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輝ける闇
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輝ける闇の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.67pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全2件 1~2 1/1ページ
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純粋のルポルタージュではないので人により好みが分かれます。 ノンフィクションであれば時系列で年月日も忠実に記されていますが、本作品の場合は、事実を基にしてアレンジされたフィクションで描かれているので予想した感じではありませんでした。 それと芥川賞作家だけに比喩が多く、私には煩わしくて戦争の事実がストレートに伝わってこないです。 同著者の「ベトナム戦記」などを読んでから、再度評価したい思います。 | ||||
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1802年に現在のベトナムとほぼ同一の領域を最初に支配した統一政権の阮朝(越南国)は、清国に朝貢して形式上従属しながら自国を「中国」と呼んで世界の中心に位置すると称し、自国と清は兄弟で対等であると見なして国家を存続させていた。1858年にナポレオン3世がフランス遠征軍を派遣してコーチシナ(ベトナム南部)を植民地にした事を起源として、1882年にトンキン(ベトナム北部)占領、それを基にした宗主国清の介入による清仏戦争(1884〜1885年)での清の敗北の結果の天津条約(1885年)で清が宗主権を放棄した事を経て、1887年にインドシナ連邦としてフランス領インドシナ(仏印)が成立し植民地とされた。阮朝自体は1945年まで続いた。 第二次大戦中の1940年にナチス・ドイツがフランスを占領した事から、ドイツの同盟国日本は同年に仏印北部に、翌年に仏印南部に進駐して在来の仏印政府との共同統治体制を布いた。其の年に、ホー・チ・ミンは「ベトナム独立同盟会(ベトミン)」を組織してその主席に就任した。 1945年に日本が敗北してベトミンが北部のハノイで蜂起して8月革命を始め、南部のサイゴンでの民衆蜂起等を経て同年に「ベトナム独立宣言」を発表し、ホーは「ベトナム民主共和国」を建国して国家主席兼首相に就任した。しかし、旧宗主国仏や米英中ソ等の連合国側諸国が承認しなかった。ポツダム協定により南北に分割されて、北部に中華民国軍、南部に英軍が進駐した。その直後に仏国が南部の支配権を奪取して、インドシナ一帯の再支配を目論んだ。ホーは北部の国民党軍(中国)の進駐が長引く事を恐れて仏国を受け入れたが、仏国とのベトナム独立についての交渉を重ね、1946年に一旦は独立が承認されかけたものを仏のコーチシナ共和国樹立という分離工作によって破談し、同年末に仏がベトナム民主共和国に攻撃して第一次インドシナ戦争が始まった。1954年に仏国が敗北してジュネーヴ協定が締結され、北緯17度線で南北に分割され、北部はベトナム民主共和国、南部はベトナム国が統治する事となり2年後に再統一の全国選挙が予定された。 しかし翌年、ジュネーヴ協定に調印しなかった米国が名目上ドミノ理論(ある一国が共産化すれば、周辺諸国も共産化される)を唱えて、共産主義を嫌悪する資本家や宗教家、自由主義者等と図って、南部に「ベトナム共和国」の政権を発足させた、経済的・軍事的支援を行った。ジュネーヴ協定で定められた再統一の全国選挙を南部のベトナム共和国がボイコットし、反対勢力を弾圧する独裁政治を行った為、それに抵抗する形で1960年にベトナム労働党の支援のもと、「南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)」が結成された。其れによってベトナム戦争が始まり、ベトコンは介入を始めた米国と激しく戦った。ベトコンは主要都市と幹線道路を除く農村地帯をほぼ完全に勢力下に置いた。 1965年に米軍がベトナム民主共和国へ北爆を開始し、50万人の大軍を投入して本格的となった。米軍は軍事関連施設のみを爆撃の対象と言いながら、実際には病院・学校・民家・キリスト教会・農業施設等、枯葉剤やナパーム弾を用いて「皆殺し作戦」を行なった。枯葉剤は戦後に健康被害や出産異常を引き起こし、焼夷兵器のナパーム弾は広範囲を無差別に焼き尽くした。