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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
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ブロック最初期のシリーズキャラクター、エヴァン・タナー初登場作。
戦時中に頭に受けた銃弾によって一睡もできない体質に生まれ変わった男エヴァン・タナー。その特性を活かしてあらゆる言語を学び、色んな社会の団体や組織に属し、様々な書物を読んで知識を蓄えている。その知識を活かして学生たちの論文を代わりに作成するアルバイトまで行っている。 彼の強みの一つである各国の政治的団体の知り合いの伝手を使って、逃亡生活を送ることになるが、そのために彼は各国を渡り歩くはめになる。 トルコからアイルランド、スペインからフランス、イタリアからユーゴスラビア諸国、ブルガリアから再びトルコへと転々と移りゆく。全ては金貨のためだ。 その道中でタナーは同行者から逃れるために暴行を犯し、逃亡の身になってからは謎めいた男から機密文書の密輸を頼まれたり、ある時は独立の革命の闘士の一員となって戦ったりと波乱万丈だ。これも眠れない特質を活かして数ヶ国語を会得し、さらには世界中の反乱分子の団体に偽名で登録しているタナーだからこそ成しうることだ。 しかし目的はただ一つ。トルコに戻って大量のソブリン金貨をせしめること。見事それはタナーの機転で成功するが、物語はその後、意外な展開を見せる。 さて個人的なことだが現在忙しい日々を送っており、自分の時間を取れないこの時期に24時間全く眠らないエヴァン・タナーが実に羨ましく思った。私なら寝なくて済むならあれやらこれやらやりたいことばかりだからだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏の作品には本格ミステリからサスペンス、ユーモアなど多彩だが、本書はタイムスリップ物、つまり『分身』や『秘密』と同じSF物である。
物語はまず遺伝性の奇病によって若い命を喪おうとしている息子を見つめる夫婦の話から始まる。そしてその息子が死んだからが本編の始まりだ。 まさに若き命を喪おうとする息子が過去にタイムスリップして若き日の父をある運命へと導くお話だ。 しかしなんだかいつもの東野作品のような淀みのない展開ではなく、読んでいてとても居心地の悪い思いがした。恐らくそれは主人公の宮本拓実、つまりトキオの父親の性格にあるのだろう。 物語の冒頭で語られる時生の誕生までの物語はなんとも重い話で、子供を産んでもそれが息子ならば20代になる前に死んでしまう奇病に侵されてしまうという明らかに不幸な道のりがあるのに、あえて茨の道を進む父親の決意と息子に対する思いやりや献身が語られるのだが、タイムスリップしてトキオが対面する若き宮本拓実は短気ですぐに暴力を振るい、しかも何事も長続きせず、しかも原因が自分の性格にあるのに環境や他人のせいにしてわが身を省みないという何とも器の小さい男として語られる。 この現在と過去のイメージギャップがなんともすわりの悪さを感じさせるし、まず主人公として共感できない男であることが大きな原因だろう。 そんな宮本拓実が失踪した元恋人の早瀬千鶴の跡を追うのだが、それが行き当たりばったりで、しかもトキオのアドバイスを聞かずに進めようとする。この流れに淀みを感じて、強引に力業で物語を進めているように感じられるのだ。 そして宮本拓実が改心して冒頭のような性格になるのは早瀬千鶴が彼の許を離れた理由を聞いてからだ。 しかしあれほど短気で自分勝手ですぐに暴力を振るう人間が180°変わったようになるだろうかと疑問が残る。そして肝心の妻麗子との出逢いも実に簡単すぎて拍子抜けした。 とまあ、東野作品にしては息子が過去に遡って自分の父親を導くというありふれたタイムスリップ物の、ハートウォーミングになることが約束されているような設定には安直な作りであると感じたのは否めない。 ただ本書と本書の前に発表された『レイクサイド』にはある共通点があることを付記しておこう。 『レイクサイド』では親は子供のためにはどんなことでもやるのだということを歪に、そして陰鬱なムードで語ったが、本書は子供は親にとってどんな存在なのか、そして子供は親をどこまで信用し、慕うことができるのか、と子供の側から親子の絆を描いている。 そういう意味では本書と『レイクサイド』は全く物語の色調は違うが表裏一体の関係にあると云えよう。 主人公宮本拓実は本当の親麻岡須美子が生活苦から育ての親宮本夫妻にゆだねられた子供であり、育ての親も父親の浮気がもとで家庭崩壊してしまう。それを拓実は実の親を恨むことでアイデンティティとしている。 妻麗子もまた自らが遺伝性の奇病に侵されたことで結婚を諦めた女性だ。父親からは決して結婚するなと厳命されたが、拓実の根気強い熱意から結婚をする。 そして時生はその二人から生まれた短命を運命づけられた子。 しかしそんな三者三様の生い立ちはあれど、共通することは親が子に対する思いは一緒だということだ。 本書では親にとって子供とは未来なのだ、どんなに辛くてもこの子のために生きていかねばならないという生への原動力となる存在なのだと高らかに謳っている。 しかし昨今連日の児童虐待の報道を見ると、親が子育てを放棄する自分本位の価値観には呆れ返ってしまう。恐らく本書が刊行された2002年にも既に同様の痛ましいニュースはあったのだろう。だからこそ改めて東野氏はこのような作品で子供の大切さを訴えたのかもしれない。 物語の舞台が1979年とまだ義理と人情と近所づきあいが活発だった時代に設定されているのがある意味哀しいのだが。 本書にはこの他にも失踪した拓実の当時の元恋人千鶴が巻き込まれたある政府直属の企業の贈賄汚職事件を絡めてサスペンス風味を出している。 しかしそれが果たして本書に必要だったのかどうか、よく解らない。 先般読んだ島田荘司氏の『写楽 閉じた国の幻』に配された主人公が息子を失う回転ドアの事故よりかは物語に絡んではいるが、ストレートに父拓実を更生させるために彼のルーツを探る物語にした方がバランスはよかったのかもしれない。拓実の性格を変えるファクターとして千鶴が彼と別れた理由を挙げているが、これも他の何かに置き換えられるのではないか。 今回はどこか東野氏が“泣ける物語”を狙ったのが露骨すぎてあまり愉しめなかった。次作に期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1973年の本書はキングスマーカムという田舎町でロックフェスティバルが催されるというシーンから始まる。1969年に開催され、今や伝説となっているウッドストックからブームになった。レンデルが本書でも扱っているぐらいだから当時の熱狂ぶりは凄かったのだろう。
今回の事件はそのロックフェスティバルが開催されている会場で最終日に顔を潰された女性の死体が発見されるというもの。フェスティバルの乱痴気騒ぎの中で殺された者かと思いきや、それが始まる前に殺されたことが判明するが、被害者ドーン・ストーナーは服を二種類持っており、また死ぬ直前に誰かと食べるためと思われる食材を買い込んでいた。しかもドーンはフェスティバルの出演者ジーノと知り合いだった。 この一見何でもないような殺人事件だが、犯行当時の状況にどうにも説明のつかないところがあるという違和感が実にレンデルらしい。 この奇妙な事実と被害者とフェスティバルの出演者との奇妙な繋がりから事件の謎が綻び、全容が浮かんでくる。 本書における犯人は実は物語の5/6辺りで突然犯人による自供によって判明する。しかし本書におけるメインの謎は犯人は誰かではなく、なぜ被害者は殺されるに至ったかというプロセスにある。 本書の原題は“Some Lie And Some Die”。ジーノ・ヴェダストの「レット=ミー=ビリーブ」という歌に出てくる歌詞の一節だ。 「だれかは偽り、だれかは死ぬのか」。 これはレンデルから世の大衆に向けての痛切なメッセージなのだ。 当時ヴェトナム戦争、欧米とソ連との一触即発の緊張関係など荒んでいた政情に反発した民衆が音楽で世の中が変えられると信じ、ロックスターをアイコンにして運動を起こしていた。しかしそのアイコンたちはラヴ・アンド・ピースを叫びながら、実はそれを食い物にし、アイコンに群がるファンたちを弄び、金儲けしていたという事実。 君たちの信じる者は所詮虚栄に過ぎないのだという警句を本書で投げかけている。 本書が1973年に発表されたことを考慮して初めて本書が当時書かれた意義が解る(とはいえ、本書を読み終えた後に冒頭の献辞を読むと母から子への痛烈なメッセージにも取れて苦笑してしまうが)。 ただ単純にロックフェスティバルが流行っているから作品を一つ仕上げたのではない。レンデルはそこに一種の疑問と危機感を読み取り、それを小説として形にしたのだ。 改めてレンデルは世の狂乱の渦とは一線を画した視座で世の中を観ている作家であることを認識させられた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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鮮烈なデビュー作となった『不夜城』も『鎮魂歌』を経て3部作と云う形で本書を以て完結を迎える。足掛け8年に亘っての完結だ。
その完結編となる本書ではまずいきなり前2作で劉健一の悪夢の元凶となっていた楊偉民の暗殺から始まる。つまり前2作の流れを断ち切ってから物語は始まるのだ。 作中でも書かれているように、新宿を生きる中国系マフィアの状況も劉健一がしがない故買屋だった頃からは様変わりしている。北京、上海、台湾といった大きな勢力が組織だって抗争を繰り広げていた頃とは違い、東北や福建から流れてきた連中が4,5人集まっては犯罪を犯し、また方々へ散っていく。 そして劉健一も2作目からさらにその得体の知れなさに拍車がかかる。全てを見通すかのように部屋に籠っては情報を集め、彼に関わる人たちの過去を、秘密を暴いていく。物語の前面に出るわけではなく、あくまで影の存在として情報を操作し、人を、いや物語を操る。 そして物語の中で翻弄されるのは武基裕。中国人でありながら偽りの戸籍を手に入れ、残留孤児二世として日本に入国し、日本人として生きる男。しかし生きるのに不器用な彼は中国東北人グループの下で働き、麻薬取締官の手下となり、またやくざの使いとなって地べたに這いつくばりながら生活している。 武には過去に喪った女性がいる。任美琪というかつて歌舞伎町の顔だった唐真という福建人の情婦だった女だ。武との密会がばれ、命を喪った。 これは他の馳作品によく見られる設定だ。概ね馳氏の主人公にはかつて愛した女を喪った過去を持つ。それは汚れてしまった現在の自分が生まれることになった愛と云う純粋なものを信じていた時代から訣別を意味するのだろう。 ある者は人生から転落し、ちんけなチンピラになってしまい、ある者は愛を捨てることで成り上がった者もいる。しかし共通するのは汚れてしまった人間になってしまったということだ。 馳作品の主人公は過去の女性への喪失感がトラウマになっていることが多い。 武は自分のボス韓豪を殺した連中を探すための一手段として情報屋の劉健一に情報収集を依頼するのだが、それがやがて幼馴染でかけがえのない存在だった藍文慈という自身の過去と対峙し、その過去を隠すために逆に劉健一に踊らされる存在となっていく。