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(短編集)
中国行きのスロウ・ボート
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【この小説が収録されている参考書籍】
中国行きのスロウ・ボートの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.40pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全70件 41~60 3/4ページ
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村上春樹さんの作品を全て読もうと思っています。 この短編集では、午後の最後の芝生と、土の中の彼女の小さな犬、が気に入りました。 前半と後半に発表の時間的な差がある事を冒頭の著者のコメントで知りました。 前半は、荒削りで勢いで書いたような作品群、だと思いました。それはそれで興味深かったです。 そして、後半は、円熟味を感じさせる作品群で、すごく、楽しませてもらいました。 僭越ながら、この僅かな時間の中で春樹さんの成長が感じられたようで、とても面白かったです。 | ||||
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若いころから、何度も繰り返し読んでいます。 初めて読んだ10代の頃、バイト先の中国人の女の子のことを 「これは私だ」と思いました。 作中人物に自分を見たのは初めての経験だったので、衝撃的でした。 | ||||
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『1973年のピンボール』と『羊をめぐる冒険』の前後、1980から82年に書かれた、春樹さんの最初の短編集である。 収録作は次のとおり。 「中国行きのスロウ・ボート」 「貧乏な叔母さんの話」 「ニューヨーク炭鉱の悲劇」 「カンガルー通信」 「午後の最後の芝生」 「土の中の彼女の小さな犬」 「シドニーのグリーン・ストリート」 これらの作品に通底するテーマは、それを主人公が醸し出すのであれ、主人公以外の登場人物が漂わせるのであれ、何かの喪失の感覚のようなもの、喪失の雰囲気といったものであるように思う。それは、「痛み」と名付けるほどはっきりしているものではないし、他方、失われたものが漠然としているわけでもない。「ガールフレンド」であったり、「友人」であったり、小さい頃にいっしょに育った「犬」だったりする。主人公たちは、その「喪失」をうまく対象化できずに、「喪失」は彼らの心に空いた「穴」のようなものになっている。彼らはそのまわりをぐるぐるまわったり、触れるのを無意識におそれていたりするだけ。 だから、読み手は、そうした雰囲気を感じ、やさしくはあってもやはりディタッチメント的な視線と距離感を、彼らに対してとらざるを得ない。激しい感情移入ができないかわりに、ゆっくりと、読むスピードにあわせて「喪失」という穴の廻りをともにまさぐっていく。そしてそのうちにいつのまにか作品は終わっていく。あとはこうした微妙な距離感が好きか嫌いかのちがいである。私は嫌いではない。ただここに収録された作品がすべてよかったかといえばそうではなく、いくつかはつまらないとも感じた。 しかしその中でも、「土の中の彼女の小さな犬」のように、その「喪失」が言葉にされ、それが癒えようとする帳(あくまで手前のほの明るさ)まで進んでいく作品については、「いい作品だ」と口にしたくなった。おそらく、ここには二人の人物の、出会いとディタッチメント的距離感を越えた関わりがあるからだろう。春樹さんの、その後に描かれる作品を知っている私たちは、ここにひとつの根本的テーマがあったことを確認できる。 (001205) | ||||
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「僕」が思いをめぐらすのは、今までに出会ってきた「中国人」について。 模擬テストで送り込まれた中国人学校の教師、僕が「ひどい間違い」を して泣かせてしまったバイト先の中国人の女の子…。 本書は主人公「僕」と中国人たちの数奇なつながりを書いた表題作『中 国行きのスロウボート』をはじめとする、8つの物語を収めた短編集だ。 冒頭にて「僕にとって最初の短編」と記されるが、このように物語の欄外 に「僕」として著者自身が浮上してくるところは、彼の初期の作品らしいさ をかもしだしている。