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ダンス・ダンス・ダンス
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ダンス・ダンス・ダンスの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.38pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全116件 41~60 3/6ページ
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村上春樹の文章はどうしてこうも人を惹き付けるのだろうか。 これだけの世界観を築き上げるのはさすがだとしか言いようがない。 一度読み始めたら、その世界観から抜け出せなくなる。 | ||||
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急に読みたくなって読み返してみました。細かい内容はうろ覚えだったのですが、今読んでも古臭くなくて楽しめる作品だと思いました。主人公の「僕」はもちろん、五反田くん、ユキなど登場人物が魅力的に描かれているし、その上文章がいちいち格好いいと改めて思いました。 -「言葉にならないものを大事にすればいいんだ。それが死者に対する礼儀だ。時間が経てばいろんなことがわかるよ。残るべきものは残るし、残らないものは残らない。時間が多くの部分を解決してくれる。時間が解決できないことを君が解決するんだ。僕のいうことは難しすぎる?」-(下巻より抜粋) 村上作品の中では読みやすい部類の作品だと思うので、読んだことのない人はぜひ読んでみてほしいと思います。 | ||||
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職業作家になるんだとの気合いを込めて執筆された「羊をめぐる冒険」に比べ、本書は文体に自信というか、どこかリラックスした感じを受けます。 「羊をめぐる冒険」で、耳専門のモデルをしていた女の子が本作でははじめて「キキ」と名前をつけられます。 ほかにも「ユキ」「アメ」「ユミヨシさん」「五反田くん」というように、初期三部作にはなかった固有名詞が使われています。 そういった点も初期三部作と違った雰囲気を感じさせる要因になっているのかもしれません。 「羊をめぐる冒険」でいろんなものを失ってきた。 そして何かを失うたびに、そこに別の何かをくっつけて置いてきてしまった。まるでしるしみたいに。 誰かが僕のために涙を流し僕を求めている、そう感じた僕は再び「いるかホテル」へ向かう。 僕は何をするべきなのか。 羊男は言う。「踊るんだ。音楽が続く限り」 本書はそんな僕がその何かを取り戻すためにダンスのステップを踏み続ける物語 ギアがローに入り、どこに行くのかわからないにせよ状況がゆっくり動き出す。 そして一見何の関係もないものが踊り続けるうちに繋がっていく。 さて相変わらず村上春樹の小説には面白い表現や比喩がありますので、お気に入りのものを少し引用します。 「僕は唾を飲み込んだ。ドラム缶を金属バットでジャストミートしたような大きな音がした」 「彼女は少し唇をすぼめて僕の顔を眺めていた。丘の上に立って洪水の引いた後を眺めるような目つきだった」 「不吉な予感がした。馬が死んだ。インディアンの太鼓もやんだ。静かすぎる」 「綺麗な子だ、と僕は思った。じっと見ていると心のいちばん深い部分に小さな石を投げ込まれたような気がする。」 「調教済みの野菜を買った。広い畑で、たぶんその回りには鉄条網が巡らせてあることだろう。機関銃つきの監視塔があってもおかしくない。そしてその中でレタスやセロリに対して何かが行われているのだ。我々の想像を絶した非野菜的な訓練が」 | ||||
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「ノルウェイの森」だけ最初に読んで、あとはデビュー作から順番にここまで読んできて、村上春樹の作品はHPラヴクラフトとFカフカの合体したようなものだと改めて思った(それ以外の村上が自分で影響を受けたと言っている作家は読んだことがないのでどこがどう影響を受けているのかわからない) で「風の歌を聴け」から始まった主人公の旅というか模索は、この作品で一応の終わりというか区切りがつく。学生時代から中年期の初めに至るまで現実と空想の間をふわふわしていた主人公が加齢による世間の風当たりの強さとそれに対する自身の肉体的・精神的な衰えから漸くもう空想はいいと、いい加減疲れたからこれからは現実の世界で生きていくことにした、という結論の話だと思う。要は若者のつもりでいたが自分がオッサンであることを色々と思い知らされたので、一回り若いおっぱいの大きいねーちゃんに執着するようになったみっともない男の話。それを巧みな比喩を用いてファンタジーのように仕上げている。 | ||||
