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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数896

全896件 121~140 7/45ページ

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No.776:
(7pt)

同時多発テロの犠牲者たちへの鎮魂歌なのか

シリーズの大転換を迎えるとかねてから云われているボッシュシリーズ8作目の本書は今のところシリーズで唯一早川書房から訳出された作品だ。

事件はおよそ20年前に虐待されて殺害された少年の犯人を追うという、これまたかなり古い過去の捜査に当たるボッシュが描かれている。

その捜査において古い骨の鑑定が据えられている。これは恐らくアーロン・エルキンズのギデオン・オリヴァー教授シリーズの影響でもなく、またジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズのヒットによる影響でもなく、当時大いにヒットしていたTVドラマ『CSI:科学捜査班』の影響があったのではないだろうか。

そんな古い骨から判明する事実は少年が度重なる虐待を受けていたと思しき数々の骨折の自然治癒の痕跡。そして度を越した虐待が彼を死に至らしめたという実に憤懣遣る方ない過去の事件が炙り出される―骨の鑑定を行ったウィリアム・ゴラーの、鑑定で過去と悲劇がはっきりと判るのに、皮肉なことにその人が生きている時点ではそれが解らないのだという吐露が心に痛く刻まれる―。
ボッシュはかつてFBI心理分析官のテリー・マッケイレブと組んだ事件で名もない少女の死の事件を扱っており、結局その少女の身元が判明しないまま今日に至っている。この苦い経験が少年少女という無力な存在に圧倒的な暴力や変態的趣味で死に至らしめる現在の悪魔たちに対して異常なまでに憎悪を掻き立てるのだ。

勿論それは自身もまた孤児だった過去に起因しているだろう。自分を捨てたと思っていた亡き娼婦の母親が自分に多大なる愛情を注いでいたことを知って、業からは解き放たれてはいたが、それでもやはり孤児院で育ったという過去は変わりなく、それがボッシュの人生に翳を落としている。

そして今回は相棒のエドガーがいつもより前面に出てくる。既に離婚していながらも子を持つ親として虐待して子供を死なせた大人に対して憤りを露わにするのだ。そしていつもより前のめりで捜査に当たる。今まで見たことのない「熱い」エドガーが本書では見られる。

またボッシュは本書でもまた新たな女性と出逢い、恋に落ちる。彼女の名はジュリア・ブレイシャー。34歳でポリス・アカデミーに入った新人女性警官。過去に民事弁護士をしていたが、業務に嫌気が差し、世界を旅していろんな経験をした後に警官になる決意をした、変わった経歴の持ち主だ。

彼女が今までのボッシュと付き合った女性と違うのはボッシュがヴェトナム戦争でトンネル兵だった時に遭遇した恐怖を彼女が知っていることだ。ボッシュ達が戦争で赴いたヴェトナムではそのトンネルは観光名所となっており、観光客が金を払って入ることが出来るようになっていた。彼女はヴェトナムを訪れた際に、そのトンネルを潜り、奥深く入り、そしてボッシュが戦争時代に経験した“迷い光(ロスト・ライト)”に遭遇したことがあった。誰もが共有できない特異な過去をジュリアは共有した相手としてボッシュにとって特別な存在となる。

弁護士だった親の敷かれたレールを嫌って弁護士を辞め、世界を見て回った後、戻ったアメリカで警官募集の広告を見てすぐに応募して警官となった彼女は自分が何か特別な存在になりたかったのだ。そして彼女は評判は良くないものの、抜群の検挙率を誇るボッシュを見た時に彼に自分を重ねたのだ。
肩の銃の瑕を負ったボッシュはそれだけで周りにいる警官とは違う特別な存在だった。上昇志向の強い彼女は自分も早くそんな特別な存在になりたかった。

まだ前途ある彼女がなぜ自分を特別な存在としたかったのか?

それはやはり同時多発テロという大量死が関係しているのかもしれない。それについては後述しよう。

さて事件は振出しに戻る。

この辺の展開は今までコナリーが敬意を払っているレイモンド・チャンドラーの諸作品よりもむしろハードボイルド御三家の1人、ロス・マクドナルドの作風を彷彿とさせる。

家庭の中に隠された悲劇がボッシュの捜査で明るみに出される。
虐待された少年の遺体から家族の中で隠され、守られてきた秘密が明かされる。

また本書が発表された時期にも注目したい。
本書の原書が刊行されたのは2002年。そう、あのニューヨークの同時多発テロが起きた翌年である。本書にも言及されているが、3000人もの人が瓦礫に埋もれて亡くなったテロ事件である。

そんな大量死の事件を経たからこそ、30年前に埋められた身元不明の少年の死の真相を探る事件が敢えて書かれたのではないか。

いわば一己の人間という尊厳が失われる大量死が実際に起きたからこそ、敢えて名もない少年の、30年前に埋められた少年の素性を探り、そしてそこに隠された真実を追い、そしてその骨を埋めた犯人を捕まえることがその少年の尊厳を守ること、そしてその死体に名を、人間性を与えることになるからだ。
ニューヨークの世界貿易センタービルの下には今なお瓦礫に埋もれて忘れ去られようとしている名を与えられていない遺体が沢山いることだろう。コナリーはそんな人たちへの鎮魂歌として掘り出された骨の、かつて人間だった少年を殺した犯人を探る物語を描いたのではないだろうか。

これはまさに笠井潔氏が唱えた『大量死体験理論』の正統性を裏付けるかのようだ。
やはり大量死の発生が1人の人間の死の真相を探り、尊厳を与えるミステリが書かれる原動力となるのかもしれない。

そして前述したジュリア・ブレンジャーが特別な存在になりたかった理由もこれである程度氷解する。

未曽有のテロで死んだ人は名もなきその他大勢。そんな集団の中の無個性な自分になるのが彼女は怖かったのではないだろうか。だからこそ個としての存在を主張するために、彼女はボッシュに将来の自分を見出し、そして早くそこに近づこうとしたのではないだろうか。

本書のタイトルもまたこの大量死から生まれたように感じる。

シティ・オブ・ボーンズ。骨の街。

本書では埋められた子供の骨が見つかった丘を方眼紙で区分けして骨が見つかった場所をプロットしていく作業を鑑識課員の1人がまるで道路やブロックを置いていくようで街を描いているように感じるから、骨の街と名付けたと話している。

しかしこの名前は同時多発テロ後のその時だからこそ付けられたタイトルではないだろうか?
テロが起きたニューヨークの街は3000人もの人が亡くなった街だ。それはつまり数限りない骨が埋められた街を指している。
舞台はロサンジェルスだが、このような無差別テロが起きるアメリカはどこも骨の街であり、また骨の街になり得るのだと哀しみを込めてコナリーが名付けたように思える。

そんな大量死を迎えたがゆえに1人の少年の死に意味を与えるための捜査の結末は何とも煮え切られないものとなった。

これまでそのルールすれすれの、いや時にはルールすら破る危うい捜査を続けてきたお陰で、幾度となく辞職の危機に立たされていたボッシュ。しかし彼は結果を出すことでそれを免れてきた。

それは自身が刑事として悪と戦い、街を浄化することこそが生き甲斐であり、存在証明だと信じてきたボッシュの魂の砦だった。
従って警察上層部の、スキャンダルを葬り、穏便に事を済ませるために描いてきたシナリオに反発し、常に事件の真相を、真の犯人を捕まえることを信条としてきたボッシュ。

本書においても警察内部の者による捜査情報のリーク、またそれによって生じた容疑者の自殺、更に警官が捜査中に亡くなるという数々のスキャンダルが起こり、それに対して上層部の指示に従うように強要される。

しかしそれはこのシリーズの定番とも云うべき展開で、今回もボッシュはそれを克服する。

なぜか愛する者と長く続かないボッシュ。

かつてエレノア・ウィッシュ、シルヴィア・ムーアの2人と付き合ったが、いずれも自分を離れていった。しかし彼女たちは自らの意志でボッシュの元を去った。
ジュリアがボッシュにとって他の女性と違ったのは同じ暗闇を見た女性だったからだ。ヴェトナムの戦時のトンネルに入り、そして彼女は自分と同じ光、“迷い光(ロスト・ライト)”を見た女性だ。自分の人生に落とす闇の中で見出した光を見た女性という、ボッシュにとって彼女はこれまでになくかけがえのない存在だったと思う。
ジュリアはまさしくボッシュの「ロスト・ライト」、喪われた光だったのだ。

しかし何とも感傷的な幕切れだろう。そして何よりも実に歯切れが悪い。

そして何よりも本書は『CSI;科学捜査班』の影響とみられる骨や遺物の鑑定が今まで以上に前面に出ていること、そして同時多発テロの影響が色濃い事など、コナリー作品としては外部による影響がそれまでになく多く見られ、それがゆえに歯切れの悪さとバランスの良さを欠いているように思える。

しかしまだシリーズは続く。ボッシュが自らの暗黒に向き合うとき、闇の側に立つのか、それとも光の側に留まれるのか、そんな不穏な期待をしながら読みたいと思う。


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シティ・オブ・ボーンズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.775:
(7pt)

訪ねる先はいつも雪

志水辰夫氏最初期の長編で4作目に当たる。高知出身の彼はなぜか北国を舞台にした作品が多く、本書も舞台は札幌。しかしこの氷点下の気温で雪が降りしきる北の街が志水作品にはよく似合うのである。

物語は盗まれた土地売買の契約書を取り戻してほしいと依頼されたヤクザの佐古田史朗が弟分の島と共に犯人を追って札幌に向かうが、当の本人はマンションで既に殺され、目当ての書類も無くなり、地元のヤクザとの対決に発展していくという話である。

ただこの佐古田史郎には北海道に纏わる過去があった。それはかつて彼が親元を去っていった地だったのだ。

飲んだくれの父親とそれに従う母親、早死にした2人の兄に家を飛び出したきり帰ってこない兄の6人家庭に生まれた佐古田史郎こと鈴木四郎は、中学の時に母親を亡くし、父の再婚相手とその連れ子の妹になる娘と暮らすようになった。1人の弟が新しく出来、幸せになったかと思った矢先、父親が多額の借金を残して失踪し、継母方の親戚の家に移る。しかし居心地の悪さから東京で職を得て家族を東京に連れていくと宣言して17歳の頃に上京するが、上手くいくはずもなく、お金も無くなり、痩せた、小柄なおじさんを見つけ、金を奪い取ろうとしたところを返り討ちに遭う。そのおじさんこそが佐古田史郎の育ての親となる会長で、その後そのまま会長の妾の家に連れられ、住み込みで働くようになり、今の佐古田史郎に名前を変えて養子になったという経歴の持ち主。

彼が土地売買の書類を取り戻しに行ったのは捨てた故郷の北海道は札幌で、偶然にも捨てた継母とその娘、そして失踪した父親と出くわすという、昔ながらの運命の悪戯を絵に描いたようなお話である。

そんな偶然が佐古田史朗の心に変化を生む。自分が捨てた義理の妹と弟の苦難に一肌脱ぐことを決意するのだ。

数十年経ってからの贖罪。しかもこれは自分勝手な贖罪だ。自己満足にしか過ぎない贖罪だ。
東京へ逃げ、極道の世界に身を落とし、自分を慕う弟子もでき、養子になって組の看板を担うほどにもなった。そんな裏の世界でのし上がった男が久しぶりに故郷に帰ってみれば借金に食い物にされて困っているかつての妹と弟の姿に出くわす。
昔は逃げることしかできなかった自分だが今は曲がりなりにも力がある。捨てた負い目を癒すために彼は自分の素性を隠して妹と弟、そしてその恋人の力になることを決意する。

それはかつて自分たちを捨てて失踪した父が自分の姿と重なったことも大きな一因だろう。勝手気ままに生き、実の母親を苦労で死なせ、再婚して更正したかと思えば小豆相場に手を出して失敗し、新しい家族を捨てて行方知らずとなった父親を憎悪した迫田はその実、居心地が悪くなって東京へ出ていった自分もまた父親と同じなのであることを悟り、そして恥じたのだ。

その父親が今では目も見えなくなり、捨てた妹が世話をして生きている。親だから世話をするのは当然と云わんばかりの傲慢さを持って。
それを目の当たりにしたことで佐古田は妹と弟の窮地を救う手助けをすることで父親とは違うのだと証明したかったのだろう。

何とも身勝手な男だ。しかし昭和の男とはこんな身勝手に生き、そして不器用だったのだ。

そう、この小説の時代はまだ昭和なのだ。
佐古田や島のストイックな生き様、さびれた場末でスナックを営むすみれこと鈴木陽子の、いつかすすきのに店を持つことを夢見ながらも借金や悪い男に騙され続けてきた、人生にくたびれた女性象、鄙びたアパートで同棲する佐古田の弟哲也と恋人の節子。節子は哲也の子供を妊娠し、大学を辞めて働いて所帯を持つことを決意した哲也に反対し、逆に子供の生めない身体になってしまった節子。
これらはまさに昭和のメロドラマを感じさせる。

