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ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編
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ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.13pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全173件 61~80 4/9ページ
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村上氏は本著でテーマや意味性を提示していないように思う。氏が我々に現前させたのは「迷路」であるように感ぜられる。全ての人は心の内奥に得体の知れない「悪しき何か」を内包している。その「悪しき何か」は時に暴力を伴う行動或いは言語となって人の表面に発現する。世界中で繰り広げらる目を覆いたくなるような暴力、例えば斬首・絞首・銃殺などは、その「悪しき何か」が猛りを見せたときに現れる最も典型的なものだ。 本著を読んだ後、暴力的な物事が遠い世界の特殊な事象とは思えなくなってくる。私を含め、あらゆる人は心の中に「悪しき何か」を有しており、それを飼いならし発現を抑える人が大多数を占める一方、肥え太らせ猛獣に育て上げる人もいる。「悪しき何か」の凶暴性を極端なまでに心の中で高めてしまった人物の一人が、本著の皮剥ぎボリスであろう。しかし、飼いならし発現を抑えている人であっても、それは諸条件により偶然発現を抑えられているだけであり、誰もが皮剥ぎボリスの如く悪しき精神性を持つ可能性があるのではないか。そう思ったとき、戦慄を感じた。本を閉じ、しばしのメディテーションが私には必要であった。 本著が提示する「迷路」の曲がり角で現れるのは単に「暴力」だけではない。「迷路」には、猫の失踪があり、ノモンハンの謎の文書があり、山本の最期の断末魔があり、井戸の中での恩寵の光があり、間宮中尉の空っぽの形見があり、消えた妻の姿がある。つまり、人類の心の錯綜を体現するかのような不気味なモティーフが「迷路」の随所に現れる。しかも、その「迷路」には出口がない。むしろ、読み始めた時には小さかった迷路が、読み終えた時、想像以上の大きさとなり我々の前に佇んでいる。 本著は我々の心にある「悪しき何か」に思いを至らせてくれる。しかし、良い意味で掴みきれず「何か」としかいいようがない。本著は禅の公案のように私達の目の前に読む度に違う姿を見せるであろう。しかし、その「何か」が何であるのかは、「神のみぞ知る」としかいいようがない。 | ||||
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人間性の深奥に肉薄する芸術を生み出すためには、統合失調症的世界に一歩足を踏み入れねばならないが、本格的に統合失調症を発症した場合、その人は永久に人間性から隔離される。この矛盾。しかし、人間性の本質が、人間性を失いつつある人にしか看取せられないことは、おかしなことではない。なにかを深く認識するためには、そのなにかを失いつつあらねばならないからだ。感情を伝えることを志向する者は、感情において少なからず病を抱えていなければならない。自明性の安寧にまどろむことなく、自明性への疑いを提起するためには、少なからず自明性の喪失的事態に置かれていなければならない。 芸術家とは、一つには人間の感情を表現するものであり(それは「人間の」感情である。人間とはなにか、ということが問題である)、一つには自明性への疑いを提起し、現実への惰性的日常的親和的認知に異議を申し立てる(デペイズマン)ものであろう。受け取り手は感情を揺さぶられ、共感し、かつ人間が生きていることはなにか、ということを直接無媒介的に体験し、非日常を体験し、現実にたいする認知を見直すきっかけを得ることになるだろう。これこそが、芸術体験だと思う。たいせつなのは、another aspect of reality である。 | ||||
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まったく問題ありません!期待通りの商品でした。感謝しています! | ||||
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この小説(?)はこれが執筆された時代より、今のほうが、よりしっくりくると思う。基本的に2つの問題を我々に投げかけている。1つは、自他問わず、人間の持つ多面性とどのように付き合うのか、もうひとつは我々が置かれている時代がいったいどうなっているのか、どの方向に進んであるのか、というテーマです。 人間とは、あるいは自分とは何なのか、を見つめることのできる場所が“井戸”であり、主人公が含まれる時代を前に進めるカギが入っているのが間宮中尉が、ノモンハンで一緒だった本田さんから預けられてきた風呂敷包みの中の小さな箱で、・・・・・当然、その箱は空で、その時代に生きる人それぞれが、自分でエンジンをかけ、ギーギーと啼く“ねじまき鳥”のように前に進むしかないのですが・・・・・。 