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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数699件
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ハリウッドアクション大作『ランボー』の原作である。
同映画が公開されたのがまだ小学生だった頃。当時ワクワクしながら観たのを覚えている。とにかくアクションがすごいというだけで観たため、詳細なストーリーや設定は頭に入っていなかった気がする。 さてその原作がマレルの手によるものだというのは知っていた。発表されたのは映画より10年も前の1972年。なんと私の生まれた年である。 映画化から37年経って読んだ原作。なんだか感慨深いものがある。 一読して驚いたのはランボーの敵役の警察署長ティーズルがいわゆる田舎町を牛耳る悪徳署長などではないことだ。 ランボーを町から追い出そうとしたのも身元不明で怪しい身なりの人物が町をうろつくことで住民が不安を覚え、治安が乱れるのを防ぐためだし、またランボーを追うことになったのも彼が目の前で自分の部下を殺したからだ。また彼は朝鮮戦争を経験した後に警察署長としてマディソンに戻ってき、警察機構として機能していなかった署の改善に尽力してきた人物でもある。 つまり至極まっとうな人物なのだ。 片やランボーはヴェトナム戦争で捕虜になり、そこから生還した元グリーンベレー。名誉勲章も得たが捕虜になった時の経験で心が壊れた状態になっている。 従って署に運ばれた時に髪を切り、ひげを剃られる時に捕虜で受けた拷問を思い出し、とうとう耐え切れなくなり警官から剃刀を奪って殺害し、逃亡してしまうのだ。 そこからはグリーンベレー時代のことを思い出し、人を殺すことへの罪悪感も薄らぎ、逆に追ってくるティーズルら一味を皆殺しにすることを決意する。 そう、通常の物語構造から云えばランボーは元グリーンベレーでヴェトナム戦争の時に抱えたトラウマでおかしくなった殺戮マシーンであり、それを追い出そうとする警察署長ティーズルらは彼のターゲットとなり、善と悪で云えばティーズルが善、ランボーが悪なのだ。 これは映画の構造と全く逆で驚いた。まさに価値観の転換である。 そして単なる一人対多勢の戦闘小説に終始しない。ランボーが生き抜くためのサヴァイバル小説でもあり、はたまた冒険小説の要素も兼ね備えた内容になっている。 そして読中、しきりに頭を過ったのはレンデルの『ロウフィールド家の惨劇』だ。この全く色合いの違う作品だが、物事の発端は全く以て同じだ。 先にも書いたが、ティーズルは不審者である男を尋問し、町から出るよう警告したのだが、相手が何者であるかを知らなかった。というよりも理解しようとしなかった。 だから彼は通常犯罪者に行うように裸にして、洗浄したり、個室に入れて取り調べをしようとした。しかしランボーはヴェトナム戦争で捕虜としてひどい扱いを受け、閉所に対して深いトラウマを持っていたため、それが彼の生存本能を引き起こしてしまった。 片やランボーは署長の警告を無視した。彼はそれまで何度も行く先々で同じような仕打ちを受けており、うんざりしていた。彼は戦争の英雄であり、ティーズルのような小物に指図されるような男ではないと思っていた。そして彼は逃げ出した時に元来持っていた闘争本能が目覚め、自分がどれほど強い男なのかを知らしめようと思ってしまったのだ。 お互いがそれぞれの思惑を通そうとしたが故のボタンの掛け違え。それが大量殺戮を生み、1つの町を殲滅する寸前の大事にまで発展してしまうのだ。 最終的にこの小説はあらぬ疑いを受け、いわれのない虐待を受けた戦争帰りの男の復讐譚ではなく、町の治安を守るために不安要素を排除しようとした町の署長が一人の男によってそれまで築き上げてきた地位や安定、全てを失う物語であり、ヴェトナム戦争で捕虜となって奇跡的に生還した男が再び闘争心を甦らせ、無敵の戦士になる物語であるのだ。 そう、これはランボーとティーズル2人の物語なのだ。あまりにも有名になってしまった映画のためにこの作品の本質は多くの人間が誤解を招いてしまっているように感じる。斯くいう私もまたその一人なのだ。 しかし映画と小説は別物だという主張もある。ハリウッドはこの作品の設定を借りて映画史に残るアクションムーヴィーを作り、成功した。 作者の意図や希望がそれに合致したかどうかは寡聞にして知らないが、それもまた良作故の功罪か。 『ジュラシック・パーク』がクライトンの作品から一人歩きをしたように、この作品にもまたそのような道を辿ったのかもしれない。 とはいえ、続くシリーズ2作、3作もマレルによって書かれているのだから上のような判断は早計というようなもの。果たしてマレルの真意はどこにあったのか。 これについてはそれらも読んで判断していこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ガリレオこと帝都大学理工学部物理学科第十三研究室助教授湯川学が活躍する探偵ガリレオシリーズ。
福山雅治が主役でドラマを演じ、一世を風靡し、その後現在に至るまでの東野ブームを作った『容疑者Xの献身』へと続く加賀恭一郎と並ぶ東野圭吾のシリーズキャラクターだ。これはその湯川の初登場作となった短編集。 まず冒頭の「燃える」はいきなり発火して焼死した男の謎を湯川学が解き明かす。 トリックは比較的単純でミステリを読み慣れた者ならばすぐに解るに違いない。しかし犯人については非常に上手いミスディレクションがなされている。冒頭と途中に挟まれるエピソードが叙述トリックになっているのが憎い。 また町工場に置かれた製作機械について湯川が色々と会話するシーンは久しぶりに元エンジニア東野氏の面目躍如といったところか。 次の事件「転写(うつ)る」ではリアルなデスマスクが中学の文化祭で発見され、それが失踪した歯科医の物だと判明する。 これは半分当たり、半分外れたといったところか。 結末はオカルトチックにまとめられていてなかなか面白い。 続く「壊死(くさ)る」では風呂場で怪死した事件を扱っている。 物語は倒叙物として描かれる。同居を迫るスーパーの社長を嫌悪するホステスが自分に惚れる男の話に乗って殺人を犯す。しかしその犯行方法が解らないのが通常の倒叙物とは違っている。 さて次の「爆ぜる」はいきなり海水浴場の沖合でビーチマットに乗った女性が爆死するという衝撃的なエピソードから始まる。 この事件の構造は複雑。まず最初の犠牲者は湘南海岸の沖合で爆死する。次に一人暮らしの男性の変死体がアパートで見つかる。第2の被害者は帝都大学のOBで就職していた会社を辞め、斡旋した教授や大学に只ならぬ感情を抱いていた。 この2つの事件が意外な糸で結びつくのだが、これは最初の被害者の女性が帝都大学で事務をしていたことが終盤になって解るのはアンフェアだろう。 最後のエピソードは「離脱(ぬけ)る」。幽体離脱した少年がたまたま殺人事件の被疑者になった男が停めていた車を見たという不思議な現象を扱っている。 これも科学の実験で証明される。正直この作品が一番どうやって解決するのかが解らなかった。そしてその種明かしも知らない現象だった。しかし本作はそれにとどまらず、フリーライターを生業にしている父親が息子の現象を利用してひと山当てようと画策する卑しい心がテーマとなっている。 天下一大五郎シリーズ『名探偵の掟』、『名探偵の呪縛』の後に刊行されたのが本書。その内容はバリバリの理系本格ミステリ。前述の作品で本格ミステリへの訣別宣言とも取れる文章を書きながら、直後に発表された。 さて本書の中で最も古いのはオール読物1996年11月号に発表された物。片や『名探偵の掟』収録作品で最も新しいのは1995年に書かれており、『名探偵の呪縛』は1995年10月に書き下ろしで発表されている。 ん? ということは訣別宣言の後に書かれていることになる。つまり『~呪縛』で書かれた作者自身と思われる主人公の発言は本格ミステリからの訣別ではなく、もう1段上を目指した本格ミステリを書くという宣言だったのかもしれない。 さてそんな東野氏が目指した本格ミステリ連作短編とはいかなるものか。 それは科学の現象を利用した犯罪を暴くという物。 事件の不可思議さの反面、それぞれの犯行の動機は実に普通の他愛もない。これらは人の心の謎へミステリの要素をシフトしていった当時の東野氏にしてはびっくりするほど普通のミステリである。 しかし本書の狙いはそれらの動機ではなく、理工学系の大学教授を探偵に配して科学の知識を利用した犯行方法を解き明かすことに焦点を当てている。つまりHowdunitを追求した作品集なのだ。 さて本作はこの後続く湯川学シリーズ、いやガリレオシリーズの第1作目。いわばお披露目用の短編集といった趣。従って読み心地も軽く、ミステリとしては佳作といった内容だろう。 しかし奇妙だったのはガリレオの由来が明確に書かれていないことだ。突然最終話の「離脱る」で草薙刑事の同僚、上司がガリレオ先生と綽名をつけて呼んでいることが判明する。 当時はあまり深く考えていなかったのかもしれないが、上述したようにガリレオシリーズは東野作品を代表する柱の1つになっているから、この呼び名の由来はきちんと補完してほしい。 さて傑作『容疑者Xの献身』に向けてガリレオシリーズを読んで同作をもっと深く楽しめるために次の『予知夢』も読んでおこう。 最後に全くの蛇足だが、本書の解説は佐野史郎氏。彼の文章によれば主人公の湯川はなんと佐野氏がモデルだったとのこと。 現在では福山雅治がガリレオ像を作ってしまったが―不思議と私は読書中脳内変換されなかったが―、当時ドラマ化されたときの佐野氏の心境はいかなものだったのか? それは触れると野暮というものであろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のカー作品。しかもハヤカワ・ミステリでしか刊行されていなかったバンコラン物の作品で、さらに新訳と来ている。
