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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全563件 521~540 27/29ページ
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内容の良さは多くのレビューに書いてある通りなので特に書きません。 じゃあ何が書きたいのかと言えば、否定的なレビューに対して感じた部分についてです。 否定的なレビューのほとんどは「リアルさ」=「現実感」に依拠しているように思われます。 《こんなことは起こらない、冷静すぎる、訛りが無い……》 あげれば際限がないのですが、だいたいが「リアリズム」に関するものでした。 しかし私は、それらをひっくるめて、 「小説はすべてがリアリズムであるわけではない」 ということを言いたい。 「本当に世の中で起こったこと」や「起こりそうなことをそのまま書く」ことを求めるのなら、小説は読まなくても良い、あるいは、読まない方が良い、と思います。 もちろん小説には様々なものがあって良いのであって、徹底的にリアリズムを突き通すものがあってもいいでしょう。それは否定しません。 しかしだからと言って、(だからこそ)現実感を欠いた小説が否定される必要もないでしょう。 むしろ、現実をそのまま描くのではなくて、現実を別の角度から、もっと言えば、有り得ないことを想定することによってこそ、現実と言うものを、今までにない、もっと現実的な見方で捉えなおすことが出来る場合だってあるのではないでしょうか。非常に簡単な例ですが、顕微鏡と言う装置を使うことによって、我々は自分たちが捉えきれる限界を超えて、そこに有るものを知覚しえるわけです。 ******************************************************** ここからは完全に私見ですが、この小説を否定しきれる人は「現実にべったり適応でき、タフに生きていける人」なのでは。(アカやアオにそれを感じました。シロやクロのような陰のある生き方=現実から大きく離れてしまった存在、に比べて華やかな色合いをしているのも、そのような意味合いがあるのかもしれません)それは悪くない生き方だし、むしろ良いともいえる。レクサスを売ることも大切だし、セミナーを必要とする人にその機会を与えるのもいいでしょう。 しかし、世の中にはそうじゃない人だっていると言うことを考える必要もあるでしょう。それこそがシロ=ユズであり、つくるでもあるのかと。 では彼らはどうやって生きていくのか。現実に生きる場所を見いだせない彼らはどうするのか。様々な生き方が(或いは死に方が)あるのでしょうが、僕なら村上春樹のような稀有な作家の小説を読んで、そこに生きる場所を見出して生きていくと思う。現実では生きていけないのだから、フィクションで生きていくしかないんです。 ******************************************************** 現実感のなさを引き合いに否定する人には、小説とはそもそも現実感を求めるだけに存在しないということ、そして現実世界で生きていくことの出来ない人、のことをもう少し考えてほしいと思いました。 | ||||
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村上春樹には、高校生活の思い出を主題にした小説がいくつかある。 「めくらやなぎと眠る女」 「1963/1982のイパネマ娘」 「我らの時代のフォークロア 高度資本主義前史」 などである。これらはいずれも短編だが、今回初めて長編小説として高校時代に焦点をあてたものが本書である。 公立の進学校には、この小説に描かれたような質の経験が確かにある(誰にでもではないけれど)。小説の描く細部から 自分自身の物語をなにがしか聞き取ることが、本書の最大の楽しみです。大変興味深く、ハルキワールドを味わいました。 次のエッセイの一節を敷衍した小説といえるでしょう。 ・でも10代後半くらいの少年少女の恋愛には、ほどよく風が抜けている感じがある。深い事情がわかっていないから、 実際面ではどたばたすることもあるけれど、そのぶんものごとは新鮮で感動に満ちている。もちろんそういう日々は あっという間に過ぎ去り,気がついたときにはもう永遠に失われてしまっているということになるわけだけど、でも 記憶だけは新鮮に留まって、それが僕らの残りの(痛々しいことの多い)人生をけっこう有効に温めてくれる。 (『村上ラヂオ』所収「恋している人のように」) 以下は、ちょっと引っかかったこと。どなたか「正解」を知っていたらご教授下さい。 ・主人公の卒業したのは、東工大とおぼしいが、なぜそう書かれていないのか。名古屋大学は実名で出てくるのに、 アンバランス。 ・267頁「ダイハード12」って、誤植なのでしょうか。 同時代の作家の新作を発売すぐに読むことの小さな幸せを確かに感じました。 | ||||