又、米軍やその他の同盟国軍による一般村民への戦争犯罪として、無差別機銃掃討や大量殺戮、女性に対する強姦殺害、家屋の放火等があった。後に、ベトナム女性との混血児(ライタイハン)が確認されている。又、其の米国に対抗する為に、前線へ出た男性の民衆に代わって後方では婦人部隊が組織され、農作業の際にも銃を所持し、町の警備に当たる等をして、民衆全体が米国に対して抵抗し独立に向かって戦った。 又、南部のベトナム共和国の第2代・3代大統領グエン・バン・チューは強烈な反共主義者であったが、南ベトナム国内での麻薬の不正取引の元締めであり、しばしばベトコンからも麻薬を入手していた。更に南部の政府は不正や汚職が蔓延し、軍も堕落し士気が下がって規律の維持も難しくなり、一般市民は米軍に媚び諂って売春等が流行り、全てが腐敗していた。 次第に国際世論が反戦・反米となり、且つ米国がベトナム戦争に莫大な戦費を費やした事から、退陣に追い込まれたリンドン・ジョンソンに代わったリチャード・ニクソンが1969年に大統領に就任して撤収を模索し始めた。借金国に転落した米国は、1971年にドルの金本位制を撤廃して紙幣と金の兌換を停止してドルが「紙切れ」となり、以降、民間銀行であるFRB(米連邦準備制度理事会)によって憲法や議会に拠らずに、民間人が自由に幾らでも輪転機でドル紙幣を発行出来る様になってしまった。1973年には泥沼化した戦争を終わらそうとして、1月27日にパリ協定(ベトナム和平協定)がベトナム民主共和国(北ベトナム)、ベトナム共和国(南ベトナム)、南ベトナム共和国臨時革命政府、アメリカ合衆国の間で調印されてベトナム戦争終結を約した協定を結んだ。又、第一次オイルショックでの景気停滞や不況で打撃を受け、ニクソン政権が残したウォーターゲート事件やジョン・F・ケネディー政権が進めたアポロ計画の月面探査への膨大な出費もあった事等もあって、ジェラルド・フォード大統領は軍の派遣や軍事援助を拒否し、1975年にサイゴンが陥落して戦争が終結して南部のベトナム共和国は崩壊した。北のベトナム民主共和国が主導して南北統一を実現し、翌年に「ベトナム社会主義共和国」が成立した。そして、米国は其れ以降、世界一の借金大国である。日本のお金は米国へ流れ、貸したお金が返ってくる事は無い。 ホー・チ・ミンはベトナム戦争中の1969年に亡くなられたが、共産主義の実現よりも民族解放・ベトナム独立が生涯の主要課題であった。又、腐敗や汚職、粛清に無縁で、禁欲的で無私な指導者であった。更に、自らが個人崇拝の対象になる事を嫌っていた。自伝の類を残さずに亡くなられた為に、自己の業績について殆ど語らないという伝統がベトナムに生まれた。現在存在する霊廟や墓所、銅像、エンバーミングした遺骸は、ベトナム労働党政治局がホーの遺言を無視して作ってしまった物で、ホーはそれらの物は個人崇拝に繋がる為に望んでおらず、遺書には火葬後の遺骨を北部・中部・南部に分骨して埋葬する事と、戦争勝利後の農業合作社の税金を1年間免除することが書かれていた。その高潔な人柄から民衆から尊崇を集めて愛され、慈愛に満ちた風貌から「ホーおじさん」と民衆に親しまれた。(参考文献:ウィキペディア) 本書の著者は、1964年に南ベトナムの米軍に同行して取材を行なった。現地での直接取材でベトコンからいつ襲われて殺されるかもしれない状況にて米軍側からの視点に立って取材した。米軍の北爆が開始されて前記のような米軍の残虐行為が問題となって、国際世論の米国批判が高まる前であったことや、米国との同盟国としての日本の立場、本書の中に出てくる病院での奉仕に来ていた米人のクェーカー教徒の言う「…堕落…傲慢、無知、侮蔑、恐怖、無神論…」が米国とその他南側の同盟国軍に存在する事、米国追従国家日本の特にメディアの姿勢等も影響にあった様な内容であるように感じる。南部の腐敗は伺えたが、米国帝国主義による北側への無差別爆撃等の虐殺、侵略行為については、本書からは全く解らない。ベトナム側の視点に立ち、その様な米軍の悪の「真実」が解る様な内容の方が私にとっては良かった様に思い、残念である。知識の余り無い人にとっては、視点を持つ、或いは主人公の側が正義の様に勘違いされ、相手の敵が悪者と勘違いされかねない。 参考動画:「NDN(株)日本電波ニュース社」のホームページ([・・・])や、YouTubeチャンネル・「NihonDenpaNewsTV」にて1960年代に撮影されたドキュメント映画(のダイジェスト版?)が公開されている。其の中にはホー・チ・ミン主席への単独インタビューも在る。こちらの方から真実が伝わって来る。 | ||||
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