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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
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アメリカの警察小説のシリーズ物ではアクセント的にアジアのマフィアもしくは悪党と主人公が対峙するという話が盛り込まれるようだ。ディーヴァーの『石の猿』然り。
アメリカ人にとって独特の文化でどこの国でも根を下ろして生活するアジア圏の人々、殊更中国人というのは実にミステリアスな存在であり、また中国マフィアが世界的にも大きな犯罪組織であることから、西洋文化と東洋文化の衝突と交流というミスマッチの妙は題材としては魅力的に映るのではないか。 ボッシュシリーズ14作目の本書はボッシュもアジア系ギャング対策班、AGUの中国系アメリカ人捜査官デイヴィッド・チューと組んで中国系マフィア三合会を相手にする。 しかしコナリーが凄いのは単に事件を介して中国系アメリカ人や在米中国人たちの文化や生活、思想に触れることでの戸惑いを描くことで作品に興趣をもたらしているだけでなく、中国系マフィアとの戦いに主人公ボッシュが必然的に深く関わるように周到に準備がなされていたことだ。 ボッシュの前妻エレノアが娘マデリンを連れて香港でプロのギャンブラーとしての生活をするのが11作目の『終決者たち』で説明がなされている。それ以降、作中では香港にいる娘との連絡を時折していることが触れられており、途中2作を経てLAに住むボッシュが在米中国人に起きた事件を捜査することで中国文化圏で生活する彼女たちに危難が訪れる本書を案出するのだから、全く以てコナリーの構想力には畏れ入る。 まず本書でボッシュが6年間香港への通い夫を務めていたことが明かされる。年に2回香港に行き、娘と妻と逢い、そしてその年には娘1人でLAを訪れ、2週間色んな事をして街を散策して過ごしたことも描かれている。娘を香港に帰した瞬間は心にぽっかり穴が開いたような思いがしたとも。 次の逢瀬を待ち遠しく思いながら年月を過ごすボッシュの述懐も書かれている。 そんな娘煩悩なボッシュに訪れるのが担当した事件の容疑者、三合会というマフィアの構成員を逮捕したことによる代償としての娘の誘拐。しかも自分の手の届かない香港という異文化都市。 これは子を持つ親ならばこれ以上ない恐怖であることが解るだろう。不屈の男ボッシュもまたその例外ではない。 人は護るものが出来ると強くなる。 しかし同時に護るものが出来ることで弱くもなる。 護るものが出来るとその人にとって支えが出来る。どんな苦難に陥っても護るものがあることでそれを乗り越える原動力となるのだ。自分を必要としている人がいることで心に一本の芯のようなものが出来る。 一方で護るものはそのまま弱点ともなりうる。自分の支えとなっているものを失うことで人は弱くなる。、自分を必要としている人は即ち自分が必要としている人だったことに気付かされ、それを失うことが恐怖に変わる。 ボッシュは自分の娘マデリンを授かった時に自分が救われたと同時に負けたことを知ったと云い放つ。自分が悪に対して異常な執着心を持って立ち向かうためには弱みのない人間でないといけないと思っていたが、娘が出来たことでそれが一転する。 娘は彼にとってかけがえのないとなった瞬間、弱点になったことを。刑事という職業に就く人間はおしなべてこのような想いを抱いているのだろう。 娘を誘拐されたボッシュの焦燥感は子を持つ親ならば誰もが理解できる気持ちだ。 特にボッシュが娘を持つようになったのは作者コナリー自身が娘を持ったことで得た気持ちをそのまま反映しているからだ。従って本書でボッシュが抱く、云いようのない恐怖感はそのまま作者が同様の状態に陥った時に抱くであろう心持と同義なのだ。 従って本書はこのマデリン誘拐をきっかけに静から動へと転ずる。 愛娘を誘拐されたボッシュの焦燥感と三合会への怒りをそのまま物語のエネルギーに転じ、コナリーはボッシュを疾らす。ボッシュ自身常に動いていないとダメだと常に口に出す。それは誘拐事件が発生からの時間が長引けば長引くほど解決する確率がどんどん低くなるからだが、やはりここはボッシュが娘の安否に対して気が狂わんばかりに焦っているからだ。 彼は地元の香港警察の三合会対策課の手を借りようとも思わない。誰が三合会と通じているか解らないからだ。 彼は妻エレノアの協力も疎ましく思う。自分で招いた種をどうにか回収したいからだ。 彼はエレノアの新恋人サン・イーの協力も疎ましく思う。 彼はAGUのデイヴィッド・チューへ協力をお願いするのも躊躇う。チューもまた情報漏洩者と疑っているからだ。 彼はとにかく動く。直感的、本能的な行動力はエレノアをして一匹狼のように置き去りにして動かないでくれと詰られるほどに。 撃ち込まれた一発の銃弾。ボッシュはかつてエレノアのことをそう呼んだ。どんな女性と付き合おうが最後はそこに帰っていくボッシュにとっての不変の存在がエレノア・ウィッシュという女性だった。 彼女は今回ボッシュが担当した事件のせいで自分の娘が誘拐されることになったことを知り、ボッシュを激しく非難し、今後の娘との2人の時間を作ることは許されないとまで云われながらも、ボッシュはその怒りでエレノアがこの困難に立ち向かえるのなら甘んじて受けようとまで思う。 エレノアはボッシュ程にはボッシュのことを強く思っていないように見え、更には仕事で知り合ったボディガードのサン・イーという新たな恋人が出来たことを目の当たりにしてもボッシュは最後には2人は一緒になるのだという、離れがたい絆を感じていた、それがエレノア・ウィッシュという女性の存在だった。 娘を亡くした時に自分は今後生きていけそうになくなることを意識し、ボッシュはこの未知の地香港で残されたサン・イーに協力を求める。同じ女性を愛したこの男を信頼し、相棒となるのだ。 本書はこの相棒の物語とも云っていいだろう。 まずは前作から引き続いてボッシュの相棒を務めるイグナシオ・フェラス。 しかし彼は前作で捜査中に負った負傷がトラウマとなり、事件現場に行くよりも刑事部屋で事務仕事、書類仕事をしていることを選ぶ。3人の子供の子守疲れを理由にし、午後3時40分から帰り支度をはじめ、定時に署を出る、典型的なサラリーマン刑事となっている。担当する事件があるのに週末は病気だと称して家にいて、上司のギャンドル警部補からも役に立たなかったと云われる始末。しかも自分の思い込みで犯した捜査のミスをお互いに擦り付け合う、実に下らない刑事に成り下がってしまっている。 ボッシュはこの事件の後、コンビ解消を上司に依頼することを決断する。 このフェラスに変わって実質的に相棒を務めるのが、中国人殺害事件で援助をしてもらうことになったAGUのデイヴィッド・チュー刑事だ。アメリカ生れながら両親の教育で中国語を話すこの刑事もまたボッシュに全面的な信頼を置かないでいる。 というよりもこれはボッシュの、初対面の相手に対する疑い深い性格から来ており、チュー刑事は読者の目から見ても着実に任務をこなす実直な刑事として映る。 彼はボッシュが中国人を見る目に差別的な物を感じとる。事件の主導権を常に握り、あまり情報を共有しないボッシュの態度も含めて彼はボッシュがかつてヴェトナム戦争に出兵し、ヴェトコンを多数殺害したことに由来してアジア人をそのように見ているのではとまでボッシュに云い詰る。 しかし彼はそんな蟠りをボッシュに持ちながらもボッシュの無理難題にきちんと対応する、生粋の刑事だ。 そして香港で相棒を務めるのがエレノアの恋人サン・イー。最初ボッシュは彼から三合会に情報を洩れることを恐れて排除しようとし、ほとんど信用せずに運転手としてしか扱わないが、同じ女性を愛した者として、ボッシュが自分の犯した過ちを吐露し、そして通じ合う。 サン・イーはかつて自分が三合会のメンバーだったことが左目をカタに三合会を抜けたことを告白する。そしてマデリンを自分の娘のように思い、ボッシュに協力を惜しまない。 そして最後の相棒はなんとあの弁護士ミッキー・ハラーだ。 ボッシュが娘救出のために元妻を喪い、三合会の手によって殺されたマデリンの友人一家、そしてマデリンを誘拐した一味を殺害したことを聴取するためにロス市警を訪れた香港警察が全ての事件をボッシュとサン・イーに押し付けようとするのを見事な弁舌で未然に防ぐ。 フェラスは別にしてボッシュは今回相棒たちの協力と配慮で助けられる。しかしボッシュは彼らに対して決して全てを委ねるほど気を許さない。実に自分本位な人間に移る。ハラーにでさえ、彼の娘がボッシュの娘と同世代だから今度一緒に逢わせようとの提案もハラーと距離を置きたいボッシュ自身の気持ちから保留にする。 いやはや何とも付き合いにくい男である。 またこれはディーヴァー作品でも感じたことだが、昨今のアメリカの警察小説はどうやら話題のドラマの影響を受けざるを得ないようだ。刑事の勘や写真やビデオ、そして書類の中から齟齬や手掛かりを発見して犯人を見つけるのが醍醐味の1つであったコナリー作品においても、『csi:科学捜査班』などの影響を受けたかのように、今回犯人を特定するのに最新技術が用いられる。 それは静電向上という技術でこれは今まで薬莢についた指紋は発砲された際に起こる爆発で消えてしまい、例え薬莢を拾ったとしても大きな手掛かりにならなかったが、汗に含まれている塩化ナトリウムが真鍮と反応して腐蝕させる極微化学反応を利用して、電圧をかけて炭素の粉を掛けて指紋を復活させる手法だ。この(当時の)最新技術が事件の突破口を開くのだ。いやあ、ボッシュシリーズも変わったものだ。 しかしこのシリーズは今まで色んな新展開を見せながらも結局はボッシュが一匹狼に戻ることを選択してきた。恐らく作者自身、ボッシュという人物は常に業を抱えて生きている男として設定しているので、幸せな家庭や娘との温かな交流が向かないと思っているのだろうし、また書きにくいのだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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真賀田四季。
森氏のデビュー作から登場し、常に森ワールドにおいて絶対的な天才として語られる女性。 本書はそんな謎めいた彼女の生い立ちをその名前四季に擬えて春夏秋冬の4作で語ったシリーズの第1作目に当たる。そしてこのシリーズはS&MシリーズとVシリーズに隠されたミッシングリンクを解き明かす重要なシリーズだとも云われている。 従って真賀田四季がまだ子供の頃からの話が綴られている。 3歳に彼女が父親の書斎に入って片っ端から本を読んでいるのに気付く。その中で一番面白い本は辞書だと彼女は話す。数カ月で英語とドイツ語を完全にマスタし、5歳で彼女は大学に連れていかれ、そこで日がな一日中図書館に籠り、学術書を読み耽る。 6歳になると今度はそれを作ることに興味を覚え、一流のエンジニアの知識を得たものの、電動工具や工作機械を使うにはまだ幼過ぎたため―何しろまだ6歳だ!―、父親の大学から修士課程を修了した森川須磨を助手にして電子工作に励む。しかし彼女は野心多き女性であり、おまけに容姿も良かったことから真賀田四季を介して知り合う男性と次々に関係を持って事情通となっていく。出張の多い教授である四季の両親の代わりに彼女を預かっている叔父の新藤病院院長新藤清二に彼の病院に勤める有能な若い医師浅埜たちがその対象だ。 やがて彼女は四季の物づくりの手先だけでなく、マネージャの役割を担っていく。いや寧ろ森川の技量では四季の作りたいものが作れなくなってきたことが多い。既に森川は四季にとって便利な存在から採るに足らない存在になってきていた。 そんな物語の語り手は其志雄という名の男性の一人称で語られる。 私はこの名前を見てすぐにVシリーズの最後に登場した栗本其志雄を想起した。 自分を透明人間と称する彼は真賀田四季がその頭脳を認めた唯一の存在であり、彼女と対話する機会が最も多い存在となる。しかし物語が進むにつれてこの其志雄の存在がぶれてくる。彼はある事件の後、渡米するのだが、それ以降も真賀田四季の傍にいるように描かれる。 このどこか歪な物語の構造はようやく物語の3/5辺りで判明する。 そしてVシリーズの各務亜樹良と瀬在丸紅子も登場する。最終作『赤緑黒白』で描かれた栗本其志雄との邂逅シーンの再現で。その時は其志雄のことを驚きの目で見ていた紅子の側から書かれていたが、本書では栗本其志雄の側から瀬在丸紅子が侮れない人物として描かれている。実に面白い。 真賀田四季が生まれてから13歳になるまでが描かれる。 真賀田四季を描くこの4部作において本書は彼女の成長を描いていると云えよう。 真賀田四季は自分の頭脳の中でひたすら続く思考と演算に集中するがために他者との会話も必要最低限度で、相手の度量や頭脳を見極めると早々に興味を失くし、会話をしなくなる。彼女の頭にあるテーマをどうにか生きているうちに解明することに専念するには会話することも疎ましかったのだ。常に彼女は時間を惜しみ、考えたいことがいっぱいある状態だ。 つまり四季の頭脳はまさしくコンピュータのCPUそのものなのだ。 従って彼女は周りから自分の考えていることを文字にしてノートに書き留めておく、もしくは声に出して録音しておくことを周囲に勧められるが、そんなことでは追いつかないとして一蹴する。 それはそうだろう。パソコンの演算画面で一気に数十行のプログラムが書き出される様はそのまま四季の頭の中を示しているのだから。 従ってコンピュータの発明によって四季はようやく自分の処理能力と同等の速さを誇る機械が得られたことに喜ぶ。そういう意味では真賀田四季は恵まれた天才だったのかもしれない。遠い昔にもしかしたら真賀田四季と同じような頭脳を持った天才がいてコンピュータがないことで自分が解き明かしたい命題を1/10程度、いやもしくはそれ以下の成果しか挙げられてなかった偉人もいたかもしれないのだから。 真賀田四季という不世出の天才が登場したのは本書刊行までではS&Mシリーズの『すべてがFになる』と『有限と微小のパン』のみ。後はVシリーズの『赤緑黒白』にカメオ出演した程度だが、それは四季としてではなかった。正直たったこれだけの作品の出演では真賀田四季の天才性については断片的にしか描かれず、私の中ではさも天才であるかのように描かれているという認識でしかなかった。 しかしこの4部作で森氏が彼女の本当の天才性を描くことをテーマにしたことで彼女が真の天才であることが徐々に解ってきた。 そうはいっても上に書いたような3歳で辞書を読み、数カ月で英語とドイツ語を完全にマスタし、5歳で大学の学術書を読み耽り、6歳で物を作り出すといったエピソードで彼女が天才であると思ったわけではない。 そんなものは言葉であるからどうとでも書けるのだ。 例えば仏陀なんかは生まれてすぐに7歩歩いて右手で天を差し、左手で地を差して「天上天下唯我独尊」と叫んだと云われているから、こちらの方がよほど天才だ。つまりこれもまた仏陀が天才であったと誇張するエピソードに過ぎなく、これもまた想像力を働かせばどうとでも強調できるのだ。 では真賀田四季が天才であると感じるのはやはり彼女の思考のミステリアスな部分とそれから想起させられる頭の回転の速さを見事に森氏が描いているからだ。常に感情を乱さず、もう1人の人格を他者に会話させながら、書物を読み、そして相手もしたりするところやそれらの台詞が示す洞察力の深さなどが彼女を天才であると認識させる。 こういったことを書ける森氏の発想が凄いのである。 天才を書けるのは天才を真に知る者とすれば、森氏の周りにそのような天才がいるのか、もしくは森氏自身が天才なのか。 これまでの森作品と今に至ってなお新作で森ファンを驚喜させるの壮大な構想力を考えるとやはり後者であると思わざるにはいられない。 最後、四季は外の空気の冷たさを感じ、まだ蕾も付けていない桜の木を見ながら春を思って物語が閉じられる。つまりそれは常に内側に興味と思考を向けていた四季が外に向けて感覚を開かせ、自分以外のものに思考を巡らせたのだ。 春は出逢いと別れの季節である。 真賀田四季は2人の其志雄と別れ、そして瀬在丸紅子と西之園萌絵と出逢った。いやそれ以外の人物ともまた。 続く季節は夏。夏はどんな季節であろうか。それを真賀田四季は気付かせてくれるに違いない。 さて残りの季節で四季はどのような変化を見せ、更にどのような天才性を見せてくれるのか。 全く以て今は想像がつかない。『すべてがFになる』の舞台になった妃真加島への道行とそれから『有限と微小のパン』までの行動とそれ以降の行く末もまた描かれるのだろうか。 ともかく森氏の描く天才を愉しみにすることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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風間一輝。
1999年に癌で亡くなり、既にこの世にはいない作家。 その作品は多くないが、私は彼のデビュー作『男たちは北へ』で大いに心打たれ、たちまちその世界に魅了されてしまった。 そんな彼の作風はその第一作がそうであったように作者自身の影が投影された人物が主人公を務めるところに特徴がある。無頼派的な人物が作者の言葉を代弁するかのように心情を吐露し、そして難癖を付ける。 それは決して付き合いやすさを感じる男ではないけれど、その武骨さが何とも魅力的に見える、不思議な雰囲気を醸し出している。 本書は断酒小説と銘打たれている。そう、アル中がいかにアルコール依存症を同類の仲間たちと共に克服するかが綴られている。 従ってここに登場する人物たちは極度のアル中ばかりで信じられないほど酒を飲む。全編これ飲酒シーンばかりと云ってもいいほどの内容だ。 勿論酒を飲んでばかりでは話は進まない。主人公が流れ着き、やがてそこで知り合い飲み友達(アル中友達?)となった仲間たちがドヤ街山谷で続発する真夏の夜の連続行き倒れ事件の謎に肉迫していくことでトラブルに巻き込まれていくのだ。 さてそんな酔いどれたちが繰り広げる舞台となる山谷についてその独自の文化を詳らかに描く。 例えば今では一般的になった酎ハイはこの山谷で金のない者たちが安い焼酎をソーダで割って飲んだ焼酎ハイボールが始まりらしく、なんとこの山谷が発祥の地らしい。 また流れ者が行く着くこのドヤ街でもそれなりに住処についてはランクがあるらしく、1室に二階建てベッドをたくさん置いたベッドハウスに始まり、畳2畳から4畳半までの広さがある個室、そしてビジネスホテルに代表される個室ホテルと大きく3つに分けられる。 そんな社会の底辺の落伍者たちの社会が克明に描かれる。それはまるで作者自身が山谷にしばらく暮らしたかのように鮮明だ。 しかしやはり物語の中心は主人公北岡吾郎とその仲間初島肇と木沢完らが行う断酒計画の顛末だ。 その計画とは日中の午前10時から午後6時までをワンセット、次の午後6時から午後10時までをもうワンセットと設定し、第1日目はそれぞれ6杯ずつ飲み、2日目はそれぞれ5杯とワンセットごとに1杯減らしていく。そして6日目がそれぞれ1杯ずつとなり、7日目でとうとう酒を絶って、それを継続させるというもの。 これが彼らにとって悪夢のカウントダウンのように徐々に効いてくる。第3日目の日中4杯、夜4杯の段階から禁断症状が出てくる。そして寝ても悪夢しか見ない。それは幻覚や幻聴と云った類のもので、彼らにとって夢なのか現実なのかが区別がつかず、そして際限なく恐ろしい夢ばかりを見てしまう。寝るのが怖くなるので置き続けるが、その間は手の震えが止まらず、脂汗が滴り、ひたすら苦しむばかり。 寝ても地獄、起きても地獄。その地獄から解放されるには酒を飲むしかない、といった堂々巡りの無間地獄に苛まれる。 アルコール中毒ことアル中、最近ではもはやアルコール依存症と呼ぶようになったが、昔はよくこのような叔父さんを見たものだった。終始手が震え、顔は酒焼けで真っ赤、話すこともよく呂律が回っていないため不明瞭。典型的なアルコール中毒者を小さい頃私が住んでいた界隈でも見かけた記憶がある。しかし最近は見なくなって久しく、忘却の彼方だったため、これほどまでに大変なのかと再認識させられた。 アル中にも種類があるらしい。本書では初島、北岡、桐沢それぞれが同じアル中でもタイプが違うように書かれている。 飲酒後いつ頃禁断症状が現れるかで分かれており、それぞれ8時間後に訪れる即刻タイプ、1時間後に訪れる1時間タイプ、そして1日は持つ1日タイプ。 私もお酒は好きで、週に一回はジョギング後に缶ビール1本に焼酎湯割り1杯と缶チューハイ1本を飲む。 平日は飲まないが飲み会があればビールに始まり、日本酒、ワイン、ウィスキーに焼酎とチャンポンするのが当たり前になった。ウィスキーや焼酎も水割り、お湯割りで飲んでいたのが、今ではロックで飲むのが通常になってきた。 しかしそれでも二日酔いになることはなく、耐性が強くなってきたと思っていた矢先に最近泥酔して失敗したこともあった。 幸いにして私は本書の主人公らと違い、日常生活には支障が出ていないが、上の状態から逸脱し、週一が毎日に変わり、やがて酒量が増えだすと私も彼らの仲間入りになることだろう。彼らは私にとっていい反面教師になった。 彼らのそうまでしてまで断酒を決行するのはそれぞれに拠り所があるからだ。 云い出しっぺの初島は素面で一般人が遊びに訪れる公園を散歩したり、休んだりしたいからだ。 アル中の彼が行くと日中から酒臭い男を見た子供連れの母親や夫婦が嫌悪感剥き出しに立ち去るのが嫌だからだという。彼はそんな慎ましい願いのために断酒に望む。 主人公の北岡はかつて自分が捨てた街宇都宮で最後に行ったバーのマスターの姪村雨零子に再び逢いたいからだ。彼女の前に酔っ払いの姿ではなく、まともな素面の人間で綺麗な姿で逢いたいからだ。 そうこの北岡という男は元サラリーマンで広告代理店の支店長にまでなった男は我々と近い価値観がある。 暴力など振るったことがなく、小学生から大学まで続けていたサッカーで鍛えた脚を武器に暴力団と戦い、人生を踏み外した男。 彼はボーナスを暴力団に奪われ、それを取り戻すために彼らに復讐する。警察に被害届を出すことを敢えてせず、自分で戦うことを選ぶ。 それは多分彼が日本の街の闇を知ったからだろう。 日向で生きてきた男に初めて襲い掛かった闇。暴力という理不尽な行為に屈した自分が許せなかったのだろう。 それを彼はどうしても克服したかった。彼の中の獣が目覚め、その瞬間家族や仕事といったしがらみからも解放されたのだ。 だから彼は復讐を終え、ボーナスを取り戻した後にこう自問自答する。 第二の人生に踏み出すなどというわけでなく、今までと違った生き方をしてみることにした、と。 彼は闇を知ってしまい、いわばコツコツ働いてお金を稼ぐといった間接性よりもほしい物は他所から奪うといった直接的な生き方、明日など考えず、今を考える生き方に魅了されたのだろう。妻と子供を養うために引かれたレールから外れることを選んだ。 だから知人の紹介で仙台で仕事を得てもそれはかつての自分の延長戦であったから続かなかった。そこでの暮らしは憎悪もなければ愛情もなかったと呟く。 つまり新しい生き方としてはあまりに無味無臭、平穏すぎたのだ。彼はもっと逸脱したかったから、東京に戻り、何者かも問われずに生きられる山谷に住み着いたのだ。 我々一般社会人からすれば彼はドロップアウトした落伍者に移るだろう。 しかし彼にとっては本当の生き方を選んだ世捨て人と思っている。彼は自由を手に入れたのだ。 しかしその代償として酒に溺れ、アル中になってしまう。 やがて主人公北岡吾郎の仲間木沢完の正体は桐沢風太郎であることが解る。そう、売れないグラフィック・デザイナーを生業にしたあの『男たちは北へ』の主人公であり、作者自身を色濃く想起させるあの無骨な優しき男だ。彼がフリーライターの初島に誘われて山谷の取材をすることになり、一緒に移り住むようになったのだった。 あの自転車乗りとこんな形で再会するとは。確かにアル中ではあったが、ここまで重度とは思わなかった。男桐沢の意外な側面を見た思いがした。 しかし桐沢の正体が解ってからは物語は北岡から彼にシフトする。何しろ前作で自衛隊たちともやり合った胸の据わった男だ。戦う術を心得ており、おまけに闇の情報へも詳しい。 この桐沢との再会は思いもかけないプレゼントに思え、素直に嬉しかった。 本書では元暴力団員だった宇都宮でバーを営むBAR酔虎伝のマスター村雨泰次と北岡が心の拠り所としている姪の零子、そして桐沢の切り札となる私立探偵の室井辰彦など今後も風間一輝氏の作品世界に登場しそうで、彼ら彼女らは今後とも心に留めておかねばならないだろう。 そしてなんといってもこの作家、無骨な男たちの友情を書かせたら非常に上手い。 桐沢がリンチに遭い、仲間たちが集まり、暴力団員3人に復讐をする顛末はほとんど『スタンド・バイ・ミー』のような青春小説の煌めきを見せる。 1人1人ではただの酔いどれだが、束になって掛かればヤクザさえも一網打尽。世は捨てたがプライドは捨ててない男たちの生き様が鮮やかに描かれる。 しかしやはり酔いどれは酔いどれ。ここにはどうしようもない男たちの足の引っ張り合いもまた描かれる。アル中だからこその団結力は裏返せばお互いがアル中であることを確認し合い、そして安心していることを意味する。 従って断酒なぞをしてそこから脱け出そうとすれば真人間になった仲間に置いていかれるのではという焦燥感に駆られ、足を引っ張ることも辞さない。彼らの団結力とは皆が同じ人種であることの安心感に由来していることが解ってくる。 本書はようやく週休二日制が普及し出し、今では死語になっている「ハナキン」という言葉が出来た頃の話だ。 しかしだからと云って本書で描かれているドヤ街山谷は令和の今なお実在し、そこには初島、北岡、桐沢や彼らを取り巻くオヤジたちが今なお半ばホームレスのような状態で生活しているのだ。東京スカイツリーのお膝元のような場所に今なお彼らは住み着いている。 47都道府県それぞれに異なる文化や風習があるように巨大都市東京都1つ取ってもそれぞれ独自の規律と文化で生きる人たちもいる。山谷には山谷でしか通用しないルールと暗黙の了解があり、それが今なお連綿と続いている。 サラリーマンで支店長まで登り詰めた北岡がこの異質な秩序で形成されるドヤ街で生きゆくさまはもしかしたら近い将来の私の姿かもしれない。 彼ら人生の落伍者たちの、そして酔いどれたちのブルース。 地図にない街山谷。 それは未来という地図のない街でもある。 明日なき街を行く2人にまたどこかで出逢うことだろう、間違いなく。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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泥棒バーニイ・ローデンバーシリーズも本書が最終作だそうだ。