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多崎つくるは、十六年掛けて、じっくり成長しました。。男2人は、あっさり描写されているのに対し、女性像は克明に描かれています。これが鍵かもしれない。置いてきたもの、手放せないもの、大事にしているもの、通じない思い、共感しながら読みました | ||||
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気軽に読めて、そして読後、外に出て風景のひとつひとつが、世界が、愛おしいものであることを再確認したくなる小品。リストの「巡礼の年」をかけながら読むと更に良いかも。 | ||||
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さっきこの作品を読破させて頂きました・・・。 今、その余韻に酔い浸りながら泣きながらレビュー書いております。 あぁ、何故春樹氏の作品はここまで素晴らしいのだろうか。 小生の欲求と不安な部分をここまで潤してくれる作品はなかなかないです。 現代で比喩が秀逸で綺麗で美しく読みやすい文章を書ける著者はこの人以外いないでしょう。 ただハルキスト代表として愚痴を少しだけ溢させて頂きます。 マスコミは春樹氏の作品をゴリ推しするのをやめていただきたい。 春樹氏の作品はあくまでも『純文学』なのだ。そんな大衆向けのエンタメ作品ではないのだ。 なので早急にやめてもらいたいです。 あとこの作品は高尚な純文学小説なので、 流行ってるからこの作品を手に取ろうとする主体性の無い人や感受性が乏しい人は読まないで頂きたい。 宜しくお願いします。 | ||||
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生きていても死んでいることもあって、死んでいても生きていることがある、そんな肉体と魂の話という読後感です。 30も後半になれば必ず人生を左右する出会いがあり、別れがあり、恋愛とか狭義ではない魂と魂の深い結びつきであったからこそ、引きちぎられるような別れもある、そういう諦観の中で生きている(生きざるをえない)人には響くプロットです。 何人かがご指摘のとおりおそらくモチーフが国境の南太陽の西に近いですが、モチーフやひとつひとつのエピソードやキャラ設定ではなく、作者の伝えたい心理学的な無意識(あっちとこっち)の世界のつながりを意識すると、メッセージが深く伝わります。 全体の構成が古典「クリスマスキャロル」に近く、オムニバス的に過去の人との出会いを通じて、いまの自分を取り戻すものの、結局相手を考えるがゆえに受身のような選択をする主人公が歯がゆかったです。ただそれも単なるつくるの婚活の物語にしなかったところに、ありきたりの恋愛小説から脱却しようとする作者の狙いなのかなと思いました。 人から深く傷つけられたこと、同時に相手も傷ついたこと、しかしそれは悪意の出来事ではなく偶然であったがゆえに、誰かを悪者にできず、ずっと苦しんできたことがすっと氷解するようでした。このカタルシスこそが村上春樹の求めている小説の作用だとしたら狙い通りですが、喪失感を抱えたまま生きるという、救済のない(もしかしたら作者的には救済かもしれませんが)現代人の生き方そのものの哀しみを同時に得ました。 関係ないですが物語の進行役として、サラさんが妙に自覚的な発言でつくるを導くのですが、こういう自覚的な女性ってそんなにたくさん(パーティで紹介してもらえるほど)いるものなのでしょうか・・・。 なお、青山の骨董通り周辺は村上春樹小説によく登場しますが、ここ通るたびに、「この土地の何があっちとこっちの世界の入り口の象徴として彼を惹きつけるのか」かを考えます。 | ||||
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どうにも長編となると無駄に力が入ってボロが出る、というのが村上春樹の印象なんですが。この規模の作品は面白いですね。 ただ、「巡礼」ってほどかな?とは思いました。かつての友人を順番に訪ねて一人一人昔の誤解を解いてるだけというか。 当時一人でグチグチ死ぬほど悩むんだったら、もっと行動起こすべきだったのでは?とか思ったり。まぁ、そこでアクティブにガンガン攻められないあたりが、村上春樹の奥ゆかしさなのかもしれませんが。 深いかと言われると疑問ですが、淡い感じはします。結末もはっきりしませんしね。 | ||||
