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アフターダーク
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アフターダークの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.47pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全256件 61~80 4/13ページ
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ファミレスで女子大生のマリが深夜、ひとりで本を読んでいる。そこに姉の知り合いの高橋がやってくる。彼はマリともちょっとだけ知り合いだ。ジャズの名曲『ファイブスポット・アフターダーク』の話をする。これから深夜の5人の物語が始まるのだ。みんな、何とかしなくてはならない過去がある。 マリは最近は姉とうまくいっていない。美貌で白雪姫のような姉に対して、自分は取り柄のない平凡な女の子。いじめられもしたが、勉強はがんばってまもなく中国に留学するところだ。あねにぎゅっと抱きしめられたことを思い出した。 高橋は母が病死し、そのとき父が刑務所にはいっていたため、一時的な孤児になった。父とはうまくいかないので、一人暮らしをしている。 姉のエリは昏々と眠り続けている。子供の頃からモデルをやったりして周囲に合わせすぎたため、自分がなくなってしまったらしい。 しかし都会にも朝がやってくる。「いまのところまだ何も書き込まれていない一枚の白紙のようなものだ。」とはいうものの、昼間に何かが解決されるのだろうか。また夜になると何か変るのだろうか。 | ||||
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比較的初期の作品 風の歌、ダンスダンスダンス、ノルウェイの森、ねじまき鳥 などの文体に慣れていたので 最初の一ページを読んだときに あれっ? って思いました。 僕の視点は一切出てこないのが一番の新鮮さでした。 不可解なほど「僕」の心理の深層に深く入る事は無くて 三人称が紡ぎ出す人間模様が すっきりと描かれている印象を持ちました。 なおかつ一晩の出来事を一見ハッピーエンドの着地点まで描ききった作品で 今までの村上さんには無かったテイストがあります。 いろんな書評から判断するに あえてこの様なテイストを目指しているとの事なので ますます進化するであろう 今後の作品が楽しみです。 好みとしては 現時点で 「僕」視点の作品の方なので ☆は4つにしました。 | ||||
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この作品をあまり高く評価していない人たちがいらっしゃるようですが、村上さんのイスラエルにおける卵と壁のスピーチを聴いた(知った)あとに改めて読むとこの本の価値が見えてくるのではないでしょうか? そしてそれはこの作品の登場人物に現実味が感じられないという指摘への返答も兼ねているのではないでしょうか? | ||||
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終わってしまいました。深夜に始まり夜明けに終わる群像チックな物語です。村上作品では珍しく、収束というものがあまりなかったように思えます。結果的に春樹さんの言いたいことはわかりませんでした。それでも読み終えた後すっきりした気持ちになれたのはやはり春樹さんの実力というほかないでしょう。物語としてではイマイチ足りないものがありますが、春樹的な世界観に浸りたいと言う人なら一読してみる価値は十分にあると思います。少々甘口ですが、星を四つ。 | ||||
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時刻は間もなく深夜零時。デニーズでひとり本を読む若い女性マリに、高橋と名乗る青年が声をかけてくる。彼はマリの姉エリの友人でマリにもかつて会ったことがあるという。 この二人の出会いが、さらに何人かの人間を巻き込む深夜のドラマを生んでいく…。 久しぶりに村上春樹の、しかも決して新しくはない小説を手にしたのは、スペイン人の友人がスペイン語訳のこの本を読み始めたからです。今、海外で最も広く知られる現代日本人作家である村上春樹。いくつか彼の作品に目を通しておくのは、今後外国の友人や取引先との会話の糸口をみつける助けになるかもしれない、そんな実利的な目的で読み始めました。 想像していたよりも読みやすい作品でした。 私が思うにこの物語が描かんとするのは、人間の孤独、他人との埋めがたい距離感でしょう。