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言語の七番目の機能
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言語の七番目の機能の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.87pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全11件 1~11 1/1ページ
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とても美本でした。 | ||||
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プルースト「失われた時を求めて」的サロン会話、モリエール喜劇的な展開、モーパッサンの小説のような登場人物、ラテン語、美術史、ギリシャ・ローマ神話、もちろんキリスト教、そして記号学と修辞学。ヨーロッパ文明の奥深さと難解さに打ちのめされます。 でもカーチュエイス、爆破、格闘、暗殺なども楽しめて、1980年の風俗(煙草、マリファナ吸い放題。大学生の生態)、社会党と共産党、ソ連とブルガリア、半端な立ち位置の日本、アメリカなどなど。もうカオスの極みです。そしてなんといってもミステリーとしては特に大きな意味がないところが素晴らしい。革新的な「悪ふざけ」もここまで徹底すれば「哲学」であり「純文学」になることは驚異です。 | ||||
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もっと高尚な文学かと思ったら、フランスの伊藤計画でした。主要人物二人のバディ感も良いし、落ちもいいので、「HHhH」よりも入門向きかも。 | ||||
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「言語の七番目の機能」とはいったい何か? 本書のタイトルから言語学の本かと思い、言語学の学問的興味から手に取りました。 表紙見返しの言葉によると、「記号学的ミステリ」 ミステリ? 「訳者あとがき」には、「サスペンス小説」(472頁)とあります。 いずれにしてもエンターテインメントの小説のようです。 著者自身も、この作品を「この小説」(290頁)と見なして書いています。 冒頭の文章。「人生は小説ではない」(7頁) あたかも、この本が小説ではない、とでも言っているような書き出し。 でも、ノンフィクションとは書いていない。 あの有名な実在の哲学者ロラン・バルトが「軽トラック」(9頁)にはねられて死んだ。 1980年の出来事。「<史実>」(9頁)である。 実在の人間に、実際に起こった交通事故で始まる本書。 フーコーは、ロラン・バルトの事故調査に来たジャック・バイヤール警視にこう言う。 「私の解釈は、彼は殺されたということだ」(24頁) 帯には「ロラン・バルトを殺したのは誰か?」とあるし、 このへんから一気にサスペンス小説風に変わっていきます。 バイヤール警視が「誰に殺されたって言うんですか?」と訊くと、 フーコーは「制度(システム)だよ、決まってるじゃないか!」(24頁)と答える。 この答えの「システム」という一言の言葉から、 警視はバルトが反対勢力によって殺されたと勝手な勘違いを始めます。 言葉の力って、ほんとうに怖いですね。 たった一言の言葉で、フランスの警察は事故の背景に巨大な政治的な疑惑を想像して、 こんな長篇小説になるほどの筋違いな見込み捜査を始めてしまうんですから。 捜査の対象は、<言語の七番目の機能>について書かれた未発表のヤコブソンの原稿。 それを手に入れたはずのロラン・バルトが殺され、バルトの手許から文書が消えた。 犯人は誰だ、のサスペンス小説。 事故が起きたのは、1980年。 当時のフランス大統領候補ミッテランとの会食の直後のバルトに起きた交通事故。 当時の政治状況から、この原稿がバルトの死と関係しているのでは、と疑ったバイヤール警視。 「言語の七番目の機能」とはいったい何か? 言語の一番目から六番目までの機能は、 言語学者のロマン・ヤコブソンの『一般言語学』(48頁)に書かれているそうです。 