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ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編
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ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.24pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全47件 21~40 2/3ページ
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本書を単行本で最初に買った平成6年(1994年)4月,本書はこれまでの村上春樹の作品とは大きく雰囲気や文体の変化があり,かつ,この二部までしか出版されておらず,かつ三部が出るとの情報もなかったため,かなり戸惑った記憶があります。 初期の村上春樹のファンや世間の評価としては,批判も少なくなかったのですが,三部出そろって後,時間が立つにつれて本書の評価はじわじわと高まり,現在では海外でも高い評価を受けているところです。 今回,ほぼ10年ぶりの3度目の再読ですが,村上春樹ほど再読するたびに,その作品の味わいが変わっていく作家も多くないのではないでしょうか。 再読するたびに新たな発見があり,まるで初めて本書にふれるときのような読書の喜びがあります。 第二部では,ついにクミコが失踪し,僕が井戸にこもります。 代わりにユニークな登場人物「加納マルタ」「加納クレタ」「笠原メイ」が活躍します。 特にクレタの存在感が目を引きます。 「誰かが無抵抗な人間から着衣をはぎ取るみたいに,暴力的と言ってもいいくらい激しい眠気」 に襲われた僕の眠りのなかに登場する加納クレタが,妻クミコのワンピースを着てこう言う。 「何もかも忘れてしまいなさい。 あたたかい泥の中で寝ころんでいるように。 私たちはみんな温かい泥の中からやってきたんだし,温かい泥の中に戻っていくのよ」 そして忍耐強い主人公僕もクミコの兄綿谷ノボルに対してだけは攻撃的な態度をとる。 「僕はつまらない人間かもしれないが,少なくともサンドバッグじゃない。生きた人間です。叩かれれば叩き返します。そのことはちゃんと覚えておいた方がいいですよ」 クミコを探し求める道を選択した主人公僕。 そして第三部へ。 | ||||
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村上春樹さんのファンになりそうです。一度に沢山購入しましたので、以後記入不可です。 | ||||
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淡々と流れる日常。 そこに虚構が忍びよってきます。 やがて日常と虚構は結びつきそれまでとは違う世界に入れ替わってゆきます。 いつ入れ替わってしまったのか。私達の日常もよく似ているのではないかと思わせられます。 日常の中には、小さな怒りの種が花粉にようにただよっています。 一度花粉を吸い込むと何かのきっかけで強い憎悪が呼び起こされます。 顔のまわりを漂う紫煙のように振り払っても振り払ってもそれを取り払うことはできません。 真っ暗な井戸の中。光がなければ自分の肉体すら眼で捉えることはできません。 恐怖は怒りに変わりやすく、怒りは暴力を伴います。 現代は多くの人の怒りが充満した社会でもあるように思えてきました。 | ||||
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自分の行動には、このような考えがあったのだと認識させられました。そしてその考えの裏には、その考えのもとがあったのかと、そうも認識するようになったのも、この作者の本を読んだのがきっかけです(これまでそんなこと深く考えもしませんでした)。それ故、2度も読み直しているほど(これからも読み直すでしょう)、とても気に入っています。 もちろん個人的なことですが、男と女がそんなに信じあえるものかとてもとても疑問です(なくはないでしょうが)。それにセックスが、そんなに簡単に?すぐ?する?ものなのですか??、セックスの文章が必ずあり多い(意識過剰ですか)ようで、これははっきり言って好きじゃありません(読者が好むから?本が売れるから?意図的に挿入している、と考えてしまいます)。そして、この作者はあまり漢字を使っていないように思います。意図的にですか?比喩手的にやさしい言葉を並べて表現していますが、それは奥深さを感じますが、なかなか理解できないことがあります。 これらのことは、作者や著書を批評しているものではありません、自分個人が感じたこと、内実の事々で・・・・これらのことをも刺激してくれたのも、この作者の本でした。 | ||||
