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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数688件
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ディーヴァーによる初の歴史小説。舞台は第二次世界大戦前のドイツ。台頭してきたヒトラーの頭脳とも云えるラインハルト・エルンスト暗殺を命じられる殺し屋の物語だ。
リンカーン・ライムシリーズとは違い、最初から目くるめくサスペンスの応酬といった物語運びではなく、主人公ポール・シューマンがひょんなことから任務に就くことを余儀なくされ、ドイツに潜入して現地工作員と落ち合い、標的の暗殺計画を練り、実行に至るまでのプロセスがじっくりと描かれていく。 もちろん稀代のストーリー・メーカーのディーヴァーのこと、ただ単純に経過を辿るのではなく、いきなりナチスの突撃隊員殺害というアクシデントが盛り込まれ、なかなか容易に物事が運ばないようになっている。 それはポールという謎めいた男を追うクルポ(ドイツ刑事警察)の凄腕刑事ヴィリ・コールが徐々に追い詰め、いつもあと一歩というところですり抜けるスリルを生み出している。 この物語運びから私は読んでいる途中、しばしば想起されたのはバー=ゾウハーの作品だ。ギリギリのところで捕まらない、他国へ潜入した者の緊張感は彼の作品に通ずるものを感じた。 しかしこのナチス統治下のドイツの緊張感とはなんと恐ろしいものか。学生たちはヒトラーの信奉者集団であるヒトラー・ユーゲントに入ることを強いられる。それは名目上は自由参加なのだが、非加入者は加入者からユダヤ人呼ばわりされ、蔑まされるのだ。そんな上下関係を打破する為に子供達が誰かを告発しようと考える異常な状況。 ゲシュタポやSDが平気で盗聴器を各家庭に仕掛け、不穏な会話をすればすぐさま逮捕され収容所に連れて行かれる。そのため市民は夜中にノックされればゲシュタポやSDではないかと恐怖に慄くのだ。 さらに近所の気のいいおばさんが実は反政府分子ではないかと疑いをかけ、笑顔で挨拶をしながらもその実いつも監視をしており、確信に至るやSDに通報して逮捕させたり、仕事の同僚や部下だと思っていたら実はゲシュタポのスパイだったり、そして最後の明かされる「ヴァルタム研究」の悪魔のような内容―偽りの理由でアーリア人以外のドイツ在住民や反政府分子を集め、それを虐殺する様を見せる兵士の心理状況を観察して軍事情報とする研究―と、まさに題名どおりナチス統治下のドイツは「獣たちの庭園」なのだ。 しかし本当の題名の意味は舞台となるドイツにある「ティーアガルテン」から採られている。これはそのまま原題の"Garden Of Beasts"の意であり、帝政ドイツ時代の王族が狩りをした場所という由来があるのだが、勿論この言葉には別の意味もあり、ポールが潜伏している下宿屋の女将ケーテ・リヒターの恋人がかつて突撃隊に殺された場所でもある。つまり動物を表す「ティーア」には暴漢、罪人という意味もあるのだ。 しかしそれ以上にやはり私はこの題名には上に書いた作品の舞台となっている戦時下のドイツそのものを指しているように思う。 いつもはジェットコースターサスペンスの如く、ページを捲る手が止まらない物語運びをみせるディーヴァーだが、本書では実にじっくりと語り、ポール・シューマンが標的ラインハルト・エルンストを暗殺するまでのプロセスを描いていく。 派手さに欠けるものの、ディーヴァーならではのどんでん返しもあり、最後のポールの決断ともう一人の主役ヴィリの決断はなかなか渋さを感じる。ディーヴァーはこんなものも書けるのだなぁと思った次第。 ジェフリー・ディーヴァーという作者名からいつもの作風を期待すると肩透かしを食らうかもしれないがこれもまたディーヴァーなのだ。 暗殺者と標的、そしてそれを追う者の攻防に焦点を当てず、敢えてナチス統治下のドイツを克明に描くことを選択したディーヴァーの意図を是非とも汲み取ってもらいたい作品だ。 |
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神保町の古本屋で手に入れた久々のレンデル作品はウェクスフォード主任警部シリーズの1つだった。
シリーズ6作目であり、1作目の『薔薇の殺意』を除いて連続してシリーズを読むことになり、また幸運にもこの後の作品『ひとたび人を殺さば』に至るシリーズの空隙を埋めることになった。 今回の事件は失踪事件もしくは誘拐事件だ。12歳の少女と5歳の男児の行方不明事件をウェクスフォード警部が捜査するという構成だが、物語の主軸は寧ろウェクスフォードの部下マイク・バーデンにあるといっていいだろう。 愛する妻ジーンをクリスマスに喪い、失意のどん底にいた彼の目の前に現れたのが失踪した息子を探してほしいと請う女性ジェンマ・ロレンス。母子家庭で一人息子のジョンを育てていた彼女の事件を担当するマイクは次第に彼女に惹かれていくのだ。 一方で亡きジーンの代わりに息子と娘の世話を義妹のグレースに頼みながら、ジーンの思い出に浸って家庭を顧みない一面を見せる。そんな態度に憤りを覚えずにはいられないグレース。彼女は家事を完璧にこなした亡き姉の存在からの見えないプレッシャーもあり、バーデンのサポートを待ち望んでいる。 ジェンマとグレースに対する感情に揺れ動くバーデンは、亡き妻の埋め合わせをどちらに求めるべきか思い惑う。時にはエキセントリックなジェンマに惹かれ、時には亡きジーンの面影を見出し、彼女に代わって家庭を切り盛りするグレースこそ理想の妻と考えもするが、情緒不安定な時期にある彼は鉄のように熱しやすく冷めやすいその感情にほだされ、シーソーのようにどちらに傾いては引いていく。 そんなバーデンに振り回されるグレースの存在が切ない。かつては有能な看護婦として自立していた女性だった彼女が姉の死によって義兄の子供達の世話をするようになった。当初は半年ぐらいの予定だったがそれがどんどん延びていき、今では職場復帰することは諦めてさえいる。そんな彼女がほしいのはバーデンが少しでも家庭を顧み、そして労いの言葉をかけてくれることだ。 しかしそれがバーデンには伝わらず、お互いが誤解を生み、すれ違っていく。この辺の感情の機微が生む男女の齟齬を書かせるとレンデルは抜群に上手い。 さらにバーデンはジェンマの魅力とセックスの快楽に溺れ、ジェンマに結婚を申し込む。さらには失踪しているジェンマの息子がこのまま見つからなければいいとさえ願うようになる。 ウェクスフォードの良き片腕だった彼の凋落ぶりには同じ男として情けないものを感じてしまった。 また今回の子供の失踪事件がウェクスフォードやバーデンの心に翳を落とし、町の人々たちがわが子を肌身離さずに買い物に行ったり、雨天の日には迎えに行ったりしている光景を見て、我々警察の仕事というのは一体何なのかと自問する。 さらに失踪した娘のことはもはや眼中になく、恋人同士の思いに戻ったステラの両親アイヴァーとロザリンドのスワン夫妻の歪んだ感情など、こういう点描を紡いで事件から波及する現代社会の問題を浮かび上がらせるところはただ単純にミステリを書いているわけではないというレンデルの作家としてのプライドだろう。 物語の焦点はやがてジェンマの息子の失踪からステラの死体が見つかったことからステラの失踪事件の方にシフトしていく。そしてステラ殺害の犯人は実に意外な人物なのだが、今までの物語で語られてきたエピソードの数々がパズルのように当て嵌まって事件の構図を描き出す。イギリス本格の構成の妙味を感じさせ、久々に爽快感を味わった。 物語、そしてミステリとしてもやはりレンデルの上手さは感じたが、納得のいかない部分もあったので評価は7ツ星としておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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犯人との推理合戦とでも云おうか、連続殺人事件を画策する「Y」なる人物とエラリイの推理の闘いという原点回帰の作品だ。
後期クイーン問題と現在でも称されているように、国名シリーズの後は探偵の存在意義について深く悩むエラリイの姿が作品のテーマになっており、そのためか純然たるパズラーとして読者との知恵比べを前面に押し出した知的ゲームの要素は成りを潜め、登場人物の家庭に潜む問題や人間関係の軋轢などを深く描き、事件は地味ながらも、人間の心がもたらす犯罪を扱っていた。 しかし本書では原点に立ち返ったかの如く、限定された土地に構えられた4つの城に先代の遺言に従って住まう一家の人間達に起きる殺人計画へのエラリイの挑戦という、犯人対探偵の図式を前面に押し出しているのだ。 舞台はヨーク・スクエアなるヨーク家の4つの城が四方に立ち並ぶ一角。そこに住まうそれぞれの城主たち、とおよそ20世紀とは思えない閉鎖的な空間と限られた登場人物たちで構成される、本格ミステリど真ん中な設定。そんな古典的な設定を敢えて晩年期のクイーンが持ち出したことに私の関心は向かってしまう。 しかしこの『Yの悲劇』との近似性は一体何だろうか? 題名にもなっている盤面の敵である匿名の犯人が使う名前はYだし、『Yの悲劇』で一番最初に死体で発見されたのはヨーク・ハッターならば本書の連続殺人の被害者はヨーク一族。そして何よりも両者とも示唆殺人であるところが一致している。 以前私は『Yの悲劇』の感想で「『Yの悲劇』はまだ終わらない」と締め括ったが、本書は舞台を変えた『続Yの悲劇』とも云えるのではないだろうか? 後期クイーン問題を経て、再び『Yの悲劇』の主題に立ち返ったと思われる本作。さて件の作品から約30年経って著されたのだが、そこに何かの発展があったかといえば確かにこの作品にはあるだろう。しかしそれは現代から見れば使い古された設定に過ぎない。 しかし新しい物は生まれた時点で廃れる運命にある。本書は当時の先進性ゆえに現在では逆に古さを感じる内容になってしまった哀しい作品であるのだ。 しかし本書をそれだけで論じてしまうのには早計だ。題名にあるようにクイーンならではの遊び心が横溢している。 チェスに見立てた登場人物設定と、「クイーン」という名が犯人と探偵とのチェス・ゲームにマッチしている妙味はやはり枯れてもクイーンかと思わせる発想の冴えを思わせる。 クイーンの諸作を発表順に読み続けている私はどうしても彼の過去の作品を対照化して考えてしまうため、そこに隠されている作者の意図を考えずにいられない。したがって前述のように本書は第二の『Yの悲劇』として意識して読んだきらいはある。それゆえ自分の中の期待値のハードルを挙げてしまったのだが、それを差し引いても本書が現代に残るべき作品なのか真相を読むだに疑問だ。 しかし作者クイーンがミステリに対していかに新たな血を注ごうかと精力的であったのは存分に窺える。本書を読む人はそんな背景も汲んで是非とも臨んでいただきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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当初3部作で構想されていたフランケンシュタインシリーズの第1部終了を告げるのが本書である。