人間の持つ多面性について言えば、主人公トオルは、妻クミコの兄、綿谷のぼるでもあるし、一方、クミコは謎の電話の女でもあるのですが、不思議な姉妹の妹クレタであるとも言えると思います。 この本が執筆された時代が、日本全体が最高潮から下り坂に入りかけた時代(多くの人はそのことに気づいていなかった、或いは、気がつかない振りをしていた)であったことを考え合わせると、村上春樹の先見性に感心させられます。時代が、いったんあるレールの上に乗っかってしまったら、そこから降りるのは容易な事でないということを明示した論理性に、率直に脱帽します(レトリックかもしれませんが・・・)。 ただ、もう少し、この小説の良さを損なうことなく、コンパクトにまとめることができると思います。余計なお話が多すぎ、遊び心、過剰では、と思います。 彼が言うように、「世界に完璧な絶望が存在しないように、完璧な小説も存在しない」 私は、村上春樹初心者です。同じテーマで、同じ実験結果が与えられても、研究者の最終の結末である論文のクオリーティーに天と地ほどの差ができてしまいます。その観点で言えば、村上春樹はこれまで誰も思いつかなかったような小説(の型)を提示したという点で、天才的な凄さを感じます。 | ||||
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読めば読むほどに、この小説の中に引き込まれていくような感じの作品です。 | ||||
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沢山春樹を読み過ぎて、これは全く面白く感じない、春樹の灰汁で塗り固められてる、それが好きって言う人もいると思う。 1Q84とか読む前にこっちを先に読んでいれば、良かったのかも知れないけど、他の春樹を読んだ後にコレ読むのはきつい! | ||||
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なぜ、これにひかれたのか、 なぜなんだろ。 でも読みたかったのは 読むべしですね。 | ||||
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他のレビュァーの方の評で、ノモンハンのことでたまたま、興味を持ったとの話があり、興味を持って中古本で一巻目を手にした。 非常に読みやすいので驚いた。 最近の芥川賞の作品などを読むと年をとったからか、つまらぬことをねちねちと、書いてある小説が多いので、基本、本代の無駄なので 読まないことにしている。 ところが、1ページ目から、スーッと読めるし、感情移入もできる。成る程、これは相当なファンがいるはずだなと確信した。 一つ一つの文章が短く、時々、立ち止まるように、寓話や箴言が盛り込まれていて、飽きさせない。 基本、経済史や歴史書しか読まない理由は、事実は小説よりも奇なりだからである。 戦記物がすきなのは、生きるか死ぬかの時に、人はその人格、人間の持てる力を出すから、面白いのである。 なにかこう、頭の中でひねくりだした、凝ったものを読んでもピンとこない。 この小説は、まず、人間の究極な残酷さと空虚さの表現だろう。残酷なロシア人の振る舞いは、実際、シベリアに送られた人々の 感情や、出来事への思いが下敷きになっているようだ。 レモン・ドロップや謎の少女など、小道具もうまい。 | ||||
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レビューの評価も高いし、ある人が村上作品の最高傑作で、世界文学レベルだとも言うので、 今の世の中誰もが読む?村上春樹の中からこれを選んでみました。 私は、映画は最初の10分を見てつまらなければやめるし、小説は最初の50ページを読んでつまらなければやめます。 時間と精神力の無駄だからです。 この作品は100ページくらい我慢して読みましたが、それ以上読み進めることが出来ませんでした。 その後で、何か高級な思想が開陳されるのかもしれませんが、どうにも面白くないのです。 スパゲティを作るばかりの甲斐性の無い主人公には何一つ感情移入できませんし、 なぞの電話は少しもスリリングさが無く、赤い帽子の女には何も必然性が感じられません。 住居侵入してきた見ず知らずの男と添い寝する少女なんか存在するでしょうか。 そこにもって戦争の話なんかされても戸惑うだけです。 私は途中でやめたことで損をしたのかもしれませんが、後悔はしていません。 | ||||
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人の魂の奥底に眠るものを善用するか、それとも悪用するか そしてその暗がりに巣くう悪意や暴力を引き起こすものとは一体何か 魂の力を使って人々を癒し、物事を正しい方向へと導く霊能力者たちと、その闇を引き起こす出来事や人たち(歴史上の戦争から、現代へと続くその血塗られた家系まで)の戦い 目には見えないねじまき鳥(世界中のねじを巻く鳥)の鳴き声が、その負の連鎖に晒された人々がふと耳にする声として登場する これはそのねじまき鳥の声を聴いた者たちの年代記(クロニクル)である 人々はいつの時代も水に流されるように、善と悪に流されるようにして生きている 正しさに導かれるにはどうすればいいのか そして呪いを断ち切るには? | ||||