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「ノルウェイの森」だけ最初に読んで、あとはデビュー作から順番にここまで読んできて、村上春樹の作品はHPラヴクラフトとFカフカの合体したようなものだと改めて思った(それ以外の村上が自分で影響を受けたと言っている作家は読んだことがないのでどこがどう影響を受けているのかわからない) で「風の歌を聴け」から始まった主人公の旅というか模索は、この作品で一応の終わりというか区切りがつく。学生時代から中年期の初めに至るまで現実と空想の間をふわふわしていた主人公が加齢による世間の風当たりの強さとそれに対する自身の肉体的・精神的な衰えから漸くもう空想はいいと、いい加減疲れたからこれからは現実の世界で生きていくことにした、という結論の話だと思う。要は若者のつもりでいたが自分がオッサンであることを色々と思い知らされたので、一回り若いおっぱいの大きいねーちゃんに執着するようになったみっともない男の話。それを巧みな比喩を用いてファンタジーのように仕上げている。 | ||||
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上巻(評価済:「オドルンダヨ」―マントラ(呪文)の力)からつづく。 マントラには効力があるが、しょせんは他から与えられたもので決定的ではないだろう。 「僕」は次に自問へ進む。(下巻28章p.51) 「音楽にあわせて踊っていたら、ここまでやってきた。僕は上手く踊っているだろうか? 僕は頭の中でこれまでの事態の進行を順番に辿り、それに対して自分がとった行動をひとつひとつチェックしてみた。それほど悪くない、と僕は思った。たいして良くはないかもしれない。でも悪くない。もう一度同じ立場に立ったとしても、僕はやはり同じように行動するだろう。それがシステムというものだ。一応足は動いている。ステップを踏み続けている。」 自問し、経過を観察し、自答する。これで決定的に次に繋がるのだろう。 評者ならマントラ風に短く「In step?」と自問したい、繋がりを信じつつ。(Am I keeping in step?の簡略版) しかし自問でも解決がつかない状況に追い込まれる。(下巻39章p.262) 「踊るのだ。すごく上手に。五反田君に電話をかけて(略)僕は受話器を床に放り投げた。駄目だ、僕にはできない。どうしてもうまくステップが踏めない。」 解決(?)に導いたのは意識が遠のくときの絶妙の直覚の声、そこに至るまでの心の状況描写がすばらしい。(同章p.268)でもこれは口にだしてはいけない言葉だったかも。 本書が気に入った人はぜひ、英語バージョンも横に置いて較べながら読むといい。世界はもっと広い。 『Dance Dance Dance』(書評済) 書評のタイトル:「dance/stepというメタファの力が強い分、本書のほうが原書より遠くへ飛べる!(ハズ)」 本書は坂口恭平著『現実脱出論』(評価済)とも波動が似ている。機会があれば合わせて読みたい本といえる。 | ||||
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何かの機会に本書が『羊をめぐる冒険』(書評済、以下前作)の続きと知り、読み始めた。 確かに前作の4年半後という設定だが、前作の登場人物で「僕」と直接に対面するのは羊男だけ。 前作を読まなくても必要な筋は要約されているので、本書だけでもストリーは面白く、充分楽しめる。(以下は本書の粗筋ではない) 前作で大切な人々を失った「僕」は、それを忘れようと必死に「文化的雪かき」仕事に「指と頭を(略)酷使する」が、たびたび、「いるかホテル」の夢を見る。 戻らねばと思いつつ、いつも恐怖(?)で足が竦(すく)む。 なんとか勇気を奮い起こして札幌の「いるかホテル」へ戻るが、そこで羊男と再会する。 羊男は前作ではまるで雪男かギリヤーク人の親戚のような野人だったが、本書ではパワーアップして知恵者の風格。 羊男から「オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。」とのマントラを受ける。 このマントラの力は例えば次のような効果で現れる。(上巻20章p.267) 「僕は目的を持ち、それによってごく自然にフットワークを身につけてきたのだ。