そして舞台は北海道は札幌。タイトルにもあるように物語全編に亘って雪が降りしきる。史朗が外に出る時は常に雪が降っている。

雪。
それは史朗の心に降り積もる過去の澱。
父親同然に自分を育ててくれた家族を捨てた後悔の念が強くなるにつれて雪の降る度合いも増えてくる。雪は史朗の行く手を阻むかのように降りしきるので、史朗は目指すところに常に遅れてしまう。大金をせしめて追われる弟を、その弟の行方を追う妹を、その恋人を探すのだが、常にその道行には雪が降りしきる。

訪ねる先は常に雪。
それは彼にとって過去を償うための障害だった。

それまで身元を隠したやくざ者として振る舞ってきた史朗が別れ際の最後になって自分の正体が知れた時、彼は逃げるように東京へ向かう。

もう1つの史朗の物語、自分を養子にした組の会長が亡くなったからだ。

過去を悔いるならば恥をかかなければならない。恰好ばかりを気にする極道者が善行をやるにはそれ相応の代償を払わなければならないのだ。
しかしこの恥はいい恥だ。なぜなら愛すべき者に認識してもらってかいた恥だからだ。
恥をかいてこそまた男は1つ上の階段を昇るのだから。

史朗の組の跡目問題など物語に散りばめた色々な話が回収されぬまま、佐古田史朗、即ち鈴木四郎の過去の償いの物語で終わってしまった。

もしかしたら作者は続編として佐古田の東京での物語を想定していたのかもしれない久々に読んだ志水作品は非常に泥くさく不器用な男と北の寒さと雪が終始舞う寂しい物語だった。
幾分消化不良気味だがそれもシミタツの味として今は余韻に浸ろう。が、結局今も書かれていない。


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尋ねて雪か (徳間文庫)
志水辰夫尋ねて雪か についてのレビュー
No.774: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

判らん朕どもとっちめる一休さんの優れたミステリ

本書はまさに掘り出し物だった。
デビュー以来歴史ミステリを多く書いてきた鯨氏が今回テーマに挙げたのはとんちで有名な一休宗純。

一休との出逢いは子供の頃に放映されたTVアニメ「一休さん」が最初だったように思う。その後も一級のとんち話を集めた本を図書館などで読んだ記憶があり、子供心に一休さんの聡明ぶりにいつも胸躍らせたものだ。

本書はその聡明な坊主一休が金閣寺で起きた足利義満の密室殺人事件を解く話。
しかしとんちの効いた一休さんがその賢い頭脳で探偵役を務めるという安直な設定ではなく、一休さん、即ち一休宗純の隠された出自に纏わる将軍家との暗闘や当時の絶対君主だった足利義満の異常なまでの好色ぶりに端を発する義満に仕える士官たちの苦難と屈辱が織り込まれ、足利義満を死に至らしめるまでのそれぞれの思惑がじっくりと描かれる。

まずは今に伝わる一休の聡明ぶりを示す数々のとんち話が挿話として織り込まれ、過去に「一休さん」の名で親しんだ人は勿論のこと、初めて読む人もその頭の冴えが愉しめるような話の運びになっている。

まずは皆に嫌われていた人買いの山椒大夫が虎に殺され、その読経を和尚の龍攀に代わって挙げることになった一休。そんな悪人に対してきちんと弔いをすることを寄すように云われながらもしかし坊主の務めは果たさなければならない。そこで一休が採った行動とは仏に背を向けて後ろ向きに読経をすることだった。
こんな失礼な読経に対して、一休は実に頓智に満ちた回答をする。

また和尚が小坊主たちに毒だから食べてはいけないとこっそり食べていた水飴を皆で平らげたことに対する絶妙な言い訳や和尚の碁友達の商人を追い返すために案じた「皮着たる者、門内に入るべからず」の策を切り返した商人に対して更にとんちで切り返したり、和尚に届いた謎掛けの手紙を瞬時に解読し、有名な「はしをわたるべからず」のエピソード、夜な夜な京の町を迷い出ては人を困らせるという衝立の虎を退治する話など世に知られたとんち話がきちんと本書には登場する。

更に出家の身でありながら魚の肉を食べたことに対しての受け答え、更にそれを聞いて畳み掛ける斯波義将の、ならば武士も通るからこの刀を飲んでみよという無理な申し出も巧みな論説で切り返す。

一方で足利尊氏が天皇家を南に押しやり、北朝、南朝と都が二分された京都。その後の南北朝の戦いの後、足利義満が南北朝の合体を実現し、その際に当時の帝、後小松帝の皇位継承者を出家させ、京都の事実上の統治者となる。しかし義満の周囲を固める者たちはその傲慢ぶりゆえに結束は決して一枚岩のような盤石さを持っていない。
そんな当時の不穏な世相が物語には色濃く流れている。

まず何よりも物語の中心となる密室殺人事件の被害者足利義満の悪役ぶりが凄い。
天皇に慇懃無礼に振る舞い、一介の武士の出でありながら自身の子義嗣を帝位に就かせようと企む。その権勢があまりにも大きくなり過ぎた故に天皇家も逆らうことが出来ないでいる。

しかし何よりもその権力を自身の好色ぶりに行使し、若い女性を自身の妾として次々と交わる傍若無人ぶりに胸がむかつく。
義満の側近とも云える三管領とその下の四職の1人、山名時熙はその妻美濃が義満の目に留まり、妾として差し出すことに。義満の実弟満詮はその美濃と義満が交わっている最中にその妻誠子を褥に差し出すように要求される。そして四職の1人、一色満範はまだ16歳の愛娘紗枝の躰を差し出すように強要される。しかもその直前に紗枝は父親の目の前でストリッパーよろしく一枚一枚衣服を脱ぎながら能を踊ることを強要される。
とにかくこの足利義満、真の悪の権化として描かれている。

威丈高に振る舞う武士や侍たちはもとより、それらを遥かに凌ぐ地位にある現将軍足利義持、三管領の細川頼長、斯波義将と四職の一色満範と山名時熙達、更に現天皇の後小松帝らでさえ、逆らうことが出来ぬほどの圧倒的な権力を誇り、黒を白と云わせることも可能な足利義満という絶対的君主が憚る権力構造の中に、まだ弱冠15歳の一休が知恵と勇気と度胸で切り返す、反権力主義の姿勢が今読んでも痛快で、実に気持ちがいい読み応えを与えてくれている。

そして何よりも今回驚いたのは前掲したTVアニメの「一休さん」がその出自を含めて忠実に描かれていたところだ。
ただアニメの一休さんよりも年上の15歳であることから、一休を慕う少女がさよちゃんなのが茜であること、一休さんと一緒に修行に励む坊主の名前も微妙に違うこと、一休さんが仕えている寺がアニメでは貧乏寺である安国寺であるが、そこは幼き頃にいた寺で本書では臨済宗の高位に当たる建仁寺にいること、従って和尚もアニメでは外観であり、本書では慕哲龍攀であることなど設定に微妙な違いはあるものの、蜷川新右衛門や将軍様の足利義満は同じで、一休さんが母上様と慕っている実母がなぜ逢えないのかもきちんと再現されている。
一休さんは後小松天皇の庶子であり、つまり皇族の一員なのだが、足利義満の皇位簒奪によって出家させられたことになっている。勿論アニメではそれには触れていない。

そして一休をとんちで打ち負かそうとする将軍様こと足利義満は単に一休をギャフンと云わせることを生き甲斐にしているように思えるが、実は皇位簒奪者である義満は一休が天皇家の跡取りの権利があることを危惧し、一休が聡明な坊主であるとの評判を聞きつけて絶対的君主である自分のところに謁見させる栄誉を与えると共に、目の前で無理難題を吹っかけて粗相をさせることを大義名分として打ち首にしようとしていたのだった。
つまりあのアニメの「一休さん」は毎回一休さんのとんち比べととんちを武器に質の悪い大人たちを懲らしめる勧善懲悪的な面白さを見せながら、実はとんちによってその命を生き長らえるという九死に一生を得るスリリングな毎日が描かれていたと本書を読むことで読み取ることが出来る。

さてそんな足利義満による絶対的支配構造の京都で不意に訪れる義満自害の事件。状況はつっかい棒にて開くことの出来ない究竟頂の中に押し入ってみるとそこには足利義満が首を吊って事切れているというもの。その奥の襖の向こうは鏡湖池で、しかもその池の周りは警備の侍でぐるりと取り囲まれている。
誰も忍び込むことの出来ない密室状態で明らかに自害と思われる状況なのだが、我が子の帝位即位と紗枝との交わいを控えた足利義満が自殺するとは思えぬことから、とんちで名を馳せた一休にこの事件の真相を探る命が義嗣より下る。

犯行の動機は義満を取り巻く人物にそれぞれある。
義満の息子で現将軍の義持は自分をないがしろにして実質的な権勢を誇る父親を憎んでおり、しかも弟の義嗣を自分より高位の帝位に就かせようとしていることが堪らない。
後小松帝も帝家に俗物の血が混じることを快く思っていない。
細川頼長は後小松帝の忠実な部下であり、その本意を汲み取っている。
その宿敵斯波義将は忠実さを見せながらもかつては足利家と同等の武将であったため、その部下の地位に甘んじているのが積年の屈辱として積もっている。
山名時熙は自分の最愛の妻を妾として召し捕られ、一色満範は最愛の娘の貞節をまさに奪われようとしている。

そんな誰もが殺害する動機を持ち、刃を心に隠し持っている容疑者達の中で一休の推理によって判明した犯人は読んでのお楽しみだ。

しかし犯人は判明するものの、あくまで足利義満は病死として片付けられ、真相は闇に葬られることになる。それは真の悪を滅ぼしたことに誰しもが安堵と感謝を覚えていたからだ。

これだけ書くと本書はただの歴史ミステリのように思えるが、本書が優れているのはこの謎の解明に鯨氏は先に述べた有名な一休のとんち話を巧みに絡めて、それを推理の手掛かりとして有機的に結び付けるという離れ業をやってのけているところだ。

これには脱帽。どんどん真相が明かされていくたびにそれぞれのエピソードがぴたりぴたりと事件の背景、犯人の動機に収まっていく。
もうこれは見事としか云いようがない。
一休の賢さを引き立てる演出としてのエピソードが、しかも誰もが知っているであろうとんち話を密室殺人に絡めていく発想の妙とそれをやり遂げる構成力に甚だ感服した。

そして忘れてならないのは物語導入部に陰陽師の六郎太が一休の最後の愛人だった森女に尋ねた、足利義満が自身の死後に大文字の送り火をするように云い遺した真相もまた一休の強かさを印象付ける。大文字の送り火の由来は諸説あり、この真偽は定かではないが、これもまた鯨氏のオリジナリティ溢れた歴史解釈であり、最後の最後まで歴史の解釈の愉しさを我々に提供してくれる。

新説歴史短編集『邪馬台国はどこですか?』で鮮烈なデビューをしながらその後読んだ作品は歴史・史実の蘊蓄に溢れてはいるものの、作者自身の趣味趣向が先行して、はっきり云って読者を置き去りにするきらいのあった鯨作品だが、ここに来てようやく見事な歴史ミステリと出逢うことが出来た。
数多の歴史文献のみならず、巷間に流布する一休さんのとんち話をもミステリの枠に取り入れ、足利義満殺害、しかも犯行現場は世界に名だたる観光名所の金閣寺、更に密室殺人という三重のミステリ妙味を備えた長編を料理して見せた手腕は実に美事としかいいようのない。
デビュー作で魅了された私が読みたかった鯨氏による長編歴史ミステリの半ば理想形のような作品である。

そして奇遇なことに本書の冒頭で六郎太と静が森女を訪ねる大徳寺に私はこの正月、初詣に京都に行った際、ついでに訪れたのだ。それも偶々バスから降りた場所の近くに大徳寺があり、そこで枯山水を見たのだった。お土産に大徳寺納豆を買いもした。まさになんというタイミングでの読書であったことか。

題名が実に平凡であることで本書は大いに損をしていると思う。帯に掲げられた「宮部みゆき氏絶賛!」の惹句は決して伊達ではない。
天晴、一休!
そして天晴、鯨統一郎!と声高に称賛しよう。


▼以下、ネタバレ感想
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とんち探偵・一休さん金閣寺に密室(ひそかむろ) (祥伝社文庫)
鯨統一郎金閣寺に密室 についてのレビュー
No.773:
(7pt)

永遠の命を得ることは永遠の退屈を得ることなのか

ノンシリーズだと思われた『女王の百年密室』は実は「女王」シリーズとなっており、本書はその第2巻。エンジニアリング・ライタのサエバ・ミチルと相棒のウォーカロン、ロイディの2人がルナティック・シティに続いて訪れるのは周囲を海に囲まれた巨大な建造物からなる島イル・サン・ジャック。そう、もうお分かりであろう、フランスのモン・サン・ミシェルをモデルにした島が物語の舞台である。

長い間マスコミからの取材を遮断して、島民たちは閉鎖された島の中で、聳え立つ城モン・ロゼの城主であるドリィ家の庇護の下、暮らしている。但し病院も学校もなく、医師、看護婦、教師も全てモン・ロゼに待機しており、必要な時に対応してくれる。そんな特殊な閉鎖空間だ。

この一切の取材を断っていた島の王がなぜかサエバ・ミチルの取材の申し出を承諾する。

そして取材に訪れたミチルの前で起きる殺人事件。今回の事件はいわば開かれた密室物だ。
大きな砂絵の真ん中に首なし死体が転がっているが、そこに至る足跡は被害者と検屍をした医者の物のみ。果たして犯人はどうやって足跡を着けずに被害者に近づいて首を切り、そして持ち去ったのか?