“だそうだ”というのはブロックはこれまでも最終作と思しき作品を著しながら、思い出したように続編を書くからだ。しかし御年80歳であることを考えるとさすがにこの謳い文句は本当のように思える。 今回の話はとにかくいつもとは異なる。軸となるストーリーはあるものの、そこに至るまでがいつもより長く、余分なエピソードや蘊蓄の量がかなり割り増しされているのだ。 軸となる話とはミスター・スミスなる謎の人物からフィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の生原稿、そしてアメリカ独立宣言の署名者の1人バトン・グインネットを象徴したボタンの意匠を施した使途スプーンの所有者からの盗みと並行してレイ・カーシュマンが担当する泥棒による富豪の老婦人殺害事件の捜査の手伝いだ。 実際本筋のバーニイが謎の人物ミスター・スミスから依頼された最初の盗みを始めるのが80ページ目辺り。そしてお馴染みの宿敵、刑事のレイ・カーシュマンがバーニイに疑いを掛けた泥棒による老婦人殺人事件を持ち掛けるのが120ページ目辺り。更に本書の題名となっている使途スプーンを盗む計画が動き出すのは190ページ目辺りと、実にとびとびに物語は展開する。そしてこれら約4~70ページの間隙で語られるのはバーニイの女友達で時々盗みのパートナーを務めるペット美容師のキャロリンと繰り広げる多数の蘊蓄とエピソードで彩られた、あっちこっちに脱線する会話なのだ。 それらは時に冗長に感じられながら、ブロックお得意の会話の妙味が込められていて面白いのは事実。 物語はこのキャロリンとバーニイ2人の行きつけの店<バム・ラップ>で飲みながら取り交わされる会話が中心となっていると云っても過言ではない。その内容は多岐に亘り、昨今の書店経営事情、注目の作家の話や同性愛者であるキャロリンが語る同性愛者への社会の対応の変化―彼女は同性婚の承認を求める運動に参加していたらしい―、さらにこれに加えて謎めいた依頼人ミスター・スミスの自分の熱狂的な蒐集癖に纏わる逸話の数々も盛り込まれる。 自分の本名がバートン・バートン5世であることからボタン蒐集に熱を挙げていた彼はやがてボタン(英語読みではバトン)と名の付く物ならば何でも集めることになった。勿論彼のボタンコレクションもかなり稀少な物が多く、アメリカが選挙運動のために記念ボタンを作っていることや十二使徒の像をあしらったスプーンの存在と最高の銀細工師によるものもあり、それを模した特注で作らせた15本セットの13の植民地を象徴する当時の市民の鑑みたいな人物をあしらったものまで存在すること、そしてそれがまた銀細工師の話や歴代アメリカ大統領の逸話と大統領選そのものの逸話などを呼び込み、話はどんどん膨らんでいく。 さてそんな蘊蓄と脱線で彩られたシリーズ最終作。中身はそれでも本格ミステリばりの内容となっている。 事件の謎解きをバーニイは自分の店で関係者一同集めて、さながら昔の本格ミステリのように行う。その前にレックス・スタウトのネロ・ウルフシリーズを読み直して、どういう風に進めればいいのかを参考にするのが面白い。 そう、上でも少し触れたが、本書はミステリ作品が色々取り上げられている。 ミスター・スミスが来たときはバーニイはディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズの1冊を読み耽っており、我々と同じように事件が解決しても残り40数ページ残っていると油断が出来なかったり、アメリアが毎度危機に陥るが結局は助かって、次作へと続く、そういうことが解っていながらも騙される。それも解ってはいるのだが、と。 またマイクル・コナリーのボッシュシリーズも読んでいるようだ。書名は明かされないものの、ボッシュが刑事を辞めて私立探偵になった頃の作品とあるから『暗き聖なる夜』か『天使と罪の街』のどちらかだろう。面白かったがボッシュはどうにもやりにくそうにしていて警察に戻って三人称で語ってもらう方がよさそうだ、なんてニヤッとする感想まで述べている。 またミステリ以外でもジョン・スタインベックは名高いが今では『二十日鼠と人間』以外ほとんど手に入らないことなども触れられている。 これらは多分に作者本人の心情や感想だろう。従ってブロックが今どんな作品に注目しているかが解るというものだ。 また昨今の書店経営事情の困難さを象徴するかのように本書が幕を開けることにも触れておきたい。 最初の客がバーニイの店でタイトルが解らないけれども、ずっと探していた本を見つける。恰も購入しそうにレジに来るが、タイトルをアマゾンで調べると電子書籍化されてて、そちらの方が13ドルも安く手に入るので止めることにしたと云って出て行く。 また常連のモーグリという男性は大量に本を買ってくれるが、彼はその本を手元に置いておきたいわけでなく、自身がウェブで売るためのせどりをしていることをバーニイは知っている。常連客の1人が亡くなり、その蔵書を売りたいという連絡を受けて家に云ったら、息子が1冊ずつネットで売ることにしたので止めたと断られた。 ネットの繁栄が実店舗の書店・古書店へもたらす不景気の煽りをバーニイの経営するバーネガット古書店にも訪れていることが描かれている。これが今の書店業界の現実なのだ。 しかし幸いなことにバーニイは金に困らず、住むところも持っているから古書店主兼泥棒という人生は続いていくことだろう。いやバーニイのような余裕のある人でないともはややっていけないのかもしれない。 しかし泥棒稼業も厳しくなり、今ではカードキー型のホテルやマンションが増え、鍵開けの技術が通用しなくなってきている。これらは我々一般人にとっては実にいい話であるが、それでも策を弄すれば侵入は出来るように本書では描かれている。 例えば恰もゞマンションの住民に見せかけて一緒にセキュリティを通り抜けるなど。これは西洋人が見知らぬ人同士でも気軽に声を掛け、話す習慣を持っているからこそできることであり、日本だと他者に対する警戒心が強いため、なかなか通用しないやり方だろう。 しかしそれでもやはり本書は最終作であるようだ。 キャロリンが今回の事件をレイ・カーシュマンと共同で解決したことから、泥棒の経験を活かした犯罪コンサルタントとして捜査に協力するという提案をするが、バーニイはかつて自分が愛読していたダン・J・マーロウのアールとドレークシリーズを引き合いに出し、犯罪者のドレークが改心して政府機関で働くようになってからシリーズを読むのを止めたと話す。つまり泥棒はあくまで泥棒であるからこそこのシリーズは面白いのであり、それが正義の側になってしまうともはや違う話になってしまうのだとブロック本人が仄めかしているのだ。 本書はブロック75歳の時の作品。引導を渡すには頃合いだったのだろう。 また1つ私が愛読してきたシリーズが終わってしまった。哀しいけれど何事も引き際が肝心で、むしろこれほどのクオリティを保って幕を閉じることが有終の美というものだ。 つまり本書における数多くの蘊蓄や寄り道はブロックの内なる書きたいことを最大限に放出したことに他ならない。彼の中にある興味あること、書きたいこと、教えたいことを極力多く入れたかったのだ。 老人が若者に酒を片手に蘊蓄を傾けるかのように、古きアメリカの歴史や昨今の出版事情などを聴くが如く、読むのが本書の正しい読み方だ。 バーニイよ、物語は終わっても貴方の人生は続くことだろう。ニューヨークで、そして我々の心の中で。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリー・クイーン存命中、アンソロジストとしても活躍していたアルフレッド・ダネイ氏の許に日本版『黄金の12』を選出する企画が始まった。東京にEQJM(エラリー・クイーンズ・ジャパニーズ・ミステリー)委員会が編成され、1970年以降に発表された短編ミステリの中から厳選された作品を英訳し、クイーンの許に届けられ、更にそこからクイーンのお眼鏡に適った12編を基に組まれたアンソロジーが本書である。
その後この企画は3回続き、全3巻のアンソロジーとして刊行されている。 その第1集が本書である。カッパ・ノベルスとして刊行されたものの文庫版が本書で、ノベルス刊行時は1977年。70年に活躍したミステリ作家の歴々がその名を連ねている。 それは平成の今なお映画・ドラマなどで映像化された際に番組名にその名が冠として付く錚々たる面々であり、今なお売れ続けているベストセラー作家たちもいる。やはり彼らのネームヴァリューは伊達でなく、本格ミステリの伝説的存在クイーンにも、いや世界にも通用する実力を兼ね備えていたことを証明するようなアンソロジーでもある。 さてその幕を開けるのは石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」だ。 石沢氏の小説は初めて読んだが、実に面白く、読み応えがあった。クイーンの短評で知ったが、寡作であるが1作1作が十分練られており、丁寧な準備の下で書かれているため優れているというのは本当だろう。 本作は社内でも評判が良くもなく悪くなく、家庭円満で近所の評判もいい一人事課長が定年を迎える1年前の忘年会で毒殺されるという奇妙な事件が題材となっている。しかしその可もなく不可もない性格ゆえに周囲は自分たちが胸に抱える秘密や困り事を打ち明けるのに最適の人物となった。従って上司部下の上下問わず、彼には色んな秘密が打ち明けられる。 隠密裏に進む合併計画、社長妻との浮気、ホモ志向である自分の性癖、うやむやになった轢き逃げ事件、家族ある社員との不倫とその結果招いた中絶。 どこかで聞いたような、外に出せない秘密の数々である。そんないわば心の澱を抱える社員たちの駆け込み寺となっていたのが宇佐美であった。 彼はただ聞くだけだが、裏返せばそれは様々な社員の秘密を知っている事情通となる。 この前に読んだコナリーの『スケアクロウ』でも強調していたが、情報を扱うのはセキュリティも大事だが、最も大事なのはそれを扱う人だ。 会社の内情という組織の秘密と個人の秘密が見事に溶け合い、全く無駄のないミステリ。開幕投手として申し分ない。 さてその勢いはビッグネーム松本清張氏の「奇妙な被告」に至っても衰えない。 本作で登場する犯人はもっとも恐ろしい犯人である。本作もまた人への信頼を揺らがさせられる、興味深い作品だ。 続く三好徹氏の「死者の便り」は題名通り、死者から手紙が届くという奇妙な発端で幕を開ける。 新聞社に送られてきた2ヶ月前の消印が押された死者からの手紙という本格ミステリの導入部としては実に魅力的な謎で幕を開ける本作は石沢氏や松本氏の作品同様、実に社会的なテーマへと繋がっていく。 そして本作の真相は実に皮肉だ。 森村誠一氏も昭和を代表するミステリ作家の1人だが、彼もまたクイーンのお眼鏡に適った。「魔少年」はアンファンテリブル物である。 アンファンテリブル、つまり恐るべき子供の物語で、餓鬼大将でクラスの友達に先生に告げ口されたり、お願いを断られたことを逆恨みしてその子たちの大事な物を奪い、もしくはその身を危険に晒すように強要する少年の悪戯がエスカレートする様が描かれるが、この真相は読んでいる途中から解った。 いわば大人社会でも起こりうる話を小学生の世界に落とし込んだ話だ。子供が残忍なことを計画し、実行することで事件の恐ろしさが否応なしに増すのはやはり子供に純粋さを望む大人の心理が働くからだろうか。 さて次も大御所が選ばれている。夏樹静子氏の「断崖からの声」は世捨て人とその妻との間に陥った男が遭遇する事件を扱っている。 自分の事故で芸術家の命でもある視力が損なわれた主人のために一生を捧げることを決意した女。東京から福岡へ隠遁生活を続ける夫はしかしそんな単調な生活に耐えられなくなり、東京に再び出るための資金を得るため、妻が海で遭難するという偽装工作を企てる。 またも大御所の登場。西村京太郎氏の「優しい脅迫者」は先の読めない展開で実に読ませる。 子供の轢き逃げをしてしまった理髪店主が目撃者に強請られる。しかも定期的に訪れて、そのたびに金額は倍増する。まるで蟻地獄に陥ったかのような絶望の中、脅迫者を調べると売れない俳優でなんと前科も何もない、根っからの善人であることが解る。更にとうとう思い余って殺してしまった際に、まるで店主を庇うかのような言葉を発して亡くなる。 この理解しがたい状況が最後脅迫者の遺書で雲散霧消する。ただ「その時」が来るまでの理髪店主にとってはその毎日は悪夢以外何ものでもない。私はこの物語には続きがあるようにしか思えない。そう、脅迫者の真意を知った理髪店主の次の行動が気になって仕方がなかった。 大御所の作品が続く。佐野洋氏の「証拠なし」はいわばリドルストーリーのような作品だ。 どこから見ても事故としか思えない事件。しかし調べてみると関係者には動機となるような理由があるが、果たしてそれが殺人へと発展するかと云えばそうでもない。更に調べていくうちに容疑者の女関係が明るみに出て、そのうちの1人を殺すための予行演習だったのでは、などと警察捜査本部の面々は推測を立てていく。そしてそれぞれの場面で不能犯に該当する、過失犯だ、いや正当防衛だと議論が紛糾していく。 なお不能犯とは、殺意はあるものの、直接的にそれが死に至るほどではない刑罰の対象とならない行為、つまり未必の故意のある犯人を指す。死ねばいいのにと夜毎藁人形で釘を打ち立てるようなものだと当時の広辞苑には書かれていたようだ。 過失犯は過った末に罪を犯してしまった犯人を指す。よくあるのは交通事故で人を轢いてしまい、殺してしまう過失致死が該当する。 さてかつて昭和のミステリガイドブックにはこの作家の作品が必ずと云っていいほど取り上げられていた。木枯し紋次郎でお馴染みの笹沢左保氏もクイーンのお眼鏡に適った。「海からの招待状」は差出人不明の手紙で幕を開ける。 「海」と名乗る匿名の人物から送られたオープンしたての豪華ホテルの貴賓室への招待。世の中上手い話があるわけないが、行ってみたくなるのは世の常。しかし招待されたのは自分だけでなく、他に4人の男女がいた。そしてそれぞれにはある共通点があった。 何とも魅力的で謎めいたシチュエーションである。彼ら彼女らはいつしかある事件の犯人の1人であることが判明し、推理が行われる。決して閉ざされた部屋ではないので、望まなければ出て行くことも可能だが、そうすれば逆に疑いを招くだけという人間心理の妙も楽しめる。 現れぬ招待主が招待客の中にいるのは別段驚く真相ではないが、折角犯人を捕まえることができたのに虚しさだけが残る招待主の心情が印象的だ。 なおクイーンは短評で笹沢左保氏の作風をルブランやクリスティ、そしてクイーンなどの影響が感じられてると述べているが、私見を云えば本作は寧ろ謎めいた導入部とある事件に共通する人物の中でのドラマという点ではウールリッチの作風を想起させられた。 草野唯雄氏も笹沢左保氏同様、既に他界された昭和を代表するミステリ作家だが、彼の作品もまた12席の1席を与えられた。「復顔」はゴミ焼却所で見つかった頭蓋骨から物語は始まる。 ウールリッチの『幻の女』と死んだ女が蘇って事件解決に手を貸すといったミステリアスな内容の物語。 しかし35歳で頭蓋骨研究の権威とされている主人公だがその博識ぶりはあまり発揮されず、寧ろそれまで独身で女の色香にすぐにほだされてしまう情けない男という印象だけが残ってしまった。最後に復顔の手伝いをした女性の正体を突き止め、彼女の許を訪れたのは単に彼が真相を知りたかっただけでなく、一夜限りの交情が忘れらなかったことが大きいだろう。何とも未練たらしい男である。 江戸川乱歩賞作家でシャンソン歌手という異色の経歴の戸川昌子氏も当時は全盛期でクイーンも選出せざるを得なかったのだろう。「黄色い吸血鬼」は異色の幻想ミステリだ。 吸血鬼の餌として建物に監禁されている複数の男女というファンタジーかと思いきや、ある不正を被害者の視点で描いたものだ。幻想的で匂い立つエロスを感じさせるのがこの作者の長所だろうか。 しかしこういった社会の底辺の落伍者たちを家畜のように扱う輩は21世紀の今でもまだ続いていると思うとこの問題は大変根深いものだと痛感する。 本格推理小説の重鎮の1人、土屋隆夫氏の作品も選ばれた。「加えて、消した」は突然の妻の自殺に直面した男の物語だ。 流産を苦にした妻の突然の自殺というショッキングな展開から、遺書もあり、なおかつその夫は京都へ出張中であるという全く事件性のない事件が遺されたたった4行の遺書の中にある違和感と当日の夫の不審な行動から隠された真実を掘り起こす、たった2人の問答で繰り広げられる物語は実にロジックに特化した内容で面白い。 特に自殺前に姉に電話した妹が姉の通話越しに聞こえた引き戸の音と親しげな姉への呼びかけから何がそこで起こったのかを解明する件は生活感もありつつ、ロジカルで実に面白い。 なお遺書の中の違和感については私も感じていた。 何とも遣る瀬無い真相。 最後を飾るのはやはり現代を代表する大作家の1人、筒井康隆氏の「如菩薩団」だ。 さすがは筒井氏。シュールでありながらある意味リアルな設定の物語でクイーンの12席に選ばれた。 8人の主婦たちによる強盗団。主人たちが出払った平日の昼に集まり、目を付けた金持ちの邸を訪ねて、そこで強盗を働く。 本作の初出時期を調べると1974年頃とあるから、第1次オイルショックの真っ只中。そんな世相を反映してか、主婦強盗団の面々は大学出の夫を持ちながらもサラリーマンで薄給と日々高騰していく物価に苦しむ中間層の人たちばかり。団地に住み、子供の塾代に苦慮し、夫と子供の服を優先して購入し、自らは2年前に買ったブランド品ばかりを身に着けるといった、どこにでもいるような主婦たちだ。 彼女たちがある水準の教育と躾を学んだ女性たちで形成されていることが特徴的だ。それがこの一種奇妙な強盗譚をどこかで本当に起こっていそうな話に思わされる、そこはかとない恐怖を沸き起こさせる。 欧米その他海外諸国のミステリは積極的に翻訳され、日本に紹介されているものの、逆に日本のミステリが全く海外に向けて発信されていない現状があった。世界への門戸は入ってくるばかりの一方通行であったのだ。 そんな現状を変えるためにクイーンの鑑識眼を通して、海外ミステリの名作・傑作と遜色ない作品を世界に問い、発信するための試金石となるのが本書編纂の大きな目的でもあった。 私が感心したのは篩分けを行うEQJM委員会が評論家ではなく、ミステリのコアなファンや推理小説通として認められている経歴の持ち主5人によって構成されていることだ。 往々にして評論家や研究者が選びがちな、作品の背景に隠された歴史的意義や当時の作者の心境など深読みしなければ、もしくは時代背景や私生活にまで踏み込まないと解らないような行間の読み方をすることで得られる読書の愉悦にこだわった作品ではなく、純粋にミステリとして面白い作品がファンの立場で選ばれていることがいい結果に繋がっているように思う。それほどまでに本書収録の各短編のクオリティは高い。 そんな粒ぞろいの短編集。全く駄作はない。全て水準を超えており、中には一読忘れられないほどの印象強い作品もある。 1作目の石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」と2作目の松本清張氏の「奇妙な被告」はそれぞれ警察と弁護士が主人公であるが、その内容は表裏一体だ。 石沢氏の作品では警察のカンによる捜査が改めて問題視されており、敬遠されている風潮があるが、やはり経験から基づく第六感というのはあるとし、それが事件解決に効果的に働いている。 一方松本氏の作品は事件現場の状況、目撃者の証言から容疑者を特定し、警察のカンによって敗訴する様が描かれている。 この2作は捜査員のカンという題材で以ってまさに70年代当時の警察捜査が直面している問題を浮き彫りにしているようだ。 またこれも時代だろうか、男性作家の女性に対する描写も生々しく、平成の今なら書かないであろう一線を超えて、本能を露わにして書いているように感じた。 艶めかしく、色香が溢れ、女性の欲求不満ぶりや男を惑わす身体をしていると云った、性的描写が濃厚。中にはセックスシーンをも盛り込んでいる作品もある。 あとやはり高度経済成長期を経たことで誰もが一番を目指すことを要求された学歴社会による弊害から生まれた作品もあれば、その後の第1次オイルショックといった急激な物価上昇を経験した時代であることから、将来を約束されたものと思われた大学出のサラリーマンが経済苦に瀕し、高卒の商売人が裕福になるといったいびつな経済格差社会を反映した作品もあり、また生命保険殺人など、世相を色濃く反映しているものも見られ、昭和の時代を知る意味でも興味深い側面があった。 また当時を知るという意味では松本清張ブームで推理小説が活発化している時期であったことも興味を惹かれる。 クイーンによる序文によれば商売繁盛どころの騒ぎではなく、毎月平均30冊、40編の短編集が出版され、年間2,000万冊以上の販売数であるとのこと。ウェブ社会の発達で書籍離れ、もしくは紙の本から電子書籍へ移行し、年々閉店と倒産が続く出版業界の現在を思うとまさに時代の花形であり、夢のような時期だったことが解る。 しかし70年代の、つまり昭和の時代の作家の筆致は何と濃厚なのだろうか。ミステリ作家と呼ぶには軽すぎて昔ながらの推理作家の呼称の方がしっくりくる。 行間から立ち上る登場人物の息吹や生活臭がむせ返るほどに濃密で高度経済成長期で整備が追い付かない未舗装路から巻き起こる土埃やエアコンのない時代の蒸し暑さと汗ばんだ皮膚から発散される体臭までもが感じられるようだ。 登場人物皆がギラギラし、人と人との距離が近く、暑苦しささえ感じる。 そしてそれぞれの家庭に独特の生活臭があるように、それぞれの作家の短編の1ページ目を開ければそれぞれ異なる色合いと風合いを感じさせる。 例えば石沢氏の作品に登場する主人公の刑事光野はかつてギャンブルにのめり込み、高利貸しから金を借り続けて借金まみれになり、それを当時の上司に助けられた過去がある。そうしたエピソードを付け加えることで当時の警察の規律のいい加減さや光野という登場人物に厚みをもたらしている。 それはまだやはり作家たちに終戦が経験として地続きであることが起因しているのではないか。実際本書においても終戦直後のことが盛り込まれた作品もあり、それを知らない戦後世代との会話も登場する。 この戦後の混乱を経験した作家に根付いた人間に対する観察眼はやはり非常に土着的で、そして野性的であるように感じる。それが登場人物に厚みと汗臭さをもたらしているのではないか。 平成は醤油顔が奨励され、濃い顔の男たちはソース顔と揶揄され、敬遠されたが、各編に出てくる登場人物たちはそんなあっさりとした面持ちを持たず、日々成長する当時の日本社会を象徴するかのように野心を持っており、翳を備えて、陰影に富んだ濃い顔の持ち主ばかりだ。 さてそんな珠玉揃いの短編。石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」、松本清張氏の「奇妙な被告」、土屋隆夫氏の「加えて、消した」が印象に残ったが、個人的ベストは西村京太郎氏の「優しい脅迫者」だ。 じわりじわりと強請りの金額を吊り上げる脅迫者と絶望感に苛まれる被害者。溜まらず最後の一線を超えた先に見えた意外な真相。読中は脅迫者のねちっこい強請りに終始心が粘っこくなるような嫌悪感を覚えたが、読み終えた時はその結末の温かさに思わずため息が漏れてしまった。初期の西村氏の作品には傑作が多いと云うが、本作もまたその中の1編であると云えよう。 まさに当代きっての日本を代表する推理作家が揃った短編集であるが、冒頭の本書刊行の経緯を記したEQJM委員会の序文によれば傑作でありながも日本独特の言語・習慣・歴史・風俗に基づいた作品は敢えて外されたとのこと。これも70年代当時の世界からの日本の認識度から考えれば仕様のないことだが、COOL JAPANとして外国人への日本文化の関心と認知度が増した現代ならばどうなっていたかと興味深いところではある。 また昭和の本格ミステリ界を支えてきた鮎川哲也氏と高木彬光氏の作品が選出されていないのは意外だった。 このアンソロジーはこの後2冊刊行されているが、今回の選考漏れから奮起してその名に恥じない傑作にて選出されていることを期待したい。 世界に日本のミステリを!その第一歩となった名アンソロジスト、エラリー・クイーン編集による短編集は期待値以上の読み応えがあった。 この後まだ2冊も残っている。つまりあと24編あるわけだ。 24回、読書の愉悦を堪能できる、なんとも贅沢なその時を待つこととしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これは『ザ・ポエット』第2章か?
