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ベルリンに一人死す
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ベルリンに一人死すの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.77pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全13件 1~13 1/1ページ
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某局のラジオで朝一番仕事始めかな?ひっどいな。空襲警報が鳴っていた。明日は我が身と思います。ほんと時間がないので去年買った本を朝にでもことしは少しづつ読むことにする。今日もまだ静かな朝があることに感謝します。誰に? | ||||
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私が投稿する前に11人が評価投稿をしていたが、そのうち10名が五つ星、1名だけが4つ星という総絶賛の書。もちろん私も☆5つだ。基本の骨組みは実話に即し、その間を作家の創作力で埋めている。したがって、顛末はあらかじめ分かってはいても600頁の大部にも拘わらず全く飽きることがない。ただ全編に流れる暗い雰囲気はナチズムが支配した狂気の社会の陰鬱さを反映したようで読者自身の気持ちが沈んでいるときには読むのはしんどい。このような本が終戦から1年たらずで書かれたことで複雑で名状しがたい感情に襲われた。 | ||||
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35年ほど前、大学生の時に池田浩士さんの『抵抗者たち~反ナチス運動の記録』で知ったこの作品。(池田さんはこの本を原著名である「誰もが一人で死んでいく」として紹介していたが、読んでみて、やはり原著名にすべきだったと思う。)池田さんは今で言う「ネタバレ」でこの本を紹介していたので、どのような結末になるかを既に知ってしまっていたが、それでも是非読みたい一冊として自分の頭に残っていた。 (以下もかなりネタバレかも) 夫婦二人ぼっちで開始し、一つの例外を除き、全てを二人きりで続けた抵抗活動~ヒットラーとナチスの犯罪を告発した葉書を週に1,2枚書き、すぐには人目につかない場所に置いてくる~は、その極端な秘匿性と巧妙さのために、ゲシュタポの捜査にそのしっぽをつかませなかったが、その密やかさゆえに、ついにこれに連帯する者を得られないまま結末を迎える。 実話に基づいたこの話に、さまざまな人物が配置され、当時のドイツのどうにもならなさと、それでもこれを覆すことを夢見た夫婦の行く末を描き出した。 単に「悲劇」とか「二人の英雄」などと安易に言わせないこの話の中で、それでも今を生きる我々に多くの訴えかけがある。 それを一、二挙げると。 主人公のオットー=クヴァンゲルは、ついに逮捕されたゲシュタポ本部で、捜査員にその抵抗のちっぽけさを「蚊が象に闘いを挑むようなものだ」と批判される。この捜査員も自分なりの意地や誇りをナチスの暴力性の中で徹底的にこけにされ、自分が支えてきたこの体制を疑い始め、オットーに気持ちを傾け始めている。オットーはこれに対し、「あんたには理解できまい。一人きりで闘おうと一万人だろうと、そんなことはどうでもいい。その一人が闘うしかないと思ったら、仲間がいようがいまいが闘う・・・何度でも闘う。」と答える。 その一方、オットーはこうも言っている。「俺の罪は、自分が利口であるとうぬぼれたことと、自分一人でやろうとしたことだ。一人では何もできないことがこれでわかった。」そして、もう次の闘いはない、処刑が待っているだけと知っている彼だが「今度は違うやり方で、まったく違うやり方で闘ってやる」と言っている。 これは我々への投げかけではないか。