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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.24pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全216件 41~60 3/11ページ
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大樹に寄り添った時のように、なんの不安もなく、ただただ物語に身を委ねることが出来る、そんな小説です。 ページをめくる手が止まらない。 没頭感が半端じゃない。 | ||||
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ラストに向けて2つのストーリーが綺麗に収束してゆき、どんどん読むスピードが上がった。もっともこのSF的着想の結末は意外でなく、むしろ予想通りではあった。が、細部に神が宿る村上作品らしく、終末を迎える主人公が「日常生活」の中でこれまで気付かなかった事に気付いて、その価値を再認識する様が見事に描かれていたので、テーマがくっきりと浮き彫りになったと思う。 ただ惜しむらくは、この主人公の「日常」が、私を含めた多くの読者の「日常」とかけ離れているのではないかと言う事。例えば、個人的には洋楽を聴かない私だと、沢山出て来る洋楽のいくらかでも知っていれば、もっと面白かったのに、と思った。そして何と言ってもセックスのハードルが低過ぎる世界観は、多くの読者の付いていけない要素であり、主人公が羨ましいと言うより違和感を覚えてしまうのが正直なところ。 逆に言えば、現代日本人には違和感を覚える要素が、村上春樹が海外でも読まれる理由なのかも知れない。本作がSF的アイディアを見事に描いた傑作なのは確かだけど、受け付け難い人もいるに違いなく、村上春樹の作風では仕方のないものだと思う。 | ||||
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代表作と言われてるようだが、先入観なしで読んでみた。2つのストーリーが交互に語られる趣向のSFファンタジー。世界観から違うので全然別の話かと思えば、主人公のキャラは似てるし、何だか交わって来た。巻き込まれただけの主人公の視点から、次第に恐るべき運命が明らかになって来るのは面白いが、あくまで平凡な日常生活はそのままなのが、独特の味だ。そして村上春樹らしいのが、セックスのハードルが低いこと。老科学者のぽっちゃりした孫娘が、食欲が第一と言って付け足しのように性交を行うのは面白いけど、本当に必要な要素であったのか疑問は残る、と素人エロ文書きの私が言うのも変だが。 まだ前巻だけど、スト-リーより細部を楽しむ村上春樹らしさは十分に味わう事が出来た。恐らく後半で大きく展開し、驚愕の結末を迎えるなんて事はないだろうと予想するが、続きを読んでみたい気にはなった。ある種中毒性を持った作家ではあるけれど、この作品も万人向けではないと思う。スッキリした読後感を求める人には向かない。 | ||||
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村上春樹作品は大、大、大嫌いです。 しかしそれでもこの作品だけは素晴らしいと思える。 グイグイと物語に引き込まれる感じ。 殊にラストシーンの美しさは読めば誰もが感動すること間違い無いだろう。 それにしても作家としての進化の方向性を間違えてしまった残念な人ですね。 エンタメ作家とか呼ばれようがこっち方面に参加すれば良かったのに。 | ||||
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ハルキストでなく、一般的な読書人の感想です。 全作読んではないが、10代終わりに読んだ「海辺のカフカ」をきっかけに春樹作品を読むように。「羊をめぐる冒険」「ねじまき鳥クロニクル」「1Q84」の4作は好き。 「蛍・納屋を焼く」「ノルウェイの森」「アフターダーク」「国境の南、太陽の西」「色彩を持たない多崎つくる~」はイマイチ。 20代のうぶな時代に読んでた時は、大人ってこんなにお酒をかっこよく飲むのか、、男女って出会ってすぐ関係持っちゃうのね、、と描かれる世界にドキドキしたりしてたけど、30代の今、再読ではそこらへんばかばかしく思って読んでいる。春樹批判のコメント類、よくわかる。 私の本棚に残っている上記4作は、パラレルワールドみたいな二層三層になっている深い精神世界がよい。 「エヴァンゲリオン」「惑星ソラリス」「マルホランドドライブ」「インセプション」「雲の向こう約束の場所」などが好きな人は好きだと思う。