利用しようとしていた劉が全てを知り、そして全てを操る存在として武には映り、恐れおののくようになる。 そして武が親しみを込めて小文と呼ぶ藍文慈は、貧村で武が暮らしていた時に大切にしていた妹のような存在。武が日本へ発つ時に必ず迎えに来ると誓ったが、そのまま忘れ去られ、自身の力で日本に来た女だ。 このように相変わらず裏切りと血と暴力の物語で救いがないのだが、今までの諸作とは明らかに変わっているところがある。 まず必ずと云っていいほど織り込まれていた過剰なセックス描写が本作では全くないことだ。ヒロインは必ず複数のやくざに凌辱され、薬漬けにされ廃人と化す。物語の初めに美しく、そしてしたたかな女として描写され、物語の中で血肉を得られた頃に、いきなり公衆便所のように男たちの性欲処理の対象まで貶められるのが今までの馳作品における女性の扱い方だった。 しかし本書ではヒロイン役である藍文慈の扱いは全く違うものになっている。 また馳作品に出てくる女性とは諸作品に共通して主人公を正気に、または現状打破のためによすがとなる存在だった。どんなに崖っぷちに立たされ、逃げ出したいと思っても、最後の光として存在するのが愛する者の存在。 しかしそんな最後の宝石を必死で守ろうとしながらも最後は自分の手で壊してしまうのが馳作品の主人公たち。最後のカタストロフィに向かうためのトリガーがこれら大事なものを失うことだ。 だからこそ私は馳作品に不満を覚える。ボロボロになりながらも守ってきた物を最後には簡単に放棄して狂気に身を委ねてしまう主人公の弱さにどうしても共感できない。それまでの話は一体何だったんだとガッカリしてしまうのだ。 しかし今回における女性、藍文慈の扱いは違う。 通常何もかも喪った人が再生もしくは復活するというのが小説の題材であり、また主題となるが、馳氏は何もかも喪った人がさらに堕ちていく様を容赦なく描いていく。それは異国で生活する下層社会の人間の厳しい現実を知るからかもしれない。 しかしそれでも小説と云う作り物の中では希望のある話を読みたいものだ。こう考える私は馳作品を読むべき人間ではないかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ローレンス・ブロックのごく初期の作品で私にとって本書がこれから読んでいく一連の作品の中の記念すべき1冊目だ。
主要登場人物わずかに4人。詐欺師コンビのダグとジョン、カモにされる男ガンダーマンと2人の協力者でガンダーマンの秘書のエヴィ。こんな少人数で繰り広げられる詐欺と云う名のコン・ゲームが実に面白い。さながらクウェンティン・タランティーノの映画を観ているかのようだ。 土地を買いに来たと見せかけ、逆に二束三文の土地を高く売りつける。それは相手が利口であり、抜け目がなく、そしてプライドの高い人間だからこそ成功する、それがジョン・ヘイドンとダグ・ランスの描いた絵だ。 彼らの標的はガンダーマンと云う土地成金ただ一人。その彼の信用を得るために彼らは実際に株式会社を設立し、また実際に土地を買い漁る。そして秘書のエヴィからはガンダーマンが送ろうとした手紙を確認し、偽の返事を書き、わざわざ当該地の消印で届くように、各地に飛んで投函する。 ちょっとした手間を惜しまず、あくまでリアルと細部にこだわる。相手が詐欺に遭ったと気付かないように罠にかける。それがジョンとダグの流儀。 こんなに入念な準備をされれば、ずぶの素人の私などは絶対騙されたことに気付かないだろう。いやあ、詐欺の手口というのは実に恐ろしい。 そんな2人の詐欺師に加わる1人の協力者の女。しかもその女はとび切りの美人。そんな3人だから色恋沙汰が起きないはずがない。今回の仕事を最後と決心していたジョンが次第にエヴィに惹かれていくのだ。彼の将来の夢にいつの間にか彼女がパートナーとなって加わっていく。 少人数のチームの中に一人だけ異性が加わると、理性の中に感情が加わり、不協和音が響きだす。これはこういったコン・ゲームに不確定要素を加える常套手段と云える。 本書も例によって例の如くだが、特徴的なのはエヴィがこのような物語にありがちな狡猾で勝気な女性として描かれず、退屈な町と社長の愛人としてこの先暮らしていく未来に絶望し、その現状を打破したいともがく一人の女性として描かれる。そして詐欺師として、いや男として完璧なジョンを愛するようになる。 全く男が夢に描くような女性である。 しかしそこはやはりコン・ゲーム小説ゆえの展開。 題名にあるようにこの物語の中心は女性、つまりエヴィになるのだが、ガンダーマンが死ぬ250ページまでエヴィの悪女ぶりは上に書いたように全く解らない。むしろエヴィは初めて大がかりな詐欺の手伝いをする危うげな女性として描かれている。 しかし私は一方でエヴィが陰の主役でありながらも、これは一度人生を諦め、ささやかな夢に賭けたジョン・ヘイドンという元詐欺師の再生の物語だと思わざるを得ない。本書は彼の中に眠っていた詐欺師の血が再燃する物語なのだ。 また1965年の作品だからか、架空の会社を設立してまで行う一大詐欺作戦の割には想定する報酬が7万ドルと実に低いのが終始気になった。当時の貨幣価値に換算すると、7,700万円相当の価値があるようだ。う~ん、それでも微妙な数字ではあるが。 生憎現在でもこの作品の続編は書かれていない。もはやブロックの中では既に記憶にない作品なのかもしれない。 しかし数年前に来日したブロックの話によれば、彼の小説の登場人物は彼の中で生きており、ふと何かのきっかけで甦って、また物語が生まれるとのこと。 もしかしたら…の期待を抱いてしまうなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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レンデル特有の悪意が詰まった短編集。
冒頭の表題作はミステリというよりも、ホラーにも似た1編。 因果応報の物語。本編でアメリカ探偵作家クラブ最優秀短編賞を受賞したとのことだが、候補作のレベルが低かったのか? 続く「誰がそんなことを」は親友が妻を殺した経緯を夫が語る話。本編で怖いのは語り部である主人公の真意が解らないこと。そして淡々とした語り口では主人公の嫉妬心が全く解らない。従ってそれが奇妙な怖さを与えている。 「悪い心臓」は、解雇した部下から夕食の誘いを受けた社長の一夜の物語。 解雇した社員からいくら執拗に招待を受けるとはいえ、果たして受けるものだろうかという日本人ならば抱く疑問はさておき、本書はその居心地の悪さが終始語られる。 妙にぎこちなく進んで盛り上がりに欠ける会話。話題が全て部下の解雇に繋がる等、おおよそその場には居合わせたくないシチュエーションだ。レンデルらしい実に意地の悪いお話だ。 今でいう確認恐怖症の女性を描いた「用心の過ぎた女」。 レンデルお得意の、何かの恐怖感、執着心に囚われている人間が他者が自身の生活圏に関わることで次第に冷静さを失っていく過程を描いた物語。 鍵をきちんと確認するのは私もよくあることだが、レンデルの描く人物は度が過ぎていてすさまじい。そんな精神障害を持つ人間が他者に対して平常心を保とうと無理をすることがすなわち破局への始まりなのだ。 奇妙な味わいを残すのが「生きうつし」だ。 二兎追う者は一兎も得ず。ゾィーに対してピーターはリザとは上手く行っていないと語り、リザに対してはゾィーと逢っていることはおくびにも出さない。そんな二重生活を続けていた中で訪れた皮肉な偶然。ホランド・パークで偶然再会したリザとゾィーは何をしゃべったのか。色んな想像が膨らむ結末である。 2人の老人を主人公に据えたのが「はえとり草」。 とにかくマールの性格の悪さが引き立つ話だ。私も社会に出て色んな人と出逢って気付かされたことがあるのだが、大体独身で30を過ぎた人はどこか子供めいた我儘なところがあるということだ(私の意見です、念のため)。柔軟性に欠け、自分の意見を通さずにはいられないという我の強さが目立つ傾向にある(あくまで私の意見です。念のため)。 マールはそんな人間の典型だ。読んでいる最中、どうしてダフネはこんな女性と友人関係を続けるのだろうかと首を傾げたが。最後の犯人はきちんと読んでいないと解らないようになっている。私はかろうじて解った。レンデルの人間観察眼が際立った1編か。 「しがみつく女」ははたまた精神障害者のお話。 愛と狂気の境界とは一体どこにあるのか。そんなことを考えさせられる1編だ。リディアという相手を愛しすぎるがために一時も離れたくないという女性が登場するのだが、通常ならばそこから結婚生活を送る夫が妻への恐怖を募らせる、と云うのがパターンだろうが、本作では主人公の彼もリディアを愛しており、彼女の希望を叶えようと仕事よりもリディアを取る生活を送る男だ。つまり半ば愛情の度合いが強すぎた男女だからこそ解る2人の間に存在するタブー。それを犯した彼が辿る行く末は実に奇妙な味わいを残す。 「酢の母」はその名の通り、ワインから酢を作り出す「酢の母」なる培養物とマーガレットとモップという2人の女の子の物語が繰り広げられる。2人の女の子が短期に滞在する別荘でモップが体験する夜中に屋敷を忍び込む影。そんな転換点が随所にあるものの、今いち吸引力に欠ける物語であった。 「コインの落ちる音」は不仲状態の夫婦の物語。 セックス嫌いの冷感症の妻に理解を示した夫が自身の性的欲求不満を解消するためにセックスフレンドがいることを告白したことで狂ってしまった夫婦と云う名の歯車。夫は理解を示さない妻に業を煮やして一刻も早い離婚を望み、恥をかかされた妻はどちらかが死ぬまで決して離婚しないという復讐を誓った。 そんな二人が夫の会社の会長の結婚式に出席するために滞在したホテルにあるコインを入れれば一定時間使用できる古いガスストーブ。 状況と小道具が見事に物語の結末に有意的に働いた1編だ。 SFかと思わせたのが「人間に近いもの」だ。 ネタバレに感想を書くが何とも味わいのある作品だ。 最後の「分裂は勝ち」は我々の生活に身近な問題を扱っている。 親の介護という誰もが直面する問題を題材に実に人間臭い卑しい考えが横溢した作品となった。自分に忙しいマージョリーは母親の世話を妹のポーリーンにこれまでように任せて今の生活を維持しようとする。そんな中に現れたポーリーンの恋人の医師。冒頭は不器量で変わり者のポーリーンが本書における異分子かと思いきや、マージョリーもまた我儘の強い人物だったことが解る。なんとも救いのない話だ。 数あるレンデルの短編集の中で日本で初めて紹介されたのが本書。 長編でも短編でも書ける作家レンデル。彼女の持ち味は人間がわずかに抱く悪意や不満といった負の感情が次第に肥大していき、あるきっかけがもとになって悲劇を招くことが非常に自然な形で読者の頭に染み込んでいくような丹念な物事の積み重ねにある。 本書でもそれは健在だが、短編と云う決められたページ数のためか扱われる内容は実に我々の生活の身の回りの出来事であることが多い。 やたらとモテる友人への嫉妬心、解雇した部下への苦手意識、潔癖症、独身生活を続けたゆえに生まれた独善的な思考、誰かに愛されていないと生きていられない女、夫婦の不仲、厭世的な人間嫌い、苦労を厭い、できれば身内に面倒を押付けたいという願望。 それらは誰もが周囲に該当する人間であり、もしくは自分の理解を超えた存在ではなく、どこかに必ずいる、ちょっと変わった人たちだ。みな何かに不満を持ちながら、それでも生きているのが現状であり、何もかもに満たされ、毎日が安定して幸せな生活を送っている人たちなどほとんどいないだろう。 