「ヤコブソンの理論によれば、言語の機能は六つしかない」(240頁) 「その言語機能とは次のようなものです」(131頁) 「指示」機能 「感情表出」機能 「働きかけ」機能 「話しかけ」機能 「メタ言語的」機能 「誌的」機能 「言語の七番目の機能」は、本書の中に何度も言葉が出てきます。 具体的には、どういう機能なのでしょうか。 著者ローラン・ビネの頭の中では、 こんな風な具体的内容のイメージがあったようです。 「『魔術的もしくは呪術的機能』で呼ばれるメカニズムに、七番目の機能が隠れているのではないかとシモン・エルゾグは思う」(133頁) 「『魔術的もしくは呪術的機能』? 取るに足らない好奇心。ついでにちょっと言ってみただけのおふざけ。いずれにせよ、こんなことのために人は殺人を犯したりしない」(134頁) 登場人物シモンの口を使って、こう書いています。 「シモンは、たしかにヤコブソンの論文には『言語の魔術的ないしは呪術的機能』について触れているところがあるけれども、でもそれは正式な分類に含めるほど重要な機能ではないと判断したのではないか、とエーコに言い返した」(240頁) 「言語の七番目の機能」とは、「言語の魔術的ないしは呪術的機能」、と著者は考えています。 登場人物エーコの口を使って、著者はこうも書いています。 「きわめて拡張された言語機能の一つとして、どんな人に対しても、どんな状況においても、どんなことでもやらせるように説得できる機能を想像してみるんだ」(242頁) 「言語の七番目の機能」は、 「どんな人に対しても、どんな状況においても、どんなことでもやらせるように説得できる機能」 と著者は考えています。 サスペンス小説としては、 <言語の七番目の機能>について書かれた未発表のヤコブソンの原稿を<追え> というだけで、いちおう成り立つでしょう。 それにもかかわらず、「言語の七番目の機能」について色々と 言語学的な考えを巡らしている著者。 単なるサスペンス小説ではありません。 この本は、著者ローラン・ビネさんの書いた『言語学』にもなっているように思えました。 ≪備考≫ <「言語の七番目の機能」および言語の「機能」に関する記述のある箇所> 「機能(フオンクシオン)だと! あまりに馬鹿ばかしい!」(67頁) 「もう一つは<機能主義>、レトリックというものを到達すべき目標に達するための手段だと見なす流派だ。機能主義派もさらにマキャベッリ派とキケロ派に分かれている」(215頁) 「バルトと三人の人間が言語の七番目の機能に関する文書のせいで殺されたと信じる根拠はあると思います」(240頁) 「七番目の機能が存在するとして、それが遂行的、もしくは発語媒介的な機能であるとするなら、誰もが知るものになったときにはその力の大半が失われてしまうかもしれないからね」(243頁) 「言語の七番目の機能とは、取扱説明書のようなものなのか? それとも魔術? 教科書? それを手に入れれば一攫千金の夢を実現できると信じている政治家や知識人たちを惑乱させる幻想のようなものなのか?」(283頁) 「どうしてみんなヤコブソンの七番目の機能を追っかけてるんだ?」(325頁) あちゃー。 | ||||
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この小説が賞をもらえるとはフランス(人)は懐が深いです(良い意味で)。 日本だったらそもそも出版されないのではないでしょうか(悪い意味で)。 他のレビュアーの方の詳細な解説があるので細かい点は省きますが、ローラン・ビネさんが元気で活動してくれれば、少なくともあと20年は読書の楽しみが続くというものです。 以下少しネタバレかもですが、「文学部唯野教授」が「虐殺器官」を探したら「ディーバ」で「パプリカ」な「ナインス・ゲート」に行きつきました。 SHの相棒はやっぱりJで、イギリス人にとってのアフガニスタンはフランス人にとってのアルジェリアのようです。日本人二人組はバリツを使うのでしょうか。 | ||||
