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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数688件
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北海道を舞台にした全5編からなる連作短編集。
最初は浦河を舞台にした「ちりちりと……」から始まる。 主人公の堀口が山中へ向かう描写や彼の回想に現れる世捨て人で狩猟と炭作りをして生計を立てていた彼の祖父の生活描写は狩猟小説の雄、稲見一良氏の作品を思わせるような作り。しかしやはりこれは馳作品だから稲見作品の特徴であるそこはかとなく訪れる温かみはなく、荒廃とした荒んだ人の心と救いのない結末。 別の意味で山の厳しさ、冬の山の寒さを感じる読後感だ。 次は堀口の父の愛人と噂されていた未亡人田中美恵子が主役を務める「みゃあ、みゃあ、みゃあ」は富川が舞台。 肉親の介護に疲れる実子のどす黒い思いというのは馳氏の作品ではもう一つのノワールのテーマであり、ここにある美恵子の心の移ろいはさほど目新しい物ではない。 しかし富川と云う町で母の介護と同級生の経営する場末のスナックで生計を立てる美恵子の日常が寂しくて、それこそ北国の寒さのように心に降り積もる。特に美恵子が田舎町によくいる、少し目立った美人であることがその境遇の不幸に拍車を掛けている。 臨月を迎えた母の飼い猫と母三津の美恵子に対する態度が鬱屈を募らせ、最後にカタストロフィと行きたいところを馳氏は本書ではギリギリのところで押えている。 さて次はその美恵子に執心していた土屋の息子が主人公。「世界の終わり」は苫小牧が舞台だ。 これほど最初と最後の作品の印象が異なる作品もないだろう。 中古車ディーラーを経営する、離婚した父の下で暮らす中学生の智也はいじめられた経験のため、心に傷を負い、緊張すると声が発せなくなってしまう。そのため不登校児として愛犬と一緒にサッカーに興じる毎日を送っていたが、そこで将来を有望視されながらバイク事故で足に後遺症が残るほどの怪我を負った憧れの先輩から中古のバイクを売りつけられる。しかしそれは閉じられていた智也の世界を広げる道具となった、という心に傷を負った少年の再生を描く一種の青春ロードノベルのように思われたが、後半はバイクで辿り着いた工場建設予定地で骨を見つけたことでそこが愛犬と自分にとっての最後の地であるとし、全てを骨で覆い尽くすために近くの墓地から骨を掘り出してはばらまいていくというサイコホラー的展開へと移る。 これほどテーマの読めない作品も珍しい。 次の「雪は降る」では智也にバイクを押し売りした雅史先輩こと原田雅史が主人公。 Jリーガーの夢を挫かれ、親の臑を齧ってその日暮らしを続ける男と憧れの先輩でほのかな恋心を抱いていた訳ありの女性との苫小牧から函館への二人行。女は好きだった人に会いに行くと最初は云い、次には友達に会いに行くと云い、そして函館山で夜景を見に行こうと函館への目的は訊くたびに変わっていく。一方で男は女が付き合っていた男と別れていたことを知り、女への恋の炎を少しずつ大きくしていく。そんな中流れる、女の弟の殺人事件の一報。両親が旅行で不在中に発見された受験生の変死体。一緒にいた姉は行方不明。 登場人物2人だけで繰り広げられる儚く寂しい道行き。これは志水辰夫の世界だなぁ。馳作品にありがちな「世界の終わり」のような妙な裏切りとも云える結末もなく、若い2人がただ見えない明日に怯え、途方に暮れる。何をしたらいいか解らないがとにかく動いていたい、留まると気分が滅入ってしまうから。珍しく優しい物語だ。 最後の「青柳町こそかなしけれ」では前篇で雅史がオカマを掘った、名も知らない車の所有者の妻が主人公。 夫によるDV、そしてセックスといつもの馳作品かと半ば落胆したように読み進めたが、夫が妻の友人のDV被害を目の当たりにするという今までにない展開を見せて、いわゆる暴力の連鎖に陥らずに留まっているところに新機軸を感じた。 しかしやはり人は変われない。やり直しや更生といった明日への希望を馳氏は容易に信じない。やはり最後は馳作品そのものだった。 なお本作で登場する焼き肉店の店長がマコっちゃんこと堀口誠。これで一連の物語の環は閉じられる。 相も変わらず人生の落伍者を取り揃えた作品集となった。ただし本書はいつもの短編集とは違い、北海道の浦河、富川、苫小牧、函館を舞台に各短編で登場する脇役が次の短編で主役となるという連作短編集となっている。 今回収録された作品の特徴としては2005年以後の作品が集められたことだ。これは馳氏の鮮烈なデビュー作となった『不夜城』のシリーズ第3部の『長恨歌』を終えた翌年、そして新機軸と評価された『楽園の眠り』が発表された年に当たる。したがってマフィア、やくざ、セックス、クスリ、暴力、殺人に彩られたドロドロのノワールから殺人を排除し、一般の人の心の闇から生まれるノワールに転換した頃の作品だ。 したがってデビュー作に見られた極限までに削ぎ落とした体言止めを多用した文体ではなく、新たな文体を模索していた頃であり、各作品でその違いが窺える。 例えば1作目の「ちりちりと……」では稲見作品を思わせる自然の緻密な描写と漂う静謐感があり、その他にも坂東眞砂子氏、志水辰夫氏、天童荒太氏、風間一輝氏といった作家の作風を思わせる。 そういう意味ではヴァラエティに富んだ文体と内容の楽しめる作品集とも云えるのだが、中身はいつもの馳印。 登場する主人公たちは鬱屈した日々に疲れ、新しい生活や運命を好転させる転機などの希望を抱かず、ただ望まないながらもそうしなければいけない日々の業を成して毎日を過ごす人々ばかり。事業に失敗して死に場所を求める者、親の介護に神経と心をすり減らす者、上手く他者と付き合えず、不登校の日々を愛犬と紛らして過ごす者、自分の失敗で夢を絶たれ、親の臑を齧ってその日暮らしをする者、夫の暴力に怯えながらも別れられない者。普通に生活し、普通に給料を得て、普通に家族を持って普通に終える人生さえも望めない社会の底辺で鬱屈している人々だ。 そしてこれらの人々が各話の登場人物と直接的間接的に関わっているところに考えさせられる。つまりこれは普通の暮らしさえ望めない人が皆の周りに必ず一人はいるということを示唆しているように取れる。 あなたの隣にいる人も何らかの問題を抱えて毎日を生きているのだというメッセージ、いや気付かない事実を教えられたようにも思える。 そしてこれらが今回北海道の南の地を舞台に繰り広げられているのが特徴的だ。 各編に共通するのは凍てつくまでの寒さ。少しばかりの厚着では瞬く間に体が冷え切ってしまう。情熱的な愛を重ねても熱く感じるのはお互いが繋がっている部分だけで、その他はひんやりと冷たい。温まった部屋も少しでも外気に曝されればたちまち寒気のただ中だ。そんな場所である北の地ではなかなか人の温かみや温もりというのが持続しない。だから人は言葉少なに閉じこもって過ごすのだろう。その簡単に命さえも奪ってしまうような極寒の地だからこそ人の事よりもまず自分の事をしなければ生きていけなくなってしまうのだ。 本書のタイトルは『約束の地で』で発表は2007年。馳氏は北海道出身で作家デビューが1998年。つまりこのタイトルには作家生活10周年を迎えた暁にはその記念碑的作品を自らの故郷である北海道を舞台にしてという意味が込められているのではないだろうか? 故郷に錦を飾るという言葉があるが、馳氏は本書を以てそれを成したと云えよう。そして通常ならば自分の生まれ故郷を舞台にした作品を書くならば、それまでの作家の集大成的な作品として感動巨編的な物を書こうと思うのが普通だが、馳氏はあくまで自分の作風にこだわり、敢えて故郷を舞台に不幸な人間の遣る瀬無さが漂う物語を紡いだ。 これが彼の10年間で得た物です、そんな風に云っているように私には思えた。 多分これは私の勝手な思い込みだろうし、馳氏は一笑に付して歯牙にもかけないだろう。しかし私は氏の本心を隠した照れではないかと本書に収められた各編を通じて思ってしまう。 今まで馳氏の短編集は本当に救いのない話ばかりで、むしろ作者がわざと大袈裟に不幸を愉しんで書いているような節を感じて嫌悪感さえ抱いていたのだが、本書においては同じ不幸を描きながら、酒、ドラッグ、暴力、セックスに淫せずに我々市井の人々の中にいる不幸な人をじっくりと、しかし敢えて過剰な抑揚を排したこの物語群はそんな負の感情を抱かずに楽しめた。 これ以降の馳作品もこのような読み応えを期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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<地球市>と呼ばれる都市は軌道上に乗る動く7層からなる都市でその行先の測量をし、軌道を敷設し、断崖があれば橋を架ける。それがギルド員の仕事だった。
1年に約36.5マイル動く都市に住む人々の年齢もまた時間ではなく、距離で表現される。人は650マイル、即ち約18歳になると成人とみなされ、それら複数のギルドの中から自分が就くべき職業を選択する。そして成人になるまで都市の人々は外の世界へでることはないのだ。 クリストファー・プリーストが1974年に発表したSF小説である本書はそんな奇想が横溢する世界が舞台だ。 最適線と呼ばれる位置を目指して軌道の上を北進する都市。しかしそこは目的地ではなく、通るべき道筋に過ぎない。北への進路はすなわち進むべき未来。従ってその進路を測量する職人たちは未来測量ギルド員と呼ばれる。そして進行方向へ敷設する軌道は通過済みの軌道を回収して整備する。通過した軌道は過去と呼ばれる。そう、この移動する都市では過去が具現化して見えるのだ。 しかし物語が進むにつれて、北を未来、南を過去と呼ぶのが単なる通称ではないことが解ってくる。主人公ヘルワードの父は未来測量ギルド員だが、数日後に再会した時にはひどく老いており、また南へ下る旅の連れは次第に背が縮んでいく。 さらには山々や川が谷までもが縮んでいく。やがて地面と平行になって落ちていく感覚になり、南へ引っ張られる、南への張力が強まっていく。それは世界の遠心力によるもの。この遠心力に捉われないために都市は北へ動くのだ。やがてヘルワードは次第にこの世界がどんな仕組みであるのか解ってくる。 それは双曲線をy軸を中心に回転した縦と横に無限に伸びる世界であるとイメージを掴む。最適線とは原点にもっとも近づいた場所のことであり、そこでの1日の時間は24時間となり、もっともバランスの取れた地点なのだ。そして無限の宇宙にある有限の惑星がある地球の世界ではなく、ここでは有限の宇宙に無限の広がりの世界を持つ惑星が複数ある逆転の世界に住んでいるのが彼らなのだ。 むぅ、なんという奇想だ しかしそんな動く都市と歪む世界の摂理は第4部で驚くべき転換を見せる。 しかしこの真相の衝撃はものすごいものだ。 歪みゆく世界から逃れるために動く都市。彼らの行動原理には原因と結果が備わっており、この世を理解するに十分な論理が存在している。そんな安定した世界観を覆す奇想。 まさにコペルニクス的発想転換。当時のガリレオの地動説が発表された衝撃と黙殺しようとした学会の気持ちが実によく解る。 つまり本書の本当の戦慄すべきところは我々の住む世界の現代科学によって理論づけられ、補完されている原理原則が、実は科学者の独断と偏見による解釈によって成されているかもしれないという恐れだ。 地球には重力がある。地球は自転し、太陽の周りを公転している。紛れもなくこの世界に住む人々はこのような原理原則を信じているわけだが、果たしてそれを実際に目の当たりにした者はおらず、科学者や数学者による数式によって理論づけられているに過ぎない。 本書はそうしたことが盲信かもしれないという警句を投げかけているのだ。 しかし色んな要素を含んだ物語だ。都市に住まう人々の中にはなぜ都市は動かなければならないのかと疑問を抱く者も少なくない。しかしギルド員は南に下ることで知ったこの世の原理に基づき、それを他言することを禁じられているがために都市を動かすことを最優先事項として一心不乱に働くだけだ。 これは現代の我々の社会でも同じではないか? 会社の繁栄という大目的の中、大きな組織であればあるほど業務は細分化し、組織の末端になればなるほど自分の仕事が会社の利益にどのように寄与しているのか解らないにも関わらず、日々の仕事をこなさざるを得なくなる。なぜならそれが彼らにとって与えられた仕事、任務だからだ。 そんな社会の縮図がこの都市を動かすことに執心するギルドの仕組みに集約されているように感じた。 さらには都市の創立者のフランシス・デステインの指導書の存在だ。これはまさに聖書のようなものであり、都市の住民にとっては生きるための成すべきことが書かれた指南書だ。 これはまさに宗教であり、住民は信者という構図だ。 この読後感はまさに『猿の惑星』だ。もしこの作品を観ていなかったら本書の結末の衝撃はまさにカタストロフィが訪れたかのような衝撃に見舞われただろう。 しかしそんな先行作と比較することなく、本書の中に横溢する動く都市の業務に従事する一人の男の人生を中心にした奇想の物語にどっぷり浸って、驚いてほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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訪米中のソ連外務大臣ポノマレフが何者かに暗殺されるという事件が起こる。ソ連とアメリカ政府の間に緊張が走る。特にポノマレフは合衆国を敵視していた外相でもあり、この暗殺には合衆国側が意図して起こした物だという臆測まで流れる始末だった。
即刻合衆国大統領はFBI、CIA、警察からえりすぐりの精鋭を選出して事件解決へ取り組むよう要請した。そして第2の殺人が起こる。ポノマレフの運転手スロボディンが殺されたのだ。 そして調査の結果、ポノマレフは当日ニュージャージーからニューヨークへ向かう途中で射殺されたことが解る。彼は自ら運転し、ニュージャージーに住む愛人オルガ・キリレンコと逢った帰り道の出来事だったことが解る。 捜査チームはオルガの夫ディミトリイが犯人ではないかと睨むが、それは全く違っていた。そしてチームの中心人物FBI捜査官のビル・パティスンは驚くべき見解を示す。 暗殺者の標的はスロボディンであり、ポノマレフは彼と誤って暗殺されたのだと。 ポノマレフとスロボディンはかつて第二次大戦中、軍隊で上司と部下の関係にあり、スロボディンは捕虜となって収容所を転々とした挙句、ドイツ領内のダッハウに収容され、その後祖国に送還され、無職になったところをポノマレフの専属運転手として雇われたという過去があった。 そんな混迷を極める事件の捜査を務める人間としてCIA長官は以前の部下ソーンダーズに白羽の矢を立てる。これまでの捜査の一部始終を聞いたソーンダーズは早速フロリダで2人を殺害したライフルと同じ銃で起こった殺人事件の報が入るや否やフロリダへ飛ぶ。 フロリダで殺されたのは隠居した元造船会社社長スティーヴン・ドラグナ―だった。彼は元ロシア人で実名をステパン・ドラグンスキーと云った。ソーンダーズは彼の身辺を探るうちに彼もまたスロボディンと同じくダッハウ収容所に収容されていたことを知る。全ての鍵はドイルにあり。ソーンダーズはすぐさま彼のよく知る仕事仲間エゴン・シュナイダーを訪ねる。 そこで判明したのは2人とも収容所の第13号ブロックに収容されていたことだった。第13号ブロックで一体何が起きたのか?しかしシュナイダーは何かを隠しているようだった。ソーンダーズはシュナイダーを詰問したところ、実は彼を訪ねたフランスの出版社の青年に件のロシア人を第13号ブロックの生存者のリストを渡したことを打ち明ける。 その男の名はジャン-マルク・ルソー。ソーンダーズはすぐさまフランスへ飛ぶが、そこには同じ情報を狙う暗殺者の手が迫っていた。 本書はスパイ小説の重鎮マイケル・バー=ゾウハーのデビュー作。 上に書いた長々としたあらすじは実に起伏に富んでいるが実は本書のちょうど半分でしかない。この目くるめく舞台展開の速さとストーリーの移り行くスピードがバー=ゾウハーのスパイ小説の持ち味だ。 舞台は事件の起きたアメリカからドイツ、フランス、イスラエル、ポーランドと実に目まぐるしく変わる。たった280ページの物語にこれだけの舞台転換が込められており、しかも物語は重層的だ。スパイ小説隆盛時期の小説とはこれだ!と云わんばかりの充実ぶりだ。 