従ってレンデルの作品に登場する人物は不思議なお隣さんの生活を覗き見するような趣があり、時にそれはリアルすぎて生活臭さえ感じられるほどだ。 この世に流布する物語の大半がいわゆる日常生活が非日常に転換する何かのきっかけ、すなわちトリガーを切り出した話である。 レンデルはこのトリガーが非常に自然であり、また我々の生活に身近にあるような題材、内容なので読了後なんとなくわが身の将来に起こる不安感を掻き立てられたりするのだ。 本書の原書が刊行されたのは1976年だが、収録されている作品に出てくる人物たちは21世紀の今でも不変的な存在だ。いやむしろ精神障害の種類が細分化された現在だからこそ、40年近くも前にこのような作品が書かれたことに驚く。 それまでは特徴的な性格として捉えられていた内容が現代では名前が付けられ、分類されている。特に最終話に登場する“想像上の友達”に関してはこの時代に既にそんな認識があったこと、そしてそれを小説の題材に扱っていたことに驚かされる。 本書に収録されている物語の結末は全てが数学を解くかのように割り切れるような内容ではなく、何かの余りを残してその後を想像させるものが多い。それがこの作家の、人間というものに対しての思いなのだろう。 だからこそここに出てくる人物たちが作者の掌上で操られているのではなく、自らの意志で行動しているように感じてしまう。作者はそんな彼らに事件と云うきっかけを与えているだけ。そんな風に感じてしまうほど彼らの行動や出来事の成り行きが自然なのだ。 読めば読むほどレンデルの人間観察眼の奥深さを知らされることになる。だからこそ訳出が途絶えたことが残念でならない。どの出版社でもいいのでレンデル=ヴァインの作品を再び刊行してくれることを切に願っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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年々加熱する子供のお受験を上手く殺人事件に絡めた作品。
人を殺そうが子供の受験の方が大事、そのためならば死体の処分なぞ何のその、と子供の将来を思う気持ちが強いばかりに生まれる歪んだエゴが渦巻く物語となった。 そのエゴを引き立てるのは、それぞれの夫妻が何がしかの陰湿な感情を持っている点だ。 他人の妻に色目を使う夫やみんなで私立中学への合格を目指そうといいながら、塾講師の言葉に過敏に反応し、人の息子より自分の息子の合格を願う本音、中学受験を疑問視する親を危険視し、詭弁を弄して説得を重ねる者など東野特有の人間の嫌らしさが物語には横溢する。 同じ年の子供を持つ親といっても年齢は30代から40代後半までと幅広く、その中には妻への愛情は薄れ、人妻に明らさまな興味の目を向ける者がいるなど、どこか淫靡な香りが漂う。 その淫靡さは実は物語の謎の中心だったことが最後には判明する。本書は今までの東野作品の中でも最もドロドロとした人間関係や社会の裏側を描いているように感じた。 そんな中で起きたのが主人公並木俊介の愛人、高階英里子の死。 当初は妻美菜子の、衝動的殺人とされており、居合わせた夫婦皆が死体隠匿に協力的と云う一種異様な雰囲気で展開する。 しかしこんな激化する子供たちの受験戦争とそれによって生み出される競争意識と副産物的に生まれた子供たちの世界でのヒエラルキー的思想を懸念し、ゆとり教育が導入されたがそれはまた子供たちの学力低下と甘えを助長する結果となった。 教育とは本当に難しい。いやそれらシステムを利用して過剰な方向にベクトルを向ける教育を生業とする者たちがこのような歪んだシステムを生み出すのか。 親は子供に一体何をしてやれるのか。いやどこまですべきなのか? 真犯人を知った後では全く物語に対する感じ方が変わってしまった。またもや東野マジックにやられてしまったようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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島田荘司氏が今まで数多の研究家や作家がテーマに取り上げた写楽の正体の謎に挑んだ意欲作。構想20年の悲願が結実したのが本書。
本書は島田氏の検証に基づく写楽の正体が述べられており、必ずしもそれが正解だとは云い切れないが、本書の感想は通常のミステリのように推理と物証を重ねて辿り着いた真相という形で断定的に語らせていただく。 物語は現代編と江戸編が交互に語られる。 しかしとにかく本編に行くまでが長い!冒頭の現代編で語られるのは東大卒で某会社の社長令嬢と結婚しながらも美術大学の教授から美術館の学芸員、そして塾の講師へと転落の人生を送っている在野の浮世絵研究家の話が延々と語られる。 その話には一時期社会問題となった回転ドア挟まれ事件のエピソードを絡めた浮世絵研究家の、不幸と云う負の螺旋に絡め取られた人生の構図が描かれている。 六本木ヒルズをモデルにした六本木ガーデンという複合施設の茂木タワーの回転ドアで最愛の一人息子を挟まれ事故で亡くし、それによる家庭の崩壊、延々と語られる日本の回転ドアの危険性などおよそ写楽の謎から程遠い話題に終始する(まあ、これは後の写楽考へのキーワード的役割を果たすのだが)。 更には回転ドアの危険性を研究する団体に所属するモデルのような東大の工学美人教授の登場と、果たしてこの物語の方向はいずこにあるのだろうかと考え込むことしばしばだった。 そんな回り道をしながらモデル美人風の東大工学教授と人生のどん底まで落ち込んだ在野の浮世絵研究家が問答を繰り返し、写楽の謎に迫る。 物語性を重視したのか、写楽の謎の本質に迫るまでの枝葉が長く、ぽつりぽつりと新たな見解が展開される。それは専門家が自らの知識を語っていく中で門外漢が自然に抱く疑問が新たな謎解明への扉を開くという構成になっている。 そして江戸編では現代編の論考を裏付けるような蔦屋重三郎と写楽との邂逅の話が語られる。 これが実に写実的で素晴らしい。江戸っ子のちゃきちゃきの江戸弁で繰り広げられる物語は実に映像的で、また生活臭さえ感じられ、眼前に当時の江戸が浮かび上がるようだ。まさに活写されている。 ここは物語作家島田氏のまさに独壇場。実に面白く、色鮮やかだ。 さて東洲斎写楽の正体というのはイギリスの切り裂きジャックと並んで歴史のミステリとして名高い。それはたった10ヶ月で140点もの作品を残し、一世を風靡して姿を消したこの人気絵師について詳細に語られた記録が遺されていないためだからだ。 私は写楽に纏わる作品は本書以外には泡坂妻夫氏の『写楽百面相』しか読んだことがないので、ほとんど門外漢なのだが、数多ある写楽の正体を探った作品や探究書の中でも本書が特徴的だと思われるのは、なぜこれほどまでに記録が遺されなかったのかに着眼している点だと思う。記録そのものに書かれた文章の行間を読み解くのが専らであるこのような研究に対してまずその背景からアプローチしていったのが斬新だったのではないか。 以前私は本格ミステリの巨匠と称されながらも、新本格ミステリ作者たちが求道的に本格ミステリの可能性を深く掘り下げていくのに対し、島田氏は外に目を向け、本格ミステリの可能性を広げていっていると感想に書いたことがあるが、まさに本書はそれだ。 さてミステリ作家が歴史上の謎に挑む。これには高木彬光氏や松本清張氏といった偉大な先達が試み、しかも日本ミステリ史に残る偉業として今も讃えられている。 つまり島田氏自身もミステリ作家ならば一度は自身の推理力を歴史上の謎に発揮し、一つ世に問う衝撃作として著すべきだと考えていたのだろう。 そこで島田氏が選んだ題材が東洲斎写楽の正体という云わば使い古された謎だ。しかしそんなテーマでありながら島田氏は新たな解釈を打ち出し、この平成の世に響く作品を物にした。 そして島田氏は忠実に偉大なるミステリ作家の先達の道程を辿っている。それは自分が彼らに比肩しようと切磋琢磨していることもあろうが、それよりも後続の作家たちに日本本格ミステリの伝統を継承するための創作活動のように思えてならない。 本書が写楽の正体への決定打となるとは断言できないだろう。 しかし少なくとも島田氏は偉大なる先達と肩を並べたと断言できる。 本書は2011年度版の『このミス』で2位という高評価で迎えられた。 その期待値が高かったのか、私は写楽の正体の謎へ迫る面白さがそれを小説とするための在野の研究家佐藤貞三が写楽の正体を探るまでのサイドストーリーがまだるっこしくて半減してしまった感がある。転落するばかりの人生の男の愚痴が長々と続く件は、本書は本当に『このミス』2位の作品か?と思ったりもした。 写楽の正体が斬新だっただけに勿体ない思いが強い。しかし本書はそれも含めて島田氏の特徴が色濃く表れた作品だろう。 齢60を超えてますます意気盛んな島田氏。今後の活躍が楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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女子プロゴルファー、リー・オフステッドシリーズ第5作にして最終巻。
グレアムとリーの関係が前作で急接近し、さらに前作の国対抗のゴルフ大会で大活躍したリーも有名になったことでまさに大団円に向けての最後の1作となった。 前作のエンディングで述べられていたグレアムとの結婚式を兼ねたハワイでのゴルフイベントの参加が本書の物語。 つまりリーはスチュワート・カップで起きた殺人事件に続いてすぐのイベントで殺人事件に巻き込まれたことになる。一介のプロゴルファーが訪れる先々でこんなに頻繁に殺人事件に出くわすなんて、いやあ、これは何でも無理があるでしょ。 とはいえこんなのはシリーズ物には付き物の設定。そこら辺は気にせず読むのが吉。 さて前述したように今回はいつものようにツアーではなくゴルフイベントが舞台となっている。歴史あるハワイのロイヤル・マウナケア・ゴルフ&カントリー・クラブの記念すべき百年祭のイベントの手伝いを任される。そこで行われるイベントがまた実に興味深い。 屋内パット大会はなんとクラブハウス内の廊下やバーなどをパットゴルフの会場に見立てて行われるというもの。それもただ単純にボールを所定の位置からカップへ運べばいいわけではなく、例えば燭台を当てなければならないとか足乗せの下をくぐって箱時計に当てなければならなければ点数が低いとか面白いルールが施されている。特にリーの親友のペグが最初は奇矯なパットゴルフの内容に面喰いながらも大会当日には完璧にルールを理解して参加者に説明している件は実に面白い。 さらにホースレースは33人の女性が全員一度にショットしてカップまで誰が一番に入れることが出来るかを競い、“プロをやっつけよう”大会は参加者全員とプロゴルファーが対戦して4つの基準でプロより少ない打数を競うもの。“ぴかぴかボール”は光るゴルフボールをみんなで追いかけるゲーム。 ロイヤル・マウナケア・ゴルフ&カントリー・クラブは恐らく例によってエルキンズの創作だろうが、上に述べたおかしなイベントはどこかに実在するに違いない。 さてそんないつものエルキンズのユーモア溢れる舞台設定の中に織り込まれた謎はクラブの会長ハミッシュの殺人事件の真相とその犯人捜しに加え、クラブに伝わる誓いの詞の意味、そして“母なる火山の女神ペレの平和会”(<フイ・マル・マクアヒネ・ペレ>)なる団体が探しているカンバーランド・メモリアル・カップの在処だ。