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先行レビューが皆ポイントをおさえていますので、本レビューでは補足めいたものを書いてみたいと思います。 著者は、本書を「エーコ+『ファイト・クラブ』」のような作品と形容しているそうですが、日本人にとっては『文学部唯野教授』+政治スパイ小説 というイメージの方が近い人が多いかも知れません。筒井調ほどおちゃらけているわけではありませんが、ポストモダンの諸学者が多数実名で登場し、なで斬りにされています。既に物故されている方はともかく、存命の方への酷いしうちはやり過ぎのような気もしますが、それこそが言語の七番目の機能というものへの願望の実現を描いたものだと思えば、ジョークだと流せるのかも知れません。例えば、気に入らない相手に「お前なんか犬に食われちまえ!」と心の中で何度も罵っていたことが、言語の七番目の機能により現実化されたのだ、と思って留飲を下げるとか。そういう意味では本書は作者にとって、「言語の七番目の機能」そのものである、ということになるのかも知れません(そうはいってもフルネームで登場していない存命の方については、さすがに訴訟等を懸念したのかも知れません)。或いはまだ存命の人が死んでしまうのは、奇想天外過ぎということでジョークという文脈で片付けることが期待され、実際そうなっているのかも知れません。 登場人物達がどういう人たちであるかを知っていなければ楽しめないかというと、普通に政治スパイ小説として読んでも面白くできています。主人公の大学講師は冒頭で記号を推理してシャーロックホームズばりの推理力を見せるものの、彼が最後に探偵として鮮やかな謎解きをする、という結末ではありませんので、推理小説を期待すると少しあてが外れるかも知れません)。背景には社会党のミッテランと保守派ジスカールデスタンという成熟した、実力ある大物同士の対決となった1981年の大統領選挙に至る暗闘があり、当時の社会風俗小説としても読め、『文学部唯野教授』要素がなくても十分楽しめる内容となっていると思います。 少し残念だったのは回収されていない伏線がある点です。登場する謎の日本人二名は藤田宜永と笠井潔を勝手に想像して読んでました(後者は少し時期が違いますが)。がしかし、彼らの存在は、本作がメタ小説であるかのような不安定さにおかれる記号となっていて、成程『薔薇の名前』だな、と思った次第です。あと本書が発表された当時はエーコは存命でしたので、もし彼の逝去後に書かれていたとしたら、もっと違ったエーコ像になったのかも?とか想像して読んでました。 推理小説のようにあっと驚く結末があって終わる、という形式の作品ではないため、エピローグの章に入っても新しい展開があり、最後の最後で、恐らくこれが作者のいいたい、現実にありえるであろう「言語の七番目の機能」なのではないか、と思われるエピソードで終結します。個々のファクト(記号)をもっともらしい理屈でつなぎ合わせた陰謀論やフェイクニュースが跋扈される昨今、そうした傾向を助長する震源にポストモダンがあると糾弾される一面もあるわけですが(このあたりの事情については最近でた『ポストトゥルース』の訳者付論は参考になります。個人的にはポストモダンは、世界はそういうものである、ということをより緻密に指摘したものだと思っていますので、彼らが悪いとは思っていませんが"文芸哲学"めいた過剰な衒学的冗長さには辟易していて、この部分については何度か心の底で「犬にでも食われろ!」と思ったことはあるかも知れません)、ラストの場面では、本当に人を動かすことができる言葉とは何なのか、についての作者の想いが現れているように思え、強い印象が残りました(この部分からすると、記号をもてあそぶ感のあった、本書で散々に描かれている面々よりもエーコの方に作者は共鳴しているのかな、という気もします(登場するエーコの描かれぶりからしてもそんな感じを受けますが)。 ※本書はミステリーですが、本格推理ではありませんので、1980年頃のフランスの現代思想家が登場する本格推理小説を希望する方は、笠井潔の矢吹駆シリーズがお奨めかも知れません。特に『吸血鬼と精神分析』は本書でも登場しているラカンとクリスティヴァが(私は長すぎて途中で挫折中ですが)、『オイディプス症候群』ではフーコーが登場しています(ただし矢吹シリーズの後半はただ長いだけ(登場する学者に関する作者の学習内容の要約みたいなものが延々と続く)、という側面もあり、前半三部作の方が一般的にはお奨めです)。 | ||||