インセプションと雲の向こう~を最近見てからふと再読したところ、めぐりめぐってこの3作通じるところがある!!って思いました。 春樹作品が向いてる人は ・映画や本に感化されて、自分とは、世界とは、と思想や哲学を掘り下げて考えちゃう人 ・どちらかといえばネガティブな人 ・目に見えない意識や心や死後の世界、魂、力のありかについてたまに考えちゃう人 ・感受性が強く、余韻に浸ることができる人 猛烈に嫌いで投げ捨てたのが、ノルウェイと多崎つくる。この作家の性描写が大嫌い。 しかし彼の中で、男女がつながるのはすごい意味のあることなんだろうな、とどれを読んでも思う。性器がひとつに組み合わさった瞬間、なんか違う世界が開かれる、みたいな、、その世界観は面白いけど描写がね…美しく、わかりやすく、親近感のある書き方ならもっと作品を好きになれるんだけど。 あと今作の最後らへんに「ブルックナーのシンフォニーの番号なんてまず誰にもわからない」って決めつけてるセリフ。 音楽・文学・映画・料理・ファッション等に関する価値観がよく批判の対象になるけど、そりゃそうだよね。価値観の押し付けイラッとするもん、私はブルックナーの交響曲どれがかかってもわかるよ~だ。 それが、この作品だけの主人公の特徴なら問題ないのだ。が、そうではない。ほとんどの作品がこう。=村上春樹自身てのがじわじわ伝わってくる。嫌われるよねぇ。 そんな調子で、世界の終わり~も嫌いなシーンやセリフはたくさんあるものの、いま何年かぶりに再読を終えて、ラストの方の人生の向き合い方とかじーんときちゃった。だんだんとリンク具合がはっきりしてきて、頭骨がほわ~んと光る情景(だがここでもやっぱり性交しまくってる、無駄に)現実の自分と意識下の自分がつながる、不思議な感じ。 自分がこれまでに失ったもの、取り戻せないもの。主人公はそれぞれに、人生や世界の意味を知る。 どちらの世界が幸せ?本物? 選ばない・選べないのではなく、すべては見方ひとつ、受け止め方ひとつ。現実も脳内イメージも、どれもが自分が求めて作り上げた世界。 さて次は、RADIOHEADを流しながらねじまき鳥の再読を始めましょうか。 | ||||
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思索と示唆に富み、研ぎ澄まされた言葉の美しさ。小説を堪能しました。 | ||||
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(上下巻通してのレビューです) どんな目に会おうとも文句を言わない。キレない。我慢強い。できることをする。それでも世界を、人生を祝福する。この主人公は、意外と強い。 | ||||
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この作品は村上春樹作品の中の最高傑作であると断言できます。文句なしに面白い。 本作で描き出した世界観を超える作品は今後も出てこないかもしれない。村上春樹氏の創造力と筆力に圧倒されます。 | ||||
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この作品を初めて読んだ時、小説(物語)に関する概念が180度変わりました。 なにげない文章の中に核心に触れる部分があったり、思いもよらない伏線があったり。 村上春樹ワールドにどっぷりつかれます。 ぞくっとしたり、手に汗握ったり、涙が込み上げてくるような感情があったり、、本を読んでいるのに、まるで映画を見ているような感覚でした。 難易度高いだろうけど、映画化されたら相当面白いだろうなと思います。 | ||||
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下巻まで読み進むと、この交互に描かれた世界が、重なっていくことが明らかにされていく。描写されている人物や鉄道から『ハードボイルド・ワンダーランド』は現在であり、『世界の終り』はどうやら別の世界の別の時代であることが徐々に分かってくる。 『ハード…』の“私”は、ある実験台として25人の男と一緒に“組織”によってある処置を受けたことを登場人物である‟博士”から告白される。そしてこの地上で生きられるのは、1日半であることを宣告される。その時間の中では、村上氏が実際の経験に基づいて描述したのであろう、地下鉄の駅員との言い争い、ヤクルトが中日に負けたことも書かれている。或いは残された時間が少なくなった‟私”は、銀座の、今は亡き、村上氏が大好きな“Paul Stuart”に行って、シャツ、ネクタイ、ブレザーを買い、ビヤホール、銀座であればミュンヘンかライオンだろうけれども時計の文字盤にライオンが描かれているから後者か、に入った。