「一人のままではだめだ。しかし一人から始めるしかない。」ということは、我々が人間として生きるためにますます大きな課題になっている。そして「違うやり方」を考えるのは我々だ。 また、ここに登場する、大いにあるいはわずかに、人間性を示す人物たちは、みな「体制」や「命令」や「上役」や「流れ」を、大いにあるいはわずかに、無視し、自分の内心~良心と言うべきか~を言葉や行為で示している。21世紀に棲む我々は、「自発的」な服従・受容や無抵抗・無批判の中に埋没しつつある。自分の良心をかくし、押しつぶし、あるいは自分の良心に無頓着であることを習慣化している。本当のことを言わない・言えないムードが漂い、極めて乱暴な言辞ばかりが幅をきかせている。 そういう我々に対し、オットー&アンナ=クヴァンゲル夫妻、そして作品のモデルとなったオットー&エリーゼ=ハンベル夫妻の行いは、誇りを持って生きる人間とはどういう人間かを、簡単にはまねができない形であるにせよ、提示している。それは決して「誇りある日本人」などという陳腐な言葉からは始まらないものだ。 「いい作品だから読んでほしい」とすぐには言えないが、よくある勧善懲悪的な反ナチスものでは納得いかない人には勧めたい。 (以下はこの本の書評ではなくなる) ちなみに、戦時中の日本でも、小さな書き物(葉書や落書き)による抵抗はある。千本秀樹さんによれば『特高月報』には「反戦策動」「不敬不穏事件」の「小事件」は1938年7月~1943年12月までで1388件も挙がっている。中には「米英に頭を下げるんだ一分でも早く なんと日本はばか」という落書きが京都で数カ所見つかった例がある(1943年)。持続したやり方だ。あるいは「将校は職業だ、人殺しが商売なのだ。別に戦争をしなくとも、生活の保証をされているのに何を好んで戦争をするんだ 兵卒が可哀想だ 愛国公債が何だ一ペンの紙くずじゃないか買う馬鹿があるか・・・国民はいつ迄ロボットじゃない(ママ)」という本格的な反戦言辞が、大阪毎日新聞の投書欄向けに投書された(1938年)。そして操業サボタージュを「現業員諸君宜しくこの主旨に参加せられんことを望む」と会社の便所に書いたケースがある。この落書きには、別人であろう、「君の意志に僕も賛成だ」と付け加えられている(1941年京都島津製作所)。(「戦時下における庶民の“不穏言動”」歴史公論1978年8月号) このような匿名の「落書き」は、結局特高に探知されてしまい(逆に言えばすぐ届け出されてしまい)、どこまで効果があったのか、こんなものを反戦活動と言えるのかと批判することは可能だ。 しかし、オットーたちがやったことの原初はここにある。日本人は戦争とファシズムに無抵抗だったというが、このような事件を丹念に掘り起こすことによって、この見方は変わってくるのではないか。 | ||||
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ナチスが台頭していた時代の話ではホロコーストを扱ったものがクローズアップされる傾向にあるが この本は恐怖によって統治されていたベルリンをあるドイツ人労働者夫婦が1940年~1942年の間行った 反政府活動の物語を透して驚く程リアルに描写している。 作者のハンス・ファラダはナチスの政権掌握後に多くの知識人、文化人が脱出する中「望ましくない作家」に分類されながらもドイツに留まる事を選び、自らの見聞と実話をベースに戦後間もないソ連統治下の1946年にこの本を出版した。 ドキュメントにならず小説として成立しているのが素晴らしい。 登場人物各々が様々な立場で描かれているがパリへの無血入城を果たし沸き立つ軍部とは裏腹に 当時の一般市民達が感じていた暗澹とした閉塞感が凄まじい。 真実を貫こうと嘘で身を守ろうと、その場凌ぎで難を逃れても一寸先はどうなるか分からず、恐怖と暴力、密告と通報が蔓延る世界。 潮流に従い盲目的にナチスに加担し、阿り、狂気の世界に身を置く人間達の残酷さと私欲にまみれた醜さ。 