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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数896件
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山口氏が本格ミステリ界のボブ・ディランと称した巨匠島田荘司氏は御手洗シリーズ第50作目にしてもその奇想度が全く衰えない。
今回は曰く付きの盆栽が置かれた屋上から突然人が飛び下りる不思議な事件を解決する。 いやはやよくもまあこんな話を思い付いたものだと感心した。先の山口氏のキッド・ピストルズの短編集の感想で私は偶然や予想外の出来事が起こることで不可能的状況が生まれるインプロビゼーションの妙が面白いと評したが、流石は巨匠島田氏、そんな山口氏の作品を遥かに凌駕する想像を超えた偶然をこれでもかとばかりに導入し、我々読者を上に書いた不可解事の世界へと誘うのだ。 物語のパートは大きく6つに分かれる。 まず物語の舞台となるU銀行の屋上に敷き詰められた盆栽の経緯について語る、夭折した若き盆栽家安住淳太郎の生涯。 そして田辺信一郎という青年のまるで階段を転げ落ちるかの如く、人生が転落していく様を描いた“苦行者”の章。 そして次から次へと行員が不審な飛び降り自殺を遂げるU銀行の“屋上の呪い”の章。 更にこれまた人生の落伍者である菩提裕太郎という40の独身男がたまたまサンタクロースの衣装を着たままU銀行に入り、銀行強盗に間違えられるまでを描いた、喜劇のような勘違いが連続する“サンタクロース”の章。 そしてU銀行員である“行き遅れ”OL岩木俊子が田辺信一郎と奇妙なシチュエーションで出逢う“宇宙人”の章。 そしてようやく御手洗潔が事件に乗り出し、真相を解明する“馬車道”の章。 いつもながら島田氏は社会の底辺で生活苦を強いられている人々や社会に馴染めない青年の話を事件に絡めて単なるミステリで終わらぬ、格差社会の矛盾など社会問題への提起を物語に含め、半ば作者の主張のような内容を盛り込むが、今回事件に関係する田辺信一郎と菩提裕太郎の2人は正直云って自業自得とも云える自分勝手な振る舞いと解釈とで生きていったがために社会から転落した男たちである。彼らは物事が上手く行かないことに自身の性格や考え方に問題があるのに、社会や他者のせいにすることで溜飲を下げ、そして脇の甘さから物事を悪化させていく。 例えば田辺信一郎。彼は大卒でありながら落研に所属し、碌に授業に出ず、寄席通いに精を出していたことで就活に失敗し、Y家電という量販店に入ったものの、典型的なブラック企業でその悪環境から逃げ出すように辞職し、その後転々と友人たちの家に泊めてもらう流浪生活を送った後、偶々見つけた社員募集のチラシに惹かれて入った不動産会社にルックスの良さでその女社長に気に入られ、就職したような人間だ。 しかも辞職後の放蕩生活の時によく見ていたピンク映画の影響で図らずも電車の中で痴漢を働き、捕まりそうになったので逃げ出し、更には時間つぶしに入ったショッピングビルで便意をもよおして誤って女子トイレに入り、危うく痴漢に間違えられそうになったところを必死で窓から飛び降りて逃げ出すという体たらく。 一方菩提裕太郎も生まれつき大きな身体を持っていたことで高校・大学と柔道である程度名を馳せ、その勢いで大手貿易会社に就職し、実業団柔道を続けていたがアキレス腱断裂で柔道選手の将来を絶たれ、体育会系の社員にありがちな横暴な生活が災いして上司とぶつかりそのまま辞職。 その後は自分が柔道だけが取り柄だったことに気付き、何もしても上手く行かず、40になっても独身で安アパート暮らし、バイトで日々の生計をようやく繋いでいるといった社会的弱者でありながら、大酒喰らいに粗暴な性格を直せず、社会に順応できずにいる。 いずれも大学まで出ていながらその後の人生を破綻してしまい、社会の底辺で管を巻き、不平不満と鬱屈した思いを抱きながら生きている底辺の人々だ。 また一方で岩木俊子のように容貌に恵まれず、行かず後家として銀行内の男性社員のみならず女性社員からも白目で見られながら、大阪出身のマイペースで明るい性格で周囲を感化する女性の心情も描く。 人前では明るく振る舞いながら、人一倍結婚願望が強いのに自分の容貌ゆえにそれが叶わず、男性に対して押しの強さを見せるものの、いつも付き合いまで発展せず、約束も反故にされることに慣れ、異性が自分に興味を持つことを期待しないようになった健気な一面が妙に心を打つ。 それら事件に関わる市井の人々を詳らかに、そしてやや饒舌に描く。その内容はいずれも我々の周囲に見かける普通の人々であり、読んでいる最中読者それぞれにモデルが浮かび上がることもしばしばだろう。 モデルと云えば最近の島田氏はモデルが特定できるような実在する企業をモチーフにしてこれら登場人物たちの背景を語ることが多くなってきている。 この前読んだ『ゴーグル男の怪』に登場する臨界事故を起こした住吉化研はもろJCOだし、今回登場する製菓会社プルコはその発展の礎となったおまけ付きキャラメルからグリコであることが容易に想起され、また登場人物の1人田辺信一郎が辞職する体育会系の家電量販店Y家電はヤマダ電機がモデルであろうことは容易に想像がつく。 思わず脱線してしまったので話を戻そう。 死にそうにもない社員が次々と会社の屋上から身を投げ、自殺することで呪われた銀行とまで云われるようになったこの怪異な事件を御手洗は快刀乱麻の如く解決する。 しかも本書は久々の、実に久々の読者への挑戦状が付いており、今回はそこで作者自身(語り手の石岡自身?)が述べているように、事件の背景となったそれぞれの登場人物の背景について語られており、今までの挑戦状付き作品よりも推理する材料は与えられていると感じた。 従って私もこの挑戦状を読み流さず、敢えて受けて立つことにした。 さてその真相は90%合っていたと云っていいだろう。豪腕島田ならではの、アクロバティックな事件の真相は本書でも健在。 しかし本書では文庫版の表紙が全てを物語っている。読み進めるうちにこの表紙も絵解き物として理解が増してくるのだ。 しかしそれでもU銀行とあさひ屋など隣接する2つのビル、そしてこの大型看板の位置関係は簡単な平面図が欲しかった。U銀行の屋上からは大型看板の裏側が見えるだけという一文でそれまでモデルとなった道頓堀のグリコの大型看板をイメージしていた私に混乱が生じた。 実在する看板のようにビルの壁一面に貼り付けられているようにイメージしていたのでその裏側が見えることに違和感を覚えたのだ。 また重箱の隅をつつくようで恐縮だが、以下の2点について触れておこう。 本書は短編集『御手洗潔のメロディ』所収の短編「SIVAD SELIM」の後の事件、つまり1991年の1月ごろの話となっている。しかしその時代だと、例えば田辺信一郎のエピソード“苦行者”の章で彼がY家電に入社し、労働省が「過労死ライン」を設定し、通達したとあるが、この通達は2001年12月に行われており、1991年の時点ではそれがなされていないため、時制が異なるのだ。 またプルコの看板を点検する際に御手洗が小鳥遊刑事にクレーンを呼ばせて道路を一部通行止めにするが、この場合は事前に警察に道路使用許可を申請して許可を得なければならないので、本書に書かれているようにはできないので注意が必要だ。 本書は冒頭に若き盆栽家の不遇な一生とそれに纏わるある大女優の悲惨な末路と遺された盆栽に纏わる連続する怪死事件と云う幻想的なエピソードを排し、更にそこに田辺信一郎という男と菩提裕太郎という社会的落伍者の不遇な歩みを彼らによって引き起こされる奇妙な出来事、更に事件の舞台となるU銀行界隈で起こるしがないラーメン屋と仏具店の主人が相次いでロールスロイスを買い、デパートのレストランのシェフが急に羽振りが良くなるという奇妙な状況、そしてそのデパートの4階の女子トイレで幽霊騒ぎが起きるなど、色んな噂話を放り込んでどんどん読者を引き込んだ後、それらが全て合理的に解決するというかつての御手洗シリーズの従来のスタイルを復刻させた作品であったことは喜ばしい。 しかも新作が刊行されるたびに重厚長大化が増していた頃と違い、導入されるエピソードもほどよい分量である(それでも540ページほどはあるが)。 この原点回帰のような健筆ぶりは評価したいが、先にも述べたように特定の企業をモデルにしたエピソードが正直事件に寄与しているとは云い難く、作品の怪異性、もしくは読者の興味を他へ逸らすためのミスリードのために盛り込まれているようにしか感じられないのは正直不満だ。書かれている内容は決して好意的な物でないため、実在する企業に対してそれは失礼であろう。 また元々の題名『屋上の道化たち』から『屋上』と非常に素っ気ないタイトルに変更したのも気になるところだ。 島田流本格ミステリが味わえるのは大歓迎だが、上に書いたような些末なミスや創作作法にいささか不満が残った。 特に上に書いたような時代考証の齟齬や公共機関への届け出の不備などは校閲の段階で指摘すべき点であろう。それは寧ろ出版社の務めだ。 島田氏が巨匠になり過ぎたために意見できないようになったのか。もしそうならばそれはそれで出版界も衰退していくだけだろう。本作品は単行本からノベルスを経て既に3度目の刊行でありながらこのようなミスが見られるのは何とも情けない限りだ。 しかし読者への挑戦状、幻想的な謎に合理的な解決と島田本来の本格ミステリが戻ってきたことは非常に喜ばしい。更に島田氏はその後も精力的に作品を刊行している。 御歳70歳でありながらなお意欲的な創作を続ける島田氏の作品のこれからが非常に楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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最近光文社にてシリーズが復刊されたキッド・ピストルズシリーズの第1作が本書。
警察機構が腐敗し、堕落した世で探偵士の称号を与えられた民間探偵が活躍するパラレルワールドのイギリスを舞台にしたシリーズ。探偵士は警察よりも先に72時間だけ優先して捜査権を行使できる世の中にあって、キッド・ピストルズとその相棒ピンク・ベラドンナはロンドン警察庁の警官であり、奇妙な事件を取り扱う国家特異事件処理課(National Unbelievable Trouble Section)、通称<そんな馬鹿な(ナッツ)>事件処理課に所属するパンク警官である。つまり彼らは愚鈍と見なされている警察機構の人間でありながら、探偵士を出し抜く知能を誇る名探偵であるのだ。 そして本書に収録されている4編は全てマザーグースに擬えられているのが特徴だ。 第1作「『むしゃむしゃ、ごくごく』殺人事件」は≪むしゃむしゃ、ごくごくのお婆≫が擬るような事件をキッド・ピストルズたちが解決する。 キッド・ピストルズとピンク・ベラドンナ初お目見えの本作は実にスマートな短編となっている。大食漢の女優が毒を盛られて亡くなったがその日に限って胃は空っぽだったという実に奇妙なシチュエーションを扱っている。 女優が引退し、50年間も家に閉じこもって食べるだけの人生になった背景、彼女を取り巻く人間関係、そして事件解決までに至るキッド・ピストルズやピンク・ベラドンナたちの行動が真相に結びつくようほどなく配置されており、実に無駄がない。 インプロビゼーションの妙がかえって奇妙な状態を生む面白さはカーの作品に通じるものがある。 次の「カバは忘れない」は≪ウェールズ人の狩の唄≫がモチーフとなっている。 部屋にある2つの死体。1つは人間、もう1つはカバ。 こんな奇妙なシチュエーションの殺害現場がかつてあっただろうか? そして一見このおふざけにしか見えない状況がそれまでになかったダイイングメッセージ物の新機軸を生み出すことになる。 ダイイングメッセージ“H”を巡ってキッド・ピストルズたちは色々推理を巡らす。 本作は価値観の相違がテーマになっている。 こういう価値観の転換というのはやはり面白い。世界に出るとこういったその国独自の文化や思想に触れることができ、理解もしやすくなる。そういう意味では海外赴任した後に読んだこのタイミングは良かったのだろう。 3番目の事件「曲がった犯罪」のモチーフは≪曲がった男≫。 カーの某長編のパロディと思しき題名にヴァン・ダインを彷彿とさせる美術評論家の登場、そしてチェスタトン張りの逆説が炸裂する、まさに黄金期の本格ミステリのガジェットに満ちた作品。 芸術家の心理は芸術家にしか解らぬという特殊な論理展開で事件が解決されるかと思いきや、真相はまたもや不測の事態が起きることによって生じた完全犯罪の穴をキッド・ピストルズがこじ開ける鮮やかな展開を見せる。 特に冒頭のキッドが参加するポーカー勝負のエピソードが後半推理に重要な要素を秘めている展開は実に見事。 本書最長の最後の1編「パンキー・レゲエ殺人(マーダー)」のモチーフとなるマザーグースはあのクリスティの名作『そして誰もいなくなった』と同じ「10人のインディアン」だがもう1つのヴァージョンである黒ん坊(黒人)をモチーフとしている。 本書収録の各短編には作者による巻頭言が書かれているのだが、それによれば山口氏が今回マザーグースでインディアン版ではなく黒人版を採ったのが黒人が大勢登場する本格ミステリを書きたかったため。 云われてみれば確かに黒人が登場人物の大半を占める本格ミステリは記憶の限りでは読んだことはない。警察小説やノワールといったジャンルならばあるが。 一方で中国人に代表されるアジア圏の人々が多数登場するミステリは案外ある。それはコナリーの『ナイン・ドラゴンズ』の感想でも書いたように西洋文化と考え方も成り立ちも異なる東洋文化はエキゾチックな魅力を感じるようだからか。 さて前置きが長くなったが、本作では本格ミステリの花形とも云える密室殺人事件が扱われている。但し全てが鍵が掛けられた部屋ではなく、海に向いたテラスの扉は解錠されているが、そこには事件当時麻薬課の刑事が張り込みをして見張っていたという視覚による密室状態が設定されている。 そして本作では上にも書いたように黒人が多数登場しており、しかもレゲエミュージシャンばかりが登場する。つまり黒人と云ってもジャマイカンでレゲエ文化独特の論理が展開する。 レゲエ・ミュージシャンであるラスタファリアンたちはジャマイカ独自のラスタファリズムと云う旧約聖書に基づいた宗教の戒律に従って厳格な生活を守っており、ドレッドヘアは剃刀に対する戒めから髪を切らず、梳かさず、伸ばしっぱなしにしている。それが次第にラスタファリアンの誇りや勇気の印を象徴するようになり、神のエネルギーを具現化している風に考えている、etc。 そんな独特なジャマイカ文化の中で事件に対応する探偵士はこれまでのシャーロック・ジュニアではなく、カーの2大シリーズ探偵のうち、ギデオン・フェル博士を彷彿とさせるヘンリー・ブル博士。そしてカー作品の特徴であるオカルト趣味はジャマイカの伝承をベースにしており、しかも主人公のキッド・ピストルズたちはイギリスで発展したパンクスであり、いわばWhite meets Blackの妙味が味わえる。 レゲエテイストを横溢させながら、ジャマイカ文化をロジックの背景にした本作はまさに音楽に造詣が深い山口氏ならではの作品だ。 全4編が収録されたキッド・ピストルズシリーズ第1作はそれぞれ毒殺、ダイイング・メッセージ、見立て殺人、密室殺人と本格ミステリの本質的なテーマを扱っている。 そしてそれぞれの短編には古典ミステリをパロディにしたネタが放り込まれており、ミステリに造詣が深ければ深いほど愉しめる内容となっている。 少なくとも3人はシャーロック・ホームズと称する探偵士がいたり、S・S・ヴァン・ダインをパロディにした『《にやにや笑い》(グリン)殺人事件』や『蔵相殺人事件』を著しているS・S・フォン・ダークのペンネームを持つウィラード・ハンティントン・ライトならぬウィラード・カールトン・ライトが登場すれば、ヘンリー・ブル博士はジョン・ディクスン・カーの創作したヘンリー・メリヴェール卿とギデオン・フェル博士を彷彿とさせる。 更に一旦探偵士によって開陳される事件の解決をキッド・ピストルズシリーズが更に整然とした推理で覆す構造は複数の解決を駆使するアンドリュー・バークリーを想起させるし、またチェスタトン張りの逆説や形而上学的な観念的な論理展開は先に挙げたヴァン・ダインのそれだ。 それ以外にも古典ミステリの名作のタイトルをパロディにした、いやそのものズバリを物語のあちこちに施し、その都度ニヤリとさせられる。 そんなパラレル・ワールドの英国を舞台にしたキッド・ピストルズシリーズ。 警察が堕落し、腐敗したその世界では民間の私立探偵が活躍し、<探偵士>なる称号が設立され警察より優先的に捜査を行使できるその世界は一見破天荒に思えるが実はこのパラレル・ワールドを設定することで山口氏は本格ミステリに付きまとうある不自然さを見事にクリアしているのだ。 本格ミステリにおいて最も不自然なこととはいったい何だろうか? 密室殺人? 人智を超えた不可能犯罪? まだるこしいほどに手の込んだアリバイトリック? 確かにそれは不自然さを感じるだろうが、世の中には色んな人がおり、また予想もつかないことが起きるのが世の常であることを考えれば、上に挙げた内容も許容範囲だ。 では最も不自然なものとは何か? それは探偵が捜査に介入することだ。 この本格ミステリでは当たり前に起きている素人探偵や私立探偵が殺人事件を始めとする刑事事件の捜査に介入することは現実世界においてまず、ない。 従って世のミステリ作家たちは自ら創案した探偵たちを捜査に関わらせるために様々な工夫をして不自然を自然に見せることに腐心している。 難航した事件を偶々事件に関係した探偵が解決した。 警察の上層部が父親、もしくは親戚である。 警察の相談役となり、既に捜査に携わることを認められている、などなど。 しかし本書では無効化した警察の代わりに探偵士が捜査を行うという世界を設定することでその不自然さを見事にクリアしているのだ。 しかも事件を解決するのはそれら探偵士でなく、堕落した警官であるキッド・ピストルズであるというパラドックス。 つまり本来事件を解決すべき警察が、探偵が登場する本格ミステリにおいて道化役もしくは物語の進行役になっている不自然さを更に本書では探偵士ではなく道化役であるはずの警察が事件の謎を解くというあるべき姿になっているところに妙味がある。 あり得ない世界を設定したことであるべき捜査の在り方を描く。パラドックスに満ちながら、実は正統な事件の解き方を描くことになっていることが非常に面白い。 また同時にこのパラレル・ワールドを設定することで恐らく作者の嗜好であるパンクルックの警察官が横行する世界、それこそ山口氏が脳内で展開した新たな探偵小説、かつてないほどクールで破天荒な警官キッド・ピストルズとピンク・ベラドンナを生み出すことに成功したのだ。 デビュー作では死者が甦る世界における殺人事件の意義を問い、そして本書では探偵が警察よりも権威を持つパラレル英国を舞台に、しかも作者自身のあとがきによれば世界初のマザーグース・ミステリ連作シリーズを著した山口氏。 誰も書いたことのないミステリを、もしくは自分だけが想像する世界におけるミステリを書く、孤高のミステリ作家山口雅也氏は極北のミステリを目指しているが、それが結果的に純粋に本格ミステリにおいて探偵の存在を不自然にならないようになっている。 そして探偵の存在を肯定しながらその実、事件を警察に解決させるこのシリーズは山口氏独特のパラドックスに満ちた作品であると云えよう。 本格ミステリの異端児が放つミステリは異端な世界を描くことで実は至極真っ当な世界を描く、つまり―(マイナス)に―(マイナス)を掛けると+(プラス)になることを証明した作品なのだ。 かつて山口氏は本格ミステリの巨匠島田荘司氏を本格ミステリ界のボブ・ディランと称した。 それに倣って私は山口氏を本格ミステリ界のなんと称しようか。それはもうしばらく氏の作品を読んでから判断することにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ11作目で2016年版『このミス』第1位を獲得した作品である。
