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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数902件
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篠田節子氏の初期のホラー作品で第8作目に当たる本書は完璧な美を手に入れた整形美人と完璧な美を愛でるデザイナーの異常な関わり合いを語った作品だ。
登場人物はわずかに2人というまさにぜい肉をそぎ落とした作品で僅か220ページにも満たない中編とも云える作品だが、なかなか読み応えがあった。 まず主人公の名は麗子。苗字はない。幼い頃から器量が悪いために恋人はおろか、実の親からも疎まれてきた女性。 自分を生んだことで心臓病を患い、寝たきりの生活を強いられるようになった母親。それによって独立の夢を捨てた大手建設会社に勤めていた父からは「お前さえ生まれてこなかったら」と呟かれる。 高校2年の時に美術科教員に恋し、友人の一人がモデルをして抱きしめられたと聞き、自分も同じようにしてもらおうと教員の許を訪ねるが碌に見られもせずに相手にされなかったこと。 30を目の前にしてバンド仲間から求婚されるがその時の言葉が「俺もぜいたく言っていられない歳になった」だったこと。 そんな誰からも相手にされず、相手にされても常に見下されていた存在だった彼女は一念発起して大整形に踏み切り、完璧な美人顔を獲得する。 しかしそれがあまりに完璧すぎたため、人間味がなく、逆に畏怖と困惑の表情で迎えられてきた。とにかく何をしても裏目に出てしまう幸運に恵まれない女性、それが麗子だ。 その麗子を初めてまともに見てその美しさを礼讃したのが平田一向。新進気鋭の若手デザイナーで世間の注目を集めている彼は医学部を中退し、工学部に入り直し、在学中にイタリアのデザインコンクールで入選したことをきっかけに工学部も中退してデザイン事務所に就職し、今は独立して仕事を直接受けている。 彼はしかし完璧な美を愛でる男性だが、彼にはそこに生命の美しさを求めない。彼にとって人間の血や涙と云ったものは汚らわしいものであるため、即物的な美を常に求めるのだ。それには幼い頃に伯父がベネチアで買ってきた『解体できるヴィーナス』と呼ばれる完璧な美女を模した医学用の人体模型に魅せられたからだ。 それはまるで生きているかのように精巧かつこの世の中で最も美しいと思われる顔と姿を持ち、しかも人体模型であるから肌が外れ、その中にはきちんと内臓も備わっており、更に子宮と胎児すら収まっているという代物だ。それは血も膿も流さず、全く綺麗にその中身をも手で触れ、愛でることができるため、いつしか平田はそんな完璧で汚れなき美の存在だけを愛でるようになった。 しかし彼の前に現れたのが整形された麗子だった。彼は今まで人形だったその人体模型がリアルな人間として現れたと感じ、彼女に興味を持つ。 一方で麗子はそれまで畏怖と困惑でしか自分を見てくれなかった人たちばかりの中で初めて自分を見つめ、愛でる平田こそ自分が求めていた男だと思い、全てを擲ってまでも彼と一緒にいることを決意する。 平田はしかし麗子を求めはするが、求められると冷たく突き放す。 それは平田にとって麗子は完璧な美の存在であり、生きた人形であっていたかったからだ。彼にとって麗子が自分を愛すると云う感情は不要だった。彼は麗子の美に興味があり、そして金髪の腎臓模型のようにその中身に興味があったのだ。こんな完璧に美しい女性の中身をどうしても見たくて堪らなかったのだ。 はっきり云って平田は大いなる矛盾を抱えた存在である。 完璧な美を追求し、そんな人間を見つけて興味を覚え、その中身を見たいと熱望するが、そうすることで人体から出血し、生臭い臓物が出て、しかも食べた物が発する悪臭を最も嫌悪するのだから。 それはつまり好きな物は欲しくて、好きなことはやりたいが、汚れるのはいやという実に子供じみた我儘と大差ないと云える。 一方麗子もただ屈辱に甘んじていた女性ではない。 高校の時に全く相手にもされなかった美術科教員を逆恨みし、その教員と身体の関係を持ったと嘘をつき、その噂がもとでその美術科教員は転勤を余儀なくされ、その後もその噂が消えず、とうとう教員を辞め、婚約破棄になり、アルコール中毒で入院することになる。 また平田が夢中になっている人形に嫉妬し、平田を自分の物にするために地下室でその人形の服をはぎ取り、配管工事に来た人間にわざと見させ、平田の評判を貶めさせることを企むが、修理屋はそれをダッチワイフか何かと勘違いして性行為にまで及ぶのだ。 そう麗子もまた独占欲の強い人間なのだ。彼女は自分の手に入らないと思ったら嘘を平気でつき、更に運命と思えた男を手中に入れるためにはどんな手を使ってでも自分の方に目を向けさせるために罠を企むことをする。 それは彼女が平田一向との出逢いに運命を感じ、彼を最初で最後の男性だと強く思っているからだ。従って彼と世を捨てて2人だけで暮すことや、もしくはこのまま雪の中の山荘で2人で死ぬことも厭わない女性だ。 つまり彼女もまた盲目的に1人の男性を愛してしまう、ストーカー気質の危ない女性であるのだ。 この正常から逸脱した男女2人の出逢いはしかし最後価値観の違いからすれ違ってしまう。 ところで不気味の谷というのを御存じだろうか。 人型ロボットやCGアニメなどの技術が発展し、より人間に近い造形にしていくと人は徐々に好感を増していくが、あるところに達すると嫌悪感を覚えるようになる。その領域のことを不気味の谷と云うが、麗子の容姿はまさにその不気味の谷に位置する領域にあった。 それは彼女が単に外面的な美しさに囚われ、内面を磨かなかったからだ。いつも劣等感を抱き、時に強い嫉妬を抱いて復讐行為をする彼女は云わば心の無い人形に過ぎなかった。 人は見た目が9割だと云う。そして現実に美人の方が得するようになっている。 従って人は自分の容姿をできるだけよく見せることに努力をする。恵まれた容姿を持つ人の、自分の容姿に対する思いは様々だが、容姿に恵まれない人の思いは常に一緒で、より美しく、より端正になりたいと願う。だからこそ美容産業は衰退せず、今なお隆盛であり、毎年新たな化粧テクが生まれ、今や男性用の化粧品も市場が拡大してきていると聞く。 斯く云う私も美人が好きであることは正直に認めよう。 だがやはり人が惹かれるのは性格である。その人が纏う雰囲気こそが一緒にいたいと思わせるファクターであり、それが愛なのだ。容姿は出来れば美人であることに越したことがないという程度の方がいい。 とはいえ毎年世界各所ではミスコンテストが行われ、美を競い合う。また芸能界でも次から次へその世代を代表する美しい女性たちが現れ、世を魅了する。歴史の中でも1人の美人によって滅んだ国や美人によって身持ちを崩した偉人も数多くいる。 美の追求、それは永遠に終わらない世の理だ。 ただ幸いにして私は自分の人生を擲ってでも一緒にいたいと思った美人に逢ったことがない。それこそが幸せなことなのかもしれない。それほどまでに美は人を狂わせるのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々にウェクスフォードシリーズを手にした。シリーズ14作目となる本書は比較的コンパクトなシリーズの中でも比較的長めの460ページに亘る作品だ。
事件自体はショッピング・センターの駐車場で見つかったごく普通の夫人の絞殺死体の犯人を巡る地味なものだが、なんとウェクスフォードは途中で爆弾事故に巻き込まれて重傷を負うという派手な展開を迎える。 しかもそれが女優である次女のシーラのポルシェに仕掛けられていた爆弾だったことから一転して不穏な空気に包まれる。折しもシーラは自身が主演を務めるドラマが好調であったが、≪反核直接行動演技者連盟≫なる反核を推し進める俳優たちで構成された10人からなる小集団の活動の一環で英国空軍基地のフェンスのワイヤーを切ったことがニュースになっており、また離婚騒動の渦中でもあった。 さらにその後も彼女に手紙爆弾が送られ、更に不穏な空気は募る。 しかし爆発に巻き込まれながらも—というよりほとんど直撃と云ってもいいくらいだが—ウェクスフォードはタフな不死身ぶりを見せる。なんとその週の週末には退院して仕事復帰しているのだ。ページ数にして僅か80ページ。いやはやどれだけ頑丈なんだ。 そしてもう1つ大きなエピソードがあり、それは遺体の第一発見者でありながら、警察に通報せずに現場から逃走したクリフォード・サンダースと彼を容疑者とみなすマイク・バーデンの捜査を巡るうちに異様な方向へと向かう意外な展開だ。 このバーデンのクリフォードに対する執着は初めてウェクスフォードとの対立を生み出す。それについては後述しよう。 またメインの事件も実はウェクスフォードは目と鼻の先に遺体があったことを見逃す。事件現場であるショッピング・センターに妻のドーラの誕生日プレゼントを買いに行き、遺体の見つかった地下駐車場と同じ階に車を駐車していながら、そのまま素通りして家路につくのだ。つまりウェクスフォードはその時間に犯人に出くわした可能性もあるのだ。 遺体発見者と被害者を調べていくうちにそれぞれ特殊な事情を持っていたことが解る。 被害者のグウェン・ロブスンは関節炎持ちで自宅療養生活中の夫を抱えながらせっせと働く献身的な妻の様相を見せるが、これが次第に変わっていく。 彼女が働く理由は身体の不自由な夫の生活のためで、その世話好きの性格を買われ、隣人たちから色々所用を頼まれていた。足の爪を切るだけで5ポンドもの大金を与える老人もいれば逆に週100ポンド払うから家の面倒を見てくれと頼む金持ちの老人もいたが、その依頼は断っていた。 一方ですごいゴシップ魔でご近所の話をのべつまくなしにしゃべっていたという者もいれば、さほど近所付合いもしなかったのにある富裕な老人が遺言で自分に3000ポンドを譲ると云っていてそれには証人が3名必要だからサインしてほしいなどと厚かましく要求する。 これらの話からバーデンは被害者のグウェン・ロブスンが金に汚い人間であり、亭主のためだという口実でその行為を正当化していたと断じる。そして遺体の第一発見者のクリフォード・サンダースがかつて学生時代にフォレスト・ハウスという屋敷で庭師のバイトをしており、その同時期にグウェン・ロブスンがその家の世話をしていたことを知り、接点を見出す。 遺体の第一発見者であるクリフォード・サンダースはグウェン・ロブスンの遺体を発見したことで動転して自分の車に積んであったカーテンを掛けてそのまま車を置いて逃走し、家まで歩いて帰ってしまう。その理由はそれを母だと思ったからだという。 一方遺体の発見者として近所の老人に警察へ通報することを要請したその母ドロシーはカーテンで隠された遺体を息子の遺体ではと思ったという。 バーデンの捜査を通じてこの親子が少し変わった人物であることが判ってくる。 クリフォードはいわゆる大人になり切れない大人で心理療法士の診断を定期的に受けている。そして母親ドロシーは元々名家であったサンダース家に掃除婦として働いていたところを見初められ、玉の輿に乗ったのだが、その夫は実母と共に息子と妻を残して屋敷を出て離婚し、実母もほどなく病死した後、ドロシーはその後女手一つで息子を育て上げたのだった。 しかしそれは息子を寂しさゆえに自分の許へ繋ぎ留めておく執着が強くなったためにクリフォードは母親から自立できない大人になってしまった。 また被害者ロブスン家に世話をしに来る姪のレズリー・アーベルもまた捜査が進むにつれて不審な点が出てくる。 イギリスで広く読まれている雑誌≪キム≫で人気の人生相談のコーナー、サンドラ・デールの秘書をやりながら、関節炎を患った伯父さんの世話のために毎週ロンドンから通う姪。一聴すると実に献身的な娘を想起させるが、その外見は派手派手しい服装を好む美人で、おおよそ料理も得意でなく、料理に邪魔になるであろうマニキュアを塗った長い爪をした、当世風の娘である。 しかも事件当時のアリバイも綻びが出てくる。更に事件直前に彼女らしき若い女性と被害者がショッピング・センターで話しているのを目撃した店員や客が出てくるに当たり、そのメッキが剥がれていく。 とまあ、レンデルの人間に対する眼差しの強さはいささかも衰えない、実に読ませる作品に仕上がっている。 さて本書の原題“The Veiled One”は作中に出てくる容疑者の1人クリフォードの心理療法士サージ・オールスンが話す“ヴェールで顔を隠した人”、≪エンケカリムメノスの虚偽≫というエピソードに由来する。即ちいつも見ている人物もヴェール1枚包めばその人と認識できない別人になるという意味だ。 カーテンを掛けられた遺体はそれを発見した親子はそれぞれそれが母親だと思い、息子だと思ったと述べる。 人は皆仮面を被って生活している。いやここは本書のタイトルに合わせてヴェールを被っていると表現しよう。 外向けの貌と内向けの貌。外向けの顔が虚構に彩られたさながらヴェールを被った貌は自宅に戻るとそのヴェールをはぎ取り、本当の貌をさらけ出す。 いや、さらに秘密を持つ者は自宅においても他の家人たちに外向けのヴェールの下にもう一枚被ったヴェールのまま、相対する。これはそんな物語だ。 レンデルの紡ぎ出す物語はさながら様々な因果律が描くタペストリーのようだと今回も感じ入った。それぞれの人物が糸のように絡み合い、編み物のように丹念に織り込まれながら、惨劇という大きなタペストリーを見せるのだ。 ショッピング・センターの駐車場で起きた1人の婦人の死。 そこは様々な種類の店が並んだ複合施設。いわば複数の店という糸が寄り集まって出来たタペストリーだ。 そこにはいろんな店があるがゆえに色んな人も集まっていく。 それらの人たちが糸のように寄り集まり、やがて駐車場での絞殺死体へと収束する。 そしてその場に居合わせた人たちにはそれぞれ隠している過去があり、秘密がある。ヴェールを被って外に出ながら、そのヴェールを無理矢理剥がそうという人がいる。それが被害者のグウェン・ロブスンだった。 そしてそれらの過去や秘密によって新たな因果律が生まれ、惨劇へと発展していく。 この事件の容疑者について426ページからウェクスフォードが様々な事件関係者を容疑者に見立てて開陳する推理は誰もが動機があったことを思い知らされる。因果律の応酬だ。 それらを全て感想には書かないでおく。 事件とは即ち人生の変化点だ。それに関わった人物はもうそれ以前の人生とは異なる何かが起きるのだ。 勿論その関わり方の深さによってその何かの大きさは異なるだろう。 しかしそうであってもどうにか普通の暮らしを続けていた者たちにとってその些細な変化が多大なる影響を及ぼし、大きく人生を狂わせていく者もいる。 失敗を恐れ、自分自身のみの必然性に従ったために起きたのが今回の事件だ。いや、事件とは押しなべてそのように起きるものなのだが、レンデルの筆致はその当たり前のことを鮮烈に思い知らされる。それだけ登場人物たちが息づいているからだろう。あ ああ、やはりレンデルは読ませる。まだまだ未読の作品があり、そして未訳の作品がある。 人生劇場とも云えるレンデル=ヴァインの諸作がいつの日かまた復刊され、訳出されることを願う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ダークタワーシリーズ2作目。<暗黒の塔>を目指すガンスリンガーの旅路は彼と運命を共にする仲間を見つける物語だ。
この物語はどこか我々の世界との共通項を持つ不思議な世界を舞台、特に西部劇に触発されただけに西部開拓時代のアメリカを彷彿とさせるファンタジー色が強かったが、本書ではなんと我々の住む現実世界へガンスリンガーは現れる。 つまり単純なダークファンタジーに終わらず、本書の全般では<西方の海>に辿り着き、北へと向かったガンスリンガーが出くわす奇妙な扉を開けて、我々の住む現実世界の住民たちを<暗黒の塔>を目指す旅の仲間に選び、引き込むのだ。 彼の前に立ち塞がる黒衣の男ことウォルター・オディム、またの名を魔導師マーテン。この敵に立ち向かうために3人の仲間を集める。 なんというベタな展開か。少年バトルマンガの王道とも云うべきプロットである。 しかしそこはキング。この仲間が非常に個性的。いや通常の物語ならば恐らくは厄介過ぎて仲間になんかしたくない、清廉潔白とは程遠い素性の人物ばかりが登場する。 まず最初にガンスリンガーが引き入れるのは現代社会のニューヨークで麻薬の運び屋をやっているエディ・ディーン。彼は自身もヘロイン中毒者である。 次の仲間はケネディ大統領がダラスで暗殺されたのが3ヶ月前という1964年のニューヨークで当時としては珍しい裕福な育ちの黒人女性オデッタ・ホームズ。しかし彼女は地下鉄の事故で両足を切断し車椅子生活を強いられており、なおかつデッタ・ウォーカーという別人格を宿している。 3人目も実に曲者だ。成功した公認会計士でありながら、無差別殺人愛好者、つまりシリアルキラーのジャック・モート。そして彼の時代はオデッタがまだ幼い頃の時代に遡る。 ヘロイン中毒者でヤクの運び屋、両足を失くした二重人格の黒人女性、そして社会的に成功したシリアルキラー。どう考えても旅の仲間にはふさわしくない、いや寧ろ避けたいか、敵の配下にいるような人物たちがローランドが我々現代世界から選び出すことのできる仲間なのだ。 こんなことを考えつくのがキングが凡百の作家を凌駕する、突出した才能の持ち主であることの証左であるのだが、果たしてこんなまとまりのないメンバーを伴にしてどうやってこの先長大な作品を描くのかと読んでいる最中はモヤモヤさせられた。 しかしキングはこのあり得ない仲間たちを引き入れる結末を実に鮮やかに結ぶ。 このなんとも扱いにくい輩、もとい仲間たちの引き入れ方が実に変わっている。 この現実世界の対象人物たちがガンスリンガーの仲間になっていくそれぞれのエピソードがまた実に濃い。 例えば一番手のエディ・ディーンのエピソードはさながらギャング小説のようだ。 次のオデッタ・ホームズの場合はまだ黒人差別が顕著な60年代のアメリカで、両親の事業―歯科医療の技術開発事業―で裕福な生活を送る黒人女性の日常と、裏に隠された白人の黒人たちへの蔑視、更には陰険な嫌がらせがされる社会の様子が描かれる。 但しその嫌がらせの対象となっているオデッタが、デッタ・ウォーカーという悪意の塊のような性格のもう1つの人格を備えた二重人格者であるところがミソ。 そして白眉は最後の1人ジャック・モート。彼のエピソードではローランドが彼の身体を借りて1940、50年代のニューヨークを縦横無尽に駆け抜ける。 とまあ、三者三様の毛色の異なる短編が収められたような内容はまさに自由奔放なファンタジー。どんな方向へ物語が進むのか全く予断を許さない。 キングは頭の中に浮かぶ物語を思いつくままに紙面に書き落としているかのようだ。そしてそれを見事に<暗黒の塔>という大きな幹を持つ物語へと繋げる。 冒頭私はこのダークタワーシリーズを少年バトルマンガの王道のような作品だと述べた。 しかし読後の今はそのコメントがいかに浅はかなものだったと気付かされた。 この何ともミスマッチな仲間が最終的に強い絆を備えた3人の仲間へと着陸する物語運びには脱帽。 これがキングであり、やはり並の作家ではなく、少年バトルマンガの王道と断じようとした私の想像を遥かに超えてくれた。 そしてそれは人それぞれに生きている意味や役割があることを示しているようにも感じた。 さてこの<ダークタワー>シリーズはキングの小説世界の根幹をなす作品と云われているが、本書でも他作品とのリンクが見られる。 まずニューヨークのイタリア・マフィアのボス、エンリコ・バラザーと双璧を成すマフィアとしてジネッリの名が出てくるが、これはキングがリチャード・バックマン名義で刊行した『痩せゆく男』に登場した、主人公の手助けをするリチャード・ジネリ(同書表記)だろう。 私が今回気付いたのはこれだけだが、これからキング作品を読んでいけば、いやもしくは既に読んだ作品の中で私が見落としたキャラクターやリンクが既に盛り込まれているのかもしれない。特に気になったのはジャック・モートの章でローランドが押し入った銃火器店のオーナー、ジャスティン・クレメンツの存在だ。 また本書で覚えておかねばならないのはダークタワーの世界で使われる<カ>の定義だ。義務とか運命、人が行かねばならない場所を指す言葉だ。つまり人生における「決して避けては通れぬ」ものの意味だろう。 1巻目はイントロダクションとも云うべき内容で正直このダークタワーの世界の片鱗の中の片鱗が垣間見れただけで正直展開が想像もつかなかったが、本書においてようやくその世界観や道筋が見えてきた。そうなるとやはりキングが描くダークファンタジーは実に面白い。 これから<暗黒の塔>へ共に旅する運命の三人。彼らの運命がハッピーエンドに終わらないであろうことを示唆して物語は閉じられる。 絆は強まったが盤石の結束を持った三人ではない。そんな危うさを秘めた3人の旅はようやく始まったばかりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『スカイ・クロラ』シリーズ第3作。
