オイディプスの刃
- 名刀「次吉」 (1)
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赤江瀑の作品まで表紙をコミック的なイラストにするのはやめて頂きたい。本文を読めば作品のイメージにそぐわないことはわかるはずだ。出版業界も大変なのは理解出来ますが、小綺麗なイラストでオタクを釣る様なやり方はやめましょう。作者の美学に反する行為です。 | ||||
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赤江瀑は、呪う作家である。 その阿片にも似た濃厚な情念にとらわれた者は、赤江瀑を追いかけないでいられないであろう。その意味で、赤江瀑の呪いを知らない人は不幸であるし、幸福でもあろう。何も知らずに、明るく平凡な生活の中で、消費的な娯楽とその快楽に生きるというのも、それはそれで無難な幸福には違いないからだ。 赤江瀑を語る上で、「ホモセクシャル」というその属性を、語り落とすことは出来ない。 著者生前には、公然と語りづらい部分ではあったものの、デビュー短編集の『獣林寺妖変』初版単行本の帯には「妖艶! ホモセクシャルの世界!!」という惹句が踊っていたのだから、読む人が読めば、それは否定のしようもないことだったのである。 「ホモセクシャル」作家の系譜と言えば、だれでもまずは『仮面の告白』の三島由紀夫を思い出さずにはいられないだろう。そして、その盟友であった中井英夫が書いた、幻想ミステリの巨峰『虚無への供物』では、赤江瀑がモデルとして登場しているというのは有名な話である。その名も「氷沼紅司」。 また、赤江瀑周辺の「ホモセクシャル」作家と言えば、それはなにも小説家にとどまるものではない。赤江瀑の著作の装幀を担当した、人形作家の辻村ジュサブロー(講談社文庫版『獣林寺妖変』『罪喰い』等)、装幀画家の村上芳正(角川文庫版『海峡』『美神たちの黄泉』等)もまた、忘れがたい「魔の美神」的な存在だ。 彼らに共通するのは、その「耽美」性と、ホモセクシャルゆえの「疎外感と渇愛」であろう。 今のように、若い女性の間でBL(ボーイズ・ラブ)小説が当たり前に消費されても、あるいは社会的に性的少数者(LGBT=lesbian, gay, bisexual, and transgender)の権利が広く叫ばれるようになっても、まだまだ世間の「生理的偏見」までが薄れたわけではないのだから、まして赤江瀑世代の「疎外感」は、けっして尋常一様ものではなかったし、だからこそ逆に、それは消費社会における「ぬるま湯的な作品」には見られない、「赤黒い情念」の渦巻く、非凡な作品へと結晶し得たのである。 本書『オイディプスの刃』は、赤江瀑の長編代表作である。 赤江瀑は、基本的には短編型の作家で、長編は必ずしも得意ではない。というのも、情念をこめた緋文字で物語を綴るタイプの作家には、プロットの構築性が求められる長編は、不向きだったからであろう。 しかしまた、『オイディプスの刃』の場合は、赤江瀑がその個性を矯めることなく、むしろそれを過剰なまでに投入することで、「赤江瀑の長編」として成功した、例外的作品でもある。 本作は「宿命の兄弟」の物語として語られるが、それは「ホモセクシャル的な関係性」を「兄弟」いう形式にズラして描いた作品と考えても、間違いではないはずだ。だからこそ、この物語は「過剰に濃厚」なのである。 ちなみに、本作では「刀剣と香水」がテーマ的に扱われているが、これは容易に「男根と精液(とその匂い)」のメタファーであることが理解できよう。 また、こうした小道具の扱い方は、中井英夫の『虚無への供物』が「植物と色彩」をテーマにしたことと関係があるのかも知れない。中井が、構想して果たし得なかった三部作の残り2作は「鉱物と音」「動物と臭い」をテーマにしたものであった(『ケンタウロスの嘆き』所収「黒い水脈」)。 ともあれ、赤江瀑の作品は、残念ながら「読者を選ぶ」。 平凡で起伏のない日常を、パステル色の幸福を生きている人には、とうてい理解できない世界を、赤江瀑は描いているからだ。いや、描かざるを得ない生を歩んだ、「宿命」の作家だったからだ。 赤江瀑が読者へと突き出す、目に見えない妖刀。 その切っ先が、あっさりと空を切るかのように通り抜けてしまう、生きる世界を異にする人たちが多い中で、稀に、その刃が胸肉に立って、赤黒い血を噴き出させる読者がいる。 赤江瀑は、そんな読者のために、何度でも甦るだろう。 赤江瀑は、決して「代わり」の生まれて来ない、最初で最後の「宿命の小説家」なのである。 | ||||