メインの殺人事件以外にも色んなエピソードに謎が散りばめられている。
本書の舞台となるイル・サン・ジャックは約30年前にそれまで森だった周囲が一夜にして海に変ってしまった不思議な島である。この一夜の不思議の謎と、いつしか島自体が一日で一回転して常に南に向いているようになったという自転する島の謎が仕込まれている。

本書の時代設定は2114年。前作は2113年だったからルナティック・シティの事件から1年後の話となる。既にクロン技術も確立され、ウォーカロンというアンドロイドが一般的に導入され、労働力にもなっている森氏による近未来ファンタジー小説の意匠を纏ったミステリである本書はその世界そのものに謎が多く散りばめられている。実際謎は上に書いた物だけに留まらない。

島民たちの不思議な振る舞いも謎の1つだろう。とにかく舞台、登場人物、風習、事件、それら全てにミステリの風味がまぶされている。

そして読者はこれが森ミステリであることを認識しなければならない。
その特徴はミステリの定型を裏切り、本当の謎は別のところにあることで、それは本書も同じ。

例えば長きに亘って取材拒否を行ってきた理由はドリィ家の忌まわしき過去にあった。

そしてミステリで云えば核となる殺人事件。砂の曼陀羅の真ん中に坐した老人の首なし死体。そこに至る足跡は検屍した医者のそれしかない、開かれた密室。
さらに第2の殺人も坐した老人の首なし死体。どちらも被害者が発見者に最初に現場に落ちている物を別の場所に捨てに行くよう頼み、その間に死んでいる。

この実に奇妙で不思議な事件。

これを皮切りにこのイル・サン・ジャックの壮大な謎がメグツシュカによって明かされていく。この謎こそが本書のメインの謎であった。

クラウド・ライツ、サエバ・ミチルの生き方、死に様から本書はサルトルの「実存主義」について語ったミステリであると云えるだろう。

存在しながらも非在であるというジレンマがここにはある。

それは既に人間というデータであり存在ではない。しかしウォーカロンという器で現実世界に存在している。
それは今や貨幣からウェブ上での数字でやり取りされる金銭と同じような感覚である。お金として存在はするのに実存せずとも数字というデータで取引が出来、そして実際に現物が手に入る。
この電脳空間で実物性がない中で実物が手元に入る感覚の不思議さを森氏はこのシリーズで投げ掛けているように思える。

金銭でさえもはや数字というデータでやり取りされ、成立するならばもはや人間も頭脳さえ維持されれば個人の意識というデータで生き、そして躰はウォーカロンという器でいくらでも取り換えが利くようになる。それは人間が手に入れた永遠だ。
しかしそこに存在はあるのか。その人は実在しているのか?
そのジレンマを象徴しているのがサエバ・ミチルであり、そして本書の登場したイル・サン・ジャックの人々なのだ。

そんな驚愕の事実を森氏はサエバ・ミチルという特殊な存在を以て語る。

恋人のクジ・アキラをマノ・キョーヤの凶弾によって喪い、自身も瀕死の重傷を負ったことから、無事だった自分の頭部をクジ・アキラの身体に繋げて生き長らえている人造人間。更に彼は自分の意識をウォーカロンのロイディにアップロードして遠隔操作が出来るようになっている。
つまり彼自身の個体は頭を撃たれようが、心臓を刺されようがロイディがいる限りは消滅しない不死の存在なのだ。

しかし彼はそんな自分の身体と精神の乖離にしばしば疑問を持ち、自問する。
生きることとは?
死ぬこととは?
存在とは?
身体はなくとも精神があれば存在しているのか?
身体は所詮、単なる器に過ぎないのか?
作られた身体で感じる肉体性に時折喜びを感じながらも、どこか神経との繋がりに乖離を感じるミチルはしばしば自分の存在意義について問い掛ける。その姿は実は我々悩める現代人と何ら変わらないことだ。

何のために働く?
何のためにこんな苦しい思いをしてまで働く?
我々は何を生み出しているのか?
などなど、ふと苦しい時に自問する我々のそれとミチルの自問は変わらない。

ただ本書で興味深いのはアンドロイドであるウォーカロンと人間の差がどんどん縮まっているとミチルが認識しつつあるところだ。
彼の意識を封じ込めたロイディは即ち彼自身であり、彼は人造人間の身体を持つ人間だ。ならば人間の意識を持つロイディもまた人間になりつつあるのでは?などと錯覚する。そして人工知能を備えたロイディはミチルが心を揺り動かされるほど人間らしく振る舞い、更に女王メグツシュカの侍女であるウォーカロン、パトリシアとなんだかいい雰囲気だったりする。そしてそのミチルとロイディの秘密を見破ったメグツシュカはウォーカロンが人間に近づくためのヒントがこのミチルとロイディの関係にあると説く。

さて森氏のミステリのシリーズにはファム・ファタールとも云うべきミステリアスな女性がシリーズ全体を通じて登場する。

S&Mシリーズではなんといっても真賀田四季だろう。Vシリーズは主人公である瀬在丸紅子がそれに当たるだろうか?各務亜樹良もまたその称号に相応しいが少し弱いか。

そして本書ではスホがそれに該当する。前作『女王の百年密室』のルナティック・シティの女王、50を超えているのに人生の半分近くを冷凍睡眠で過ごしているため、20代の若さと美しさを保っているデボウ・スホ。
本書ではその母メグツシュカ・スホが登場する。しかも彼女はデボウを超える年齢であり、しかも彼女のように冷凍睡眠もしていないのに美しさを保っている、美魔女である。いやそんな世俗的な言葉を超越した存在として描かれている。

現在、人工知能の開発はかなりの進展をしており、かつては人間が勝っていた人工知能と将棋の対戦も人間側が勝てなくなっている。そして人間型ロボットの開発もかなり進歩しており、見た目には人間と変わらない物も出てきている。更に人工知能の発達により今後10~20年で人間の仕事の約半分は機械に取って代わられると予見されている。

2003年に発表された本書は既に15年後の未来を見据えた内容、描写が見受けられ、読みながらハッとするところが多々あった。特に本書に登場する警察は人間の警官はカイリス1人であり、その他の部下はウォーカロンである。このようにいつもながら森氏の先見性には驚かされる。

そしてこの世界ではもはや人間は働く必要はないほどエネルギーは充足している。つまりもはや人間の存在意義や価値はないといっていいだろう。
永遠なる退屈と虚無を手に入れた人間は果たしてどこに向かうのか?
ユートピアを描きながらもその実ディストピアである未来の空虚さをこのシリーズでは語っている。

正直私はまさかこのサエバ・ミチルの存在性がここまで拡散するとは思わなかった。精神性とどこか乖離した肉体性を備えた特異な存在であったサエバ・ミチルはメグツシュカ・スホが理想形とし、そして到達した究極のフィギュアである。
しかし壮大と思えたその実験の行き先は無限に広がる虚無でしかないと思えたのは私だろうか?

森氏の著作に『夢・出逢い・魔性』というのがある。これは即ち「夢で逢いましょう」を文字ったタイトルでもある。
また日本の歌にはこのような歌詞のあるものもある。

“夢でもし逢えたら素敵なことね。貴方に逢えるまで眠りに就きたい”

メグツシュカが作り出したイル・サン・ジャックに住まう人々は永い夢の中で生きる人々なのかもしれない。彼らはそんな夢の中で永遠の安息と変わりない日々、つまりは安定を得て、日々を暮らし、そこに充足を感じている。それがメグツシュカが描いた理想のコミュニティであれば、なんと平和とは退屈なものなのだろうか。

このシリーズは次作『赤目姫の潮解』に続くわけだが、あいにく私はこの作品を持っていない。
本書で辿り着いた虚しさの行き着く先に森氏が用意したのは希望か更なる虚無か?
決して読むことのない続編の行く末は今後の手持ちの森作品で推測していくことにしよう。


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迷宮百年の睡魔 LABYRINTH IN ARM OF MORPHEUS (講談社文庫)
森博嗣迷宮百年の睡魔 についてのレビュー
No.772: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

思春期の万能感と無敵感を武器に少女たちは悪へと立ち向かう

東京創元社が新しいミステリレーベル、ミステリ・フロンティアを創設し、それまで聞いたことのない作家たちの作品が累々と出され、あっという間に『このミス』や『本格ミステリ・ベスト10』が週刊文春のミステリベスト10などの各種ランキングを騒がせるようになり、一躍ミステリ読者注目の叢書となった。
伊坂幸太郎氏、米澤穂信氏、道尾秀介氏など今のミステリ界にその名を連ねる新しい才能が次々とこのレーベルからは出ていったが、それまでライトノベルの分野で作品を発表していた桜庭一樹氏が初めてミステリ界でその作品を発表したのが本書である。そして本書をきっかけにミステリ界にその名が知られるようになり、それ以降の活躍はご存知の通りである。

物語の舞台は山口は下関市の沖合にある離島で下関とは橋で繋がっており、島の人々は漁業で生計を立てる者がほとんどで、中学までは島の学校に通い、高校からは下関市の学校に通うのが一般的になっている。そして橋が出来たことで島民たちは中学生たちも含め下関市にショッピングや娯楽を愉しみに出かけるのが通例で、また島民の流出が始まっており、さびれかけている。最近できたマクドナルドが老若男女問わず島民たちの憩いの場となっている。

そんな地方のどこにでもある町に住む女子中学生2人、大西葵と宮乃下静香の、中学2年に体験した、青くほろ苦い殺人の物語。この2人はそれぞれの家庭に問題を抱えている。

美人でかつて東京で働いていた母親を持つ大西葵は学校ではいつも周囲を笑わせるムードメーカー的存在だが、父親を5歳の時に病気で亡くし、再婚した漁師の義父は1年前に足を悪くして以来、漁に出なくなり、毎日酒浸りの日々。もはや酒を飲むか、酒を買いに行くか、寝るかしかしない大男で狭心症を患っている。従って生計は母親の、漁港での干物づくりパートで賄っている。葵はこの義父がとても嫌いで死ねばいいのにと思っている。

宮乃下静香はその島の網元の老人の孫で従兄の浩一郎の3人暮らし。中学生になった頃から島に住み始め、それまでは祖父に勘当された母親の許で暮らしていたが、祖父がその行方を捜していたところを見つけられて引き取られることになった。彼女の母はその時既に亡くなっていたため、彼女のみ島に帰ることになった。そして浩一郎は祖父から嫌われており、なんとかなだめてその莫大な遺産を相続しようと画策している。そして遺言状が書き替えられ、遺産を相続することになった時こそ、自分が浩一郎に殺される番だと恐れている。

バイトで稼いだ小遣いをゲームに費やす大西葵、読書家でいつも鞄がパンパンに膨れ上がるほどの本を持ち歩いている、図書委員の宮乃下静香は作者本人の分身のように思える。
桜庭氏がかなりの読書家であることが知られており、また別名義でゲームシナリオも書いていることから恐らくゲーム好きであろうことが窺える。

この2人のうち、語り手の大西葵を中心に物語は進むわけだが、これが何とも実に中学生らしい青さと清さを備え、あの頃の自分を思い出すかのようだった。

私は男だが、彼女たちの女子中学生の世界観はそれでも理解できる。子供だった小学生から、肉体的・精神的にも大人へと変わっていくこの年頃の複雑な心境、そして理解されたい一方で、大人を嫌う、愛憎入り混じった感情、そしてもう日常を生きるのに精一杯で我が子を表層的にしか捉えていない大人の無理解に対する憤りなどが織り交ぜられている。

少女たちの日常は虚構に満ちている。
それは辛い現実から少しでも忘れたいからだ。
そして少女たちは今日もセカイへ旅に出る。

中学生になった彼女たちはバイトして自由に使えるお金も増え、そして身体も大きく成長し、自転車でそれまで行けなかった距離も延々とこぎ続ける体力を持ち、それまで親の付き添い無しでは乗れなかった公共交通機関も、恐れることなく、乗れるようになる知識を備えている。
それまでできなかったことがどんどん出来てくる彼女たちは世界がどんどん広がるのを実感し、万能感と無敵感を覚えていく。

一方で小学生までは一緒にゲームで遊んでいた男子もからだの発育と共に大人びていき、異性を意識し出して、これまでのように話しかけることが出来なくなる。特に女性の方が精神面の成長は早く、男性は遅いので、男子はいつものように話しかけるのに対し、女子はいつの間にかできた心のハードルを飛び越えて、決意を持って話さなければならないようだ。

この辺は私もなんだか思い出すなぁ。
小学生の頃によく話していた女子に中学になって一緒のクラスになったので以前のように話しかけようとすると素っ気なく、無口になってしまっているのに、何スカしてんだろうと気分を悪くしたが、あれはもしかしたら大西葵が抱いていたような異性を意識する心のハードルが合ったのかもしれない。

また学校では明るく振る舞う大西葵が家では母親と上手く話せず、無口であるのも思わず同意してしまう。
既に中学生は社会性を備えてTPOに合わせて仮面使い分けているのだ。友達用の自分と家用の自分。それはどちらも自分でありながら、作った自分でもある。そんな自分を大人たちは知らない、昔は自分も中学生だったのに。

