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父の文章教室
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父の文章教室の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.40pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
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これで充分。新品購入必要なし。 | ||||
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こんな本に出会ってよかった。 花村さんが、はづかしげに語る(書く) 自叙伝のような本の中身。 ほのぼのと読ませていただきました。 ほのぼのと読むには少し文学のことがかなりシビアにも 入っていますので、時々しっかりと脳みそ使いますが。 読み応えがある「作家の自叙伝の一部分」ではないでしょうか? 幼少のころから今に至るまでの文章力や感性のいかに形成されてきたのか? 作者自身によるかなり冷静な自己分析ではないでしょうか? お父様のことが面白く、厳しく、そしてどこか肉親への独特の うらみつらみ、そして愛情が感じられるところがいいです。 お父様の影響がかなり入り組んで入っていますね。 花村萬月のルール見たり!!の1冊です。 であった人は花村ファンとしては少ないかもね、貴重かもね。 そんな密かな喜びも感じつつ読了。 | ||||
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本書は、『青春と読書』2002年7月号から2004年5月号までの連載に加筆修正を 施したもの。 「私の父は五十八歳で死ぬまで、徹頭徹尾小説家志望のままで、定職に就くことは ありませんでした。しかも妻子に対する責任を果たすこともなかった。……父は いくらかの原稿だけを残して死に、その作品が本になることはありませんでした。 小説家ではなく、小説家志望のまま死んだのです」。 氏は、本書の執筆において「自分の過去を小説という虚構ではなく、客観的な事実と いうかたちで書き表す」ことを志向していたようだが、一方で、「記憶を掘りさげるという 内的作業において人間は期せずして嘘をつくりあげてしまう」との記述の通り、結局は 虚構に帰せざるを得ないことにも自覚的。 そしてシンプルに文体から本書を見たときに、どこかぎこちなく冗長で、一見した限り とても花村萬月の文章とは思えないようなクオリティ。こんなに下手だったっけ? と 思いつつ、巻末に収録されている短編を読むと、やはり抜群の切れがある。彼において 「客観的な事実」を書くというのは、単に冴えのない日本語を刻むことらしい。 筆者自身の文学論としても読める一冊ではある。 「人間が獣であって、なぜ悪い」とは、実に簡にして要を得た自作解説。 そして同時に、『王国記』を読めば分かることではあるが、筆者の宗教理解の薄さに 愕然とさせられる。 「宗教(的感情)に関して論理でしか語れぬ、あるいは読み解けぬ批評家や読者の 的外れな批評には苦笑どころか、怒りを覚えることも多々あります。素養がないなら 黙っていろ」。 「論理でしか語れ」ないバカよりももっと惨めなのは、論理すら語れないバカ。 世の自称小説家の不勉強なんておよそ例外を持たないところではあるが、感情やら、 感性やらに逃げ込んで、「論理」すら語ろうとしない。 挙句、ハクスリーみたいなバカを連れてきて「哲学書」とか、「哲学」をまともに 読んだことがないのが丸分かりな恥を平然と晒す。 「素養がないなら黙っていろ」とはまさにこのこと。 そんな素養でありつつも、「父の背に、大振りの花瓣を誇る緋色の花が咲き誇っている。 嘔吐物の染みこんだ布団からの腐臭が、ふと、なにか艶めかしい花の匂いにも似て 感じられた。私は父の背中に咲いた鮮やかな花を凝視した。胸がくるしくなってきた」 というような刺さる文章が書けてしまう。 現代日本屈指の資質と凡庸以下の稚拙な論理、そんな奇妙な共存、小説の魔性が 堪能できる一冊ではある。 | ||||
