■スポンサードリンク
インヴェンション・オブ・サウンド
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
インヴェンション・オブ・サウンドの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.22pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全7件 1~7 1/1ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ララバイ的戯画じゃない。だがそれまで通底した思想は薄れた。背景は現代に沿って悪文も健在で満足だが。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「ファイト・クラブ」や「サバイバー」で資本主義や拝金主義に染まった現代社会を風刺し、自らの人生を社会や他者評価から奪還せよと私たちに訴えかけたチャック・パラニューク。 そんな彼の18年ぶりとなる新作長編である本作は上記二作同様、誰しもが見て見ぬふりをしている社会の暗部を抉り出し、我々が生きる今の時代を批評的に切り取って見せる。 しかし一方で上記二作とは異なり、本作は一人称で物語が語られるのではなく三人称視点で物語が綴られており、それによって過去作以上に社会に対する冷めた視線や諦観と共に共存する暴力への魅惑を感じることができるだろう。 そして何より三人称視点で物語を紡ぐことで、チャック・パラニューク史上最もミステリー要素を含んだ物語の構成を生み出すことに成功している。 厭世的で暴力的な表現からテロリズムを誘発する扇動者だと誤解されがちな彼だが、本作を読めばそうしたイメージは払拭されるはず。 社会に蔓延る欺瞞や不平等さ、心に傷を負い病んでしまった人間の抱える虚無感を的確かつシニカルに描く彼は、誰よりも先見性に富んだ作家であり先導者に他ならない。 突拍子もない人物設定とストーリーラインによって社会を批判し、自らの人生に対して生きた心地がしない人物たちに寄り添う彼の作品は、前作が刊行された18年が経った今なお我々に必須と言えるだろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
チャック・パラニューク。この名前に反応してしまう。嘘だろ? と思う。あれからこの作家はどこで何をしていたのか? 何故、忘れた頃、今になってまた目の前に登場? ぼくとしては現代における最も濃厚なこのノワール作家の日本語版翻訳は、なんと18年ぶりだと言う。本書では17年前に行方不明になった娘を探し続ける父親が出てくる。それよりもパラニューク自身が18年前に行方不明だったではないか。 なのでまずは18年前の自分を探しにゆく。あった。『ララバイ』のレビューが。読んでみると、驚いたことに本作『インヴェンション・オブ・サウンド』にそのまま適応できるレビューではないか。 「ある意味、作品をまたぐ共通項は存在する。現在の時制にこだわった悪夢的なリフレイン文章の挿入。豊富なイメージのコレクション。雑学の広がりと深まり。最初に衝撃と謎を置いてスタートする、スピーディでテンポのよい構成。伏線、また伏線、一見収集のつきそうにないストーリー展開を、最後に手際よく纏め、そして心を引っ掴んでゆく得体の知れない何か。」 「これはノワールである。類稀な破壊衝動と暴力とに満ち溢れた、世界最悪の物語だ。それでいてスタイリッシュ。綺麗でお洒落な作りであるところは、これまでと全然変わらない。しかしそれでも、負の迫力だけはやたらに強い。」 「だからこそ主人公の葛藤がある。だからこそ、戦いへの決意があり、必死がある。だからこそ、徒労がある。再生がある。愛がある。慈しみがある。世界は暴力に満ちていて、突然の死に満ちている。」 すべては本書にも言えること。パラニュークのすべての作品に言えること。 さて本書は、映画の音声を作り出す音響効果技師の女性ミッツィと、さらわれた娘を探しにダークウェブや少女売買の世界を彷徨う父親フォスターの二人の描写を交互に、それもとても頻繁に交互に視点を変えて描いてゆく物語だ。ミッツィは、音響効果の中でも悲鳴の専門家である。音を収集し増幅し、効果的に作り出す職業。一方、フォスターは、女優ブラッシュ・ジェントリーの手を借りて娘を探索する。映画やドラマという世界で二人の人生は交錯するのだろう。しかし、それは未だ先の話だ。二人の奇妙な行動を謎めいた暴力的な描写で表現しながら、パラニュークは物語ってゆく。 特別な人しか出演しないドラマ。平凡な人は登場しない小説。