■スポンサードリンク
ムーン・パレス
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
ムーン・パレスの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.36pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全88件 21~40 2/5ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
最後になにもかも失うが、1ヶ月ぶっ通しで歩いて海に来た。そこから人生再出発の決意が素晴らしい。1ヶ月ぶっ通しで歩くってキツイはず。じじいに鍛えられてよかったね。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
"不思議なことに、自分のクッキーに入っていた占いの言葉を、いまもそれが手のなかにあるように僕ははっきり思い出すことができる。そこにはこう書いてあった。『太陽は過去であり、地球は現在であり、月は未来である』と。"1989年発刊の本書は名訳と共に、失われる痛み。そして青春の終わりを教えてくれます。 個人的には、学生の時に"村上春樹に何か似てるな"と読んで、何十年ぶりの再読となるわけですが。今回感じたのは主に2点。アメリカ文学の主人公の一つのパターン"とにかく逃げる"を踏襲している本書はどこかサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に似てるな。という印象と、おそらく日本一の翻訳者ではないかと思われる東大名誉教授でもある柴田元幸の【見事に読みやすい翻訳の素晴らしさ】でした。 また、今回の再読で、主人公の若者というよりは自分が彼が出会う老人や中年教授といった人物の生き方の方に関心を寄せるようになっていたのにふと気づき、ああ年を重ねるって素晴らしいな。【人生って退屈で複雑で奇妙で】だからこそ楽しいな。そんなことをあらためて感じさせてくれました。確かに深い余韻が残る絶品小説ですね。これは。 青春と家族を巡る物語が好き、村上春樹が好きな誰かに。また翻訳の素晴らしさを実感したい誰かにもオススメ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ストーリーが読みやすくて面白かったです。 作家の感性が光る作品でした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
初めて読んでから20年以上経ちますが、今読んでも新たな感動を味わえる稀有な作品です。特に最初の100ページ辺りくらいまでが最高に素晴らしい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
著者の作品は10年程前に英語の勉強を兼ねて原書を愛読した時期があって、鍵のかかった部屋やオラクル・ナイトなど印象深い作品は今でも記憶に残っている。本書はその時期にペーパーバック版を購入したが読まずに本棚に置いたきりすっかり忘れていた。本棚を整理していた時に本書に気付き、読み始めたが久しぶりのオースターワールドにすっかり浸ってしまった。 オースターの作品には、日常の世界から知らぬ間に非日常に入り込む不思議な展開を見せることが多いが、本書もそんな作品。普通の大学生に見えたマーコが気付いたら無一文になってホームレス状態に陥り、そこから思わぬ展開で脱出したと思ったら、今度は盲目の車椅子の老人の家に住み込むことなる、という想いもかけぬ展開が続き引き込まれる。 また、英語なのでどこまで理解できているか自信はないが、オースターの文章は美しくて流れるように感じられ、読んでいて心地よい。読み終わって、他の作品にも早速チャレンジしたくなった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
全くの偶然からオースターを知った。以後,彼の作品を一つ一つ読んでいる | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この素晴らしい本は終わるのが怖かった。 全くの無の世界、身体中が完全に自然に晒される感覚。六本木のマクドナルドで朝になるまでコーヒー一杯で読破したのは何時間ぐらいだったのか? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
これは村上春樹である。青春の荒唐無稽なところも含めて、みずみずしい再生がある。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