そしてそんな仮面がふと外れて巣の自分が現れる時、ずっと同じように続いていくと思っていた友人との関係に罅が入る。他のことに気を取られて生返事したり、メールした後にその内容と違うところをたまたま見られたり。そんな他愛もないすれ違いで彼女たちの友情は壊れたりする。そんな脆さを含んだ世代だ。

こうでなければならないと小学生の頃に叩き込まれたルールを愚直なまでに守り、一方でそれを逸脱することに面白みを感じる、矛盾を内包した彼らは自分の行為で生じる矛盾を許せはするが、他人の矛盾行為は許せない。なぜなら万能感を手に入れた彼ら彼女らは自分こそが正義だと思うからだ。相手に合わせることを知りながらも、一方で自分の規範から外れた者を排除することを厭わない純粋であるがゆえに不器用な心の在り方が、全編に亘って語られる。

夏休みの終わりはまた日常の始まり。非日常の毎日だった夏休みに掛けられていた魔法は不思議なほどに解ける。
ゴシック趣味の服装をした宮乃下静香は再びクラスの目立たない女子となり、殺人幇助をした彼女を恐れていた大西葵は次第に自分を取り戻していく。

学校という基盤が少女たちをまた中学生に引き戻す。日常と非日常を繰り返す。それは非日常のダークサイドを日常の学校生活で浄化しているかのようだ。

学校生活という現実から逃れるためにゲームや読書と虚構世界の中を生きる彼女たちにとって殺人自体もまた虚構の出来事として捉えることで消化する。だからこそ宮乃下静香は古今東西の物語をヒントにした殺人シナリオを作り、大西葵は殺人をテレビで観たマジックとゲームに出てくる武器バトルアックスで実行する。それはどこか彼女たちにとって白昼夢の出来事。
しかし違いは身体性、肉体性があること。

そして彼女たちの生身の身体が傷つき、血を流すとき、ゲームは終わりを告げる。世界に絶望した自分たちが血を流すことで生を意識したのだ。
ゲームの世界ではHPという数値でしか見えなかった敵を斃すということ、傷を負うということが実際に血を流すことでリアルに繋がったのだ。

つまりそれは彼女たちが生きていたセカイからの脱却。
本書は自分たちの障壁となる人物を排除することでリアルを体験し、そしてセカイから世界へ向き合うことを示した物語なのだ。

義務教育という庇護下に置かれた状態で自分を獲得していくのが中学生活とすれば、そこに何を見出すかはそれぞれによる。

大西葵はゲームの世界に逃げ込み、ネットワークで東京や大阪といった中心都市に住む人たちとバトルを挑むことで自分の居場所を実感する。
しかしそれも虚構に過ぎなかった。彼女が得ていた万能感は限られたセカイの中での物でしかない。

宮乃下静香は本の世界、物語の世界に没入することで知識を得、それを実行に移すことにする。大西葵という自分と価値観を共有できると確信した同志を引き込むために彼女は今まで蓄積してきた虚構の物語を自分流にアレンジし、そして本で得た知識と方式を自己薬籠中の物にして、葵を引き込んで未来を拓こうとする。
しかしそれも現実に照らし合わせれば、ただの物語好きな子供のゲームに過ぎなかったことを思い知らされる。

彼女たちが成し得た事、大西葵が成し得たことは偶然の産物に過ぎない。しかしそれを成し得たことで彼女たちにはもう一度同じことが出来ると錯覚した。

彼女たちは失敗を経験することでまた一歩大人の階段を登ったのだ。
これは彼女たちにとっては非常に良かったことだと思う。もしこの失敗がなければ彼女たちの虚構の万能感はエスカレートしていっただろうから。

現実の厳しさに耐えるため、敢えて虚構に身を置き、それに淫することで自らの居場所と万能感を得た彼女たち。それは思春期を迎える我々全てが経験する通過儀礼のようなものだろう。

そこから脱け出して現実を知る者、未だに抜け出せず、虚構の主人公となろうと振る舞う者。
今の世の大人は大きく分ければこの2種類に分かれているように思える。

彼女たちが認識した世界は実に苦いものだった。これはそんな少女たちの通過儀礼のお話。
リアルを知った彼女たちは今後、一体どこへ向かうのだろうか。
もし彼女たちが虚構に生きることを望んでいたのなら、確かにこの殺人計画は「少女には向かない職業」だ。


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少女には向かない職業 (創元推理文庫)
桜庭一樹少女には向かない職業 についてのレビュー
No.771:
(7pt)

意外と考えさせられる内容

2000年代初期に祥伝社から400円文庫として250~300ページ前後の作家書下ろしの文庫がいくつか刊行された。これはそのうちの1編で、ものの1時間で読めた。

本書は戯曲の体裁で書かれており、文章魔王というこの世から小説を無くしてしまおうと企んでいる電脳世界に住む魔王を小説家志望の女性がノートパソコン片手に戦いを挑むというストーリーである。

とにかく全編鯨氏独特のユーモア、そしてちょっぴりエロに満ちている。

まず主人公2人の設定が人を食っている。小説家デビューを目指し、日々創作しては新人賞に応募するミユキはそれまで1冊も本を読んだことがない。しかし文章が無尽蔵に湧き出る才能の持ち主。

一方彼女が師事する小説家大文豪は物語が無尽蔵に浮かぶのだが、文章を書くのが苦手でこれまで1編も小説を書いたことのない自称小説家。

この実に胡散臭い小説家とミユキのやり取りが実に面白く、さらに明らかにミユキに欲情している中年のいやらしさがにじみ出ており、まさに鯨印といったところ。

そして大文のケータイ小説と世の小説家たちをスランプに陥れている文章魔王が住む電脳世界へアクセスする文章魔界道への行き方も数々のエロサイトを潜り抜けなけれならないというバカバカしさ。当時はまだ電話回線によるインターネット通信で、携帯電話を介しての接続と時代を感じさせる場面もあり、懐かしさを覚える。

ミユキが文章魔界道に入りこんで、旅のお供となるのが漫才師の青空球児・好児の2人。実名で登場する2人はお馴染みのギャグを披露しながらミユキと行動を共にする。
なぜこの実在の漫才コンビが登場するのかは不明。鯨氏と親交があるのだろうか?

ミユキが文章魔王とその部下である第一の番人と第二の番人と対決するのは文章による対決だ。

この対決の数々はまさに鯨氏の文章遊びをふんだんに盛り込んだ内容となっている。前の400円文庫で刊行された『CANDY』でも当て字やダジャレが横溢しており、文章遊びの嗜好の強さを感じたが、本書では更に拍車がかかり、存分にアイデアを、いや趣味の世界を繰り広げている。

例えば第一の番人との戦いは同音異義語を使って彼が繰り出す問題に回答する戦い。つまり「たいせい」という言葉ならば、「体制」、「耐性」、「大成」といった具合に、同じ音で意味の異なる単語を使って文章を作成して回答する、因みに第一の番人は『古事記』の編纂者である太安万侶。鯨氏はどうもこの太安万侶が好きらしい。これで何度この人物と鯨作品で出逢ったことだろうか。

そしてさらに最後に蒟蒻問答での戦いもある。これは作中の例を挙げれば、「パンを食べてても米国とはこれ如何に」という問いに対して同様に「米を食べててもジャパンというが如し」と同種の洒落を切り返すもの。

次の第二の番人は井原西鶴。彼との戦いは回文で問題に答えるという物。古今東西の作家をテーマに回文で切り返す。

そして最後の文章魔王との戦いは彼が書いたミステリを読んで、その内容の質問に同音異義文で応えるという物。例えば<今日は基地に帰る>に対して、<凶は吉に返る>と同じ発音でありながら意味の異なる文章で回答するゲームである。

驚くべきはこれらの戦いの分量の多さである。

第一の番人との戦いである同音異義語はさすがに4問程度だが、それ以降はとにかくすごい数だ。

蒟蒻問答では9つの問答が、回文ではなんと45個の回文が登場し、そして最後の魔王との戦いでは21の同音異義語文が応酬される。もはやこれは趣味の世界だろう。

最も面白かったのは回文対決。作家をモチーフにした問いの内容が非常に面白い。特に現代ミステリ作家では作家間で知られている内輪ネタを存分に披露しており、かなり笑わせてもらった。中には無理矢理回文にしたものもいくつかあるが、何よりもこれだけの物を作り出した鯨氏の執念に敬意を表しよう。

ジャンルを問わず書下ろしで中編程度の分量で400円文庫として刊行するこのシリーズでは『CANDY』の時もそうだったが、鯨氏は敢えて実験的な小説を意図的に書いているように感じる。こういう企画でしか刊行されないであろう小説を、昔からある日本語を使ったゲームを自ら創作して愉しんで書いているようだ。

しかし内容はふざけていながらも案外書かれている内容は深いものを読み取ることが出来る。

例えば本書で数々の敵を討ち斃す作家志望のミユキが武器にしているのはノートパソコンで、つまりパソコンの文章ソフトとインターネットがあれば色んな問題も回答し、さらに文章も作ることができる、つまりパソコンこそが文章作成の最良の便利ツールであることを暗に示している。
作中、大文豪が人間には三大欲の他にストーリィ欲というのがある。インターネットが普及して無限の小説が書けることになった。人々はストーリィを欲し、またストーリィを書くことを欲している。

かつて森村誠一氏も同様のことを云っていたことを記憶している。人々には表現欲という物があり、みな何かを表現したがっている。簡単にケータイやパソコンで文章が作れる現在はその欲望が一気に爆発している、と。

だが一方でその安直さこそが文章の乱立を助長しているとも云える。ミユキはまさにそんな現代の作家志望者のステレオタイプとして描かれた人物だろう。

また作中作として盛り込まれている大文豪の『小説とは何か』の内容も意味深い。
200年に小説が無くなり、ストーリィを作れなくなった人たちの社会で夢を売り物にしている会社を経営する2人の男女の会話で展開する物語だが、どんな物語も自分の想像で登場人物を設定できる夢があれば十分であり、ストーリィは小説でなく、これからは夢が代行すると書かれている。

これは恐らく当時問題になっていた活字離れに対する作者の考えを語った物だろうと思える。夢を見ることでストーリィ欲を満足させる社会は将来来ないと思うが、この2020年の現代で小説が無くなるという表現で思い至るのは昨今の電子書籍の普及である。
「小説」が無くなるのではなく、「紙媒体としての本」が無くなることを予見した内容とも取れる。厚みを手で感じ、ページを指で捲り、そして紙の匂いを感じ、目で文章を追い、読み終わった後も本棚でその書影を眺めるという五感で味わう読書をデータでしか行わなくなった味気なさを夢に置き換えると、まさにこの内容の未来が来ているように感じる。

流石に以前ほど全ての書物が電子書籍に取って代わられるという危機感は薄らいだものの、毎年減っていく全国の書店の数の恐ろしいまでのスピードを考えると果たして出版界の未来は?と不安に駆られてならない。

戯曲というスタイルもあって文章量も少なく、小一時間で読める内容と電脳世界での文章対決というあらゆる意味で軽い内容の本書だが、作中に収められたそれまで一編も小説を書いたことのない男が書いた小説を内容に照らし合わせれば、文章の持つ面白さ、そして小説が読まれることの意義などが暗に含まれており、なかなか考えさせられる内容である。単純に読み飛ばすだけに留まらない作品であると云っておこう。


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文章魔界道 (祥伝社文庫)
鯨統一郎文章魔界道 についてのレビュー
No.770:
(7pt)

空虚な月は何を照らす?

