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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全562件 521~540 27/29ページ
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多崎つくるは沙羅の言葉を巡礼の先々で繰り返す。 「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」(p193) 歴史修正主義者に対する批判と受けとめた。 | ||||
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さっきこの作品を読破させて頂きました・・・。 今、その余韻に酔い浸りながら泣きながらレビュー書いております。 あぁ、何故春樹氏の作品はここまで素晴らしいのだろうか。 小生の欲求と不安な部分をここまで潤してくれる作品はなかなかないです。 現代で比喩が秀逸で綺麗で美しく読みやすい文章を書ける著者はこの人以外いないでしょう。 ただハルキスト代表として愚痴を少しだけ溢させて頂きます。 マスコミは春樹氏の作品をゴリ推しするのをやめていただきたい。 春樹氏の作品はあくまでも『純文学』なのだ。そんな大衆向けのエンタメ作品ではないのだ。 なので早急にやめてもらいたいです。 あとこの作品は高尚な純文学小説なので、 流行ってるからこの作品を手に取ろうとする主体性の無い人や感受性が乏しい人は読まないで頂きたい。 宜しくお願いします。 | ||||
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村上春樹には、高校生活の思い出を主題にした小説がいくつかある。 「めくらやなぎと眠る女」 「1963/1982のイパネマ娘」 「我らの時代のフォークロア 高度資本主義前史」 などである。これらはいずれも短編だが、今回初めて長編小説として高校時代に焦点をあてたものが本書である。 公立の進学校には、この小説に描かれたような質の経験が確かにある(誰にでもではないけれど)。小説の描く細部から 自分自身の物語をなにがしか聞き取ることが、本書の最大の楽しみです。大変興味深く、ハルキワールドを味わいました。 次のエッセイの一節を敷衍した小説といえるでしょう。 ・でも10代後半くらいの少年少女の恋愛には、ほどよく風が抜けている感じがある。深い事情がわかっていないから、 実際面ではどたばたすることもあるけれど、そのぶんものごとは新鮮で感動に満ちている。もちろんそういう日々は あっという間に過ぎ去り,気がついたときにはもう永遠に失われてしまっているということになるわけだけど、でも 記憶だけは新鮮に留まって、それが僕らの残りの(痛々しいことの多い)人生をけっこう有効に温めてくれる。 (『村上ラヂオ』所収「恋している人のように」) 以下は、ちょっと引っかかったこと。どなたか「正解」を知っていたらご教授下さい。 ・主人公の卒業したのは、東工大とおぼしいが、なぜそう書かれていないのか。名古屋大学は実名で出てくるのに、 アンバランス。 ・267頁「ダイハード12」って、誤植なのでしょうか。 同時代の作家の新作を発売すぐに読むことの小さな幸せを確かに感じました。 | ||||
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今までの村上春樹さんの作品と少し違う感じでしたが、村上春樹初心者でも読みやすかったと思います。 ひとつひとつの言葉が厳選されていて、心地よく感じました。 | ||||
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ノルウェイの森に似ている。 ある意味で。 直子と緑。 でも、今回緑が弱く、どうも魅力的な女性に思えなかった。 風景描写は圧巻。とくにフィンランドと新宿駅。 題名通りのノスタルジア。 美しく甘い、そしてやはり孤独で静かな小説でした。 つまらないところがいっさいない、 圧倒的な比喩、 安心して読み進めることができます。 彼がどんなに否定しようと、天才ですね。 | ||||
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まず冒頭でこの不思議なタイトルの意味が判明し、そこからはこの物語に於いて主人公が終始負い目として感じ続ける自分自身の存在意義の希薄さ、そして自ら望んだものでは無いにせよそれを探しに行くという、作者得意の「喪失とその奪還」の物語です。 とてもフィットした五人の少年少女達は絶妙なバランスで五角形を保っていたが、その一角=主人公はそこから強制的に排斥される。それは主人公に意向常に死を考えさせる程深い傷を与える事になり、そこから物語は始まります。 人は誰でも一度は「夜の冷たい海を一人で泳ぎ切らなければならない時」が来る。 | ||||