詩人の事件でコンビを組んだ新聞記者のジャック・マカヴォイとFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが再びタッグを組み、連続殺人鬼スケアクロウに立ち向かう。20世紀の敵、詩人(ザ・ポエット)と違い、21世紀の敵、案山子(スケアクロウ)は更に強力だ。スケアクロウことウェスリー・カーヴァ―は平時はデータ会社の最高技術責任者の貌を持つ男で、ウェブ世界を自由に行き来し、各会社のサーバーに容易に侵入し、個人情報を盗み出す。ジェフリー・ディーヴァーの『ソウル・コレクター』に出てきた未詳522号を髣髴とさせる。 従ってそんな敵に独り昔ながらの方法で取材を続けるジャックはいつの間にかクレジットカードを無効にされ、携帯電話は使用不可になり、個人のメールアカウントさえも乗っ取られてしまい、更には銀行口座も空にされ、まさに八方ふさがりの状況に陥る。 その一部始終も詳細に書かれている。スケアクロウは自分が行っている犯罪トランク詰め殺人に興味を持つ人間が集まるサイト、トランク・マーダーサイトを立ち上げ、それを捕獲サイトとしてアクセスした人のIPアドレスを入手し、それを別のサイト、デンスロウ・データに転送してそこから犯人はIPアドレスを捕獲する。そうすることでトランク・マーダーサイトから逆に自分のIPアドレスを探られるのを防いでいた。 そして転送されたサイトから入手したIPアドレスからアクセス元を辿り、そのパソコンにアクセスして個人情報を盗み見て、そこから更にその人物が使っているであろうパスワードを推測し、その人物が利用しているポータルサイトにアクセスして、成りすましてサーバー内に侵入する。それからはまさに独壇場。本人が送ったメールは削除され、誤導する内容のメールを送付して、自分の思うがままに周囲を、本人を操る。クレジットカード、メールアカウント、携帯電話、銀行口座などウェブを介して変更、更新が出来るものは全て意のままに操れる。 特にスケアクロウことウェスリー・カーヴァ―がジャックの後任アンジェラのブログ記事から飼っている犬の名前をパスワードにしていると推測して勤務先の新聞社のサーバーに彼女に成りすまして侵入していく有様はいかに我々一般人がウェブに関して無頓着に自ら重要な情報を明かしているのをまざまざと見せつけられる思いがした。 また今回の事件がトランク詰め殺人であることでどうしても同様の事件である『トランク・ミュージック』を想起させられてしまう。作中でもジャックの後任のアンジェラが過去のデータベースを引っ張った際に、ボッシュが担当したこの事件について言及される。 つまり本書は同時期に書かれた『ザ・ポエット』と『トランク・ミュージック』に21世紀という時代を掛け合わせた作品と云えるだろう。 さて今回の敵スケアクロウが殺害した女性はストリッパーであり、背が高く、長い脚と引き締まった身体つきをしており―FBI曰く、キリンのような女性―、膣と肛門を異物で何度もレイプした後、裸でビニールにくるまれて、その上から紐で首を絞められて窒息死させられる。そして下肢装具愛好者で拷問中にそれを被害者に付けていたと思しき痕跡が見られる。正真正銘のサイコパスだ。 そしてウェブサイトを自由に行き来できることから、そこで自分の好みに合った女性を見つけ、犯行に及ぶ。ジャックと取材していたアンジェラもスケアクロウの願望に見合ったがために、その毒牙に掛かってしまう。 そんな恐ろしい敵に挑むために再びタッグを組むことになったジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリングのそれぞれの状況は『ザ・ポエット』と本書では全く状況が異なる。 一介の地方紙の新聞記者に過ぎなかったジャックが『ザ・ポエット』の事件によって一躍注目を浴び、ロサンジェルス・タイムズ紙の記者になる立身出世の物語だったのに対し、本書は一度の離婚を経験し―なんとその相手はボッシュシリーズでお馴染みの新聞記者ケイシャ・ラッセル!―、そのロサンジェルス・タイムズ紙から解雇勧告を受けた立場であり、後任の新聞記者の引継ぎと教育を兼ねて最後のヤマとして取材している。 つまり上昇気流に乗っていたジャックに対し、本書では下降線を辿る新聞記者の起死回生の物語となっている。 一方レイチェルはFBIの花形部署、行動科学課のプロファイラーとして詩人の事件を担当していたが、ジャックとの件で新聞記者と寝た女というレッテルを貼られ、末端支部に左遷されてしまう。その後ボッシュと何度か組んだ事件でロスに再び戻り、諜報課勤務を続けている。但しそれは彼女の本分ではない部署ではある。 そして彼女は再び窮地に陥る。業務と称してマカヴォイの手助けをした際に専用ジェットを使用したことで経費濫用の罪に問われ、FBIを辞職させられる。 しかしその後ジャックの提案で独自で事件のキーとなるウェスタン・データ・コンサルタント社を捜査し、犯人の証拠を掴むことで再度FBIに復帰するのだ。 一方ジャックも事件の当事者の1人となることで一旦復職を許されるものの、その契約内容は収入減と各種手当が付かないという内容で、ジャックはそれを一蹴する。 ジャックもレイチェルも一旦は職を失いながらも、自分が見つけ、関わった事件で運命を変える。それは起死回生のチャンスだが、ジャックはそれでも自分に見合わない条件としてそれを蹴り、一方レイチェルはそれを受け入れ、再び殺人事件捜査の第一線へと戻る。 今回最も私が驚いたのがレイチェル・ウォリングのことだ。彼女は詩人の事件でジャックと恋仲になったことをFBI内に知られ、左遷され、長い間心が塞いでいくような閑職に追いやられた身だ。つまりそれは自らが招いたこととはいえ、ジャック・マカヴォイこそが彼女の輝かしい未来へのキャリアを棒に振る大きな要因だったことだ。そんな忌まわしい記憶が残る中に再びジャックに加担する理由が、彼女にとってジャックが“一発の銃弾”だったということだ。 これはボッシュがレイチェルに語った、誰でも1人忘れられない運命の人、心臓を撃ち抜かれた一発の銃弾のように、という説だ。つまりボッシュにとってエレノア・ウィッシュがそうであるようにレイチェルにとってそれはジャック・マカヴォイなのだ。 私はこれが非常に驚いた。ジャックはFBI女性捜査官の心を奪うほど人間的に魅力のある人物とこれまで思わなかったからだ。 新聞記者でいつもよれよれのコートを着て、煙草のヤニの匂いを漂わせて、警察やFBIに嫌悪されているような人物と想像していたからだ。私の中では俳優のマーク・ラファロのような風貌で、レイチェルは肩までのブロンドの髪をした細身の顔のクールビューティな感じで若い頃のティア・レオーニを想像させるような人物像である。 レイチェルがこれほどまでに惚れるジャックはよほどハンサムで魅力的なのだろうが、これにはどうも違和感がある。いや、単に私にとってお気に入りのキャラクターであるレイチェル・ウォリングがジャックに心底惚れていることに嫉妬しているだけなのかもしれないが。 ジャックの一人称で紡がれる物語は新聞記者の特性が実に深く描かれている。自身地方の新聞記者からロサンジェルス・タイムズ紙に引き抜かれたコナリーにとってジャック・マカヴォイは自らが色濃く反映されたキャラクターだろう。そこに書かれているのは新聞記者たちがいかにスクープを物にし、のし上がろうと貪欲に事件を追いかけている有様とそのためには他人を出し抜くことを厭わない不遜さを持っていることだ。 解雇通知を受け、後任となったアンジェラは事件記者としては新米ながらもジャックが追いかけることになったスケアクロウの事件を既にキャップと話してジャックの記事ではなく、2人の共同記事にすることをとりなして、一刻も早く大きな事件を扱えるように画策すれば、ジャックは自分の記事がセンセーションを巻き起こすことを期待して掴んだ手掛かりはいつまでも持っておく。更に自分が当事者になることで記者から取材対象者になると、解雇通知を受けたジャックに同情を寄せていた同僚は嬉々としてジャックに訊き込みを行う。 そんな生き馬の目を抜く、上昇志向の塊のような集団が新聞記者たちのようだ。即ちこれはコナリー自身の回顧録でもあるのかもしれない。 一方で顕著なのは花形とされていたメジャーメディア会社であるロサンジェルス・タイムズ紙が斜陽化してきていることだ。インターネットの発展でウェブ化が進み、新聞の発行部数は軒並み減少。従って経費削減としてリストラを行わなければならず、その憂き目にあったのがジャック・マカヴォイなのだ。 高給取りのベテラン記者を排し、安い月給の新人記者に取って換えようとする。実際ロサンジェルス・タイムズ紙は経営破綻し、会社更生手続きの適用を申請したそうだ。 コナリーも巻末のインタビューで応えているように、この新聞界を襲う未曽有の経営危機が本書を書く動機になったようだ。それは新聞界に向けたエールであると同時に鎮魂歌でもあるのかもしれない。 本書の題名であるスケアクロウ、即ち案山子はデータ管理会社におけるセキュリティ責任者の俗称だ。田畑を荒らしに来る害鳥たちから守るために付けられる見張り役、案山子のように、ウェブ世界の中を徘徊するハッカー、特許ゴロ、コンピュータ・ウィルスたちを見張り、データを守る存在だ。ウェスタン・データ・コンサルタント社でその任に当たるウェスリー・カーヴァ―がこの連続殺人鬼であることから題名は来ている。 一方ジャックの上司であるドロシー・ファウラーがその名前から『オズの魔法使い』の主人公に擬えられていること、そしてこの作品にも案山子が登場していることは何らかのメタファーなのかと思ったが、これが本当にそうだった。 しかし今回もまたストリッパーに絡んだ事件だ。コナリーの物語は本当にこのストリッパーや売春婦たちが巻き込まれる事件が多い。 そしてウェスリー・カーヴァ―はハリー・ボッシュと同様に母親がストリッパーである。ストリッパーが母親でありながらもボッシュは悪に染まらず、罪を裁く側の人間となった特別な存在だと強調するかのようだ。 しかしディーヴァーの『ソウル・コレクター』の時もそうだったが、今回は実にリアルで寒気を感じた。情報化社会でもはやウェブがなければ生活できない我々がいかにインターネットに、情報端末に依存して生きており、そして自分たちの秘密をそこにたくさん放り込んでいることに気付かされた。 そしてそれがある意味自身の生活を、いや自分自身のアイデンティティそのものを容易に侵す可能性を秘めていることも改めて思い知らされた。 ブログやツイッター、ラインにフェイスブック、インスタグラムなどに代表されるSNSに我々はいかに無防備に自分をさらけ出していることか。悪意あるハッカーたちやクラッカーたちが虎視眈々と狙っている付け入る隙を自ら提供しているようなものである。 しかしこれからはキャッシュレス化が進んでいけば、更にこのウェブで生活や仕事達の大半を処理していく傾向は強まることは避けられない。 そうした場合、何が問われるかと云えば、本書でも言及されているように、堅牢なシステムは無論の事ながら、それを扱う人間の資質だ。他人を盗み見ることが常態化し、悪い事とは思えなくなってくる、いや寧ろ他人の情報すらも容易に手中に出来ることで自らを一般人とは上位の存在、神と見なして他者を単なる名前やIDだけの文字だけの存在としか認識しなくなる怪物が育ち、悪用されるのが恐ろしい。 某通信教育会社がデータ管理会社の社員によって金になるという理由でユーザー情報を流出して売り払らわれていた事件を目の当たりにし時と同じ戦慄を覚えた。なんでもそうだが、結局行き着くところは「人」なのだ。 つまりこのウェスリー・カーヴァ―は単に創作上の怪物ではない。本書は実際に起こりうる事件であり、ありうる犯人であるからこそリアルで恐ろしいのだ。 しかしコナリーのストーリー運びには今回も感心させられた。特にジャック・マカヴォイが事件の結び付きを発見していくプロセス、レイチェルが行うプロファイリングの緻密さ、畳み掛けるように起こる2人への危難とそれを打倒する機転。それらは実に淀みなく展開し、全く無理無駄がない。よくあるデウスエクスマキナ的展開さえもない。全てが必然性を持って主人公の才知と読者の眼前に散りばめられた布石によって結末へと結びつく。 ジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリング2人が最高のコンビであることを再度確信した。 悔しいが、こんなに面白く、そして知的好奇心を刺激され、なおかつ爽快な物語を読まされたら、2人はお似合いであると認めざるを得ないだろう。再びこのコンビでの活躍を読みたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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犯罪未満の壮大な悪戯を世間に仕掛けて喜ぶことを目的とした黒古葉善蔵率いる非営利団体Zionist Organization of Karma Underground。通称ZOKU。
それに立ち向かうのは木曽川大安率いる科学技術禁欲研究所Technological Abstinence Institute。通称TAI。 この2つのチームの戦いを描いた連作短編集が本書である。 まず第一話「ちょっとどきどき」では暴音族なる騒動が世間に起こっていることが語られる。 まずはイントロダクションとも云うべき1編。お騒がせ悪戯集団ZOKUの悪戯の数々とそれを防ぐTAIの面々の顔合わせだ。 続く「苦手な女・芸術の秋」ではTAIの木曽川大安の秘書、庄内承子が初登場する。 なんと本書ではTAI所員のヒロインの永良野乃がエース揖斐純弥に惚れてしまうという事態が起こる。単にシリーズを続けるだけでなく、登場人物たちに発展を見せる、流石は森氏。エリート然とした揖斐のやや子供っぽい側面と思いもかけないところから来るプレゼントに恋愛経験の浅い永良野乃がほだされていく一部始終が描かれていて好ましい。 「笑いあり 涙なし」ではZOKUにも新キャラクターが登場する。 前回で揖斐に興味を、いや恋心を抱き出した永良野乃の揖斐へのアタックは本書でもまだ続く。いやむしろ前回では意識し出して手探り状態だったところに、最後揖斐が全く野乃のことを意中にないことが判明しただけに逆に野乃のプライドに火が着いて自分の方に気を向けさせようともっと積極的に、明らさまに気持ちを出していく様が描かれる。 一方ZOKUではバーブ・斉藤というまた濃いキャラクターが登場する。秘密兵器として満を持しての登場だが、直接ロミ・品川とケン・十河との絡みがないのでまだまだイントロダクションと云ったところだ。 展開に捻りが利いているのが「当たらずといえども遠からず」だ。 封筒に書かれた内容通りに従うと馬券が当たり、福引で特等が当たるという、ミステリとしても非常に興味深い題材。そして永良野乃の望みが巨大ロボの操縦という途方もない物だったことから、なんと計画が頓挫してしまう。実に意外な展開だ。 しかしそれよりも30半ばのロミ・品川と新入社員の20代半ばのケン・十河のジェネレーションギャップ溢れる会話が実に面白い。スカートめくりの件は爆笑もの。しかしスカートめくりかぁ。既に私が小学生の頃でも1,2人、しかも低学年の時にそんないたずらっ子がいただけである。本当に学校で流行っていたんだろうか? 最後の「おめがねにかなった色メガネ」は森氏らしくツイストが効いている。 敵同士が仲がいいとこんなツイストの効いた展開をも起こりうるのか。機関車好きの木曽川と派手好きな黒古葉。しかしそれぞれの所有する乗り物に密かに憧れを抱いていたことを率直に打ち明け、それぞれの立場を一日交換して思いを果たそうという、何とも子供じみた、いや少年の心を失わない大人たちの遊び心が横溢している。それを果たすためにそれぞれがお面を被ってやり過ごすのが面白い。黒古葉は縁日で売っている類の鉄腕アトムのお面を被り、一方木曽川は頭からすっぽり被るスペクトルマンのマスク―実にマニアックだ―を被る。逆にこの2人がそれぞれTAIやZOKUでやり過ごす様子と少年の頃のように機関車、ジェットの操縦席に座って胸躍らせるシーンが印象強くて、正直今回の悪戯についてはどうでもよくなってしまう。 さてこれは森版『ヤッターマン』とも呼ぶべき作品か。 犯罪にまでには至らない被害の小さな、しかし見過ごすには大きすぎる悪戯を仕掛けるZOKUとそんな悪戯に真面目に抵抗し、阻止せんと追いかけるTAI。 それは「ヤッターマン」における、ドロンボー一味とヤッターマンを観ているかのようだった。 さてそんな「まじめにふまじめ」を行うZOKUのメンバーは、黒幕の黒古葉善蔵にロミ・品川、ケン・十河、バーブ・斉藤で構成されており、プライベートジェットを根城としている。 一方「ふまじめをまじめ」に阻止しようとするTAIは白い機関車を基地にしており、木曽川大安を所長に、揖斐純弥、永良野乃、庄内承子が主要メンバーである。 木曽川と黒古葉はお互い実に親しい幼馴染でいがみ合っていない。寧ろ顔を合わせた時にはお互い談笑する仲だ。昔から悪戯好きだった黒古葉とそれを真面目な木曽川が少年時代から尻ぬぐいしてきた仲である。つまりこれは2人の大富豪が日本全国を舞台に繰り広げる壮大なお遊びなのだ。 各編の悪戯は暴音族、暴振族、暴図工族、暴笑族、暴占族、そして暴色族。 ある特定の場所のみに騒音を発生させる、振動を発生させる、色んな制作物を置いて、そのまま放置する、笑う場面でない時に笑いを起こす、占いで未来を当てて、次には大外れを食らわす、希望した色とは違う色が出てくる。 物によっては軽犯罪にも該当するし、子供の悪戯の延長でしかないことを費用と労力を大いにかけて全国に亘って行う、それがZOKUだ。 それを阻止するために警察に協力して彼らを追うTAI。 このような善対悪の物語は総じて悪の方に魅力があるのだが、流石はキャラ立ちの森作品、そのキャラクター性は双方勝るとも劣らない。 まずTAIの面々はそれぞれ苗字が河川、それも中部地方を流れる川の名前になっているのが特徴(永良野乃だけ漢字が異なるが)。 そしてTAIの頭脳、揖斐純弥と木曽川の孫でヒロインである永良野乃との恋の駆け引きが本書の読みどころの1つとなっている。とはいっても永良野乃が一方的に揖斐を好きなだけで自分に振り向かせようと揖斐にモーションを掛けるが発明好きの揖斐は朴念仁で気付いているのか気付いていないのかまともに取り合わない。彼にとっては野乃は単に所長の孫でTAIのメンバの1人でしかないのだろうが、例えば靴をプレゼントするが、それに合う服がないので野乃が履かないでいるとその靴に合う服を買ってあげるよ、なんて云われれば女性はその意外な提案に自分に気があるのかと思うはずである。こういうやり取りが女性のみならず、私のような男性も思わず微笑んでしまうのだ。 なお永良野乃は敵ZOKUのメンバーの1人、ケン・十河がファンになるほどの容姿の持ち主である。 揖斐と野乃の歳の差は12歳で揖斐の方が年上。犀川と萌絵の関係や、保呂草と紫子の関係のように森氏はこの年上男子に年下女子が一方的に恋をするという設定がどうも好きなようだ。 またZOKU側の面々の名前はカタカナ表記の名前に日本の苗字と一昔前の芸能人のようなネーミングが特徴。ロミ・品川とバーブ・斉藤はその元が解ったがケン・十河は解らなかった。 そして年増の―といっても30代半ばらしいが―ロミ・品川もまた揖斐に潜在意識下で恋心を抱いていることが判明する。 そしてこの30代半ばのロミ・品川と新入りのケン・十河のジェネレーションギャップによって起こるトンチンカンな会話が実に面白い。特にスカートめくりの件は爆笑ものだった。ちなみに私はロミ・品川に近い側の人間。 最初の3編はZOKUとTAIの真っ向勝負やTAIの野乃がZOKUにさらわれる、野乃が囮になってZOKUたちをおびき寄せる、といった真っ当な善対悪の構図で物語は描かれるが、4話目になると野乃の意外な希望から思った以上に金がかかり、計画が途中で頓挫したり、双方のボスが一日交換ボスになるといった森氏ならではの展開を見せる。そう、このTAIの所長木曽川とZOKUのボス黒古葉もまた実に憎めない人物なのだ。 一大財を成し、遊ぶお金と自由な時間を手に入れた2人が始めたのは日本全国を巻き込んだ正義と悪の対決ごっこ。こんなワンアイデアから生まれた本書は稚気に満ちていて実に愉しい読書の時間を提供してくれた。 そして作中に出てきたZOKUの数々の悪戯は恐らく森氏が日ごろから想像している「やってみたら面白い事」の数々であるに違いない。大人になって出来なくなったこれらの悪戯、いや大人にならないとできないが実際やれば逮捕されてしまうから出来ない悪戯を森氏はZOKUの面々に託したのだろう。 幸いにしてこの後もシリーズは続き、この憎めない輩たちと再会する機会があるようだ。次作を愉しみに待つとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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HM卿シリーズ11作目の本書は1999年に国書刊行会から刊行されたものの改稿版。約19年を経てようやく文庫化となった。
そんなディクスン作品でも希少な部類に入る本書の舞台はなんと船上ミステリ。第二次大戦下のニューヨークからイギリスへ渡航する大型客船で起きる殺人事件を扱っている。 本書の冒頭で作者のディクスンは自身が第二次大戦開戦直後に経験したニューヨークからイギリスへの船旅の経験を基に作られたことが記されている。1本の作品にするほどこの船旅は作者の印象に強く残ったそうだ。 更に本書は第二次大戦下での客船の大西洋渡航という設定がミソとなっている。それはつまり大型客船でありながら、イギリスへの軍需品を輸送するミッションを負っているため、乗船が許されたのは喫緊にイギリスに渡る必要のある9人しか乗れなくなっているのだ。つまりこれは海上の館物と云っていいだろう。 その9人のメンバーは以下の通り。 主人公を務めるマックス・マシューズは元新聞記者で乗船した客船の船長フランシス・マシューズの弟。彼は火災現場の取材中に事故に遭い、片脚に大怪我をしたが、幸いにして全快したものの、取材に同行していたカメラマンを事故で喪い、そしてそのまま辞職した。そして新天地ロンドンで新たな職にありつくために渡航している。 ジョン・E・ラスロップはニューヨークの地方検事補で、ある殺人犯を追っている。しかも凶悪な恐喝犯カルロ・フェネッリのお目付け役でもある。 トルコ外交官夫人でもうすぐ離婚する予定の妖艶なエステル・ジア・ベイ夫人。 イギリスの実業家ジョージ・A・フーパーは息子が重病のため、急遽帰国することになった。 その他医師のレジナルド・アーチャーにフランス軍人のピエール・ブノア。謎めいた若き女性ヴァレリー・チャトフォードと貴族の子息ジェローム・ケンワージー。 そして最後に隠密裏にイギリスへと戻るHM卿ことヘンリ・メリヴェール卿。 しかし上に述べたようにそれぞれの乗客に急遽イギリスに戻らなければならない、のっぴきならない事情があるとは明確に書かれていない。今回の事件でエドワーディック号に乗船した本来の動機が明らかになるのはブノア、チャトフォード、ケンワージーぐらいである。 第2次大戦時下という緊迫した状況下での軍需品輸送の密命を帯びたイギリス渡航中の客船を舞台にディクスンが仕掛けた謎は船上での殺人現場に残された指紋に船内に該当する人物がいないという実に奇天烈な物。単に船内の登場人物に限定しない第三者の介入と、更に陸地にある館とは異なる、どこからも部外者が侵入できない船上で第三者の介入がなされたという不可解な謎を用意しているのだ。 更に殺人事件はそれだけに留まらず、第2、第3の殺人が起きる。 久々に読んだカーター・ディクスン作品だが、謎また真相は小粒でありながら全てが収まるべきところに収まる美しさが本書にはあった。同じ客船を舞台にしたドタバタ喜劇が過剰な『盲目の理髪師』よりもこちらを私は買う(ところで本書でも客船での理髪師とHM卿のやり取りが殊更ユーモアに書かれている。これは前掲の作品に呼応したものだろうか?)。 特に指紋のトリックは21世紀でありながら私は本書で初めて知った。 また犯人特定の鍵に使われた様子のない髭剃り用のブラシに着目するところはクイーンのロジックの美しさを感じさせる。 つまりある意味カーター・ディクスンらしからぬロジックの美しさが感じられる作品なのだ。 また注目したいのは本書の舞台が第2次大戦時下というところだ。 複数の国を巻き込んだこの世界大戦において無数の人間が死ぬ状況。そんな中で軍需品輸送の密命を帯びた客船に同乗した9人の乗客とその船員たちはそれぞれに名を持ち、そしてそれぞれに使命を、希望を、そして思惑を持っている。大量に人が死ぬ時代に9名の人間が意志ある人間として描かれ、そして殺人劇が繰り広げられているところに本書の意義があるように思える。 世界中で人が次々と死に、誰がどこでどのように死んだのかの確認が後手後手になり、結果、名もなき兵士たちによる死屍累々の山が築かれる中、名を持った人間たちが戦争に加担する船に乗り込み、そして命を落とすところが意義深い。 しかしこうも順調にジョン・ディクスン・カー及びカーター・ディクスン作品が新訳刊行されていることは非常に喜ばしい。 HM卿シリーズで未読の作品は残すところ3作品となった。そのいずれもが早川書房からかつて刊行された作品であるが、もはや著作権は切れているのでこの際東京創元社から引き続き新訳刊行してもらいたいものだ。ギデオン・フェル博士シリーズも、その他歴史ミステリ、いやカー作品を全て網羅してほしいものだ。 私が生きているうちにカー作品コンプリート出来ることを願っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ボッシュシリーズと並ぶコナリーのシリーズ物として現在も作品が発表されているリンカーン弁護士ミッキー・ハラーシリーズ第2作。1作目が好評で映画化もされたが、コナリー自身もこの作品をもう1つの彼の作品の主軸にするためか、磐石の態勢で2作目を送り出した。