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作家の花村萬月さんの子供時代をつづった本です。 幼少期にお父さんから読書や音楽の指導をされた経験が語られていますが、すさまじ いものです。 小学校に上がる前の萬月さんにお父さんは文庫本を読むように命じます。しかも、旧 仮名づかいの文庫本です。 お父さんは、「こうやって読むのだ」「これはこういう意味だ」などという助言も指 導も一切しません。 幼児に自力で読むように強要するのです。 苦労を重ねても、なかなか読み進めません。 そうすれば、お父さんの容赦ない叱責、時には手が出ます。 それでも、萬月さんはお父さんに対する深い愛情を感じさせる文章を書くようになり ます。 愛憎相半ばする感情が読むとどんどん伝わってくる興味深い一冊でした。 | ||||
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芥川賞作家の花村氏の小説は一度も読んだことがないが、本の表題に何となく興味を持ち購入した。読み始めて一気に完読させられる内容であった。 「文章教室」といっても文章をいかに上手に書くかといった類の本ではなく、中卒(しかも小中学校ともまともに通学していない)の小説家がいかにして芥川賞作家になったか、といった自伝が中心。 幼少の氏の前に放浪癖のある父親がある日突然現れ、当時6歳であった氏に無理やり難解な文庫本を読ませるなど、かなり強引な英才教育が始まる。 氏は当時を振り返ってこの父親の英才教育について苦痛であったという一方、「小説家である基礎を作ったのは父親」とか「愛されている自信はあった」等々、早期教育、息子と父親の関係をはじめ多くを考えさせられた。「青春と読書」に連載されていたものであるため、連載毎に父に対する評価が微妙に変わるなど、強引な英才教育が苦痛であった一方で、自分を愛してくれた父親のことは憎むことができないといった氏の気持ちが滲み出ている感じがした。 また、子供は世間の常識を逸した父親でも、時に多少子供の能力を伸ばしたいがために無理難題を言うような父親でも、本質的には情が通った父親を全面的に憎むことはできないのではないか、と思った(現代の多いとされる子供に嫌われたくないために子供の機嫌をうかがうような姿の父親はやはり情けないのである)。また、親に愛されなかった子供は大人になるまでその事実を引きずる、とあったのが印象的。 なお、氏は薬物に溺れた経験やバイクで日本中を野宿し旅した経験もあるようで、是非作品を読みたくなったのは言うまでもない。 特に息子をお持ちの父親に強くお勧めの一冊。 | ||||
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芥川賞作家・花村萬月が幼少期の数年間に父親から強要された音楽や読書の体験について綴った、愛憎相半ばする手記。 題名には「文章教室」とありますが、父親は著者に対して狭義の文章修行は一切おこなっていません。また本書は文章上達のための実用書の類いでは全くなく、その点で題名は多くの読者に誤解を与えるかもしれません。 しかしこれはかなり硬質で、肌がヒリヒリするような、息子と父の激しい葛藤の物語として私は一気呵成に読みました。 6歳だった著者は父親にいきなり旧仮名遣いの文庫本を突きつけられて読むように言われます。暴力的な圧力と、父親に認められたいという心から、必死になって字面を追う著者。来る日も来る日も、世間一般では考えられないような難度の高い読書を強いられます。父親の突然の死を契機にわずか数年で幕となるこの奇妙な読書体験は、その後の著者の人生を支配し続けることになるのです。 仕事につくわけでもなく、母を泣かせ続け、そして小説家になるという夢を夢のままにして逝った父。本書中盤までは、そんな父という存在を息子がはかりかね、そして激しく憎悪しているかのように綴っている印象を与えます。 しかし、出版社の小冊子に連載という形で綴られていた本書は、やがて父に対する深い愛情を感じさせる文章へと転調します。それは激しい憎悪と表裏一体である激しい愛情です。 「父はとにかく私に関わろうとした。常時、関係性をもとうとした。それは素朴な支配慾求であったかもしれませんが、人が人間関係においていちばん傷つくのは自分が忘れ去られてしまっていると自覚した瞬間です。」 「私は父親からときに否定的な言辞を投げ与えられ、殴打され、けれど、それでも認められていたのです。」(203頁) 凍てつくような父子関係を、こんな風に昇華させてみせる著者の筆力。驚嘆と敬意の念ととともに読みました。 | ||||