対照的に狂った世の中にあっても尊厳を捨てず恐怖と正対する人間達の高潔さと葛藤。 登場人物達は必ずしもどちらか一方に分類される人間ばかりではなく、その間を悩み揺れ続ける。 彼らの放った言葉は印象深く、極限状態に置かれた人間の本質を考えさせられる。 "本当の戦争”を描いた作品には感動はない。 「この物語には拷問と死の描写が多すぎる」と指摘されるだろうが登場人物の大半がヒトラー政権と戦った人達とその迫害者であり 当時、死は日常茶飯事だった。嘘を書かない為にはこれ以上明るく描く訳にはいかなかった。 前書きに書かれたこの文章が読後深い感慨を齎す。 | ||||
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内容や時代背景等については他の方のレビューがとても参考になると思うので、 ここでは作者のペンネームの由来についてのみ書かせて頂く。 このことを知った上で読み返すと、一層感慨が深くなった。 ハンス・ファラダ(Hans Fallada)はペンネームで、本名はRudolf Wilhelm Friedrich Ditzenという。 ハンスは「幸運ハンス」、ファラダは「がちょう番の娘」というグリム童話に由来するそうだ。 以下に大筋のみ記す。 「幸運ハンス」 7年間勤勉に働いてきたハンスが、母の元へ帰ることを申し出ると、主人は給料として大きな金塊をくれた。 金塊をハンカチにくるんでハンスは旅立つが、あまりの重さにすぐくたくたになってしまった。 そこへ馬に乗った人が現れ、金塊と馬を取り換えてもらった。 これで馬に乗って楽に進むことができるとハンスは喜んだ。 ところが駆け出した馬から落とされてしまった。 そこへ牛を引いた人が現れ、「牛は乳が出る」ということで、今度は馬を牛と交換した。 喜んだハンスだったが、試してみると牛から乳は出なかった。 ・・・という具合で、最後には金塊はただの重たい石ころになり、それも川に落としてとうとう何もなくなってしまった。 しかしハンスは石の重さから解放され、自らの幸運に感謝し、母の待つ家へ帰りついた。 そしてハンスは自らの幸運について、母に語ってきかせた。 「がちょう番の娘」 美しい王女が、女王である母の元を離れ、ある王子のもとに嫁ぐこととなった。 女王はドレスや宝石だけでなく、「ファラダ」という名の話ができる馬も王女に与えた。 旅立ちの日、女王はお守りとして自分の髪を、水を飲むために金のカップを王女に渡した。 王女の侍女も共に旅立つが、侍女は王女のために水を汲もうとはしなかった。 やむなく王女が自分で汲もうとすると、お守りである女王の髪を川に落としてしまった。 こうして侍女は王女の服とファラダを強奪し、本当のことを言ったら殺すと王女を脅した。 恐ろしくなった王女は、天に誓って約束してしまった。 侍女は王女になりすまして王子と結婚した。 偽王女についてきた王女は、がちょう番として仕えることになった。 そして偽王女は、秘密の露見を恐れてファラダを殺させた。 がちょう番の王女は悲しみ、ファラダの首を門にかけてもらい、ファラダに話しかけた。 ファラダは彼女に「かわいそうな王女さま」と言って憐れんだ。 ・・・最後には嘘が見破られ、侍女は追放され、王女は王子と幸せな結婚をした。 失い続けても、滑稽なまでに自分は幸運だと信じる男。 自分で直接問題を解決することはできないが一部始終をつぶさに見ている、 そして命を奪われても真実の言葉で呼びかけ、王女の支えとなる忠実な馬。 ここにファラダの物書きとしての姿勢が表れているのではないかと思う。 | ||||