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主人公の住む家の近くに空き家がある。そして、その空き家の庭に井戸があり、主人公はその井戸の底に降りて地上から離れるのだが、この行為は文字通り現実世界からの隔絶を目指した行為ではなかろうか。 そもそも主人公は本作の冒頭から無職であり、行動範囲は近所付近までの小さな世界に限定されている。とはいえ、彼は結婚しており、親族もいて、多少なりとも他者とのつながりは持っている。小さな世界にいようが、現実世界と関わって生きているのだ。しかし、そういった他者とのつながりが求められる現実世界と付き合うとき、自己そのものが周りの影響で知らぬ間に変化してしまい、気がつくと自分自身とはなにかという問い、すなわちアイデンティティの喪失に行き着いてしまう危惧を伴う。主人公が空き家の庭にある井戸の底に入り、地上から離れるのは、そのような他者からの離別であるのと同時に、周囲から感化されたものをからっぽに戻す、自己そのものへの回帰でもあるのだ。いみじくも、からっぽへと至る行為は「空き家」の庭の井戸の底で行われるし、また、主人公が「僕は今ひとつの空き家なのだ」と思索する場面もあり、本作中、からっぽの比喩は多数見受けられる。 | ||||
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冒頭から一気に引き込まれる小説です。 主人公が聴く音楽、作る家庭料理、起こす行動、 どこを切り取っても文句なく面白い。 そして摩訶不思議な世界。 読めば読むほど手放せなくなる1冊です。 やっぱり村上春樹は天才だ。 | ||||
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井戸の底ってところが なんとも息苦しい。 ねじまき鳥のねじを巻く音が聞こえてきそう。 (一気に3部読んだのでずれがあるかも) | ||||
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遅れてきた村上春樹ファンにおすすめ。遅れてきた、村上春樹ファン。文庫本でそろえて読んでいきたいと思います。 | ||||
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これからも一人ひとりの作品を出来るだけ続けて読んでいくつもりです。 | ||||
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本書は単行本から文庫化する際にいくつか手を入れています。 そのため,私は20年前に買った単行本も持っていますがあらたに文庫本を購入し,再読してみました。 村上春樹は,以前に翻訳した作品(たとえばレイモンド・カーヴァーの作品集など)を新たなパッケージとして出版する際に手を入れることはよくあります。 また,短編小説では,もともとの作品からはかなり大胆に手を入れて,バージョン違いとして書き直すということも少なくありません。たとえば最近出版された「パン屋を再び襲う」は「パン屋再襲撃」と比べて新たな比喩が加わるなど,思った以上に手が加えられていました。 さすがに長編小説では,そこまで手が入ることはないですが,こまかな点に手を入れて文体をすっきりさせようとしているように思えます。 具体的に例をあげると 単行本「電話のベルが聞こえたとき,無視してしまおうかと思った」 文庫本「電話のベルが聞こえたとき,無視しようかとも思った」 単行本「受話器をとった。あるいは新しい仕事の口のことで〜」 文庫本「受話器をとった。新しい仕事の口のことで〜」 さて,この第1部「泥棒かささぎ編」で一番好きなシーンが,主人公の僕がイライラしている妻を慰めるシーンです。 「僕が言いたいのは,こうしている今も世界のどこかで馬がばたばたと死んでいるということだよ。それに比べたら,君が誰かにあたるくらいたいしたことはないじゃないか。(中略)死んでいく馬のことを想像してごらんよ。満月の夜に納屋の藁の上に寝ころんで,口から白い泡を吹きながら,苦悶に喘いでいる馬のことを考えてみなよ」 村上春樹の小説に登場する主人公はいずれも忍耐強いです。 村上春樹の作品は,しばらく時間を置いて再読すると,また新たな発見があって,最初に読んだときとまた違った印象を持つこともあり,奥が深いです。 | ||||
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新作の「色彩を持たない〜」の評判があまり良さそうでなかったので、レビューワーの皆さんの総意として村上氏のベスト3との声が多いように見えた本作、「海辺のカフカ」と「世界の終わり〜」を買って、まずは本作から読んでみた。私は村上氏の紀行文が大好きで、「そんなうまい例えを良く思いつくなあ」と感心してしまう氏独特の比喩表現のファンだが、「1Q84」は意味が分からなくて妙にびっくりした40代男性である。さて、本作を熱心に最後まで読み通してみた結果、残念ながら「1Q84」同様、やはり意味が分からなかった。いささか残念でさえあった。なにかこう、結末まではっきり明示してほしいとは言わないが、「芸術」は何について問題を提起しているのかぐらいはハッキリして欲しいと思うし(画家ジャクソン・ポロックの「インディアンレッドの地の壁画」でさえそれはあると思う)、そのなかでも「小説」や「映画」は思わせぶりに登場させた人物や出来事のつじつま合わせぐらいはお願いしたい。