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赤江瀑は、呪う作家である。 その阿片にも似た濃厚な情念にとらわれた者は、赤江瀑を追いかけないでいられないであろう。その意味で、赤江瀑の呪いを知らない人は不幸であるし、幸福でもあろう。何も知らずに、明るく平凡な生活の中で、消費的な娯楽とその快楽に生きるというのも、それはそれで無難な幸福には違いないからだ。 赤江瀑を語る上で、「ホモセクシャル」というその属性を、語り落とすことは出来ない。 著者生前には、公然と語りづらい部分ではあったものの、デビュー短編集の『獣林寺妖変』初版単行本の帯には「妖艶! ホモセクシャルの世界!!」という惹句が踊っていたのだから、読む人が読めば、それは否定のしようもないことだったのである。 「ホモセクシャル」作家の系譜と言えば、だれでもまずは『仮面の告白』の三島由紀夫を思い出さずにはいられないだろう。そして、その盟友であった中井英夫が書いた、幻想ミステリの巨峰『虚無への供物』では、赤江瀑がモデルとして登場しているというのは有名な話である。その名も「氷沼紅司」。 また、赤江瀑周辺の「ホモセクシャル」作家と言えば、それはなにも小説家にとどまるものではない。赤江瀑の著作の装幀を担当した、人形作家の辻村ジュサブロー(講談社文庫版『獣林寺妖変』『罪喰い』等)、装幀画家の村上芳正(角川文庫版『海峡』『美神たちの黄泉』等)もまた、忘れがたい「魔の美神」的な存在だ。 彼らに共通するのは、その「耽美」性と、ホモセクシャルゆえの「疎外感と渇愛」であろう。 今のように、若い女性の間でBL(ボーイズ・ラブ)小説が当たり前に消費されても、あるいは社会的に性的少数者(LGBT=lesbian, gay, bisexual, and transgender)の権利が広く叫ばれるようになっても、まだまだ世間の「生理的偏見」までが薄れたわけではないのだから、まして赤江瀑世代の「疎外感」は、けっして尋常一様ものではなかったし、だからこそ逆に、それは消費社会における「ぬるま湯的な作品」には見られない、「赤黒い情念」の渦巻く、非凡な作品へと結晶し得たのである。 本書『オイディプスの刃』は、赤江瀑の長編代表作である。 赤江瀑は、基本的には短編型の作家で、長編は必ずしも得意ではない。というのも、情念をこめた緋文字で物語を綴るタイプの作家には、プロットの構築性が求められる長編は、不向きだったからであろう。 しかしまた、『オイディプスの刃』の場合は、赤江瀑がその個性を矯めることなく、むしろそれを過剰なまでに投入することで、「赤江瀑の長編」として成功した、例外的作品でもある。 本作は「宿命の兄弟」の物語として語られるが、それは「ホモセクシャル的な関係性」を「兄弟」いう形式にズラして描いた作品と考えても、間違いではないはずだ。だからこそ、この物語は「過剰に濃厚」なのである。 ちなみに、本作では「刀剣と香水」がテーマ的に扱われているが、これは容易に「男根と精液(とその匂い)」のメタファーであることが理解できよう。 また、こうした小道具の扱い方は、中井英夫の『虚無への供物』が「植物と色彩」をテーマにしたことと関係があるのかも知れない。中井が、構想して果たし得なかった三部作の残り2作は「鉱物と音」「動物と臭い」をテーマにしたものであった(『ケンタウロスの嘆き』所収「黒い水脈」)。 ともあれ、赤江瀑の作品は、残念ながら「読者を選ぶ」。 平凡で起伏のない日常を、パステル色の幸福を生きている人には、とうてい理解できない世界を、赤江瀑は描いているからだ。いや、描かざるを得ない生を歩んだ、「宿命」の作家だったからだ。 赤江瀑が読者へと突き出す、目に見えない妖刀。 その切っ先が、あっさりと空を切るかのように通り抜けてしまう、生きる世界を異にする人たちが多い中で、稀に、その刃が胸肉に立って、赤黒い血を噴き出させる読者がいる。 赤江瀑は、そんな読者のために、何度でも甦るだろう。 赤江瀑は、決して「代わり」の生まれて来ない、最初で最後の「宿命の小説家」なのである。 | ||||