ソ連外相がアメリカ訪問中に暗殺されるという政治的にショッキングな事件から幕を開ける本書はFBIの捜査で実は外相の暗殺は誤殺で本命は彼の運転手だったという捻りが面白い。 それから派生する連続暗殺事件。彼らを繋ぐミッシングリンクはナチス時代のドイツの収容所ダッハウに繋がる。さらに彼らはその中の第13ブロックに収容されていたという事実に行き当たる。 そこで起きた地獄のような惨劇の正体は物語の中盤の終わりで明かされる。 この重層的な物語こそマイケル・バー=ゾウハーの職人技。デビュー作からこんな物語を見せてくれるとは恐るべし。 そして初期のシリーズキャラクターを務めるソーンダーズも本作から登場している。しかも彼がCIA工作員だった頃に親友ともいうべき有能な工作員を自分の失敗から亡くしてしまうという苦い過去も織り込まれている。 そこにはジェイムズ・ボンドのような任務先で知り合った女性と懇ろになるという優雅なスパイの姿が描かれている。これはバー=ゾウハーによる一種の007シリーズへの皮肉なのかもしれない。 またこれら複雑な物語は世界を股に掛けた大規模な一種の操りのトリックでもある。つまり根っこは本格ミステリ、特に後期のクイーンが取り組み、そして悩むこととなった後期クイーン問題に繋がっている。 スパイ小説の起源がクイーンにあるとまでは云わないが、特に『間違いの悲劇』を読んだ後であったためか、近似性を強く感じた。 しかしデビュー作もナチス時代の復讐譚が絡む物語ならば現時点での最新作『ベルリン・コンスピラシー』もナチス時代の事件の物語。どうやらバー=ゾウハーにとってナチスとは現代社会にも根ざす戦争の亡霊でありながら忘れてはならない過ちであり、生涯語るべきライフワーク的なテーマなのかもしれない。 最近ラドラムのジェイソン・ボーンシリーズの映画化、そしてル・カレの有名な傑作までもが映画化され、かなりの高評価となっている。 本書を読む限りバー=ゾウハーの作品もそれらに比肩するクオリティを持っているし、280ページと云う尺の長さはやはり映画向きだとも云える。もしかしたら近い将来、このシリーズも映画として甦るのかもしれない。そうすれば復刊されたりもするのかと淡い期待と抱きながらこの感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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非常勤講師“おれ”が活躍するシリーズ短編6編と小学生の小林竜太が活躍するショートミステリ2編を含む短編集。
まずシリーズ『おれは非情勤』の冒頭を飾るのは「6×3」。 表題の数式の意味があるヒントで蒙が啓かれるかの如く、パッと一気に真相が閃くのは見事。またいじめ問題も物語に絡めるあたり、今日的だ。 2作目の「1/64」は長期病欠の教師の非常勤講師として招かれた二階堂小学校での事件。 この真相は中学校が舞台であればギリギリ理解できるものの、やはり小学5年生の子を持つ親からしてみれば、同学年の子供らがこのようなゲームをしているのは甚だ疑問。しかも学習雑誌に連載されていたことも勘案するとちょっとこれはやり過ぎかと。 ここまでくればもはや題名自体が謎。「10×5+5+1」はおれが派遣された事情が物語の謎となっている。 新任教師の死の裏に新任教師が陥りやすい過ちが明るみに出る皮肉な一編。 教師生活の始まりと云う期待と不安に胸を膨らませて踏み出した一歩が些細なことから生徒との歯車を狂わせ、いつしか生徒に嫌われたくないと主従関係が崩れ、生徒の要求に従う構図が出来上がる。通常我々の社会生活であれば大の大人が10歳前後の子供に手玉に取られること自体が荒唐無稽なのだが、小学校ではこのようなことがあり得るのだ。 続く「ウラコン」では四季小学校が赴任先。 これまた意味不明な題名、「ムトタト」では五輪小学校でおれは運動会の準備に勤しんでいる。 運動会に修学旅行。小学校のみならず学校生活の花形行事。皆が楽しみにしている一大イベントなのだが、必ずしも全ての生徒が楽しみにしているわけではない。斯くいう私も子供の頃は修学旅行は苦手な行事の1つだった。本作の題名になっているムトタトの意味はすんなり解ってしまった。 シリーズ最終作の「カミノミズ」は音楽の授業の後で机のペットボトルの水を飲んだ生徒が急変し、救急車で病院に運ばれてしまうのが事件の発端。 こんな事件は昨今の町内ではどこでもありそうなものである。お互いの事情を優先するがために起きた悲劇。しかしそこに別段特別な関係性は無い。つまり我々の日常にもこのような悲劇の種は潜んでいるのだ。 最後の2編は小学生小林竜太が主人公のショートミステリ。1編目の「放火魔をさがせ」は近所で起きているボヤ騒ぎをきっかけに父親と夜回りすることになった竜太少年が集合場所の家で火事に出くわすという物。 2編目の「幽霊からの電話」は間違って自宅の電話に吹き込まれていた別の母親からのメッセージ。ところが学校に行ってみると同じメッセージが吹き込まれた子供が複数いるという。しかも調べてみるとその母親は1週間前に交通事故で亡くなっていたことを知る。電話は幽霊からかかってきたのか? いずれも竜太少年の1人称叙述で恐らく高学年と思われる竜太少年のぶつくさいう台詞回しが実に面白い。そんなジュヴナイル・ミステリながらしっかりとしたトリックを用意しているのが東野圭吾氏という作家の仕事の質の高さを物語っている。 本書は小学生の学習雑誌に連載された非常勤講師“おれ”が探偵役を務める6編と小学生の小林竜太が活躍するショートミステリ2編を収めた文庫オリジナルの短編集。 まずは「おれは非情勤」について。 25歳独身。ミステリ作家を目指す非常勤講師“おれ”は今日も学校を渡り歩いては事件に出くわし、解決を強いられる。おれにとっては教師と云う職業は単なる生活の糧を得るに過ぎなく、限られた期間をそつなくこなせばいいくらいにしか思っていない。しかしさほど熱心な教師ではないにもかかわらず行く先々で起こる事件で生徒たちと関わらざるを得ない。 通常の常識的観念から見れば首を傾げざるを得ない真相も学校と云う閉鎖空間と意志持つ集団が多く介在するところでは個の力よりも弱者でありながらも小学生と云う集団の力が凌駕する場合がある。特に今の教師は何かにつけ教育委員会に報告され、肩身の狭い思いをしながら教鞭を取っているのが実状。 また大人になった今では遠い記憶の彼方かもしれないが、自分たちが子供の頃に抱いたクラス内の階級制度の存在、学校行事に対する苦手意識、クラス独自のルールや秘密のゲームなどが織り込まれ、実は自分たちの小学校時代を思い出せば本書の謎はさほど難しくないのが解る。 東野氏はこのような特異な学校という空間が持つ集団意識を見事物語に溶け込ませてミステリに仕上げている。 題名は非常勤ならぬ“非情”勤とフィリップ・マーロウを髣髴とさせるサラリーマン教師を想像させるが、実は意外にも熱血漢。 “おれ”の一人称で語られる地の文では素っ気ない無気力な口調でやる気のなさを強調しているが、いざ事件が起こればすぐに駆けつけ、業務時間外でも生徒たちの自宅や病院まで訪問し、ケアもする。そして休み時間の生徒たちの振る舞いを観察し、クラスにおける生徒たちの階級制度を理解し、子供たちの心を掴み、真相に迫る。 また特徴的なのは非常勤の名の如く、一作一作で舞台となる学校は違うところだ。通常学園物は同じ学校の面々をストーリーを追うごとにそれぞれのキャラクターを掘り込み、深化させて濃密な物語世界と読者が経験した学生生活の追体験をさせるのが習いなのに対し、本書は特別だ。 そして短期間しかその学校に属さない非常勤講師だからこそ、学校という空間でいつ知れず形成される異質な常識や通念に囚われずに生徒たちとぶつかり、真実を探求できるというところに主人公の設定の妙味がある。 もう一つの小林竜太少年が活躍する2編も実に興味深い。高学年だと思われる小林竜太少年が大人のやり方に対する不平不満を交えた文章が面白いし、また世の中の仕組みや大人たちのルールが解ってきた年齢だからこそ紡がれる物語がここにはある。 子供の視点や考え方は非常に柔軟で、刑事が介在する事件でさえ小学生の閃きで解決する。しかもそれが不自然でなく東野作品に特徴的な主人公の日常的なエピソードに謎を解くヒントが隠されているのだ。そしてそんな事件を解決する小林少年は決して天才型の少年ではなく、ごく普通の、どこにでもいるちょっぴり悪いガキンチョであり、そんな子供が謎を解くことが全く以て不自然でないストーリー運びが実に上手い。 しかし生き生きとした小学校生活の描写が大人の私にも懐かしく思えるし、現在進行形で学校生活を送っている小学生にもこれらの短編は実に面白く読めるだろう。 本当に何でも書ける作家だなぁ、東野圭吾氏は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1999年に刊行されたクイーンのシノプシス“Tragety Of Errors”と単行本未収録作品を集めた作品集。
まずノンシリーズ「動機」はアメリカの田舎町ノースフィールドで起きた17歳の少年の殺人事件を発端に、カフェの主人殺害、そして町の独裁者と呼ばれていた老婦人の殺人が立て続けに起きる。 訳も新しいせいなのか、クイーンの諸作の中ではヒロインのスージーと副保安官リンクとの掛け合いなど物語の部分に読み応えを感じる。 続くは「クイーン検察局」シリーズの未収録短編で「結婚記念日」、「オーストラリアから来たおじさん」、「トナカイの手がかり」の3編。 いずれも殺人事件が起き、3人の容疑者の中から犯人を絞り込むという推理クイズ形式になっている。 「結婚記念日」は毒殺された被害者が直後にエラリーに指し示したダイアモンドが示すダイイング・メッセージの意味から犯人を絞り込む物。 いくら宝石商だからとはいえ、死の間際でそんなことを思いつく被害者がいるものだろうか? 「オーストラリアから来たおじさん」は単純明確なミステリ。 「トナカイの手がかり」も英語圏の作品ならではの解法だ。 「クイーン検察局」の次はエラリー・クイーンが所属する「パズル・クラブ」を舞台にした短編群を収録。これはパズル・クラブの設定自身が大学のミステリ・クラブ活動を想起させる、純粋な推理クイズ物。 「三人の学生」は殺された教授の容疑者となった3人の学生から犯人を絞り込むという物。 「仲間はずれ」は3人の中から麻薬密売人を捜し出すという話。 この作品ではパズル・クラブのメンバーが案出した真相以外の第4の真相を逆にクラブ員たちに解かせている所に物語としての変奏曲であると感じた。 さてパズル・クラブシリーズ最後の作品は「正直な詐欺師」。 成功の見込みもないウラニウム探鉱に出資を募った山師が結局鉱泉を見つけられず、一銭も手元に残らなかったのになぜ出資者に出資金全てを返済できたのか?という謎。これは正直簡単だった。まさにクイズのために生み出されたシチュエーションだ。 そして本書の掉尾を飾るのが表題作「間違いの悲劇」。 シノプシスで掲載されたこの作品は物語の骨子だけの削ぎ落とした内容となっており、つまりエラリーの衒学趣味的な台詞や登場人物のやり取りがない、贅肉が全くない読み物なので純粋に作品の内容のみが描かれている。 しかし読後の余韻はなかなかに深く、最後のページに附されたフレデリック・ダネイからマンフレッド・リーへの作品の意図を記した手紙は作者が物語に内包したテーマを指示しており、明確になっている。 単純な事件ながら物語は二転三転、いやそれ以上の反転を繰り返す。 作中に打たれる事件のピリオドを作者はデッドエンド、つまり袋小路と称しているのだがこのデッドエンドが7回も登場する。つまり事件は7回行きづまり、そして解決するのだ。 しかし事件の真犯人は解ってしまった。最後の最後の土壇場になってエラリーは気付くが、私にはその前に示唆した犯人がなぜエラリーがこの男を選んだのか不思議だった。 本書は表題の未完成長編のシノプシスにクイーンの未収録短編作品も織り込んだ贅沢な一冊。解説にもあるが発表当時は本書がクイーン作品翻訳出版の最後の作品集とされたがその後論創社がクイーンのラジオドラマシリーズを次々と訳出し、現在でもまだクイーンの未発表作品の訳出は続いている。 しかしその一連の流れを作ったのはやはり本書が嚆矢だろう。 さてそんな作品集の始まりはノンシリーズの「動機」から始まる。 町の住民が次々と殺されるが犯人は一向に解らない。 その作品以降続くのは「クイーン検察局」シリーズの未収録短編と「パズル・クラブ」シリーズ。どちらも推理クイズと大差ない読者の挑戦状を挟んだ小編ばかりだが、全編通して多いのはダイイング・メッセージ物だということだ。 私はミステリ評論家がクイーンが特に好んだのがダイイング・メッセージという書評を読んでそれほど多いのかと腑に落ちない物を感じていたが、本書を読むと確かにクイーンはダイイング・メッセージがいかに好きだったのかが実感できた。玉石混交の感は否めないが、よくもまあこれほど考え付いた物だ。初期の頃から言葉遊びを嗜んでいたがダイイング・メッセージはこの趣味が高じた物なのだろう。 そして注目の表題作。これは前にも書いたがクイーンの代表作『~の悲劇』の題名を継ぐ作品だけあって、その真相は二転三転し、読者の予断を許さない。 往年の大女優の死は自殺か他殺か? しかもその真相には後期クイーン問題も孕んでおり、読後の余韻は『九尾の猫』や『十日間の不思議』に似たものがある。 作品として完成していれば後期の代表作の1つになっていたのかもしれない。 本作の題名はバックが法律を素人ながらも勉強して得た生半可な法律知識が実は誤りだったことから来ている。 この悲劇をエラリーは間違いから起こった悲劇だと慨嘆する。 ただ私はこう思う。世の中の犯罪全てが間違いから起こった悲劇なのだと。 つまりこの題名は犯罪そのものが「間違いの悲劇」なのだという作者からのメッセージではないか? この梗概はクイーン最後の長編『心地よく秘密めいた場所』の後に書かれたのだという。やはり一連の自作をもトリックに盛り込んだ『心地よく秘密めいた場所』は集大成的な要素を持っていながらもシリーズの最終作ではなかったのだ。 つまり彼らの代表作である悲劇四部作の名を冠した作品を最後にすることでシリーズを終えるべきだったのだろう。 犯罪を扱ったパズラーから始まったクイーンシリーズが最後に行き着くのはダネイからリーへの手紙にあるミステリの枠組みで今日の世界の狂気を描くという試みだ。一種のゲーム小説で始まったシリーズが最後に到達したのはやはり人間の、そして人間が形成する世界の歪みを告発することだった。本作は犯罪を題材にしてそれを生活の糧にしてきたクイーンの贖罪だったのかもしれない。 またよく考えてみると『~の悲劇』の題名がついた作品でエラリーが活躍するのは本作だけである。深みあるテーマとこの題名。もしシノプシスだけでなく、作品として完成していたら貴重な作品となっていただろう。 本書の巻末には実はこのシノプシスを基に有栖川有栖氏が小説化するという企画だったという解説がしたためられている。しかしそれは諸般の事情から適わなかったわけだが、その一部始終と本格ミステリ憧れの存在の遺作を手掛けるということの重圧と意欲、そしてそのための準備が語られており、それが逆にクイーンと云う作家の日本における地位の高さを意味している。 そんなクイーン作品も今や絶版の憂き目に遭っているのは何とも哀しい事実だ。 しかし一方で角川書店や東京創元社からは国名シリーズの新訳出版が続いているという嬉しい状況も見られる。 現在の第一線で活躍する本格ミステリ作家の尊敬止まないこの作家の作品が今後も彼らの作品からクイーンの諸作に容易に手を伸ばせるような状況が保たれることを望んで止まない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書にはつい最近になって発見された未発表原稿からなる表題作と短編2編が収録されている。