短編集においても、やはり「僕」というのは世間の価 値観とちょっとずれてて、何においてあまりこだわりがなく、かといって仕 事の手際はきわめてよろしく、変に目立ちたくはなく、なのに目立ってしま うような怪事件に巻き込まれて、それでいて女性は勝手に寄って来る、そ んな男なのだ。 それにしてもこれと読むとわかるのは、ムラカミにとって「心のふるさと」は やはりアメリカであり、原光景はその70年代あたりなのだろうということ。 彼がそれまでそっぽを向いていた国籍上の母国の方に振り返り、そのこと をもっと真剣に考え、小説の題材にし始めるのは、もっと後になってからの 話。ブリンストンに留学し、オウムを経験し、デタッチメントやらコミットメント と騒がれ出してから後のことだ。 それにしても「カンガルー通信」みたいなおしゃれな「ラブレター」が、僕にも 書けたらなぁ。もちろんそれの通じる相手が必要なのだけれども。。 | ||||
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村上春樹の最初の短編集。 書かれた時期は「1973年のピンボール」と「羊をめぐる冒険」のあたり。 私がこの短編を読んだのは随分後だったが、初めての短編集だったと知って驚いた。 基本的には長編小説家で、その合間に短編小説を書いたり、翻訳をこなしたりするのが村上春樹。 それでもその短編小説はいつでも一定のクオリティを保っているのが村上春樹。 この短編集を読んで改めて気づくが、彼は「最初から」短編が上手かったのだ。 ファンに評判の良い「午後の最後の芝生」はこの短編集に収まっている。 私もかなり大好きだ。 芝生刈り、中年の女、夏の日差し、若い女性の部屋。 初めて読んだときに思い浮かべた光景を、今でもあの頃と同じように思い浮かべることができる。 読んでいて、夏の日差しと共に心を占めるのはある種の切なさか。 それはおそらく読む者によって違う種類のものだろう。 悲しさとはまた違う、夏の儚さとともに思い出される自分の切ない思い出と微妙に絡み合ってしまう要素が、「午後の最後の芝生」にはある。 秀逸だ。 そして、「シドニーのグリーン・ストリート」では羊男が登場する。 長編小説の筋とは関係ないが、ファンとしてはうれしい。 | ||||
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著者初の短編集。どれもレベルが高くて面白い。あえて挙げるなら「午後の最後の芝生」かな。長編「羊をめぐる冒険」とつながる「シドニーのグリーン・ストリート」も他のものとは毛色が違うが面白い。「ニューヨーク炭鉱の悲劇」はタイトルと本文とのつながりは一体何かと考えてしまう。 | ||||
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「珠玉の短編小説」ということばはこの短編集のためにあると思う。 初期の村上春樹のいいところがにじみ出ている。 「僕は渋谷でだって冒険できる」のくだりがすごくいい。 大きいことをしなくても、日常の中にこそ発見があったりする。 僕もそのことを大事にしていきたい。 | ||||
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著者の第一短篇集。七つの短篇が入っています。初出掲載は、次のとおり。 『中国行きのスロウ・ボート』――「海」1980年(昭和55年)4月 『貧乏な叔母さんの話』――「新潮」1980年12月 『ニューヨーク炭鉱の悲劇』――「ブルータス」1981年3月 『カンガルー通信』――「新潮」1981年10月 『午後の最後の芝生』――「宝島」1982年8月 『土の中の彼女の小さな犬』――「すばる」1982年11月 『シドニーのグリーン・ストリート』――「海」臨時増刊「子どもの宇宙」1982年12月 なかでは、随分久しぶりに再読した『午後の最後の芝生』が、やっぱり素敵だった。この作品のみずみずしい香り、主人公の十八か十九歳の夏の思い出の風景は、本当に魅力的で、ただ好きだ、としか言えない。主人公の青春の気分が、透明な清々しさをたたえたタッチで、実に品よく描かれているから。格別、次の二箇所の文章に惹かれた。≪空には古い思いでのように白い雲が浮かんでいた。≫ ≪日の光が僕のまわりに溢れ、風に緑の匂いがした。蜂が何匹か眠そうな羽音を立てながら垣根の上を飛びまわっていた。≫ それと、『シドニーのグリーン・ストリート』に挟まれた三枚の挿絵(飯野和好)が、いいね。私立探偵の「僕」、ウェイトレスの「ちゃーりー」、ぶっきらぼうで乱暴な「羊博士」の三枚の挿絵。 | ||||