海外ミステリ不況が叫ばれる今、このような慈善文化事業めいた出版がなされようとは思わなかった。東京創元社の志の高さを褒め称えたい。 本作はまだカーの2大シリーズ探偵HM卿とフェル博士が出る前の1932年の作品と、最初期のものだが、物語は実に深く練られている。 まず冒頭の半人半獣サテュロス(上半身が人間の男性で下半身が山羊という牧神パーンに似た風貌)の蠟人形に抱かれるように死んだ女性の遺体の発見というカー得意の怪奇的演出から始まり、その蠟人形館が身分の高い紳士淑女たちの密会クラブへ通ずる秘密の進入口へとなっていることが判明することで淫靡な趣を呈し、さらにはその経営者の一人である暗黒街の大物エティエンヌ・ギャランへつながっていく。 このギャランがかつてバンコランに痛めつけられ自慢の容姿を台無しにされた因縁の相手であり、ライバルの登場と物語の展開がドラマチックで淀みがない。 また語り手のジェフが仮面を被って秘密クラブへ潜入するというサスペンスも加味され、なんとサーヴィス精神旺盛な作品かと感嘆した。 特にバンコランが蠟人形館の館主オーギュスタンを呼び出したがために蠟人形館がいつもより早く閉まってしまい、そのためにいつも蠟人形館からクラブへ出入りしていたジーナが入れなくなって躊躇することになり、彼女が蠟人形館に入り込むことで事件を複雑化していく。 まさにシチュエーションの妙。 後の『帽子収集狂事件』、『皇帝のかぎ煙草入れ』などの傑作に通ずる偶然ゆえに起こった不可解時がこの時すでに確立されている。 事件の発端となったオデット・デュシェーヌ殺しは早い段階で事の真相が明らかにされる。 そしてクローディーヌ殺しの真犯人は実に意外だった。 そしてこの真相を知った後でバンコラン達がマルテル大佐邸を訪れた第9章を読み返すと実に全ての内容が腑に落ちることになっている。 これを推理の材料として繋げるのは至難の業だが、カーはあくまでフェアであったことが解る。 仲良し三人組と思われた関係には実は陰湿な感情が蠢いていたこと、名家のお嬢様クローディーヌが家の風習を嫌悪し、自由な放蕩生活を手に入れたがゆえに同じく名家の出であるオデットが名家の規律を重んじ、人好きのするお嬢様であることに対する嫌悪、一方で名家を重んじる厳格な血筋の持ち主、そして富裕層の密会クラブである色つき仮面クラブへの秘密の出入り口の役割を蠟人形館が担っていたこと、そしてその蠟人形館にはあまりにリアルな蠟人形が数多く展示され、その中には恐怖の回廊と呼ばれる古今の有名な犯罪事件の1シーンが展示されていたこと、そういった要素が複雑に絡み合い、今回の事件に至る。 振り返るとなんと重層的なプロットだったことかと改めてカーの才能に感嘆する。 しかしとはいえ、主人公のバンコランにはどうも好感が持てない。 元々メフィストフェレスのような風貌をした冷血な予審判事という触れ込みで登場しているが、無断で家宅捜索したり、盗聴器を仕掛けたり、更には警察に嘘の情報を流して誤導したりとやっていることは現在ならば不当捜査として捜査は無効になり、逆に告発されるほど滅茶苦茶である。 悪漢判事もここに極まれり。どちらが犯罪者か解りやしない。これが今回の評価に大いにマイナスになった。 さて東京創元社は以前からカー作品の新訳改訂版の文庫刊行を進めていたがこれはまだ続くようだ。本当に素晴らしい。 これからもカーのみならずクイーンやウールリッチ、ロスマクなど、このまま絶版で埋もれるにはまことに惜しい巨匠たちの名作を続々と新訳で出してほしいものだ。 頑張れ、東京創元社! ▼以下、ネタバレ感想 |
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『ウォッチメイカー』で初登場した尋問の天才キャサリン・ダンスが主役を務めるスピンオフ作品。とはいえこの後彼女が主人公の『ロードサイド・クロス』も刊行されているから、新シリーズの幕開けといった方が正解だろう。
新シリーズの主人公をあらかじめ他のシリーズ作品にゲストとして登場させる、このディーヴァーの目論見は当たっていると思う。他のノンシリーズの作品に比べてはるかに物語に移入しやすい。 ダンス以外は全くの初対面の人物ばかりだがダンスがいるだけでライムシリーズの延長のような錯覚に陥り、すんなり物語世界に入っていけた。 今回ダンスが相手をするのはダニエル・ペル。10年前にIT企業家一家を殺害した事件で捕まったカルト集団のボスだ。このダニエル・ペルは人の心を読み、コントロールする能力に長けている。その場の状況、相手によって自分の境遇や過去を偽り、共通点を見出させ、共感を覚えさせ、同族意識を植え付けるのだ。服役中も看視員をその手法で取り込み、囚人に禁じられているインターネットの閲覧なども秘密裏に許可させたりもする男だ。従って彼の尊敬する人物もヒトラー、ラスプーチン、スヴェンガリといったカリスマ性を持った人心掌握術に長けた人物ばかりだ。彼は人の心をコントロールすることに喜びを覚えているため、彼の支配下に置けない人物は“排除”しようとする。 ダンスは最初の尋問で逆に彼の心をコントロールしたため、逆に脅威となってしまう。しかしそんなダンスでも彼の真の目的が解らないのだ。 『ウォッチメイカー』で颯爽と登場したキャサリン・ダンスから受ける印象はどの読者も、“すべての嘘を見破る歩く噓発見器”と思っていたに違いないが、本書ではキネシクスのエキスパートであっても見抜くのが困難な嘘つきもいることが述べられている。それは情報を出さずに真実を回避する者や嘘を真実とみなせる狂信者などだ。 当初、味方であった人物が敵だったり、そのまた逆であったりといったディーヴァーお得意のどんでん返しが起こった時になぜ彼ら彼女らが行う芝居、嘘を見抜けなかったのかと懐疑的になったがどうもキネシクスも万能ではないようだと気付かされ、それで納得がいった。 またこのダンスのキネシクスを生かした尋問方法は諸刃の剣であることが解る。それは彼女は嘘を見抜くがゆえにそれぞれの人間の立場を守ろうとする嘘まで見抜き、丸裸にしてしまうからだ。それは彼・彼女らにとってはキャリアの終焉を意味する。もちろんダンス自身もそれは承知しており、時に苦い思いを抱く。知らなくてもよい真実が見えてしまうこともまたキネシクスの特徴なのだ。 さてライムシリーズが現場に残された物的証拠から推理して犯人の行動を読み取るのに対し、尋問の天才キャサリン・ダンスはキネシクスを駆使して動作や身振りからその人の本当の心理状況を見抜き、また関係者から得た犯人の情報から推理して犯人の行動を読み取る、云わばプロファイリングに似た手法を取る。 物質のライムに精神のダンス。ディーヴァーはまさに魅力的な二巨頭のシリーズキャラクターを創造したわけだ。 そしてやはり読者の期待通り、アメリアとライムのカメオ出演があった。その役割は実に他愛のない物で直接にキャサリンの事件の手助けになったわけではないが、やはりこういうサービスはシリーズ読者には嬉しいものだ。 恐らくディーヴァーは敢えて彼らに重要な役回りをさせないようにしたに違いない。これはあくまでキャサリンの事件であるからだ。しかし「ウォッチメイカー事件」のその後も語られ、まだ彼が暗躍しているのが解ったのも収穫だ。 さて今回の題名は敵役ダニエル・ペルが投獄されることになったIT企業家一家惨殺事件の唯一の生き残り、当時9歳だったテレサ・クロイトンに付けられた呼び名に由来する。事件当日、玩具の山に埋もれるように寝ていたため事件に巻き込まれることがなかったのだ。 しかしこのスリーピング・ドールという題名は読後の今、実は当時ペルに与した仲間の女性たちのことを指していることが解る。 ペルという人の心を操るのに長けた人物によって人生を狂わされたリンダ、レベッカ、サマンサ、そして共犯者であるジェニー。この4人の女性こそがペルの呪縛によって眠らされていたスリーピング・ドールだったのだ。そしてその呪縛が解けた後のそれぞれの生き様が四者四様であるのが興味深い。特にサマンサとジェニーの変わり様が印象に残った。 余談だがペルが襲撃していた際に眠っていたとされるテレサがその実起きていたというのが実に面白い。彼女はペルの一家惨殺事件の被害者でありながら、実は彼女自身には何の心的外傷を得ていなかったのだ。従ってやはりスリーピング・ドールとはテレサのことではなく、彼女ら4人のことだったと解釈するのは妥当だろう。 しかもその文脈で考えるとこの題名自体もミスディレクションであると云えよう。 物語の核であるペルの脅威が収まるのは下巻の340ページ辺り。まだ約100ページが残っている。 哀しいかな、書物という物はこの後の残りページ数でこれで事件が解決したものと思わないように物理的に教えられる。これが映画館で観る映画ならこんなことはないのだが。 従って読者は残りのページで起こるであろうどんでん返しを想像することになり、驚愕の結末もこれでは薄れてしまうであろうから困ったものだ。 さて最後になったがやはりこのシリーズに登場した人物たちにも触れておこう。 キャサリンの仕事上の好パートナーであり、私生活でもパートナーとなるのではと思わされたモンテレー郡保安官代理のマイケル・オニールはダンスのよき理解者であり、またよき相談相手である。しかし妻帯者である彼とダンスの今後の関係はどのように変化していくのか、非常に気になるところだ。 そしてダンスの有能な部下TJ・スキャンロンはCBI捜査官らしからぬカジュアルな服装とどこでも思わずついて出る軽口が特徴の人物。しかしその働きは有能でダンスの痒い所に手が届く捜査をしてくれる。 最後にチャールズ・オーヴァービー。新任のCBI支局長であり、ダンスの上司だが、早く功績を立てて出世したがっており、その種の人物同様、保身のために部下を売ろうとすることも考えている。一見無能な人物と見せながら物語の最後には意外な決断を下すという実に読めない人物。 とこのように有能な人材で構成されるライムチームとは違った個性的な人物を配してディーヴァーはまたまた面白い物語を紡いでくれるようだ。 本書はまだ軽いジャブといったところ。今後のキャサリン・ダンスの活躍に大いに期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『名探偵の掟』の名探偵天下一が再登場する長編。しかし作者東野氏自身と思われる作家が図書館に迷い込むうちに自分が天下一になってしまうというファンタジーな設定になっている。そのためか実に内容はメタフィクショナルだ。
常に読者の目を意識した天下一の言動は前作『~の掟』を踏襲した本格ミステリの約束事を意識的に揶揄したものだし、またその言葉は作者東野圭吾氏の生の声でもある。 そのために本格ミステリの特異性を際立たせるために本格ミステリのない世界を設定したのが素晴らしい。つまりそこでは本格ミステリの約束事がそのまま普通に暮らす人々にとっては訳の解らない思考であることが逐一書かれる。 例えば最初に出てくる事件では初めて密室殺人事件に遭遇した登場人物たちは殺人を犯すのになぜ密室を作る必要があるのかが全く理解できない。 さらに当たり前すぎる動機では読者に罵倒されると思わず漏らす主人公などなぜ普通の理由で、普通の方法で人を殺していけないのかが改めて問われる。この辺のやり取りは実に面白かった。 そして読み進むにつれ、これは東野氏の本格ミステリからの訣別宣言を表した書だということが解る。かつて江戸川乱歩賞でデビューした作者はその後もトリックを駆使した密室殺人をいくつも著していたが、もはやそんな物に興味を失ってしまったと吐露する。しかしそれが完全なる訣別ではなく、またいずれは帰ってくる場所であることも書かれている。 以前から書いているが『宿命』を契機に誰が殺したとかどうやって殺したといった推理クイズのような楽しさよりも人間の心情の謎について書くことに興味が移ってしまった東野氏だが、その後も探偵ガリレオシリーズなども書き継いでいることから、初期作品からブラッシュアップされた本格ミステリを書くことを心掛けているのが解る。 訣別しようと思いながらも本格ミステリが持つ独特の魔力に抗えない、そんな心情を東野氏はこの作品で見事に表している。つまり本書は小説の形を借りながら東野氏の本格ミステリへの思いを綴ったエッセイであると云えるだろう。 さて本書が刊行されたのは1996年。つまりもう23年も前の作品であるのだが、そのため今読むと興味深い記述も見られる。 特に冒頭の図書館のシーンで自分の作品を発見し、貸し出し状況を見ようと思ったがその結果が怖くて結局見ないことにしたという一節があるが、今の東野フィーバーの状況を考えると隔世の感がある。確かにこの頃はミステリ読者からは好評は得ていたものの、売れていたとは決して云えない状況だったのだ。 そんな観点で読むとまた当時の東野氏の作家としての立ち位置なども垣間見え、最近ファンになった人々も興味深く読めるのではないだろうか。 ただやはり本書はある程度本格ミステリを読んでからにしてほしい。そうでないと解らない面白味に溢れているのだから。 |
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馳星周氏のデビュー作『不夜城』の続編。この後『長恨歌』が書かれ、新宿の中国系マフィアの暗闘を描いたこのシリーズは三部作として幕を閉じられる。