元々クーンツはノンシリーズの作品をたくさん書いていたが21世紀の今頃になっていきなりオッド・トーマスとフランケンシュタインという2つのシリーズ物を書き出した。前者も後者もその第1作は近年の彼の作品の中でも出色の出来ともいうべき素晴らしいもので、シリーズの先行きを十分期待させるのだが、第1作に全てを投じてしまうのか、新巻が出るたびに大味になり、物語もオーソドックスな感じになってしまう。オッド・トーマスは今は中断されており、こちらのシリーズは続巻が出されているようだ。 これは多分にこのシリーズではフリークたちが人造人間、新人種という形でどんどん出てくるからで、こういった常軌を逸脱したキャラクターたちはクーンツの十八番である。このシリーズはまさにクーンツのクーンツによるフリークショーなのだ。 そして今回でも特別な能力を与えられているのが犬。本書ではレプリカントであるギトロー夫妻に殺される隣人のベネット夫妻が飼っているシェパード、デュークだ。デュークはかつて燃え盛る家の中から子供を救ったことで街でも有名な英雄犬として知られている。デュークは臭いでその人間が善玉か悪玉かを見分ける(臭い分ける?)ことが出来る。これはこの犬が特別だということを示しているのだろうが、それに加えて恐らく犬を飼っていたクーンツが一緒に生活をしていて感じたことも反映されているのだろう。しかしそれにしても最近のクーンツの犬への偏愛振りはさすがに食べ飽きた感がある。 最後に蛇足めいた補足を。デュカリオンが最後に行き着く場所はセント・バーソロミュー修道院。そう、クーンツ読者ならばこの名を聞いて思い出すだろう。その修道院にはかつてオッド・トーマスがいたのだ。これはクーンツのファンサービスなのだろうか。恐らくこの2つのシリーズが交わることはないだろうが、もしそうなったらクーンツがオッド・トーマスシリーズを止めているのも理由があってのことかもしれない。 まあ、続いて刊行されるシリーズを愉しみに待つことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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West Meets East。
本作の主題を一言で表すとこうなるだろうか。 中国からの密入国者とそれを抹殺する蛇頭の殺し屋の捜索に図らずも中国から密入国してきた刑事ソニー・リーと協同して捜査することになったライムとリーとの交流が実に面白い。物語の構図は殺し屋対ライムと変わらないが、決してマンネリに陥らないようアクセントを付けているところがディーヴァーは非常に上手い。特にお互いが白酒とスコッチと西と東の蒸留酒を飲み交わしあいながら語り合い、碁を打ち始めるシーンはとても印象的だ。 毎回このシリーズには名バイプレイヤーが登場するが本書ではまさしくこのソニー・リーだ。 現場に遺された遺留品や証拠類、痕跡から快刀乱麻を断つがごとく、犯人の行動を再現し、その正体に迫っていくライムだが、今回は東洋、中国人の思想という壁に阻まれ、いつものように殺し屋の先手を打つ精細さが発揮できない。西洋人の論理的思考が中国人の面子を重んじる精神を上手く理解できず、成り行きで捜査の手伝いをすることになった中国公安局刑事ソニー・リーにイニシアチブと取られてしまう場面が多々出てくる。 あくまで物的証拠を重視し、刑事の勘などを一切認めなかったライム―その頑なさが前作『エンプティー・チェア』でアメリアとライムとの対立を生んでいた―が本書では東洋の―というか中国人の―特異な考え方のために、ソニー・リーに頼らざるを得なくなるのが面白い。世界一の犯罪学者と称され、巻を重ねるごとに全知全能性にますます拍車がかかっていくライムを『エンプティー・チェア』では知らない土地での捜査という趣向で、本書では異民族との戦いという趣向でライムが決して万能神にならないよう工夫を凝らしているのが素晴らしい。 『エンプティー・チェア』と云えば、冒頭に『コフィン・ダンサー』で標的になった被害者のボディガードになったローランド・ベルがいとこが保安官を務めている『エンプティー・チェア』の舞台ノースカロライナで、同書にも登場したルーシー・カーと付き合っているというエピソードがさりげなく挿入されているあたりはシリーズを読む者にとってささやかな醍醐味だろう。とはいえ、前作の結末を知っている者にはいささか複雑なものを感じる話ではあるのだが。 またシリーズも4作目になるというのにまだまだ鑑識の世界は奥深く、今回もディーヴァーは我々一般市民の知らない専門知識や情報を教えてくれる。 例えば証拠物件を扱うのにピンセットではなく日本人や中国人が使っている箸を使うのだそうだ。箸の方が力を上手く和らげ証拠物件を損傷することなく扱えるからだという。 また鑑識捜査で大敵であるのが現場に落とされる捜査官達の頭髪やら皮膚、汗など部外者による余計な証拠なのだが、これを解消すべくフード付の防護服が開発されたこと(しかしその着装姿はとてもカッコいいものではないらしいが・・・)。 鑑識以外にも豆知識はふんだんに盛り込まれていて、例えばライムの半身不随の手術に使われるのがサメの細胞などということも触れられる。これはサメの細胞が人間の物と適合しやすいからだそうだが、今ではこれはiPS細胞になるんだろうなぁ。 またディーヴァーといえばどんでん返しが定番だが、しかしこれには無理があるのではないか? もう一つディーヴァー作品に欠かせないのが息もつかせぬサスペンス。『コフィン・ダンサー』の時は一部空が舞台になったが、本書では一部海が舞台になっている。 前者が航空機の操縦についての薀蓄が語られ、さらにスペクタクルまで用意されていたが、本書ではスキューバ・ダイビングで沈んだ密入国船の捜索にアメリアが当たる。刻々と無くなっていく残存酸素量がタイムリミットサスペンスを煽り立てるところはさすがディーヴァーといった所か。 しかしメインのゴーストとライム&アメリアの対決は意外にも呆気なく終わる。しかし物語の主眼は今までの敵になかった政府との太いパイプを持った殺し屋をいかに逮捕するかというところに置かれている。 捕まったゴーストは中国へ送還され買収した役人・警察たちの手によってすぐさま自由の身となるのだが、それをいかに阻止するかにライムたちチームの捜査がメインとなっている。したがってアクション性は今までの作品の中ではちょっと大人しく感じた。しかしゴーストは他の敵とは違って逮捕されただけでライムとアメリアの住所も知っているだけに再登場して今後の驚異となる可能性もあるのかもしれない。 さて本書のタイトルとなっている「石の猿」とは殺し屋の名前ではなく実は日本人に馴染みのある西遊記の孫悟空のことだ。細かくいうと密入国者の一人、医者のジョン・ソンがしている首飾りに付けられたお守りのこと。 暴れん坊の猿の妖怪が天竺への旅で知見を増やし、改悛していくというモチーフからソニー・リーという刑事が中国の東の国アメリカに渡って親不孝者と思われていた自分を親に認めさせるという影のテーマに擬えているのだろうが、もっと他にもあったのではないだろうか? 今回は従来のジェットコースターサスペンスの趣向から外れ、異文化とライムの邂逅を軸に中国密入国者の現状とチャイナタウンの陰の部分を描くことでストーリーに濃密さをもたらそうとしたのは解る。確かに密入国者のサム・チャンが車が来るたびに、誰かの話し声がするたびに電灯を消し、息を潜めて暮らさなければならない状況に絶望するエピソードなどはなかなかに読ませ、考えさせられたが、もう少し掘り下げてくれればもっと読み応えがあっただろう。 特に読み応えを感じたのはライムとリーのやり取りの箇所だった。特にライムが脊髄の手術を取止める決心をさせたのがリーの言葉だったというのは重要だし、シリーズの今後の方向を決める部分でもあった。 しかし毎度のことながらこの世は騙し騙されの連続で、賢く立ち回った者が生き残り、素直で世間の怖さを知らない無垢な人間は生きていけないのではと思わされる。 作品の性質上これは仕方ないのだが、蛇頭の魔の手から逃れるために善玉の密入国者サム・チャンの取った行動でさえライムの推理を手玉に取るくらいのフェイクだし、そして真相で明かされるのはまたもや政府高官たちの悪行―ゴーストがわざわざ密入国者を殺そうとしたのは福建省の高官たちが企業の賄賂を受け取って潤っている事実を亡命した反体制活動家から暴露されるのを防ぐ為―だ。 政治と金、権力と金の汚さこそが実はこのシリーズの隠れたテーマになっていることを気付かなければならない。 『エンプティー・チェア』から続いたライムの四肢麻痺からの回復への道もここで一旦終了。そしてアメリアが抱くライムの子を授かりたいという思いも一段落着いたような形だ。次作はまた新たなシリーズのステップの始まりではないだろうか。 もう一度『ボーン・コレクター』や『コフィン・ダンサー』で見せた手に汗握るサスペンスを期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾版ユーモア短編集とでも云おうか。その名の通り、ちょっと笑いを誘う短編で編まれている。
まず冒頭を飾るのは「鬱積電車」。これはまさに身に摘まされる。ラッシュアワーの電車の中で各人が抱く不満がつらつらと書かれた群像劇。 ラッシュで諦めていたが思わず目の前の席が空いてラッキーだと思う者。焼肉を食べた隣の酔っ払い親父の息の臭さに辟易するOL、席を譲るのをあえて促す老婆に妊婦、そしてオバサン、さらにそれにどうにか抵抗しようとするサラリーマン、そしてやたらと目の前の女性にいやらしい目つきを配る中年男、などなど。 ここには通退勤で電車を利用している我々が日常に抱くであろうことが書かれている。単に「あるある!」感を誘うだけの話かと思いきや、皮肉な結末が待っている。この結末も含め、実に上手い。 続く「おっかけバァサン」では年金と亡き夫の生命保険で細々と食い繋ぐ老婆が偶然手に入れた芸能人のショーの公演でいきなりおっかけに目覚めた顛末が語られる。 う~ん、真面目一筋、ケチ一筋で生きてきた人が華やかな世界に目覚め、身持ちを崩すというのはよくある。例えば男なら退職の送別会で初めて連れて行かれたキャバクラに目覚め、その後の老後生活を破綻させてしまう、なんて実例もある。 しかしこのオチは悪趣味だなぁ。 「一徹おやじ」はわが子をプロ野球選手にしようと一サラリーマンが独自の英才教育で息子を鍛えていくタイトルどおり『巨人の星』のパロディ。 実に面白い!この手の作品は色んなパターンが考えられると思うが、東野氏は敢えて息子に自身の適えられなかった夢を託した親父の願いどおりに息子がプロ野球選手に選出されるように語っていく。ブラックな結末も面白いが、それよりもこの作品の語り手を息子の姉に設定したことが何より面白い。男の子の欲しかった父親がその代わりに我が娘をプロ野球選手にしようと鍛えるというのはこれまたよくあるから、一歩引いた冷めた視点の語り口がユーモアを醸し出している。 東野氏らしいアイデア「逆転同窓会」はある時期に同じ学年を担当した教師達による同窓会というお話。毎年恒例のその会に当時の生徒を招待することにしたのだが・・・。 教師同士の同窓会。意外とこれは実際にやっているのかもしれない。そして生徒が当時の教師をゲストとして呼ぶように教師も当時の生徒をゲストとして呼ぶという着想の妙。そしてそうすることで起きる意外な弊害。実に考えられたプロット。 幹事の先生が心中で述べる「生徒の同窓会は現在に生きる彼らが過去に戻るためにやるが、教師の同窓会に呼ばれた彼らは過去に現在を持ち込む」という言葉に全て集約されている。しかしそれでもなお最後に意外かつ思わず微笑んでしまうオチを用意しているのは東野氏ならでは。 「超たぬき理論」は幼い頃に和歌山の母の実家でたぬきが空を飛んで去っていくのを見たことをきっかけに在野のたぬき研究家となってUFOがたぬきが化けた姿だという自論で話題になり、メディアでUFO研究家と議論を繰り広げるといった話。 たぬきをモチーフに実にバカバカしくこじつけ理論を展開する東野氏の悪ふざけが横溢した作品。ギリシャ神話からアダムスキー型UFOが文福茶釜と類似しているとかたぬきの語源が英語だったとか、よくもまあ思いついたものだ。最後の一行の脱力物のオチは果たしてあった方がよかったのかなぁ。 脱力物といえば次の「無人島大相撲中継」もまた同じだ。 世界ビックリ人間にいそうな、過去の大相撲の取組を全て暗記し、実況中継として再現する元アナウンサー。ここから話題を膨らませて、賭けのために八百長を強要するのだが、最後のオチが脱力物。まあ、確かに古い家電は叩けば直るというのは布石としてあったのだが。 「しかばね台分譲住宅」は郊外のベッドタウンに突如現れた正体不明の死体を巡って、事件の影響で地価下落を恐れた住民達が同じようなベッドタウンに死体を遺棄して逆に向こうの地価下落を画策するのだが、やがてそれが死体を押し付けあう街同士の抗争に発展していく。 これは最高に面白かった。これが本書の中でベスト。