そう、2作目で早くもボッシュとハラーが共演するのである。しかも『ザ・ポエット』で主人公を務めた新聞記者ジャック・マカヴォイも登場させている。さらに物語半ばでは『バッドラック・ムーン』のキャシー・ブラックらしき女性がかつての依頼人であったことも仄めかされている。 これはコナリーがこのミッキー・ハラーをボッシュ・ワールドにさらに積極的に取り込むことで、もう1つのシリーズの軸として成立させようと本書にかなり強い意気込みを掛けていることが解る。 異母兄弟でありながら、刑事と弁護士という水と油の関係の2人。 ボッシュはしかも刑事の中でも犯罪者の悪を許さず、組織の中で予定調和的解決がなされようものならば、それに逆らい、辞職の危機に追い込まれてもなお、徹底して悪を断ずる姿勢を崩さない、いやむしろ法が悪を裁けない場合は自らの手を汚してまで成そうとするほど、自分の正義を貫く男だ。 一方ハラーは依頼人が実際に罪を犯していることを知っても、あらゆる方面から捜査の粗を見つけ出し、その無効性や不当性を主張し、事件そのものが起きなかったぐらいにまで陪審員を説き伏せ、依頼人の無罪を勝ち取り、報酬を勝ち取ろうとする男だ。彼にとって明らかに正義よりも自身の富と名声のために弁護士をやっているような男だ。 作中でも「コインの裏表のようなもの」とお互いを評しているほど、こんな相反する男たちがどうやって協力し合うのか。さすがは物語後者のコナリー、実に上手い設定を導入する。 ボッシュが捜査をするのはハラーの依頼人の事件ではなく、ハラーに依頼人をもたらすことになった彼の友人の弁護士が殺害された事件の捜査なのだ。つまりハラーは友人の無念を晴らすために犯人を捕まえることを求めているため、2人の向くベクトルは全く同じなのである。なんと絶妙な筆捌きではないか。 しかしそれもやがて崩れてくる。ボッシュの捜査はやがてエリオットの方にも手が伸びてくるのだ。 確かにこれは必然といえば必然。殺害された弁護士が衆目を集める裁判を担当していたとなればそこに事件の火種があると思うのは当たり前だ。したがってこの異母兄弟は次第にお互いの仕事と任務を護るために反発しあうことになる。 さてそのハラーだが、前作で担当したルイス・ルーレイの事件で負った拳銃で撃たれた傷の治療を受け、十分傷が癒えないまま仕事に復帰したことで痛みが再発し、再手術の後、再度療養期間をおいて2度目の復帰を果たしたばかりで2年間仕事をしていなかった。しかもその期間には鎮痛剤による薬物依存に対するリハビリも含まれていた。つまり彼は弁護士として薬物依存のキャリアという弱みを持つことになった。それが今後彼の経歴や仕事で爆弾として発動するのかも読みどころだ。 またその経験が同じく治療中の鎮痛剤の依存症に陥って窃盗容疑を掛けられた元プロサーファー、パトリック・ヘンスンを助けることに繋がる。ハラーは怪我でプロサーファーの道を断たれ、一度はコソ泥の身まで落ちぶれた彼が更生している姿を見て、その中に復活しようとする自分の姿を見出したのだろう。ヘンスンを助け、自分のお抱え運転手として雇うことにする。 ハラーとヘンスンがどのようなタッグを組むのか、これもまたシリーズの今後の読みどころの1つになりうるだろう。 また前作でルーレイに殺害された刑事弁護調査員ラウル・レヴンの後任となるシスコこと、デニス・ヴォイチェホフスキーは大柄で威圧感のある、ハーレーを乗り回す元暴走族という異色の経歴の持ち主。しかし彼は逮捕記録もなく、もめごとも一切起こさなかったクリーンな人物でハラーは彼に絶大なる信頼を寄せている。そしてハラーの元妻で秘書のローナ・テイラーと付き合っている。 このように1作目から登場人物も刷新され、一旦リセットされた感もある。つまり前作はイントロダクションとすれば本書がシリーズの基礎を作り、そして本格的な始まりを示す作品であると云えよう。 やはりこういうリーガル・サスペンスで面白いのは我々一般人では未知の世界である法曹界の常識や戦術などが垣間見られるところだ。 人は感情の動物である。いかに論理的に説明しても感情的に割り切れなければどうしてもそちらに引っ張られてしまう。陪審員制度では法律の素人である彼らの心をいかに掴むかが重要になってくる。つまり人間心理を熟知するものこそ法廷を制するのだ。 そこには正義よりもむしろ法廷を支配線とする情熱が勝るといっていい。したがってハラー達弁護士、起訴する側の検察はいかに陪審員たちに印象付けるかに腐心する。長々と主張することが必ずしも彼らの興味をひくものではなく、簡潔かつ明瞭に説明する方が印象に残る。さらにとっておきの仕掛けは法廷が閉まる直前に放つことで陪審員に印象づかせて翌日まで持ち込ませるなど、自分の味方につけさせるために彼らはありとあらゆることを仕掛ける。 また今回最も読み応えがあったのは検察側と弁護側がそれぞれ陪審員を選定するシーンだ。延々30ページに亘って描かれるその攻防は人を読む目が試されるプロセスが詳細に書かれている。 日本も裁判員制度が採用されたため、本書に書かれていることはまさに他所事ではなくなった。日本でも同様なことが行われているのだろうか? そしてもし私が裁判員に選ばれたとき、私は法廷に立つまでに至るだろうか、など考えさせられた。 今回ハラーが弁護を担当するウォルター・エリオットは映画会社会長兼オーナーといったセレブ。彼は妻の浮気の現場を目撃して感情に駆られて妻と間男を射殺した疑いで訴えられている。 しかし終わってみればこれまでのコナリー作品のキャラクターが登場する割にはさほど大きく関わらなかったという印象だ。 まずジャック・マカヴォイはほとんど蚊帳の外的な扱いだったし、ボッシュも節目節目で出てくるとはいえ、いつものような押しの強さが少なかったように思う。特に物語の主軸であるエリオットの事件に関わると見せながらも最後までその核心には迫らず、外周を廻ってハラーの動きを見ていた、いわば裏方的な存在だった。 これはどこまでシリーズキャラクターの共演を期待するか、読み手側の受け取り方によって本書の感想は大いに変わるだろう。 それで私はと云えば、やはり初の2大シリーズキャラクターの共演と謳うならば、もっとゴリゴリお互いの立場を主張して争ってほしかった。上にも書いたが、いかなる犯罪者も自分の手を汚してまで裁くことを厭わないほどの極端な正義感の持ち主である警察側のボッシュと、その人自身が犯罪者か否かは問わず、弁護士として成り上がるためにはいかなる手練手管も尽くして依頼人を無罪に持ち込もうとする弁護側のハラーという、自分の道を信じる男同士の熱いぶつかり合いとその中で生まれる友情を見たかったのが本音である。すでにボッシュがハラーを異母弟と認識していたことで彼が敢えて身を引いて、寧ろ擁護者的な立場でハラーを見守っていたのが私にはボッシュらしくなく、また物足りなく感じたのだ。 今後はもっとゴリゴリボッシュとやりあうことを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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少年時代は忘れ得ぬ思い出がいっぱい。良い物も忘れたいような悪い物も全て。
本書は自分のそんな昔の記憶を折に触れ思い出させてくれ、そしてその都度私は身悶えするのだ。羞恥心と未熟さを伴いながら。 刊行された1992年、本書が当時それまでに刊行された著書の中で最大の長編作品だった。単行本では上下巻、文庫では全4巻とかなりの分量なのだが、その後もキングは折に触れ『ザ・スタンド』、『アンダー・ザ・ドーム』、『11/22/63』といった大長編を著し、この『IT』もその中の1冊となってさほど珍しくなくなってきた。しかし当時はその分厚さに面食らったものである。 さて文庫版にして全1,886ページに亘って繰り広げられるお話はデリーという架空の町で起きる、26,7年ごとに甦る“IT”と呼ばれる人殺しピエロとの戦いの話だ。子供の頃に“IT”と対決した子供たちが28年前に交わした血の誓いに従い、、28年後に現れた“IT”と再び相まみえる、と非常にシンプルな内容の話だ。 たったそれだけの話になぜこれだけの分量を費やすのか? 大きく分けて3点特徴が挙げられる。 1つは物語が1958年に“IT”と戦う7人の子供たちのキャラクターの背景と彼ら彼女らが出逢うまでの顛末が語られるからだ。 2つ目は“IT”との戦いを経た7人の子供たちそれぞれのそれまでの人生を語るからだ。彼らが誰と結婚し、何をしているのかが詳細に語られる。 3つ目は1958年の“IT”との戦いと1985年現在の彼ら彼女たちの戦いとが交互に語られるから。 不思議なことに大人になった彼らは仲間のうちマイクから“IT”復活の電話が掛かってくるまで彼らが少年時代に行った“IT”との戦いについてはすっかり忘れていた。そしてそのことを思い出してもどうやって戦い、そして勝利したかを思い出せないでいる。従って彼らは過去の戦いの様子を思い出しながら“IT”と対峙していく。 さてそんな物語の発端は28年前にデリーで起きた6歳の子が“IT”に襲われる話があり、その後、時は1984年に飛び、“IT”が再びデリーに現れたことが語られ、そしてデリーに住むマイク・ハンロンから28年前に“IT”と対峙した仲間たちへ招集が掛けられる様が描かれる。 招集が掛けられたのは次の面々だ。 市場調査会社を営むスタンリー・ユリス。 お得意の声帯模写を活かしてDJになったリチャード・トージア。 斬新なデザインで注目を浴び、ヨーロッパとアメリカを行き来する建築家のベン・ハンスコム。 セレブ専門のハイヤーの運転手エディ・カスプブラク。 ファッション・デザイナーのベヴァリー・ローガン。 ベストセラーを出し、注目のホラー作家ビル・デンブロウ。 唯一デリーに留まっているマイク・ハンロンは図書館員だ。 しかしそのうちのスタンリー・ユリスは“IT”の悪夢に耐え切れず、マイク・ハンロンからの連絡の後、すぐに浴室に入り、自殺してしまう。 しかしその他の彼らは28年前の悪夢に対峙するのを恐れおののきながらも、仲間と交わした血の誓いに従って、全てを擲ってデリーに戻る。それぞれ明日の仕事や今やらねばならない仕事を抱えながら、それらを全てキャンセルしてまで、デリーへと向かう。 ところでキングの短編に「やつらはときどき帰ってくる」という作品がある。 それは高校教師の許に少年時代にいじめられた不良グループが再び当時の姿で舞い戻ってくるという作品だ。 28年前の悪夢との対峙を扱った本書は単にその時町を恐怖に陥れた怪物の対決のみならず、過去の自分とそして自分の忌まわしい記憶との対峙でもある。 人は最悪の時を迎えた時、時が過ぎればそれもまたいい思い出になる、笑い話になる、そう願いながらその最悪の時をどうにか耐え抜き、やり過ごそうとする。何もかもが順風満帆な人生などはなく、そんな苦い経験、忘れたい屈辱などを経るのが大人になることだ。 時がそんな負の思い出を浄化し、いつしか他人に語れるまでに矮小されていくのだが、そんな苦い過去を想起させる出来事が再び起きた時、それはつい昨日の出来事のように思い出される。 そして自問するのだ。あの時の自分と今の私は少しは変わったのか、と。 例えばベン・ハンスコムは今は注目のハンサムな建築家として周囲の耳目を集める存在だが、彼の小学生時代は「おっぱい」と揶揄されるほどのデブで、しかも周囲に友達がおらず、いつも一人で図書館に行って、本を借りて楽しむのが習慣となっていた。 エディ・カスプブラクは喘息持ちで大女で過剰にエディの健康に干渉する母親の支配下にあった。 ビル・デンブロウはどもりの激しい少年で嵐の後に自分が作った紙の舟で遊びに行った後、死体となって見つかった6歳の弟を自分が殺したと思い込み、またその弟の死で家庭が一気に冷え込んだことを憂いていた。 リッチー・ドーシアは歯科医を経営する、息子に理解ある親の許で育てられた、比較的裕福で恵まれた子供である。 そして彼らにはヘンリー・パワーズを筆頭にしたヴィクター・クリス、ゲップ・ハギンズらの不良グループたちという共通の天敵がおり、常にいじめの的にならぬよう、びくびくしていた。 そんなかつてとても怖かったいじめっ子と再び出くわすかもしれない恐怖、密かな想いを持っていた相手との再会。お互いそんなこともあったと笑って話せるほど、自分の中で折り合いがついているのか、と自分に問うことになる。 故郷に戻ることは即ち追いかけてくる過去に囚われることでもある。 但し過去は全て忌まわしい物ばかりではない。その時にしか得られない体験や友達が出来、それもまた唯一無二なのだ。 下水道のダム作りに関与したことでベン・ハンスコムは初めてビル・デンブロウとエディ・カスプブラクと知り合い、友人となる。更に彼らの共通の友人リッチー・ドーシアとスタンリー・ユリスとも。ようやく彼はベストフレンドを見つけたのだ。 どもりのビル・デンブロウは初めて自分の手持ちの金で買った中古の自転車をシルバーと名付けた。彼の体格では大きすぎるその自転車を彼は見事に乗りこなす。ビルはシルバーに乗っている時は無敵だった。 その無敵感は男の子ならば誰でも解る想いだ。自転車は初めて自分たちの世界を広げてくれる魔法の乗り物だった。そんな思いがビルの体験を通じて想起される。 最後に彼らの仲間に加わるマイク・ハンロンはデリーの町でも唯一の黒人で周囲から「そういう目」で見られている。 彼の父親ウィルは自分たちが「くろんぼ」と蔑まれる存在であることを自覚し、そんな蔑視や不当な扱いからは逃れられない運命であると受け入れ、そんな社会に負けないように息子に諭す、強い父親だ。 彼はビルたちとは違う教会学校に通っていたが、ある日親子ともどもハンロン家を忌み嫌うヘンリー・パワーズに追いかけられたマイクが逃げ込んだ荒れ地でビルたち仲間と遭遇し、ヘンリー・パワーズら悪童一味と戦い、勝利することで仲間になる。 この7人が、運命とも云える出逢いを果たし、仲間となるシーンが何とも瑞々しく、爽やかで無垢な人間関係が築けた私の少年時代の思い出を誘う。初めて出逢っても一緒に遊べばもう友達になっていたあの、楽しかった日々を。 そしてビル、ベン、リッチー、エディ、マイク、ペヴァリー、スタンらが出逢った時にまるでカチッとパズルが収まるべく場所に収まったようなあの想いもまた、仲間としか呼べない強い結び付きを感じさせるあの瞬間を思い出させてくれる。 そう、私にもそんな時期が、そんな出逢いがあったことを。 さてそんな彼らが対峙する“IT”とはどのような怪物なのか。この長い物語を読んでいる間、私は様々な想像を巡らせた。 最初に登場した時はボブ・グレイと名乗るペニーワイズと異名を持つピエロとして現れる。しかしそれぞれの目の前に現れる“IT”の姿は一様に異なる。 それらはつまり彼らの潜在意識下における恐怖の象徴ではないか。 そして大人になってデリーに戻り、再び“IT”と対峙する時、“IT”は彼らが少年あるいは少女だった頃に出逢ったおぞましい姿で現れる。 “IT”はつまり彼らが少年少女時代に抱いたトラウマなのかもしれない。 それが強調されるのは一同が28年ぶりに再会するデリーの<東洋の翡翠>という中華料理店で最後に皆でフォーチュン・クッキーを割るシーンだ。彼らが割ったフォーチュン・クッキーからは彼らが潜在的に意識していた当時抱いていたトラウマそのものが現れる。 そしてそれは彼ら6人以外には見えない。特別な絆を持つ彼らしか見えないのだ。 この“IT”が巣食うのはデリーの街の下水道の奥の奥。もはや迷路と化した地下の大下水道網に潜んでいる。そして彼はそこから街の川や排水口から現れて子供たちをさらって、あるいは殺していく。 人々の営みをクリーンに保つならば、不浄なるものを集める場所が必要であり、排水施設はその1つだ。つまり下水道は街が、そして人々が清潔に暮らしていくためにそれら負の要素を一手に引き受けた場所だと云えよう。 昔から蓄積された不浄なるものは即ち町の暗部であり、人々の排泄物や汚物が集まる場所はある意味人々が表面をクリーンに取り繕うための掃き溜めとも云えるだろう。それはどこか後ろ暗いところを感じさせ、そんな負の要素を“IT”は食らい、それをまざまざと人に見せつけて恐怖を誘い、餌にして街を周期的に恐怖に陥れる。 ある意味“IT”は人々が長く続く平和のために忘れがちなことを思い出させてくれるリマインダーのような役割を果たしているのかもしれない。 そう人々が戦争の愚かさを忘れないために敢えて戦争を起こすような、逆説的に教訓を与える、一種の体罰のように人々の心に恐怖として心に深く刻みつけさせるように。 しかしなぜ彼らは再び戻って“IT”と対決しなければならないのか。 彼らが少年時代にそうしたように、第2のビルたち<はみだしクラブ>がデリーに現れ、彼らに任せてもいいのではないか。 しかもマイク・ハンロンからの電話がなければ彼らは“IT”のことはすっかり忘れていたのだから。 まだ純粋さが残っていた彼らは再び“IT”が戻った時、「そうしなければいけない」という義務感に駆られたからだ。 しかし時間は人を変える。少年時代の約束を未だに守ろうとすること自体、難しくなっている。それはそれぞれに生活が、守るべきものがあるからだ。 しかし彼らは1人を覗いてそれまでの暮しを、仕事を擲ってまでも集まる。つまり“IT”とは子供の頃を約束を愚直なまでに守る大人たちがまだいてほしいというキングの願望によって生み出された作品なのではないだろうか。 キングは冒頭の献辞にこの物語を捧げていることを謳っている。その結びはこうだ。 “―魔法は存在する” この魔法とは30年弱の周期でデリーの街に現れる“IT”と呼ぶしかない災厄を少年少女が討ち斃す奇跡を指していると捉えるだろうが、忙しい現代社会で人間関係が希薄になりつつ昨今において、少年少女時代に交わした約束を守り、大人になったかつての少年少女が再会し、再び対決すること自体がキングにとって“魔法”だったのではないか。 30年近くの歳月を経ても再会すればかつての気の置けない気軽な友人関係に戻る、これこそが友情という名の魔法ではないだろうか。 私はキングが自分の子供たちに魔法は存在するのだから今の友達を大切に、とそれとなくメッセージを込めているように思えた。 このデリーの街はキング作品にはお馴染みの街で当然ながら他の作品とのリンクも見られる。 まず同じく架空の街キャッスル・ロックの気の狂ったおまわりが女性を何人も殺した事件は『デッド・ゾーン』のフランク・ドッドのことだろう。 そしてマイク・ハンロンの父ウィルが軍隊に入っていた頃に知り合った炊事兵ディック・ハローランは『シャイニング』の舞台≪オーバールック≫ホテルのコック、ハローランのことだ。 また目に見えない絆で結ばれた7人の友達。彼らの溜まり場である荒れ地。悪童一味との決闘。これらを読んでいくうちに同作者の傑作中編「スタンド・バイ・ミー」との近似性が頭をよぎる。あの作品に横溢するノスタルジイを存分に描きつつ、それをベースとしてキングお得意の原初体験を絡め、そして大人になった仲間の再会と共通の敵との戦いを描くにはキングにとってこれだけの分量が必要だったのだ。 ただそうはいってもやはり本書は長い。冗長と云ってもいいだろう。 私は本書に先んじて本書よりも長大な『ザ・スタンド』を読んでいたが、同書はいくつも展開が起き、悪対正義の構造を根底に置きながらパンデミック小説、ディストピア小説、ロードノベル、また閉じられたコミュニティの中で起きる人間関係の軋轢など、場面展開や物語の趣向が変わるなど、変化と起伏に溢れた作品だった。 しかし本書は物語の構造としては実にシンプルであり、舞台もデリーがメインであまり動きがない。1つの場所で繰り広げられるのは1958年の過去と1985年の現在の話。そして今回はディテールに筆を割き過ぎているきらいがあり、なかなか前に進まないもどかしさを感じてしまった。 作者の狙いは過去と現在の主人公たちの“IT”との戦いをシンクロさせることで大人の彼らが徐々に戦い方を思い出し、そして打ちのめされそうになった時に再び過去を思い出して力を得るという構造を打ち出したことでそうなったのだが、正直全てのエピソードが“IT”との最終決戦に寄与したかと云えば、やはりかなり無駄な話もあったように思える。 私はエピソードは嫌いではない。寧ろ歓迎する方だが、1,900ページ弱もの分量を必要としたかは今回は疑問に感じた。 “IT”はキングの長い作家生活の中で数あるターニング・ポイントの1つとして挙げられる作品だろう。確かにそれは感じたが、それは決していい意味ではない。 キングをあまり好きではない読者はその冗長さを挙げることが多いが、私はそれまでそのことを感じなかった。確かに普通の作者ならば省略するであろう時間の流れをキングはじっくり書くが、それが冗長とは思えず、物語を膨らませるために必要な要素として描かれ、またそのエピソードも読み応えがあった。 しかし本書で私は初めてキング作品を冗長と感じた。 書きたいことが沢山あり、恐らくキング自身がこれらビル、ベン、エディ、リッチー、ペヴァリー、マイク、スタンら7人に愛着を抱いていたことから色々と詰め込んだのだろうが、それら全てに必然性があったとは思えなかった。 “IT”。 このシンプルな代名詞はその時の会話や場面で示すものが、意味が変わる。たった2文字の中に宇宙よりも広い意味を持つ。 そして“それ”とか“あれ”とか“IT”を示す言葉が会話に多くなった時、それは健忘症の兆しだともいう。本書の主人公たちも“IT”の存在は忘れてしまい、そして戦いに勝利した後もまた忘れていっている。 “IT”とは私たちが老いと共に大事な何かを忘れていくことの恐ろしさ自体を現した言葉なのかもしれない。そして40も半ばを超えた私にもこの“IT”に当たる、忘却の彼方にある、何かがあるのではないか。 そう、それこそが“IT”なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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森氏はシリーズのそれぞれ5作目、10作目と5作ごとの節目で短編集を刊行する。本書はVシリーズ10作目の節目に刊行された短編集だ。