全くこれだけの質の高い作品を提供し続けるオースターの底力を感じさせる一冊である。彼の作品を通じて言えることは、"無"そのものに尽きる。とにかく全てにおいて無垢なのだ。余計な主観的な要素を出来るだけ排除し、偶然の重なり合いだけで奇抜で想外な展開を創り出し、読者を混乱の闇に落とし込み、最後には"無"そのものに収束させる。 この作品を通じて、人生が野望の無益さと空虚への飛び込みでしかない事を教えられた気がする。柴田氏は"偶然による愉快な展開のすぐ横に混沌の暗い深淵がぽっかりと口を開けてる古典的なイギリス小説を思わせる"とこの作品の立ち位置を捉えてる。"コメディーは、いつ陰惨な悲劇に転じても不思議ではない事が見える時、正当な切実さを獲得する"と解説してるように、オースター自身唯一のコメディー作品となるこの一冊を"物語の欲望を目一杯満たしてくれる"と評価する。 主人公は、典型の自虐的貧乏学生であるマーコ・フォッグ。その特異な響きの名前と悲しい生い立ちからして、シリアスで陰鬱な物語と思いきや、滑稽な物語と悲劇的な展開が折り重なり、読者を翻弄する。特に、美しく聡明なキティー・ウーの存在は、彼の人生においてもストーリーの色彩においても大きなアクセントをもたらす。彼女はフォッグの全てであり、彼の全てを支配する。彼女の支えなしに、フォッグの人生は先に進みやしない。彼女こそがムーンパレス(安価でささやかな贅沢を提供する中華食堂)そのものであり、常に彼の目の前で輝き続けるお月さまなのだ。 父親も知らず、母親も小さい頃に死に別れ、ビクター伯父だけを頼りに生きてきたコロンビア大学の秀才は、ビクターの死を境に彼の後を追うように飲まず食わずのホームレスの生き方を選択する。餓死寸前の所をキティーに助けられ、九死に一生を得た彼は奇妙な老人の家で住み込みとして働くようになる。トマス・エフィング老人の萬話に近い生涯の物語に浸るうち、フォッグは少しずつ自分に目覚め、生きる目標を見出すようになる。この奇抜な老人にもう一人の自分を見出すのだ。 老人の死後、フォッグはこの老人の息子であるソロモン・バーバーと出会う。これまた漫画に出てくるようなキャラの超肥満の歴史学者にも、フォッグは引きずり込まれる。フォッグの物語が悲しくも貧しい郷愁が備わった水墨画とすれば、エフィング老人も息子のソロモンもキティーも滑稽な世界に生きるポスターカラー調のイラストみたいで、しんみりとした色調の中に鮮やかで奇抜な色彩を加えている所は、見事である。 しかし、キティーとの暮しも安泰ではなく、彼女はフォッグの子を身籠るも若過ぎるとの理由で中絶してしまう。フォッグは彼女と別れ、ソロモンのアパートに居候する。またまた、抽象的な湿っぽい展開が続くと思いきや、ここから流れが激変する。この肥満体の大男こそがフォッグの実の父親なのだ。突然の衝撃的なソロモンの告白に、フォッグはうろたえ自暴自棄になりかける。やがてソロモンは死に、キティーをも失い、車も財産も全て失った。僅か24歳の彼は三たび一人きりになる。太平洋を目の前にして、自身の闇から抜け出し、"無"に終束するエンディングは、何とも言えない郷愁に嵌ってしまう。ずっとずっとそこに留まっていたい気持ちになる。何という無垢な贅沢であろうか。 どんなに滑稽な人生もどんなに悲惨な青春も最後には無に収束する。読み終えた後の無垢な恍惚に永遠に浸っていたくもなる。全くオースターには何時も負かされ放しだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
今までは バロウズやブコウスキーを愛読していましたが、読後に本作は中でも【勝手に生きろ】のチナフスキーと対照してしまいました。青春期の多様さは懐の広いアメリカならではで、文章も翻訳が苦手な方でもすんなり読めることができると思います。思わず、読書好きの友人にもプレゼントしちゃいました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この本に出合えたことに感謝。内容も翻訳もとてもよかったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
何かを得ては失っていく、その繰り返しが身体を突き抜けて行くような作品。 怒涛の様に続くこの運動の中からも、何かがしこりのように心に確かに積み重なって行くような感覚があり それを味わうような作品だったという感想が自分には一番しっくりきた。 あと,マーコ達のように,自分もアメリカの西部に行ってみたくなる。 自分の人生にも何かが起きるのだろうか(笑) | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