悪くない徴候だった。踊るのだ、と僕は思った。あれこれと考えても仕方ない。とにかくきちんとステップを踏み、自分のシステムを維持すること。そしてこの流れが僕を次にどこに運んでいくのか注意深く目を注ぎつづけること。」 このマントラは足の竦みを解くのに有効なようだ。 本当は「僕」なんてどうでもいいかもしれない。 むしろ読者がどう変わるかではないだろうか?(小説にこんなことを言うのは!?) 評者の場合(参考にならないだろうが)―毎日泳ぐが、泳ぎのフォームを開発するのが主眼。 本書を読む前は、「歩くように泳ぐ」を目標にしていたが、今は「水をパートナーとして踊るように泳ぐ」に方針を変更した。 下巻(評価済:「僕は上手く踊っているだろうか?」―マントラが自問に変わるとき)につづく | ||||
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羊をめぐる冒険のサイドストーリー的な作品。 ミステリーの要素が多く、謎は深まるばかりで、村上春樹の作品でよく出てくる「あっちの世界とこっちの世界」というワードや表現が度々描かれている。 人が現実の世界から煙のように消えてしまう事、孤独感、虚無感。幾作品でも、村上春樹のテーマは変わることがなく、訴えるものの根幹はそこにあり、そこに共感する読者は吸引されて、どうしようもなく魅了されてしまう。 それは比喩やメタファーなのだろう。人間の拭いきれない深い哀しみの部分というか。 話は逸れてしまったが、僕はこの作品でなによりも印象に残ったのは、五反田君と僕との友情である。 躍り続けた僕によって、導かれ、相通じた二人がお互いを少しずつ理解し、共感し、好きになっていく。 主人公僕の部屋で、語り合う二人。 素敵な友情を教えてくれる。 | ||||
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人間の“生から死への遷移”の仏教的概念を物語の枠組みに使い、主人公達の生きざまを描写することで、登場人物それぞれの矜持、生活感、とりわけ人が生き続けることの苦悩を表現した小説だと感じました。 現世から、“結び目”を越えて、来世に行かないようにするには、素敵なステップを踏んで“ダンス・ダンス・ダンス”と踊るしかないのです。すなわち、現に生きている人々の世界(ドルフィン・ホテル)− 羊のコスチュームを着た魅力的人物が置かれている中間世界、“結び目”(いるか・ホテル)− 完璧な死の世界(羊男が最後に行き着く)、という設定です。 羊男が住んでいる、ドルフィン・ホテルと背中合わせの異次元世界は、仏教で“中陰(生と死の狭間)”と名付けているような、人が死んでから本当の死者の世界へ旅立つまでの中間的期間の村上春樹的表現なのでしょう。 主人公が仮親のような役割を果たさなければならなくなった少女ユキの成長(成長的妥協)の描写、主人公の恋人、札幌ドルフィン・ホテルで働く眼鏡をかけた女性ユミヨシさんの情景描写はいかにも魅力的であり、秀逸だと思います。 物語の最後、主人公とユミヨシさんがドルフィン・ホテルでブラッディ・マリーを飲みつつ羊男が元いた場所へと行くことになるのは必然なのでしょう。このお話は、傷つきながら、永遠に踊り続けなければ消えるしかない今の時代環境でこそ、より一層、際立っているのかもしれません。 もともと、主人公とユミヨシさんだけが自由に、生と死の中間まで行き、戻ってきてるのですから小説の最後では、二人は現世に戻った・・・、ことにしましょう。 | ||||
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羊男との再会。羊男の正体。 そして彼は何を求め社会をさまようのか。 カフカの審判を彷彿とさせる取り調べを受け、釈放される。 不条理。 『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』そして『羊を巡る冒険』の読書経験があればすぐに世界にはいりこむことができるだろう。 下巻に期待。 | ||||
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村上春樹の作品にしては珍しく、いろんな所(東京、ハワイ、箱根、横浜)を飛び回る物語だった。 (村上春樹の作品はどこか特定の場所に留まって時間を過ごす事が多いように思う。ハードボイルドやカフカなど) 本作は今までの三部作で失われた自分の居場所を求めさまよった結果、それを見つける話だ。 これは発表された時代を鑑みればわかる。 70年代、学生運動から何も変える事が出来なかった挫折感、それを引きずり、どこへ向かえばいいのかわからなくなってしまった大人達。(彼らは結果として「金」に走り、それがバブルにつながる) 主人公はそんな時代背景を体現している。 表現の仕方が春樹的だが、テーマはそんな感じではないかと思う。 羊男はどうしていなくなったのか? 最後の骨は何を暗示するのか? という疑問が残るが、じっくり考えたい。 疾走感のある物語で、まえの三部作を読んでいれば面白いだろう。 | ||||