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いや笑った笑った。確かにロラン・バルトが事故にあったという噂の後ほどなくして訃報がとどいたときはおどろきましたが、それがこんなことになろうとは! 諸先生方,皆様ひどい書かれようだけど、どこか、ねじくれたれた愛情も感じられて、フーコー氏などものすごく感じが出ていて腹を抱えてしまう。もっと勉強熱心でコレージュドフランスの諸先生方の謦咳に接することができてたらもっと抱腹絶倒だったのでしょうね。 『コーネル大学の「言語論的転回へのオーバードライブシシフト」発表者一覧』なんか今見るとブフォッだけど当時は大まじめでこういうのやってたよねーと思うと、”面白うてやがて哀しき””気分にもなりました。 クリッシ―ハインドの名前も何十年ぶりに見たし。 | ||||
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Amazonで購入させていただきました。 著者のローラン・ビネさんは奥付によると「1972年パリ生まれ。パリ大学で現代文学を修め、兵役でフランス語教師としてスロヴァキアに赴任、その後、パリ第三大学、第八大学で教鞭を執る。『HHhH−−プラハ、1942年』でゴンクール賞最優秀新人賞、リーブル・ポッシュ読者大賞を受賞。我が国においても、本屋大賞・翻訳小説部門第1位、Twitter文学賞海外部門第1位となるなど話題を呼んだ。本書は、アンテラリエ賞、Franc小説大賞を受賞。次作のCivilizationsはアカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞した」とのことです。 本作の存在は、SmartNews上に流れてきた翻訳家の鴻巣友季子さんの記事で知りました。 そのなかで「往時の思想界の実在人物やその著作が綺羅星のごとく登場する。ソシュール、デリダ、ドゥルーズ、ガタリ、ラカン、サイード……」とあるのを見て、即購入を決めました。 それに、記事中には「エーコ+『ファイト・クラブ』を書きたかった」と作者も言っているように、衒学ミステリだが、『薔薇の名前』のように難解ではないので、安心して楽しんでください」ともあり、エーコの『薔薇の名前』が大好きなのでとても食指がそそられました。 本書の原題はLa septieme fonction du langageで、邦題でもそのまま「言語の七番目の機能」と訳されています。 これは本書中でも明らかにされるとおり、言語学者のロマン・ヤコブソンの言語の機能の6つの分類を受けて、7番目の機能、つまり「魔術的もしくは呪術的機能」(p.133)という、人を思いどおりに操る機能があったとしたらどうなるのか、ということを描いた小説だと思われます。 本書帯に「ロラン・バルトを殺したのは誰か?」とあるように、冒頭バルトは史実どおり交通事故に会うのですが、これが事故ではなく殺人だとしたらどうなのか、ということから物語が駆動されます。殺されたとしたなら、だれが、なぜ? ということは興味を掻き立てられます。 エーコやフランス現代思想に興味がある方には興味深いこと請け合いですが、星を5つつけたものの、やはり展開に無理があるのではないか、とか、エーコには見られなかった(すこし)鼻をつく知識のひけらかしめいたもの(?)などがあって、正直星を3〜5のどれにしようか迷いました。 でも結局5つ星にしたのは、ページを繰る指が止められなかったことと、一気呵成に読み終わったものの、まだ物語のなかにいたかったという感想を抱いたのは久しぶりだったから、です。 いろんな意味でこの手の小説が読みたい方はウンベルト・エーコの小説(特に『薔薇の名前 上・下』(東京創元社、1990))や金井美恵子さんの『文章教室』(河出文庫、1999)、あるいはマリーシャ ・ペスル『転落少女と36の必読書 上・下』(講談社、2011)を個人的にはオススメします。 オススメです。 | ||||
