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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数688件
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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久々の御手洗潔シリーズ長編はなんと島田荘司氏の故郷福山を舞台にした瀬戸内海を巡るミステリ。
短編からは『進々堂世界一周 追憶のカシュガル』以来2年ぶりだが、長編としては2005年に出版された『摩天楼の怪人』以来、なんと8年ぶりの刊行となった。 本作は『ロシア幽霊軍艦事件』の後1993年頃に遭遇した瀬戸内海を舞台にしたミステリで、つまり海外を舞台にしたミタライではなく、往年のシリーズファンには非常に馴染みやすい石岡和己との名コンビが味わえる作品となっている。 本書は文庫で上下1,140ページ物大長編であるが、文字のフォントが大きいため、90年代に毎年のように記録を更新するが如く刊行された大長編ほどの大部では無いように感じられる。そして物語の枠組みはそれらの作品で見られた様々なエピソードをふんだんに盛り込んではいるものの、全てが御手洗の扱う事件も含めて広島県の鞆という町が舞台となっている。 まず御手洗が今回扱う事件は愛媛県の松山市の沖合にある島、興居島で頻繁に死体が流れ着く怪事から物語は幕を開け、やがてその源である福山市の鞆に行き着き、そこで新興宗教が起こした奇妙な征服計画に対峙する。 この物語を軸にして他に3つのエピソードが盛り込まれる。 1つは小坂井茂という鞆で生まれ育った男が巻き込まれた数奇な半生の話。 もう1つは村上水軍と福山藩主阿部家について研究している大学助教授滝沢加奈子に纏わる『星籠』という謎めいた言葉に関する物語。 そしてもう1つが鞆で飲み屋を営むシングルマザーの子供宇野智弘と彼を支える造船会社々長忽那との世代を超えた交流の話。 しかしこれらのエピソードが実に読ませる。これだけで1つの話として十分読むに堪えうるものとなっている。 特に1つ目の小坂井茂という端正な容姿だけが取り柄の優柔不断な男が辿る、女性に翻弄される永遠のフォロワーの物語が後々事件の核心になってくる。一歩間違えば誰しもが陥るがために実に濃い内容となっていてついつい先が気になってしまうほどのリーダビリティーを持っている。 小坂井茂自身が事件を起こすわけではない。この主体性の無さゆえにその時に出遭った女性に魅かれ、云われるまま唯々諾々と従いながら人生を漂流する彼の生き方が自分を犯罪へと巻き込んでいく。つまり何もしない、何も考えないことが罪であると云えよう(ここで重箱の隅を1つ。小坂井の友人田中が経営する自動車整備工場でガソリンをポリタンクに入れているという件があるが法律では禁じられているのでこの辺は重版時に修正した方がいいかと)。 また3つ目の忽那と智弘との交流のエピソードにも島田氏は社会問題を盛り込むことを忘れない。1993年が舞台である本書であるが、原発のある南相馬で育った智弘は幼い頃から川や海で遊んでおり、工場排水に含まれる放射性物質で被曝して白血病を患って亡くなるのだ。実は放射能問題は大震災前から起きているのだと島田氏は現在稼働している原発周辺の住民にも警鐘を鳴らす。 また今回御手洗が立ち向かう相手は日東第一教会というネルソン・パクなる朝鮮人によって起こされた新興宗教というのも珍しい。最終目標の敵が明らかになっていることも珍しく、いかに彼を捕えるかを地方の一刑事である黒田たちと共に広島と愛媛を行き来する。 とにかく今回は御手洗が瀬戸内海を舞台に縦横無尽に動き回るのだ。私は読んでいてクイーンの『エジプト十字架の謎』を想起した。 御手洗によって語られる日東第一教会は世界的規模で信者を増やしており、日本の鄙びた港町鞆を足がかりに日本の侵略を計画しているという。 都会よりも限られた人口で共同意識を持つ田舎の方が、逆に御しやすく、牛耳りやすい。そして狭いコミュニティでは異分子は排他されるがために同一行動を採らざるを得なくなる。日本だけでなく世界でも田舎ほど怖い所はないのだ。 政界、財界の有力者を信者にし、反米感情を植え付けるような怨嗟教育を施し、誘導する。さらに本国で作った覚醒剤を持ち込み、日本で売り捌いて金や貴金属を購入し、本国に持ち帰る。そして犯罪者を匿うことで信者を増やし、それが更なる信者を生んでいく。 また異性と縁のない独身者に信者から候補者を紹介して結婚を斡旋する。聞こえはいいが、その実は朝鮮からの流れ者をあてがうだけで、いざ結婚したか思うと言葉も通じず、困り果てるが、教祖が紹介した相手を断ると報復が待っているから離婚も出来ないと二重苦三重苦に苛まれる。 これらは恐らくある実在する新興宗教をモデルにしているのだろうが、このようなことが実際に行われていると考えると実に恐ろしい。 社会的弱者に対してこのような宗教は巧みに心に滑り込み、救済という名目で洗脳を行う。それは自分も含め、誰しも起こり得ることなのだ。今現在自らに縁がなくて本当に良かったと思う。 この瀬戸内海に関する情報も実に面白い。 本書に登場する中国工業技術研究所は実在するようで、産業技術総合研究所で1973年に瀬戸内海を模した水理実験室が建設されている。瀬戸内海が他の海と違って急流があり、地形の複雑さ故に潮の流れが複雑で、また6時間ごとに潮流が変化する、ど真ん中を境に潮の流れが分断されていると述べられている薀蓄は実に興味深い。 恐らくは長らく瀬戸内海沿岸で暮らす人々にとっては既に当たり前の事なのだろうが、実に興味深く読んだ。 本書は比較的万人受けするミステリだろう。 とはいえ、死体が流れ着く島からやがて地方都市で繰り広げられる新興宗教の陰謀へと繋がり、そこに一介のベビーシッターの過失が奇妙に絡まって、更には村上水軍に纏わる『星籠』という兵器の謎と歴史ミステリの要素もありと単純に人が殺されて誰がどうやって何故殺したのかを追うだけのミステリに留まっていないのが御大島田氏の凄い所だ。 ただかつて90年代に出された、古代エジプトやタイタニック号沈没などのエピソードに大部の筆を費やし、一大伽藍を築くような荘厳たるミステリを経験してきた一ファンとしては物足りなさを覚えるものの、御手洗が初対面の人物の性格や生活の有様を一目で看破し、次から次へと暴露していく辺りはかつてホームズのオマージュである御手洗シリーズの原点回帰であり、特に嬉しいのが御手洗の奇人ぶりが復活しているところだ。アメリカでは歯を抜いた後、歯医者がアイスクリームを勧めるとか、本当かどうか解らない薀蓄を語るのが実に御手洗らしい。 ドイルが築いた本格ミステリに冒険的要素を加えた正統な御手洗ミステリの復活を素直に喜びたい。とにもかくにも故郷を舞台にした島田氏の筆が実に意欲的で、作者自身が渾身の力を込めて書き、また愉しんでいるのが行間から滲み出ている。 本書は映画化されたのでそちらも愉しみだが、それを足掛かりに国内のみならず世界を駆け巡る御手洗の活躍をスクリーンで今後も観られることを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本から戻り、再び閑職のデスクワークに従事して燻っていたチャーリーにもたらされた任務はまたもやロシアからのKGB要員の亡命に関するもの!
いやあ2作続けてロシアからの亡命者をテーマにするということは、恐らく彼が取材で得たKGBの情報を余すところなく自作で使いたかったようだ。 前作『暗殺者を愛した女』ではKGBの暗殺者の亡命がテーマだったが、本書ではKGBの暗号作成部門の上職位者による亡命で名も無きKGBの暗殺者がどこかの誰かを暗殺するという情報からチャーリーがその計画を阻止するという、いわばフリーマントル版『ジャッカルの日』とも云うべきミステリとアクション風味が色濃く合わさったエンタテインメント作品になっている。 そんな謎の暗殺者を突き止めていくMI6、CIA、モサドのそれぞれの代表者たちのうち、やはりチャーリーの冴えが光る。自分が生き残ることを第一義としてきた窓際スパイゆえの周囲の欺き方、身の隠し方、振舞い方に加えて一時期ロシアで暮らした事で得た彼らの国民性をも熟知しており、一見何の隙もないと思われた影なき暗殺者のロシア人故の不自然な振る舞いを手掛かりに突き止めていく辺りは実にスリリングでしかも痛快だった。 そんなチャーリー・マフィンの明敏さを目の敵として本部より非協力的であれと命ぜられていたCIAエージェントのロジャー・ジャイルズも認め、本部の命令に背いてまでチャーリーに力を貸す。 プロがプロを認めたこの瞬間だ。こういうエピソードは本当に胸のすく思いがする。 そして本書のミソは舞台がスイスのジュネーヴであることだ。 永世中立国であるスイスではテロに対する部門はあるものの、そもそもテロが起きるという発想がなく、平和のイメージを損ねることを嫌う。従って本書の防諜部長ルネ・ブロンはそんなスイスの空気の読めなさを象徴するような道化役になっている。 さて本書では今までにも増して諜報機関に従事する人々の織り成す人間喜劇と云う色合いが濃くなっている。 まず前作から引き継がれるハークネス次長とチャーリーの確執は一層強まっており、経理畑の長かったハークネスはチャーリーが経費を騙くらかそうとしているのをどうにか阻止しようと様々な書類を提出させようとしている。この辺はもう会社のお堅い経理部長そのもので、日本のサラリーマンならば苦笑を禁じ得ないところだろう。 そしてチャーリーの経費に腐心するあまり、MI6としての本来の任務―工作員の捜索と国の安全維持―に関する作戦の立案については全く考えていないところを部長のウィルソン卿に指摘され、何も云えなくなる件は実に傑作だ。 またチャーリーだけに留まらず、各国の諜報活動に携わる人物たちも同様で、例えば円満な離婚を迎えようとしているCIA情報部員のロジャー・ジャイルズの妻バーバラは離婚の理由については思い当たるふしがないとしながらも、情報部員の妻であるのに夫の仕事に何もドキドキハラハラしない事が不思議でならないと述べる。 つまり彼女にとって情報部員の妻として描いていた生活が一般人のそれとなんら変わらないことが不満だったのだ。 しかし本書のタイトルはディック・フランシスの競馬シリーズを想起させる『狙撃』の二文字のみでシリーズに共通してきた『~した男』や『~した女』という定型から離れている。 また原題もそれまでチャーリー・マフィンの名前が冠されていたが本書では“The Run Around”と異なっている。さらに本書は『亡命者はモスクワをめざす』から始まったKGB対チャーリー・マフィンの流れを汲んでいるようだ。 しかもエピローグではKGBのベレンコフがとうとうナターリャ・フェドーワに目を付けたところで幕を閉じ、不穏な空気を纏わせている。 それなのに次作“Comrad Charlie”は未訳のままで、恐らく邦訳はされないだろう。 ナターリャに一体何が起きたのか。シリーズのその後を読んでいる ので彼女らの安穏は保たれたようだが、シリーズ読者としてはその経緯を読みたいのが性。どんな事情があるのか不明だが、全く残念でならない。 さて失礼だが、高齢ゆえにシリーズの先々が気になるところ。新潮社には決して途切れることなく最後まで邦訳を出してほしいと切に願う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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チャーリー・マフィン、アジアへ!