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「第2部 予言する鳥」ではキムタクの出生の秘密が明かされる、というのは冗談で、第2部は第3部及びこれからのハルキ・ムラカミの作品につながるための重要な作品である。 僕は井戸の底に封印される、ボールを打つという本来の目的以外に使うための野球バットが出てくる、泥棒カササギの序曲を口笛でいかに上手に吹くかが明らかにされる、208という数字がまたまた出てくる、シューマンの「森の情景」が奏でられる・・・・・ | ||||
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主人公がひょうひょうとしながらも不思議な世界を歩いていく。 村上春樹さんの独特の世界を堪能させてもらいました。 特に、井戸の中でのエピソードが印象的でした。 この不思議な状態に、なぜ、あんなにも平気でいられるんだろう。 それを描ける村上春樹氏は何者だ!と感じました。 | ||||
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自分が自分でいられるということはどういうことか。ヒトはホントに自分の人生を選び取って生きているのか。 ヒトはある時、「別の」人間になろうとする。だがホントにそれを本人が選び取ってるのだろうか。社会やシステムがキミをキミ以外の何かに変えようしてるのでないか。その葛藤の中でふと寂しい気分になるときはないか。 結局ヒトは自分以外の何者かにはなれない。 キミがキミ自身である唯一の方法が実は「孤独」であると村上は語る。孤独に「なる」のであって、孤独に「させられるのではない」、と。 そのメタファーとして主人公は井戸の中に自ら籠り、述懐し掘り下げ、果ては歴史まで紐解いて壮大なるストーリーを展開する。 果たしてこの行為が無為なことだろうか。「孤独」という行為。 それを経たからこそ、第3部の結末があった。 もし、この行為を経ていなかったら、 「たとえばあなたが捨てちゃおうとした世界 からたとえばあなたが捨てちゃおうと思ったあなた自身から」いつか仕返し をされてしまう、そう笠原メイは語る。 「孤独」という行為。 それは「ある意味一番洗練されたかたちでの復讐なんだ」 | ||||
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つまり、 自分がいつかは死んでしまうんだとわかっているからこそ、 人は自分がここにこうして生きていることの意味について 真剣に考えないわけにはいかないんじゃないのかな。 そうでしょう? 何が起こるかは誰にもわかんないのよ。 だから私たちが進化するためには、 死というものがどうしても必要なのよ。 私はそう思うな。 死というものの存在が鮮やかで巨大であればあるほど、 私たちは死に物狂いでものを考えるわけ。 自分ではうまくやれた、別の自分になれたと思っていても、 そのうわべの下には、もとのあなたがちゃんといるし、 何かあればそれが、「こんにちは」って顔を出すのよ。 あなたにはそれがわかっていないんじゃない? だから、きっとあなたは今、その事で仕返しされているのよ。 いろんなものから。 たとえば、あなたが捨てちゃおうとした世界から。 たとえば、あなたが捨てちゃおうと思ったあなた自身から。 私の言っていることわかる? 俺はね、どっちかっていうと現実的な人間なんだ。 この自分の二つの目で納得するまで見たことしか信用しない。 理屈や能書きや計算は、 あるいは、何とか主義やら何とか理論なんてもんは、 大体において自分の目でものを見ることができない人間のためのものだよ。 そして、大抵の世の中の人間は、自分の目でものを見ることができない。 それがどうしてなのかは俺には分からない。 やろうと思えば誰にだってできるはずなんだけどな。 ご存知のように、ここは、 血なまぐさく、暴力的な世界です。 強くなくては生き残ってはいけません。 でもそれと同時に、どんな小さな音も聞き逃さないように 静かに耳を澄ませていることもとても大事なのです。 