21世紀になってルブランの伝記を著したジャック・ドゥルアールの調査によって発見されたタイプ原稿が本書『ルパン、最後の恋』。正真正銘のルブランの手による最後のルパン物語だ。 なんと作者ルブラン没後70年経ってからの発表である。 そんな出版をされた物語は何ともロマンティック。これだよ、これがルパンだよとかつてルパンシリーズを読んで胸躍らせた読者の期待を裏切らない展開の速さとルパンという男の懐の大きさに満ちている。 高貴なる女性と彼女を守る四銃士。その中の一人こそがアルセーヌ・ルパンであるというドラマティックな設定だ。 しかし予想に反して4人のうち、誰がルパンかは物語の2/5に満たないところで早々に判明する。 つまり今までのルブラン作品では、明らかにルパンと思われる人物が最後の方で正体を明かして、あまり興趣をそそらなかったが、本書では4人のうち誰がルパンかという複数の候補を用意しながら、早々と正体を明かすという読者の予想を裏切る演出を採っている。 これはその後に続くコラ嬢とルパンことサヴリー大尉とのそれぞれが惹かれ合いながらも将来を考えて―特にサヴリーが―遠慮し、本心を隠しつつ幸せを願うという、フランス人らしからぬもどかしい恋模様を描くことを主眼しており、あくまでルパンが誰かなどはその恋愛劇の添え物にしか過ぎないことが解る。このルパンが自らコラ嬢に惹かれていることを自覚しながらも一介の快盗である自分と結婚するよりも正統なるイギリス王家に嫁いでロイヤルウェディングを実現させる方が女性の幸せと願って止まないという、なんとも恋知らぬ男のような純情さとストイックさを頑なに持っているのはちょっと違和感があった。 なんせルパンと云えば彼と一緒に時間を共有した女性なら惚れてしまう男であり、過去の作品でもそのプレイボーイぶりを存分に発揮している。 どの作品か忘れたが、眠っている女性を全身を軽くキスしてあげてリラックスさせるという、21世紀の今でも顔を赤らめてしまうような行為をするのが彼なのだ。 そんな彼がコラ嬢の求愛を悉く拒むのは身分の違いという引け目と、文中で語られる年齢にあるようだ。 本書でのルパンは既に怪盗業(こんな言葉があるとは思わないが、ルパンはやっぱり泥棒稼業と書くよりもこちらの方が合う)を引退し、世界各地にその膨大な財産を保管しては、世の役に立つ事業や運動に100億単位の金を融資するという慈善家となっている。年齢40歳。まだ40歳なのだ。 しかし既に心持は引退した事業家のそれとなっており、若くて活発な眩しいほどの美しさを放つコラ嬢に遠慮をしているようなのだ。 しかしそれでもルパンはルパン。タイトルにあるように最後の恋をして物語は終わる。 従って本書はやはりルパンの人生の終の棲家を得るための最後の恋物語というのがメインなのだが、それを通奏低音としながら本来の物語はコラ嬢へイギリス王侯が贈った400万ポンドの金貨とコラ嬢自身を巡っての悪党とルパンの攻防戦という図式。 かつてのルパン譚には彼の万能性を以てしても窮地に陥る難事件が数多くあったが、それに比べれば今回の敵は彼にとっては掌上の何とやらで、実に容易い相手であった。 しかも彼には世界中に彼を慕う部下が何千人とおり、無尽蔵とも云える財産もあるが、イギリス側の敵と対峙するのはルパンと飲んだくれの親から引き取った才気煥発な兄妹2人という人員構成。 そんな手薄な人員でイギリス政府からの刺客を撃退するのだから、ある意味胸躍る活劇を期待する分にはいささか物足りなさを感じるかもしれない。 しかし今回の邦題がそういった先入観を軽減する一助になっていると私は思う。この題名があるからこそ、本書の方向性が読む前から見え、冒険活劇よりも恋愛劇がメインであることを許しているのだと思う。 こういうのを訳者のいい仕事と云うのだろう。 そして本書には表題作に加え、ルブランのルパン物第1作の短編「アルセーヌ・ルパンの逮捕」、ルブランによるエッセイ「アルセーヌ・ルパンとは何者か?」、そして文庫化に際し、ボーナストラックとして幻の『バーネット探偵社』の1編である「壊れた橋」が収録されている。 正直「~逮捕」は既読であり、ネタも解っていたのでそれに関する新鮮味はなかった。 しかし現在流布する短編集『快盗紳士ルパン』の収録作がアレンジヴァージョンであるようだが、それを比較して批評するのは好事家の方々に任せることにしよう。 エッセイについてはルブランがどうしてこれほどまでに自身が生み出したピカレスク・ヒーローが世界中の読者に親しまれることになったのかを第三者的立場で批評した物。 やはりそこには先達の生み出したヒーロー、シャーロック・ホームズに対してのライバル心が窺えて興味深い。作者自身はホームズ作品は読んだことなかったので全く関係ないのだと述べてはいるが、ホームズとルパンとの比較を2ページ半に亘って記述し、更には自身の作品には事実をも取り入れた謎解きが含まれているのだとその優位性を述べるくだりもあり、言葉とは裏腹にかなり意識していたことが窺える。 そして本書の目玉であるのが長く埋もれていた短編「壊れた橋」の収録。仲のいい隣人同士だったが、お互いを結ぶ橋が壊れ、一方の家主が死ぬに当たり、隣人夫婦間の裏に蠢く泥沼劇が明るみになるという物語。 上のように書くと実に陰険な物語のように思えるがルブランの筆致はあくまで明るく、特にルパン=ジム・バーネットの天真爛漫とも云えるあっけらかんとした謎解きのプロセスが物語に暗さをもたらしていない。逆に同作の概要をまとめるに当たり、ああ、こんな物語だったのだと読書中には感じなかった重さを知らされたぐらいだ。 さてルパンが怪盗でありながら、実はフランスと云う国をこの上なく愛しており、国のピンチであればスパイのように他国へ侵入して自国への害を未然に防ぐことを厭わないヒーローであると最近のルパンに纏わる書評で読んだ記憶があるが、本書ではルパン自らが愛国者であることを宣言している。そして残りの余生を世界平和に役立てるために私財を擲つとまで述べている。 ルパンは元々アンチヒーローとして生まれたが、最後となる本書ではルパンがヒーローであることを作者が強調していたのが興味深かった。 数年前、早川書房はルパン作品を全編訳出すると意気込んでいたが、現在ではその動きは停滞し、半ば消失したかのように思われた。 が、この未発表原稿の訳出が大体的に各書店で行われたのは実に喜ばしいことである。この余勢を買って、再度新訳でのルパンシリーズの訳出に拍車がかかることを願って、筆を措きたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ネルソン・デミルならぬドミルの1978年の作品である本書は当時最新鋭の飛行機だったコンコルドがスカイジャックされるというルシアン・ネイハムの『シャドー81』を想起させる作品。当時アメリカでは『シャドー81』はほとんど話題にならなかったとのことだが、ドミル自身はその作品を読んでいたに違いない。
しかしスカイジャックのコンコルドだけを舞台に物語は終わらない。テロリストにスカイジャックされたコンコルドの乗員は誘導されたバビロンの地で混成の即席の軍隊としてテロリスト一団と戦いを挑むのだ。 政府要人を含んだ一行は不時着したコンコルドを資材にしてアラブ人テロリストたちの攻撃に対抗すべく、要塞を作る。この辺りは昔ながらの冒険サバイバル小説の風合いがあり、懐かしくも楽しく読んだ。 機内の戦争映画の戦闘シーンのヴォリュームを大きくして、イスラエル側の戦力が多いように偽装したり、エアゾール缶に火をつけて火器に見せかけたり、さらにはブラジャーを投石器代わりにしたり、窒素ボンベの先にコンコルドのシートを付けた爆弾を作ったりと、日用品を使った生活の知恵ならぬ戦闘の知恵がそこここに挟まれていて面白い。 しかしバビロンの遺跡に今なお2000年の悠久の時間を経てもなお住んでいるバビロンの民、ユダヤ人の末裔が住んでおり、その人たちが脱出したドブキン将軍を助けるというのはいかにもハリウッド映画が好みそうな時代と異国のロマンティックな邂逅という演出で失笑を禁じ得なかったが、この流浪の民がそこにいてまだ留まろうとするユダヤ人の血が伝える民族意識の強さを示すのにこの設定は必要だったのだ。 現在でも存在するかは解らないが、イスラエルには帰国法というのがあり、世界各国に散らばるユダヤ人がイスラエルへの帰国を望めば誰であれ受け入れる国策を講じている。砂漠の地バビロンで文明利器の恩恵から程遠い生活を送る彼らがイスラエル政府が差し伸べる手を敢えて拒み、その地に留まろうとするのは遠き地であってもユダヤの精神は受け継がれるという遺伝子レベルで刻まれた民族の絆という強固な繋がりがあるからだ。 日本人である私でもその見えない強き繋がりの存在は理解できる。私が海外赴任していた頃、一緒に働いていた日本人と感じていたのはやはり私たちはどこへ行こうが日本人であり、仕事に対する意識や文化は他国のそれを理解しても根っこの部分は日本人であることを変えられない、そしてそれが誇りになっていた。この時感じた思いはユダヤ人の持つ民族意識に近いものではないだろうか。 従ってそんな全世界に散らばるユダヤ人で構成された代表団であるから一概にイスラエル人と云っても多種多様。アメリカ系ユダヤ人、ドイツ系ユダヤ人と様々だ。 彼らにはそれぞれの国民性が色濃く根付いていて、価値観の違いからしばしば衝突が巻き起こる。そんな混成チームの内部ドラマも本書の読みどころだ。 そしてイスラエルやムスリムなど中東を舞台にしているせいか、アクション大作である本書にはどこか神が介在している翳のような物を行間に感じてしまった。最果ての地にユダヤ人の末裔がおり、将軍を助けるなど、偶然を必然とする見えざる導きの手がイスラエル代表団の周りには存在しているかのように感じられた。 だからといってイスラエル政府が行方知らずとなったコンコルドの行方をまさに天啓とも呼べる、近い神のお告げが降りてきたようなラスコフ准将の根拠なき直感でバビロンと選定する展開にはいささか疑問。もしこの薄弱な根拠でバビロンに進攻していたら本書の面白さは半減していただろう。ドブキン将軍の決死行がなかったら、私は本書を読んだことを後悔していたに違いない。 本書の主人公ハウズナーはエル・アル航空の保安部長でありながらテロリスト、アメド・リシュの因縁の相手でもあるが、本書をハウズナーとリシュの決着の物語とするのはいささか安直に過ぎるだろう。 ではハウズナーとリシュをリーダーにしたアラブ人テロリストと素人武装集団の戦い、つまり代理戦争であるというのもまた足りない。 これは我々イスラムの民でない者が理解できない彼ら民族間の根深い抗争の物語であり、民族の誇りのためには命を投げ出すことも厭わない民族の物語なのだ。アメリカの冒険小説である本書のメインの登場人物がイスラエル人とアラブ人なのも特異だが、この対立が23年後アメリカ人とアラブ人という構造に変わり、全く違和感のない世界になっていることが恐ろしい。 ドミルは9.11以前に既にアラブ人テロリストがアメリカに侵入して次々と元軍人たちを殺害する『王者のゲーム』を著しているがその萌芽は既に本書にあったのだ。 さらに作者がトマス・ブロックと共著で発表した航空パニックの大傑作『超音速漂流』の元ネタも本書には見受けられる。そういった意味で本書は後にベストセラー作家ネルソン・“デミル”になる源泉だと云える。 そして忘れてはならないもう1人の主役がテロに遭うコンコルド機だ。今はもう生産されず営業航行されていない幻のスーパージェット機コンコルドが満身創痍になりながらも再び空へ旅発とうとする姿は映像化すれば魂宿る気高き鳥として映るに違いない。 後世にコンコルドという音速を超えるジェット機が存在したことを知らしめる詳細な資料としても貴重な一冊となっている。 しかし昨今のデミル作品と思えぬほどアメリカン・ジョークの少ない作品だ。確かに本書の登場人物はイスラエル人ばかりだが、作家としての余裕がまだ感じられないことの証左でもある。 初々しさの残る作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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のっぴきならない事態に追い込まれた者や現状に満足できず燻っている者どもが起死回生の一手として選んだのが消費者金融のブラックマネー剥奪。
この作戦に乗るのは4人。 時代の寵児としてかつてマスコミに騒がれながらやくざのフロント企業に食い物にされ、膨大な借金を抱え、今や自分を破滅に押しやったフロント企業でかつての自分と同じ若きIT会社社長を食い物にしている宮前佳史。 やくざになりながら、宮前の見張り役として隠れ蓑として経営するフロント企業の社員に成り下がったことでくすぶり続けている稗田睦樹。 店の№1ホステスながら酒の飲み過ぎで内臓を壊し、酒が飲めなくなって№1の座を追われたホステス紀香こと柳町美和。 消費者金融の渉外担当として警察ややくざとの交渉の矢面に立たされ、頭の古い経営者の不祥事の尻拭いのために毎日心をすり減らし、そのストレスをギャンブルで解消しようと日々借金を積み上げている消費者金融ハピネスの総務課長小久保光之。 ギラギラしている4人が手を組んで大金を奪おうと画策するが、そんな欲望だけで集まった絆は脆く、分け前を4等分することが気に食わない。従って受け取る金額を増やそうと顔では嗤い、心の中では蹴落としてやろうと企んでいる。 馳作品の特徴は人生崖っぷちの人間が現状から逃げ出すためにギリギリの極限状態で這いずり回り、挙句の果てには周囲を巻き込みながらカタストロフィの穴に落ち込み、屍を築いていくという展開だが、今回は疲弊し、将来に不安を抱えていた者が出逢うことで運命が好転するという意外な方向を見せる。 警察に利用され、やくざに脅され、能無しの会長に無理難題を突き付けられ、挙句には趣味のギャンブルで借金を積み重ねている負の螺旋に陥った男小久保が酒が飲めなくなって得意先が次々とライバルのホステスに獲られていくホステス柳町美和と出逢うことで運気が上向いていくのだ。 小久保はギャンブルに勝ちだすようになり、美和は小久保が上客となって売上げ№1に返り咲く。 やがて美和はうだつの上がらない中年オヤジにしか見えなかった小久保に愛しみを感じ、二人で組んで宮前と稗田を出し抜こうと提案する。さらに会社の冴えない苦情処理係だった小久保も次第に頭の切れを見せ始め、2人のコンゲームの宿敵に成り上がっていく。 この辺の流れを見ると、美和は男を見る目がある女であり、さらに小久保にとって“あげまん”の女だったのだ。本書ではこの美和の存在が実に際立って面白い。 そしていつしか2人を応援する自分に気が付く。会社と警察とやくざの狭間でペコペコ頭を下げては神経をすり減らしていた中間管理職と落ち目だったが男を手玉に取ったら百戦錬磨のホステスのコンビがゲームの勝者になるのを知らず知らずに応援したくなってくるのだ。 下衆ばかりが出てくる世界で窮地を乗り越えようとする主人公も下衆な物語だから、全く共感も出来なかったが、今回は別。馳作品でこんな気持ちになったは初めてだ。 一方で小久保に目を付けて作戦を企てた稗田と宮前のコンビはいつも馳作品の登場人物らしく、疑心暗鬼に陥り、互いが互いをボロボロにして窮地に陥っていく。 稗田は妻をシャブ漬けにしたやくざ仲間を怒りのあまり殺してしまい、宮前はその妻に手を出して稗田の暴力に怯えてしまう。 この2人に関しては馳作品特有の転落人生劇場の主人公の道を真っ当に歩いている。 この展開は今までの馳作品にはない展開だったので、ハッピーエンドを期待したのだが、やっぱりそれは望むべくもなかった。 予定調和なんて存在しないとばっさり切り捨てる。 それが作者の持ち味なのだが、やはり物語だからこそたまにはハッピーエンドを体験してカタルシスを感じたいのだ。 作中象徴的なエピソードがある。 登場人物の一人稗田が大金強奪ゲームから脱落し、更にはやくざを殺したことで落とし前を付けられるため、車で搬送される最中にやくざ3人相手に立ち回るシーン。ゲームに負けて意気消沈していた稗田が仲間のやくざにどやされ眠っていた暴力への熱情が甦り、呟く。 「これがおれだ―」と。 前作『楽園の眠り』でやくざもマフィアも出ず、刑事と一般人を登場人物にしながら、死人を一人も出さずにノワールを描くという新機軸を見出した馳氏が、結局本書でやくざと金とセックスとドラッグの世界に舞い戻っていることから、この稗田の言葉は作者の心の言葉とも取れる。 やっぱり俺にはこれが一番似合っていると。 従って本書もまたいつもの馳作品に過ぎないという評価になった。非常に残念だ。 作者が自分の作風に執着するあまり、新機軸を描けなくなっている。馳氏が作家になった動機が自分が読みたい物語がないから自分で書くことにしたというのは有名だが、そのこだわりゆえに同じ話を読まされている気がする。 本当にこんな話ばかり作者は読みたいのだろうか? さて本書の題名にある「バビロン」とはメソポタミア地方の古代都市の意味ではなく、旧約聖書のバベル、即ち“混乱”を意図してつけられた単語だろう。またバビロンとは退廃した都市の象徴として扱われているとのこと。 つまり本書は予め1つの盛り上がりとその後の祭りの後の虚しさが約束された物語であると読み取れる。つまり作者は最初からハッピーエンドなど望まないでくれと述べていたのだ。 しかしこれらの事は裏返せばなかなか一皮剥けない作家でもあることを裏付けているわけで、これを偉大なるマンネリと採るか否かで評価は非常に分かれるだろう。 私は…。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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タナーが今回訪れるのはまだ国が統一されていたチェコスロバキア。そこでネオ・ナチ信奉者たちのシンボル的存在であるヤノス・コタセックなる人物を救出し、彼の持つファイルを入手するのが彼の今回の任務。しかし入国する前に警察に捕まりそうになる。前作でもトルコの入国審査でいきなり逮捕されたタナーだったが、彼は目的地に着くことが大きな障害であり、パターンとなっているようだ。