前作の主人公劉健一は新宿の一角にカリビアンという会員制のバーを開いて故買屋稼業をしながら新宿の中国系マフィアの情報を仕入れているという存在。 前作はほぼ彼の一人称という形だったのでその心情が色濃く書かれていたが、本書ではあくまで第三者という立場で得体のしれない存在感を醸し出している。常に何かを知り、のし上がる好機を窺っているような、獲物を見張っている豹のような存在とでもいおうか。 彼の存在は物語の終盤で如実に増してくるのだがそれはここでは敢えて触れない。 物語の主軸は楊偉民の子飼の凶手、郭秋生と元刑事で北京マフィアの頭目崔虎の下で糊口を凌いでいる滝沢誠の2人だ。 郭秋生はかつて義姉と義父を殺し、その2人の死体のそばで横たわって半死半生の状態だったところを楊に拾われて、台湾の海軍に預けられ格闘術と武器の扱いといった殺人の技術を習得した凶手。殺した義姉真紀に想いを寄せ、それがトラウマになっている。 一方の滝沢はかつて新宿署防犯課に所属しており、相棒の鈴木と共に歌舞伎町に巣食う売春婦、やくざ、売人を食い物にしていた悪漢警官だったのを2年前の劉健一がもとで起こった中国系マフィア同士の抗争に巻き込まれて刑事の職を辞することになった男。ただその性癖はいわゆる変態で暴力の衝動に駆られ、相手を痛みつけることにこの上ない快感を覚える男だ。 この滝沢、秋生、そして秋生がボディガードを務める上海マフィアのボスの情婦楽家麗、そこに劉健一が絡み、誰かが死ななければならない状況まで差し迫っていく。 混沌とした中国系マフィアの勢力争い。新宿歌舞伎町というごくごく狭い繁華街に上海、北京のマフィアが勢力を伸ばし、そのバランスを保とうと台湾のマフィアの長が策を施す。そんな絵図を俯瞰し、いつか彼らの喉笛に食らいつこうと虎視眈々とその時を窺う劉健一。そんな中国人だらけの街を取り戻そうと蠢く日本のやくざ。 誰もが他者を出し抜こうとし、誰もが他者を貶めようとする。 権力という安定を求め、仲間を作るが、その仲間さえも敵と天秤にかけ、平気で寝返る。 敵が味方になり、追う者は追われる者になる。 窮地に陥った人間が窮鼠猫を噛むが如く、ぎりぎりのところで口八丁手八丁の逆転をし、どうにか生きながらえる。 しかしそんな付け焼刃の云い逃れも上手くいくわけもなく、どんどん死の淵へと追いやられていく。 これは新宿歌舞伎町という日本一の繁華街を舞台にした人生劇場。いや明日をも知れぬ地獄絵図を描く者たちの鎮魂歌とでも云おうか。 私が歩いていた新宿の少し筋を外れたところでこんな人が簡単に人の命を奪う生き死にの戦いが繰り広げられているのか。そう思わされるほどこの物語はリアルである。 それは我々普通の生活をしている者にとっては想像もつかないような世界。誰もがプライドが高く、ギラギラした目を持ち、底なしの欲望にまみれて、犯罪を犯すことを厭わない。碌でもない男女たちばかりが登場する。 ふと思ったのはこれまでの馳作品の主人公にはある共通項があることだ。それは『不夜城』の劉、『漂流街』のマーリオ、本書の郭とも混血児であることだ。劉は台湾人と日本人の、マーリオはブラジル人と日本人の、郭は中国人と台湾人の混血。 彼らに共通するのは心に深い闇、憎悪といっていい感情を持っていることだ。馳氏は暴力的衝動、心に暗黒を宿すファクターとして混血児というモチーフを用いているようだ。 さて物語は前作『不夜城』で最愛の者を殺さざるを得なかった劉健一が新宿界隈の中国人コミュニティを牛耳る楊偉民に対する壮大な復讐劇だったことが判明する。楊の権力を殺ぎ、自身が新宿界隈の中国人コミュニティのボスに成り代わって楊を抹殺すること。その目的のために凶手郭、元刑事の滝沢は駒の1つであり、劉の掌上で踊らされていたにすぎないことが判明する。 通常このような権力争いの勢力を己の画策でぶつけ合わせて破滅させる、というハメットの『赤い収穫』のような物語は画策する人物の視点で書かれることが多かったが、馳氏はこれを駒となる人物たちの視点で描くことで画策した人物の恐ろしさを上手く表現している。これはまさにアイデアの勝利だろう。 ただやはり結局馳氏の作品はどの人物も死んでいく運命にあり、主要たる人物も最終的には屍の山の一角に過ぎなくなる。これがなんとも読んでいて残念なのである。 この辺は大いに好みの問題なのだろうが、生死の瀬戸際ギリギリで足掻く人物たちが結局死んでしまうことが解っているので何とも途中で白けてしまうのだ。 本書でも滝沢の変態性、郭が恋い慕う楽の扱いなど凌辱系ポルノビデオのような内容でこれ以上の物を書くとどんどんエスカレートしてこちらの感覚が麻痺していくように思えてならない。 どこまで突き進んでいくんだ、馳星周は? |
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『不夜城』で衝撃のデビューを果たした元書評家坂東齢人氏こと馳星周氏。本書は彼の4作目に当たる作品。
今回も主人公のマーリオは日系3世のブラジル人で純粋な日本人ではない。鹿児島から移住してきた祖父太一の許で育てられ、厳しい教育と家督制度を叩き込まれ、そして激情家の太一の血を色濃く受け継いだ彼は日本人ともブラジル人ともどっちつかずの風貌、そして時折卑下したかのように呼ばれる“あいのこ”という言葉にどす黒い憎悪を抱き、押え切れない暴力的衝動を常に抱えている。 彼が行く所には屍の山が築かれ、そして彼に関わった人間は押しなべて不幸になる。胸に抱えたどす黒い憎悪、欲望が次第に肥大し、理性で押え切れなくなっていく。 彼の憎悪の根源は日本人なのに日本人として認められない血の呪いと彼を育てた日本人移民の祖父太一の存在だ。 彼の祖父佐伯太一は鹿児島からブラジルに移り、昔ながらの厳格な家長制度を重んじる男。彼が家族の全てであり、彼に従わない者は家族ではないという性格の持ち主。だから彼に歯向かう者には容赦はしない。そうやってマーリオの母と父は死に至った。 暴力は暴力を生む。これは昨今定説になっているがマーリオは祖父を憎むがゆえ、また彼もまた祖父と同じ性格になっていった。マーリオの行き着く先は闇。これはそんな真っ黒な物語。 そのマーリオが地獄への道行きを辿るきっかけが大金とヤク。それが本書のメインストーリー。 鬱屈した日常に嫌気が差したマーリオがひょんなことから漏れ聞いた関西のやくざと中国マフィアとのデカい取引の金を強奪し、あらゆる追手から逃げるというものなのだが、この強奪に至るまでが非常に長い。取引の情報を手に入れるのが49ページとストーリーの中でも非常に早い段階なのにもかかわらず、実際に実行に至るのは470ページあたりなのだ。 この間色んなしがらみに拘束されるマーリオの日常が描かれる。とにかく長い。 マーリオが犯罪に至るまでの心理を描くためなのかもしれないが、ストーリーには必要のない殺人やブラジルが日本に負けた腹いせに六本木のバーで勝利に浮かれる日本人サポーターたちを襲撃するシーンがあったりととにかく寄り道が多い。 しかしそれが退屈かと云われれば、そうではないと認めざるを得ない。文庫本にして770ページ弱の厚みを一気に読ませる求心力を持っている。 とにかく全編に亘って語られる内容は金とドラッグ、セックスと暴力の連続。憎悪と怒りの応酬だ。誰もがギラギラしており、誰かを利用しようと手ぐすね引いて待っている。 残忍かつ凶暴な性格で兄貴分すらコケにして憚らない伏見。恨みは絶対に忘れない中国人マフィアのコウ。その体と美貌を武器にして世間を上手く渡り、マーリオを虜にしていくデリヘル嬢のケイ。マーリオと同じブラジル移民であり、東京に住む外国人と強固なネットワークを持つリカルド。元極道で銃の密売でしのぎを削っている山田。荒んでいるマーリオの心や外国人たちの心を安らがせる歌声を持つ盲目の少女カーラ。他にもデリヘルクラブの社長有坂、極上のプロポーションを持つコロンビア娼婦のルシアなど一癖も二癖もある人物が己の欲望のため、または他者の企みに巻き込まれて翻弄され、入り乱れる。 この暗黒の群像劇を描く馳氏の筆致はものすごい熱量で読者の眼前に言葉を畳み掛け、叩き付ける。 いつの間にか時間を忘れ、ふと顔を挙げると大きく息を吐く自分に気付く。掌は汗をかいているのに指先は冷たくなっている。そんな魔力を秘めている。 だからこそ最後の物語の収束の仕方に不満が残る。 全てが上手くいくと見せかけ、やはり世の中そんなに甘くはないと思い知らせることがノワールなのか? “あいのこ”と呼ばれることを嫌悪し、そのたびに心にどす黒い憎悪をもたげさせながらもどうにか自制し、生きてきたマーリオの最期に全く美学がない。 こういうと「美学を求めるなら他の小説を読んでくれ。こちとらそんな小説は書きたくないんでね」と恐らく馳氏はそう嘯くことだろう。しかしやはりそこまでの物語と心をつかんで離さない文章があるだけに勿体なさを感じるのだ。 しかしこれもまた物語。しかし私が『不夜城』を読んだ時の違和感や不快感は本書でもまだ解消されなかった。 果たして私は馳氏のよき読者になれるのか。今後彼の作品を読むことで試してみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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女子プロゴルファー、リー・オフステッドシリーズ第2弾。前作第1作の9月の刊行から早々と2冊目が刊行された。
前作では“アーロン”エルキンズの作品という先入観があったため、妻のシャーロットのロマンス小説風味付けの濃さに戸惑った感があったが、今回は免疫が出来ていたこともあって、前作よりも物語の世界にすっと入ることができた。 今回の事件は憎まれ、殺したいと周囲に思われた人物が落雷に遭って事故死するが、実はそれは巧妙に仕組まれた殺人だったという物。そして第2の殺人として衆人環視の下で毒殺が行われる。 いずれも本格ミステリ的不可能趣味に溢れている謎なのだが、このシリーズの特色はそこにはない。 アーロン・エルキンズ作品の特徴である、特定の人物で形成されるコミュニティの中で嫌われ者である人物が事故に見せかけて殺される、もしくは明らかに何者かによって殺される状況が生まれ、関係者の誰もが一応の動機を持っている手法が本書でも採られている。 そして忘れてならないエルキンズの長所が魅力あるキャラクター。今回も前作から引き続いて登場のペグを筆頭にコットンウッド・クリーク・ゴルフコース理事の面々の個性的なこと。相変わらず実に読んでいて心地よいコージー・ミステリだ。 そんなミステリだからトリック云々を議論するよりもコミュニティの中で誰が一番動機を持ち、また機会があったかについてリーとグレアムの議論は費やされる。ここら辺は堅苦しいロジックのやり取りではなく、まさに好奇心旺盛なカップルが事件についてあれやこれや話し合うといったようなトークの趣があり、和やかだ。 特に第2の殺人については不特定多数の人がいる中でどうやって被害者だけに毒を飲ますことができたか?などということは一切語られず、誰が被害者を殺す動機があったかについてしか語られない。これがエルキンズの作風なのだと初めて本書を手にした本格ミステリファンは理解しなければならないことをここでは述べておこう。 2作目にして地方の警察官であったグレアムとツアープロであるリーの恋が成就するには困難なシチュエーションだったのが一気に解消される。この辺は実にご都合主義的な感じがするが、ロマンスミステリなんてものはこんなものだろう。 こういう風に書いているが、たまにはこんな夢物語的なミステリも読みたいのだ。 ただ主人公リー・オフステッドの風変わりな経歴―元米国陸軍所属―が単に奇抜さだけでしかなく、十分に活かされていないのが難だが、これもシリーズを重ねるにつれて持ち味が出てくることを期待している。 エルキンズのスケルトン探偵ギデオン・オリヴァー物の最新作を読みたいのが本音ではあるが、しばらくはこの夫妻の手によるこのシリーズでその渇きを癒すことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野氏のダークな笑いが炸裂するユーモア短編集第2弾。今回もその筆の勢いは止まらない。