時系列的には『ナ・バ・テア』の後日譚であり、『スカイ・クロラ』の前日譚である。まだシリーズは残っているのでそれらがどの位置に来るのかは不明だが。 さて本書は前作同様草薙水素が主人公で、前作でティーチャの指導の下、パイロットとして頭角を現した草薙水素はエースになっており、前作で仄めかされた指揮官への道が示唆される。 そしてそれは一介の戦闘機乗りとして空を飛ぶことを謳歌していた草薙に次第にその自由を奪っていくことになる。 草薙が本書で辿る道筋は我々社会人、いや大人全てに当て嵌ることだ。 夢を抱いてやりたいことを実現するために入社し、最初は上司の許で手法を学び、社会人として成長していく。 そしてめでたく頭角を現し、上層部から注目を浴びるようになると上に立つ立場の人間へと押しやられる。しかしそこは会社の経営や政治的な仕事が多くなり、次第に本来やりたかった仕事からは遠ざけられ、相手との折衝や腹の探り合いなどの毎日が続く。 理想と現実のギャップ。 本書における草薙水素はまさに大多数の社会人が抱く、いつしか夢を喪失し、現実に直面せざるを得なくなった社会人たちの姿だ。 恐らくこれは森氏の心情そのものなのだろう。建築を学びたいと大学に入り、そして更にその道を究めたいとそのまま大学で研究を続け、その成果が認められて助教授になるが、やることは学生たちや後進への指導と会議ばかり。なかなか研究に没頭できなくなる。 何かをやりたいというのは子供の頃から持つ願望だ。だからこそ森氏は本書においてキルドレという永遠の子供を設定したのではないか。 本書の中でも草薙水素が吐露する心情の中に、「もう子供ではないのだから」という理由で搾取されてきた数々の想いや物が述べられる。 楽しいだけで過ごす毎日が子供の時代でそれを終えるのが大人の時代の始まり。子供の小さい世界が大人になるにつれて大きく広がっていくのに逆にやりたいことや出来ることは狭まっていく。 子供の頃、「それは大人になってからね」と云い聞かされ、大人になったら色んな事が出来るのだ、早く大人になりたいと願いながら、実際に大人になってみると周囲に合わせ、自我を通そうとすると疎んじられ、望まれもしないことを出来るから、挑戦だという理由でやらされ、やりたいことが出来なくなり、やらなければならないことばかりが増えていく、この大いなる矛盾。 しかしでは永遠の子供キルドレは純然たる自由を愉しんでいるのかと云えばそうではない。子供でありながら、大人の世界に生きる彼らは次第に純粋さを奪われていく。 草薙水素のようにただ飛行機に乗り、敵と戦い、勝つことだけが楽しくて続けてきたキルドレ達もやがてこの単純なサイクルに嫌気が差してくるようだ。来る日も来る日もやりたいことを続けるのもまた苦痛であるらしい。 不死の存在でありながら命のやり取りである空中戦に望む彼ら彼女らはその無限のサイクルを止めるために無謀な戦いに挑み、そして散っていく。そうすることしかそれを止められないからだ。 大人になることの不自由さを謳いつつ、一方で子供であり続けることの絶望も描く。 そのどちらも備えた草薙水素はなんと可哀想な存在なのだろうか。前作では人生の苦みと空に飛ぶことの愉しさを知った草薙が本書で第1作に繋がる絶望への足掛かりを付けるのが何とも痛々しい。 そして本書では第1作の主人公カンナミ・ユーヒチと草薙水素の邂逅が語られる。この2人のシーンは実に意味深でしかもまた官能的でもある。 またカンナミ・ユーヒチはまさにパイロットのサラブレッドだ。これを知った上で再び『スカイ・クロラ』を読み返せば、草薙水素の第1作での厭世観の本当の意味が立ち上ってくるに違いない。 また本書では上司の甲斐の心情も大いに語られる。前作の後半で出てきた彼女は草薙の精神的支柱となっている。 若い女性でありながら本社の上層部との調整役を担っている彼女は男性社会の中で女性というハンディを感じ、悔しい思いを抱きながら、今に見ていろの精神でのし上がってきたことを述べる。そしてエースパイロットとして徐々に一介の戦闘機乗りから指揮官への道を歩まされる草薙に対し同じ女性として良き理解者であろうとする。 草薙は逆に上に上がりたくなく、このままずっと戦闘機に乗り、戦いたいのだから。 会社の中で上に上がることを諭した甲斐は草薙から自由を奪っていくことを促したのとさえ云えるだろう。 大人と子供の世界の齟齬がここには表れている。 また本書では草薙たちが所属しているのが軍ではなく会社であることが判明する。つまり一介の民間企業が戦闘を行っているわけだ。テロでもなく国から雇われて敵国との戦いを行っているということだ。つまりもはや軍隊も民営化され、そしてその強さを見せることで多くの国にアピールし、契約を勝ち取ることが出来る、そんな世界のようだ。だから会社は腕の立つパイロットを重用するのだ。 また私がいつも不思議だと思うのはどうして飛行機乗りでもないこの作家がこれほどまでに戦闘機乗りの心情や飛行シーンをパイロットの皮膚感覚で描写できるのかということだ。 例えば命のやり取りをしている戦闘機乗り草薙は相手を撃ち落とそうという気持ちはあるのだが、それが相手の命を奪うことに直結していない。彼女にとって戦闘は命のやり取りではなく、己の技量を試すゲームなのだ。ほとんどTVゲームの感覚と云っていいだろう。このことについてはまた後ほど語ることにする。 一方で物語の冒頭で出くわす敵のパイロットは自機が損傷を負いながらも執拗に戦いを止めず、奇策を弄して草薙機に一矢報いる。このように単に技量の比べ合いに終始せず、命の取り合い、戦いに勝つことに執念を賭けるパイロットも出てくる。 また草薙がパイロットの卵たちに講習をするシーンで語られるコクピットの様子は実に生々しい。 一見カッコよく見える戦闘機乗りはその実コクピットの中では敵機を見つけるために左右上下に終始首を振り、時には風防に顔を押し付けて空を凝視する。そんな泥臭さが戦闘機乗りの仕事であり、そしてそうやって彼らは生還してきたのだ、と。 よほど綿密な取材をされたのか、はたまた知り合いに自衛隊のパイロットがいるのか解らないが、まさに“それ”を知っているものでないと書けない叙述だ。 そして最たるのは飛行シーン、戦闘シーン。それらの描写で短文と改行を多用し、ページの上半分のみを文字で埋めた書き方だ。 前作、前々作の感想でも述べているがそれがまさに読んでいるこちらが主人公と共に戦闘機に乗っている感覚が得られる。しかもその内容は実に専門的で実際のところ、どんな技術が行われ、どんな風に飛んでいるのかはマニア含め、その道に通じている者にしか十分に理解できないはずなのに、なぜか頭の中にその一部始終が映像として浮かぶのだ。この筆致はまさに稀有。 草薙が行った講習の聴講生の中にかつての同僚、比嘉澤無位の弟がいた。彼は草薙の講習が終った後、最後に握手をする。目に涙を浮かべながら。 草薙はその意味が解らない。逆にその距離感に嫌悪感すら覚える。 既に書いたように彼女に戦闘と命のやり取りは別物である。従って戦闘に敗れ、それによって墜落し、死に至ることはゲームに負けた結果に過ぎないのだ。 それは空中戦が首を絞めるとかナイフで刺すといった直接的に人を殺すような行為でなく、ミサイルを放ち、機銃を撃って対象を撃破するという物体の破壊であるからかもしれない。破壊された物は血が噴き出るわけでもない。命を奪う行為でありながら罪悪感から切り離されているのは単に戦いという意味だけでなく、この距離感に由来しているからではないか。 一方で姉を喪った草薙の弟は貴重な人である。彼が草薙に涙を浮かべながらも握手を求めたのは彼女の講習にパイロットとしての凄さを感じ、こんなすごい人に最期を看取られた姉は幸せだと感じたからではないか。エースパイロットとして卓越した技量を持つ彼女と共に戦闘に挑んだ姉は草薙ほどには達していなかったからその死は仕方がなかったと諦めがついたからではないか。 だから彼は草薙に感謝し、握手を求めたのだ。 しかしキルドレである草薙は死もまた憧れであり、死を悼むという感覚が解らない。それが解るのはティーチャに実際に自分の手で引導を渡した時だろう。 ティーチャの戦闘機に黒猫のマークがあることが解った時にこの戦闘の結果が解ったのだが、もし第1作でカンナミがこの戦闘機を撃ち落としていたら、そしてそれを草薙が知ったらと考えるとちょっと戦慄を覚えてしまう。 本書でまた新たなキャラクタが登場した。 最初に草薙と戦闘を交え、奇策で草薙を射止めたジョーカの異名を持つリバーという名のかつてのトップ・エースパイロット。 勝つことに執着する彼は今後また草薙の前に現れるのだろうか。 そして新聞記者の杣中。マスコミという忌み嫌われる商業に就きながら、一途に草薙の身と立場を案ずる彼は草薙も好感を抱く。彼はキルドレである草薙が会社に、政治に利用されようとしているのを察知し、記者であることを度外視して彼女を追いかける。 Down To Heaven。天は上るものであるのに草薙水素にとって天は墜ちていく先に辿り着くところであるらしい。 本書の表紙の色グレイは草薙が墜ちていく空の雲の色を指す。戦闘機乗りの草薙が死ぬべきところは地上ではなく空。空に墜ちて死ぬことこそが本望。 しかしその時の空は雲に覆われた灰色の空で希望はない。希望が無くなった時に墜ちる空は灰色。空を泳ぎ(スカイ・クロラ)、全き空の只中(ナ・バ・テア)に辿り着き、そしてそこへと墜ちていく(ダウン・ツ・ヘヴン)。 草薙水素が絶望に明け暮れる序章の巻。その時が訪れるまで草薙水素よ、ただただ楽しく飛び続けてほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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直木賞作家でハードボイルドの先駆者と呼ばれながら、数々のジャンルで傑作を物にしている昭和を代表する作家の1人、結城昌治氏。その彼のデビュー長編である本書は意外にもユーモアミステリであった。
しかも本書は数少ない結城作品の中でも貴重なシリーズキャラクター、郷原刑事が登場する1編なのである。 郷原刑事物は本書を含めて3作あるとのこと。デビュー長編に登場した刑事を主人公に書き継いだというのが結果かもしれないが、本書における郷原刑事は立派なひげを蓄えた名刑事として名の知られている事や家に拾ってきた野良犬を17匹飼っているといった特徴づけがなされていることから当初からシリーズ化する意向はあったのだろう。 さてユーモアミステリと云っても扱っているのは殺人事件であり、多数の刑事が登場する警察小説でもある。しかし名刑事と呼ばれている主人公の郷原刑事の、ところどころに挟まれる吐露する心情などが非常に人間臭いところ、そして何よりも捜査の対象となる独身女性殺人事件の容疑者がおしなべてひげを生やしているという妙味にある。 そして上述のように捜査を担当する郷原刑事もまたひげを蓄えた刑事であり、とにかくひげ尽くしのミステリとなっているのだ。 さてこのひげ、男性にあって女性にないものの1つである。 ひげ。 この男性性の象徴ともいえるものに対し、結城氏はまず物語の冒頭で簡単なひげの歴史とひげに纏わるエピソード、そしてひげが内包する意味などを語る。 最近私は平成における男性がひげを生やすことに対する意識の変化について書かれたウェブ記事を偶然ながら読むことができた。そこにはおおむね次のように書かれていた。 戦国武将の時代ではその威光を示すために生やしたとされるひげは高度経済成長を迎え、サラリーマン社会となった昭和では身だしなみを整えなければならないという観点から男性はひげを剃り、常に清潔であることを強要された。 しかし平成になり、無精ひげを生やしても清潔感が滲み出るタレントが多く出たことからひげを生やすことに抵抗がなくなり、無精ひげも違和感なく受け入れられるようになったという。 しかし最近では男性も女性のように美しくあることを求めるようになり、再びひげを剃る風潮になってきたが、以前と異なるのはひげを剃る道具類に美肌効果やひげが生えにくくなる成分が加味され、常につるつるの美しい肌をキープできるのが若者の間で流行っている、といった内容だった。 まあ、この記事の内容の是非についてはそれぞれ異論はあろうが、だいたいの流れは掴んでいると考えられる。 従って本書においてひげを生やした男がいやに強調されるのは上の記事でも語られているように、男にひげを剃ることが求められていた時代だからこそ、事件の関係者・容疑者がひげのある男たちであるところが面白いのであろう。 また男はひげに対して特別な思いを抱きがちだ。 例えばスポーツ選手は調子がいい時はそれが続くことを願ってわざとひげを剃らないでいるし、また逆も然りで調子が悪いとトレードマークと云われるまでに伸ばしていたを心機一転とばかりにばっさりと剃る者もいる。 また出世して要職に就くと威厳と自身の心構えを変えるためにひげを蓄える人もいれば、ひげがあることで男ぶりが上がるのでわざとひげを生やす人もいる。 またある人は相手から表情を読み取りにくくするためにひげを生やすことを選択する。 本書もその例に漏れず、ひげを生やす人物は転職をして心機一転する者やチンピラの親分となって若いながらに威厳を保つために生やす者など出てくるし、出所して新生活のために逆にそれまで生やしたひげを剃る人物も出てくる。 さてひげ、ひげ、ひげと自分で書いていてもしつこくなってきたので本書の感想に戻ろう。 アパートの一室で亡くなった女性の部屋を訪れた男を目撃者はべレエ帽をかぶり、灰色のコートを着たひげの男だと証言するが、なぜか歩き方についての証言が人によって異なっていた。 更にひげを蓄えた被害者の周囲に浮上する3人の容疑者達。物語の終盤、その3人を尾行する警察は悉く巻かれるに当たり、俄然容疑は濃くなっていく。 しかし犯人は意外なところから出てくる。 結城氏は作家になる前は東京地方検察庁に事務官として働いていた経験があるからだろうか、本書に描かれる郷原刑事たち捜査陣たちがやけに人間臭く感じるのは、それを目の当たりにした経験が存分に活かされているのだろう。 特に捜査会議にマスクをした身元不明の人物が紛れながら、警察側、検察側それぞれがどちらかの関係者だろうとして放置するシーンは今までのミステリでも前例のない奇妙な展開でありながら、妙なリアルさを感じる。ちなみにその正体は探偵の香月栗介だったわけだが、当時の警察の一風景を切り取った珍エピソードではないだろうか。 しかし昭和を代表するミステリ作家結城氏もさすがにデビュー作はまだまだ粗さが目立った。ひげのある男たちが登場しながら、もう少しひげについてガジェットを豊富にしてほしかったし、郷原刑事の猫好きもあまり物語に寄与しているとは思えない。 そして最たるものは延々25ページに亘って香月栗介による事件解明の講釈が書かれていることである。しかも見開き目いっぱいに文字が埋め尽くされ、ずっと事件の発端から犯人断定に至るまでの推理の道筋が続くのである。 これは今では作品を応募する新人でもしないことだろう。大作家も人の子であったと思わされた場面であった。 さて令和最初の読書はなんと平成でもなく昭和34年に書かれた昭和を代表する作家の1人のデビュー長編となった。しかも意図してこの作品を選んだものではなく、たまたま読む順番にこの本が巡ってきたのだ。 元号昭和と同じ漢字が使われた新元号令和の1冊目に本書を読むことになったのは何かの啓示だろうか? 私も50に近づいたことだし、まずはひげでも生やしてみようか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2000年発表の本書はあの怪作『ダブルイメージ』の後に書かれた作品であったので、こちらも変な捻りが加えられた作品かと思ったが、さにあらず、絶大な力を持つ悪の首領に囚われの身となった美貌の姫を救いに悪の巣窟へ乗り込む、昔ながらの英雄譚をモチーフにした潜入及び脱出行の物語だ。
デリク・ベラサーという武器商人をCIAが挙げるべく、かつて軍のヘリコプター操縦士で名の知れた画家であるチェイス・マローンがその巣窟に潜り込み、彼が依頼された肖像画のモデル、ベラサーの妻シェンナを救出する。しかしそこからは絶大な権力を持つ男からの男女2人の果てしない逃亡が繰り広げられる。 このデリク・ベラサーという男が実に強烈だ。 圧倒的な威圧感を持ち、先祖代々からの武器商人で決して足を出さず、世界中にコネクションを持ち、武器を売りさばいて戦争を起こしている男。そして自分の欲望を満たすためには手段を選ばない。妻の肖像画作製の依頼をマローンが断ると、家と土地を買い取り、彼のお気に入りのレストランも買い取り、更に彼の作品を扱う画商も作品ごと丸ごと買い取り、マローンの作品を世に出さぬために倉庫に入れようとする。 更に彼が異常なのは美しいものに異常な執着を持ち、妻が年齢によって美貌の衰えを見出すと肖像画と裸体画を残して事故死を装って殺害し、新たな美しい妻を手に入れる。まさに現代の青ひげである。 彼のこの異常な執着は彼の妹で、30歳の時にホテルのバルコニーから転落死したクリスティーナ・ベラサーに起因している。 またこの男、61歳でありながら40歳後半ぐらいにしか見えない若々しさと、反動の大きく、元軍人のマローンでさえ扱うのが困難な威力の強い機関銃をやすやすと使いこなし、逆に銃が壊れるまで撃ち続けることが出来る頑強な肉体を持つ。 更に気に食わない者には簡単に暴力を振るう、しかも徹底的に。 ただしそんな完璧主義の彼も唯一弱点があり、それはインポテンツであるということだ。従って美しい妻を持ちながらも決して夜の生活は共にしない。男性性を遺憾なく発揮する精力溢れるこの男がなぜこのような弱点があるのかは明示されないが、恐らくは上に書いた妹クリスティーナが原因のようだ。 ベラサーは両親を早くに亡くし、14歳で1つ下の妹クリスティーナと愛人関係になる。毎日パーティ三昧の日々を送るが、クリスティーナは自由奔放な女性でベラサー以外の男とも寝ており、それを発見したベラサーが怒りのあまりにホテルのバルコニーから彼女を突き落としたのだ。愛が深すぎるがゆえに裏切られたことを知った時の怒りは倍増だ。彼は感情が強すぎるため、愛情も深く、また憎しみも深くなる。 だから彼は妻が美しくなくなるとその反動で憎しみが増し、殺してしまうのだ。 そしてもう1人鮮烈な印象を残すのはその妻シェンナだ。本書の原題“Burnt Shenna”は彼女の肌の色、赤褐色を指す。 このマローンをして、今まで見た中で最も美しいと称されるこの妻はかつてはトップモデルであったが、その境遇は不遇だ。 イタリア系アメリカ人の両親の許で生れた彼女はイリノイ州にいたが12歳で両親を亡くし、引き取られた叔父のところではセックスを強要され、ある日それが嫌で家を飛び出し、シカゴでモデル学校に入り、モデルの仕事を始め、一躍トップモデルになる。暴力を振るうボーイフレンドとコカインでボロボロのところをベラサーに引き取られ、病院で手当てを受けた後、結婚したが、初夜でベラサーが上手く行かなかったときから、彼女は単なる彼にとっての威光と商談をまとめるためのマスコットに成り下がった。一人で外出は許されず、ベラサーとのみ外出が出来る、まさに城に囚われた美しき姫君だ。 そしてその絶大なる美貌ゆえにマローンとの逃亡行においても常に注目を浴びることになり、逃亡先ではメキシコ軍人の大佐に目を付けられ、身体を求められたりもする。 そして主人公のチェイス・マローン。 元軍用ヘリコプターの操縦士で、小さい頃から絵を描いていたことから退役後画家になり、その独特な生命力溢れる風景画はたちまち世間の耳目を集め、作品が高額で取引されるようになり、絶大なファンも生まれ、その1人クリント・ブラドックは彼の逃亡のために気前よく100万ドルを貸し与える。 元軍人であるから銃火器の扱いにも長け、また格闘術も心得ている、まさに絵に描いたようなヒーローなのだが、人に利用されたり、人から命令されたりすることが嫌いで、CIAの作戦協力のみならずベラサーと、とりわけその部下アレクサンダー・ポッターとも常に反目する。 この辺はいわゆる聖人君子ではない男をヒーローにする作者のキャラクター造形だろうが、いちいち素直に話を聞かない、指示に従わない彼の姿にいささか辟易させられた。 またマレルは彼を設定上の画家にせず、彼の作風や創作風景を丹念に描いている。私はそこが実に興味深く読めた。 シェンナの肖像画を描く前に何百枚ものスケッチを描き、キャンパスではなく薬液を塗りつけたベニア板に絵を描くテンペラという画法、卵の黄身からモデルの最たる特徴である赤褐色の絵の具を作る一部始終など実に専門的で面白い。 また人の絵を描くことはそれ自身無言の対話だ。画家は絵筆に対象の内面を描こうとまるで心の中まで見透かすかのようにじっと見つめる。 一方モデルはたった1人の男にそれまで経験したことがないほどじっと見つめられる。今まで隠していた心の在り様すらも見られるかのように。 それはいわば直接的接触のないセックスに似ているのではないか。純粋に対象を見つめ合い、お互いを理解し合う、この絵を描くという行為は精神的に最も深く愛情を感じるひと時なのかもしれない。 従ってマローンとシェンナもまた恋に落ちる。 ヘリコプターを奪い、しつこく追ってくるベラサーを振り切り、ニースまで出て指定されたカフェに入るが既にCIAはいなかった。なぜならベラサーによってマローンによく似た体格の身元不明の死体が打ち上げられ、更にマローンの家は既に跡形もなくなっていたからだ。 しかしどうにか元相棒のジェブに連絡が付き、アメリカへ渡り、CIAの隠れ家で一息つくが、そこにベラサーの追手が駆け付け、再び逃亡が始まる。CIAの中にベラサーへの内通者がいると睨んだマローンはしばらく隠遁生活を送るためにバハカリフォルニアに辿り着くが、そこのメキシコ軍の大佐に目を付けられ、身元調査をされた痕跡から再びベラサーに居所を知られるところになり、リンチに遭った後、シェンナは連れ去られる。 満身創痍の中、ジェブに拾われたマローンは自分のファンから貰った100万ドルを元手にジェブとその傭兵仲間を雇い、ニースのベラサー邸へシェンナを救いに向かうのだ。 なんとも目まぐるしい展開だ。いや寧ろこのような展開こそが今の小説には必要なのかもしれない。 マレルの描く冒険小説は上に書いたように昔からよくある英雄による美しき姫君の救出劇であり、悪人は現代の青ひげとも云える精神異常者なのだ。この古来からある設定に冒険活劇と起伏あるストーリー展開を肉付けした、純然たる冒険小説と云えるだろう。 少年ジャンプの三原則は友情、努力、勝利だったが、このマレルの作品はまさにこの三原則に沿って書かれた物語だ。 友情は即ちマローンをCIAの作戦に誘った元副操縦士で戦友のジェブ・ウェインライトだ。彼はどんな時もジェブを見捨てず、最後はCIAの身分を離れてマローンの一私兵としてベラサー殲滅に協力する。最後にマローンの許を訪れるのも彼だ。 そしてこの三原則に大人の読み物であるので、ここに男女の愛情が加わるわけだが、実はこの愛情こそが本書では最も濃い。 ベラサーの美しい妻に対する強い執着は自分で亡き者にしてしまった妹に対する終わらぬ愛情が歪んだ形で残ってしまったゆえの物である。 そして主人公のチェイスがシェンナに抱いた愛情はこの上なく濃いものとして終わる。 題名に冠せられたシェンナの美しさはただマローン一人だけのもの、そしてその美しさは、ベラサーが30歳で期限を切ったが、マローンにとって永遠なのだ。 本書が平成最後に読み終わった本となった。 評価は7ツ星だが実は7.5ツ星と少し高い。典型的な冒険活劇の中にちょっぴり苦く切ない男女の恋の結末が含まれていたのが収穫だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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山口氏が本格ミステリ界のボブ・ディランと称した巨匠島田荘司氏は御手洗シリーズ第50作目にしてもその奇想度が全く衰えない。