通常の推理小説ならば死体が出れば警察に連絡というのが定石だが、実情はこの作品にあるように風評被害を恐れて街ぐるみでの隠蔽工作に走るのかもしれない。東野氏のブラックユーモアのセンスが色濃く出た作品だ。 しかし住民達の抗争で次第にボロボロになっていく名も無き死体が哀れを誘う。 どこかで聞いたような題名の「あるジーサンに線香を」は若返りの実験体となった一人暮らしの老人の約三ヶ月間の記録を主人公の老人の日記で語った作品。 何も解らぬ妻と死別し、一人暮らしを続ける老人が次第に若さを取り戻し、恋をし、そしてまた老いていくのが日記で綴られていく。その題名からダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』のパロディであるのは想像に難くない。しかし私はフィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の方を思い浮かべた。 最後は「動物家族」。いつの間にか人が動物のように見えるようになったある男の子の話。人間の一番汚い心の部分を醜悪な生き物に例えて表現している。バブル崩壊時によくあった典型的なある家庭の姿なのだろう。今はこの頃よりも子供に対する扱いや対処の仕方が改善されているが、どこかにこういった家族はいるのだろう。 自分の都合ばかり考える父母に兄と姉に振り回される末っ子は誰もが動物に見えるのに自分は得体の知れない生き物としか見えなかった。これが最後の箍が外れることで彼の本性が解き放たれ、何の生き物だったのかが解る。ありきたりな話を寓話的に語ることで最後の結末にピリッと辛い味付けが施されている。 タイトルに偽りなし。まさに「快笑」ならぬ「怪笑」といわざるを得ないブラックなユーモアが詰まった短編集だ。 ここに収められている短編の登場人物はいわゆる「あなたに似た人」。我々の平凡な日常や世間にどこにでもいる、もしくはいそうなちょっと変わった滑稽な人々のお話だ。 ラッシュアワーの電車内での風景、老後生活に入ってからスターの追っかけに目覚めた人、プロ野球選手になれなかった自分の夢を託して息子を鍛える一徹親父、教師同士の同窓会、幼い頃の原初体験をきっかけにトンデモ学の研究にのめり込む者にあるスポーツに異様に詳しい者や甘い言葉にだまされ郊外に家を建てて通勤地獄に苦しむ者たち、身内を亡くして行く当てもなく孤独死を迎えるだけの一人身の老人に家庭崩壊寸前の核家族。通勤中や会社で、飲み屋で見かける人々や新聞の三行記事で書かれていたり、ワイドショーで取り上げられたりするような家族や人。日常というドア一枚隔てた先に広がる空間でいるだろう人々だ。 つまり登場人物が非常に人間臭いのだ。だから例えば殺人事件が起きたとしても警察にすぐさま通報というミステリの定型を取らず、そのことで降りかかる風評被害といった災厄を懸念し、皆で隠蔽しようとする。 しかしよくよく考えるとこれこそが日常を生きる我々が取ってもおかしくない行動であり、思考である。重ね重ねになるがここに出てくる見苦しくも愛らしい人々は私の、あなたの姿だといえる。だからこそ非常に親近感を覚えて作品を楽しめる。 個人的なベストはブラックユーモア色が一番濃い「しかばね台分譲住宅」で、次点で「鬱積電車」か。着想の妙では「逆転同窓会」が実際にありそうでリアルに感じた。 しかし東野氏はユーモアを書かせても上手いなぁ。というよりも関西人の彼の本領は実はここにあるのではないか? 「おっかけバァサン」や「一徹おやじ」、「無人島大相撲実況中継」などはコントとして発表してもおかしくない。この前読んだ『あの頃ぼくらはアホでした』で、本当にしょーもないことばかりを面白おかしく語ってみせ、緻密で流麗で後味がほろ苦い感傷的なミステリを書く作家というイメージを覆した東野氏があのエッセイを書くことで何かが吹っ切れ、地の姿を存分に出したようだ。 この後『毒笑小説』、『黒笑小説』とシリーズ(?)は続くようなので非常に楽しみ。本当は8ツ星献上したかったのだが、それはまた次に取っておくとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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打海文三氏は今はもう亡き作家だ。2002年に発表した『ハルビン・カフェ』で注目され、その後『裸者と裸者』に始まる近未来の日本での戦争を描いた『応化戦争記シリーズ』で将来を嘱望されたが2007年に心筋梗塞で夭折。まだ59歳という若さだったから、これはやはり不遇ということになるだろう。
彼の小説はなかなか文庫化にならず、デビュー作で横溝正史ミステリ大賞を受賞してから3作発表したが、初めて文庫化されたのが5作目の本書だった。 なおデビュー作の『灰姫 鏡の国のスパイ』は文庫化されていない。 デビュー作は題名から国際問題を題材にしたエスピオナージュのようなものを得意とする作家かなと想像したが本書は所謂プライヴェート・アイ小説。この作家独自の味付けがされている。 まず鈴木ウネ子(どうやら本名ではないらしい)は60過ぎの元結婚詐欺師という経歴を持つ女探偵。いつも男に飢えているが仕事はデキる。 探偵仲間の野崎は元警官で背の低さと容姿にコンプレックスを抱いているが心に獣を飼っている男。 彼らが追うのは元巡査で元探偵だった阪本尚人。人の人生に関らずにはいられず、仕事と私生活の境界線を引くことが出来ない不器用な男。 そしてもう1人の探偵が13歳の登校拒否児、戸川姫子だ。物語は渋谷の公園で見つかった全裸死体に阪本が関っていることが解り、彼を警察、鈴木ウネ子と野崎、戸川姫子の3組が阪本を巡って奔走するといったもの。 しかしこれは単なる人探しの探偵物語ではない。 これは女の戦いの物語である。 渋谷の公園で見つかった全裸の女性死体の事件に隠された警察の犯罪を描いたこの作品は実は阪本尚人という男を軸にした女同士の激しい戦いなのだ。 戦闘に立つ女性は4人。本書の主人公13歳の戸川姫子は登校拒否児であるが既に精神は大人であり、大人に同等に渡り合う知恵を備えている。 そして阪本の探偵仲間の鈴木ウネ子。 そして被害者の南志保。かつて自分の妹を殺された犯人が阪本の命令を逸脱した行為によって引き起こされたものと思い、糾弾していたがそのうちに阪本に惚れ、同棲していた女。 そして最後は高木伊織。キャリアで阪本の元上司だが、周囲と違う雰囲気を備えた巡査の阪本に惚れ、南志保と三角関係に陥ってしまう。 そう彼女たちの中心に位置する阪本尚人という男は冷めた顔に愛くるしい笑顔が似合うが、一旦仕事でも自分の人生に関ればその後の生き様まで目を見晴らせ、道を誤っていれば更正を促すという、いまどき珍しいほど情に厚い男。警官だったが上に書いた命令違反行為によって懲戒免職になり、その後探偵に身をやつし、その生活に疲れ、山梨の山奥で農家を始めて隠遁生活を送るようになった、一風変わった男。 彼がこの4人に嵐を生み出し、人が死ぬまでになった、いわば災厄の男なのだ。 つまりこれは追われる者阪本が現代版光源氏ともいうべき、出会う女がどうしても恋に、いや欲望に駆られざるを得ないようなフェロモンを漂わせている男なのだ。彼を追う警察の動機はもちろん警察上層部が女性刺殺事件に関った事実のもみ消しだが、他の女性たちはそんな利害よりも阪本という男を我が物にしたいと焦がれる欲望で突っ走っているようだ。 このプロットを可能にしたのが打海氏の設定の妙だろう。前述の姫子とウネ子は割愛するとして被害者の南志保は阪本が警官時代のミスがもとで妹を失い、阪本を社会的に抹殺しようと恨みを募らせていたが、いつの間にか阪本に惹かれてしまうし、高木伊織にいたっては阪本のかつての上司。このキャリアの警官が30代前半の女性だったという設定は他に見たことがなく、意外に盲点で感心した。 しかし本書に出てくる女性は老いも若きも互いの相手を年下、年増と侮らず同等の女性として扱っているのに感心する。特にウネ子の姫子に対する眼差しが温かく、清々しい。いいライバルとして機能していて読んでいて気持ちよかった。 傑作とまではいかないが読後感に一迅の涼風が吹く好編だ。 しかしもう少し題名はどうにかならなかったかなぁ。この題名から想像するのはすさまじいまでの撃合いとか暴力と血の物語だ。 先入観で読むのはいけないことだが、題名のつけ方も逆に云えば読者に先入観を与えるのだから大事なものだ。 もはや新作が読むことの出来ない作家だから、この声は届かないが、遺された作品に期待しよう。 |
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リンカーン・ライムが現代に甦ったシャーロック・ホームズ、即ちアナログ型探偵―最新鋭の分析機器で証拠の特性を探るという手法はあるが―だとすると、本作の主人公ワイアット・ジレットは電脳空間(本書では青い虚空(ブルー・ノーウェア)と呼んでいる)を自由に行き来するデジタル型探偵だ。
彼はかつてハッカーの中でも名を馳せたハッカー中のハッカーであったが、犯罪と紙一重のその行為で刑務所に入れられていた。そんな彼が相手をするのはかつて同じハッカーとして同様の実力を持っていた相手フェイトことジョン・パトリック・ホロウェイだ。 殺人鬼フェイトはかつては誰からも好かれる好青年だったが、悪質なハッカー行為をジレットに告発されて逮捕された経験を持つ。それを契機に彼はジョン・パトリック・ホロウェイという人格を捨て、オンラインゲーム「アクセス」の一戦士となって、現実の人間を殺戮し、ポイントを稼ぐようになる。 つまりもはや彼にとってはオフラインの日常とオンラインの日常の区別がつかなくなっており、現実の人間も作られたキャラクターだとみなしているのだ。また古いコンピュータに愛着を抱く点でもオタク中のオタクだと云っていい。物質主義社会にどっぷり漬かった人間だ。 しかしここに書かれている犯罪の完璧さに戦慄を覚える。なんせ容疑者発見の際に掛けた携帯電話がジャックされて犯人へ繋がり、援助が呼べなくなるのだ。さらには堅牢だと思われた学園のセキュリティシステムにも潜入し、得たい情報を得るとそれを元に身分証明書も作成し、身元照合に役立てるなど、また新聞や雑誌の記事で匿名化された取材対象者に対しても、取材した記者のパソコンへ侵入して個人情報を得るなど、もう何が安全でどうやったら個人情報が無事に守られ、平穏な生活が得られるのか不安になってしまう。 この作品を読むと、自分のパソコンが既に誰かに侵入されていると考えても不思議ではなくなってくる。いや逆に安全なパソコンなんて存在しないのではないだろうか? そんな世界中のパソコンに侵入し、情報を自由自在に操るフェイト。さらに彼はソーシャル・エンジニアリングの名手。ソーシャル・エンジニアリングとはいわば本当の自分を隠し、実在する人間、もしくは架空の人間を演じて成りきってしまう技術だ。彼は少年時代に演じることで周囲の注目を集めることを知り、ソーシャル・エンジニアリングの名手となった。これはもう史上最高のシリアルキラーといっても云いだろう。 しかしハッカーという仕事ほど私生活を、家庭を犠牲にするものはない。なにしろ常にウェブにアクセスし、世界中に広がる電脳空間を彷徨い続けるのだから。主人公のジレットは39時間ぶっ通しでアクセスしていたという記録を持っている。しかも彼らにとってその行為は甘美な毒であり、強烈な中毒性を備えているから、離れようとは思わないのだ。逆に少しでも離れてしまうと禁断症状のようにさもキーボードがあるかのように宙を指で叩く仕草をしてしまう。これはもうほとんど病気だ。 そして物語巧者ディーヴァーは今回もあれよあれよとどんでん返しを畳み掛ける。 特に今回は匿名性がまかり通った電脳空間での戦いであるがゆえに、本名とハンドルネームの二重の仕掛けとソーシャル・エンジニアリングという他者を偽る技術が三重四重のどんでん返しを生み出している。後半は読んでて誰が誰だか解らなくなってくるくらいだ。 しかし残念ながら今回の物語はパソコンの専門用語がどんどん出てくるし、特にハッカー、クラッカー連中のスラングが頻出しているのでなかなか理解するのに時間がかかってしまった。つまりページターナーであるディーヴァーの巧みな物語展開に上手く乗ることが出来なかった。 これは私だけでなく多くの読者がそうだろう。常にその道のプロを描くことで物語にリアルをもたらし、その上で読者の予想の常に斜め上を行くサスペンスを提供するディーヴァーだが、今回はそのリアルさがかえって仇になったようだ。 さて次はどのような物語で我々を酔わせてくれるのだろうか。まだまだ未読作品があることがこの上もない愉しみとさせてくれる作家だ。 |