すると、『……ビヤホールではどういうわけかブルックナーのシンフォニーがかかっていた。何番のシンフォニーかわからなかったが、ブルックナーのシンフォニーの番号なんてまず誰にもわからない。……』と書いている。村上氏は、ジャズだけではなくて、クラシック音楽も好んで聴いているようなのだけれども、どうやらブルックナーの音楽は余り好きではないようだ。また“私”は、サマセット・モームの「Razor's Edge」を3回読んだ、と語っている。ショーロホフにしても、トルストイにしても3回読んだと言う村上氏らしい描写で、実際に氏はこのモームの作品を3回読んだのだろう。ひょっとするとドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」も、4兄弟の名前をすべて諳んじているようだから、幾度も読んだのかもしれない。 それに比べると、『世界の…』の主人公である“僕”は、余り自己主張しない人物として描かれている。そしてこちらの世界は、幻想的である。『ハード……』と同じく、女性と料理が出てくるのだが、控え目なように思われる。そして‟僕”の“影”は、『ハード……』の“私”だと決めつけて、読み進んだのだけれども、そう簡単な設定にはなっていないようだ。 初期3部作の瑞々しさから飛躍し、村上氏が開拓した新しい手法の小説である。氏の代表作と呼んで差し支えないと思うのだが、いかがだろう。それこそ幾度も、これで2回目なのだが、読んでみたい作品である。 | ||||
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この作品は、1985年6月に新潮社から箱入りの単行本、書下ろしで発行された。村上氏は翌1986年10月から、ギリシャ、イタリアを中心とした欧州に移り住んでしまうので、この長編は「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」の所謂、初期3部作に続く長編小説と言うだけではなく、ヨーロッパ移住直前、そして偶然かもしれないがその後の日本が迎えるバブルの直前に書かれた。たしかに日本の代表的な株価指数である日経平均は、発表前年の1984年に史上初の1万円を記録していた。この「世界の終りと……」に続く長編で、氏の作品として初めて100万部以上の売り上げとなった「ノルウェイの森」は1987年に発行されている。興味深いのだが、「ノルウェイ……」はバブルではなかった欧州に住む村上氏によって書かれており、一方読者が存する日本はバブルの只中にあった。 この小説は、後年「1Q84」でも用いた手法、つまり2つの世界を交互に描くと言う、村上氏が得意とする手法で述べられていく。それぞれ『ハードボイルド・ワンダーランド』、『世界の終り』と名づけられ、各々の主人公は前者が‟私”、後者が“僕”とされている。そして『世界の……』の方には、巻頭に地図が付けられているのだが、『ハード……』には、地図はない。そして他の小説がそうであるように、主人公の男性と女性がそれぞれの世界で描かれ、これもいつものことだが、料理が登場する。それからやはり、「ねじまき鳥クロニクル」、「騎士団長殺し」がそうであるように、‟地下”が重要な位置を占めている。 もうだいぶ以前のことだが、出版当時には重い本だと言うのに、貪るように読んだ記憶が残っている。 | ||||
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「自我は、その関心を、周囲の環境である「外的世界」に向ける場合と、 こころの世界である「内的世界」に向ける場合がある。」(参考:Wikipedia-分析心理学) 物語の最後に「私」は外的世界を失っても自分を再生する道を選択し, 同様に、無意識界の「僕」も暗い森の中に留まり、記憶を呼び覚ましながら生きることを決意します。 それは作者自身の創作における「デタッチメント時代」の宣言のようにも感じられます。 【ハードボイルド・ワンダーランド】 ハードボイルドな冒険活劇は、下巻に入ると極限状態に置かれた人間の揺れ動く心情を描き始める。 繰り返す円環の人生を象徴するような螺旋階段を上り切った先で、私は途方もない宣告を受けた。 「あんたの意識の中では世界は終っておる。」 私の運命はやがて無意識の永遠の覚醒の中に閉じ込められて、二度と現実には戻れなくなるというのだ。 地上に戻ると頽落的な日常の風景が続いていた。 残された時間の中で、この世界があらゆる形の啓示に充ちていることを感じとる。 そのすべてのものに対して公正さを与えることが出来るよう望みつつ意識を閉じた。 死に直面した主人公の目には、当たり前の日常が祝福に充ちた世界に映ります。 