おわかりになりますか? 良いニュースというのは、多くの場合小さな声で語られるのです。 どうかその事を覚えておいてください。 何もかもが僕の手からこぼれおちて行ったわけではない。 何もかもが闇の中に追いやられてしまったわけではないのだ。 そこにはまだ何か温かく美しく貴重なものが残されている。 あるいは僕は負けるかもしれない。 僕は失われてしまうかもしれない。 どこにも辿りつけないかもしれない。 どれだけ死力を尽くしたところで、 既にすべては取り返しがつかないまでに、 損なわれてしまったのかもしれない。 僕はただ廃墟の灰を虚しくすくっているだけで、 それに気が付いていないのは、僕一人かもしれない。 僕の側に賭ける人間はこのあたりでは誰もいないかもしれない。 「かまわない」 僕は小さな、きっぱりとした声でそこにいる誰かに向って言った。 「少なくともこれだけは言える。僕には待つべきものがあり、探し求めるべきものがある。」 それから、僕は息を殺し、じっと耳を澄ませる。 そしてそこにあるはずの小さな声を聞き取ろうとする。 そこでは、誰かが誰かを呼んでいる。 誰かが誰かを求めている。 声にならない声で。 言葉にならない言葉で。 | ||||
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頽廃した生活の中で、主人公は井戸に潜み、思索を行う。 隔絶された世界である闇の中に佇む姿は、現実的なものであるにも関わらず、リアリティを伴う事なく描かれています。 「つまり―私は思うんだけれど、自分がいつかは死んでしまうんだとわかっているからこそ、人は自分がここにこうして生きていることの意味について真剣に考えないわけにはいけないんじゃないのかな。だってそうじゃない。いつまでもいつまでも同じようにずるずると生きていけるのなら、誰が生きることについて真剣に考えたりするかしら。そんな必要がどこにあるかしら。もしたとえ仮に真剣に考える必要がそこにあったとしてもよ、『時間はまだまだたっぷりあるんだ。またいつかそのうちに考えればいいや』ってことになるんじゃないかな。でも実際にはそうじゃない。私たちは今、ここでこの瞬間に考えなくちゃいけないのよ。明日の午後私はトラックにはねられて死ぬかもしれない。三日後の朝にねじまき鳥さんは井戸の底で飢え死にしているかもしれない。そうでしょう?何が起こるかは誰にもわかんないのよ。だから私たちが進化するためには、死というものがどうしても必要なのよ。私はそう思うな。死というものの存在が鮮やかで巨大であればあるほど、私たちは死にもの狂いでものを考えるわけ」 | ||||
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とにかく長くて難解なストーリーだ。 最後にたどり着くまでに何度も「やれやれ」と思う。 クリーニングに出しておいたワンピースとともに突然姿を消した妻を探し、岡田トオルの果てしない苦闘が始まる。 その妻探しの過程で幾度となく登場し、行く手を阻むのが義兄の綿谷ノボル。 学者にして、その後衆議院議員となる彼はまったくつかみ所がないが、読む者の心の奥になにやら「イヤ」な感じを残し続ける。 家の裏にある路地を抜け、空き家の井戸に降りるところから物語は様々な方面に波及し、つながっていく。 空き家の向かいに住む笠原メイ。 いなくなった猫を探す加納マルタと妹のクレタ。 預言者の本田さんとノモンハンで一緒だった間宮中尉。 謎の事業を行なうナツメグと話すことが出来ないシナモン。 長編かつ展開が複雑であるために、何度読んでもこの物語の主題がわからない。 間宮中尉から送られてくる長い長い手紙は、何を暗示しているのだ。 井戸の中と右頬に出来たアザには何の関係があるのか。 ギターを持った男とバットと綿谷ノボルに何の関係があるのか。 最後にはすべてのツジツマが合うかのように物語は終わる。 そして、読んだ者の心の中にはある種のうまく説明できない違和感が残る。 いつかまた読んでみたら、ふと謎が解けるのではないかと考えてしまう。 何か重要なことを読み落としているのではないか、と不安になる。 こんな気分になるのは村上春樹の作品の中で「ねじまき鳥」だけである。 きっといつかまた読み返してしまう。 | ||||