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ジョン・ペラムシリーズ3作目。なんと前作『ブラッディ・リバー・ブルース』から9年ぶりの刊行だ。
これほどブランクが空いたのはやはりリンカーン・ライムシリーズが受けたため、そちらにかかりっきりになっていたからだろう。 今回の事件は放火。放火事件では日本と違い、警察だけでなく、それを専門にした火災調査官という職業の人間が現地調査に当たる。 ドン・ウィンズロウの『カリフォルニアの炎』でも詳細に語られていたが、アメリカの火災を装った保険金詐欺の現状はかなり深刻で、調査官はまず起きた火災が所有者の仕業ではないかを疑うらしい。したがってそれを裏付ける証拠や状況が見られるものならば、即座にその前提で調査を進めるのだ。 ペラムが撮っているヘルズ・キッチンのドキュメント映画のメイン・キャストになる女性エティ・ワシントンが自分のアパートを保険金詐欺を図ろうと放火した容疑で逮捕される。彼女の無実を証明するため、ペラムはヘルズ・キッチンを駆け巡る、というのが物語の骨子。 ジョン・ペラムはディーヴァーの他の作品のキャラと違い、女性関係が奔放である。映画産業に関わる人間ということで彼に接近する女性も多いのは確かだが、事件のたびに登場人物の1人と寝る。実にアメリカ的エンタテインメント作品の典型的な主人公だと云えよう。 ディーヴァー初期のシリーズであるこの作品が今や彼の看板作品となったリンカーン・ライムシリーズを経て、どのように生まれかわったのかが興味を惹くところだったが、意外にもディーヴァーはライムシリーズやその他のノンシリーズで売り物にしている息を吐かせぬ危機また危機の連続やタイムリミットサスペンスといったような展開を取らず、このシリーズの前2作同様に主人公のジョン・ペラムがじっくりと訪れた町を彷徨し、町に隠された貌を知っていく作りになっている。 登場人物一覧表に記載されてない人物のなんと多いことか。ディーヴァーはそれまでに培った上記の手法を敢えて取らずにシリーズ全体のバランスを優先したようだ。 しかしこれはディーヴァー作品を読んできた者にすれば、逆行した形になって不満が残るかもしれない。 でも長らく中断していたこのシリーズが、ライムが異郷の地で捜査をした『エンプティー・チェア』の後にこの作品が書かれたことは興味深い。もしかしたら『エンプティー・チェア』を書いている最中にペラムシリーズとの類似性に気付いたのかもしれない。 また真相もどんでん返しというよりも通常のミステリが放つサプライズといった感じだ。 ヘルズ・キッチン―なお現在は正式にはクリントンという名前らしい。これはやはりあの大統領に由来するのだろうか―は裏切りの町。誰もが自分を少しでも幸せにするため、出し抜こうとする。そんな町でまたもやペラムは裏切られる。 今回ペラムがどうして赤の他人の人間のために命を奪われそうになるまで捜査をするのか、その理由が判らなかったが、最後の最後で判明する。 これで恐らくこのシリーズは終わりだろう。彼の売れない作家時代を支えたこのシリーズの終焉を素直に祝福しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シリーズの主人公エラリイは全く登場せず、純粋にその父親リチャード警視―本作では既に定年退職しているので正確には元警視―が事件解決に当たる物語。
これは現在世間ではエラリイ・クイーンシリーズの1つとして扱われているが、現代ならばスピンオフ作品とするのが妥当だろう。 クイーン元警視が主人公ということで物語の趣向は従来のパズラーから警察小説、いやプライヴェート・アイ小説に変わってきているのが興味深い。つまり証拠を元に推理するプロセスではなく、足と刑事の勘で捜査を進めていき、容疑者を犯人と断定する決定的な証拠がない時点でも直接的に自身の推理を披瀝し、容疑者にプレッシャーをかけるという手法を取っている。これがクイーンのシリーズ作品としては実に珍しいことだ。 そして警察小説ではなく、プライヴェート・アイ小説と訂正したのは既に警察を退職したリチャードがなかなか口を割らない容疑者を落とすため、警察が踏むべき手順を逸脱した捜査方法を取るからだ。 捜査令状を抜きにした不法侵入に証拠捏造。エラリイが活躍する作品では良識という存在だったリチャードがこれほどまでぶっ飛んだことをやるとは思わなかった。 これは思うに作者クイーンが私立探偵小説なるものを書きたかったに違いない。そこで理詰めで考えて行動するエラリイではその趣向には合わないとしてリチャードを退職警官と設定して著したのではないか。 だから肝心の事件の真相は私の予想したとおりだった。これは恐らく当時としてはショッキングな真相かつ驚愕の真相だったかもしれないが、現在となっては別段目新しさを感じないし、恐らく読者の半分くらいは真相を見破ることが出来るのではないだろうか。 もしかしたらそれ故に本書が長らく絶版の憂き目に遭っているのかもしれない。 しかし本書でもっとも面白いのは物語のサイドストーリーとしてリチャード・クイーンとハンフリイ家の保母ジェッシイ・シャーウッドの恋物語が語られることだ。前妻を亡くして30年後に訪れた我が世の春。熟年男女の恋愛が物語の横軸になろうなんてかつてのクイーン作品では考えられなかった演出だ。 63歳という年齢でありながら50代の夫人を魅了するリチャード。やもめが長かっただけになかなか本意を伝えず、不器用で拙い付き合い方を示す彼と看護婦一筋で人生を送ってきたジェッシイのようやく訪れた春を受け入れようか入れまいかと葛藤する熟年同士の恋模様は、今では稀有な純情恋物語としても読め、物語の絶妙なスパイスとなった。 とまあ、今回はリチャードが実は無頼派の気質を持っていることや老境に至ってなお女性を魅了する雰囲気を備えていることなど、シリーズでは垣間見れなかった意外な一面が見れたことで個人的には面白かった。そしてジェシイ・シャーウッドとの関係が次回作以降、どのようにシリーズに関ってくるのか非常に愉しみである。 今までどおり何もなかったかのようにいつもの様子で物語が展開するかもしれないが・・・。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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どうやらシリーズ物らしく、『オレたちバブル入行組』の続編に当るようだ。なぜこんな書き方をするのかと云えば、実はこの作家の作品を読むのは本書が初めて。
乱歩賞作家で名前は認知していたが、食指が伸びず、私の読書人生の線上には乗らないだろうと思っていたが、上司から出張先で頂き、そのまま捨てるにはもったいないということで読んだ次第。 率直な感想としては面白かったといえるだろう。銀行を舞台にした経済小説というよりも企業小説で、主人公の半沢の反骨精神が本書のキモだ。 次長の身分で自らの上司、他部署の部長のみならず、各支店の支店長はおろか常務取締役や頭取までにも食いつく。いくら仕事がデキルからといって、こんなあちこちに自分の道理を通して我が道を行き、歯に衣を着せない言動を行うサラリーマンなんているわけがない。ましては旧弊的な風習の残る銀行業界だから何をかいわんや。 一般企業に勤める私でさえ、読みながらこれは夢物語だ、日本とよく似た世界での出来事だと思ってしまう。 しかしこういう風に思ってしまうこと自体、私が年取ってしまったのだろう。 20代の頃は自分の理想に少しでも近づけようと時に横暴にふるまって意志を通してきた。それがカッコいいと思っていた節もあるし、俺がやらなきゃ誰がやるんだ?といった妙な正義感に駆られていたように思う。半沢を見ているとかつての自分がいるかのように思えた。 しかしこの年になってくると自分を通すことがいかに周囲の理解と協力の下に成り立ってきたのかが解り、またそれによって犠牲にさせてしまったことも少なからずあることを知ってしまった。 だから若いころのように純粋な気持ちで自分を貫くよりも周囲への配慮を優先してしまうようになっていた。 正直云って主人公の半沢は会社という組織の中では異端分子であり、同じ部署で同僚にしたくもないし、もちろん部下にも持ちたくない人物だ。 作者は銀行マンから作家に転向した人だから、銀行マン時代に云いたくても云えなかったことを彼に代弁させていると容易に推測できる。つまり半沢こそ作者の理想像なのだろう。 そして本書を読むサラリーマン全てが自分ではできない言動をわが身を省みずに行う半沢に日頃の鬱憤を晴らすヒーローとして重ね合わせていることだろう。 さて物語だが、半沢を中心に大きく分けて3つのエピソードから成り立っている。 1つは冒頭から展開する融資した伊勢崎ホテルという老舗ホテルの莫大な損益をいかに解決するかという話。 そしてもう1つは半沢のいる銀行からタミヤ電機という会社に出向になった近藤直弼の再生の話。 そして最後は金融庁の黒崎検査官という凄腕の検査官の検査をいかにしのぐかという話だ。 これらは最初は独立していながらも徐々に漸近していき、密接に関わってくる。しかもそれらは有機的に関係を持ち、一方が一方において致命的な原因になったり、また他方では絶体絶命の窮地を打開する切り札になったりと実にうまく絡み合っていく。この辺のストーリーの運び方とプロットの巧みさには感心する物があった。 特に金融業という一般の人にはなかなか入り込みにくい題材を平易に噛み砕いて淀みなく語って読者に立ち止まらせることなく進行させるのだから、この読みやすさは実は驚異的だと云ってもいいだろう。 この面白さに気付くのは本書を手に取った人のみだというのは至極当たり前のことだが、そういう意味では本書は実に題名で損をしていると思う。 実際私がそうだったのだが、バブルを経験していない社会人はバブル入社組に色眼鏡をかけて見ているところがある。戦後まれに見る好景気で名前さえ書ければ馬鹿でもアホでも入社できた時代、そんな認識があるのだ。 特にその頃もてはやされたのはオツムは足りなくても体力に自信のある、いわゆる体育会系の人物で、実際私の勤める会社にもバブル入社の人間は妙に体格のいい人間がそろっており、しかもそういった人種の例に洩れず、尊大で傲慢な人も見受けられる。そんな偏見と先入観を持っていたため、「バブル組」=「バカ集団」という図式があった。しかし本書を読んで認識を改めた。 実は彼らこそ会社における犠牲者なのだということに気付かされた。作中、登場人物の一人で半沢の相棒渡真利が云うには彼らの世代は全共闘世代が何も考えずに金融業を迷走させたツケを払わされており、しかも同期が大量にいるからずっと出世競争に晒され、戦々恐々としているのだと。 今まで私は彼らをそんな風に思ったことはなかった。確かに競争の厳しい世代であるだろうことは解るが、ここまで逼迫した世代だとは思わなかった。 確かにこれがまるまる私の会社に当てはまるとは思わないが、上に書いたような先入観が長らく私の中にあっただけに、この事実は新鮮だった。 今後この作家の小説を読むとは解らないし、おそらくはないだろうが、本書は読んで良かったと思える作品だった。 やはり本を読むということ、その作品をその時に読むということは何か見えざる者に導かれているように以前から感じていたが、今回も同様の思いだ。 さて次に上司はどんな本を勧めてくれるのか。本書を読んでそれが楽しみの1つとなってきた。 |
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リンカーン・ライム3作目はライムのテリトリーであるニューヨークを離れたノースカロライナ州のパケノーク郡なる異郷の田舎町での捜査。