生き続ける私たちも強く求める気持ちがあれば、心の奥底から響く魂の呼び声を聴くことが出来るのではないでしょうか。 【世界の終り】 「街はそんな風にして完全性の環の中を永遠にまわりつづけているんだ。 不完全な部分を不完全な存在に押しつけ、そしてそのうわずみだけを吸って生きているんだ。」 「影」の語る言葉には説得力があり、確かにこの街は不自然で間違っているように映る。 それでも何かが僕の心に引っかかるのだ。 「僕は自分がやったことに責任を果たさなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。」 私たちは自己の責任において世界を開示して見ているのかもしれません。 それがどんなにつらく厳しい現実であろうと、失ってはならない大事な心があります。 「それは鳥のように風の中を舞い、永遠を見わたすこともできるのだ。」 私はこの作品に圧倒されました。この作品を知らない多くの方々にぜひ読んでもらいたいと願っています。 | ||||
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「個人の「心・魂」は、自我がその中心としてある意識と、無意識にまず二分され、 後者は更に、個人的無意識と集合的無意識に分けられた。」(参考:Wikipedia-分析心理学) 心理学の知見をベースにして、現代版「不思議の国のアリス」が誕生しました。 (上巻)では、無意識領域の「僕」が「理想の女性像」や「老賢人」「影」といった元型に出会う一方、 意識領域の「私」は精神的にも肉体的にも危機に襲われ、徐々に追い詰められていきます。 《ハードボイルド・ワンダーランド》 【着衣、西瓜、混沌】 「私の意識は完全な二重構造になっている。」 私はシャフリングを通じて意識の核にアクセスする特別な技術を持っているが、 その核を明確に認識することはできず、とても無防備で不安定な存在でしかない。 【フランクフルト、ドア、独立組織】 「博士の研究はいよいよ大詰をむかえていて、それを完成させるためにあんたを呼び寄せた。」 私は「組織」や「工場」そして「謎の独立組織」の駆け引きに翻弄され無力感に打ちのめされる。 《世界の終り》 【壁】 「これはみんなが通りすぎていくことなんだ。だからあんたも耐えなくちゃならん。しかしそのあとには救いがくる。」 壁に囲まれたこの街が、心を持つ他者と出会うことのない閉鎖された場所でありながらも、 僕とっては完全な世界であることを理解し始める。 【世界の終りの地図】 「何が僕を規定し、何が僕を揺り動かしているのかを知りたいんだ。」 切り離された自分の影とこの街から逃げ出す約束を交わしたのだが、 同時にこの世界の不思議な魅力にひかれていく。 物語は寓話的な形式をとっていますが、本質的には誰もが経験し得る運命を表しています。 (下巻)では私たち読者は、主人公と共に心の危機に対する解決策を探っていきます。 | ||||
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海辺のカフカを読むのを途中でやめて以来、村上先生の本を今読んでいませんが自分の中ではこの作品がピークだったのではないかと感じています。 先生が訳されたロンググッドバイのあとがきでロンググッドバイが無ければ今のレイモンド・チャンドラーの評価は少し下がっていたかもしれない。ロンググッドバイがあることにより誰もたどり着けない至高の領域にあるということが書かれていましたが、それと同じように個人的にこの作品が無ければ今のような先生の評価に至らなかったのではないか、とそんな気にさせる作品です。 後、上手く表現し辛いのですが新潮社もしくはこの印刷所の文字のフォントから出てくる静謐な感じは、ほろ苦い結末へと向かうハードボイルド編の雰囲気にとても合っていると思います。 | ||||
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子供の頃に寝る前に、絵本を読み聞かせてもらったことを思い出しました。続きが気になるところで、今日はここまで、と本が閉じられて目をつむり、続きは夢で見る感じです。実は繋がっている二つの世界が少しずつ交互に語られるので、先を知りたくて読み急ぎそうになるところを、一息置いて思い巡らせる時間を作り出してくれます。 この小説の登場人物には名前がありません。実はあるのもしれませんが、あえて人物を識別する記号をつけないままストーリーは語られます。それでも、それぞれの姿形や言動が具体的に描写されることで、登場人物はアイデンティティをもっていきます。あたかも文字のない絵本を読んでいるように、まず頭の中で映像が描かれて、そこからストーリーが語られます。 主人公の青年は、選択の余地がないまま、大変なトラブルに巻き込まれ、憫然たる運命を受け入れざるを得なくなりますが、最後に自分の意思で重大な選択をします。私にとってこのシーンは、自分が自分であることは何なのかを考えさせられる心に残る場面で、ここだけを何回か繰り返して読みました。 | ||||