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村上春樹の鼠三部作の最終作。チャンドラーのロング・グッドバイとの類似性も見られなくはないですが、基本的には村上春樹節全開で、神秘的な魅力に満ちています。 資本主義社会への嫌悪感というテーマは今読んでもうなずかされる面が多く、年代的にも最後の抵抗の書としても読めます。 今回の霊媒的(?)ヒロイン、ツンデレクール、お嬢さまで特殊能力持ちの美少女13歳というユキのキャラクター造形には、のちのライトノベルジャンルの萌芽を感じますw ハードボイルドや村上作品からライトノベルへの系譜はたしかにありますね。 | ||||
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P21(単行本)『僕は平均的な人間だとは言えないかもしれないが、でも変わった人間ではない。僕は僕なりにしごくまともな人間なのだ。とてもストレートだ。矢のごとくストレートだ。僕は僕としてごく必然的に、ごく自然に存在している。それはもう自明の事実なので、他人が僕という存在をどう捉えたとしても僕はそれほど気にはしない。他人が僕をどう見なそうと、それは僕には関係のない問題だった。それは僕の問題というよりはむしろ彼らの問題なのだ。 ある種の人間は僕を実際以上に愚鈍だと考えるし、ある種の人間は僕を実際以上に計算高いと考える。でもそれはどうでもいいことだ。それに「実際以上に」という表現は、僕の捉えた僕自身の像に比べてということに過ぎないのだ。彼らにとっての僕はあるいは現実的に愚鈍であり、あるいは計算高い。それは別にどちらでもいい。たいした問題ではない。世の中には誤解というものはない。考え方の違いがあるだけだ。それが僕の考え方だ。』 | ||||
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帯びは無かったが、カバー、本体に日焼け、擦り傷、折れ傷等もなく満足。 | ||||
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帯はなかったがカバー、本体に日焼け、擦り傷。折れ傷等もなく満足。 | ||||
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最新作を読み終えて、ふと、この作品と似ていると思った。 死と向き合う主人公、三十代、過去の仲間の喪失、新たに共に生きる希望としての恋人、立ち向かい帰還する。 これらのプロットが酷似していて驚く。 そして、私はこの作品が実は村上作品の中で一番好きだったのだが、新作も同じように愛すべき作品となった。 そうか、村上さんは一度、この時期に立ち向かおうとしていたのだ。 過去の愛すべき人たちを失い、多くの「死」を経験し、これからの「死」も予感しながら、 それでも愛する人と共に生きようとする覚悟。それが、2つの作品を結びつけている。 もう一度、それを試みた結果、主人公は少しだけ歳をとり、「不惑」を目前としているがまだ迷っている。 いずれ「不惑」に達した主人公を描くことがあるかもしれない。 今、それを期待している。 | ||||
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主人公がいくつかの出会いと別れを経験し、試練をくぐり抜け 本当に大事なものを見つける、そんな物語だと思います。 主人公が出会った人々はそれぞれ魅力的で、主人公は強く惹かれます。 が、一人を除いては、主人公は己を浪費するだけで 自身を癒すことはできず、過去と同じ事を繰り返しで別れるだけでしょう。 自身を癒し、さらなる高みにともにいける人を、 様々な暗示や、誘惑に振り回されながら発見するんです。 村上氏は、カラマーゾフの兄弟のような総合小説を書きたいと よく言及されていますが、この本はその走りだと思います。 | ||||