しかもタイトルにもなっているヤノス・コタセック老人はユダヤ人を嫌悪し、有色人種を蔑視する唾棄すべき男。行く先々の国々でその国の民族をこき下ろし、毒を吐きまくる(何かにつけていちゃもんをつけずにいられないこんな人いるなぁ)。 任務とは云え、そんな男を連れて国を渡っていくのはタナーには辛いものだ。 自分を偽ってコセタック老人をなだめすがめつしながら自身を時にはネオ・ナチ信奉者として、旅先の国では協力を得るために反ファシストの革命家を演ずる。 でもこれは我々社会人も同じこと。相手に対してその都度対応を変え、時には自分を曝け出し、時には自分を偽っておもねなければならない。タナーの悲哀はそのまま我々の悲哀だ。 しかしそんな重い話ばかりではなく、ブロック特有のユーモアに溢れている。逢う男全てを悩殺するグレタを始め、ヤノス・コセタックもカタレプシー(強硬症)を持ち、その症状の間は仮死状態となる。この敵多き男を運ぶため、危難に出くわすたびに仮死状態にして死体として運ぶのだ。この辺はほとんどギャグである。 そしてスパイ物に美女は付き物。今回のヒロインはナチス信奉者で老人救出作戦の協力者クルト・ノイマンの娘グレタ。とにかく全ての造形が完璧でしかも男の情欲をそそる身体つきで性に奔放と云う、まさに男の願望が象徴化したようなヒロインだ。 しかしそんな好感度抜群のヒロインでもブロックは早々に退場させてしまう。一度はタナーが引き取って一緒に暮らすことまで頭を過ぎらせもしたほどの女性なのにも関わらず。恐らくグレタは今後のシリーズで再登場しそうな気配がある。 そして今回もタナーは忙しい。007ばりの大陸間鉄道の中での手に汗握る緊迫感、ネオ・ナチ信奉者の集会でヒトラー張りのスピーチをして暴動を起こさせてしまったり、パレスチナのイスラム原理主義者からなる過激派グループの一員になったりと大忙しだ。 しかし数々の危難を乗り越えるタナーの持ち味は機転がすぐ回る頭の良さや不眠症を長所にして体得した数ヶ国語を操る語学力もそうだが、やはり一番の強みは人脈の広さ、つまりコネである。 各国の団体、過激派グループ、狂信者グループの会員となり、逢ったこともない相手と親密になるほどの交流をしているタナーのコネの強さだろう。この武器を存分に活かしてタナーは老人を連れてチェコスロバキアからハンガリー、ユーゴスラビアからギリシアへ、そして最終目的地のリスボンへと移動できたのだ。 前作ではクーデターを引き起こしたタナーだが、今回もヒトラー張りの演説を振るって暴動を巻き起こしてしまう。そして前作クーデターを起こしたテトヴォの人物も本シリーズでは登場する、そんなシリーズ読者へのサーヴィスもちゃっかりなされている。 全くの余談だが本書は1966年の作品でまだ東西ヨーロッパは緊張状態。西と東との間に鉄のカーテンがまだある時代だ。余談だが作中ベルリッツ語学学校が表現で使われており、こんなに古くからこの英会話教室はあるのか?と妙に感心させられた。 しかしユーモアで包まれたスパイ物だが、結末はなぜかシリアス。 この辺の思い切りの良さというか冷酷さはフリーマントルのチャーリーに一種通ずるものを感じた。 前作は怪盗物という先入観が邪魔をして混乱の中、読み終えてしまい、存分に愉しめなかったが本作では眠れないスパイの物語であることがあらかじめ分かっていたので物語に没入できた。 従って前作より本書の方が評価は上なのだが、本書以降シリーズは訳出されていない。『このミス』にもランクインされなかったので売り上げもさほどではなかったのかもしれない。 しかし2作目を読んで非常に続きが気になるシリーズである思いを強くした。おまけに現在本書は絶版でもある。どうにか3作目の訳出が成されることを祈って感想を終えたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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短い物は4ページから、長くても10ページで構成されるショートショートならぬ、クイーンの命名によるミニ・ミステリを集めたアンソロジー。
冒頭は「最初のミステリ」と題してニュートン・ニューカークの「探偵業の起源」。これは今では有名となったアダムとイヴの物語を探偵物語に擬えた物。 次は「ミニ犯罪小説」として25編が収録されている。 完全犯罪を企てた男がある幸運から犯罪が瓦解するというサミュエル・ホプキンズ・アダムズの「百万に一つの偶然」を筆頭に、自殺した男をわざわざ自分が殺したと申し出る男の犯した犯罪を描くスティーヴ・アレンの「ハリウッド式殺人法」、毒蛇で浮気相手の男を殺そうとしたが、蛇に噛まれても死なないその男から明かされた意外な事実。だがしかし…というひねりを加えたロバート・ブロックの「生きている腕輪」。 小人がもう一人の小人を殺した理由は実に小人らしい理由だったというのが「検死審問」に、亡き兄の許に謂れのない本の請求書が送られてきたという紳士とひと悶着する「牧師の汚名」、過激な演説で知られる下院議員の阻止すべく、取ったある行動とは?ツイストの効いた作品はロード・ダンセイニの「演説」、アントニー・ギルバートの「わたしの目の黒いうちは」は娘を支配的に扱う母親が結婚の許しをしつこく請う娘に対してした仕打ちが意外なことになる。 最近になって再評価の気運高まっているジェラルド・カーシュの「詐欺師カルメシン」はいかにしてコイン式ガスメーターをただで使用したかを滔々とカルメシンが語る話。昔はコインを投入することで一定のガスが得られ、それを集金にガス会社の人間が来ていたらしい。カルメシンは氷で作ったコインを投入してガスを無料で使用したばかりか、その欠点をガス会社に指摘して1万フランせしめたという話だ。 ネタで云えば長編を一つ書き上げることが出来そうなのがラドヤード・キップリングの「パンベ・セラングの限界」。皆の前で侮辱を受けたマレイ人のパンベがその相手に報復を与えようと執念深くその男を捜し求める話だ。 ジャック・ロンドンの「豹男の話」はライオンの大きく開けた口に頭を入れる曲芸の時になぜライオンがその男の頭を噛みついてしまったのかというお話。 哀しいかな、これは天下の悪書、藤原宰太郎の推理クイズの本で出題されていたトリックで読んでいる最中にどんな話か解ってしまった。ちなみに豹男とは豹のような男といったフリークではなく、豹使いのこと。 フィリップ・マクドナルドの「信用第一」は一介の青年がイギリスの上流階級の娘といかにして結婚するに至ったという立身出世の話だが、父親の信頼を得るための資金を競馬で稼ぐという物。 本書において主人公の青年が他人から金を預かってそれを競馬に賭けて何倍にして返すという賭け屋である娘の父親を利用して資金を獲得する方法が機知に富んでいる。最後に明かされるトリックは恐らく当時流行った方法ではないだろうか? 庭で遊んでいた女の子が2人の肌の黒い大女と一緒に連れられてそれまで自分が出遭ったことのない人々や初めて見る海に興奮するという『不思議の国のアリス』風に展開するが、全てを題名で台無しにしているのがキャサリーン・マンスフィールドの「パール・バトンはいかにして誘拐されたか」だ。 つまりは誘拐されたことを気付かない女の子と彼女を取り巻く人々を一切登場人物の内面を描くことなく書いたところは素晴らしいのに、なぜこの題名をつけたのか、作者の真意を図りかねる。しかし誘拐犯とされている人物たちの少女への接し方は非常に好意的で物語は非常に牧歌的である。 ここで考えられるのは、実はただ見かけた少女に海を見せてあげたかっただけなのが、誘拐と誤解されたのか?それとも牧歌的な風景の背景に誘拐と云う犯罪が隠されていたという後に解る恐ろしさを演出したのか? しかし後者であれば返す返すも題名が全てを台無しにしている。 フェレンツ・モルナールの「最善の策」は匿名の手紙によってある銀行の支店にいる出納係が公金横領を働いていると知らされ、調査に入るが全く問題は見つからなかった、にもかかわらず再度横領の密告文書が届いて…という作品。実にストレートな作品。 オグデン・ナッシュの「殺すか殺されるか」は世に評判の弁護士ブランダー・ギリスが『読心術入門』なる書物を読んで読心術を会得し、そのために誰が自分を殺したがっているかを知ってしまうというお話。そして自分が殺されるよりもいっそ殺してしまった方がいいと考えるが…と唐突なエンディングで呆気にとられてしまった。 恐らくは殺人相手が一歩先に甘んじたということなのだろうか。 奇妙な味の作品もあり、ロバート・ネイサンの「スタジアムに死す」がそれだ。物語は世界一の俳優と称された男が自分の死をスタジアムで公開するということで観客が集まるが、そこでは観客さえも奇妙な状態に陥るというもの。集団が成せる狂気をテーマにした物語か。 誰もが自分をモデルにしたと憤る作品を書いたというのがエルマー・ライスの「良心」だ。 その話とは年老いた父親から搾れるだけ財産の搾り取って家から追い出した2人の娘のお話なのだが、どうやらこれはシェークスピアの『リア王』の骨子らしい。つまりこれは原典を読まないと完全に理解できないのだが、それでも本書で伝えたかったこととはもはや物語は出尽くして新作という物は昔の作家の作品を焼き直した物しか存在しないということなのかもしれない。 いわゆる介護疲れをテーマにしたのがディラン・トーマスの「真実の物語」だ。長年の介護からの解放と老婆の財産を狙っての犯行。しかも毎日訪れる作男を色香で取り込んで…とジェームズ・M・ケインの『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』を髣髴するような話だ。 世間では知られていない業界の常識や作法というものがあるが、アレグザンダー・ウールコットの「Rien Ne Va Plus」はカジノのある風習が物語の鍵となっている。 カジノで大負けした青年が自ら心臓を撃って死んだ。カジノでは文無しの自殺体にある程度のお金を握らせ、厭世感(作中では世界苦と表現されている)から自殺したように見せかけるようだ(今はどうか知らないが)。しかし警察が駆けつけた時には青年の死体は忽然と消えていたという話。 真相は実は当の青年はただトマトジュースをこぼしてシャツを汚しただけであり、思わぬ収入で再度カジノに戻ったところ、今度は大勝してしまう。ちなみに題名の意味は「賭けは締め切りました」。 次は「ミニ・ミステリ」というテーマで7編が収録されている。現代ならミステリは推理小説、サスペンス、冒険小説などいわゆる犯罪や謎を扱った作品を統括する言葉となっているが、本書では本来の意味である超常現象、超自然現象と云った人智を超えた事象を扱った作品が集められている。 まずはゾーナ・ゲイルの「婚礼の池」。町一番の金持で成功した男はなぜ法廷で自分が妻を殺害したことを告白したのか? 事業は上手く行き、将来の不安もない安定した生活が約束された男の心に刺す一瞬の魔。安定しているがゆえに今後数十年間同じ生活を続けなければならないという先の見えた人生に逆に不安を覚える男が描く妻殺害の妄想。人の心の複雑さが本書のテーマか。 ヴィクター・カニングの「壁の中へ」は星新一氏のショートショートを髣髴させる不条理物。 知らなくてもいい事実、真実と云うのがあるが、本書の、ロンドンの住民には幽霊も交じっているという事実が判明した時に訪れる突然の変化。 なかなか面白い1編。 作中に作者が登場する不思議な一編、アンナ・カサリン・グリーンの「青ペンキの謎」は留守中に部屋の塗装を任された職人が部下に命じて依頼人の家へ行かせたところ、番地を間違えて違う家の塗装をしてしまったという話。そして間違った家の家主は近所でも評判の悪い意地の悪い住民で、忠告通りに放っておいたら、どうなったでしょうという話。 オリヴァー・ラ・ファージの「幽霊屋敷」は難破したボートに乗っていた男が流れ着いた先は「幽霊屋敷」の異名で名高いヘイル家の屋敷だった。ボートはすっかり壊れてしまって屋敷に泊めてもらうしかないので家主の夫人と話をすると、一瞬だが彼女の声が聞き取れなくなってくる。そこで彼が気付いたのは…と云うお話。 淡々としながらも一種忘れない話がアーサー・ミラーの「ある老人の死」。 ダイナーで夕食を摂っていた常連の警官がおもむろに話し出したのは若かりし頃に自殺未遂で逮捕した老人がついさっき死んだのだというもの。 警官はその成り行きについて話しだす。自殺未遂で逮捕した人間の罪状を自殺未遂で処理すると釈放か精神病院への送還かどちらかという選択肢があり、釈放して再犯になるとその警官のキャリアの汚点になり、減点の対象になるというのは本当なのかどうか解らないが、自分が若い頃に釈放した老人が10年後に再び会った時は自殺未遂なぞせず、当時よりも格段に貧しく孤独な生活を送りながらもひたすら生きていたことに驚愕する。 それは本当に警官との約束を守るためだったのか定かではないが、一晩のある出来事の話としてはなんとも云いようのない感慨を覚える。 とにかくどこへ向かうのか解らない話が実は見事に着地するのがクリストファー・モーリイの「ダヴ・ダルセットの明察」だ。 実は最初にさりげなく書かれている「退屈のあまりアメリカ合衆国国璽をたっぷり観察することが出来た」という一文が伏線になっているのがミソ。 このカテゴリー最後の1編はサキの「開かれた窓」。 人を待っている最中にその娘から聞かされたその家の開かれた窓に関するある悲劇。しかし夫人が戻ってくると死者が舞い戻ってきて…と一見ホラーかと思わせて、やはりサキ、実に軽妙にひっくり返す。 次は「ミニ・クラシック」というカテゴリーでいわゆる文豪たちの手によるミニ・ミステリが収められている。 その口火を切る一編はなんと作者不詳の「絶妙なる弁護」。 詐欺には詐欺を、と云わんばかりのタイトル通り絶妙な弁護。上手い! ドン・キホーテで有名なミゲル・デ・セルヴァンテスの「サンチョ・パンサの名探偵ぶり」は借金の返済を巡って押し問答を繰り返す2人の老人を見事に裁く物語。 いわゆる「大岡裁き」のような機転の利いた仲裁かと思いきや、最後に借金の在処が解るという趣向。 しかし解らないものかね、この秘密は。音が鳴るだろうに。 ロシアの文豪チェーホフによる「子守歌」は小間使いの女がさんざんこき使われ睡眠不足に襲われる極限状態を語ったもの。 現代の社会問題となっている児童虐待、子殺しの現実とはこんなものなのだろう。 私も子を持つ親の身なので赤ん坊だった頃の夜泣きの辛さは解る。でも殺意にまではやはり至らない。愛情がそれを押し留めるからだ。しかし自分の子ならそうだが、他人の子なら…と一抹の恐怖を感じる。 イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの「手袋」は殺人事件の現場に置いてあった汚れた手袋の所有者を警察が粘り強く探し当てるが…という話。 アレクサンドル・デュマの「ナイフの男」はある部族長が巻き込まれたある詐欺を扱った話。 正直独特の文化と風習を持つ部族の話を理解するのに頭を費やしたので肝心の詐欺の話の妙味には惹かれなかった。 次はモーパッサンが2編続く。まず一つ目の「復讐」は一人息子を殺された老婆が殺人犯に復讐を誓うが、非力な老婆が採った方法とは…と云うお話。 飼い犬を手懐けて殺しの方法を特訓するのだが、その方法が面白い。人間に見立てた藁人形にソーセージのネクタイを掛け、犬を飢えさせた後、飛びつくように訓練するのだ。正直物語の核はこの特訓にあり、息子が殺害された理由や敵討ちのシーンなどは寸描に過ぎない。 モーパッサンのもう1編は「正義の費用」。 モナド公国というモナコをモデルにした地中海沿岸の小国。国民が少ないことからカジノの収益が貴重な国の財源。そんな一都市に過ぎない規模の国で起こった殺人事件。