今回は曰く付きの盆栽が置かれた屋上から突然人が飛び下りる不思議な事件を解決する。 いやはやよくもまあこんな話を思い付いたものだと感心した。先の山口氏のキッド・ピストルズの短編集の感想で私は偶然や予想外の出来事が起こることで不可能的状況が生まれるインプロビゼーションの妙が面白いと評したが、流石は巨匠島田氏、そんな山口氏の作品を遥かに凌駕する想像を超えた偶然をこれでもかとばかりに導入し、我々読者を上に書いた不可解事の世界へと誘うのだ。 物語のパートは大きく6つに分かれる。 まず物語の舞台となるU銀行の屋上に敷き詰められた盆栽の経緯について語る、夭折した若き盆栽家安住淳太郎の生涯。 そして田辺信一郎という青年のまるで階段を転げ落ちるかの如く、人生が転落していく様を描いた“苦行者”の章。 そして次から次へと行員が不審な飛び降り自殺を遂げるU銀行の“屋上の呪い”の章。 更にこれまた人生の落伍者である菩提裕太郎という40の独身男がたまたまサンタクロースの衣装を着たままU銀行に入り、銀行強盗に間違えられるまでを描いた、喜劇のような勘違いが連続する“サンタクロース”の章。 そしてU銀行員である“行き遅れ”OL岩木俊子が田辺信一郎と奇妙なシチュエーションで出逢う“宇宙人”の章。 そしてようやく御手洗潔が事件に乗り出し、真相を解明する“馬車道”の章。 いつもながら島田氏は社会の底辺で生活苦を強いられている人々や社会に馴染めない青年の話を事件に絡めて単なるミステリで終わらぬ、格差社会の矛盾など社会問題への提起を物語に含め、半ば作者の主張のような内容を盛り込むが、今回事件に関係する田辺信一郎と菩提裕太郎の2人は正直云って自業自得とも云える自分勝手な振る舞いと解釈とで生きていったがために社会から転落した男たちである。彼らは物事が上手く行かないことに自身の性格や考え方に問題があるのに、社会や他者のせいにすることで溜飲を下げ、そして脇の甘さから物事を悪化させていく。 例えば田辺信一郎。彼は大卒でありながら落研に所属し、碌に授業に出ず、寄席通いに精を出していたことで就活に失敗し、Y家電という量販店に入ったものの、典型的なブラック企業でその悪環境から逃げ出すように辞職し、その後転々と友人たちの家に泊めてもらう流浪生活を送った後、偶々見つけた社員募集のチラシに惹かれて入った不動産会社にルックスの良さでその女社長に気に入られ、就職したような人間だ。 しかも辞職後の放蕩生活の時によく見ていたピンク映画の影響で図らずも電車の中で痴漢を働き、捕まりそうになったので逃げ出し、更には時間つぶしに入ったショッピングビルで便意をもよおして誤って女子トイレに入り、危うく痴漢に間違えられそうになったところを必死で窓から飛び降りて逃げ出すという体たらく。 一方菩提裕太郎も生まれつき大きな身体を持っていたことで高校・大学と柔道である程度名を馳せ、その勢いで大手貿易会社に就職し、実業団柔道を続けていたがアキレス腱断裂で柔道選手の将来を絶たれ、体育会系の社員にありがちな横暴な生活が災いして上司とぶつかりそのまま辞職。 その後は自分が柔道だけが取り柄だったことに気付き、何もしても上手く行かず、40になっても独身で安アパート暮らし、バイトで日々の生計をようやく繋いでいるといった社会的弱者でありながら、大酒喰らいに粗暴な性格を直せず、社会に順応できずにいる。 いずれも大学まで出ていながらその後の人生を破綻してしまい、社会の底辺で管を巻き、不平不満と鬱屈した思いを抱きながら生きている底辺の人々だ。 また一方で岩木俊子のように容貌に恵まれず、行かず後家として銀行内の男性社員のみならず女性社員からも白目で見られながら、大阪出身のマイペースで明るい性格で周囲を感化する女性の心情も描く。 人前では明るく振る舞いながら、人一倍結婚願望が強いのに自分の容貌ゆえにそれが叶わず、男性に対して押しの強さを見せるものの、いつも付き合いまで発展せず、約束も反故にされることに慣れ、異性が自分に興味を持つことを期待しないようになった健気な一面が妙に心を打つ。 それら事件に関わる市井の人々を詳らかに、そしてやや饒舌に描く。その内容はいずれも我々の周囲に見かける普通の人々であり、読んでいる最中読者それぞれにモデルが浮かび上がることもしばしばだろう。 モデルと云えば最近の島田氏はモデルが特定できるような実在する企業をモチーフにしてこれら登場人物たちの背景を語ることが多くなってきている。 この前読んだ『ゴーグル男の怪』に登場する臨界事故を起こした住吉化研はもろJCOだし、今回登場する製菓会社プルコはその発展の礎となったおまけ付きキャラメルからグリコであることが容易に想起され、また登場人物の1人田辺信一郎が辞職する体育会系の家電量販店Y家電はヤマダ電機がモデルであろうことは容易に想像がつく。 思わず脱線してしまったので話を戻そう。 死にそうにもない社員が次々と会社の屋上から身を投げ、自殺することで呪われた銀行とまで云われるようになったこの怪異な事件を御手洗は快刀乱麻の如く解決する。 しかも本書は久々の、実に久々の読者への挑戦状が付いており、今回はそこで作者自身(語り手の石岡自身?)が述べているように、事件の背景となったそれぞれの登場人物の背景について語られており、今までの挑戦状付き作品よりも推理する材料は与えられていると感じた。 従って私もこの挑戦状を読み流さず、敢えて受けて立つことにした。 さてその真相は90%合っていたと云っていいだろう。豪腕島田ならではの、アクロバティックな事件の真相は本書でも健在。 しかし本書では文庫版の表紙が全てを物語っている。読み進めるうちにこの表紙も絵解き物として理解が増してくるのだ。 しかしそれでもU銀行とあさひ屋など隣接する2つのビル、そしてこの大型看板の位置関係は簡単な平面図が欲しかった。U銀行の屋上からは大型看板の裏側が見えるだけという一文でそれまでモデルとなった道頓堀のグリコの大型看板をイメージしていた私に混乱が生じた。 実在する看板のようにビルの壁一面に貼り付けられているようにイメージしていたのでその裏側が見えることに違和感を覚えたのだ。 また重箱の隅をつつくようで恐縮だが、以下の2点について触れておこう。 本書は短編集『御手洗潔のメロディ』所収の短編「SIVAD SELIM」の後の事件、つまり1991年の1月ごろの話となっている。しかしその時代だと、例えば田辺信一郎のエピソード“苦行者”の章で彼がY家電に入社し、労働省が「過労死ライン」を設定し、通達したとあるが、この通達は2001年12月に行われており、1991年の時点ではそれがなされていないため、時制が異なるのだ。 またプルコの看板を点検する際に御手洗が小鳥遊刑事にクレーンを呼ばせて道路を一部通行止めにするが、この場合は事前に警察に道路使用許可を申請して許可を得なければならないので、本書に書かれているようにはできないので注意が必要だ。 本書は冒頭に若き盆栽家の不遇な一生とそれに纏わるある大女優の悲惨な末路と遺された盆栽に纏わる連続する怪死事件と云う幻想的なエピソードを排し、更にそこに田辺信一郎という男と菩提裕太郎という社会的落伍者の不遇な歩みを彼らによって引き起こされる奇妙な出来事、更に事件の舞台となるU銀行界隈で起こるしがないラーメン屋と仏具店の主人が相次いでロールスロイスを買い、デパートのレストランのシェフが急に羽振りが良くなるという奇妙な状況、そしてそのデパートの4階の女子トイレで幽霊騒ぎが起きるなど、色んな噂話を放り込んでどんどん読者を引き込んだ後、それらが全て合理的に解決するというかつての御手洗シリーズの従来のスタイルを復刻させた作品であったことは喜ばしい。 しかも新作が刊行されるたびに重厚長大化が増していた頃と違い、導入されるエピソードもほどよい分量である(それでも540ページほどはあるが)。 この原点回帰のような健筆ぶりは評価したいが、先にも述べたように特定の企業をモデルにしたエピソードが正直事件に寄与しているとは云い難く、作品の怪異性、もしくは読者の興味を他へ逸らすためのミスリードのために盛り込まれているようにしか感じられないのは正直不満だ。書かれている内容は決して好意的な物でないため、実在する企業に対してそれは失礼であろう。 また元々の題名『屋上の道化たち』から『屋上』と非常に素っ気ないタイトルに変更したのも気になるところだ。 島田流本格ミステリが味わえるのは大歓迎だが、上に書いたような些末なミスや創作作法にいささか不満が残った。 特に上に書いたような時代考証の齟齬や公共機関への届け出の不備などは校閲の段階で指摘すべき点であろう。それは寧ろ出版社の務めだ。 島田氏が巨匠になり過ぎたために意見できないようになったのか。もしそうならばそれはそれで出版界も衰退していくだけだろう。本作品は単行本からノベルスを経て既に3度目の刊行でありながらこのようなミスが見られるのは何とも情けない限りだ。 しかし読者への挑戦状、幻想的な謎に合理的な解決と島田本来の本格ミステリが戻ってきたことは非常に喜ばしい。更に島田氏はその後も精力的に作品を刊行している。 御歳70歳でありながらなお意欲的な創作を続ける島田氏の作品のこれからが非常に楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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最近光文社にてシリーズが復刊されたキッド・ピストルズシリーズの第1作が本書。
警察機構が腐敗し、堕落した世で探偵士の称号を与えられた民間探偵が活躍するパラレルワールドのイギリスを舞台にしたシリーズ。探偵士は警察よりも先に72時間だけ優先して捜査権を行使できる世の中にあって、キッド・ピストルズとその相棒ピンク・ベラドンナはロンドン警察庁の警官であり、奇妙な事件を取り扱う国家特異事件処理課(National Unbelievable Trouble Section)、通称<そんな馬鹿な(ナッツ)>事件処理課に所属するパンク警官である。つまり彼らは愚鈍と見なされている警察機構の人間でありながら、探偵士を出し抜く知能を誇る名探偵であるのだ。 そして本書に収録されている4編は全てマザーグースに擬えられているのが特徴だ。 第1作「『むしゃむしゃ、ごくごく』殺人事件」は≪むしゃむしゃ、ごくごくのお婆≫が擬るような事件をキッド・ピストルズたちが解決する。 キッド・ピストルズとピンク・ベラドンナ初お目見えの本作は実にスマートな短編となっている。大食漢の女優が毒を盛られて亡くなったがその日に限って胃は空っぽだったという実に奇妙なシチュエーションを扱っている。 女優が引退し、50年間も家に閉じこもって食べるだけの人生になった背景、彼女を取り巻く人間関係、そして事件解決までに至るキッド・ピストルズやピンク・ベラドンナたちの行動が真相に結びつくようほどなく配置されており、実に無駄がない。 インプロビゼーションの妙がかえって奇妙な状態を生む面白さはカーの作品に通じるものがある。 次の「カバは忘れない」は≪ウェールズ人の狩の唄≫がモチーフとなっている。 部屋にある2つの死体。1つは人間、もう1つはカバ。 こんな奇妙なシチュエーションの殺害現場がかつてあっただろうか? そして一見このおふざけにしか見えない状況がそれまでになかったダイイングメッセージ物の新機軸を生み出すことになる。 ダイイングメッセージ“H”を巡ってキッド・ピストルズたちは色々推理を巡らす。 本作は価値観の相違がテーマになっている。 こういう価値観の転換というのはやはり面白い。世界に出るとこういったその国独自の文化や思想に触れることができ、理解もしやすくなる。そういう意味では海外赴任した後に読んだこのタイミングは良かったのだろう。 3番目の事件「曲がった犯罪」のモチーフは≪曲がった男≫。 カーの某長編のパロディと思しき題名にヴァン・ダインを彷彿とさせる美術評論家の登場、そしてチェスタトン張りの逆説が炸裂する、まさに黄金期の本格ミステリのガジェットに満ちた作品。 芸術家の心理は芸術家にしか解らぬという特殊な論理展開で事件が解決されるかと思いきや、真相はまたもや不測の事態が起きることによって生じた完全犯罪の穴をキッド・ピストルズがこじ開ける鮮やかな展開を見せる。 特に冒頭のキッドが参加するポーカー勝負のエピソードが後半推理に重要な要素を秘めている展開は実に見事。 本書最長の最後の1編「パンキー・レゲエ殺人(マーダー)」のモチーフとなるマザーグースはあのクリスティの名作『そして誰もいなくなった』と同じ「10人のインディアン」だがもう1つのヴァージョンである黒ん坊(黒人)をモチーフとしている。 本書収録の各短編には作者による巻頭言が書かれているのだが、それによれば山口氏が今回マザーグースでインディアン版ではなく黒人版を採ったのが黒人が大勢登場する本格ミステリを書きたかったため。 云われてみれば確かに黒人が登場人物の大半を占める本格ミステリは記憶の限りでは読んだことはない。警察小説やノワールといったジャンルならばあるが。 一方で中国人に代表されるアジア圏の人々が多数登場するミステリは案外ある。それはコナリーの『ナイン・ドラゴンズ』の感想でも書いたように西洋文化と考え方も成り立ちも異なる東洋文化はエキゾチックな魅力を感じるようだからか。 さて前置きが長くなったが、本作では本格ミステリの花形とも云える密室殺人事件が扱われている。但し全てが鍵が掛けられた部屋ではなく、海に向いたテラスの扉は解錠されているが、そこには事件当時麻薬課の刑事が張り込みをして見張っていたという視覚による密室状態が設定されている。 そして本作では上にも書いたように黒人が多数登場しており、しかもレゲエミュージシャンばかりが登場する。つまり黒人と云ってもジャマイカンでレゲエ文化独特の論理が展開する。 レゲエ・ミュージシャンであるラスタファリアンたちはジャマイカ独自のラスタファリズムと云う旧約聖書に基づいた宗教の戒律に従って厳格な生活を守っており、ドレッドヘアは剃刀に対する戒めから髪を切らず、梳かさず、伸ばしっぱなしにしている。それが次第にラスタファリアンの誇りや勇気の印を象徴するようになり、神のエネルギーを具現化している風に考えている、etc。 そんな独特なジャマイカ文化の中で事件に対応する探偵士はこれまでのシャーロック・ジュニアではなく、カーの2大シリーズ探偵のうち、ギデオン・フェル博士を彷彿とさせるヘンリー・ブル博士。そしてカー作品の特徴であるオカルト趣味はジャマイカの伝承をベースにしており、しかも主人公のキッド・ピストルズたちはイギリスで発展したパンクスであり、いわばWhite meets Blackの妙味が味わえる。 レゲエテイストを横溢させながら、ジャマイカ文化をロジックの背景にした本作はまさに音楽に造詣が深い山口氏ならではの作品だ。 全4編が収録されたキッド・ピストルズシリーズ第1作はそれぞれ毒殺、ダイイング・メッセージ、見立て殺人、密室殺人と本格ミステリの本質的なテーマを扱っている。 そしてそれぞれの短編には古典ミステリをパロディにしたネタが放り込まれており、ミステリに造詣が深ければ深いほど愉しめる内容となっている。 少なくとも3人はシャーロック・ホームズと称する探偵士がいたり、S・S・ヴァン・ダインをパロディにした『《にやにや笑い》(グリン)殺人事件』や『蔵相殺人事件』を著しているS・S・フォン・ダークのペンネームを持つウィラード・ハンティントン・ライトならぬウィラード・カールトン・ライトが登場すれば、ヘンリー・ブル博士はジョン・ディクスン・カーの創作したヘンリー・メリヴェール卿とギデオン・フェル博士を彷彿とさせる。 更に一旦探偵士によって開陳される事件の解決をキッド・ピストルズシリーズが更に整然とした推理で覆す構造は複数の解決を駆使するアンドリュー・バークリーを想起させるし、またチェスタトン張りの逆説や形而上学的な観念的な論理展開は先に挙げたヴァン・ダインのそれだ。 それ以外にも古典ミステリの名作のタイトルをパロディにした、いやそのものズバリを物語のあちこちに施し、その都度ニヤリとさせられる。 そんなパラレル・ワールドの英国を舞台にしたキッド・ピストルズシリーズ。 警察が堕落し、腐敗したその世界では民間の私立探偵が活躍し、<探偵士>なる称号が設立され警察より優先的に捜査を行使できるその世界は一見破天荒に思えるが実はこのパラレル・ワールドを設定することで山口氏は本格ミステリに付きまとうある不自然さを見事にクリアしているのだ。 本格ミステリにおいて最も不自然なこととはいったい何だろうか? 密室殺人? 人智を超えた不可能犯罪? まだるこしいほどに手の込んだアリバイトリック? 確かにそれは不自然さを感じるだろうが、世の中には色んな人がおり、また予想もつかないことが起きるのが世の常であることを考えれば、上に挙げた内容も許容範囲だ。 では最も不自然なものとは何か? それは探偵が捜査に介入することだ。 この本格ミステリでは当たり前に起きている素人探偵や私立探偵が殺人事件を始めとする刑事事件の捜査に介入することは現実世界においてまず、ない。 従って世のミステリ作家たちは自ら創案した探偵たちを捜査に関わらせるために様々な工夫をして不自然を自然に見せることに腐心している。 難航した事件を偶々事件に関係した探偵が解決した。 警察の上層部が父親、もしくは親戚である。 警察の相談役となり、既に捜査に携わることを認められている、などなど。 しかし本書では無効化した警察の代わりに探偵士が捜査を行うという世界を設定することでその不自然さを見事にクリアしているのだ。 しかも事件を解決するのはそれら探偵士でなく、堕落した警官であるキッド・ピストルズであるというパラドックス。 つまり本来事件を解決すべき警察が、探偵が登場する本格ミステリにおいて道化役もしくは物語の進行役になっている不自然さを更に本書では探偵士ではなく道化役であるはずの警察が事件の謎を解くというあるべき姿になっているところに妙味がある。 あり得ない世界を設定したことであるべき捜査の在り方を描く。パラドックスに満ちながら、実は正統な事件の解き方を描くことになっていることが非常に面白い。 また同時にこのパラレル・ワールドを設定することで恐らく作者の嗜好であるパンクルックの警察官が横行する世界、それこそ山口氏が脳内で展開した新たな探偵小説、かつてないほどクールで破天荒な警官キッド・ピストルズとピンク・ベラドンナを生み出すことに成功したのだ。 デビュー作では死者が甦る世界における殺人事件の意義を問い、そして本書では探偵が警察よりも権威を持つパラレル英国を舞台に、しかも作者自身のあとがきによれば世界初のマザーグース・ミステリ連作シリーズを著した山口氏。 誰も書いたことのないミステリを、もしくは自分だけが想像する世界におけるミステリを書く、孤高のミステリ作家山口雅也氏は極北のミステリを目指しているが、それが結果的に純粋に本格ミステリにおいて探偵の存在を不自然にならないようになっている。 そして探偵の存在を肯定しながらその実、事件を警察に解決させるこのシリーズは山口氏独特のパラドックスに満ちた作品であると云えよう。 本格ミステリの異端児が放つミステリは異端な世界を描くことで実は至極真っ当な世界を描く、つまり―(マイナス)に―(マイナス)を掛けると+(プラス)になることを証明した作品なのだ。 かつて山口氏は本格ミステリの巨匠島田荘司氏を本格ミステリ界のボブ・ディランと称した。 それに倣って私は山口氏を本格ミステリ界のなんと称しようか。それはもうしばらく氏の作品を読んでから判断することにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ11作目で2016年版『このミス』第1位を獲得した作品である。