シリーズ7作目の舞台はアジアでまず最初に訪れるのが何と日本!題名も“Charlie Muffin San”とフリーマントルらしく人を食ったタイトルだ。 今回のチャーリーの任務は亡命を企むKGBの暗殺要員ユーリー・コズロフの奇妙な依頼に対応することだ。それは彼自身はアメリカへ、妻イレーナはイギリスへ亡命させたいというもの。しかしMI5とCIAは共同作戦と云いながら両方を得ようと企んでいる。そしてその作戦の白羽の矢が立ったのがチャーリー。 まずコズロフがCIAと出会う場所が鎌倉と云うのがミソ。東京タワーや東京駅といった80年代当時の外国人が抱く日本の典型的な観光地を選ばず、都心から離れた観光地を選ぶところが日本の情報に通じていることを感じさせる。 しかしその後は銀座線に乗ったり、銀座でしゃぶしゃぶを食べたり、イレーナと落ちあうのにはとバスを思わせる観光バスに乗ったりと、恐らくは来日したフリーマントルが経験した日本訪問時の出来事をそのまま利用しているように感じ、なかなか面白い。 また80年代当時の日本の風景も懐かしさを感じる。この頃はまだ駅の改札口は自動化されてなく、切符バサミの音を蟋蟀の鳴き声のようだと例えるフリーマントルの発想が実に興味深い。 とにかく前述したように今回フリーマントルは日本での滞在で入念に取材を重ねたようで特に複雑な東京の鉄道網の乗継について正確に説明しているところに驚きを覚えた。恐らく海外作家でこれほど細かく日本の公共交通機関の乗継に触れたのは彼の他にはいないのではないだろうか? しかし本書の邦題には唸らされた。 『暗殺者を愛した女』とは妻イレーナを指しながら、コズロフのために馴れない暗殺に挑戦する愛人オーリガをも示している。どちらもしかしこの1人の暗殺者の犠牲者であるのは間違いない。作中でしきりに描写されるイレーナの、女性としてはあまりにも大きすぎる体格について彼女自身が涙ながらに自身のコンプレックスについて吐露するシーンには同様の悩み―その体格ゆえに女性らしく淑やかに慎ましく振舞おうとしても威圧的になってしまい、相手が委縮してしまう―を抱える女性には痛切に響くのではないだろうか。 ただ1つだけ重箱の隅をつつくなら、日本はちょうど雨季の最中だったという件だ。 これは恐らく“rainy season”を訳したものだと思うが、雨季とは熱帯地方のそれを指すのであり、日本に雨季はない。ここはやはり梅雨時と訳すべきだろう。実に細やかな訳がなされている稲葉氏の仕事で唯一残念に思ったところだ。 しかしフリーマントル作品でこのチャーリー・マフィンシリーズは安心して読める。それはチャーリーが必ず生き残るからだ。 フリーマントルのノンシリーズの主人公の扱い方のひどさには読後暗鬱になってしまうほど悲劇的である場合が多い。 確かにこのシリーズもチャーリーが生き残る為に周囲に行う容赦ない仕打ちによって情報部員としての生命を絶たれる登場人物も多々あり、読者は決して組織の中で正当に扱われていない風貌の冴えない一介の窓際スパイが長年培った処世術と一歩も二歩も先を読む明察な頭脳でMI5のみならずCIAやKGBを手玉にとって最後には生き残る姿に胸のすく思いを抱くからだ。 これは今日本で多く親しまれている池井戸作品と同様のカタルシスがある。本来であれば池井戸作品同様に評価されてもいいのだが、国際政治という舞台が日本の読者に敷居の高さを感じさせるのであろう。 しかしそれでもチャーリー・マフィンシリーズはフリーマントル特有の皮肉さが上手く物語のカタルシスに結びついた好シリーズであるとの思いを本書で新たにした。 となるとやはり読みこぼしたシリーズ作品は読まないといけないな。新作は期待できないが過去の未読作品で改めてこの窓際スパイの活躍を愉しむことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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おとり捜査と云えばたとえば婦人警官が一般女性に成りすまして、痴漢を誘って実行犯逮捕するといったチープな物を日本では想像するが、アメリカでは特にFBIによって大々的に行われており、その仕組みも複雑だ。
題名がその物ズバリである本書ではさすが一流ジャーナリスト出身であるフリーマントルだけあってダミーの投資会社設立による麻薬カルテルのマネー・ロンダリングの実体を掴んで検挙する方法での一斉検挙を目論むFBI捜査官と、図らずもFBIの思惑で架空の投資会社の代表取締役を担うことになったウォール街随一の投資家ウォルター・ファーを主人公に物語が進む(ちなみに原題は“The Laundryman”つまり『資金洗浄屋』とこれもかなり直接的)。 このウォルター・ファーの深い知識を通じて会社設立の詳しいノウハウやさらには中南米のいわゆるタックスヘイヴンと呼ばれる小国で実際に行われている複雑な資金洗浄の方法や資金運営のカラクリが語られ、一流の企業小説、情報小説になっているところが面白い。 本書では囮捜査のターゲットとしてフリーマントルは麻薬大国コロンビアの一大麻薬カルテルの元締めの検挙を取り上げている。南米、とりわけコロンビアやボリビアの麻薬事業はもはや地元の警察も袖の下を摑まれ、全てが麻薬カルテルの意のままにされており、その市場がアメリカのマフィアを通じて拡大しているのは現代でも問題となっており、ドン・ウィンズロウの『犬の力』でも圧倒的な熱を持って語られたのは記憶に新しいところだ。 1985年に発表された本書でもその状況は変わらず、唯一違うのは本書でFBIのターゲットとされる元締めのホルヘ・エレーラ・ゴメスが一大麻薬組織のボスとなるため、アメリカのイタリア系マフィア、アントニオ・スカルレッティと組んで、一大麻薬コネクションを作り、さらに市場をヨーロッパに拡大する取っ掛かりであることだ。つまり現在の大組織メデジン・カルテルをモデルにした物語であるということだろうか。 高校生の息子が実はヤクの売人だった廉でFBIの麻薬捜査に協力するため、業務の合間を縫ってカイマン諸島に資金洗浄を目的とした投資会社を設立させられるマンハッタンの一流投資家ウォルター・ファーの敏腕ぶりが実に際立つ。 業務の合間を縫ってカイマン諸島とニューヨークを行き来し、長らく没交渉だった息子の回復の様子を見にボストンにも赴く。さらに作戦に参加したFBI女性捜査官ハリエット・ベッカー(美人でグラマラス!)と恋に落ち、再婚するに至る。開巻当初は8年前に病気で亡くした妻アンへの未練を引きずっているセンチメンタルな人間だったが、ハリエットと出遭ってほとんど一目惚れ同然で徐々にアタックしていき、恋を成就させる、まさに仕事もでき、恋も充実する絵に描いたような理想の男性像で少々嫌味な感じがしたが、いやいやながら協力させられた囮捜査で頭角を現し、作戦の指揮を執るFBI捜査官ピーター・ブレナンを凌駕して捜査のイニシアチブを取るほどまでになる。 世界を股にかけた彼の投資に関する緻密で深い知識も―正直私が全てを理解したとは云い難いが―彼の有能ぶりを際立たせ、次第に彼を応援するようになっていく。 しかしそこはフリーマントル。すんなりとハッピーエンドとはいかない。 現実は甘くないと、マフィアの恐ろしさを読者に突き付ける。主人公のやむを得ない善行の報いがこの仕打ちとは何とも遣る瀬無い。 本当、フリーマントルは夢を見させない作家だなぁ。 目には目を。歯には歯を。古くはハムラビ法典にも書かれている復讐法をウォルター・ファーは実行する。 しかしそこに達成感はなく、荒涼とした虚無が広がるばかりだ。正義を成すにはその代償も大きい。 フリーマントルはフィクションだからと云って単純なヒーロー物語を描かない。しかしこれほど現実的なエンディングを描くことでますます市民が正義を成すことで恐れを抱くことを助長させているように思われ、正直手放しで歓迎できない。 せめて物語の中では勧善懲悪の爽快感を、市井のヒーローの活躍譚を味わいたいものだ。 しかし今なお麻薬カルテルの際限ない戦いの物語は紡がれており、それらの読後感は皆同じような虚無感を抱かせる。 それは麻薬社会アメリカの深い病巣とも関係しているのかもしれない。麻薬を巡る現実は今も昔もどうやら変わらないようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジャーナリスト出身のフリーマントルがイギリス紙のワシントン特派員レイ・ホーキンズを主人公にして著した作品はかつて偉大な新聞記者として勇名を馳せた父親も関係したヴェトナム戦争の書かれざるある真実だった。
今なおアメリカ人にとって歴史上の汚点とされるヴェトナム戦争には曰くつきの逸話が残されており、またソシオパス(人格障害者)を数多く生みだした暗い歴史を孕んだ、まだ記憶に新しい史実であり、調べれば調べるほどおぞましい話が出てくるのだろう。恐らく兵士の数だけ忌まわしい話があるに違いない。 そして通常このような戦争に隠された真実を暴く物語ならば、その作戦に関与していた生存者たちは口を閉ざし、頑なに秘密を守ろうとし、そのため全てを明るみに出そうとする主人公に対して危難が襲い掛かるのが定型だが、フリーマントルはそんな定石を踏まない。 なんと物語の中盤では孤児救出作戦に関わり、戦死したと思われた元グリーン・ベレー隊員4人はヴェトナムで捕虜として生存しているが判明し、その救出作戦にかつて同じ任務に就いていた生存者2人を採用するのだ。 つまり記録の空白の原因だと思われた2人は隠された事実に固執せず、実は目の前で4人が亡くなるところ目撃したために自ら真実を暴こうと積極的に関わるのだ。 この辺の身の躱し方がフリーマントルらしいと云えるだろう。 そして当事者によるアメリカ人捕虜は無事救出されるが、彼らの精神状態は無反応なままで一向に回復する兆しが見られない。最後の手段として彼らが囚われの身となった孤児救出の一部始終を撮影した件のビデオを見せるという荒療治を行うが、そのことが救出作戦に隠された忌まわしい秘密を暴くことになる。 レイ・ホーキンズに一連の救出劇の生存者たちの証言が実に都合よく捻じ曲げられた真実であったかを悟らせるきっかけが実に見事だ。これには思わず唸らされてしまった。 自身のジャーナリズムを貫徹するために彼が選んだのは真実を暴く事。それは大統領に選出されたピーターソンを失脚させるのみならず、英雄視された花形記者であった自身の父の名誉をも汚すことになる。そうなれば世界的ベストセラーが見込まれている父の伝記の出版も中止され、父の功績に泥を塗る行為になるのだが、それでも彼は躊躇わずに真実を白日の下に晒そうと決意する。 その行動原理は確かに上に書いたように彼の強いジャーナリズムに起因しているのだが、それを超える動機は次期大統領夫人エレナを自分の物にしたいという愛欲なのだ。 結末はやはりフリーマントルらしい皮肉を孕んでいる。作り物の物語であってもそうそう正義は簡単には貫けないのだと仄めかしているようだ。 しかし逆に物語だからこそ現実では難しい「正義は勝つ!」というセオリーを描いてほしかったのが私の本音ではあるのだが。 安定と混迷。 真実を暴くことで正義はなされるがそれによって国が被るのは大きなダメージ。 大人になればなるほど後々の結果を考えて予定調和を目指して敢えて真実から目を背けようとする。 そんな苦い結末を見せるとは。う~ん、なんて現実的な人物なんだ、フリーマントルは! ▼以下、ネタバレ感想 |
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CIAとKGBの共同作戦と云えば同作者のFBIとモスクワ民警のコンビ、ダニーロフ&カウリーシリーズを想起させるが本書はそれに先駆ける事12年前に書かれた作品。CIAとFBI、KGBとモスクワ民警といった違いはあるものの、恐らくはダニーロフ&カウリーシリーズの原型となる作品なのかもしれない。