ニューヨークのどこにどんな土があり、どんな建物が建っているか、手に取るように熟知していたライムだが、やはり異郷の地ではそれが通用せず、また現地捜査官の捜査レベルの低さに失望を禁じえない。 作中で例えられているように世界一の犯罪学者と称された彼もそこでは“陸に上がった魚”で、いつものような調子が出ない。 さらにライムとアメリアに捜査協力を頼んだ保安官ジム・ベル―なんと『コフィン・ダンサー』で活躍したローランド・ベルのいとこ!―が殊更に彼ら2人を優遇するものだから、地元の保安官連中は面白くない。そんな軋轢との戦いも今回は要素に加わっている。 さらに今回は今まで師弟関係と愛情を分かち合う強い絆で結ばれていたライムとアメリアの関係に変化が訪れる。なんとアメリアがライムの意見を疑問視し、犯人と思われる少年を留置場から逃がして独自の判断で捜査に臨むのだ。 証拠が全てだという現代に甦ったシャーロック・ホームズとも云えるライムの考えと容疑者に直に対峙したアメリアの直感が錯綜する。云わば理と情の錯綜だ。 そして読んでいるこちらはどちらが正しいのかハラハラしながら読むようになる。 そして今回も追うべき犯人の素性は判っている。ただ前作はライムたちにとって未詳であったが、読者たちにとっては犯人の身元は判っていた。今回はライムたちも判っているところに違いがある。 これがまた曲者で、はてさてどんなサプライズがあるのかと身構えてしまう。 その追われる犯人とはギャレット・ハンロンという16歳の少年。養子として迎えいられたものの馴染めず、浮浪少年のように気に食わない人間がいれば暴力に訴え、拉致したりするという癌ともいうべき存在である。 彼はまた昆虫を愛でる“昆虫少年”と呼ばれており、その知能は年齢にそぐわない専門書を読解するくらい高い。彼はその仇名のとおり、昆虫に関する知識を基に行動し、大人達を手玉に取る。特にハチを味方につけて、生物トラップとして活用し、彼を追う者達へ容赦ない痛手を負わせる。 やはり今回もどんでん返しがあった。それは一概にこれだ!と云えるものではなく、あらゆる要素に亘って読者の予想の上をいく展開を見せていると思う。 特に今回は事件の本質自体が変わっている。前2作が連続殺人鬼対名探偵というシンプルな構成にその正体にサプライズを仕込んでいた。そして今回はライムが協力を依頼されたのは誘拐事件で犯人の居所およびその獲保と監禁されている被誘拐者の救出だったのが、捜査が進むにつれ、本当の巨悪が見えてくるという構図になっている。 しかしなによりも今回のどんでん返しは警官殺しの罪に問われたサックスの処分だろう。これは私も凄いと思った。 どうにもならない事実をひっくり返すのにこれほど得心のいく新事実もない。いやあ、やはりディーヴァーはディーヴァーなのだなぁと感嘆した次第。 またシリーズ3作目になっても更なる鑑識に関する知識を提供しながら、今回は“昆虫少年”ギャレットが作中で色んな昆虫に纏わる習性や特殊な能力について薀蓄を傾ける。 しかし上に述べた様々な手法や技法を駆使してはいるものの、物語としてはいささか盛り上がりにかけるように思えた。 シリーズ物でありながらも作品ごとに趣向を変えるディーヴァー。今回はリアルタイムで殺人が起きるというものでなく、追う者と追われる者の頭脳合戦という構図を描きながら、それを包含する大きな構図を徐々に展開するという趣向だったが、個人的にはライムの唯我独尊ぶりが低減され、逆にこの話ではライムよりも他の人物の方がよかったのではないかと思わされた。 今回は証拠が語る事実を重視する捜査方法よりも捜査経験豊富なベテラン刑事が直感に頼って捜査を進める手法の方が適していたように思う。 さて今回の題名ともなっているエンプティ・チェアーとは「エンプティ・チェアー療法」に由来する。これは空っぽの椅子を患者の前に置き、患者にそこに座っている者を想像させ、色んな質問を投げかけ、それを椅子に向かって応えさせることで、患者の深層心理で抱えている感情を引き出し、更生させるという方法だ。 しかし果たして今回それが題名になるほど物語に大きな役割を果たしていたかというと甚だ疑問だ。私が読んだのは文庫本だが、文庫本の表紙にあるように今回の影の主役は蜂だし、またメインとなるのはギャレット・ハンロンという“昆虫少年”がメインだから、それに倣った題名の方が的を射ていると思う(原文が不明だから憶測でしかないが、やはり『インセクト・ボーイ』か『バグ・ボーイ』なのだろうか?)。 また『悪魔の涙』に引き続いてファンサービスというべき一文があった。ライムがギャレットの隠れ家に来たときに心中でもらす人物、元FBI交渉人アーサー・ポターは『静寂の叫び』の主人公。ここにもまたディーヴァーの作品世界の膨らみを感じさせてくれる演出があった。今回は一行で、しかもライムの心情吐露の部分での名のみでの登場なので気付かない人もいたのではないだろうか。 ということで前作『コフィン・ダンサー』が1作目を超えるエンタテインメント性とどんでん返しの意外性を備えた稀有の傑作だっただけに今回の作品はどちらかといえば“静”のディーヴァーだったように感じた。 しかしこの先の彼の作品がさらに盛り上がりを見せることを知っているがゆえに彼の作品の期待感は高まるばかりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回はノンシリーズの1作だが、嬉しいことにリンカーン・ライムが脇役で登場する。シーンは短いがその後の捜査に関する手掛かりを提示するので友情出演といった趣がある。
ワシントン市を相手取り、市を相手に身代金を要求する恐喝犯。4時間ごとに無差別殺人を起こすと宣言する男はしかし、殺人を犯すのは別の暗殺者と周到な計画で臨む。 この磐石と思われた犯罪計画が、トラックの運転手のわき見運転による信号無視で脆くも崩れ去る。明晰な脅迫者が突然死を迎えることで斯くも素晴らしいノンストップアクション作品が生まれるのか。 この見えない暗殺者に対抗するのが元FBI科学犯罪文書研究室の捜査官で離職後の今は文書検査士として自宅勤務をしているパーカー・キンケイド。彼の文章に隠された秘密を見抜く力、そしてそれらを分析・解析するプロセスは非常に面白い。直筆の文書も書中に掲載され、その中に隠された犯人の意図や性格を作中の彼の言葉を借りれば、パズルを解くが如く、あれよあれよと解明されていく。 例えば本書の題名は恐喝犯が遺した手紙の筆跡のある特徴に由来する。「i」の点が上に尻尾を伸ばし、水滴のような形を残していて、それをパーカーは「悪魔の涙」と呼んでいたのだ。これら文書に纏わるエピソードはたくさんあるが、特にビックリしたのはインクについて一部のメーカーは製造場所が判るように化学的なタグをつけていること。こんな薀蓄が私の知的好奇心をくすぐってしまう。 さらに取り調べ相手に与えた飲み物を入れたマグの表面に圧力を感知する仕掛けがあって、取っ手にマイクロチップ、バッテリーと送信機が仕込まれていて指紋がその場でデジタルデータとしてパソコンに送信されるなどという驚異のシステムがあることを初めて知った。 ディーヴァーはよく息をつかせぬスピーディな展開とどんでん返しが専売特許のように巷間では賞賛されているが実はそれだけではない。彼の精緻を極める取材力が登場人物たちを実在する人物であるかのごとく、読者の眼前に浮かび上がらせるからだ。 彼の作品に登場するFBI、市警の面々の捜査と彼らが交わす会話のディテールはまさしくその道のプロフェッショナルが放つ言葉そのものだ。だからこそ読者は普段垣間見れない世界を彼の作品を通じて教えられ、実際の捜査がものすごく高度な知的労働であることを思い知らされる。 さらに挙げるならば組み合わせの妙。前述したように本書では世界一の犯罪学者と称されるリンカーン・ライムも登場するが、彼は脇役に過ぎない。あくまで主役は文書検査を生業とするパーカー・キンケイドだ。 思うに今回のプロットはライムシリーズとしても全然損色なく最上のエンタテインメントが作れただろう。しかしあえて作者は文書検査士という職業の者を選んだ。この普段我々が接することのない職業の崇高さ、高度な技術と知識を要することを上手く物語に溶け込ませることで彼が主役であるべきだと説得している。 大晦日のワシントンを襲った無札別殺人テロに対抗する相手が文書検査士なんて発想はなかなか、いやめったに浮かばないだろう。この一見ミスマッチといえる組み合わせを用いながら、さも彼が捜査に加わって中心人物となることが必然であるかのように見せる文章運びの巧みさ。これらがディーヴァーを現代アメリカミステリの第一人者として知らしめているのだ。 さらにモチーフとなる業界や専門分野を登場人物たちの心情に絡ませるのも上手い。 『コフィン・ダンサー』では航空業界の人間をターゲットにしつつ、飛行機に対する思いをロマンスに上手く擬え、さらにライムの窓際に巣食っていたハヤブサのエピソードまでも因子として組み込んでいたが、本書でも同じく文書分析を登場人物の心情に上手く絡ませている。特に捜査班のリーダー、女傑のマーガレット・ルーカスの亡き息子が残した手紙から偲ばれる人柄について一度パーカーは筆跡は人柄を示さないと一蹴して、反感を買いながらも、打ち解けるにつれて「筆跡は精神の指紋だ」と述べ、二人の距離を縮めさせるあたりは非常に上手い。 最初はプロとして腕を買われたパーカーが気概もあったのだろう、あくまで感情をはさまずにプロとして放った言葉を、共に修羅場を経験するにつれて同族意識と愛に似た感情を抱くにつれ、本当の感情を吐かせる、この段階的に親和性を深めさせるプロセスが上手いと思うのだ。 しかしとはいってもディーヴァーを語るにどんでん返しを抜きには語れない。今回も大晦日が明ける夜の0時までの殺人予告というタイムリミットサスペンスを展開しながら、どんでん返しが待っていた。技法としてはけっこう、いやかなりあざとい感じがした。 彼が独白する一連の事件の背後に隠れた計画は、どうにもこじつけのように感じてしまった。 また折に触れ物語の表層に浮上するゲリー・モスの存在が逆に事件との関連がないままだったのが残念だった。議員汚職を告発し、テロに遭って家を失い、自身も重症を負って入院中の身である彼のこの事件がなんらかの因子となるのではと思っていたのだが。逆にこういうところがディーヴァーらしくないと思った。 作品の質としては悪くはない。寧ろ標準以上だろう。先に述べたように直筆の脅迫状を掲載してそれについて主人公パーカーに分析させるなど、読者の眼前で実際のFBIの捜査が繰り広げられているようなリアリティをもたらせている。 だからこそ逆に本書はストレートに終息する方がよかったように思う。どんでん返しが逆に仇になってしまった。また既にディーヴァーに高いハードルを課した自分に気付かされた一冊でもあった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クーンツ版フランケン・シュタインシリーズ第2弾。実は最近のクーンツ作品ではとびきりに面白い作品だと感じ、新刊が出るのを愉しみにしていた。