口火を切るのは「トロイの木馬」。 本書でまず驚かされるのは2002年時点で書かれたとは思えない情報技術の世界の先駆的内容だ。 ネットワーク世界を舞台にすると虚実の境が曖昧になり、何が現実で非現実なのかが解らなくなってくる。21世紀では既にそのような作品が映画、ドラマ、小説も含めゴマンと出ているが、本作はそれらに系譜に連なる作品だ。 私は常々森氏は短編では文学的抒情が引き立つ作風になる傾向があると第1短編集から思っていたが「赤いドレスのメアリィ」はその傾向が顕著に表れた作品だ。 かつて裏に自分のレストランがあったビルにあるバスの待合所に来る日も来る日もメアリィさんと呼ばれる老婆が待っていたのは、その昔愛した男だった。 妻子ある、その常連はメアリィと呼ばれる女主人に最愛の妻の若かりし頃の面影を見ていただけだった。しかしそれがために彼は女主人に好かれるようになり、妻の嫉妬を買うようになって、ついに諍いが起き、メアリィさんが亡くなるという事態が起きた。遺体は川に遺棄したが、発覚する前に主人は恐れをなして自首した。 色んな憶測が語られる中で物語は閉じられる。 人を待つ。何ともシンプルな行為だが、これほど孤独を感じさせる行為もない。しかもその行為が長ければ長いほど人はその人の待ち人に対する思いの深さを思い知らされる。 数多あるこの種の作品がいつも胸を打つのは待っている人の想いの深さが計り知れないがゆえに感銘を打つからだ。そして本作もまた同じだ。 老いてなお若かりし頃の衣装を身に着け、バスの待合所に一日中座るその老婆はしかし最後どこを見るでもなく、老人を迎えに来た運転手に手を取られて去っていくが、もうその頃には本来の意味、誰を何のために待っていたのかは彼女の中では解らなくなり、ただ毎日その行為をしなければならないという本能だけが残っていたのではないか。 やがて人に忘れられる町の片隅の神話。そんな物語だ。 「不良探偵」はサトル君と呼ばれる人物の一人称叙述の作品だが、サトル君とは云っても30代の新進作家である。 知覚障害者の従兄シンちゃんを持つ、図らずも書いた作品がベストセラーになり、一躍有名になった作家サトル君の恋人が殺される事件の真相について語った話だ。 但しシンちゃんが知的障害者で一般の人よりも能力が劣っていることが語られるが、この語り手であるサトル君も人に関する興味や好奇心を持つ感情が非常に薄い人物で彼もまた他の人たちとは違っているようだ。恋人の真由子は彼にとっては単に親しいだけの友人のようにしか捉えてなく、作家になって有名になり、色んな美女がサトル君の許を訪れ、勝手に泊まり込みで世話をするようになっても、彼自身はその女性に対しても興味もなく、また真由子がそれに対して気分を害しても特段気にしない、非常にドライな性格である。 題名の不良探偵とはシンちゃんのことを指すのか、それともサトル君のことを指しているか。恐らくどちらもだろう。 無関心であることがクールと思われている時代だが、それも限度を超える全く人の気持ちなどが解らない人間になってしまう。本作は無関心さが招く罪を描いた作品とも読めるだろう。 非常に私的な内容だと思えるのが「話好きのタクシードライバ」だ。 多分に森氏のタクシーに関する思いが吐露された、半ばエッセイとも云える作品だ。仕事で電車やバスではなくタクシーを利用する語り手はその内容からも森氏自身と云っていいだろう。物語の核心である高齢のドライバが語る昔話に至るまでのタクシードライバのエピソードの数々が非常に実感を伴って面白い。 そして高齢ドライバのまだ高速が開通していない頃の名古屋から岡山まで乗せることになった話もなかなか面白い。実際の話ではないかと思われる。 そして最後のオチもまた同様ではないだろうか。しかしそれがミステリとなっていることは確か。まさにこれは作者自身が遭遇した“日常の謎”ミステリだったのではないだろうか。 「ゲームの国」はとあるセメント会社の社員食堂を切り盛りしている星茂一家と祖父から受け継いだ丸味スープ会社を経営するリリおばさんが社員食堂で起きた殺人事件を解き明かす話だ。 ミステリとしては実に簡単な部類に入るが、三重県にあるセメント会社の社員食堂が舞台と妙に設定が細かいところが妙におかしい。 そんな非常に狭い人間関係の中でアクセントとされているのがリリおばさんが会長を務める回文同好会の作品数々。その数も内容も様々でしかも各登場人物の特徴がよく表れるように色んなパターンと内容の回文が横溢する。特にリリおばさんの作品は会長だけあって単に文字を無理矢理並べただけでなく、意味もそして文章も含めてもはや芸術の域にある。全て作者が考え付いた作品なのだろうか。 「探偵の孤影」はハードボイルド調の私立探偵小説だ。 なぜ海外を舞台にしているかは不明だが、失踪人捜しという典型的な私立探偵小説のスタイルを取りながら、最後に森氏ならではのツイストを利かせているのがミソ。 唯一妹を殺した東洋人の後に来た銃を撃った男が結局何者だったかが解かれないまま謎として残る。 最後の1編「いつ入れ替わった?」はS&Mシリーズの短編である。 衆人環視の中での消失トリック、または入れ替わりのトリックは昔からある、いわば「開かれた密室」トリックであり、本作のトリックもそのヴァリエーションを再利用しているだけであるが、タクシーを運搬の道具に使っているところが斬新。 しかし何よりも本作はシリーズのその後が補完されていることで、とうとう西之園萌絵と犀川の仲に進展が見られることが読者にとって最も大きなサービスとなっている。 森氏は既にいくつかの短編集を出しているが、本書はいわゆる森作品の本流を成すS&Mシリーズ、Vシリーズの幕間劇的に5作目ごとに刊行される短編集に連なるもので4冊目に当たる。 私は遅れてきた森作品の読者だが、逆に今だからこそ書かれている内容が理解できるものがある。そう、森作品に盛り込まれているIT技術は刊行当時最先端のものだからだ。 それが電脳世界を舞台にした1作目の「トロイの木馬」。この作品は島田荘司氏が21世紀初頭に当時生え抜きのミステリ作家たち数名に新たな世界の本格ミステリ作品を著すとの呼びかけにて編まれたアンソロジー『21世紀本格』に収録された作品で、システムエンジニアを主人公とした物語だが、一読、これが2002年に書かれたものであることに驚愕を覚えた。 ここに書かれている在宅勤務による電脳世界―この用語ももはや死語と化しているが―を介しての仕事、ネットワークトラップである「トロイの木馬」のこと、更には小型端末と表現されたモバイル機器と16年後の今読んでも全く違和感を覚えない現代性がある。いやむしろ発表当時に読んでも全く何を書いているのか解らなかったのかもしれない。IT社会として情報化が進み、タブレットやスマートフォンが流布した現代だからこそ理解できる内容だ。 また今回初めて気付いたが、収録された作品のほとんどが一人称叙述で書かれていることだ。7作中6作が一人称叙述だ。しかも三人称叙述で唯一書かれているのがS&Mシリーズの1編だけであり、それ以外のノンシリーズ物は全て一人称叙述なのだ。 以前も書いたが長編が非常にクールかつドライで一定の距離感を持った、理系人間が書く論文めいた作風であるのに対し、短編は幻想的かつ抒情的でセンチメンタリズムを感じさせる、文学趣味が横溢した作風と趣が異なっているのが特徴だ。 長編が左脳で書かれた作品とすれば短編は右脳で書かれた作品とでも云おうか。そしてどこか非常に森氏の日常や感情が短編には多く投影されているように思える。いわゆる森氏の人間的エキスが色濃く反映されているように思えるのだ。 例えば「不良探偵」は語り手のサトル君の恋人だった真由子との別れの話だが、他者に対してさほど関心を持たない彼は真由子が自分が養うから気に食わない仕事だったら辞めてしないなよとまで云うほど、彼のことを慕っているのが明確なのに、彼はそれを友人としての忠告としか受け取らず、そして作家となって売れ出した時に他の女性が家に入ってくることを拒まず、さらにはその中の1人と一緒に映画にも云ったりするほど、真由子の想いに対して鈍感だ。そしてその真由子はそんな現状に絶望して彼の前を去るわけだが、この物語にも森氏の若かりし頃のある女性との思い出が反映されているように思える。 最たるは「話好きのタクシードライバ」だ。これはもうほとんど森氏自身の話と云っていい。エッセイとも云えるタクシーに纏わるエピソードの物語だ。ここではほとんどグチのような内容が書かれている。 またどこまで本気なのか解らないが内容にそぐわないタイトルである「ゲームの国」は『今夜はパラシュート博物館へ』にも同題の物があり、それは森作品のタイトルのアナグラムが横溢していた。そして今回は回文。つまりタイトルのゲームの国とは恐らく言葉のゲームに親しむ作者自身の稚気を優先した作品世界そのものを指しているようだ。 ちなみに前回は森博嗣氏のアナグラムである礒莉卑呂矛が探偵役でしかも磯野拡の事件簿1と副題についていたが、今回はリリおばさんの事件簿1と付いている。今後本当にそれぞれアナグラムと回文を扱った遊びに淫したミステリが書かれるのか、森氏の気まぐれというか遊び心の1つと取って期待しないでおこう。多分また新たなシリーズ探偵が出てくることだろう。 そして何よりもボーナストラックとも云うべきはS&Mシリーズの「いつ入れ替わった?」だ。本作では上にも書いたように引っ付いては離れ、または平行線を辿るかと思えば、接近していくが寸前のところで決して接しない反比例の双曲線とX軸、Y軸のような2人の関係に進展が、それも大きな進展が見られる。 シリーズ本編の最終作で肩透かしを食らった感のある読者は本作を必ず読むことをお勧めする。 さて本書のベストを挙げるとすれば「赤いドレスのメアリィ」となるか。何とも云えない抒情性を私は森氏の短編に期待しているが、それに見事に応えてくれた作品である。 ただある女性の長い待ち合わせが終わりを告げたことだけが事実として残る。 恐らくはシリーズファンにしてみれば「いつ入れ替わった?」は渇望感を満たす1編になるだろうが、やはり私は西之園萌絵にそれほど好意的ではないのでベストとまでには至らない。 しかし本書のタイトルは何を示すのだろうか。英題を直訳すれば「隙間だらけの行列の逆数」となるか。しかし使われている単語はいずれもコンピュータ用語にも使われる物で「ボイド形態となったマトリックスの逆数」となるか。 いずれにせよ深読みさせて、結局何の意味もないというのが森氏の真意なのかもしれない。 しかし全てを明かさないスタイルは本書も健在。読者はただ単純に読んでいると本書に隠された謎や真意、真相が見えなくなっている。もしかしたら私がまだ気づいていない仕掛けがあるのかもしれない。 作者のこの不親切さはある意味ミステリを読む姿勢が正される思いがして、うかうか気が抜けない。読者もまた試されている。そういう意味では森氏の短編集は問題集のようなものになるかもしれない。 さて次回の演習も私は十分説くことができるだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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探偵沢崎シリーズ第2作。
今回沢崎はいきなり事件の渦中に巻き込まれる。低い声の女性から家族の行方不明についての相談という依頼の電話で指定の場所を訪れるといきなり誘拐事件の現金の運び屋として指定されるのだ。そしてそのために沢崎自身も誘拐事件の共犯者の1人として警察に目を付けられる。 本来依頼人が来て事件を調べていくうちに、事件の関係者から脅迫を受け、またいわれのない誹りを被る、更に自身にも危険が及ぶというのが作者原尞氏が尊敬するチャンドラーのハードボイルド小説だが、今回作者が選んだのは沢崎自身をいきなり事件の真っ只中に放り込み、そして警察から犯罪者の1人として疑われる、ノンストップで訪れるハードな状況なのだ。 しかもそれら一連の流れは実にスピーディ。冷静な沢崎を翻弄する犯人の手際の良さ、そして沢崎に訪れる不測の事態、更にそれによって起こる誘拐された少女の死と原氏は次々と沢崎にピンチを与え、休む暇を与えない。 そしてそれは読者もまた同じで、次から次へと繰り出される犯人の工作に沢崎同様にどんどん事件に引きずり込まれていく。 物語の流れは実に淀みがない。 起こりうるべきことが起き、そして巻き込まれるべき人が巻き込まれ、そして沢崎もまた行くべきところを訪れ、全てが解決に向けて繋がっていく。そしてじっくり練られた文章は更に洗練され、無駄がない。 無駄がないというのは必要最小限のことだけを語った無味乾燥した文章ではなく、原氏が尊敬するチャンドラーを彷彿させるウィットに富んだ比喩が的確に状況を、登場する人物の為人を描写する。特に対比法、類語を重ねた描写がそれぞれの風景や人物像を畳み掛けるように読者に印象付けていく。 真似して書きたくなる文章が本書にはたくさん盛り込まれている。 そして第1作からも徹底されていることだが、毎朝新聞や読捨新聞といったどこかで聞いたような名前の架空の新聞名、チェーン店名を使うのではなく、原氏は現実にある新聞社や雑誌名、店舗名を作中に織り込む。それがリアルを生む。 更に沢崎が読む新聞記事の内容に実際に起きた事件や出来事を織り込むことによって物語の時代が特定できるようになっている。作中では決してある特定の日付を挙げているわけもなく、調べればそれが出来ること、またそれが沢崎が我々の住まう現実にいるようにさせられるのだ。 例えば競馬のエピソードで一番人気のサッカーボーイが日本ダービーで15着に終わるという実に不本意な結果だったことから1988年5月29日前後の事件であることが解る、と云った具合だ。 そして失踪した沢崎のパートナー渡辺賢吾が過去に絡んだ事件も明らかになってくる。 そして偶然にも沢崎は容疑者を追っている最中にこの渡辺と邂逅を果たす。それは一瞬の間のことだ。彼はその一瞬で渡辺と目が合い、また離れていく。 その一瞬にそれまでの彼らの足取りが凝縮されたような印象的なシーンだ。 また本書が作者自身が身を置く音楽業界が一枚噛んでおり、物語の至る所にそれらの情報や知識、はたまた音楽論などが散りばめられて興味深い。 ヴァイオリニストの少女に纏わるクラシック音楽界の話、音大を出て音楽の世界に進むそして作者自身が身を置くジャズの話。 特に登場人物の1人でロック・ミュージシャンをやっている甲斐慶嗣の話は音楽業界に精通した原氏が知る人物の断片を垣間見るようだった。音大の教授をしている父親の指導でヴァイオリンを始めるが挫折してその親へ反抗するかのようにロック・ミュージックの世界に身を置き、その日暮らしを続けるような身。音楽イベントを企画するが採算が取れなく数百万単位の借金を抱えるが、それを返済するだけの、色んなバンドやアーティストのバックバンドとして引き合いで演奏する技術と信頼がある。 さて私が前作を読んだのはちょうど11年前。まだ30代だった頃だ。当時の感想を読むとその時の私とはこの探偵沢崎シリーズを読んだ心持はいささか異なっている。 定義云々は別にして原氏の紡ぐ作品がハードボイルド小説の前提で話すと、ハードボイルドとはつまり自分を貫くために人に嫌われることを厭わない生き方と云えるかもしれない。 そして夜の世界に生きる人々の話であるとも。 それは作者自身が夜に生きる民族の一員であるがゆえにこのような世界が書けるのだ。 作者が本書の主人公沢崎のように自分の矜持を貫くがゆえに警察に疎まれ、調査に関わる人々に嫌悪感を示されるような人であるとは思えないが、作者の中に沢崎は確実にいる。 それはミステリマガジンで14年ぶりの新作『それまでの明日』刊行記念で組まれた原尞特集での過去から今まで至るインタビューからも原氏のどこか一般人と異なる生き方や性格からも推し量れる。つまり原氏は昔ながらの作家なのだ。 そして改めてこの探偵沢崎の物語を読んで今まで読んできたチャンドラー、ハメット、マクドナルドの系譜に連なるハードボイルドの探偵というのはなんと罪深き職業なのだろうかと感じた。 他人の依頼で人の生活に土足で立ち入り、あれやこれやと聞く。そして全てを疑い、手練手管を駆使して相手の弱点を掴むとそこに付け入り、協力を強制する。 自分が疑われることを好む人は決していないだろう。従って探偵が事件の調査のために出逢う人は決して良い感情を持たない。いや寧ろ災厄の運び手としてご容赦願いたい存在だ。 更にどんどん付け入り、そして知られたくない家庭の事情まで云わされる。 沢崎もまたそうだ。探偵という職業が長い彼もそういった人の心の隙間に付け入り、情報を得る、もしくは利用する術を心得ている。 しかしそうすることでまた彼も何かを失っているように思える。それは自分という人間に対しての好意であり、代わりに自己嫌悪を得るのだ。 かつて大沢在昌氏はある小説で「探偵は職業ではない。生き方だ」と述べたが、まさにそれは沢崎そのものを指しているようだ。 そして彼は探偵という生き方しかできないから、他人の目を憚ることなく、自我を通し、そして畢竟、自分を嫌うしかないのだ。 他者におもねることなく、誰がなんと思おうが自分の信じる道を貫き、そして自分が知りたいことを得るためには周囲が傷つこうが構わない、そんなハードボイルドの主人公の姿にかつては憧れを抱いたものだが、私も歳を取ったのだろう、そんな生き方をする沢崎が何とも不器用だと感じざるを得なかった。 探偵とは他人が今を生きるために隠してきた過去や取り繕ってきた辛い現実を炙り出してまで真実を知ろうとする執念を貫く生き方だ。そしてその代償として自分の中の大切な何かを失う生き方だ。 特に今回沢崎が自分がまるで突然絡まれた事故のように関係した少女誘拐事件において、自分のヘマで身代金を渡すことができなかったがために殺されることになった少女に対して一種の引け目を抱いているだけに、被害者の家族関係者に容赦なく立ち入っては、無礼なまでに踏み込んで質問し、そして嫌われる。 特にそれが顕著に表れるのが被害者真壁清香の告別式に出席した時だ。沢崎にとっては言いがかりでしかないが、身内を、しかも幼い身内を無残にも殺された遺族のやりどころのない怒りが自分に向くのを知りつつも出席し、そして予想通りに清香の母親恭子とその従兄たちであり、また沢崎自身が調査した伯父の甲斐正慶の息子3人に献花を差し戻されて退出するよう促されながらも、そんなことを強要される覚えはないと再度清香の棺に花を捧げ、乱闘を引き起こす件は沢崎の愚直なまでの自我の強さを印象付けるシーンだ。 以前ならばこの沢崎の対応をカッコいいと感じただろうが、40半ばを過ぎた今の私は大人気ないと感じた。 しかしそうでもしないと事件は解決しないのだと最後まで読むと悟らされる。人の感情を揺さぶるほどに他者のプライベート・ゾーンに土足で入り込むほどタフでないと明かされるべき真実は白日の下に晒されないのだ。 真相に行き着くまでの関係者たちそれぞれが抱える大小の家庭の問題。 表面では解らないそれぞれの生活における負の要素が浮き彫りにされる。 本書は従ってチャンドラーの文章を備えたロス・マクドナルド的家庭の悲劇をテーマにした私立探偵小説だ。つまり本格ミステリ的要素を備えたロスマクのプロット力をチャンドラーの魅力ある文章で紡いだ、理想的な私立探偵小説なのだ。 これだけの物を著すのに数年かかるところを本書は第1作の翌年に出版されている。そしてその後短編集を出した後、6年ぶりに長編第3作を、そして9年ぶりに長編第4作、14年ぶりに第5作とそのスパンはどんどん長くなっている。 しかし私の読書もまた同じようなものだ。次の短編集『天使たちの探偵』を読むのは恐らく同様の歳月を経た後だろう。その時の私がどんな心持で探偵沢崎と向き合うのか。 私にとって探偵沢崎シリーズを読むことは沢崎と私自身の人生の蓄積をぶつけ合うようなものかもしれない。 前作を読んだ時は沢崎は憧れだった。しかし今回読んだ時は沢崎は若気の至りをまだ感じさせる矜持を捨てきれない男だと感じた。 次に出逢った時、私は沢崎にどのような感慨を抱くだろうか。 沢崎は変わらない。ただ私が変わるのだ。 私がどう変わったかを知るためにまた数年後読むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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現在エラリー・クイーンの諸作の新訳が創元推理文庫のみならず角川文庫からも相次いでなされており、本書もその一環として刊行された。
通常私はこういった新訳版は既読作品では手を出さなく、本書も最初はそのつもりだったが、旧訳版では収録されていなかった「いかれたお茶会の冒険」と序文が収録された、完全版であると知ったため、改めて入手して読むことにした。 従ってそれ以外の短編については感想は書かず、ここでは未読作品である「いかれたお茶会の冒険」とその他旧訳版との相違や当初気付かなかったことについて述べていきたい。 さてその「いかれたお茶会の冒険」はエラリーが友人のリチャード・オウェン邸に招かれたところから始まる。 邸の主人の失踪事件が本書のメインだが、正直この事件の犯人は読者の半分は推測できるに違いない。そしてその動機も読んでいると自ずと解る、非常に安直なものだ。 しかしそこから死体の隠蔽方法、更にエラリーの犯人の炙り出しが面白い。 アリス尽くしのガジェットに満ちた作品なのだ。 派手さはないがクイーンの見立て趣味とまた犯人を特定するためには罠をも仕掛ける悪魔的趣向などが盛り込まれた作品でエラリーがロジックのみでなく、トリックも施すことを示した作品だ。 今回この「いかれたお茶会の冒険」以外は再読だったが、改めて読むとクイーン作品のリアリティの無さに再度苦笑せざるを得なかったと云うのが正直な感想だ。 およそ現実の警察捜査とは思えない、パラレル・ワールドで繰り広げられているエラリーの特権的立場がどうしても今読むと違和感を大いに覚えてしまう。父親が警視としても素人に堂々と事件現場を入らせて、手袋もせずに証拠となりうる物品を触らせたり、移動させたりすることは到底あり得ないし、更には警察と同等の職権を保証する許可証を持っているといった飛び道具まで登場する。そんな探偵、いや推理作家はどこを探してもいないだろう。 子供、学生の頃であればそんなエラリーを特別な存在として尊敬し、その超人的頭脳によるロジックの美しさに感嘆もするだろうが、やはり今この歳で読むとあまりにも受け入れ難い。もしかしたら私自身古典の本格ミステリを受け付けなくなってきているのかもしれない。 さて冒頭にも述べた旧版との比較をここからしてみよう。 まず「アフリカ旅商人の冒険」ではエラリーを大学に招いた教授の名前が旧訳版ではアイクソープ教授となっているのに対し、本書ではイックソープ教授と表記が改められている。 “イッキィ―退屈でつまらないと云った意味”、“イック―いやな奴という意味がある―”といった洒落が出ていることから恐らくはこちらが正しいのだろう。 また旧版とはタイトルが若干変えられているのもあり、冒頭に挙げた未収録作品だった「いかれたお茶会の冒険」は当時は「キ印ぞろいのお茶の会の冒険」となっている。このキ印という言葉、2018年の今ならばほとんど死語だろう。「きちがい」の隠語として使われていたが、今となってはそんなことを知る人も少なくなり、また「きちがい」もまた差別用語となっているから、変えざるを得なかったのだろう。 また「三人の足の悪い男の冒険」も旧版では「三人のびっこの男の冒険」だったが、これも同様に「びっこ」が差別用語に指定されていることによる改題だろう。 また久々にクイーンを読んで気付かされるのはエラリーが事件を介して美女と出逢う機会が多く、そして明らかに口説こうとしている節が見られるところだ。 「ひげのある女の冒険」で住み込みで働く看護婦クラッチの連絡先を知りたがったり、「見えない恋人の冒険」で絶世の美女と評される容疑者の恋人アイリス・スコットにはもう少し早く出会いたかったと他人の恋人であることを嘆き、「七匹の黒猫の冒険」で出逢ったペットショップの店長ミス・カーレイもその大きな瞳に惚れ、助手よろしく彼女と共に事件解決に乗り出す。また最後の短編「いかれたお茶会の冒険」でも女優のエミー・ウェロウズといい雰囲気になって一緒に列車に乗っていく。 そしてご存知のようにそれら全ては行きずりの女性であり、エラリーはニッキー・ポーターという相性のいい女性と何作か組みながらも結局生涯のパートナーを得られずにシリーズを終える。つまりはエラリー・クイーンにはロマンス要素を持たせるのはあくまで読者の興味を惹くための一要素として扱うに留まり、それを発展してクイーン自身の人生と事件とを結びつけるまでには至らなかったということだ。 その後のクイーン作品がロジックと探偵の存在意義について長く思考を巡らせていくことからも解るように、人間としてのエラリー・クイーンの深みをもたらせるのを捨て、ミステリそのものについて考えを深めていくことになった。それが日本の本格ミステリファンにとってクイーンの絶対的存在性を高めることになったのは事実だが、逆に本国アメリカでほとんど忘れられた存在となっているのがこのキャラクター小説としての深みに欠けるからだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『骸骨乗組員』、『神々のワード・プロセッサ』との三分冊で刊行された短編集『スケルトン・クルー』の最後の三冊目であるのが本書。