シリーズ10作目の『ゴースト・スナイパー』が初の圏外だったことでシリーズに翳りが見えたかと思えた矢先の1位獲得。俄然期待が高まった。 10作目という節目を終え、新たなシリーズの幕開けを意識したのか、本書は題名からも解るように1作目の『ボーン・コレクター』を意識しており、内容も同じくボーン・コレクター事件の影響を受けた犯人との戦いを描いている。まさに原点回帰の1作だ。 ボーン・コレクターは骨への執着が強い犯罪者だった。かつて楳図かずおのマンガでも嫌らしいのは骨の上についている肉で骨こそ美しいと述べていたが、本書のスキン・コレクターはその皮膚に執着する犯罪者だ。 さて今回の敵スキン・コレクターはなんと犯罪実話集でリンカーン・ライムについて語られたボーン・コレクター事件の項目を読み、ライムのことを熟知した敵だ。従って彼はライムが行うであろうことを想定して常にそれを出し抜く。そう、今回ライムチーム自身もまたこのスキン・コレクターの標的になっているのだ。 更に本書のテーマは毒殺である。 とにかくこのスキン・コレクター、色んな毒を駆使して被害者に襲い掛かる。 ドクゼリが採取されるシクトキシン、フグ毒のテトロドトキシン―なんとまだ治療薬がないらしい―、南米産の植物エンジェルストランペットから採れるブルグマンシア、ストリキニーネ、煙草にも含まれているニコチン、ヒ素、即死に至るホワイトコホシュという植物から採れる毒、致死量に達しなくても後遺症で精神障害と認知症を患うことになるトレメトール、タマゴテングダケという毒キノコから採取できるアマトキシンαアマニチン、ボツリヌス菌にアンチモン。 毒殺はジョン・ディクスン・カーなどが良く好んで使っていた殺害方法でつまり黄金時代のミステリの主要な殺人方法だったが。現代では廃れてしまっている。犯人がわざわざ毒殺に固執することにライム自身疑問を呈すが、私は逆にこの古典的な殺害方法を本書で用いたことで改めてディーヴァーが現代のシャーロック・ホームズシリーズと呼ばれているリンカーン・ライムシリーズの原点に回帰したことを示しているメッセージだと受け取った。 またスキン・コレクターが遺体に施す、もしくは施そうとしたメッセージもまた意味深だ。“the second”から始まり、その後“forty”、“17th”、“the six hundredth”と続く。それらは全て数を意味しているが、全くその関連性が見えない。ダイイングメッセージならぬ犯行声明であるが、これに加えて今回は各犯行現場の平面図が本書にはきちんと挿入されており、これらの趣向が本格ミステリ志向ど真ん中なのである。 さてこれらのお膳立てが整ったところでスキン・コレクターことビリー・ヘイヴンの<モディフィケーション計画>は決行へと向かう。 しかしミスリードさえも上回るリンカーン・ライムの洞察力。 しかしこれは読んでいるこちらもあまりに明敏過ぎて超天才型探偵を彷彿させて、逆に苦笑してしまうが、逆にライムはスキン・コレクターを欺く。 相変わらず怒濤のようにサプライズを仕掛けるディーヴァー。それはあまりに突飛すぎて、その場面に直面した瞬間は頭に「?」が飛び交い、理解に少々時間を要してしまう。そしてそれが本当に成り立っているのか、どうしても後でその場面を振り返る必要に駆られる。 そして本書が2016年版の『このミス』で第1位に輝いた理由が最後になって判明する。 さて今回も非常に複雑に入り組んだストーリー展開を我々読者にディーヴァーは提供してくれた。しかも2015年発表の本書では上に書いたようにかつての黄金時代のミステリを彷彿とさせる、暗号を思わせる犯罪者からのメッセージ、各種取り揃えた毒による毒殺という古典的な殺害方法といった本格ミステリ風味が前面に押し出されている。 更に昔から都市伝説のように云われていたNYの地下に網の目のように張り巡らされた地下通路を犯罪者スキン・コレクターが暗躍し、マスコミからアンダーグラウンド・マンと名付けられ、現代に甦ったオペラ座の怪人のような様相を呈している。 そしてこの“アンダーグラウンド”が民間武装組織といった米国内に数多あるテロ組織を暗示しており、彼らが掲げる白人原理主義は現在のトランプ大統領が掲げているメキシコとの国境の壁建設やイスラム教徒の入国制限といったような選民主義的主張を象徴しているようで現代に通じるものを感じる。 また本書では言葉遣いに対する描写が特に多いと感じた。ライムが“ルーキー”プラスキーにきちんとした云い回しを教えたり、ラテン語を駆使して会話を成立させたり、またアドバイザーとしてライムの捜査に協力するタトゥー・アーティストTT・ゴードンのきちんとした言葉遣い―タトゥー・アーティストはクライアントに一生残るメッセージを書かなければならないため、言葉にはかなり気を遣うそうだ―を褒めたりと折に触れ、言葉に対してライムがセンシティヴに振る舞うのが目に付いた。 更にはライムが字体の特徴についても得々と述べ、過去に脅迫状に使われていた字体から犯人を特定したエピソードまで披露されている。これはディーヴァー自身が作家として言葉の乱れを感じていることをライムに代弁させているのかもしれない。字体もまた小説の読み応えの印象を与えることで作者自身が興味を持っているのではないだろうか。 とまあ、本書もまたいつもの、いやそれ以上に様々な仕掛けを施し、読者の頭をそれこそ作者ディーヴァーが両手で掴んで前後左右へぐるぐる回しているかのような目まぐるしい展開を見せるのだが、エンタテインメントに徹しすぎて深みに欠けるように感じてしまう。 特に今私が連続して読んでいるコナリー作品に比べると、各登場人物が抱く心情に深みを感じないのだ。ボッシュの異常なまでの悪に対する執着、ハラーの何が何でも裁判に勝つためのがむしゃらさといったような灰汁の強さや登場人物たちがその選択をした、せざるを得なくなった性や背負った業というものを感じないのだ。 確かにディーヴァーの描くプロットは最後見事なまでに整然としたロジックの美しさを感じさせる。特に本書は全てが繋がり、最後の一滴まで飲み干せる美酒のようなそつのなさを感じさせるが、そこにコクを感じないのだ。 シリーズを重ねるうちに各登場人物たちが抱える問題やエゴなどがもっと前面に出てもいいのにそれがない、いや全くないわけではないが、しこりが残らない分、印象に残らない、それほど綺麗に物事が解決する、物語が完結するのである。 コナリー作品のように次はどんな風になるのだろうと読者が一種不安めいた感情を抱えて読み終わる危うさがないのだ。 これは全く以て私のディーヴァー作品を読む姿勢が間違っていると云えよう。ディーヴァー作品を読むには彼の作風を想定してそれに自分の頭を切り替えて読むべきなのだろう。だからディーヴァーにはディーヴァー作品の、コナリーにはコナリー作品の読み方をしないとこのような読後感に陥ってしまうのだ。 しかし『このミス』1位の作品は危険だ。どうしても期待値が高くなってしまい、感想も辛めになってしまう。もっと純粋に物語を愉しめるよう初心に戻った読み方をしなければと反省した次第だ。 いや、面白かったんですよ、ホントに。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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さて全3集から成るこのアンソロジーもとうとう最終巻を迎えることになった。本書の編集序文には第1,2集が日本側からの提案だったのに対し、この第3集がクイーンから自発的に編纂の申し出があったことが記されている。クイーン自身の序文でも日本のミステリが英仏作家に影響を与える日はそう遠くないとまで述べているから、クイーンも日本ミステリ作家の実力を認めたことになる。
そしてそれまでの編集方針と異なり、本集では前2集と『日本文芸推理12選&ONE』に選ばれなかった作家の作品を意図的に選出してクイーンの眼鏡に適った物を集めるという方式が採用されている。その内、仁木悦子氏は辞退をしたらしいが。 しかし松本清張氏だけは当時のミステリ界の第一人者であり牽引者として別格扱いとして彼の作品だけが選ばれている。つまり清張作品のみが全3集に収められていることになる。 まあ恐らくは社会派推理小説という新たなジャンルを創設者であり、それによってカッパノベルスが爆発的に売れたため、版元の光文社は松本氏に足を向けて寝られないのだろう。それだけでなく、松本氏の当時の推理文壇における影響力の強さも窺える内容ではある。 さて前講義はこれくらいにして選出された12編の感想に移ろう。 本書の冒頭を飾るのはやはり件の松本清張作品。「箱根初詣で」は年の離れた夫と共に箱根へ泊りがけで初詣に行った夫婦のあるエピソードが語られる。 清張作品にしてはそれまでの収録作と比べても16ページと比較的短い作品で、内容も警察の捜査が絡まない、ある女性が過去に遭遇した前夫を亡くした海外出張での事件の真相についての回想録である。 会社から出張中の夫が交通事故に遭ったと連絡を受け、他の2人の妻と現地へ飛ぶ。対応した部長や社員たちの面持ちから事態は思った以上に深刻であると受け止めた3人は一方でもし亡くなっていた場合は業務中での死亡ということで賠償金などを大量にせしめてやりましょうなどと話す。 現在海外赴任中の我が身にとってもこれは身につまされる話だ。この手の話が海外ではゴマンとあるからだ。海外出張者が出くわした事件に人間心理の綾を巧みに混ぜ込むあたりに清張氏の作家性を感じさせる。 ただ前の2つの収録作に比べると佳作ではあるが、選出されるほどの出来かというとそうでもないような気がする。もっといい短編があったと思うのだが。 さて次からが全て初収録の作家たちである。 まず先陣を取るのは生島次郎氏。日本ハードボイルド界の巨匠による「時効は役に立たない」は皮肉の効いた1編だ。 成功者の暗い過去。忘れかけた頃にそれは再び甦る。よくある話だ。10年の歳月は今ではそう遠くない話で私は昨日のことのように思い出せる。悪いことはできないものだ。 結末は実に皮肉で上手い。悪は結局栄えないのだ。 そういえば今まで収録されていなかったのが不思議なくらいの大御所、赤川次郎氏の登場だ。「沿線同盟」は“奇妙な味”系のミステリだ。 さすがは大御所。実に上手い。郊外で念願のマイホームを建てた中小企業のサラリーマンという典型的な郊外族の夫婦を主人公に、周囲の住民の、どこか忌避されているような不審な行動や腑に落ちない嫌がらせめいたお節介。更に何者かから掛かってくる新居を出る様に脅す電話と読者を謎から謎へと牽引する。 これはいわゆる村社会では起こりうる話なのかもしれない。典型的な日本人の姿を描き、そして誰もが心の奥底に抱いているような不平不満を動機としているところ、つまり我々読者に似た人たちが登場することで物語の妙味が増すのである。 最後に明かされる住民たちの意外な真意と余韻を残す結末も含めて21世紀の今でも『世にも奇妙な物語』でドラマ化されてもおかしくない出来栄えの1編である。 次もそういえばこの作家を忘れていたと思わされた。栗本薫氏である。多才な作風の彼女の作品の中で選ばれたのは意外にも「商腹勘兵衛」という時代小説だ。 何とも切ない話である。主君への忠義心を示すために腹を切る追腹。その一員に選ばれた50過ぎの男やもめの侍。 しかしそんな矢先に現れた16歳の小娘は彼の生活に潤いをもたらす。 年の離れた男と女の純愛と戒律の厳しい侍たちの選ばざるを得なかった追腹と云う風習。そんな時代が生んだ悲劇。 そして何よりも本作は51歳の侍、原田勘兵衛に惚れる16歳の腰元奈美に尽きる。恐らく原田勘兵衛は母性本能をくすぐるタイプなのだろう。そんな年の離れた男に惚れた若い腰元は一緒になりたいがために自ら口説かれたと噂を広め、そして本願を成就する。勘兵衛がこの奈美と一緒に暮らした1ヶ月間はそれまでの人生を凌駕するほど楽しかったと云うがこれは本当だろう。夫への愛を最後まで貫こうとする一途さ。私はホントこんな女性が出てくる作品に弱いのだ。 しかしクイーンはこの作品を十分に理解したのだろうか。 理解していてほしい。 短編の名手である戸板康二氏もまた今回が初選出。「山手線の日の丸」はある老人の復讐譚だ。 中学の元習字の先生で週3回書写のアルバイトをして娘と2人で暮らしている、どこにでもいる老人と娘の父子家庭。そんな素朴な家族に突然訪れる娘の死。今まで普通の暮らしをしていた老人が娘の復讐のために娘の自殺の原因となった男の復讐を胸に誓う。 こう書けばノワール的な物語を想起するが戸板氏の筆致はあくまで素朴であり、復讐を誓う父親も炎を滾らせるような情念を見せるわけでもない。そう、これはごく普通の男の不器用な完全犯罪物語なのだ。 次も短編の名手である。阿刀田高氏の「趣味を持つ女」は読者の予断を軽く上回ってみせる。 さすがショートショートから長編まで器用にこなす技巧派阿刀田氏。何処かへの葬式に参列する奇妙な中年女性を香典泥棒と見せかけておいて、読者の想像の斜め上を行く真相を用意してくれた。 しかしこの野口京子の風情があまりに淡々としているので最後に彼女の狙いが明かされるとどこか薄ら寒い気配を感じてしまった。やはり女性は恐ろしい。 本書で選ばれた作品のうち、女流ミステリ作家の手になるものは栗本氏とこの小泉喜美子氏2人のみである。「被告は無罪」は都会風の香りを感じさせるミステリだ。 私は世評高い小泉氏の作品をさほど高く買っていないことをまず正直に告白しよう。彼女の作品を直接読んだことはないがP・D・ジェイムズやレンデル作品を翻訳を通じて読んだ彼女の文体がどうも素人に毛が生えた程度にしか感じなかったからだ。 そんな先入観で読んだ本作は今までこのアンソロジーで読んだ作品の中で一番軽く感じた。 見開き2ページに渡って過不足なく情報が、登場人物の心情が語られる他の作家たちの熱量に比べ、2時間サスペンスを感じさせる90年代のトレンディドラマのような軽さを覚えるカタカナを多用した本作は重みに欠け、すっと流れてしまった感がある。 例えば日本を舞台にしながらジャズバンドのメンバーを登場人物にしているだけでそれぞれの名前を外国人のファーストネームで呼び合う趣味の悪さ、作者自身がお酒好きで新宿のゴールデン街に通っていたこと、さらに酒に酔って階段を踏み外し、落ちてそのまま絶命してしまったことを知っているだけに殊更酒が作品の中心になっている事。 それらを含めても他の作品と一段落ちると云わざるを得ない。もっと他にいい作品があっただろうにと思われた作品だった。 この人を忘れてはならないという作家がいる。それは都築道夫氏だ。「小梅富士」は彼の代表作「なめくじ長屋のセンセー」シリーズのうちの1作である。 実はこの作品、今読んでいる北村薫氏のエッセイ『ミステリ十二か月』でつい最近紹介されたばかりだった。実に奇遇である。そしてその北村氏の評判通り、本作は傑作である。 わざわざ部屋の中に大人が複数抱えないと持てないほどの大きさの庭石を担ぎ込んで寝たきりの老人を殺すと云う実に不可解な謎が鮮やかに論理的に解かれるのである。 全てが綺麗に落ち着くところに落ち着く、ロジックの美しさ。本家クイーンもこれには満足したに違いない。 栗本氏に続く時代物で、その作品雰囲気を十分楽しめるほどの翻訳がなされたかは不明だが、そんなことも些末に思えるほどのロジックの妙味を味わえる作品だ。 次はどちらかと云えば本格ミステリよりも国際謀略小説家の傾向が強い伴野朗氏の「草原特急の女」は作者らしく北京とモスクワを結ぶ草原特急の車内が舞台だ。 ユーラシア大陸を横断する長距離列車内で起こる事件は伴野氏ならではの反政府組織から託されたある荷物を届けることだった。一介の歴史学の講師がこのような事件に巻き込まれるのは現在海外で赴任している私にしてみれば非常に浅慮としか思えないのだが、よほど彼に荷物を託した中国人女性が美人なのだろう。 この大陸間鉄道に中国人、ロシア人、トルコ人、ドイツ人、チェコ人といった様々な国の人物が乗り合わせているのは面白いが、日本への観光意識が高まった昨今の外国人旅行客が多数新幹線に乗り合わせているのを目の当たりにしている現代では容易に想像がつく。そう、今の日本もそんな状態だ。 作者的には不穏な国際情勢の只中に放り込まれ、KGBからも睨まれることになった歴史学講師の責任の重さをミスリードにしたのかもしれないが、想像の範疇であった。 このような作品もクイーンは選ぶのだなあと感心した次第。 かつて小学生の頃、私は藤原宰太郎氏の推理クイズ本をよく読んでいたが、そこに多く語られていた作家の1人が斎藤栄氏だった。彼の「天女脅迫」が12席の1席を占めることになった。 相模原市と千葉市の市外局番が非常に似通っていることに着目したアリバイトリックの秀作だ。これに気付いた時の作者の喜びようが目に浮かぶようだ。 ただ本作は登場人物に好感が持てない欠点を抱えている。探偵役を務める市長秘書の徳井はかつての上司に辛酸を舐めさせられた恨みから、犯人であることを突き止めて元上司が焦り、恐怖する様子を見たいという不純な動機が占めており、しかも被害者の姪の女性が美人であることに気付くと、どうにか手籠めにしたいと欲望を剥き出しにする。 本書は刊行は82年だが、その頃の推理小説に蔓延していた下世話なエロスを盛り込んだ大衆小説という風合いが色濃く、トリック及び真相には驚かされたものの、登場人物の誰もが自己本位で自分勝手であることで全く好感が得られなかった。 次は菊村到氏の「妻よ、安らかに」はよくある浮気相手と夫が妻の殺害計画を目論む話だ。 よくある男女の愛の縺れから殺人計画に発展する典型的なワイド劇場的内容のミステリである。 しかし愛人が死に、自分を脅迫する者が現れても、その男もほどなく死ぬと云う風になぜか主人公の都合のいいように事態は転がっていく。この辺の展開は意外で面白い。 この主人公、しがない安月給のサラリーマンでありながら、逆玉の妻を娶ったり、バーのホステスほどの美貌を持つ若い看護婦に惚れられて愛人を持ったり、更には邪魔者が悉くいなくなったりと実に運がいい男なのだ。 しかし菊村到氏という作家は寡聞にして知らなかった。芥川賞作家でもあるが、今ではほとんどその作品は絶版状態で入手不可なのだろう。ここにも1人、消えてしまった作家がいた。 最後を飾るのは巨匠小松左京氏の「共食い―ホロスコープ誘拐事件」。どちらかと云えばSF作家の印象が強い氏だが本書は入り組んだ特殊な誘拐事件を扱っている。 恋人を誘拐された男が強要されて富裕な実業家の息子を誘拐するが、その家族全員が誘拐されていたという実に奇抜な設定。しかもそこから更に展開は複雑になっていく。 どんでん返しを繰り返すあまり、どうにも訳が分からなくなってしまったきらいがある。 個人的にはどうにも不可解な謎がある一言で明快になると云うシンプルかつ爽快な謎解きが好みなので単純に作者の趣味に走った感があり、残念な読後感が残った。 前巻の感想で私は12作家中6人が第1集の選出者と重なっていることから当時のミステリ作家の実力差がかけ離れていたのではないかと書いたがそれはあながち間違いではなかったようだ。 今回読んで率直に第1、2集の方が総合的に質が高かったという思いを強くした。 上に書いたように、今回は選者であるEQJM委員会が松本清張氏を別格として他の11人の作家全てを初選出の作家に選んで本書が編まれているわけだが、全てが上の評価に落ち着くものではなく、勿論実力が拮抗している作家も存在する。それらについては後述するが、それは片手に数えるほどしかいなかったと云うのが本音だ。 前2集で見られた物語の濃密さや登場人物の泥臭さ、体臭さえも感じさせる灰汁の強さが非常に薄く感じられたのだ。 本書での短編の選出方法は前2集が対象期間内の全短編から厳選された作品を翻訳してクイーンに送った手法を取っていたのに対し、今回は作家別に1975年以降の発表作から作者本人の自選も参考にして委員会が最も優れたものと思った作品を翻訳して随時クイーンの許に送り、同意を得た作品が収録されている。 つまり本集ではまず作家ありきで始まっているところと、随時送られている作品がクイーンにとって面白ければOKというところが異なるのである。 この方法はやはり全体としての質を下げたように思える。やはり一時に候補作を送って、そこから絞り込んで選出するやり方、つまり相対評価が必要なのではないか。1つ1つの作品の出来を認めるのみではある程度の瑕疵があっても許容範囲ということで点数が甘くなってしまうと思うからだ。それは収録作の出来と質を見れば明らかであろう。 さてそんな第3集でも恒例どおり本書におけるお気に入りを挙げることは出来る。それは赤川次郎氏の「沿線同盟」、都築道夫氏の「小梅富士」の2作だ。 赤川氏の作品はその読みやすさと21世紀の今でも通じる普遍性を伴っており、全然時代性を感じさせない。せいぜい挙げるとすれば携帯電話がない時代であるくらいだ。 片道約2時間かけてまで欲しかった念願のマイホーム。同じ町内に住む限られた人々。そしてそこに住む人たちがいつの間にか共有するようになった同族意識と排他主義。典型的なサラリーマンの都心生活形態を描きながら、地方の村社会を思わせる閉鎖性を歪んだ形でミステリへと味付けした手際は実に素晴らしい。 「小梅富士」はアメリカ人のクイーンにとって造詣が浅いであろう時代物だが、大きな庭石の下敷きになって寝たきりの老人が圧死しているという奇抜な謎とそれを実に違和感なく論理的に解き明かす本格ミステリの妙味を存分に味わえる傑作だ。いやあ都築氏の作品はさほど読んだことないが俄然興味が沸いてきた。 そして今回の個人的ベストは栗本薫氏の「商腹勘兵衛」だ。 栗本氏の作品は意外や意外の時代物だが、その文体や作品が醸し出す雰囲気はもはや時代小説作家そのものといっていいほどの出来栄えだ。その才能のマルチぶりに驚かされるが、本書は何よりも内容がいい。 とても微笑ましく、そして哀しいのである。私は常々健気な女性が出てくる話に弱いと云っているがまさにこの作品はど真ん中だった。16歳の腰元が51歳の侍に惚れるという設定とそのために自ら口説かれたと噂を流す茶目っ気など、私の心をくすぐる内容満載なのだ。そして切腹する夫よりも先に自害する愛情の深さを見せる純粋さも兼ね備えている。久々に泣けた。 しかしそれでもこうやって挙げてみると物足りなさを感じてしまう。第1集ではお気に入りを3作、ベストを1作挙げ、第2集ではお気に入り3作、ベスト3作と豊作だったのに比べるとやはりトーンダウンは否めない。 このアンソロジーが第4集を編めなかったのは恐らく選者のフレデリック・ダネイ氏が1982年に亡くなってしまったからだろうが、最後を飾るにはその出来は少しばかり寂しい限りだと思わざるを得なかった。 ところで本書を読んで少しばかり気になったことをここでは挙げていこう。 伴野朗氏の「草原特急の女」によればモンゴルの法律では男女とも18歳になっても独身の場合と結婚して1年以上子供がない場合では月収の2%が罰金として徴収されるらしい。これは日本でも是非とも導入してほしい制度だ。 18歳になっても独身は生き過ぎだが、せめて30歳になっても独身の場合は同様の制度を強いるべきだ。 子供についてもそうだ。少子化社会、高齢化社会を促進させ、社会制度の歪みを生み出しているのにもかかわらず、今日、日本は生活と価値観の多様性を盾に子供を作らない家庭や独身主義を貫く男女を承認する傾向がある。 多様的な考えを認めるのは是だが、それにはある程度痛みを、リスクを伴う必要があると考える。誰もが自分さえよければの精神が強すぎるのではないか。 こういう昔の作品を読むことで現代の社会問題を解決する術も見つけられることに気付かされる。 あとクイーンの序文に日本ミステリの現在が示唆されていることに驚きを感じた。 クイーンは本書の冒頭で、シャーロック・ホームズがポーの生んだ名探偵オーギュスト・デュパンの影響を受けているように、シャーロック・ホームズもまた後世の刑事物、素人探偵物からハードボイルドに至るまで影響を与えており、そしてフランスのミステリから英国の作家は影響を受け、アメリカの作家は英国の作家から影響を受け、更に英仏の作家はそのアメリカから影響を受け、と環を成してミステリはお互いに影響を与えながら発展してきたと書いている。そしてそれら海外のミステリの影響を受けて発展した日本のミステリもまた将来米英仏の作家に影響を与えるに違いないと断言している。 まさにこれが21世紀の今起こっているのだ。本格は“Honkaku”という英語にまでになり、黄金期のミステリを彷彿とさせるトリックとロジックを駆使した本格ミステリが逆輸入的に今世界のミステリシーンで復興しようとしているのだ。 本書は1982年刊行のアンソロジー。つまりそれから37年を経てこのクイーンの予言が実現しているのだ。 昔の小説を読むことの意義を感じた次第だ。 そしてまた第2のクイーンとなる新たな選者を海外に見出し、また日本の優れた短編を紹介する機会を作るべきではないか。 平成の時代に本書のような海外のミステリ作家による日本人作家のアンソロジーが編まれなかったのは今更ながら悔やまれるが、新しい元号を迎える今こそ相応しい時なのかもしれない。 21世紀の日本ミステリ作家たちが更に世界に羽ばたく一助をどこかの出版社が担ってほしいものだ。それだけの作品が既に蓄積されているのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン弁護士シリーズも早や3作目である。