シリーズ10作目の『ゴースト・スナイパー』が初の圏外だったことでシリーズに翳りが見えたかと思えた矢先の1位獲得。俄然期待が高まった。 10作目という節目を終え、新たなシリーズの幕開けを意識したのか、本書は題名からも解るように1作目の『ボーン・コレクター』を意識しており、内容も同じくボーン・コレクター事件の影響を受けた犯人との戦いを描いている。まさに原点回帰の1作だ。 ボーン・コレクターは骨への執着が強い犯罪者だった。かつて楳図かずおのマンガでも嫌らしいのは骨の上についている肉で骨こそ美しいと述べていたが、本書のスキン・コレクターはその皮膚に執着する犯罪者だ。 さて今回の敵スキン・コレクターはなんと犯罪実話集でリンカーン・ライムについて語られたボーン・コレクター事件の項目を読み、ライムのことを熟知した敵だ。従って彼はライムが行うであろうことを想定して常にそれを出し抜く。そう、今回ライムチーム自身もまたこのスキン・コレクターの標的になっているのだ。 更に本書のテーマは毒殺である。 とにかくこのスキン・コレクター、色んな毒を駆使して被害者に襲い掛かる。 ドクゼリが採取されるシクトキシン、フグ毒のテトロドトキシン―なんとまだ治療薬がないらしい―、南米産の植物エンジェルストランペットから採れるブルグマンシア、ストリキニーネ、煙草にも含まれているニコチン、ヒ素、即死に至るホワイトコホシュという植物から採れる毒、致死量に達しなくても後遺症で精神障害と認知症を患うことになるトレメトール、タマゴテングダケという毒キノコから採取できるアマトキシンαアマニチン、ボツリヌス菌にアンチモン。 毒殺はジョン・ディクスン・カーなどが良く好んで使っていた殺害方法でつまり黄金時代のミステリの主要な殺人方法だったが。現代では廃れてしまっている。犯人がわざわざ毒殺に固執することにライム自身疑問を呈すが、私は逆にこの古典的な殺害方法を本書で用いたことで改めてディーヴァーが現代のシャーロック・ホームズシリーズと呼ばれているリンカーン・ライムシリーズの原点に回帰したことを示しているメッセージだと受け取った。 またスキン・コレクターが遺体に施す、もしくは施そうとしたメッセージもまた意味深だ。“the second”から始まり、その後“forty”、“17th”、“the six hundredth”と続く。それらは全て数を意味しているが、全くその関連性が見えない。ダイイングメッセージならぬ犯行声明であるが、これに加えて今回は各犯行現場の平面図が本書にはきちんと挿入されており、これらの趣向が本格ミステリ志向ど真ん中なのである。 さてこれらのお膳立てが整ったところでスキン・コレクターことビリー・ヘイヴンの<モディフィケーション計画>は決行へと向かう。 しかしミスリードさえも上回るリンカーン・ライムの洞察力。 しかしこれは読んでいるこちらもあまりに明敏過ぎて超天才型探偵を彷彿させて、逆に苦笑してしまうが、逆にライムはスキン・コレクターを欺く。 相変わらず怒濤のようにサプライズを仕掛けるディーヴァー。それはあまりに突飛すぎて、その場面に直面した瞬間は頭に「?」が飛び交い、理解に少々時間を要してしまう。そしてそれが本当に成り立っているのか、どうしても後でその場面を振り返る必要に駆られる。 そして本書が2016年版の『このミス』で第1位に輝いた理由が最後になって判明する。 さて今回も非常に複雑に入り組んだストーリー展開を我々読者にディーヴァーは提供してくれた。しかも2015年発表の本書では上に書いたようにかつての黄金時代のミステリを彷彿とさせる、暗号を思わせる犯罪者からのメッセージ、各種取り揃えた毒による毒殺という古典的な殺害方法といった本格ミステリ風味が前面に押し出されている。 更に昔から都市伝説のように云われていたNYの地下に網の目のように張り巡らされた地下通路を犯罪者スキン・コレクターが暗躍し、マスコミからアンダーグラウンド・マンと名付けられ、現代に甦ったオペラ座の怪人のような様相を呈している。 そしてこの“アンダーグラウンド”が民間武装組織といった米国内に数多あるテロ組織を暗示しており、彼らが掲げる白人原理主義は現在のトランプ大統領が掲げているメキシコとの国境の壁建設やイスラム教徒の入国制限といったような選民主義的主張を象徴しているようで現代に通じるものを感じる。 また本書では言葉遣いに対する描写が特に多いと感じた。ライムが“ルーキー”プラスキーにきちんとした云い回しを教えたり、ラテン語を駆使して会話を成立させたり、またアドバイザーとしてライムの捜査に協力するタトゥー・アーティストTT・ゴードンのきちんとした言葉遣い―タトゥー・アーティストはクライアントに一生残るメッセージを書かなければならないため、言葉にはかなり気を遣うそうだ―を褒めたりと折に触れ、言葉に対してライムがセンシティヴに振る舞うのが目に付いた。 更にはライムが字体の特徴についても得々と述べ、過去に脅迫状に使われていた字体から犯人を特定したエピソードまで披露されている。これはディーヴァー自身が作家として言葉の乱れを感じていることをライムに代弁させているのかもしれない。字体もまた小説の読み応えの印象を与えることで作者自身が興味を持っているのではないだろうか。 とまあ、本書もまたいつもの、いやそれ以上に様々な仕掛けを施し、読者の頭をそれこそ作者ディーヴァーが両手で掴んで前後左右へぐるぐる回しているかのような目まぐるしい展開を見せるのだが、エンタテインメントに徹しすぎて深みに欠けるように感じてしまう。 特に今私が連続して読んでいるコナリー作品に比べると、各登場人物が抱く心情に深みを感じないのだ。ボッシュの異常なまでの悪に対する執着、ハラーの何が何でも裁判に勝つためのがむしゃらさといったような灰汁の強さや登場人物たちがその選択をした、せざるを得なくなった性や背負った業というものを感じないのだ。 確かにディーヴァーの描くプロットは最後見事なまでに整然としたロジックの美しさを感じさせる。特に本書は全てが繋がり、最後の一滴まで飲み干せる美酒のようなそつのなさを感じさせるが、そこにコクを感じないのだ。 シリーズを重ねるうちに各登場人物たちが抱える問題やエゴなどがもっと前面に出てもいいのにそれがない、いや全くないわけではないが、しこりが残らない分、印象に残らない、それほど綺麗に物事が解決する、物語が完結するのである。 コナリー作品のように次はどんな風になるのだろうと読者が一種不安めいた感情を抱えて読み終わる危うさがないのだ。 これは全く以て私のディーヴァー作品を読む姿勢が間違っていると云えよう。ディーヴァー作品を読むには彼の作風を想定してそれに自分の頭を切り替えて読むべきなのだろう。だからディーヴァーにはディーヴァー作品の、コナリーにはコナリー作品の読み方をしないとこのような読後感に陥ってしまうのだ。 しかし『このミス』1位の作品は危険だ。どうしても期待値が高くなってしまい、感想も辛めになってしまう。もっと純粋に物語を愉しめるよう初心に戻った読み方をしなければと反省した次第だ。 いや、面白かったんですよ、ホントに。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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さて全3集から成るこのアンソロジーもとうとう最終巻を迎えることになった。本書の編集序文には第1,2集が日本側からの提案だったのに対し、この第3集がクイーンから自発的に編纂の申し出があったことが記されている。クイーン自身の序文でも日本のミステリが英仏作家に影響を与える日はそう遠くないとまで述べているから、クイーンも日本ミステリ作家の実力を認めたことになる。
そしてそれまでの編集方針と異なり、本集では前2集と『日本文芸推理12選&ONE』に選ばれなかった作家の作品を意図的に選出してクイーンの眼鏡に適った物を集めるという方式が採用されている。その内、仁木悦子氏は辞退をしたらしいが。 しかし松本清張氏だけは当時のミステリ界の第一人者であり牽引者として別格扱いとして彼の作品だけが選ばれている。つまり清張作品のみが全3集に収められていることになる。 まあ恐らくは社会派推理小説という新たなジャンルを創設者であり、それによってカッパノベルスが爆発的に売れたため、版元の光文社は松本氏に足を向けて寝られないのだろう。それだけでなく、松本氏の当時の推理文壇における影響力の強さも窺える内容ではある。 さて前講義はこれくらいにして選出された12編の感想に移ろう。 本書の冒頭を飾るのはやはり件の松本清張作品。「箱根初詣で」は年の離れた夫と共に箱根へ泊りがけで初詣に行った夫婦のあるエピソードが語られる。 清張作品にしてはそれまでの収録作と比べても16ページと比較的短い作品で、内容も警察の捜査が絡まない、ある女性が過去に遭遇した前夫を亡くした海外出張での事件の真相についての回想録である。 会社から出張中の夫が交通事故に遭ったと連絡を受け、他の2人の妻と現地へ飛ぶ。対応した部長や社員たちの面持ちから事態は思った以上に深刻であると受け止めた3人は一方でもし亡くなっていた場合は業務中での死亡ということで賠償金などを大量にせしめてやりましょうなどと話す。 現在海外赴任中の我が身にとってもこれは身につまされる話だ。この手の話が海外ではゴマンとあるからだ。海外出張者が出くわした事件に人間心理の綾を巧みに混ぜ込むあたりに清張氏の作家性を感じさせる。 ただ前の2つの収録作に比べると佳作ではあるが、選出されるほどの出来かというとそうでもないような気がする。もっといい短編があったと思うのだが。 さて次からが全て初収録の作家たちである。 まず先陣を取るのは生島次郎氏。日本ハードボイルド界の巨匠による「時効は役に立たない」は皮肉の効いた1編だ。 成功者の暗い過去。忘れかけた頃にそれは再び甦る。よくある話だ。10年の歳月は今ではそう遠くない話で私は昨日のことのように思い出せる。悪いことはできないものだ。 結末は実に皮肉で上手い。悪は結局栄えないのだ。 そういえば今まで収録されていなかったのが不思議なくらいの大御所、赤川次郎氏の登場だ。「沿線同盟」は“奇妙な味”系のミステリだ。 さすがは大御所。実に上手い。郊外で念願のマイホームを建てた中小企業のサラリーマンという典型的な郊外族の夫婦を主人公に、周囲の住民の、どこか忌避されているような不審な行動や腑に落ちない嫌がらせめいたお節介。更に何者かから掛かってくる新居を出る様に脅す電話と読者を謎から謎へと牽引する。 これはいわゆる村社会では起こりうる話なのかもしれない。典型的な日本人の姿を描き、そして誰もが心の奥底に抱いているような不平不満を動機としているところ、つまり我々読者に似た人たちが登場することで物語の妙味が増すのである。 最後に明かされる住民たちの意外な真意と余韻を残す結末も含めて21世紀の今でも『世にも奇妙な物語』でドラマ化されてもおかしくない出来栄えの1編である。 次もそういえばこの作家を忘れていたと思わされた。栗本薫氏である。多才な作風の彼女の作品の中で選ばれたのは意外にも「商腹勘兵衛」という時代小説だ。 何とも切ない話である。主君への忠義心を示すために腹を切る追腹。その一員に選ばれた50過ぎの男やもめの侍。 しかしそんな矢先に現れた16歳の小娘は彼の生活に潤いをもたらす。 年の離れた男と女の純愛と戒律の厳しい侍たちの選ばざるを得なかった追腹と云う風習。そんな時代が生んだ悲劇。 そして何よりも本作は51歳の侍、原田勘兵衛に惚れる16歳の腰元奈美に尽きる。恐らく原田勘兵衛は母性本能をくすぐるタイプなのだろう。そんな年の離れた男に惚れた若い腰元は一緒になりたいがために自ら口説かれたと噂を広め、そして本願を成就する。勘兵衛がこの奈美と一緒に暮らした1ヶ月間はそれまでの人生を凌駕するほど楽しかったと云うがこれは本当だろう。夫への愛を最後まで貫こうとする一途さ。私はホントこんな女性が出てくる作品に弱いのだ。 しかしクイーンはこの作品を十分に理解したのだろうか。 理解していてほしい。 短編の名手である戸板康二氏もまた今回が初選出。「山手線の日の丸」はある老人の復讐譚だ。 中学の元習字の先生で週3回書写のアルバイトをして娘と2人で暮らしている、どこにでもいる老人と娘の父子家庭。そんな素朴な家族に突然訪れる娘の死。今まで普通の暮らしをしていた老人が娘の復讐のために娘の自殺の原因となった男の復讐を胸に誓う。 こう書けばノワール的な物語を想起するが戸板氏の筆致はあくまで素朴であり、復讐を誓う父親も炎を滾らせるような情念を見せるわけでもない。そう、これはごく普通の男の不器用な完全犯罪物語なのだ。 次も短編の名手である。阿刀田高氏の「趣味を持つ女」は読者の予断を軽く上回ってみせる。 さすがショートショートから長編まで器用にこなす技巧派阿刀田氏。何処かへの葬式に参列する奇妙な中年女性を香典泥棒と見せかけておいて、読者の想像の斜め上を行く真相を用意してくれた。 しかしこの野口京子の風情があまりに淡々としているので最後に彼女の狙いが明かされるとどこか薄ら寒い気配を感じてしまった。やはり女性は恐ろしい。 本書で選ばれた作品のうち、女流ミステリ作家の手になるものは栗本氏とこの小泉喜美子氏2人のみである。「被告は無罪」は都会風の香りを感じさせるミステリだ。 私は世評高い小泉氏の作品をさほど高く買っていないことをまず正直に告白しよう。彼女の作品を直接読んだことはないがP・D・ジェイムズやレンデル作品を翻訳を通じて読んだ彼女の文体がどうも素人に毛が生えた程度にしか感じなかったからだ。 そんな先入観で読んだ本作は今までこのアンソロジーで読んだ作品の中で一番軽く感じた。 見開き2ページに渡って過不足なく情報が、登場人物の心情が語られる他の作家たちの熱量に比べ、2時間サスペンスを感じさせる90年代のトレンディドラマのような軽さを覚えるカタカナを多用した本作は重みに欠け、すっと流れてしまった感がある。 例えば日本を舞台にしながらジャズバンドのメンバーを登場人物にしているだけでそれぞれの名前を外国人のファーストネームで呼び合う趣味の悪さ、作者自身がお酒好きで新宿のゴールデン街に通っていたこと、さらに酒に酔って階段を踏み外し、落ちてそのまま絶命してしまったことを知っているだけに殊更酒が作品の中心になっている事。 それらを含めても他の作品と一段落ちると云わざるを得ない。もっと他にいい作品があっただろうにと思われた作品だった。 この人を忘れてはならないという作家がいる。それは都築道夫氏だ。「小梅富士」は彼の代表作「なめくじ長屋のセンセー」シリーズのうちの1作である。 実はこの作品、今読んでいる北村薫氏のエッセイ『ミステリ十二か月』でつい最近紹介されたばかりだった。実に奇遇である。そしてその北村氏の評判通り、本作は傑作である。 わざわざ部屋の中に大人が複数抱えないと持てないほどの大きさの庭石を担ぎ込んで寝たきりの老人を殺すと云う実に不可解な謎が鮮やかに論理的に解かれるのである。 全てが綺麗に落ち着くところに落ち着く、ロジックの美しさ。本家クイーンもこれには満足したに違いない。 栗本氏に続く時代物で、その作品雰囲気を十分楽しめるほどの翻訳がなされたかは不明だが、そんなことも些末に思えるほどのロジックの妙味を味わえる作品だ。 次はどちらかと云えば本格ミステリよりも国際謀略小説家の傾向が強い伴野朗氏の「草原特急の女」は作者らしく北京とモスクワを結ぶ草原特急の車内が舞台だ。 ユーラシア大陸を横断する長距離列車内で起こる事件は伴野氏ならではの反政府組織から託されたある荷物を届けることだった。一介の歴史学の講師がこのような事件に巻き込まれるのは現在海外で赴任している私にしてみれば非常に浅慮としか思えないのだが、よほど彼に荷物を託した中国人女性が美人なのだろう。 この大陸間鉄道に中国人、ロシア人、トルコ人、ドイツ人、チェコ人といった様々な国の人物が乗り合わせているのは面白いが、日本への観光意識が高まった昨今の外国人旅行客が多数新幹線に乗り合わせているのを目の当たりにしている現代では容易に想像がつく。そう、今の日本もそんな状態だ。 作者的には不穏な国際情勢の只中に放り込まれ、KGBからも睨まれることになった歴史学講師の責任の重さをミスリードにしたのかもしれないが、想像の範疇であった。 このような作品もクイーンは選ぶのだなあと感心した次第。 かつて小学生の頃、私は藤原宰太郎氏の推理クイズ本をよく読んでいたが、そこに多く語られていた作家の1人が斎藤栄氏だった。彼の「天女脅迫」が12席の1席を占めることになった。 相模原市と千葉市の市外局番が非常に似通っていることに着目したアリバイトリックの秀作だ。これに気付いた時の作者の喜びようが目に浮かぶようだ。 ただ本作は登場人物に好感が持てない欠点を抱えている。探偵役を務める市長秘書の徳井はかつての上司に辛酸を舐めさせられた恨みから、犯人であることを突き止めて元上司が焦り、恐怖する様子を見たいという不純な動機が占めており、しかも被害者の姪の女性が美人であることに気付くと、どうにか手籠めにしたいと欲望を剥き出しにする。 本書は刊行は82年だが、その頃の推理小説に蔓延していた下世話なエロスを盛り込んだ大衆小説という風合いが色濃く、トリック及び真相には驚かされたものの、登場人物の誰もが自己本位で自分勝手であることで全く好感が得られなかった。 次は菊村到氏の「妻よ、安らかに」はよくある浮気相手と夫が妻の殺害計画を目論む話だ。 よくある男女の愛の縺れから殺人計画に発展する典型的なワイド劇場的内容のミステリである。 しかし愛人が死に、自分を脅迫する者が現れても、その男もほどなく死ぬと云う風になぜか主人公の都合のいいように事態は転がっていく。この辺の展開は意外で面白い。 この主人公、しがない安月給のサラリーマンでありながら、逆玉の妻を娶ったり、バーのホステスほどの美貌を持つ若い看護婦に惚れられて愛人を持ったり、更には邪魔者が悉くいなくなったりと実に運がいい男なのだ。 しかし菊村到氏という作家は寡聞にして知らなかった。芥川賞作家でもあるが、今ではほとんどその作品は絶版状態で入手不可なのだろう。ここにも1人、消えてしまった作家がいた。 最後を飾るのは巨匠小松左京氏の「共食い―ホロスコープ誘拐事件」。どちらかと云えばSF作家の印象が強い氏だが本書は入り組んだ特殊な誘拐事件を扱っている。 恋人を誘拐された男が強要されて富裕な実業家の息子を誘拐するが、その家族全員が誘拐されていたという実に奇抜な設定。しかもそこから更に展開は複雑になっていく。 どんでん返しを繰り返すあまり、どうにも訳が分からなくなってしまったきらいがある。 個人的にはどうにも不可解な謎がある一言で明快になると云うシンプルかつ爽快な謎解きが好みなので単純に作者の趣味に走った感があり、残念な読後感が残った。 前巻の感想で私は12作家中6人が第1集の選出者と重なっていることから当時のミステリ作家の実力差がかけ離れていたのではないかと書いたがそれはあながち間違いではなかったようだ。 今回読んで率直に第1、2集の方が総合的に質が高かったという思いを強くした。 上に書いたように、今回は選者であるEQJM委員会が松本清張氏を別格として他の11人の作家全てを初選出の作家に選んで本書が編まれているわけだが、全てが上の評価に落ち着くものではなく、勿論実力が拮抗している作家も存在する。それらについては後述するが、それは片手に数えるほどしかいなかったと云うのが本音だ。 前2集で見られた物語の濃密さや登場人物の泥臭さ、体臭さえも感じさせる灰汁の強さが非常に薄く感じられたのだ。 本書での短編の選出方法は前2集が対象期間内の全短編から厳選された作品を翻訳してクイーンに送った手法を取っていたのに対し、今回は作家別に1975年以降の発表作から作者本人の自選も参考にして委員会が最も優れたものと思った作品を翻訳して随時クイーンの許に送り、同意を得た作品が収録されている。 つまり本集ではまず作家ありきで始まっているところと、随時送られている作品がクイーンにとって面白ければOKというところが異なるのである。 この方法はやはり全体としての質を下げたように思える。やはり一時に候補作を送って、そこから絞り込んで選出するやり方、つまり相対評価が必要なのではないか。1つ1つの作品の出来を認めるのみではある程度の瑕疵があっても許容範囲ということで点数が甘くなってしまうと思うからだ。それは収録作の出来と質を見れば明らかであろう。 さてそんな第3集でも恒例どおり本書におけるお気に入りを挙げることは出来る。それは赤川次郎氏の「沿線同盟」、都築道夫氏の「小梅富士」の2作だ。 赤川氏の作品はその読みやすさと21世紀の今でも通じる普遍性を伴っており、全然時代性を感じさせない。せいぜい挙げるとすれば携帯電話がない時代であるくらいだ。 片道約2時間かけてまで欲しかった念願のマイホーム。同じ町内に住む限られた人々。そしてそこに住む人たちがいつの間にか共有するようになった同族意識と排他主義。典型的なサラリーマンの都心生活形態を描きながら、地方の村社会を思わせる閉鎖性を歪んだ形でミステリへと味付けした手際は実に素晴らしい。 「小梅富士」はアメリカ人のクイーンにとって造詣が浅いであろう時代物だが、大きな庭石の下敷きになって寝たきりの老人が圧死しているという奇抜な謎とそれを実に違和感なく論理的に解き明かす本格ミステリの妙味を存分に味わえる傑作だ。いやあ都築氏の作品はさほど読んだことないが俄然興味が沸いてきた。 そして今回の個人的ベストは栗本薫氏の「商腹勘兵衛」だ。 栗本氏の作品は意外や意外の時代物だが、その文体や作品が醸し出す雰囲気はもはや時代小説作家そのものといっていいほどの出来栄えだ。その才能のマルチぶりに驚かされるが、本書は何よりも内容がいい。 とても微笑ましく、そして哀しいのである。私は常々健気な女性が出てくる話に弱いと云っているがまさにこの作品はど真ん中だった。16歳の腰元が51歳の侍に惚れるという設定とそのために自ら口説かれたと噂を流す茶目っ気など、私の心をくすぐる内容満載なのだ。そして切腹する夫よりも先に自害する愛情の深さを見せる純粋さも兼ね備えている。久々に泣けた。 しかしそれでもこうやって挙げてみると物足りなさを感じてしまう。第1集ではお気に入りを3作、ベストを1作挙げ、第2集ではお気に入り3作、ベスト3作と豊作だったのに比べるとやはりトーンダウンは否めない。 このアンソロジーが第4集を編めなかったのは恐らく選者のフレデリック・ダネイ氏が1982年に亡くなってしまったからだろうが、最後を飾るにはその出来は少しばかり寂しい限りだと思わざるを得なかった。 ところで本書を読んで少しばかり気になったことをここでは挙げていこう。 伴野朗氏の「草原特急の女」によればモンゴルの法律では男女とも18歳になっても独身の場合と結婚して1年以上子供がない場合では月収の2%が罰金として徴収されるらしい。これは日本でも是非とも導入してほしい制度だ。 18歳になっても独身は生き過ぎだが、せめて30歳になっても独身の場合は同様の制度を強いるべきだ。 子供についてもそうだ。少子化社会、高齢化社会を促進させ、社会制度の歪みを生み出しているのにもかかわらず、今日、日本は生活と価値観の多様性を盾に子供を作らない家庭や独身主義を貫く男女を承認する傾向がある。 多様的な考えを認めるのは是だが、それにはある程度痛みを、リスクを伴う必要があると考える。誰もが自分さえよければの精神が強すぎるのではないか。 こういう昔の作品を読むことで現代の社会問題を解決する術も見つけられることに気付かされる。 あとクイーンの序文に日本ミステリの現在が示唆されていることに驚きを感じた。 クイーンは本書の冒頭で、シャーロック・ホームズがポーの生んだ名探偵オーギュスト・デュパンの影響を受けているように、シャーロック・ホームズもまた後世の刑事物、素人探偵物からハードボイルドに至るまで影響を与えており、そしてフランスのミステリから英国の作家は影響を受け、アメリカの作家は英国の作家から影響を受け、更に英仏の作家はそのアメリカから影響を受け、と環を成してミステリはお互いに影響を与えながら発展してきたと書いている。そしてそれら海外のミステリの影響を受けて発展した日本のミステリもまた将来米英仏の作家に影響を与えるに違いないと断言している。 まさにこれが21世紀の今起こっているのだ。本格は“Honkaku”という英語にまでになり、黄金期のミステリを彷彿とさせるトリックとロジックを駆使した本格ミステリが逆輸入的に今世界のミステリシーンで復興しようとしているのだ。 本書は1982年刊行のアンソロジー。つまりそれから37年を経てこのクイーンの予言が実現しているのだ。 昔の小説を読むことの意義を感じた次第だ。 そしてまた第2のクイーンとなる新たな選者を海外に見出し、また日本の優れた短編を紹介する機会を作るべきではないか。 平成の時代に本書のような海外のミステリ作家による日本人作家のアンソロジーが編まれなかったのは今更ながら悔やまれるが、新しい元号を迎える今こそ相応しい時なのかもしれない。 21世紀の日本ミステリ作家たちが更に世界に羽ばたく一助をどこかの出版社が担ってほしいものだ。それだけの作品が既に蓄積されているのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン弁護士シリーズも早や3作目である。
