慢して読んでいけば、これがなかなか面白い。 ついていけないと思ったら、訳者の「解説」ネタばらしを読んでから再挑戦するのもいいかもしれない。 | ||||
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十数年ぶりに、「ヴァリス」を手に取る。 さまざまな感慨が沸き起こってくる。 ディックの生き様へのオマージュも絡めた、私自身の数々のプライベートなエピソードも含めて ――。 ディック晩年の「ヴァリス三部作」は、死と救済をめぐる「グノーシス主義的神秘主義」がまさしく「ディック教」のごとく盛り込まれた、極めて難解かつ不可思議な、文字通り「オカルト」的な作品群である。 テイヤール・ド・シャルダンの「ヌースフィア」理論や C・G・ユング の「集合的無意識」概念、アブラハム・マズローの「人間性心理学」等々、近現代の思想の影響もさることながら、やはり基本的なモチーフになるのは、あくまでも「新プラトン主義」あるいは「グノーシス主義」である。 そもそも、ヴァリス(VALIS) とは "Vast Active Living Intelligence System" (日本語訳では、「巨大にして能動的な生ける情報システム」) の略称である。 これは、「ヌースフィア」や「集合的無意識」などの概念よりも、「神智学」や「人智学」などで語られている「アカシックレコード」(仏教で言う「虚空蔵」)と比定した方がしっくりくるのではないだろうか…。 幻視者、フィリップ・K・ディックは、こうした「ヴィジョン」を捕捉するほど感度の良い「超感覚的知覚」を体得するほどの境地に至っていたように思える。 そこには、「グノーシス主義」に特有の「反宇宙的二元論」が見られる。すなわち「善」と「悪」の峻別である。 (以下、Wikipedhia「グノーシス主義」からの抜粋) グノーシス主義において一般的に認められるものは、「反宇宙的二元論(Anti-cosmic dualism)」 と呼ばれる世界の把握の仕方、世界観である。反宇宙的二元論の「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け入れない、認めないという思想あるいは実存の立場である。 反宇宙論 「グノーシス主義」は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えた。 現象的に率直に、真摯に、迷妄や希望的観測を排して世界を眺めるとき、この宇宙はまさに「善の宇宙」などではなく「悪の宇宙」に他ならないと考えた。 これがグノーシス主義の「反宇宙」論である。 二元論 宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、誤謬であると「グノーシス主義」では考えた。 ここでは、「善」と「悪」の対立が二元論的に把握されている。善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因であれば、実は悪の神、「偽の神」である。 しかしその場合、どこかに「真の神」が存在し「真の世界」が存在するはずである。 悪の世界はまた「物質」で構成されており、それ故に物質は悪である。 また物質で造られた肉体も悪である。物質に対し、「霊」あるいは 「イデア」こそは真の存在であり世界である。 このように、善と悪、真の神と偽の神、また霊と肉体、イデアーと物質と云う 「二元論」 が、グノーシス主義の基本的な世界観であり、「反宇宙論」と合わさって、このような思想を、「反宇宙的二元論」と呼ぶ。 さて、「ヴァリス」の主人公、ホースラヴァー・ファット。神経衰弱に悩まされる彼が作中で書きつづけた日誌「秘密経典書」からごく一部を引用してみよう。 ここに綴られているのは、まさしく グノーシス主義 的世界観に彩られた、否、グノーシス主義者のモノローグそのものである。 1 ひとつの 《精神》 が存在する。 しかし、そのもとでは二つの原理が抗争する。 2 《精神》 は光をもたらし、次に相互作用において闇をもたらす。 かくして時間が発生する。 最後に 《精神》 は光に勝利を与え、《精神》 は完成される。 ・・・・・・・・ 17 グノーシス主義者たちは二つの暫定的時代を信じた。 最初、もしくは現在の邪悪の時代、二番目、 もしくは未来の至福の時代である。 最初の時代は 《鉄の時代》 だった。 これは 《黒き鉄の牢獄》 によって象徴されるが、 1974年8月に終わり、《黄金の時代》 になりかわった。 