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赤江瀑は、呪う作家である。 その阿片にも似た濃厚な情念にとらわれた者は、赤江瀑を追いかけないでいられないであろう。その意味で、赤江瀑の呪いを知らない人は不幸であるし、幸福でもあろう。何も知らずに、明るく平凡な生活の中で、消費的な娯楽とその快楽に生きるというのも、それはそれで無難な幸福には違いないからだ。 赤江瀑を語る上で、「ホモセクシャル」というその属性を、語り落とすことは出来ない。 著者生前には、公然と語りづらい部分ではあったものの、デビュー短編集の『獣林寺妖変』初版単行本の帯には「妖艶! ホモセクシャルの世界!!」という惹句が踊っていたのだから、読む人が読めば、それは否定のしようもないことだったのである。 「ホモセクシャル」作家の系譜と言えば、だれでもまずは『仮面の告白』の三島由紀夫を思い出さずにはいられないだろう。そして、その盟友であった中井英夫が書いた、幻想ミステリの巨峰『虚無への供物』では、赤江瀑がモデルとして登場しているというのは有名な話である。その名も「氷沼紅司」。 また、赤江瀑周辺の「ホモセクシャル」作家と言えば、それはなにも小説家にとどまるものではない。赤江瀑の著作の装幀を担当した、人形作家の辻村ジュサブロー(講談社文庫版『獣林寺妖変』『罪喰い』等)、装幀画家の村上芳正(角川文庫版『海峡』『美神たちの黄泉』等)もまた、忘れがたい「魔の美神」的な存在だ。 彼らに共通するのは、その「耽美」性と、ホモセクシャルゆえの「疎外感と渇愛」であろう。 今のように、若い女性の間でBL(ボーイズ・ラブ)小説が当たり前に消費されても、あるいは社会的に性的少数者(LGBT=lesbian, gay, bisexual, and transgender)の権利が広く叫ばれるようになっても、まだまだ世間の「生理的偏見」までが薄れたわけではないのだから、まして赤江瀑世代の「疎外感」は、けっして尋常一様ものではなかったし、だからこそ逆に、それは消費社会における「ぬるま湯的な作品」には見られない、「赤黒い情念」の渦巻く、非凡な作品へと結晶し得たのである。 本書『オイディプスの刃』は、赤江瀑の長編代表作である。 赤江瀑は、基本的には短編型の作家で、長編は必ずしも得意ではない。というのも、情念をこめた緋文字で物語を綴るタイプの作家には、プロットの構築性が求められる長編は、不向きだったからであろう。 しかしまた、『オイディプスの刃』の場合は、赤江瀑がその個性を矯めることなく、むしろそれを過剰なまでに投入することで、「赤江瀑の長編」として成功した、例外的作品でもある。 本作は「宿命の兄弟」の物語として語られるが、それは「ホモセクシャル的な関係性」を「兄弟」いう形式にズラして描いた作品と考えても、間違いではないはずだ。だからこそ、この物語は「過剰に濃厚」なのである。 ちなみに、本作では「刀剣と香水」がテーマ的に扱われているが、これは容易に「男根と精液(とその匂い)」のメタファーであることが理解できよう。 また、こうした小道具の扱い方は、中井英夫の『虚無への供物』が「植物と色彩」をテーマにしたことと関係があるのかも知れない。中井が、構想して果たし得なかった三部作の残り2作は「鉱物と音」「動物と臭い」をテーマにしたものであった(『ケンタウロスの嘆き』所収「黒い水脈」)。 ともあれ、赤江瀑の作品は、残念ながら「読者を選ぶ」。 平凡で起伏のない日常を、パステル色の幸福を生きている人には、とうてい理解できない世界を、赤江瀑は描いているからだ。いや、描かざるを得ない生を歩んだ、「宿命」の作家だったからだ。 赤江瀑が読者へと突き出す、目に見えない妖刀。 その切っ先が、あっさりと空を切るかのように通り抜けてしまう、生きる世界を異にする人たちが多い中で、稀に、その刃が胸肉に立って、赤黒い血を噴き出させる読者がいる。 赤江瀑は、そんな読者のために、何度でも甦るだろう。 赤江瀑は、決して「代わり」の生まれて来ない、最初で最後の「宿命の小説家」なのである。 | ||||