前作がボッシュとの共演だったら、なんと本書ではそれに加えて彼の元妻マギー・マクファーソンとも共同で仕事をする。更になんと今回ハラーは弁護士でなく特別検察官として雇われ、DNA鑑定によって判決破棄された24年前の犯罪で逮捕された少女殺害犯の有罪を勝ち取るためにマギーを補佐官、ボッシュを調査員として雇い、チームとして戦うのだ。しかもそれぞれの関係が元夫婦、異母兄弟と微妙な繋がりがある奇妙な混成チームであるところが面白い。 しかし彼らに共通するのは年頃の娘を持つ親であること。ミッキーとマギーは2人の間に生まれたヘイリーがおり、ボッシュは前作『ナイン・ドラゴンズ』で一緒に暮らすようになったマデリンがいる。彼らのこの同族意識が勝ち目のないとされる少女殺害犯の有罪判決への道を歩ませたと云える。 前作でボッシュを中国警察から救ったミッキーはお互いの娘を逢わせることを提案し、それをボッシュは保留していたが、一緒に出張に行ったマギーからも同様の提案をなされ、その押しの強さとボッシュが幸せな人生を送ってきていないことを見透かされ、とうとう2人を引き合わすことを約束させられる。 しかしよくもまあこれほど面白い設定と行動原理を考え付くものである。全くいつもながらコナリーの発想の妙には驚かされる。 しかもこのチーム、実にチームワークがいいのだ。 ボッシュはそれまで培った刑事の勘を存分に発揮し、24年前の事件関係者を次々と捜し出す。マギーは女性ながらの心遣いとベテラン検事のスキルで以ってミッキーをサポートし、ミッキーもまた百戦錬磨の弁護士生活で培ったノウハウを検察側に持ち込み、裁判を有利に持ち込むことに腐心する。 お互い我の強い性格でイニシアチブを取るのが通常の3人であったので、自分の主張を通すことに執着し、常に意見が割れて反発ばかりするかと思いきや、実にバランスよく裁判の準備が進んでいく。この過程は読んでいて実に面白かった。 刑事弁護士であるミッキーが慣れない検察側の立場で振る舞うとき、元妻マギーのサポートが心の支えになる。第1作目ではこのマギーとミッキーの2人の物語が大半を占めていたが、第2作目では2番目の元妻で秘書のローナとのやり取りがかなりのウェイトを占めており、マギーはほとんど出なかったが、ミッキーとの相性はどちらも甲乙つけがたい。奇数巻と偶数巻でコナリーはミッキーの相棒を今後も務めることを考えているのだろうか。 また本書では我々一般市民に馴染みがない法曹界や警察の業界裏話を知ることも読みどころの1つとなっているが、本書で特に印象深かったのはボッシュとマギーが飛行機で被害者の姉セーラの許へ向かう際、キャビンアテンダントからファーストクラスへのアップグレードを促されるシーン。これには驚いた。警察関係者や検事はその正体が知られると実際にこのような優遇措置があるのだろうか。なかなか興味深いシーンだった。 しかしなんといってもやはり本書の読みどころは上述のように共通して子を持つ親、娘を持つ親であるところだろう。従って通常ならば被告人の弁護側の人間であるミッキーが少女殺しの疑いのある依頼人を娘を持つ身でありながら無罪を証明する立ち位置を強いられるのに対し―それはそれで大いなる葛藤を呼び、ドラマとしては面白いのだが—、特別検察官として雇われるというアクロバティックな設定ゆえに原告側の代理人となり、検察官の元妻マギーと異母兄弟のボッシュと同じチームとしておぞましい犯罪者の手から娘を守ると云う強い意志を共有しているところが読んでいて非常に楽しく、面白いのである。 しかしボッシュも変わったものだ。メカ音痴であったのに、今では娘に習ってパソコンも使い、検索機能で行方知れずとなった被害者の姉を捜し出し、そして娘には定期的に携帯でメールを送って会話するようになっている。 ただ前作の終わりに懸念したように、本書は『ナイン・ドラゴンズ』の事件から4ヶ月が経過しているとの設定だが、既にボッシュとマデリンとの生活はギクシャクしたものを覚えており、ボッシュは忙しいながらも娘といる時間を増やそうと腐心している。もう夜中に暗い部屋でただ1人でジャズを聴きながらベランダで黄昏るようなことはしないのだ。 そしてそれは前作を読了後に懸念したように更にボッシュにとって足枷となる。護る者を持ったボッシュはそれまでのように自分1人だけを護ればいいのではなく、娘マデリンも脅威から護らなければならなくなったからだ。 連続少女殺人鬼と目されるジェイスン・ジェサップ。彼がDNA鑑定の結果で一旦釈放された後、ボッシュを含めミッキー達は必ず刑務所に戻すことを誓う。悪人はすべからく罰せられなければならないと常に思うボッシュは自分の娘が同じ目に遭わされることを思うとその思いも一入で、ジェサップに対して明らさまに攻撃的な態度を取る。 しかしそのジェサップが自分の家の前にいたことを知るとパニックに陥る。なぜならそこには娘マデリンがいるからだ。 つまり常に狩る側にいたボッシュが娘という護るべきものを得たことで狩られる側にもなることになったのだ。 それはある意味初めてボッシュが得た弱さかもしれない。 犯罪者どもを相手に心を、魂をすり減らす仕事の中で娘との電話やメールのやり取りは癒しであるが、同時にそれを喪う怖さを得たことになったのだ。ジェサップが自宅に来たことを知ってからのボッシュの戸惑いと疑心暗鬼ぶりは尋常ではない。一匹狼で我が道を行く無双のボッシュを我々はこれまで見てきたが、親としての弱さを持つようになった新たなボッシュの今後が気になるところだ。私は同じ子を持つ親として彼に今まで以上に親近感を覚えるようになった。 この同じ価値観を所有する3人は実に絶妙なチームワークを見せ、手練手管で迫る練達の弁護士クライヴ・ロイスの攻撃を一歩一歩クリアしていく。 このコナリーが描くリーガル・サスペンスはロジックや裁判での検察側、弁護側そして判事たちを取り巻くロジックと巧みな人心操作術による天秤の傾きを愉しむだけでなく、評決間際で突然アクションの味付けが濃くなるところに特徴がある。 そしてそこからはボッシュの独壇場だ。悪を野放しにすることを許さないボッシュは獲物を追うコヨーテと化す。 娘のことを案じながらも絶対悪と信じていたジェサップにプレッシャーをかけ、そしてその正体を現せばその心理を読み解き、地の底まで追いかける。ミッキーとマギーが知の戦士ならばボッシュはまさに力の戦士だ。 そんな柔と剛を併せ持つチームが辿る結末はしかし苦いものだった。 奇妙な縁で結ばれた3人は再びそれぞれの道へと歩む。ボッシュは犯罪者を追いかけ、マギーは犯罪者に引導を渡し、ミッキーは被告人を無罪にするためにリンカーンで奔走する。 しかし再びこのチームはまた戻ってくるに違いない。それぞれの立ち位置は本書とは異なるかもしれないが、今やお互いの娘を引き合わせた縁で結ばれた絆はそう簡単には断ち切れないだろう。 悪が成敗されたのにこれほど爽快感がない物語も珍しい。コナリーはアメリカ法曹界が孕む歪みを巧みに扱って我々読者を牽引しながら、最後は渇いた地平へと導いた。 しかしそれでも本書は清々しい。それは子を持つ親たちがそれぞれの立場で最大限に尽力し、真摯に悪に立ち向かった物語だったからだ。 父親と母親は子を護るためなら必死になる。子供たちの知らないところで親たちはこんな戦いをしているのだ。 同じ娘を持つ親であるコナリーはもしかしたら自分の娘にこの話を届けたかったのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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真賀田四季13~14歳の物語。妃真賀島にて真賀田四季研究所の建設が始まったのがこの頃。
そして13歳は思春期の始まり。感情に流されない左脳型天才少女は生まれてすぐに自我に目覚め、このような右脳型思考とは無縁だと思われたが、やはり彼女も人間。人を好きになるという感情、綺麗と思うこと、後悔することを意識し出す。そう感情の揺れを感じるようになる。そのことについてはまた後ほど述べよう。 まず前作から本書に至って語られるそれぞれの登場人物たちのその後は以下の通りだ。 まず四季の世話役をしていた森川須磨は3ヶ月前に交通事故で死亡。泥酔し、歩道から車道に飛び出したところをトラックに撥ねられたのだ。しかし四季はこの事件に作為的な物を感じて、もはや四季の片腕となった各務亜樹良に事件の調査を依頼している。 四季の両親左千朗と美千代は夫婦仲が冷え切り、間もなく離婚しようとしている。 叔父の新藤清二は現在も親交が続いており、その関係性は更に深さを増している。 そんな背景の中、真賀田四季生い立ちの記とも云える4部作の第2部である本書では前作にも増してそれまでの森作品の登場人物が出演し、それぞれのシリーズの“その前”と“その後”が語られる。 そう、S&MシリーズとVシリーズの橋渡し的役割が色濃くなってきている。 そしてそれら登場人物たちの、それぞれのシリーズにおいても明確に語られなかった秘密や心情が真賀田四季のフィルタを通して更に詳しく語られる。それが実に面白い。 本書で初めて喜多北斗と犀川創平が登場する。 2人は高校生であり、犀川創平は高校に近いとの理由で父親の許で暮らしている。犀川創平と喜多北斗はN大の図書館で瀬在丸紅子と出くわすが彼女のことを母親と喜多には紹介しない。 保呂草潤平と各務亜樹良は遊園地で催されるヨーロッパ美術品の展覧会である物を盗み出すことを計画している。そして保呂草はその盗みを最後にしようと考えている。 それを阻止しようとするのが那古野署の祖父江七夏。彼女は保呂草を捕まえんと遊園地の警備責任者に抜擢されている。 そんな中たまたまその遊園地を新藤清二と共に訪れていたのが真賀田四季。彼女は保呂草とカップルに扮して変装した各務亜樹良に気付き、彼女に話しかける。 本書のメインはこの保呂草と真賀田四季の邂逅だろう。 更に保呂草の美術専門の窃盗犯である所以もまた明らかになる。 瀬在丸紅子は真賀田四季にその才能ゆえに仲間になって四季のプロジェクトを完成させるのを手伝ってほしいとオファーされるが、それをやんわりと断る。 またロバート・スワニィという新たな人物も登場する。彼が四季にどのように関わるのかは今後の物語で明らかになるのだろう。 夏は情熱の恋の季節と云う。 類稀なる天才少女真賀田四季もまた例外なく思春期を迎え、そして恋に落ちる。それは冷静でありながらもどこか破滅的、そして天才らしく冷ややかに情熱的な恋だった。 また四季が子供を欲しいと思ったきっかけが瀬在丸紅子であった。彼女が認めた天才の一人、瀬在丸紅子は子供を産んだことで全ての精神をリセットしたと四季は理解した。 彼女は今まで出逢った人の中で瀬在丸紅子こそが自分によく似ていると感じていた。しかし彼女は紅子のように自分はリセット出来ないだろうと考えてはいたが、何かを忘れるという行為に憧れていた。そして紅子と同じように好きな人の子供を作れば何かが変わると思ったのだ。 四季が愛を交わしている時、エクスタシーに達する瞬間、彼女の中の全ての意識が、思考が全て停止するのを体験した。 しかし彼女はやはり情よりも理で生きる女性だった。妊娠をする、子供を産むという行為は本来であれば祝福されるべきなのにそれにショックを受ける両親が理解できない。 第1作『すべてがFになる』で語られていた少女時代の殺人が本書によって描かれるのだ。 考えるだにおぞましい人生だ。 しかしその理路整然とした思考と態度ゆえに、森氏の渇いた、無駄を省いた理性的な文体も相まってその存在は血の色よりも純白に近い白、いや何ものにも染まらない透明さを思わせ、澄み切っている。 彼女は平気で死について語る。それはまさにコンピュータで使われる二進法、0と1しかない世界のように実に淡白だ。生と死の間に介在する人の情に対して彼女は全く頓着しない。必要であるか否かのみ、彼女の中で選択され、そして判断が下される。 そんな彼女の話はまだ秋、冬と続く。それ以降を知る私たちにそれまでの彼女を教えるかのように。 いや更に我々の知らない四季のその後へと続くだろうか。 このシリーズはそれまで謎めいた存在だった真賀田四季という女性について知るための物語であるのに、近づいたかと思えば、読めば読むほど彼女の存在が遠くなる気がする。 冬に辿り着いた時、真賀田四季は一体どこに立っているのだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(24件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
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アメリカの警察小説のシリーズ物ではアクセント的にアジアのマフィアもしくは悪党と主人公が対峙するという話が盛り込まれるようだ。ディーヴァーの『石の猿』然り。
アメリカ人にとって独特の文化でどこの国でも根を下ろして生活するアジア圏の人々、殊更中国人というのは実にミステリアスな存在であり、また中国マフィアが世界的にも大きな犯罪組織であることから、西洋文化と東洋文化の衝突と交流というミスマッチの妙は題材としては魅力的に映るのではないか。 ボッシュシリーズ14作目の本書はボッシュもアジア系ギャング対策班、AGUの中国系アメリカ人捜査官デイヴィッド・チューと組んで中国系マフィア三合会を相手にする。 しかしコナリーが凄いのは単に事件を介して中国系アメリカ人や在米中国人たちの文化や生活、思想に触れることでの戸惑いを描くことで作品に興趣をもたらしているだけでなく、中国系マフィアとの戦いに主人公ボッシュが必然的に深く関わるように周到に準備がなされていたことだ。 ボッシュの前妻エレノアが娘マデリンを連れて香港でプロのギャンブラーとしての生活をするのが11作目の『終決者たち』で説明がなされている。それ以降、作中では香港にいる娘との連絡を時折していることが触れられており、途中2作を経てLAに住むボッシュが在米中国人に起きた事件を捜査することで中国文化圏で生活する彼女たちに危難が訪れる本書を案出するのだから、全く以てコナリーの構想力には畏れ入る。 まず本書でボッシュが6年間香港への通い夫を務めていたことが明かされる。年に2回香港に行き、娘と妻と逢い、そしてその年には娘1人でLAを訪れ、2週間色んな事をして街を散策して過ごしたことも描かれている。娘を香港に帰した瞬間は心にぽっかり穴が開いたような思いがしたとも。 次の逢瀬を待ち遠しく思いながら年月を過ごすボッシュの述懐も書かれている。 そんな娘煩悩なボッシュに訪れるのが担当した事件の容疑者、三合会というマフィアの構成員を逮捕したことによる代償としての娘の誘拐。しかも自分の手の届かない香港という異文化都市。 これは子を持つ親ならばこれ以上ない恐怖であることが解るだろう。不屈の男ボッシュもまたその例外ではない。 人は護るものが出来ると強くなる。 しかし同時に護るものが出来ることで弱くもなる。 護るものが出来るとその人にとって支えが出来る。どんな苦難に陥っても護るものがあることでそれを乗り越える原動力となるのだ。自分を必要としている人がいることで心に一本の芯のようなものが出来る。 一方で護るものはそのまま弱点ともなりうる。自分の支えとなっているものを失うことで人は弱くなる。、自分を必要としている人は即ち自分が必要としている人だったことに気付かされ、それを失うことが恐怖に変わる。 ボッシュは自分の娘マデリンを授かった時に自分が救われたと同時に負けたことを知ったと云い放つ。自分が悪に対して異常な執着心を持って立ち向かうためには弱みのない人間でないといけないと思っていたが、娘が出来たことでそれが一転する。 娘は彼にとってかけがえのないとなった瞬間、弱点になったことを。刑事という職業に就く人間はおしなべてこのような想いを抱いているのだろう。 娘を誘拐されたボッシュの焦燥感は子を持つ親ならば誰もが理解できる気持ちだ。 特にボッシュが娘を持つようになったのは作者コナリー自身が娘を持ったことで得た気持ちをそのまま反映しているからだ。従って本書でボッシュが抱く、云いようのない恐怖感はそのまま作者が同様の状態に陥った時に抱くであろう心持と同義なのだ。 従って本書はこのマデリン誘拐をきっかけに静から動へと転ずる。 愛娘を誘拐されたボッシュの焦燥感と三合会への怒りをそのまま物語のエネルギーに転じ、コナリーはボッシュを疾らす。ボッシュ自身常に動いていないとダメだと常に口に出す。それは誘拐事件が発生からの時間が長引けば長引くほど解決する確率がどんどん低くなるからだが、やはりここはボッシュが娘の安否に対して気が狂わんばかりに焦っているからだ。 彼は地元の香港警察の三合会対策課の手を借りようとも思わない。誰が三合会と通じているか解らないからだ。 彼は妻エレノアの協力も疎ましく思う。自分で招いた種をどうにか回収したいからだ。 彼はエレノアの新恋人サン・イーの協力も疎ましく思う。 彼はAGUのデイヴィッド・チューへ協力をお願いするのも躊躇う。チューもまた情報漏洩者と疑っているからだ。 彼はとにかく動く。直感的、本能的な行動力はエレノアをして一匹狼のように置き去りにして動かないでくれと詰られるほどに。 撃ち込まれた一発の銃弾。ボッシュはかつてエレノアのことをそう呼んだ。どんな女性と付き合おうが最後はそこに帰っていくボッシュにとっての不変の存在がエレノア・ウィッシュという女性だった。 彼女は今回ボッシュが担当した事件のせいで自分の娘が誘拐されることになったことを知り、ボッシュを激しく非難し、今後の娘との2人の時間を作ることは許されないとまで云われながらも、ボッシュはその怒りでエレノアがこの困難に立ち向かえるのなら甘んじて受けようとまで思う。 エレノアはボッシュ程にはボッシュのことを強く思っていないように見え、更には仕事で知り合ったボディガードのサン・イーという新たな恋人が出来たことを目の当たりにしてもボッシュは最後には2人は一緒になるのだという、離れがたい絆を感じていた、それがエレノア・ウィッシュという女性の存在だった。 娘を亡くした時に自分は今後生きていけそうになくなることを意識し、ボッシュはこの未知の地香港で残されたサン・イーに協力を求める。同じ女性を愛したこの男を信頼し、相棒となるのだ。 本書はこの相棒の物語とも云っていいだろう。 まずは前作から引き続いてボッシュの相棒を務めるイグナシオ・フェラス。 しかし彼は前作で捜査中に負った負傷がトラウマとなり、事件現場に行くよりも刑事部屋で事務仕事、書類仕事をしていることを選ぶ。3人の子供の子守疲れを理由にし、午後3時40分から帰り支度をはじめ、定時に署を出る、典型的なサラリーマン刑事となっている。担当する事件があるのに週末は病気だと称して家にいて、上司のギャンドル警部補からも役に立たなかったと云われる始末。しかも自分の思い込みで犯した捜査のミスをお互いに擦り付け合う、実に下らない刑事に成り下がってしまっている。 ボッシュはこの事件の後、コンビ解消を上司に依頼することを決断する。 このフェラスに変わって実質的に相棒を務めるのが、中国人殺害事件で援助をしてもらうことになったAGUのデイヴィッド・チュー刑事だ。アメリカ生れながら両親の教育で中国語を話すこの刑事もまたボッシュに全面的な信頼を置かないでいる。 というよりもこれはボッシュの、初対面の相手に対する疑い深い性格から来ており、チュー刑事は読者の目から見ても着実に任務をこなす実直な刑事として映る。 彼はボッシュが中国人を見る目に差別的な物を感じとる。事件の主導権を常に握り、あまり情報を共有しないボッシュの態度も含めて彼はボッシュがかつてヴェトナム戦争に出兵し、ヴェトコンを多数殺害したことに由来してアジア人をそのように見ているのではとまでボッシュに云い詰る。 しかし彼はそんな蟠りをボッシュに持ちながらもボッシュの無理難題にきちんと対応する、生粋の刑事だ。 そして香港で相棒を務めるのがエレノアの恋人サン・イー。最初ボッシュは彼から三合会に情報を洩れることを恐れて排除しようとし、ほとんど信用せずに運転手としてしか扱わないが、同じ女性を愛した者として、ボッシュが自分の犯した過ちを吐露し、そして通じ合う。 サン・イーはかつて自分が三合会のメンバーだったことが左目をカタに三合会を抜けたことを告白する。そしてマデリンを自分の娘のように思い、ボッシュに協力を惜しまない。 そして最後の相棒はなんとあの弁護士ミッキー・ハラーだ。 ボッシュが娘救出のために元妻を喪い、三合会の手によって殺されたマデリンの友人一家、そしてマデリンを誘拐した一味を殺害したことを聴取するためにロス市警を訪れた香港警察が全ての事件をボッシュとサン・イーに押し付けようとするのを見事な弁舌で未然に防ぐ。 フェラスは別にしてボッシュは今回相棒たちの協力と配慮で助けられる。しかしボッシュは彼らに対して決して全てを委ねるほど気を許さない。実に自分本位な人間に移る。ハラーにでさえ、彼の娘がボッシュの娘と同世代だから今度一緒に逢わせようとの提案もハラーと距離を置きたいボッシュ自身の気持ちから保留にする。 いやはや何とも付き合いにくい男である。 またこれはディーヴァー作品でも感じたことだが、昨今のアメリカの警察小説はどうやら話題のドラマの影響を受けざるを得ないようだ。刑事の勘や写真やビデオ、そして書類の中から齟齬や手掛かりを発見して犯人を見つけるのが醍醐味の1つであったコナリー作品においても、『csi:科学捜査班』などの影響を受けたかのように、今回犯人を特定するのに最新技術が用いられる。 それは静電向上という技術でこれは今まで薬莢についた指紋は発砲された際に起こる爆発で消えてしまい、例え薬莢を拾ったとしても大きな手掛かりにならなかったが、汗に含まれている塩化ナトリウムが真鍮と反応して腐蝕させる極微化学反応を利用して、電圧をかけて炭素の粉を掛けて指紋を復活させる手法だ。この(当時の)最新技術が事件の突破口を開くのだ。いやあ、ボッシュシリーズも変わったものだ。 しかしこのシリーズは今まで色んな新展開を見せながらも結局はボッシュが一匹狼に戻ることを選択してきた。恐らく作者自身、ボッシュという人物は常に業を抱えて生きている男として設定しているので、幸せな家庭や娘との温かな交流が向かないと思っているのだろうし、また書きにくいのだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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真賀田四季。