死刑執行が命ぜられるが処刑道具もない国では何をするにもお金がかかる。終身刑を命じても死ぬまで養うのに50年はかかり、脱獄させようと牢屋を開放しても囚人は居心地が良くて逃げようとしない、と実に面白い。 星新一氏のショートショートを髣髴させる1編。 2作とも面白いがやはり後者が私好み。 マーク・トウェインの「私の懐中時計」はお気に入りの時計が停まってしまったので時計屋に修理を出したが今度は時計が進みだした。その後も別の時計屋に修理を出すたびに時計は奇妙な時を刻み出して…と云う話。 『トム・ソーヤの冒険』で有名なマーク・トウェインだが、実は奇妙な作品が多いらしく、本書も懐中時計が修理するたびにおかしくなっていくのが執拗に語られる。肝心の犯罪は物語の最後の7行目で唐突に起こる殺人がそれだが、特に警察の介入無く殺した当人が葬儀費用を出して葬ったとだけなっているのが可笑しい。 しかし現代では時計屋に修理を出すたびに狂い出すというのは信じがたい笑い話のように思えるが、当時はまだそんな技術もなかっただろうから案外本当の話なのかもしれない。 これまた星新一氏の作品を髣髴させるのがヴォルテールの「犬と馬」だ。 見てはいないがどんな物かは推理すれば解ると云えば捕えられ、逆に見たが見ていないと云えばこれまた捕えられ、と困惑する哲学者の物語。 いやはやとかくこの世は住みにくい。 さて5番目のカテゴリーはやはり在ったシャーロック・ホームズ物のミニ・ミステリ。題して「ミニ・シャーロッキアーナ」。 皮切りとなるのが本書で最も長い題名のスティーヴン・リーコックによる「これ以上短縮できない探偵小説、または髪の毛一本が運命の分れ目、または、超ミニ殺人ミステリ」だ。 他殺と断定されているその事件で唯一証拠として残されたのは犯人の物と思しき1本の髪の毛。偉大なる探偵はその所有者を探し求める。 題名は最も長いが作品はたった2ページと最も短い作品。1本の髪の毛が犯人断定の手がかりとして、その持ち主を町中で探し回るという名探偵を揶揄した作品。 真相はただの作品におけるギャグ、もしくはウィットのネタの1つではないか。 このネタで作品を書くとは、いやはや。作中でははっきりとシャーロック・ホームズと書かれていないがこれもパロディなのだろう。 次の「パラドール・チェンバーの怪事件」は実にジョン・ディクスン・カーらしいファルスの効いた戯曲(?)だ。 暑い日に冬の装いをしていたがために熱射病になって倒れた外務大臣はなぜかズボンを履いていなかった。そんな中、当人の娘が大臣のズボンを持参してホームズの事務所を訪れるが、さらにフランス大使が現れ、盗まれたズボンを返してほしいとのたまうという『盲目の理髪師』を想起させるようなドタバタ劇とズボンを盗んだ動機は『帽子収集狂事件』を想起させる。 しかし本編はカーの一連の短編集、ラジオドラマ集にも収録されていない実に貴重な作品。恐らく東京創元社のことだから、他の文庫で収録済みの作品は独自で編んだ特定作家の短編集には反映しないという社のルールに則ったことなのだろう。もう少し柔軟性が欲しい物だ。 医学博士のローガン・クレンデニングによる「アダムとイヴ失踪事件」はこれまた見開き2ページの作品だ。 実に医学博士らしいウィットの効いた1編。短いのに最後の一行が非常に効果的なまさにショートショートのお手本のような作品だ。 ミニ・ホームズ・パスティーシュ最後の1編はマーガレット・ノリスの「探偵の正体」。久々に再会するホームズに胸躍らせていたワトスン。しかし現れた彼の姿は似つかわしい者だった。しかし彼らにはある秘密があった。 前世がホームズ、ワトスン、モリアーティ教授の3人(?)が一堂に会する。しかしホームズは女性に、ワトスンは犬に、そしてモリアーティはずんぐりむっくりのリンゴほっぺの青年となっている。ホームズ物も本当いろんなものがあるものだ。 さて続いては「ミニ探偵」のカテゴリー。その名の通り、有名作家のシリーズ探偵が登場するミニ・ミステリだ。 その皮切りとなるのがマージェリー・アリンガムのシリーズ探偵アルバート・キャンピオンが登場する「見えないドア」。 これは実に上手い。流石というべき切れ味の作品。これは初めから期待できる。 スパイ小説の重鎮エリック・アンブラーからも1編選出されている。彼の短編集でシリーズ探偵を務めるヤン・チサール博士物の「消えた暖房炉」はスコットランド・ヤードを訪れた博士が事故死として処理された資産家の未亡人の死について他殺説を唱えるという物。 正味9ページのショートミステリながら、実はもっと長めの短編が書ける内容であり、本作はその最後の推理の部分を切り取った物でしか過ぎない。こんなネタを惜しげもなく修飾部分を削ぎ落としてショートミステリとして提供するアンブラーの気風の良さには畏れ入る。 ローレンス・G・ブロックマンの「イニシャル入り殺人」は夜中の電話で起こされ、現場についてすぐに真相判明と云うわずか数分での解決の作品だ。 雨が降った時刻が真相解明の鍵となっているのだが、これはある意味非常に荒い作品だとも云える。数ページ埋めるための小説を頼まれて急きょ拵えたような印象だ。やっつけ仕事のように思えるが逆に云えば本書に収められなければ埋もれていた作品になっていたかもしれない。 SF小説の巨匠アーサー・C・クラークもミニ・ミステリを書いている。SF作家らしく舞台は火星。その名も「火星の犯罪」だ。火星で起きた美術品盗難事件。完璧を期した犯罪だったがそれはあることで呆気なく判明してしまう。 ジョージ・ハーモン・コックスの「ペントハウスの殺人」は共作者の仲違いで起きた殺人事件。一人の女性を巡るさもしい犯罪だ。 エドマンド・クリスピンと云えばフェン教授がシリーズ探偵として有名だが、ノンシリーズの「川べりの犯罪」が収録された。 たった6ページの中に“読者への挑戦”を思わせる幕間を挟んだ作品。幕間で云われているように注意して読めば犯人が解る作品になっている。こういうのは大好きだ。 実にフランスらしい作品なのがC・P・ドンネルJr.の「殺人のメニュー」。 なんと恋の逃避行とは。実にフランス人らしい結末だ。 アンドルー・ガーヴの「ダウンシャーの恐怖」は≪ダウンシャーの恐怖≫の異名で界隈を恐怖に陥れた連続殺人鬼の話。ただその殺人鬼の毒牙はダウンシャーを走る違反車の運転手に限られていた。 果たして殺人鬼の行為は罪だったのか正義だったのか、考えさせられるオチだ。 昨今未訳作品の訳出が進んでいるマイケル・ギルバート。その作品は評価が高く年末のランキングにも選出されているが、その彼の作品が「ティーショップの暗殺者」。 本格ミステリとしてはアンフェア。これはショートミステリとしての意外な真相を愉しむべきだろう。 本書の中で最も密度が濃いのがベン・ヘクトの「シカゴの夜」。 実に贅沢な一編。たった5ページの内容にミニ・ミステリ5編分のネタが盛り込まれている。 刑事がこんな話でいいのかなぁと語る事件が全て奇妙で十分ネタとして通用するし、しかも他の作家の作品と一つも似通った話ではないところがすごい。ベン・ヘクトはアメリカを代表する脚本家なのだが、本作だけでアイデアの宝庫のような作家だったことが十二分に解る。 アメリカの短編の名手O・ヘンリーからも1編選出されている。「二十年後」は20年後に同じ時刻同じ場所で出逢うと誓った2人の男の物語。 正直結末は読めたが、さすがはO・ヘンリー。結末には何ともほろ苦い味わいがある。 ここ数年定期的に著作が刊行されているマイケル・イネスのアプルビイ警部物にもミニ・ミステリはあった。それも「アプルビイ警部最初の事件」だ。 付け髭の男と本物の髭の男の共犯による盗難事件というアイデアは小粒ながらも面白い。ただアプルビイシリーズは未読なのでシリーズならではの妙味が解らなかったかな。 ロックリッジ夫妻の「殺人のにおい」は連続殺人鬼物。 TV番組『奇跡体験!アンビリバボー』で紹介されるエピソードのような話だ。スピーディな展開と簡潔な文章はドキュメンタリーを思わせてネタ以上に読ませる作品だ。 アーサー・ポージスの「ビーグルの鼻」はまだDNA鑑定のない時代において血痕から殺人の証拠を探る物語だが、これはその方法よりも警官がナイフに付いた血から容疑者の絞り込みを依頼する人物の正体がサプライズだ。つまりこれはカーの「パリから来た紳士」と同じ趣向なのだが、判明する人物について詳細を知らないことがこの作品のサプライズを存分に愉しめない要因か。 編者エラリイ・クイーン自身も参加。「角砂糖」はしかし『クイーン検察局』に収録され既読なのでここでは感想は割愛しよう。 昨今旧作の新訳、改訳出版が盛んになされ、再評価がされているパトリック・クェンティンは「土曜の夜の殺人」が採られている。パズルシリーズが昨年の本格ミステリ・ベスト10で3作も選出されたクェンティンだが、これは解りやすかった。ミステリの基本と云うべき作品。 巨匠の作品が続く。クレイグ・ライスはマローン物の「馬をのみこんだ男」が収録された。 これは人の妄想を利用した殺人方法かと、いわゆる人の思い込みで殺す、心を利用して殺す心理的殺人かと思ったが、最後のオチでそんな期待感が一気にひっくりかえってしまう。 確かに心で殺す方法だったが、なんとも結末がしょうもない。 マージェリー・シャープの「ロンドン夜話」はたまたま深夜のコーヒーショップに居合わせた人々が近所で起きた菓子屋の老女殺害事件について話しているうちに犯人が判明するという物語。夜に集う人種も職業も違う面々がコーヒーを傍らに事件について語り合う雰囲気が良い。 真犯人は実に唐突に判明する。単なる客同士の会話を繋ぎあわせて犯行当時アリバイのなかった者が犯人と名指しされるだけで実に根拠薄弱なミステリなのだが、ミニ・ミステリならではサプライズを重視したと肝要に捉えればそれも許せるか。作品の雰囲気のほだされ、ちょっと評価が甘くなったかな。 レックス・スタウトの「サンタのパトロール」はネロ・ウルフ物ではなく、ノンシリーズ物。 物語に唐突感があり、構成がぎくしゃくしていて物語の流れが悪く感じた。警察官のアート・ヒップルこそサンタクロースだというオチを付けたかったのだろうが今いちな出来栄えだ。 ジュリアン・シモンズの「神隠し」は衆人環視の中での殺人事件を扱っている。 匿名の犯人と匿名の被害者。衆人環視の中で消え失せた犯人の正体は意外だがこれも推理するには材料が足らないか。とはいえ実に映像的で推理漫画になっていそうな話だ。 そして最後のカテゴリーはその名も「最後のミニ・ミステリ」と冠してたった1本が収録されている。それはアントニー・バウチャーによる「決め手」だ。 東野圭吾ばりの最後に犯人が明らかにされないミステリだが、これは読者には推理できないだろう。クイーンの唱える「最後のミステリ」とは犯人が判明しないミステリと云うことだろうか? 全67編。 1日1編という縛りでじっくり読むことにした本書だが、流石にこれだけ集まれば玉石混交な印象はぬぐえない。しかしその中にも光る物はあり、個人的にはスティーヴ・アレンの「ハリウッド式殺人法」、ロバート・ブロックの「生きている腕輪」、ロード・ダンセイニの「演説」、フィリップ・マクドナルドの「信用第一」、アレグザンダー・ウールコットの「Rien Ne Va Plus」、ヴィクター・カニングの「壁の中へ」、クリストファー・モーリイの「ダヴ・ダルセットの明察」、作者不詳の「絶妙な弁護」、ギイ・ド・モーパッサンの「正義の費用」、ローガン・クレンデニングの「アダムとイヴ失踪事件」、マージェリー・アリンガムの「見えないドア」、エドマンド・クリスピンの「川べりの犯罪」、ベン・ヘクトの「シカゴの夜」、O・ヘンリーの「二十年後」が良作と感じた。 またミステリプロパーの作家たちのみならず、マーク・トウェインやモーパッサンなど純文学作家、大衆作家からの作品も網羅している。さらには医学博士の手による作品すらもある。まさにクイーンの収集範囲の広範さを思い知らされるアンソロジー。 恐らくは前者の属する作家たちは長編にするには作品を持たせるにならないちょっとしたトリックやアイデアをショートショートという形式で著したのだろう。現代のミステリ作家、特に日本の本格ミステリ作家ならばこれらは恐らく長編でもサブの謎のネタとして用いることだろう。かつては未開の謎やトリックは潤沢にあっただろうが、昨今ではまだ見ぬ斬新なトリックなどはもはや皆無に等しいからだ。だから過去の作品のトリックやロジックを手法や見せ方を変えてアレンジを加えて謎解きとして活用している。 しかしそんな小ネタを用いてきちんと物語として成立させているところに妙味がある。例えばフィリップ・マクドナルドの「信用第一」は後で送った手紙をいかに前の日の消印を得るかというあるトリックが用いられている(大きな封筒の切手を貼る部分を切り取り、その中に自分の住所を書いた小さな封筒を入れてそこに切手を貼って消印を得る)が、これをある青年の身分違いの恋の成立の物語に絡めたという妙味がある。 さらにはようやく現代で一般に知られるようになった事象や知識が60年代以前の作品で既にトリックとして用いられている斬新な作品もある。例えばサブリミナル効果がこの時代に早くも認識されていた現象とは思わなかった。 編者クイーンのまえがきにあるように本書はいつでもどこでも気軽に楽しめるミステリ集である。 しかし私はその読みやすさゆえに一気に読んで内容を忘れるよりも前に書いたように1日1編読むことで記憶に遺そうとした。さすがに全編は覚えていないが、それなりに印象に残る作品があった。 たった10ページ前後でミステリが成立するかと半信半疑だったが、なかなかどうして。立派にミステリしていた。 叙述トリック物から謎を複数も盛り込んだものまで多種多彩。ショートショートを最近読んでなかったのでまた機会があればミニ・ミステリを読みたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野作品初の誘拐物。
誘拐物には過去数々の傑作があり、身代金の受け渡し方法や人質の解放方法などが物語の焦点になるが、東野圭吾氏が書く誘拐物はとにかく普通ではない。 まずシチュエーションの妙とそれを実現させるためのキャスティングの冴え。狂言誘拐を成立させるためにヘッドハンティングされた凄腕のプランナーを犯人としたところに東野圭吾氏の着想の素晴らしさがある。 時間を一切無駄にしない生活を信条にし、情よりも理を優先させ、数字で物事を考える左脳的思考が突出した現実的な男、佐久間駿介。腕立て伏せの回数が解らなくなるから会話には応答しない、煙草を吸う時間が無駄以外何物でもない、と独自の持論の下で生きるこのプライドの高い人物を誘拐犯に仕立てたことで本書はほぼ内容が決まったといっていいだろう。 数ある誘拐物を扱ったミステリの中で本書が特徴的なのは先に書いたように金に困った男が起こした犯罪と云う立脚点ではなく、プライドを傷つけられた凄腕サラリーマンが相手を打ち負かすために起こしたという導入部もさることながら、犯罪者側の視点でのみ語ったことだ。 実はこれは案外危険なことではないだろうか?なぜならこれは一種の誘拐犯罪マニュアルになり得るからだ。そう思わせるほど犯人役の佐久間の計画は一種行き当たりばったりながらも緻密でそつがないからだ。 さらにこの小説がすごいのは狂言誘拐が成功裏に終わった後からだ。 残り約80ページを残して誘拐ゲームは終わる。 そこからは恐らく犯人が気付かなかった小さな綻びから今回の事件が発覚するだろうというのが私の描いた絵だった。 しかしそれは全く違った。 このように東野氏は予想不可能な展開で読者の鼻づらをグルングルンと引っ張りまわす。 255ページ以降はまさにそのような感覚だった。 そして判明する意外な結末。 よくもまあこんなことを思いつくなぁと作者の着想の素晴らしさに今回も感嘆してしまった。 余談だが警察の捜査側の視点がなく、犯罪の当事者側からで描くというのは本書の直前に読んだヴァインの『運命の倒置法』もそうだった。 1991年訳出の本書(原著は1987年刊行)と2002年刊行の本書を同時期に読んだのは全くの偶然だが、なぜか私はこのような奇妙なシンクロニシティに出くわすのだ。片や重厚で陰鬱、片やスタイリッシュで現代的と全くテイストは違うが、この奇妙な符合にはまるで本の方から私が引き寄せられたような感覚を抱いてしまった。 しかし最初のわずか4ページで主人公佐久間駿介の人物像を一人称叙述で読者の心に自然と理解させる東野氏の上手さには全く舌を巻く。読みやすさゆえに見過ごしがちだが、この技術の高さは本当にすごい。すっと流れいくほど自然な文章なのでなかなかその技巧の冴えに気付かれないのが本当にこの作者にとっては不幸だと私は思っている。 しかしジェンダー問題に真正面から取り組んだシリアスな『片思い』、『超・殺人事件』がお笑い満載のパロディ短編集、『レイクサイド』が閉鎖空間における陰鬱な殺人隠蔽劇、『時生』は浪速の人情物、そして本書が知的誘拐ゲームというスタイリッシュな作品とこの作品の前5作までさかのぼってもその作風は実に多彩。 しかも全てが標準以上。売れるには売れるだけの理由が、才能があるのだ。 本書も映画化されたが今後もその映像化は増えるに違いない。まだまだある東野作品を読むのが本当に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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相変わらず重い作品だ。見開き2ページにびっしりと文字が詰まり、しかも事件当時の回想と現代の生活が入り混じった時制が混同する複雑な文章で久々に読むのに時間がかかってしまった。