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2段組600ページ、ずっしり重い4500円は通常の長編小説3冊分の分量であり、価格である。そのため「読むべきか、買うべきか」と迷う人は少なくないだろう。私もそうだった。しかし、本書を読了して得られる感銘は並の小説の比ではない。極限状況において「人間の尊厳を守っていかに生きるべきか」との命題を正面から問いかけ、同時にエンタテイメントとしての完成度が際立つ作品なのである。だから本書を生涯手放すことはないだろうと私は思っている。この作品を世に出した作者、翻訳者、出版社に感謝したい。 1940年、フランスがナチス軍に降伏した日にベルリンのヤブロンスキー通りに住む労働者夫妻の元に一人息子の戦死の報が届いた。「総督は息子を奪った」夫妻はナチスに対して孤独で絶望的な戦いを挑もうとする。ヒトラーを批判し、蜂起を呼びかける文章を記した葉書を市内の公共の場所に置いたのだ。2年間に300枚近い葉書と手紙を置くことに成功するが、ゲシュタボ(秘密警察)は二人を追いつめて逮捕し、死刑に処したのである。この小説は実際に起きた「ハンぺル事件」を基に当時の人気作家であったハンス・ファラダによって書かれた。 読者は、二人の結末を知って読み始めるが、リアルな描写に固唾を呑んで読み進めることになるだろう。ゲシュタボは捜査網をじわじわと狭め、犯人像を絞っていく。一度は夫が危うく逮捕されそうになる。緊迫した場面を次々に用意し、読者を釘付けにする作者の手腕は一流のミステリー作家のごとく冴えている。 夫妻の住むアパートには、迫害されるユダヤ人老女、ナチスに批判的で犠牲者を救おうとする元判事、ナチの古参党員とヒトラー・ユーゲントに属する冷酷な息子、密告を職業にしている男が住んでいる。1つのアパートの住民がドイツ国家の縮図として描かれているのである。つまり様々な立場の登場人物が絡み合ってグランドホテル形式で物語が進行していく。それぞれの人物描写は詳細を極め、表情までも読める気がするほどだ。主人公のオットーは家具職人であり、頑固で冷淡で実直な男として描かれている。この物語には完璧な人間は登場しないのだ。そして、臨場感あふれる残酷なシーンに、読者は当時のベルリンに居合わせたような恐怖を覚え、追いつめられた気分になるだろう。小さなエピソードが繋がって大きな流れとなり、予期せぬ展開をもたらす。実に心奪われる衝撃に満ちた重層的な物語構成である。 二人の逮捕以降がこの作品の本題であり、作者の言いたかったことではないかと私はみる。夫妻は自分たちが逮捕されることは予想していた。それが死を意味することも最初からわかっていた。だからオットーは、「自分は人間として間違ったことはしない。まっとうな人間として生きてきた。この体制の共犯者にはならなかったことに誇りを持つ」と自己を総括するのである。その自負によって、誰よりも自由になったと実感しながらオットーはギロチンへ向かって歩んでいった。妻も同じように、死への恐怖から解放されて、平穏な気持ちをもって最後の時を待ったのだった。どんなに悲惨な目に遭おうとも、間違ったことには加担しない。まっとうな人間として生きていく。この強靭な意思を持った二人の最期を描くことで作者は読者に重い問いを投げかけたのである。<あなたならどうする?> 本書には1940年から42年までのナチス支配のベルリンが描かれている。しかし、この物語を遠い昔の外国の物語と考えてはいけない。日本では軍国主義時代には特高警察の過酷な弾圧で多数の人が犠牲になった。後にでっち上げが明らかになった横浜事件では獄死者が多く出ている。日本でもドイツと同様な状況が長く続いたのである。そして、現代においても全体主義、排外主義の芽をそこここに見出すことができるのだ。作者ハンス・ファラダは本書を著して2カ月後に亡くなっている。彼の遺言ともいうべき、「過酷な時代にもまっとうな人間として生きる」意味を考え続けたいと私は願っている。 翻訳が素晴らしく、手に汗握る読書体験となった。翻訳者・赤根洋子さんの労に感謝したい。 | ||||