その痛ましいほどの寂寥感は、都会の夜を舞台にして、見事に描かれていると思います。 そんな寂しさの中でも人間はささやかな思い出を紡いで、記憶のかけらを自分の中に積み上げていく。人生におけるそのことの大切さがコオロギという名の登場人物が口にする次の言葉からも伺えます。 「人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないかな。(中略)もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。」(250〜251頁) この小説は会話の分量が多いのが特徴です。現代の日本の若者にしてはエリや高橋がことのほか冗舌で論理だった物言いをするところが現実離れしている気がしないでもありません。ヨーロッパかアメリカの、明快な発言を常に求められる文化圏の若者たちのような人物たちには、それこそ距離を感じてしまうのですが、そこが村上春樹の作品を翻訳可能性の高い、海外の読者によって受容されやすいものとしているのかもしれません。 | ||||
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この小説は、今までの村上作品とは一線を画す作品である。以下に、二点だけ述べることにする。 まず、この小説は、主に第三者的視点によって描かれている。要するに、この小説には、"僕"が登場しない。それどころか、主人公が男ではなくて、女の子になっている。これは、村上作品としては異例のことである。 "僕"の漂わせる諦観や時代への批判といったものは、姿を見せない。確かに"僕"に似たような人物は出てくるが、羊シリーズの"僕"やノルウェイの森の"わたなべ"と較べると、薄っぺらくみえてしまう。 端的に言うと、登場人物たちの内面に深みを感じることが出来ないのだ。"突撃隊"、"永沢"、"鼠"、"みどり"、"J"といった個性的な登場人物は出てこない。そして、それが要因となり、我々読者が村上作品を読んだ後に残る一種のカタルシスのようなものを得ることが出来ず、物足りなさを感じるのではないだろうか。 次に、この小説は、場面設定が他の村上作品と較べてあまりにも違う。村上作品といえば、綺麗にアイロンがけされたシャツ、読んでいるだけで食べたくなるようなサンドウィッチとコーヒー(もしくは、紅茶)、お洒落なcafeやバーといった彼の趣味や世界観を感じさせるようなアイテム群が登場するが、この小説にはそれがない。代わりに出てくるのは、デニーズのチキンサラダ、セブンイレブンの牛乳、ラブホetcとチープなものしか出てこない。極めつけは、場面設定が夜の歌舞伎町という点にあるであろう。この小説を読んでも、例えば、ノルウェイの森の醸し出すある種の雰囲気を感じることは出来なかった。 村上春樹は、この小説である種の"実験"のようなことをしたかったのではないかと思う。場面設定といい、主人公の設定といい、その他いくつかの点についても新しい試みが見られた。 おそらく、村上春樹がこの小説で描きたかったのは、"現代日本社会"であると思う。それは、例えば、「店(デニーズ)はどこをとっても、交換可能な匿名的事物によって成立している。」という一文に、村上春樹が現代日本社会をどのように捉えているのかが如実に顕れているように思える。 | ||||
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冒頭、アラン・ロブ=グリエの小説を思わせる、しつこいまでの情景描写から入っていく。その意味では、この小説の主人公は視点を共有する読者なのかもしれない。そして、ファミレスで出会う若い女性と男性を中心に、その姉、ホテルに置き去りにされた中国人売春婦とホテルの経営者、顔のない男などがからみあって、時間が進行する。 村上にとって、大きなターニングポイントとなったのは、阪神大震災と地下鉄サリン事件だった。これまで、村上は個人の内部にある「やみくろ」を相手にしてきた。でも、実際には「やみくろ」は地下に存在し、本当にそこから出てきて人を陥れる。だとすれば、作家として村上は現実にコミットしていく必要性を感じることになる。その結果が、「アンダーグラウンド」とその続編であり、「神の子供たちはみな踊る」であり、「ねじまき鳥クロニクル」におけるノモンハン事件であった。 その中でも、「アフターダーク」は「神の子供たちはみな踊る」をもう一歩進めたものといえる。地震が起きた時間、みんなは何をしていたのか、そのことがあの連作短編集を支えていたのだとすれば、「アフターダーク」は任意の深夜を切り取ったとき、それぞれの人生はどうなっているのか、ということになる。 結論じみたことを言ってしまえば、本書の中には罠も用意されており、100%ハッピーエンドとはいかない。それでも、人が前に進む意思が少しでもあれば、何とかやっていける。闇はまたやってくるのだけれども。