コナリーの3作目のノンシリーズである本書はこれまでのコナリー作品とは色々と異なっているのが特徴だ。
まず主人公がなんと女性である。元窃盗犯で仮釈放の保護観察の身であるキャシー・ブラックが主人公だ。

そして今までは刑事ボッシュを筆頭に、新聞記者のジャック・マカヴォイ、元FBI捜査官のテリー・マッケイレブが主人公を務めたシリーズ物、ノンシリーズ物も含めて犯人を追う捜査小説だったが、今回の主人公キャシー・ブラックは女泥棒。つまりクライム・ノヴェルであることだ。

そして書き方や物語の進め方も以前の作品とは異なっている。このキャシーが女泥棒と判るのは案外物語が進んでからだ。それまでは彼女は一体何者で、どんな過去があったのかがなかなか語られず、仮釈放の身でハリウッドのポルシェのディーラーに勤める、人の目を惹く美人であることが解っているだけである。
前情報と知識がないまま物語は進む。そしてその中で断片的ながらキャシーの過去が浮かび上がってくるという、ちょっと変わった書き方をしているのが特徴だ。

今までのじっくり読ませる文体と違い、どこか軽やかな印象でクイクイと物語が進み、やもすれば物語の動向を十分に理解しないままにキャシーが物語のメインであるギャンブラーの持ち金掠奪計画まで一気に進んでいってしまうほどだ。訳者が今までの古沢嘉通氏と異なり木村二郎氏であるのも一因かもしれないが。

そのせいだろうか、どうも物語が浅いように感じられる。
故殺罪で刑務所に入った過去のある元泥棒の女性が、仮釈放でポルシェのディーラーに勤め、普通の生活を送っていたところにある事情から大金が必要になり、再び根城にしていたラス・ヴェガスで高額ギャンブラーをターゲットにしたハイローラー強盗を計画するが、その男はマフィアの金の運び屋で、その大金を持って帰ったことからトラブルに巻き込まれる。敵はホテルが雇った私立探偵だが、人格障害者である彼は凄腕の殺し屋でもあり、彼女を追う先々で次々と関係者を殺害していく。そしてその毒牙は彼女の大切な存在にも伸び、意を決した彼女はそれを救うために対決に臨む。そこはかつて自分の恋人が死んだホテルの部屋だった。

とまあ、実に映像向けのストーリーであり、起伏に富みながらもどこか深みを感じさせない。
コナリー作品の特徴と云えばハードボイルドを彷彿とさせる緊張感と暗さを伴った重厚な文体に、事件に関わらざるを得ない宿命のような物を感じさせる主人公がどこまでも謎を追いかけていく、泥臭さを匂わせる文体で物語を勧めながら、いきなり頭をドカンと殴られるような驚きのサプライズが仕込まれているという読書の醍醐味を感じさせる味わいなのだが、本書はなかなか主人公キャシーの氏素性と過去が明かされぬまま、物語が進み、訪れるべき終幕に向けて一気呵成に突き進む、疾走感がある文体で逆にそれが特徴である深みや味わいを逸している。

ただコナリー作品独特のテイストもないわけではない。占星術における十二宮のどこにも月が入らない時間帯は不吉なことが起きるヴォイド・ムーンというモチーフを用いて上手くいくはずの犯行を絶望的なトラブルに主人公たちを巻き込む。

また女泥棒のキャシーの造形も印象的ではある。
恐らくは男たちの目を惹く容姿をしている女性で、ヴェガスでブラックジャックのディーラーをしていたが、そこで出逢った強盗マックス・フリーリングと恋に落ち、そして彼の仕事を手伝ううちに一流の強盗の技術を身に着ける。出所後に大金が必要になり、仕事を紹介してもらうと、生活リズムを変え、必要な道具を揃え、万全の準備で臨む。
仕事もやるべきことを心得て躊躇がなく、不測の事態についてもあらゆる手段を熟知している。例えば隠しカメラでなかなか金庫のナンバーが見えなければ、もう一度金庫を開けざるを得ない状況を作るために、小火を引き起こして、ホテルの従業員に成りすまして避難を促し、金庫を開けざるを得ない状況を作り出すなど。これら一連の手口が詳らかに語られることでキャシーの凄腕ぶりが印象付けられていく。

更に仲介屋のレオ・レンフロのキャラクターもなかなか興味深い。迷信好きで古今東西の色んなまじないやジンクスを信じ、実践している。中国の風水、易経に占星術。ヴォイド・ムーンについて教えたのもこの男だ。

ジャック・カーチはキャシーの恋人マックスを罠に嵌め、死に至らせた私立探偵。そのことがきっかけで彼はホテルの当時警備課長で今は支配人となっているヴィンセント・グリマルディによって専属の探偵となり、色々な後始末を命じられ、どうにかこの状況から脱したいと願っている。
しかしこのようなキャラクターにありがちなうだつの上がらない男ではなく、躊躇いなく引き鉄を弾いて人を殺すことも厭わない。勿論証拠を残さないように細心の注意を払った上で。しかも車を見られた場合はナンバープレートを付け替え、追われないようにする。そして敵が手強いほど燃える男で常に人の優位に立って弄ぶことに喜びを覚える、人格障害者だ。
このしつこいまでに残虐な探偵もまた敵としては実に申し分ない。

これほどお膳立てがされながらもどこかB級アクション映画を観ているような感覚はなぜだろうか?

やはりそれはコナリー作品の持ち味である、サプライズに欠けるところにあるだろう。
上述したように今回はキャシーが服役するようになった過去、そして仮釈放して真っ当な仕事に就きながらもいきなり大金が必要になる動機などが明確にされないながら物語が進み、次第にそれらが徐々に明かされていくというスタイルを取っている。

従って五里霧中で読み進めながら次第にキャシーの動機という霧が晴れ、全体像が明らかになっていくという謎が解かれていく面白みはあるのだが、正直インパクトはさほど強くなく、驚きよりも納得のレベルに落ち着いている。

一方でラス・ヴェガスという享楽の都に縛られた人々の話でもある。

キャシーは幼い頃からここに住み、そしてブラックジャックのディーラーとなって泥棒のマックスと知り合い、高額ギャンブラー相手の泥棒になった。

ジャック・カーチもまた父親がアメージング・カーチと呼ばれた、フランク・シナトラやサミー・デイヴィス・Jrとも何度も共演したことのある名のある手品師で、自身も子供の頃に父親のアシスタントとしてステージに立っていた男。
しかし彼の父親は酔っ払ったマフィアによって両手の指を粉々に折られ、再起不能のマジシャンにされる。また6年前のマックス死亡の事件で、《クレオパトラ》の専属の探偵となり、逆に当時警備課長で支配人に乗りあがったヴィンセント・グリマルディにいいように扱われる身となる。
ラス・ヴェガスで育ち、そしてラス・ヴェガスをこの上なく憎んだ男なのだ。

全てが6年前のあの日へと収斂する。因縁の過去が彼ら彼女らを引き寄せていく。

コナリー作品はこのように限定された人物たちが過去の因縁によって再び引き寄せられるプロットが好みのようだ。
あれほど広大なラス・ヴェガスでもう一度会いまみえる過去の因縁たち。それはどうやっても切っても切れない鎖のような絆で結ばれた運命の人々のように描かれる。
その宿命的な繋がりを断ち切ってこそ、過去に縛られた人たちに未来は訪れるのだというメッセージが込められているようにも思える。

その因縁に抗えない人たちはそのまま飲み込まれ、そこで死に絶える。犯罪に手を染めた者たちにとって因縁の鎖は容赦なくその身を縛り、そしてあの世へと誘う。そんな冷徹さが垣間見える。

やはりコナリーはコナリーだった。

だからこそ邦題の軽薄さが目に付く。
『バッドラック・ムーン』は本書のモチーフとなっている悪運に見舞われるヴォイド・ムーンを示しているが、本書ではそのままの名前で使われている。つまり原題と同様に『ヴォイド・ムーン』でよかったのではないだろうか?なぜならVoidという単語には他に虚ろなとか中身のないとかいう、空虚さ、虚しさが込められているからだ。

全てが虚しい享楽の夜の塵となった。
しかし唯一虚しい戦いに生き残ったキャシー・ブラックは孤独の道を行く。
彼女が目指すのは砂漠。しかし砂漠が海になるところだ。かつての恋人と幸せな時を過ごした場所へ。

キャシー・ブラック。彼女もまた壮大なボッシュ・サーガの一片であればいつかまたどこかで逢うことになるだろう。それまでこの哀しき女泥棒のことを覚えておこう。


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バッドラック・ムーン〈上〉 (講談社文庫)
No.769: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

謎の真相も捩れてます

Vシリーズもいよいよ終盤に差し掛かり、とうとうS&Mシリーズの西之園萌絵と国枝桃子が登場する、2つのシリーズが一堂に会することになった。その記念的作品が第8作の本書。
そしてこのVシリーズに仕掛けられた大きな謎について仄めかされる、森氏としても大いに踏み込んだ作品だ。

但しいつものメンバーが西之園萌絵らと逢うわけではなく、保呂草潤平のみが邂逅する。そしてこの3人が出逢う場所が保呂草がずっと追っている美術品エンジェル・マヌーヴァの所有者熊野御堂譲氏のその美術品を保管している別荘である。

今回の事件は2つの密室殺人事件に1つの盗難事件。1つの密室殺人事件と盗難事件はメビウスの輪をモチーフにした棙れ屋敷で起き、もう1つの密室殺人事件は別荘から棙れ屋敷の間にあるログハウスで起きる。

本書で最も目を惹くのはなんといってもメビウスの輪を巨大なコンクリート構造物として作った棙れ屋敷だろう。
36の4メートルの部屋で区切られた全長150メートルにも及ぶ棙れ屋敷。しかもそれぞれ部屋は傾いて作られ、折り返し地点の部屋は床が左の壁となる90度傾いた構造となっている。更にそれらはドアで繋がっており、入ってきたドアが施錠されると他方のドアが解錠される仕組み、つまり必ず1つのドアが各々の部屋で施錠されている状態になる。
そんなパズルめいた趣向を凝らした屋敷で事件が起こらぬはずがない。

そしてもう1つは何の変哲もないログハウスでの密室殺人。しかもそこで殺された熊野御堂譲氏は「この謎を解いてみろ」と発見者に挑戦状を叩きつけているくらいだ。

しかし予想に反してこれら2つの密室は物語のメインではない。謎とされた密室殺人は実にあっさりと解かれる。

そして今回これらの謎解きには推理がない。冒頭のプロローグの保呂草の独白に「探偵が犯人を言い当てる原理として、これほど風変わりな手法によるものはかつてなかったのではないか」と述べているが、確かに今までのミステリにはないかもしれない。

これらの密室殺人が上記の手法によって解かれるということから実は本書における主眼ではない。
本書のメインは保呂草がずっと追い求めていたエンジェル・マヌーヴァがいかにして持ち去られたかという謎だ。

鎖で棙れ屋敷最奥部の部屋の柱に繋ぎ留められた美術品の短剣エンジェル・マヌーヴァ。その鎖自体もエンジェル・マヌーヴァ本体の一部でそれだけでかなりの美術的価値がある代物。それを引きちぎらずに持ち去るのはやはり大盗賊保呂草潤平だった。この時の保呂草の気持ちは正確には書かれていないが、恐らく物凄く感慨深かったのではないか。
その美術品が出てきたのはシリーズ5作目の『魔剣天翔』からで、この8作目にしてようやく手に入れたことになるが、単に間に3作を挟んだだけの年月ではなく、実に長い年月で…と危ない、危ない。このくらいにしておこう。

しかし色々と惑わせてくれる森氏である。この保呂草潤平が今回偽る名前は1作目に保呂草潤平と称して登場した殺人犯の名前である。そして近くの刑務所から殺人犯が脱走したことがニュースで報じられている。
冒頭の保呂草による独白めいたプロローグが無ければ今回の保呂草はいつもの保呂草なのかそれとも1作目の保呂草、秋野秀和なのか、惑わされてしまう。これもシリーズに隠されたある謎を知らなければ素直に保呂草の茶目っ気と受け止めるのだが、知っていることが逆に不穏さを誘うのだ。
特に今回の保呂草の行動が案外いかがわしく、そして危険な香りを漂わせているだけに。

しかしこうやって読み終わってみると森氏にとって密室トリックや犯人やらは本当に些末なことであることが解る。
メビウスの輪を館として実物にした棙れ屋敷。この36の部屋で仕切られ、180度部屋が反転し、しかも両側に扉を設え、一方が施錠されないと他方が解錠されないという特殊な機構を持つ屋敷を提示しながらそこで起こる事件の真相は実に呆気ない物。
ログハウスの密室トリックは建築学の教授である森氏ならではの奇抜なアイデアが光るが犯人については寧ろ明確に語られずじまい。
エンジェル・マヌーヴァ掠奪の顛末は実にスリリングだが、柱に埋め込まれた美術品の持ち出し方法は案外拍子抜けするほどの内容だ。

つまり本書で語りたかった、もしくは読者に仕掛けたかった、もしくは明かしたかった謎は別のところにあるのだ。それについては後述することにしよう。

さて上にもちらっと書いたが、流石は建築学教授の森氏と思わされる内容が随所にあるが、一番感じ入ったのはこの棙れ屋敷が建築基準法に適っていないことが明確に示されていることだ。
二方向避難、無窓階など色々同法をクリアするのに必要な設備や開口が必要であるのだが、それを敢えて排除し、適法でないことを明確に示している。つまりはこれは建築物ではないことになるのだが、しかし部屋はあることで単なるオブジェとして扱われない。つまり違法建築のまま熊野御堂譲氏はこれを置いていることになる。個人の持ち物だから、建築基準法などどこ吹く風といった感じなのだろう。

またS&Mシリーズファンなら喜ぶであろうシリーズ後の近況が解るのも本書の特徴だ。
国枝桃子はN大学から異動になり、那古野市の私立大学の助教授になっていることが本書で明かされる。西之園萌絵はまだ大学院生だからシリーズが終わってすぐのことなのだろう。

また小ネタとして萌絵が国枝桃子に語る山小屋4人の話。寒さで眠らないように4人が四隅に立って真っ暗な部屋の中を壁沿いに歩いて次の角の人にタッチして、タッチされた人が同じように次の角まで歩いてそこに立っている人にタッチして、を延々と繰り返して寒さをしのぐ話が怖いと萌絵は云うが、国枝桃子はピンとこない。これは本当に起きたら怖いです、実際に。

さて本書の題名の英訳は“The Riddle In Torsional Nest”、つまり「捩れ屋敷の謎」という意味だが、HouseやResidenceとせずにNestとしたところに森氏の建築学教授としての矜持を感じる。

また邦題の「利鈍」は「刃物が鋭いか、鈍いかということ。賢いことと愚かなこと」という意味。
捩れ屋敷そのものは果たして聡い者による造形物なのかそれとも愚か者が作った役立たずの代物なのか。それは本書を読むことでそれぞれの読者が判断することなのだろう。