しかも誓いの詞がメモリアル・カップの在処を示す暗号になっているという宝探しの趣向が織り込まれている。 この暗号解読の過程はなかなかに面白い。単なる伝統あるクラブの古式ゆかしい呪文のような詩かと思いきや、きちんと意味が通じる暗号になっているのには驚いた。 ところで今回のタイトルは『悲劇のクラブ』なのに読中、なかなかゴルフクラブについて言及されないなぁと思っていたら実は道具のゴルフクラブではなく、カントリークラブの“クラブ”だったのかと3/4を過ぎたあたりで気付いた。これもある意味叙述トリックかも。 そして残念なのは愛すべきサブキャラクターのリーの相棒キャディのルー・サピオが締めくくりの本作に出てこないことだ。 エルキンズの有名シリーズのスケルトン探偵でも名サブキャラクターのFBI捜査官のジョン・ロウの登場が少なくなったりと、魅力あるキャラクター作りに長けているのに、エルキンズはそれを上手く活用できていない感じがする。 しかしたった280ページの作品の分量にミステリ興趣をくすぐるネタをふんだんに盛り込んでいる。 その読みやすさと親しみやすいキャラクターゆえにコージーミステリと軽んじられているエルキンズだが、そのミステリマインドと本格スピリットは筋金入りだ。 どうやら未訳の短編も数あるようだし、いつかまた新作を読めることを期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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バングラデシュの密林など世界の自然を舞台に冒険・スパイ小説を繰り広げていたマレルが21世紀に選んだ冒険の舞台はなんと廃墟。
資金難で打ち捨てられたホテルやオフィスビル、デパートに忍び込む。彼の行動は彼ら曰く「写真以外は何も取らない、足跡以外は何も残さない」。しかしそれは立派な不法侵入と云う犯罪。それ故彼らは自らの素性を語らない。従って紹介もファーストネームもしくはニックネームだけだ。 まさか廃墟探索がこれほどスリリングだとは思わなかった。 暗闇に巣食う動物たち。不衛生的な環境で育ったそれらは攻撃的でもあり、傷つけられると病原菌に感染してしまう。さらに長年風雨に曝され、老朽化が進み、床が突然抜けたり、階段が崩落したり、思いもかけない危難が待ち受けているのだ。そんな状況で機転を働かせて仲間の救出を行うところなど、手に汗握るスペクタクルになっている。機能を失った建物が未知なるジャングルの如き迷宮に見えてくる。 そんな危険を冒してまでも廃墟侵入を止めないのはそこに魅力があるからだ。当時の時間を体験することが出来るからだ。 原作者のあとがきによれば彼らのようなグループは世界中に実在するとのこと。いやあ、マレルは実に面白い題材を見つけたものだ。 そして挿入されるかつての宿泊客たちのエピソードも興味深い。 亡き夫と思い出のために訪れ、自殺する者。 ホテルに荷物を残して失踪したまま行方知れずになった者。 不治の病に侵され、最後の記念にホテルに泊まり、自害する者。 さらには各登場人物のエピソードも面白い。特に主人公のバレンジャーの軍隊時代の恐ろしい捕虜体験は読み応え十分。この辺はランボーの原作者たる所以か。 そして物語は暗闇の中の廃墟探索という冒険物から不測の訪問者である窃盗グループによる拘束を受けるというサスペンス物に変わり、さらに廃墟のホテルに住まう異常殺人鬼の登場で次々と仲間が殺されていくホラーへと転調していく。 『ダブルイメージ』ではあまりに物語の転調が激しく、読後はなんといったらいいか解らないほど戸惑いを覚えたが、本作では舞台設定が廃墟と固定されており、その不気味なムードが冒険、サスペンス、ホラーを包含しているため、上に書いた物語の転調が非常にスムーズで、逆に先の展開に好奇心が募る思いがした。 正直云って本書は私が今まで読んだマレル作品で一番面白い長編となった。作家生活30年以上も経って物語力の感じる作品を生みだす、まさに円熟味のなせる業か。 前回読んだ短編集『真夜中に捨てられる靴』でも感じたが、マレルは21世紀になって作風がガラリと、しかもいい方に変わった。これほど味が出るとは思わなかった。 こうなると近年発表されたマレルの作品が実に気になる。本書は2005年の作品。しかも版元のランダムハウス講談社は武田ランダムハウスジャパンに経営を移した後、本書は絶版の憂き目にあっている。 どこかマレルの未訳作を訳出してくれる寛大な出版社はないだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーンシリーズとしては最後から二番目の長編となる本書。
なんとその舞台はライツヴィル。そして本書は『顔』で語られたグローリー・ギルド事件の続きから始まる。つまり本書はエラリイ・クイーン自身が書いた作品だ。 『真鍮の家』でリチャード・クイーンはジェシイ・シャーウッドと結婚したが、本書ではそれは無かったことになっているらしい。同書の事件を飛び越して『顔』の事件の後、しかもエラリイの復調のためにクイーン警視はライツヴィルの保養所にて一緒に過ごす。しかもそれについて妻に断りを入れる云々の件はない。その後自宅に戻ってもジェシイの影など少しも見かけられない。確かにあの作品はエイブラハム・デイヴィッドスンの手になる物だからそれも致し方ないのだろう。 従って本書でのクイーン警視は案外俗物っぽい。エラリイを裸映画(ポルノ?)に誘ったり、ジョニー・Bの遺産相続人のレスリーに対して「あと30年若かったら…」などとのたまう。長い間やもめ暮らしをしていた老人の悲哀を感じる。 また本書ではノンシリーズの『ガラスの村』の舞台となった<シンの辻>が意外と近くにあることが明かされる。事件の舞台となったジョニー・Bの別荘はライツヴィルと<シンの辻>の間に位置するのだ。 そんな物語の中心人物は何度も結婚を繰り返すジョニー・B。父親の莫大な遺産で何不自由なく暮らし、毎月世界中のどこかのイベントに参加する自由人。 そんな彼だから結婚に縛られるような人物ではないと思っていたが、実は信託財産で年間30万ドルが支給されるようになっているが、それでは彼の生活では足らないので遺言状にある「私の息子ジョンが結婚した時には500万ドル与える」というのを「私の息子ジョンが結婚する時にはいつも500万ドル与える」と読み替え、それが故に結婚、離婚を繰り返すことになったという仕組みだった。 しかしそんな暮らしに終わりを告げる予定だった第4の妻ローラの存在を探し、またジョニー・Bを殺害した犯人を見つけるのが本書の謎。 3人の元妻たちに囲まれた中でそれら元妻には遺産は相続しないと宣言したその夜に起きた殺人事件。こんなシチュエーションであれば必然的に犯人はその3人に絞られてくる。そんな中に不協和音を奏でるのが前日に紛失した3人の女性たちのそれぞれの持ち物であったイヴニング・ドレスに緑のかつら、そして手袋。 それらが見事に論理的に解明されるラストは実に鮮やか。たった1つの解で全てがピタリと収まるべきところに収まる鮮やかな手際にやはり本家クイーンは凄いと唸らされた。 まさに長年の沈黙を破る会心の一作だ。 正直に云えばクイーン全盛期の作品と比べれば地味な物語でありサプライズの度合い、地味な物語などやや落ちるのは否めないものの、他作家のクイーン名義を読んだ後ではこの作品がやけに眩しく感じてしまう。 そういった意味でちょっと甘めに8ツ星としたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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狂乱の時代バブル絶頂期を舞台に億単位の金が躍る世界を描いた作品。金を動かし、金の魔力に憑りつかれ、金に溺れる人々の虚構のダンスが繰り広げられる。
莫大な金を手に入れるには人を騙し、嘘を平気でつけられるようにならなければならない。善意のお手伝いと見せかけ、二束三文で土地を買占め(とはいえ、バブル期の二束三文は億単位なのだが)、その10倍、100倍の利益を上げる。 作中お金を儲ければ儲けるほど感覚が麻痺してくるものだと齋藤美千隆が述べる。かつて感動した美味しい食事が味気なくなり、高級な服やバッグや宝石も驚きをもたらさなくなる。途方もない金額のやり取りが数字としてしか見えなくなってくる。それに従い、嘘をつくことにも全然罪悪感を感じなくなってくる。 つまり金を儲ければ儲けるほど人は外道に堕ちていくのだ。 そんな金の亡者たちの物語の中心にいるのは4人。 1人目は齋藤美千隆。30半ばにして新進の不動産会社で気焔を吐く不動産業界の寵児。 人に対して決して本心を見せず、利用する者は利用し、役に立たない者は容赦なく切り捨てる。謎めいた魅力はカリスマ性を伴い、周囲を引き付ける。人間を見る目に長け、穏やかな表情と口調で人心操作を容易にするが、地上げの神様と呼ばれる波潟を失墜させようと虎視眈々と隙を窺っている。 2人目は波潟昌男。東北弁が残る田舎者の風貌ながら地上げの神様と云われ、政財界のみならず日本を陰で牛耳る極道にも太いパイプを持つ。 最近業績を急速に上げている齋藤美千隆を警戒視しながらも表面上は友好的で、彼の腹心堤彰洋を自社に限定社員として取り込む度量も見せる。風体の上がらない親父然としながらも周囲の人間に対して冷徹に評価し、自分の足手まといになる者、将来強大な敵となり得る者、そして自分に歯向かう者に対して凄まじいまでの報復を行う。 3人目は堤彰洋。しがないディスコの黒服をしていたところ、幼馴染でかつて恋人だった麻美と再会し、彼女に齋藤美千隆を紹介してもらったところでバブル全盛期の金の亡者どもが跳梁跋扈する不動産業へ乗り込む。 若さとよく回る頭を駆使し、心酔する齋藤美千隆と共にいつか創る「王国」を夢見て。21歳の若さゆえの純粋さと情熱、そして祖父から繰り言のように叩き込まれた誠実であれ、正直であれという家訓に縛られながら、齋藤美千隆のスパイとして波潟の会社に潜り込み、さらにその娘早紀に惚れてしまうことで運命の糸に自縄自縛に絡め取られていく。 4人目は三浦麻美。貧しい母子家庭に育ったことでお金に対する執着が強く、お友達の父親である波潟の愛人となるに至る。 その美貌と身体を武器にどんな男でも陥落させるが、美千隆だけは思い通りに操ることが出来ず、実は彼に惚れていることに気付きながらも“バブルと寝る女”を演じる。常に自分が一番でなければならないという性分の持ち主で、自身を貶めようとする人物には一生消えない傷を肉体的・精神的に付ける。その反面、自分が波潟にいつ捨てられるのか不安に思っている。 この一癖も二癖もある人物たちの関係が複雑に絡み合い、欺瞞と憎悪と裏切りの黒いゲームが繰り広げられる。 それは人心操作のヒエラルキーとでも云おうか。 麻美は波潟を操り、美千隆に操られる。美千隆は麻美と彰洋を操り、波潟に真意を悟らせない。波潟は美千隆に大いに疑念を抱きながら彰洋を受け入れ、利用する。その3人に翻弄される彰洋。わずかに残っていた純粋さはすり減り、自己嫌悪の沼にずぶずぶと嵌っていく。自我崩壊が進んでいく。 さらに後半関わってくる関西の地上げ屋金田義明にも弱みを握られ、波潟と美千隆の動向を常に報告するよう脅される。 今までの馳作品の主人公と同じように堤彰洋は全てが悪い方向に働き、どんづまりに陥ってしまう。 