2年程前に一度読んだけれど、ふとまた読みたくなって再読しました。 オースターの作品は、少なくとも2回以上読むのが良い、と思う。(1回でも十分楽しめるけれど) 1回目はどうしてもストーリーに気持ちがいってしまい、「このくだり長いなぁ」とかいろいろ思うのですが、 2回目は文章そのものを本当の意味で楽しめました。柴田さんの訳は本当に読みやすい。 とくにオースターとの相性が良いのだと思います。 オースター作品の登場人物の中で、とりわけ私はこのマーコ・フォッグが大好きです。 いつも寂しくて孤独で、純粋で愚かで、そして青くて。読み手はいつの間にか自分を重ねてしまう。 そんな寂しさを隠して、他人には饒舌で陽気な振る舞いをするマーコ。 「月」は、ある意味「孤独」を象徴している。他の登場人物たちも皆、孤独を抱えているのがわかる。 でも孤独とは生きている証みたいなものだ。 最後のシーンで、夜空に月が上り、闇のなかにみずからの場を見出す姿が描かれる。 「太陽は過去であり、地球は現在であり、月は未来である。」 P172、401 夜になると太陽は沈んでしまうが、地球の裏側で月を照らしてくれている。過去が未来を照らすのだ。 闇の中の孤独は、「自分」という未来の光でもあるのだ。 多くのものを失った過去(太陽)は、今(地球)に隠れて、未来(月)を照らす。 「ムーンパレス」はそんな希望の物語であり、はじまりの物語だ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
大学生の主人公はある日唯一の肉親である叔父を亡くす。母子家庭に育つも10歳のときに母親を失った彼にとって、叔父は自分のアイデンティティの要をなす人物であった。心身ともにぼろぼろになった主人公は死の淵まで追いやられるが、友人や恋人の助けを借りながら次第に立ち直っていく。そんななか見た求人広告に応募すると、不思議な仕事が彼を待っていた。その仕事の内容は車椅子の老人の話し相手になるというものだった。 著者の多くの小説には自伝的要素が多少なりともはいっているが、主人公が著者と同じコロンビア大学の学生という設定だけあって(題名の『ムーン・パレス』も大学近くにある実在の中華料理店の名前らしい)、本書はその要素が比較的濃いように感じられた。くわえて他のオースター作品と同様、父の不在やあてもない旅といった設定はこの物語のなかでも重要なファクターとなっている。 著者初期作品に見られるハードボイルド小説の影響は、本作でも、主人公が暴力的な運命に巻き込まれ抗うことができないという不条理さに現れている。少し異なるのは、彼の他作品における旅が往々にして無目的かつ無軌道でなんら実りをもたらさないのに対して、本作では旅が自らのルーツを見つけるのに一役買うこと。その経験は主人公に必ずしも良い結果を生むわけでもないけれど、「旅」という非日常的なプロセスを経ることで課せられた試練をひたすら“耐える”という点は、青春小説の定型を踏襲していると言えるだろう。 ただ、試練を“くぐり抜ける”とは言いづらいのは、主人公がそれをきっかけにポジティブな変化を受けたとは断言できないうえ、最後まで試練の終わりが明示されないからだ。そのようなわかりやすい成長物語はもう説得力を持ちえないことを、筆者も了解しているのかもしれない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
君も通った私も行ったあのコロンビア大学の近所にあった中華料理店「ムーン・パレス」のオーナー一家の細腕商売繁盛記!っていうのはこれまた冗談で、実際のところ、この「ムーン・パレス」は前半にちょこっと出てくる程度、むしろ1969年7月にアームストロング船長が月面を闊歩した!、ゴルフのスイングを楽しんだ!という歴史的事実の方がこの作品には重要、年代的に重要・・・・・・・ 僕(マーゴ・フォッグ)の青春物語・・・・・といいたいところだけど、むしろトマス・エフィングことジュリアン・バーバーの青春血風録でもあるし、彼の息子ソロモンの青春風土記でもあるし、僕の元カノ・キティ・ウーのダンス武者修行でもある・・・・・・・・ 最後の方で、自分の実の父親!っていうのがマーゴには分かるようだけど、実はこれって、もう少し前の方でネタばらししてるじゃん!って、突っ込みたくもなる。 でも、オースターのストーリー・テリングの巧さは相変わらずで、この人の書いたもの、さらには柴田センセの翻訳したものは、決して速読じゃなく、じっくりと、読むことにしたい。で、本書もなかなかに面白く、読んでいることによって、至福のときを味わうことの嬉しさ、楽しさ、作者との一体感、登場人物との快い間柄・・・・を楽しむことができる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