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ここに綴られているのは文章論ではない。父と子の葛藤である。父から受けた英才教育の記憶を掘り起こすという形でまとめられているが、それは自らの半生を辿る作業だったに違いない。 「あなたは自分の父親が好きですか」で始まる全22章は、跛行し、複雑な陰影を刻みながら、終章で「私は父と母から幸福のかけらを幾つも与えられた」と結ばれる。家庭を顧みず、小説家を志望しながらその夢が叶わなかった父は、小学校一年の我が子に大人が読む旧字体の文庫本を与え、それを強制的に読ませた。助言は一切ない。 この苦行は四年間続き、父の早世で終了する。そこから三〇代半ばで作家としてデビューするまでの間の大きな空白は、ぜひ本書を読み、著者の半生を辿りながら埋めていって欲しい。著者の半生は父に劣らないほど波乱に満ちたもので、私の想像を遙かに超えていた。 同書の最後に採録された「らん(欄の木の代わりに文)斑」は、父の死を描いた短編だが、父に対する複雑な感情が乾いた文体で刻まれた秀作である。 | ||||
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花村さんの文は壮絶な内容、勢いある文体にあると思います。この本は早期教育の是非を考える本であるのかと思いましたが、実際は父との思い出とその人柄、自慢とも思える幼児期の、また自分の文章能力へのプラスの評価に終始しています。もちろんエッセイ的自伝であるのだから私的な視点から見ることは当然ではあるのでしょうが、いざ、早期教育に関する話になると、人による違いなどをあげ、また自分の場合には過度すぎた、など断定した意見を聞けないまま最後まで読み終わってしまう感じがもどかしいです。ただ、教育に関する話だとは考えず、花村さんの過去についてより多くを知りたいと思って読むのであれば実に楽しめる本だと思います。この作家に興味がない人、作品を読んだことがない人にはちょっときついかも。 | ||||
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芥川賞作家,花村萬月氏が父から受けた狂気の早期教育のことをまとめた本.定職を持たず,強烈な個性の氏の父が,幼い花村氏に強制したのは,いきなり大人が読むような文庫本を読ませることだった.始めは意味もわからないが,口を動かしながら音読するうちに,意味が取れるようになったという.結局その教育も,9歳のとき,父の死によってしりきれトンボになってしまう.その後,波乱万丈な経験を経て作家へ.花村氏も言っているように,これと同じ教育を受けたからといって,すぐに芥川賞作家になれる,小説が書けるようになるか,ということとは別の事である.ここに,教育の難しさがあるだろう.花村氏の場合は,うまく身を結んだ例だが,その影には,同じような教育を施した例でも,失敗例もあるはずだ.花村氏の場合は,たまたまうまくいったような気がしてならない.早期教育を受けた子どもが,それをどう受けとめ,大人になってからどう回想し,自らの体験を位置付けていくのか.そのサンプルとして,興味深いものがあるだろう.これから早期教育をしようという親に是非とも読んで欲しい本だ. | ||||
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「父の文章教室」著者初の本格的自伝小説を読み、花村萬月さんが愛しくて愛しくてたまりません。「思い出したくもない過去なのです」と言わせることを書くということ。作家というものは壮絶すぎる。私が疑問に思うのは、いったい誰が書かせたのか、ということです。 いま現在の月刊雑誌のほとんどに連載されている著者の連載を読み、答えがありました。『私は小説を書くことで詰まったことがありません。創作自体はまさに軽々、なのです』『なぜ詰まることがないかといえば、あれこれ体裁は変えはしても私が表現したいことの核にあるものは不変であり、かつ不偏であるという見切りが、自分の内面でかなりの強度をもって成されているからです。一神教的なぶれのなさを獲得しているようです』これにすべてがあります。 さきの疑問は、第二十一章父の愛、を読んでわかりました。父上の魂が書かせたのでありました。花村ファンはこれを読めば、もっともっと花村萬月さんが好きになりますよ。 | ||||
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