ただ彰洋が他作品の主人公と違うのは彼が若輩者で齋藤美千隆に魅せられて一緒に成り上がっていきたいという若者であり、詐欺紛いの手法で老人たちから土地を巻き上げてはいるものの、犯罪者とまでは行かない人物だということだ。 おまけに混血児でもない。一つだけ特徴的なのは敬虔なクリスチャンであった祖父から常に嘘をついてはいけない、人を騙してはいけない、人から物を盗んではいけないと云いきかされていたということだ。幼き頃に叩き込まれた教訓は相反することをしている現在の彰洋の心に歪みを少しずつ、だが着実に生じさせていく。それが彼にとっての呪縛なのだ。 馳作品の主人公たちは心の奥底に持っている生い立ちに由来する心の暗黒を持っているのが特徴だが、彰洋のそれは彼らに比べてもさほど重い物ではない。 逆に彰洋が自身を食い物にしている奴らを出し抜くために地面に這いつくばって犬のように振舞うところに彰洋がいつか成功することを夢見ていた普通の若者だったことが強調される。 成り上がっていく者たちは元々の出自が貧しいだけに真の富豪たちのような余裕や度胸がない。つまり自分が稼いだ金の上に胡坐をかき、それを崇める者たちに傲慢に振舞うばかりなのだという事実に気付いた彰洋の強さ。それがこの物語の大きなターニングポイントだ。 上下巻合わせて1,050ページ強の大作。 彼ら4人が破滅に至るまでのプロセスがじっくりと事細かに語られる。それぞれを縛るための因果をところどころに織り込ませ、それらが物語の最後に一気にカタストロフィとして連鎖反応的に爆発していく。 しかし果たしてこれだけのページを費やす必要があったのかとも思う。巨万の富を得ながら、金のために金を遣い、金を稼ぐ者たちの終わりなき修羅の道行。 全てが破滅へと収束していくように紡いだ物語はしかし、いつもながらの呪詛の連続で途中だれてしまったのは否めない。恐らくこの半分の分量で同様の物語を紡ぐことはできたのではないか。 そしてバブル全盛期の不動産業界を舞台にしたとはいえ、とどのつまり物語を彩るのは金、暴力、セックスだ。 こうまでテーマが同じだと、馳氏はこの3つのテーマが必要不可欠なモチーフを探して物語を書いているようにも思える。 そしてバブル全盛期の不動産業界を舞台にしたことで結末が解っているだけに波潟、美千隆、金田、市丸ら地上げ屋、株屋のひりつくような金のやり取りが途中空虚になっていく。誰が成功しても全てが砂上の楼閣のように灰燼と化していくことが解っているからだ。 文字通り命と魂の削り合いのような駆引きを一歩引いて眺めている私がいた。 しかし前述のようにもう金と暴力とセックスまみれの話は読み飽きた。もっと違う一面の馳作品を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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題名に『超~殺人事件』と各編に冠したパロディ短編集。副題に「推理作家の苦悩」とあるように推理作家が常日頃抱いている不平不満をテーマにした作品とも読み取れる。
まず最初は「超税金対策殺人事件」はたまたま売れたがためにドカッと税金を納めなければならなくなった推理作家が各種領収書を必要経費と税務署に認めさせるようにあの手この手で作品にどうにか織り込もうと苦心する作品だ。 常々作家は取材旅行と称して色んな所に旅し、また車や高級な服なども自分のために買っても作中に登場させれば必要経費として落とせる、なんて優雅な商売だと思っていたが、ここにはそのために手練手管を尽くす作家の足掻きが書かれている。逆に云えば作家たるもの、年末の確定申告に向けて買い物や娯楽に費やしたお金をいかに上手く作品に活かすかに腐心しているとも取れる。 本書には物品ごとや行楽費をどのように活用すれば必要経費として落とせるかが細かに書かれているが、これは東野氏自身の経験だろう。翻せば新人作家は本書を読めば必要経費への落とし方が解る、いいマニュアルとして活用できるわけである。 ところで東野氏は本書を書くためにハワイ旅行や旭川の旅行費用を必要経費として落としたのだろうか?だとすればなんと狡猾な人なのだろう。 続く「超理系殺人事件」は本屋に立ち寄った男が佐井円州なる見知らぬ作家の書いた『超理系殺人事件』なる本を手に取る。そこには中学の理科の先生である男でさえ知らない最先端科学の話がふんだんに盛り込まれており…。 タイトルの下に「この小説が肌に合わない方は飛ばし読みして下さい」の一文が付されているように本書は量子力学、宇宙物理学、生物学、医学、遺伝子工学など、大卒の私でさえ専攻したことのない難関な最先端学問の知識がこれでもかと云わんばかりに織り込まれている。 東野氏の作品では自身がエンジニア出身ということもあってか、科学関係の知識が盛り込まれた作品が少なくないが、それでも文巧者の東野氏だから非常に読みやすいのが特徴的だった。 しかしながら本作では逆にそれを放棄し、延々と小難しい専門用語を敢えて多く使うことで特異性を出している。そして最後に至る似非理系人間摘発のオチ。思わず本書から手を放したくなる演出だ。 意表を突かれたのが「超犯人当て小説殺人事件」だ。 懸賞付き犯人当て小説を当てるために集められた編集者たちが一夜を作家邸で明かすと当の作家が何者かに殺されていて、さらにその殺人事件が実は犯人当て小説の中身だったという入れ子構造になった作品。確かに読者にとってはそれもまた作品なのだから正しいが、作品世界に没頭すればするほど眩暈が起きるような作品だ。 今後の出版界の暗い未来像を予見しているかのような作品が「超高齢化社会殺人事件」だ。 高齢のミステリ作家担当の編集者とは本当にこんな苦労をしているのだろうかと一種実話のように受け取れる作品だ。 そして東野氏は読書離れが進んでもはや読書をするのは以前の読者であり、そして作品もまたネームバリューのある作家の物しか売れないためにほとんどの作家が高齢だという未来像をここでは設定している。幸いなことに本書刊行から数十年経った今では逆にメールやブログ、ツイッターが流行した現在では一般人の表現欲が開花し、作家になりたがる人は増えている。しかし一方で出版不況が叫ばれているのはこの予想通りなのだが。 ともあれ、作家も編集者も出版に携わる人々が高齢化し、それぞれがボケているというブラックユーモアの効いた一編だ。 「超予告小説殺人事件」は実に東野氏らしいツイストの効いた一編だ。 推理小説に書かれた内容のとおりに実際に殺人が起きるというモチーフは使い古された手法だが、そこに東野氏は実に人間臭い味付けを施す。 庶民である我々ならば当然そうなるよなぁと展開で全く不自然さがないのがこの作品の魅力。逆に云えば最後のオチはそれが故に予想通り、落ち着くべきところに落ち着いたとも感じてしまうのが玉に瑕なのだが。 本書で一番笑ったのが次の「超長編小説殺人事件」。 本書が書かれたのは2001年で作品の長厚壮大化が蔓延っており、実際『このミス』でもそれら2000枚超の大作が上位を占めるという風潮があった。 実際2001年までの代表的作品を見てみると、髙村薫氏の『レディ・ジョーカー』に真保裕一氏の『奪取』や京極夏彦氏の京極堂シリーズ。夢枕獏氏の『神々の山嶺』、小野不由美氏の3500枚の『屍鬼』に、とどめは4000枚超の二階堂黎人氏の『人狼城の恐怖』とどんどんエスカレートしていっているのが解る。 そもそもミステリの長大化は島田荘司氏の御手洗潔シリーズや船戸氏の諸作品がその先鞭だったように記憶しており、そこから自然派生的に他の作家たちも長大化したように感じている。 そんな当時の出版界の世相を皮肉ったのが本作だ。特に本筋とは全く関係のない情報を織り込んで水増ししているのを作中作で過剰に実践しているところは笑いが止まらなかった。また本作では実作家の名前や作品名のパロディが多いのも特徴的だ。 「魔風館殺人事件(超最終回・ラスト5枚)」は箸休めのようなショートショートだ。連載最終回に至っても解決策のアイデアが浮かばない作家が最後に取った手は…という趣向だが、これも時折見られる手法だ。しかし実際連載小説はバランスが悪い作品が多いように感じる。 最後の「超読書機械殺人事件」は書評家の許に代わりに書評を書いてくれる機械ショヒョックスなる機械を売りに来る男の話。 日々本を大量に読んではその感想を書くことで生業にしている書評家にとって苦笑せざるを得ない作品だ。 元々一読者として本を読むのが大好きでいつしか感想を書き、そしてそれをウェブや同人誌で挙げていくうちに知らぬ間に書評家となっていたという方々が多いことだろう。そして大半の書評家がいつしか好きで読んでいた本が単に収入を稼ぐための目的として本来の本好きから乖離していっていることだろうと思う。なぜなら仕事のために読みたくもない本も読んで、抱いた感想とは裏腹にその本を売るために褒めなければならない文章を書かされるからだ。 まさに本作はそんな歪んだ読書を痛烈に皮肉った作品だ。しかし『名探偵の掟』から東野氏の読者に対する不信感はますます増すばかりだなぁ。 古くは『浪花少年探偵団』や『殺人現場は雲の上』で垣間見れ、『怪笑小説』や『名探偵の掟』で花開いた東野氏のユーモアが横溢した短編集。 『超・殺人事件』の名が示す通り、過剰なまでに特化されたテーマを突き詰めることでギャグに徹している。 そして常に描かれるのは作家や編集者など出版に携わる者たち、作家もミステリ作家と決まっている。つまりこれは業界の内幕をコミカルに描き、半ば暴露した短編集なのだ。 しかし単に面白いだけでなく、各編には出版業界の暗い側面が描かれていることに気付かなければならない。 例えば「超税金対策殺人事件」はまさに現役の作家ならば一度は直面する問題ではないだろうか?作家業とは無縁の我々にとっては実に面白おかしい喜劇であり、現実味のない話だが、作家の方々は逆に笑えない作品かもしれない。 そして東野氏自身がこの作品を書くことで作中に登場する物品や資産、旅行などの行楽費を経費で落としたのかもしれない、とまで思ってしまう。もしそうだとしたらなんて賢いのだろうか、東野氏は! 「超理系殺人事件」は内容が極端だが、現在では一定の部数を売るため、読書に縁のない人々にも手に取れるように平易で安易な内容、文章を書くように作家たちは強要されているのかもしれない。しかし作家の中には自分の書きたいテーマを深く追求し、濃い内容で書きたいと思っている人もおり、そういった意味ではこの作品はそんな作家たちの恨み節とも取れる。 恐らく自分が書きたい濃い内容を書くことが出来るのは島田荘司氏とか京極夏彦氏とか大沢在昌氏とか巨匠と呼ばれる一部の作家だけなのだろう。 「超犯人当て小説殺人事件」はゴーストライターに死なれたために作家当人が遺した作品の犯人が解らないという皮肉な内容だが、これももしかしたら実際に業界では有名な実話なのかもしれないし、「超高齢化社会殺人事件」は先細り感のある出版界への一種の警鐘として、そして「超予告小説殺人事件」は作品が売れ、生活が出来ている作家とはごく一部であるという業界の厳しい現実を突き付けており、また売れるためには作家は何でもするという凄みも感じさせる。 「超長編小説殺人事件」ではエスカレートする小説の長大化を皮肉っているが、実際当時は作中に書かれているように出版社から1000枚のみならず2000枚クラスの作品を多くの作家が要求されていたのであろう。限られた書店の本棚のスペースを占有するために、そしてページ数を増やすことで単価を引き上げるために。 作中で書かれている「文字のフォントを大きくする」、「改行を増やす」、「字間、行間をできるだけ開ける」などはまさに出版社の苦肉の策であり、実際に行われていることだ。