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この話、全然終らない。 でも実はこの作品、94年に第2巻まで発売され、2巻のエンドロールには「続」ではなく、「完」が記されていた。つまり、2巻完結の長編小説として世に送り出されたわけだ。 ところが翌年の夏に、予期せぬ形で第3部が刊行された。 「予期せぬ形で」とは言っても、第2部を読了した今思うことは「えっ?これで終わり?謎だらけなんですけどー」って感じだし、続編が刊行されてることは何の違和感もない。 この謎だらけの物語がどう収束するのか、僕は期待に胸を膨らませ、第3部に移る。 最後に第2部で印象に残った文章を記して終ろう。 「加納クレタが僕に向かって微笑みかけたのはそれが初めてだった。彼女が笑うと、歴史が少しだけ正しい方向に向けて進み始めたような気がした。」 | ||||
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笠原メイ、加納クレタ。この二人の女性との絶妙な距離感での関係を中心に、一部では何がどうなっているのか解らなかった主人公が、自分のすべきことを見つけ出すまでの第二部です。 笠原メイの「あの女の人を抱いたから、もう私には用がなくなったってことなの?」というキビシイ言葉が妙に心に刺さりました。 夏の暑さと何ともいえない倦怠感を感じることのできる一冊です。 | ||||
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村上作品の中で初めて、主人公が怒り、暴力をふるう場面のある作品でもある。 まるで霧の中に迷い込んだかのような、夢と現実とが交差した世界の中で主人公(岡田)が困惑する。また自らが井戸の中に入り、クミコの失踪の原因について深い瞑想をし探求しようとする。井戸の中での体験が非常にリアルだ。 | ||||
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第2部「予言する鳥編」は妻のクミコの失踪という大きなトラブルより幕を開ける。この2部での主人公のオカダトオルに課せられた使命は、孤独と言うものを受け入れ、情報が明確にされるまでじっと待ち続ける事。それは、とても絶望的で多くの傷みを味わう作業であると思う。時にそのとてつもなく閉鎖されたその状況に辟易し、海外へ逃亡という道を選ぶ事を考えたりもするが、結局そこに居残る事を選択する。そして、この2部でも最もキーとなる場面であるが、謎の女の正体をついに自分で探し当てる事となる。 この「予言する鳥編」では、様々な登場人物の一言一言がとても重要な鍵となっているように思う。そしてそれは現代に生きる人々にとっても本当に重要な事なのではないか?という風に僕は感じている。 「自分にとっていちばん大事なことは何か、もう一度考えてみた方がいい」 「『新しい世界を作ろう』とか『新しい自分を作ろう』とか、誰にもできないんじゃないかな」 「それはお前が自分でみつけて、自分でやるしかない」 「ここは血なまぐさく暴力的な世界です。強くならなくては生き残ってはいけません」 「良いニュースというのは、多くの場合小さな声で語られるのです」 自らの想像力を超えたトラブルは、自分を見失わせてしまう。そして、自分が安心する為に何かに逃亡したり、依存したり出来てしまうシステムが、この世界に多く存在している。オカダトオルの行動は一介、奇怪なものに映るかもしれないし、随分と遠回りしているようにも見える。だが、本当に自分が求めなくてはならない情報は、自分のやり方で細かく時間をかけて追わなければ見つからないのだと思う。疲弊しながらも最終的に「良いニュース」に辿り着いた彼は、3部の「鳥刺し男編」にて自分にとって最も大切なものの為に、行動をしていく。 | ||||
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村上作品に共通する事ですが、正直面白さを説明するのは難しいですね。 なにより(まだ第2部までしか読んでいないからなのか)私自身はっきりしない部分も多いです。 特にこの作品は読んでいて特に難しさを感じます。 それでも、???とならず自分自身で色々考えながらはまって読めるところが文章の上手さなんでしょうね。 ついに次が最終、第3部!! | ||||