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赤江瀑は、呪う作家である。 その阿片にも似た濃厚な情念にとらわれた者は、赤江瀑を追いかけないでいられないであろう。その意味で、赤江瀑の呪いを知らない人は不幸であるし、幸福でもあろう。何も知らずに、明るく平凡な生活の中で、消費的な娯楽とその快楽に生きるというのも、それはそれで無難な幸福には違いないからだ。 赤江瀑を語る上で、「ホモセクシャル」というその属性を、語り落とすことは出来ない。 著者生前には、公然と語りづらい部分ではあったものの、デビュー短編集の『獣林寺妖変』初版単行本の帯には「妖艶! ホモセクシャルの世界!!」という惹句が踊っていたのだから、読む人が読めば、それは否定のしようもないことだったのである。 「ホモセクシャル」作家の系譜と言えば、だれでもまずは『仮面の告白』の三島由紀夫を思い出さずにはいられないだろう。そして、その盟友であった中井英夫が書いた、幻想ミステリの巨峰『虚無への供物』では、赤江瀑がモデルとして登場しているというのは有名な話である。その名も「氷沼紅司」。 また、赤江瀑周辺の「ホモセクシャル」作家と言えば、それはなにも小説家にとどまるものではない。赤江瀑の著作の装幀を担当した、人形作家の辻村ジュサブロー(講談社文庫版『獣林寺妖変』『罪喰い』等)、装幀画家の村上芳正(角川文庫版『海峡』『美神たちの黄泉』等)もまた、忘れがたい「魔の美神」的な存在だ。 彼らに共通するのは、その「耽美」性と、ホモセクシャルゆえの「疎外感と渇愛」であろう。 今のように、若い女性の間でBL(ボーイズ・ラブ)小説が当たり前に消費されても、あるいは社会的に性的少数者(LGBT=lesbian, gay, bisexual, and transgender)の権利が広く叫ばれるようになっても、まだまだ世間の「生理的偏見」までが薄れたわけではないのだから、まして赤江瀑世代の「疎外感」は、けっして尋常一様ものではなかったし、だからこそ逆に、それは消費社会における「ぬるま湯的な作品」には見られない、「赤黒い情念」の渦巻く、非凡な作品へと結晶し得たのである。 本書『オイディプスの刃』は、赤江瀑の長編代表作である。 赤江瀑は、基本的には短編型の作家で、長編は必ずしも得意ではない。というのも、情念をこめた緋文字で物語を綴るタイプの作家には、プロットの構築性が求められる長編は、不向きだったからであろう。 しかしまた、『オイディプスの刃』の場合は、赤江瀑がその個性を矯めることなく、むしろそれを過剰なまでに投入することで、「赤江瀑の長編」として成功した、例外的作品でもある。 本作は「宿命の兄弟」の物語として語られるが、それは「ホモセクシャル的な関係性」を「兄弟」いう形式にズラして描いた作品と考えても、間違いではないはずだ。だからこそ、この物語は「過剰に濃厚」なのである。 ちなみに、本作では「刀剣と香水」がテーマ的に扱われているが、これは容易に「男根と精液(とその匂い)」のメタファーであることが理解できよう。 また、こうした小道具の扱い方は、中井英夫の『虚無への供物』が「植物と色彩」をテーマにしたことと関係があるのかも知れない。中井が、構想して果たし得なかった三部作の残り2作は「鉱物と音」「動物と臭い」をテーマにしたものであった(『ケンタウロスの嘆き』所収「黒い水脈」)。 ともあれ、赤江瀑の作品は、残念ながら「読者を選ぶ」。 平凡で起伏のない日常を、パステル色の幸福を生きている人には、とうてい理解できない世界を、赤江瀑は描いているからだ。いや、描かざるを得ない生を歩んだ、「宿命」の作家だったからだ。 赤江瀑が読者へと突き出す、目に見えない妖刀。 その切っ先が、あっさりと空を切るかのように通り抜けてしまう、生きる世界を異にする人たちが多い中で、稀に、その刃が胸肉に立って、赤黒い血を噴き出させる読者がいる。 赤江瀑は、そんな読者のために、何度でも甦るだろう。 赤江瀑は、決して「代わり」の生まれて来ない、最初で最後の「宿命の小説家」なのである。 | ||||
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