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羊をめぐる冒険で一度完結した「僕と鼠もの」シリーズの続編です。 上下巻合わせると850ページほどになるシリーズ最長編となっていますが、 内容的にも他と比べ一番エンターテイメント性が高くなっているように思いました。 前作までは主人公である僕に、どこか浮世離れしたイメージを強く持っていましたので 僕と自分を重ねるような読み方はしていなかったのですが、共感できる部分がいくつかあり感情移入することができました。 現実に留まるどこか寂しいラストは切なくなりました。 | ||||
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素晴らしい小説の予感(上巻)が、まさしく実感となり大きな感動を呼んだ。これはとてもいい小説だと思いました。村上ワールドの可能性とスケールの大きさを感じた。本著(下巻)で、まさかこのような展開になるとは思わなかったけれど見事というほかない。 ハワイで突然見かけたキキを追って辿りついた部屋で遭遇した白骨化した光景はいったい何だったのか・・・。やや、ミステリアスな色合いが膨張しているように感じたが、最終章では見事に羊男の存在する“いるかホテル”へと繋がった。 この小説が今生のみならず、古代にまで遡る宇宙的スケールで人間の存在と意義について問いかける哲学的な命題に立ち向かう、斬新で挑戦的な取り組みであったことを強烈に印象づけた。いつだったか、村上春樹が何かの対談で作家中上健次のように“路地”という概念を持ち合わせない書き手として、いかに壮大な視点で小説世界を実現できるか、と云うことについて熱く語っていたことを想起させた。 なるほど、この小説ではそのスケールという点においても一つの可能性を示し、文学として成功していることを実証したとも云える。 個人的には下巻での展開としてロシア文学的な重層性と厚みを持たせるのかと予想していたのだが、それとはまったく違ったいわば輪廻転生に繋がる宇宙的時空間を縦横に走り抜ける(ダンスする)ように文学の壮大な可能性と広がりを見せつけられたように思う。このような展開になろうとは誰もが予想できなかったのではないか。 とにかく、読み手の気持ちをひきつけ“一気に読ませる”後半の筆力はさすがに圧倒的で素晴らしい。ぼくはそう思う。 | ||||
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これは凄いぞ、素晴らしい小説の予感・・・。これぞ村上ワールドの真骨頂とでも云えばいいのか、本著(上巻)を読んだだけでもとても大きなスケールを感じる。 物語は北海道の札幌に存在する小さなホテル「いるかホテル」での高級娼婦キキとの出会いと別れその詳しい経緯からはじまる。ここでもあの羊男が登場するけれど、それ以外は特別な設定が用意されているわけでもなく、80年代のありふれたフリーライターの日常ということ以外にないのではないか。だから、云ってみれば70年代の洗礼をまともに経験し高度資本主義社会の只中でPR雑誌や一般誌のフリーライターとして仕事をしている"僕"の自分さがしの物語のようでもある。 キキを失った喪失感に戸惑いながら"僕"は再びドルフィン・ホテル(いるかホテル)を訪れるが、高度資本主義社会を象徴するようにホテルは新しく生まれ変わっていた。だが、"僕"はかつての建物と同じ場所に同じ名称のまま生まれ変わったそのホテルで、奇妙な出来事やいろいろな人と出会うことになる。 ドルフィンホテル受付の女性ユミヨシさん、写真家で母親であるアメに一人そのホテルに置き去りにされた美少女ユキ、中学の同級生で人気俳優の五反田君、五反田君の映画「片想い」に共演していたキキのシーン、五反田君を介して知り合った高級娼婦メイの死、二人の刑事の拘置所での取り調べ、ユキの父である作家牧村拓といった人物たちと羊男が云うように次々と繋がっていくのだ。いるかホテルで羊男に遭遇した"僕"は彼から確実なステップで踊りつづけることを示唆される。つまり、それは現実を確実に生きる(ステップする)という意味なのか・・・。 この作品では高度資本主義社会というフレーズが何回か繰りかえされる。システム化されたその日常において、"僕"はどことなく空虚なものを感じながら虚脱感に支配されているように思える。ライターとしての仕事さえ“文化的雪かき”といい自らその存在意義を見いだせないでいる。 この作品にスケールの大きさを感じるのは、高度化された資本主義社会の中で埋没しそうな人間の存在と意義について、どのように向き合い描くことができるかという哲学的な命題への挑戦ととらえることができるからかもしれない。 さてさて、すでに読みはじめているけれど下巻ではいかなる展開が用意されているのだろう・・・。大いに楽しみな一冊であることは間違いない。 | ||||
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