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「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読み終わりました。村上さんの作品にはいつも、見たくない自分の暗部、しかし見なければならない、もしくは見たほうがいい暗部を見せつけられる。できれば、眼を背けておきたい気もするけど、しかし、そこを直視すると何か「勇気」というか、自分の中の自分で気が付いていなかった「強さ」というようなものに気がついたりする。それはやはり「希望」なんだろうか?でも、村上さんは「過剰に期待した希望」についての「大いなる絶望」にまで思いを巡らせて、読者を包んでくれる。 そう、べったりとまとわりつくわけではない、本当の「優しさ」が全世界を巻き込んで人々に「危うさとだからこその安定」を感じさせてくれるのだろう。そこに世界中の人々は救いを求めているのかもしれない。 | ||||
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深く結びついていた4人の仲間から、大学2年の夏に突如、 絶縁された、多崎つくる。 その理由を16年後の「巡礼」によって知るという 村上春樹にしては、分かりやすく、読みやすい物語。 毎日死を考えるほど絶望する出来事はあまりないかもしれないけれど 誰にでも向き合うべき過去はあり、それを記憶の底に沈めることはできても、 なかったことには出来ない、というのは、そうかなと思った。 つくるの佇まい、つくると沙羅、つくるとエリの会話は、 いかにも村上春樹的で、心地よい。 やはり、いいですね。堪能しました。 | ||||
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近年の作品の中では一番好きでした。 村上さんの作品にしては珍しく、固有名詞がたくさん出て来て、現実感のある登場人物たちが新鮮。 自分に馴染みのある、名古屋と東京の舞台で、空気感がよく分かったのか余計面白かったのかもしれません。 方言が無くて不自然とのレビューもありましたが、実際コテコテの名古屋弁はあまり聞かないし、そもそもこのお話では不必要だと思いました。 ただ、いつも適度にワークアウトしてこざっぱりしている主人公像に少々飽き飽きしているので、☆ー1です…(まぁ、小気味良くはありますが。) この時代に生きて、村上さんの“新作”を読めるのは幸せなことだなぁと思います。 | ||||
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久しぶりに、時間を惜しんで小説を読むという体験を持つことができました。ここ数年の村上氏の作品は私にとっては冗長的すぎて正直余楽しめませんでしたが、今回の新作は一気に読んでしまえる長さとテンポの良さでとても楽しめ「中国行きのスローボート」や「レキシントンの幽霊」をよ読んだ時と同じ感じを持ちました。 「IQ84」「ねじまき鳥」の時には味わえなかった読了後の自分が別の場所にいるような村上氏独特の感覚もありとても懐かしい感じがする作品でした。 今までの主人公の一人称「ぼく」が「おれ」に変わっていること、すべての事象について中途半端なエンディングであることなどいろいろ違和感はありますが、それでも30年近くの村上氏のファンの私にとっては久しぶりの春樹節でうれしかったです。 | ||||
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内容の良さは多くのレビューに書いてある通りなので特に書きません。 じゃあ何が書きたいのかと言えば、否定的なレビューに対して感じた部分についてです。 否定的なレビューのほとんどは「リアルさ」=「現実感」に依拠しているように思われます。 《こんなことは起こらない、冷静すぎる、訛りが無い……》 あげれば際限がないのですが、だいたいが「リアリズム」に関するものでした。 しかし私は、それらをひっくるめて、 「小説はすべてがリアリズムであるわけではない」 ということを言いたい。 「本当に世の中で起こったこと」や「起こりそうなことをそのまま書く」ことを求めるのなら、小説は読まなくても良い、あるいは、読まない方が良い、と思います。 もちろん小説には様々なものがあって良いのであって、徹底的にリアリズムを突き通すものがあってもいいでしょう。