前作がボッシュとの共演だったら、なんと本書ではそれに加えて彼の元妻マギー・マクファーソンとも共同で仕事をする。更になんと今回ハラーは弁護士でなく特別検察官として雇われ、DNA鑑定によって判決破棄された24年前の犯罪で逮捕された少女殺害犯の有罪を勝ち取るためにマギーを補佐官、ボッシュを調査員として雇い、チームとして戦うのだ。しかもそれぞれの関係が元夫婦、異母兄弟と微妙な繋がりがある奇妙な混成チームであるところが面白い。 しかし彼らに共通するのは年頃の娘を持つ親であること。ミッキーとマギーは2人の間に生まれたヘイリーがおり、ボッシュは前作『ナイン・ドラゴンズ』で一緒に暮らすようになったマデリンがいる。彼らのこの同族意識が勝ち目のないとされる少女殺害犯の有罪判決への道を歩ませたと云える。 前作でボッシュを中国警察から救ったミッキーはお互いの娘を逢わせることを提案し、それをボッシュは保留していたが、一緒に出張に行ったマギーからも同様の提案をなされ、その押しの強さとボッシュが幸せな人生を送ってきていないことを見透かされ、とうとう2人を引き合わすことを約束させられる。 しかしよくもまあこれほど面白い設定と行動原理を考え付くものである。全くいつもながらコナリーの発想の妙には驚かされる。 しかもこのチーム、実にチームワークがいいのだ。 ボッシュはそれまで培った刑事の勘を存分に発揮し、24年前の事件関係者を次々と捜し出す。マギーは女性ながらの心遣いとベテラン検事のスキルで以ってミッキーをサポートし、ミッキーもまた百戦錬磨の弁護士生活で培ったノウハウを検察側に持ち込み、裁判を有利に持ち込むことに腐心する。 お互い我の強い性格でイニシアチブを取るのが通常の3人であったので、自分の主張を通すことに執着し、常に意見が割れて反発ばかりするかと思いきや、実にバランスよく裁判の準備が進んでいく。この過程は読んでいて実に面白かった。 刑事弁護士であるミッキーが慣れない検察側の立場で振る舞うとき、元妻マギーのサポートが心の支えになる。第1作目ではこのマギーとミッキーの2人の物語が大半を占めていたが、第2作目では2番目の元妻で秘書のローナとのやり取りがかなりのウェイトを占めており、マギーはほとんど出なかったが、ミッキーとの相性はどちらも甲乙つけがたい。奇数巻と偶数巻でコナリーはミッキーの相棒を今後も務めることを考えているのだろうか。 また本書では我々一般市民に馴染みがない法曹界や警察の業界裏話を知ることも読みどころの1つとなっているが、本書で特に印象深かったのはボッシュとマギーが飛行機で被害者の姉セーラの許へ向かう際、キャビンアテンダントからファーストクラスへのアップグレードを促されるシーン。これには驚いた。警察関係者や検事はその正体が知られると実際にこのような優遇措置があるのだろうか。なかなか興味深いシーンだった。 しかしなんといってもやはり本書の読みどころは上述のように共通して子を持つ親、娘を持つ親であるところだろう。従って通常ならば被告人の弁護側の人間であるミッキーが少女殺しの疑いのある依頼人を娘を持つ身でありながら無罪を証明する立ち位置を強いられるのに対し―それはそれで大いなる葛藤を呼び、ドラマとしては面白いのだが—、特別検察官として雇われるというアクロバティックな設定ゆえに原告側の代理人となり、検察官の元妻マギーと異母兄弟のボッシュと同じチームとしておぞましい犯罪者の手から娘を守ると云う強い意志を共有しているところが読んでいて非常に楽しく、面白いのである。 しかしボッシュも変わったものだ。メカ音痴であったのに、今では娘に習ってパソコンも使い、検索機能で行方知れずとなった被害者の姉を捜し出し、そして娘には定期的に携帯でメールを送って会話するようになっている。 ただ前作の終わりに懸念したように、本書は『ナイン・ドラゴンズ』の事件から4ヶ月が経過しているとの設定だが、既にボッシュとマデリンとの生活はギクシャクしたものを覚えており、ボッシュは忙しいながらも娘といる時間を増やそうと腐心している。もう夜中に暗い部屋でただ1人でジャズを聴きながらベランダで黄昏るようなことはしないのだ。 そしてそれは前作を読了後に懸念したように更にボッシュにとって足枷となる。護る者を持ったボッシュはそれまでのように自分1人だけを護ればいいのではなく、娘マデリンも脅威から護らなければならなくなったからだ。 連続少女殺人鬼と目されるジェイスン・ジェサップ。彼がDNA鑑定の結果で一旦釈放された後、ボッシュを含めミッキー達は必ず刑務所に戻すことを誓う。悪人はすべからく罰せられなければならないと常に思うボッシュは自分の娘が同じ目に遭わされることを思うとその思いも一入で、ジェサップに対して明らさまに攻撃的な態度を取る。 しかしそのジェサップが自分の家の前にいたことを知るとパニックに陥る。なぜならそこには娘マデリンがいるからだ。 つまり常に狩る側にいたボッシュが娘という護るべきものを得たことで狩られる側にもなることになったのだ。 それはある意味初めてボッシュが得た弱さかもしれない。 犯罪者どもを相手に心を、魂をすり減らす仕事の中で娘との電話やメールのやり取りは癒しであるが、同時にそれを喪う怖さを得たことになったのだ。ジェサップが自宅に来たことを知ってからのボッシュの戸惑いと疑心暗鬼ぶりは尋常ではない。一匹狼で我が道を行く無双のボッシュを我々はこれまで見てきたが、親としての弱さを持つようになった新たなボッシュの今後が気になるところだ。私は同じ子を持つ親として彼に今まで以上に親近感を覚えるようになった。 この同じ価値観を所有する3人は実に絶妙なチームワークを見せ、手練手管で迫る練達の弁護士クライヴ・ロイスの攻撃を一歩一歩クリアしていく。 このコナリーが描くリーガル・サスペンスはロジックや裁判での検察側、弁護側そして判事たちを取り巻くロジックと巧みな人心操作術による天秤の傾きを愉しむだけでなく、評決間際で突然アクションの味付けが濃くなるところに特徴がある。 そしてそこからはボッシュの独壇場だ。悪を野放しにすることを許さないボッシュは獲物を追うコヨーテと化す。 娘のことを案じながらも絶対悪と信じていたジェサップにプレッシャーをかけ、そしてその正体を現せばその心理を読み解き、地の底まで追いかける。ミッキーとマギーが知の戦士ならばボッシュはまさに力の戦士だ。 そんな柔と剛を併せ持つチームが辿る結末はしかし苦いものだった。 奇妙な縁で結ばれた3人は再びそれぞれの道へと歩む。ボッシュは犯罪者を追いかけ、マギーは犯罪者に引導を渡し、ミッキーは被告人を無罪にするためにリンカーンで奔走する。 しかし再びこのチームはまた戻ってくるに違いない。それぞれの立ち位置は本書とは異なるかもしれないが、今やお互いの娘を引き合わせた縁で結ばれた絆はそう簡単には断ち切れないだろう。 悪が成敗されたのにこれほど爽快感がない物語も珍しい。コナリーはアメリカ法曹界が孕む歪みを巧みに扱って我々読者を牽引しながら、最後は渇いた地平へと導いた。 しかしそれでも本書は清々しい。それは子を持つ親たちがそれぞれの立場で最大限に尽力し、真摯に悪に立ち向かった物語だったからだ。 父親と母親は子を護るためなら必死になる。子供たちの知らないところで親たちはこんな戦いをしているのだ。 同じ娘を持つ親であるコナリーはもしかしたら自分の娘にこの話を届けたかったのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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真賀田四季13~14歳の物語。妃真賀島にて真賀田四季研究所の建設が始まったのがこの頃。
そして13歳は思春期の始まり。感情に流されない左脳型天才少女は生まれてすぐに自我に目覚め、このような右脳型思考とは無縁だと思われたが、やはり彼女も人間。人を好きになるという感情、綺麗と思うこと、後悔することを意識し出す。そう感情の揺れを感じるようになる。そのことについてはまた後ほど述べよう。 まず前作から本書に至って語られるそれぞれの登場人物たちのその後は以下の通りだ。 まず四季の世話役をしていた森川須磨は3ヶ月前に交通事故で死亡。泥酔し、歩道から車道に飛び出したところをトラックに撥ねられたのだ。しかし四季はこの事件に作為的な物を感じて、もはや四季の片腕となった各務亜樹良に事件の調査を依頼している。 四季の両親左千朗と美千代は夫婦仲が冷え切り、間もなく離婚しようとしている。 叔父の新藤清二は現在も親交が続いており、その関係性は更に深さを増している。 そんな背景の中、真賀田四季生い立ちの記とも云える4部作の第2部である本書では前作にも増してそれまでの森作品の登場人物が出演し、それぞれのシリーズの“その前”と“その後”が語られる。 そう、S&MシリーズとVシリーズの橋渡し的役割が色濃くなってきている。 そしてそれら登場人物たちの、それぞれのシリーズにおいても明確に語られなかった秘密や心情が真賀田四季のフィルタを通して更に詳しく語られる。それが実に面白い。 本書で初めて喜多北斗と犀川創平が登場する。 2人は高校生であり、犀川創平は高校に近いとの理由で父親の許で暮らしている。犀川創平と喜多北斗はN大の図書館で瀬在丸紅子と出くわすが彼女のことを母親と喜多には紹介しない。 保呂草潤平と各務亜樹良は遊園地で催されるヨーロッパ美術品の展覧会である物を盗み出すことを計画している。そして保呂草はその盗みを最後にしようと考えている。 それを阻止しようとするのが那古野署の祖父江七夏。彼女は保呂草を捕まえんと遊園地の警備責任者に抜擢されている。 そんな中たまたまその遊園地を新藤清二と共に訪れていたのが真賀田四季。彼女は保呂草とカップルに扮して変装した各務亜樹良に気付き、彼女に話しかける。 本書のメインはこの保呂草と真賀田四季の邂逅だろう。 更に保呂草の美術専門の窃盗犯である所以もまた明らかになる。 瀬在丸紅子は真賀田四季にその才能ゆえに仲間になって四季のプロジェクトを完成させるのを手伝ってほしいとオファーされるが、それをやんわりと断る。 またロバート・スワニィという新たな人物も登場する。彼が四季にどのように関わるのかは今後の物語で明らかになるのだろう。 夏は情熱の恋の季節と云う。 類稀なる天才少女真賀田四季もまた例外なく思春期を迎え、そして恋に落ちる。それは冷静でありながらもどこか破滅的、そして天才らしく冷ややかに情熱的な恋だった。 また四季が子供を欲しいと思ったきっかけが瀬在丸紅子であった。彼女が認めた天才の一人、瀬在丸紅子は子供を産んだことで全ての精神をリセットしたと四季は理解した。 彼女は今まで出逢った人の中で瀬在丸紅子こそが自分によく似ていると感じていた。しかし彼女は紅子のように自分はリセット出来ないだろうと考えてはいたが、何かを忘れるという行為に憧れていた。そして紅子と同じように好きな人の子供を作れば何かが変わると思ったのだ。 四季が愛を交わしている時、エクスタシーに達する瞬間、彼女の中の全ての意識が、思考が全て停止するのを体験した。 しかし彼女はやはり情よりも理で生きる女性だった。妊娠をする、子供を産むという行為は本来であれば祝福されるべきなのにそれにショックを受ける両親が理解できない。 第1作『すべてがFになる』で語られていた少女時代の殺人が本書によって描かれるのだ。 考えるだにおぞましい人生だ。 しかしその理路整然とした思考と態度ゆえに、森氏の渇いた、無駄を省いた理性的な文体も相まってその存在は血の色よりも純白に近い白、いや何ものにも染まらない透明さを思わせ、澄み切っている。 彼女は平気で死について語る。それはまさにコンピュータで使われる二進法、0と1しかない世界のように実に淡白だ。生と死の間に介在する人の情に対して彼女は全く頓着しない。必要であるか否かのみ、彼女の中で選択され、そして判断が下される。 そんな彼女の話はまだ秋、冬と続く。それ以降を知る私たちにそれまでの彼女を教えるかのように。 いや更に我々の知らない四季のその後へと続くだろうか。 このシリーズはそれまで謎めいた存在だった真賀田四季という女性について知るための物語であるのに、近づいたかと思えば、読めば読むほど彼女の存在が遠くなる気がする。 冬に辿り着いた時、真賀田四季は一体どこに立っているのだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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(24件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
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アメリカの警察小説のシリーズ物ではアクセント的にアジアのマフィアもしくは悪党と主人公が対峙するという話が盛り込まれるようだ。ディーヴァーの『石の猿』然り。
アメリカ人にとって独特の文化でどこの国でも根を下ろして生活するアジア圏の人々、殊更中国人というのは実にミステリアスな存在であり、また中国マフィアが世界的にも大きな犯罪組織であることから、西洋文化と東洋文化の衝突と交流というミスマッチの妙は題材としては魅力的に映るのではないか。 ボッシュシリーズ14作目の本書はボッシュもアジア系ギャング対策班、AGUの中国系アメリカ人捜査官デイヴィッド・チューと組んで中国系マフィア三合会を相手にする。 しかしコナリーが凄いのは単に事件を介して中国系アメリカ人や在米中国人たちの文化や生活、思想に触れることでの戸惑いを描くことで作品に興趣をもたらしているだけでなく、中国系マフィアとの戦いに主人公ボッシュが必然的に深く関わるように周到に準備がなされていたことだ。 ボッシュの前妻エレノアが娘マデリンを連れて香港でプロのギャンブラーとしての生活をするのが11作目の『終決者たち』で説明がなされている。それ以降、作中では香港にいる娘との連絡を時折していることが触れられており、途中2作を経てLAに住むボッシュが在米中国人に起きた事件を捜査することで中国文化圏で生活する彼女たちに危難が訪れる本書を案出するのだから、全く以てコナリーの構想力には畏れ入る。 まず本書でボッシュが6年間香港への通い夫を務めていたことが明かされる。年に2回香港に行き、娘と妻と逢い、そしてその年には娘1人でLAを訪れ、2週間色んな事をして街を散策して過ごしたことも描かれている。娘を香港に帰した瞬間は心にぽっかり穴が開いたような思いがしたとも。 次の逢瀬を待ち遠しく思いながら年月を過ごすボッシュの述懐も書かれている。 そんな娘煩悩なボッシュに訪れるのが担当した事件の容疑者、三合会というマフィアの構成員を逮捕したことによる代償としての娘の誘拐。しかも自分の手の届かない香港という異文化都市。 これは子を持つ親ならばこれ以上ない恐怖であることが解るだろう。不屈の男ボッシュもまたその例外ではない。 人は護るものが出来ると強くなる。 しかし同時に護るものが出来ることで弱くもなる。 護るものが出来るとその人にとって支えが出来る。どんな苦難に陥っても護るものがあることでそれを乗り越える原動力となるのだ。自分を必要としている人がいることで心に一本の芯のようなものが出来る。 一方で護るものはそのまま弱点ともなりうる。自分の支えとなっているものを失うことで人は弱くなる。、自分を必要としている人は即ち自分が必要としている人だったことに気付かされ、それを失うことが恐怖に変わる。 ボッシュは自分の娘マデリンを授かった時に自分が救われたと同時に負けたことを知ったと云い放つ。自分が悪に対して異常な執着心を持って立ち向かうためには弱みのない人間でないといけないと思っていたが、娘が出来たことでそれが一転する。 娘は彼にとってかけがえのないとなった瞬間、弱点になったことを。刑事という職業に就く人間はおしなべてこのような想いを抱いているのだろう。 娘を誘拐されたボッシュの焦燥感は子を持つ親ならば誰もが理解できる気持ちだ。 特にボッシュが娘を持つようになったのは作者コナリー自身が娘を持ったことで得た気持ちをそのまま反映しているからだ。従って本書でボッシュが抱く、云いようのない恐怖感はそのまま作者が同様の状態に陥った時に抱くであろう心持と同義なのだ。 従って本書はこのマデリン誘拐をきっかけに静から動へと転ずる。 愛娘を誘拐されたボッシュの焦燥感と三合会への怒りをそのまま物語のエネルギーに転じ、コナリーはボッシュを疾らす。ボッシュ自身常に動いていないとダメだと常に口に出す。それは誘拐事件が発生からの時間が長引けば長引くほど解決する確率がどんどん低くなるからだが、やはりここはボッシュが娘の安否に対して気が狂わんばかりに焦っているからだ。 彼は地元の香港警察の三合会対策課の手を借りようとも思わない。誰が三合会と通じているか解らないからだ。 彼は妻エレノアの協力も疎ましく思う。自分で招いた種をどうにか回収したいからだ。 彼はエレノアの新恋人サン・イーの協力も疎ましく思う。 彼はAGUのデイヴィッド・チューへ協力をお願いするのも躊躇う。チューもまた情報漏洩者と疑っているからだ。 彼はとにかく動く。直感的、本能的な行動力はエレノアをして一匹狼のように置き去りにして動かないでくれと詰られるほどに。 撃ち込まれた一発の銃弾。ボッシュはかつてエレノアのことをそう呼んだ。どんな女性と付き合おうが最後はそこに帰っていくボッシュにとっての不変の存在がエレノア・ウィッシュという女性だった。 彼女は今回ボッシュが担当した事件のせいで自分の娘が誘拐されることになったことを知り、ボッシュを激しく非難し、今後の娘との2人の時間を作ることは許されないとまで云われながらも、ボッシュはその怒りでエレノアがこの困難に立ち向かえるのなら甘んじて受けようとまで思う。 エレノアはボッシュ程にはボッシュのことを強く思っていないように見え、更には仕事で知り合ったボディガードのサン・イーという新たな恋人が出来たことを目の当たりにしてもボッシュは最後には2人は一緒になるのだという、離れがたい絆を感じていた、それがエレノア・ウィッシュという女性の存在だった。 娘を亡くした時に自分は今後生きていけそうになくなることを意識し、ボッシュはこの未知の地香港で残されたサン・イーに協力を求める。同じ女性を愛したこの男を信頼し、相棒となるのだ。 本書はこの相棒の物語とも云っていいだろう。 まずは前作から引き続いてボッシュの相棒を務めるイグナシオ・フェラス。 しかし彼は前作で捜査中に負った負傷がトラウマとなり、事件現場に行くよりも刑事部屋で事務仕事、書類仕事をしていることを選ぶ。3人の子供の子守疲れを理由にし、午後3時40分から帰り支度をはじめ、定時に署を出る、典型的なサラリーマン刑事となっている。担当する事件があるのに週末は病気だと称して家にいて、上司のギャンドル警部補からも役に立たなかったと云われる始末。しかも自分の思い込みで犯した捜査のミスをお互いに擦り付け合う、実に下らない刑事に成り下がってしまっている。 ボッシュはこの事件の後、コンビ解消を上司に依頼することを決断する。 このフェラスに変わって実質的に相棒を務めるのが、中国人殺害事件で援助をしてもらうことになったAGUのデイヴィッド・チュー刑事だ。アメリカ生れながら両親の教育で中国語を話すこの刑事もまたボッシュに全面的な信頼を置かないでいる。 というよりもこれはボッシュの、初対面の相手に対する疑い深い性格から来ており、チュー刑事は読者の目から見ても着実に任務をこなす実直な刑事として映る。 彼はボッシュが中国人を見る目に差別的な物を感じとる。事件の主導権を常に握り、あまり情報を共有しないボッシュの態度も含めて彼はボッシュがかつてヴェトナム戦争に出兵し、ヴェトコンを多数殺害したことに由来してアジア人をそのように見ているのではとまでボッシュに云い詰る。 しかし彼はそんな蟠りをボッシュに持ちながらもボッシュの無理難題にきちんと対応する、生粋の刑事だ。 そして香港で相棒を務めるのがエレノアの恋人サン・イー。最初ボッシュは彼から三合会に情報を洩れることを恐れて排除しようとし、ほとんど信用せずに運転手としてしか扱わないが、同じ女性を愛した者として、ボッシュが自分の犯した過ちを吐露し、そして通じ合う。 サン・イーはかつて自分が三合会のメンバーだったことが左目をカタに三合会を抜けたことを告白する。そしてマデリンを自分の娘のように思い、ボッシュに協力を惜しまない。 そして最後の相棒はなんとあの弁護士ミッキー・ハラーだ。 ボッシュが娘救出のために元妻を喪い、三合会の手によって殺されたマデリンの友人一家、そしてマデリンを誘拐した一味を殺害したことを聴取するためにロス市警を訪れた香港警察が全ての事件をボッシュとサン・イーに押し付けようとするのを見事な弁舌で未然に防ぐ。 フェラスは別にしてボッシュは今回相棒たちの協力と配慮で助けられる。しかしボッシュは彼らに対して決して全てを委ねるほど気を許さない。実に自分本位な人間に移る。ハラーにでさえ、彼の娘がボッシュの娘と同世代だから今度一緒に逢わせようとの提案もハラーと距離を置きたいボッシュ自身の気持ちから保留にする。 いやはや何とも付き合いにくい男である。 またこれはディーヴァー作品でも感じたことだが、昨今のアメリカの警察小説はどうやら話題のドラマの影響を受けざるを得ないようだ。刑事の勘や写真やビデオ、そして書類の中から齟齬や手掛かりを発見して犯人を見つけるのが醍醐味の1つであったコナリー作品においても、『csi:科学捜査班』などの影響を受けたかのように、今回犯人を特定するのに最新技術が用いられる。 それは静電向上という技術でこれは今まで薬莢についた指紋は発砲された際に起こる爆発で消えてしまい、例え薬莢を拾ったとしても大きな手掛かりにならなかったが、汗に含まれている塩化ナトリウムが真鍮と反応して腐蝕させる極微化学反応を利用して、電圧をかけて炭素の粉を掛けて指紋を復活させる手法だ。この(当時の)最新技術が事件の突破口を開くのだ。いやあ、ボッシュシリーズも変わったものだ。 しかしこのシリーズは今まで色んな新展開を見せながらも結局はボッシュが一匹狼に戻ることを選択してきた。恐らく作者自身、ボッシュという人物は常に業を抱えて生きている男として設定しているので、幸せな家庭や娘との温かな交流が向かないと思っているのだろうし、また書きにくいのだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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真賀田四季。