まずは本書のタイトルにも掲げられているミルクマンの話から始まる。 「ミルクマン1(早朝配達)」は不穏な空気だけを纏った作品だ。 本作はスパイクと云う名の牛乳配達員“ミルクマン”が顧客が玄関前に掲げたメモ通りに注文の品を置いていく様が描かれるのだが、それぞれの品は呑むと死に至る毒類が入っている。タランチュラが入れられた空のチョコレート牛乳のカートン、酸性ジェルを詰めた多用途クリーム、ベラドンナ入りのエッグノッグに有毒のシアン化ガス入りの牛乳瓶。 夜明け前の澄み切った空気感の描写が鮮明なこの作品はそんな不穏な空気さえも朝の爽やかな空気で吹き飛ばしてしまう妙な爽快感がある。 次もミルクマンの話だ。「ミルクマン2(ランドリー・ゲーム)」はしかし、更に一層不穏な感じのみ漂う作品だ。 1作目はまだ色々想像を働かす余地があったものの、2作目の本作は本当によく解らない。1作目でもスパイクの口から出てくるランドリー工場の従業員ロッキーが本作の主役。 色々解らないことだらけの作品だが、その妙な雰囲気と理屈の通らなさが余韻を残す。 「トッド夫人の近道」は実に奇妙で、そして心くすぐられる作品だ。 こんな奇妙で美しい話はまさにキングしか書けないだろう。車を乗る人達は目的地にどのルートを辿れば一番早く着くかというのは最大の関心事の1つだろう。 斯く云う私もその1人で東京在住は日常的に渋滞する道路にうんざりし、出かける時は極力渋滞のない、またはスムーズな車の流れのあるルートを探したものだ。そして私が得た結論はずばり「信号が少ないルート」こそが一番の早道であるに至った。 思わず脱線してしまったが、トッド夫人もその例に漏れない人物で彼女はメイン州のキャッスル・ロックからバンゴアまでの最短ルート探しを趣味にしていた。156.4マイルのルートを見つけたかと思えば、次は144.9マイル、そして129.2マイルまで縮まるルートを見つけたと喜びを隠さない。やがてそれはどんどんエスカレートし、直線距離、つまりキャッスル・ロックからバンゴアまでを地図上で直線に引いた距離79マイルよりも短い67マイルのルートを見つけるに至る。 何とも奇妙で何とも美しく、感動させられる物語。こんな物語を書くからキングは止められない。 次の「浮き台」はお得意の怪物もの。 キングお得意の怪物譚。油の塊のように湖に浮遊する黒い円。その正体は不明だが人間を襲い、喰らい、そして成長する怪物のようらしい。湖の只中にある浮き台に10月下旬と云う、朝晩冷え込む季節に思い付きで泳ぎに行った大学生4人が下着姿で取り残される絶望を描いている。 昨今小さな島に取り残された女性1人が周囲がサメだらけといった絶望状況を描いた映画があったが、それを彷彿とさせる。 但し本書は一切の容赦がない。キング作品には必ずしもハッピー・エンドがあるわけではないという情け容赦ない作品だ。 「ノーナ」は電気椅子での死刑を控えたある男の告白譚。 語り手の男が話すのはノーナという行きずりの女性と共にヒッチハイクをして目的地であるキャッスル・ロックに行くまでの物語。しかし彼が刑務所に入れられ、まさに処刑されようとしているのはその道中で次々と人を殺していったからだ。 かつては町の不良に目を付けられ、全く歯が立たなかったくらい腕っぷしには自信がなく、また喧嘩が大嫌いだった彼がなぜそのような行動を起こしたのか? また本作には「スタンド・バイ・ミー」の登場人物が2人ほど登場することから裏「スタンド・バイ・ミー」とも取れる。 オーガスタからキャッスル・ロックを目指す2人の男女のロード・ノヴェル。食堂で出逢った彼らは運命的な物を感じ、そして一路キャッスル・ロックを目指す。 こういう風に書くと何ともドラマチックな恋物語のように思えるが、彼ら2人の道行は死屍累々の山が築かれる血塗れのヒッチハイク。 器用な作家であると思った矢先の次の作品はSFだった。「ビーチワールド」は一面砂の海原に包まれている星に不時着したパイロット2人が救援を待つ話だ。 不定形の物体が意志を持つというのはこの短編集『スケルトン・クルー』に収録されている意志を持って街中を覆い尽くす霧の存在を描いた「霧」があるが、本作はそれに続いて生きている砂が支配する星の話。 砂、いや一面に広がる砂の海原、即ち砂漠は何かのメタファーなのか。地球温暖化で大陸が死に絶える先は砂漠化だ。つまり砂原こそは人生の終焉の場。ランドにとって砂原が広がるその惑星は人生を終えるのに格好の場所だったと見なしたのかもしれない。 次の「オーエンくんへ」は詩だ。しかしその内容はあまりに抽象的すぎてよく解らない。学校の生徒のことをフルーツに譬えるオーエンくんが見た日常風景を描いた詩なのか。毒がありそうな雰囲気ではあるのだが。 次の「生きのびるやつ」は無人島で遭難した男のサヴァイヴァル小説。と書くと『ロビンソン・クルーソー』を想起するが、キングの漂流記は一味も二味も違う。 ヴェルヌの作品にも確か『チャンセラー号の筏』という作品で岩礁に漂着した人々が生き残る話があるが、あれは実話をもとにした作品で内容はヴェルヌ作品らしからぬほど凄惨さに満ちていた。 本作もまたそうで幅190歩、長さ267歩という実に狭い岩場ばかりの島に漂着した主人公がどうにか生存する物語だが、無論草木もなく、魚も捕れない、食べられる物はカモメと蟹と蜘蛛の類。悪循環、負の連鎖、無間地獄。実にブラックな『ロビンソン・クルーソー』である。 本作のテーマは冒頭に掲げられた文章、それに尽きる。「(前略)患者というものはどのていどの外傷性ショックにまで耐えうるのか、という疑問である。(中略)肝心の答えのほうは煎じ詰めると、(中略)当の患者がどれほど切実に生き延びたいと思っているか?」 最も生きようと願う者はその身を食い尽くすほどの狂気に陥った者である。上の文章の答えの1つが本作だ。 貴方には家族親戚に苦手な人はいないだろうか?もしいたらその人と2人きりで留守番しなければならなくなったらどうする?そんな実に身近な避けたい状況を描いたのが「おばあちゃん」だ。 家族の中、いやあるいは同じ職場の中にどうしても馬が合わない、もしくは苦手な人物が誰しもいるかと思う。そんな相手と2人きりにならなければならなくなったら?という非常に身近な避けたい状況に加え、11歳の少年が寝たきりの老人の世話を何かあった時に母親がしていたようにしなければならないというちょっとばかり大きな重荷な任務を授かった状況。こういうところに恐怖を感じさせるのがキングは実に上手い。 しかし物語は次第にそんな身近な領域から逸脱し始める。 更に加えてラストの意外性。 全ての伏線が余すところなく物語に寄与した素晴らしい作品。 最後の「入り江」は三分冊化されたこの短編集の最後を飾るに相応しい作品だ。 島で生まれ、島で育ち、一度も島から出たことのない老婆が島を出たのは死を悟ったときだった。彼女にとって本土はまさに彼岸だったのだ。そこに行く時は死ぬときだ、と決めていたのだろうか。長く生きているうちに島で親しかったご近所たちが老境に差し掛かり、次から次へと亡くなっていく。またはそれらの息子・娘たちを大きくなり、島で育つ者や島から出て行く者もいる中で、不慮の事故でまだある未来を喪う者もいる。そんな色んな死を見てきて、親しい者たちが少なくなってくる中、いつの間にかあの世の方に友人たちがいっぱいいることに気付く。そして彼ら彼女らは自分に向かって手招きをするのだ。 もはや自分がいるべきはこの世ではなく、あの世だ。 キング三分冊の短編集の最後である本書はヴァラエティ豊かな作品集となった。 得体のしれない男ミルクマンの話2編にファンタジックかつロマンティックな男女の話を描いたもの、そして謎めいた怪物が湖に巣食う話、次々と人を殺しながら目的地に向かう男女2人の物語、漂着した惑星の生きた砂の話に凄まじく狂った漂流者のサヴァイヴァル小説、苦手なおばあちゃんと留守番する話、そして人生の終焉を迎える話。 不条理な話から定番の未知なる生物、暴力衝動、殺人衝動に駆られる人、極限状態に置かれた人間、一人で病人と共に留守番しなければならない子供、一度も島から出たことのない老婆、いずれもモチーフは異なりながら、そのどれもがキングらしい作品ばかりだ。 そしてそれぞれの作品にはその設定と何気なく書かれた文章で読者に想像力を働かせる仕掛けが施されている。 また「浮き台」は湖に怪物が現れ、4人の大学生を襲う話だが、登場人物の一人が湖の管理人が凍結する直前まで浮き台が片付けない、またはそのまま湖に残して凍り付かせてしまうのは職務怠慢だと述べるが、それはその管理人がその怪物の存在を知っているからこそ、危険がないその時期を選んで浮き台を回収している、いやもはや回収せずに置いているように解釈できる。既に怪物の存在をキングはさりげない台詞で伝えているのだ。 さて本書においてもキング・ワールドのリンクは見られる。既にキングの物語の舞台でおなじみとなったキャッスル・ロックは本書でも登場する。 本書では「トッド夫人の近道」と「おばあちゃん」、そして「入り江」をベストに挙げる。 「トッド夫人の近道」はワンダーを描きながらこれほどまでに清々しい思いをさせられる、キングならではの唯一無二の傑作。 「おばあちゃん」は少年が幼い頃に怖くて仕方がなかったおばあちゃんと一緒に留守番をしなければならないという、誰もが経験ありそうな実に身近な嫌悪感やちょっとした恐怖―怯えという方が正確か―を扱いながら、最後は予想もしない展開を見せる技巧の冴えに感服させられた。 短編集の最後を飾る作品でもある「入り江」は死出の旅立ちの物語だ。島で生れ、島で育ち、一度も本土に渡ったことのない老婆が初めて本土に渡る時は死を覚悟した時だ。 ある死者は云う。生きていることの方が苦しいんじゃないか、と。 私は最近こう思う。もし癌や重篤な病に侵され、生命維持装置や植物人間状態になった時、それで生かされていることはもはや人生なのかと。人生の潮時を見極め、そして自ら選択する、そんな風に自分の人生は始末を付けたいものだ。 しっとりとした読後感が心地よい余韻を残す。この作品が最後で良かったと思わせる好編だ。 短編ではかつてワンアイデアで自身が抱いていた原初的な恐怖を直截に描いているのが特徴的と思われたが、『恐怖の四季』シリーズを経た本書ではワンアイデアの中に色んな隠し味を仕込んで重層的な味わいが残るような感じがする。「トッド夫人の近道」なんかはその好例で作者が意図しているにせよしてないにせよ私の中で想像力が広がり、余韻が増した。 もしかしたら他の短編もまだ消化不十分で後日ふと隠し味が蘇ってくるかもしれない。 しかし彼の頭の中にはどのくらいのキャラクターがいて、そしてどのくらいの人生が詰まっているのだろうといつも思わされる。 そしてまだまだキング作品としては序盤に過ぎないのだ。まだまだこの後も、そして今も新たな物語を紡ぎ、そして新たな人生が描かれているのだ。彼の頭にはヴァーチャル空間のセカンドライフが接続されている、そんなように思わされた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ボッシュシリーズ13作目。
エコー・パーク事件を経たボッシュは未解決事件班から殺人事件特捜班へ異動。政治的な問題が絡んだり、有名人が関わっていたり、またはマスコミの注目を浴びて騒ぎ立てられるような事件を担当する部署とのこと。極めて困難で時間のかかる、趣味のように捜査が続くような事件を担当する部署とも云われている。執念の男ボッシュに相応しい部署だ。 そしてボッシュも本書で56歳になったことが判明する。白髪の面積が茶色地毛のそれを凌駕し始めているが、その体形は維持されており、衰えを感じさせない。 そして前作での宣言通り、エコー・パーク事件で重傷を負ったキズミン・ライダーは捜査の最前線での職務から離れ、元いた本部長室に配属になり、内勤業務に携わる。そして新たなパートナーはボッシュの20歳年下でキューバ系アメリカン人のイギーことイグナシオ・フェラス。 更にエコー・パーク事件で再会したFBI捜査官レイチェル・ウォリングも再び関わってくる。前作の事件から6カ月経っており、その時は元心理分析官の技量を買われ、プロファイリング方面での活躍だったが、今回は現在所属している戦術諜報課の一員としてボッシュと医学物理士殺しの事件の捜査を共同で行う。 そしてFBIと共同で捜査する事件はなんとテロ事件。医療に使われている放射性物質セシウムを強奪した犯人を追うノンストップ・サスペンスだ。 しかも犯人は中東訛りを持つ複数の人物とされており、まさにこれは9.11のニューヨークの悲劇をテーマにした作品と云えるだろう。 但し舞台はニューヨークではなく、ロスアンジェルス。つまりイスラム系過激派によるテロがロスアンジェルスで行われようとしているという設定だ。 そしてこのテロという規模の大きい事件がボッシュの捜査の前に大きく立ちはだかる。 彼が担当するスタンリー・ケント殺害事件はそのまま犯人と目されるアラブ系テロリストによって企てられようとするテロ事件を未然に救うための事件に大きくクローズアップされ、FBIによって事件そのものを奪われようとされる。しかも彼らが狙っているのはテロリスト並びにセシウムであり、殺人事件の犯人ではないのだ。 つまりここで描かれているのは9.11後のアメリカの姿だ。滑稽なまでにテロに関して、特に中東アラブ系のアメリカ人に対して過敏になり、真偽不明の噂やタレコミを信じて警察はじめ政府の組織が総動員される。まさに大山鳴動して鼠一匹の感がある。9.11の6年後だからこそ当時混迷していたアメリカの姿を描くことが出来たのかもしれない。 また天敵のFBIからどうにか捜査から弾き出されまいと孤軍奮闘するボッシュの捜査は相変わらずルール無視、いや己のルールに従う自分勝手な行動が目立ち、新パートナーのイグナシオ・フェラスも早々とコンビ解消を申し出るほどだ。 それがまた大局を見つめるFBIのレイチェルとそのパートナー、ブレナーたちの知的かつ冷静さを際立たせ、ボッシュの独りよがりさが読者にある種嫌悪感を抱かせるようになっている。この辺りの筆致は実に上手い。信頼のおける孤高の刑事ボッシュを我儘に自分の事件だとして勝手気ままに振る舞う解らず屋のロートル刑事に見立てさせるコナリーのストーリー運びの何たる巧さか。 また一方で上述したように9.11の同時多発テロ以降、テロに敏感になり、警察はじめ政府の捜査機関、情報機関が過剰に反応する風潮が当時のアメリカには蔓延していた。それは周囲もまたそうだった。 またミットフォードが携えていた小説がスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』だったというのもある意味暗示めいている。新しいインフルエンザの蔓延によってほとんどの国民が死に絶えるアメリカを扱ったディストピア小説であるこの小説は、もしセシウムが悪用された時のロスアンジェルスの状況を示唆している。ただこれについては既読済みと未読済みの読者で受け取り方は異なると思うが。 私も同時多発テロの影響で観光事業が冷え込むハワイが激安価格で旅行プランをサービスしていたのに便乗してハワイ旅行に行ったが、その時のピリピリした通関審査の状況を思い出した。 9.11に関与したアラブ系、イスラム系外国人への失礼なまでの注意深い眼差し、放射性物質や液体爆弾などのテロの材料となりうるものに神経を尖らせていたそれらアメリカの機関の対応と当時のアメリカの世相を嘲笑うかのような真相は繰り返しになるが9.11が起きた2001年から6年経ったからこそ書ける内容なのだろう。 色々含めて、いやあ、ある意味ブラックすぎるわ。 そんなことを考えると原題の意味するところが非常に深く滲み入ってくる。 “The Overlook”は名詞では「高台」を示しており、即ち事件現場となったマルホランド展望台を指すが、動詞では「見晴らす」、「見落とす」、「見て見ぬふりをする」、「監視する」といった正の意味と負の意味を含んだ複雑な意味合いの単語となる。邦題では「見落とす」の意味合いを重視し「死角」としているが、本書はその他どれもが当て嵌まる内容なのだ。 しかし冒頭にも書いたがボッシュももう56歳であることに驚かされる。歳を取ったことに驚くのではなく、56歳にもなるのにその傍若無人ぶりはいささかもデビュー作以来衰えないからだ。 歳を取ると人間丸くなるとよく云うがそれはこのハリー・ボッシュことヒエロニムス・ボッシュには全く当て嵌まらない。むしろ自分のやり方を新しい相棒にレクチャーし、継承しようとしている感さえある。 自分の生活を守るためにルールを重んじ、馘にならないように考えている新相棒イグナシオ・フェラスは彼に貴方が欲しいのは相棒ではなく使い走りだ、そしてそれは俺には当て嵌らない、だから誰か他の人間を貴方と組むよう上司に相談するとまで云わせる。 更にFBIに有利に事を進めさせないために情報の提供はせず、目撃者を隠すことまでする。また更にFBIに捜査から外させないよう、直属の上司を飛び越え、出勤前の本部長を訪ね、FBIに口添えすることまで依頼する。 常に彼は自分の目の前の悪を捕まえることに執着し、その気概は年齢とは無縁である。 しかし本書でなんとボッシュがレイチェル・ウォリングとタッグを組むのは3回目だ。もはやエレノア・ウィッシュを凌ぐコンビになりつつある。そして彼ら2人は会うたびにお互い似たような匂いと雰囲気を持っていることに気付かされ、心の奥底では魅かれ合っているのに、あまりに似ているがために一緒になれず、いつも苦い思いを抱いて袂を分かつ。 それは自分の中の嫌な部分を相手に見出すからだ。お互い危険な状況に身を置く職業であり、レイチェルは常に心配をさせられるのが嫌だとかつては云っていたが、本当の理由はレイチェルはボッシュに、ボッシュはレイチェルに見たくない自分を見るからではないだろうか? そして常に事件で出逢った女性と浮名を流すボッシュが長く関係を持つのがエレノア・ウィッシュとレイチェル・ウォリング、つまり2人がFBI捜査官の女性である、もしくは“だった”ことだ。仕事の上でボッシュはFBIの介入を心の底から忌み嫌う。自分たちの事件を横からかっさらい、または協力者と思わせていつの間にか蚊帳の外に置かれる彼らのやり方が気に食わないからだ。 しかし人として向き合った時に好感をボッシュは抱く。敵対する組織にお互い身を置きながら魅かれある男女。つまりコナリーはボッシュシリーズを一種の『ロミオとジュリエット』に見立てているのだ。 障害があるからこそ男女の恋は一層燃え立つ。コナリーはそれを現代アメリカの犬猿の仲である警察とFBIを使って描いている。 今までのシリーズの中でも最短である事件発覚後12時間で解決した本書はしかし上に書いたようにミステリとしての旨味、登場人物たちの魅力、テロに過剰反応するアメリカの風潮などがぎっしり凝縮されており、コナリーの作家としての技巧の冴えを十分堪能できる。特にレイチェルはコナリーにとってもお気に入りのようで、ボッシュとの縁は当分切れそうにない。 物語の最後に彼ら2人が再びエコー・パークを訪れるのは2人にとって袂を分かつことになったそれぞれの過ちを解消するためにスタート地点に戻ったことを示すのだろう。 レイチェル・ウォリングは決して新キャラクターではなく、彼の5作目に登場した人物である。そしてボッシュの扱う事件も―本書は違うが―過去の未解決事件が多く、常に過去の因縁が付きまとう。 にもかかわらず我々の前に見せてくれるのは新しい刑事小説の形だ。コナリーの視線は常に過去に向いていながらもそれを現代アメリカに見事に融合させている。 また訳者あとがきによればコナリーは短編も素晴らしいとのこと。長編も素晴らしく、短編もまたとなれば、まさに死角なしの作家である。 現在までコナリーの短編集は刊行されていない。どこかの出版社―もう講談社しかないのだが―でいつか近いうちにコナリーの短編集が刊行されることを強く望みたい。 私は今本当にとんでもない作家の作品を読んでいるのではないかと毎回読み終わるたびに思うのだ。それは今回もまた変わらなかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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3分冊で刊行された作品集『スケルトン・クルー』の第2弾。
まずは珍しくキングの手による詩「パラノイドの唄」から始まる。 これはその題名が示すように、強迫観念の強い男の妄想で綴られた詩だ。常に誰かに見られていると思い込み、窓の外にはトレンチコートの男がいて、街を歩けばタクシー運転手も新聞を見ている風に装って見張っている。 食事をすれば塩だと云ってそれが自分を殺すために持ってきた砒素だと思い、電話は誰かに盗聴されていると信じ、決して使わない。 さて次の表題作はなんと書いた文章が現実となるワープロの話。 打った文章が現実となるワード・プロセッサ。それはもはや我々日本人にしてみればドラえもんのひみつ道具のようなお話である。 この子供向けアニメのような題材をキングが書くと実に素晴らしい内容になるから不思議だ。 子供の頃から自分を支配し、屈服させてきた暴力的な兄。しかもその妻ベリンダは元々自分が最初に付き合った彼女でそれを兄が横取りして結婚したのだった。更にそんな粗暴な兄から生まれたジョナサンは機械いじりが大好きで、自分がワード・プロセッサを欲しいと云ったことを覚えており、僅か15歳にして手製のそれを作るほど聡明。しかしそんな家族3人は飲んだくれ兄の飲酒運転による交通事故で亡くなってしまっている。 一方自分の家族を振り返れば作家志望の高校教師である自分をはずれ籤を引いたとばかりに愛想を尽かし、日々太り醜くなっていく妻と勉強せず下手くそなギターの練習に明け暮れ、成績はどうにか落第するかしないかの辺りで留まっている愚息が1人いるのみ。 そんな現状を変えたいと願う彼の許に書いた文章を現実のものとするワード・プロセッサが現れる。 ドラえもんならばそれを使うことでエスカレートするのび太に天罰が下るが如く、痛烈なオチが待ち受けているが、キングはそうした報われないリチャードの決断を叶えて終わる。 これはワード・プロセッサで書いた文章によって変化をもたらされると世界そのものも変わるのがミソで、何かを消し去ればそれ自体が元々なかった世界に置き換えられ、何かが手に入れば同様にそれが最初からそこにあった世界へと切り替わる。 この結末には是非があろうが、今の人生、やり直せるならやり直したいという願望を叶える読者の願望を形にした作品だ。 意志持つ機械というのはキングの恐怖のテーマの1つだが、「オットー伯父さんのトラック」もその系譜に連なる作品だ。 共に事業を大きくしていったパートナーと経営方針の違いから仲たがいするようになり、それが殺意にまで発展して、事業拡大の鍵となった1台のトラックで殺害したことで、そのトラックが自分を殺しに近づいてきていると考えるようになる。 一見パラノイドの狂言のように思える話だが、それは現実となる。ただ彼を殺しに近づいたのはトラックそのものではなく、その幻影のような存在。 機械や雑貨などに霊的な物が宿り、人を殺すというのはキングの作品でたびたび描かれるが、そこではいつも理由はなく、ただそれが起こり、エスカレートしていく様が描かれる。 しかし本作では因果関係も描かれるものの、逆に被害に遭うオットー伯父さんの真意はそれとなく仄めかされる。 次の「ジョウント」はキングにしては珍しいSFホラーだ。 アルフレッド・べスターの『虎よ、虎よ!』に登場するテレポーテーションの名前からそのまま借用されたテレポーテーションシステム、ジョウント。扉を開けるとすぐさま遠方へ移動できる、いわばどこでもドアのような装置だと解釈できる。 ただ発明者のカルーンが無生物では何ら支障なく転送できるのに、なぜか生命体は移動するとすぐさま亡くなってしまうという問題に対して、色々試行錯誤する様が描かれる。 それは覚醒状態であればジョウントをくぐると永い時間を過ごすことになり、一気に老化現象が進んで死に至るのに対し、昏睡状態であればその悠久の時間を経験することなく、通常の状態で移動できるというものだった。 逆にその老化現象を利用して犯罪者の処刑に使われていたという都市伝説めいた逸話があることも紹介される。 ついつい余計なことまで話してしまう父親の性分。 ダメだと云われると逆にやりたくなる、少年の反抗心。 どこにでもいる家族の日常がこんな悲劇を生み出す、キングならではの味付けがなされた作品だ。 「しなやかな銃弾のバラード」は処女作がヒットする幸運に恵まれた若い小説家夫婦の許に集まったエイジェントの夫妻と編集者の間で交わされる、ある若い作家が狂気に至って死に至った物語だ。 「狂気はしなやかな銃弾なのだよ」 このあまりに魅力的で蠱惑的な風合いを讃える一文。この一文のためにこの作品は書かれた、そう思わせる作品だ。 この表現はマリアンヌ・ムーアがしばしば自動車か何かを描写するのに使った言葉だと本作の中で語られている。調べてみるとマリアン・ムーアなる詩人が実在したことは解ったが彼女がこのような表現を使っていたかは解らなかった。 ともあれ、このしなやかな銃弾とは作中で登場する狂気に駆られた作家レグ・ソープ自身が放った弾丸のことだ。 私はこの作品はある意味創作に携わる小説家にとっては真実の物語なのだと思う。たった一度きりの人生しかないのに、その手から生み出されるのは他者の人生であり、また見知らぬ世界の物語だ。