止まっていた時間が動き出す。 10年半前、若い彼らが過ごしたウィーヴィス・ホールで起きた出来事。それは関係者だけの胸に秘め、隠蔽して墓場まで持っていこうと誓った忌まわしい記憶だったが、現在の家主が亡くなったペットを埋葬しようとしたことから文字通り秘密が掘り出される。 そして事件は再び動き出す。 その事件そのものが何なのか、なかなか作者は詳らかにしようとしない。解っているのは若い女性と赤ん坊の物と思われる白骨体が掘り出されたことだ。 まあこの手の話には常套手段であるから仕方は無いのだが、無論の事ながらそれは決して表に出すべき事柄ではなく、人の生き死にが関わった件であろうことは容易に推察できる。 最初は若き家主となったアダムが友人の兄ルーファスを誘って当の館を訪れ、アダムとルーファス、彼の恋人メアリーの3人で共同生活が始まり、資金繰りに困ってウィーヴィス・ホールを若者向けのコミューンとすることで次第に共同生活者が増えていく。そこには精神病院から抜け出したと自称する年齢不詳、しかし明らかに20歳未満の若い女性ゾシーが加わり、薬剤師志望のインド人学生シヴァとその恋人ヴィヴィアンが加わった共同生活が始まる。 10年半前はまだ学生だった彼らは今ではそれぞれ社会人として職を持ち、地位もあり、そして家庭を持っている。 アダムはコンピュータ販売会社の共同経営者として名を連ね、まだ幼い娘がいる。ルーファスは産婦人科医として信望も厚い。インド人のシヴァは薬局店員として働いている。 安定ある生活を得た今、今さらながら掘り出された人骨は忌まわしい記憶を掘り起こすだけでなく、日々の安心を脅かす災厄の種にしか過ぎないのだ。 そんな災厄の種に怯えながらしかし、彼らは過去を覗き見る。自分たちが10年前にウィーヴィス・ホールに居た事実を知る、当時出逢った、出くわした人物たちに思いを馳せながら、敢えて彼らが覚えているか訪ねたりもするのだ。 それは怖いもの見たさという心境なのだろうか? いやそうではない。若かった彼らが貧しいなりに一つの屋敷で過ごした時間が今や家庭を持ち、夢よりも現実を知らされる日常に辟易している現状をぶち壊してほしいと心の奥底で願っているからではないだろうか? 過去の汚点である人骨の発生から物語はアダムとルーファスの当時の回想を中心にゼロ時間に向かっての経緯をじっくり語っていく。 通常古式ゆかしい屋敷から身元不明の白骨体が現れるというショッキングな導入部から警察の捜査と当時の関係者たちの動向が描かれるのが定石なのだが、本書では全く警察側からの捜査の状況が描かれない。当事者たちの現代の生活と事件発生当時の状況が事細かに書かれ、捜査の進捗に戦々恐々とする登場人物の姿のみが描かれるだけなのだ。 これは本書のテーマが誰もが犯す若いときの過ちにあるからだろうか。誰もが一生悔いの残る行動や思いをした経験があるだろう。それらはしかし大人になり、日々の雑事に忙殺され、結婚、出産といった人生のステージに上がるうちに忘れられていくが、それがある事件で思い出されたのが本書の登場人物たちだ。 アダムたちが金のない中で若者たちが一堂に集い、共同生活を始めたことで巻き起こった2人の死。ほろ苦いというにはあまりに過酷な過ちに対し、護る者の出来た彼らの行動はしかし若いときの行動力には程遠く、そっと静かにしてもらうよう息を潜めて様子を窺うのみだ。 若い頃の彼らと現代の彼らの対比がかつての日々を眩しく思わせ、なんだか寂しくなってしまった。 そして最初の悲劇が起こった時、ぞわっとした。 それまでアダムが愛娘に対して文字通り溺愛し、ちょっとしたことで何か起こったのではないかと心惑わすのは娘に対してこの上ない愛情を注ぐ父親の姿がちょっと極端な方向に針が触れただけで特段おかしなこととは思ってはいなかったが、381ページで明らかになる赤ん坊の死体の真相を知ったことでアダムの取り乱しようの原因が解ったからだ。 この、実に何気ない普通の人の振る舞いと思わされたことにこんなトラウマが潜んでいたことを実にさりげなく知らされるレンデル=ヴァインの物語の上手さ。この陰湿さはこの作家ならではだ(誉めてるんです)。 本書で描かれる過去の悲劇の中心はやはりゾシーだろう。 精神病院を抜け出したと自称する17歳で子持ちとなったシングルマザー。しかし生活能力のない彼女は自分の子を他人へ預けざるを得なかった。 作中一つ心に止まった一節があった。 アダムは赤ん坊の娘を溺愛しており、少しでもおかしいと感じると大騒ぎするのだが、あどけない娘の姿を見てふいに悟るのだ。それまで娘以外の誰かを本当に愛したことがなかったことに。 今まで誰かを好きになることが単に欲望であり、「恋」であったことを悟り、愛とは何かを悟る瞬間。それは私にもあった経験だっただけに不思議と心に響いた。 そして娘に愛を感じるということはやはり自分のDNAを受け継いだ存在だからだろう。配偶者は好きであっても所詮は他人である。その愛情には自分のDNAを共有する存在に抱くそれとは比べものにならない。 さて題名にある倒置法とは国語の時間で習ったとおり、通常「主語+述語」として構成される文章を、語調を強めたり整えたりするのに「述語+主語」と逆さまに表現する手法だ。つまり「あれは何だ?」とするところを「何だ、あれは!」とする文章表現。しかし本作では主人公アダムが言語学に長けた学生だったことから何事にも独特な名称を付けるのが得意だったことに起因し、物語の舞台となる邸宅ウィーヴィス・ホールを若者たちが集う場所として“どこか(Some Place)”の反転語“エカルペモス(Ecalpemos)”と名付けている。本書ではこの反転語を倒置語と誤訳している所から来ている。 本書の構成やもしくは登場人物たちの織り成す人間ドラマが倒置法のような様相を呈していればこれはまた実に含蓄のある邦題になったのだろうが、原題の“Inversion”を単純に「倒置法」として訳していることがそもそも間違いなのだ。正しくは『運命の反転』とするのが正確なのだろう。 それは最後の結末でその意味が明らかになる。なぜなら作者は見つかった若い女性の死体の正体をはっきりと書かないのだから。 これこそ運命の反転。実に上手い題名をつけたものだ、ヴァインは。 さてヴァイン=レンデルの諸作が訳出されなくなって久しい。このような重厚な物語は現在の読者にはなかなか受け入れ難い作風なのだろう。しかし魂が冷える思いをするのはこの作家の作品の最たる特徴であり、この感覚は実に捨てがたい体験だ。いつか再評価の気運が高まり、訳出の再開と絶版作品の復刊と文庫化の推進がなされることを望みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン誌上で1945年から1956年までの12年間で年1回行われたミステリ短編コンテストで選出された短編を集めたまさに珠玉のアンソロジー。つまりその年の“トップ・オヴ・ザ・トップス”というわけだ。これは期待が高まるのも無理はない。
さて最初の1編はマンリイ・ウェイド・ウェルマンの「戦士の星」でチッチャア・インディアンの探偵というエキゾチックな探偵役が特徴だ。 独特の文化を築くコミュニティの中でその民族特有の価値観ゆえに起こった犯罪というのが私は自分の想像を超えていて好きなのだが、本作にはそんな化学反応はなかったのが残念。 その点H・F・ハードの「名探偵、合衆国大統領」は実に変わった色合いの作品だ。 中国の頭首が原子力を利用してツンドラを溶かし、ロシアを水没させようとしているという実に破天荒な推理と、それを阻止するために合衆国大統領が採った作戦がグリーンランドの凍土を融解させ、氷塊で抑圧されていた大地を隆起させて助かるというさらに破天荒な作戦だった。 このスケールの大きさは一体何なのだろう。 しかし驚くべきは作品が書かれた1947年に環境問題である地球温暖化による海水面の上昇を予見していたことだろう。当時は荒唐無稽と一笑されただろうが、確かに再録されて評価されただけのことはある。 編者のクイーンは、これは果たして探偵小説なのかという問いにこれもまた探偵小説であり、新たな地平を開いた作品としている。これに関しては私も同意だ。何とも云えない迫力に満ちた1編だ。 イタリアからの参戦、アルフレッド・セグレの「裁きに数字なし」は戦時下のイタリアが舞台。 正直云ってこれがミステリなのか解りかねる不思議な流れの物語だ。 死体がごろごろ転がっている戦時下のイタリアで見つかる首なし死体。しかし第一発見者の主人公は貧しい生活からの脱却を夢見て、富くじに精を出している。そんなオウムを相棒にした主人公の報われない貧しい日々が終始語られ、その日常でふと首なし死体を生んだ犯人が浮かび上がる。 しかしこれは全くミステリを読んでいるという気がしなかった。これがイタリアの風土が生み出す物語の味わいという物だろうか? そしてこれが選出された年の他の応募作品の質って一体…? フランスを代表する作家ジョルジュ・シムノンの「幸福なるかな、柔和なる者」は練達の仕上りだ。 誰かの文章でシムノンは街を描く作家だというのを見たが、まさに本書もそう。街角に一緒に住まう人々の暮らしぶりからまずは入り、そこから彼らの習慣、そして迷宮のような界隈について幻想的に語る。 なんとも不思議な味わいだ。 カーもこのコンテストで第一席を獲っていたとは知らなかった。その作品「パリから来た紳士」は創元推理文庫で編まれた短編集で既読だった。 確か学生の頃に読んだのでかれこれ20年近くも前になるが、いまだに最後の絶妙な真相は覚えていた。2回目に読むとクイーンが解説しているように色んな伏線やヒントがそこここに散りばめられているのが解り、これも新たな発見だった。 シャーロット・アームストロングの「敵」はご近所ミステリとでも呼びたくなる、小さな事件を扱った物だが、その内容は実に濃い。 読後では題名が実に意味深いものになってくる。 トマス・フラナガンの「アデスタを吹く冷たい風」はテナント少佐物の第1作らしい。 本書も隠されていた密輸銃の在処というのがトリックでありながら、本書ではテナント大佐と周囲の、特に物事を穏便に済まそうとする上層部との軋轢、さらには本作では明らかにされなかった降格されたテナント大佐の過去の事件が気になって仕方がない。 本作はちなみにかつて早川書房のミステリマガジン45周年の時の復刊希望アンケートと50周年のそれで双方とも1位に選ばれたのは同題の短編集だった。 スティーヴ・フレイジーの「追うものと追われるもの」はその題名の通り、実にシンプルな物語。森へ逃げ込んだ脱獄囚を捜索隊が追いかける一部始終を語った物。 森の中の追跡劇、追う者と追われる者の知恵比べ、もしくは根気比べは次第に脱獄囚と捜索隊の人物に一種の仲間意識を芽生えさせる。この構成は最近出版されたジェフリー・ディーヴァーの『追撃の森』を想起させる。 迷宮課シリーズ、そして「百万に一つの偶然」で有名なロイ・ヴィガーズの短編の中で第一席に選ばれたのが「二重像」だ。 すわドッペルゲンガーか、二重人格者か、はたまた本当に瓜二つの男なのか?実にミステリに満ちた1編。“もう一人の夫”と夫とが互い違いに彼らの近所に、家に、仕事場に、そして親戚の職場までに堂々と入っていく。それが本物なのか偽者なのか解らない。 「百万に一つの偶然」の作者ならではのスリルに満ちた作品だ。 “奇妙な味”の短編群で有名なスタンリイ・エリンは「決断の時」で第一席を獲得した。 リドル・ストーリーで終わる本書はクイーンの解説にもあるように有名な「女か虎か」のような単純なものではなく、読者自身に「貴方ならどうする?」と読者の人生にいつか訪れた、もしくは訪れるであろう人生の決断を想起させ、単なる物語に終始しない凄みがある。 プライドを採るか予定調和を採るか。はたまた道徳に従うか。 最近になって短編集が編まれ、評価が高まったA・H・Z・カーの「黒い小猫」は親を持つ子なら身に摘まされるような作品だ。妻を喪い、男手一つで幼い娘を育てている牧 師が娘が可愛がっている小猫を誤って踏んでしまい、虫の息だったので止めを刺してやったところを娘に見られてしまう顛末を扱った作品。 正直作品自体はこれだけの話なのだが、なぜかこれが実に読ませる。小猫を殺したのは自分の仕事の邪魔になる娘に対しての当て付けではなかったのか?妙な自虐心に苛まれる牧師の心情が生々しい。 私が本書を読んでいる時、子供らが騒々しくしており、まさにこの牧師のように苛立っていたからこそものすごいシンクロニシティに捉われた。 後年、クイーンの代作者としても活躍したエイブラハム・デイヴィッドスンの「物は証言できない」もある種独特の雰囲気を持った作品だ。 最後まで読むと題名の意味がものすごく辛辣に響いてくる。 まさに自らが蒔いた種。自業自得。 最後は名手コーネル・ウールリッチの「一滴の血」。創元推理文庫で6冊の短編集が編まれているが、これはそのどれにも未収録の作品。 淡々とした物語進行ながらも文章にウールリッチ特有の抒情性豊かな作品。物語は二股男が捨てようとした女性が妊娠したことで邪魔になり、殺してしまうが男は冷静に対処し、証拠を隠滅してしまう。しかし完全犯罪と思われた男の犯罪はある一点で瓦解してしまう。 流石ウールリッチというべき1編で短編集未収録なだけにこれは嬉しい贈り物だった。 しかし本書における恋人殺害の凶器が“サムライ”の刀、即ち日本刀というのが興味深い。ウールリッチは短編にも「ヨシワラ殺人事件」という訳の解らない題名をつけた作品が示すように日本文化に何がしかの興味・関心があったようだ。 冒頭のまえがきに書かれているが、本書はEQMM誌上で募った短編の中から選出されたその年のベスト短編によって構成された実に贅沢なアンソロジー。 その公募はアメリカ本土のみならず、世界中に向けて発信されており、ヨーロッパはもとよりオセアニア、アジア圏から毎年多数の応募があったらしい。そして毎年送られてくる800前後の短編の中からのベスト・オヴ・ベストを選ぶ作業の厳しさと大変さも書かれているが、正直このような極限状態ではもはや正当な判断が出来なくなり、ちょっと変わった物が珠玉の輝きを放ち出す。 またエラリイ・クイーンが選出に関わっているとは云え、本書に収録されている作品はロジックやトリックが優れているというわけではなく、むしろ人間ドラマとしてのミステリが非常に多いと感じた。どちらかと云えばキャラクターの設定の妙や選者たちにとって未知の世界への好奇心、またそれぞれの作者が放つ隠れたメッセージの強さといったミステリ以外のプラスアルファが含まれている作品が傾向として選ばれているように思えた。選者がクイーンだけではないこともその理由の一つかもしれないが、私は逆にエラリイ・クイーン自身がこのような作品を好んだのではないかと推察する。 例えば最初の1編ではネイティヴ・アメリカンのコミュニティで起きた殺人を扱っており、殺害された女性はその口伝で伝わる祭儀の歌謡を書き取るという目的があったという、実に特異な目的があるし、2編目の「名探偵、合衆国大統領」では地球のある怪現象と発覚した某国のある建造物との関連から実に壮大な解決が成されるというスケールの大きさがある。また3編目では主人公の貧しい日常が語られる中でふと事件の真相が現れるという実に不思議な流れが特徴であり、4編目のジョルジュ・シムノンに至っては犯人は主人公の直感で判明するというミステリに付き物のロジックによる解明とはかけ離れているが作品そのものの主題は犯人と疑っている人物をいかに警察に証明するかに腐心する主人公の姿であり、またそれゆえに起こる疑心暗鬼の中で主人公の周りを見る目が変わっていく有様を描くことにある。 また既読のカー作品は謎解きも含みながら、最後に作品自体がある作家の作品へのパスティーシュであることが判明する趣向が実に見事。 