《黄金の時代》 は 《棕櫚の時代》 によって象徴される。 1960年代、フラワーチルドレン、ヒッピームーブメント、カウンターカルチャー …… その流れの中から派生した「ニューエイジ・ムーブメント」にいたる流れが西海岸を席巻しはじめた70年代以降 ……。 ファットは、そうした時代、70年代になっても、60年代に覚えたドラッグに苦しめられていた。 1976年には「発狂」してしまうファットにとって、1974年8月が何を意味しているかは、私がこの作品を読んだ限りでは、明瞭につかめない。 しかし、当時この作品を書いたディックの思考の中に、かつてのLSDなどのドラッグがもたらしたであろう幻覚的かつ「啓示的」な「ヴィジョン」が到来したのは確実である。 この1974年8月という時期は、おそらく彼にとっては大きな意味を持っているに違いない。 考えられるのは、この年の8月8日、ウォーターゲート事件でリチャード・ニクソンが任期中に辞任したことであろう。 多分に本人の妄想的色彩が強いが …… それからさかのぼる数年来、FBI に代表されるような政府の何らかの諜報機関に監視されており(部屋の中を何者かに荒らされるという事件にも遭遇したという)、その影に悩まされていたようなので、ニクソン の失脚が彼を安堵させたことは想像に難くない。 ディックは、同年の2月と3月に、強烈な神秘体験(「何か超絶的なまでに理性的な存在が自分の心の中に入り込んでくる」という体験)に出会う。 その中での神、あるいは他の何かとの接触の記録を Exegesis(釈義) として書き記している。 その時期、彼は、キリストを意味する「黄金の魚の徴し」をピンク色の光をともなった中で体験し、強烈な『啓示』を受けた。 その後約1年にわたって、ディック は自らを「使徒トマス」と同一視し、現実の70年代の時代と「黙示録」の時代とを「同時に生きていた」ようである。 つまり、(74年〜75年の)表層的現実を生きると同時に、その深層に「リアル」な『啓示』的真実を垣間見るという特異な体験が続いた …… らしいのだ。 その間、彼は「原始キリスト教」の世界観の中に埋没し、「洗礼者ヨハネ」や「イエス・キリスト」らも一時期身を置いていたと言われる「エッセネ派」の資料やら「新プラトン主義」、さらには、それらに関連する数々の書物、殊に「グノーシス主義」の文献を仔細に調べていたとのことである。 おそらく、この時期は、彼にとっては「恩寵」に満ちた至福の時期であったに相違ない。 その生涯において最も光り輝いていた …… と本人が感じていた …… のではなかろうか。 その後の人生を見ると …… 五度目の離婚。それに続く、数人の女性との関係の度重なる破綻。自らの神秘体験を公言することで各方面から受けたバッシング。。。 そして、作品(「アンドロイドは電機羊の夢を見るか?」(「ブレードランナー」の原作))の映画化に絡むいざこざと心労。等々。 結局は、多くの天才がそうだったように、時流のなかではほとんど認められず、不遇なまま生涯を終えている。 死後、年月を経て彼の特異な体験も含め、マニアックなファンのみならず、彼の「仕事」も世に認められてきている。 その証拠と言って良いのかどうかわからないが、(良いか悪いかは別として)彼の数多くの作品が映画化されている。 ディック が生きていた時代と比較すると、エイリアン や サイキック、心霊現象 など超常現象を題材にした小説や映画、ドラマもごく自然に受け入れられる時代になってきた。 日本でもスピリチュアル・ブームをはじめとして、神秘的な現象やそれに類する現象を扱った、たとえば、ヒーリング や 占い、セラピー までをも包含した流れも目立つようになり、その裾野は広がりつつある。 それら、社会現象の深層に流れる「神秘的直観」のようなものは、おそらくディックが垣間見た「ヴィジョン」、そして、彼独特の難解で晦渋なストーリーテリングによって著された遺作群と基本的には通底するものと思われる。 改めて、その偉大な「仕事」に賛辞を表したい。 | ||||
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読むのに五時間かかった。 批評家や哲学者が読んだら楽しいんだと思いました。 最初はどんなSF小説なのか期待して読んだら裏切られました、神秘的な体験を味わうことができると思います。 麻薬に溺れた男が、神を感じ周りから錯乱したと思われる。 そこから男は新たな出会う、、のですが、その後の神秘的体験は難しいです。 映画で言えばツリーオブライフを見た後の感覚でしょうか、物語の中に出てくる、用語や教義と言ったものは芸が細かいと思わせました。 読み応えのある本ですがまとまった時間がある休みのうちに手にとってはいかがでしょうか。 | ||||