さてこの水と油とも云える2大諜報組織の長を務めるのはCIAはジェームズ・ピーターソン。大統領から直々に作戦の指揮と失敗した時の全責任を負うことを担わされた男。そして彼は長官の地位と引き換えにバラバラになった家族を抱えている。 家庭を省みない夫に愛想を尽かし、日々のパーティの繰り返しでアルコール依存症となった妻ルシール。 優秀な成績を修めて大学を卒業しながらも今や法の目を潜り抜けて犯罪を繰り返し、新聞紙上を時折賑わせている息子ポール。 新興宗教のコミューンに入り、消息不明の娘ベス。 KGBとの合同作戦と云う前代未聞の大プロジェクトを抱えながらも家族の問題にも目を向けなければならない境遇を背負っている。 片やKGB議長のディミトリー・ペトロフは政敵リトヴィノフの執拗な攻撃を疎ましく思いながらも自分の地位を維持している実力者。かつて世界的バレリーナ、イレーナ・シニヤフスカヤとの情事に溺れていたが、彼女の亡命を機に縁が切れるや否や愛する妻ヴェレンティーナを癌で喪った男だ。彼の唯一の弱点は今もまだ未練の残るイレーナへの想いだ。 そして初の米ソ共同作戦のメンバーに選出された面々は以下の通り。 CIA側は宇宙センターで働いた実績のある科学者マイケル・ボウラー、聖職者になる寸前で工作員となったヘンリー・ブレイキー、ヴェトナム戦争で代位級の勲功を立てた陸軍将校ハンク・ブラッドリーとその部下たち。 KGB側はドイツ人の血を持つソヴィエト宇宙探査本部から転身した科学者ゲルダ・リンツ、ロシア正教の司祭を祖父に持つウラジミール・マコフスキー、KGB工作員の長官で自身の自慢の部下をチャドの秘密基地潜入作戦で3人も喪い、復讐に燃えるオレグ・シャラコフとその部下たち。 彼ら彼女らで編成されるチームは大きく分けて3つ。 まず典型的とも云えるのがブラッドリーとシャラコフをリーダーとして構成される軍隊で基地を武力で制圧するチーム。 もう1つはボウラーとリンツで構成されるロケット技術者を装ったボンからの査察団として内部からの破壊工作を行うチーム。 最後の1つは異色で聖職者の血筋を持つブレイキーとマコフスキーのチームは司祭を装って枯葉剤と青酸を村々に盛ってこれらの災いが基地からもたらされていると風評を流して外部から打ち上げを妨害させるチームだ。 そしてこれらのチームは通信衛星打ち上げ妨害にそれぞれ成果を挙げて近づいていくが、あと一歩のところで失敗に見舞われる。 本書が発表された1980年当時の世間一般のモサドに対する知識がどれほどだったか解らないが、やはり世界の諜報合戦の主役はCIAでありKGBであったことだろう。そしてジェイムズ・ボンドで有名なイギリスのMI6がそれに続く世間で知られた諜報組織だったのではないだろうか。 しかし一方で原題“Misfire”もまたフリーマントルらしいダブルミーニングを孕んだ皮肉な題名である。 ここでいう“不発”は米ソ共同作戦の失敗を意味しつつ、通信衛星打ち上げの失敗をも意味している。読み進むにつれてその意味が変わってくる抜群のタイトルだ。 個人的にはいぶし銀の活躍を見せるCIA副所長ウォルター・ジョーンズがアカデミー助演男優賞を与えたいくらい気に入ったキャラクターだった。 なお前書きでフリーマントルは本書で書かれた中央アフリカに作られた民営企業数社による通信衛星打ち上げ会社は実在すると述べている。2020年現在も存在するかは不明だが、宇宙を制する者が世界を制するとしてスターウォーズに目を向けていた世界はこんな仇花をも生み出していたことに改めて驚愕する。 国対国ではなくテロ対国家という敵の構図が変化した現代、再びこのような形で争いの火種を生む民間企業が生まれていないことを強く望みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏によるSFサスペンス長編。3月13日13時13分13秒に起きたP-13現象なる超常現象で世界中の人々が一部を除いて一瞬にして消失するパニック長編である。
まず驚いたのはP-13現象が起きた後の世界ではほとんど全ての人間が消失し、運転していた車がところどころで衝突し、事故の山を築き、飛んでいた飛行機もまた墜落している、まさに地獄絵図のような状況が繰り広げられることだ。 私は最初この情景描写を読んだ時にアメリカドラマの『フラッシュフォワード』を想起したが、その後度重なる巨大地震と集中豪雨で川が決壊し、地震と重なった起きた津波の描写で東日本大震災を想起した。 しかし本書は2009年4月に刊行された作品で東日本大震災は2年後の3.11なのだ。まさに本書で描かれた状況は当時の被災地の人間が体験したそれのように思えるのだ。 『天空の蜂』もまた3.11で起きた原発事故を予見するような内容だったが、それに加えて被災地の状況をも予見した作品として読むと驚愕に値する。 そしてほんの十数人を残して消え去った人々の世界を東野圭吾氏は持ち前の想像力とシミュレーション力で克明に描いていく。食糧危機にライフラインの根絶、あまり小説で描かれない登場人物たちのトイレ事情なども忘れずにきちんと書くところがこの作家が他の作家とは一線を画した存在であると云えよう。実にリアルである。 最も印象に残るのは度重なる危難の際に集団のリーダーとして皆を先導する久我誠哉の冷静な判断だ。 翻って腹違いの弟冬樹は感情に任せた判断をしては兄の誠哉に諌められる。しかし冬樹の判断こそが通常我々が陥る一般常識だ。 しかし有事の時はその常識が役に立たなくなる。 例えば1人の死にかけた人間が出れば、可能性がある限り、一命を取り留める措置を全力でするのが常時だが、未曽有の災害が起きた時では助かるか解らない1人のために全員を犠牲にするわけにはいかないから、見殺しにすることが求められる。 これまで自分が絶対だと信じていたものが、次々と壊れていくのを彼は感じていた。 これは冬樹の心情を表した作中の一文だが、実に正鵠を射ている。 もはや国家と云う拠り所が無くなった状態では今までの道徳や決まりごとが無意味となり、彼らが最大数で合致する価値観に添って物事が決められる世界になることを節目節目で語っていく。 ただ一方で冷静に判断を下していた誠哉も理性や論理だけでは全てが解決しないことを知らされる。 皆がインフルエンザに次々に感染していく中、冬樹はタミフルを飲ませるために嵐の中、病院に取りに行くという一か八かの賭けに出る。幸いにして満身創痍になりながらもその試みは成功するが、それは常に皆の安全を考えて消極的に行動する誠哉にはできない事だった。 つまり常に安全圏にいては何も変わらず、ただ死を待つだけであり、時にはリスクを抱えて行動しなければならない事、そして人間はその意志の強さで思いも寄らない成果を挙げることを誠哉は目の当たりにするのだ。 そして次第に誠哉の論理的思考はエスカレートしていく。 極限状態の中、もはや生存者が彼らだけとなった事実を突き付けられた後、誠哉は残された人類だけで繁栄する方法を披露する。それは皆がアダムとイヴとなって子孫を増やしていくという選択だった。流石に好きでもない相手とセックスは出来ないと女性陣は皆、強い拒絶反応を示し、それが仲間たちの団結に亀裂を生じさせてしまう。 皆がそれぞれの考えで生き方、死に方を選ぶようになるのだ。つまり論理的思考が全てではなく、理屈では割り切れない物が人間にはあるのだ。 論理的思考型人間の久我誠哉と感情的行動型人間の弟冬樹の2人を対照的に描くことで物語に起伏を、そして読者の思考に揺さぶってページを繰る手を止めさせない東野氏の筆致に改めて感心した。 『プラチナデータ』の時も思ったが東野氏のSF物は結末が正直に云ってカタルシスに欠ける結末が多い。 本書でもP-13現象によって図らずも並行世界に取り残された面々は再び起こるP-13現象で救われるわけではない。いや並行世界で死んだ者は揺り戻しによって再び亡くなり、生き長らえた者たちのみ死を免れるのだ。このドライさが何とも云えない苦さを後味として残す。 本書のキーワードは一同のリーダー格である久我誠哉が苦難に見舞われた時に呪文のように唱えるのが「天は自ら助くる者を助く」だ。 これがもしクーンツ作品ならばP-13現象というパラドックス現象を逆手にとって彼らの苦難を全てリセットされたかのように全員生還する、もしくは生まれ変わりになって新しい人生を歩むと云った何らかの救いを設けるのだが、東野氏は敢えてそんな安易な道を選ばず、生と死のシビアな二者択一のカードを切り、犠牲者を容赦なく切り捨てる。 これをどう捉えるかは読者次第なのだが、私はやはりパラドックスを成り立たせた上のハッピーエンドが欲しかった。確かに本書の結末もハッピーエンドではあるのだが、あまりにもドライすぎると感じるのは私の甘さだろうか。 ただ本書は単にSF的興味やクライシス小説として読むには勿体ない。大災害が発生した時に生存するためにいかに行動し、どのような選択をしてくかを示した一種の指南書にもなり得るからだ。 絶望的状況に見舞われた老若男女たちがそれまでの人生の中で培った価値観によってどのような選択をしていくかもまた読み処だ。それぞれが己の人生観に添った選択をするため、それぞれに一理ある。 刑事、会社の重役とその部下、老夫婦、やくざ、女子高生、看護婦、主婦とその子供、ニートの若者とメンバーは実にヴァラエティに富んでいる。 そのどれに自分を重ねるか。そんな風に自分と照らし合わせて読むのもまた一興だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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殺し屋ケラーの第2短編集。彼は今回も依頼された仕事を遂行するため、そしてそのついでに趣味の切手を買うために軽快に全米を飛び回る。
「ケラーの指名打者」ではケラーはターポンズの指名打者フロイド・ターンブルの暗殺を依頼される。 メジャーリーグの指名打者がターゲットと野球好きのブロックらしいネタで幕を開ける。大記録を目前とした大打者がターゲットである理由が正直解らないのがこの話のミソだ。 ケラーへの依頼は斡旋人のドットを通じてくるわけだが、ドットもまた仲介人を経て依頼を受けるため、目的については不明。ケラーは野球観戦で知り合った野球通の男から聞いた話からターゲットになった理由を推理するが、実際にこんな選手はいるのだろうと思わされるから面白い。 2番目の「鼻差のケラー」は一風変わった趣の作品だ。 しかしなぜかケラーは観戦場でよく話しかけられるものだ。そんな雰囲気を纏っているのかもしれない。 ここまでの作品は正直これまでの作風と変わりないが、次の「ケラーの適応能力」はあの9・11が前面に出た作品であり、本書の中で最も多い120ページの分量で語られる。 9・11を経てヴォランティアに参加して、救助隊員へ食事を配ったり、またそれまでに行った仕事の犠牲者に思いを馳せるなど、実に“らしくない”感傷的なケラーが語られる。 作品のトーンはこれまでと同様なのだが、かかれる内容は明らかにこの前に書かれている2作とは趣が異なる。特に仕事を成し終えた後、オレゴンからニューヨークに戻る道中で寄り道をしてジェシー・ジェイムズやジョン・ディリンジャーらの西部開拓時代の悪党たちの博物館に立ち寄って、彼らの人生を殺し屋稼業の自分と重ねあわせているケラーがいる。そしてケラーは引退を決意する。かつて同様の決心をしたがそれよりも強い意志で。 そんな過程を経て次の「先を見越したケラー」では殺しを自分で営業するケラーが登場する。 作中でドットが述べているように本作はケラー版『見知らぬ乗客』。帰りの飛行機で隣り合わせたビジネスマンに殺したい人物がいると持ちかけられ、ケラーは顔を知られていながらもその依頼を受けることになる。 前作で引退のために残りの余生の軍資金稼ぎのためにしばらく殺し屋稼業を続けることにしたケラーだったが、いきなりその顔を知られた相手の依頼を飛び込みで受けるとは大胆。しかしそれを伏線として皮肉な結末に持ってくるのがブロックの上手さ。 9・11を経てもやはりケラーはこうでなくちゃならない。 ケラーの犬好きは作中でもしばしば語られるが「ケラー・ザ・ドッグキラー」はそのタイトルが示す通り、ケラーに犬殺しの依頼が舞い込む。 犬殺しと云うショボイ依頼から思わぬ展開を見せる本書はそのシチュエーションが実に面白い。 自分の大切な飼い犬を殺された夫人2人からそれぞれ別の殺しを依頼される。一方は共同出資者の片割れを、もう一方は自分の夫を。 そうでいながら陰惨さがまるでない。本当に不思議な味わいのあるシリーズだ。 次の「ケラーのダブルドリブル」はインディアナポリスでの殺しの依頼を受ける。 今回のケラーは投資会社が仕掛けた株価操作に巻き込まれ、しかもケラー自身もその標的になるという異色の作品。 また本作では幼少のケラーのバスケットに対するトラウマについても描かれており、それもまた興味深い。 株取引は次の「ケラーの平生の起き伏し」でも続いており、ドットの趣味にもなってしまっている。 今回のケラーは同好の士の殺人。依頼を受けた時は有名な切手収集家シェリダン・ビンガムで顔を見知っている程度だったが、切手展の会場で図らずも接触してしまい、意気投合してしまう。そしてケラーは初めて彼を殺せるのかと自問自答する。しかしこれをどうにか克服するケラーのドライさと感情のスイッチの切り替え方には思わず感心してしまった。 しかしそれまでの彼は標的を殺害した後は独自のメンタル・コントロールで記憶を雲散霧消してしまっていたが、今回は記憶に留めることにしたようだ。ケラーにも徐々に変化が起こってきている。 続く「ケラーの遺産」は前作のシェリダン・ビンガムの死を受けて、もし自分が亡くなった後の自分の持ち物の整理を斡旋人のドットに頼むところから始まる。それはケラーに何かが起こる不吉な前触れのように感じさせたが、ドットが持ちかけた身元不明のアルという人物からの依頼を引き受け、なんとほとんど日帰りで依頼をこなして帰って来てしまうという物。 そしてこのことがつまりケラーにある迷いを吹っ切ることになる。 本書は「ケラーの適応能力」に対するブロックが自身で見出した回答編となっている。従って本書についての感想は後述する事にする。 最後はたった4ページの小編「ケラーとうさぎ」。標的の許へレンタカーで向かっていたケラーがカーラジオを入れると前の使用者が忘れていったうさぎの物語の朗読が流れてくる。しかし次第にその物語に夢中になる自分に気付いたケラーは標的の許を訪れると続きが早く聴きたいがためにさっさと殺してしまう。 正直本当にこれだけの話なのだが、実はこの作品もまた書かれるべき作品だったのだと思わされる。これについては「ケラーの適応能力」と「ケラーの遺産」と合わせて後述する事にする。 殺し屋ケラーシリーズ3作目の本書は1作目同様の短編集で、始まりはそれまでのシリーズ同様の雰囲気だが、それまでのシリーズと決定的に違う所がある。 それは本書が9・11を経て書かれていることだ。 