まず最初の作品は「誘拐天国」。 孫と遊ぶために狂言誘拐を計画する、という着想の妙も東野氏らしいが、さらう側の老人たちが大会社の元経営者で隠居の身というのがミソ。 身代金の1億円がはした金にしか見えないくらいの大富豪ぞろいで、ハイテクを駆使した誘拐騒動の顛末を徹底的にマンガチックに東野氏は語っていく。 次の「エンジェル」では核実験が盛んに行われた南太平洋の島で見つかった新種の生物エンジェルのお話。 一読星新一氏の作品のような味わいを残す。新生物の発見から社会に浸透しやがて起こる新たな社会問題に、最後の皮肉な結末とまさに星テイスト。 こんなのも書けるのが東野氏の芸達者なところだ。 「手作りマダム」は思わず「あるある!」と声を出したくなるような作品だ。 Yahoo!知恵袋の相談にも出てくるような話だ。 いわゆる社宅族たちの抱える問題。会社で地位のある方の奥さんが無類の世話好きだったというもの。善意と思ってやっているからこれがまた性質が悪い。人によっては他人事とは思えない話だろうなぁ。 「マニュアル警察」は題名から察せられるようにマニュアル化した警察のお話。 星新一の作品になんかこういうのがあったなぁ。これは題名からネタも解ってしまうし、実に東野氏らしい皮肉に満ちた内容。 確かこの頃マニュアル社会とかサラリーマン教師とか色々云われていたっけ。 「ホームアローンじいさん」もB級ネタで笑わせてくれる。 東野氏のB級路線が色濃く出た作品。そりゃあ教職に就いていた爺さんだってAVは見たいだろう。メカ音痴であるのがここではミソだろう。そしてそこへ空き巣の侵入を絡ませるあたりが上手い。 しかし男の哀しい性よのお。 マザコンというのが注目されたのがもしかしたらこの頃だったのか。「花婿人形」は全てを母親に仕切られて生きてきた男が結婚を迎える話。 極端な過保護で育てられた男が結婚式の段に母親に聞きたかったこととは?この謎で引っ張るのだが、これがホントしょうもないこと。 「女流作家」は思いもかけない展開を見せる。 妊娠になった女流作家が休筆するという当たり前な導入からSF的な展開になるのがミソ。 「殺意取扱説明書」も一風変わったお話。 殺人計画立案が書かれているわけでなく、殺意の醸成の仕方、殺人行為に至るまでの心構えなどを解説している取説という設定が面白い。 いざ殺る段になって躊躇する心理なども扱われていたりとケーススタディが事細かに書かれているあたりが理系作家東野氏の遊び心だといえよう。もう少し結末にパンチがあればよかったが。 「~笑小説」と書かれているが全てがユーモアの話ではない。中にはジーンとくる作品もある。次の「つぐない」がそれだ。 意外な導入部、ピアノレッスンの生徒が50のオッサンというギャグのような冒頭から最後はジーンとなる結末に持っていく東野氏の上手さが光る1編。 「栄光の証言」は会社でも冴えない男が殺人現場を目撃して、それを証言したがためにいきなり会社はもちろんご近所からも注目されるというお話。 普段誰からも注目されない男が一躍注目の的になるというのは気分がいいもの。ここに書かれているしつこく何度も同じ話を繰り返されることや、いつもしゃべることでどんどん肉付けがなされていき、いつの間にか想像のことを恰も見たかのように話してしまうというのもよくある。 最後のオチのしょうもなさといい、ショートフィルムに使われそうな作品だ。 「本格推理関連グッズ鑑定ショー」はその名から想像されるように「なんでも鑑定団」をパロッた作品。 東野氏の悪ふざけが横溢した作品。というよりもこの頃1996年から「なんでも鑑定団」ってやっていたのだなぁと感心してしまった。 単に番組のパロディに終始するわけではなく、逆にそれを素材にして意外な真相を導き出すというのがアクセントになっているがミステリとしてはあまり出来がよくないので、やはりこれはパロディを愉しむのが吉だろう。 しかし番組司会者の名前が黒田研二というのは何か意図があったのだろうか?また鑑定品が天下一大五郎の事件ゆかりの物というのが面白い。天下一大五郎は東野ワールドの影のシリーズキャラになりそうだ。 最後の「誘拐電話網」も実に東野氏らしい作品。 他人の誘拐児の身代金を要求されるというアイデアと学校や会社で使われる連絡網を組み合わせることで実に皮肉に満ちた作品になった。 東野氏の裏ライフワークと呼ばれている(?)ブラックユーモア短編集『~笑小説』シリーズの第2弾。 発表されたのは1996年。その頃の世相を反映していることもあってかネタ的には古さを感じる物もあった。 子供の「お受験」対策の過熱化する多くの習い事や社宅族にある上司の奥さんとの付き合いやマニュアル社会や母親の過保護のせいでロボット化するマザコン息子など。テーマとなった社会現象や当時のドラマが目に浮かぶようだ。 女流作家が題材となった作品は宮部みゆき氏や髙村薫氏ら女性作家の台頭や海外の女性ミステリ作家、いわゆる4Fブームが反映されているのだろうか。 『あの頃ぼくらはアホでした』で吹っ切れたかのようにお笑い路線でも才能を発揮した1作目の『怪笑小説』からさらにその路線はエスカレートし、なんだか子供じみたネタまで躊躇せずに開陳するところがすごい。 日常でありそうな事象を実に皮肉に、時に淡々と語る筆致はB級ギャグの応酬ともいえる。特にAVを観るために留守番を買って出るおじいさんなどは話としては脚色されているが、実際こんなジイサンいそうだな。かように慎ましく生きている庶民に訪れたある変化を面白おかしく綴っている。 ここで注意したいのはこれらお笑い小説を書きながらも手法はミステリのそれであること。シチュエーション・コメディやSF的な設定においても最後のオチにつながるのは意外な結末である。「 女流作家」や「つぐない」などはある謎が最後に明かされる(「花婿人形」もそれに当たる)。さらには「誘拐天国」や「誘拐電話網」など犯罪そのものの作品もその過程を愉しむことができる。 いわばお笑いのオチとはミステリの謎解きにつながるものがあるのだ。 余談だが、この短編集は誘拐で始まり、誘拐で終わっている。ミステリ読者を笑いの世界へさらっていき、最後にまた笑いの世界からさらわれたという隠喩と考えるのは…さすがに穿ちすぎか。 特に国民的ベストセラー作家になった今でも『歪笑小説』と最新作を出すのだから作者の芯は全くぶれていないと云っていいだろう。それは全ての作品が絶版されていないことからも窺える。 ふつうここまで売れっ子になると過去の出来の悪い作品などは封印してしまうのだが、東野氏は全ての作品に全力投球していると公言しているからそういうことは全くしない。素晴らしいことだ。 東野作品を読む方はその作者の心意気をきちんと汲み取るべきだろう。 とはいえあまり難しいことを考えて読むのもまた作者の意図には反するだろう。本書はその名の通り毒のある笑いを何も考えずに愉しむことが正しい読み方だろう。 決して名作とか傑作とか評されることのない短編集だが、こういうのがあってもいいではないか。これもやはり東野圭吾氏なのだから。 次の『黒笑小説』も楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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創元推理文庫から訥々と刊行されていたドイル短編集もこれで5冊目。どうやら本書で最後になるようだ。
まず冒頭は表題作から。 産業革命喧しい19世紀末に書かれた似非化学を材に採り、もっともらしい錬金方法を発明した無尽蔵の富を誇る男を巡ってそれまで貧しいながらも慎ましく暮らし、いつか生活が良くなるだろうと夢を抱いていた片田舎の人々が彼の登場で狂っていく。その様子をマッキンタイア家を物語の軸として描いたペシミスティックな結末が印象的な作品。 画家で大成することを目指していたロバート・マッキンタイアはその誠実さを買われながらもラッフルズの富を目の当りにして自分の人生に次第に意味を失っていくし、ラッフルズに見初められたロバートの妹ローラは婚約者がいるのにも関らずラッフルズの富に目が眩み、婚約破棄をしようとし、彼らの父は事業に失敗していたが今なお再起を狙っており、ラッフルズの富をその足がかりにしようと虎視眈々と狙っている。 これは恐らく産業革命で爆発的な富を得た人と逆に失った人が実際にいたことから生まれた作品なのだろう。物語としてはファンタジーだが、ここには当時の“狂気の19世紀”という誰もが一山当てようと躍起になっていた世情が鮮明に描かれている。 続く「体外遊離実験」は今でもよく題材として使われる人格交換物の一編。 幽体離脱した霊魂が戻った先は逆の肉体だったという今ではよくある話だが、発表当時の1885年ではかなりぶっ飛んだ話だったのではないだろうか?もしかしたら人格すり替わり物の原型だったのかも? この話の面白味はそれぞれ霊魂がすり替わったことに気付かずにお互いの生活をするところ。しかし実験が終わった時点で相手を見て気づきそうなものだけれど、そこは目を瞑るべきなんだろうな。 「ロスアミゴスの大失策」は電気による処刑を実施したところ、死刑囚は死なずに逆に不死身の肉体を得てしまうという似非科学物。 当時まだ電気による死刑方法がそれほど知られてなかったからこその1編か。おそらく着想の素になったのはメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』からではないだろうか?電気ショックによって甦った死体から作られた不死身の人造人間が不死の肉体を持つ死刑囚と非常に設定が近似している。この短編が1892年の作品で『フランケンシュタイン』が1818年の作品だから年代的にも合う。ただしシェリーがホラーなのに対し、コミカルな作品にしているのがドイルの味付けの上手さだろう。 「ブラウン・ペリコード発動機」は新発明を巡る技術者二人の争いを描いたもの。 これも産業革命で発明が盛んになっている当時の世相を表した作品と云えるだろう。共同開発者のうちのどちらかが功績を我が物にしようと相手を出し抜いて特許出願するなんてことは日常茶飯事だったのかもしれない。 「昇降機」は奇妙な味わいを残す。 人間というものはその思考が環境に左右されることは今ではよく知られているが、これも昇降機のメンテナンスをすることで高所へ行き来するうちに地上の人間がちっぽけな存在に見え、自分を神と近い者、神の言葉の代弁者だと思い込んでしまった男が起こす狂った所業を扱っている。 おそらくはこの作品には高さを競い合うように高層の建造物を建てている当時の流行を見て、ドイルが神への冒瀆ではないかと警鐘を鳴らしているのが裏のテーマかもしれない。 女の嫉妬も怖いが、男の嫉妬もかなり怖いと思わされるのがこの「シニョール・ランベルトの引退」だ。 黙々と発声法に関する論文を読み、医者に質問し、浮気相手を前に医療器具を出していくスパーターの様子が不気味で話としては単純だが印象に残る。 「新発見の地下墓地」は仲の良い2名の考古学者が一方が発見した新しい地下墓地を見に行くことになるのだが…というお話。 特に何気ない冒頭の会話が復讐者が自身で発見した地下墓地に友人の考古学者を案内するという動機に繋がっていたのが判明するところにカタルシスを感じた。結末の皮肉さといい、短いながらも上手さが光る好編。 最後の「危険!」はヨーロッパの小国がいかにしてイギリスの艦隊を破ったかを語った話。