それは否定しません。 しかしだからと言って、(だからこそ)現実感を欠いた小説が否定される必要もないでしょう。 むしろ、現実をそのまま描くのではなくて、現実を別の角度から、もっと言えば、有り得ないことを想定することによってこそ、現実と言うものを、今までにない、もっと現実的な見方で捉えなおすことが出来る場合だってあるのではないでしょうか。非常に簡単な例ですが、顕微鏡と言う装置を使うことによって、我々は自分たちが捉えきれる限界を超えて、そこに有るものを知覚しえるわけです。 ******************************************************** ここからは完全に私見ですが、この小説を否定しきれる人は「現実にべったり適応でき、タフに生きていける人」なのでは。(アカやアオにそれを感じました。シロやクロのような陰のある生き方=現実から大きく離れてしまった存在、に比べて華やかな色合いをしているのも、そのような意味合いがあるのかもしれません)それは悪くない生き方だし、むしろ良いともいえる。レクサスを売ることも大切だし、セミナーを必要とする人にその機会を与えるのもいいでしょう。 しかし、世の中にはそうじゃない人だっていると言うことを考える必要もあるでしょう。それこそがシロ=ユズであり、つくるでもあるのかと。 では彼らはどうやって生きていくのか。現実に生きる場所を見いだせない彼らはどうするのか。様々な生き方が(或いは死に方が)あるのでしょうが、僕なら村上春樹のような稀有な作家の小説を読んで、そこに生きる場所を見出して生きていくと思う。現実では生きていけないのだから、フィクションで生きていくしかないんです。 ******************************************************** 現実感のなさを引き合いに否定する人には、小説とはそもそも現実感を求めるだけに存在しないということ、そして現実世界で生きていくことの出来ない人、のことをもう少し考えてほしいと思いました。 | ||||
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村上春樹氏の小説には、デビュー作「風の歌を聴け」以来、作中に音楽が頻繁に登場し、重要な役割を担っています。ビートルズの「ノルウェイの森」はそのままタイトルに使われましたし、前作「1Q84」ではヤナーチェックの「シンフォニエッタ」が天吾と青豆を結びつけるキーファクターでした。村上作品を読む楽しみのひとつは、音楽に造詣の深い村上春樹氏が取り上げる曲にどのような意味を込めたのかを思いめぐらしながら、彼に導かれて音楽を聴くことだと私は考えています。 この新作では、フランツ・リストがかつて訪れた土地の印象を表現したピアノ曲集「巡礼の年」がそのままタイトルに使われています。また、4集あるうちの第1集「第1年スイス」から8曲目「郷愁 Le mal du pays」(作中では「ル・マル・デュ・ペイ」と表記される)が繰り返し出てきて、作品全体の通奏低音の役割を果たしています。 リストは「ル・マル・デュ・ペイ」でふるさとへの望郷の念を表現しています。主人公の多崎つくるに置き換えれば、高校時代の友人との親密な関係への「郷愁」に当たるでしょう。彼が高校時代にあこがれた美少女「シロ」は「ル・マル・デュ・ペイ」をピアノで弾いて何度も彼に聴かせました。彼は一方的に拒絶されて「シロ」に会えなくなってもこの「ル・マル・デュ・ペイ」を弾く彼女の姿をなつかしく思い出すのです。やがて彼は大学の後輩・灰田からこのLPを譲り受けて、繰り返し聴くようになります。多崎は、恋人の勧めにしたがって彼に死を考えさせた出来事の真相を知るために高校時代の友人を訪ねる「巡礼」へと出発します。そして最後のフィンランドへの「巡礼」の旅で「クロ」と再会し、真相の一端を掴むのでした。 村上春樹氏は「巡礼の年」と「ル・マル・デュ・ペイ」をリストの作曲動機にまで遡って考察し、この曲をモチーフに選んだのは明らかです。作家はこの曲からストーリーを着想してのでしょうか、それともストーリーが先にあって曲を選んだのでしょうか、私の疑問です。ピアニストに有名なアラウやブレンデル盤ではなくベルマン盤を選んでいるのには理由があります。前2者の演奏にベートーベンのような剛直さがみられるのに対してベルマン盤にあふれるロマンチズムが女子高生の演奏に通じると共にこの小説の主題にふさわしいからでしょう。この作品の読後感とピアノ曲の印象は共にあたたかく、両者がシンクロしているように感じられました。村上春樹氏は何と思慮深く、センスのいい文学者だろうと、私は感嘆したのでした。 | ||||