森氏のデビュー作から登場し、常に森ワールドにおいて絶対的な天才として語られる女性。 本書はそんな謎めいた彼女の生い立ちをその名前四季に擬えて春夏秋冬の4作で語ったシリーズの第1作目に当たる。そしてこのシリーズはS&MシリーズとVシリーズに隠されたミッシングリンクを解き明かす重要なシリーズだとも云われている。 従って真賀田四季がまだ子供の頃からの話が綴られている。 3歳に彼女が父親の書斎に入って片っ端から本を読んでいるのに気付く。その中で一番面白い本は辞書だと彼女は話す。数カ月で英語とドイツ語を完全にマスタし、5歳で彼女は大学に連れていかれ、そこで日がな一日中図書館に籠り、学術書を読み耽る。 6歳になると今度はそれを作ることに興味を覚え、一流のエンジニアの知識を得たものの、電動工具や工作機械を使うにはまだ幼過ぎたため―何しろまだ6歳だ!―、父親の大学から修士課程を修了した森川須磨を助手にして電子工作に励む。しかし彼女は野心多き女性であり、おまけに容姿も良かったことから真賀田四季を介して知り合う男性と次々に関係を持って事情通となっていく。出張の多い教授である四季の両親の代わりに彼女を預かっている叔父の新藤病院院長新藤清二に彼の病院に勤める有能な若い医師浅埜たちがその対象だ。 やがて彼女は四季の物づくりの手先だけでなく、マネージャの役割を担っていく。いや寧ろ森川の技量では四季の作りたいものが作れなくなってきたことが多い。既に森川は四季にとって便利な存在から採るに足らない存在になってきていた。 そんな物語の語り手は其志雄という名の男性の一人称で語られる。 私はこの名前を見てすぐにVシリーズの最後に登場した栗本其志雄を想起した。 自分を透明人間と称する彼は真賀田四季がその頭脳を認めた唯一の存在であり、彼女と対話する機会が最も多い存在となる。しかし物語が進むにつれてこの其志雄の存在がぶれてくる。彼はある事件の後、渡米するのだが、それ以降も真賀田四季の傍にいるように描かれる。 このどこか歪な物語の構造はようやく物語の3/5辺りで判明する。 そしてVシリーズの各務亜樹良と瀬在丸紅子も登場する。最終作『赤緑黒白』で描かれた栗本其志雄との邂逅シーンの再現で。その時は其志雄のことを驚きの目で見ていた紅子の側から書かれていたが、本書では栗本其志雄の側から瀬在丸紅子が侮れない人物として描かれている。実に面白い。 真賀田四季が生まれてから13歳になるまでが描かれる。 真賀田四季を描くこの4部作において本書は彼女の成長を描いていると云えよう。 真賀田四季は自分の頭脳の中でひたすら続く思考と演算に集中するがために他者との会話も必要最低限度で、相手の度量や頭脳を見極めると早々に興味を失くし、会話をしなくなる。彼女の頭にあるテーマをどうにか生きているうちに解明することに専念するには会話することも疎ましかったのだ。常に彼女は時間を惜しみ、考えたいことがいっぱいある状態だ。 つまり四季の頭脳はまさしくコンピュータのCPUそのものなのだ。 従って彼女は周りから自分の考えていることを文字にしてノートに書き留めておく、もしくは声に出して録音しておくことを周囲に勧められるが、そんなことでは追いつかないとして一蹴する。 それはそうだろう。パソコンの演算画面で一気に数十行のプログラムが書き出される様はそのまま四季の頭の中を示しているのだから。 従ってコンピュータの発明によって四季はようやく自分の処理能力と同等の速さを誇る機械が得られたことに喜ぶ。そういう意味では真賀田四季は恵まれた天才だったのかもしれない。遠い昔にもしかしたら真賀田四季と同じような頭脳を持った天才がいてコンピュータがないことで自分が解き明かしたい命題を1/10程度、いやもしくはそれ以下の成果しか挙げられてなかった偉人もいたかもしれないのだから。 真賀田四季という不世出の天才が登場したのは本書刊行までではS&Mシリーズの『すべてがFになる』と『有限と微小のパン』のみ。後はVシリーズの『赤緑黒白』にカメオ出演した程度だが、それは四季としてではなかった。正直たったこれだけの作品の出演では真賀田四季の天才性については断片的にしか描かれず、私の中ではさも天才であるかのように描かれているという認識でしかなかった。 しかしこの4部作で森氏が彼女の本当の天才性を描くことをテーマにしたことで彼女が真の天才であることが徐々に解ってきた。 そうはいっても上に書いたような3歳で辞書を読み、数カ月で英語とドイツ語を完全にマスタし、5歳で大学の学術書を読み耽り、6歳で物を作り出すといったエピソードで彼女が天才であると思ったわけではない。 そんなものは言葉であるからどうとでも書けるのだ。 例えば仏陀なんかは生まれてすぐに7歩歩いて右手で天を差し、左手で地を差して「天上天下唯我独尊」と叫んだと云われているから、こちらの方がよほど天才だ。つまりこれもまた仏陀が天才であったと誇張するエピソードに過ぎなく、これもまた想像力を働かせばどうとでも強調できるのだ。 では真賀田四季が天才であると感じるのはやはり彼女の思考のミステリアスな部分とそれから想起させられる頭の回転の速さを見事に森氏が描いているからだ。常に感情を乱さず、もう1人の人格を他者に会話させながら、書物を読み、そして相手もしたりするところやそれらの台詞が示す洞察力の深さなどが彼女を天才であると認識させる。 こういったことを書ける森氏の発想が凄いのである。 天才を書けるのは天才を真に知る者とすれば、森氏の周りにそのような天才がいるのか、もしくは森氏自身が天才なのか。 これまでの森作品と今に至ってなお新作で森ファンを驚喜させるの壮大な構想力を考えるとやはり後者であると思わざるにはいられない。 最後、四季は外の空気の冷たさを感じ、まだ蕾も付けていない桜の木を見ながら春を思って物語が閉じられる。つまりそれは常に内側に興味と思考を向けていた四季が外に向けて感覚を開かせ、自分以外のものに思考を巡らせたのだ。 春は出逢いと別れの季節である。 真賀田四季は2人の其志雄と別れ、そして瀬在丸紅子と西之園萌絵と出逢った。いやそれ以外の人物ともまた。 続く季節は夏。夏はどんな季節であろうか。それを真賀田四季は気付かせてくれるに違いない。 さて残りの季節で四季はどのような変化を見せ、更にどのような天才性を見せてくれるのか。 全く以て今は想像がつかない。『すべてがFになる』の舞台になった妃真加島への道行とそれから『有限と微小のパン』までの行動とそれ以降の行く末もまた描かれるのだろうか。 ともかく森氏の描く天才を愉しみにすることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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風間一輝。
1999年に癌で亡くなり、既にこの世にはいない作家。 その作品は多くないが、私は彼のデビュー作『男たちは北へ』で大いに心打たれ、たちまちその世界に魅了されてしまった。 そんな彼の作風はその第一作がそうであったように作者自身の影が投影された人物が主人公を務めるところに特徴がある。無頼派的な人物が作者の言葉を代弁するかのように心情を吐露し、そして難癖を付ける。 それは決して付き合いやすさを感じる男ではないけれど、その武骨さが何とも魅力的に見える、不思議な雰囲気を醸し出している。 本書は断酒小説と銘打たれている。そう、アル中がいかにアルコール依存症を同類の仲間たちと共に克服するかが綴られている。 従ってここに登場する人物たちは極度のアル中ばかりで信じられないほど酒を飲む。全編これ飲酒シーンばかりと云ってもいいほどの内容だ。 勿論酒を飲んでばかりでは話は進まない。主人公が流れ着き、やがてそこで知り合い飲み友達(アル中友達?)となった仲間たちがドヤ街山谷で続発する真夏の夜の連続行き倒れ事件の謎に肉迫していくことでトラブルに巻き込まれていくのだ。 さてそんな酔いどれたちが繰り広げる舞台となる山谷についてその独自の文化を詳らかに描く。 例えば今では一般的になった酎ハイはこの山谷で金のない者たちが安い焼酎をソーダで割って飲んだ焼酎ハイボールが始まりらしく、なんとこの山谷が発祥の地らしい。 また流れ者が行く着くこのドヤ街でもそれなりに住処についてはランクがあるらしく、1室に二階建てベッドをたくさん置いたベッドハウスに始まり、畳2畳から4畳半までの広さがある個室、そしてビジネスホテルに代表される個室ホテルと大きく3つに分けられる。 そんな社会の底辺の落伍者たちの社会が克明に描かれる。それはまるで作者自身が山谷にしばらく暮らしたかのように鮮明だ。 しかしやはり物語の中心は主人公北岡吾郎とその仲間初島肇と木沢完らが行う断酒計画の顛末だ。 その計画とは日中の午前10時から午後6時までをワンセット、次の午後6時から午後10時までをもうワンセットと設定し、第1日目はそれぞれ6杯ずつ飲み、2日目はそれぞれ5杯とワンセットごとに1杯減らしていく。そして6日目がそれぞれ1杯ずつとなり、7日目でとうとう酒を絶って、それを継続させるというもの。 これが彼らにとって悪夢のカウントダウンのように徐々に効いてくる。第3日目の日中4杯、夜4杯の段階から禁断症状が出てくる。そして寝ても悪夢しか見ない。それは幻覚や幻聴と云った類のもので、彼らにとって夢なのか現実なのかが区別がつかず、そして際限なく恐ろしい夢ばかりを見てしまう。寝るのが怖くなるので置き続けるが、その間は手の震えが止まらず、脂汗が滴り、ひたすら苦しむばかり。 寝ても地獄、起きても地獄。その地獄から解放されるには酒を飲むしかない、といった堂々巡りの無間地獄に苛まれる。 アルコール中毒ことアル中、最近ではもはやアルコール依存症と呼ぶようになったが、昔はよくこのような叔父さんを見たものだった。終始手が震え、顔は酒焼けで真っ赤、話すこともよく呂律が回っていないため不明瞭。典型的なアルコール中毒者を小さい頃私が住んでいた界隈でも見かけた記憶がある。しかし最近は見なくなって久しく、忘却の彼方だったため、これほどまでに大変なのかと再認識させられた。 アル中にも種類があるらしい。本書では初島、北岡、桐沢それぞれが同じアル中でもタイプが違うように書かれている。 飲酒後いつ頃禁断症状が現れるかで分かれており、それぞれ8時間後に訪れる即刻タイプ、1時間後に訪れる1時間タイプ、そして1日は持つ1日タイプ。 私もお酒は好きで、週に一回はジョギング後に缶ビール1本に焼酎湯割り1杯と缶チューハイ1本を飲む。 平日は飲まないが飲み会があればビールに始まり、日本酒、ワイン、ウィスキーに焼酎とチャンポンするのが当たり前になった。ウィスキーや焼酎も水割り、お湯割りで飲んでいたのが、今ではロックで飲むのが通常になってきた。 しかしそれでも二日酔いになることはなく、耐性が強くなってきたと思っていた矢先に最近泥酔して失敗したこともあった。 幸いにして私は本書の主人公らと違い、日常生活には支障が出ていないが、上の状態から逸脱し、週一が毎日に変わり、やがて酒量が増えだすと私も彼らの仲間入りになることだろう。彼らは私にとっていい反面教師になった。 彼らのそうまでしてまで断酒を決行するのはそれぞれに拠り所があるからだ。 云い出しっぺの初島は素面で一般人が遊びに訪れる公園を散歩したり、休んだりしたいからだ。 アル中の彼が行くと日中から酒臭い男を見た子供連れの母親や夫婦が嫌悪感剥き出しに立ち去るのが嫌だからだという。彼はそんな慎ましい願いのために断酒に望む。 主人公の北岡はかつて自分が捨てた街宇都宮で最後に行ったバーのマスターの姪村雨零子に再び逢いたいからだ。彼女の前に酔っ払いの姿ではなく、まともな素面の人間で綺麗な姿で逢いたいからだ。 そうこの北岡という男は元サラリーマンで広告代理店の支店長にまでなった男は我々と近い価値観がある。 暴力など振るったことがなく、小学生から大学まで続けていたサッカーで鍛えた脚を武器に暴力団と戦い、人生を踏み外した男。 彼はボーナスを暴力団に奪われ、それを取り戻すために彼らに復讐する。警察に被害届を出すことを敢えてせず、自分で戦うことを選ぶ。 それは多分彼が日本の街の闇を知ったからだろう。 日向で生きてきた男に初めて襲い掛かった闇。暴力という理不尽な行為に屈した自分が許せなかったのだろう。 それを彼はどうしても克服したかった。彼の中の獣が目覚め、その瞬間家族や仕事といったしがらみからも解放されたのだ。 だから彼は復讐を終え、ボーナスを取り戻した後にこう自問自答する。 第二の人生に踏み出すなどというわけでなく、今までと違った生き方をしてみることにした、と。 彼は闇を知ってしまい、いわばコツコツ働いてお金を稼ぐといった間接性よりもほしい物は他所から奪うといった直接的な生き方、明日など考えず、今を考える生き方に魅了されたのだろう。妻と子供を養うために引かれたレールから外れることを選んだ。 だから知人の紹介で仙台で仕事を得てもそれはかつての自分の延長戦であったから続かなかった。そこでの暮らしは憎悪もなければ愛情もなかったと呟く。 つまり新しい生き方としてはあまりに無味無臭、平穏すぎたのだ。彼はもっと逸脱したかったから、東京に戻り、何者かも問われずに生きられる山谷に住み着いたのだ。 我々一般社会人からすれば彼はドロップアウトした落伍者に移るだろう。 しかし彼にとっては本当の生き方を選んだ世捨て人と思っている。彼は自由を手に入れたのだ。 しかしその代償として酒に溺れ、アル中になってしまう。 やがて主人公北岡吾郎の仲間木沢完の正体は桐沢風太郎であることが解る。そう、売れないグラフィック・デザイナーを生業にしたあの『男たちは北へ』の主人公であり、作者自身を色濃く想起させるあの無骨な優しき男だ。彼がフリーライターの初島に誘われて山谷の取材をすることになり、一緒に移り住むようになったのだった。 あの自転車乗りとこんな形で再会するとは。確かにアル中ではあったが、ここまで重度とは思わなかった。男桐沢の意外な側面を見た思いがした。 しかし桐沢の正体が解ってからは物語は北岡から彼にシフトする。何しろ前作で自衛隊たちともやり合った胸の据わった男だ。戦う術を心得ており、おまけに闇の情報へも詳しい。 この桐沢との再会は思いもかけないプレゼントに思え、素直に嬉しかった。 本書では元暴力団員だった宇都宮でバーを営むBAR酔虎伝のマスター村雨泰次と北岡が心の拠り所としている姪の零子、そして桐沢の切り札となる私立探偵の室井辰彦など今後も風間一輝氏の作品世界に登場しそうで、彼ら彼女らは今後とも心に留めておかねばならないだろう。 そしてなんといってもこの作家、無骨な男たちの友情を書かせたら非常に上手い。 桐沢がリンチに遭い、仲間たちが集まり、暴力団員3人に復讐をする顛末はほとんど『スタンド・バイ・ミー』のような青春小説の煌めきを見せる。 1人1人ではただの酔いどれだが、束になって掛かればヤクザさえも一網打尽。世は捨てたがプライドは捨ててない男たちの生き様が鮮やかに描かれる。 しかしやはり酔いどれは酔いどれ。ここにはどうしようもない男たちの足の引っ張り合いもまた描かれる。アル中だからこその団結力は裏返せばお互いがアル中であることを確認し合い、そして安心していることを意味する。 従って断酒なぞをしてそこから脱け出そうとすれば真人間になった仲間に置いていかれるのではという焦燥感に駆られ、足を引っ張ることも辞さない。彼らの団結力とは皆が同じ人種であることの安心感に由来していることが解ってくる。 本書はようやく週休二日制が普及し出し、今では死語になっている「ハナキン」という言葉が出来た頃の話だ。 しかしだからと云って本書で描かれているドヤ街山谷は令和の今なお実在し、そこには初島、北岡、桐沢や彼らを取り巻くオヤジたちが今なお半ばホームレスのような状態で生活しているのだ。東京スカイツリーのお膝元のような場所に今なお彼らは住み着いている。 47都道府県それぞれに異なる文化や風習があるように巨大都市東京都1つ取ってもそれぞれ独自の規律と文化で生きる人たちもいる。山谷には山谷でしか通用しないルールと暗黙の了解があり、それが今なお連綿と続いている。 サラリーマンで支店長まで登り詰めた北岡がこの異質な秩序で形成されるドヤ街で生きゆくさまはもしかしたら近い将来の私の姿かもしれない。 彼ら人生の落伍者たちの、そして酔いどれたちのブルース。 地図にない街山谷。 それは未来という地図のない街でもある。 明日なき街を行く2人にまたどこかで出逢うことだろう、間違いなく。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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泥棒バーニイ・ローデンバーシリーズも本書が最終作だそうだ。