たった250ページ強のシリーズ中最も短い長編である本書を最後まで読んだ時、森氏がこのシリーズに仕掛けられた大きな謎について大いに踏み込んだことが解る。
実は私は既読者によってネタバレされているのでその驚愕を味わえない不幸な人間なのだが―頼むから森博嗣ファンの方々、そういうネタバレは止めましょうね―、逆にそれを知っていることで本書が実に注意深く書かれていることに思わずほくそ笑んでしまった。
まずこの棙れ屋敷が愛知県警管轄外の岐阜県にあること。今回なぜ小鳥遊練無と香具山紫子たちは出ずに保呂草と瀬在丸紅子だけなのか?
そしてなぜ瀬在丸紅子は西之園萌絵を知っているのか、いや西之園家を知っているのか?
それはあと残り2作となったシリーズ作で明らかにされることだろう。保呂草によって綴られたエピローグに書かれた驚愕の事実。それが解るのももうすぐである―だからネタバレは止めようね、森博嗣ファンの方々―。


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捩れ屋敷の利鈍―The Riddle in Torsional Nest (講談社文庫)
森博嗣捩れ屋敷の利鈍 についてのレビュー
No.768: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

囲碁の知識があれば存分に堪能できる

2016年、『涙香迷宮』で『このミス』1位を獲得した竹本健治氏。それをきっかけに今過去の絶版となった作品や未文庫化の作品が次々と復刊、文庫化されてきている。

そしてその『涙香迷宮』でも探偵役を務めた牧場智久の初登場作が本書である。これと第2作の『将棋殺人事件』、第3作の『トランプ殺人事件』を合わせて「ゲーム三部作」と呼ばれている。
ちなみに私が読んだのは第2作の『将棋殺人事件』の方が先。なぜなら当時そちらが先に文庫で刊行されたからだ。角川文庫のやることはよく解らん。

さて『涙香迷宮』では数々のいろは歌を用いた超絶技巧の暗号ミステリが展開されるそうだが、最初期の作品である本書も題名に掲げているように囲碁の盤面が暗号になっているという凝りようだ。

本書が発表されたのが1980年。その時竹本氏は26歳でまだそんな年齢にも拘らず囲碁に精通している。
第1作の『将棋殺人事件』でも確か詰将棋の碁盤が出てきたように思うが、本書の囲碁の対局場面といい、珍瓏という盤面全体に及ぶ詰碁に鬼の意匠を凝らしたり、また盤面に暗号を隠す、更には2ページのみだが「囲碁原論・試論」と題した囲碁に関する考察論文を挟むなど、テーマに対して貪欲なまでにミステリを加味し、またそれを可能にする深い造詣を持っていることが窺われる。
本書のあとがきによれば大学時代に囲碁研究会にせっせと通い、10級で入部し、大学を辞める時には5段の腕前になっていたとのこと。その代わりに大学5年間在籍して取得単位はゼロというのだから、実に親不孝な学生である。

さて『ゲーム三部作』の第1作目である本書の探偵役は今に続く竹本作品で探偵役を務める牧場智久であるが、この時はまだ12歳ながらIQ208を誇る天才少年で囲碁の天才少年、昭和の小川道的と呼ばれるほどの人気ぶり、さらに周囲が振り返るほどの美少年ぶりというから天は二物も三物も与えたような誰もが羨む理想の探偵役として登場する。このシリーズは彼と姉のミステリ小説マニアの典子、そして彼女が助手を務める大脳生理学者須堂信一郎の3人が主要メンバーとして殺人事件に挑む。

今回彼らが出くわすのは棋幽戦という囲碁のタイトル戦の最中に首なし死体として発見された対局中の槇野九段と神奈川の村で発見された池袋で眼科医院を開業している斎藤敝二殺害事件。一見関係のない2つの事件と思われたが、後者の遺体の首に裂傷があったことから犯人が首を切断しようとしたところを誰かに見つかったため、途中で投げ出したと推理し、2つの事件を結び付ける。しかしこの2人に共通するのは囲碁をしている、その1点のみ。一方は名人。一方は玄人はだしの腕前を持つアマチュア棋士と普段は何の接点もない。こんな細い糸の連続殺人事件の真相は実に意外。

まず本書で驚いたのは12歳の牧場智久が犯人から危害を加えられることだ。あたかも犯人が被害者のように首を切って殺してやろうかとばかりに棋院で居眠りをしている間に首の周りに赤ペンで線を入れられたり、一人残された棋院で犯人に追いかけられたり、また街を歩いているところを犯人に追いかけられ、真夏の廃工場に閉じ込められたりと容赦ない洗礼を受ける。天才少年と持て囃されて殺人事件にまで手を出していい気になるなよという犯人の、いや世間一般の常識からのお仕置きとばかりの仕打ちである。
これはつまり世間の流布する素人探偵が殺人事件に容易に首を突っ込むことに対する警告とも云えるだろう。人の死が介在する事柄は自身もまたその渦中に入ること。つまり犯人を暴こうとする行為はその者自身もまた犯人の標的となり、そして狙われる危険を呼び寄せることを意味するのだ。
こんな死に目に遭うほどの仕打ちは12歳の少年にとってはトラウマになるだろう。これに懲りず探偵役を仰せつかっている牧場智久にとってこのエピソードは今後何か影響を与えているのだろうか?

盛り込まれた囲碁の歴史に残る名人たちのエピソード、ルールを巡った騒動など単にゲームに留まらない囲碁を取り巻く人間模様が実に面白い。
囲碁の正式ルールが昭和24年まで明文化されていなかったとは驚きだった。歴史が深い競技だと思いきや意外と近代囲碁の歴史は浅かったことが解る。それは囲碁が昔から日本人の生活と共に発展してきたことで口伝で、もしくは暗黙の理解的にルールが形成されてきたことを表しているのだが、それ故に地方性が色濃くなり、それぞれのルールが出来たことで統一ルールが必要になったのだ。それだけ囲碁の世界が発展してきたことの証だ。

本書で感心したのは大脳生理学の視点から犯人を解き明かすこと。
実はこれは第2作の『将棋殺人事件』でもなされていたが―すっかり忘れていた―、島田荘司氏が21世紀本格として2000年以来、御手洗潔をウプサラ大学の大脳生理学教授としてこの脳のメカニズムをミステリの題材に持ち込むことに積極的なのだが、既に1980年の段階でそれを竹本氏が実践していることに驚いた。つまり21世紀どこから20世紀に彼は島田氏が積極的に取り込む新しいミステリの先鞭をつけていたのだ。

正直囲碁に明るくない私にとって詰碁や囲碁の知識を謎解きに盛り込んだ本書を余すところなく楽しめたとは云えない。
本書には囲碁はたった5つの原則で成り立っているから実は覚えるのは簡単と書かれているが、その後に出てくる「石の死活」、「月光の活」、「仮生」などなどちんぷんかんぷんだった。
また槇野九段最後の名勝負の碁石の配置の妙味などもその凄さを全く理解できなかった。やはりまだまだ五目並べが私にとっては関の山のようだ。
しかしそれでも本書は上に書いたようにミステリとして小説としてなかなかに面白く読めた。たった1つの碁石で部分的には否とされていた物が全体的に見ることで有と反転する碁の深さは知識がなくとも解る。首を切られたかのように見えた鬼を模した珍瓏が全体を見ることで生を得る。それは即ちたった1つの手掛かりから全てが反転する美しいミステリを見ているかのようだ。それこそが竹本氏が本書でやりたかったことなのだろう。

さて続く第2作『将棋殺人事件』については既に今から約12年前の2006年に読了しているが、既に忘却の彼方だったので当時の感想を紐解いてみたところ、酷評だった。
私の感想によれば幻想小説風味が加えられており、案外文体も凝っていて私の嗜好に合わなかったようだ。大脳生理学者須堂による脳が人に及ぼす弊害によるミステリでもあるのだが、それは高く評価しているようだ。島田氏の21世紀本格として発表された同趣向の作品も同時期に読んでいながらこの評価をしているということはよほど合わなかったのだろう。しかし今読むとまた評価も変わるかもしれない。

とにかくこの須堂信一郎という「ゲーム三部作」ならびにそれに続く短編「チェス殺人事件」、「オセロ殺人事件」、「麻雀殺人事件」のみに登場する探偵には今回改めて興味を持った。この後の『トランプ殺人事件』もまたいつか読むことにしよう。


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囲碁殺人事件 (講談社文庫)
竹本健治囲碁殺人事件 についてのレビュー
No.767:
(7pt)

シリーズ10作目という節目の作品ではあるのだが…。

人間は感情の動物であるとかつて誰かが云った。本書はそんなことを強く思い知らされる作品である。

リンカーン・ライムシリーズ記念すべき10作目となる本書の敵はなんとアメリカ政府機関の1つ、国家諜報運用局(NIOS)の長官。バハマで隠遁中の政治活動家を暗殺した共謀罪で逮捕しようと計画するNY地方検事補のナンス・ローレルに協力する。

さらにコードネーム“ドン・ブランズ”で呼ばれる凄腕のスナイパーも捜査の対象だ。なんと2000メートルという驚異的な距離から標的を暗殺したほどの腕を持つ。
しかしアメリアによればスナイパーの最長狙撃記録は2500メートルらしい。まだ上の人物がいるのだ。

そしてライムたちの捜査の前に立ち塞がるのが殺し屋ジェイコブ・スワン。彼は秘密裡に情報を盗み取る技術に長けている。従って極秘裏に捜査していると思っているローレル地方検事補率いるライムチームの行動は既に筒抜けなのだ。しかも彼らはサックスの3Gのスマートフォンを盗聴し、ライムたちの捜査の先回りをする。
被害者ロベルト・モレノお抱えのリムジン運転手を先回りして殺害し、NIOSの密告者が情報をリークしたメールを送信したチェーン店のコーヒーショップを突き止めれば、先行してプラスチック爆弾を仕掛け、店内の防犯カメラの録画データをパソコンとサーバーごと破壊し、モレノお抱えの通訳を警察を装って訪ね、アメリアが訪問する前に拷問して殺害する。それはバハマでも同様で、事件のあったホテルの部屋はいつの間にか改修工事がされ、ライムたちが捜査を止めるよう、人を雇って脅したりもする。

更にサックス自身にもその魔の手を伸ばそうと尾行を続ける。

ジェイコブ・スワンは貝印の“旬”ナイフ―これはKAIという日本のブランドらしい―を愛用し、殺害対象を一気に殺さず、まず手刀で喉を潰し、声が出せなくなった状態で拘束し、料理をするようにじわりじわりと痛めつける殺し屋だ。料理を得意とする彼はまさに一流の高級料理を調理するが如く、対象者の肉を丹念に切り下ろす。

今回特徴的なのは犯行現場がバハマということで現場捜査を担当するアメリアもすぐには現場に行くことが出来ず、ライムと共に部屋で捜査を担当し、情報収集に徹する。

一方ライムは現場の遺物の情報を得ようとバハマ警察の捜査担当者に連絡を入れるが、これが南国の後進国特有の悠長さと捜査能力の不足から非常に不十分でお粗末な状況であり、全く有効な手掛かりが得られない。現場検証も事件が起きた翌日に成されているため、新鮮なほど有力な情報が集まる物的証拠が失われた可能性が高く、ライムはその捜査のずさんさに悶々とさせられるのである(しかしこのバハマ警察の担当者マイケル・ポワティエの愚鈍さはそのすぐ後に解消されるようになるのだが、それはまた後述しよう)。

このようにいつものように遅々として進まない捜査に読者はライム同様にストレスを感じさせられるようになる。

従っていつものようにお得意のホワイトボードに次々と新事実を埋めていくそのプロセスも滞りがちだ。しかも書かれた情報は人づてに教えられた情報と憶測ばかり。通常のライムシリーズとは異なる進み方で読者側もなんともじれったい思いを抱く。

そんな膠着状態を作者自身も察したのか、ライム自身がバハマに赴くことになる。
前作の『シャドウ・ストーカー』でライムはキャサリン・ダンスの捜査の手助けをするために自らフレズノに赴いたが、今回は更に海外まで進出する。リハビリと手術により指だけだった可動範囲も右手と腕が動かせるようになったことでずいぶんと活動的になったことが解る。
最新型の電動車椅子ストームアローに乗って野外活動に励むライムの進歩は同様の障害に悩む人々にとって希望の姿でもあるだろうし、また最新鋭の補助器具があれば重篤な障害者でも、介護士の補助が必要であるとはいえ、外に出て行動することが出来ることを示している。
優れたアームチェア・ディテクティヴのシリーズだった本書もまた科学と医学の進歩に伴い、その形式を変えようとしているのが解る。

しかし一方で現実はそんなに甘くないこともディーヴァーは示す。バハマ警察の上層部の意向に背いてライムに協力するポワティエ巡査部長と共に独自で捜査するライムたちを暴漢達が襲い、なんとライムはストームアローごと海に放り出されるのだ。
事件捜査という犯罪と紙一重の活動は健常者にも危害が及ぶ。まして障害者にとっては過分なことだと示すエピソードだが、それでもライムは屋外に、数年ぶりに海外に出たことが非常に楽しいようで、これからも外出したいと述べる。それほどまでに日がな一日屋内生活を強いられるのは苦痛だからだ。