異常な闇のストリートを、個性の塊のような男たちと女たちが、喘ぐように彷徨する。物語の力をフルに起用して、彼らの航路は行き違い、波濤は創り破壊する。引き込まれるようにしてパラニュークのあまりに独自なイメージ世界を歩いてゆく独自で奇妙な読書体験。感覚でしか読めないかもしれない作品群。 18年ぶりの復活の狼煙が上がった。『ファイトクラブ』という破壊力のある映画で勇名を馳せた作家の復活の狼煙が。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本書『インヴェンション・オブ・サウンド』の訳者は、池田真紀子さん。 このカタカナ書きのタイトルは、なぜ「音の発明」とかに訳さないのでしょう? この本で「サウンド」というのは、人間の口から発せられる声、心からの悲鳴です。 一般に、音というと、客観的で冷静な《ものおと(物音)》をイメージします。 心の無いセミの鳴き音だって、岩にしみいる蝉の声、と声になります。 声にさえならないような恐怖の「サウンド」が、悲鳴です。 「ミッツィは、見知らぬ他人の悲鳴を予測できる」(83頁) サウンドは、人が作るもの。要するに、人工の作り物です。 実際の悲鳴以上に人の心に響く可能性のある映画用の効果音です。 「女の子は、苦痛と恐怖がこもった言葉にならない叫びを上げた」(13頁) これが悲鳴。「言葉にならない叫び」です。サウンドです。 「うめき声や叫び声は、言葉では決して伝えられない何かを伝えている」(119頁) 「次のテープが再生する次の悲鳴、次の苦しげな息遣い、恐怖と苦痛から絞り出されたうめき声」(221頁) 「救急車のサイレンが街を駆けていき、犬という犬が遠吠えする」(7頁) こんな「やかましい合唱」(7頁)のサウンド(音)で始まる小説です。 「サイレンの音を聞くと犬が吠えるという話をしたね。覚えているかい」(163頁) 「消防車のサイレンに反応して一斉に遠吠えする犬のように」(187頁) 「犬たちの吠え声が夜空から救急車を召喚する」(208頁) 「犬たちの吠え声が夜空から救急車を召喚する」(248頁) 「詩人ウォルト・ホイットマンの “野生の咆哮” のような、それを聞けば誰もが原始の叫びを上げずにいられなくなるような叫び」(163頁) 本書は、三つの章から構成されています。三段論法みたいに。 第1章 我らの罪を忘れたまえ 第2章 テープ・ブリード 第3章 パーフェクト・スクリーム 「我らの罪」って何でしょう? 「『我らの罪を忘れたまえ』ミッツィは言った」(18頁) 「児童ポルノ」(本書のソデ、12頁、13頁)でしょうか? 「子供殺し」(12頁)? それとも「児童人身売買」(12頁)でしょうか? 「人さらい」(13頁)? 「小児性愛原人」(14頁)? 「変態野郎」(14頁)? などなど、「我らの罪」は数え切れません。 次 「第2章 テープ・ブリード」って何でしょう? 誰かが作った録音テープから生み出される人工の効果音でしょうか? 「初めて作ったデジタルオーディオテープ(DAT)」(36頁) ロックバンドの「グレイトフル・デッドは “テープ・ブリード” と呼ばれる現象を発明した」(105頁) 「ミッツィの心を動かすのは、そういったメッセージを受け取った人々がその録音テープを大切に保存し、コピーし、それをまたコピーして、彼らの最後の言葉が決して失われることがないように守っている事実だ」(110頁) これが「テープ・ブリード」です。 「ネット上のこれは、劣化コピーにすぎない」(224頁) 次、どうぞ。 「第3章 パーフェクト・スクリーム」 完璧な悲鳴のサウンドですか? 嘘みたいな悲鳴。完璧な嘘。 「そのすべてを音だけでやってのけた」(111頁) 「悲鳴、大勢の人間の悲鳴と雷鳴のような音がその声をかき消しにかかる」(217頁) 「兵士たちが女に襲いかかり、女は悲鳴を上げる。少なくとも、悲鳴らしき声が上がった。吹き替えなのは明白だ」(249頁) 「『あたしの仕事は』ミッツィは続ける。『きっかり同じタイミングで世界の全員に悲鳴を上げさせることだから』」(8頁) 彼女の仕事の名前は「音響効果技師」(197頁、221頁) 「あたしは “音響効果技師(フォーリー・アーティスト)” なの」(34頁) 「音響効果技師(フォーリー・アーティスト)を雇ってわたしの悲鳴を作らせたの」(183頁) 「悲鳴が響き渡り、変化が起きる」(40頁) 「悲鳴を真似するように、口が大きく開く」(40頁) 「この悲鳴は寄生虫だ」(40頁) 彼女の名前は、 「ミッツィ・アイヴズ」(本書ソデ、36頁、160頁、194頁、219頁、221頁、223頁、234頁) 「ミッツィ・アイヴズ、女子高生のミッツィ」(36頁) 「ミッツィはアイヴズ・フォーリー・アーツ社のただ一人のアイヴズだ」(42頁) 「ミッツィ・アイヴズはスターを世に送り出している」(42頁) 「『ミッツィ・アイヴズです』そして付け加えた。