森氏のデビュー作から登場し、常に森ワールドにおいて絶対的な天才として語られる女性。 本書はそんな謎めいた彼女の生い立ちをその名前四季に擬えて春夏秋冬の4作で語ったシリーズの第1作目に当たる。そしてこのシリーズはS&MシリーズとVシリーズに隠されたミッシングリンクを解き明かす重要なシリーズだとも云われている。 従って真賀田四季がまだ子供の頃からの話が綴られている。 3歳に彼女が父親の書斎に入って片っ端から本を読んでいるのに気付く。その中で一番面白い本は辞書だと彼女は話す。数カ月で英語とドイツ語を完全にマスタし、5歳で彼女は大学に連れていかれ、そこで日がな一日中図書館に籠り、学術書を読み耽る。 6歳になると今度はそれを作ることに興味を覚え、一流のエンジニアの知識を得たものの、電動工具や工作機械を使うにはまだ幼過ぎたため―何しろまだ6歳だ!―、父親の大学から修士課程を修了した森川須磨を助手にして電子工作に励む。しかし彼女は野心多き女性であり、おまけに容姿も良かったことから真賀田四季を介して知り合う男性と次々に関係を持って事情通となっていく。出張の多い教授である四季の両親の代わりに彼女を預かっている叔父の新藤病院院長新藤清二に彼の病院に勤める有能な若い医師浅埜たちがその対象だ。 やがて彼女は四季の物づくりの手先だけでなく、マネージャの役割を担っていく。いや寧ろ森川の技量では四季の作りたいものが作れなくなってきたことが多い。既に森川は四季にとって便利な存在から採るに足らない存在になってきていた。 そんな物語の語り手は其志雄という名の男性の一人称で語られる。 私はこの名前を見てすぐにVシリーズの最後に登場した栗本其志雄を想起した。 自分を透明人間と称する彼は真賀田四季がその頭脳を認めた唯一の存在であり、彼女と対話する機会が最も多い存在となる。しかし物語が進むにつれてこの其志雄の存在がぶれてくる。彼はある事件の後、渡米するのだが、それ以降も真賀田四季の傍にいるように描かれる。 このどこか歪な物語の構造はようやく物語の3/5辺りで判明する。 そしてVシリーズの各務亜樹良と瀬在丸紅子も登場する。最終作『赤緑黒白』で描かれた栗本其志雄との邂逅シーンの再現で。その時は其志雄のことを驚きの目で見ていた紅子の側から書かれていたが、本書では栗本其志雄の側から瀬在丸紅子が侮れない人物として描かれている。実に面白い。 真賀田四季が生まれてから13歳になるまでが描かれる。 真賀田四季を描くこの4部作において本書は彼女の成長を描いていると云えよう。 真賀田四季は自分の頭脳の中でひたすら続く思考と演算に集中するがために他者との会話も必要最低限度で、相手の度量や頭脳を見極めると早々に興味を失くし、会話をしなくなる。彼女の頭にあるテーマをどうにか生きているうちに解明することに専念するには会話することも疎ましかったのだ。常に彼女は時間を惜しみ、考えたいことがいっぱいある状態だ。 つまり四季の頭脳はまさしくコンピュータのCPUそのものなのだ。 従って彼女は周りから自分の考えていることを文字にしてノートに書き留めておく、もしくは声に出して録音しておくことを周囲に勧められるが、そんなことでは追いつかないとして一蹴する。 それはそうだろう。パソコンの演算画面で一気に数十行のプログラムが書き出される様はそのまま四季の頭の中を示しているのだから。 従ってコンピュータの発明によって四季はようやく自分の処理能力と同等の速さを誇る機械が得られたことに喜ぶ。そういう意味では真賀田四季は恵まれた天才だったのかもしれない。遠い昔にもしかしたら真賀田四季と同じような頭脳を持った天才がいてコンピュータがないことで自分が解き明かしたい命題を1/10程度、いやもしくはそれ以下の成果しか挙げられてなかった偉人もいたかもしれないのだから。 真賀田四季という不世出の天才が登場したのは本書刊行までではS&Mシリーズの『すべてがFになる』と『有限と微小のパン』のみ。後はVシリーズの『赤緑黒白』にカメオ出演した程度だが、それは四季としてではなかった。正直たったこれだけの作品の出演では真賀田四季の天才性については断片的にしか描かれず、私の中ではさも天才であるかのように描かれているという認識でしかなかった。 しかしこの4部作で森氏が彼女の本当の天才性を描くことをテーマにしたことで彼女が真の天才であることが徐々に解ってきた。 そうはいっても上に書いたような3歳で辞書を読み、数カ月で英語とドイツ語を完全にマスタし、5歳で大学の学術書を読み耽り、6歳で物を作り出すといったエピソードで彼女が天才であると思ったわけではない。 そんなものは言葉であるからどうとでも書けるのだ。 例えば仏陀なんかは生まれてすぐに7歩歩いて右手で天を差し、左手で地を差して「天上天下唯我独尊」と叫んだと云われているから、こちらの方がよほど天才だ。つまりこれもまた仏陀が天才であったと誇張するエピソードに過ぎなく、これもまた想像力を働かせばどうとでも強調できるのだ。 では真賀田四季が天才であると感じるのはやはり彼女の思考のミステリアスな部分とそれから想起させられる頭の回転の速さを見事に森氏が描いているからだ。常に感情を乱さず、もう1人の人格を他者に会話させながら、書物を読み、そして相手もしたりするところやそれらの台詞が示す洞察力の深さなどが彼女を天才であると認識させる。 こういったことを書ける森氏の発想が凄いのである。 天才を書けるのは天才を真に知る者とすれば、森氏の周りにそのような天才がいるのか、もしくは森氏自身が天才なのか。 これまでの森作品と今に至ってなお新作で森ファンを驚喜させるの壮大な構想力を考えるとやはり後者であると思わざるにはいられない。 最後、四季は外の空気の冷たさを感じ、まだ蕾も付けていない桜の木を見ながら春を思って物語が閉じられる。つまりそれは常に内側に興味と思考を向けていた四季が外に向けて感覚を開かせ、自分以外のものに思考を巡らせたのだ。 春は出逢いと別れの季節である。 真賀田四季は2人の其志雄と別れ、そして瀬在丸紅子と西之園萌絵と出逢った。いやそれ以外の人物ともまた。 続く季節は夏。夏はどんな季節であろうか。それを真賀田四季は気付かせてくれるに違いない。 さて残りの季節で四季はどのような変化を見せ、更にどのような天才性を見せてくれるのか。 全く以て今は想像がつかない。『すべてがFになる』の舞台になった妃真加島への道行とそれから『有限と微小のパン』までの行動とそれ以降の行く末もまた描かれるのだろうか。 ともかく森氏の描く天才を愉しみにすることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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風間一輝。
1999年に癌で亡くなり、既にこの世にはいない作家。 その作品は多くないが、私は彼のデビュー作『男たちは北へ』で大いに心打たれ、たちまちその世界に魅了されてしまった。 そんな彼の作風はその第一作がそうであったように作者自身の影が投影された人物が主人公を務めるところに特徴がある。無頼派的な人物が作者の言葉を代弁するかのように心情を吐露し、そして難癖を付ける。 それは決して付き合いやすさを感じる男ではないけれど、その武骨さが何とも魅力的に見える、不思議な雰囲気を醸し出している。 本書は断酒小説と銘打たれている。そう、アル中がいかにアルコール依存症を同類の仲間たちと共に克服するかが綴られている。 従ってここに登場する人物たちは極度のアル中ばかりで信じられないほど酒を飲む。全編これ飲酒シーンばかりと云ってもいいほどの内容だ。 勿論酒を飲んでばかりでは話は進まない。主人公が流れ着き、やがてそこで知り合い飲み友達(アル中友達?)となった仲間たちがドヤ街山谷で続発する真夏の夜の連続行き倒れ事件の謎に肉迫していくことでトラブルに巻き込まれていくのだ。 さてそんな酔いどれたちが繰り広げる舞台となる山谷についてその独自の文化を詳らかに描く。 例えば今では一般的になった酎ハイはこの山谷で金のない者たちが安い焼酎をソーダで割って飲んだ焼酎ハイボールが始まりらしく、なんとこの山谷が発祥の地らしい。 また流れ者が行く着くこのドヤ街でもそれなりに住処についてはランクがあるらしく、1室に二階建てベッドをたくさん置いたベッドハウスに始まり、畳2畳から4畳半までの広さがある個室、そしてビジネスホテルに代表される個室ホテルと大きく3つに分けられる。 そんな社会の底辺の落伍者たちの社会が克明に描かれる。それはまるで作者自身が山谷にしばらく暮らしたかのように鮮明だ。 しかしやはり物語の中心は主人公北岡吾郎とその仲間初島肇と木沢完らが行う断酒計画の顛末だ。 その計画とは日中の午前10時から午後6時までをワンセット、次の午後6時から午後10時までをもうワンセットと設定し、第1日目はそれぞれ6杯ずつ飲み、2日目はそれぞれ5杯とワンセットごとに1杯減らしていく。そして6日目がそれぞれ1杯ずつとなり、7日目でとうとう酒を絶って、それを継続させるというもの。 これが彼らにとって悪夢のカウントダウンのように徐々に効いてくる。第3日目の日中4杯、夜4杯の段階から禁断症状が出てくる。そして寝ても悪夢しか見ない。それは幻覚や幻聴と云った類のもので、彼らにとって夢なのか現実なのかが区別がつかず、そして際限なく恐ろしい夢ばかりを見てしまう。寝るのが怖くなるので置き続けるが、その間は手の震えが止まらず、脂汗が滴り、ひたすら苦しむばかり。 寝ても地獄、起きても地獄。その地獄から解放されるには酒を飲むしかない、といった堂々巡りの無間地獄に苛まれる。 アルコール中毒ことアル中、最近ではもはやアルコール依存症と呼ぶようになったが、昔はよくこのような叔父さんを見たものだった。終始手が震え、顔は酒焼けで真っ赤、話すこともよく呂律が回っていないため不明瞭。典型的なアルコール中毒者を小さい頃私が住んでいた界隈でも見かけた記憶がある。しかし最近は見なくなって久しく、忘却の彼方だったため、これほどまでに大変なのかと再認識させられた。 アル中にも種類があるらしい。本書では初島、北岡、桐沢それぞれが同じアル中でもタイプが違うように書かれている。 飲酒後いつ頃禁断症状が現れるかで分かれており、それぞれ8時間後に訪れる即刻タイプ、1時間後に訪れる1時間タイプ、そして1日は持つ1日タイプ。 私もお酒は好きで、週に一回はジョギング後に缶ビール1本に焼酎湯割り1杯と缶チューハイ1本を飲む。 平日は飲まないが飲み会があればビールに始まり、日本酒、ワイン、ウィスキーに焼酎とチャンポンするのが当たり前になった。ウィスキーや焼酎も水割り、お湯割りで飲んでいたのが、今ではロックで飲むのが通常になってきた。 しかしそれでも二日酔いになることはなく、耐性が強くなってきたと思っていた矢先に最近泥酔して失敗したこともあった。 幸いにして私は本書の主人公らと違い、日常生活には支障が出ていないが、上の状態から逸脱し、週一が毎日に変わり、やがて酒量が増えだすと私も彼らの仲間入りになることだろう。彼らは私にとっていい反面教師になった。 彼らのそうまでしてまで断酒を決行するのはそれぞれに拠り所があるからだ。 云い出しっぺの初島は素面で一般人が遊びに訪れる公園を散歩したり、休んだりしたいからだ。 アル中の彼が行くと日中から酒臭い男を見た子供連れの母親や夫婦が嫌悪感剥き出しに立ち去るのが嫌だからだという。彼はそんな慎ましい願いのために断酒に望む。 主人公の北岡はかつて自分が捨てた街宇都宮で最後に行ったバーのマスターの姪村雨零子に再び逢いたいからだ。彼女の前に酔っ払いの姿ではなく、まともな素面の人間で綺麗な姿で逢いたいからだ。 そうこの北岡という男は元サラリーマンで広告代理店の支店長にまでなった男は我々と近い価値観がある。 暴力など振るったことがなく、小学生から大学まで続けていたサッカーで鍛えた脚を武器に暴力団と戦い、人生を踏み外した男。 彼はボーナスを暴力団に奪われ、それを取り戻すために彼らに復讐する。警察に被害届を出すことを敢えてせず、自分で戦うことを選ぶ。 それは多分彼が日本の街の闇を知ったからだろう。 日向で生きてきた男に初めて襲い掛かった闇。暴力という理不尽な行為に屈した自分が許せなかったのだろう。 それを彼はどうしても克服したかった。彼の中の獣が目覚め、その瞬間家族や仕事といったしがらみからも解放されたのだ。 だから彼は復讐を終え、ボーナスを取り戻した後にこう自問自答する。 第二の人生に踏み出すなどというわけでなく、今までと違った生き方をしてみることにした、と。 彼は闇を知ってしまい、いわばコツコツ働いてお金を稼ぐといった間接性よりもほしい物は他所から奪うといった直接的な生き方、明日など考えず、今を考える生き方に魅了されたのだろう。妻と子供を養うために引かれたレールから外れることを選んだ。 だから知人の紹介で仙台で仕事を得てもそれはかつての自分の延長戦であったから続かなかった。そこでの暮らしは憎悪もなければ愛情もなかったと呟く。 つまり新しい生き方としてはあまりに無味無臭、平穏すぎたのだ。彼はもっと逸脱したかったから、東京に戻り、何者かも問われずに生きられる山谷に住み着いたのだ。 我々一般社会人からすれば彼はドロップアウトした落伍者に移るだろう。 しかし彼にとっては本当の生き方を選んだ世捨て人と思っている。彼は自由を手に入れたのだ。 しかしその代償として酒に溺れ、アル中になってしまう。 やがて主人公北岡吾郎の仲間木沢完の正体は桐沢風太郎であることが解る。そう、売れないグラフィック・デザイナーを生業にしたあの『男たちは北へ』の主人公であり、作者自身を色濃く想起させるあの無骨な優しき男だ。彼がフリーライターの初島に誘われて山谷の取材をすることになり、一緒に移り住むようになったのだった。 あの自転車乗りとこんな形で再会するとは。確かにアル中ではあったが、ここまで重度とは思わなかった。男桐沢の意外な側面を見た思いがした。 しかし桐沢の正体が解ってからは物語は北岡から彼にシフトする。何しろ前作で自衛隊たちともやり合った胸の据わった男だ。戦う術を心得ており、おまけに闇の情報へも詳しい。 この桐沢との再会は思いもかけないプレゼントに思え、素直に嬉しかった。 本書では元暴力団員だった宇都宮でバーを営むBAR酔虎伝のマスター村雨泰次と北岡が心の拠り所としている姪の零子、そして桐沢の切り札となる私立探偵の室井辰彦など今後も風間一輝氏の作品世界に登場しそうで、彼ら彼女らは今後とも心に留めておかねばならないだろう。 そしてなんといってもこの作家、無骨な男たちの友情を書かせたら非常に上手い。 桐沢がリンチに遭い、仲間たちが集まり、暴力団員3人に復讐をする顛末はほとんど『スタンド・バイ・ミー』のような青春小説の煌めきを見せる。 1人1人ではただの酔いどれだが、束になって掛かればヤクザさえも一網打尽。世は捨てたがプライドは捨ててない男たちの生き様が鮮やかに描かれる。 しかしやはり酔いどれは酔いどれ。ここにはどうしようもない男たちの足の引っ張り合いもまた描かれる。アル中だからこその団結力は裏返せばお互いがアル中であることを確認し合い、そして安心していることを意味する。 従って断酒なぞをしてそこから脱け出そうとすれば真人間になった仲間に置いていかれるのではという焦燥感に駆られ、足を引っ張ることも辞さない。彼らの団結力とは皆が同じ人種であることの安心感に由来していることが解ってくる。 本書はようやく週休二日制が普及し出し、今では死語になっている「ハナキン」という言葉が出来た頃の話だ。 しかしだからと云って本書で描かれているドヤ街山谷は令和の今なお実在し、そこには初島、北岡、桐沢や彼らを取り巻くオヤジたちが今なお半ばホームレスのような状態で生活しているのだ。東京スカイツリーのお膝元のような場所に今なお彼らは住み着いている。 47都道府県それぞれに異なる文化や風習があるように巨大都市東京都1つ取ってもそれぞれ独自の規律と文化で生きる人たちもいる。山谷には山谷でしか通用しないルールと暗黙の了解があり、それが今なお連綿と続いている。 サラリーマンで支店長まで登り詰めた北岡がこの異質な秩序で形成されるドヤ街で生きゆくさまはもしかしたら近い将来の私の姿かもしれない。 彼ら人生の落伍者たちの、そして酔いどれたちのブルース。 地図にない街山谷。 それは未来という地図のない街でもある。 明日なき街を行く2人にまたどこかで出逢うことだろう、間違いなく。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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泥棒バーニイ・ローデンバーシリーズも本書が最終作だそうだ。