ライムはニューヨークの自宅に戻り、新たな電動車椅子メリッツ・ヴィジョン・セレクトを手に入れる。それはオフロード走行機能も付いた機種で今回のバハマ行で外出の醍醐味を占めたライムの行動範囲が今後もっと広がることだろう。

さてこのバハマ行で彼らの有力な協力者となるのが愚鈍と思われていた捜査担当者マイケル・ポワティエ。経験が浅いながらも刑事という誇りを大事に上司の目を欺いてライムたちに協力する。それが上司にバレて異動を命じられるが、ライムの機転によってそれも解消される。ライムがアメリカに招待して自分のチームの一員に加えたいとまで思わせる好人物だ。

しかし一方でライムの手足となり、フィールドワークを担当していたアメリア・サックスは逆に今回のチームに加わった特捜部のビル・マイヤーズ部長から持病の関節炎を見透かされ、更に健康診断の不備により、捜査を外れることを通告される。
ライムの身体能力の向上と反比例するかのようにアメリアの関節炎は悪化してきており、逆に捜査活動に支障を来たす様になってきている。何とも皮肉な話だ。

またナンス・ローレルとライムたちが対峙するNIOSの長官シュリーヴ・メツガーはいつにも増して短気な人物である。自分の意にそぐわなければ怒鳴り散らし、物を投げつける。気分を害しただけでなく、その人物が気分を害するようなことをすると想像しただけで怒りが沸々と沸き起こる、異常なまでの癇癪持ちだ。店で買ったコーヒーが思いのほか熱すぎれば、店に車で突っ込んで営業できなくしてやろうかと本気で思い、軍人時代では自分たちを罵る酔漢を徹底的に傷めつけ、性的な快感を覚える。

従って他の職員は彼の姿を見ると視線を合わせようとしないし、ある者は方向転換をしさえもする。また家族はその怒りに怯え、離婚し、時たま会ってもソワソワし通しといった具合だ。

その怒りを抑えるために彼は沸き起こる憤怒を精神科医のアドバイスに従って具体的な物としてイメージする。その象徴が“スモーク”。かつて中学生の、まだ太っていた頃にキャンプファイアで隣に立っていた女子に煙から逃れるふりをして近づいて話しかけた時に、無碍に断られたことから想起したイメージである。この“スモーク”がメツガーの怒りのバロメーターとなっている。

キングの作品や他の海外作家の作品にはよくメツガーのような怒りを抑えきれない人物、衝動的な怒りに取り込まれ、我を失う人物というのは必ず出てくる。
どうもこのような癇癪を欠点とする人物はアメリカ人にとっては共通の特徴のようだ。テレビでも大きな声で怒鳴る姿をよく見るし、いい大人がテレビの前で怒りに駆られ暴力を振るい、喧嘩沙汰になったりするのを目の当たりにしたこともあるだろう。感情豊かな国民性は逆に怒りに対しても率直であり、おまけにそんな人たちが合法的に銃の所持を認められているのだから、やはり非常に物騒な国だ。

さて相変わらず真相は二転三転、三転四転する。

ただ振り返ってみれば非常におかしい部分もある。さすがにこれはどんでん返しを考えすぎて物語が破綻したとしか云えないだろう。

さらにディーヴァーはどんでん返しを仕掛ける。

価値観の反転はミステリとしては読書の愉悦を味わえるが、実際面としては実に恐ろしいと思わされる。
高度な情報を扱う仕事は常にその情報に隠された意味を考え、判断することに迫られている。しかしそこに感情が加わるとその情報は右にも左にも容易に傾く。それこそが本書のテーマであろう。

これらの人々は共に自らの信条に従い、正しいことをしていると思っていながら、実は好き嫌いという子供の頃から抱く非常に原初的な感情にその判断を左右されていることに気付いていない。そのことが彼ら彼女らをして情報を読み誤り、また読み誤ったと勘違いしたりする。そんな権力を持つ一個人の感情のブレで対象となる人間の生死をも左右されることが実に恐ろしい。

思えば本書は鑑識の天才リンカーン・ライムが現場から採取した証拠という事実だけを信じ、緻密に推理を重ね、論理的に事件を解決するところが魅力であるのだが、その実理屈っぽく終始不平不満を呟くライムの感情っぽいところ、つまり人間臭さがシリーズの魅力でもある。
そしてそのパートナー、アメリアもまたとにかく動き続けることで自分の生を感じ、またライムからそれを求められていることを生き甲斐にしている。そして気に食わない人には容赦なく冷たく当たる。
特に本書では感情の起伏を見せないナンス・ローレルに嫌悪感を示す。ライムの部屋に自分のパソコンを持ってきて仕事をするその姿を見て、自分の居場所の一部を取られたように感じ、その嫌悪感をますます募らせていく。丁寧な言葉が自分をかえって見下しているように感じる。そんな感情の起伏がローレルのアメリアに対する配慮を見誤り、衝突を繰り返すことになる。

そしてまた本書ではライムがバハマに赴いて地元の警察と捜査をしている間、アメリアはアメリカで捜査を続け、その距離がお互いを強く意識し合い、そしていつも以上に求め合うことになる。

緻密な論理を売りにしているこのシリーズは実は人の感情を実に豊かに捉えた作品であることを再認識させられる。またその感情ゆえに生れる先入観が登場人物のみならず読者の感情を動かし、どんでん返しへと導かれていくのだ。

実は本書は人気シリーズの第10作と記念的な作品ながらシリーズ作で唯一『このミス』で20位圏内から漏れた作品だった。ランキングがその面白さと比例しているわけではないとは解っているが、それはこのシリーズの特色である、ある分野に精通した悪魔的な頭脳の持ち主や超一流の技能を持つ殺し屋が登場しないことが他の作品に比べて魅力がないように思われる。
もしライムの敵が超長距離狙撃を完遂させる技能を持った殺し屋だとすれば、いつどこからでも狙撃する恐れがあるというサスペンスが味わえたはずだが、今回は政府機関のNIOSが相手ということもあって情報戦に終始し、いわゆるいつも感じるヒリヒリとした緊迫感に欠けたように感じた。

当時この作品のランキングを見た時にとうとうこのシリーズも終わりが来たかと、どんな作家でもいつかは訪れるアイデアの枯渇、品質の低下を想像した。
しかしその翌年ディーヴァーは復活する。ライムシリーズ次回作『スキン・コレクター』で『このミス』1位を獲得するのである。

確かに本書では上に書いたような不満を抱いたが、まだまだディーヴァーの筆は衰えていないことは既に立証済み。
どんなシリーズにもある谷間の作品として記憶するにとどめ、次作に大いに期待することにしよう。


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ゴースト・スナイパー 上 (文春文庫 テ)
No.766:
(8pt)

車への憧憬を織り交ぜた青春ホラー

キングは過去の短編で機械が意志を持ち、人間を襲う話を描いてきた。クリーニング工場の圧搾機、トラック、芝刈り機など我々が日常に使う機械の、抗いようのない恐るべき力に対する畏怖をモチーフに恐怖を描いてきたが、この『クリスティーン』もこれら“意志持つ機械”の恐怖譚の系譜に連なる作品となるだろう。しかもこれまでは短編であったがなんと今回は上下巻併せて約1,020ページの大作である。

アメリカ人と自動車との関係の深さは日本人のそれよりももっと深いように思える。今でこそ日本車が世界中に輸出され、一大勢力となっているが、フォードが20世紀初頭に自動車の量産化に成功してから、巨大な自動車産業国となった。20世紀からのアメリカ人は自動車と共に成長し、繁栄してきたのだ。
更にガソリンが安いこともあり、広大な国土を持つアメリカを移動するのに、アメリカ人にとって自動車は無くてはならない生活必需品となった。特に日本と違い、アメリカではカーディーラーに行って気に入った車があると、そのまま乗って帰れるほど手軽に買えるようだ。

今までキングが“意志持つ機械”をモチーフに書いてきた物語においてその対象が自動車になるのはそんな背景を考えると必然的であり、そして満を持して発表した作品だと云えよう。ある意味本書は“意志持つ機械”譚のこの時点での集大成になる作品と云えるだろう。

但しそこはキング、意志を持った車が暴れ、人間たちを襲うと云った陳腐な展開をしない。このクリスティーンと名付けられた1958年型の赤と白の2色に塗り分けられたプリマス・フューリーがその本性を表し、人間に牙を剥くのは上巻の490ページの辺りだ。そこまでの展開は寧ろ少年と車との運命的な出逢いという少々色合いの違った話で物語は進む。

何の前知識もなく、最初にこの作品を読んだ時、これはトップの5%圏内に入るほどの頭を持ちながらも、優等生グループにも入れない、スクールカーストの最下層に位置する17歳の少年アーニー・カニンガムが1台の古びた車と出遭うことで負け犬的人生を変えていく物語であると思うに違いない。彼の自動車のメカに関する優れた知識は天からの授かりものになるだろうが、彼が出遭う58年型のスクラップ同然のプリマス・フューリー、愛称をクリスティーンという車もまた彼の人生を変える天からの授かりものになる。
そのおんぼろ車を自身で少しずつ再生していくうちにいわゆる負け組に属していたアーニーもまた生まれ変わっていく。ピザ顔とまで呼ばれていた吹き出物でいっぱいの顔は次第に綺麗になり、男ぶりも増していく。更に以前よりも度胸が増し、町の不良たちに絡まれても一歩も引かないようになる。更には学校で評判の美人の心も掴み、恋人にすることに成功する。
一人で一台の車を再生することが即ち彼の人生を再構築させていくことに繋がっていく。これはそんな一少年の人生を変えていく青春グラフィティなのだ。

また一方で主人公のアーニーが車中心の生活になっていくことで家族や親友との軋轢が生まれる。クリスティーンに一目惚れしたアーニーは少しでも早くその車を再生させ、走れるようにし、自分のパートナーとすることに執着する。しかしそれは親友であるデニスと過ごす時間が少なくなること、そして両親の懸案を増やすことになる。

大学進学のための貯金は目減りし、上位だった成績も下がっていく。大学講師である両親は自分の息子がいい大学に進学することを望んでおり、自動車の整備に執心して学業や疎かになる息子に不安と不満を抱く。

それらはいつまでも続くだろうと思われた友人関係、親子関係が、実は幻想であり、いつかそんな安定した関係が終わるその時が、アーニーとクリスティーンとの出逢いなのだ。

親友のデニスは子供の頃から一緒だったアーニーが、それまではフットボールの選手でそれなりにモテていた自分の引き立て役のように見えていた親友が、古びれた車をたった一人の力で再生し、そしていつしか犯罪者のような自動車整備工場のオーナーとも信頼関係を築き、更には不良グループにも一歩も引かない度胸を身に着け、終いには学内一の美人と付き合うようにもなり、それに羨望と嫉妬を覚える。

親は子供が自分の手を離れ巣立つことがまだ少し先のことだと思っていたが、実はもう息子はその時を迎えていたことを知らされる。今まで自分の云う通りに従っていた息子がだから車のことに関しては強く反発し、一歩も引かないことに驚きと失望を覚える。一方父親は夜、彼の整備した車でドライヴし、父と息子だけの男同士の対話をし、息子の成長を認めつつ、父として忠告をする。

アーニーの成長を通して変わりゆく生活の変化をそれぞれの心情を交えてキングは訪れるべき変化の時を鮮やかに語る。

それもただ彼の修理する車クリスティーンが命ある車であることを除けばのことだ。

キングが他の作家と比べて一段優れているのは、通常の作家ならば子供の成長時期に訪れる親子と親友との変化のキー、メタファーとしてスクラップ同然の車の修理の過程を使うのに対し、キングはその車自体をも生ある物、持ち主に嫉妬するモンスターとして描いているその発想の素晴らしさにある。

物に魂が宿るのは正直に云って子供の空想の世界だろう。女の子は人形を生きている自分の妹のように扱い、男の子は車の玩具やロボットの玩具に生命があるかのように自ら演じて興じる。

そんな子供じみた発想もキングの手に掛かれば実に面白くも恐ろしい話に変るのだから驚きだ。

更に『恐怖の四季』に収録されているキングの自伝的小説「スタンド・バイ・ミー」で培った青春グラフィティストーリーの手法が、見事に合わさっている。

どこをどうやって考えてもこの異質な2つの成分が合わさるようには思えないのだが、これがキングの手に掛かると実に見事に融合し、奇妙な味わいを持ちながらもほろ苦さを感じさせる小説へとなるのだから実に不思議だ。

さて物語がアーニーの思春期の通過儀礼とも云える親からの自立と反発というムードからホラーへと転じるのはクリスティーンがアーニーを目の敵としているバディー・レパートンたち不良グループにスクラップ同然にさせられるところからだ。そこから前の持ち主であるルベイとアーニーは無残なクリスティーンの姿を見て同調し、以前より増して2人の魂の親和性は強まり、アーニーはルベイの憑代となっていく。そしてクリスティーンもその怪物ぶりをようやく発揮し出すのだ。