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さっそく新刊読みました。一言でいうといい作品ですね。 深くないし、難解さもないし、多崎つくるの心の動きをノルウェイの森タッチ風に仕上げた感じです。 深くない分、逆に心に残るかもしれません。 村上春樹が60歳を超えて、テクニックから基礎(初心)に戻った感じです。 最初の50ページの説明だらだらと、最後の章はちょっと消化不良だが、中盤から後半の筆致は、さすがとしか言いようがない。100点満点でいえば80点の作品なのだが、巡礼(それぞれの人との会話)の描写は、相変わらず瞬間風速100点です。 総合すると、90点ぐらいの作品かな。 個人的には「ノルウェイの森タッチ風の都会的なノリ」が結構(相変わらず)好きです。 ノルウェーの国の横のフィンランドが出てくるあたりも、村上が初心を思い出している風景がよく見て取れます。 村上春樹はロマンティストなので、北欧のような余裕のある優しい国の感触が好きなんでしょうね。 文章が今回は(いつもの通り?)優しい感じがします。 ジェットコースターは本人談どおりまったくない。(笑) | ||||
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<span class="tiny"> 長さ:: 9:47 分 </span>色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 新刊を読みましたが優しいタッチですね。 ノルウェイの森を彷彿とさせます。 主人公の巡礼と言うよりも、「村上春樹さん自身の巡礼の年」だと思います。 感想を細かく、ビデオレビューにしてみました。 | ||||
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以前、(たぶん)村上さんは”よい小説というのは、心の中の湖に石を投げ込むようなもの”と言っていました。 今度の話は確かに私の心の中で波紋が起きています。 それがどんなものかは、著書の内容だけで決まるのではなく、受け取る自分によっても決まると思っています。 村上さんの小説は、それだけで完全なものを目指しているのではなく、それを読む読者と補完しあって完成する気がします。 もう一度、時間をおいて読み返すのが楽しみです。 | ||||
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団塊の世代=学園闘争時代を生きた 若者の喪失感と恋愛を描いた 『ノルウェイの森』 『色彩を持たない〜』は 団塊ジュニア世代の『ノルウェイの森』だといえるだろう 『ノルウェイ〜』の表紙は緑と赤 これをクリスマスカラーと評するひとが大半だが、これは革命=赤、癒しの森=緑であるように思える 主人公は赤と緑の中で揉まれながら 喪失と再生を経験するわけだが 『色彩を持たない〜』は『ノルウェイ〜』とは反対に、主人公は無色透明存在 団塊ジュニアゆえ、赤=革命を知らないし 自分が無個性=透明であると知りながらも 個性ある=色を持った仲間たちに囲まれていれば、十分幸福を享受出来る幸福な時代に生まれた 主人公の父親は 団塊の世代で社会的成功を収め、経済的に恵まれている 主人公はその庇護下で育ち、容姿もよく、頭もよい。個性豊かな友人に囲まれ 何不自由ない青春時代を過ごす そんな主人公にも やがて喪失が訪れる 喪失とはどんな時代であっても 若者の普遍的なテーマであるように思える 色彩を持たない世代であっても それは不可避な問題なのだろう かつて革命によって多くを失ったと団塊の世代とは違い、団塊ジュニア世代は 《はじめから失われている喪失感》 に立ち向かわなくてはならない 主人公はある事件から喪失感を味わうのだが、 作中で主人公と友人が語るように それは事件のあるなしに関係なく 不可避であるように思える 主人公は一見、ふつうの社会生活をおくっているように見えるが、ある日、ふと自殺してしまってもおかしくないような危うさの中で生きている これは現代の若者のテーマであるように思える 『色彩を持たない〜』の主人公は 自らの孤独と喪失の意味と向き合うために 巡礼の旅に出る かつての友人と再会するための旅 ここは『ノルウェイ〜』の主人公より 自由で前向きなものを感じさせる 最後の巡礼地はフィンランド 流れる曲はル・マル・デュ・ペイ 『ノルウェイ〜』のラストが 電話で終わったのに呼応するように 『色彩を持たない〜』のラストにも やはり電話のベルが鳴る 主人公のとった行動にどんな意味があるのか もう一度、読み直して 深く考えてみたいと思った | ||||