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最初に本書を手にしたときは、2段組みで600ページ近くあり、通読することにやや不安を感じたが、訳文も分かりやすく、ストーリーや人物造形もくっきりしていて、スムーズに読み進めることができた。 最も魅力的なのは、モデルがあったにしてもオットーとアンナという夫婦だろう。元々からの反ナチスというわけではなく、息子オットーヒェンが戦争の犠牲になったことによって、ナチス政権の問題点に目覚め、政治・権力に対して抗うことを決意し、「ヒトラーを攻撃する匿名の葉書」を書き、それを公共の建物に置いてくるという危険極まりない行動を選択する二人の姿が、リアルであると同時に説得力を持っている。その行動の場面は、スリリングで、惹きつけられる。 オットーヒェンの婚約者トルーデル、彼女の同僚カール、戦死の報せを運ぶ郵便配達人のエヴァ、フロム元判事、音楽家ライヒハルト、葉書を撒いた人物を探すエッシェリヒ警部、密偵バルクハウゼンなど、二人を取り巻く人物たちも興味深い。ナチスに積極的に加担するものもいれば、私利私欲のみが行動の原理という人物もいる。一方で、積極的に反ナチスを表明するわけではないものの、消極的な抵抗を続ける人物もいる。著者が戦時下のドイツにとどまっていたことを考えると、登場人物の多様さには、当時のドイツの人々の思考や行動をある程度は反映していたものと想像できる。 現実においても、小説においても、二人の行動が具体的にナチスに打撃を与えていないのは事実だろう。しかし、こういった抵抗をした人がいたことと、先頃他界したヴァイツゼッカー元大統領のような人物が現れたことは無関係には思えない。 559ページで接見に来た弁護士に「まともな人間でいられた」「共犯者にならなかった」というオットーの言葉が強く響く。そして、「黙って同意」すること、「売り渡し続ける」ことを批判する彼の言葉は、いつの時代であっても、権力と個人が対峙するとき、脳裏に刻み込んでおくべき言葉ではないのだろうか。 | ||||
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フランスの降伏という、ナチスドイツの絶頂期から小説がはじまる。 舞台はベルリン。そこで生きる人々の人間模様を、ナチス政権に危機感を抱く人々や 政権側の人間、迫害されるユダヤ人、密告者の心理状態なども交え、濃密に描写されている。とても読み応えのある小説だった。 かねてから、ナチス政権の排他的な政策に懐疑的だったオットー・クヴァンゲル とアンナ夫婦のもとに、一人息子が戦死したとの知らせが届く。 クヴァンゲル夫婦は、政権批判のハガキを街中に放置するという「戦い」をはじめる。ヒトラー政権に異議を抱く人々は、私たちだけではないはずだという信念のもと、声なき声を代表してヒトラーに抵抗しようとするのだが・・。 解説によると、モデルとなった事件が実際にあったそうな。 拷問される光景や、罪のない人間に「罪」を自白させる巧妙な尋問の場面など、残酷である。 ナチス党員ではないドイツ人にとって、疑心暗鬼が支配する暗澹たる時代だった というのが小説では描写されている。 ドイツ降伏後。(一人の少年の前途に)救いを感じる。 | ||||
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原題Jeder stirbt für sich alien 「どんな人でもひとりぼっちで死ぬ」、ヒトとヒトとのつながり、夫婦、親子、子の許嫁、両親、アパートの上下階に住むヒト、前のアパートの地下の嫌なやつ、弟夫婦、戦地の息子が敵の子供たちを暴力でうちのめすフォトに心悩ます親、そんな教育をしてきたはずはないのに・・・・オットー・クヴァンゲルとアンナの夫婦は他とのかかわりを意識的に欠いて生きる毎日であっても、息子の戦死を機にヒトのつながりの頂点にあるヒットラーと自分たちはつながっていることを確認する その時、ちっちゃな自分たちの生活と頂点の人間と密につながり、その頂点に異を唱える時、何ができるのか、なにをしなければならないか。そして自分たちつながっていないヒトと共有するためになにが、いま可能なのか。 