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この本はクリスマスプレゼントとして友人からもらいました。はじめは分厚さに圧倒されて2ヶ月くらい手をつけなかったのですが1度読み始めたら止まらなくなりました。 なんと言えばいいのか、とても不思議な世界です。 春樹氏の他の作品を読んだことがある方はなんとなく分かると思いますが、他の作品とはまた一味違った世界です。 私は英語版を読んだのですが、英語で読むと不思議さに拍車がかかるというか読み終わった時はこの世界がもう味わえないんだなぁと、しばらく放心状態でした。 スペイン人の友達も全く同じ感想を述べてました。 退屈な日常から脱出したいけど、休暇は取れないという方にピッタリな本だと思います。 普段自分が生活している日常、常識から抜け出せること間違いなしです。 ただ、あまりにも常識的な方には訳の分からない読み物かもしれません。 | ||||
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今までの村上春樹とは少し違った趣のあるこの作品。村上春樹の代表作と言っても決して過言ではないと思う。つまり、この作品は、傷、あるいは怒りという概念を避けずに真っ向から挑んだ作品なのではないだろうか。 失踪した妻、井戸の中でぐるぐる物事を考える僕、そして加納クレタ。なるほど、世界は悪意に満ちていて、それでいて僕らはいつのまにか傷だらけになっていて、それでも僕らは生きていかなければならない。たとえ、そのせいで以前の僕自身を切り離し、名前を失ってしまっても、僕らは名前を探しながら生きていかなければならない。 | ||||
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本当におもしろかった。第一部はやや衝撃的な文章も盛り込まれていましたが、第二部ではゆっくり流れる時間というか、粘着質な時間というか、何か時間の「流れ」が私には感じられました。感じ方は人それぞれなので、なんとも言えませんが、この意味で「クロニクル(年代記)」という題名の時間的な縦の動きが意味がなんとなくわかったような気がします。全集の解題で作者が、題名が先に決まり内容が決定された、歴史的な色合いの濃い物語になったと述べている通りであります。 多分、物語の大筋を他人に口頭で説明しようとすれば、本作品はつまらないものとなってしまうような気がします。その世界観は読んだ人にしかわからないでしょう。そういう作品です。誰もが作者の世界にどっぷりと浸かってしまうと述べている通り、私も本当にそのような気持ちで本書を読み終えました。 またどこにでもありそうな日常的な風景や様子に付随して、この物語で語られる「気」というか「オーラ」というか霊的で呪術的な部分が本書の魅力であるように感じられます。日常にはありえない部分を盛り込む事によって、世界に真実味を与えているのではないでしょうか。「嘘に少しの真実を盛り込む事によって、嘘はより強化される」といった印象です。 長編ですが、一気に読めてしまう迫力が備わっています。次作でも何も考えずにその世界にどっぷり浸かってゆこうと思います。なぜこんなにもはまってしまえるのか不思議なくらいです・・・。 | ||||
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ねじまき鳥クロニクルの第二部。一部では、よくわからなくて戸惑いのままに流されてきて、この第二部では、やはりわからない部分が多いままではあるけれど、物語の流れに流されることがなんだか心地よくなってきます。村上春樹の世界にどっぷり浸かっちゃう感じです。物語は、だんだんと見えてくる部分がでてきたと思うと、さらに謎のような人や物たちがでてきたり・・・はらはらどきどきというのではないけれど、飽きません。ゆったりした中に、どこか闇が潜んでいる感じは、独特です。 | ||||
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僕の村上春樹デビューがこの作品でした(大学の講義で「風の歌を聴け」を読んだが、あれは読書とはいえない)。僕がどうこうと言える作品ではありません。「ワタナベノボル」とは?「井戸」?「猫の失踪」?「ノモンハン事件」?「動物園」?と考えるところはいくらでもある。しかし、この作品が傑作であることは掛け値なしに保障できることです。 この小説にはジョン・アーヴィングの「熊を放つ」(村上春樹氏が翻訳)の要素が多く取り込まれている気がする。テーマとしては別のところにあるようだが・・・。 謎に満ち、メタファーの富んだ村上ワールドを思う存分堪能できる作品であることは確かです | ||||
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