その作戦の中心人物ジョン・シリアス大佐の秘策とはイギリスに航行する食糧貨物船をことごとく潜水艦にて撃沈させることだった。つまりはイギリス国内を兵糧攻めにして内部から疲弊させてしまおうという作戦なのだ。 しかしこの作戦の内容は早いうちから明かされており、あとは延々とその戦いと終戦までの顛末が語られる。馴れない海洋小説ということもあって特に興趣をそそられなかったのが残念だ。 一読した印象は古き懐かしい古典の名品ともいうべき短編集だ。 本書では科学や学問をテーマにした作品が多いのが特徴だ。錬金術に心霊学、電気工学に機械工学、考古学など。学問そのものをテーマにしたものもあれば、学問を巡る人物たちの浅ましさを描いたものもある。 学問そのものをテーマにしたものは押しなべてコミカルなファースになっており、学問を巡る人々を描いた作品は悲劇やホラーといった負の味付けがなされているのが興味深い。 前者でいえば幽体離脱した霊魂がすり替わることで起こる様々なアクシデントを描いた「体外遊離実験」、強大な電気ショックを与えることで不死身の肉体を得た死刑囚を描いた「ロスアミゴスの大失策」などが該当し、後者でいえば無尽蔵の富を生み出す錬金術を目の当たりにした街の人々が堕落していく様を描いた表題作を筆頭に新発明の特許を奪い合う2人の技術者の話である「ブラウン・ペリコード発動機」、昇降機のメンテナンスを請け負っていた男がいつしか万能神と自らを思い込むようになった男の狂気を描いた「昇降機」、そして「新発見の地下墓地」では親友同士の考古学者が片割れが持つ密やかな復讐心が語られる。 これらはやはり産業革命によって劇的に変化した当時の社会情勢が人心へ招いた異様な熱気と狂気がこの作品群には込められているように思えてならない。アイデア一つで誰しもが一攫千金を手にできた時代。だからこそ誰しもが相手を出し抜こうと躍起になっていた。 そんな科学がもたらした社会の歪みを時には滑稽に、時には皮肉なまでに、そして時には陰湿に描いたのがこれらの作品群ではないだろうか? しかしドイルは実に幅広い作風を持った作家であることか。これまでに刊行されたドイル傑作集も今回で5冊目を数えるが、ドイルがホームズシリーズだけの作家でないことを知るのに実に充実したラインナップだったように思う。特に新潮文庫でも編まれたホームズシリーズ外の短編集に未収録の作品を多く読めたのが収穫であり、ホームズシリーズでは気付かなかったドイルの作家としての姿勢や彼のジョン・ブル魂、騎士道精神などが行間から窺えたのが大きな収穫だった。 本書でこのシリーズが最後だというのは非常に残念でならない。選者であった北原尚彦氏、西崎憲氏、そして影の編者藤原義也氏のきめ細やかな選出に拍手を贈りたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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再びのウェクスフォード主任警部シリーズ。縁あって神保町の古本屋で購入した3冊のレンデル作品のうち、2作がこのシリーズの作品となった。
しかし本書はこの前読んだ6作目『もはや死は存在しない』からずいぶん経った作品で11作目となる。この両作品との間には10年の隔たりがあり(『もはや死は存在しない』が1971年発表で本書は1981年の作品)、そのため作中時間の経過が見られる。 『もはや死は存在しない』のラストで亡き妻の妹グレースと結婚を匂わせる幕引きを見せたバーデンだったが本書で判明する再婚相手はジェニーという女性。 『もはや~』から本書に至るまでシリーズ作のうち『ひとたび人を殺さば』と『指に傷のある女』は既読なのだが、全く覚えてなく、どこで彼が再婚したか判らない。グレースとの関係がどうなったのか、『もはや~』の次作である『ひとたび~』で確認する必要があるな。 またウェクスフォードの娘シーラが女優として活躍しており、本書では彼女の結婚式のシーンが盛り込まれている。この娘が有名人という設定が前面に出されているせいか、本書に登場する主要人物はやたらと有名人が多い。 まず被害者のマニュエル・カマルグは有名なフルート奏者であり、莫大な遺産の持主。彼の友人フィリップ・コーリーもまた有名な作曲家であり、さらにその息子ブレーズは人気番組の司会者でもある。 イギリスの片田舎の町キングスマーカムに斯くも芸能人やら文化人が住んでいるというのも実に面白い話ではある。 さて本書のテーマは相続人の前に突如現れた音信不通だった近親者は果たして本人か否かという物。この手の話は古くからあり、例えばカーの『曲がった蝶番』とかがそうだろう。また財産目当ての悪女物となればカトリーヌ・アルレーの『わらの女』が有名だ。 あれが当事者の側から描いたものとすれば、これは捜査側から描いた悪女物と云えるだろう。 そして物語の展開として意外なのは高名なフルート奏者の遺した莫大な遺産をせしめようと周囲を騙し通そうとしたナタリーの素性からどんな手を使ってでも遺産を手中に入れるという悪女ぶりととっかえひっかえ男を換えては誑し込み、恐らく自分の望みを適える手伝いをすらさせていた当の本人が第2の被害者として見つかるところだ。 この辺のストーリーの切返し方は実に上手い。 そして本物か偽者かという二者択一でしか有り得ないシンプルな謎の真相が実に意外で、また実に納得の出来る物であることに驚きを感じた。 こういう状況って確かにあるよなぁと思わせ、それを謎に結びつけるレンデルの上手さ。恐らく作者は友人や知人らと交わす会話の中に同種のエピソードを聞くに及んでこのプロットを生んだのではないだろうか。 単に笑い話に終始しそうな話を膨らませて1冊のミステリを作ってしまうレンデル。さすが英国女流ミステリの女王だ。 今回はある種の先入観を持って聞き込みをすることの危うさを説いている。それは刑事の聞き込みだけではなく、我々日常生活においても同様だということだ。 あの人はあんな感じだからああではないかと思うと自分の見込みに都合のいい情報ばかりを選び、齟齬を感じる情報は例外や何かの間違いだと思いがちだ。実に腑に落ちる形で我々読者に投げかけてくれる。 レンデルの作品は必ずしもページを繰る手が止まらないほどのエンタテインメント性・サスペンス性を備えているとは云えない。寧ろ単純な謎に対するアプローチが長く、やきもきする方もあるだろう。 しかしやはり最後の真相を聞くとそれまでのモヤモヤが雲散霧消する爽快感が得られる。だからレンデルは止められない。 絶版した作品や未文庫化の作品が多いのはなんとも残念なこと。さらに未訳作品も多いのはなんとも嘆かわしい。海外ミステリの出版状況が厳しいのは判るが、版元は最後まで責任を持って出版してほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ディーヴァーによる初の歴史小説。舞台は第二次世界大戦前のドイツ。台頭してきたヒトラーの頭脳とも云えるラインハルト・エルンスト暗殺を命じられる殺し屋の物語だ。
リンカーン・ライムシリーズとは違い、最初から目くるめくサスペンスの応酬といった物語運びではなく、主人公ポール・シューマンがひょんなことから任務に就くことを余儀なくされ、ドイツに潜入して現地工作員と落ち合い、標的の暗殺計画を練り、実行に至るまでのプロセスがじっくりと描かれていく。 もちろん稀代のストーリー・メーカーのディーヴァーのこと、ただ単純に経過を辿るのではなく、いきなりナチスの突撃隊員殺害というアクシデントが盛り込まれ、なかなか容易に物事が運ばないようになっている。 それはポールという謎めいた男を追うクルポ(ドイツ刑事警察)の凄腕刑事ヴィリ・コールが徐々に追い詰め、いつもあと一歩というところですり抜けるスリルを生み出している。 この物語運びから私は読んでいる途中、しばしば想起されたのはバー=ゾウハーの作品だ。ギリギリのところで捕まらない、他国へ潜入した者の緊張感は彼の作品に通ずるものを感じた。 しかしこのナチス統治下のドイツの緊張感とはなんと恐ろしいものか。学生たちはヒトラーの信奉者集団であるヒトラー・ユーゲントに入ることを強いられる。それは名目上は自由参加なのだが、非加入者は加入者からユダヤ人呼ばわりされ、蔑まされるのだ。そんな上下関係を打破する為に子供達が誰かを告発しようと考える異常な状況。 ゲシュタポやSDが平気で盗聴器を各家庭に仕掛け、不穏な会話をすればすぐさま逮捕され収容所に連れて行かれる。そのため市民は夜中にノックされればゲシュタポやSDではないかと恐怖に慄くのだ。 さらに近所の気のいいおばさんが実は反政府分子ではないかと疑いをかけ、笑顔で挨拶をしながらもその実いつも監視をしており、確信に至るやSDに通報して逮捕させたり、仕事の同僚や部下だと思っていたら実はゲシュタポのスパイだったり、そして最後の明かされる「ヴァルタム研究」の悪魔のような内容―偽りの理由でアーリア人以外のドイツ在住民や反政府分子を集め、それを虐殺する様を見せる兵士の心理状況を観察して軍事情報とする研究―と、まさに題名どおりナチス統治下のドイツは「獣たちの庭園」なのだ。 しかし本当の題名の意味は舞台となるドイツにある「ティーアガルテン」から採られている。これはそのまま原題の"Garden Of Beasts"の意であり、帝政ドイツ時代の王族が狩りをした場所という由来があるのだが、勿論この言葉には別の意味もあり、ポールが潜伏している下宿屋の女将ケーテ・リヒターの恋人がかつて突撃隊に殺された場所でもある。つまり動物を表す「ティーア」には暴漢、罪人という意味もあるのだ。 しかしそれ以上にやはり私はこの題名には上に書いた作品の舞台となっている戦時下のドイツそのものを指しているように思う。 いつもはジェットコースターサスペンスの如く、ページを捲る手が止まらない物語運びをみせるディーヴァーだが、本書では実にじっくりと語り、ポール・シューマンが標的ラインハルト・エルンストを暗殺するまでのプロセスを描いていく。 派手さに欠けるものの、ディーヴァーならではのどんでん返しもあり、最後のポールの決断ともう一人の主役ヴィリの決断はなかなか渋さを感じる。ディーヴァーはこんなものも書けるのだなぁと思った次第。 ジェフリー・ディーヴァーという作者名からいつもの作風を期待すると肩透かしを食らうかもしれないがこれもまたディーヴァーなのだ。 暗殺者と標的、そしてそれを追う者の攻防に焦点を当てず、敢えてナチス統治下のドイツを克明に描くことを選択したディーヴァーの意図を是非とも汲み取ってもらいたい作品だ。 |
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神保町の古本屋で手に入れた久々のレンデル作品はウェクスフォード主任警部シリーズの1つだった。