頂点のヒットラーへの挑戦は、意外にもヒトとヒトとの関係を壊し、息子の許嫁夫婦を死に追いやり、弟夫婦の家庭を破壊し、弟を狂人にし、オットー夫妻にかかわるすべてのヒトとのかかわりを打ち壊していく。 頂点につながる人々は、」オットー夫妻に拷問をくわえるしたがって、いっそう暴力的になり、粗野になり、密告し、屈服し、彼らにへつらう人々を馬鹿にしているのに、そこではヒトとヒトとの関係がつくられている―頂点から末端まで組織的につくられたなかにキチンといるヒトは、若者であれ、尊大になり、飲んだくれの父親を精神病院にいれ薬殺を医者に命令し、医者は自分が純粋アーリア人でないかもしれないという怖れから若者に屈服し、父親への薬物を承認する。 オットー夫婦のまわりのヒトとヒトとのつながりは破壊され、どうしようもないのに、彼ら夫婦のつながりは監獄という互いにふれることもないのに、反対に、互いの意思をおもい、夫と妻の意思はけっして遮断することなど決してできないほどつながりを深めていく。 いいかね、ヒトとヒトとのつながりは、わたしの、あなたの一番近いところから破壊され、気がついたときには、もうどうしようもないほど、ヒトとヒトとのつながりを修復する術はなにもない。 そのとき、頂点にいるヒトは、なにもせずともそれにつらなるヒトが、そうした人間関係を断絶させる道具としている。彼らは、感情もなくただヒトに命ぜられることなく、自然と頂点とそれにつらなる人々の関係をただ維持するために行動する。 「どんなヒトでもたった一人で死ぬ」、オットーはギロチンで死に、アンナは青酸カリで死ぬことを断固として却けて、夫との幸せを思いながら、たった一人では死ぬ、息子の許嫁は監獄から跳び降りて自殺する、彼女の夫は暴力で死ぬ、彼らを捕らえた警部もまたピストル自殺をする・・・・だれもがたった一人で死んでしまった! みなさん、この本は一九四〇年代のナチ時代に生きた物語として読み、今の時代の幸せを確認する、そんなことでは断じてない、いま私たちの周りにある、あのヒトとこのヒトのつながりが、しだいに微妙にこわれ、そのすきまに頂点につながるヒトが入り込み、「どんなヒトでもたった一人で死ぬ」という現実に震撼する・・・・・ そんな気分にさせられた本であった。翻訳がよかった! | ||||
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ナチス体制下の庶民の生活を生き生きと描き出した、希有な文学です。 翻訳が優れていて、おそらく原著の雰囲気をよく伝えてくれていると思います(原文を見ていないので、 翻訳を読んだ上での感想ですが)。 訳者の、著者とこの著作への愛情が感ぜられます。 安くない本ですが、図書館に納入されるのをまたずに、自分の手元におく値打ちのある本です。 ここに描かれているのは、70年前の遠い国で起きた、私たちに無関係なことではありません。 小規模の形で、もう少しあいまいな形では、今の日本のあちこちで起き始めている可能性が高い事柄です。 1940年代ドイツという極限的な状況であるからこそ、目の当たりにすることができ、 まざまざと表現できたのだと思います。 | ||||
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はじめに 実にすばらしい、志ある、翻訳出版である。 ハンス・ファラダについて ハンス・ファラダは大戦間ドイツの重要作家の一人であり、ベーメ他著「ドイツ文学の社会史上巻」では22頁にわたって名前が登場し(ケストナーより1頁多い)、池田浩士の「ファシズムとつきあう法―ハンス・ファラダ」によれば、ヴァイマル共和国にも、ナチス・ドイツにも、2次大戦後の両ドイツにも、無数の読者を持っていたとされる。 しかし、日本の翻訳世界では、まさにペッヒフォーゲル(不運児・・ファラダの少年時代の綽名)であり、童話風幻想小説、童話の翻訳が、戦前に1冊、戦後に2冊(どちらも前川道介訳ハヤカワ文庫。立派な仕事であるが、ここでは略)あるものの、ファラダの本筋である現代社会小市民小説の翻訳は、これまで、「グスターフ一家」(原書1938年。