人は闇から出ることだってできるし、そうした強い存在でもあるし、同時にまた闇は何度もやってくるしぶとい存在でもある。その一つの断面を小説にして見せたということになる。 それにしても、文庫化された同じ村上の「若い読者のための短編小説案内」(文春文庫)を読んでいて、村上が第三の新人と呼ばれていた作家たちの本を読みこんでいるということを読んで、なるほどなっていうのはあった。第三の新人といえば、遠藤周作、吉行淳之介、安岡章太郎、小島信夫といった、戦後すぐに登場してきた作家であり、当時は戦前の大家に比べて小ぶりな、個人の内面にポイントを置いた作家という評価だった(らしい)。だが、彼らはしぶとく生き残る。彼らが持つ内面の哀しみといったものは、確かに村上に共通するのかもしれない。何より、彼らの持つ世界が外から見る以上に深く広い世界だったということになる。でも村上は、そのことを理解しつつ、そこからもう一歩先に行きたい、そういう欲があったとも思う。そのことが、「アフターダーク」につながる一連の作品になっているのではないか、そう思う。 それでもなお、あえて言えば、「アフターダーク」は長編小説というよりも、とても長い短編小説という気がしてならない。時間の流れがそうさせるのかもしれないのだけれど、それにしても。野球のピッチャーで言えば、今回の先発で、新しい変化球を試してみました、みたいな。そこそこ手応えを感じたので、次の先発では、もっと有効に使ってみたい、というところだ。 | ||||
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独特の世界観。 この、わけのわからない状況がなぜか 物語の世界へどっぷりとつかっていく入口。 想像力をかきたてられる情景描写。 深夜のファミレスで一人本を読む行為。 一度やってみたいものです。 彼の描く女性の飾らないところが好き。 どこか素直な所があります。 現実の世界であり、そうではない部分も垣間見える。 その微妙なバランスがなんとも心地いいと感じました。 真夜中って、こうであって欲しいような気がします。 | ||||
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村上春樹氏の現代社会に対する疑念・思想をふんだんに盛り込んだ秀作。読み込めば、我々がどうやってこの社会に対処していくべきかの氏の意見も見えてくるだろう。 法律・IT経済・TVメディアなどの合理性を追求したが故の根本的な欠陥が、暗闇となって陽のあたる時間帯すら凌駕しようとしている。 幼い少女をも広告塔として飲み込むメディア業界によって、四六時中、心に闇を持つようになってしまったエリは、闇を前にもはや眠ることしかできない。 異常なコンピュータ業界の労働によって自我を失いつつある白川は、彼自身が闇社会に対して一線を超えてしまったことすら認識できていない。 かつてはコオロギの例のように、借金逃亡などの明確であった闇社会が、バイクの男が通り過ぎるようにすぐ傍まで来ていることに、我々は気が付かなくてはならない。 闇に対処できるのは、アルファヴィルで行われる単なる交わりではなく、エリ・マリが暗闇のエレベーターで抱擁したような、心の通った行為だけなのではないか。 現代社会の問題に対して、我々が現実的できることは非常に少ないが、構造の原理を見渡し心持ちを正すことはできると思う。自分もこれを機会に山の頂まで登るかどうかを改めて考えてみたい。 本作品はストーリの結論を求めないことで、敢えて「売れる要素」を排除しているように感じます。一般受けしないことは、氏や編集の人もわかっての事でしょう。 本に結論(ストーリー性)・娯楽のみを求める人にはオススメしませんが、元々、現代社会の構造に多少の疑問を感じるような方で、これを機会に見つめなおしたいという方には間違いなくオススメです。 | ||||
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読むこちら側の問題でもあるのでしょうが、氏の作品が昔に比べて「しなやかさ」のようなものを失ってしまっているような気がしてなりません。もちろん、これは仮に「失って」という語を用いただけで、きっとなにかを得た結果の変化だとは思います。意匠やテクスト性に富んだ分、「読み物」としての軽やかさや節操の無さが削ぎ落とされたのでしょうか。かつて氏の書くものを求めていた自分がいたことの証しでもあるとは思うのですが、新しい若い読者はこういった作品を、かつての自分のように読むのでしょうか、あるいはそういった意味では現役を退いている大江健三郎のような作家に氏が既になっているのでしょうか。 | ||||