シリーズ6作目であり、1作目の『薔薇の殺意』を除いて連続してシリーズを読むことになり、また幸運にもこの後の作品『ひとたび人を殺さば』に至るシリーズの空隙を埋めることになった。 今回の事件は失踪事件もしくは誘拐事件だ。12歳の少女と5歳の男児の行方不明事件をウェクスフォード警部が捜査するという構成だが、物語の主軸は寧ろウェクスフォードの部下マイク・バーデンにあるといっていいだろう。 愛する妻ジーンをクリスマスに喪い、失意のどん底にいた彼の目の前に現れたのが失踪した息子を探してほしいと請う女性ジェンマ・ロレンス。母子家庭で一人息子のジョンを育てていた彼女の事件を担当するマイクは次第に彼女に惹かれていくのだ。 一方で亡きジーンの代わりに息子と娘の世話を義妹のグレースに頼みながら、ジーンの思い出に浸って家庭を顧みない一面を見せる。そんな態度に憤りを覚えずにはいられないグレース。彼女は家事を完璧にこなした亡き姉の存在からの見えないプレッシャーもあり、バーデンのサポートを待ち望んでいる。 ジェンマとグレースに対する感情に揺れ動くバーデンは、亡き妻の埋め合わせをどちらに求めるべきか思い惑う。時にはエキセントリックなジェンマに惹かれ、時には亡きジーンの面影を見出し、彼女に代わって家庭を切り盛りするグレースこそ理想の妻と考えもするが、情緒不安定な時期にある彼は鉄のように熱しやすく冷めやすいその感情にほだされ、シーソーのようにどちらに傾いては引いていく。 そんなバーデンに振り回されるグレースの存在が切ない。かつては有能な看護婦として自立していた女性だった彼女が姉の死によって義兄の子供達の世話をするようになった。当初は半年ぐらいの予定だったがそれがどんどん延びていき、今では職場復帰することは諦めてさえいる。そんな彼女がほしいのはバーデンが少しでも家庭を顧み、そして労いの言葉をかけてくれることだ。 しかしそれがバーデンには伝わらず、お互いが誤解を生み、すれ違っていく。この辺の感情の機微が生む男女の齟齬を書かせるとレンデルは抜群に上手い。 さらにバーデンはジェンマの魅力とセックスの快楽に溺れ、ジェンマに結婚を申し込む。さらには失踪しているジェンマの息子がこのまま見つからなければいいとさえ願うようになる。 ウェクスフォードの良き片腕だった彼の凋落ぶりには同じ男として情けないものを感じてしまった。 また今回の子供の失踪事件がウェクスフォードやバーデンの心に翳を落とし、町の人々たちがわが子を肌身離さずに買い物に行ったり、雨天の日には迎えに行ったりしている光景を見て、我々警察の仕事というのは一体何なのかと自問する。 さらに失踪した娘のことはもはや眼中になく、恋人同士の思いに戻ったステラの両親アイヴァーとロザリンドのスワン夫妻の歪んだ感情など、こういう点描を紡いで事件から波及する現代社会の問題を浮かび上がらせるところはただ単純にミステリを書いているわけではないというレンデルの作家としてのプライドだろう。 物語の焦点はやがてジェンマの息子の失踪からステラの死体が見つかったことからステラの失踪事件の方にシフトしていく。そしてステラ殺害の犯人は実に意外な人物なのだが、今までの物語で語られてきたエピソードの数々がパズルのように当て嵌まって事件の構図を描き出す。イギリス本格の構成の妙味を感じさせ、久々に爽快感を味わった。 物語、そしてミステリとしてもやはりレンデルの上手さは感じたが、納得のいかない部分もあったので評価は7ツ星としておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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犯人との推理合戦とでも云おうか、連続殺人事件を画策する「Y」なる人物とエラリイの推理の闘いという原点回帰の作品だ。
後期クイーン問題と現在でも称されているように、国名シリーズの後は探偵の存在意義について深く悩むエラリイの姿が作品のテーマになっており、そのためか純然たるパズラーとして読者との知恵比べを前面に押し出した知的ゲームの要素は成りを潜め、登場人物の家庭に潜む問題や人間関係の軋轢などを深く描き、事件は地味ながらも、人間の心がもたらす犯罪を扱っていた。 しかし本書では原点に立ち返ったかの如く、限定された土地に構えられた4つの城に先代の遺言に従って住まう一家の人間達に起きる殺人計画へのエラリイの挑戦という、犯人対探偵の図式を前面に押し出しているのだ。 舞台はヨーク・スクエアなるヨーク家の4つの城が四方に立ち並ぶ一角。そこに住まうそれぞれの城主たち、とおよそ20世紀とは思えない閉鎖的な空間と限られた登場人物たちで構成される、本格ミステリど真ん中な設定。そんな古典的な設定を敢えて晩年期のクイーンが持ち出したことに私の関心は向かってしまう。 しかしこの『Yの悲劇』との近似性は一体何だろうか? 題名にもなっている盤面の敵である匿名の犯人が使う名前はYだし、『Yの悲劇』で一番最初に死体で発見されたのはヨーク・ハッターならば本書の連続殺人の被害者はヨーク一族。そして何よりも両者とも示唆殺人であるところが一致している。 以前私は『Yの悲劇』の感想で「『Yの悲劇』はまだ終わらない」と締め括ったが、本書は舞台を変えた『続Yの悲劇』とも云えるのではないだろうか? 後期クイーン問題を経て、再び『Yの悲劇』の主題に立ち返ったと思われる本作。さて件の作品から約30年経って著されたのだが、そこに何かの発展があったかといえば確かにこの作品にはあるだろう。しかしそれは現代から見れば使い古された設定に過ぎない。 しかし新しい物は生まれた時点で廃れる運命にある。本書は当時の先進性ゆえに現在では逆に古さを感じる内容になってしまった哀しい作品であるのだ。 しかし本書をそれだけで論じてしまうのには早計だ。題名にあるようにクイーンならではの遊び心が横溢している。 チェスに見立てた登場人物設定と、「クイーン」という名が犯人と探偵とのチェス・ゲームにマッチしている妙味はやはり枯れてもクイーンかと思わせる発想の冴えを思わせる。 クイーンの諸作を発表順に読み続けている私はどうしても彼の過去の作品を対照化して考えてしまうため、そこに隠されている作者の意図を考えずにいられない。したがって前述のように本書は第二の『Yの悲劇』として意識して読んだきらいはある。それゆえ自分の中の期待値のハードルを挙げてしまったのだが、それを差し引いても本書が現代に残るべき作品なのか真相を読むだに疑問だ。 しかし作者クイーンがミステリに対していかに新たな血を注ごうかと精力的であったのは存分に窺える。本書を読む人はそんな背景も汲んで是非とも臨んでいただきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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当初3部作で構想されていたフランケンシュタインシリーズの第1部終了を告げるのが本書である。
元々クーンツはノンシリーズの作品をたくさん書いていたが21世紀の今頃になっていきなりオッド・トーマスとフランケンシュタインという2つのシリーズ物を書き出した。前者も後者もその第1作は近年の彼の作品の中でも出色の出来ともいうべき素晴らしいもので、シリーズの先行きを十分期待させるのだが、第1作に全てを投じてしまうのか、新巻が出るたびに大味になり、物語もオーソドックスな感じになってしまう。オッド・トーマスは今は中断されており、こちらのシリーズは続巻が出されているようだ。 これは多分にこのシリーズではフリークたちが人造人間、新人種という形でどんどん出てくるからで、こういった常軌を逸脱したキャラクターたちはクーンツの十八番である。このシリーズはまさにクーンツのクーンツによるフリークショーなのだ。 そして今回でも特別な能力を与えられているのが犬。本書ではレプリカントであるギトロー夫妻に殺される隣人のベネット夫妻が飼っているシェパード、デュークだ。デュークはかつて燃え盛る家の中から子供を救ったことで街でも有名な英雄犬として知られている。デュークは臭いでその人間が善玉か悪玉かを見分ける(臭い分ける?)ことが出来る。これはこの犬が特別だということを示しているのだろうが、それに加えて恐らく犬を飼っていたクーンツが一緒に生活をしていて感じたことも反映されているのだろう。しかしそれにしても最近のクーンツの犬への偏愛振りはさすがに食べ飽きた感がある。 最後に蛇足めいた補足を。デュカリオンが最後に行き着く場所はセント・バーソロミュー修道院。そう、クーンツ読者ならばこの名を聞いて思い出すだろう。その修道院にはかつてオッド・トーマスがいたのだ。これはクーンツのファンサービスなのだろうか。恐らくこの2つのシリーズが交わることはないだろうが、もしそうなったらクーンツがオッド・トーマスシリーズを止めているのも理由があってのことかもしれない。 まあ、続いて刊行されるシリーズを愉しみに待つことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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West Meets East。
本作の主題を一言で表すとこうなるだろうか。 中国からの密入国者とそれを抹殺する蛇頭の殺し屋の捜索に図らずも中国から密入国してきた刑事ソニー・リーと協同して捜査することになったライムとリーとの交流が実に面白い。物語の構図は殺し屋対ライムと変わらないが、決してマンネリに陥らないようアクセントを付けているところがディーヴァーは非常に上手い。特にお互いが白酒とスコッチと西と東の蒸留酒を飲み交わしあいながら語り合い、碁を打ち始めるシーンはとても印象的だ。 毎回このシリーズには名バイプレイヤーが登場するが本書ではまさしくこのソニー・リーだ。 現場に遺された遺留品や証拠類、痕跡から快刀乱麻を断つがごとく、犯人の行動を再現し、その正体に迫っていくライムだが、今回は東洋、中国人の思想という壁に阻まれ、いつものように殺し屋の先手を打つ精細さが発揮できない。西洋人の論理的思考が中国人の面子を重んじる精神を上手く理解できず、成り行きで捜査の手伝いをすることになった中国公安局刑事ソニー・リーにイニシアチブと取られてしまう場面が多々出てくる。 あくまで物的証拠を重視し、刑事の勘などを一切認めなかったライム―その頑なさが前作『エンプティー・チェア』でアメリアとライムとの対立を生んでいた―が本書では東洋の―というか中国人の―特異な考え方のために、ソニー・リーに頼らざるを得なくなるのが面白い。世界一の犯罪学者と称され、巻を重ねるごとに全知全能性にますます拍車がかかっていくライムを『エンプティー・チェア』では知らない土地での捜査という趣向で、本書では異民族との戦いという趣向でライムが決して万能神にならないよう工夫を凝らしているのが素晴らしい。 『エンプティー・チェア』と云えば、冒頭に『コフィン・ダンサー』で標的になった被害者のボディガードになったローランド・ベルがいとこが保安官を務めている『エンプティー・チェア』の舞台ノースカロライナで、同書にも登場したルーシー・カーと付き合っているというエピソードがさりげなく挿入されているあたりはシリーズを読む者にとってささやかな醍醐味だろう。とはいえ、前作の結末を知っている者にはいささか複雑なものを感じる話ではあるのだが。 またシリーズも4作目になるというのにまだまだ鑑識の世界は奥深く、今回もディーヴァーは我々一般市民の知らない専門知識や情報を教えてくれる。 例えば証拠物件を扱うのにピンセットではなく日本人や中国人が使っている箸を使うのだそうだ。箸の方が力を上手く和らげ証拠物件を損傷することなく扱えるからだという。 また鑑識捜査で大敵であるのが現場に落とされる捜査官達の頭髪やら皮膚、汗など部外者による余計な証拠なのだが、これを解消すべくフード付の防護服が開発されたこと(しかしその着装姿はとてもカッコいいものではないらしいが・・・)。 鑑識以外にも豆知識はふんだんに盛り込まれていて、例えばライムの半身不随の手術に使われるのがサメの細胞などということも触れられる。これはサメの細胞が人間の物と適合しやすいからだそうだが、今ではこれはiPS細胞になるんだろうなぁ。 またディーヴァーといえばどんでん返しが定番だが、しかしこれには無理があるのではないか? もう一つディーヴァー作品に欠かせないのが息もつかせぬサスペンス。『コフィン・ダンサー』の時は一部空が舞台になったが、本書では一部海が舞台になっている。 