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多崎つくるは沙羅の言葉を巡礼の先々で繰り返す。 「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」(p193) 歴史修正主義者に対する批判と受けとめた。 | ||||
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「雑文集」の中に『余白のある音楽は聴き飽きない』と題したエッセイが収録されていますが、今回の新作を読んで感じたのは「余白が少ないな」ということです。 以前の作品では、魅力的かつ謎めいたパーツと工具が読者の前に静かに差し出され、それを読者が心のおもむくまま組み立てていく密やかな楽しみのようなものがあったと思うのですが、今回の作品では読み手が手を出す間もなく作者の側で恣意的に組み立てられていくような感じがあった。 以前の作品にあった、静かな余白があまり感じられず、急きたてられるように物語は進んでいく窮屈さも感じました。 作者が饒舌になった分、登場人物の生き生きとした存在感が失われたような気もしました。 あくまで著者の以前の作品と比較しての感想です。 | ||||
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ノルウェイの森に似ている。 ある意味で。 直子と緑。 でも、今回緑が弱く、どうも魅力的な女性に思えなかった。 風景描写は圧巻。とくにフィンランドと新宿駅。 題名通りのノスタルジア。 美しく甘い、そしてやはり孤独で静かな小説でした。 つまらないところがいっさいない、 圧倒的な比喩、 安心して読み進めることができます。 彼がどんなに否定しようと、天才ですね。 | ||||
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とても温かい、勇気のわく1冊でよかった。 登場した4人の昔の友達の16年後の様子、その一人ひとりが、自分の中にすべてある様な気がして、はっとしました。 車のディーラーで表面的に成功している友達、啓発セミナーのような会社を興して「やる気」を商品にしてる友達、クリエイティブなことを追及している友達、そして、自分の存在を許せなくなっている友達。 こういう要素、全部自分の中にあります。 そして「いいじゃんそれで。」と村上春樹さんに言われているように感じました。 特にディーラーの友達は、ありありと情景が思い浮かび、伝わるメッセージがものすごく明確でした。私の表の顔とかぶる。 主人公が東京にいて、友達が名古屋にいる。 ちょっと時間をかけたら、すぐに会える距離にいる友達。でもほとんど会いにいかない。 これって、日常生活に疲れてなかなか気づかない、自分の内側にいるいろんな性格をした自分に会いにいかないことと、同じに思えました。 震災後、何がなんだかわからないまま過ぎた時間を超えて、春に届いた村上さんからのエールでした。 ありがとう。と言いたいです。 | ||||
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名古屋。物が豊かで、変化はなく、とても壮大な退屈な街。私も住んで居ましたが、地元の人にとっては、何でもある、私にとっては何もない街でした。そこに留まった彼らには、色彩はあったが、色彩時間なかったのではないか。街のネオン、看板は色彩だ。しかし、看板やネオンは平面で、ここに出てくる登場人物はできる限り奥行きなく描かれている。クロとの再会のシーンは、ゆらぎや甘さがある。だから、本の厚みもこれ以上はあってはいけない。あくまで表面的に。 出てくる音楽はリスト。アラウについて触れられているが、リヒテルは趣味じゃないのかな。特徴的なのはシベリウス。フィンランドが巡礼のクライマックスに選ばれている。 この本の理解に、シベリウスの次のような言葉が不可欠なのではないだろうか? 「皆さんが、色とりどりのカクテルを差し出すとき、私は透明な水を差し出しているのです」 現代音楽、技巧に満ちた楽曲の中で、シベリウスの音楽は20世紀のそれに聴こえない透明さがある。交響曲5、7。 あの震災以降、色を失った景色の中で、透明な水をまずは一杯、差し出したのではないでしょうか。 | ||||