物語は前作からの続き。時系列的にもハーカーの死の直後から始まる。つまり連続ドラマを見ているような構成になっている。 本書では前作のハーカーに当たるようなカースンとマイクルのコンビに敵として立ちはだかるキャラクターとしてはヴィクターが生み出したレプリカントの夫婦の殺し屋ベニーとシンディのラブウェル夫妻が登場する。この2人のキャラクターが出色の出来だ。 ハンサムな夫に美しい妻で常に太陽のような笑顔を浮かべている、所謂アメリカの良心とも云うべきような理想のカップルなのだが、その役割が示すように微笑を浮かべながら殺しを履行するのだ。さらにシンディは培養によって生み出された生物でありながら出産願望が常にある。よくもまあこんなキャラクターを次から次へとクーンツは思い浮かべるものだと感心する。 1話完結で紡がれたオッド・トーマスシリーズと明らかに創作作法が違うが、逆に私はこのシリーズの手法の方が先が読めない展開だけに面白く感じた。 またところどころに挿入される小ネタも面白く、その中の1つに登場人物の口から古今東西の小説の名前が出てくる点が非常に楽しく感じた。 例えば前作で読書好きのヴィクターの妻エリカ4に後妻として登場するエリカ5が秘密の培養室に潜り込むときには少女探偵ナンシー・ドルーのように云いながら、いやノラのように勇ましいと訂正する。 前者は恐らく日本の読者でも知っているだろうが、後者は「?」が点灯することだろう。実は私もピンと来なかった。なんとノラとはハメットの『影なき男』に登場する私立探偵ニック・チャールズの妻なのだ。なんともマニアックな選択だ。既読の私でさえ思い出せなかった。 他にもデュカリオンの相棒である映画館オーナーのジェリー・ビッグズがミステリ好きであり、自身の好みを開陳する。曰く 「刑事が先住民だったり半身不随だったり、強迫神経症だったりする話は好きじゃないんだ。それに探偵が料理上手なのも」 それぞれ該当するシリーズが思いつくのではないだろうか。思わずニヤリとしてしまうシーンだ。 また古典『フランケン・シュタイン』の時代から生きてきたヴィクター。彼が今まで生きてきたことで歴史の裏側で時の権力者に関ってきたことがエピソードとして語られる。 スターリンもその中の1人で、彼が行った大量虐殺はヴィクターが自分の意のままに操れる新人類を生み出すことを見越しての行為だったと記される。こういったアクセントは小説好きの興趣をそそる。 そしてやはりキャラクターの妙味を忘れてはならない。 正直に云って主人公のカースン、マイクルのコンビは存在よりもヴィクターと彼が創造したレプリカントや新人種のキャラが立ちまくっている。彼らはヴィクターにあらかじめ人間を殺してはいけない、命令に背いてはいけないというプログラムが施されており、しかも本書では担わされる役割でアルファ、ベータ、ガンマ、エプシロンといった階級分けがされていることが判明する。彼らが旧人種と呼ぶ人間に成り替わって社会生活を営む者からヴィクターの身の回りの世話や研究所の掃除をするだけの役割の者でダウンロードされる情報量が違うという設定だ。 しかし何といってもヴィクターのプログラムゆえに発生するその特異な思考や性癖が彼らのキャラを際立たせているといっていい。前述した夫婦の殺し屋ラブウェル夫妻はもとより、人間の死体を処理する廃棄処理場長、警備主任など、クーンツの奇想のオンパレードだ。 元々クーンツには物語ごとに狂人やフリークを生み出しては読者をハラハラさせていたが、ここに至ってさらにその枠を大きく振り払って、嬉々として健筆を揮っているかのようだ。 しかしその中のキャラクターでも物語を鍵を握ると思われたヴィクターの実験場ハンズ・オブ・マーシーを抜け出した新人種ランドル6が早くも退場するとは思わなかった。しかも主役のカースンの弟に会いに行くという役割的には重要だっただけに、あっさり殺されたのはなんとも呆気ない。 本書を読むとやはりクーンツは三部部作構想だったようで、ヴィクターとデュカリオンの対決を早々に着けようとしているようなせっかちさを感じた。 本書ではレプリカント、新人種の生みの親ヴィクターの制御が徐々に崩壊し、カタストロフィへ向けて様々な事象が描かれる。 細胞分裂を起こし、異形の存在へ変身する者。 抑えていた旧人種すなわち人間への嫌悪感への箍がはずれ、殺人衝動のままに殺戮を起こそうとする者。 レプリカントである自分の存在に絶望し、死を乞う者。 そして前作ハーカーから分離した存在は創造主ヴィクターへの反逆を促し、殺すよう促す。研究所を制御していたコンピュータはバグを起こし、怪物を世に解き放とうとする。 そしてとうとうヴィクターと対面したデュカリオンはどう彼に対抗するのか。色んな謎や不吉な予感を孕みつつ物語は閉じられた。 一刻も早い次巻の刊行を望む。枯れてもクーンツと思わせる次が気になる作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ・クイーンといえば、名探偵エラリイ・クイーンにドルリー・レーンのシリーズが思い浮かび、それ以外の作品はないかと思っていたが、本作は数少ない彼のノンシリーズ作品。<シンの辻>と呼ばれるニュー・イングランドの過疎化が進む村で起きた事件を扱った作品だ。
ここで起きるのはこの寒村でアメリカの財産とも云われるほどの画家となった村の誇りとも云える老婦人ファニー・アダムスが何者かによって殺されるという事件。そして折りしもポーランドからアメリカに避難してきたジョゼフ・コワルチックなる男がその近くを通っていたことから、村人たちは彼を犯人とみなし、即私刑を下そうといきり立つ。 これほどまでに村が一致団結して異邦人を断罪しようとするのは、その昔、イタリアからの移民で流れてきたジョー・ゴンゾリが村の指導者ヒューブ・ヒーマスの弟レイバンの想い人を寝取ったことでいきり立ったレイバンがジョーを殺そうとし、返り討ちにあって死んでしまうという事件があったからだ。しかし裁判はジョーの行為を正当防衛とみなし、無罪放免となったという忌まわしい事件があった。それ故に今回の事件こそ司法の手に委ねず、自分達の法に則って始末したいという思いが強かった。 人口たった36人の閉鎖されたコミュニティで起きる殺人事件はいわば村の誰もが家族のような者だから、近所同士の結びつきが強い。つまり村民一人一人が家族のようなものだ。 そんな中で起きた殺人事件。しかも殺されたのはおらが村の有名人で古株で誰もが慕う老婦人だから、村人達は狂気にも似た思いで容疑者を断罪せんと裁判に臨む。 一方容疑者コワルチックを守ろうとするのは<シンの辻>の由来となったシン一族のルイス・シン判事と彼の従弟ジョニー・シンの2人。特に戦争から帰還し、軍隊を去った判事の従弟ジョニーは原子爆弾の落とされた広島の惨状を目にし、人生の意味を見出せぬまま、無職の日々をすごし、判事に付き添う。戦争から帰っても普通の生活になかなか戻れなく、放蕩生活を続けるしかない彼の心情は戦争の暗い翳を感じる。 生きる意味を見出せないジョニーと一人の死に固執し、敵討ちに意気込む閉鎖されたコミュニティの連中。この対比がジョニーにある決意を生む。 この閉鎖された社会での事件というテーマを考えるとどうしてもライツヴィルシリーズが思い浮かんでならない。特にスキャンダラスな事件が起きることで村中の人間が一人の人間に怒りの眼差しを向ける展開は、『災厄の町』を思い起こさせる。本作はライツヴィルシリーズで遣り残したことにチャレンジした一冊とも取れる。 クイーン作品にしては珍しくほとんどが法廷シーンで繰り広げられる。しかし内容は村人が総出で参加する私的裁判であるから、実は無効裁判なのだ。 そんな茶番劇であっても判事や弁護士、検察は手を緩めず、真実を追及していく。村人はいつでも容疑者を有罪にして死刑にせんと息巻いている。 法廷シーンばかりであっても、きちんとロジックで容疑者の無実を判明するところがさすがはクイーンである。 特に超写実主義といえる被害者ファニー・アダムスの絵を巡って推理が繰り広げられ、真実が明るみに出るあたりはもう見事の一言だ。実に上手い小道具だ。 従ってなぜ本書にクイーンが出てこないのかが不思議だ。ジョニーの役はクイーンに置き換えても違和感はなかっただろう。なぜこの作品の主人公がエラリイ・クイーンでなく、元軍人のジョニーなのか。 それは作中でも書かれている戦争による大量虐殺の悲劇とそれがもたらすミステリの存在価値を今一度問うために、戦争を経験した者に敢えて一人の個人の死の真相を探らせることが必要だったではないかと個人的に思う。 ここで思い起こさせられるのはやはり笠井潔氏の『大量死と密室』論だ。以前戦争による無名の人間が大量に殺されることの無意味さ、虚しさについてクイーンは『帝王死す』でも明確にメッセージを打ち出していた。 やはりクイーンはあの作品だけでは足らず、戦争経験者を主人公にすることでさらに深く描こうとしたのではないか。広島の原爆の惨状までもが言及されるのには驚いた。 しかしかつて警察捜査のノウハウすら知らないことが作中でも散見されたクイーンだが、本書では証拠品の保護や現場保存について田舎警官を強く追及するシーンを読んだ時は、第1作目の国名シリーズを読んだときと隔世の感を覚えた。 あれだけ無頓着に現場に立ち入り、指紋付着に配慮せず、勝手に遺留品に触り、時には持ち帰って警察に内緒にするという、およそ警官の捜査を扱った作品とは考えられないほどの非現実さを感じたものだが、本書ではそういう行為をきちんと罰しているところが凄い。やはりハリウッドや探偵クラブなどの交流で警察捜査の知識を蓄えていったのではないだろうか。 閉鎖された空間での魔女裁判を描いた本書。題名が示すとおり、一枚岩と思えた村人たちの団結は実はガラスのように脆いものだった。 地味な作品だが、本書に込められたテーマは案外重い。作者クイーンの犯罪とそれに関与する人間たちの謎への探究は今後も続いていく。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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建築探偵桜井京介シリーズ初の短編集。桜井の今まで語られなかった若き日に海外放浪をしていた頃に出くわした事件も含めて語られている。
まずは「ウシュクダラのエンジェル」。 正直謎が何なのかわかりにくい作品。そして京介が泊まった時にジブリールと京介の間で起こった何かが夢の内容を表しているようだ。いきなりこんなパンチの弱い作品だということに不安を覚えた。 次はまたもや京介の海外放浪譚である「井戸の中の悪魔」。 パズル要素が強い作品だが、難解なパズルが解けるようなカタルシスは真相には伴わないのが残念。 こういう作品を読むと、元々この作者は謎を作るのが不得意ではないだろうかと思ってしまう。 次はヴェトナムを舞台にした「塔の中の姫君」。 人間消失は本格ミステリでも最も魅力のある謎だが、その魅力ゆえ真相を知るとガッカリしてしまうのが往々にしてある。さて本作は?というとまあ及第点かなと云える。 確かに真相は陳腐だ。暗闇というのはなかなか人には見分けがつかないところなのでこのトリックは十分成り立つことは解る。しかしなんとも大味な感じが否めない。 次の「捻れた塔の冒険」の舞台は日本は福島県の会津若松。 この謎も真剣に考えればアンフェアの誹りを免れない真相だ。恥ずかしながら私は寡聞にして知らなかったが、この二重螺旋のスロープで上れる栄螺堂は実在する建築物だ。WEBで調べると写真が見られるが、それほど大きくない建物で、これは8,9歳の子供が経験した謎というのがミソだろう。 恐らくこの謎は一度行った人ならば解るのかもしれないが、純粋に推理ゲームとして勝負しようとした読者にしてみれば、実に納得のいかない謎だろう。 しかし本書の狙いはそこにはなく、この捻れた塔での幼少の頃の体験がその後2人の女性に落とした昏い翳、つまり自分の悪戯で引き起こした大人まで引きずらなければならない傷を逆恨みした女性の捻れた感情を描きたかったのだ。ちょっと強引な感じもするが、篠田氏の特徴が良く表れた作品である。 また祐美の京介への一方的な愛、つまりストーカー行為が第1作の『未明の家』の冒頭で出てきた建築探偵のチラシに端を発していると推測されるところは感慨深い。 次の「迷宮に死者は棲む」も日本が舞台。広島は尾道と因島をお馴染みの三人が訪れた時に出くわした事件だ。 陰鬱なイメージでいささかホラーめいた雰囲気で語られる作品。深春の高校時代の同級生の過去の因縁話で、深春を好きだった姉の死、同級生松尾の嵐の夜の失踪、そして松尾という人間の不在と、アイリッシュの『幻の女』を思わせるミステリアスな展開はなかなか。 しかし今が幸せな者ほど過去に依存しない、過去を振り返らない。逆に今が不幸な人間は過去の思い出にすがるというのは心に響く言葉だった。 確かにそう思う。この言葉だけでも収穫はあった。 「永遠を巡る螺旋」では再び舞台は海外に。 「捻れた塔の冒険」で登場した相原祐美の怨念が引き起こす事件。まず別の短編の因縁が絡むという趣向が面白い。そして叙述ミステリ的な仕掛けは成されているが、他の作品とは色合いの違った倒叙物であるのが異色だろう。仕掛けは安易で先が読めるため、さほど驚きはないが、収録作中113ページと最も長い作品なだけに物語は読ませる。 また作中深春がBL小説に苦悩し、罵倒するシーンがあるが、これは桜井京介シリーズがBL化された同人誌が多いことに対する作者の心の叫びだろうか?しかし私は原典にもBLの要素が濃いと感じているのだが。 