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『1Q84』で回答が提示されなかった“天吾の母親はなぜ死んだのか?”という謎。そして、天吾にとっての“母親はどこに行ったのか?”(実は絞殺されていたのだが)という謎の回答を、村上さんは、この物語の力を使って導き出した。 この小説を読み終えたあと、僕はまずそう思った。 村上さん自身が『1Q84』執筆後、それらの謎を解決させて読者に伝えなければ、と頭の片隅で思っていたのだろう。 だって、シロとの性交シーン(ふかえりとのシーンと同じだ)や『トークン』(これはリトル・ピープルと同義だ)という、 あんなわかりやすい場面や例えを、村上さんが意味もなく持ち出すはずがないから。 なので、「それは突飛な意見だ」と言う方もおられるかもしれないが、 僕はこの小説を『1Q84』の続編だと思っている。 そしてそれと同時に、 この小説は、村上春樹による村上春樹論だとも思っている。 というのは、まだ巧く言葉にできないけれど、この小説を読んでいるとき、 なぜか僕は、村上作品のキャラクターたちの顔や声が鮮明に蘇ってきたからだ。 たぶん、これは僕だけじゃない。 きっと、同じことを思った村上春樹ファンでは多いはずだ。 『羊をめぐる冒険』で羊にとりつかれて自殺をした鼠。 『ねじまき鳥クロニクル』で奥さんを取り戻そうとしている岡田亨。 『海辺のカフカ』で起きたら血だらけになっていたカフカくん。 『1Q84』で自分の名前をひどく気にしている青豆。 この小説のページをめくるたびに、みんなが次々に脳裏を横切り、次々に言葉を発していった。 発せられた彼らの声は方向や高さを合わせ、徐々にしかし確実に この物語が導き出そうとする回答へと集約していった。 だから、僕はこの小説を読んでいるあいだ、すごく懐かしい気持ちになった。 なんていったって、鼠やカフカ君にまた逢えるのは、 たとえそれが頭の中であれ、ファンにとって、とてもとても嬉しいことだから。 そんな風にして村上作品の過去の登場人物に出会うしかけ(のようなもの)を 村上さんが創り出したのなら、この作品には、村上春樹による村上春樹論的な要素が含まれているかもしれない。 そしてそれは、村上作品の総まとめということもいえるのかもしれない。つまり、僕はそう思ったわけだ。 で、だからこそというべきか、 僕は、この小説を読んでいるときも、読み終わったときも、懐かしいと思うと同時にひどく哀しい気持ちになった。 もう村上さんは多くの作品を世に残すことができないんじゃないか。 もしかすると死期が近づいてるのでは。 そんな風に訝ってしまった。もちろん勝手な想像だけど。 ともかく、村上さんは、マイルズ・デイビスとは違った人生終盤の歩み方をしている。 ドストエフスキーとも違う。 次の作品は、おそらく短篇集になると思うけど、 楽しみに待っていよう。 | ||||
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読みやすかったです。 なんとなく、昔読んだ夏目漱石の「こころ」に似ているような感じがしました。(あくまでも個人的印象です。) 舞台が現代なので、登場人物やその人間関係は、より現代的状況を反映したものになっていますが。 Facebookなどが出てくる割に、つくるの設計技師としての日常やその背景には、現代の鉄道(駅舎)設計のリアリティやディテールが希薄で、それが共感を薄くしましたが、これが春樹的世界なのかもしれません。 | ||||
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僕は村上春樹に期待しすぎているのかもしれない... ノルウェイや世界の終わりのような感動はもう得られないのか | ||||
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村上春樹もつくづく不運だと思う。読んでもいない批判論者にレビューを書き込まれて。まあ文学界では異端児だし、メディアに勝手に持ち上げられ目立つしで敵も多い。 これまで大抵の村上春樹の作品を読んできましたが、読むのが苦痛だった1Q84とは一転、本作は非常に読みやすく、村上春樹らしさを取り戻したのではないか。一方、登場人物に関する描写は少なく、かつキャラクターの魅力も薄く感じる。読了後の満足度も他の作品と比べても多いとは言えない。他の方が指摘するような違和感や、これまでのような現実世界と少し離れた世界との織りなす物語も少ない。 しかし一度読めば、お馬鹿な酷評レビュアーがいかに“読まずして必死に書き込んでいるか”が分かります。どこの関係者なのか、いくらもらってるのか甚だ疑問です。 | ||||
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