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終盤の「風の無い雪の…」辺りの表現がとても印象的 今でもしおりを挟んだまま時々読み返してます | ||||
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大衆小説として大変面白く読みました。 残酷シーンは除く…なぜ必要なのアレ アンチのレビューも厳しいけど、信者のウットリ解釈論も他でやりなさい、気色の悪い | ||||
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純文学よりも大衆娯楽小説寄りに振れた作品。娯楽小説として珍しく面白かった。あくまでも娯楽小説としてだけど。 どうでもいい事だが、この作品だけを読んで村上春樹面白いなんていわゆるハルキストには絶対に言わない方がいい | ||||
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本書を初めて読んだのは昭和62年(1987年)。 はや30年近くたつのに全く古びることなく、逆に読み返すごとに本書に新鮮な面白さが増していくという不思議。 初めて本書を読んだときは、初期三部作の文体に比べ、どこか文体に堅さのようなものを感じ少し違和感を感じたものです。 「私」という一人称で書かれた「ハードボイルドワンダーランド」の章は、村上春樹の好きなレイモンド・チャンドラーの探偵小説風で、「僕」という一人称で書かれた初期三部作とは違ったものを書こうという、村上春樹の挑戦のようなものが感じられたせいかもしれません。(ちなみに本書は「羊をめぐる冒険」が執筆される前に文芸誌に発表されたものの村上春樹自身が納得できず書籍化されなかった「壁」という作品をベースに大幅に書き直しをしたものだといいます。それだけに、強い気合いが感じられます。) しかし、今回久しぶりに読み返すと、ああ本書はこんなに面白かったんだ、と自分の中の評価が一気に高まりました。 文体の洗練度や文学的深みといった点でいえば、確かに後に執筆される「ねじまき鳥」「カフカ」といった作品たちに及ばないかもしれませんが、物語の面白さでいえば、本書は村上春樹のベストといえるかもしれません。 たとえていうならビートルズの「ハードデイズナイト」のような初期作品と「サージェントペパーズ」のような中期作品の違いのようなものかもしれません。ビートルズのアルバムは、純粋にメロディーのよさでいうなら初期作品、凝ったアレンジで誰もやっていなかった音楽アルバムの芸術性を高めたのは中期作品と言われますが、本書を読み返してみると、そんなビートルズのアルバムの変遷を思い出してしまいました。 というわけで、本書は物語として本当に面白い。いつまでも読み続けたく、読み終えるのがとても惜しい。 さて、今年(2016年)のノーベル文学賞はボブ・ディランでしたが、本書でこのボブ・ディランに触れている場面があります。 彼の声について「まるで小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているような声」だといっています。 村上春樹の比喩の使い方は本当に絶妙です。 | ||||
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村上春樹の初期の作品は、意味のないことをさも意味ありげに描くことに挑戦していた。 この作品でその傾向は頂点に達したと思います。 意味があるとかないとかは、もはや重要ではなくなって、 そうではないもの、こうした思わせ振りな表現でしか描けないリアルが立ち現れている。 人間的ではない人間。 それっぽい台詞。 実は何にも意味なんてないんじゃないかと思える比喩の連続。 それらの全てを、村上春樹は意図してやっているのだ。 薄っぺらでなんの価値もない、という意見を持つとしたら、 それも正しい意見だと思う。 しかし、薄っぺらでない世界とは、じゃあなんなのか。 そこが重要なのである。 意味がないからこそ描ける意味の世界。 初期村上春樹作品の頂点に位置し、 戦後文学においても、独自の立ち位置を示す作品だ。 | ||||
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