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某SF作家のTwitterで「虐殺器官+ファイトクラブ」というような感想を目にし、チャック・パラニュークを愛読し映画ファイトクラブを擦り切れるほど観た人間として、これ如何にと訝りながらも手に取りました。 いやぁ、面白かった! 久しぶりにページを繰る手が止まらない本に出会えました。 こういう読書体験を待ってました。 | ||||
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. 本書の帯には、著者自身の「エーコ+『ファイト・クラブ』を書きたかった」という言葉が紹介されているが、大筋でそういう作品だと考えても良いだろう。 と言っても、私は『ファイト・クラブ』の原作(チャック・パラニューク)を読んでいないし、映画(デヴィッド・フィンチャー監督)を観てもいない(そもそも、アクションやバイオレンスには、興味がなかったからだ)。 ただ、評判の高さは知っていたので、あらすじくらいは知っていたし、今回、本作を読んで『ファイト・クラブ』が、どういう雰囲気の作品なのか、(もちろん誤解かもしれないが)おおよそわかったような気がしたのも事実だ。 その上で、本作『言語の七番目の機能』について、これから読もうという人に助言するならば、本書は『薔薇の名前』でよく知られるウンベルト・エーコへのオマージュ作品ではあるものの、『薔薇の名前』のような「本格ミステリ」ではない、ということである。だから、本作にそれを期待したら、確実に裏切られると思って欲しい。 本作は、エーコで言うならば、『薔薇の名前』ではなく、その次の長編『フーコーの振り子』に近い作品だと言えるだろう。 つまり、本格ミステリ的な「論理的な謎解き(無神論的脱神秘)」を主眼とした作品ではなく、謎めいた「秘密結社」のからんでくる「聖杯(「言語の七番目の機能」を記したメモ)探求」物語であり、主人公たちは「謎」を追ううちに、一種「異様な世界」の深みへと踏み込んでいく、そんなダークでサスペンスフルな物語だと言えるだろう。 そして、そんな物語に『ファイト・クラブ』がどう絡んでくるのかと言えば、それは『ファイト・クラブ』が「賭け喧嘩の秘密クラブ」だったのに対し、実在する思想家・知識人が多数登場する本作では「名誉を賭けた、秘密のデイベート・クラブ(討論クラブ)」が登場する、という仕掛けだ。 ただし、ただの「デイベート・クラブ」ではいささか緊張感に欠けるので、本作に描かれる「秘密の会員制デイベート・クラブ」である「ロゴス・クラブ」の「ランク付けを賭けた勝負」においては、敗者は指を切り落とされるという、いささか「暴力的な要素」が加えられており、その非現実的とも言える妖しさを、濃厚に醸し出している。 つまり、本作が、あるいは作者が、指向しているものとは、「本格ミステリ」が目指すものとは、真逆なのだ。 「本格ミステリ」とは、「密室殺人」や「ダイイング・メッセージ」の登場によって「非現実化」させられた世界を、「理性」の力で解体し再構築して「日常のロジック(正常な論理性)の世界に回帰させる」物語なのだが、本作が描くのは「日常から徐々に異様な世界へと踏み込んでゆき、物語が終っても、日常世界には戻って来れない物語」だと言えるだろう。 本作は、私たちが「当たり前の日常」や「当たり前の論理や理性」と思っているものが、はたしてそんなに「確かなもの」なのか、私たちはむしろ、そんな「夢」を見ているだけではないか、そんな「物語の中」にいるだけなのではないか、といった「存在論的不安」を掻き立てて、「世界からの乖離感」を与えてくれる、不穏な快感に満ちた物語なのである。 その意味では、本作は「パラレル・ワールド」を描いた作品だとも言えよう。 単なる「フィクション」ではなく、こういう「世界(宇宙)」もあり得、あるいは、現にそうなのではないか。私たちの方が、世界を見誤っているのではないか、という「存在論的不安」が作者にはあって、そんな感覚を読者にも共有させようとしているのが、この物語なのだ。 「解説」でも指摘されているとおり、バルト、フーコー、クリステヴァ、デリダ、アルチュセールといった、実在する(した)フランス現代思想のスーパースターたちへの本作の扱いは、かなり酷いものである。 その点について、翻訳者(解説者)は『フランスの若い世代に属する作家たちは、そのほとんどが戦前生まれの現代思想のスターたちが目の上のタンコブのように目障りに感じているのかもしれないなと思ったものである。』