“だそうだ”というのはブロックはこれまでも最終作と思しき作品を著しながら、思い出したように続編を書くからだ。しかし御年80歳であることを考えるとさすがにこの謳い文句は本当のように思える。 今回の話はとにかくいつもとは異なる。軸となるストーリーはあるものの、そこに至るまでがいつもより長く、余分なエピソードや蘊蓄の量がかなり割り増しされているのだ。 軸となる話とはミスター・スミスなる謎の人物からフィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の生原稿、そしてアメリカ独立宣言の署名者の1人バトン・グインネットを象徴したボタンの意匠を施した使途スプーンの所有者からの盗みと並行してレイ・カーシュマンが担当する泥棒による富豪の老婦人殺害事件の捜査の手伝いだ。 実際本筋のバーニイが謎の人物ミスター・スミスから依頼された最初の盗みを始めるのが80ページ目辺り。そしてお馴染みの宿敵、刑事のレイ・カーシュマンがバーニイに疑いを掛けた泥棒による老婦人殺人事件を持ち掛けるのが120ページ目辺り。更に本書の題名となっている使途スプーンを盗む計画が動き出すのは190ページ目辺りと、実にとびとびに物語は展開する。そしてこれら約4~70ページの間隙で語られるのはバーニイの女友達で時々盗みのパートナーを務めるペット美容師のキャロリンと繰り広げる多数の蘊蓄とエピソードで彩られた、あっちこっちに脱線する会話なのだ。 それらは時に冗長に感じられながら、ブロックお得意の会話の妙味が込められていて面白いのは事実。 物語はこのキャロリンとバーニイ2人の行きつけの店<バム・ラップ>で飲みながら取り交わされる会話が中心となっていると云っても過言ではない。その内容は多岐に亘り、昨今の書店経営事情、注目の作家の話や同性愛者であるキャロリンが語る同性愛者への社会の対応の変化―彼女は同性婚の承認を求める運動に参加していたらしい―、さらにこれに加えて謎めいた依頼人ミスター・スミスの自分の熱狂的な蒐集癖に纏わる逸話の数々も盛り込まれる。 自分の本名がバートン・バートン5世であることからボタン蒐集に熱を挙げていた彼はやがてボタン(英語読みではバトン)と名の付く物ならば何でも集めることになった。勿論彼のボタンコレクションもかなり稀少な物が多く、アメリカが選挙運動のために記念ボタンを作っていることや十二使徒の像をあしらったスプーンの存在と最高の銀細工師によるものもあり、それを模した特注で作らせた15本セットの13の植民地を象徴する当時の市民の鑑みたいな人物をあしらったものまで存在すること、そしてそれがまた銀細工師の話や歴代アメリカ大統領の逸話と大統領選そのものの逸話などを呼び込み、話はどんどん膨らんでいく。 さてそんな蘊蓄と脱線で彩られたシリーズ最終作。中身はそれでも本格ミステリばりの内容となっている。 事件の謎解きをバーニイは自分の店で関係者一同集めて、さながら昔の本格ミステリのように行う。その前にレックス・スタウトのネロ・ウルフシリーズを読み直して、どういう風に進めればいいのかを参考にするのが面白い。 そう、上でも少し触れたが、本書はミステリ作品が色々取り上げられている。 ミスター・スミスが来たときはバーニイはディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズの1冊を読み耽っており、我々と同じように事件が解決しても残り40数ページ残っていると油断が出来なかったり、アメリアが毎度危機に陥るが結局は助かって、次作へと続く、そういうことが解っていながらも騙される。それも解ってはいるのだが、と。 またマイクル・コナリーのボッシュシリーズも読んでいるようだ。書名は明かされないものの、ボッシュが刑事を辞めて私立探偵になった頃の作品とあるから『暗き聖なる夜』か『天使と罪の街』のどちらかだろう。面白かったがボッシュはどうにもやりにくそうにしていて警察に戻って三人称で語ってもらう方がよさそうだ、なんてニヤッとする感想まで述べている。 またミステリ以外でもジョン・スタインベックは名高いが今では『二十日鼠と人間』以外ほとんど手に入らないことなども触れられている。 これらは多分に作者本人の心情や感想だろう。従ってブロックが今どんな作品に注目しているかが解るというものだ。 また昨今の書店経営事情の困難さを象徴するかのように本書が幕を開けることにも触れておきたい。 最初の客がバーニイの店でタイトルが解らないけれども、ずっと探していた本を見つける。恰も購入しそうにレジに来るが、タイトルをアマゾンで調べると電子書籍化されてて、そちらの方が13ドルも安く手に入るので止めることにしたと云って出て行く。 また常連のモーグリという男性は大量に本を買ってくれるが、彼はその本を手元に置いておきたいわけでなく、自身がウェブで売るためのせどりをしていることをバーニイは知っている。常連客の1人が亡くなり、その蔵書を売りたいという連絡を受けて家に云ったら、息子が1冊ずつネットで売ることにしたので止めたと断られた。 ネットの繁栄が実店舗の書店・古書店へもたらす不景気の煽りをバーニイの経営するバーネガット古書店にも訪れていることが描かれている。これが今の書店業界の現実なのだ。 しかし幸いなことにバーニイは金に困らず、住むところも持っているから古書店主兼泥棒という人生は続いていくことだろう。いやバーニイのような余裕のある人でないともはややっていけないのかもしれない。 しかし泥棒稼業も厳しくなり、今ではカードキー型のホテルやマンションが増え、鍵開けの技術が通用しなくなってきている。これらは我々一般人にとっては実にいい話であるが、それでも策を弄すれば侵入は出来るように本書では描かれている。 例えば恰もゞマンションの住民に見せかけて一緒にセキュリティを通り抜けるなど。これは西洋人が見知らぬ人同士でも気軽に声を掛け、話す習慣を持っているからこそできることであり、日本だと他者に対する警戒心が強いため、なかなか通用しないやり方だろう。 しかしそれでもやはり本書は最終作であるようだ。 キャロリンが今回の事件をレイ・カーシュマンと共同で解決したことから、泥棒の経験を活かした犯罪コンサルタントとして捜査に協力するという提案をするが、バーニイはかつて自分が愛読していたダン・J・マーロウのアールとドレークシリーズを引き合いに出し、犯罪者のドレークが改心して政府機関で働くようになってからシリーズを読むのを止めたと話す。つまり泥棒はあくまで泥棒であるからこそこのシリーズは面白いのであり、それが正義の側になってしまうともはや違う話になってしまうのだとブロック本人が仄めかしているのだ。 本書はブロック75歳の時の作品。引導を渡すには頃合いだったのだろう。 また1つ私が愛読してきたシリーズが終わってしまった。哀しいけれど何事も引き際が肝心で、むしろこれほどのクオリティを保って幕を閉じることが有終の美というものだ。 つまり本書における数多くの蘊蓄や寄り道はブロックの内なる書きたいことを最大限に放出したことに他ならない。彼の中にある興味あること、書きたいこと、教えたいことを極力多く入れたかったのだ。 老人が若者に酒を片手に蘊蓄を傾けるかのように、古きアメリカの歴史や昨今の出版事情などを聴くが如く、読むのが本書の正しい読み方だ。 バーニイよ、物語は終わっても貴方の人生は続くことだろう。ニューヨークで、そして我々の心の中で。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリー・クイーン存命中、アンソロジストとしても活躍していたアルフレッド・ダネイ氏の許に日本版『黄金の12』を選出する企画が始まった。東京にEQJM(エラリー・クイーンズ・ジャパニーズ・ミステリー)委員会が編成され、1970年以降に発表された短編ミステリの中から厳選された作品を英訳し、クイーンの許に届けられ、更にそこからクイーンのお眼鏡に適った12編を基に組まれたアンソロジーが本書である。
その後この企画は3回続き、全3巻のアンソロジーとして刊行されている。 その第1集が本書である。カッパ・ノベルスとして刊行されたものの文庫版が本書で、ノベルス刊行時は1977年。70年に活躍したミステリ作家の歴々がその名を連ねている。 それは平成の今なお映画・ドラマなどで映像化された際に番組名にその名が冠として付く錚々たる面々であり、今なお売れ続けているベストセラー作家たちもいる。やはり彼らのネームヴァリューは伊達でなく、本格ミステリの伝説的存在クイーンにも、いや世界にも通用する実力を兼ね備えていたことを証明するようなアンソロジーでもある。 さてその幕を開けるのは石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」だ。 石沢氏の小説は初めて読んだが、実に面白く、読み応えがあった。クイーンの短評で知ったが、寡作であるが1作1作が十分練られており、丁寧な準備の下で書かれているため優れているというのは本当だろう。 本作は社内でも評判が良くもなく悪くなく、家庭円満で近所の評判もいい一人事課長が定年を迎える1年前の忘年会で毒殺されるという奇妙な事件が題材となっている。しかしその可もなく不可もない性格ゆえに周囲は自分たちが胸に抱える秘密や困り事を打ち明けるのに最適の人物となった。従って上司部下の上下問わず、彼には色んな秘密が打ち明けられる。 隠密裏に進む合併計画、社長妻との浮気、ホモ志向である自分の性癖、うやむやになった轢き逃げ事件、家族ある社員との不倫とその結果招いた中絶。 どこかで聞いたような、外に出せない秘密の数々である。そんないわば心の澱を抱える社員たちの駆け込み寺となっていたのが宇佐美であった。 彼はただ聞くだけだが、裏返せばそれは様々な社員の秘密を知っている事情通となる。 この前に読んだコナリーの『スケアクロウ』でも強調していたが、情報を扱うのはセキュリティも大事だが、最も大事なのはそれを扱う人だ。 会社の内情という組織の秘密と個人の秘密が見事に溶け合い、全く無駄のないミステリ。開幕投手として申し分ない。 さてその勢いはビッグネーム松本清張氏の「奇妙な被告」に至っても衰えない。 本作で登場する犯人はもっとも恐ろしい犯人である。本作もまた人への信頼を揺らがさせられる、興味深い作品だ。 続く三好徹氏の「死者の便り」は題名通り、死者から手紙が届くという奇妙な発端で幕を開ける。 新聞社に送られてきた2ヶ月前の消印が押された死者からの手紙という本格ミステリの導入部としては実に魅力的な謎で幕を開ける本作は石沢氏や松本氏の作品同様、実に社会的なテーマへと繋がっていく。 そして本作の真相は実に皮肉だ。 森村誠一氏も昭和を代表するミステリ作家の1人だが、彼もまたクイーンのお眼鏡に適った。「魔少年」はアンファンテリブル物である。 アンファンテリブル、つまり恐るべき子供の物語で、餓鬼大将でクラスの友達に先生に告げ口されたり、お願いを断られたことを逆恨みしてその子たちの大事な物を奪い、もしくはその身を危険に晒すように強要する少年の悪戯がエスカレートする様が描かれるが、この真相は読んでいる途中から解った。 いわば大人社会でも起こりうる話を小学生の世界に落とし込んだ話だ。子供が残忍なことを計画し、実行することで事件の恐ろしさが否応なしに増すのはやはり子供に純粋さを望む大人の心理が働くからだろうか。 さて次も大御所が選ばれている。夏樹静子氏の「断崖からの声」は世捨て人とその妻との間に陥った男が遭遇する事件を扱っている。 自分の事故で芸術家の命でもある視力が損なわれた主人のために一生を捧げることを決意した女。東京から福岡へ隠遁生活を続ける夫はしかしそんな単調な生活に耐えられなくなり、東京に再び出るための資金を得るため、妻が海で遭難するという偽装工作を企てる。 またも大御所の登場。西村京太郎氏の「優しい脅迫者」は先の読めない展開で実に読ませる。 子供の轢き逃げをしてしまった理髪店主が目撃者に強請られる。しかも定期的に訪れて、そのたびに金額は倍増する。まるで蟻地獄に陥ったかのような絶望の中、脅迫者を調べると売れない俳優でなんと前科も何もない、根っからの善人であることが解る。更にとうとう思い余って殺してしまった際に、まるで店主を庇うかのような言葉を発して亡くなる。 この理解しがたい状況が最後脅迫者の遺書で雲散霧消する。ただ「その時」が来るまでの理髪店主にとってはその毎日は悪夢以外何ものでもない。私はこの物語には続きがあるようにしか思えない。そう、脅迫者の真意を知った理髪店主の次の行動が気になって仕方がなかった。 大御所の作品が続く。佐野洋氏の「証拠なし」はいわばリドルストーリーのような作品だ。 どこから見ても事故としか思えない事件。しかし調べてみると関係者には動機となるような理由があるが、果たしてそれが殺人へと発展するかと云えばそうでもない。更に調べていくうちに容疑者の女関係が明るみに出て、そのうちの1人を殺すための予行演習だったのでは、などと警察捜査本部の面々は推測を立てていく。そしてそれぞれの場面で不能犯に該当する、過失犯だ、いや正当防衛だと議論が紛糾していく。 なお不能犯とは、殺意はあるものの、直接的にそれが死に至るほどではない刑罰の対象とならない行為、つまり未必の故意のある犯人を指す。死ねばいいのにと夜毎藁人形で釘を打ち立てるようなものだと当時の広辞苑には書かれていたようだ。 過失犯は過った末に罪を犯してしまった犯人を指す。よくあるのは交通事故で人を轢いてしまい、殺してしまう過失致死が該当する。 さてかつて昭和のミステリガイドブックにはこの作家の作品が必ずと云っていいほど取り上げられていた。木枯し紋次郎でお馴染みの笹沢左保氏もクイーンのお眼鏡に適った。「海からの招待状」は差出人不明の手紙で幕を開ける。 「海」と名乗る匿名の人物から送られたオープンしたての豪華ホテルの貴賓室への招待。世の中上手い話があるわけないが、行ってみたくなるのは世の常。しかし招待されたのは自分だけでなく、他に4人の男女がいた。そしてそれぞれにはある共通点があった。 何とも魅力的で謎めいたシチュエーションである。彼ら彼女らはいつしかある事件の犯人の1人であることが判明し、推理が行われる。決して閉ざされた部屋ではないので、望まなければ出て行くことも可能だが、そうすれば逆に疑いを招くだけという人間心理の妙も楽しめる。 現れぬ招待主が招待客の中にいるのは別段驚く真相ではないが、折角犯人を捕まえることができたのに虚しさだけが残る招待主の心情が印象的だ。 なおクイーンは短評で笹沢左保氏の作風をルブランやクリスティ、そしてクイーンなどの影響が感じられてると述べているが、私見を云えば本作は寧ろ謎めいた導入部とある事件に共通する人物の中でのドラマという点ではウールリッチの作風を想起させられた。 草野唯雄氏も笹沢左保氏同様、既に他界された昭和を代表するミステリ作家だが、彼の作品もまた12席の1席を与えられた。「復顔」はゴミ焼却所で見つかった頭蓋骨から物語は始まる。 ウールリッチの『幻の女』と死んだ女が蘇って事件解決に手を貸すといったミステリアスな内容の物語。 しかし35歳で頭蓋骨研究の権威とされている主人公だがその博識ぶりはあまり発揮されず、寧ろそれまで独身で女の色香にすぐにほだされてしまう情けない男という印象だけが残ってしまった。最後に復顔の手伝いをした女性の正体を突き止め、彼女の許を訪れたのは単に彼が真相を知りたかっただけでなく、一夜限りの交情が忘れらなかったことが大きいだろう。何とも未練たらしい男である。 江戸川乱歩賞作家でシャンソン歌手という異色の経歴の戸川昌子氏も当時は全盛期でクイーンも選出せざるを得なかったのだろう。「黄色い吸血鬼」は異色の幻想ミステリだ。 吸血鬼の餌として建物に監禁されている複数の男女というファンタジーかと思いきや、ある不正を被害者の視点で描いたものだ。幻想的で匂い立つエロスを感じさせるのがこの作者の長所だろうか。 しかしこういった社会の底辺の落伍者たちを家畜のように扱う輩は21世紀の今でもまだ続いていると思うとこの問題は大変根深いものだと痛感する。 本格推理小説の重鎮の1人、土屋隆夫氏の作品も選ばれた。「加えて、消した」は突然の妻の自殺に直面した男の物語だ。 流産を苦にした妻の突然の自殺というショッキングな展開から、遺書もあり、なおかつその夫は京都へ出張中であるという全く事件性のない事件が遺されたたった4行の遺書の中にある違和感と当日の夫の不審な行動から隠された真実を掘り起こす、たった2人の問答で繰り広げられる物語は実にロジックに特化した内容で面白い。 特に自殺前に姉に電話した妹が姉の通話越しに聞こえた引き戸の音と親しげな姉への呼びかけから何がそこで起こったのかを解明する件は生活感もありつつ、ロジカルで実に面白い。 なお遺書の中の違和感については私も感じていた。 何とも遣る瀬無い真相。 最後を飾るのはやはり現代を代表する大作家の1人、筒井康隆氏の「如菩薩団」だ。 さすがは筒井氏。シュールでありながらある意味リアルな設定の物語でクイーンの12席に選ばれた。 8人の主婦たちによる強盗団。主人たちが出払った平日の昼に集まり、目を付けた金持ちの邸を訪ねて、そこで強盗を働く。 本作の初出時期を調べると1974年頃とあるから、第1次オイルショックの真っ只中。そんな世相を反映してか、主婦強盗団の面々は大学出の夫を持ちながらもサラリーマンで薄給と日々高騰していく物価に苦しむ中間層の人たちばかり。団地に住み、子供の塾代に苦慮し、夫と子供の服を優先して購入し、自らは2年前に買ったブランド品ばかりを身に着けるといった、どこにでもいるような主婦たちだ。 彼女たちがある水準の教育と躾を学んだ女性たちで形成されていることが特徴的だ。それがこの一種奇妙な強盗譚をどこかで本当に起こっていそうな話に思わされる、そこはかとない恐怖を沸き起こさせる。 欧米その他海外諸国のミステリは積極的に翻訳され、日本に紹介されているものの、逆に日本のミステリが全く海外に向けて発信されていない現状があった。世界への門戸は入ってくるばかりの一方通行であったのだ。 そんな現状を変えるためにクイーンの鑑識眼を通して、海外ミステリの名作・傑作と遜色ない作品を世界に問い、発信するための試金石となるのが本書編纂の大きな目的でもあった。 私が感心したのは篩分けを行うEQJM委員会が評論家ではなく、ミステリのコアなファンや推理小説通として認められている経歴の持ち主5人によって構成されていることだ。 往々にして評論家や研究者が選びがちな、作品の背景に隠された歴史的意義や当時の作者の心境など深読みしなければ、もしくは時代背景や私生活にまで踏み込まないと解らないような行間の読み方をすることで得られる読書の愉悦にこだわった作品ではなく、純粋にミステリとして面白い作品がファンの立場で選ばれていることがいい結果に繋がっているように思う。それほどまでに本書収録の各短編のクオリティは高い。 そんな粒ぞろいの短編集。全く駄作はない。全て水準を超えており、中には一読忘れられないほどの印象強い作品もある。 1作目の石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」と2作目の松本清張氏の「奇妙な被告」はそれぞれ警察と弁護士が主人公であるが、その内容は表裏一体だ。 石沢氏の作品では警察のカンによる捜査が改めて問題視されており、敬遠されている風潮があるが、やはり経験から基づく第六感というのはあるとし、それが事件解決に効果的に働いている。 一方松本氏の作品は事件現場の状況、目撃者の証言から容疑者を特定し、警察のカンによって敗訴する様が描かれている。 この2作は捜査員のカンという題材で以ってまさに70年代当時の警察捜査が直面している問題を浮き彫りにしているようだ。 またこれも時代だろうか、男性作家の女性に対する描写も生々しく、平成の今なら書かないであろう一線を超えて、本能を露わにして書いているように感じた。 艶めかしく、色香が溢れ、女性の欲求不満ぶりや男を惑わす身体をしていると云った、性的描写が濃厚。中にはセックスシーンをも盛り込んでいる作品もある。 あとやはり高度経済成長期を経たことで誰もが一番を目指すことを要求された学歴社会による弊害から生まれた作品もあれば、その後の第1次オイルショックといった急激な物価上昇を経験した時代であることから、将来を約束されたものと思われた大学出のサラリーマンが経済苦に瀕し、高卒の商売人が裕福になるといったいびつな経済格差社会を反映した作品もあり、また生命保険殺人など、世相を色濃く反映しているものも見られ、昭和の時代を知る意味でも興味深い側面があった。 また当時を知るという意味では松本清張ブームで推理小説が活発化している時期であったことも興味を惹かれる。 クイーンによる序文によれば商売繁盛どころの騒ぎではなく、毎月平均30冊、40編の短編集が出版され、年間2,000万冊以上の販売数であるとのこと。ウェブ社会の発達で書籍離れ、もしくは紙の本から電子書籍へ移行し、年々閉店と倒産が続く出版業界の現在を思うとまさに時代の花形であり、夢のような時期だったことが解る。 しかし70年代の、つまり昭和の時代の作家の筆致は何と濃厚なのだろうか。ミステリ作家と呼ぶには軽すぎて昔ながらの推理作家の呼称の方がしっくりくる。 行間から立ち上る登場人物の息吹や生活臭がむせ返るほどに濃密で高度経済成長期で整備が追い付かない未舗装路から巻き起こる土埃やエアコンのない時代の蒸し暑さと汗ばんだ皮膚から発散される体臭までもが感じられるようだ。 登場人物皆がギラギラし、人と人との距離が近く、暑苦しささえ感じる。 そしてそれぞれの家庭に独特の生活臭があるように、それぞれの作家の短編の1ページ目を開ければそれぞれ異なる色合いと風合いを感じさせる。 例えば石沢氏の作品に登場する主人公の刑事光野はかつてギャンブルにのめり込み、高利貸しから金を借り続けて借金まみれになり、それを当時の上司に助けられた過去がある。そうしたエピソードを付け加えることで当時の警察の規律のいい加減さや光野という登場人物に厚みをもたらしている。 それはまだやはり作家たちに終戦が経験として地続きであることが起因しているのではないか。実際本書においても終戦直後のことが盛り込まれた作品もあり、それを知らない戦後世代との会話も登場する。 この戦後の混乱を経験した作家に根付いた人間に対する観察眼はやはり非常に土着的で、そして野性的であるように感じる。それが登場人物に厚みと汗臭さをもたらしているのではないか。 平成は醤油顔が奨励され、濃い顔の男たちはソース顔と揶揄され、敬遠されたが、各編に出てくる登場人物たちはそんなあっさりとした面持ちを持たず、日々成長する当時の日本社会を象徴するかのように野心を持っており、翳を備えて、陰影に富んだ濃い顔の持ち主ばかりだ。 さてそんな珠玉揃いの短編。石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」、松本清張氏の「奇妙な被告」、土屋隆夫氏の「加えて、消した」が印象に残ったが、個人的ベストは西村京太郎氏の「優しい脅迫者」だ。 じわりじわりと強請りの金額を吊り上げる脅迫者と絶望感に苛まれる被害者。溜まらず最後の一線を超えた先に見えた意外な真相。読中は脅迫者のねちっこい強請りに終始心が粘っこくなるような嫌悪感を覚えたが、読み終えた時はその結末の温かさに思わずため息が漏れてしまった。初期の西村氏の作品には傑作が多いと云うが、本作もまたその中の1編であると云えよう。 まさに当代きっての日本を代表する推理作家が揃った短編集であるが、冒頭の本書刊行の経緯を記したEQJM委員会の序文によれば傑作でありながも日本独特の言語・習慣・歴史・風俗に基づいた作品は敢えて外されたとのこと。これも70年代当時の世界からの日本の認識度から考えれば仕様のないことだが、COOL JAPANとして外国人への日本文化の関心と認知度が増した現代ならばどうなっていたかと興味深いところではある。 また昭和の本格ミステリ界を支えてきた鮎川哲也氏と高木彬光氏の作品が選出されていないのは意外だった。 このアンソロジーはこの後2冊刊行されているが、今回の選考漏れから奮起してその名に恥じない傑作にて選出されていることを期待したい。 世界に日本のミステリを!その第一歩となった名アンソロジスト、エラリー・クイーン編集による短編集は期待値以上の読み応えがあった。 この後まだ2冊も残っている。つまりあと24編あるわけだ。 24回、読書の愉悦を堪能できる、なんとも贅沢なその時を待つこととしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これは『ザ・ポエット』第2章か?