本当に最近の見開きページのスカスカ感にはガッカリさせられる。 また本書は東野氏の超大作『白夜行』以後に書かれた作品だから、もしかしたらここにはその時の恨み節も入っているのかもしれない。 「魔風館殺人事件(超最終回・ラスト5枚)」のように結末まで決めずに書き始めて収拾がつかなくなった作品もあるのだろう。特に新人作家、売れない作家は急な連載を断れず見切り発車で進めた作品も多いことだろう。 そして最後の「超読書機械殺人事件」は実に痛烈だ。この作品ではどんな作品であろうと書き方次第で欠点も美点となり得ることが書かれている。そしてその内容には浅薄なものもあり、作者が読み取ってもらいたかったことに触れられていない書評も多いに違いない。また作者自身も他作家の作品で一種強要された解説を書かされた経験も織り交ぜられているのかもしれない。 とこのように各編には「作家はつらいよ」と云わんばかりのアイロニーに満ちている。「推理作家の苦悩」と副題にあるように本書を読めば文筆業に携わる方々の苦労が偲ばれる。物語を生みだし、創作するということがいかに大変か、そして日夜いかに苦しんでいるかが本書を読めば解る。 本書の内容はかなりユーモアに満ちているがその8割は作家が日常に孕んでいる苦労や苦悩であるに違いない。 つまりこれらには実際の作家たち、評論家たち、編集者たちの生の声が収められている業界裏話でもある。 そして作家たちの心からの悲痛な叫びであろう。恐らく一般読者は面白く読めたが、作家たちの多くは身につまされるエピソードや共感し、快哉を挙げた話が多く、単純に笑って済まされない物語が多いに違いない。 果たしてこれは東野氏からの作家を目指す全ての作家予備軍たちに対する警鐘の書ではないだろうか? 該当する方々にとって本書は必読の書と云えよう。決して笑い事として済まさないように。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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トレヴェニアンの傑作『シブミ』を現代きってのストーリーテラー、ドン・ウィンズロウが受け継ぎ、続編を書く。このニュースを聞いた時に私の嬉しさと云ったらなかった。
『シブミ』は私が現代ミステリを読み始めた頃に読んで驚きとスリルを味わった作品。そしてウィンズロウは2年前から読み出した作家でとにかく発表される作品すべてが痛快で外れなしの作家だ。 これはまさに私に読むべしと告げているようなものではないか! そして早くも文庫化された。最近の早川書房の文庫化の早さは文庫派の私にとって何とも嬉しくて堪らないものがある。 そんな期待の中、繙いた本書は一読して一気に『シブミ』の世界に舞い戻らされた。 ここにはいつもの軽妙でポップなウィンズロウ節はなく、あるのはトレヴェニアンが築いたニコライ・ヘルの物語だ。日本の侘び寂びを筆頭に中国などの東洋文化に深く分け入った描写。『シブミ』を読んだ時に感じた「これは本当にアメリカ人が書いたのか?」という驚嘆の世界が次々に繰り広げられる。 冒頭の茶会のシーンで描かれる茶道の細かな作法とさりげない所作の数々。中国人との文化の違いによる交渉の仕方、またニコライが囲碁に擬えて戦局を探り、最善の道を模索する思考などなど、単に日本の物を並べたような浅い描写ではなく、文化と国民性まで踏み込んだ深みのある洞察に至っている。 確かに本書には『シブミ』の世界があるのだ。 また原典に登場した人物が本書でも出てきてニコライと深く関わり合うのがいい。憎き大敵ダイアモンド大佐を筆頭に情報ブローカー、モーリス・ド・ランドなど、ニコライにどのように関わりあったかが本書できちんと描かれているのが実に楽しい。本書の後にもう一度『シブミ』を読み返したくなる粋な演出だ。 さらに物語の翳で暗躍する<コブラ>なる暗殺者の正体には実にフランス的趣味が施されている。 忠実に原典の世界を再現させつつも作家ウィンズロウとしての矜持も忘れない。まさに今最も脂の乗り切った作家の1人だ。 さてそんな東洋文化を織り交ぜ、日本、中国、ヴェトナムへと舞台を展開し、スパイ小説のみならず冒険小説のスリル―ニコライがギベールとしてヴェトナムまでロケットランチャーを届けにジャングルや急流を渡るシーンのスリリングなこと!―も味わうことの出来る、まさにエンタテインメントのごった煮のような贅沢な作品だが、一つ納得のいかないのは本書の題名にもなっているサトリの内容だ。 ニコライがヴォロシェーニンへのミッションで傷つき、療養生活を送っている間に出逢う雪心なる僧侶との会話でサトリというものの境地を教わるのだが、それがいわゆる高僧が開く悟りの境地とはいささか異なるように思える。 これからの道行きの全てが見えることを“サトリを得る”と書いてようだが、悟りとは日蓮や親鸞などの話からすれば、いわゆる“真理”を悟るということだと私は認識している。そしてその悟りの教えを広く伝えるために伝道師として行脚しているのが彼らである。 従ってニコライが本書で得ているサトリとはいわゆる“見切り”であり、囲碁や将棋で何手先まで見通す“見極め”のことではないだろうか? その点を日本人が認識する“悟り”と誤認しているように思えたのが大きなマイナスとして私には働いた。 とはいえ、34年も前の作品を前日譚を描いて見事甦らせたウィンズロウの功績は大きい。名作と云われた原典が本国アメリカでは今どのようなステータスにあるのか寡聞にして知らないが少なくとも日本では新版として再販され現在も絶版せずに書店の棚に並んでいる。 恐らく今後長らく『シブミ』は古典の名作として数ある巨匠の作品と共に並び続けるだろう。それは本書が一役買っているのは間違いない。 そして本書もまたその横に共に並び、いつまでも誰もが手に取れ、ニコライ・ヘルの世界に浸れるようになるよう、望んで止まない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ8作目の敵は他人の情報を自在に操るソウル・コレクター。彼は他人の趣味趣向を調べ上げ、その人の持ち物と日々の行動範囲などから証拠を捏造し、犯人に仕立て上げる連続殺人鬼だ。
通常殺人事件の犯人となれば自身を特定する情報を失くすために慎重に痕跡を消し去るものだが、今回のソウル・コレクターは逆に他者を特定する証拠を残すことで捜査の眼から自身へつながるルートを誤操作させる。それはデジタル化した個人情報を巧みに操ることで可能とする。まさに過剰化する情報化社会が生んだモンスターなのだ。 リンカーン・ライムのシリーズではしばしば「ロカールの原則」というのが引用される。すなわち犯罪が発生した際、犯人と犯行現場と被害者との間には例外なく証拠物件が移動するという原則だ。 本書の連続強姦殺人鬼ソウル・コレクターはこの「ロカールの原則」を逆手に取って捜査を誘導する、まさに鑑識にとって天敵なのだ。 それに加えて前作の宿敵ウォッチ・メイカーの追跡も行われる。彼と思われる人物がイギリスへ逃亡したことを知り、ロンドン警視庁と共同で捕獲作戦を行う。 さて本書の題名ソウル・コレクターだが、実は一度も作中に登場しない。作中では未詳522号もしくは素っ気なく522号と呼ばれるだけ。5月22日に発生した(発覚した)事件の容疑者だからと由来も素っ気ない。 つまりソウル・コレクターとは訳者の創作による命名なのだろうと思ったら、実はディーヴァー本人が訳書のために挙げた候補の中から選ばれたそうだ。なんというサーヴィス精神か。 ちなみに原題は“The Broken Window”。作中でも語られるがいわゆる「割れ窓理論」を指す言葉だ。 窓ガラスが割れたままだとその状態が当たり前になり、人の心も荒んで犯罪が増えるという理論だ。これはニューヨーク市長がスラムの割れた窓を補修し、建物の落書きを消して綺麗に整備したことで犯罪発生率が激減したことからも証明されている。実に有名な話だ。 しかし本書ではもう1つの意味を持っている。それは人々のプライヴェートを割れた窓から覗くというものだ。そうすることで個人の情報を白日の下に曝し、その人の行動を先読みし、誘導していく。趣味嗜好まで把握し、また個人的な悩みも知らされる。人相が似ている犯罪者を捜し出して、逆に警察官を犯罪者として通報し、誤認逮捕を行わせようとまでする。 それらの情報は今我々が使っているインターネットは勿論の事、クレジット・カード、銀行のATM、日本で云うところのETCの通過記録、市街に設けられた監視カメラ、警察の免許証更新記録などなど通信機能を備え、電脳空間を介する行為が蓄積されたデータバンクから引用されるのだ。しかも記録されることを逆手に取り、盗んだ個人情報を悪用して買い物をし、精神カウンセラーの案内を取り寄せたり、出退勤記録も改竄して、さも冤罪者が犯罪者であるかのように誤導するのだ。 これは堪らない。 なんせいつもと変わらぬ朝を迎えたところにいきなり警察が乗り込んでくるような事態に陥るのだから。まさに情報化社会の恐ろしさをまざまざと思い知らされた。 さらに敵の氏素性が解ると今度は情報を操作し、あらぬ罪を被せ、身の覚えのない借金を抱えさせられる。 アメリアは父親から譲り受けたカマロを没収され、ライム宅は電気料金未納で電気を止められ、ロン・セリットーは麻薬所持の罪で停職処分にさせられ、プラスキーは妻と子供が不法滞在者として拘留させられる。 いやはや情報というものがこれほど我々の生活を脅かす存在になるとは思わなかった。 本書に出てくるデータ・マイナーというあらゆるデータを保存する会社は存在している。知らないうちに我々も番号化され、趣味嗜好、思想や人間関係の繋がりなどがどこかでデータ化され蓄積されているのだろう。いわば見知らぬ誰かに丸裸の自分を把握されている状況だ―何しろ長らく秘密とされていた介護士トムのラストネームでさえ判明する―。 だからこそこのような個人情報を扱う会社はセキュリティを絶対無比の物にしなければならないし、また情報を扱う社員も人格者でなければならない。情報化社会と一口に云うが、その重大性や脅威について本書でその本質を知らされた次第だ。 しかし本書は真犯人が誰かとかウォッチメイカーは捕まったのかよりも情報の持つ恐ろしさをまざまざと思い知らされたことが大きい。 モバイル機器のCMで「いつもどこかで誰かとつながっている」なんてコピーが温かみを持って流されるが、その裏に潜む怖さが本書を読むことで先に立つ。 便利になった現代社会の歪みを見事エンタテインメント小説の題材に昇華したディーヴァー。まだまだその勢いは止まらないようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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一言では云い表せない作品だ。