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久しぶりに、時間を惜しんで小説を読むという体験を持つことができました。ここ数年の村上氏の作品は私にとっては冗長的すぎて正直余楽しめませんでしたが、今回の新作は一気に読んでしまえる長さとテンポの良さでとても楽しめ「中国行きのスローボート」や「レキシントンの幽霊」をよ読んだ時と同じ感じを持ちました。 「IQ84」「ねじまき鳥」の時には味わえなかった読了後の自分が別の場所にいるような村上氏独特の感覚もありとても懐かしい感じがする作品でした。 今までの主人公の一人称「ぼく」が「おれ」に変わっていること、すべての事象について中途半端なエンディングであることなどいろいろ違和感はありますが、それでも30年近くの村上氏のファンの私にとっては久しぶりの春樹節でうれしかったです。 | ||||
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<span class="tiny"> 長さ:: 9:47 分 </span>色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 新刊を読みましたが優しいタッチですね。 ノルウェイの森を彷彿とさせます。 主人公の巡礼と言うよりも、「村上春樹さん自身の巡礼の年」だと思います。 感想を細かく、ビデオレビューにしてみました。 | ||||
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村上春樹もつくづく不運だと思う。読んでもいない批判論者にレビューを書き込まれて。まあ文学界では異端児だし、メディアに勝手に持ち上げられ目立つしで敵も多い。 これまで大抵の村上春樹の作品を読んできましたが、読むのが苦痛だった1Q84とは一転、本作は非常に読みやすく、村上春樹らしさを取り戻したのではないか。一方、登場人物に関する描写は少なく、かつキャラクターの魅力も薄く感じる。読了後の満足度も他の作品と比べても多いとは言えない。他の方が指摘するような違和感や、これまでのような現実世界と少し離れた世界との織りなす物語も少ない。 しかし一度読めば、お馬鹿な酷評レビュアーがいかに“読まずして必死に書き込んでいるか”が分かります。どこの関係者なのか、いくらもらってるのか甚だ疑問です。 | ||||
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一部の名古屋から上京してくたくたな生活を送っている村上春樹ファンにとっては―少なくとも私にとっては―サプライズな新作でした。 主人公たちの高校時代の描写で、名古屋弁喋ってないのは変だろって突っ込みは野暮なので、 というよりマトモに喋らせたら、彼らの輝ける神秘性が根こそぎ失われるのでナシってことでお願いします。 このお話にとっては、これといって特徴がない、保守的などこかの地方都市が、 主人公の光芒の地であればそれでよい、といったような意味合いしか欲されていません。 ナゴヤが深い謎とメタファーに満ちた魔法の地、なんてことがある訳ないのです。あってたまるかい。 いきなり冒頭から主人公がアグレッシブに死にかかっているところから始まります。 鬱な主人公はいつもの事なので、そのまま読み進めると、青春時代の苦しい過去の出来事を経て、 鉄道駅を作る会社に勤める、30代の独身貴族が出てくるわけです。やっぱりね。 物語は高校時代の、主人公含め男3人と女2人の、奇妙なほどに完璧で神々しい友情の思い出と、 それらをある一本の電話により、取り返しがつかないまでに全てごっそり失って、 現在の主人公が浮かない顔で東京をぼそぼそめそめそと、しかし例によって美味しそうな飯を食べながら、 地味に(そして浮世離れに)生活する様とが交錯して描かれていきます。 大学時代に主人公が出会った、物語性に満ちた預言者のような後輩の青年や、 生きものである人間が身体を精神と対話させるための、儀式的な美を込めたスポーツ描写も出てきます。 そして例によって、年上で官能的で理知的な女性と、スマートな肉体的お付き合いをしていて…なのですが、 主人公が動き出しそうな予感を感じて、ここまでにばら撒かれた謎が回収されそうかなーと本の厚みを確かめてみると、 もう結構進んでしまった事に気づくでしょう。 べつだん彼にご大層な謎なんてないのです。お話にも、仕掛けも謎もないのです。(星が4つなのは当初の期待の方向が違ったせい) 主人公は、内っかわに宿り続ける過去に、振り回され、痛めつけられ、対峙さえできず、 心底嫌になって、とうとう『未決』の箱にぶっこんだという大人風対処について、例の年上美女が、 あなたずっと箱の中にいるのよ、と女神の啓示を下されまして、 主人公はさいしょ恐る恐ると、やがてすさまじくアグレッシブに『未決』と向き合い、 あの失われた友情をほどいていこうと、かつての友にアプローチしていきます。