前者が航空機の操縦についての薀蓄が語られ、さらにスペクタクルまで用意されていたが、本書ではスキューバ・ダイビングで沈んだ密入国船の捜索にアメリアが当たる。刻々と無くなっていく残存酸素量がタイムリミットサスペンスを煽り立てるところはさすがディーヴァーといった所か。 しかしメインのゴーストとライム&アメリアの対決は意外にも呆気なく終わる。しかし物語の主眼は今までの敵になかった政府との太いパイプを持った殺し屋をいかに逮捕するかというところに置かれている。 捕まったゴーストは中国へ送還され買収した役人・警察たちの手によってすぐさま自由の身となるのだが、それをいかに阻止するかにライムたちチームの捜査がメインとなっている。したがってアクション性は今までの作品の中ではちょっと大人しく感じた。しかしゴーストは他の敵とは違って逮捕されただけでライムとアメリアの住所も知っているだけに再登場して今後の驚異となる可能性もあるのかもしれない。 さて本書のタイトルとなっている「石の猿」とは殺し屋の名前ではなく実は日本人に馴染みのある西遊記の孫悟空のことだ。細かくいうと密入国者の一人、医者のジョン・ソンがしている首飾りに付けられたお守りのこと。 暴れん坊の猿の妖怪が天竺への旅で知見を増やし、改悛していくというモチーフからソニー・リーという刑事が中国の東の国アメリカに渡って親不孝者と思われていた自分を親に認めさせるという影のテーマに擬えているのだろうが、もっと他にもあったのではないだろうか? 今回は従来のジェットコースターサスペンスの趣向から外れ、異文化とライムの邂逅を軸に中国密入国者の現状とチャイナタウンの陰の部分を描くことでストーリーに濃密さをもたらそうとしたのは解る。確かに密入国者のサム・チャンが車が来るたびに、誰かの話し声がするたびに電灯を消し、息を潜めて暮らさなければならない状況に絶望するエピソードなどはなかなかに読ませ、考えさせられたが、もう少し掘り下げてくれればもっと読み応えがあっただろう。 特に読み応えを感じたのはライムとリーのやり取りの箇所だった。特にライムが脊髄の手術を取止める決心をさせたのがリーの言葉だったというのは重要だし、シリーズの今後の方向を決める部分でもあった。 しかし毎度のことながらこの世は騙し騙されの連続で、賢く立ち回った者が生き残り、素直で世間の怖さを知らない無垢な人間は生きていけないのではと思わされる。 作品の性質上これは仕方ないのだが、蛇頭の魔の手から逃れるために善玉の密入国者サム・チャンの取った行動でさえライムの推理を手玉に取るくらいのフェイクだし、そして真相で明かされるのはまたもや政府高官たちの悪行―ゴーストがわざわざ密入国者を殺そうとしたのは福建省の高官たちが企業の賄賂を受け取って潤っている事実を亡命した反体制活動家から暴露されるのを防ぐ為―だ。 政治と金、権力と金の汚さこそが実はこのシリーズの隠れたテーマになっていることを気付かなければならない。 『エンプティー・チェア』から続いたライムの四肢麻痺からの回復への道もここで一旦終了。そしてアメリアが抱くライムの子を授かりたいという思いも一段落着いたような形だ。次作はまた新たなシリーズのステップの始まりではないだろうか。 もう一度『ボーン・コレクター』や『コフィン・ダンサー』で見せた手に汗握るサスペンスを期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾版ユーモア短編集とでも云おうか。その名の通り、ちょっと笑いを誘う短編で編まれている。
まず冒頭を飾るのは「鬱積電車」。これはまさに身に摘まされる。ラッシュアワーの電車の中で各人が抱く不満がつらつらと書かれた群像劇。 ラッシュで諦めていたが思わず目の前の席が空いてラッキーだと思う者。焼肉を食べた隣の酔っ払い親父の息の臭さに辟易するOL、席を譲るのをあえて促す老婆に妊婦、そしてオバサン、さらにそれにどうにか抵抗しようとするサラリーマン、そしてやたらと目の前の女性にいやらしい目つきを配る中年男、などなど。 ここには通退勤で電車を利用している我々が日常に抱くであろうことが書かれている。単に「あるある!」感を誘うだけの話かと思いきや、皮肉な結末が待っている。この結末も含め、実に上手い。 続く「おっかけバァサン」では年金と亡き夫の生命保険で細々と食い繋ぐ老婆が偶然手に入れた芸能人のショーの公演でいきなりおっかけに目覚めた顛末が語られる。 う~ん、真面目一筋、ケチ一筋で生きてきた人が華やかな世界に目覚め、身持ちを崩すというのはよくある。例えば男なら退職の送別会で初めて連れて行かれたキャバクラに目覚め、その後の老後生活を破綻させてしまう、なんて実例もある。 しかしこのオチは悪趣味だなぁ。 「一徹おやじ」はわが子をプロ野球選手にしようと一サラリーマンが独自の英才教育で息子を鍛えていくタイトルどおり『巨人の星』のパロディ。 実に面白い!この手の作品は色んなパターンが考えられると思うが、東野氏は敢えて息子に自身の適えられなかった夢を託した親父の願いどおりに息子がプロ野球選手に選出されるように語っていく。ブラックな結末も面白いが、それよりもこの作品の語り手を息子の姉に設定したことが何より面白い。男の子の欲しかった父親がその代わりに我が娘をプロ野球選手にしようと鍛えるというのはこれまたよくあるから、一歩引いた冷めた視点の語り口がユーモアを醸し出している。 東野氏らしいアイデア「逆転同窓会」はある時期に同じ学年を担当した教師達による同窓会というお話。毎年恒例のその会に当時の生徒を招待することにしたのだが・・・。 教師同士の同窓会。意外とこれは実際にやっているのかもしれない。そして生徒が当時の教師をゲストとして呼ぶように教師も当時の生徒をゲストとして呼ぶという着想の妙。そしてそうすることで起きる意外な弊害。実に考えられたプロット。 幹事の先生が心中で述べる「生徒の同窓会は現在に生きる彼らが過去に戻るためにやるが、教師の同窓会に呼ばれた彼らは過去に現在を持ち込む」という言葉に全て集約されている。しかしそれでもなお最後に意外かつ思わず微笑んでしまうオチを用意しているのは東野氏ならでは。 「超たぬき理論」は幼い頃に和歌山の母の実家でたぬきが空を飛んで去っていくのを見たことをきっかけに在野のたぬき研究家となってUFOがたぬきが化けた姿だという自論で話題になり、メディアでUFO研究家と議論を繰り広げるといった話。 たぬきをモチーフに実にバカバカしくこじつけ理論を展開する東野氏の悪ふざけが横溢した作品。ギリシャ神話からアダムスキー型UFOが文福茶釜と類似しているとかたぬきの語源が英語だったとか、よくもまあ思いついたものだ。最後の一行の脱力物のオチは果たしてあった方がよかったのかなぁ。 脱力物といえば次の「無人島大相撲中継」もまた同じだ。 世界ビックリ人間にいそうな、過去の大相撲の取組を全て暗記し、実況中継として再現する元アナウンサー。ここから話題を膨らませて、賭けのために八百長を強要するのだが、最後のオチが脱力物。まあ、確かに古い家電は叩けば直るというのは布石としてあったのだが。 「しかばね台分譲住宅」は郊外のベッドタウンに突如現れた正体不明の死体を巡って、事件の影響で地価下落を恐れた住民達が同じようなベッドタウンに死体を遺棄して逆に向こうの地価下落を画策するのだが、やがてそれが死体を押し付けあう街同士の抗争に発展していく。 これは最高に面白かった。これが本書の中でベスト。通常の推理小説ならば死体が出れば警察に連絡というのが定石だが、実情はこの作品にあるように風評被害を恐れて街ぐるみでの隠蔽工作に走るのかもしれない。東野氏のブラックユーモアのセンスが色濃く出た作品だ。 しかし住民達の抗争で次第にボロボロになっていく名も無き死体が哀れを誘う。 どこかで聞いたような題名の「あるジーサンに線香を」は若返りの実験体となった一人暮らしの老人の約三ヶ月間の記録を主人公の老人の日記で語った作品。 何も解らぬ妻と死別し、一人暮らしを続ける老人が次第に若さを取り戻し、恋をし、そしてまた老いていくのが日記で綴られていく。その題名からダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』のパロディであるのは想像に難くない。しかし私はフィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の方を思い浮かべた。 最後は「動物家族」。いつの間にか人が動物のように見えるようになったある男の子の話。人間の一番汚い心の部分を醜悪な生き物に例えて表現している。バブル崩壊時によくあった典型的なある家庭の姿なのだろう。今はこの頃よりも子供に対する扱いや対処の仕方が改善されているが、どこかにこういった家族はいるのだろう。 自分の都合ばかり考える父母に兄と姉に振り回される末っ子は誰もが動物に見えるのに自分は得体の知れない生き物としか見えなかった。これが最後の箍が外れることで彼の本性が解き放たれ、何の生き物だったのかが解る。ありきたりな話を寓話的に語ることで最後の結末にピリッと辛い味付けが施されている。 タイトルに偽りなし。まさに「快笑」ならぬ「怪笑」といわざるを得ないブラックなユーモアが詰まった短編集だ。 ここに収められている短編の登場人物はいわゆる「あなたに似た人」。我々の平凡な日常や世間にどこにでもいる、もしくはいそうなちょっと変わった滑稽な人々のお話だ。 ラッシュアワーの電車内での風景、老後生活に入ってからスターの追っかけに目覚めた人、プロ野球選手になれなかった自分の夢を託して息子を鍛える一徹親父、教師同士の同窓会、幼い頃の原初体験をきっかけにトンデモ学の研究にのめり込む者にあるスポーツに異様に詳しい者や甘い言葉にだまされ郊外に家を建てて通勤地獄に苦しむ者たち、身内を亡くして行く当てもなく孤独死を迎えるだけの一人身の老人に家庭崩壊寸前の核家族。通勤中や会社で、飲み屋で見かける人々や新聞の三行記事で書かれていたり、ワイドショーで取り上げられたりするような家族や人。日常というドア一枚隔てた先に広がる空間でいるだろう人々だ。 つまり登場人物が非常に人間臭いのだ。だから例えば殺人事件が起きたとしても警察にすぐさま通報というミステリの定型を取らず、そのことで降りかかる風評被害といった災厄を懸念し、皆で隠蔽しようとする。 しかしよくよく考えるとこれこそが日常を生きる我々が取ってもおかしくない行動であり、思考である。重ね重ねになるがここに出てくる見苦しくも愛らしい人々は私の、あなたの姿だといえる。だからこそ非常に親近感を覚えて作品を楽しめる。 個人的なベストはブラックユーモア色が一番濃い「しかばね台分譲住宅」で、次点で「鬱積電車」か。着想の妙では「逆転同窓会」が実際にありそうでリアルに感じた。 しかし東野氏はユーモアを書かせても上手いなぁ。というよりも関西人の彼の本領は実はここにあるのではないか? 「おっかけバァサン」や「一徹おやじ」、「無人島大相撲実況中継」などはコントとして発表してもおかしくない。この前読んだ『あの頃ぼくらはアホでした』で、本当にしょーもないことばかりを面白おかしく語ってみせ、緻密で流麗で後味がほろ苦い感傷的なミステリを書く作家というイメージを覆した東野氏があのエッセイを書くことで何かが吹っ切れ、地の姿を存分に出したようだ。 この後『毒笑小説』、『黒笑小説』とシリーズ(?)は続くようなので非常に楽しみ。本当は8ツ星献上したかったのだが、それはまた次に取っておくとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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打海文三氏は今はもう亡き作家だ。2002年に発表した『ハルビン・カフェ』で注目され、その後『裸者と裸者』に始まる近未来の日本での戦争を描いた『応化戦争記シリーズ』で将来を嘱望されたが2007年に心筋梗塞で夭折。まだ59歳という若さだったから、これはやはり不遇ということになるだろう。
