失脚/巫女の死
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20世紀スイスの劇作家デュレンマット(1921-1990)による短編小説集。劇作家による小説らしく、いずれも読んでいると演劇を観ているような気分になる。 ① 現代は、世界には不変的/普遍的な意味秩序が貫徹しているという前提が不可能となった時代である。 ② つまり、世界から「もっともらしさ」が消失してしまった時代である。 ③ そこにあるのは、各サークルがそれぞれの真善美を喚きあう胡散臭い喧騒だけである。 ④ そして、「世界に真理はない」という言明自体が喧騒の一部としてしか成立し得ない。 ⑤ よって現代は、世界に関して有意味な表現が可能なのかが常に問題となる時代である。 彼の不条理で奇妙な作風の背後には、こうした現代という時代への痛切な問題意識があったように思う。現代において「まだ可能な物語」とはいかなるものなのか、と。 □ 「トンネル」 ① どうも何かが食い違っている気がする。 ② つまり、世界は既に破綻をきたしているのかもしれない。 ③ しかし、誰も世界の根源的なメカニズムを見通せない。 ④ だから、何もなす術がない。 ⑤ よって、誰もが世界の破綻を直視せず日常をそのまま継続しようとする。 ひとは日常という分厚い肉の内奥に押し込められて、世界の実相にまるで近づけなくなってしまったよう。 | ||||
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特に「オイディプス王」との関連で「巫女の死」に興味があって購入しましたが、思っていたとおり「巫女の死」は面白かったです。「オイディプス王」が好きでしたらオススメです。 | ||||
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劇作家として世に出、劇作家と小説家の二足のわらじを履いていたからなのだろう、収録された4作は、どれもきわめて舞台的な構成を持っている。そして、その内容は他の方のレビューに書いてあるとおり心理劇的要素が非常に濃い密室劇となっている。 4作品全体を覆っているのは喜劇性だ。 ただ、その喜劇性も、「故障」では人が潜在的に持っているはずの英雄願望に対する強烈な皮肉が、古代ギリシャ悲劇オイディプスを扱った「巫女の死」では、悲劇的であるはずの物語も見方を変えれば喜劇的であることが描かれているように、その根底にあるのは著者の(著者自身も含めた)人間に対する皮肉的な視線から生み出される救いのない喜劇性に思えてならなかった。 本書の解説は翻訳者の増元浩子氏自らが書いているが、内容も充実しており各作品の背景にあるもの等、より作品を深く知るための手助けとなるものだ。 ただ、そうはいってもやはり先入観なしで其々の作品を読んでから解説を読み、そして再読してみる方がいいように思う。 解説で増本氏は、デュレンマットの喜劇を「悲劇ではないもの」と定義している。 これを読んで、自分が作品を読みながら感じていたことを一言で表するとこうなんだな、と思わず頷いてしまった。 また、「トンネル」のラストが初版と改訂版(本作に収録されているのは改訂版)で異なり、改訂版では初版にあった短い一文が削られていることとその一文が紹介され、その一文が持つ意味が解説されている。 評者はこの紹介された一文を読むまでは、「トンネル」をいろいろな読み方が可能な不条理劇の一つと考えていたのだが、そうではなく、人間の信仰に対する強烈な皮肉、言い換えれば喜劇の名を借りた批判の意味を持つ作品であることを知り、非常に驚いた。 解説によるとデュレンマットの宗教に対する立ち位置はかなり複雑なようなので、削除にはかなり大きな心境の変化があったのかもしれない。 そうして再読してみると、「トンネル」がまったく別の作品のように思えてきたのと同時に戸惑いも覚えた。 評者にはこの一文があったほうがよいのかどうかは正直なところ解らない。 ただ、一方でこうも感じた。 この一文がないことによって読み手の想像力が膨らむし、もしかしたらそれがデュレンマットの狙いだったのかも知れないと。 | ||||
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デュレンマットと言うスイスの作家については全く知らなかったのですが、帯についていた「このミステリーがすごい!」の海外部門第5位に惹かれて、この本を手にしました。 読んでみて驚きました。 「トンネル」「失脚」「故障」「巫女の死」、どの一編をとっても素晴らしいの一言です。 特に気に入ったのが、「故障−まだ可能な物語」です。 そこで展開されるのは疑似裁判なのですが、その論理、迫力は読む者を圧倒します。 どちらに転ぶか解らない裁判の行方は、ミステリーとして堪らない楽しみがあります。 そして、それ以上に素晴らしいのは、そこで展開される「心理劇」の面白さです。 他の作品も読みたくなりました。 | ||||
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表題作「巫女の死」、すなわち新説(珍説?)『オイディプス』。 ところでこの巫女、とんだ食わせ者、「彼女は自分の言葉を信じていなかった。彼女は むしろ、自分の神託を信じている人々を嘲笑うつもりで神託を下していた。……彼女に とって神託は、社会が求める戯言だった」。それに対して予言者による神託は「ある特定の 目的をもち、その背後には政治でないとすれば、腐敗が潜んでいた」。 一方に、巫女に代表される「想像力でもって世界に打ち勝とうと」する者、「世界を怪物と みなす者」、「世界がその不透明さとともに変わっていく」ものとみなす者があり、そして他方 予言者が象徴する「世界を理性に従わせようと」する者、「世界を秩序とみなす者」、「世界を 変革可能なものとみなす」者が横たわる――そんな相克をかの神話になぞらえる。 「失脚」はさながら「世界を理性に従わせようと」する社会、全体主義、共産主義の臭気に 満ちた寓話。ここにおいて各登場人物は名前を持つことがなく、それに代わりA,B,C…という アルファベット記号と役職、そしていかにも類型的な性格や履歴とそれに見合ったあだ名が 割り振られるのみ。ある面、この図式こそが本作の象徴。硬直化した権力構造、システムの 統治者たるはずの要職にある者たちが皆、そのシステムに隷属してしまう奇怪を描く。 誰が死のうと、生きようと、世界は何も変わらない。 これは単に全体主義への揶揄に留まらず、およそ全ての社会なるもの、人格なるものが すべからく内包してしまう、そんな慧眼を秘めた物語。 例えばアステカ人にとって、生贄として脈打つ自らの心臓を神に捧ぐことは最高の栄誉。 傍から見ればひどくグロテスクな光景。しかし、そうしたゲームにコミットする者から してみれば、その昂奮を理解しない者の感情こそがいかにも不可思議でならない。 自らに絶頂を担保するゲームが呈されているときに、プレイヤーはそのルールのために 命すらをも賭することに何の躊躇いの余地があるというのか。 そんな世界の倫理、規範、あるいは真理なるものの非自明性を告発する「故障」。 「私は昔は裁判官だったんです。ツォルンさんは検事でクンマーさんは弁護士でした。 だから裁判ごっこをしようというわけです」。 車の故障を機にたまたま一夜を過ごすことになった邸宅、とあるセールスマンが 被告人として加わることとなったささいなゲーム、「裁判ごっこ」、そのはずが……。 恋愛禁止→違反→坊主、そんなカルト集団の時事ネタを少しだけ想起させるお話。 「何もしなくていいんです」。 世界の根源的な操縦不可能性を描き出す「トンネル」。 喜劇か、悲劇か、虚か、実か――そんな退屈な境界線を嘲笑い、そして後味はいずれを 取っても何やら拭い切れぬ陰影がつきまとう短編集。 | ||||
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