続く2編はいささか趣の変わった作品。「オフィーリア、翔んだ」はある酒場で出くわした初老の男の話。 この作品では桜井京介という名前は一切出てこなく、出てくるのは類稀なる美貌を備えた青年と風貌のみ語られている。しかしそれは最後の幻想小説風味の結末に続くためにあえて作者が仕込んだことだろう。 密室からどうやって出たのか?という逆転的な謎が魅力的なのだが、相変わらず篠田氏の主眼はトリックやロジックの鮮やかになく、あくまで登場人物たちが抱える心の闇だ。 「神代宗の決断と憂鬱」は最も短い25ページの作品だ。 神代教授と京介の一夜の酒盛りで語られる神代教授の真意が面白い。そして少しだけ触れられる京介と教授の邂逅の話も今後の物語への予告として興味深い。 しかしどちらかといえばファンサービスに近いような作品だ。 「君の名は空の色」では深春と蒼の邂逅のときのことについて触れられる。 中身はもはやミステリではなく、蒼と深春の関係性についてシリーズの隙間にあるエピソードを述べたようなものだ。 作中の時期は蒼が成人の日を迎えたときのこと。蒼が虐待されていた忌まわしい記憶の残る邸に行って、特別何かをするわけではなく、過去の記憶が彼にとってすでに終わったこととして片付けられているかを確認しに来たようだ。それは成人の日を迎えた彼にとって避けられぬ成人の儀式のようなものだったのだろう。 最後は桜井京介自身の過去の物語「桜闇」。 神代教授が述べている京介の過去に起きた忌まわしい事件とは別の、高校生の京介が出遭った事件の話。しかし当時の彼はまだウブで殺人方法を看破しながらも女性の色香と魅力に負けてしまう。京介の初体験まで書かれた話。 「君の名は空の色」で蒼が20の時に旧薬師寺家を訪れたように、京介も30を迎えてこの邸を訪れなければならなかったのだろう。孔子は「三十にして立つ」と云ったが、彼が立つためには訣別しなければならない過去の自分があった訳だ。敢えて幻想小説風に耽美に書いているのは桜井京介というキャラクターをイメージしてのことだろう。 冒頭にも述べたように舞台は長編と違い、日本に留まらずトルコ、イタリア、ヴェトナム、フランスへと多彩だが、意外にヴァリエーションは感じない。その理由は後で書こう。 本格ミステリの短編といえば、限られたページ数という制約があるため、物語性よりもトリック、ロジックの切れ味が味わえるが、本書では逆に篠田真由美という作家が本格ミステリにはあまり向いていないことが露呈した作品集となった。 主眼はあくまでもトリック、ロジックの妙味にはなく、長編同様に登場人物の抱える心の闇や建築物に込められた念や思想といった部分に準拠した人の行為が真相になっており、これはもはや本格ミステリではないといえるだろう。 謎自体は非常に魅力的なのにもかかわらず、推理のカタルシスをこれほど感じない短編集も珍しい。 特に似たような謎が多いのが気になった。2作目の「井戸の中の悪魔」、3作目の「塔の中の姫君」、3作目の「捻れた塔の冒険」、6作目の「永遠を巡る螺旋」はどれも細長い建築物や工作物で起きた謎を提示しており、しかもどれもが階段や昇降設備における人間消失を取り扱っている。 あとがきによればこれらは「二重螺旋四部作」と作者自身が名付けているが、要は同じような謎における推理のヴァリエーションで2つも3つも短編を拵えているような感じなのだ。従って個々の作品で開陳される誤った推理が少なく、あえて述べないことで別の作品で使用しようとしていると感じる、とまで書くとさすがに意地の悪い見方になるだろうか。 親切に感じたのは巻末にこれらの短編で述べられている事件の起きた時期と今まで著された長編での事件が時系列に年表として並べられているところ。これを見るとこの短編集は建築探偵桜井京介シリーズ第二部の第1作『美貌の帳』までの事件を全て補完するようになっている。従って本作での時間はすごく長く、蒼が高校に編入する前から浪人生を経てW大学入学の20歳になるまでの期間に遭遇した、もしくは語られた事件(出来事)となる。 そしてそれらは先にも述べたように桜井京介、栗山深春、蒼こと薬師寺香澄、そして神代宗の四者のキャラクターを掘り下げることを主眼にし、さらにシリーズに厚みを持たせることを目的にしているようなので、本格ミステリとして読むとかなり肩透かしを食らうだろう。 逆に云えばシリーズファンが読むとますますのめり込む美酒のような短編集になるということでもある。 しかしそのキャラクターがいまいち私には合わない。深春はこの中で最もまともなキャラクターで好きだが、それ以外はいかにも「作られた」感を思わせる戯画化された造形を感じる。特に蒼は、過去の事件ゆえに学校にも行かなかったことで精神的成長が遅れているのは理解は出来るが、猫のような周囲へのじゃれ付きようは読んでいて怖気が出て鳥肌が立つ。その台詞は「20の男が口にするような言葉だろうか?」と首を傾げざるをえない。特に深春に対する純粋な思いを告げるシーンはほとんどBL小説である。 今までこのシリーズ読んできたが、やはり自分にはどうも合わないようだ。最後を俟たずして次の作品でこのシリーズとは別れを告げよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本のミステリ読者にジェフリー・ディーヴァーの名前を知らしめたのが本書。脱獄囚が聾学校の生徒と先生の乗ったバスをジャックし、廃止された食肉工場に篭城して、FBI交渉人との一進一退の攻防を描いた作品だ。
文庫本にして上下巻合わせて760ページ強の分量だが、脱獄囚が篭城するのはなんと第1章の終わり。つまり残りは全て脱獄囚の篭城劇に費やされる。 これはすごい。これほど動きのない物語を作者は色々な情報と不測の事態とを織り交ぜてページを繰らせていく。 今では交渉人を主人公にしたドラマや映画、小説が数々作られ、もはや珍しい存在では無くなったが、それでも本書に織り込まれた交渉術の情報は知らぬ物が多く、非常に興味深く読んだ。 特に交渉人が犯人に話す内容を他の捜査官が聞いてはいけないとは知らなかった。それは犯人に親近感を覚え、いざ撃たねばならないときに決意が鈍るのを防ぐためだ。 また交渉人自身も犯人の心理を探り、親しくなって自首するよう仕向けるため、犯人の気持ちに同調して取り込まれていく恐れがあると作中では語られている。主人公の交渉人ポター自身、仕事をしていて腹を割って話した相手は同僚でもなく、犯罪撲滅に携わる警察や保安官でもなく、交渉していた犯罪者だというのが皮肉だ。それほど交渉人は犯人の心に潜り込み、また自身を晒す。非常に危険な職業だ。 そして犯人に同調し、友人ともいうべき関係になった上で、最後は逮捕すべく裏切らなければならない役割。これは心にかなり負担の強いる仕事だ。長く続けるには精神がタフでないといけないし、また割切れる心を持っていないといくつ心があっても足らないだろう。 ただそうならずに凄腕の交渉人として君臨してきたポターなのだが、最後にそれがゆえに自身の人間の薄さというのに気付かされるのが苦い。 犯人と同調し、友人に近い関係にまでなるのに任務が終わると普段の自分に戻れる。それは彼の超人的な強さなのだが、裏返せば彼はその場で演技をしているだけとも云える。 また犯人と交渉人との鍔迫り合いだけでなく、救出する側の内部でもそれぞれの思惑で暗闘が繰り広げられる。FBIを筆頭に州警察の人間、郡保安官、さらには州法務次官補までが参入し、それぞれの立場と主義を振りかざしてなかなか一枚岩となって人質救出へと向かわない。中には次回の選挙を見込んでどうにか活躍の場を貰い、当選への弾みをつけたい者まで出てくる。 さらに報道協定を結んだマスコミまで勝手に取材を始める始末。凄腕のFBI交渉人アーサー・ポターを想定外の事態が次々に襲っていく。 しかしこういった人物達の思いも判らんでもない。いや寧ろ通常であればポターの交渉を妨害する者たちこそ凡人である我らに近いと云える。 人質、しかも下は8歳の耳の聞こえない聾者たちを監禁し、精神的苦痛を与える脱獄囚たちに相見えた時、誰しもその悪辣ぶりに嫌悪し、撃ち殺したいと思うのではないだろうか? そんな心理状態の中、犯人に同調し、時には犯人と共に声を挙げて笑いさえもする交渉人の仕事ぶりは悠長すぎるように感じ、またなぜ悪党と仲良くなるのかと憤りを覚えることだろう。 この物語は交渉人を主人公に描いているからため、彼を妨害する州警察やマスコミの連中の身勝手さを呪い、罵倒するように思うが、逆に州警察の立場で物語を描くと中年太りでゆったり構えた交渉人ポターは人命などは眼中にない非道漢に映ることだろう。 と、ひりつくような犯人とFBIとの交渉を描いた作品だが、単にそれだけに留まらず、色んな読み方が出来る。 それはやはり交渉人を中心に描きながら、それぞれの立場の人間を配してそれぞれの考えに基づいて行動する人間がいるからだろう。 しかしどんでん返しだけがこの作品の魅力ではない。人質となった聾者という設定ゆえに成り立つサスペンスに特徴ある登場人物の数々。 登場人物表に掲げられた人物は26名と今までの作品の中でも多いが、本書の特徴は彼ら彼女らが非常に魅力的なキャラクターだったことだ。 主人公のFBI交渉人アーサー・ポターはFBI捜査官が襟を正して接する凄腕の交渉人だが、その風貌は腹の出た定年間際のオジサンである。そして結婚記念日には亡くなった妻の墓参りをし、妻の家系図を作ることを唯一の趣味としている。 敵役のルー・ハンディは正にアカデミー助演男優賞を与えるべき存在感を誇る。脱獄囚のリーダーであり、残忍な性格で全てを支配しないと気がすまない男。心労耐えない篭城にも常に落ち着いてポターと接し、あわよくば彼を征服してやろうと手ぐすね引いて待っている危険な男だ。 そして人質だった教育実習生メラニー・キャロルという女性がこの事件を機に変化していくのが物語の隠れたテーマだろう。 本書の原題は“A Maiden’s Grave”、『乙女の墓』という。これは聾者であるメラニーが”Amazing Grace”を聴き間違えたことに由来しているが、メラニーの乙女からの脱皮を表現した題名だろう。 尊敬する兄を事故で片腕となった原因を自分に非があると責め、教育実習生でありながら、常に堂々と振舞っていた生徒のスーザンに引け目を感じるほど自分に自信がなく、親の支配から逃れられなかった彼女がこの事件を契機に生まれ変わる。しかし「墓」と題しているようにそれは成長といういい意味とは限らない。 最後の彼女の壮絶な一面は色々考えさせられる結末だ。 しかし本書に限っては邦題の方に軍配を上げよう。内容的にしっくり来る。 さてディーヴァーの名を日本のミステリ読者に知らしめた本書だが、感想としてあと一歩といった感が残った。ここはあえて7ツ星とさせていただく。これからのディーヴァーに期待しよう。 次は『ボーン・コレクター』だ! ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は短編では名(迷?)コンビとして数々の事件を解決しているニッキー・ポーターがパートナーとして登場し、エラリイの助手を務めた初めての長編作品である。