『アイヴズ音響効果(フォーリー・アーツ)社の』」(77頁) 「こんにちは。アイヴズ・フォーリー・アーツ社はこちらですか」(189頁) 「アイヴズ・フォーリー・アーツ社は、細い裏通り、裏路地と呼ぶのが似合いそうな裏通りにあって」(192頁) 「火曜の午後、特殊部隊がアイヴズ・フォーリー・アーツ社の捜索に入る」(232頁) この小説の舞台は、ハリウッド。 「なんといってもここはハリウッドだ」(21頁) それで? 著者のチャック・パラニュークさんは、この本で何を言いたい、伝えたいのでしょうか? 「ポップコーンを咀嚼しながら、フォスターは自問する。本物といえるものがこの世に果たしてあるのか。物体でも現象でもいい、人間でもいい、本物が一つでもあるのか」(250頁) 一つもない。 「さっきの悲鳴はよかったんじゃない」(250頁) 良い悪いの問題ですか? 本物かどうか、ってえ問題でしょう。 そして、最後の一行。 「未来は至って明快に見えた。明快で、そして光り輝いている。光り輝き、そして無限だ」(252頁) 映画が終わって映画館を出ると、帰り道はいつもの現実。 現実の未来は不透明で見通せません。もやもやして濁っています。 毎日、フェイクと暗いニュースばかり。そして、悲鳴。 これでは、世界は終りです。 エピグラフ。 「――たかが映画と信じておけばいい」 そう言われても・・・ 映画は、ハッピーエンドでお願いします。 《備考》 「アンビエン」 おくすり。 8頁、17頁、53頁、55頁、80頁、85頁、103頁、104頁、133頁、138頁、195頁、200頁、202頁、205頁、208頁、209頁、245頁 きゃー。飲み過ぎ。おーばーどーす。あでぃくと。 「残してもらいたい悲鳴は一つだけ」(203頁) 無声映画の時代には、声は無かった。もちろん悲鳴も無かった。 あったのは、弁士徳川夢声の夢のようなダミ声だけ。 スクリーン脇から、言葉にならない悲鳴が映画館いっぱいに響き渡りました。 ひえーっ 不味いオノマトペで、どうもすいません。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
チャック・パラニュークという作家が他のどの作家に近いかという事を考えた時、まず思い浮かぶのはJ・G・バラードである。『クラッシュ』とか『ハイ・ライズ』に代表されるSFではあるが「スペース・ファンタジー」や「サイエンス・フィクション」とは明らかに違う、内なる暴力的な世界へと向かっていく分野の、一部のSFファンが絶対にSFだとカテゴライズしてほしくないようなSF(まあ、とは言うものの、拙はSFを定義できる程の読書家ではないのだよ。阿呆が適当な事をほざいてやがると、大目に見てもらいたい)。そんな内なる暴力的なSF作家パラニュークの最新作の印象が、どんな過去作に似ているかと考えると、意外な事に押しも押されもせぬSF文学の大作家、フィリップ・K・ディックに近づいているのである。 フィリップ・K・ディックの『スキャナー・ダークリー』、とにかく原作のインパクトが強いので、映画化しても原作は越えられないだろうなと思えて、そちらは観ていません。『スキャナー・ダークリー』は一言でいうと、境界線が分からなくなってしまう人間の物語です。主人公は麻薬捜査の潜入捜査官なのですが、潜入捜査で麻薬をやっている内に、段々と脳が麻薬に壊されて行き、最後には自分が何者であったかという事さえも分からなくなってしまいます。その自分を自分として認知する境界線が失われていく感覚を、麻薬を登場させる事なく描いているのが、本作『インヴェンション・オブ・サウンド』です。 この全三章から構成される物語は、二人の人物の人生が、二重螺旋のように交錯して進んでいきます。そこには、パラニュークらしい読者を不快な気分にさせるトリビア(人は何故、一回刺すだけで致命傷を負わせられるのに、何回も繰り返して刺すのかとか)が多く含まれています。パラニュークが好きな人はそういう部分を含めて好きなので、万人に勧められる小説ではありません。こんな小説を書く人間は非常識な人間だと激怒する人がいたとしても、それはそれで正常な反応だと思います。またこの物語は、呪いから解放される物語でもあります。悲惨な事件が起きて壊滅的な事故が起こるにもかかわらず、結末まで一気に読めてしまい、なおかつ読後感が悪くない(パラニューク中毒者に限るかもしれない)のは、この要素があるからだと思います。 