「何について書いているのか、何がどう結びついているのか、好きな人や時間のある人は考えてみて下さい」という作風は、絵画でいうとピカソのそれを思い起こさせる。ただしピカソの場合は、今となっては多くの研究者がピカソの変遷する作風と私生活を結びつけ、「その時彼はこういう状況だったので」と分かりやすいように解説してくれるから、理解も納得もしやすくなっているけれど、村上氏の場合はそれがないので、なにか意味不明なストーリーだけが宙に浮いていて、愛好家たちが「これは何だ」と好き勝手にいじくっている印象だ。そういう作品は、ああだこうだと長年に渡って人々が議論するけれど、作者本人の「実はあの作品は〜」という後日談や、公開された手記なんかによって真実が明らかになり、それまで人々が費やした知恵や時間が全くの無駄になることに決まっているから、不親切さや傲慢さを感じて好感が持てない。村上氏は文章のエキスパートで、もっと優しい球が投げられる「作家」なのだから、お金と時間を差し出しているファンにはそうしたストーリーを提供して欲しいとシンプルに思う。 | ||||
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まるで抽象画のようなシュールな小説。意識と無意識が連続しているような描写が随所に見られ、主人公は不思議な体験を重ねる。読んでいくうちに、たくさんの「?」が頭の中に山積していく。 対談本『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の中に、本作と関係が深いと思われる以下のような趣旨の発言があった。 1.村上: 僕の従来の小説では主人公が求めたていたものが最後に消えてしまうが『ねじまき鳥』では「取り戻す」ことが重要になる。 2.村上: 主人公たちのとる行動の意味は、僕自身わからないことが少なくない(これに対し河合氏は「作者が全て分かって作ったものは芸術ではない」と述べている)。 3.村上: 日本人は戦争の暴力を相対化できず、誰も内的な責任をとっていない。 4.村上: 小説を書く事で僕の病は癒され、読者も癒されると思う。小説家になっていなかったら僕はおかしくなっていただろう。 5.河合: 現代では多くの家庭で夫や妻が象徴的に「消えて」いるが、そのことに気づいていない人は多い。 村上氏の小説には直接的または間接的に「死」に幾度となく言及したものが多く、本作も例外ではない。これは私見だが、村上氏は深刻なタナトス(死の欲念)に冒されているのではないだろうか。無意識に棲むタナトスを「物語」として具象化・相対化するために小説を書いていく過程で村上氏は癒されているのではないか。いっぽう、読者が彼の小説を読むことで本当に癒されるのかどうか、私は正直、疑問に感じる。むしろ作者のタナトスに感染して精神がキズつく人のほうが多いのではないかと、ちょっと心配になる。 ただし村上氏も述べているように「主人公が失われたものを取り戻していく」という本作の展開には多少なりとも希望が感じられるし、これは後の作品『1Q84』などにも引き継がれているように思われる。 村上春樹は、タナトスを芸術の域まで高めることに成功した稀有な作家なのではないだろうか。 | ||||
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個人的に一番好きな作品であり、客観的にみても彼の最高傑作だと思います。多彩な登場人物とそれぞれの物語。読後に感じたのはカラマーゾフを読んだ時にような深い感銘。ともにまだ終わりではないような印象。クロニクル以後の春樹にはつねにその続編を求めてきたような気がする。スプートニクはボリュームからして満足できなかったし、カフカでは魚が降って欲しくなかったし、1Q84では特に月がふたつなくてもいいのではと思った。 しかし春樹はクロニクルで(僕にとっては)ドストエフスキーと比肩できうる作品を残した作家だと思っている。 初期の三部作であれほどの成長には驚かされた。クロニクルは前兆もなくいきなり高みを示された驚きがあった。春樹と同時代であったことは幸せなことだと思う。思えばクロニクルからはかなりの時間がたってしまっている。もしかしたらクロニクルの最終章が出て、それが春樹の最高傑作になれば最高だ。 | ||||
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第1部は、物語の予兆あるいは前兆にあたるのでしょう。 これまで平穏に流れていた日常にほんのちょっとしたイライラや不機嫌さが加わってゆきます。 日常の中の些細なほつれのような部分。 飼っていた猫が行方不明になったり。 行ったことのない場所に入ってみたり。 妻と口論になったり。彼女に内緒の小さな秘密を持ったりしながら。 これまでであれば消えていったようなことなのかもしれません。 しかし、今度ばかりは波紋は広がり、それまで気がつかなかったようなものにまで波立たせてゆきます。 村上春樹さんならではの趣向だと思っています。 緊張感が増してゆく日常。遂に何か得体のしれない事件にぶつかってしまったようです。 これから一体どうなるのか? 村上さんの語り口に圧倒的な吸引力(迫力)があります。 | ||||
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