詩人の事件でコンビを組んだ新聞記者のジャック・マカヴォイとFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが再びタッグを組み、連続殺人鬼スケアクロウに立ち向かう。20世紀の敵、詩人(ザ・ポエット)と違い、21世紀の敵、案山子(スケアクロウ)は更に強力だ。スケアクロウことウェスリー・カーヴァ―は平時はデータ会社の最高技術責任者の貌を持つ男で、ウェブ世界を自由に行き来し、各会社のサーバーに容易に侵入し、個人情報を盗み出す。ジェフリー・ディーヴァーの『ソウル・コレクター』に出てきた未詳522号を髣髴とさせる。 従ってそんな敵に独り昔ながらの方法で取材を続けるジャックはいつの間にかクレジットカードを無効にされ、携帯電話は使用不可になり、個人のメールアカウントさえも乗っ取られてしまい、更には銀行口座も空にされ、まさに八方ふさがりの状況に陥る。 その一部始終も詳細に書かれている。スケアクロウは自分が行っている犯罪トランク詰め殺人に興味を持つ人間が集まるサイト、トランク・マーダーサイトを立ち上げ、それを捕獲サイトとしてアクセスした人のIPアドレスを入手し、それを別のサイト、デンスロウ・データに転送してそこから犯人はIPアドレスを捕獲する。そうすることでトランク・マーダーサイトから逆に自分のIPアドレスを探られるのを防いでいた。 そして転送されたサイトから入手したIPアドレスからアクセス元を辿り、そのパソコンにアクセスして個人情報を盗み見て、そこから更にその人物が使っているであろうパスワードを推測し、その人物が利用しているポータルサイトにアクセスして、成りすましてサーバー内に侵入する。それからはまさに独壇場。本人が送ったメールは削除され、誤導する内容のメールを送付して、自分の思うがままに周囲を、本人を操る。クレジットカード、メールアカウント、携帯電話、銀行口座などウェブを介して変更、更新が出来るものは全て意のままに操れる。 特にスケアクロウことウェスリー・カーヴァ―がジャックの後任アンジェラのブログ記事から飼っている犬の名前をパスワードにしていると推測して勤務先の新聞社のサーバーに彼女に成りすまして侵入していく有様はいかに我々一般人がウェブに関して無頓着に自ら重要な情報を明かしているのをまざまざと見せつけられる思いがした。 また今回の事件がトランク詰め殺人であることでどうしても同様の事件である『トランク・ミュージック』を想起させられてしまう。作中でもジャックの後任のアンジェラが過去のデータベースを引っ張った際に、ボッシュが担当したこの事件について言及される。 つまり本書は同時期に書かれた『ザ・ポエット』と『トランク・ミュージック』に21世紀という時代を掛け合わせた作品と云えるだろう。 さて今回の敵スケアクロウが殺害した女性はストリッパーであり、背が高く、長い脚と引き締まった身体つきをしており―FBI曰く、キリンのような女性―、膣と肛門を異物で何度もレイプした後、裸でビニールにくるまれて、その上から紐で首を絞められて窒息死させられる。そして下肢装具愛好者で拷問中にそれを被害者に付けていたと思しき痕跡が見られる。正真正銘のサイコパスだ。 そしてウェブサイトを自由に行き来できることから、そこで自分の好みに合った女性を見つけ、犯行に及ぶ。ジャックと取材していたアンジェラもスケアクロウの願望に見合ったがために、その毒牙に掛かってしまう。 そんな恐ろしい敵に挑むために再びタッグを組むことになったジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリングのそれぞれの状況は『ザ・ポエット』と本書では全く状況が異なる。 一介の地方紙の新聞記者に過ぎなかったジャックが『ザ・ポエット』の事件によって一躍注目を浴び、ロサンジェルス・タイムズ紙の記者になる立身出世の物語だったのに対し、本書は一度の離婚を経験し―なんとその相手はボッシュシリーズでお馴染みの新聞記者ケイシャ・ラッセル!―、そのロサンジェルス・タイムズ紙から解雇勧告を受けた立場であり、後任の新聞記者の引継ぎと教育を兼ねて最後のヤマとして取材している。 つまり上昇気流に乗っていたジャックに対し、本書では下降線を辿る新聞記者の起死回生の物語となっている。 一方レイチェルはFBIの花形部署、行動科学課のプロファイラーとして詩人の事件を担当していたが、ジャックとの件で新聞記者と寝た女というレッテルを貼られ、末端支部に左遷されてしまう。その後ボッシュと何度か組んだ事件でロスに再び戻り、諜報課勤務を続けている。但しそれは彼女の本分ではない部署ではある。 そして彼女は再び窮地に陥る。業務と称してマカヴォイの手助けをした際に専用ジェットを使用したことで経費濫用の罪に問われ、FBIを辞職させられる。 しかしその後ジャックの提案で独自で事件のキーとなるウェスタン・データ・コンサルタント社を捜査し、犯人の証拠を掴むことで再度FBIに復帰するのだ。 一方ジャックも事件の当事者の1人となることで一旦復職を許されるものの、その契約内容は収入減と各種手当が付かないという内容で、ジャックはそれを一蹴する。 ジャックもレイチェルも一旦は職を失いながらも、自分が見つけ、関わった事件で運命を変える。それは起死回生のチャンスだが、ジャックはそれでも自分に見合わない条件としてそれを蹴り、一方レイチェルはそれを受け入れ、再び殺人事件捜査の第一線へと戻る。 今回最も私が驚いたのがレイチェル・ウォリングのことだ。彼女は詩人の事件でジャックと恋仲になったことをFBI内に知られ、左遷され、長い間心が塞いでいくような閑職に追いやられた身だ。つまりそれは自らが招いたこととはいえ、ジャック・マカヴォイこそが彼女の輝かしい未来へのキャリアを棒に振る大きな要因だったことだ。そんな忌まわしい記憶が残る中に再びジャックに加担する理由が、彼女にとってジャックが“一発の銃弾”だったということだ。 これはボッシュがレイチェルに語った、誰でも1人忘れられない運命の人、心臓を撃ち抜かれた一発の銃弾のように、という説だ。つまりボッシュにとってエレノア・ウィッシュがそうであるようにレイチェルにとってそれはジャック・マカヴォイなのだ。 私はこれが非常に驚いた。ジャックはFBI女性捜査官の心を奪うほど人間的に魅力のある人物とこれまで思わなかったからだ。 新聞記者でいつもよれよれのコートを着て、煙草のヤニの匂いを漂わせて、警察やFBIに嫌悪されているような人物と想像していたからだ。私の中では俳優のマーク・ラファロのような風貌で、レイチェルは肩までのブロンドの髪をした細身の顔のクールビューティな感じで若い頃のティア・レオーニを想像させるような人物像である。 レイチェルがこれほどまでに惚れるジャックはよほどハンサムで魅力的なのだろうが、これにはどうも違和感がある。いや、単に私にとってお気に入りのキャラクターであるレイチェル・ウォリングがジャックに心底惚れていることに嫉妬しているだけなのかもしれないが。 ジャックの一人称で紡がれる物語は新聞記者の特性が実に深く描かれている。自身地方の新聞記者からロサンジェルス・タイムズ紙に引き抜かれたコナリーにとってジャック・マカヴォイは自らが色濃く反映されたキャラクターだろう。そこに書かれているのは新聞記者たちがいかにスクープを物にし、のし上がろうと貪欲に事件を追いかけている有様とそのためには他人を出し抜くことを厭わない不遜さを持っていることだ。 解雇通知を受け、後任となったアンジェラは事件記者としては新米ながらもジャックが追いかけることになったスケアクロウの事件を既にキャップと話してジャックの記事ではなく、2人の共同記事にすることをとりなして、一刻も早く大きな事件を扱えるように画策すれば、ジャックは自分の記事がセンセーションを巻き起こすことを期待して掴んだ手掛かりはいつまでも持っておく。更に自分が当事者になることで記者から取材対象者になると、解雇通知を受けたジャックに同情を寄せていた同僚は嬉々としてジャックに訊き込みを行う。 そんな生き馬の目を抜く、上昇志向の塊のような集団が新聞記者たちのようだ。即ちこれはコナリー自身の回顧録でもあるのかもしれない。 一方で顕著なのは花形とされていたメジャーメディア会社であるロサンジェルス・タイムズ紙が斜陽化してきていることだ。インターネットの発展でウェブ化が進み、新聞の発行部数は軒並み減少。従って経費削減としてリストラを行わなければならず、その憂き目にあったのがジャック・マカヴォイなのだ。 高給取りのベテラン記者を排し、安い月給の新人記者に取って換えようとする。実際ロサンジェルス・タイムズ紙は経営破綻し、会社更生手続きの適用を申請したそうだ。 コナリーも巻末のインタビューで応えているように、この新聞界を襲う未曽有の経営危機が本書を書く動機になったようだ。それは新聞界に向けたエールであると同時に鎮魂歌でもあるのかもしれない。 本書の題名であるスケアクロウ、即ち案山子はデータ管理会社におけるセキュリティ責任者の俗称だ。田畑を荒らしに来る害鳥たちから守るために付けられる見張り役、案山子のように、ウェブ世界の中を徘徊するハッカー、特許ゴロ、コンピュータ・ウィルスたちを見張り、データを守る存在だ。ウェスタン・データ・コンサルタント社でその任に当たるウェスリー・カーヴァ―がこの連続殺人鬼であることから題名は来ている。 一方ジャックの上司であるドロシー・ファウラーがその名前から『オズの魔法使い』の主人公に擬えられていること、そしてこの作品にも案山子が登場していることは何らかのメタファーなのかと思ったが、これが本当にそうだった。 しかし今回もまたストリッパーに絡んだ事件だ。コナリーの物語は本当にこのストリッパーや売春婦たちが巻き込まれる事件が多い。 そしてウェスリー・カーヴァ―はハリー・ボッシュと同様に母親がストリッパーである。ストリッパーが母親でありながらもボッシュは悪に染まらず、罪を裁く側の人間となった特別な存在だと強調するかのようだ。 しかしディーヴァーの『ソウル・コレクター』の時もそうだったが、今回は実にリアルで寒気を感じた。情報化社会でもはやウェブがなければ生活できない我々がいかにインターネットに、情報端末に依存して生きており、そして自分たちの秘密をそこにたくさん放り込んでいることに気付かされた。 そしてそれがある意味自身の生活を、いや自分自身のアイデンティティそのものを容易に侵す可能性を秘めていることも改めて思い知らされた。 ブログやツイッター、ラインにフェイスブック、インスタグラムなどに代表されるSNSに我々はいかに無防備に自分をさらけ出していることか。悪意あるハッカーたちやクラッカーたちが虎視眈々と狙っている付け入る隙を自ら提供しているようなものである。 しかしこれからはキャッシュレス化が進んでいけば、更にこのウェブで生活や仕事達の大半を処理していく傾向は強まることは避けられない。 そうした場合、何が問われるかと云えば、本書でも言及されているように、堅牢なシステムは無論の事ながら、それを扱う人間の資質だ。他人を盗み見ることが常態化し、悪い事とは思えなくなってくる、いや寧ろ他人の情報すらも容易に手中に出来ることで自らを一般人とは上位の存在、神と見なして他者を単なる名前やIDだけの文字だけの存在としか認識しなくなる怪物が育ち、悪用されるのが恐ろしい。 某通信教育会社がデータ管理会社の社員によって金になるという理由でユーザー情報を流出して売り払らわれていた事件を目の当たりにし時と同じ戦慄を覚えた。なんでもそうだが、結局行き着くところは「人」なのだ。 つまりこのウェスリー・カーヴァ―は単に創作上の怪物ではない。本書は実際に起こりうる事件であり、ありうる犯人であるからこそリアルで恐ろしいのだ。 しかしコナリーのストーリー運びには今回も感心させられた。特にジャック・マカヴォイが事件の結び付きを発見していくプロセス、レイチェルが行うプロファイリングの緻密さ、畳み掛けるように起こる2人への危難とそれを打倒する機転。それらは実に淀みなく展開し、全く無理無駄がない。よくあるデウスエクスマキナ的展開さえもない。全てが必然性を持って主人公の才知と読者の眼前に散りばめられた布石によって結末へと結びつく。 ジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリング2人が最高のコンビであることを再度確信した。 悔しいが、こんなに面白く、そして知的好奇心を刺激され、なおかつ爽快な物語を読まされたら、2人はお似合いであると認めざるを得ないだろう。再びこのコンビでの活躍を読みたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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犯罪未満の壮大な悪戯を世間に仕掛けて喜ぶことを目的とした黒古葉善蔵率いる非営利団体Zionist Organization of Karma Underground。通称ZOKU。
それに立ち向かうのは木曽川大安率いる科学技術禁欲研究所Technological Abstinence Institute。通称TAI。 この2つのチームの戦いを描いた連作短編集が本書である。 まず第一話「ちょっとどきどき」では暴音族なる騒動が世間に起こっていることが語られる。 まずはイントロダクションとも云うべき1編。お騒がせ悪戯集団ZOKUの悪戯の数々とそれを防ぐTAIの面々の顔合わせだ。 続く「苦手な女・芸術の秋」ではTAIの木曽川大安の秘書、庄内承子が初登場する。 なんと本書ではTAI所員のヒロインの永良野乃がエース揖斐純弥に惚れてしまうという事態が起こる。単にシリーズを続けるだけでなく、登場人物たちに発展を見せる、流石は森氏。エリート然とした揖斐のやや子供っぽい側面と思いもかけないところから来るプレゼントに恋愛経験の浅い永良野乃がほだされていく一部始終が描かれていて好ましい。 「笑いあり 涙なし」ではZOKUにも新キャラクターが登場する。 前回で揖斐に興味を、いや恋心を抱き出した永良野乃の揖斐へのアタックは本書でもまだ続く。いやむしろ前回では意識し出して手探り状態だったところに、最後揖斐が全く野乃のことを意中にないことが判明しただけに逆に野乃のプライドに火が着いて自分の方に気を向けさせようともっと積極的に、明らさまに気持ちを出していく様が描かれる。 一方ZOKUではバーブ・斉藤というまた濃いキャラクターが登場する。秘密兵器として満を持しての登場だが、直接ロミ・品川とケン・十河との絡みがないのでまだまだイントロダクションと云ったところだ。 展開に捻りが利いているのが「当たらずといえども遠からず」だ。 封筒に書かれた内容通りに従うと馬券が当たり、福引で特等が当たるという、ミステリとしても非常に興味深い題材。そして永良野乃の望みが巨大ロボの操縦という途方もない物だったことから、なんと計画が頓挫してしまう。実に意外な展開だ。 しかしそれよりも30半ばのロミ・品川と新入社員の20代半ばのケン・十河のジェネレーションギャップ溢れる会話が実に面白い。スカートめくりの件は爆笑もの。しかしスカートめくりかぁ。既に私が小学生の頃でも1,2人、しかも低学年の時にそんないたずらっ子がいただけである。本当に学校で流行っていたんだろうか? 最後の「おめがねにかなった色メガネ」は森氏らしくツイストが効いている。 敵同士が仲がいいとこんなツイストの効いた展開をも起こりうるのか。機関車好きの木曽川と派手好きな黒古葉。しかしそれぞれの所有する乗り物に密かに憧れを抱いていたことを率直に打ち明け、それぞれの立場を一日交換して思いを果たそうという、何とも子供じみた、いや少年の心を失わない大人たちの遊び心が横溢している。それを果たすためにそれぞれがお面を被ってやり過ごすのが面白い。黒古葉は縁日で売っている類の鉄腕アトムのお面を被り、一方木曽川は頭からすっぽり被るスペクトルマンのマスク―実にマニアックだ―を被る。逆にこの2人がそれぞれTAIやZOKUでやり過ごす様子と少年の頃のように機関車、ジェットの操縦席に座って胸躍らせるシーンが印象強くて、正直今回の悪戯についてはどうでもよくなってしまう。 さてこれは森版『ヤッターマン』とも呼ぶべき作品か。 犯罪にまでには至らない被害の小さな、しかし見過ごすには大きすぎる悪戯を仕掛けるZOKUとそんな悪戯に真面目に抵抗し、阻止せんと追いかけるTAI。 それは「ヤッターマン」における、ドロンボー一味とヤッターマンを観ているかのようだった。 さてそんな「まじめにふまじめ」を行うZOKUのメンバーは、黒幕の黒古葉善蔵にロミ・品川、ケン・十河、バーブ・斉藤で構成されており、プライベートジェットを根城としている。 一方「ふまじめをまじめ」に阻止しようとするTAIは白い機関車を基地にしており、木曽川大安を所長に、揖斐純弥、永良野乃、庄内承子が主要メンバーである。 木曽川と黒古葉はお互い実に親しい幼馴染でいがみ合っていない。寧ろ顔を合わせた時にはお互い談笑する仲だ。昔から悪戯好きだった黒古葉とそれを真面目な木曽川が少年時代から尻ぬぐいしてきた仲である。つまりこれは2人の大富豪が日本全国を舞台に繰り広げる壮大なお遊びなのだ。 各編の悪戯は暴音族、暴振族、暴図工族、暴笑族、暴占族、そして暴色族。 ある特定の場所のみに騒音を発生させる、振動を発生させる、色んな制作物を置いて、そのまま放置する、笑う場面でない時に笑いを起こす、占いで未来を当てて、次には大外れを食らわす、希望した色とは違う色が出てくる。 物によっては軽犯罪にも該当するし、子供の悪戯の延長でしかないことを費用と労力を大いにかけて全国に亘って行う、それがZOKUだ。 それを阻止するために警察に協力して彼らを追うTAI。 このような善対悪の物語は総じて悪の方に魅力があるのだが、流石はキャラ立ちの森作品、そのキャラクター性は双方勝るとも劣らない。 まずTAIの面々はそれぞれ苗字が河川、それも中部地方を流れる川の名前になっているのが特徴(永良野乃だけ漢字が異なるが)。 そしてTAIの頭脳、揖斐純弥と木曽川の孫でヒロインである永良野乃との恋の駆け引きが本書の読みどころの1つとなっている。とはいっても永良野乃が一方的に揖斐を好きなだけで自分に振り向かせようと揖斐にモーションを掛けるが発明好きの揖斐は朴念仁で気付いているのか気付いていないのかまともに取り合わない。彼にとっては野乃は単に所長の孫でTAIのメンバの1人でしかないのだろうが、例えば靴をプレゼントするが、それに合う服がないので野乃が履かないでいるとその靴に合う服を買ってあげるよ、なんて云われれば女性はその意外な提案に自分に気があるのかと思うはずである。こういうやり取りが女性のみならず、私のような男性も思わず微笑んでしまうのだ。 なお永良野乃は敵ZOKUのメンバーの1人、ケン・十河がファンになるほどの容姿の持ち主である。 揖斐と野乃の歳の差は12歳で揖斐の方が年上。犀川と萌絵の関係や、保呂草と紫子の関係のように森氏はこの年上男子に年下女子が一方的に恋をするという設定がどうも好きなようだ。 またZOKU側の面々の名前はカタカナ表記の名前に日本の苗字と一昔前の芸能人のようなネーミングが特徴。ロミ・品川とバーブ・斉藤はその元が解ったがケン・十河は解らなかった。 そして年増の―といっても30代半ばらしいが―ロミ・品川もまた揖斐に潜在意識下で恋心を抱いていることが判明する。 そしてこの30代半ばのロミ・品川と新入りのケン・十河のジェネレーションギャップによって起こるトンチンカンな会話が実に面白い。特にスカートめくりの件は爆笑ものだった。ちなみに私はロミ・品川に近い側の人間。 最初の3編はZOKUとTAIの真っ向勝負やTAIの野乃がZOKUにさらわれる、野乃が囮になってZOKUたちをおびき寄せる、といった真っ当な善対悪の構図で物語は描かれるが、4話目になると野乃の意外な希望から思った以上に金がかかり、計画が途中で頓挫したり、双方のボスが一日交換ボスになるといった森氏ならではの展開を見せる。そう、このTAIの所長木曽川とZOKUのボス黒古葉もまた実に憎めない人物なのだ。 一大財を成し、遊ぶお金と自由な時間を手に入れた2人が始めたのは日本全国を巻き込んだ正義と悪の対決ごっこ。こんなワンアイデアから生まれた本書は稚気に満ちていて実に愉しい読書の時間を提供してくれた。 そして作中に出てきたZOKUの数々の悪戯は恐らく森氏が日ごろから想像している「やってみたら面白い事」の数々であるに違いない。大人になって出来なくなったこれらの悪戯、いや大人にならないとできないが実際やれば逮捕されてしまうから出来ない悪戯を森氏はZOKUの面々に託したのだろう。 幸いにしてこの後もシリーズは続き、この憎めない輩たちと再会する機会があるようだ。次作を愉しみに待つとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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HM卿シリーズ11作目の本書は1999年に国書刊行会から刊行されたものの改稿版。約19年を経てようやく文庫化となった。
そんなディクスン作品でも希少な部類に入る本書の舞台はなんと船上ミステリ。第二次大戦下のニューヨークからイギリスへ渡航する大型客船で起きる殺人事件を扱っている。 本書の冒頭で作者のディクスンは自身が第二次大戦開戦直後に経験したニューヨークからイギリスへの船旅の経験を基に作られたことが記されている。1本の作品にするほどこの船旅は作者の印象に強く残ったそうだ。 更に本書は第二次大戦下での客船の大西洋渡航という設定がミソとなっている。それはつまり大型客船でありながら、イギリスへの軍需品を輸送するミッションを負っているため、乗船が許されたのは喫緊にイギリスに渡る必要のある9人しか乗れなくなっているのだ。つまりこれは海上の館物と云っていいだろう。 その9人のメンバーは以下の通り。 主人公を務めるマックス・マシューズは元新聞記者で乗船した客船の船長フランシス・マシューズの弟。彼は火災現場の取材中に事故に遭い、片脚に大怪我をしたが、幸いにして全快したものの、取材に同行していたカメラマンを事故で喪い、そしてそのまま辞職した。そして新天地ロンドンで新たな職にありつくために渡航している。 ジョン・E・ラスロップはニューヨークの地方検事補で、ある殺人犯を追っている。しかも凶悪な恐喝犯カルロ・フェネッリのお目付け役でもある。 トルコ外交官夫人でもうすぐ離婚する予定の妖艶なエステル・ジア・ベイ夫人。 イギリスの実業家ジョージ・A・フーパーは息子が重病のため、急遽帰国することになった。 その他医師のレジナルド・アーチャーにフランス軍人のピエール・ブノア。謎めいた若き女性ヴァレリー・チャトフォードと貴族の子息ジェローム・ケンワージー。 そして最後に隠密裏にイギリスへと戻るHM卿ことヘンリ・メリヴェール卿。 しかし上に述べたようにそれぞれの乗客に急遽イギリスに戻らなければならない、のっぴきならない事情があるとは明確に書かれていない。今回の事件でエドワーディック号に乗船した本来の動機が明らかになるのはブノア、チャトフォード、ケンワージーぐらいである。 第2次大戦時下という緊迫した状況下での軍需品輸送の密命を帯びたイギリス渡航中の客船を舞台にディクスンが仕掛けた謎は船上での殺人現場に残された指紋に船内に該当する人物がいないという実に奇天烈な物。単に船内の登場人物に限定しない第三者の介入と、更に陸地にある館とは異なる、どこからも部外者が侵入できない船上で第三者の介入がなされたという不可解な謎を用意しているのだ。 更に殺人事件はそれだけに留まらず、第2、第3の殺人が起きる。 久々に読んだカーター・ディクスン作品だが、謎また真相は小粒でありながら全てが収まるべきところに収まる美しさが本書にはあった。同じ客船を舞台にしたドタバタ喜劇が過剰な『盲目の理髪師』よりもこちらを私は買う(ところで本書でも客船での理髪師とHM卿のやり取りが殊更ユーモアに書かれている。これは前掲の作品に呼応したものだろうか?)。 特に指紋のトリックは21世紀でありながら私は本書で初めて知った。 また犯人特定の鍵に使われた様子のない髭剃り用のブラシに着目するところはクイーンのロジックの美しさを感じさせる。 つまりある意味カーター・ディクスンらしからぬロジックの美しさが感じられる作品なのだ。 また注目したいのは本書の舞台が第2次大戦時下というところだ。 複数の国を巻き込んだこの世界大戦において無数の人間が死ぬ状況。そんな中で軍需品輸送の密命を帯びた客船に同乗した9人の乗客とその船員たちはそれぞれに名を持ち、そしてそれぞれに使命を、希望を、そして思惑を持っている。大量に人が死ぬ時代に9名の人間が意志ある人間として描かれ、そして殺人劇が繰り広げられているところに本書の意義があるように思える。 世界中で人が次々と死に、誰がどこでどのように死んだのかの確認が後手後手になり、結果、名もなき兵士たちによる死屍累々の山が築かれる中、名を持った人間たちが戦争に加担する船に乗り込み、そして命を落とすところが意義深い。 しかしこうも順調にジョン・ディクスン・カー及びカーター・ディクスン作品が新訳刊行されていることは非常に喜ばしい。 HM卿シリーズで未読の作品は残すところ3作品となった。そのいずれもが早川書房からかつて刊行された作品であるが、もはや著作権は切れているのでこの際東京創元社から引き続き新訳刊行してもらいたいものだ。ギデオン・フェル博士シリーズも、その他歴史ミステリ、いやカー作品を全て網羅してほしいものだ。 私が生きているうちにカー作品コンプリート出来ることを願っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ボッシュシリーズと並ぶコナリーのシリーズ物として現在も作品が発表されているリンカーン弁護士ミッキー・ハラーシリーズ第2作。1作目が好評で映画化もされたが、コナリー自身もこの作品をもう1つの彼の作品の主軸にするためか、磐石の態勢で2作目を送り出した。