そんな物語を日々生み出すのは頭の中のアイデア以外の、人智を超えた何かがあると思っているのではないか。 さて本書の最後を飾るのは原書の表紙に描かれているシンバルを持った猿の人形の話「猿とシンバル」だ。 シンバルを持ち、ゼンマイを巻くとコミカルな動きで音楽に合わせて両手のシンバルを叩く、子供の玩具として知らぬ者もいない猿の人形。しかしそんな愛らしい人形もキングの手に掛かれば恐怖の人形へと化す。通常は壊れているかのようにゼンマイを巻いても動かないこの猿の人形が、まるで意志を持っているかのように突然動き、シンバルを叩くと身の回りの誰かが亡くなるのだ。つまりこの猿の人形は死の宣告者なのだ。そしてそれは猿の意志ではなく、ゼンマイを巻き、シンバルを鳴らすことを持ち主にも強いる。アットランダムに殺人が行われるデスノートのような代物だ。 とはいえ、これはある意味今まで数多書かれたホラーの典型である。この猿の人形が捨てても捨ててもなぜか主人公の近くに戻ってくる怪奇現象もまた同じくホラーの典型で、敢えてキングは典型的なホラーを描くことを選んでいるかのようだ。 それは物語の舞台の1つにクリスタル・レイクを選んでいることからも推測できる―クリスタル・レイクは映画『十三日の金曜日』の舞台―。 ただ最後のオチは予想外だった。 本書は前巻『骸骨乗組員』と次の『ミルクマン』の三冊で構成される原書『スケルトン・クルー』の中の1冊なのだが、共通したテーマを備えた短編集だと感じた。 それは狂気。 本書の各編に登場する人物はなにがしかの狂気を抱いていることだ。 まず最初のキングにしては実に珍しい詩の内容からして狂気が横溢している。何しろ「パラノイドの唄」、つまり被害妄想者の妄想を綴った詩であり、狂気ど真ん中だ。 続く表題作は神々のワード・プロセッサなる夢のような道具によって報われない人生を変えるハッピーエンディングの話でありながら、主人公が取る自身の家族を削除し、自分のお気に入りの甥と義姉を手に入れる、これは願いを叶える道具が未完成ゆえに使用限度があるという設定ゆえに狂気の一歩手前で成り立っているのだ。もしこれが何年も使えるようであれば、主人公は万能な機械を手に入れた狂気の独裁者のような行動を取るだろう。 「オットー伯父さんのトラック」も普通人としての生活を捨て、トラックが自分を殺しに来ると思い、日がな一日家の中の同じ場所に座って待っている妄想者の話だ。これもその妄想が現実化することで一般人にとって狂人に見えるオットー伯父さんがそうならなかっただけの話だ。この作品に収められているオットー伯父さんの所業の数々から人々は次第に「変わっている」から始まり、「奇妙な」、「おっそろしく奇態」、「トチ狂っている」、そして「危険性がある」と彼への評価をどんどん吊り上げていく。つまり他者にとって彼は狂人にしか見えないのだ。 「ジョウント」は細やかな誰にでもある、狂気だ。 云わなくてもいいことをどうしても云ってしまう父親とダメだと云われると逆にやりたくなる好奇心旺盛な少年が辿る不幸な結末だ。 これは性(さが)なのだ。やってはいけないと頭ではわかっているがそれを抑えきれないのだ。 「しなやかな銃弾のバラード」は純粋に狂人の物語だ。狂人と付き合ううちに自らも狂気の渕に立ち、そして陥りながらも一歩手前で死を免れた人が目の当たりにした狂人の末路の物語だ。 最後の物語もまた狂気、いや凶器の物語か。動くとそのたびに人が死ぬ、恐ろしい猿の人形。しかもその人形に魅入られるとその人は自らゼンマイを回して猿を動かし、誰かを殺さずにはいられない。狂気を呼びこむ凶器の物語だ。 ただこれらの狂気は誰しもが抱えている狂気のように思える。決して特別な狂気ではない。ストレス社会と云える現代ではこれら登場人物が囚われる狂気は我々もまた持ちうるのだ。 常に誰かに見られているのではないか? こんな現状を誰か変えてほしい! 他者にとってはおかしいと思われようが自分の過ちを報わなければならない。 どうしても喋らずにいられない。 ダメだと云われたら余計したくなる。 自分の才能以外の不思議な何かが今の自分を支えているのではないか? 俺の周りに不幸が訪れるのはあのせいだ! そんな我々が抱く不平不満やエゴを肥大化させたのが本書の登場人物であり、彼らが抱いている負の感情は実はほとんど大差ないのだ。 またキングの作品にはキング自身が色濃く反映されているといつも思う。 例えば表題作ではゆくゆくは作家として生計を立てたいと考えながらヒットに恵まれず、高校教師を続けているリチャードと云う人物が出てくるが、これはベストセラー作家にならなかったキングを反映したものだろう。彼はチャンスを手にし、そしてそれを物にしたことで今の人生があるのだが、それが出来なかった場合の人生をリチャードに投影しているように思える。 また「しなやかな銃弾のバラード」ではデビュー作が大ベストセラーになった作家の狂気が描かれているが、これはまさにキング本人そのものではないか。もしそれが起こったら?という創作者自身が常に抱いているスランプへの恐怖を色濃く表しているように思えた。 それを裏付けるのが最後の結びの部分だ。 小説家は、<言葉>というものが本当はどこから生まれるのだろう、といぶかることが時々―いや、しばしば―あったのだが、きっぱり言ってのけた。「(妖精なんて)絶対にいないよ」 創作に携わる者はどこか自身の理解を超えた別の場所からアイデアが降ってきて、それを自分と云うフィルターを介して書かされているのだ、それはどこから来るのか、そんな葛藤が垣間見れる一文である。 また本書でも例に漏れず、他作品とのリンクがある。 もはやキング作品ではお馴染みとなった町キャッスル・ロックが「オットー伯父さんのトラック」では物語の舞台となっている。おまけにあの『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドも名のみ登場する。本書ではその父親ビリー・ドッドがオットー伯父さんと親しいレッカー業者として登場するが、語り手は「いかれたフランク」とフランク・ドッドを評している。後の事件に繋がるさりげないが見過ごせない一文だ。 随所にキング本人とそしてキングがこれまで紡いできた「キング・ワールド」の断片が覗けた短編集だった。 そして私もまたこうやって感想を書いているわけだが、後日読むと、まるで別人が書いた文章のように感じられることがままある。それは自分がその作品を読んで抱いた感想が思いも寄らなかった内容だったり、もしくは自分の才能以上のことを書いていたりすることに気付かされる時があるのだが、もしかしたら私のパソコンにも本の感想を書く手助けをしてくれる妖精が潜んでいるのかもしれない。 そう考えるとあながち本書に収められている狂気の物語は単に作り話として通り過ぎるのが出来ないほど、心に留まり続ける、そんな風に思えてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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井上夢人氏第2長編となる本書は登場人物の手記もしくは証言をもとにした文書をコンピュータで作った文書ファイルとして構成されたミステリ。
それはかつて井上氏がウェブ上で展開していた『99人の最終列車』を彷彿とさせる群像劇のようだ。 それは東京のマンションで起きるある若夫婦の殺人事件を発端にした、男女5人の事件を巡るそれぞれの奇妙な道行を描いた内容となっている。 5人の男女、即ち向井洵子、高幡英世、奥村恭輔、若尾茉莉子、藤本幹也の手記もしくは供述で構築されていく物語はそれら登場人物たちの話によって逆に事態が収束していくわけではなく、謎が謎を呼び、そしてそれぞれのアンデンティティがどんどん歪みを増していく。 まず向井洵子の手記ではもう1人別の自分がいることが示唆され、そして自分自身が殺害されるという新聞記事に出くわす。 そして出張から帰ってきた主人の裕介にはいきなり突飛ばされ、昏倒した後、目が覚めると自分のマンションの目の前の部屋の住人本多初美の部屋にいることが判明する。その後どうにか自分の部屋に戻るとそこには半ば腐乱した夫裕介の死体が転がっているのに遭遇する。 奥村恭輔は向井洵子と同じマンションの同じフロアの住民で小説家。しかし彼はドアポストに入れられていたフロッピーの中に保存されていた向井洵子の手記を読んだことで向井洵子の事件を単独で追うようになる。 そして手記の向井洵子がやがて偽物であることに気付き、やがてその手記で語られている隣人の本多初美の部屋を無断で侵入したことで若尾茉莉子なる人物の履歴書と彼女の高校の卒業アルバムを拝借し、彼女たちの足取りを辿っていく。 やがて2人の同級生から若尾茉莉子が本多初美とのドライブ中に高校卒業後間もなく大事故に遭って亡くなったことを知り、更に本多初美は藤本鋭二という、暴力夫と結婚し、毎日暴力を受けていたこと、そしてその夫も一緒にドライブに行った際に、酔っ払い運転で河に落ちた車から初美だけが助かり、鋭二が死んでしまったことを知る。そして本多初美は若尾茉莉子が成りすました人物ではないかと推理を巡らせていく。 そして若尾茉莉子は本多初美と一緒の部屋に住んでいる彼女と同郷の元同級生だ。彼女はしかし同級生の本多初美との生活をどうにか解消したいと思っている。 北海道から上京したものの、その容姿は男性の興味を惹きつけるようで、事あるごとに転居を繰り返しており、今のマンションは3番目の引っ越し先だった。そして勤めていた喫茶店を自分に云い寄る店長の誘いを頑なに拒んだがために反感を買い、馘首になり、そしてまたお客の1人に見つかったことから彼女はマンションを出て故郷の札幌に戻る。しかしそこには高校卒業後に間もなく遭った交通事故で自分を助けてくれた桑名雅貴にばったり出遭い、強引な誘いを受ける。 藤本幹也はいわゆるごろつきで若尾茉莉子と共生関係にある。彼は茉莉子に惚れてはいるものの結婚しようとは思っていないが彼女のピンチになると助けに来る男で、これまで彼女の犯罪の片棒を担いでいた男だ。彼女の障壁となる人物は悉く葬り去ってきた。 これら4人の手記や供述により、この4人に話に出てくる本多初美も加えた5人の関係性が次第に浮かび上がってくる。 そして唯一上で語っていない語り手、高幡英世は彼女彼らの観察者であり、この4人の手記を、いや読み手を導くガイドの役割を果たしている。 本書は小説家自身を描いたミステリと考えることが出来るだろう。 岡島二人のコンビを解消し、作家井上夢人として世に問うた作品『ダレカガナカニイル…』では女性の人格が主人公に入り込み、その女性を殺害した事件の真相を探る物語だったが、本書はさらにそれを発展させ、複数の人格によって語られる相矛盾する話を統合していく話だった。 つまり井上氏は人格とは何なのか、人一人に唯一無二の人格でなく2つ以上の人格が宿ることで生まれる、アイデンティティそのものがミステリという作品を描くことに興味があったようだ。 前作ではいささかファンタジー的な設定だったが、本書では現実的に起こりうる話として我々に問いかける。 本書の題名プラスティックの意味は最後に出てくる。 可塑的。つまり自由自在に形を形成できること。 つまり現代社会においてそれぞれ相手の性格や地位によって応対方法を使い分ける我々もまた可塑的な存在だ。 ただ感情の振れ幅と生まれた境遇が少しばかり普通だっただけで、我々もまたこの小説の登場人物の1人なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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ジョー・ヒル4作目の長編は竜の鱗状の模様が浮かび上がり、突如身体が燃え上がって死に至るという竜鱗病という奇病が発生し、世界中にパンデミックを巻き起こすディストピア小説である。
さてこの設定、やはり父親のキングの『ザ・スタンド』を想起させられずにはいられない。 軍の研究所から流出した殺人インフルエンザ<キャプテン・トリップス>によって大多数のアメリカ人が死に絶えたアメリカを舞台にしたあの大長編はロシア人が開発した胞子をイスラム過激派組織が散布したことで世界中に蔓延した竜鱗病によって世界中が炎に包まれていく様を描いた本書に大きな影響を与えていることは想像に難くない。 さらにそんな伝染病で生き残った人々が、いや竜鱗病患者であるにも関わらず全焼せずに済んでいる罹患者たちがトム・ストーリーなる人物が運営するキャンプ・ウィンダムなるコミュニティに集まっていくのも、<キャプテン・トリップス>に罹らず、生き残った人々たちが訪れるマザー・アバゲイルが管理する<フリーゾーン>なるコミュニティに集まっていくのと似ている。ちなみにマザー・アバゲイルに対してトム・ストーリーはファーザー・ストーリーと呼ばれているのも意図したことだろう。 また妻が竜鱗病に罹患したことで狂ってしまった夫ジェイコブが家のドアからチェーンのついたまま隙間から覗いて話しかけるシーンは父親原作の映画『シャイニング』も想起させる。 そして本書のメインとなる竜鱗病。皮膚に竜の鱗のような模様が出来、人間が発火して死に至る不死の病だが、その炎を自由に操るファイアマンことジョン・ルックウッドが現れるとこれまたキングの名作『ファイアスターター』の炎の少女チャーリーを思い浮かべてしまった。 さてこれらはジョー・ヒルがキングの息子であるという事実ゆえにもたらされる単なる先入観に過ぎないのだろうか。 いや私はヒルは敢えてそれを意識して本書を著しているように思える。 それが最も如実に伺えるのがハロルド・クロスという登場人物を眼にしたときだった。このハロルド・クロス。主人公ハーパーがキャンプに着いた時には既にいない。かつてキャンプに所属していたが、他のメンバーとは距離を置き、共同作業をさぼり、仲間の目を盗んで外出し、外部との連絡を取ろうとしていたために、キャンプの保安担当であるベン・パチェットによって射殺された人物だ。 所謂集団の中の爪弾き者で、常に他者を見下して斜に構えている、いけ好かない野郎だが、私は彼を出会った時にすぐに『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーを思い出した。 このファースト・ネームが同じキャラクターは、優秀で美人な姉と比べられることで劣等感を抱え、それを克服するために知識を蓄えることに固執したため、尊大になり、周囲を見下すようになった少年だ。彼は誰かに認めてもらいたかった彼はそれが叶わない鬱屈した日々を手記に憎悪をぶつけて復讐の炎を滾らせる。 そして彼が最後に行動を共にするのが元教師のナディーン・クロス。そう、この性格と云い、手記を残す設定と云い、ハロルド・クロスはこの『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーとナディーン・クロスから名前を取られた人物とみて間違いないだろう。 ただ『ザ・スタンド』と異なるのはコミュニティを形成する主人公たちが幸運にも<キャプテン・トリップス>の被害に遭わなかった人々、つまり健常者であるのに対し、こちらは逆に竜鱗病という未知の病に罹った人々であることだ。そして竜鱗病患者たちは健常者たちによって行われている焼滅クルーによる竜鱗病患者狩り、それは竜鱗病患者を見つけては虐殺するというまさに現代の魔女狩りの手から逃れて生きることを余儀なくされているところだ。 またヒルはキングが<キャプテン・トリップス>に罹患しなかった者の根拠を曖昧にしたのに対し、竜鱗病に感染するメカニズムについてきちんと述べている。 その詳細については作品に当たってもらいたいが、いやはやよくもこうしっかりと考えたものだ。この竜鱗病のメカニズムがしっかりしているがゆえに物語も無理が生じない。 またこの竜鱗病は何かの暗喩のようにも思える。 怒りや恐怖、ストレスなど心が乱された時に人は己の内から発する業火によって焼かれてしまうこの奇病。それは我々日常生活における感情に任せてしまうがゆえに生じるトラブルを指しているようにも思える。つまり発火の症状を抑えるのが竜鱗病の菌と同調し、対話をすることで逆に竜鱗病を炎を操る術としてプラスに転じることになるということは、我々日常においてもまず感情的にならずに一旦気を休ませ、自問自答することでなぜそれが起こったのかを理解し、そしてそれを相手に還元することで相乗効果を生み出す、つまりアンガーマネジメントを促す警句のようにも読み取れる。 一方、竜鱗病患者たちが身を寄せ合うキャンプ・ウィンダムが安住の地かと云えばそうではない。やはり閉鎖されたコミュニティの中で生まれる軋轢が存在し、ハーパーはルールを破って長く外出したことを咎められ、やがて孤立するようになる。ルールを破ったハーパーの行動は、たとえ足りなくなった薬や医療品を補充するために家に戻り、また重傷を負ったファイアマンの様子を見るためとは云え、大幅に約束の時間を逸脱しているので確かに褒められたものではないが、そのことに対して罰を優先させて秩序を守ろうとするキャンプの面々とそれを頑なに受け入れようとしないハーパーとの間の関係性が歪みだし、やがてハーパーこそ悪だと決めつけてリンチさながらの好意に発展していく様はどこかの宗教集団、もしくは共同体における集団心理の暴走を想起させる。 ただハーパーがこのコミュニティに全面的に身を委ねることに忌避感を覚えていることで、今まで秩序と理解の上で成立していた集団生活を乱す行為を、まさか自分のような大人を小学生のように罰したりしないだろうと高を括って、平気で約束を破る彼女自身の行動も認められるべきではないため、一概にこの集団がハーパーに対して行おうとしている処置は悪いわけではない。集団のために良かれと思って取った行動が結果的に身勝手なそれになってしまった個と頑なに秩序を守ることに固執する集団の価値観が乖離によって物事がエスカレートしていく様をヒルはじっくりと描いていく。 そして豊かな父性を以て住民たちを指導してきたファーザーに対して全ての人物が心酔していたのではなく、最もそれに反発をしていたのが実の娘キャロルだった。 両者は共通しているのはコミュニティの住民を愛していたことだったが、父トムが住民がどんな行いをしても赦すことから始め、決して厳罰を与えない対応を取るのに対して娘キャロルはその寛容さを甘すぎると考え、ルールに従わない者は時に罰を与え、繰り返すようならば追放も辞さない、いや情報漏洩を恐れて粛清することも必要だと考える。 コミュニティに対する愛情が強すぎるがゆえに、誰もが自分に従うことを強要するようになった、支配者たちが陥る強迫観念を伴う独裁心の増長。それがキャロルが陥った罠だった。もはやそこにはまともな思考が出来る彼女の姿はなく、全てを自分に従わない者たちを罰するために利用するエゴの化け物と成り果てた狂信者の姿である。 そして頑なに周囲からの罰の強要を拒んでいたハーパーもやがて度重なる虐めとリンチに屈して罰を受け入れる。母親となりつつあることでその強さを手に入れたハーパーもまたその母性ゆえに大切な者に対する愛情が強すぎて自らを犠牲にし、また屈することを受け入れる、弱さを兼ね備えた女性なのだ。 そう、忘れてはならないのはハーパーと元夫ジェイコブの関係だ。妻をこよなく愛し、君こそ人生の宝だと妻ハーパーを褒めそやしていたジェイコブ。しかし彼は妻が竜鱗病患者になったことを知ると一転して、汚らわしい物でも見るかのように彼女を罵倒する。そして別居を選んだ後、家に舞い戻り潔く死を選ぶことを強要するのだ。 その表情は怒りでも狂気でもなく、どんな感情さえもない無だ。つまり彼はあまりに針が振り切ってしまったためにそれが当然だと思うことになったのだ。 キング作品もそうだが、アメリカ作家の作品には感情の起伏の激しい人物、特に男性が登場する作品が多い。そしてその激昂する父親こそが恐怖の根源となっている作品も多く、キングは特にその傾向がある。それは彼の生い立ちに由来しているようだが、その息子ヒルでさえも同様に狂える夫というテーマを描く辺り、やはりこの親子にもキングが送ってきたような父と息子の諍いがあったのだろうか。 そして自分を愛してくれる夫こそが全てと思っていたハーパーも彼の許を離れることで今まで結婚生活で夫が正しいと思っていたことが単に彼のエゴを押し付けられていたことに気付かされるのだ。結婚生活とは病気の一つに過ぎないことに感染してから気付いたとまで云い放つ。 しかしそれでも恋をするのが男女だ。 ジョン・ルックウッドは愛したセーラのことが忘れられないが新たに仲間に加わったハーパーに惚れてしまい、セーラから彼女に心が移ることを恐れて距離を置く。 ハーパーもこのカッコつけしのジョンを鼻白みながらも魅かれていく自分に気付かされる。そしてやはり2人は恋に落ちる。もう一度人生をやり直す伴侶としてお互いを選ぶのだ。 結婚生活が一種の病気だと悟りながらも人は一人では生きていけない、どうしても誰かを恋し、愛してしまうものなのだ。 やはり本書はヒル版『ザ・スタンド』と云っても過言ではないだろう。但し彼はその衣鉢を継ぎながら自分なりのパンデミック&デストピア小説を紡いだのだ。キングが書かなければならなかった『ザ・スタンド』同様、本書はヒルにとって書かなければならなかった物語なのだ。 但し彼が書いたのは『ザ・スタンド』とは表裏一体の物語だ。『ザ・スタンド』では生存者たちの集落が<フリーゾーン>であったのに対し、キャンプ・ウィンダムは竜鱗病患者たち感染者たちのコミュニティだ。 先にも書いたがコミュニティの指導者が母性を象徴する“マザー”アバゲイルに対し、本書は父性を象徴する“ファーザー”ストーリーだ。 そして『ザ・スタンド』が生存者たちでマザー・アバゲイルを中心とした善側の人々と“闇の男”と呼ばれるランドル・フラッグ率いる悪側の人々との戦いと、同じ生存者という立場で善と悪に別れた集団との争いだったのに対し、本書は竜鱗病という正体不明の不治の病の感染者対それらの脅威から逃れ、焼滅クルーなる殲滅部隊にて健康と安全を守ろうとする健常者の生き残りを掛けた戦いで、本来恐ろしい存在となる感染者の立場から描いている。 また『ザ・スタンド』で爪弾き者だったハロルド・ローダーは最後に皆への復讐心から爆弾を仕掛けて複数の死傷者を出してコミュニティを後にする、いわば最後まで憎まれる役回りだったのに対し、本書では同様の役回りであるハロルド・クロスは逆にキャンプのある人物の策略によって射殺されざるを得ない状況に追い込まれた人物で、しかも主人公のハーパーは彼の書いた竜鱗病に関する医学的な考察に読み耽り、彼の研究を高く評価する。 つまり本書のハロルドは孤独に研究をし、ある程度病気の仕組みを解き明かすところまで来ており、更に新たな生き方を始めようとした矢先に殺された道半ばでその命を奪われた犠牲者として描かれている。 しかし何といっても最も『ザ・スタンド』と顕著に表裏一体であることを示しているのは主人公の設定だ。 『ザ・スタンド』は群像劇の様相を呈しており、各登場人物のドラマの比重が等しく語られるが、ほとんどが男性中心の物語である。闇の男との戦いに挑むのは選ばれし4人の男たちであり、最後に生き残るスチュー・レッドマンがその作品の最たる中心人物と云えるだろう。 そして彼は<フリーゾーン>への道行で合流するフラニー・ゴールドスミスと恋仲になり、そしてフラニーはスチューの子供を妊娠する。 一方本書のハーパー・ウィロウズもまた妊婦であり、しかも主人公なのだ。彼女は竜鱗病に罹った後に狂ってしまう夫ジェイコブの許を離れ、ファイアマンこと竜鱗病患者でありながら炎を操ることのできるジョン・ルックウッドと恋に落ちる。 ジョー・ヒルはこの身重の女性を妊婦には到底厳しいと思える環境に置き、ハーパーに困難を与える。しかし彼女はそれらに耐え、次第にシンパを作っていく。 それは看護婦と云う死と向き合う職業から来る、人の生死に対して冷静さを保てる心の強さもあるが、やはり子供を宿した母親としての強さが彼女を掻き立てるのだろう。つまり母性の強さを本書では強調する。 母性の象徴である<フリーゾーン>という安住の地で男性性を強調し、男たちの戦いとした『ザ・スタンド』と一方で豊かな父性でコミュニティの住民たちを温かく包み込むキャンプ・ウィンダムを舞台にそこで集団心理が巻き起こす狂気の中でやがて生まれてくる赤ちゃんのために何が何でも生き抜こうと上を向く母性を強調した本書。 この見事なまでの対比構造はやはりこれがジョー・ヒルが父親に向けた自分なりの『ザ・スタンド』に対する返信なのだと解釈せずにはいられない。 逆に云えば、彼はもう開き直ったのではないか? 自分の思いついた物語が既に父キングによって書かれていることに気付き、寧ろ自分がキングの息子であることから逃れられないことを悟り、敢えて父親と比べられることを覚悟の上で「俺の○○」として書くことを選択したのではないだろうか。 今まで息子ジョー・ヒルの本書と父親キングの『ザ・スタンド』との類似性を強調してきたが、私が件の『ザ・スタンド』を読んだのは約1年半前になる2017年の1月から2月に掛けてだった。その時に抱いた感想は壮大な世紀末叙事詩という感慨だけが残った。 しかし本書を今読み終わった時、この竜鱗病患者が世界中にパンデミックを引き起こし、世界が健常者と感染者とに二分され、そして健常者によって焼滅クルーによる集団虐殺や迫害され、行き場を失い、世間の人々の目を逃れ、隠遁生活を強いられるこの光景は今の日本の風景と重なり、単なる絵空事ではないように思えた。 昨今日本では東日本大震災を皮切りに毎年どこかで震度5を超える大地震が起き、集中豪雨に晒され、そして大型台風被害に見舞われている。以前ならばそれは一過性のものとして、「その後」には普通の生活がまた始まっていたが、今の日本ではそれらの災害で土砂災害、浸水、液状化などが相次ぎ、インフラがストップし、生活困難者が続出し、仮設住宅での避難生活を強いられる人々が増えている。つまり今までの「その後」ではない、以前送っていた普通の生活が「その後」続けることができない人々が増えてきているのだ。 そして今年訪れたコロナ禍の世界。 本書は竜鱗病という作者が想像した感染症から普通の生活を護ろうとする健常者とそんな健常者たちの迫害から身を隠すように生活を強いられる感染者たちの、二分化された世界を描いたディストピア小説であるが、この二分化された世界は別の形で既に日本に訪れているのだと痛感した。 そして連続する天災が地球温暖化に起因することであるとすれば、既に手遅れになっているとは思わず、我々が地球に対してすべきことは何なのかを今まで以上に考えなければならないだろう。 ファイアマンの世界は実はもうそこまで来ているのかもしれない。本書とは違う形で。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ハリー・ボッシュシリーズを主軸としたコナリーのもう1つのシリーズ作品であり、今なお作品が発表されている刑事弁護士ミック・ハラーの、いやリンカーンを事務所にした一風変わった弁護士、「リンカーン弁護士」シリーズ。本書はその幕開けの第1作である。