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主人公はエリとマリ。対照的な二人の姉妹が二つの物語を紡ぎだしてゆく。 主人公が「アルファヴィル」と言う映画に言及した部分からは、現代社会に対する警告や風刺が読み取れる。「アルファヴィル」の世界では、人は深い感情を持ってはいけないらしい。そこでは、おそらく人々は深く感動することも、大笑いすることも、泣くことも許されず、ただ淡々と毎日のルーティンワークをこなしていくのだろう。これは、現代社会にも当てはまるのではないだろうか。人々は、忙しさにかまけて、深い感情を持つことができなくなってしまっているとも考えられる。そういう意味で、「アルファヴィル」の記述は、非常に印象的である。 エリが眠っているうちにテレビの中の世界に行ってしまう場面も心に残る。エリは美人で、雑誌のモデルなどもしていたという。それがある夜、テレビの向こう側の世界に行ってしまう。夜…誰にでもそれはやって来る。だが、時に暗く、深い落とし穴のようなものがそこには存在する。どんな品行方正で真面目な人間であろうと、そこに落ちてしまう可能性はある。それはたとえば刑務所であったり、犯罪者の世界、あるいはテレビの向こうの芸能界であるかもしれない。この作品を読む限りでは、著者はテレビに出たり、モデルをすることを良いイメージとしてとらえてはいないようだ。一度そこに深く足を踏み入れてしまうと、二度と戻ることはできない。その中で暗い人生を送るしかないのだろう。村上は、それをエリがテレビの向こう側に引き込まれてしまうと言う描写で表したかったのだと思われる。しかし、エリはまた元の世界に帰ってくることができた。それは、彼女がまだ芸能界(あるいは、向こう側の世界)にそんなに深く入り込んでいなかったからだと考えられる。難解な作品ではあるが、読みごたえもあると思う。 | ||||
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人は作品に自分の価値観を投影する。自分が正しいと思った論理でも一面を照らしているに過ぎない。ゆえに、人によってはステレオ化された社会を描いている様にしか見えないのだろう。(それは自分がその価値観に縛られているからなのだが) 私は、この作品に現代社会を見出した。(といっても、10年前と通じている部分はあるのだが) マックスウェーバーの近代の合理化社会を切り口にして読み解いてみると面白い。「合法的支配支配がもつ平等主義の原理および規律のに基づく効率性は、逆らいがたい力として全ての文化諸系類型を圧倒してゆく。この合法的支配に触れた諸文化社会は、さまざまに抵抗を試みながらも、この普遍的な合理化の軌道にひきこまれていく。」 私達は合理化社会の前では一切の感情にとらわれず、人格は存在しない。 そして、現在の国際化の中では、法が大切となり、いよいよ私達を捕らえようとしている。 そう考えると、かれが弁護士を目指した理由は何だったのか!?あのサラリーマンは常に何を考えているのか!?最後、家に視点を移したときの描写が意味するところは何なのか! ほかにも切り口がある。 私は村上春樹が綿密に計算し、描き出した現代の警句と受け止めた。 | ||||
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「ダンス・ダンス・ダンス」以降、システムに逆らう生き方と村上春樹は袂をわかったように信じていた。これを初版で読んだときにも、その頃は何だかあまりぴんと来なかった。今はあざといくらいにそれが強調されていることがわかる。「この人生は僕の人生だったのかもしれない」ということを。 高橋が言う「二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれない (単行本P.137)」 コオロギが言う「私らの立っている地面いうのはね、しっかりしてるように見えて、ちょっと何かがあったら、すとーんと下まで抜けてしまうもんやねん (単行本P.227)」。 システムは「タコのようなもの」と露骨に形容され、「どこまで逃げても逃げられない」というメッセージが届き続ける。コオロギの信じる「輪廻」とは違う形かもしれないが、僕らは互いにつながっている。右手が裁きを下し、左手がそれを受けいれる。 | ||||
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マリを主人公としたリアルな世界と、眠っている姉の心の中の世界ではないかと思われた別世界が交互に描かれる。「世界の終わりと〜」などで描いている2つの世界が最後に交差する様をこの作品でも描きたかったのではないかと想像しました。 個人的にも2度この作品は読みましたが難解だと思う。文学ですので意味を求めてはいませんが、どこかスッキリとしないところがある作品だと思います。 | ||||