原著のペーパーバック版と、日本語訳された新潮文庫判を「同じ書籍」として扱う(kindle版がある、という認識)のはそろそろ改善されてもいい頃ではなかろうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ポール・オースターの小説は面白い。本作は89年発表の、言うなれば青春小説。舞台は69年のNYC。本作では三人の男の人生が語られる。トップバッターはマーコ・スタンリー・フォッグ(1946年生まれ)、次にトーマス・エフィング(1883年生まれ)、最後にソロモン・バーバー(1916年生まれ)。 父親不明の私生児として生まれ、9歳のときに母親にも死に別れ伯父に育てられたマーコはコロンビア大学の学生だが、伯父も突然亡くなったためにその葬儀代等で母の残した遺産を使い果たして、困窮してホームレスになるが、友人たちに救われる。そして何とか大学を卒業してバイトをはじめるが、その仕事が謎の大金持ちの老人で身障者のエフィングの身の回りの世話。そして最後にバーバーに出会う、という流れ。三者三様の人生が語られるワケであるが、マーコの寂しいけれど、伯父や友人たち、そして恋人に支えられた青春物語、エフィングの奇想天外な冒険譚、バーバーの誠実極まりない生き方など、相変わらずの与太話(笑)を交えた語り口は読む者を惹きつけて離さない。そして驚きのラスト! 物語の中でマーコが「太陽は過去、地球は現在、月は未来」という中国の占いの言葉に出会うが、この言葉が物語で重要な役割を果たす。この謎めいた言葉を本作に結び付けようとすると、太陽はエフィング、地球はバーバー、そして月はマーコ、となるのであろうか? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
心の中に気持ちよく孤独と悲しみが流れてくる。 それらの感情はぼくたちを突き刺すのではなく、包み込む。 書き手が優しい心根なのだろう、自分に厳しく読者にやさしい小説だ。 喜怒哀楽の感情がバランスよくまぶされているだ しかし、バランスがよい分、ひとつの感情が突き抜けてこない。 そこが1つ物足りなく感じたところでもあろうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
急に無性に小説が読みたくなったので、以前から友達が好きだといっているポール・オースターを読もうと思った。本当は原文で読みたかったのだけど、そんなことすると読むのが遅い私は3ヶ月くらいかかってしまうので、日本語訳で読むことにした。ある意味それは正解だったかも知れない。すごく読みやすかったのだ。いつも友達に言われていることは、オースターにはまるのは一人称で書かれているから、まるっきり主人公の視点を通して物語りが進んで行くような錯覚にすら陥るんだそうだ。確かに、映画「ジョン・マルコヴィッチの穴」の穴をくぐるように、ページをめくると主人公と脳みそや五感を共有しているような不思議な感覚にとらわれる。原文を読んでいないのでえらそうなことは言えないのかも知れないが、それでも、作品世界にのめり込める感じがすごく良かった。日本語訳が良いのも1つの理由だと思う。内容については何も書くつもりはないが、物語の荒唐無稽さが蓋然性の低さをある意味凌駕しているような、不思議な統一性が気に入った。また機会があったらオースターを読みたいと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
とにかく、この本にはまる人は、孤独を感じている人だと思う。主人公は、孤独な青年で、若くして母親とも死別し、叔父と暮らす日々。父親は、生まれる前から誰かわからない。そうこうしているうちに、同居していた叔父とも死別。どんどん生活が悪化し、ホームレス状態になったところを友人二人に救われる。そこから話が面白くなっていく。 3分の1あたりを過ぎたあたりから、話の内容がアートに染まっていく。美術館を主人公が訪れるシーンで美術の世界にはまった。図書館でオルセー美術館のカタログも借りてきた。美術とは何かを知りたいきっかけになったのが、『ムーン・パレス』。 物語自体は、悲哀に満ちた話で、思わず、「ああ、、、」と言ってしまう。ただ、はまる。 ストーリーで、「the Sun is the past, the earth is the present, the moon is the future(太陽は過去、地球は現在、月は未来)」というのがキーワードになっているのだけれども、果たして何を示していたのか、今も考え中。 出会いと別れ、そして最後は無。こんな感想を読んでみて思った。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!