さてこのミッキー・ハラーことマイクル・ハラー。実はこれまでボッシュシリーズで名前が登場したことがある人物だ。 まずこのマイクル・ハラーという名前だが、ボッシュの実の父親の名前でもある。彼が売春婦だったマージョリー・ドウとの間に作った子供がハリー・ボッシュ。そして本作の主人公ミッキー・ハラーは彼が再婚したラテン系のB級映画女優との間に作った子供で、父と同じ名前を持つ弁護士。つまりボッシュとミッキーは異母兄弟に当たるのだ。 犯罪者を捕まえ、刑務所に送る刑事と容疑者の無実を信じるようが信じまいが、無罪を、もしくは刑の軽減を勝ち取ろうと手練手管を尽くす刑事弁護士。お互い水と油の関係である2人が奇しくも血の繋がりのある兄弟という設定にコナリーの着想の冴えを感じさせる。 父親は伝説的名弁護士としてその名を遺しているが、このミッキー・ハラーは貧乏暇なしとばかりに複数の案件を請け負い、法廷から法廷へ走り回る。 マリファナ栽培で挙げられた密売人ハロルド・ケーシーの事件を扱ったかと思えば、その足で今回のメインの事件となる不動産会社経営のルイス・ロス・ルーレイの婦女暴行容疑事件の法廷に出廷し、保釈金を払って保釈することに成功し、そして更に無償で弁護を行っている売春婦のグロリア・デイトンの麻薬所持による起訴を検察と交渉して、取り下げさせる。コンプトン裁判所に行って麻薬密売人ダリウス・マッギンリーの代理人として判決の言い渡しに立ち会ったかと思えば、刑事裁判所ビルに向かってインターネットでクレジットカード番号と識別データを収集してそれを売り渡す常習詐欺犯サム・スケールズに有罪答弁を促す。さらに麻薬常習者のメリッサ・メンコフの捜査に不手際があったとして証拠の排除を申し立てる。 まさに東奔西走を地で行く走る弁護士だ。そして彼の最大の特徴は上にも書いたが事務所を持たず、高級車リンカーンを事務所にしているところだ。 いや100万ドルのローンが残っているハリウッドの100万ドルの夜景が眺められる自宅をホームオフィスにしているが、彼の秘書は自宅のコンドミニアムを仕事場としており、そして彼の仕事のファイルが収められている倉庫は過去に弁護を担当した依頼人の父親が経営している貸倉庫で、弁護料を賃貸料代わりにして借りている。しかも4台のリンカーンを所有し、走行距離10万キロに達するまで使った後は空港送迎用のリムジン・サービスに払い下げようと考えている。ちなみに今は2台目を乗りつぶそうとしている。そんな根無し草的なライフスタイルの弁護士だ。 そして彼の有能な調査員ラウル・レヴンは元警官でそのコネを利用して素早く警察から事件に関する資料を手に入れることが出来る。 そしてこのミッキー・ハラー、仕事も速いが私生活も速い。既に2回の離婚を経験している。1人目はヴァンナイス裁判所に配属されている地区検事補。彼女との間には8歳になる娘ヘイリーがいる。2人は時に一緒に食事をし、そして週末には娘に逢うことを許せる仲だ。 2番目に別れた妻はローナ・テイラーでハラーの秘書をやっている。彼女との間には子供はいない。 かつて生活を共にしながらも別れた相手と仕事を一緒にし、また裁判所で逢っても気まずくない関係を築けるハラーは女性から見て魅力のある男なのだろう。 しかしこれら2つの結婚が破綻してしまった彼はどこか生き急いでいるような感じがする。 また本書ではハラーの一人称叙述を通じて、裁判を有利に運ぶ、いわゆる法廷術とも云うべきノウハウが語られる。 まずは陪審員の選出で聖書を携えた人物がいることに気付き、売春婦という職業に嫌悪を抱くはずだと選出されるように便宜を図ったり、とにかくメモを取る記録係と称する人物に印象付けるよう話したり、自分の言葉を心に浸透させるための間の取り方や効果的な証拠の出すタイミングなど、いわゆるメンタリストが得意とする人心操作術が開陳される。それらを駆使するハラーはまさにプロフェッショナルだ。 上に書いたように登場するや否や複数の事件を抱え、リンカーンでロサンジェルス中を走り回り、依頼人に有利な判決を勝ち取ることに専念するハラーは、作中で述べているように自分の依頼人が有罪か無罪かには頓着せず、むしろ誰もが有罪であると考え、検察が掲げた証拠の山の中に潜むひび割れを見つけ、いかに覆すか、もしくは依頼人への刑をいかに軽減できるかに腐心する、いわばやり手のビジネスライクな弁護士のように最初は映る。 自分が豊かな生活を送るために半ば売名行為のように依頼を受け、成功すればその名を犯罪者に知らせてほしいとばかりに宣伝する。 しかしそんな彼も変わってくる。 かつて担当した婦女暴行殺人事件で有罪となったジーザス・メレンデスが無実であることを確信し、そして真犯人が依頼人である可能性が高まった時、彼は初めて自分が依頼人を見ずに状況証拠と検察からの書類だけを見ていただけだったこと、そしてそれが無実の人間を刑務所に追いやったことを悟るのだ。 弁護士が主人公であるリーガル・サスペンスは通常自分が担当する裁判において依頼人の身元や事件を調べていくうちに意外な事実・真実が浮かび上がり、真相が二転三転するのと、圧倒的不利と思われた裁判を巧みな弁護術で無罪を勝ち取る構造であるのに、主人公に多大なる負荷を掛け、ピンチに陥れるのが常のコナリーは弁護士ミッキー・ハラー自身にも刑事ハリー・ボッシュ同様に危難に見舞われる。 以前の彼ならばそれを仕事と割り切って平然とやり遂げただろうが、冤罪者が彼の依頼人の1人であり、そして友人とも云える調査員を亡くした今では自分の職業が呪わしく思えて仕方がない。彼は初めてルーレイという邪悪な者を前にして、正義を意識したのだ。 悪を撲滅するには法を逸脱した捜査を厭わないボッシュに対し、悪人であろうが無罪を勝ち取る、もしくは少しでも刑を軽減することを信条に法を盾に正義をかざしてきたハラー。悪を食いぶちにしてきたハラーはルーレイの事件で目が覚めるのである。 「無実の人間ほど恐ろしい依頼人はない」 これはハラーの父親が遺した言葉である。弁護士にとって理解しがたい言葉がこの瞬間ハラーに重くのしかかる。彼はジーザス・メネンデスという無実の人間を冤罪で刑務所に送り、人生を台無しにした重しを課せられたことを悟るのだ。 さてもう1つのコナリーの新シリーズの幕開けとなった本書だが、ふと気づいたことがある。それは2つのシリーズに共通して娼婦に焦点が当てられていることだ。 ボッシュが花形のLA市警から警察の下水と呼ばれるハリウッド署へ左遷させられる原因となったのが娼婦殺しのドール・メイカー事件であり、また彼の母親も娼婦であり、4作目で母親が殺害された事件を探ることになるが、このミッキー・ハラーシリーズの幕開けが娼婦殺害未遂事件、そして過去に娼婦殺しの罪で服役した依頼人が冤罪であったことなど、コナリーは娼婦に纏わる事件を多く扱っているのが特徴だ。ノンシリーズにも同様に娼婦を扱った『チェイシング・リリー』という作品もある。 元ジャーナリストであったコナリーがボッシュの人物設定に作家ジェイムズ・エルロイの母親である娼婦が殺害された「ブラック・ダリア事件」を材に採っているのは有名な話だが、それ以後の作品においてこれほど娼婦を事件に絡ませているのは何か別の要素があるのではないか。 身体を売ることで生活の糧を得ている彼女たちはしかし、女優を夢見てハリウッドに出て、夢破れた美しき女性も多いはずで、押しなべてコナリー作品に出る娼婦はそんな美貌を持った者たちである。 単に現代アメリカの犯罪、社会問題をテーマにするのに社会の底辺に生きる彼女たちが題材に適しているだけなのか、それとも彼がジャーナリスト時代に娼婦たちを取材することがあり、そこで彼の心に作品を通じて訴える何かが植え付けられたのかは不明だが、裁判を担当する検察官テッド・ミントンの口を通じて、こう語られる。 「売春婦も被害者になりうるんだ」 私はアメリカ社会において売春婦がどのような扱いを受けているのかを知らないが、自分の身を売る、よほど蔑まされた存在としてかなり見下されているようだ。そんな人間でも裁判を受ける権利があり、相手は法の下で裁かれるべきだと謳っているように思える。 今まで一連の作品を加え、今後コナリー作品を読むに当たり、これは新たな視座が得られるポイントなのかもしれない。 またコナリー作品の主人公の特徴に彼らが一生抱えていく業を持っていることだ。 ボッシュは自身の生い立ち、ベトナム戦争に従軍した経験から心に暗い闇を持ち、自分が悪という闇を見つめながらも、いつか自分がその闇の中から覗いている自分を見る側に堕ちてしまうことを畏れている。 そしてミッキー・ハラーは今まで全ての人は有罪であるとみなし、彼は彼らを色んな法的手段を駆使して無罪にし、もしくは刑を軽減することを信条としてきた。しかし彼はルーレイという弁護を請け負う自分にも危害を及ぼす真の邪悪の存在に遭遇したことで自分がやっている弁護士という仕事の意義に揺らぎを覚え、そしてルーレイの代わりに無実のジーザス・メネンデスを有罪にして刑務所に収容したことを今後自分が一生抱えていく罪、業として再び弁護士の仕事に臨むことを決意する。 そこにいるのはかつてのミッキー・ハラーではなく、社会的弱者を救う正義の弁護士になった彼だ。それはつまり今まで超えられない壁として彼の前に立ち塞がっていた偉大なる父親であり、伝説の弁護士とされたマイクル・ハラーをミッキー・ハラーが超えるための第一歩の始まりとなるのかもしれない。 彼の卓越した弁護技術がこの後、真に救われるべき被告人に対してどのように披露されるのか。 息もつかせぬ一進一退の法廷劇のコンゲーム的面白さと、そして犯罪者の疑いのある人々を弁護することの意味と恐ろしさをももたらす、コナリーの新たなエンタテインメントシリーズ。 またも読み逃せないシリーズをコナリーは提供してくれたことを喜ぼう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2014年第60回江戸川乱歩賞を受賞した下村敦史氏の『闇に香る嘘』は全盲者を主人公にした斬新なミステリとして選考委員の満場一致で決定した作品だが、それに遡ること約20年前に香納諒一氏によって全盲者を主人公にした作品があった。それが本書『梟の拳』である。
但し下村作品の主人公村上和久はいわゆる一般市民であったのに対し、本書の主人公桐山拓郎は元ミドル級のボクシングチャンピオンで、網膜剥離によって全盲を余儀なくされた人物。勝負の世界に生きてきた彼は勝ち気で短気な性格であり、まだ若い彼は言葉遣いもぞんざいである。桐山は引退後その経歴を活かして妻をマネージャーにしてタレント生活を送っている。 そんな彼が巻き込まれる事件は明らかに日本テレビの『24時間テレビ 愛は地球を救う』をモデルにしたチャリティー番組に出演した折に出くわす、久岡昌樹の死に端を発した、原子力業界に絡む政治と金の、そして過去日本が行ってきた非道徳的な行為に纏わる、日本の暗い闇だ。 こう書いただけでも一介の引退した盲目のタレントボクサーが巻き込まる事件としては実にスケールが大きいことが解るだろう。 2人だけの面会を頼まれた相手、久岡昌樹という人物が≪原子力エネルギー推進公団≫の重役でありながら、もう1つ≪日本原子力平和研究センター≫の専務理事という半官半民の組織の上役、即ち日本原発界の中心的人物であり、桐山は彼の死に不運にも立ち会ったこと、そして現役時代のマネージャー永井康介が原発建設に絡む利権問題を追っていたことで否応なく複数の組織の思惑が絡む暗闘に巻き込まれてしまう。 関わる組織は永井がかつて所属していた右翼団体≪愛魂連合≫、その総裁と組長が兄弟分の関係にある暴力団≪戸川組≫、前掲の原子力がらみの組織に、原発建設を計画しているI県の県知事争いをしている≪民自党≫の現県知事、保科武一とその対抗馬、蒲生善之に蒲生を推すI県出身の代議士、通称≪寝業の馬場≫こと馬場啓志。更に桐山が出演した24時間のチャリティー番組を企画している≪平和テレビ≫のプロデューサー亀山にその会場となった、一度大火災で廃業したホテルを買い取り、近日営業開始予定の≪ホテル・ビューポイント≫のオーナー≪須藤グループ≫といったきな臭い連中が絡んでくる。 そして桐山をしつこくつけ狙うのは正体不明の組織に属する巨漢の男、それとは別の組織に属する柴山なる人物、更には亡くなった久岡の娘静香。そしてかつて永井の友人であった≪呼び屋の金≫こと金円友が桐山夫妻と行動を共にする。更にはかつて桐山が障害者の両親と共に過ごしていた横須賀の施設≪あけぼの荘≫まで絡んでくる。 とにかく次から次へと出てくる、利権を貪ることを一義とした団体、組織が次から次へと出てくることで、最初はかなり目まぐるしく変わるストーリー展開に戸惑いを覚えた。 やがて調査するうちにチャリティー番組に隠された不穏な金の動きが発覚する。毎年3千万ものお金が寄付金に水増しされ、そのお金が≪日本原子力平和研究センター≫から出てきており、そして≪朝日荘≫、≪ひなげし学園≫、≪あけぼの荘≫といったいずれも障害者の面倒を見る福祉施設に寄付されている。 チャリティーのお金が福祉施設に寄付されていること自体は何もおかしな話ではない。しかしこのうちの1つ≪あけぼの荘≫が桐山の両親が入れられ、そして彼が生まれた施設であることが更に彼の事件への関わりを強める。 桐山の両親が障害者同士だった。この事実は何とも私には辛い。私も障害者の子供を抱える身であるからとても他人事とは思えなかった。 しかも桐山はいわゆる人並みの行動が出来ない両親を嫌っていた。勿論人付き合いなどは出来ず、終始人前ではおどおどしている両親、社会的弱者である2人から切り離されるように桐山は会津の父親の兄夫婦に引き取られ、そこでは決して毛嫌いされていたわけではないが、余所余所しさが常に伴い、従って桐山は体が大きかったこともあって喧嘩が強く、荒れた生活を送るようになる。 しかし私は両親が社会的弱者であったことが桐山を喧嘩好き、不良にしたのではないかと思う。社会に対して怯えながら暮らしていた両親とは違う自分、力こそ全て、強い者こそが正しい、周囲には決して舐められない、誰も俺をバカにできない、そんな絶対的な強さを求めた結果がケンカの毎日となり、プロボクサーの道に進むようになった、そんな風に思える。 つまり元チャンピオンという矜持で上から目線で他者に振る舞っていた桐山が初めて見せる彼の弱点、これがこの≪あけぼの荘≫であり、両親なのだ。 その桐山の弱点が最高潮に達するのが病院で入院中の父親を見舞った時だ。目の見えない桐山でさえ想像できる、何とも云えない無力な父親の姿。病院のベッドに暴れないよう両手を柵に縛られ、点滴を受けながら、オムツをされて寝ている父親。もはや息をしているだけの存在。そんな無力な存在が強くなった自分の原点、しかもそれを妻に見られることの羞恥心が最高潮に達する。 幸いにして私はまだ両親が寝たきりになっていないし、入院生活を続けているわけでもない。だからこの気持ちはよく解らない。子供の頃、絶対的存在だった親が、誰かの助けがないと生きてもいられない無力な存在と成り果てた時、私も桐山のような惨めな気持ちに苛まれるのだろうか。 やがてチャリティー番組の製作会社である≪平和テレビ≫のプロデューサー亀山から久岡、そして永井の周辺を探っていた組織たちが探していたのがあるデータの入ったフロッピーだった事が判明する。 何ともおぞましい事実。 いきなり宇宙の彼方へと飛ばされたかのような真相である。 しかし私も齢40も半ばを過ぎて世間に擦れてしまったのだろうか、この手の話にリアリティを感じなくなってしまった。 主人公は一介の元プロボクサー、その妻は元雑誌記者。男は勝ち気で短気でチャンピオンにもなったことから腕に覚えがあり、網膜剥離で盲目ながらも相手と拳で事を構える度胸を持つ。 妻は記者時代の人脈を活かしてあの手この手で一連の謎を探りつつ、昔取った杵柄で上手く相手から話を聞き出す術を持っている。 しかしとはいえ、彼らの相手に立ち塞がるのは巨漢の男や剣呑な雰囲気を湛えた謎めいた人物、大物政治家にテレビ局のプロデューサー、右翼団体に暴力団と、一般人にとって出来れば関わりたくない人物ばかりだ。 しかも彼らが謎を追ううちに、関わっていた人物が事故死していたり、そんな怪しい輩たちが手を下したと思われる死体が現れたりする。しかもいつもどこで調べたかも解らず、知らない人物から携帯電話にかかってきては脅迫の言葉が残される。 正直、普通の感覚を持っていれば寧ろ知らない方が身のためと思ってこんなヤバい仕事からは手を引くのが普通だろう。 彼ら、特に主人公の桐山拓郎の行動原理は自分が逢うことになっていた久岡なる人物がホテルの部屋で亡くなっていたことと、かつて自分のマネージャーだった友人の永井康介が突然交通事故死したことである。 この明らかに何かきな臭い事情が隠されている一連の事故の真相を知りたいというのが最初の動機であった。 そして次第に物事が桐山自身が育った施設≪あけぼの荘≫が絡んでいることが解ってくるのだが、それでも私だったら早々に手を引き、元の平穏な生活に戻るのが普通だろう。 作中妻の和子が3,4日の約束で、危険だと自分が判断したら調査は辞めると云ったのに、それを聞かないこと、そして行く先々で人が縛られたり、暴力沙汰が起き、終いには自分の夫も瑕を負って見つかること、得体のしれない大男と対峙したことが恐ろしくて堪らないと述べる。 これこそ真実だろう。 しかしそれでもなおこの夫婦は友人の死の背後に潜む陰謀を暴こうとするのである。 もはや市井の人々が関わる範囲を超えてしまっている。上に書いた理由があるとはいえ、なぜここまで彼らがしなければならないのか、終始疑問に思いながら読んでいた。 巨大企業、右翼団体、政治家、暴力団と蓋を開けてみれば実に危ない世界の面々が絡んだ事件だったことが明かされる。 そんな組織に盲目のボクサーが挑むとは何とも無謀な物語だったことか。 しかし本書で一番解せなかったのが桐山の妻和子という女性だ。 結婚前はある総合雑誌の編集記者をやっており、桐山とは彼への取材で知り合い、そして結婚に至った。当時チャンピオンとして、自分に云い寄ってくる女性は選り取り見取り、相手もその気で来るせいか、ちょっと誘えばすぐベッドインが出来る、つまり世界が自分の思いのままになっている無敵感を備えていた桐山の誘いを素っ気なく断った、度胸ある性格。 桐山が盲目になり、ボクサーを引退してからはタレント業に移行した彼をマネージャーとして支え、不具者特有の傲慢さを桐山が出してもグッと押し黙って耐え、桐山の意向に沿うように行動する献身な妻となっている。 正直主人公の桐山は上に書いたようにまだ若く、ボクサー時代の勝ち気で短気な性格が抜けきれず、敬語は使わず、しかも考えるより先に口が出る性格で、情報を極力与えずに相手の話を聞き出し、自分の切り札は最後まで取っておくのが定石の調査活動には全く不向きな男。盲目になっても自分一人でもどうにかなることを見せたがり、勝負の世界に生きてきただけに勝ち負けにこだわり、更には自分が障害者の両親の子であることを恥じて隠し、そんな過去を忘れたいがために親のことを何十年も顧みないという、読者の共感を得られるような人物ではない。 そんな自分勝手で大人になりきれない男にどうして才色兼備の和子が夫唱婦随の関係で桐山に連れ添っているのかが解らなかった。 前述したように、桐山が、自分の友人が亡くなり、また逢おうとした人物が何者かに殺されていたというだけの理由で命をも奪われそうになる危険な橋を渡り、事件の関係者たちから、貴方は関係ないからこの件から手を引くようにと何度も念押しされているにも関わらず、知らないでいること、門外漢に晒されることに我慢がならず、首を突っ込むのを止めないがために、和子自身も人の死にも遭遇し、また夫が暴力を受け、傷つくのを目の当たりにし、それに恐怖する。勿論そのことを夫に告げて止めるように促すが、結局は付いていく。 ここまでするほど、桐山という男に魅力があるとは思えない。 確かに世の中にはなぜこんな女性があんな男と付き合っているのか、結婚しているのかという組み合わせはある。この桐山夫妻もそのうちの1つであり、それは女でないと解らないからだろうか。つまり、放っておけない、私がいないとあの人は駄目だから、そんな理由なのかもしれない。 もしそうだとしても雑誌記者という、いわば理詰めで仕事を進める女性が、理屈でなく感情で桐山に献身的に連れ添う理由が不明で、読んでいる最中どうしても割り切れなかった。 桐山に連れ添うと云えば、親友の永井の妹留美もそうである。突然兄を亡くした彼女は桐山が姿を見せるなり、飛び込むように抱き着く。そして和子は留美の態度から彼女が桐山のことを好きなのではないかと推察する。つまりどこか桐山には母性本能をくすぐる魅力があるのかもしれないが、同性の私には彼がそれほど魅力的とは思えなかった。 タイトルに示す『梟の拳』は盲目のボクサー桐山が幾度となく彼らの前に立ち塞がった≪須藤グループ≫が放った刺客、名もない大男との決戦で、絶対不利の中、留美の機転で照明が消された中で見事にノックダウンしたその拳を指していることと思われる。 梟は夜目が利くが盲目の彼は目が見えない、しかし目以外の耳、その他五感で見て、拳を放つ。過去の栄光に縋って、失うことばかり恐れていた彼。勝つことのみに固執しながら、暗くなかったら俺の方が勝っていたと相手に云われ、それを認めたその時、桐山は変わったのだ。彼が得たのは盲目でも勝てるという矜持ではなく、勝ち負けなどはいらないという境地だったのだろう。 1995年に発表された本書。読み始めは盲目になった元ボクシングチャンピオンが徒手空拳で個人が組織と戦う、ハードボイルド小説を想像していたが、最後に明かされるのは原発建設に隠された国家的陰謀という実に重たい内容だった。 舞台となる24時間のチャリティー番組について例えば恰も寄付に駆け付けたかのように見える芸能人たちが企画の段階でスケジュールに織り込まれていること、寄付で集まる金額と同じくらい番組制作費にお金がかかっており、単に売名行為に過ぎないこと、など作者はあくまでフィクションであると断っているが、案外信憑性の高い話かもしれないと思わされる。 そして現在その安全性と存在意義が問われている原発とこちらもまた23年経った今もまだタイムリーな話題で、しかも内容はかなりセンシティブだ。 今読んだからこそ、響くものがある。またも私は読書の不思議な繋がりに導かれたようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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