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村上文学の大きな特色は、二つの異なる世界を同時進行させながら、どこかにスポット的な同期ポイントがあり、最終的にその二つの世界が融合していく、というストーリー展開だと思います。 その特色はこの作品でも基本的には踏襲されていますが、その視点が異なっています。 この作品の世界観は、ジム・キャリー主演の映画で「トゥルーマンショー」というのがありましたが、これに近いのではないでしょうか。 とにかく読むのはスムーズですが、解釈は非常に難しい小説です。 | ||||
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よくストーリーがしりちょんぼで中途半端だとか 謎が残ったとか一部で酷評された作品ですけど 俺は村上春樹作品の中では一番好きですね。 高橋とマリというキャラクターが魅力的だし 現代が舞台だけあって他の古い作品に比べて 同世代に生きる人間として共感し易い。 あと謎っていうのは全て解き明かさないと 納得できなかったり怒る人がいますけど 俺はそうは思わない。 謎が残ったとしても色々、想像したり、解釈したりで それはそれで色んな楽しみ方があると思うんです。 それにハッピーエンド、大円団を迎えて終わるより 惜しまれるくらいの短さで終わるほうが ダラダラ続けるよりすっきりしてて 良い場合もあると思いますよ。少なくても この作品にはそれが当てはまると思う。 | ||||
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エリとマリ。 同じ屋根の下で生まれ育ちながら、一方は「白雪姫」、他方は「羊飼いの娘」。 「今から、眠るから」と言ったきり、 白く透き通る様な顔のまま、寝むり続けている「白雪姫」。 深夜のファミレスで、熱心に分厚い本を読んでいる最中、中国語が話せるからと言うだけでラブホテルに連れて行かれ、暴行を受けた中国人女性の介護をする「羊飼いの娘」。 「村上ワールド」は今でも色あせずに健在。 | ||||
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平易な文体、難解な世界、という点ではいつもと同じです。 直感で解る人は解るし、解らない人はどれだけ頭をひねってもほとんど理解できないという点も同じです。 だけど今回は決定的に異なることがあります。 いつも語り部は『僕』でしたが、『私たち』に変わりました。 もちろん不自然ではないけれど、村上文学を読み慣れてるつもりの僕でもかなり驚きました。 僕たち読者を何処かへ連れて行こうとした意図があったのでしょうか。 いずれにしても今後の展開が楽しみです。 それともうひとつ、あまりに素敵な言葉であったため引用させてもらいます。 『ゆっくり歩け、たくさん水を飲め』 僕も昨日から実践(しようと)していますが、どちらも意外に難しいですよ。 | ||||
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ひさびさに村上春樹小説を読みましたが、 『こういう手できたかぁ!』って感じです! すっかり意表を衝かれてしまうこの手口こそが、 まさしく村上春樹独特の不可思議な魅力。 春樹ワールドそのものではないでしょうか。 スピリチュアル的というなら、たぶんとてもスピリチュアル的でもあるし。 語り手についての謎の部分を確かめたくて、読み終えてもなお、 わたしには謎が解けず、もう一度振り出しに戻って確かめてみたり。 深いです。重いです。 表紙に書かれているごとく、本書を足がかりに新たな小説世界へと 広がっていきそう。 その入り口へと案内されるにすぎないのでは? と思われてなりません。 いうならば、この作品は“序章”です。 こういうず〜んと沁み込んでくる作品を読んだ後は、 しばらく放心状態に近い思考に陥ります。 心(あるいは思考能力)だけ神隠しにでもあったように、 小説の世界に何度も何度も引き摺られてしまうのです。 すごいパワーなのですね。 読後の意見がはっきりと分かれる作品のようですが、 どのような評価を受けようと、村上春樹ファンならばなおさら、 読みたくなってしまうのではないかしら……。 かなり謎の多く残る作品には違いありません。 あなたなら、どう読み解きますか? | ||||
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わけのわからないところが多いけど、なんかいいんです。 19歳の女の子が夜の街で出会う個性的な人々。 いつもと違う出来事。 そこからの成長。 19歳の頃にもがいていた自分を思い出しました。 | ||||
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