(P475)と、「世代論」的なもの(一般的なもの)を指摘しているが、本作における「嘲笑」的で「敵意」剥き出しの描写は、もっと個人的な、作者に独自なものではないかと、私には感じられる。 つまり、作者は「フランス現代思想」のようなものに「魅力」を感じているのではなく、むしろ「不安(あるいは、脅威)」を感じているのだ。 その「向こう側」に、窺い知れない「嘲笑的な悪意」のようなものが潜んでいるのではないかという「不安」が作者にはあって、それを恐れるからこそ、つい弄ってしまう「傷口」、あるいは、否応なく凝視する「悪夢」のような世界こそが、本作に描かれた「思想家たちの歪んだ私生活世界」であったり「敗者の指を切り落とす、秘密のデイベート・クラブ」であったりしたのではないだろうか。 本作が「暴力的」なのは、『ファイト・クラブ』がそうであるように、「肉体的痛み」が「現実感」を回復してくれることを、著者がどこかで期待しているからであろう。 しかし、実際には、そこに描かれる「暴力性や肉体的な痛み」は、どんどんと物語を夢幻化していくように見える。それはたぶん、「リストカットを繰り返す人たち」が、自分の感じている「乖離的な世界」からの逃避として「リストカット」を求めるのと、同じような感覚なのではないだろうか。 そしてたぶん、作者が唯一、心からの好意を持って、ウンベルト・エーコにオマージュを捧げたのは、エーコが(フランス現代思想家たちとは違い)「当たり前の現実」を保証してくれる、「温かな知性の持ち主」だと「慕う」感情があるからなのではないだろうか。言い変えれば、「悪夢」から引き戻してくれる人のように感じていたからではないだろうか。 私は、著者の代表作『HHhH 一一プラハ、1942年』を未読なのだが、著者のメタ・フィクション性とは、かなり「不安神経症」的なもののように感じられたので、『HHhH』もまた、そうしたメタ・フィクション性を孕む作品なのではないかと推測したのだが、さてどうだろう? . | ||||
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2015年に原書が出版されたローラン・ビネの小説の本邦初訳。訳題は原題通り。 この難解な本と格闘して、何とか第5部まで来て、恐ろしい事実に気付く。 この小説は大傑作ミステリーなのである。 第4部までは、本書を哲学小説と思い、哲学者実名嘲笑小説と思い、官能小説と思い、バイオレンス小説と思い、政治小説と思い、ディベート小説と思い、サド小説と思い、ミステリー風味の小説と思っていたのが、第5部まで来ると、本書がミステリーそのものであることがわかる。 つまり、「ロラン・バルト殺人事件」と「「言語の七番目の機能」文書消失事件」に関して、作者の作り上げた魅惑的な謎の数々は、第5部パリ編(再)まで来ると、ほぼ完全に(合理的に一部非合理的に)解明されるのである。 そして、エピローグのナポリ編で、伏線はほぼ完全に回収される。 本書がミステリーである以上、ミステリー部分については、ネタをバラさないように最大の努力をして、レビューを書きたい。 ただし、哲学小説、哲学者実名嘲笑小説、官能小説、バイオレンス小説、政治小説、ディベート小説、サド小説の部分については、この限りではない。 一、概略 〇小説は1980年パリのロラン・バルト交通事故外傷に始まり、1981年(イルピニア地震の翌年)のナポリに終わる。現実の事件、人物をたくさん引っ張り出しているが、中身はフィクションである。 〇実名人物については、1、記録通りの部分と、2、絶対にあり得ない部分(たとえば、デリダが1980年に死ぬ)と、3、作者が伝記、記録等を元に、スキャンダラスな想像を膨らませて書いている部分(たとえば、ミシェル・フーコーの精力絶倫ぶり)が入り混じっている。3が多いようである。 〇探偵役はジャック・バイヤール警視。バツ2、公務員として国家のために働く中年男。メグレ好き。思想は保守的。捜査以前は、現代哲学にも、記号論にも全く関心なし。性的にも穏健。汚い町を行く志高い男のイメージ。それでも、学会後の乱痴気パーティー会場で、二人の女性と前と後ろで繋がったりもする。 〇相棒は、若い記号学者シモン・エルゾク。得意はホームズ風の初対面人物分析。