そしてそのコンビが挑む事件はなんと浮気調査。本格ミステリの探偵らしからぬ事件である。浮気調査というのは私立探偵、つまりクイーンの対極にあるハードボイルド小説やプライヴェート・アイ小説で取り上げられる題材だ。 そんなエラリイの前に立ちふさがるのが女心。 稀代のジゴロとして女性を食い物にするハイエナのような男ヴァン・ハリスンの魔手から依頼人を救うべく、エラリイはハリスンが過去に食い物にした女性を探し出し、過去の被害について彼を告発するようにお願いするのだが、そのいずれもがハリスンと過ごした楽しい思い出を語るだけで、エラリイに協力しようとしない。 今までしばしば本格ミステリではありがちなように、クイーンの作品でも描かれた女性像とは典型的な男性願望が具現化したような存在だったが、本書では男性が理解しがたい女性像を見事に捉えているのではないだろうか? おしどり夫婦として知られていたダークとマーサのローレンス夫妻の間に、売れない探偵小説家であるダークの癇癪と嫉妬が顕著になってきたことから、マーサは彼をどうにか以前のようにまともな性格に治してほしいと依頼するが、事件の焦点はその依頼人であるマーサが落ちぶれた俳優と浮気をしていることが発覚し、エラリイとニッキーは手遅れにならないうちに彼女を正気に返らせるというのが本書の粗筋。 そして物語はエラリイとニッキーの努力虚しく、2人の逢瀬は重ねられ、やがて嫉妬深い夫にその事実が発覚する。そして夫は浮気の現場に拳銃を携え訪れる、と起こりうるべくして起こる事件の方向へ進む。 後期のクイーン作品には本書のようにどこに推理の余地があるのか、本格としてのサプライズとクイーンのロジックが入り込む箇所はあるのか、実に判断しにくい題材と事件が多い。特に本書は最たるものだろう。 つまり一見普通の事件に見える事象にも論理の光を当てることでサプライズを引き起こすことが出来ることをクイーンはこの時期に試みたのではないだろうか。 もしそうだとすれば、成功していると個人的には思う。観たまま読んだままの明白な事件を全体に散りばめられた色々な手掛かりを検証することで事件を180度引っくり返すことになる。 しかし一読者の立場で云わせてもらえば、クイーン=本格ミステリという頭があるため、対等に推理をするには証拠や手がかりが解りにくすぎて、どうにも後出しジャンケンのようなずるさを感じてしまう。 本書のタイトルはナサニエル・ホーソンの有名な作品と全く一緒である。そして作者はそれをあえて意識して同作品と同じ姦通罪を取り扱っているのだ。しかもホーソンの作品の題名は姦通罪に問われた女主人公が姦淫(Adultry)を示す文字Aを胸に付けられ、これが緋文字であったことに由来しているが、本書も原典に倣い、浮気のきっかけはAの文字で始まる。そしてクイーンの作品では緋文字は逢瀬の予定を知らせる手紙が赤文字で書かれていること、逢瀬の場所を知らせる手がかりが赤文字でマークされていること、そしてダイイング・メッセージが血で書かれていることで使われる。文学マニアのクイーンならではの遊び心だ。 今回重要な役割を果たすのが、ハリスンからマーサに送られるAからZまでの暗号を使った手紙である。これが事件の解明に大きく関わるわけだが、その内容には既出の作品に同様のトリックがあり、既視感を覚えた。よほど作者はこの小道具をお気に入りのようだ。 また俳優が物語に関ってくるのもハリウッドを経験した後のクイーンの作品には共通する事項だ。しかも今回は落ちぶれた俳優で50代でありながらも身なりと風貌はまだ若さを感じさせ、世のマダム連中をとろけさせる魅力を備えているが、彼がカツラを愛用し、若く見せようとしているという件がある。これも既出作品に同じような効果で用いられていた。 見た目を偽ることで本来の自分よりも若く、威厳があるように見せる者たちをクイーンはハリウッドで多く観てきたに違いない。これも映画という虚構を生み出すハリウッドでクイーンが見た光と影なのかもしれない。 最後に蛇足めいた不満を。 間男ヴァン・ハリスンの召使いが日本人という設定なのだが、その名前がタマ・マユコ。しかもこの人物は男性。 西洋人にとって日本人の名前は解りにくいかと思うが、この辺は親交深い日本の出版社に訪ねて、その妥当性を検証してほしかった。苦笑いするしかない不手際である。 本格ミステリの方向と可能性を追求し続けた作者のチャレンジ精神は上に述べたように非常に素晴らしいと感じる。 しかし読後にそれは気付かされる文学的業績と創作アイデアなのであって、必ずしもそれが物語としてミステリとしての面白さに通じているかはまた別の話である。 ただ本書はニッキー長編初登場ということもあり、今までのロートル親父と30を越えた放蕩息子に、筋肉バカの父親の部下というありきたりでなんとも色気のない取合せで進められていた物語に爽やかな新風をもたらした。浮気調査という特に女性が忌み嫌う題材にスパイとして遣われたニッキーが当然の如くながらいつもよりも元気がなかったのが残念だが、今後の登場作で本来のコメディエンヌ振りを発揮して大いに愉しませてほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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稀代の天才高校生白河光瑠が創作した音楽と光をシンクロさせるエンタテインメント、「光楽」が一世を風靡し、その奔流に呑まれていく様を描いた作品。
東野氏の作品にはミステリに留まらずいくつかジャンルが存在するが、本書は『変身』にあるような、まだ現代には存在しないが少し未来に存在しうる事象を扱ったプチSF物語だ。従って殺人や何が起こったのかを探る本格ミステリではなく、新たな物が起こることでその渦中にいる人間がどんな人生や運命に引き込まれていくのかを描いた作品。抜群のストーリーテリング力を誇る東野氏だから、先が気になってページを繰る手が止められない。 特に光瑠の光楽を体験した者が次第に光瑠と同じ能力を獲得していくあたりの兆候からそこに至るまでの件は不穏な予感を抱かせながらぐいぐい引っ張っていく。光楽を体験した者に恍惚感と明日への活力をもたらすが、同時にそれを長く体験しないでいると、倦怠感や幻視、分裂症などの禁断症状を齎すという諸刃の刃でもあるのだ。この辺の毒の仕込み方が非常に上手い。 しかし人の感情や考えていることが光となって見えるという能力が本書の受け入れるべき設定であることは間違いないが、それがある歴史的根拠に基づいて設定されていたとは思わなかった。 いわゆる過去の宗教家の肖像画や仏像にあしらわれている後光やオーラという物が実は光瑠が持っている能力が万人にもある能力であることを裏付ける。なぜなら光を見ているのは信者である一般人であるからだ。この辺の話の持って行き方は非常に巧みだなぁと感心した。思わず膝を叩いてしまった。 しかし本書は何といっても光楽という光と音楽を絡めた芸術と主人公白河光瑠の造形に尽きる。光楽が人を魅了していく過程とその光楽の真の目的(疑似オーラを作り出し、オーラが見える人物を発掘していく)が遺跡などに表現されている事象に結びついていくことは面白い。 そして天才児白河光瑠の全てを達観している姿勢と視座。全てをあるがままに受け入れながらも、将来を見据え、そのためには自分が犠牲になっても踏み台になっても構わないと思うキャラクターは正に天才だ。 人の考えを察して云わなくてもしてほしいことを先んじてするという勘の良さも光が見えるという能力ゆえのことだというのが判明する。しかしそんな全てを見通す能力を持った彼に危難をもたらす為に設定したコンサート会場での爆破事件へのいきさつなどは本当にこの作家の構成力のすごさを思い知らされる。 1994年の作品だから時代を感じさせる記述が見られるのは致し方ない。ポケベルでの連絡のやり取りやレーザーディスクやビデオテープなどは懐かしい感じがした。同時代を生きていた私などは解るが新しい読者を次々と獲得している作者のこと、近い将来これらの単語の意味が解らない世代が出てくるかもしれない。 本書におけるメッセージは異端児はマジョリティである一般人に淘汰される人間の愚かさに対する警鐘だ。突出した能力を持つ者は時にはもてはやされ、時代の寵児となるが、安定を求める支配層にとっては自らの地位を脅かす膿であり、排除すべき存在にしか過ぎない。 しかしそれは人類の進化を停滞する愚行だと光瑠は述べる。それは深読みすれば江戸川乱歩賞作家として作家デビューしながら本格ミステリに留まらず色んなジャンルを描き、「明日のミステリ」を模索する作者自身の秘められたメッセージなのかなと思ったりした。 これだけ読ませる物語を書きながら、最後が唐突終わってしまうのが勿体無い。これ以上書くことは蛇足にしか過ぎないとする作者の潔さともいえるが、やはりいい作品だっただけにもっと余韻がほしかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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桜井京介シリーズの第二部の幕開けとなるのが本書。桜井、深春は大学を卒業し、定職につかず、趣味と実益を兼ねたアルバイトに従事するフリーターとなっており、蒼は高校へ進学している。また原点回帰という意味か、第1作『未明の家』で登場した杉原静音、遊馬朱鷺、雨沢鯛次郎らが再登場する。また蒼と京介の邂逅の時を描いた『原罪の庭』で登場した門野貴邦もカメオ出演する。
今回俎上に挙げられる建築物は鹿鳴館。もはや知らない者はいないと云われるほどの有名な迎賓館だが、実は設計図も紛失し、略図と数少ない写真が残っているだけで実に謎めいた館である。ジョサイア・コンドルという建築家が設計したと云われるこの館だが、コンドルという建築家も私には初耳だった(だから作中で誰でも名前は知っているという件があるが、これは云い過ぎだろう)。 しかし作中で語られる日本の建築学の基礎をたった一人で築いた人物という彼の経歴はなかなかに読み応えがあった。 今回の事件は京介が奇縁で知り合った資産家天沼龍麿が自身が経営するオテル・エルミタージュの開業十周年記念イベントで開演される三島由紀夫の『卒塔婆小町』という劇に伝説の女優神名備芙蓉が登場する劇を中心に演出家の大迫氏の失踪事件に加え、京介の旧友遠山蓮三郎の兄で亡くなった天沼龍麿の娘暁子の元恋人茂一の死の真相を探る事件が扱われる。天沼老が昔パトロンであった芙蓉との秘めた関係が本書の底流を流れるテーマとなっている。 本格ミステリとしての謎解きのエッセンスは相変わらず薄い。寝間着を裏返しにしたまま自殺した死体や夜中に焼身して死を遂げる支配人や劇中に腹部にナイフの刺され傷が現れる女優など、奇怪な謎は提示されるものの、そこに主眼はなく、従来の作品同様あくまで主題は建築とそれに纏わる人々の愛憎がメインになっている。特に双璧を成す遠山の兄の不審死に纏わる寝間着を裏返しにして死んでいたという謎の真相は観念的で、ガッカリした。 しかし深春や蒼の過去の事件を経てから篠田氏のこの物語世界の描き方は以前よりも濃密に感じるし、少女マンガのステレオタイプのように感じた登場人物像も立ってきて厚みが増したように思う。 ただ物語に流れる諦観めいた陰鬱さは相変わらず。この暗さがもう少し解消されればいいのだが。個人的には深春と京介の邂逅を描いた『灰色の砦』のテイストを望みたい。 ただ建築に携わる者から云わせてもらえば、2ヶ月程度で建物が未完とはいえ内装まで仕上げられるというのは無理にもほどがある。特に鹿鳴館ほどの規模であれば尚更だ。突貫工事でもコンクリートの養生期間なども必要なのだから複層階の建物であそこまでは仕上がらない。建築に造詣が深い作者ならばこの辺の現実にはもう少し配慮してほしかった。 題名にも掲げられたように、今回は美が強く強調されている。 芸術に対する美。いつかは滅びゆく美。それを敬い、崇め、それぞれがそれぞれの信仰を持つ。それがゆえに美は人を狂わせる。本書は美が一時の輝きに過ぎないと達観した者とそれを永遠の物として封じ込めようとした者の軋轢から生じた悲劇だといえよう。 真に美しいものには残酷さが隠されている。この背徳の美こそ美しい。 プロローグの恋文に書かれたイタリアのブラァノ・レエスのエピソードが一番印象に残った。娘とも云えぬ童女が編むからこそ、そのレエスは精緻な美しさを誇るが、それがゆえに若くして針子たちは視力を失うという犠牲が伴う。桜の下には死体が埋まっているというのは、そのあまりの美しさは残酷な犠牲があるからこそという妄信から出た言葉だが、この世に蔓延る美しき物の背後にはこのような負の物語があるように思えてならない。 またシリーズも時を経るにつれ、蒼と京介との関係に変化を感じる。蒼は高校生として周囲と馴染めない生活を送りながらも、それを個人で乗り越えるべき問題と捉え、京介や深春に頼ろうとせず、自立を目指す。京介と深春は逆に蒼の隠された苦悩に気付き、どう助けるべきか心を注ぐ。そしていつか来るべき別れを意識し、束の間の安らぎに身を委ねる。 シリーズの行く末は今後巻を重ねるにつれて、来るべき時へ向かっていく。それは恐らく彼らにとって迎えるべき別れであり試練なのだろう。今回もまた苦い余韻が残った。 |
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