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ディックにのめりこむきっかけです。 素早く届い手、助かりました。 | ||||
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女友達の自殺をきっかけに、狂気へまっしぐらとなったホースラヴァー・ファット=ディック。彼が、ピンク色の光線の照射によって、神からの啓示を受け、秘密教義を著していく過程がつづられていく。 あらすじを紹介することすら困難な、ディックの精神世界が開陳された作品だ。神学、哲学、心理学、歴史学、神話が、ごだまぜになって、捻り出された教義は、難解この上ない。ディックの博覧強記ぶりに圧倒されるのみである。訳者である大瀧啓裕さんのAdversariaを読むと(理解しているわけではない)、ますます自分の知識の貧しさを思い知らされる。 一読しただけでは、撫でさすったぐらいでしかないだろう。言わんとするところの上澄みをペロっと舐めただけだ。かといって、熟読し、ディックの精神世界にのめり込むのも恐ろしい。なにせ宇宙の創世まで解き明かしてしまう勢いなのだから。 ファットは、二つの異なった時代に生きる自分自身を幻視し、ついにその神秘体験と符号する映画『ヴァリス』に出会う ・・・ あらすじなど、語っても意味はないのだろう。ディックの精神の旅を眺めていくだけ精一杯である。本作品は、全てを理解しようとすると、苦痛でしかない。自分の経験と重なり合うような、わずかな部分を感じ取るだけでよいのかもしれない。少なくとも、私は、ディックの諸作品に見られる現実の崩壊感の根源に触れたような気がする。 | ||||
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フィリップ・K・ディックの書いた 神学的三部作『ヴァリス』『聖なる侵入』 『ティモシー・アーチャーの転生』 作者本人が1974年2〜3月に体験した神秘体験を元に 書かれた作品として有名である。 本作ではキメテる主人公が 作者本人と符合している訳で、そこら辺を 理解して読まないと読み手の方がヤバイ。 一人称と三人称が入り乱れる故に混乱の度合いは 読むにつれて増していく。 グノーシス主義的アプローチがなされているが 興味無い人とかには正直難解なだけかもしれない。 V・A・L・I・S Vast Active Living Intelligence System 巨大にして能動的な生ける情報システム 大滝氏の訳のなんと甘美な事か。 巻末の釈義も見逃せない。 本書を読むに中っては宗教的知識が 少々あった方が良いかと思われる。 女友達の自殺を止められず薬に走り 死にきれずに狂い始めた主人公ファットが 神と出会うというくだりから始まるため どこまでが現実でどこからが妄想、幻覚 なのか分別がつかない所が読者を惹きつけるギミックだろう。 高校生の時には難解すぎて読破に三ヶ月かかったが 大人になった今もやはり難解である。 フィリップ・K・ディック自身の事も調べつつ 残る二部作も読破してはじめて全貌がおぼろげに見え隠れ してくるのかもしれない。 | ||||
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60年代末期の頭パラッパのブームから目が覚めると、そこには人生の落後者としての自分がいた。かつての仲間は病気と薬中で次々に死に、左翼と関係したカドで当局に目をつけられる。。。人格が分裂するほど追い詰められたディックはあるときヤクの売人にプレゼントされた壷のなかに「神」を見出すのだった。 このように序盤のあらすじを書き出すと完全に電波系で実際にそうなのだが、文章の中にへんなユーモアが散見されスラスラと読める。楽しめる。 現世に顕現した新たな救世主はあっけなく死に、世界は何も変わらない。絶望に打ちのめされたディックは。。。というラストの展開は「希望を求めること」「探求することをやめないこと」の大切さを読者に説いているようで、何度読んでも胸が熱くなる。 解説の文章がマジになっているので、トーンダウンすることが問題か。 | ||||
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