“だそうだ”というのはブロックはこれまでも最終作と思しき作品を著しながら、思い出したように続編を書くからだ。しかし御年80歳であることを考えるとさすがにこの謳い文句は本当のように思える。 今回の話はとにかくいつもとは異なる。軸となるストーリーはあるものの、そこに至るまでがいつもより長く、余分なエピソードや蘊蓄の量がかなり割り増しされているのだ。 軸となる話とはミスター・スミスなる謎の人物からフィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の生原稿、そしてアメリカ独立宣言の署名者の1人バトン・グインネットを象徴したボタンの意匠を施した使途スプーンの所有者からの盗みと並行してレイ・カーシュマンが担当する泥棒による富豪の老婦人殺害事件の捜査の手伝いだ。 実際本筋のバーニイが謎の人物ミスター・スミスから依頼された最初の盗みを始めるのが80ページ目辺り。そしてお馴染みの宿敵、刑事のレイ・カーシュマンがバーニイに疑いを掛けた泥棒による老婦人殺人事件を持ち掛けるのが120ページ目辺り。更に本書の題名となっている使途スプーンを盗む計画が動き出すのは190ページ目辺りと、実にとびとびに物語は展開する。そしてこれら約4~70ページの間隙で語られるのはバーニイの女友達で時々盗みのパートナーを務めるペット美容師のキャロリンと繰り広げる多数の蘊蓄とエピソードで彩られた、あっちこっちに脱線する会話なのだ。 それらは時に冗長に感じられながら、ブロックお得意の会話の妙味が込められていて面白いのは事実。 物語はこのキャロリンとバーニイ2人の行きつけの店<バム・ラップ>で飲みながら取り交わされる会話が中心となっていると云っても過言ではない。その内容は多岐に亘り、昨今の書店経営事情、注目の作家の話や同性愛者であるキャロリンが語る同性愛者への社会の対応の変化―彼女は同性婚の承認を求める運動に参加していたらしい―、さらにこれに加えて謎めいた依頼人ミスター・スミスの自分の熱狂的な蒐集癖に纏わる逸話の数々も盛り込まれる。 自分の本名がバートン・バートン5世であることからボタン蒐集に熱を挙げていた彼はやがてボタン(英語読みではバトン)と名の付く物ならば何でも集めることになった。勿論彼のボタンコレクションもかなり稀少な物が多く、アメリカが選挙運動のために記念ボタンを作っていることや十二使徒の像をあしらったスプーンの存在と最高の銀細工師によるものもあり、それを模した特注で作らせた15本セットの13の植民地を象徴する当時の市民の鑑みたいな人物をあしらったものまで存在すること、そしてそれがまた銀細工師の話や歴代アメリカ大統領の逸話と大統領選そのものの逸話などを呼び込み、話はどんどん膨らんでいく。 さてそんな蘊蓄と脱線で彩られたシリーズ最終作。中身はそれでも本格ミステリばりの内容となっている。 事件の謎解きをバーニイは自分の店で関係者一同集めて、さながら昔の本格ミステリのように行う。その前にレックス・スタウトのネロ・ウルフシリーズを読み直して、どういう風に進めればいいのかを参考にするのが面白い。 そう、上でも少し触れたが、本書はミステリ作品が色々取り上げられている。 ミスター・スミスが来たときはバーニイはディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズの1冊を読み耽っており、我々と同じように事件が解決しても残り40数ページ残っていると油断が出来なかったり、アメリアが毎度危機に陥るが結局は助かって、次作へと続く、そういうことが解っていながらも騙される。それも解ってはいるのだが、と。 またマイクル・コナリーのボッシュシリーズも読んでいるようだ。書名は明かされないものの、ボッシュが刑事を辞めて私立探偵になった頃の作品とあるから『暗き聖なる夜』か『天使と罪の街』のどちらかだろう。面白かったがボッシュはどうにもやりにくそうにしていて警察に戻って三人称で語ってもらう方がよさそうだ、なんてニヤッとする感想まで述べている。 またミステリ以外でもジョン・スタインベックは名高いが今では『二十日鼠と人間』以外ほとんど手に入らないことなども触れられている。 これらは多分に作者本人の心情や感想だろう。従ってブロックが今どんな作品に注目しているかが解るというものだ。 また昨今の書店経営事情の困難さを象徴するかのように本書が幕を開けることにも触れておきたい。 最初の客がバーニイの店でタイトルが解らないけれども、ずっと探していた本を見つける。恰も購入しそうにレジに来るが、タイトルをアマゾンで調べると電子書籍化されてて、そちらの方が13ドルも安く手に入るので止めることにしたと云って出て行く。 また常連のモーグリという男性は大量に本を買ってくれるが、彼はその本を手元に置いておきたいわけでなく、自身がウェブで売るためのせどりをしていることをバーニイは知っている。常連客の1人が亡くなり、その蔵書を売りたいという連絡を受けて家に云ったら、息子が1冊ずつネットで売ることにしたので止めたと断られた。 ネットの繁栄が実店舗の書店・古書店へもたらす不景気の煽りをバーニイの経営するバーネガット古書店にも訪れていることが描かれている。これが今の書店業界の現実なのだ。 しかし幸いなことにバーニイは金に困らず、住むところも持っているから古書店主兼泥棒という人生は続いていくことだろう。いやバーニイのような余裕のある人でないともはややっていけないのかもしれない。 しかし泥棒稼業も厳しくなり、今ではカードキー型のホテルやマンションが増え、鍵開けの技術が通用しなくなってきている。これらは我々一般人にとっては実にいい話であるが、それでも策を弄すれば侵入は出来るように本書では描かれている。 例えば恰もゞマンションの住民に見せかけて一緒にセキュリティを通り抜けるなど。これは西洋人が見知らぬ人同士でも気軽に声を掛け、話す習慣を持っているからこそできることであり、日本だと他者に対する警戒心が強いため、なかなか通用しないやり方だろう。 しかしそれでもやはり本書は最終作であるようだ。 キャロリンが今回の事件をレイ・カーシュマンと共同で解決したことから、泥棒の経験を活かした犯罪コンサルタントとして捜査に協力するという提案をするが、バーニイはかつて自分が愛読していたダン・J・マーロウのアールとドレークシリーズを引き合いに出し、犯罪者のドレークが改心して政府機関で働くようになってからシリーズを読むのを止めたと話す。つまり泥棒はあくまで泥棒であるからこそこのシリーズは面白いのであり、それが正義の側になってしまうともはや違う話になってしまうのだとブロック本人が仄めかしているのだ。 本書はブロック75歳の時の作品。引導を渡すには頃合いだったのだろう。 また1つ私が愛読してきたシリーズが終わってしまった。哀しいけれど何事も引き際が肝心で、むしろこれほどのクオリティを保って幕を閉じることが有終の美というものだ。 つまり本書における数多くの蘊蓄や寄り道はブロックの内なる書きたいことを最大限に放出したことに他ならない。彼の中にある興味あること、書きたいこと、教えたいことを極力多く入れたかったのだ。 老人が若者に酒を片手に蘊蓄を傾けるかのように、古きアメリカの歴史や昨今の出版事情などを聴くが如く、読むのが本書の正しい読み方だ。 バーニイよ、物語は終わっても貴方の人生は続くことだろう。ニューヨークで、そして我々の心の中で。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリー・クイーン存命中、アンソロジストとしても活躍していたアルフレッド・ダネイ氏の許に日本版『黄金の12』を選出する企画が始まった。東京にEQJM(エラリー・クイーンズ・ジャパニーズ・ミステリー)委員会が編成され、1970年以降に発表された短編ミステリの中から厳選された作品を英訳し、クイーンの許に届けられ、更にそこからクイーンのお眼鏡に適った12編を基に組まれたアンソロジーが本書である。
その後この企画は3回続き、全3巻のアンソロジーとして刊行されている。 その第1集が本書である。カッパ・ノベルスとして刊行されたものの文庫版が本書で、ノベルス刊行時は1977年。70年に活躍したミステリ作家の歴々がその名を連ねている。 それは平成の今なお映画・ドラマなどで映像化された際に番組名にその名が冠として付く錚々たる面々であり、今なお売れ続けているベストセラー作家たちもいる。やはり彼らのネームヴァリューは伊達でなく、本格ミステリの伝説的存在クイーンにも、いや世界にも通用する実力を兼ね備えていたことを証明するようなアンソロジーでもある。 さてその幕を開けるのは石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」だ。 石沢氏の小説は初めて読んだが、実に面白く、読み応えがあった。クイーンの短評で知ったが、寡作であるが1作1作が十分練られており、丁寧な準備の下で書かれているため優れているというのは本当だろう。 本作は社内でも評判が良くもなく悪くなく、家庭円満で近所の評判もいい一人事課長が定年を迎える1年前の忘年会で毒殺されるという奇妙な事件が題材となっている。しかしその可もなく不可もない性格ゆえに周囲は自分たちが胸に抱える秘密や困り事を打ち明けるのに最適の人物となった。従って上司部下の上下問わず、彼には色んな秘密が打ち明けられる。 隠密裏に進む合併計画、社長妻との浮気、ホモ志向である自分の性癖、うやむやになった轢き逃げ事件、家族ある社員との不倫とその結果招いた中絶。 どこかで聞いたような、外に出せない秘密の数々である。そんないわば心の澱を抱える社員たちの駆け込み寺となっていたのが宇佐美であった。 彼はただ聞くだけだが、裏返せばそれは様々な社員の秘密を知っている事情通となる。 この前に読んだコナリーの『スケアクロウ』でも強調していたが、情報を扱うのはセキュリティも大事だが、最も大事なのはそれを扱う人だ。 会社の内情という組織の秘密と個人の秘密が見事に溶け合い、全く無駄のないミステリ。開幕投手として申し分ない。 さてその勢いはビッグネーム松本清張氏の「奇妙な被告」に至っても衰えない。 本作で登場する犯人はもっとも恐ろしい犯人である。本作もまた人への信頼を揺らがさせられる、興味深い作品だ。 続く三好徹氏の「死者の便り」は題名通り、死者から手紙が届くという奇妙な発端で幕を開ける。 新聞社に送られてきた2ヶ月前の消印が押された死者からの手紙という本格ミステリの導入部としては実に魅力的な謎で幕を開ける本作は石沢氏や松本氏の作品同様、実に社会的なテーマへと繋がっていく。 そして本作の真相は実に皮肉だ。 森村誠一氏も昭和を代表するミステリ作家の1人だが、彼もまたクイーンのお眼鏡に適った。「魔少年」はアンファンテリブル物である。 アンファンテリブル、つまり恐るべき子供の物語で、餓鬼大将でクラスの友達に先生に告げ口されたり、お願いを断られたことを逆恨みしてその子たちの大事な物を奪い、もしくはその身を危険に晒すように強要する少年の悪戯がエスカレートする様が描かれるが、この真相は読んでいる途中から解った。 いわば大人社会でも起こりうる話を小学生の世界に落とし込んだ話だ。子供が残忍なことを計画し、実行することで事件の恐ろしさが否応なしに増すのはやはり子供に純粋さを望む大人の心理が働くからだろうか。 さて次も大御所が選ばれている。夏樹静子氏の「断崖からの声」は世捨て人とその妻との間に陥った男が遭遇する事件を扱っている。 自分の事故で芸術家の命でもある視力が損なわれた主人のために一生を捧げることを決意した女。東京から福岡へ隠遁生活を続ける夫はしかしそんな単調な生活に耐えられなくなり、東京に再び出るための資金を得るため、妻が海で遭難するという偽装工作を企てる。 またも大御所の登場。西村京太郎氏の「優しい脅迫者」は先の読めない展開で実に読ませる。 子供の轢き逃げをしてしまった理髪店主が目撃者に強請られる。しかも定期的に訪れて、そのたびに金額は倍増する。まるで蟻地獄に陥ったかのような絶望の中、脅迫者を調べると売れない俳優でなんと前科も何もない、根っからの善人であることが解る。更にとうとう思い余って殺してしまった際に、まるで店主を庇うかのような言葉を発して亡くなる。 この理解しがたい状況が最後脅迫者の遺書で雲散霧消する。ただ「その時」が来るまでの理髪店主にとってはその毎日は悪夢以外何ものでもない。私はこの物語には続きがあるようにしか思えない。そう、脅迫者の真意を知った理髪店主の次の行動が気になって仕方がなかった。 大御所の作品が続く。佐野洋氏の「証拠なし」はいわばリドルストーリーのような作品だ。 どこから見ても事故としか思えない事件。しかし調べてみると関係者には動機となるような理由があるが、果たしてそれが殺人へと発展するかと云えばそうでもない。更に調べていくうちに容疑者の女関係が明るみに出て、そのうちの1人を殺すための予行演習だったのでは、などと警察捜査本部の面々は推測を立てていく。そしてそれぞれの場面で不能犯に該当する、過失犯だ、いや正当防衛だと議論が紛糾していく。 なお不能犯とは、殺意はあるものの、直接的にそれが死に至るほどではない刑罰の対象とならない行為、つまり未必の故意のある犯人を指す。死ねばいいのにと夜毎藁人形で釘を打ち立てるようなものだと当時の広辞苑には書かれていたようだ。 過失犯は過った末に罪を犯してしまった犯人を指す。よくあるのは交通事故で人を轢いてしまい、殺してしまう過失致死が該当する。 さてかつて昭和のミステリガイドブックにはこの作家の作品が必ずと云っていいほど取り上げられていた。木枯し紋次郎でお馴染みの笹沢左保氏もクイーンのお眼鏡に適った。「海からの招待状」は差出人不明の手紙で幕を開ける。 「海」と名乗る匿名の人物から送られたオープンしたての豪華ホテルの貴賓室への招待。世の中上手い話があるわけないが、行ってみたくなるのは世の常。しかし招待されたのは自分だけでなく、他に4人の男女がいた。そしてそれぞれにはある共通点があった。 何とも魅力的で謎めいたシチュエーションである。彼ら彼女らはいつしかある事件の犯人の1人であることが判明し、推理が行われる。決して閉ざされた部屋ではないので、望まなければ出て行くことも可能だが、そうすれば逆に疑いを招くだけという人間心理の妙も楽しめる。 現れぬ招待主が招待客の中にいるのは別段驚く真相ではないが、折角犯人を捕まえることができたのに虚しさだけが残る招待主の心情が印象的だ。 なおクイーンは短評で笹沢左保氏の作風をルブランやクリスティ、そしてクイーンなどの影響が感じられてると述べているが、私見を云えば本作は寧ろ謎めいた導入部とある事件に共通する人物の中でのドラマという点ではウールリッチの作風を想起させられた。 草野唯雄氏も笹沢左保氏同様、既に他界された昭和を代表するミステリ作家だが、彼の作品もまた12席の1席を与えられた。「復顔」はゴミ焼却所で見つかった頭蓋骨から物語は始まる。 ウールリッチの『幻の女』と死んだ女が蘇って事件解決に手を貸すといったミステリアスな内容の物語。 しかし35歳で頭蓋骨研究の権威とされている主人公だがその博識ぶりはあまり発揮されず、寧ろそれまで独身で女の色香にすぐにほだされてしまう情けない男という印象だけが残ってしまった。最後に復顔の手伝いをした女性の正体を突き止め、彼女の許を訪れたのは単に彼が真相を知りたかっただけでなく、一夜限りの交情が忘れらなかったことが大きいだろう。何とも未練たらしい男である。 江戸川乱歩賞作家でシャンソン歌手という異色の経歴の戸川昌子氏も当時は全盛期でクイーンも選出せざるを得なかったのだろう。「黄色い吸血鬼」は異色の幻想ミステリだ。 吸血鬼の餌として建物に監禁されている複数の男女というファンタジーかと思いきや、ある不正を被害者の視点で描いたものだ。幻想的で匂い立つエロスを感じさせるのがこの作者の長所だろうか。 しかしこういった社会の底辺の落伍者たちを家畜のように扱う輩は21世紀の今でもまだ続いていると思うとこの問題は大変根深いものだと痛感する。 本格推理小説の重鎮の1人、土屋隆夫氏の作品も選ばれた。「加えて、消した」は突然の妻の自殺に直面した男の物語だ。 流産を苦にした妻の突然の自殺というショッキングな展開から、遺書もあり、なおかつその夫は京都へ出張中であるという全く事件性のない事件が遺されたたった4行の遺書の中にある違和感と当日の夫の不審な行動から隠された真実を掘り起こす、たった2人の問答で繰り広げられる物語は実にロジックに特化した内容で面白い。 特に自殺前に姉に電話した妹が姉の通話越しに聞こえた引き戸の音と親しげな姉への呼びかけから何がそこで起こったのかを解明する件は生活感もありつつ、ロジカルで実に面白い。 なお遺書の中の違和感については私も感じていた。 何とも遣る瀬無い真相。 最後を飾るのはやはり現代を代表する大作家の1人、筒井康隆氏の「如菩薩団」だ。 さすがは筒井氏。シュールでありながらある意味リアルな設定の物語でクイーンの12席に選ばれた。 8人の主婦たちによる強盗団。主人たちが出払った平日の昼に集まり、目を付けた金持ちの邸を訪ねて、そこで強盗を働く。 本作の初出時期を調べると1974年頃とあるから、第1次オイルショックの真っ只中。そんな世相を反映してか、主婦強盗団の面々は大学出の夫を持ちながらもサラリーマンで薄給と日々高騰していく物価に苦しむ中間層の人たちばかり。団地に住み、子供の塾代に苦慮し、夫と子供の服を優先して購入し、自らは2年前に買ったブランド品ばかりを身に着けるといった、どこにでもいるような主婦たちだ。 彼女たちがある水準の教育と躾を学んだ女性たちで形成されていることが特徴的だ。それがこの一種奇妙な強盗譚をどこかで本当に起こっていそうな話に思わされる、そこはかとない恐怖を沸き起こさせる。 欧米その他海外諸国のミステリは積極的に翻訳され、日本に紹介されているものの、逆に日本のミステリが全く海外に向けて発信されていない現状があった。世界への門戸は入ってくるばかりの一方通行であったのだ。 そんな現状を変えるためにクイーンの鑑識眼を通して、海外ミステリの名作・傑作と遜色ない作品を世界に問い、発信するための試金石となるのが本書編纂の大きな目的でもあった。 私が感心したのは篩分けを行うEQJM委員会が評論家ではなく、ミステリのコアなファンや推理小説通として認められている経歴の持ち主5人によって構成されていることだ。 往々にして評論家や研究者が選びがちな、作品の背景に隠された歴史的意義や当時の作者の心境など深読みしなければ、もしくは時代背景や私生活にまで踏み込まないと解らないような行間の読み方をすることで得られる読書の愉悦にこだわった作品ではなく、純粋にミステリとして面白い作品がファンの立場で選ばれていることがいい結果に繋がっているように思う。それほどまでに本書収録の各短編のクオリティは高い。 そんな粒ぞろいの短編集。全く駄作はない。全て水準を超えており、中には一読忘れられないほどの印象強い作品もある。 1作目の石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」と2作目の松本清張氏の「奇妙な被告」はそれぞれ警察と弁護士が主人公であるが、その内容は表裏一体だ。 石沢氏の作品では警察のカンによる捜査が改めて問題視されており、敬遠されている風潮があるが、やはり経験から基づく第六感というのはあるとし、それが事件解決に効果的に働いている。 一方松本氏の作品は事件現場の状況、目撃者の証言から容疑者を特定し、警察のカンによって敗訴する様が描かれている。 この2作は捜査員のカンという題材で以ってまさに70年代当時の警察捜査が直面している問題を浮き彫りにしているようだ。 またこれも時代だろうか、男性作家の女性に対する描写も生々しく、平成の今なら書かないであろう一線を超えて、本能を露わにして書いているように感じた。 艶めかしく、色香が溢れ、女性の欲求不満ぶりや男を惑わす身体をしていると云った、性的描写が濃厚。中にはセックスシーンをも盛り込んでいる作品もある。 あとやはり高度経済成長期を経たことで誰もが一番を目指すことを要求された学歴社会による弊害から生まれた作品もあれば、その後の第1次オイルショックといった急激な物価上昇を経験した時代であることから、将来を約束されたものと思われた大学出のサラリーマンが経済苦に瀕し、高卒の商売人が裕福になるといったいびつな経済格差社会を反映した作品もあり、また生命保険殺人など、世相を色濃く反映しているものも見られ、昭和の時代を知る意味でも興味深い側面があった。 また当時を知るという意味では松本清張ブームで推理小説が活発化している時期であったことも興味を惹かれる。 クイーンによる序文によれば商売繁盛どころの騒ぎではなく、毎月平均30冊、40編の短編集が出版され、年間2,000万冊以上の販売数であるとのこと。ウェブ社会の発達で書籍離れ、もしくは紙の本から電子書籍へ移行し、年々閉店と倒産が続く出版業界の現在を思うとまさに時代の花形であり、夢のような時期だったことが解る。 しかし70年代の、つまり昭和の時代の作家の筆致は何と濃厚なのだろうか。ミステリ作家と呼ぶには軽すぎて昔ながらの推理作家の呼称の方がしっくりくる。 行間から立ち上る登場人物の息吹や生活臭がむせ返るほどに濃密で高度経済成長期で整備が追い付かない未舗装路から巻き起こる土埃やエアコンのない時代の蒸し暑さと汗ばんだ皮膚から発散される体臭までもが感じられるようだ。 登場人物皆がギラギラし、人と人との距離が近く、暑苦しささえ感じる。 そしてそれぞれの家庭に独特の生活臭があるように、それぞれの作家の短編の1ページ目を開ければそれぞれ異なる色合いと風合いを感じさせる。 例えば石沢氏の作品に登場する主人公の刑事光野はかつてギャンブルにのめり込み、高利貸しから金を借り続けて借金まみれになり、それを当時の上司に助けられた過去がある。そうしたエピソードを付け加えることで当時の警察の規律のいい加減さや光野という登場人物に厚みをもたらしている。 それはまだやはり作家たちに終戦が経験として地続きであることが起因しているのではないか。実際本書においても終戦直後のことが盛り込まれた作品もあり、それを知らない戦後世代との会話も登場する。 この戦後の混乱を経験した作家に根付いた人間に対する観察眼はやはり非常に土着的で、そして野性的であるように感じる。それが登場人物に厚みと汗臭さをもたらしているのではないか。 平成は醤油顔が奨励され、濃い顔の男たちはソース顔と揶揄され、敬遠されたが、各編に出てくる登場人物たちはそんなあっさりとした面持ちを持たず、日々成長する当時の日本社会を象徴するかのように野心を持っており、翳を備えて、陰影に富んだ濃い顔の持ち主ばかりだ。 さてそんな珠玉揃いの短編。石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」、松本清張氏の「奇妙な被告」、土屋隆夫氏の「加えて、消した」が印象に残ったが、個人的ベストは西村京太郎氏の「優しい脅迫者」だ。 じわりじわりと強請りの金額を吊り上げる脅迫者と絶望感に苛まれる被害者。溜まらず最後の一線を超えた先に見えた意外な真相。読中は脅迫者のねちっこい強請りに終始心が粘っこくなるような嫌悪感を覚えたが、読み終えた時はその結末の温かさに思わずため息が漏れてしまった。初期の西村氏の作品には傑作が多いと云うが、本作もまたその中の1編であると云えよう。 まさに当代きっての日本を代表する推理作家が揃った短編集であるが、冒頭の本書刊行の経緯を記したEQJM委員会の序文によれば傑作でありながも日本独特の言語・習慣・歴史・風俗に基づいた作品は敢えて外されたとのこと。これも70年代当時の世界からの日本の認識度から考えれば仕様のないことだが、COOL JAPANとして外国人への日本文化の関心と認知度が増した現代ならばどうなっていたかと興味深いところではある。 また昭和の本格ミステリ界を支えてきた鮎川哲也氏と高木彬光氏の作品が選出されていないのは意外だった。 このアンソロジーはこの後2冊刊行されているが、今回の選考漏れから奮起してその名に恥じない傑作にて選出されていることを期待したい。 世界に日本のミステリを!その第一歩となった名アンソロジスト、エラリー・クイーン編集による短編集は期待値以上の読み応えがあった。 この後まだ2冊も残っている。つまりあと24編あるわけだ。 24回、読書の愉悦を堪能できる、なんとも贅沢なその時を待つこととしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これは『ザ・ポエット』第2章か?