そして不可解であったことが解明していくと、 それは残酷な事実として意味を成し、より深く頑迷な苦しみとなって主人公を戸惑わせ、後悔させ、内っかわを苛むのです。 外側から彼を見れば、いい年して何やってんの、としか見えません。お金にも女にも困っていないんでしょ、ふうん。 それでも彼の内っかわは、毎日禿鷹に臓物を食い千切られても闇夜が明ければ再生するプロメテウスのように、 繰り返し繰り返し傷つき、悪夢にうなされ、そしてまた性懲りもなく傷つくために目を覚まします。 彼は死ぬことができなかった。自らで終わらせることもできず、常に鮮明な痛みに巻き戻されながら頭は年を取り、生き続ける。 それはおそらくどこにでもいる、若い時に自殺を考えたことがある、30代のぱっとしない、人生うまくいかない日本人と(おおよそ)同じ。 他人に聞かせたらドン引きされるか説教されるかしそうな過去を持っている、ただそれだけの主人公。 しかし、プロメテウスは火を持ってきた男です。 つくるは駅を作る男です。文明の動脈を愛する人間です。 その情熱も、内っかわを焦がすはげしい痛みの一つであることを、忘れるはずはないのです。 | ||||
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村上春樹の作品は、すべて読みました。今回も、Amazonさん、しっかり12日に届けてくださいよと祈りながら待ちわびていたような感じでした。(実際に12日に届きました) しかし、実際に読んでみると、あまりいい出来でないような気がしました。おもしろいのは確かですが、村上春樹の作品としては、凡作以下かと。 今作は、ノルウェーの森のような作風であり、読んでいてもノルウェーの森と同様の感覚を抱きます。しかしながらノルウェーの森には、遠く及ばない気がします。ノルウェーににているがために、その粗が目立ちました。ノルウェーが星10なら、星5程度といった印象です。 その理由はシロ(非常に重要なキャラクターです。)に共感できないこと、そもそもシロについてあまりにも書き込まれていなさすぎです。無理があります。 人物描写についての不備はやはり、沙羅(非常に重要なキャラクターです。)にもあてはまります。こちらも非常にぼんやりとしたイメージしか浮かんできません。 春樹らしい素晴らしいところが本当にたくさんあり、序盤はノルウェーの森の以上の感動を与えてくれるかも、と期待しましたが、致命的な粗さが目立ちました。 | ||||
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村上春樹の一貫したテーマである「喪失と再生」が綺麗に無駄なく収まっている、非常に無駄のない秀作であり過去の作品の流れから外れることのないザ春樹的な作品。 1Q84で見られた過去の作品とは決別したような文体からいつもの文体に戻り、キャラクターの配置などにも過去の自身の作品へのオマージュが見られる。 最近の作品にみられるイニシエーション描写は控えめ。イニシエーションはやり過ぎるとリアリティがなくなるので個人的に今作くらいがちょうどよい。 謎を解き明かすのがテーマでなくどう向き合うかがテーマ。 一人の人間が、無くしてしまった、あるいは無くしていくことにどう対峙していくかが丁寧に記されている。喪失からの再生はノルウェイの森でも見られたが、そこから一歩も二歩も踏み込んだ段階まで描かれていてこれは今だから書けるといった感じか。 登場人物が象徴的に描かれていたのでイニシエーションの違和感もなく、春樹の目指す「物語」として過去の作品よりクオリティーの高いものになっている。反面、エンターテイメント性は著しく低い。 ハルキストの求める春樹語録、文体の心地よさより物語としての良さが勝っているので非常に素晴らしい作品だと思います。 | ||||
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『1Q84』で回答が提示されなかった“天吾の母親はなぜ死んだのか?”という謎。そして、天吾にとっての“母親はどこに行ったのか?”(実は絞殺されていたのだが)という謎の回答を、村上さんは、この物語の力を使って導き出した。 この小説を読み終えたあと、僕はまずそう思った。 村上さん自身が『1Q84』執筆後、それらの謎を解決させて読者に伝えなければ、と頭の片隅で思っていたのだろう。 だって、シロとの性交シーン(ふかえりとのシーンと同じだ)や『トークン』(これはリトル・ピープルと同義だ)という、 あんなわかりやすい場面や例えを、村上さんが意味もなく持ち出すはずがないから。 なので、「それは突飛な意見だ」と言う方もおられるかもしれないが、 僕はこの小説を『1Q84』の続編だと思っている。 