今まで元グリーンベレーやCIA工作員、はたまた秘密結社の凄腕テロリストと、殺しの技術を極めた男を主人公に据える物語を作ってきたマレルが今回選んだのは一介の戦場カメラマン。 このカメラマン、ミッチェル・コルトレーンが自分が撮ったイスラム教徒大量虐殺者ドラゴン・イルコヴィッチの魔手から逃れるという、まさにマレルの真骨頂とも云うべき作品なのだが、実は本書ではそこに至るまでにコルトレーンが伝説のカメラマン、ランドルフ・パッカードの遺志を継いでロサンゼルス各地の家々を撮影しに回るエピソードに面白さを見出していた。 そしてアクション小説家のマレルのこと、大量虐殺者イルコヴィッチの魔の手から逃れるためにコルトレーンが色んな策を凝らすという構図を想定していたが、意外にもこの宿敵との決着は上巻の300ページ辺りであっさりと着いてしまう。 私は思わずこの時本書が上下巻だったことを再確認し、さてこの後下巻1冊かけての展開はどうなるのだろうと訝ったものだ。 なんとそこから物語は購入したパッカードの家の資料室の隠し部屋で発見した絶世の美女の正体、そしてその家の元オーナーたちの失踪の謎を探る物語になるのだ。 そしてそこからまた物語は絶世の美女に瓜二つの女性ターシャとの邂逅から彼女に付き纏うストーカーとの戦いになる。やはりアクション作家マレルが落ち着くところはアクションだったということか。 しかしそこからまた物語は色を変える。ストーカーとの戦いから謎の失踪を遂げるターシャの捜索の物語へと。それはそれまでターシャの身の回りの人々が彼女のことを知らされなく、また身辺保護をしていた警官たちも知らぬ存ぜぬを貫く。まるでアイリッシュの『幻の女』のようなサスペンスへと転じるのだ。 そして最後になってターシャ・アドラーと云う女性がそれまでたびたび名前と住居を変えては彼女の周囲に死体の山を築く、いわゆる魔性の女であることが明かされる。つまり行く着くところは悪女物サスペンスなのだ。 しかし冒頭のイルコヴィッチとの戦いといい、途中から登場するナターシャに付き纏うストーカーといい、そしてコルトレーンがナターシャとの愛欲に溺れ、彼女の行先を執拗に追い求める行為といい、本書はストーカーとの戦いの物語と云える。 奇しくもこの前に読んだ東野氏の『片思い』もストーカーが物語に関係していた。特に意識して作品を読む時期を選んでいるわけではないのだが、えてして読書と云うのはこのような不思議な繋がりを読み手にもたらす。 今まで息の詰まるような緊張感溢れるアクションを売りにしていたマレル。それは一躍彼を有名にした『ランボー』のようにどこか映画化を意識した作りだったのは否めない。 しかし本作ではそのアクションテイストを前菜にし、遺志を継いだ伝説のカメラマン、ランドルフ・パッカードの痕跡を追い、また彼に縁のあった絶世の美女のその後と人の過去を探る物語へ変わる。つまり極論すれば人を殺すだけの物語から、人そのものを浮き彫りにして描く物語に変わったのだ。 それは名もなき死者を大量に生み出す物語ではなく、個としての人間に向き合う物語へと変わったと云えよう。そこに本書の最大の特徴があるように思う。 しかし最後にマレルはターシャを次々と男たちを手玉に取っては命を奪う稀代の悪女に仕立て上げ、最終的にサスペンス小説に仕上げてしまった。 これが非常に残念でならない。コルトレーンというカメラマンが尊敬する伝説のカメラマンの足跡を追う人生の物語に仕上げればこの作品は印象深いものになっただろう。 というのも作中、次のような忘れられない言葉があったからだ。それはコルトレーンがカメラマンを志すきっかけとなった経緯を語るシーンでの次の言葉だ。 カメラは何も奪わない。それどころか永遠を与えるものだ。 本書はマレルが実の息子を亡くしたことを語ったノンフィクション作品『蛍』の10年後に発表されたものだが、この言葉は彼が亡き息子を思い出すためのよすがとなった写真への思いではないだろうか。肉体を伴った息子は既にないが、その姿形は写真の中では永遠であり、そしてその肖像は心に残る息子を永遠に留まらせてくれる。私はコルトレーンのこの言葉に私はマレルの本心を見た。 狂える大量虐殺者との戦い、伝説のカメラマンの過去の捜索、その最中に巡り合う絶世の美女とのロマンスに、その女性に付き纏うストーカーの正体の謎、さらにその美女と伝説のカメラマンとの奇妙な関係、そして突然失踪する美女の行方、最後に男を狂わす悪女の物語と、実に多彩な展開を見せる本書。 題名はダブルイメージ、つまり二重像と云う意味で、恐らくこれは後半物語の中心となる絶世の美女ターシャ・アドラーの二面性を指しているのだろうが、物語としては二重三重、いやそれ以上の像を浮かび上がらせる。いやあ、こんな物語だったとは全く予想がつかなかった。 特に深く愛し合ったターシャがメキシコの件から戻るといきなり住所と電話番号を変えてコルトレーンの目の前から消えていなくなり、更には新しい男と愛し合う場面を目の当たりにするコルトレーンの信条などはかつて私が遠距離恋愛で失敗した苦い思い出を想起させ、非常にいたたまれない気分に陥った。 男は本気で愛している時、その愛は永遠であると思うのだが、その実女性はあるところで冷めていていつでも袖にすることが出来るのだ。いやはや女性とは本当に恐ろしい。 コルトレーンの痛切な過去―夫の暴力に耐えかねて逃亡生活を送った母親が居所を突き止めた父親に目の前で射殺され、そして父親自身も自殺する―が彼が写真家を目指すきっかけになったエピソードなど読みどころもあったが、短い章の連続が物語を味わう余韻を損なっているのを今回も感じてしまった。テンポよく進む作品の功罪だろう。 発表当時全く話題にならなかった本書だが、意外にも物語としてはヴァラエティに富んでいて一種忘れられない何かを残す。それだけに物語の方向性を読み誤った感が否めない。 実に惜しい作品だ。 |
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今回東野圭吾氏が扱ったテーマはトランスジェンダー。まず大学のアメフト部の女子マネージャーが男に性転換して現れるところから始まる。
つまり彼女、日浦美月は性同一性障害だったわけだが、他にも男性の性器と女性の性器を併せ持つ真性半陰陽や女性なのにY染色体を持つ女性がいることなどが語られる。 これには2つのケースがあって、1つは精巣性女性化症。これは精巣を持っていながらもそれを受け入れる受容体がないため、男性ホルモンは出ても肉体が男性化しない女性のことだ。 もう1つは性腺形成異常症。これは胎児期の早い時期に精巣が死んでしまう病気で、逆に男性ホルモンが分泌されないが染色体は男性であるというもの。特に両性具有体である真性半陰陽が実在するとは驚きだった。 そしてそれらの女性がスポーツ界で男性顔負けの体格を得てオリンピックなどに出場している事実。確かにアメリカや中近東の選手に男かと見紛うような選手がいるが、もしかしたらこの類かもしれない。いやあ、実に勉強になるなぁ。 そしてこれらの人間の謎こそが今回のミステリと云えよう。最初は男として生活していた日浦がストーカーを殺した事件を探る話だったが、哲郎たちの捜査は性同一障害者たちのある壮大な計画へと繋がっていく。 男と女。 二つの性があるからこそ愛が生まれ、またお互いの考え方が違い、文化が生まれる。男には男の、女には女の世界があり、価値観がある。 だからこそ世界は面白いのだが、一方でその狭間で苦しむ人間たちもいる。男の身体に宿る女の心を持つ者。女の身体に男の心を宿す者。遺伝子は女なのに両方の生殖器を持つ者。そんな彼ら彼女らに男と女の定義は空しい限りだ。しかしその定義が彼ら彼女らの世界を縛り付けている。 それ故彼ら彼女らは過去を消し去り、新たな自分を、真になりたかった自分の人生を生きようとする。お姉系キャラとして性同一障害者がTVで堂々と振舞っている現在からみれば、隔世の感を覚えるかもしれないが、本書が発表された2001年は確かにまだ認知度が低く、異端として見られていた。 物語に幾度となく登場する、知らない方がいい、そっとしておいてやれ、という言葉はまさに本来取るべき方法だろう。 しかし本書はミステリ。謎は解かれなければならない。読んでいる最中、行き着く結末は決してカタルシスをもたらすものではなく、寧ろやはり知るべきではなかったという思いが去来する結末に向かうだろうことは予想できた。 毎回東野作品の結末は何とも云えない切なさを感じてしまうが本書もまたそうだった。 そして男だからこうだとか、女だからこうだとか、また男の心を持っているから女を好きになるだとか、その逆もまたそうだとか、単純に二元化できないのも事実。男が男らしさに憧れ、理想に近い同性に惚れるように性同一性障害の人々もまたそうなのだ。 本書で男と思っていたら実は女だった、または女だと思っていたら実は男だったというジェンダーが反転する趣向が繰り返されるにつれ、一体男とは女とは何なのだろうと思わざるを得ない。 さらに東野氏が上手いのはこの男と女の話を、すれ違いを繰り返して夫婦生活が冷え切った主人公西脇夫妻のサイドストーリーと絡めていることだ。 お互いの職業を尊重しながらもいつしか夫婦として機能しなくなり、ただ一緒に暮らしているだけになった2人。その心の行き違いが実は二人が付き合いだした大学生の頃のある事件から起因していたことを明かされる部分はお互いがそれぞれ抱いていた男性観、女性観にいかに縛られていたのかをまざまざと思い知らされる。 これが本書の主題と上手く絡み合って実に上手いなぁと感じるのである。 そしてこの西脇夫妻は当時女性の社会進出が台頭し、結婚適齢期が遅くなり、また共働きで子供を作らなくなった夫婦の典型でもある。それが今に至り、少子化問題に繋がっているわけだが、これも当時の世相を反映していて興味深い。 その他巨乳ブームなども触れられていて実に懐かしくも感じたのだが。 そして本作の題名『片想い』の意味。正直云って物語の序盤は全くこの題名が頭を過ぎらなかった。つまりこの言葉とは無関係の内容で物語が進むからだ。しかしその意味は物語の1/3辺りで唐突に出てくる。 東野圭吾は何とも切ないテーマを持ってきたものだ。 また特徴的なのは本書で頻繁に挿入される哲郎たちアメフト部のエピソード。大学を卒業して13年にもなるのに毎年11月の第三金曜日に集まっては酒宴を開いている。そんな仲間たちのエピソードと、美月の問題に何時でも駆けつける絆の深さが心に響く。 つまり彼らは同じ時間を共有し、ともに汗を流し、苦楽を共有した者たちだけが持つ繋がりを随所に感じさせてくれる。 哲郎はフリーライターで決して捜査のプロではない。そんな彼を助けるのが元アメフト部の仲間たち。そして哲郎の捜査の前に立ちはだかるのもまた同じ仲間の1人であり、さらに事件の中心人物も仲間なのだ。 選手とマネージャーと云う関係で付き合っていた哲郎と理沙子、そして中尾と日浦。一歩引いた立場で哲郎を手伝う須貝。日浦の窮地を救う哲郎たちに立ちふさがるのが早田。 最後まで読むに至り、この物語は帝都大アメフト部たちの物語なのだと解る。 だからこそこの物語は始まりも終わりもOBたちの飲み会なのだ。 心の解放と一抹の寂しさ。得た物の代償として喪った物は大きく、そして喪っただけの者もいる。 男と女の幸せとは一体何なのだろうか? そんな他愛もないことを読後考えてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーンはクイーンでも本書の主役はエラリイではなく、父親リチャード・クイーン警視だ。