シャーロット・アームストロングの作品はミステリを愉しむことの作法自体に対し、読者に警鐘を鳴らしているかのようだ。つまり謎解き自体を放棄して物語の流れに身を任せ、そのまま意外な結末へ読み進む方法が果たしてミステリを読んでいることになるのかと訴えているかのように思える。 現代でも東野圭吾氏が同様の疑問を持ち、犯人を敢えて書かないミステリを発表したことは記憶に新しい。 そして後半の3編、エリンの「決断の時」、A・H・Z・カーの「黒い小猫」、そしてエイブラハム・デイヴィッドスンの「物は証言できない」などは読者に対して実に考えさせられる問題を投げかけている。 エリンはリドル・ストーリーと云う形を採って読者自身のエゴか道徳心の強さを測るように「貴方ならどうする?」と問いかけ、カーは牧師が誤って小猫を殺すに至った経緯があまりに一般の人々にとっても日常的な出来事の中でなされたことであることで読者にも起こり得る出来事だとウィンクしているように思える。そしてデイヴィッドスンは悪しき風習であった奴隷制度に対して実に辛辣な結末を用意している。 これらの作品が選ばれたのは1945年から1956年の12年間と5年後の1961年。つまりこの頃のクイーン作品と云えばライツヴィル物の『フォックス家の殺人』から『クイーン警視自身の事件』、そして1961年は1958年の『最後の一撃』の後、2年の沈黙を経て代作者によって発表された『二百万ドルの死者』に至る。まさに作品の傾向はパズラーから人の心へと踏み込んだロジック、探偵存在の意義について問い続けた頃に合致する。それ故選ばれた作品は上に書いたように物語の強さを感じる物ばかりなのかと得心した。 本書における個人的ベストはH・F・ハードの「名探偵、合衆国大統領」、シャーロット・アームストロングの「敵」、ロイ・ヴィガーズの「二重像」、スタンリイ・エリンの「決断の時」、A・H・Z・カーの「黒い小猫」。 特に後半に行けばいくほどその充実ぶり、内容の濃さと行間から立ち上る凄みのような物が感じられる作品が多く、尻上がりで評価は高くなった。 正直クイーンのアンソロジーには期待値だけが高く、肩透かしを食らうことが多かった。増してや本書には「黄金」という仰々しい煽り文句が冠せられるため、一層身構えるような気持ちで臨んだが、予想に反して粒揃いの実に濃い作品が多かったのは嬉しい誤算だった。 また本書に収められた作品の中には現在入手困難な物もあるし、既にミステリ史に埋没してしまった傑作もある(特に「名探偵、合衆国大統領」)。そんな埋もれつつある傑作・佳作を現代に遺す歴史的価値も含めて評価したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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当時角川ホラー大賞に応募し、最終候補まで残るものの、審査員の不評を買い、落選したところを太田出版にて出版され、大いに話題になり、映画化もされた曰くつきの作品、とここまでの事情を知らない人はあまりいないだろう。
その後映画はパート2も作られ、そのノヴェライズは杉江松恋氏の手によってなされた。つまり本書の作者高見広春氏による作品はこの作品のみなのだ。 そんな曰くつきの作品の内容は総勢42人の殺戮ゲーム。そんな群衆劇の中で中心となるのは七原秋也と中川典子の2人。 秋也はリトルリーグで天才ショートとして名を馳せたが、ロックにのめり込んで野球を辞めた、いわゆるクラスでもモテる子。中川典子は彼に想いを寄せる女の子。 そして彼ら2人を中心に三村信史、川田章吾、桐山和雄、相馬光子、杉村弘樹らが中核として物語を彩る。 三村信史は七原が唯一一目置いている男。プレイボーイだが世の中の仕組みを知り、秋也の目を開いてくれる。 川田章吾はクラスの誰とも接しないが体中に傷のある謎めいた男。しかしプログラムで秋也と典子と関わるうちに彼が以前の学校でプログラムに参加し、生き残った男だと知る。そのゲームで彼は親と恋人を失い、この国のシステムをぶっ壊そうと企んでいる。 桐山和雄は頭もよく、スポーツ万能で喧嘩も強く、しかも町の名士の息子で全てを手に入れた男。しかし彼の心はいつも空っぽで満たされない空気に満ちており、自らこのゲームに乗り、容赦なくクラスメートを殺していく。 相馬光子もまた幼少時のトラウマから心を失った女。妖精かと見紛う美貌の持ち主で人の弱さにつけ込んで相手を油断させ、次々とクラスメートを殺していく。それは彼女にとって奪われるよりも奪う側の人間になるために必要な行為だった。 杉村弘樹は秋也が認める男の中の一人。彼は一人の女子を探すため、ひたすら島内を駆け巡る。それは自分の想いを伝えるために。 とまあ、キャラクターそれぞれは個性があるものの、正直云って非常に稚拙だ。本当に素人が書いた文章で、話、設定ともに実にマンガ的。いや文字で書いた漫画を読まされているような気になる。 特に42名の中学生に個性を持たせるために“天才ショートストップ”や“第三の男”なる綽名を付けたり、感情の欠落した人間を設定したり、苦心しているのが解る。 まあこれは法月綸太郎の『密閉教室』の時もそうだったからどうしてもこういったクラス全員を対象にした物語と云うのは一種戯画的にキャラクター設定をせざるを得ないのだろう。 42人の男女入り混じっての孤島での殺し合い。そのゲームに参加する者の動機、殺意は様々だ。 さっきまで友達だったクラスのみんなを信じ、合流して政府の手下を撃退しようと企む者。 誰もかれも信じられなくなって終始怯えている者。 みんなを信じ、殺し合いを止めようと呼びかける者。 一人になるならいっそのことと愛に殉じる者。 自分がやらなければ殺されると恐怖心から殺戮に走る者。 現状を打破しようとシステム自体を壊そうとする者。 そして殺戮に自分のアイデンティティを見出し、修羅道に堕ちる者。 そして中学生が無人島で殺し合うという実に荒唐無稽な話を成立するために作者は日本ではなく大東亜共和国という戦前の軍国主義国家を髣髴とさせる国を設定している。この共和国では準鎖国政策を取って欧米の物の輸入を制限しており、逆に中国をかつての満州のように固有の領土としている。 そしてこの作品の主題である「中学生が無人島で殺戮のゲームを繰り広げる」のはプログラムと呼ばれる、全国の中学3年生のうち無作為に選ばれる50学級によって行われる共和国の専守防衛陸軍が防衛上の必要から行っている戦闘シミュレーションと云う設定。防衛上の必要という、どんな必要性なのか理解不能の設定によって成り立っている。 つまりこのような抑圧された国家の統治下で無理やり殺戮を強いられる中学生たちが国に対して叛乱を起こすまでの人間讃歌というのが本書のテーマなのだが、中学生が無人島でクラスメートを殺し合うというあまりに煽情的な内容が先走り過ぎている感は否めない。この小説にはそのアクの強さがどうしても先に立ってしまう。 本書のように複数の人が限定された場所で殺し合いをするという小説は他にもある。例えば稲見一良氏の『ソー・ザップ』などがその典型だが、味わいは全く違う。『ソー・ザップ』には最強の名を賭けて戦う男の矜持や美学が盛り込まれていた。 しかし本書では単なるゲームとしての殺し合いとしか捉えられない。それはやはり中学生が殺し合うという設定と国が率先して教育の一環として行っているという胸のムカつくような荒唐無稽さにあるのだろう。 恐らく作者自身もそれには自覚的で「やるならとことんB級で」といった気概も感じられる。それに乗れるか乗れないかで本書の感想や物語への没入度は全く異なるだろう。 奇しくも子供が物語に関わる作品を連続して読むことになった。 父親の若き日にタイムスリップした息子が将来の道へと導く『時生』、わが子を虐待せずにいられない刑事が失踪した息子を死に物狂いで追いかける『楽園の眠り』、そして中学生が殺し合う本書。 どんどん親子の絆が弱くなり、また人一人の命が軽くなっていき、娯楽と呼ぶにはあまりに心が荒んでしまう物語になっているのが偶然にしては怖すぎる。 ちょっとここいらで純粋に愉しめる小説に当たりたいものだ。 しかし話題先行型だが本書のような作品が100万部も売れたとは、刊行された1999年とはまさに世紀末だったのだなぁ。いや世紀末だからこそこのような退廃的な作品が受けたのかもしれない。 まさに時代の仇花として象徴的な作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ブロック最初期のシリーズキャラクター、エヴァン・タナー初登場作。
戦時中に頭に受けた銃弾によって一睡もできない体質に生まれ変わった男エヴァン・タナー。その特性を活かしてあらゆる言語を学び、色んな社会の団体や組織に属し、様々な書物を読んで知識を蓄えている。その知識を活かして学生たちの論文を代わりに作成するアルバイトまで行っている。 彼の強みの一つである各国の政治的団体の知り合いの伝手を使って、逃亡生活を送ることになるが、そのために彼は各国を渡り歩くはめになる。 トルコからアイルランド、スペインからフランス、イタリアからユーゴスラビア諸国、ブルガリアから再びトルコへと転々と移りゆく。全ては金貨のためだ。 その道中でタナーは同行者から逃れるために暴行を犯し、逃亡の身になってからは謎めいた男から機密文書の密輸を頼まれたり、ある時は独立の革命の闘士の一員となって戦ったりと波乱万丈だ。これも眠れない特質を活かして数ヶ国語を会得し、さらには世界中の反乱分子の団体に偽名で登録しているタナーだからこそ成しうることだ。 しかし目的はただ一つ。トルコに戻って大量のソブリン金貨をせしめること。見事それはタナーの機転で成功するが、物語はその後、意外な展開を見せる。 さて個人的なことだが現在忙しい日々を送っており、自分の時間を取れないこの時期に24時間全く眠らないエヴァン・タナーが実に羨ましく思った。私なら寝なくて済むならあれやらこれやらやりたいことばかりだからだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏の作品には本格ミステリからサスペンス、ユーモアなど多彩だが、本書はタイムスリップ物、つまり『分身』や『秘密』と同じSF物である。
物語はまず遺伝性の奇病によって若い命を喪おうとしている息子を見つめる夫婦の話から始まる。そしてその息子が死んだからが本編の始まりだ。 まさに若き命を喪おうとする息子が過去にタイムスリップして若き日の父をある運命へと導くお話だ。 しかしなんだかいつもの東野作品のような淀みのない展開ではなく、読んでいてとても居心地の悪い思いがした。恐らくそれは主人公の宮本拓実、つまりトキオの父親の性格にあるのだろう。 物語の冒頭で語られる時生の誕生までの物語はなんとも重い話で、子供を産んでもそれが息子ならば20代になる前に死んでしまう奇病に侵されてしまうという明らかに不幸な道のりがあるのに、あえて茨の道を進む父親の決意と息子に対する思いやりや献身が語られるのだが、タイムスリップしてトキオが対面する若き宮本拓実は短気ですぐに暴力を振るい、しかも何事も長続きせず、しかも原因が自分の性格にあるのに環境や他人のせいにしてわが身を省みないという何とも器の小さい男として語られる。 この現在と過去のイメージギャップがなんともすわりの悪さを感じさせるし、まず主人公として共感できない男であることが大きな原因だろう。 そんな宮本拓実が失踪した元恋人の早瀬千鶴の跡を追うのだが、それが行き当たりばったりで、しかもトキオのアドバイスを聞かずに進めようとする。この流れに淀みを感じて、強引に力業で物語を進めているように感じられるのだ。 そして宮本拓実が改心して冒頭のような性格になるのは早瀬千鶴が彼の許を離れた理由を聞いてからだ。 しかしあれほど短気で自分勝手ですぐに暴力を振るう人間が180°変わったようになるだろうかと疑問が残る。そして肝心の妻麗子との出逢いも実に簡単すぎて拍子抜けした。 とまあ、東野作品にしては息子が過去に遡って自分の父親を導くというありふれたタイムスリップ物の、ハートウォーミングになることが約束されているような設定には安直な作りであると感じたのは否めない。 ただ本書と本書の前に発表された『レイクサイド』にはある共通点があることを付記しておこう。 『レイクサイド』では親は子供のためにはどんなことでもやるのだということを歪に、そして陰鬱なムードで語ったが、本書は子供は親にとってどんな存在なのか、そして子供は親をどこまで信用し、慕うことができるのか、と子供の側から親子の絆を描いている。 そういう意味では本書と『レイクサイド』は全く物語の色調は違うが表裏一体の関係にあると云えよう。 主人公宮本拓実は本当の親麻岡須美子が生活苦から育ての親宮本夫妻にゆだねられた子供であり、育ての親も父親の浮気がもとで家庭崩壊してしまう。それを拓実は実の親を恨むことでアイデンティティとしている。 妻麗子もまた自らが遺伝性の奇病に侵されたことで結婚を諦めた女性だ。父親からは決して結婚するなと厳命されたが、拓実の根気強い熱意から結婚をする。 そして時生はその二人から生まれた短命を運命づけられた子。 しかしそんな三者三様の生い立ちはあれど、共通することは親が子に対する思いは一緒だということだ。 本書では親にとって子供とは未来なのだ、どんなに辛くてもこの子のために生きていかねばならないという生への原動力となる存在なのだと高らかに謳っている。 しかし昨今連日の児童虐待の報道を見ると、親が子育てを放棄する自分本位の価値観には呆れ返ってしまう。恐らく本書が刊行された2002年にも既に同様の痛ましいニュースはあったのだろう。だからこそ改めて東野氏はこのような作品で子供の大切さを訴えたのかもしれない。 物語の舞台が1979年とまだ義理と人情と近所づきあいが活発だった時代に設定されているのがある意味哀しいのだが。 本書にはこの他にも失踪した拓実の当時の元恋人千鶴が巻き込まれたある政府直属の企業の贈賄汚職事件を絡めてサスペンス風味を出している。 しかしそれが果たして本書に必要だったのかどうか、よく解らない。 先般読んだ島田荘司氏の『写楽 閉じた国の幻』に配された主人公が息子を失う回転ドアの事故よりかは物語に絡んではいるが、ストレートに父拓実を更生させるために彼のルーツを探る物語にした方がバランスはよかったのかもしれない。拓実の性格を変えるファクターとして千鶴が彼と別れた理由を挙げているが、これも他の何かに置き換えられるのではないか。 今回はどこか東野氏が“泣ける物語”を狙ったのが露骨すぎてあまり愉しめなかった。次作に期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1973年の本書はキングスマーカムという田舎町でロックフェスティバルが催されるというシーンから始まる。1969年に開催され、今や伝説となっているウッドストックからブームになった。レンデルが本書でも扱っているぐらいだから当時の熱狂ぶりは凄かったのだろう。
今回の事件はそのロックフェスティバルが開催されている会場で最終日に顔を潰された女性の死体が発見されるというもの。フェスティバルの乱痴気騒ぎの中で殺された者かと思いきや、それが始まる前に殺されたことが判明するが、被害者ドーン・ストーナーは服を二種類持っており、また死ぬ直前に誰かと食べるためと思われる食材を買い込んでいた。しかもドーンはフェスティバルの出演者ジーノと知り合いだった。 この一見何でもないような殺人事件だが、犯行当時の状況にどうにも説明のつかないところがあるという違和感が実にレンデルらしい。 この奇妙な事実と被害者とフェスティバルの出演者との奇妙な繋がりから事件の謎が綻び、全容が浮かんでくる。 本書における犯人は実は物語の5/6辺りで突然犯人による自供によって判明する。しかし本書におけるメインの謎は犯人は誰かではなく、なぜ被害者は殺されるに至ったかというプロセスにある。 本書の原題は“Some Lie And Some Die”。ジーノ・ヴェダストの「レット=ミー=ビリーブ」という歌に出てくる歌詞の一節だ。 「だれかは偽り、だれかは死ぬのか」。 これはレンデルから世の大衆に向けての痛切なメッセージなのだ。 当時ヴェトナム戦争、欧米とソ連との一触即発の緊張関係など荒んでいた政情に反発した民衆が音楽で世の中が変えられると信じ、ロックスターをアイコンにして運動を起こしていた。しかしそのアイコンたちはラヴ・アンド・ピースを叫びながら、実はそれを食い物にし、アイコンに群がるファンたちを弄び、金儲けしていたという事実。 君たちの信じる者は所詮虚栄に過ぎないのだという警句を本書で投げかけている。 本書が1973年に発表されたことを考慮して初めて本書が当時書かれた意義が解る(とはいえ、本書を読み終えた後に冒頭の献辞を読むと母から子への痛烈なメッセージにも取れて苦笑してしまうが)。 ただ単純にロックフェスティバルが流行っているから作品を一つ仕上げたのではない。レンデルはそこに一種の疑問と危機感を読み取り、それを小説として形にしたのだ。 改めてレンデルは世の狂乱の渦とは一線を画した視座で世の中を観ている作家であることを認識させられた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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鮮烈なデビュー作となった『不夜城』も『鎮魂歌』を経て3部作と云う形で本書を以て完結を迎える。足掛け8年に亘っての完結だ。