現代哲学者の表世界と裏世界の案内人として、バイヤールに無理やり捜査に引きずり込まれ、優秀な相棒となる。美女が大好きで、何度か美味しい思いもする。本業で頑張り過ぎて、悲惨な目にあってしまう。 〇「言語の七番目の機能」はロマン・ヤコブソンの『一般言語学』で書かれなかった機能のこと(六番目の機能までが書かれている)。本書は七番目の機能について書かれたヤコブソンの未発表原稿をめぐるミステリーである。 二、章別 〇第一部パリ 略 第二部 ボローニャ バイヤールとシモンは捜査に行き詰まり、ウンベルト・エーコを探しにボローニャへ行く。「ロゴスクラブ」集会。老婆対ミケランジェロ・アントニオーニ監督のディベート対決。テーマは「知識人と権力」。アントニオーニは敗れ、小指を切り落とされる。深夜、シモンは左翼女子学生ビアンカと解剖台で激しい交合。翌日朝のボローニャ駅で、エーコが「言語の七番目の機能」についての推理をバイヤールたちに語る。 第三部 イサカ アメリカのコーネル大学で開かれる学会に、ミシェル・フーコーほかの哲学者たちが出かけていく。バイヤールとシモンは、七番目の機能に関連する言語機能を研究しているサールを探すために学会へ行く。デリダの講演は大人気で終わったが、学会後の乱痴気パーティーが賑わっている頃、外の墓地でテープを聴いていたデリダが大型犬に襲われてかみ殺される。サールは自殺する。バイヤールはヴェネツィアでロゴスクラブの重大イベントが開かれることを知る。 第四部 ヴェネツィア ロゴスクラブディベート対決。イタリア人対シモン、テーマは「クラシコとバロッコ」で、シモンが勝利。メインイベントは仮面の大プロタゴラス対仮面のソルレス。テーマは「人は穏やかに狂う」。大プロタゴラスが勝利し、ソルレスは残酷な刑罰を受ける。シモンに敗れたイタリア人はシモンを誘拐し、残酷な復讐をする。 第五部 パリ 謎の解明。 エピローグ ナポリ 伏線の回収 三、私的感想 〇ミステリーとしては、大変面白かった。 〇哲学小説としては、ディベートの部分は面白いが、本書を現代哲学、記号論の入門書とするのはちょっと無理な感じ。 〇哲学者実名嘲笑小説としては、名誉毀損等のモラル上の問題はあるとは思う。特に個人史を架空の内容に書き換えてしまうのはよろしくないとは思う。しかし、ほとんどが死者であるし、高い評価の確定した人達だし、この小説によって評価がゆらぐことはありえないので、読者としては笑っていればよいのかもしれない。 〇あと書きにあるように、フランスの若い世代の作家には、戦前生まれの現代思想のスター達が目の上のタンコブのように目障りに感じているのかもしれない。 〇本書で一番ひどい目にあっているのは犬に食い殺されるデリダと、ディベートに負けてXXされてしまうソレルスだが、一番嘲笑されているのは同性愛精力絶倫とされる超大物ミシェル・フーコーで、若者にオーラルをさせてモノが立派と褒めてもらったり(59頁)、おやすみのキスをねだったり(310頁)、ミック・ジャガーのポスターを前にマスターべーションしたり(343頁)忙しい。バルトは早く死んでしまうため、被害は少なくなっている。なお、ウンベルト・エーコだけは、尊敬の念を持って描かれている。 〇官能小説としては、ボローニャの夜のシモンと女子学生ビアンカとの解剖台での交合をいやらしく、ねちっこく、詳細に書いているのが楽しい。その他。 〇バイオレンス小説としては、犬に襲われるデリダのほか、あちこちで残酷に人が殺され、爆弾が破裂する。 〇政治小説としては、1981年の大統領選挙ジスカール・デスタン(現在94歳)対ミッテラン。 〇ディベート小説としては、上述。 〇サド小説としては、小指を切り落とされるアントニオーニ、XXを切り取られるソレルス、XXを切り落とされるシモン・・。 私的結論 〇言語の七番目の機能の話は説得力がある。なるほど、この理論、テクニックをマスターすれば、コミュニケーション、ディベートにおいて、無敵になれるかもしれない。 蛇足 〇シモンは第五部パリの祝祭の夜に、美貌の女スパイのアナスタシアをやっとゲットする(以前にふられている)が、具体的ラブシーンは書かれなかった。 | ||||
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