そう、2作目で早くもボッシュとハラーが共演するのである。しかも『ザ・ポエット』で主人公を務めた新聞記者ジャック・マカヴォイも登場させている。さらに物語半ばでは『バッドラック・ムーン』のキャシー・ブラックらしき女性がかつての依頼人であったことも仄めかされている。 これはコナリーがこのミッキー・ハラーをボッシュ・ワールドにさらに積極的に取り込むことで、もう1つのシリーズの軸として成立させようと本書にかなり強い意気込みを掛けていることが解る。 異母兄弟でありながら、刑事と弁護士という水と油の関係の2人。 ボッシュはしかも刑事の中でも犯罪者の悪を許さず、組織の中で予定調和的解決がなされようものならば、それに逆らい、辞職の危機に追い込まれてもなお、徹底して悪を断ずる姿勢を崩さない、いやむしろ法が悪を裁けない場合は自らの手を汚してまで成そうとするほど、自分の正義を貫く男だ。 一方ハラーは依頼人が実際に罪を犯していることを知っても、あらゆる方面から捜査の粗を見つけ出し、その無効性や不当性を主張し、事件そのものが起きなかったぐらいにまで陪審員を説き伏せ、依頼人の無罪を勝ち取り、報酬を勝ち取ろうとする男だ。彼にとって明らかに正義よりも自身の富と名声のために弁護士をやっているような男だ。 作中でも「コインの裏表のようなもの」とお互いを評しているほど、こんな相反する男たちがどうやって協力し合うのか。さすがは物語後者のコナリー、実に上手い設定を導入する。 ボッシュが捜査をするのはハラーの依頼人の事件ではなく、ハラーに依頼人をもたらすことになった彼の友人の弁護士が殺害された事件の捜査なのだ。つまりハラーは友人の無念を晴らすために犯人を捕まえることを求めているため、2人の向くベクトルは全く同じなのである。なんと絶妙な筆捌きではないか。 しかしそれもやがて崩れてくる。ボッシュの捜査はやがてエリオットの方にも手が伸びてくるのだ。 確かにこれは必然といえば必然。殺害された弁護士が衆目を集める裁判を担当していたとなればそこに事件の火種があると思うのは当たり前だ。したがってこの異母兄弟は次第にお互いの仕事と任務を護るために反発しあうことになる。 さてそのハラーだが、前作で担当したルイス・ルーレイの事件で負った拳銃で撃たれた傷の治療を受け、十分傷が癒えないまま仕事に復帰したことで痛みが再発し、再手術の後、再度療養期間をおいて2度目の復帰を果たしたばかりで2年間仕事をしていなかった。しかもその期間には鎮痛剤による薬物依存に対するリハビリも含まれていた。つまり彼は弁護士として薬物依存のキャリアという弱みを持つことになった。それが今後彼の経歴や仕事で爆弾として発動するのかも読みどころだ。 またその経験が同じく治療中の鎮痛剤の依存症に陥って窃盗容疑を掛けられた元プロサーファー、パトリック・ヘンスンを助けることに繋がる。ハラーは怪我でプロサーファーの道を断たれ、一度はコソ泥の身まで落ちぶれた彼が更生している姿を見て、その中に復活しようとする自分の姿を見出したのだろう。ヘンスンを助け、自分のお抱え運転手として雇うことにする。 ハラーとヘンスンがどのようなタッグを組むのか、これもまたシリーズの今後の読みどころの1つになりうるだろう。 また前作でルーレイに殺害された刑事弁護調査員ラウル・レヴンの後任となるシスコこと、デニス・ヴォイチェホフスキーは大柄で威圧感のある、ハーレーを乗り回す元暴走族という異色の経歴の持ち主。しかし彼は逮捕記録もなく、もめごとも一切起こさなかったクリーンな人物でハラーは彼に絶大なる信頼を寄せている。そしてハラーの元妻で秘書のローナ・テイラーと付き合っている。 このように1作目から登場人物も刷新され、一旦リセットされた感もある。つまり前作はイントロダクションとすれば本書がシリーズの基礎を作り、そして本格的な始まりを示す作品であると云えよう。 やはりこういうリーガル・サスペンスで面白いのは我々一般人では未知の世界である法曹界の常識や戦術などが垣間見られるところだ。 人は感情の動物である。いかに論理的に説明しても感情的に割り切れなければどうしてもそちらに引っ張られてしまう。陪審員制度では法律の素人である彼らの心をいかに掴むかが重要になってくる。つまり人間心理を熟知するものこそ法廷を制するのだ。 そこには正義よりもむしろ法廷を支配線とする情熱が勝るといっていい。したがってハラー達弁護士、起訴する側の検察はいかに陪審員たちに印象付けるかに腐心する。長々と主張することが必ずしも彼らの興味をひくものではなく、簡潔かつ明瞭に説明する方が印象に残る。さらにとっておきの仕掛けは法廷が閉まる直前に放つことで陪審員に印象づかせて翌日まで持ち込ませるなど、自分の味方につけさせるために彼らはありとあらゆることを仕掛ける。 また今回最も読み応えがあったのは検察側と弁護側がそれぞれ陪審員を選定するシーンだ。延々30ページに亘って描かれるその攻防は人を読む目が試されるプロセスが詳細に書かれている。 日本も裁判員制度が採用されたため、本書に書かれていることはまさに他所事ではなくなった。日本でも同様なことが行われているのだろうか? そしてもし私が裁判員に選ばれたとき、私は法廷に立つまでに至るだろうか、など考えさせられた。 今回ハラーが弁護を担当するウォルター・エリオットは映画会社会長兼オーナーといったセレブ。彼は妻の浮気の現場を目撃して感情に駆られて妻と間男を射殺した疑いで訴えられている。 しかし終わってみればこれまでのコナリー作品のキャラクターが登場する割にはさほど大きく関わらなかったという印象だ。 まずジャック・マカヴォイはほとんど蚊帳の外的な扱いだったし、ボッシュも節目節目で出てくるとはいえ、いつものような押しの強さが少なかったように思う。特に物語の主軸であるエリオットの事件に関わると見せながらも最後までその核心には迫らず、外周を廻ってハラーの動きを見ていた、いわば裏方的な存在だった。 これはどこまでシリーズキャラクターの共演を期待するか、読み手側の受け取り方によって本書の感想は大いに変わるだろう。 それで私はと云えば、やはり初の2大シリーズキャラクターの共演と謳うならば、もっとゴリゴリお互いの立場を主張して争ってほしかった。上にも書いたが、いかなる犯罪者も自分の手を汚してまで裁くことを厭わないほどの極端な正義感の持ち主である警察側のボッシュと、その人自身が犯罪者か否かは問わず、弁護士として成り上がるためにはいかなる手練手管も尽くして依頼人を無罪に持ち込もうとする弁護側のハラーという、自分の道を信じる男同士の熱いぶつかり合いとその中で生まれる友情を見たかったのが本音である。すでにボッシュがハラーを異母弟と認識していたことで彼が敢えて身を引いて、寧ろ擁護者的な立場でハラーを見守っていたのが私にはボッシュらしくなく、また物足りなく感じたのだ。 今後はもっとゴリゴリボッシュとやりあうことを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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少年時代は忘れ得ぬ思い出がいっぱい。良い物も忘れたいような悪い物も全て。
本書は自分のそんな昔の記憶を折に触れ思い出させてくれ、そしてその都度私は身悶えするのだ。羞恥心と未熟さを伴いながら。 刊行された1992年、本書が当時それまでに刊行された著書の中で最大の長編作品だった。単行本では上下巻、文庫では全4巻とかなりの分量なのだが、その後もキングは折に触れ『ザ・スタンド』、『アンダー・ザ・ドーム』、『11/22/63』といった大長編を著し、この『IT』もその中の1冊となってさほど珍しくなくなってきた。しかし当時はその分厚さに面食らったものである。 さて文庫版にして全1,886ページに亘って繰り広げられるお話はデリーという架空の町で起きる、26,7年ごとに甦る“IT”と呼ばれる人殺しピエロとの戦いの話だ。子供の頃に“IT”と対決した子供たちが28年前に交わした血の誓いに従い、、28年後に現れた“IT”と再び相まみえる、と非常にシンプルな内容の話だ。 たったそれだけの話になぜこれだけの分量を費やすのか? 大きく分けて3点特徴が挙げられる。 1つは物語が1958年に“IT”と戦う7人の子供たちのキャラクターの背景と彼ら彼女らが出逢うまでの顛末が語られるからだ。 2つ目は“IT”との戦いを経た7人の子供たちそれぞれのそれまでの人生を語るからだ。彼らが誰と結婚し、何をしているのかが詳細に語られる。 3つ目は1958年の“IT”との戦いと1985年現在の彼ら彼女たちの戦いとが交互に語られるから。 不思議なことに大人になった彼らは仲間のうちマイクから“IT”復活の電話が掛かってくるまで彼らが少年時代に行った“IT”との戦いについてはすっかり忘れていた。そしてそのことを思い出してもどうやって戦い、そして勝利したかを思い出せないでいる。従って彼らは過去の戦いの様子を思い出しながら“IT”と対峙していく。 さてそんな物語の発端は28年前にデリーで起きた6歳の子が“IT”に襲われる話があり、その後、時は1984年に飛び、“IT”が再びデリーに現れたことが語られ、そしてデリーに住むマイク・ハンロンから28年前に“IT”と対峙した仲間たちへ招集が掛けられる様が描かれる。 招集が掛けられたのは次の面々だ。 市場調査会社を営むスタンリー・ユリス。 お得意の声帯模写を活かしてDJになったリチャード・トージア。 斬新なデザインで注目を浴び、ヨーロッパとアメリカを行き来する建築家のベン・ハンスコム。 セレブ専門のハイヤーの運転手エディ・カスプブラク。 ファッション・デザイナーのベヴァリー・ローガン。 ベストセラーを出し、注目のホラー作家ビル・デンブロウ。 唯一デリーに留まっているマイク・ハンロンは図書館員だ。 しかしそのうちのスタンリー・ユリスは“IT”の悪夢に耐え切れず、マイク・ハンロンからの連絡の後、すぐに浴室に入り、自殺してしまう。 しかしその他の彼らは28年前の悪夢に対峙するのを恐れおののきながらも、仲間と交わした血の誓いに従って、全てを擲ってデリーに戻る。それぞれ明日の仕事や今やらねばならない仕事を抱えながら、それらを全てキャンセルしてまで、デリーへと向かう。 ところでキングの短編に「やつらはときどき帰ってくる」という作品がある。 それは高校教師の許に少年時代にいじめられた不良グループが再び当時の姿で舞い戻ってくるという作品だ。 28年前の悪夢との対峙を扱った本書は単にその時町を恐怖に陥れた怪物の対決のみならず、過去の自分とそして自分の忌まわしい記憶との対峙でもある。 人は最悪の時を迎えた時、時が過ぎればそれもまたいい思い出になる、笑い話になる、そう願いながらその最悪の時をどうにか耐え抜き、やり過ごそうとする。何もかもが順風満帆な人生などはなく、そんな苦い経験、忘れたい屈辱などを経るのが大人になることだ。 時がそんな負の思い出を浄化し、いつしか他人に語れるまでに矮小されていくのだが、そんな苦い過去を想起させる出来事が再び起きた時、それはつい昨日の出来事のように思い出される。 そして自問するのだ。あの時の自分と今の私は少しは変わったのか、と。 例えばベン・ハンスコムは今は注目のハンサムな建築家として周囲の耳目を集める存在だが、彼の小学生時代は「おっぱい」と揶揄されるほどのデブで、しかも周囲に友達がおらず、いつも一人で図書館に行って、本を借りて楽しむのが習慣となっていた。 エディ・カスプブラクは喘息持ちで大女で過剰にエディの健康に干渉する母親の支配下にあった。 ビル・デンブロウはどもりの激しい少年で嵐の後に自分が作った紙の舟で遊びに行った後、死体となって見つかった6歳の弟を自分が殺したと思い込み、またその弟の死で家庭が一気に冷え込んだことを憂いていた。 リッチー・ドーシアは歯科医を経営する、息子に理解ある親の許で育てられた、比較的裕福で恵まれた子供である。 そして彼らにはヘンリー・パワーズを筆頭にしたヴィクター・クリス、ゲップ・ハギンズらの不良グループたちという共通の天敵がおり、常にいじめの的にならぬよう、びくびくしていた。 そんなかつてとても怖かったいじめっ子と再び出くわすかもしれない恐怖、密かな想いを持っていた相手との再会。お互いそんなこともあったと笑って話せるほど、自分の中で折り合いがついているのか、と自分に問うことになる。 故郷に戻ることは即ち追いかけてくる過去に囚われることでもある。 但し過去は全て忌まわしい物ばかりではない。その時にしか得られない体験や友達が出来、それもまた唯一無二なのだ。 下水道のダム作りに関与したことでベン・ハンスコムは初めてビル・デンブロウとエディ・カスプブラクと知り合い、友人となる。更に彼らの共通の友人リッチー・ドーシアとスタンリー・ユリスとも。ようやく彼はベストフレンドを見つけたのだ。 どもりのビル・デンブロウは初めて自分の手持ちの金で買った中古の自転車をシルバーと名付けた。彼の体格では大きすぎるその自転車を彼は見事に乗りこなす。ビルはシルバーに乗っている時は無敵だった。 その無敵感は男の子ならば誰でも解る想いだ。自転車は初めて自分たちの世界を広げてくれる魔法の乗り物だった。そんな思いがビルの体験を通じて想起される。 最後に彼らの仲間に加わるマイク・ハンロンはデリーの町でも唯一の黒人で周囲から「そういう目」で見られている。 彼の父親ウィルは自分たちが「くろんぼ」と蔑まれる存在であることを自覚し、そんな蔑視や不当な扱いからは逃れられない運命であると受け入れ、そんな社会に負けないように息子に諭す、強い父親だ。 彼はビルたちとは違う教会学校に通っていたが、ある日親子ともどもハンロン家を忌み嫌うヘンリー・パワーズに追いかけられたマイクが逃げ込んだ荒れ地でビルたち仲間と遭遇し、ヘンリー・パワーズら悪童一味と戦い、勝利することで仲間になる。 この7人が、運命とも云える出逢いを果たし、仲間となるシーンが何とも瑞々しく、爽やかで無垢な人間関係が築けた私の少年時代の思い出を誘う。初めて出逢っても一緒に遊べばもう友達になっていたあの、楽しかった日々を。 そしてビル、ベン、リッチー、エディ、マイク、ペヴァリー、スタンらが出逢った時にまるでカチッとパズルが収まるべく場所に収まったようなあの想いもまた、仲間としか呼べない強い結び付きを感じさせるあの瞬間を思い出させてくれる。 そう、私にもそんな時期が、そんな出逢いがあったことを。 さてそんな彼らが対峙する“IT”とはどのような怪物なのか。この長い物語を読んでいる間、私は様々な想像を巡らせた。 最初に登場した時はボブ・グレイと名乗るペニーワイズと異名を持つピエロとして現れる。しかしそれぞれの目の前に現れる“IT”の姿は一様に異なる。 それらはつまり彼らの潜在意識下における恐怖の象徴ではないか。 そして大人になってデリーに戻り、再び“IT”と対峙する時、“IT”は彼らが少年あるいは少女だった頃に出逢ったおぞましい姿で現れる。 “IT”はつまり彼らが少年少女時代に抱いたトラウマなのかもしれない。 それが強調されるのは一同が28年ぶりに再会するデリーの<東洋の翡翠>という中華料理店で最後に皆でフォーチュン・クッキーを割るシーンだ。彼らが割ったフォーチュン・クッキーからは彼らが潜在的に意識していた当時抱いていたトラウマそのものが現れる。 そしてそれは彼ら6人以外には見えない。特別な絆を持つ彼らしか見えないのだ。 この“IT”が巣食うのはデリーの街の下水道の奥の奥。もはや迷路と化した地下の大下水道網に潜んでいる。そして彼はそこから街の川や排水口から現れて子供たちをさらって、あるいは殺していく。 人々の営みをクリーンに保つならば、不浄なるものを集める場所が必要であり、排水施設はその1つだ。つまり下水道は街が、そして人々が清潔に暮らしていくためにそれら負の要素を一手に引き受けた場所だと云えよう。 昔から蓄積された不浄なるものは即ち町の暗部であり、人々の排泄物や汚物が集まる場所はある意味人々が表面をクリーンに取り繕うための掃き溜めとも云えるだろう。それはどこか後ろ暗いところを感じさせ、そんな負の要素を“IT”は食らい、それをまざまざと人に見せつけて恐怖を誘い、餌にして街を周期的に恐怖に陥れる。 ある意味“IT”は人々が長く続く平和のために忘れがちなことを思い出させてくれるリマインダーのような役割を果たしているのかもしれない。 そう人々が戦争の愚かさを忘れないために敢えて戦争を起こすような、逆説的に教訓を与える、一種の体罰のように人々の心に恐怖として心に深く刻みつけさせるように。 しかしなぜ彼らは再び戻って“IT”と対決しなければならないのか。 彼らが少年時代にそうしたように、第2のビルたち<はみだしクラブ>がデリーに現れ、彼らに任せてもいいのではないか。 しかもマイク・ハンロンからの電話がなければ彼らは“IT”のことはすっかり忘れていたのだから。 まだ純粋さが残っていた彼らは再び“IT”が戻った時、「そうしなければいけない」という義務感に駆られたからだ。 しかし時間は人を変える。少年時代の約束を未だに守ろうとすること自体、難しくなっている。それはそれぞれに生活が、守るべきものがあるからだ。 しかし彼らは1人を覗いてそれまでの暮しを、仕事を擲ってまでも集まる。つまり“IT”とは子供の頃を約束を愚直なまでに守る大人たちがまだいてほしいというキングの願望によって生み出された作品なのではないだろうか。 キングは冒頭の献辞にこの物語を捧げていることを謳っている。その結びはこうだ。 “―魔法は存在する” この魔法とは30年弱の周期でデリーの街に現れる“IT”と呼ぶしかない災厄を少年少女が討ち斃す奇跡を指していると捉えるだろうが、忙しい現代社会で人間関係が希薄になりつつ昨今において、少年少女時代に交わした約束を守り、大人になったかつての少年少女が再会し、再び対決すること自体がキングにとって“魔法”だったのではないか。 30年近くの歳月を経ても再会すればかつての気の置けない気軽な友人関係に戻る、これこそが友情という名の魔法ではないだろうか。 私はキングが自分の子供たちに魔法は存在するのだから今の友達を大切に、とそれとなくメッセージを込めているように思えた。 このデリーの街はキング作品にはお馴染みの街で当然ながら他の作品とのリンクも見られる。 まず同じく架空の街キャッスル・ロックの気の狂ったおまわりが女性を何人も殺した事件は『デッド・ゾーン』のフランク・ドッドのことだろう。 そしてマイク・ハンロンの父ウィルが軍隊に入っていた頃に知り合った炊事兵ディック・ハローランは『シャイニング』の舞台≪オーバールック≫ホテルのコック、ハローランのことだ。 また目に見えない絆で結ばれた7人の友達。彼らの溜まり場である荒れ地。悪童一味との決闘。これらを読んでいくうちに同作者の傑作中編「スタンド・バイ・ミー」との近似性が頭をよぎる。あの作品に横溢するノスタルジイを存分に描きつつ、それをベースとしてキングお得意の原初体験を絡め、そして大人になった仲間の再会と共通の敵との戦いを描くにはキングにとってこれだけの分量が必要だったのだ。 ただそうはいってもやはり本書は長い。冗長と云ってもいいだろう。 私は本書に先んじて本書よりも長大な『ザ・スタンド』を読んでいたが、同書はいくつも展開が起き、悪対正義の構造を根底に置きながらパンデミック小説、ディストピア小説、ロードノベル、また閉じられたコミュニティの中で起きる人間関係の軋轢など、場面展開や物語の趣向が変わるなど、変化と起伏に溢れた作品だった。 しかし本書は物語の構造としては実にシンプルであり、舞台もデリーがメインであまり動きがない。1つの場所で繰り広げられるのは1958年の過去と1985年の現在の話。そして今回はディテールに筆を割き過ぎているきらいがあり、なかなか前に進まないもどかしさを感じてしまった。 作者の狙いは過去と現在の主人公たちの“IT”との戦いをシンクロさせることで大人の彼らが徐々に戦い方を思い出し、そして打ちのめされそうになった時に再び過去を思い出して力を得るという構造を打ち出したことでそうなったのだが、正直全てのエピソードが“IT”との最終決戦に寄与したかと云えば、やはりかなり無駄な話もあったように思える。 私はエピソードは嫌いではない。寧ろ歓迎する方だが、1,900ページ弱もの分量を必要としたかは今回は疑問に感じた。 “IT”はキングの長い作家生活の中で数あるターニング・ポイントの1つとして挙げられる作品だろう。確かにそれは感じたが、それは決していい意味ではない。 キングをあまり好きではない読者はその冗長さを挙げることが多いが、私はそれまでそのことを感じなかった。確かに普通の作者ならば省略するであろう時間の流れをキングはじっくり書くが、それが冗長とは思えず、物語を膨らませるために必要な要素として描かれ、またそのエピソードも読み応えがあった。 しかし本書で私は初めてキング作品を冗長と感じた。 書きたいことが沢山あり、恐らくキング自身がこれらビル、ベン、エディ、リッチー、ペヴァリー、マイク、スタンら7人に愛着を抱いていたことから色々と詰め込んだのだろうが、それら全てに必然性があったとは思えなかった。 “IT”。 このシンプルな代名詞はその時の会話や場面で示すものが、意味が変わる。たった2文字の中に宇宙よりも広い意味を持つ。 そして“それ”とか“あれ”とか“IT”を示す言葉が会話に多くなった時、それは健忘症の兆しだともいう。本書の主人公たちも“IT”の存在は忘れてしまい、そして戦いに勝利した後もまた忘れていっている。 “IT”とは私たちが老いと共に大事な何かを忘れていくことの恐ろしさ自体を現した言葉なのかもしれない。そして40も半ばを超えた私にもこの“IT”に当たる、忘却の彼方にある、何かがあるのではないか。 そう、それこそが“IT”なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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森氏はシリーズのそれぞれ5作目、10作目と5作ごとの節目で短編集を刊行する。本書はVシリーズ10作目の節目に刊行された短編集だ。