まず驚きなのがリチャード・クイーン警視が結婚したという幕開けだ。退職した警視のお相手は『クイーン警視自身の事件』で慕うようになったジェシイ・シャーウッド! いやあ、あの結末から7作目で結婚だとはまさに想定外。その間の作品でジェッシイとの付き合いが書かれていなかっただけに驚きだ。 その妻ジェシイにハネムーンから帰ったところに送られていた招待状。それは全く面識のない老富豪からの招待状だったという実に魅力的な導入から始まる。 一方のエラリイは世界中を股にかけた豪遊旅行中の身でトルコにいた。 この奇妙なシチュエーションの謎を解き明かそうとクイーン警視は退職警官の元同僚たちを雇って老富豪ブラス氏の素性調査を行う。ここら辺はさながらホームズのベイカー・ストリート・イレギュラーズを髣髴させる。 さてこのリチャード・クイーン警視とその仲間たちが挑む謎は3つ。 1つはヘンドリック・ブラス氏は何故面識のない6人の人物に遺産を相続しようと決めたのか? 2つ目はブラス氏が云った600万ドルの遺産とはいったい何処にあるのか? 3つ目は一体誰がブラス氏を殺したのか? そして今回鳴りを潜めていたエラリイは最終章で登場し、一気に事件の真相と真犯人を突き止める。 『クイーン警視自身の事件』ではエラリイの登場無しで警視のみで解決していただけに今回も同趣向だと思っていただけにこれには驚いた。つまり作者はシリーズそのものをミスディレクションに用いたとも云える。 そう思うと本当にクイーンは本格ミステリの鬼だな。 さて本書のタイトル『真鍮の家』。原題では“House Of Brass”とそのままだが、実は色んな意味を含んだ題名である。題名通りまさに真鍮尽くしの物語なのだが、“brass”には本書の冒頭に引用されているように色んな意味がある。 さらに物語終盤、集められた人々の意外な一面が明かされる。そんな意味からもなかなか深いタイトルだと云えよう。 ただ識者による情報によれば本書もまた代作者の手による物らしい。『第八の日』、『三角形の第四辺』を手掛けたエイブラハム・デイヴィッドスンが書いたとのことだが、全く違和感を覚えなかった。 プロットはダネイを纏めているとはいえ、リチャード・クイーン警視を主役に物語を進める技量はよほどクイーンの諸作に精通していないと書けないだろう。特に『クイーン警視自身の事件』のエピソードを膨らませてクイーン警視が本作で結婚をするという長きシリーズの中でも大きなイベントがあり、しかも終章でようやくエラリイが登場して事件の真相を解き明かすという憎い演出など晩年期のクイーン作品の中でも非常に特徴ある作品だと思う。 また5Wで表現される各章の章題もまさにクイーンならではではないか。 個人的にこの作品は魅力的な導入部といい、エラリイでなくリチャードを物語の中心に据えているところといい、そして最後にエラリイが登場して一気に解決する演出といい、また事件や扱っているテーマ―特に最後解散せざるを得ない退職警官たちが直面している、働きたくても職がないという社会的側面なども含めて―から見ても、クイーン諸作の中でも上位に来る作品である。 もはやライツヴィルシリーズを読み終えてこれからの作品は全作読破に向けて、消化試合的読書になるかと思っていたが、こんな佳作があるからクイーンは全くもって侮れないと思いを新たにした作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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当時週刊少年ジャンプ誌上でも募集がされていた「ジャンプ小説・ノンフィクション大賞」を若干16歳の若さで受賞したのが乙氏の「夏と花火と私の死体」だった。その作品を含んだ2作の中編集が本書。
さてそのあまりに鮮烈なデビューとなった表題作はどこかの田舎町を舞台に繰り広げられるあるひと夏の出来事だ。 一言、上手い! いわゆるアンファンテリブル物だが、ことさらに恐ろしさを強調するわけでもなく、あくまで静かに淡々と語ることで恐ろしさを助長しているのがすごい。わずか16歳でこの文体で子供による死体遺棄事件の顛末を語る着想に至った乙氏の才能に戦慄する。 とにかく弥生の兄健の造形がすごい。いつも笑顔を絶やさず、周りの大人からはいい子として認知されている人気者。しかしそれでいて人が死んでも眉一つ動かさず、度重なる窮地に動揺する素振りは一つも見せず、寧ろその状況を愉しみ、いかにやり過ごすことが出来るかを考えている。つまり健にとってこれらはゲームに過ぎないのだろう。 当事者でありながらも第三者的に物事を見据え、冷静に判断する頭脳と胆力の持ち主。まさに恐るべし16歳が描いた末恐ろしい10代だ。 そして周到に散りばめられた伏線が最後の何とも云えない虚無的なラストに繋がる。私は子供の企みなぞは目端の利く大人にしてみれば全てお見通しなのだという戒めを説いた皮肉な結末を予想していただけにこの結末は意外だった。 しかし語り手である犠牲者の五月とその母親が何とも浮かばれない。 それらを淡々とした描写で語る乙氏の文体。正直語り手となる私こと犠牲者の五月が知りえないことも地の文で語るなど、文体としてはおかしな部分も散見させられるが、それを若さゆえの過ちと寛大に捉え、ここは素直にその才能を称賛したい。 なお、小野不由美氏の解説、五月の一人称叙述が彼女が亡くなることで神の視点になったという解釈はこの文体の欠点を補った素晴らしい名解説と云えるだろう。 もう1編は「優子」という。 あまりに淡々と語る文体は本編でも健在で、あくまで静かに狂気を描く。 相変わらずその筆致は時間の流れをゆっくりと感じさせる独特の雰囲気に満ちている。 しかし本書では逆にそれが物語の深さを減じているように感じた。 坂東眞砂子氏ならばもっと土着的な濃厚な物語を繰り広げただろう。主題と文体が結びつかなかった、そんな印象を受けた。 2002年の『GOTH』でいきなりミステリシーンに躍り出た乙氏の驚異のデビュー作所収の中編集。 当時週刊少年ジャンプ読者だった私はリアルタイムで乙氏のデビューを目の当たりにした。今は亡き栗原薫氏が審査員を務め、絶賛の上、強烈に推挙したのを鮮明に記憶している。 その話題作を16年を経てようやく読んだ。 いやあ、天才は本当に存在するんだなぁと思わされた。繰り返しになるがとても16歳が書いたとは思えない着想と文体。 するする読めるがもっと味わいたくなる抒情性に溢れている。誰もが心に抱く風景を事細かに、しかしくどくなく適度な量で映し出す。私が読んでいた終始浮かんだのは夕焼けの色だった。 そんなノスタルジイを感じさせながらも語られる話はサスペンスだったり、ホラーだったりと実は穏やかではない。 しかし実は世の中の出来事とはこのように我々がいつも見ている風景の中で、人知れず行われているのだということを再認識させられる。ふと足を踏み外すとそこにはある種の狂気が潜んでいる。マンションの住民の一人がある日姿を見せなくなってしまうように、犯罪はドア一枚隔てた、なんとも薄っぺらい防御の外で起きている。笑顔の中に隠された企みや秘密を知られないように、明日もまた同じような日が始まると思わせておいてその背後では死体が一つ隠蔽されようとしている。 つまり我々の日常の紙一重の場所で犯罪や狂気は存在するのだと知らされるのだ。そんなシチュエーションが乙氏は面白く感じるのだろう。 この後乙氏は作品を着々と発表し、『GOTH』に至るわけだ。そしてその後の『ZOO』でその実力を不動の物とし、次々と旧作が映像化されていく。 久々に語るべき物語を持った作家に出逢った思いがした。 現在40歳の乙氏。次に我々に見せてくれるのはどんな物語なのだろうか。 同郷の者として実に誇らしく思うこの作家のこれからの活躍に注目していこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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女を陸路でバンコクからシンガポールへ連れて行く、この設定を読んだ時にこれは馳版『深夜プラスワン』かと思った。
作者がまだ坂東齢人名義で書評家だった頃、新宿ゴールデン街でバーテンをしていたのが、内藤陳がオーナーの『深夜プラスワン』というバー。やはり彼としてはこのテーマは避けては通れないものだったのではないかとまで想像したが、物語はそんな風に簡単にはいかず、主人公の十河将人とメイはバンコク内を迷走する。 やがてメイの持つ仏像に隠された地図の正体を探るにあたって、本作のメイン・テーマは女をシンガポールに送ることではなく、実は仏像に隠された日本軍が遺した莫大なお宝を探し当てるというものであることが解る。 つまりこれは馳版『マルタの鷹』なのだ。歴史に残る冒険小説2作を相手にするあたり、馳氏のしたり顔が目に浮かぶようだ。 さて冒険小説の名作のモチーフを国産ノワールの雄が料理するとどうなるかというのが専ら私のこの作品を読む上での焦点であった。つまり舞台と登場人物を変えただけで、いつも物語は破滅に向かうという構成がこの味付けでどう変わるのかを注目していた。 しかしやはり馳氏は馳氏。変わらない。 一度落ちぶれた人間がどうにか安楽の地を、生活を求めるために大金を手に入れようと足掻き、這いつくばる物語。人生の落伍者と貧困の犠牲者、2人の男女が日本軍の遺した宝を求める道行きに屍が転がっていく。 こんな2人だから出てくる台詞は怨嗟の連続。セックス、金、暴力、そして時々ドラッグ。馳作品の諸要素が今回も織り込まれている。 タイトルのマンゴー・レインとは現地タイで雨季の訪れを伝える夕立のことを指す。つまりはスコールなのだが、マンゴーと云えばタイよりもフィリピンの趣がある。しかしフィリピンではこのようには呼ばなかった。 馳氏はこのマンゴー・レインを罪を、過ちを、全てを洗い流してくれる激しい雨だと語る。かつての幼馴染たちが大金を目に、裏切り、命を奪い合う、そんな凄惨な状況をマンゴー・レインは洗い流す。 さて冒険小説の設定をモチーフにノワールを語った本作で最も印象に残る人物は十河が幼馴染の富生からシンガポールまでの移送を頼まれる女メイ。中国からさらわれて娼婦として生きてきて、エイズを患ってから男どもを、全てを憎悪し、信用しなくなった女だ。 彼女は人を殺すことも躊躇わないし、平気で嘘をつき、仲間でさえ欺こうとする。騙される方が悪いのだ、と云わんばかりに。それはメイの行動原理が至極単純だからに他ならない。それは自分が幸せになること。そのために利用する者は利用し、自分を脅かす存在は撃ち殺す。 作中十河は彼女の眼を魔女の眼と評し、その眼で睨まれると異様の無い恐れを抱き、従わざるを得なくなる。人買いとしてタイから日本へ若い女を何百、何千と密入国させてきた十河だったが、メイだけはいつものように振舞えない。修羅場を潜り抜けてきた者の覚悟の前にタイと日本を人買いのために往復する浮世暮らしのような十河は頭を垂れるしかないのだ。 このメイの存在を象徴するように、今回の物語はメイによって終止符が打たれる。これは実に珍しい。 今までの馳作品では登場する女性はおろかな男たちに翻弄され、利用され、圧倒的な暴力に屈して凌辱されるだけの存在としてぞんざいに扱われてきた。本作のメイも境遇としては過去の馳作品に登場してきた女性とは変わらない。おまけに彼女はエイズまで患っている。 しかしメイには強靭な精神を持っていた。別に男を捻じ伏せる腕力があるわけではなく、逆に街を歩けば10人のうち8人が振り返るほどの美貌とスタイルの持ち主だ。そんな彼女が他の女性と違ったのは己の不幸をバネにのし上がろうとするハングリー精神があったことだ。つまりこの作品はメイの物語だったのだ。 読後に残るのは荒廃感、寂寥感とでも云おうか、燃え尽きてしまった狂気の果てだ。 そう、今回も次々と死人が生まれた。またもや遣り切れなさが残る作品であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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