その完結編となる本書ではまずいきなり前2作で劉健一の悪夢の元凶となっていた楊偉民の暗殺から始まる。つまり前2作の流れを断ち切ってから物語は始まるのだ。 作中でも書かれているように、新宿を生きる中国系マフィアの状況も劉健一がしがない故買屋だった頃からは様変わりしている。北京、上海、台湾といった大きな勢力が組織だって抗争を繰り広げていた頃とは違い、東北や福建から流れてきた連中が4,5人集まっては犯罪を犯し、また方々へ散っていく。 そして劉健一も2作目からさらにその得体の知れなさに拍車がかかる。全てを見通すかのように部屋に籠っては情報を集め、彼に関わる人たちの過去を、秘密を暴いていく。物語の前面に出るわけではなく、あくまで影の存在として情報を操作し、人を、いや物語を操る。 そして物語の中で翻弄されるのは武基裕。中国人でありながら偽りの戸籍を手に入れ、残留孤児二世として日本に入国し、日本人として生きる男。しかし生きるのに不器用な彼は中国東北人グループの下で働き、麻薬取締官の手下となり、またやくざの使いとなって地べたに這いつくばりながら生活している。 武には過去に喪った女性がいる。任美琪というかつて歌舞伎町の顔だった唐真という福建人の情婦だった女だ。武との密会がばれ、命を喪った。 これは他の馳作品によく見られる設定だ。概ね馳氏の主人公にはかつて愛した女を喪った過去を持つ。それは汚れてしまった現在の自分が生まれることになった愛と云う純粋なものを信じていた時代から訣別を意味するのだろう。 ある者は人生から転落し、ちんけなチンピラになってしまい、ある者は愛を捨てることで成り上がった者もいる。しかし共通するのは汚れてしまった人間になってしまったということだ。 馳作品の主人公は過去の女性への喪失感がトラウマになっていることが多い。 武は自分のボス韓豪を殺した連中を探すための一手段として情報屋の劉健一に情報収集を依頼するのだが、それがやがて幼馴染でかけがえのない存在だった藍文慈という自身の過去と対峙し、その過去を隠すために逆に劉健一に踊らされる存在となっていく。利用しようとしていた劉が全てを知り、そして全てを操る存在として武には映り、恐れおののくようになる。 そして武が親しみを込めて小文と呼ぶ藍文慈は、貧村で武が暮らしていた時に大切にしていた妹のような存在。武が日本へ発つ時に必ず迎えに来ると誓ったが、そのまま忘れ去られ、自身の力で日本に来た女だ。 このように相変わらず裏切りと血と暴力の物語で救いがないのだが、今までの諸作とは明らかに変わっているところがある。 まず必ずと云っていいほど織り込まれていた過剰なセックス描写が本作では全くないことだ。ヒロインは必ず複数のやくざに凌辱され、薬漬けにされ廃人と化す。物語の初めに美しく、そしてしたたかな女として描写され、物語の中で血肉を得られた頃に、いきなり公衆便所のように男たちの性欲処理の対象まで貶められるのが今までの馳作品における女性の扱い方だった。 しかし本書ではヒロイン役である藍文慈の扱いは全く違うものになっている。 また馳作品に出てくる女性とは諸作品に共通して主人公を正気に、または現状打破のためによすがとなる存在だった。どんなに崖っぷちに立たされ、逃げ出したいと思っても、最後の光として存在するのが愛する者の存在。 しかしそんな最後の宝石を必死で守ろうとしながらも最後は自分の手で壊してしまうのが馳作品の主人公たち。最後のカタストロフィに向かうためのトリガーがこれら大事なものを失うことだ。 だからこそ私は馳作品に不満を覚える。ボロボロになりながらも守ってきた物を最後には簡単に放棄して狂気に身を委ねてしまう主人公の弱さにどうしても共感できない。それまでの話は一体何だったんだとガッカリしてしまうのだ。 しかし今回における女性、藍文慈の扱いは違う。 通常何もかも喪った人が再生もしくは復活するというのが小説の題材であり、また主題となるが、馳氏は何もかも喪った人がさらに堕ちていく様を容赦なく描いていく。それは異国で生活する下層社会の人間の厳しい現実を知るからかもしれない。 しかしそれでも小説と云う作り物の中では希望のある話を読みたいものだ。こう考える私は馳作品を読むべき人間ではないかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ローレンス・ブロックのごく初期の作品で私にとって本書がこれから読んでいく一連の作品の中の記念すべき1冊目だ。
主要登場人物わずかに4人。詐欺師コンビのダグとジョン、カモにされる男ガンダーマンと2人の協力者でガンダーマンの秘書のエヴィ。こんな少人数で繰り広げられる詐欺と云う名のコン・ゲームが実に面白い。さながらクウェンティン・タランティーノの映画を観ているかのようだ。 土地を買いに来たと見せかけ、逆に二束三文の土地を高く売りつける。それは相手が利口であり、抜け目がなく、そしてプライドの高い人間だからこそ成功する、それがジョン・ヘイドンとダグ・ランスの描いた絵だ。 彼らの標的はガンダーマンと云う土地成金ただ一人。その彼の信用を得るために彼らは実際に株式会社を設立し、また実際に土地を買い漁る。そして秘書のエヴィからはガンダーマンが送ろうとした手紙を確認し、偽の返事を書き、わざわざ当該地の消印で届くように、各地に飛んで投函する。 ちょっとした手間を惜しまず、あくまでリアルと細部にこだわる。相手が詐欺に遭ったと気付かないように罠にかける。それがジョンとダグの流儀。 こんなに入念な準備をされれば、ずぶの素人の私などは絶対騙されたことに気付かないだろう。いやあ、詐欺の手口というのは実に恐ろしい。 そんな2人の詐欺師に加わる1人の協力者の女。しかもその女はとび切りの美人。そんな3人だから色恋沙汰が起きないはずがない。今回の仕事を最後と決心していたジョンが次第にエヴィに惹かれていくのだ。彼の将来の夢にいつの間にか彼女がパートナーとなって加わっていく。 少人数のチームの中に一人だけ異性が加わると、理性の中に感情が加わり、不協和音が響きだす。これはこういったコン・ゲームに不確定要素を加える常套手段と云える。 本書も例によって例の如くだが、特徴的なのはエヴィがこのような物語にありがちな狡猾で勝気な女性として描かれず、退屈な町と社長の愛人としてこの先暮らしていく未来に絶望し、その現状を打破したいともがく一人の女性として描かれる。そして詐欺師として、いや男として完璧なジョンを愛するようになる。 全く男が夢に描くような女性である。 しかしそこはやはりコン・ゲーム小説ゆえの展開。 題名にあるようにこの物語の中心は女性、つまりエヴィになるのだが、ガンダーマンが死ぬ250ページまでエヴィの悪女ぶりは上に書いたように全く解らない。むしろエヴィは初めて大がかりな詐欺の手伝いをする危うげな女性として描かれている。 しかし私は一方でエヴィが陰の主役でありながらも、これは一度人生を諦め、ささやかな夢に賭けたジョン・ヘイドンという元詐欺師の再生の物語だと思わざるを得ない。本書は彼の中に眠っていた詐欺師の血が再燃する物語なのだ。 また1965年の作品だからか、架空の会社を設立してまで行う一大詐欺作戦の割には想定する報酬が7万ドルと実に低いのが終始気になった。当時の貨幣価値に換算すると、7,700万円相当の価値があるようだ。う~ん、それでも微妙な数字ではあるが。 生憎現在でもこの作品の続編は書かれていない。もはやブロックの中では既に記憶にない作品なのかもしれない。 しかし数年前に来日したブロックの話によれば、彼の小説の登場人物は彼の中で生きており、ふと何かのきっかけで甦って、また物語が生まれるとのこと。 もしかしたら…の期待を抱いてしまうなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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レンデル特有の悪意が詰まった短編集。
冒頭の表題作はミステリというよりも、ホラーにも似た1編。 因果応報の物語。本編でアメリカ探偵作家クラブ最優秀短編賞を受賞したとのことだが、候補作のレベルが低かったのか? 続く「誰がそんなことを」は親友が妻を殺した経緯を夫が語る話。本編で怖いのは語り部である主人公の真意が解らないこと。そして淡々とした語り口では主人公の嫉妬心が全く解らない。従ってそれが奇妙な怖さを与えている。 「悪い心臓」は、解雇した部下から夕食の誘いを受けた社長の一夜の物語。 解雇した社員からいくら執拗に招待を受けるとはいえ、果たして受けるものだろうかという日本人ならば抱く疑問はさておき、本書はその居心地の悪さが終始語られる。 妙にぎこちなく進んで盛り上がりに欠ける会話。話題が全て部下の解雇に繋がる等、おおよそその場には居合わせたくないシチュエーションだ。レンデルらしい実に意地の悪いお話だ。 今でいう確認恐怖症の女性を描いた「用心の過ぎた女」。 レンデルお得意の、何かの恐怖感、執着心に囚われている人間が他者が自身の生活圏に関わることで次第に冷静さを失っていく過程を描いた物語。 鍵をきちんと確認するのは私もよくあることだが、レンデルの描く人物は度が過ぎていてすさまじい。そんな精神障害を持つ人間が他者に対して平常心を保とうと無理をすることがすなわち破局への始まりなのだ。 奇妙な味わいを残すのが「生きうつし」だ。 二兎追う者は一兎も得ず。ゾィーに対してピーターはリザとは上手く行っていないと語り、リザに対してはゾィーと逢っていることはおくびにも出さない。そんな二重生活を続けていた中で訪れた皮肉な偶然。ホランド・パークで偶然再会したリザとゾィーは何をしゃべったのか。色んな想像が膨らむ結末である。 2人の老人を主人公に据えたのが「はえとり草」。 とにかくマールの性格の悪さが引き立つ話だ。私も社会に出て色んな人と出逢って気付かされたことがあるのだが、大体独身で30を過ぎた人はどこか子供めいた我儘なところがあるということだ(私の意見です、念のため)。柔軟性に欠け、自分の意見を通さずにはいられないという我の強さが目立つ傾向にある(あくまで私の意見です。念のため)。 マールはそんな人間の典型だ。読んでいる最中、どうしてダフネはこんな女性と友人関係を続けるのだろうかと首を傾げたが。最後の犯人はきちんと読んでいないと解らないようになっている。私はかろうじて解った。レンデルの人間観察眼が際立った1編か。 「しがみつく女」ははたまた精神障害者のお話。 愛と狂気の境界とは一体どこにあるのか。そんなことを考えさせられる1編だ。リディアという相手を愛しすぎるがために一時も離れたくないという女性が登場するのだが、通常ならばそこから結婚生活を送る夫が妻への恐怖を募らせる、と云うのがパターンだろうが、本作では主人公の彼もリディアを愛しており、彼女の希望を叶えようと仕事よりもリディアを取る生活を送る男だ。つまり半ば愛情の度合いが強すぎた男女だからこそ解る2人の間に存在するタブー。それを犯した彼が辿る行く末は実に奇妙な味わいを残す。 「酢の母」はその名の通り、ワインから酢を作り出す「酢の母」なる培養物とマーガレットとモップという2人の女の子の物語が繰り広げられる。2人の女の子が短期に滞在する別荘でモップが体験する夜中に屋敷を忍び込む影。そんな転換点が随所にあるものの、今いち吸引力に欠ける物語であった。 「コインの落ちる音」は不仲状態の夫婦の物語。 セックス嫌いの冷感症の妻に理解を示した夫が自身の性的欲求不満を解消するためにセックスフレンドがいることを告白したことで狂ってしまった夫婦と云う名の歯車。夫は理解を示さない妻に業を煮やして一刻も早い離婚を望み、恥をかかされた妻はどちらかが死ぬまで決して離婚しないという復讐を誓った。 そんな二人が夫の会社の会長の結婚式に出席するために滞在したホテルにあるコインを入れれば一定時間使用できる古いガスストーブ。 状況と小道具が見事に物語の結末に有意的に働いた1編だ。 SFかと思わせたのが「人間に近いもの」だ。 ネタバレに感想を書くが何とも味わいのある作品だ。 最後の「分裂は勝ち」は我々の生活に身近な問題を扱っている。 親の介護という誰もが直面する問題を題材に実に人間臭い卑しい考えが横溢した作品となった。自分に忙しいマージョリーは母親の世話を妹のポーリーンにこれまでように任せて今の生活を維持しようとする。そんな中に現れたポーリーンの恋人の医師。冒頭は不器量で変わり者のポーリーンが本書における異分子かと思いきや、マージョリーもまた我儘の強い人物だったことが解る。なんとも救いのない話だ。 数あるレンデルの短編集の中で日本で初めて紹介されたのが本書。 長編でも短編でも書ける作家レンデル。彼女の持ち味は人間がわずかに抱く悪意や不満といった負の感情が次第に肥大していき、あるきっかけがもとになって悲劇を招くことが非常に自然な形で読者の頭に染み込んでいくような丹念な物事の積み重ねにある。 本書でもそれは健在だが、短編と云う決められたページ数のためか扱われる内容は実に我々の生活の身の回りの出来事であることが多い。 やたらとモテる友人への嫉妬心、解雇した部下への苦手意識、潔癖症、独身生活を続けたゆえに生まれた独善的な思考、誰かに愛されていないと生きていられない女、夫婦の不仲、厭世的な人間嫌い、苦労を厭い、できれば身内に面倒を押付けたいという願望。 それらは誰もが周囲に該当する人間であり、もしくは自分の理解を超えた存在ではなく、どこかに必ずいる、ちょっと変わった人たちだ。みな何かに不満を持ちながら、それでも生きているのが現状であり、何もかもに満たされ、毎日が安定して幸せな生活を送っている人たちなどほとんどいないだろう。 従ってレンデルの作品に登場する人物は不思議なお隣さんの生活を覗き見するような趣があり、時にそれはリアルすぎて生活臭さえ感じられるほどだ。 この世に流布する物語の大半がいわゆる日常生活が非日常に転換する何かのきっかけ、すなわちトリガーを切り出した話である。 レンデルはこのトリガーが非常に自然であり、また我々の生活に身近にあるような題材、内容なので読了後なんとなくわが身の将来に起こる不安感を掻き立てられたりするのだ。 本書の原書が刊行されたのは1976年だが、収録されている作品に出てくる人物たちは21世紀の今でも不変的な存在だ。いやむしろ精神障害の種類が細分化された現在だからこそ、40年近くも前にこのような作品が書かれたことに驚く。 それまでは特徴的な性格として捉えられていた内容が現代では名前が付けられ、分類されている。特に最終話に登場する“想像上の友達”に関してはこの時代に既にそんな認識があったこと、そしてそれを小説の題材に扱っていたことに驚かされる。 本書に収録されている物語の結末は全てが数学を解くかのように割り切れるような内容ではなく、何かの余りを残してその後を想像させるものが多い。それがこの作家の、人間というものに対しての思いなのだろう。 だからこそここに出てくる人物たちが作者の掌上で操られているのではなく、自らの意志で行動しているように感じてしまう。作者はそんな彼らに事件と云うきっかけを与えているだけ。そんな風に感じてしまうほど彼らの行動や出来事の成り行きが自然なのだ。 読めば読むほどレンデルの人間観察眼の奥深さを知らされることになる。だからこそ訳出が途絶えたことが残念でならない。どの出版社でもいいのでレンデル=ヴァインの作品を再び刊行してくれることを切に願っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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