口火を切るのは「トロイの木馬」。 本書でまず驚かされるのは2002年時点で書かれたとは思えない情報技術の世界の先駆的内容だ。 ネットワーク世界を舞台にすると虚実の境が曖昧になり、何が現実で非現実なのかが解らなくなってくる。21世紀では既にそのような作品が映画、ドラマ、小説も含めゴマンと出ているが、本作はそれらに系譜に連なる作品だ。 私は常々森氏は短編では文学的抒情が引き立つ作風になる傾向があると第1短編集から思っていたが「赤いドレスのメアリィ」はその傾向が顕著に表れた作品だ。 かつて裏に自分のレストランがあったビルにあるバスの待合所に来る日も来る日もメアリィさんと呼ばれる老婆が待っていたのは、その昔愛した男だった。 妻子ある、その常連はメアリィと呼ばれる女主人に最愛の妻の若かりし頃の面影を見ていただけだった。しかしそれがために彼は女主人に好かれるようになり、妻の嫉妬を買うようになって、ついに諍いが起き、メアリィさんが亡くなるという事態が起きた。遺体は川に遺棄したが、発覚する前に主人は恐れをなして自首した。 色んな憶測が語られる中で物語は閉じられる。 人を待つ。何ともシンプルな行為だが、これほど孤独を感じさせる行為もない。しかもその行為が長ければ長いほど人はその人の待ち人に対する思いの深さを思い知らされる。 数多あるこの種の作品がいつも胸を打つのは待っている人の想いの深さが計り知れないがゆえに感銘を打つからだ。そして本作もまた同じだ。 老いてなお若かりし頃の衣装を身に着け、バスの待合所に一日中座るその老婆はしかし最後どこを見るでもなく、老人を迎えに来た運転手に手を取られて去っていくが、もうその頃には本来の意味、誰を何のために待っていたのかは彼女の中では解らなくなり、ただ毎日その行為をしなければならないという本能だけが残っていたのではないか。 やがて人に忘れられる町の片隅の神話。そんな物語だ。 「不良探偵」はサトル君と呼ばれる人物の一人称叙述の作品だが、サトル君とは云っても30代の新進作家である。 知覚障害者の従兄シンちゃんを持つ、図らずも書いた作品がベストセラーになり、一躍有名になった作家サトル君の恋人が殺される事件の真相について語った話だ。 但しシンちゃんが知的障害者で一般の人よりも能力が劣っていることが語られるが、この語り手であるサトル君も人に関する興味や好奇心を持つ感情が非常に薄い人物で彼もまた他の人たちとは違っているようだ。恋人の真由子は彼にとっては単に親しいだけの友人のようにしか捉えてなく、作家になって有名になり、色んな美女がサトル君の許を訪れ、勝手に泊まり込みで世話をするようになっても、彼自身はその女性に対しても興味もなく、また真由子がそれに対して気分を害しても特段気にしない、非常にドライな性格である。 題名の不良探偵とはシンちゃんのことを指すのか、それともサトル君のことを指しているか。恐らくどちらもだろう。 無関心であることがクールと思われている時代だが、それも限度を超える全く人の気持ちなどが解らない人間になってしまう。本作は無関心さが招く罪を描いた作品とも読めるだろう。 非常に私的な内容だと思えるのが「話好きのタクシードライバ」だ。 多分に森氏のタクシーに関する思いが吐露された、半ばエッセイとも云える作品だ。仕事で電車やバスではなくタクシーを利用する語り手はその内容からも森氏自身と云っていいだろう。物語の核心である高齢のドライバが語る昔話に至るまでのタクシードライバのエピソードの数々が非常に実感を伴って面白い。 そして高齢ドライバのまだ高速が開通していない頃の名古屋から岡山まで乗せることになった話もなかなか面白い。実際の話ではないかと思われる。 そして最後のオチもまた同様ではないだろうか。しかしそれがミステリとなっていることは確か。まさにこれは作者自身が遭遇した“日常の謎”ミステリだったのではないだろうか。 「ゲームの国」はとあるセメント会社の社員食堂を切り盛りしている星茂一家と祖父から受け継いだ丸味スープ会社を経営するリリおばさんが社員食堂で起きた殺人事件を解き明かす話だ。 ミステリとしては実に簡単な部類に入るが、三重県にあるセメント会社の社員食堂が舞台と妙に設定が細かいところが妙におかしい。 そんな非常に狭い人間関係の中でアクセントとされているのがリリおばさんが会長を務める回文同好会の作品数々。その数も内容も様々でしかも各登場人物の特徴がよく表れるように色んなパターンと内容の回文が横溢する。特にリリおばさんの作品は会長だけあって単に文字を無理矢理並べただけでなく、意味もそして文章も含めてもはや芸術の域にある。全て作者が考え付いた作品なのだろうか。 「探偵の孤影」はハードボイルド調の私立探偵小説だ。 なぜ海外を舞台にしているかは不明だが、失踪人捜しという典型的な私立探偵小説のスタイルを取りながら、最後に森氏ならではのツイストを利かせているのがミソ。 唯一妹を殺した東洋人の後に来た銃を撃った男が結局何者だったかが解かれないまま謎として残る。 最後の1編「いつ入れ替わった?」はS&Mシリーズの短編である。 衆人環視の中での消失トリック、または入れ替わりのトリックは昔からある、いわば「開かれた密室」トリックであり、本作のトリックもそのヴァリエーションを再利用しているだけであるが、タクシーを運搬の道具に使っているところが斬新。 しかし何よりも本作はシリーズのその後が補完されていることで、とうとう西之園萌絵と犀川の仲に進展が見られることが読者にとって最も大きなサービスとなっている。 森氏は既にいくつかの短編集を出しているが、本書はいわゆる森作品の本流を成すS&Mシリーズ、Vシリーズの幕間劇的に5作目ごとに刊行される短編集に連なるもので4冊目に当たる。 私は遅れてきた森作品の読者だが、逆に今だからこそ書かれている内容が理解できるものがある。そう、森作品に盛り込まれているIT技術は刊行当時最先端のものだからだ。 それが電脳世界を舞台にした1作目の「トロイの木馬」。この作品は島田荘司氏が21世紀初頭に当時生え抜きのミステリ作家たち数名に新たな世界の本格ミステリ作品を著すとの呼びかけにて編まれたアンソロジー『21世紀本格』に収録された作品で、システムエンジニアを主人公とした物語だが、一読、これが2002年に書かれたものであることに驚愕を覚えた。 ここに書かれている在宅勤務による電脳世界―この用語ももはや死語と化しているが―を介しての仕事、ネットワークトラップである「トロイの木馬」のこと、更には小型端末と表現されたモバイル機器と16年後の今読んでも全く違和感を覚えない現代性がある。いやむしろ発表当時に読んでも全く何を書いているのか解らなかったのかもしれない。IT社会として情報化が進み、タブレットやスマートフォンが流布した現代だからこそ理解できる内容だ。 また今回初めて気付いたが、収録された作品のほとんどが一人称叙述で書かれていることだ。7作中6作が一人称叙述だ。しかも三人称叙述で唯一書かれているのがS&Mシリーズの1編だけであり、それ以外のノンシリーズ物は全て一人称叙述なのだ。 以前も書いたが長編が非常にクールかつドライで一定の距離感を持った、理系人間が書く論文めいた作風であるのに対し、短編は幻想的かつ抒情的でセンチメンタリズムを感じさせる、文学趣味が横溢した作風と趣が異なっているのが特徴だ。 長編が左脳で書かれた作品とすれば短編は右脳で書かれた作品とでも云おうか。そしてどこか非常に森氏の日常や感情が短編には多く投影されているように思える。いわゆる森氏の人間的エキスが色濃く反映されているように思えるのだ。 例えば「不良探偵」は語り手のサトル君の恋人だった真由子との別れの話だが、他者に対してさほど関心を持たない彼は真由子が自分が養うから気に食わない仕事だったら辞めてしないなよとまで云うほど、彼のことを慕っているのが明確なのに、彼はそれを友人としての忠告としか受け取らず、そして作家となって売れ出した時に他の女性が家に入ってくることを拒まず、さらにはその中の1人と一緒に映画にも云ったりするほど、真由子の想いに対して鈍感だ。そしてその真由子はそんな現状に絶望して彼の前を去るわけだが、この物語にも森氏の若かりし頃のある女性との思い出が反映されているように思える。 最たるは「話好きのタクシードライバ」だ。これはもうほとんど森氏自身の話と云っていい。エッセイとも云えるタクシーに纏わるエピソードの物語だ。ここではほとんどグチのような内容が書かれている。 またどこまで本気なのか解らないが内容にそぐわないタイトルである「ゲームの国」は『今夜はパラシュート博物館へ』にも同題の物があり、それは森作品のタイトルのアナグラムが横溢していた。そして今回は回文。つまりタイトルのゲームの国とは恐らく言葉のゲームに親しむ作者自身の稚気を優先した作品世界そのものを指しているようだ。 ちなみに前回は森博嗣氏のアナグラムである礒莉卑呂矛が探偵役でしかも磯野拡の事件簿1と副題についていたが、今回はリリおばさんの事件簿1と付いている。今後本当にそれぞれアナグラムと回文を扱った遊びに淫したミステリが書かれるのか、森氏の気まぐれというか遊び心の1つと取って期待しないでおこう。多分また新たなシリーズ探偵が出てくることだろう。 そして何よりもボーナストラックとも云うべきはS&Mシリーズの「いつ入れ替わった?」だ。本作では上にも書いたように引っ付いては離れ、または平行線を辿るかと思えば、接近していくが寸前のところで決して接しない反比例の双曲線とX軸、Y軸のような2人の関係に進展が、それも大きな進展が見られる。 シリーズ本編の最終作で肩透かしを食らった感のある読者は本作を必ず読むことをお勧めする。 さて本書のベストを挙げるとすれば「赤いドレスのメアリィ」となるか。何とも云えない抒情性を私は森氏の短編に期待しているが、それに見事に応えてくれた作品である。 ただある女性の長い待ち合わせが終わりを告げたことだけが事実として残る。 恐らくはシリーズファンにしてみれば「いつ入れ替わった?」は渇望感を満たす1編になるだろうが、やはり私は西之園萌絵にそれほど好意的ではないのでベストとまでには至らない。 しかし本書のタイトルは何を示すのだろうか。英題を直訳すれば「隙間だらけの行列の逆数」となるか。しかし使われている単語はいずれもコンピュータ用語にも使われる物で「ボイド形態となったマトリックスの逆数」となるか。 いずれにせよ深読みさせて、結局何の意味もないというのが森氏の真意なのかもしれない。 しかし全てを明かさないスタイルは本書も健在。読者はただ単純に読んでいると本書に隠された謎や真意、真相が見えなくなっている。もしかしたら私がまだ気づいていない仕掛けがあるのかもしれない。 作者のこの不親切さはある意味ミステリを読む姿勢が正される思いがして、うかうか気が抜けない。読者もまた試されている。そういう意味では森氏の短編集は問題集のようなものになるかもしれない。 さて次回の演習も私は十分説くことができるだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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探偵沢崎シリーズ第2作。
今回沢崎はいきなり事件の渦中に巻き込まれる。低い声の女性から家族の行方不明についての相談という依頼の電話で指定の場所を訪れるといきなり誘拐事件の現金の運び屋として指定されるのだ。そしてそのために沢崎自身も誘拐事件の共犯者の1人として警察に目を付けられる。 本来依頼人が来て事件を調べていくうちに、事件の関係者から脅迫を受け、またいわれのない誹りを被る、更に自身にも危険が及ぶというのが作者原尞氏が尊敬するチャンドラーのハードボイルド小説だが、今回作者が選んだのは沢崎自身をいきなり事件の真っ只中に放り込み、そして警察から犯罪者の1人として疑われる、ノンストップで訪れるハードな状況なのだ。 しかもそれら一連の流れは実にスピーディ。冷静な沢崎を翻弄する犯人の手際の良さ、そして沢崎に訪れる不測の事態、更にそれによって起こる誘拐された少女の死と原氏は次々と沢崎にピンチを与え、休む暇を与えない。 そしてそれは読者もまた同じで、次から次へと繰り出される犯人の工作に沢崎同様にどんどん事件に引きずり込まれていく。 物語の流れは実に淀みがない。 起こりうるべきことが起き、そして巻き込まれるべき人が巻き込まれ、そして沢崎もまた行くべきところを訪れ、全てが解決に向けて繋がっていく。そしてじっくり練られた文章は更に洗練され、無駄がない。 無駄がないというのは必要最小限のことだけを語った無味乾燥した文章ではなく、原氏が尊敬するチャンドラーを彷彿させるウィットに富んだ比喩が的確に状況を、登場する人物の為人を描写する。特に対比法、類語を重ねた描写がそれぞれの風景や人物像を畳み掛けるように読者に印象付けていく。 真似して書きたくなる文章が本書にはたくさん盛り込まれている。 そして第1作からも徹底されていることだが、毎朝新聞や読捨新聞といったどこかで聞いたような名前の架空の新聞名、チェーン店名を使うのではなく、原氏は現実にある新聞社や雑誌名、店舗名を作中に織り込む。それがリアルを生む。 更に沢崎が読む新聞記事の内容に実際に起きた事件や出来事を織り込むことによって物語の時代が特定できるようになっている。作中では決してある特定の日付を挙げているわけもなく、調べればそれが出来ること、またそれが沢崎が我々の住まう現実にいるようにさせられるのだ。 例えば競馬のエピソードで一番人気のサッカーボーイが日本ダービーで15着に終わるという実に不本意な結果だったことから1988年5月29日前後の事件であることが解る、と云った具合だ。 そして失踪した沢崎のパートナー渡辺賢吾が過去に絡んだ事件も明らかになってくる。 そして偶然にも沢崎は容疑者を追っている最中にこの渡辺と邂逅を果たす。それは一瞬の間のことだ。彼はその一瞬で渡辺と目が合い、また離れていく。 その一瞬にそれまでの彼らの足取りが凝縮されたような印象的なシーンだ。 また本書が作者自身が身を置く音楽業界が一枚噛んでおり、物語の至る所にそれらの情報や知識、はたまた音楽論などが散りばめられて興味深い。 ヴァイオリニストの少女に纏わるクラシック音楽界の話、音大を出て音楽の世界に進むそして作者自身が身を置くジャズの話。 特に登場人物の1人でロック・ミュージシャンをやっている甲斐慶嗣の話は音楽業界に精通した原氏が知る人物の断片を垣間見るようだった。音大の教授をしている父親の指導でヴァイオリンを始めるが挫折してその親へ反抗するかのようにロック・ミュージックの世界に身を置き、その日暮らしを続けるような身。音楽イベントを企画するが採算が取れなく数百万単位の借金を抱えるが、それを返済するだけの、色んなバンドやアーティストのバックバンドとして引き合いで演奏する技術と信頼がある。 さて私が前作を読んだのはちょうど11年前。まだ30代だった頃だ。当時の感想を読むとその時の私とはこの探偵沢崎シリーズを読んだ心持はいささか異なっている。 定義云々は別にして原氏の紡ぐ作品がハードボイルド小説の前提で話すと、ハードボイルドとはつまり自分を貫くために人に嫌われることを厭わない生き方と云えるかもしれない。 そして夜の世界に生きる人々の話であるとも。 それは作者自身が夜に生きる民族の一員であるがゆえにこのような世界が書けるのだ。 作者が本書の主人公沢崎のように自分の矜持を貫くがゆえに警察に疎まれ、調査に関わる人々に嫌悪感を示されるような人であるとは思えないが、作者の中に沢崎は確実にいる。 それはミステリマガジンで14年ぶりの新作『それまでの明日』刊行記念で組まれた原尞特集での過去から今まで至るインタビューからも原氏のどこか一般人と異なる生き方や性格からも推し量れる。つまり原氏は昔ながらの作家なのだ。 そして改めてこの探偵沢崎の物語を読んで今まで読んできたチャンドラー、ハメット、マクドナルドの系譜に連なるハードボイルドの探偵というのはなんと罪深き職業なのだろうかと感じた。 他人の依頼で人の生活に土足で立ち入り、あれやこれやと聞く。そして全てを疑い、手練手管を駆使して相手の弱点を掴むとそこに付け入り、協力を強制する。 自分が疑われることを好む人は決していないだろう。従って探偵が事件の調査のために出逢う人は決して良い感情を持たない。いや寧ろ災厄の運び手としてご容赦願いたい存在だ。 更にどんどん付け入り、そして知られたくない家庭の事情まで云わされる。 沢崎もまたそうだ。探偵という職業が長い彼もそういった人の心の隙間に付け入り、情報を得る、もしくは利用する術を心得ている。 しかしそうすることでまた彼も何かを失っているように思える。それは自分という人間に対しての好意であり、代わりに自己嫌悪を得るのだ。 かつて大沢在昌氏はある小説で「探偵は職業ではない。生き方だ」と述べたが、まさにそれは沢崎そのものを指しているようだ。 そして彼は探偵という生き方しかできないから、他人の目を憚ることなく、自我を通し、そして畢竟、自分を嫌うしかないのだ。 他者におもねることなく、誰がなんと思おうが自分の信じる道を貫き、そして自分が知りたいことを得るためには周囲が傷つこうが構わない、そんなハードボイルドの主人公の姿にかつては憧れを抱いたものだが、私も歳を取ったのだろう、そんな生き方をする沢崎が何とも不器用だと感じざるを得なかった。 探偵とは他人が今を生きるために隠してきた過去や取り繕ってきた辛い現実を炙り出してまで真実を知ろうとする執念を貫く生き方だ。そしてその代償として自分の中の大切な何かを失う生き方だ。 特に今回沢崎が自分がまるで突然絡まれた事故のように関係した少女誘拐事件において、自分のヘマで身代金を渡すことができなかったがために殺されることになった少女に対して一種の引け目を抱いているだけに、被害者の家族関係者に容赦なく立ち入っては、無礼なまでに踏み込んで質問し、そして嫌われる。 特にそれが顕著に表れるのが被害者真壁清香の告別式に出席した時だ。沢崎にとっては言いがかりでしかないが、身内を、しかも幼い身内を無残にも殺された遺族のやりどころのない怒りが自分に向くのを知りつつも出席し、そして予想通りに清香の母親恭子とその従兄たちであり、また沢崎自身が調査した伯父の甲斐正慶の息子3人に献花を差し戻されて退出するよう促されながらも、そんなことを強要される覚えはないと再度清香の棺に花を捧げ、乱闘を引き起こす件は沢崎の愚直なまでの自我の強さを印象付けるシーンだ。 以前ならばこの沢崎の対応をカッコいいと感じただろうが、40半ばを過ぎた今の私は大人気ないと感じた。 しかしそうでもしないと事件は解決しないのだと最後まで読むと悟らされる。人の感情を揺さぶるほどに他者のプライベート・ゾーンに土足で入り込むほどタフでないと明かされるべき真実は白日の下に晒されないのだ。 真相に行き着くまでの関係者たちそれぞれが抱える大小の家庭の問題。 表面では解らないそれぞれの生活における負の要素が浮き彫りにされる。 本書は従ってチャンドラーの文章を備えたロス・マクドナルド的家庭の悲劇をテーマにした私立探偵小説だ。つまり本格ミステリ的要素を備えたロスマクのプロット力をチャンドラーの魅力ある文章で紡いだ、理想的な私立探偵小説なのだ。 これだけの物を著すのに数年かかるところを本書は第1作の翌年に出版されている。そしてその後短編集を出した後、6年ぶりに長編第3作を、そして9年ぶりに長編第4作、14年ぶりに第5作とそのスパンはどんどん長くなっている。 しかし私の読書もまた同じようなものだ。次の短編集『天使たちの探偵』を読むのは恐らく同様の歳月を経た後だろう。その時の私がどんな心持で探偵沢崎と向き合うのか。 私にとって探偵沢崎シリーズを読むことは沢崎と私自身の人生の蓄積をぶつけ合うようなものかもしれない。 前作を読んだ時は沢崎は憧れだった。しかし今回読んだ時は沢崎は若気の至りをまだ感じさせる矜持を捨てきれない男だと感じた。 次に出逢った時、私は沢崎にどのような感慨を抱くだろうか。 沢崎は変わらない。ただ私が変わるのだ。 私がどう変わったかを知るためにまた数年後読むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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現在エラリー・クイーンの諸作の新訳が創元推理文庫のみならず角川文庫からも相次いでなされており、本書もその一環として刊行された。
通常私はこういった新訳版は既読作品では手を出さなく、本書も最初はそのつもりだったが、旧訳版では収録されていなかった「いかれたお茶会の冒険」と序文が収録された、完全版であると知ったため、改めて入手して読むことにした。 従ってそれ以外の短編については感想は書かず、ここでは未読作品である「いかれたお茶会の冒険」とその他旧訳版との相違や当初気付かなかったことについて述べていきたい。 さてその「いかれたお茶会の冒険」はエラリーが友人のリチャード・オウェン邸に招かれたところから始まる。 邸の主人の失踪事件が本書のメインだが、正直この事件の犯人は読者の半分は推測できるに違いない。そしてその動機も読んでいると自ずと解る、非常に安直なものだ。 しかしそこから死体の隠蔽方法、更にエラリーの犯人の炙り出しが面白い。 アリス尽くしのガジェットに満ちた作品なのだ。 派手さはないがクイーンの見立て趣味とまた犯人を特定するためには罠をも仕掛ける悪魔的趣向などが盛り込まれた作品でエラリーがロジックのみでなく、トリックも施すことを示した作品だ。 今回この「いかれたお茶会の冒険」以外は再読だったが、改めて読むとクイーン作品のリアリティの無さに再度苦笑せざるを得なかったと云うのが正直な感想だ。 およそ現実の警察捜査とは思えない、パラレル・ワールドで繰り広げられているエラリーの特権的立場がどうしても今読むと違和感を大いに覚えてしまう。父親が警視としても素人に堂々と事件現場を入らせて、手袋もせずに証拠となりうる物品を触らせたり、移動させたりすることは到底あり得ないし、更には警察と同等の職権を保証する許可証を持っているといった飛び道具まで登場する。そんな探偵、いや推理作家はどこを探してもいないだろう。 子供、学生の頃であればそんなエラリーを特別な存在として尊敬し、その超人的頭脳によるロジックの美しさに感嘆もするだろうが、やはり今この歳で読むとあまりにも受け入れ難い。もしかしたら私自身古典の本格ミステリを受け付けなくなってきているのかもしれない。 さて冒頭にも述べた旧版との比較をここからしてみよう。 まず「アフリカ旅商人の冒険」ではエラリーを大学に招いた教授の名前が旧訳版ではアイクソープ教授となっているのに対し、本書ではイックソープ教授と表記が改められている。 “イッキィ―退屈でつまらないと云った意味”、“イック―いやな奴という意味がある―”といった洒落が出ていることから恐らくはこちらが正しいのだろう。 また旧版とはタイトルが若干変えられているのもあり、冒頭に挙げた未収録作品だった「いかれたお茶会の冒険」は当時は「キ印ぞろいのお茶の会の冒険」となっている。このキ印という言葉、2018年の今ならばほとんど死語だろう。「きちがい」の隠語として使われていたが、今となってはそんなことを知る人も少なくなり、また「きちがい」もまた差別用語となっているから、変えざるを得なかったのだろう。 また「三人の足の悪い男の冒険」も旧版では「三人のびっこの男の冒険」だったが、これも同様に「びっこ」が差別用語に指定されていることによる改題だろう。 また久々にクイーンを読んで気付かされるのはエラリーが事件を介して美女と出逢う機会が多く、そして明らかに口説こうとしている節が見られるところだ。 「ひげのある女の冒険」で住み込みで働く看護婦クラッチの連絡先を知りたがったり、「見えない恋人の冒険」で絶世の美女と評される容疑者の恋人アイリス・スコットにはもう少し早く出会いたかったと他人の恋人であることを嘆き、「七匹の黒猫の冒険」で出逢ったペットショップの店長ミス・カーレイもその大きな瞳に惚れ、助手よろしく彼女と共に事件解決に乗り出す。また最後の短編「いかれたお茶会の冒険」でも女優のエミー・ウェロウズといい雰囲気になって一緒に列車に乗っていく。 そしてご存知のようにそれら全ては行きずりの女性であり、エラリーはニッキー・ポーターという相性のいい女性と何作か組みながらも結局生涯のパートナーを得られずにシリーズを終える。つまりはエラリー・クイーンにはロマンス要素を持たせるのはあくまで読者の興味を惹くための一要素として扱うに留まり、それを発展してクイーン自身の人生と事件とを結びつけるまでには至らなかったということだ。 その後のクイーン作品がロジックと探偵の存在意義について長く思考を巡らせていくことからも解るように、人間としてのエラリー・クイーンの深みをもたらせるのを捨て、ミステリそのものについて考えを深めていくことになった。それが日本の本格ミステリファンにとってクイーンの絶対的存在性を高めることになったのは事実だが、逆に本国アメリカでほとんど忘れられた存在となっているのがこのキャラクター小説としての深みに欠けるからだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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