詩人の事件でコンビを組んだ新聞記者のジャック・マカヴォイとFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが再びタッグを組み、連続殺人鬼スケアクロウに立ち向かう。20世紀の敵、詩人(ザ・ポエット)と違い、21世紀の敵、案山子(スケアクロウ)は更に強力だ。スケアクロウことウェスリー・カーヴァ―は平時はデータ会社の最高技術責任者の貌を持つ男で、ウェブ世界を自由に行き来し、各会社のサーバーに容易に侵入し、個人情報を盗み出す。ジェフリー・ディーヴァーの『ソウル・コレクター』に出てきた未詳522号を髣髴とさせる。 従ってそんな敵に独り昔ながらの方法で取材を続けるジャックはいつの間にかクレジットカードを無効にされ、携帯電話は使用不可になり、個人のメールアカウントさえも乗っ取られてしまい、更には銀行口座も空にされ、まさに八方ふさがりの状況に陥る。 その一部始終も詳細に書かれている。スケアクロウは自分が行っている犯罪トランク詰め殺人に興味を持つ人間が集まるサイト、トランク・マーダーサイトを立ち上げ、それを捕獲サイトとしてアクセスした人のIPアドレスを入手し、それを別のサイト、デンスロウ・データに転送してそこから犯人はIPアドレスを捕獲する。そうすることでトランク・マーダーサイトから逆に自分のIPアドレスを探られるのを防いでいた。 そして転送されたサイトから入手したIPアドレスからアクセス元を辿り、そのパソコンにアクセスして個人情報を盗み見て、そこから更にその人物が使っているであろうパスワードを推測し、その人物が利用しているポータルサイトにアクセスして、成りすましてサーバー内に侵入する。それからはまさに独壇場。本人が送ったメールは削除され、誤導する内容のメールを送付して、自分の思うがままに周囲を、本人を操る。クレジットカード、メールアカウント、携帯電話、銀行口座などウェブを介して変更、更新が出来るものは全て意のままに操れる。 特にスケアクロウことウェスリー・カーヴァ―がジャックの後任アンジェラのブログ記事から飼っている犬の名前をパスワードにしていると推測して勤務先の新聞社のサーバーに彼女に成りすまして侵入していく有様はいかに我々一般人がウェブに関して無頓着に自ら重要な情報を明かしているのをまざまざと見せつけられる思いがした。 また今回の事件がトランク詰め殺人であることでどうしても同様の事件である『トランク・ミュージック』を想起させられてしまう。作中でもジャックの後任のアンジェラが過去のデータベースを引っ張った際に、ボッシュが担当したこの事件について言及される。 つまり本書は同時期に書かれた『ザ・ポエット』と『トランク・ミュージック』に21世紀という時代を掛け合わせた作品と云えるだろう。 さて今回の敵スケアクロウが殺害した女性はストリッパーであり、背が高く、長い脚と引き締まった身体つきをしており―FBI曰く、キリンのような女性―、膣と肛門を異物で何度もレイプした後、裸でビニールにくるまれて、その上から紐で首を絞められて窒息死させられる。そして下肢装具愛好者で拷問中にそれを被害者に付けていたと思しき痕跡が見られる。正真正銘のサイコパスだ。 そしてウェブサイトを自由に行き来できることから、そこで自分の好みに合った女性を見つけ、犯行に及ぶ。ジャックと取材していたアンジェラもスケアクロウの願望に見合ったがために、その毒牙に掛かってしまう。 そんな恐ろしい敵に挑むために再びタッグを組むことになったジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリングのそれぞれの状況は『ザ・ポエット』と本書では全く状況が異なる。 一介の地方紙の新聞記者に過ぎなかったジャックが『ザ・ポエット』の事件によって一躍注目を浴び、ロサンジェルス・タイムズ紙の記者になる立身出世の物語だったのに対し、本書は一度の離婚を経験し―なんとその相手はボッシュシリーズでお馴染みの新聞記者ケイシャ・ラッセル!―、そのロサンジェルス・タイムズ紙から解雇勧告を受けた立場であり、後任の新聞記者の引継ぎと教育を兼ねて最後のヤマとして取材している。 つまり上昇気流に乗っていたジャックに対し、本書では下降線を辿る新聞記者の起死回生の物語となっている。 一方レイチェルはFBIの花形部署、行動科学課のプロファイラーとして詩人の事件を担当していたが、ジャックとの件で新聞記者と寝た女というレッテルを貼られ、末端支部に左遷されてしまう。その後ボッシュと何度か組んだ事件でロスに再び戻り、諜報課勤務を続けている。但しそれは彼女の本分ではない部署ではある。 そして彼女は再び窮地に陥る。業務と称してマカヴォイの手助けをした際に専用ジェットを使用したことで経費濫用の罪に問われ、FBIを辞職させられる。 しかしその後ジャックの提案で独自で事件のキーとなるウェスタン・データ・コンサルタント社を捜査し、犯人の証拠を掴むことで再度FBIに復帰するのだ。 一方ジャックも事件の当事者の1人となることで一旦復職を許されるものの、その契約内容は収入減と各種手当が付かないという内容で、ジャックはそれを一蹴する。 ジャックもレイチェルも一旦は職を失いながらも、自分が見つけ、関わった事件で運命を変える。それは起死回生のチャンスだが、ジャックはそれでも自分に見合わない条件としてそれを蹴り、一方レイチェルはそれを受け入れ、再び殺人事件捜査の第一線へと戻る。 今回最も私が驚いたのがレイチェル・ウォリングのことだ。彼女は詩人の事件でジャックと恋仲になったことをFBI内に知られ、左遷され、長い間心が塞いでいくような閑職に追いやられた身だ。つまりそれは自らが招いたこととはいえ、ジャック・マカヴォイこそが彼女の輝かしい未来へのキャリアを棒に振る大きな要因だったことだ。そんな忌まわしい記憶が残る中に再びジャックに加担する理由が、彼女にとってジャックが“一発の銃弾”だったということだ。 これはボッシュがレイチェルに語った、誰でも1人忘れられない運命の人、心臓を撃ち抜かれた一発の銃弾のように、という説だ。つまりボッシュにとってエレノア・ウィッシュがそうであるようにレイチェルにとってそれはジャック・マカヴォイなのだ。 私はこれが非常に驚いた。ジャックはFBI女性捜査官の心を奪うほど人間的に魅力のある人物とこれまで思わなかったからだ。 新聞記者でいつもよれよれのコートを着て、煙草のヤニの匂いを漂わせて、警察やFBIに嫌悪されているような人物と想像していたからだ。私の中では俳優のマーク・ラファロのような風貌で、レイチェルは肩までのブロンドの髪をした細身の顔のクールビューティな感じで若い頃のティア・レオーニを想像させるような人物像である。 レイチェルがこれほどまでに惚れるジャックはよほどハンサムで魅力的なのだろうが、これにはどうも違和感がある。いや、単に私にとってお気に入りのキャラクターであるレイチェル・ウォリングがジャックに心底惚れていることに嫉妬しているだけなのかもしれないが。 ジャックの一人称で紡がれる物語は新聞記者の特性が実に深く描かれている。自身地方の新聞記者からロサンジェルス・タイムズ紙に引き抜かれたコナリーにとってジャック・マカヴォイは自らが色濃く反映されたキャラクターだろう。そこに書かれているのは新聞記者たちがいかにスクープを物にし、のし上がろうと貪欲に事件を追いかけている有様とそのためには他人を出し抜くことを厭わない不遜さを持っていることだ。 解雇通知を受け、後任となったアンジェラは事件記者としては新米ながらもジャックが追いかけることになったスケアクロウの事件を既にキャップと話してジャックの記事ではなく、2人の共同記事にすることをとりなして、一刻も早く大きな事件を扱えるように画策すれば、ジャックは自分の記事がセンセーションを巻き起こすことを期待して掴んだ手掛かりはいつまでも持っておく。更に自分が当事者になることで記者から取材対象者になると、解雇通知を受けたジャックに同情を寄せていた同僚は嬉々としてジャックに訊き込みを行う。 そんな生き馬の目を抜く、上昇志向の塊のような集団が新聞記者たちのようだ。即ちこれはコナリー自身の回顧録でもあるのかもしれない。 一方で顕著なのは花形とされていたメジャーメディア会社であるロサンジェルス・タイムズ紙が斜陽化してきていることだ。インターネットの発展でウェブ化が進み、新聞の発行部数は軒並み減少。従って経費削減としてリストラを行わなければならず、その憂き目にあったのがジャック・マカヴォイなのだ。 高給取りのベテラン記者を排し、安い月給の新人記者に取って換えようとする。実際ロサンジェルス・タイムズ紙は経営破綻し、会社更生手続きの適用を申請したそうだ。 コナリーも巻末のインタビューで応えているように、この新聞界を襲う未曽有の経営危機が本書を書く動機になったようだ。それは新聞界に向けたエールであると同時に鎮魂歌でもあるのかもしれない。 本書の題名であるスケアクロウ、即ち案山子はデータ管理会社におけるセキュリティ責任者の俗称だ。田畑を荒らしに来る害鳥たちから守るために付けられる見張り役、案山子のように、ウェブ世界の中を徘徊するハッカー、特許ゴロ、コンピュータ・ウィルスたちを見張り、データを守る存在だ。ウェスタン・データ・コンサルタント社でその任に当たるウェスリー・カーヴァ―がこの連続殺人鬼であることから題名は来ている。 一方ジャックの上司であるドロシー・ファウラーがその名前から『オズの魔法使い』の主人公に擬えられていること、そしてこの作品にも案山子が登場していることは何らかのメタファーなのかと思ったが、これが本当にそうだった。 しかし今回もまたストリッパーに絡んだ事件だ。コナリーの物語は本当にこのストリッパーや売春婦たちが巻き込まれる事件が多い。 そしてウェスリー・カーヴァ―はハリー・ボッシュと同様に母親がストリッパーである。ストリッパーが母親でありながらもボッシュは悪に染まらず、罪を裁く側の人間となった特別な存在だと強調するかのようだ。 しかしディーヴァーの『ソウル・コレクター』の時もそうだったが、今回は実にリアルで寒気を感じた。情報化社会でもはやウェブがなければ生活できない我々がいかにインターネットに、情報端末に依存して生きており、そして自分たちの秘密をそこにたくさん放り込んでいることに気付かされた。 そしてそれがある意味自身の生活を、いや自分自身のアイデンティティそのものを容易に侵す可能性を秘めていることも改めて思い知らされた。 ブログやツイッター、ラインにフェイスブック、インスタグラムなどに代表されるSNSに我々はいかに無防備に自分をさらけ出していることか。悪意あるハッカーたちやクラッカーたちが虎視眈々と狙っている付け入る隙を自ら提供しているようなものである。 しかしこれからはキャッシュレス化が進んでいけば、更にこのウェブで生活や仕事達の大半を処理していく傾向は強まることは避けられない。 そうした場合、何が問われるかと云えば、本書でも言及されているように、堅牢なシステムは無論の事ながら、それを扱う人間の資質だ。他人を盗み見ることが常態化し、悪い事とは思えなくなってくる、いや寧ろ他人の情報すらも容易に手中に出来ることで自らを一般人とは上位の存在、神と見なして他者を単なる名前やIDだけの文字だけの存在としか認識しなくなる怪物が育ち、悪用されるのが恐ろしい。 某通信教育会社がデータ管理会社の社員によって金になるという理由でユーザー情報を流出して売り払らわれていた事件を目の当たりにし時と同じ戦慄を覚えた。なんでもそうだが、結局行き着くところは「人」なのだ。 つまりこのウェスリー・カーヴァ―は単に創作上の怪物ではない。本書は実際に起こりうる事件であり、ありうる犯人であるからこそリアルで恐ろしいのだ。 しかしコナリーのストーリー運びには今回も感心させられた。特にジャック・マカヴォイが事件の結び付きを発見していくプロセス、レイチェルが行うプロファイリングの緻密さ、畳み掛けるように起こる2人への危難とそれを打倒する機転。それらは実に淀みなく展開し、全く無理無駄がない。よくあるデウスエクスマキナ的展開さえもない。全てが必然性を持って主人公の才知と読者の眼前に散りばめられた布石によって結末へと結びつく。 ジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリング2人が最高のコンビであることを再度確信した。 悔しいが、こんなに面白く、そして知的好奇心を刺激され、なおかつ爽快な物語を読まされたら、2人はお似合いであると認めざるを得ないだろう。再びこのコンビでの活躍を読みたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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犯罪未満の壮大な悪戯を世間に仕掛けて喜ぶことを目的とした黒古葉善蔵率いる非営利団体Zionist Organization of Karma Underground。通称ZOKU。
それに立ち向かうのは木曽川大安率いる科学技術禁欲研究所Technological Abstinence Institute。通称TAI。 この2つのチームの戦いを描いた連作短編集が本書である。 まず第一話「ちょっとどきどき」では暴音族なる騒動が世間に起こっていることが語られる。 まずはイントロダクションとも云うべき1編。お騒がせ悪戯集団ZOKUの悪戯の数々とそれを防ぐTAIの面々の顔合わせだ。 続く「苦手な女・芸術の秋」ではTAIの木曽川大安の秘書、庄内承子が初登場する。 なんと本書ではTAI所員のヒロインの永良野乃がエース揖斐純弥に惚れてしまうという事態が起こる。単にシリーズを続けるだけでなく、登場人物たちに発展を見せる、流石は森氏。エリート然とした揖斐のやや子供っぽい側面と思いもかけないところから来るプレゼントに恋愛経験の浅い永良野乃がほだされていく一部始終が描かれていて好ましい。 「笑いあり 涙なし」ではZOKUにも新キャラクターが登場する。 前回で揖斐に興味を、いや恋心を抱き出した永良野乃の揖斐へのアタックは本書でもまだ続く。いやむしろ前回では意識し出して手探り状態だったところに、最後揖斐が全く野乃のことを意中にないことが判明しただけに逆に野乃のプライドに火が着いて自分の方に気を向けさせようともっと積極的に、明らさまに気持ちを出していく様が描かれる。 一方ZOKUではバーブ・斉藤というまた濃いキャラクターが登場する。秘密兵器として満を持しての登場だが、直接ロミ・品川とケン・十河との絡みがないのでまだまだイントロダクションと云ったところだ。 展開に捻りが利いているのが「当たらずといえども遠からず」だ。 封筒に書かれた内容通りに従うと馬券が当たり、福引で特等が当たるという、ミステリとしても非常に興味深い題材。そして永良野乃の望みが巨大ロボの操縦という途方もない物だったことから、なんと計画が頓挫してしまう。実に意外な展開だ。 しかしそれよりも30半ばのロミ・品川と新入社員の20代半ばのケン・十河のジェネレーションギャップ溢れる会話が実に面白い。スカートめくりの件は爆笑もの。しかしスカートめくりかぁ。既に私が小学生の頃でも1,2人、しかも低学年の時にそんないたずらっ子がいただけである。本当に学校で流行っていたんだろうか? 最後の「おめがねにかなった色メガネ」は森氏らしくツイストが効いている。 敵同士が仲がいいとこんなツイストの効いた展開をも起こりうるのか。機関車好きの木曽川と派手好きな黒古葉。しかしそれぞれの所有する乗り物に密かに憧れを抱いていたことを率直に打ち明け、それぞれの立場を一日交換して思いを果たそうという、何とも子供じみた、いや少年の心を失わない大人たちの遊び心が横溢している。それを果たすためにそれぞれがお面を被ってやり過ごすのが面白い。黒古葉は縁日で売っている類の鉄腕アトムのお面を被り、一方木曽川は頭からすっぽり被るスペクトルマンのマスク―実にマニアックだ―を被る。逆にこの2人がそれぞれTAIやZOKUでやり過ごす様子と少年の頃のように機関車、ジェットの操縦席に座って胸躍らせるシーンが印象強くて、正直今回の悪戯についてはどうでもよくなってしまう。 さてこれは森版『ヤッターマン』とも呼ぶべき作品か。 犯罪にまでには至らない被害の小さな、しかし見過ごすには大きすぎる悪戯を仕掛けるZOKUとそんな悪戯に真面目に抵抗し、阻止せんと追いかけるTAI。 それは「ヤッターマン」における、ドロンボー一味とヤッターマンを観ているかのようだった。 さてそんな「まじめにふまじめ」を行うZOKUのメンバーは、黒幕の黒古葉善蔵にロミ・品川、ケン・十河、バーブ・斉藤で構成されており、プライベートジェットを根城としている。 一方「ふまじめをまじめ」に阻止しようとするTAIは白い機関車を基地にしており、木曽川大安を所長に、揖斐純弥、永良野乃、庄内承子が主要メンバーである。 木曽川と黒古葉はお互い実に親しい幼馴染でいがみ合っていない。寧ろ顔を合わせた時にはお互い談笑する仲だ。昔から悪戯好きだった黒古葉とそれを真面目な木曽川が少年時代から尻ぬぐいしてきた仲である。つまりこれは2人の大富豪が日本全国を舞台に繰り広げる壮大なお遊びなのだ。 各編の悪戯は暴音族、暴振族、暴図工族、暴笑族、暴占族、そして暴色族。 ある特定の場所のみに騒音を発生させる、振動を発生させる、色んな制作物を置いて、そのまま放置する、笑う場面でない時に笑いを起こす、占いで未来を当てて、次には大外れを食らわす、希望した色とは違う色が出てくる。 物によっては軽犯罪にも該当するし、子供の悪戯の延長でしかないことを費用と労力を大いにかけて全国に亘って行う、それがZOKUだ。 それを阻止するために警察に協力して彼らを追うTAI。 このような善対悪の物語は総じて悪の方に魅力があるのだが、流石はキャラ立ちの森作品、そのキャラクター性は双方勝るとも劣らない。 まずTAIの面々はそれぞれ苗字が河川、それも中部地方を流れる川の名前になっているのが特徴(永良野乃だけ漢字が異なるが)。 そしてTAIの頭脳、揖斐純弥と木曽川の孫でヒロインである永良野乃との恋の駆け引きが本書の読みどころの1つとなっている。とはいっても永良野乃が一方的に揖斐を好きなだけで自分に振り向かせようと揖斐にモーションを掛けるが発明好きの揖斐は朴念仁で気付いているのか気付いていないのかまともに取り合わない。彼にとっては野乃は単に所長の孫でTAIのメンバの1人でしかないのだろうが、例えば靴をプレゼントするが、それに合う服がないので野乃が履かないでいるとその靴に合う服を買ってあげるよ、なんて云われれば女性はその意外な提案に自分に気があるのかと思うはずである。こういうやり取りが女性のみならず、私のような男性も思わず微笑んでしまうのだ。 なお永良野乃は敵ZOKUのメンバーの1人、ケン・十河がファンになるほどの容姿の持ち主である。 揖斐と野乃の歳の差は12歳で揖斐の方が年上。犀川と萌絵の関係や、保呂草と紫子の関係のように森氏はこの年上男子に年下女子が一方的に恋をするという設定がどうも好きなようだ。 またZOKU側の面々の名前はカタカナ表記の名前に日本の苗字と一昔前の芸能人のようなネーミングが特徴。ロミ・品川とバーブ・斉藤はその元が解ったがケン・十河は解らなかった。 そして年増の―といっても30代半ばらしいが―ロミ・品川もまた揖斐に潜在意識下で恋心を抱いていることが判明する。 そしてこの30代半ばのロミ・品川と新入りのケン・十河のジェネレーションギャップによって起こるトンチンカンな会話が実に面白い。特にスカートめくりの件は爆笑ものだった。ちなみに私はロミ・品川に近い側の人間。 最初の3編はZOKUとTAIの真っ向勝負やTAIの野乃がZOKUにさらわれる、野乃が囮になってZOKUたちをおびき寄せる、といった真っ当な善対悪の構図で物語は描かれるが、4話目になると野乃の意外な希望から思った以上に金がかかり、計画が途中で頓挫したり、双方のボスが一日交換ボスになるといった森氏ならではの展開を見せる。そう、このTAIの所長木曽川とZOKUのボス黒古葉もまた実に憎めない人物なのだ。 一大財を成し、遊ぶお金と自由な時間を手に入れた2人が始めたのは日本全国を巻き込んだ正義と悪の対決ごっこ。こんなワンアイデアから生まれた本書は稚気に満ちていて実に愉しい読書の時間を提供してくれた。 そして作中に出てきたZOKUの数々の悪戯は恐らく森氏が日ごろから想像している「やってみたら面白い事」の数々であるに違いない。大人になって出来なくなったこれらの悪戯、いや大人にならないとできないが実際やれば逮捕されてしまうから出来ない悪戯を森氏はZOKUの面々に託したのだろう。 幸いにしてこの後もシリーズは続き、この憎めない輩たちと再会する機会があるようだ。次作を愉しみに待つとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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