日本語訳は1946年という物資の厳しい時期で、長男の戦死と身体障害のある長男の嫁の決意で突然終わっており、明らかに未完)しかないと思う。本書は、ハンス・ファラダの現代社会小市民小説としては68年ぶりの翻訳であり、ファラダの最後の作品の初の翻訳である。 本書の私的感想 1、 本書が、反ナチ抵抗運動を描いた感動的な傑作であることは間違いない。 2、 しかし、個人的には、ファラダは政治的メッセージ作家ではないと思う。ファラダは酒、煙草、モルヒネに依存しながらも、寸時を惜しんで書き続けた人であり、自身を「詩人」(一流文芸作家)ではなく、「物書き」(B級エンタテイメント作家または職人)であると位置づけている。また、本書は、戦後東ドイツの政治家詩人のベッヒャーから、実際のナチ抵抗運動事件の小説化という、政治目的を含む依頼を受け、一旦その資格はない(ナチに逆らわなかった)と断りながらも、「職人」として、受けて書いたものでものである。 3、 結果的に、ファラダは、依頼人の要求を十分に満たすだけの、反ナチ抵抗運動小説の傑作を書き上げた。一方、ファラダは職人作家の自己実現として、ナチス体制下の小市民社会を活写している。それは、「グスターフ一家」で一次大戦前後の小市民社会を描いているのと同様と思う。本書では特にエンノ・クルーゲやバルクハウゼンといった小悪党の、どうしようもない、欲望むき出しの、行き当たりばったりの生き方が、丁寧に描かれており、実に面白い。 4、 エンターテイナーとしてのファラダは、読者を退屈させない。たとえば、(例が悪いが)抵抗運動の主人公の3人には、三人三様の死が用意されている。敵方の警部の運命も面白い。そして、ゲシュタボの残虐な拷問を描きながらも、読者の不快に至らないような配慮はなされている。また、ナチ体制下であっても、一人の小市民反逆者を死刑にするには、それなりの手続きと時間が必要であるとして、その過程(茶番であっても)が丁寧に描かれている。最後には、きちんと未来への希望が描かれている。まさに、エンタテイメントの傑作である。 お願い ファラダの出世作で、世界的ベストセラーになった、「kleiner Mann,was nun?」(1932)はたくさんの日本の本に、題名と梗概だけ載せられ、「小市民よーさてどうする?」「安サラリーマンよ、さてどうする?」「おっさん、どうする?」と様々な日本題名が付けられているが、まだ日本語訳本はないと思われる。翻訳出版していただけないだろうか。 私的結論 エーリッヒ・ケストナー(ファラダの2歳年下)とファラダは、どちらもナチ体制下でドイツに留まった。大作家ケストナーは、戦後、亡命しなかった理由を「第三帝国をテーマにした一大長編小説を書くため」と弁明していたが、1974年まで生き、多くの名声と財産を手にしても、その小説が書かれることはなかった。職人作家ファラダは、1946年に、4週間で本書を書き上げ(伝説かもしれないが)、3か月後の1947年に死んだ。 | ||||
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数年前にドイツ人の友達が教えてくれたので「早く日本語訳出ないかなぁ」と、凄く待ち遠しかった。 サスペンスっぽくて個人的には退屈だった所も少しあったけど、それ以外は夢中になって読めた。 多くの人に、この本を読んでもらいたいと思う…。 | ||||
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ヒトラー時代のドイツの庶民の生活が重層的に描かれている。 『アンネの日記』とか『夜と霧』のようなモノではなく、もっと一般的な、こういった作品がかねてより読んで見たかった俺としては大満足の一冊。 最近のものにしては珍しく、上下二段組の活字というのも迫力があって良い。 | ||||
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