本来ならシリアルキラーとして、リンカーン・ライムの敵役になるような女が登場する。しかし利潤を求め続けるハリウッドというシステムは、彼女にシリアルキラーとして存在し続けなければならない理由を与えてしまう。一方、本来なら犯罪者を追跡する正義の執行者であるべき男は、ダークウェブを通じて犯人に近づこうとする事によって、自分自身もまた犯罪者に近い人間に変貌してしまう。あたかも獲物の習性を覚えた猟師の行動が、獲物と同じ行動をとるかのように。暗喩として繰り返されるのは、救急車に合わせて一斉に吠える犬の行動。それは我々の脳に一つの疑惑をいだかせる。我々が意識だと思っているもの、感情だと思っているものは、実は単なる大脳辺縁系の共鳴ではあるまいか。我々は自立しているようでいて、実は大脳辺縁系の振動の奴隷になっているのではあるまいか。それがパラニュークの描く内なる暴力的へと向かうSFである。 パラニュークのSFは、ファイトクラブの宿題みたいに、良識派ぶっているインテリ層に読ませてみるのも一興かもしれない。その結果として何か否定的な事を言われるかもしれないが、しかし自分は最高だと思う。それがパラニュークである。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
原書ではなく訳書を読んでいる以上、これはパラニューク氏の文体、ではなく、パラニュークを訳した池田真紀子氏の文体、と言うほうが正確だろう。が、よく知っている文体だった。懐かしい。ずいぶんと成熟した(パラニュークが?池田さんが?)が、同一人物の文体であることはすぐに感じとることができるだろう。この映画的な、ある種無機質な文体がパラニューク作品の魅力の一つで、それを久々に味わえてうれしかった。 プロットは練り上げられていて、巧妙過ぎると言える。発想はイカれているが、書き手の頭が本当にイカれていると、こうは組み立てられない。本当はパラニューク氏は2人いて、1人はアイデア担当、1人は文章化担当、なのではないか、とさえ疑う。 とりあえず、自分の知ってる人には一切勧めることができないが、赤の他人にはおすすめしまくりたい作家であることは間違いない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
物語の主人公となるのは二人の男女。一人は17年前幼い娘が行方不明になってしまった男ゲイツ・フォスター。彼は娘が小児性愛者の餌食になったと思い込みダークウェブの小児性愛サイトに張り付き血眼になって犯人を探している。同時に生きていれば成人になっている娘とそっくりの女をエスコートサイトから選び出し娘の記憶を叩き込んで擬似親子デートを繰り返していた。 もう一人はハリウッドで「究極の音響素材」を売り込み業界最高の成功を収めている音響効果技師の女ミッツィ・アイヴス。彼女の製作する「究極の音響素材」とは聴く者誰もが吐き気を催すほどに迫真的な「断末魔の絶叫」だった。しかし私生活における彼女は酒と薬とマゾヒスティックなセックスに溺れる心を病んだ女だった。 心に深い傷を負った男フォスターと途方もなく心が病んでしまった女ミッツィ。娘を失た悲しみに自暴自棄となり破滅への道をひた進むフォスター。謎めいた行動を繰り返しながら次第に恐るべき正体を露わにしてゆくミッツィ。物語はこの二人の行動を交互に描きながら仕掛けられた謎のヴェールを一枚一枚と剥いでゆき、遂に二人が出会うとき劇薬同士の化学反応のような大爆発を起こすのだ。 こうした物語の中にもパラニュークお得意の「現実世界の些末で微細なデータ」があたかも標本箱の中の昆虫の如く展翅されてゆく。それらデータはただ現実の剥き出しの在り様を無機的に無感情に羅列したものに過ぎない。この冷ややかな酷薄さこそがパラニューク作品の真骨頂であり最高の魅力となる部分だろう。登場人物たちは酷薄な世界に痛めつけられ歪み切った情念を抱えながら溺れた犬のようにもがき苦しむ。歪んでいて救いようがなくてそして切ない。 しかしこれもパラニューク小説の習性なのだが、エキセントリックな人物とエキセントリックな設定を持ち込みながら物語はそれに依拠し過ぎるばかりに途中から消化不良を起こしてしまう。今作でも中盤に大規模なカタストロフを持ち込むのだがそれがどうにも荒唐無稽に過ぎここまで培ってきたリアリティが放り出され物語が失速してしまう部分が惜しく感じた。とはいえこういった瑕疵を抱えつつも作品の提示する異様なヴィジョンは決して悪くない。なんといってもこれはパラニュークの新作だ。その癖になりそうな悪夢めいた蠱惑を楽しもうではないか。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!