本書中最も多い分量の3編目「ケラーの適応能力」はケラー自身が9・11を通じた変化について語られる。そこにはケラーが物語の主人公として成立するためには非常に困難になってきた9・11以後のアメリカの姿が描かれている。 飛行機のチェックインで厳密に身分証明を求められるようになったため、ケラーはニューヨークからオレゴン州までレンタカーを借りて陸路で向かうのだ。 正直この時点でケラーシリーズは終わりを迎えたとブロック自身は思ったのではないだろうか。アメリカを横断する陸路で標的を殺しに向かうケラーが成立するのか。ブロックにとってこのようなケラーを書いてみることがある意味シリーズ存続の可否を占う一種の挑戦だったのではないだろうか。 そして9・11を経験したケラーは感傷的であり、9・11当時では偶然依頼のためにニューヨークを離れていたケラーはテレビで衝撃のテロを目の当たりにし、断続的に嘔吐する。殺しをしても標的を人間と故意に認識しないことで心から消し去っていたケラーが、テロによって不特定多数の人間の命が失われていく様を目の当たりにして、知らず知らずに精神的ショックを受けるのだ。 そしてそれがそれまでケラーが行った仕事の標的について語られ、ケラー自身が思いを馳せさせる。それはまるでシリーズの総決算のような趣を湛えている。 恐らくこれは『砕かれた街』同様、ブロックにとって9・11を消化するために書かなければならなかった作品なのだろう。“あの日”を境に変わってしまったニューヨークの、いやアメリカの中で彼が想像した人物たちがどう折り合いをつけて物語の中で生き続けているのかを確かめるために。 そして奇妙なことにドットの許に身元不明のアルと云う人物から殺しの依頼をされるが内容が不明のまま、前金のみ送付されるのみの奇妙な依頼が残されて終わる。 その後のケラーの物語はヴァラエティに富んでいる。 まずデトロイトの殺しは標的が逆に依頼人を殺害して実行前にキャンセルになり、帰りの飛行機で話しかけられた男が殺したいと思っている男の殺しを請け負うことになる。 更に犬殺しの依頼を受けたケラーは2人の依頼人がお互いに相手を殺したがっており、逆に2人と1人の浮気相手、更にターゲットだった犬の飼い主を殺害してしまう。 そして次の依頼では標的ではなく、殺し屋である自分をも殺そうと企んでいる依頼人を殺害して、逆に標的にそのことを教え、株の売買で報酬を得るというツイストを見せる。 更に顔見知りの切手収集家が標的になり、案に反して標的と親しくなってしまい、殺害すべきかどうか苦悶する姿もまた見せる。 つまりこれら一連の物語では単に依頼を引き受け、標的の生活や習慣を見守り、また彼・彼女が住む町に身体を委ね、じっくりと仕事を遂行してきたケラーに、自分の意志が仕事に介入して単純に依頼を遂行するだけではなく、全てを合理的に解決するために依頼以外の殺しを行ったり、また逆に依頼人を殺して標的を助けたりと、依頼の動機などまったく斟酌しなかったそれまではありえなかった感情が介入してくるケラーの姿が描かれるのだ。 依頼よりも自分の感情に左右されてしまうケラーは殺し屋としては失格であり、さらに自分の遺産整理をドットに頼むに至って正直これらの物語を最後にケラーは引退するかと思われた。 しかし「ケラーの遺産」でドットに訪れる依頼は「ケラーの適応能力」でドットの許へ前金のみ送ってきた正体不明の依頼人アルからの物で、ケラーはこの依頼を最速で遂行して帰ってくる。そしてそれが彼にある踏ん切りをつけらせることになる。 恐らく余生を過ごす軍資金を得て引退しても、ある時期が来れば何かすべきことが自分にはあるのではないかと思い始め、再びドットに電話して依頼の有無を確認する自分がいることに気付くのだ。つまり自分はやはり生粋の殺し屋であり、この稼業を辞めることはできないのだと悟るのだ。 そして最後の「ケラーとうさぎ」ではレンタカーで子供向けの物語の朗読CDに図らずも夢中になり、その続きが気になって早く聴きたいがために実に簡単に人を、しかも2人の子供を学校に送り迎えするごく普通の主婦が自分の都合で厄介払いしたくなった夫の依頼で始末され、ケラーは再び朗読CDの続きに思いを馳せるのだ。 つまりドライな殺し屋ケラーが最後に見事復活するのだ。 ブロックが選んだのは9・11を経てもケラーはケラーであることをケラーに気付かせることだった。本書にはブロックが模索しながらケラーを書いている様子が行間から浮かび上がってくるが、どうにか本当のケラーを見つけたようだ。 ケラーよ、お互い変わらぬ姿でまた次の作品で逢おうではないか! ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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久々のウィンズロウはノンシリーズの復讐劇。妻子をテロリストに殺された元デルタフォースの男が遺族たちの賠償金を募ってそのお金でかつての上司が率いる世界各国の精鋭たちを集めた傭兵部隊を雇い、テロリストを追い詰める物語だ。
とにかく物語の展開はスピーディで、勿体ぶったところがなく、デイヴが精鋭たちを雇うのは全ページ610ページ強のうち、178ページと3分の1に満たないところだ。そこからウィンズロウは主人公デイヴ達が標的に迫っていく様を世界中を舞台に入念に語っていく。 航空機爆破テロ。9・11を経験したアメリカならば即大統領は声明を発表し、テロに屈しないとメッセージを出し、どんな手を使っても犯人を見つけ出し、報復行為に出るはずだ。 しかし本書では逆に相次ぐ報復行為で疲弊したアメリカが事件を事故と発表して穏便に済ませようとする。従って本書でテロリストに行う報復は一個人によるものだ。 つまりデイヴの行う襲撃は全て犯罪に変わってしまう。従って異国で行われる作戦は絶対にその国の政府に見つかってはならない。見つかると部隊は全て刑務所にぶち込まれるからだ。 従ってデイヴの行為が各国政府に知られると国際問題に発展しかねない危険性を孕んでいる為、政府としても彼らを止めなければならない。アメリカ国防情報局のデーナ・ウェンデリンはデイヴ達を執拗に追う。デイヴは追う側でありながら追われる側でもあるのだ。 しかしウェンデリン本人もデイヴ達の行為こそ自分たちがすべきことだと思っているジレンマを抱えている。にもかかわらずウェンデリンはデイヴの資金源を、情報源を絶ち、じわりじわりと追い詰めていく。 さてそんな物語の中心となるデイヴの上司マイク・ドノヴァンが率いる“ドリーム・チーム”の面々はウィンズロウらしく実にキャラが立っている。 まず“ドリーム・チーム”の長マイク・ドノヴァンはデルタフォース時代のデイヴの直属の上司であり、共に死線を駆け抜けた同志でもあるため、デイヴは絶大な信頼を置いており、命を補い合った者同士が持つ断ちがたい絆が2人の間にある。ピッツバーグ郊外の鉱山町生まれで安定した食事と寝場所を求めて陸軍に入隊。そんな下層階級の出でありながらノートルダム大学で憲法史の文学士号を持ち、海軍大学院で特殊作戦と低強度紛争課程を履修し、文学修士号を授与されたエリートでもある。彼の決断は信頼する元部下デイヴであっても能力が不足していると思えば切り捨てる意志の強さを持つ。しかしそれは自分の部下を一人たりとも死なせたくないという優しさの裏返しでもある。 コーディ・ペレスはメキシコ出身の元アメリカ空軍パラレスキューで医療及び高度特殊作戦の訓練を受けた兵士。アフガニスタンのタンギ渓谷でSEALs隊員を助けるために死線に飛び込みながら、1人の隊員を救えなかった苦い過去を抱えて生きている。 ドイツ人のウルリッヒ・マンは元ドイツ連邦陸軍特殊戦団出身で破壊工作のプロフェッショナル。アフガニスタンの任務でタリバンを目の前にしながら上からの命令で敵を抹殺せずに捕獲を要請されたため、自身を危険に曝しながらも観察を強いられた事から隊を辞任した。 金のために戦うと公言して憚らないのが元イタリア陸軍空挺部隊のアレッサンドロ・ボルギ。兵士でありながらモデル並みの容姿を持ち、ダウンヒルのスキーヤーでもある。報酬は全てフェラーリと女性へと消える。 チームの中で興味深いのは歴史的犬猿の仲であるイスラエル人とパレスチナ人が同居していることだ。 前者のレヴ・ベン・マロムはイスラエルの選りすぐりの精鋭で構成された極秘組織“ザ・ユニット”出身で多くのテロリストを殺した。 後者のアミール・ハダドは難民キャンプの出でイスラエル軍に母親を殺害された拭いきれない過去を持つ。従って彼はイスラエル軍と戦ってきたが、ある任務で爆破テロを命ぜられながらも出来なかったことから組織だけでなく父親からも勘当され、追い出されたところをドノヴァンに拾われた。しかしイスラエルに対する憎しみは続いており、レヴとの仲は今でも険悪だ。 この2人が死闘の中でお互いの立場を理解し、認め合うところが意外なアクセントとなっている。 ドノヴァンの片腕で前線での作戦の指揮を任されるミッシェル・ディアロはフランスの海軍コマンド出身。しかし軍への緊縮政策による予算削減の際にアフリカ系フランス人であるという理由で除隊を命ぜられたところをドノヴァンに拾われた。 今ではジンバブエと云う名の別の国になったローデシア出身で隊最年長のロルフ・フォルスターはセルース・スカウツ出身の格闘術のプロ。祖国を失い、各国で雇われ用心棒をしながら流浪していたところをドノヴァンにスカウトされた。 マイク・ドノヴァンと云うカリスマの許に集められた精鋭たち。激しい訓練と死地を幾度となく潜り抜けてきた彼らの絆は海よりも深いと考えられていたが、意外な形で彼らの作戦は綻び始める。それはメンバーの裏切りだ。 上にも書いたように訳者が変わったせいではないだろうが、短い文章でテンポよく物語を運ぶのはウィンズロウらしさがあるものの、彼の持ち味であるユーモア交えた小気味いい文体が本書では一切ない。 実にストイックに家族を喪い復讐に燃える男の物語が、専門知識をふんだんに盛り込まれながらも悪戯に感傷を煽るようにならず、ほどよい匙加減で切り詰められた文章で進んでいく。 特に描写がリアリティに満ちていて実に痛々しい。 例えばよく映画で目の前で敵の頭が吹き飛び、血漿を浴びるセンセーショナルなシーンがあるが、本書ではさらに砕けた頭蓋骨の破片が顔に突き刺さり、それらを除去しないと感染症に罹ってしまうという実に生々しい説明が付け加えられる。 また飛行機から飛び降りる高高度降下落下傘にしても単に潜入するだけに留まらない。高高度から飛来することの危険性―気温が摂氏マイナス48度であるから凍傷や低体温症の危険性がある、飛来する人が“X”の形で降りるのは風の抵抗を受けて少しでも落下スピードを落とす為で、落下スピードが速すぎるとパラシュートを開いた瞬間の衝撃で関節が外れてしまう、等―を詳らかに数行に亘って説明する。それも決して熱を帯びていなく、あくまで淡々と。 『野蛮なやつら』や『キング・オブ・クール』で見られた実験的な文体を書いた作者と同一人物とはとても思えないほどの変わりようだ。 特に最後のテロリストの巣窟への襲撃戦はさながらマクリーンの『ナヴァロンの要塞』のようだ。 そしてウィンズロウ版『ナヴァロンの嵐』がいつか読めることを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『新参者』で日本橋署に転勤になった加賀が同署で再び相見えたのは一見簡単だと思われた行きずりの殺人事件。そして『赤い指』の事件でタッグを組んだ松宮刑事と再び捜査を共にする。
新宿に本社を持つ建築部品メーカーの製造本部長を務める男性がなぜ日本橋で殺害されたのか? しかも腹を刺されながら日本橋交番を素通りしたのか? そしてなぜ麒麟の像の下で彼は息絶えたのか? 容疑者となったのはかつて男の勤める会社で働いていた派遣社員。彼は警察の職質で逃げ出し、トラックに轢かれて意識不明の重態に陥る。そして彼は男の会社の労災隠しで派遣契約を打ち切られたことが発覚する。 当時社会問題となっていたいわゆる「派遣切り」問題を扱いながら、ある会社の本部長を務める男がなぜ日本橋七福神を参っていたのかという小さな謎が加賀を奔走させる。 さらに調べていくと被害者は七福神の1つ、水天宮で千羽鶴ならぬ同一色の折り紙で折った百羽鶴をお供えしていたことも判明する。 一つの謎が明らかになると浮かび上がる被害者の謎めいた真意。加賀は軽い臆測で事件を片付けず、とことん真相を追及していく。 さらに今回加賀は『赤い指』で亡くなった父親加賀隆正の三回忌を迎えようとしていており、その際に隆正の看護を担当した看護婦金森登紀子の世話になっている。 この金森が加賀に隆正の三回忌の打合せをしている時に放つ言葉が今回の事件解決のヒントになるところが本書のミソだ。 この2つの構図をなんと上手くリンクさせることか。 そしてこの加賀の父親との不和が『赤い指』を経て徐々に浄化されていく過程こそ、シリーズを読んできた者が得られるカタルシスであり、特権だ。 加賀恭一郎シリーズの例に漏れず、今回の真相も苦い。 また本書は事件が残された家族に招く社会の冷たさにも触れている。 『手紙』では加害者である殺人犯の弟が受ける理不尽とも思える社会の冷たさを扱ったが、本書では被害者の遺族が、被害者が会社の労災隠しの首謀者と報じられたことでマスコミや周囲から遠ざけられていく。突然の悲劇に追い討ちをかけるようにのしかかるスキャンダル。 一方で結果的に冤罪となった容疑者八島冬樹の唯一残された同棲相手の中原香織もまた事件の影響でバイト先から暇を告げられる。 加賀が呟く「殺人事件とは癌細胞のようなものだ。ひと度冒されたら、苦しみが周囲に広がっていく」の台詞に全てが集約されている。 そしてタイトルとなっている“麒麟の翼”には伝説の獣、麒麟には本来備わっていない翼が日本橋の麒麟像にはついていることに由来している。それは日本の全ての道の原点である日本橋から人々が日本中に飛び立っていく、そんな思いがその翼には込められているそうだ。 それは加賀にもまた当て嵌まる。『赤い指』で一旦決着したかに見えた父親との不和。しかし看護婦金森を通じて、何も解決していなかったことを悟らされる。冒頭の振り込め詐欺を見破るエピソードに象徴されるようにシリーズにおいて常に全てを見抜いているかの如く、事件の捜査に当たる加賀が初めて見せる動揺が家族についてのことだった。つまり周りのことは見えていても自分のことは一切見えてなかったことを知らされるのだ。 恐らく次は再び加賀が父隆正へ向き合う物語になるのではないか? 本書では青柳家が父親の死に直面して改めて父親のことを知らなかったことを再確認させられ、また父親の真意を汲み取ることで父親が向けた家族への眼差しを改めて知ることになった。 さて次は加賀恭一郎の番だろう。次作『祈りの幕が下りる時』を読むが愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ニューヨークに生まれ、マット・スカダーシリーズを中心にニューヨークを描いてきたブロックが9・11後のニューヨークを描いたのが本書。そこにはスカダーは描かれず、ニューヨークに住む人々を描いた群像劇の様相を呈している。