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何回か村上春樹の短編集は読んだことがあったんだけど、正直印象に残ってなかった。 あらためて、読んでみようかなと、評判のいいタイトルも気になるこの本をとってみた。 個人的には最初と最後の作品が一番好き。 中盤の作品はしつれいかもしれないけどありふれているといえばありふれているかな あえていうならば「象徴」というテーマなのかもしれない。 自分の象徴的な出来事ってなんだろうと思いをはせてしまった。 表題作「中国行きのスロウ・ボート」が一番おすすめ。 言葉にならないような、今ここにいない感覚。それを伝えることのもどかしさ、といったものが とても強く感じられた。 言葉にできない、この感覚。それを伝えようとおもってもなかなか伝えられるものではないのに うまくそれを文章表現できていて改めて村上さんに感嘆! わたしもこういう言葉に出来ないような感覚を伝える文章力をつけたいなと思った。 | ||||
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村上春樹の最初の短編集です。 私は、村上春樹の短編集の中では、本作が一番だと思います。 オシャレなだけでなくて、 本作には強いメッセージ性を感じることができます。 例えば、「貧乏な叔母さんの話」では、 言葉というものの持つ、破壊力について考えさせられました。 一番好きな作品は、「午後の最後の芝生」で、 学生時代の一夏の風景が、とても切なく、しみじみとさせられました。 | ||||
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「貧乏なおばさん・・」「ニューヨーク炭鉱・・」あたりはちょっとつっかえながら読みました。実際今、思い返してみてもストーリーが出てきません。それに対して後半は私のよく知っている村上春樹でスラスラと読めてしまいました。お約束の女の子もちゃんと登場します。 「中国行きのスロウ・ボート」これはなんか不思議。中国人とはいい出会いができないのはなぜでしょうか。 | ||||
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村上春樹も変わりました。この頃は本当に初初しかった。なんだかとっても青春していました。三十代になったばかり?の青年作家がカッコいいクールな新しいスタイルで若い読者にオモネロウとして頑張っているのが痛々しい。でも、どんな作家も初めはこんな風に余裕がなくて必死なんでしょうと思います。しかし懐かしいですね〜!80年代が彷彿とします。バリー・マニローとかアル・ジャローなんかが聞こえて来そうです。マイケル・マクドナルドとか? こういう力み方をしなくてよくなるのが、「世界の終わり」「羊をめぐる」あたりからです。自信がついたのがわかります。でも、こうして25年以上たって若い頃の作品を読んでみると、やはり村上春樹の才能というのはこうしたポップで明るくて甘酸っぱいアメリカングラフテイのような青春モノなんじゃないかと思ってしまいます。 近著でもこうした匂いは主人公のなかにちゃんと残っていますし、人間そうそう変わりません。村上春樹の脳内アメリカの原点がここにあります。 | ||||
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どんなに相手を愛していても 完全に理解することはできない。 逆も真なり。 交わす言葉は表面的で、 触れる肌のぬくもりも時と共に消えてしまう。 それでも、誰かと繋がりたいと願い、 返って来ることの無いボールを投げ続ける。 深い絶望の淵から遠くに見える希望の明かりを捉えようとする。 お互いを理解しあうなんて、空想にしか過ぎない。 でも時として、その空想を超えた理解が訪れることだって、実はある。 この本が編まれた時から20年もの年月が経ってしまったけれど いつかキャッチボールができると信じることの大切さは 普遍的に私達の前に現れている。と、信じたい。 | ||||
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村上春樹初期の短編集です。 いかにも初期っぽい。 物事の描写がいちいち細かいのはいかにも彼らしい。 退屈。倦怠。アンニュイ。 その中で行われる、記憶の再生と人間の観察。 忙しい人に勧めたい一冊です。 | ||||