彼の小説はなかなか文庫化にならず、デビュー作で横溝正史ミステリ大賞を受賞してから3作発表したが、初めて文庫化されたのが5作目の本書だった。 なおデビュー作の『灰姫 鏡の国のスパイ』は文庫化されていない。 デビュー作は題名から国際問題を題材にしたエスピオナージュのようなものを得意とする作家かなと想像したが本書は所謂プライヴェート・アイ小説。この作家独自の味付けがされている。 まず鈴木ウネ子(どうやら本名ではないらしい)は60過ぎの元結婚詐欺師という経歴を持つ女探偵。いつも男に飢えているが仕事はデキる。 探偵仲間の野崎は元警官で背の低さと容姿にコンプレックスを抱いているが心に獣を飼っている男。 彼らが追うのは元巡査で元探偵だった阪本尚人。人の人生に関らずにはいられず、仕事と私生活の境界線を引くことが出来ない不器用な男。 そしてもう1人の探偵が13歳の登校拒否児、戸川姫子だ。物語は渋谷の公園で見つかった全裸死体に阪本が関っていることが解り、彼を警察、鈴木ウネ子と野崎、戸川姫子の3組が阪本を巡って奔走するといったもの。 しかしこれは単なる人探しの探偵物語ではない。 これは女の戦いの物語である。 渋谷の公園で見つかった全裸の女性死体の事件に隠された警察の犯罪を描いたこの作品は実は阪本尚人という男を軸にした女同士の激しい戦いなのだ。 戦闘に立つ女性は4人。本書の主人公13歳の戸川姫子は登校拒否児であるが既に精神は大人であり、大人に同等に渡り合う知恵を備えている。 そして阪本の探偵仲間の鈴木ウネ子。 そして被害者の南志保。かつて自分の妹を殺された犯人が阪本の命令を逸脱した行為によって引き起こされたものと思い、糾弾していたがそのうちに阪本に惚れ、同棲していた女。 そして最後は高木伊織。キャリアで阪本の元上司だが、周囲と違う雰囲気を備えた巡査の阪本に惚れ、南志保と三角関係に陥ってしまう。 そう彼女たちの中心に位置する阪本尚人という男は冷めた顔に愛くるしい笑顔が似合うが、一旦仕事でも自分の人生に関ればその後の生き様まで目を見晴らせ、道を誤っていれば更正を促すという、いまどき珍しいほど情に厚い男。警官だったが上に書いた命令違反行為によって懲戒免職になり、その後探偵に身をやつし、その生活に疲れ、山梨の山奥で農家を始めて隠遁生活を送るようになった、一風変わった男。 彼がこの4人に嵐を生み出し、人が死ぬまでになった、いわば災厄の男なのだ。 つまりこれは追われる者阪本が現代版光源氏ともいうべき、出会う女がどうしても恋に、いや欲望に駆られざるを得ないようなフェロモンを漂わせている男なのだ。彼を追う警察の動機はもちろん警察上層部が女性刺殺事件に関った事実のもみ消しだが、他の女性たちはそんな利害よりも阪本という男を我が物にしたいと焦がれる欲望で突っ走っているようだ。 このプロットを可能にしたのが打海氏の設定の妙だろう。前述の姫子とウネ子は割愛するとして被害者の南志保は阪本が警官時代のミスがもとで妹を失い、阪本を社会的に抹殺しようと恨みを募らせていたが、いつの間にか阪本に惹かれてしまうし、高木伊織にいたっては阪本のかつての上司。このキャリアの警官が30代前半の女性だったという設定は他に見たことがなく、意外に盲点で感心した。 しかし本書に出てくる女性は老いも若きも互いの相手を年下、年増と侮らず同等の女性として扱っているのに感心する。特にウネ子の姫子に対する眼差しが温かく、清々しい。いいライバルとして機能していて読んでいて気持ちよかった。 傑作とまではいかないが読後感に一迅の涼風が吹く好編だ。 しかしもう少し題名はどうにかならなかったかなぁ。この題名から想像するのはすさまじいまでの撃合いとか暴力と血の物語だ。 先入観で読むのはいけないことだが、題名のつけ方も逆に云えば読者に先入観を与えるのだから大事なものだ。 もはや新作が読むことの出来ない作家だから、この声は届かないが、遺された作品に期待しよう。 |
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リンカーン・ライムが現代に甦ったシャーロック・ホームズ、即ちアナログ型探偵―最新鋭の分析機器で証拠の特性を探るという手法はあるが―だとすると、本作の主人公ワイアット・ジレットは電脳空間(本書では青い虚空(ブルー・ノーウェア)と呼んでいる)を自由に行き来するデジタル型探偵だ。
彼はかつてハッカーの中でも名を馳せたハッカー中のハッカーであったが、犯罪と紙一重のその行為で刑務所に入れられていた。そんな彼が相手をするのはかつて同じハッカーとして同様の実力を持っていた相手フェイトことジョン・パトリック・ホロウェイだ。 殺人鬼フェイトはかつては誰からも好かれる好青年だったが、悪質なハッカー行為をジレットに告発されて逮捕された経験を持つ。それを契機に彼はジョン・パトリック・ホロウェイという人格を捨て、オンラインゲーム「アクセス」の一戦士となって、現実の人間を殺戮し、ポイントを稼ぐようになる。 つまりもはや彼にとってはオフラインの日常とオンラインの日常の区別がつかなくなっており、現実の人間も作られたキャラクターだとみなしているのだ。また古いコンピュータに愛着を抱く点でもオタク中のオタクだと云っていい。物質主義社会にどっぷり漬かった人間だ。 しかしここに書かれている犯罪の完璧さに戦慄を覚える。なんせ容疑者発見の際に掛けた携帯電話がジャックされて犯人へ繋がり、援助が呼べなくなるのだ。さらには堅牢だと思われた学園のセキュリティシステムにも潜入し、得たい情報を得るとそれを元に身分証明書も作成し、身元照合に役立てるなど、また新聞や雑誌の記事で匿名化された取材対象者に対しても、取材した記者のパソコンへ侵入して個人情報を得るなど、もう何が安全でどうやったら個人情報が無事に守られ、平穏な生活が得られるのか不安になってしまう。 この作品を読むと、自分のパソコンが既に誰かに侵入されていると考えても不思議ではなくなってくる。いや逆に安全なパソコンなんて存在しないのではないだろうか? そんな世界中のパソコンに侵入し、情報を自由自在に操るフェイト。さらに彼はソーシャル・エンジニアリングの名手。ソーシャル・エンジニアリングとはいわば本当の自分を隠し、実在する人間、もしくは架空の人間を演じて成りきってしまう技術だ。彼は少年時代に演じることで周囲の注目を集めることを知り、ソーシャル・エンジニアリングの名手となった。これはもう史上最高のシリアルキラーといっても云いだろう。 しかしハッカーという仕事ほど私生活を、家庭を犠牲にするものはない。なにしろ常にウェブにアクセスし、世界中に広がる電脳空間を彷徨い続けるのだから。主人公のジレットは39時間ぶっ通しでアクセスしていたという記録を持っている。しかも彼らにとってその行為は甘美な毒であり、強烈な中毒性を備えているから、離れようとは思わないのだ。逆に少しでも離れてしまうと禁断症状のようにさもキーボードがあるかのように宙を指で叩く仕草をしてしまう。これはもうほとんど病気だ。 そして物語巧者ディーヴァーは今回もあれよあれよとどんでん返しを畳み掛ける。 特に今回は匿名性がまかり通った電脳空間での戦いであるがゆえに、本名とハンドルネームの二重の仕掛けとソーシャル・エンジニアリングという他者を偽る技術が三重四重のどんでん返しを生み出している。後半は読んでて誰が誰だか解らなくなってくるくらいだ。 しかし残念ながら今回の物語はパソコンの専門用語がどんどん出てくるし、特にハッカー、クラッカー連中のスラングが頻出しているのでなかなか理解するのに時間がかかってしまった。つまりページターナーであるディーヴァーの巧みな物語展開に上手く乗ることが出来なかった。 これは私だけでなく多くの読者がそうだろう。常にその道のプロを描くことで物語にリアルをもたらし、その上で読者の予想の常に斜め上を行くサスペンスを提供するディーヴァーだが、今回はそのリアルさがかえって仇になったようだ。 さて次はどのような物語で我々を酔わせてくれるのだろうか。まだまだ未読作品があることがこの上もない愉しみとさせてくれる作家だ。 |
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ジョン・ペラムシリーズ3作目。なんと前作『ブラッディ・リバー・ブルース』から9年ぶりの刊行だ。
これほどブランクが空いたのはやはりリンカーン・ライムシリーズが受けたため、そちらにかかりっきりになっていたからだろう。 今回の事件は放火。放火事件では日本と違い、警察だけでなく、それを専門にした火災調査官という職業の人間が現地調査に当たる。 ドン・ウィンズロウの『カリフォルニアの炎』でも詳細に語られていたが、アメリカの火災を装った保険金詐欺の現状はかなり深刻で、調査官はまず起きた火災が所有者の仕業ではないかを疑うらしい。したがってそれを裏付ける証拠や状況が見られるものならば、即座にその前提で調査を進めるのだ。 ペラムが撮っているヘルズ・キッチンのドキュメント映画のメイン・キャストになる女性エティ・ワシントンが自分のアパートを保険金詐欺を図ろうと放火した容疑で逮捕される。彼女の無実を証明するため、ペラムはヘルズ・キッチンを駆け巡る、というのが物語の骨子。 ジョン・ペラムはディーヴァーの他の作品のキャラと違い、女性関係が奔放である。映画産業に関わる人間ということで彼に接近する女性も多いのは確かだが、事件のたびに登場人物の1人と寝る。実にアメリカ的エンタテインメント作品の典型的な主人公だと云えよう。 ディーヴァー初期のシリーズであるこの作品が今や彼の看板作品となったリンカーン・ライムシリーズを経て、どのように生まれかわったのかが興味を惹くところだったが、意外にもディーヴァーはライムシリーズやその他のノンシリーズで売り物にしている息を吐かせぬ危機また危機の連続やタイムリミットサスペンスといったような展開を取らず、このシリーズの前2作同様に主人公のジョン・ペラムがじっくりと訪れた町を彷徨し、町に隠された貌を知っていく作りになっている。 登場人物一覧表に記載されてない人物のなんと多いことか。ディーヴァーはそれまでに培った上記の手法を敢えて取らずにシリーズ全体のバランスを優先したようだ。 しかしこれはディーヴァー作品を読んできた者にすれば、逆行した形になって不満が残るかもしれない。 でも長らく中断していたこのシリーズが、ライムが異郷の地で捜査をした『エンプティー・チェア』の後にこの作品が書かれたことは興味深い。もしかしたら『エンプティー・チェア』を書いている最中にペラムシリーズとの類似性に気付いたのかもしれない。 また真相もどんでん返しというよりも通常のミステリが放つサプライズといった感じだ。 ヘルズ・キッチン―なお現在は正式にはクリントンという名前らしい。これはやはりあの大統領に由来するのだろうか―は裏切りの町。誰もが自分を少しでも幸せにするため、出し抜こうとする。そんな町でまたもやペラムは裏切られる。 今回ペラムがどうして赤の他人の人間のために命を奪われそうになるまで捜査をするのか、その理由が判らなかったが、最後の最後で判明する。 これで恐らくこのシリーズは終わりだろう。彼の売れない作家時代を支えたこのシリーズの終焉を素直に祝福しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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