ニューヨークで知り合いや友人の掃除代行をして生計を立てているジェリー・パンコーが出くわす殺人事件を軸にニューヨークに住む人々の生活が語られる。 画廊を経営するスーザン・ポメランスは殺人事件の被害者マリリン・フェアチャイルドに不動産を紹介してもらった縁があった。彼女は彼女の専属の初老弁護士モーリー・ウィンタースを筆頭に男と女区別なくセックスに溺れていた。 殺人事件の容疑者にされた小説家のジョン・ブレア・クレイトンは自分の無罪を晴らすためにモーリー・ウィンタースを弁護士として雇い、保釈金を払って釈放される。事件の話題がホットなうちに次作を物にして、ベストセラーを狙っている。 元ニューヨーク警察本部長のフランシス・バックラムは次期市長選に乗り出そうと画策している。 そして9・11の事件で家族を喪った男は殺人を重ねていた。 ニューヨークの歴史の中で起こった数々の悲劇。南北戦争時に起きた徴兵暴動。ドイツ系移民をぎゅうぎゅう詰めにした遊覧船が全焼して沈没したジェネラル・スローカム号事件。150人もの針子が工場火災で亡くなった<トライアングル・シャツ>社火災事件。ニューヨーク・ギャング、マフィアの抗争。 それらの事件はこのニューヨークという市が甦る為に捧げられた犠牲だと彼は考えた。従って彼が殺人を重ねるのはもまた9・11で破壊された市を甦らせるための人身御供を捧げるためであり、建物に放火していくは再建するためだった。 そんな彼の正体は案に反して早々に判明する。下巻の76ページで彼の素性が警察の捜査で明らかになるのだ。 広告会社の元調査課長である彼はしかし隠れ家を転々としながらニューヨークを離れない。寧ろ自分の痕跡を残すことで彼の名前と偶々犯罪でハンマーと鑿を使用したことから付いた綽名“ハービンジャー・ザ・カーペンター”の存在をニューヨーカーたちに知らせ、畏怖させようとする。 一方でもう1つの物語の軸となるのは美人の画廊主スーザン・ポメランスのエスカレートするセックス・ライフだ。専属の弁護士とたまに情事を愉しむだけだったのが、ボディ・ピアスを開けたことで潜んでいた性に対する飽くなき探求心が高まり、性欲の赴くままに街を徘徊しては男たちを誘い、アブノーマルなセックスに興じる。その相手が当初殺人事件の容疑者とされていたクレイトンへと繋がっていく。 それぞれ関係のないと思われた登場人物が次第に事件とスーザンの夜の活動によって繋がりを形成し出す。 そう、この800万もの人間が巣食うニューヨークで起きる、9・11のある犠牲者によって引き起こされる狂信的な連続殺人はなんと1人の奔放な性活動を多種多様な人物と繰り広げる女性によって解決の糸口が見出されていくのだ。 これはブロックなりのジョークなのだろうか? アラブ人のテロリストによって破壊されたニューヨークで悲劇のどん底に突き落とされた人々。どうにか傷が癒え、再興に向けて歩き出している人々が再び出くわした悪夢に対して、セックスによってそれまでの価値観を崩され、新たな自分に目覚めていく男たちを生み出す一人の女性がそれぞれの事件を繋げていく。 つまりスーザン・ポメランスのセックスこそは再生の象徴と云っているのだろうか? 率直に云ってスーザンが繰り広げるセックスの開拓はほとんどポルノ小説のようである。いやそのものと云っていいほど詳細に、且つ濃密に描かれている。 これが1人の哀しきテロリストによる狂信的なニューヨークの再生を謳った暗い色調の物語を一変させているのだ。しかもこの2つは物語に上手く溶け合っているとは正直云い難い。このスーザンの物語は本当に必要だったのか、甚だ疑問である。 さてニューヨークを舞台にしていながら探偵は出てくるものの、それはスカダーではなく、全く別の人物である。しかしそれでも本書とスカダーシリーズは同じ世界で書かれていることが明かされる。 それは『死者の長い列』で登場した三十一人の会に所属する不動産会社を経営するエイヴァリー・デイヴィスが登場した事だ。また事件発見者のジェリー・パンコーがAAの会にも出ているなど、随所にスカダーシリーズを想起させる世界観が内包されている。 そう考えるとニューヨークのハイソサエティの世界で奔放な性活動を繰り広げるスーザン・ポメランスはエレイン・マーデルの代役とも考えられる。つまり本書はエレインの側から事件を描いた作品なのだと。 いやこれはやはり穿ちすぎだろう。 ニューヨーカーであるブロックにとって9・11は途轍もないショックをもたらしたことだろう。しかしブロックが紡いだ9・11後のニューヨークは悲劇を乗り越え、それでも強かに生きている人々の姿だった。 9・11は終わりではなく、また始まりでもない。確かに以前と以後では変わった物も事もあったが、それはニューヨークの歴史の中での通過点の1つであった。 それが証拠に我々はまだ生きているではないか。生活を営んでいるではないか。ブロックが人生讃歌の物語を書くとこんな風になる、いい見本だと思った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回マットが対処する事件は強盗による弁護士夫婦殺害事件。強盗が入っている間に家主が帰って来て強盗によって殺される。
これはもう1つのブロックのシリーズ、泥棒探偵バーニイ・ローデンバーがしばしば巻き込まれるシチュエーションだが、その場合は軽妙なトーンで物語が進むのに対し、マット・スカダーシリーズでは実に陰惨な様子が淡々と語られ、恐怖が深々と心に下りてくるような寒気を覚える思いがする。この書き分けこそがブロックの作家としての技の冴えだ。 今回はマットとTJの機転で警察組織を巻き込んで大規模捜査網が敷かれる。かつて個人が巨大な悪に立ち向かうためにミック・バルーと云う悪の力を借りて対峙したマットだったが、前作でミックの組織は瓦解し、彼を残すのみとなった。 今回総勢12人も殺害したシリアル・キラーと立ち向かうために組んだ相手が警察組織だったことは元警官であったマットにとって自分の立ち位置が原点に戻ったように思える。 原点回帰と云えばシリーズも15作目になって、マットは更なる過去へ対峙する。それはシリーズが既に始まった時から離縁関係にあった元妻アニタと彼の息子マイケルとアンドリューとの再会である。 既に2人の息子は成人となって働いている。齢62となったマットの元妻アニタが心臓発作で亡くなったことを息子の電話で知らされる。 決してシリーズに大きな影響を与えていたわけではない、元家族との意外な形での再会はしかしスカダーにとってもはや遠い日の追憶でしかないことを悟る。 2人の息子の内、次男のアンディは危うい橋を渡るような生活を送っている。長男のマイケルにたびたび無心をしては職を転々とし、そして今回もまた会社の金を横領した廉で警察に突き出されそうになっている。それはかつて警官と云う職に就きながら、心に傷を負うミスを犯して身持ちを崩してしまったマット自身の姿とどこか重なる部分がある。彼も元父親としてアンディに横領金の肩代わりを半分担い、その金でアンディは事を免れるが、マット自身も云っているようにそれが最後になるとは思えない。アンディの厄介事はこれからも続きそうだ。 敢えて証拠を残して警察や探偵に誤った方向へ捜査を導く。証拠から導かれるロジックが完璧であればあるほどそれを信じて疑わなくなる。 これはエラリイ・クイーンが抱えた“後期クイーン問題”から連綿と続くテーマである。現代のシャーロック・ホームズと云われているジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズでも既にこの問題に直面し、ますます捜査の難度と物語の構造の複雑さは増してきている。 まさかこのシリーズでこのようなテーマに出くわすとは思わなかったが、長らくミステリを書いていると作家はこの問題に直面する運命にあるのだろうか? さて私がこのシリーズを読み始めて足掛け2年4ヶ月の付き合いになる。既に本書までは既刊だったため、シリーズを1作目から本書に至るまで通して読むことが出来たが、この2年4ヶ月という凝縮された期間であっても本書を読むにここまで来たかと感慨深いものを感じるのだから、シリーズを1作目から、もしくは有名な“倒錯三部作”からリアルタイムで読み始めた人々のその思いはひとしおではないだろうか。 本書で語られているように、マットが断酒してから18年の歳月が流れ、作中での年齢は62歳と既に還暦を超えてしまっている。 しかしマットは登場当初の、人生に打ちひしがれた元警官の無免許探偵という社会的には底辺に位置する人々の一員であったが、15作目の本書では元娼婦の妻エレインが蓄財した不動産収入でニューヨークでマンション暮らしをし、安定した生活に加え、エレインが趣味で始めた画廊からの収入もあり、マットは探偵業を気が向いた時に営むといった、人が羨むような生活を送っている。 もはやホテルの仮住まいで定職に就かず、毎日アームストロングの店に入り浸ってアルコールを飲み、時折訪れる人のために便宜を図るように幾許かの金で人捜しや警察が扱わない事件の掘り返しを請け負い、依頼金の1割を教会に寄付して過去の疵を癒す慰みにしている、人生の負け犬のような彼の姿はもはやそこにはない。陰の暮らしから日の当たる世界へ出たマットの姿をどう捉えるかは読者次第なのだろう。 ただマットの生活も変われば彼の捜査方法も変わったのも確かだ。TJにパソコンを与えてから人捜しも市井の人々の間を逍遥することで不意に得られる奇妙な縁から全てが繋がっていく、そんなマットならではの方法ではなく、インターネットによってアーデン・ブリルという本名か偽名かも解らぬ名前を手掛かりに犯人を特定していくようになる。 そして犯人もまた闇サイトでの評判を愉しみにするサイコパスと、現代的な犯人像なのも特徴的だ。いや“倒錯三部作”から既に時代に添った犯人像をこのシリーズは描いていたと云えるので、これは本書での変換点ではない。 ともあれマットが裕福になり、エレインとの夫婦生活が充実していくにつれて、このシリーズ特有の大切なペシミズムやムードが失われていくような気がするのは私だけだろうか。 相変わらず読ませる物語であることは認めよう。 しかし上に書いたようにかつて読んでいたようには私の中に下りてくる叙情性といったような物が薄れているのは確かだ。 しかしそれでも私はいいと思う。エレイン、TJ、ミックと彼を慕う人々の中でマットが事件と対面していくのもやはりこのシリーズの特徴であるからだ。 さて次の『すべては死にゆく』は未だ文庫化されていない。このシリーズ全作読破のために一刻も早い文庫化を望む。 しかしブロックの新作は文庫で出ているのになぜこの作品だけ文庫化されないのだろうか?気になって仕方がない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズ9作目の本書ではこのシリーズの原点回帰とも云える密室殺人事件を扱っている。しかも同時に2つの密室殺人が離れた場所で起こるが、どちらも容疑者は同一人物だったという、魅力的な謎をいきなり提示してくれる。