そしてそれと同時に、 この小説は、村上春樹による村上春樹論だとも思っている。 というのは、まだ巧く言葉にできないけれど、この小説を読んでいるとき、 なぜか僕は、村上作品のキャラクターたちの顔や声が鮮明に蘇ってきたからだ。 たぶん、これは僕だけじゃない。 きっと、同じことを思った村上春樹ファンでは多いはずだ。 『羊をめぐる冒険』で羊にとりつかれて自殺をした鼠。 『ねじまき鳥クロニクル』で奥さんを取り戻そうとしている岡田亨。 『海辺のカフカ』で起きたら血だらけになっていたカフカくん。 『1Q84』で自分の名前をひどく気にしている青豆。 この小説のページをめくるたびに、みんなが次々に脳裏を横切り、次々に言葉を発していった。 発せられた彼らの声は方向や高さを合わせ、徐々にしかし確実に この物語が導き出そうとする回答へと集約していった。 だから、僕はこの小説を読んでいるあいだ、すごく懐かしい気持ちになった。 なんていったって、鼠やカフカ君にまた逢えるのは、 たとえそれが頭の中であれ、ファンにとって、とてもとても嬉しいことだから。 そんな風にして村上作品の過去の登場人物に出会うしかけ(のようなもの)を 村上さんが創り出したのなら、この作品には、村上春樹による村上春樹論的な要素が含まれているかもしれない。 そしてそれは、村上作品の総まとめということもいえるのかもしれない。つまり、僕はそう思ったわけだ。 で、だからこそというべきか、 僕は、この小説を読んでいるときも、読み終わったときも、懐かしいと思うと同時にひどく哀しい気持ちになった。 もう村上さんは多くの作品を世に残すことができないんじゃないか。 もしかすると死期が近づいてるのでは。 そんな風に訝ってしまった。もちろん勝手な想像だけど。 ともかく、村上さんは、マイルズ・デイビスとは違った人生終盤の歩み方をしている。 ドストエフスキーとも違う。 次の作品は、おそらく短篇集になると思うけど、 楽しみに待っていよう。 | ||||
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1987年の暮れに偶然書店の店頭で『ノルウェイの森』上下巻を緑と赤の綺麗な装丁に惹かれて予備知識無しに買って帰り、その物語世界と文体に完膚なきまでに魅せられて以来のオールド・ハルキストです。ハルキストだからこその苦言を呈させていただくものです。 当時出版されていた全著者を一気に買って読んでわかったのは、大変失礼ながら村上春樹さんの著書は作品により、魅せられる読者が限定されるようだということ。羊シリーズは当時自分にはどうしてもその魅力を理解できませんでした。 それ以来25年余り、長編では『ダンス・・・』や『世界の終りと・・・』、短編集では『回転木馬のデッドヒート』、エッセイでは『もし僕らのことばがウィスキー・・・』など、素晴らしい著書の数々を長年に渡って楽しませていただきました。しかしながら、あの『ノルウェイ・・・』の神がかった凄さを超える作品に出会えまま四半世紀を過ごしてまいりました。『ノルウェイ』には、登場人物の全ての皆さんが、本当にそこに存在しているかのような神がかったリアリティがありました。 前作の1Q84も実は失礼ながら妻は読ませていただいたのですが、自分は手にとることができませんでした。 今回、久しぶりの長編ということで初版1刷を購入させていただき、読ませていただいたところ、久しぶりに接する『ノルウェイ・・・』のような失われた自分探しのストーリー。「もしかしたら『ノルウェイ・・・』を超える世界を体験させていただけるのではと、久しぶりに夢中でページを繰り始めました。 しかし・・・、私は悟りました。『ノルウェイ・・・』はひとつの奇蹟であって、あれを超える村上センセイの作品にはもはや出会えないのだという事を。 十分引き込まれる物語世界ではあったのですが、それぞれの登場人物の人物造形が、『ノルウェイ』ほど完璧ではなかった。紗羅は緑ほど魅力的に描かれていなかった、シロは直子ほどのリアリティを残念ながら感じられなかった。永沢さんやハツミさんやレイコさんのような素晴らしい魅力二に満ち溢れたバイプレイヤーも見当たらなかった。 しかも、未解決で残された疑問の残され方があまりにも杜撰ではないでしょうか。絞殺されたシロさんのこととか。 ハルキストの皆さんの多くには、『ノルウェイ』の再体験をずっと追い求めてきた方が多いのではと拝察致します。 村上春樹様の文体で展開される世界に魅力される永遠のファンとして、この作品にはあえて苦言を呈させていただくものです。 | ||||
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