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村上春樹、初期の短編集です。 短編集はこの他にも幾つか出ていますし、僕も幾つか読みましたが、僕はこの短編集が一番気に入っています。 決して稚拙ではないけれど、どこか危うくバランスを崩しそうな、積み木のような作品たちが詰まっています。 僕は「シドニーのグリーン・ストリート」がお気に入りです。 2000年以降の作品しか読んだことがない方には、是非手に取ってほしい一冊です。 | ||||
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この短編集の「午後の最後の芝生」について話したい。 「午後の最後の芝生」は本短編集の白眉であり 数ある村上春樹の短編の中でも 優に十指に入ると思う。誠に初期の短編の傑作であり 書かれて20年以上経ち その間に同じだけの年を取った 今や40歳代の中年である小生が今読んでいても全く新しい。しかし 注目すべきは村上春樹が やはり20年前に 本短編を自評して「これはこれで発展できない話です」と言っていたことである。 それからの村上春樹を思うと「世界のおわりとワンダーランド」「ノルウェイの森」「ねじまき鳥」等の長編には 必ずベースとなる短編があった。即ち「街とその不確かな壁」(現在収録されていない)「蛍」「火曜の女」等が原型となる短編である。つまり 村上春樹は短編で原型を作ることで長編を展開していった作家であると言ってもおかしくない。 そんな村上春樹が 「午後の最後の芝生」に関して「これはこれでおしまい」と言い切っている点が注目される。事実これを基にした長編は書かれていない。「廃馬を撃つ」という言葉はきついかもしれないが この短編は そのまま見捨てられのだろうか。 繰り返すが村上春樹のマスターピースの一編である。大勢の方がこの短編に言及されている。それを考えると 大変複雑な気持ちになる。村上春樹に聞いても きっと肩をすくめて「そういうものだ」としか言ってくれない気がする。 | ||||
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デビュー作からリアルタイムでずっと読んでますが、一番繰り返して読んでいる一冊です。 「ピンボール」発表後、「羊」をはさんで書かれた、7編の短編集。 後に実った、豊かで複雑な果実達の種のほとんどすべてが、ここにあります。 現実と自分の世界の間に横たわるあまりの距離感に呆然としながらも、何とか折り合いを付けようともがきつつ、ますますその距離を増幅させてしまう喪失感を描いた表題作。 すでに完結したと思った仕事で出会う、時間が止まってしまった家庭が持つ失われた幸福の残像に、自分と同じ匂いを感じてうろたえる「僕」の戸惑いを描いた「午後の最後の芝生」等 後期の長編群の謎を解くキーワード満載です。 | ||||
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村上春樹も、古川日出男も好きなので、読んでみました。 村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」の空気を古川流に書いた作品。 古川さんの作品の中では、「アラビアの夜の種族」の次に好き。 東京脱出を試みる主人公。 三度の恋愛で脱出失敗、しかも恋人たちはみんな遠くへ行ってしまう。 この無常観が春樹的なんだろうな。 話の中でも、「ヘイトカ」というレストランを立ち上げて、妙なつながりで働くことになった女子高生シェフと恋に落ちるところが好き。 それから、後半に再度一番目の恋愛がまたからんでくるところも。 すごくいい。 | ||||
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「午後の最後の芝生」という題はおそらくD.H.ロレンスの短い詩「午後の最後の授業」The last lesson of the afternoon から取っているのではないでしょうか? 内容的には特につながりはないように思いますが、どちらも午後の時間が止まったようなぼおっとした感じが出ています。 | ||||
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村上春樹は長編を書く作家だと思う。でも、短編だって本当にうまく書く。ただし、長編ほど力のこもった作品は少ない。でも、この時代、村上春樹は長編と同じ質量で、短編を書いていたのだなと感じる。それだけ充実した作品群である。午後の最後の芝生や、土の中の…や、表題作。何度も読み返して味わうに値します。 | ||||
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