一方の密室殺人は大学の実験室で起こる。共同実験者の上倉裕子が扼殺されて横たわっていた。その部屋の鍵を持つのは被害者の上倉裕子と助教授の河嶋、そして研究室の学生用の1つでそれは容疑者の寺林が持っていた。 他方の密室殺人の舞台はオタクの祭典、模型展示会が行われている公会堂の控室。そこにいたのは首のない、しかし体型からコスプレモデルとして来ていた筒井明日香の遺体、そして頭から血を流して昏倒していた寺林だった。そしてその部屋の鍵は寺林と管理人のスペアキーしかなかった。だが鍵を持っていた人物は部屋で昏倒していたので誰がどうやって鍵を掛けたのかが解らない。 さらに筒井明日香の兄紀世都もまた自分のアトリエで萌絵、寺林、大御坊、喜多、犀川ら衆人環視の中で殺害される。死因は感電死だが、浴槽に浸かっていた彼の遺体は白い塗料が吹き付けられていた。それは恰もフィギュアのようだった。 本書で特徴的なのは『幻惑の死と使途』以降付されていなかった登場人物表が復活していることだ。 『幻惑の死と使途』、『夏のレプリカ』、『今はもうない』は登場人物表を付けられない、凝った構成の作品だったからだが、本書でそれが復活しているということはつまり原点回帰的な密室殺人ミステリであることを意味している。 さて本書では森氏の趣味がある意味横溢していると云っていいだろう。 まず事件の舞台となるのが模型作品展示・交換会、つまりモデラー達の集いである。作者自身がかなり本格的な鉄道模型マニアであることから、これは満を持してのテーマだったと思われる。そのためか登場人物が模型やフィギュアに対する哲学を語るシーンがそこここに挟まれており、それらは作者自身の考え・意見であると窺える。 そしてもう1つ特徴的なのはコスプレイヤーも登場するところだ。 モデラー達よりもその色合いは薄いものの、本書では西之園萌絵がコスプレしているところに注目されたい。まずは上記の展示会でのオリジナルキャラクターのコスプレに、事件の容疑者寺林に話を聞くために彼が入院している病院の看護婦に成りすまして潜入する。 コスプレマニアにとってはある意味萌え要素が盛り込まれており、やはり西之園萌絵の名の由来はオタクやマニアにとって馴染みの“萌え”から来ているのかと思わず勘ぐってしまった。 もう少し云えば、本書の章題に注目したい。「土曜日はファンタジィ」、「日曜日はクレイジィ」、「月曜日はメランコリィ」とラノベ的な軽さを持っており、これもオタク要素を盛り立てている。本書の題名に隠されたもう1つの意味、「数奇にして模型」≒「好きにしてもOK」の如く、森氏は奔放に本書で遊んでいるようだ。 さて真相を読めば至極面倒な手続きを踏んだ事件だったと云える。 正直「夜はそんなに長いか?」と疑わずにいられない。この真相のバランスの悪さがカタルシスを感じさせないのが残念だ。 しかし本書では真相に至るまでの経緯も含めて色んなミステリのガジェットに満ち溢れているように思える。 例えば録画好きの大御坊の8ミリカメラの映像で第3の殺人事件、筒井紀世都の遺体が発見されるまでの彼のアトリエで起きたイベントの一部始終を振り返るところはジョン・ディクスン・カーの『緑のカプセルの謎』を髣髴させるし、犯人の動機である理想形の人物をシリコンで型取って等身大のフィギュアを造る件は島田荘司氏の『占星術殺人事件』のアゾートを想起させる。 さてシリーズ9作目になると固定メンバーの知られざる事実が小出しに明かされていく。犀川の友人喜多が鉄道マニアであったこともそうだが、特に今回は萌絵の同級生で同じ犀川研究室に所属する金子勇二が姉を萌絵の両親が遭った同じ旅客機事故で亡くしていることがちょっとしたサプライズだった。これが彼と萌絵との関係にどのように展開していくかは今の段階では解らない。 さらに初登場の萌絵の従兄、大御坊安朋もまた実にエキゾチックなキャラクターである。 妾の子という暗い生い立ちにありながら作家にして女装家でオネエ言葉を連発する、1998年と今から17年前の発表当時では実に濃くて生理的に受け付けない人物であっただろうが、オネエタレントが芸能界を闊歩する今では免疫が出来て寧ろ魅力的に映った。あと1作を残すのみとなったS&Mシリーズの終盤では登場するに遅すぎたと残念に思った。 本書はフィギュアにコスプレにとオタクたちの集いと云った趣のある内容、大御坊安朋のオネエキャラは刊行当時ではそれほどこれらの世界が認知されていなかったせいか、比較的その濃度は控えめだが、現在ではもはや珍しくもない題材なので、いささか早すぎたテーマだったのかもしれない。逆に昨年ドラマ化されたことはようやく時代が本書の内容に追いついたことということか。 またこのシリーズのもはや特徴となっているが、殺人を犯すことの動機の浅薄さ、不可解さは逆にネット社会で人とのコミュニケーションがリアルよりも電脳領域での比率がかなり高くなっている現在の方が実に解りやすくなっている。 そして9作目にして初めて犀川は犯人と対決する。犯人の毒牙に落ちようとする萌絵を救うため、身体を張って彼女を護り、怪我を負う。ドライでクールなミステリだったシリーズがホットでフィジカルな色を帯びて正直驚いた。 このようにシリーズの評価は私的には尻上がりに好ましくなってきているが、唯一変わらないのは西之園萌絵に対する嫌悪感である。本書でも彼女は我儘で傍若無人、傲岸不遜であった。萌絵と私には決して近づくことができない斥力が働いていると認識しよう。 いやはや身の回りにいなくてよかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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SF作家のプリーストが今回取り上げたテーマは第2次大戦時代を扱った改変歴史物語。J・L・ソウヤーと云う名の双子の奇妙な人生譚だ。
第2次大戦時の英国首相として有名なチャーチルの手記が言及する良心的兵役拒否者でありながら現役の英空軍爆撃機操縦士という相矛盾する価値観を内包するソウヤーと云う人物の正体は同じイニシャルを持つジャックとジョウゼフのJ・L・ソウヤーと云う全く同じイニシャルを持つ双子のそれぞれの来歴が混同されたことだったと判明する。 戦争の混乱期にありがちな間違いであるのだが、プリーストの語りならぬ騙りはそんな定型に陥らない。 まずJLとジョーという同じJ・L・ソウヤーという名前の双子が片や英国軍の軍人の道を、一方は兵役拒否者として赤十字で働く道を選んだそれぞれの人生が手記や記事の抜粋などの様々な形式で語られる。 メインとなるのが戦争ドキュメント作家スチュワート・グラットンが興味を示したチャーチル直属の副官となったほとんど無名のソウヤーなる人物で、それが読者の1人が自身のサイン会に持参した手記によってJ・L・ソウヤー大佐であることが高い確率で確認される。 しかしそこに書かれている内容と関係者の証言や手記とは異なる事実が判明してくる。 これらの記述は様々な人物による手記や著作、記事の抜粋によって構成されている。これが全て“信頼できる語り手”であるか否かは不明であり、それらによって物語が進んでいることに留意されたい。 従って前に書かれた内容が新たな事実によって否定され、物語のアイデンティティが揺らいでいく。 これは夢か現か妄想か?この足元が揺らぐ感覚はまさにプリースト作品ならではのものだ。 さて誰が嘘をつき、誰が真実を語っているのだろう? いやもはや事実の受け取り方はその者に与えられた情報や体験によって構成されるが故に、純然たる真実はあり得ないのか。 一見ストレートな物語と見せかけて読み返すと様々な語り―騙り?―が散りばめられていることに気付かされるという実に複雑な構成を持っていることに解ってくる。 とにかく読書中は付箋だらけになってしまった。しかしそれこそが本書を読み解くのに必要な作法であることは物語の最後に気付かされる。 上に書いたように2人のソウヤーの手記の内容は異なり、さらには挿入される様々な記事や手記においてもまた辻褄が合わないことが多々書かれているため、前に書かれた文章を行きつ戻りつしながら補完していくことが必要なのだ。 しかしそれがまた物語の、いや本書で語られる歴史の真実を揺るがせることになるのだから侮れない。全くプリーストは相変わらず一筋縄ではいかない作家だと思いを新たにした。 この複雑な物語を解き明かす一つの解釈として巻末の大森望氏の解説に書かれた緻密な説明は必読。ホント、この作品には解説本が必要だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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殺し屋ケラーシリーズ2冊目の本書は長編だが、構成は連作短編のように複数の殺しの依頼について語られる。
まずはケンタッキー州の街でごく普通の家庭を持つ男の暗殺だったが、そこでケラーは泊まったモーテルの部屋を替わった後、替わる前の部屋の宿泊客が何者かによって殺害される事件に遭遇する。 次は彼の地元ニューヨークでの依頼で画家の殺害を頼まれるが、ケラーは画家の作品に惚れこみ、また彼の身辺を洗っても恨みを買う節がないため、依頼人が画家が手を切りたがっていることを知って、画家自身を殺して作品の値を吊上げさせようと企む画廊だと悟り、逆にそちらを殺害する。 オハイオでの依頼はビーチで見つけたターゲットをそのまま溺死させ、日帰りで戻ってくる。 次のボストンの依頼では浮気相手と情事を愉しもうとするターゲットを相手の女性とも殺害し、その後、カフェで昼食を採っている最中にコートと傘を盗まれてしまう。ケチがついた形で気を悪くしながらもニューヨークに戻ったケラーは新聞でターゲットの死ともう1人のコソ泥の死の記事に遭遇する。その男こそケラーの着ていたコートと傘を盗んだ男だったと確信する。 つまりこれら一連のケラーの仕事がケラーを狙う男がいることを裏付ける要素を含んでいるという構成になっているのだ。 そしてケラーとドットは一連の仕事の裏側に潜むある企みについて議論を巡らし、ある結論に達する。それは商売敵である殺し屋を殺して廻っている殺し屋殺しがいるのではないかという可能性だ。つまりライヴァルを消すことで自分の依頼を増やそうとしているのではないか、と。 そしてその謎の殺し屋はロジャーという男であることまで突き止める。 しかし物語が面白いのはここからだ。 その後もケラーはシカゴ、ニューメキシコ州のアルバカーキ、オレンジ郡、セントルイスと依頼を受けては行くのだが、実に奇妙な顛末を迎える。 前半はケラーを狙う殺し屋の話が1つの軸として盛り込まれていながらも、謎の殺し屋の正体がロジャーだと判明した後はまたもや連作短編のような構成に戻る。 そしてそこで語られるサイドストーリーの面白い事。 特にケラーが陪審員に選ばれて裁判に参加するエピソードは屈指の面白さを誇る。 警官が盗品のビデオデッキを買ったが、それは確信的な行為だったのかと警官の有罪か無罪かを巡る裁判では次から次へ事件の関係者が現れ、実に複雑な様相を成し、当然のことながらケラーを含む陪審員の議論は右往左往する。 正直読んでいて何が何だか分からなくなるのだが、この訳の分からなさと色んな人種の混ざった陪審員の面々が織りなすドタバタディベート劇が実に面白い。まさに“裁判は踊る”とも云わんばかりだ。 この殺し屋を主人公としながら物語の雰囲気は飄々としており殺伐したものがない。そして殺し屋が主人公であれば当然付き纏う銃器や武器の詳しい説明なども一切ない。 リアリティと云う面では全くそれが欠落していると思われるが、よくよく考えると今の殺し屋とは実は我々の生活に巧みに溶け込んで銃火器などを派手にぶっ放すことはないのではないだろうか? つまりこれほど静かに殺しが成されること自体が実はリアリティがあるのかもしれない。 そう考えるとやはり最も特異なのはケラーが依頼される殺しの理由が不明なことだ。 ケラーのターゲットの中には殺される理由が解らない善人が少なからずいる。しかし依頼はあり、それは遂行される。確かに来るべき大きな裁判を控えた重要な証人と云う、まさに狙われるべき理由があるもいるが、実業家や単なるサラリーマンもいる。いや後者が大半だ。そしてそれはいわゆる市井の人間でも殺しのターゲットになることを示している。 ウィットとユーモアに物語を包みながらも、その裏側にあるのはどんな理由であれ、人を殺したいと思っている現代人の荒廃した心であることに気付くべきだろう。 まさにローレンス・ブロックにしか書けない作品。 それが故に最後のロジャーとの決着のつけ方が意外性に凝ったがために爽快感にかけることになったのは残念である。やはり殺し屋物は純粋にアクション物を期待してしまうのか。 私がケラー物のテイストに馴染むのにはまだ時間が足りなかったようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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後期になってS&Mシリーズは典型的な密室殺人から離れたかと思ったが、今回は密室物としてはど真ん中の“嵐の山荘”物だ。
台風の接近で電話線が切れ、道路は倒木で寸断されて警察が介入できないという実にベタな設定。 そんなシチュエーションで孤立するのは偶々殺人の起きた他人の別荘に居合わせた西之園嬢。彼女は自身を別荘に誘った40代独身男性の笹木を助手に事件解決に奔走する。事件の渦中には犀川はおらず、彼は事件の後で萌絵によってそこに連れて行かれる道中での登場となる。 隣り合った娯楽室と映写室が共に鍵の掛かった状態で閉ざされており、中にあったのは別荘を訪れていた姉妹それぞれの遺体で、両方とも自殺に見せかけて絞殺されていた。 そんな二重密室の謎に対して語り手の笹木が西之園嬢の助手になり、はたまた推理の相手となって推理問答を繰り広げながら物語は続く。 しかし本書ではこの2人のみが推理を開陳するわけではなく、別荘に滞在している面々がそれぞれの推理を披露する。 本書で作者が試みたのは“嵐の山荘物”だけでなく、『毒入りチョコレート事件』さながらの推理合戦でもあるのだ。 絶対だと思われていた状況が、登場人物たちしか知らない事が明らかになることで新たな方向から光が当てられ、新たな仮説が生まれては、実証し、可否が明らかになってまた消去される。そんな試行錯誤が繰り返される。 しかし毎度思うのだが、隣り合う二室で起きた姉妹の密室での死というたった一つの謎解きに500ページ超の分量は果たして必要だったのかと云う事だ。 実際私はなかなか事件解決に至らず、登場人物たちが堂々巡りをしているようで実に冗漫な印象を受けた。特に語り手の笹木氏はこの事件で初めて会った西之園嬢に一目惚れしてしまい、彼女に対する思いが延々と語られたり、また彼女へのモーションを掛けたりと、恋の駆け引きも物語に加えられている。 最後に至って本書の核は奇妙な密室殺人ではなく、実はこの笹木氏と西之園嬢2人の物語であることが明かされる。 まず密室殺人の真相だが、実は大したことはない。 謎としては小さいながらも非常に捻くれた内容だが、その真相は目を開かせるほどの衝撃はない。 しかし本書はシリーズ読者ならば確実に目が開かされる、もう1つのサプライズが待ち受けている。 しかしこのサプライズについては途中で気が付いてしまった。 個人的には傑作になり損ねた佳作という評価になってしまう。 それはやはり本書に仕掛けられた大きなトリックに比して、物語の中心となっていた密室殺人の真相が実に凡庸だからだ。 左脳系ミステリの書き手である森氏が放った右脳系ミステリという意味で本書はS&Mシリーズで異彩を放つ存在となるのだろう。 シリーズナンバーワンと評する人々がいるのもあながち間違いではない作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1967年に書かれたこのノンフィクションが2015年になって新装版となって再刊された。
マイケル・バー=ゾウハーによるノンフィクションと云えば2002年に『ミュンヘン』、2012年に『モサド・ファイル』を著し、一貫してユダヤ人に纏わる話を書いているが、本書はそれらの原型とも云えるユダヤ人の血塗られた復讐の物語だ。 本書は3部構成になっており、第1部では個人と有志によって設立された組織によるナチス残党狩りを断片的に語る。 第2部では狩られる側、即ちナチス残党の逃亡劇を子細に語る。 第3部はナチス戦犯のさらに組織だった追跡の模様が語られている。 第二次大戦にヒトラーと云う1人の男の狂気から始まった世界的なユダヤ人大虐殺は本書によれば最終的に570万人以上もの犠牲者を生み出した。 しかし第二次大戦ナチスによって大虐殺と迫害の日々を強いられたユダヤ人は、黙って虐待に耐える民族ではなかった。彼らはその借りを返しに、屈辱を晴らすためにナチスの残党狩りを世界規模で始めたのだった。 日本人ならば第二次大戦でアメリカに原爆まで落とされ、国家を揺るがされる大打撃を受けながらも、かつての敵に復讐しようとはせず、寧ろ国の復興に精を出し、驚異的な高度経済成長によって奇跡的とも云える復興を成し得たが、ユダヤ人やムスリムは過去の遺恨をそのままにはせず、「目には目を、歯には歯を」の精神で執拗な仕返しを行うのだ。 それによって最終的に報復に成功したナチス残党の数は1000~2000人に上った。しかしそれは上に書いたユダヤ人犠牲者の数とは全く収支が合わない。やられたらやり返すの精神であるユダヤ人にしては実に少ない数だ。 しかしそれこそユダヤ人社会が文化的になった証拠だと作者は述べる。そしてこれらの復讐を少なくしたのはイスラエル建国があったからだと作者は指摘する。イスラエル建国が苦難と苦闘の産物であることは同じ作者の『モサド・ファイル』やフランク・シェッツィングの『緊急速報』で語られた通りだ。この障害の多さこそがユダヤ人に復讐に没頭する機会を奪ったと作者は見ている。 しかしこの建国もまた周辺諸国との戦いの日々であったことを知る今では単にターゲットがナチスから周辺のアラブ諸国になったに過ぎないと思うのは私だけだろうか。 そしてこれら俎上に挙げられた復讐譚が果たして是なのかと云えば甚だ疑問だ。それは正義や道徳心から起こる疑問ではない。それぞれの国に様々な民族がおり、彼ら彼女らのDNAに刻まれた価値観は一民族である日本人の尺度で測るのは寧ろおこがましいと云えるだろう。 私が疑問に思うのは上に書いたように過去に生きるのではなく、未来に目を向け、民族の復興と更なる繁栄を目指すべきではなかったかということだ。 暴力が生むのは暴力しかなく、復讐もまた然りである。そんな人的資源の消耗戦としか思えない復讐の螺旋に固執することでこの民族の復興はかなり遅れたのではないかと思えてならない。 前にも書いたがユダヤ人は優れた民族である。映画人や富豪にその名を連ねるユダヤ人も数多い。そんな彼らは血を血で洗う復讐に淫しただろうか? それは否だろう。彼らは独自の才能と才覚と人の数倍の努力で名を成すまでになったのだ。そしてスティーヴン・スピルバーグが『シンドラーのリスト』、『ミュンヘン』を創ったように、彼らは建設的な方向で復讐を行ったのだ。血を血で以て制裁を下すことをせずに世界の共感を得る方法を獲る方が嫌悪感を抱かず、考えさせられ、議論が生まれ、非常に建設的だ。 本書は世界で隠密裏に起きた暗殺の歴史を綴ったものであるが、大規模に行われたテロの歴史でもある。つまりこれはテロ側から自分たちの行為の正当性を語ったドキュメンタリーでもあるのだ。 ここに書かれているユダヤ人達へのナチスの陰惨な迫害は筆舌に尽くしがたい物があるのは認めよう。アドルフ・アイヒマン、ヨーゼフ・メンゲレらが行った想像を絶する、もはや悪魔の所業としか思えない数々の残虐行為は自分の家族が同じような方法で殺されたならば、私も一生拭いきれない恨みを抱く事だろう。 それでも私は上に書いたように納得できない。いわれのない大量虐殺を強いられた民族の復讐心は解るが、「やられたらやり返す」では蛮族たちの理論であり、近代国家のやるべき方法ではないからだ。 本書では彼ら復讐者が単なる虐殺者に堕せず、それぞれの正義と教義に従って行動したと繰り返し述べられている。 あるジャーナリストはナチスの残虐行為に無関心な諸国への抗議で義憤に駆られて国際連盟の会議場で自殺する。 復讐者たちは押しなべて歴史的な使命を託されたと信じ、自らを民族の代表者だとして、義務を果たしただけだと思っている。 また著者は復讐者全員が正義を愛する高潔であり、彼らの行動は知性、モラル両面におい潔癖であったかを証明していると礼賛している。 総じて述べられているのはこれら一連の復讐が決して私怨ではなく、ユダヤ民族の総意として成されていると正当化していることだ。 しかし虐殺に対して虐殺を行うことに何ら変わりはない。先にも述べられていたが、ユダヤ人犠牲者の数と狩られたナチス残党の数は収支は合ってはいないが、それでも1000人単位で行われた虐殺はもはやテロに過ぎない。 毒入りのパンを仕込んで3万6千人ものSSを殺害する計画を立てるが、あえなく失敗したというエピソードがあるが、私はそれこそが彼らにもたらした神の恩恵であり配剤だと考える。彼らが相手同様の大量虐殺を行うことはどんな理由があれ、彼らと同じ畜生道まで身を落としてしまうことになるからだ。 民族としての高潔さを尊ぶならば本能の赴くままに殺戮を行ってはいけない。大義名分のない殺戮こそはナチスの蛮行となんら変わらないからだ。 最強のスパイ組織モサドを創ったユダヤ人の執念深さを思い知らされると同時にもはや殺戮の無間地獄に陥ったことに気付いてほしいと願わざるを得ない。 一方のナチス残党側では世界の覇者から一転戦争犯罪者に堕した彼らの逃亡譚が詳細に綴られる。 よくもまあこれだけ彼らの足取りを細かく辿れたものだと感心したが、それ以上に第二次大戦以後、世界の敵とみなされたように思っていたナチスのシンパが世界にいたことにも驚いた。 特に南米諸国のナチスへの傾倒ぶりは並々ならぬものがあり、ナチスは戦争終結前にすでに組織立った逃亡支援団体を作り、協力体制を整えていたことはまさに驚愕に値する。 “水門(シュロイゼ)”と“蜘蛛(シュピンネ)”という二大団体によるデンマークに抜ける北方ルートやスイス、スペイン、果ては南米のアルゼンチンに抜ける南方ルートと緻密に構成された世界各国に散らばったナチのシンパたちによる支援団体によって構成されていた。さらに驚いたのはそれら支援団体の中にはフランシスコ会やイエズス会ら宗教団体にヴァチカンの大司教もまたそれらに加担していたという事実だ。当時のナチスの勢力の大きさが思い知らされる事実である。 そして南米のみならずアラブ諸国にも歓迎されていたことにも驚いた。アラブ諸国はユダヤ人を憎んでおり、彼らを徹底的に殺戮したナチスに共感していたのだ。 しかしイスラエル建国によって生み出されたユダヤ人とムスリムの軋轢の歴史を考えれば当然かもしれない。ナチスの人非人的行為よりもユダヤ人に対する憎しみや嫌悪感の方が深かったというのは何とも言葉に言い表せない。 そしてそれら巧妙に仕組まれた逃亡計画を解き明かすユダヤ人の執念も凄まじい。彼らナチス残党は国を変え、身分と名前を変え、各地の生活に溶け込み、元SSの将校や軍人や刑務所の所長だった人物が工場従事者になったり、農夫になったり、全く異なる生活基盤を築いている。 さらには散々ユダヤ人を殺害していながら医師となって開業しては、評判を得たり、最たるものではなんと自らをユダヤ人と名乗ってイスラエルに暮らす者もいる。 これほどまでに複雑化した逃亡劇はアメリカの証人保護プラグラムも真っ青の内容だが、それでも全世界に情報網を持つユダヤ人は何年、何十年もかけて宿敵を、怨敵を探し求め、探し当てるのだ。 小説の題材で隣の老人が実はナチスの残党だったという設定はよくあるが、確かにこの事実1つ1つを読むと、それが単なるフィクションではなく、あり得る設定として感じられるようになった。それほどこのナチスの逃亡劇は凄い。 なぜこのような人間が人間を家畜のように捕らえ、大量に屠殺するような行為が生まれるのか? なぜヨーゼフ・メンゲレはユダヤ人の母親から赤ん坊を奪ってそのまま燃えさかる炎に入れたり、若い女性たちの血を抜き取ってふらふらになって抵抗できなくなってから焼却炉に投げ込んだり、強酸をかけて苦しみながら死ぬところを“嘲笑って”見ることが出来るのか? それは彼らがユダヤ人を同じ人間だと思っていなかったからだろう。彼らはそのように教育されてきたからこそ、ユダヤ人たちを動物と同じように見れたのだ。 小さい頃から選民思想という歪んだ教育が成されてきたからこそ、道徳心が失われていたのだ。従ってナチス党員でもない看護婦や医師たちが知的障害者たちを安楽死させることを何の疑問も持たずに行ってきたこともまた歪んだ教育の産物なのだ。 今韓国や中国で反日感情を植え付ける教育が学校でなされており、今の若者に日本に対する抵抗心を持たせているが、これもドイツ人がユダヤ人に抱いた思想に重なる物を感じ、戦慄を覚えざるを得ない。 ドイツ人がユダヤ人を虐殺し、戦争終結後、今度はユダヤ人がドイツ人を追って暗殺する。そして今度はアジアでも同じことが起きようとするのかもしれない。残念ながらマイケル・バー=ゾウハーが本書を綴った60年代から世界は何も進歩していない。 |
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東野圭吾公式ガイドブックによれば、本書のテーマは“才能って何だろう?”とのこと。
よく才能があると云われるが、それこそ曖昧な物ではないだろうか、そして後世に残る記録を残し、また世界的に活躍したスポーツ選手の二世が必ずしも大成するとは限らない。 そんな疑問に対して東野圭吾氏は実に面白い設定を本書で設定する。それはかつてオリンピックのスキー選手であった父親の娘がその二世としてめきめきと頭角を現しているが、実は血の繋がりの無い親子だったという物。 一方で遺伝子のパターンを研究する機関からその才能の片鱗を見出された一介の高校生がやったこともないスキーのクロスカントリー競技の選手として訓練を受ける。いやいやながらやりつつもその根拠が正しいことを証明するかのように日進月歩の勢いで記録を更新していく。 私がこの高校生の件を読んで想起したのはサッカーの日本代表選手長友佑都氏だ。 彼の無尽蔵と云えるスタミナはかつて両親の祖父がそれぞれ競輪選手、ラガーマンだったことから、持久力に関して良質な遺伝子を受け継いでいるのではないかと云われている。 この高校生鳥越伸吾は長友にクロスカントリーをさせればこうなるのではないかと私に思わせた。 しかし東野圭吾氏はよくもまあ謎を幾層も重ね合せた話を描くものだと読みながら感心した。 育児ノイローゼで妻を亡くし、男手ひとつで育て上げ、一流のスキーヤーへとなろうとしている娘が実は他人の子だった。 そして妻の遺品の中には娘の生まれた年に起こった新生児誘拐事件。 その記事に書かれていた名前の人物が自分を訪ねてきて、血判を渡され、DNA鑑定をすると果たして娘と一致した。 しかしその血判はその男の妻のものではない。 さらに娘に対して出された脅迫状はその男の手になるもので、さらに当人は娘が乗るはずだったバスに乗って、何者かによって仕掛けられたブレーキへの細工で事故に遭い、意識不明の状態になっている。 さらに妻の過去を調べるうちに、明らかに娘の容姿とそっくりの女性が見つかり、それが妻の友人だったことが判明するが、その女性は娘の生まれた年に赤ん坊の遺体と共に焼死体となって発見される。 なぜ真の父親と思われる人物の奥さんは娘に似ても似つかないのか? なぜ父親と思われる人物は実の娘と思われるスキーヤーに脅迫状を送ったのか? なぜその人物は自ら乗るバスに事故に遭う細工を施したのか? 娘の真の母親と思われる女性と発見された赤ん坊とは一体誰なのか? 単に赤ん坊を盗みだし、その罪の呵責に耐えかねて自殺したと思われた妻に纏わる事件は調べれば調べるほど謎が積み重なっていく。まさに謎のミルフィーユ状態だ。 しかしそれら全ての謎が明かされると、単純に見えた物語の構図を複雑にするためにかなり無理があったと感じてしまった。 新生児の誘拐事件から始まった事件は単なる子供のすり替えの話だけでは済まない複雑な構図が隠れていることに気付かされる。 しかし上にも書いたように逆にこれが作られた事件としか思えず、しかも全てが十分解決されたか判断すらできないのだ。 プロットを捻りすぎてしまったが故に本書のような単なる応えあわせになってしまった。まあこんなミステリもたまにはいいか。 さて今回のテーマ“才能”について再び考えてみよう。 先にも述べたように才能は親がスポーツ選手や有能な科学者など、ある能力に秀でた者ならばその遺伝子を引き継ぐだろうが、それによって親のように大成するかどうかはまた別の話だ。 自らの才能に胡坐をかいて努力を怠る者は親が成したような偉業は達成できないし、逆にそれが足枷になって自身の人生に臨むと望まざるとに関わらず、常に付きまとう疎ましい幻影となってしまう。 しかし才能に甘んじず、切磋琢磨し、偉大なる親を超えようと努力する者にとっては才能とは天から与えられたギフトである。 実際に世界陸上で華々しいデビューを飾ったサニブラウンは本書でも挙げられているスポーツの優性遺伝子である黒人のそれを受け継ぎ、日本人離れした記録や成績を次々と打ち立てている。 つまりその才能を活かすも殺すも本人の努力次第なのだ。 人が羨ましがるような才能が逆に苦痛の種となり、本当の夢を諦めざるを得なくなるのは本末転倒だ。しかし才能を見出した側にとっては他者にはない特殊な能力を使用し、伸ばそうとしないことは宝の持ち腐れであり、なんとも勿体ない話だ。 私に彼鳥越伸吾と同じ才能があった場合、私は云われるままに代表選手として日々練習に励むだろうか? 果たしてそれは解らない。鳥越伸吾の選択した道は彼の人生だからこその決断だ。 そこに本書の題名の答えがある。カッコウの卵は即ち持ち主自身の持ち物なのだ。それをいかに孵化させ、育てるかはまた当人次第なのだ。 1人の子を持つ親としてこのことは肝に銘じておかねばならない感がである。才能は親から受け継いだだろうが、それを使うか使わないかは本人の意思次第だ。 しかし親はその才能に気付かせる努力をしなければならない。それが親だからだ。 しかし逆に大人になって思うのは今の私は私の中にある才能を十分活かした職に就いているのだろうか? 私にはどんな才能があり、どんな分野で今よりも活躍できたのだろうか? そんなことを知る術があればいいのにと本書を読んで強く思った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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映画化もされた東野圭吾氏の近未来警察小説とでも云おうか、国民のDNA情報から犯人を割り出すDNAプロファイリングの罠にはまった技術者の物語だ。
幼き頃のある悲劇的な経験から人をデータとしてしか捉えられなくなった主人公神楽龍平は自ら構築したDNA捜査システムで自身を犯人と指摘され、逃亡者となる。 彼の同行者となるのがスズランなる謎めいた少女。彼は二重人格者である神楽のもう1つの人格リュウが現れた時に姿を現し、彼の絵のモデルとなっていた少女だが、彼女は神楽がリュウである彼を愛し、一緒になりたいと願う。しかしその存在は神出鬼没で読者は彼女が実在するのか幻想の賜物なのか、判断がつかないまま物語を読み進めることになる。 本書で取り上げられているDNA捜査システムとは端的に云えば日本国民全てのDNA情報をデータとして取り込むことで犯罪者を特定するシステムだ。それは現場に残された容疑者の遺留物からDNA情報を採取し、進呈的特徴や癖、習慣などを割り出すのみならず、容疑者に近い親族の情報を割り出して人物を特定し、さらにその情報を基に容疑者の顔を画像として作成するほど高度なシステムだ。 但し膨大なDNA情報から容疑者を絞り込むには途轍もなく高速化された演算能力を持つコンピューターが必要である。本書ではサヴァン症候群患者である蓼科早樹という天才的数学者によって開発された画期的なプログラムでそれを可能としたのだ。 このDNA捜査システムを読んで想起したのは住基ネットである。これは単に住所、氏名、年齢といった本人を取り巻く外的情報でしかないが、これもまた警察と政府によって仕組まれた国民管理構想の一端のように思えてならない。従ってもしDNA情報まで保存・管理・検索できるスーパーコンピューターが開発されれば本書のような捜査システムが構築されるのは時間の問題なのかもしれない。 情報を操る者は情報に操られるというのが高度情報化社会での皮肉な現象だが、今回の主人公神楽もまた高度なDNA情報を利用したファイリングシステムを構築していながら、自分自身が容疑者として検出される実に皮肉な運命が待ち受けていた。 かつて高名な陶芸家だった父親が、陶芸ロボットによる贋作が出回った時代に、自らの作品には機械などが再現できない創作者の思いや魂が込められていると断言しながらも、贋作であることを見破れずに自ら命を絶ったことで父もまたデータの1つに過ぎず、つまりデータは間違えない、そしてデータ化されるDNA、遺伝子は嘘つかないと絶対視してきた男がそのデータによって裏切られ、窮地に陥る。 エンタテインメントの手法としては古くからハリウッド映画でも題材にされてきたテーマだろう。しかしこれを絵空事と思っていいものだろうか? 上に書いたように、既に我々の情報は公共機関によって管理されている。それが機械のミスで、いや故意に人為的に操作されて自分がある日突然犯罪者に仕立て上げられる可能性もあるのだ。このデータは嘘をつかない、機械はミスをしないと信じる盲信性こそが現代社会に生きる我々の最大の敵ではないだろうか。 題名となっているプラチナデータは物語終盤になって登場する。 完璧な正義など存在はせず、大なり小なりの悪が存在しながら社会は機能している。 東野氏は自身の公式ガイドブックの諸作の自己解説でところどころで上のようなことを述べている。従って東野作品は個人の力ではどうしようもないことに対して非常に自覚的である。 それが故に彼の作品は勧善懲悪的に悪が必ず罰せられる結末を迎える作品は少なく、どこか割り切れなさと現実の厳しさというほろ苦さを読後に残す。 果たしてこれは来るべき未来に対する東野氏からの警鐘なのだろうか。裁かれるべき者が、巨悪がさらに大手を振って世間に幅を利かせる世の中になっていく。 ここで書かれた未来はなんとも暗鬱だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今なお続く殺し屋ケラーシリーズ。本書はそのシリーズ最初の作品であり、短編集である。
まず最初の「名前はソルジャー」は『夜明けの光の中で』にも所収されており、既読なのでここでは感想を割愛するが、この作品は一度目よりも二度目の方がケラーがどうして仕事、つまり殺しを実行する気になったかが如実に解るような気がする。 「ケラー、馬に乗る」では飛行機を乗り継いでワイオミング州のマーティンゲイルへ赴く。 小さな町でケラーが出くわす奇妙な人間関係が本作では面白い。殺し屋のターゲットが浮気相手の女性の父親であり、さらに彼女は亭主を殺したがっている。そしてその亭主にも当然浮気相手がいてそちらを愛しており、結婚したがっている。 この物語に確かな答は出てこない。あるのは結果だけだ。そして些末なことに囚われないのがケラーという男なのだ。 続く「ケラーの治療法」ではケラーは精神科医のカウンセリングを受けている。 ケラーが精神科医とカウンセリングを続けるうちに読者は徐々にケラーがどういう男なのかを知ることになる。彼の本名がジョン・ポール・ケラーであること、1作目でも語られた子供のころに飼っていた犬ソルジャーの話に父親の話と、彼の生い立ちや素性を知るだけでも貴重な一編と云えよう。 そしてこのどこへ向かうのか解らない物語は急転直下を遂げる。何とも云えない読後感を残す作品だ。 そしてその犬ネルソンがケラーに思わぬ効果をもたらすことを知らされるのが次の「犬の散歩と鉢植えの世話、引き受けます」だ。 ケラーの短編は時系列に並べられており、その前の短編で書かれた内容がその後の短編にも関係してくるのだが、本書ではそれが顕著に表れている。 そのアンドリアとの関係に一つの答えが出るのが続く「ケラーのカルマ」だ。 とてもヒットマンが主人公の物語とは思えないほど、人間味が溢れている。 「ケラー、光り輝く鎧を着る」と一風変わった題名の本作では依頼斡旋人のドットがホワイト・プレーンズのオフィスを飛び出し、ケラーを訪ねてくる。 しかしそれよりもケラーの依頼人であるホワイト・プレーンズの男が前作から調子を悪くしているのが気になる。こういう短編同士を貫く軸があるから次が楽しみになるのがこの殺し屋ケラーの醍醐味と云えよう。 「ケラーの選択」は実に面白いシチュエーションだ。 恐らく殺し屋稼業をテーマにした作品ではありえない間抜けな内容だ。これもケラーシリーズだからこその面白さと云えよう。 そして本作ではそれまでの展開から極端に変化が訪れる。それはまた後で述べることにしよう。 そして「ケラーの責任」ではそれまでの殺し屋物には似つかわしいほどほのぼのとしたムードから一転してケラーの苦悩と殺し屋としてのプライドが描かれる。 人を殺す生業の男があろうことか、昔取った杵柄で人命救助してしまう。それが基でケラーはターゲットである名士ギャリティに気に入れられ、さらにケラー自身も彼の事を気に入ってしまう。この殺し屋のジレンマを抱えたこの物語は意外な展開を見せる。 こんな男らしい物語を読まされると実に堪らない。 「ケラーの最後の逃げ場」ではケラーは突然愛国心に目覚める。 殺し屋ケラーも詐欺に掛かるのだということを教えられた。しかしこれはケラーをはめたバスコウムを褒めるべきか。 聡い読者ならすぐにケラーに依頼するバスコウムの胡散臭さが解るところが寧ろ本作の面白さではないだろうか? そしてこの短編集の最後を飾るのは「ケラーの引退」だ。 ケラーの引退で幕を閉じると思われたこの短編集。新たなシリーズの幕明けを告げ、本は閉じられる。 しかし切手収集が趣味な殺し屋とは、ブロックは何ともおかしな趣味をケラーに与えたものだ。 古くは不眠のスパイ、エヴァン・タナー、そして無免許探偵マット・スカダーに泥棒探偵バーニイ・ローデンバーに短編集のみ登場する悪徳弁護士エイレングラフとブロックのシリーズキャラクターは実に個性的なのだが、そこにまた新たなメンバーが加わった。 それは殺し屋ケラー。 黒い表紙に都会の片隅を想起させる湿った路地の写真と銃痕で穴の開いた窓の意匠に「殺し屋」の文字。装丁から想起されるのは非情で孤独な男の世界なのだが、しかしこの殺し屋に纏わる話は実に奇妙なのだ。どのシリーズにもないどこか不条理感を伴っている。 しかしそれもシリーズを読み進めるうちに読者にケラーの素性が解ってくるに至り、何を考えているのか解らなかったこの男が実に人間臭い人物になってくるのだ。 これが殺し屋の物語かと見紛うほど、ほんわかする内容だ。 つまり読み進むうちにケラーの変化を同時に読者は感じるようになり、次の展開が非常に気になる作りになっている。 しかしそんな読者、いや私の期待を次の「ケラーの選択」で見事に裏切る。 これはシリーズの広がりを期待しただけに非常に残念なシチュエーションなのだが、実はこの作品から物語のトーンが変わり、実に読み応えが増している。 この後に続く「ケラーの責任」はMWA賞受賞作に相応しい傑作だ。本作のケラーは実に深みがあり、孤高の殺し屋としての流儀を重んじる人物になっている。 彼は思いまどいながら殺すのを躊躇うターゲットに対して責任を果たすことこそが餞になると決意するのだ。この心理こそが殺し屋の殺し屋たる仁義とも云えよう。個人的ベストに迷わず挙げよう。 そしてケラーが見事に詐欺に引っ掛かってしまう「ケラーの最後の逃げ場」を経て「ケラーの引退」で一旦幕を閉じる。 しかし殺し屋を主人公にしながらこのヴァラエティーの豊かさはどうしたものだろう。まさにブロックはアイデアの宝庫であり、ノンシリーズのみならず連作短編でさえもその瑞々しさは損なわれることがないことを証明した。 男臭さの宿る装丁で手に取ることを敢えて躊躇っているならばそれは実に勿体ない話だ。この物語世界の豊かさは寧ろ男性よりも女性に手に取ってほしい色合いを持っている。 ケラーの、どことなく思弁性を感じさせる彼独特の人生哲学と、仕事斡旋人のドットとの掛け合いの妙を存分に堪能してほしい。殺しを扱いながらこんなにも明るい物語に出遭えるのだから。 この二律背反を見事に調和させたブロックの職人芸、ぜひとも堪能していただきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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