そこからのアーニーとクリスティーン=ローランド・ルベイの独壇場だ。

最初は無人の状態で復讐を成していたクリスティーンだが、やがて亡くなった前所有者のルベイの屍が具現化して現れてくる。そこでようやく本書は『呪われた町』、『シャイニング』などのキング一連のモンスター系小説の系譜に連なる作品であることが解るのである。それは本書の献辞がジョージ・ロメロに捧げられていることからも解るように、ゾンビをモチーフにした怪奇譚であるのだ。

ところで今回キングは2つの叙述を使っている。まず第一部は主人公アーニーの親友デニス・ギルダーの一人称叙述で語られるが、第二部は三人称叙述、そして最後の第三部は再びデニスの一人称叙述に戻る。

まずこれは語り手であるデニスが途中フットボールの試合で重傷を負い、入院してしまうことからアーニーと一緒にいる時間がなくなるためであるが、このアーニーとデニスがしばらく疎遠になることがクリスティーンとアーニーの親和性を高めることになり、つまりアーニーが破滅への道を辿っていくのに大いに拍車がかかることになる。
つまりこれはデニスこそがアーニーが狂気に至る、いやクリスティーンに憑りつかれていくことを防ぐ護符のような役割を示しているように思える。

それを示すかのようにデニスが再びアーニーと対峙する第三部ではクリスティーンに魅せられ、そしてその前の所有者のローランド・ルベイの亡霊に憑りつかれ、性格どころか人格までもが変わっていくアーニーがルベイとクリスティーンの支配に抗って自分を取り戻そうとする。理解ある親友こそが墜ちていく自分を取り戻す最後の砦なのだ。
これは怨霊に憑りつかれたアーニーだけに限らず、我々の人生にも関係する部分でもある。自分の人生に躓いた時、支えとなってくれる存在を1人は持つこと。それを描くのにこの3部構成は必要だったのだ。

そういう意味では物宿る怨霊によって自分が自分で無くなっていくアーニーの姿は昔からある幽霊譚の1つのパターンであるが、また一方で私はこのアーニーの変化については我々の日常において非常に身近な恐怖がテーマになっているように思える。

例えばあなたの周りにこんな人はいないだろうか。
普段は温厚でも車を運転している時は人が変わったようになる、という人だ。それはある意味その人の意外な側面を表すエピソードとして、時に笑い話のように持ち出されるが、ある反面、これはその人の二重性が露見し、またそれを他者が目の当たりにする機会でもある。そしてその変貌が極端であればあるほど、それも恐怖の対象となり得る。
つまり本書の恐怖の根源は実は我々の生活に実に身近なところに発想の根源があるのではないかと私は思うのだ。

これはあくまで私の推測に過ぎないのだが、キングがこのエピソードを本書の発想の発端の1つにしていたのは間違いない。なぜなら同様の記述が本書にも見られるからだ。
上巻の406ページにアーニーがこの車に乗るとなぜか人が変わったようになると書かれている。そのことからもキングが本書を著すにこんな身近で、どちらかというとギャグマンガの対象になるような性格の変貌―マンガ『こち亀』に出てくる本田のような―を恐怖の物語のネタとしたであろうことは推察できるし、そのことからもキングの非凡さを感じる。

人の物に対する執着というのは物凄いものがある。
例えば私は読書が最たる趣味なのだが、気に入った作家の本は是非とも前作、それも発表順に読みたいと思うので、一時帰国のたびに古本屋に出向いては求める本がないか探している(家族はもうそれが当然のこととして諦めてくれているのが有難いが)。

私の場合はある1点物に対する執着ではないので、クリスティーンに対する執着とは性質が違うとは思うが、古来死者が生前愛でていた物に所有者の情念が宿るという怪奇譚は枚挙にいとまがない。その対象を58年型のプリマス・フューリーという実に現代的なアイテムに持ち込んだことにキングの斬新さがあると云えよう。
既に述べたが、自動車愛好家たちにとって本書の車に対する執着の深さは頷けるところが多々あるのではないだろうか。自動車産業国アメリカが生んだ意志宿る車による恐怖譚。
しかし車に対する愛情の深さはアメリカ人よりも深いと云われる日本人にとっても無視できない怖さがあった。たかが車、そんな風に一笑できない怖さが本書にはいっぱい詰まっている。


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クリスティーン〈下巻〉 (新潮文庫)
スティーヴン・キングクリスティーン についてのレビュー
No.765: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

昭和要素満載の伝記ミステリ

デビュー作である奇想天外な歴史観を綴った連作短編集『邪馬台国はどこですか?』を読んでその面白さを堪能し、その後読んだのは古事記を下地にした鯨版古事記伝の2冊と、異色の近未来小説『CANDY』と、どこかキワモノ感が濃い鯨作品を経て、読んだ本書は比較的まともなミステリであったことにほっとした。宮沢賢治の諸作と生涯をモチーフにした誘拐ミステリである。

私が抱いていた宮沢賢治は死後評価された童話作家・詩人というイメージで、有名な『雨ニモマケズ』の詩のイメージから朴訥かつ誠実な、清貧の人と思っていたが、それは全く違った。

質屋の息子として生まれ、裕福な暮らしをしながら、一方でそんな人に借金をさせて取り立てて生計を立てている父親の仕事を忌み嫌っていた。その明敏な頭脳で鉱石の研究から農業指導者、学校の先生に童話作家と様々な分野に手を伸ばし才能を発揮する。しかし農業指導では農家の有機肥料の設計書を無償で作成して渡したり、羅須地人協会なる農民のための勉強会を開いて土壌学、肥料学、植物生理化学から宇宙論にエスペラント語などを無料で教えていたりしていた。更に右翼に傾倒したり、浄土真宗の父親に対抗して熱心な日蓮の法華経信者になったりと特に父親に対しての反抗心が強い一方で逆に東京に出てからは宝石商を始めるために忌み嫌っていた父親から金の無心を何度もしていたというかなり矛盾の孕んだ人物である。

また禁欲主義者で、特に抑えきれない性の衝動と戦っており、代表作『春と修羅』は春、即ち回春、売春といった性欲との戦い、“修羅”をテーマにしているとの解釈がなされる。性欲を抑えるために童話を次々と書いていったが、晩年は禁欲主義は誤りだったと認めている。
そんな宮沢賢治の暗黒面がつぶさに描かれていく。

本書では宮沢賢治とは自分の理想と常に戦っている人と読み解かれる。父からデクノボーと呼ばれ、そのことを自覚しながら、不器用ながらも正直で誠実でありたいと書いた『雨ニモマケズ』は実はデクノボーである自分を讃えた詩であると解釈され、そして父親の強欲に対抗しながらも父のお金に頼る、禁欲と戦いながらも最後はそれを後悔する、童話を次々と発表するが世間には認められない、といった具合に常に内なる自分と戦いながらも結局敗れていった男なのだ。
明晰な頭脳で色んな分野に深い造詣を持ちながらもそれを活かさないばかりに不遇に見舞われた天才。その溢れる才能の使い道を間違った男というのが生前の宮沢賢治だろう。
今や国民的詩人、国民的童話作家と評されているがそれは彼の死後のこと。今なお彼の諸作が読み継がれ、信奉者を生み出していることから最終的にはその才能の使い道は間違っていないようだったが、当時生きていた宮沢家誰一人知らない事実である。

そして思うのはそんな多才ぶりを発揮するほどに昔の人は斯くもよく働いたものだということだ。常に知識に対して貪欲でそれを人に啓蒙することに情熱を燃やす宮沢賢治の意欲たるや、寝る時間をも惜しんで生きていた、そんなヴァイタリティに溢れている。

タイトルにある隕石は宮沢賢治が知っていたとされる七色のダイヤモンドの鉱脈は隕石ではないかという推察による。つまり隕石が持っているだろう幻のダイヤモンドを巡る誘拐事件、隕石誘拐というわけである。隕石から採れる鉱石・宝石は実際にあるようで、本書も一概に夢物語と一蹴できない真実性を孕んでいる。

その誘拐のターゲットにされる中瀬稔美の境遇はなかなか同情すべきところがある。
山師の父親に育てられ、上京して就職した損保会社で中瀬研二と社内恋愛の末、結婚し、主婦業に専念するが、突然童話作家になりたいと夫は会社を辞め創作講座にアルバイトをしながら通う。勿論それだけでは生計が成り立たないからSOHOでホームページ作成などを行っているが、生活は苦しく、下着も変えずにすり切れてボロボロになった物をずっと使っている。しかしその容姿は周囲が振り返るほど美しい。

そんな毎日に嫌気が差し、夫とは口論が絶えない。そんな中、宮沢賢治を信奉するカルト集団に拉致され、監禁され、潜在意識下に刷り込まされた七色のダイアモンドの在処を打ち明けるよう強要され、拉致グループにクスリを打たれ、レイプされてしまう。

ここまで書くと中瀬稔美の境遇には憐みを覚えてならないが、数々の薬を打たれ、性の奴隷に堕しながらも人一倍強きな性格で、どこかあっけらかんとした明るさを保っている不思議なキャラクターである。

そんなどこかエロティックで艶めかしい展開は昔の土曜ワイド劇場のような俗物的サスペンスドラマを彷彿させる。
その一方で稔美を拉致する十新星の会の面々は宮沢賢治を信奉し、<オペレーション・ノヴァ>というアルミニウムを摂取させることで全国民にアルツハイマー病にし、痴呆化を図り、日本全国民を支配下に置くという、秘密結社物のテイストもありと、なんともいびつな設定の下で物語が進んでいく。

いびつと云えば主人公の中瀬研二を助ける面々もまたいびつだ。
彼の隣人で妻稔美にコンピュータの扱い方を教えていた在宅勤務の児玉恭一、中瀬と同じ創作童話講座に通う白鳥まゆみは宮沢賢治に詳しいがゆえにメンバーに加わるが、夫を別れる決意をし、一方で中瀬研二に惚れている。
高校時代の同級生でフリーライターの伊佐土茂は昔中瀬の妻稔美を取り合った仲であり、稔美の窮地に助太刀を買って出る。
そしてもう1人の藤崎優次郎は昔からケンカが強く、今は武術の達人で忍者ショーの忍者を演じるほどの運動神経の持ち主で手裏剣で敵を攻撃する腕前を持つ。彼は中瀬の窮地に仕事を辞してまで協力する。
つまり中瀬を中心に隣人、片想いの女、かつての恋敵、そして仁義に厚い忍者と、通常ならば考えられないメンバー構成で話が進む。

本作が発表されたのは世紀末の1999年。つまりこのような世間に不安感が漂っている時代にオウム真理教に代表される新興宗教が蔓延っていたように、本書もそんな宮沢賢治を信奉し、国民総痴呆化を企むカルト集団による犯行というのは今読めば荒唐無稽だと思われるが、当時の世相を実は如実に反映した作品であると云える。
特に童話作家、詩人として名高い宮沢賢治の諸作を紐解くことで内なるコンプレックスを読み解き、そこから彼を神と崇める<十新星の会>なる狂信集団を案出したアイデアは鯨氏ぐらいしか思いつかないものではないだろうか。

誘拐物でありながら、宮沢賢治の文献から隠された秘宝の在処を読み解く冒険小説的妙味、さらに秘密結社による日本征服計画、そして拉致された人妻の凌辱劇とサスペンスにアドヴェンチャーにオカルトにエロと思いつくものをどんどん放り込んで物語を作った鯨氏の離れ業。その全てが調和し、バランスを保っているとは云い難いがこのような芸当に挑んだ鯨氏のチャレンジ精神は評価に値するだろう。
もう1つ忘れてはならないのは夢を追いかけて家族に貧乏を強いた夫婦の不和からの再生の物語であることだ。現在単身赴任中の我が身に照らし合わせても思うのだが、案外夫婦は距離を置くことでお互いの存在に改めて思いを馳せ、そして大切さに気付かされるのだ。いつも一緒にいると、やはり人間同士、どこか疲れて嫌なところばかりが目に付くようになる。中瀬夫婦のように誘拐されるような事態はごめんだが、離れることで絆が深まる気持ちは実に今ならよく解る。

そしてやはり鯨作品の妙味は過去の文献、史実から読み解かれる鯨流新事実の開陳にある。
本書で描かれる我々の知らない宮沢賢治の世界は本書のサブタイトルにあるようにまさに迷宮である。自由な発想と突飛な設定。次回もこの作者独特の物語を期待したい。


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隕石誘拐―宮沢賢治の迷宮 (光文社文庫)
鯨統一郎隕石誘拐-宮澤賢治の迷宮- についてのレビュー
No.764: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

いつか書かれるであろう究極のミステリを求めて

作者と同姓同名の登場人物が登場する有栖川有栖氏のシリーズ作品は、その趣向の祖であるエラリー・クイーンと同じくクイーン信奉者で同趣向をシリーズキャラクターにしている法月綸太郎氏と異なり、探偵役は作者と同姓同名の人物ではなく、別の人物が務める。それはデビュー作『月光ゲーム』で登場した英都大学の学生有栖川有栖が登場する、いわゆる学生アリスシリーズでは推理小説研究会の部長江神二郎であり、もう1つが本書がその第1作となる推理作家有栖川有栖が登場するシリーズ、作家アリスシリーズの、臨床犯罪学者の火村英生である。このシリーズはそのまま探偵の名で呼ばれているようだ。

このシリーズは先に文庫書下ろしで出版された2作目の『ダリの繭』を先に読んでいたので、前後したが、これでようやくシリーズの最初から触れることが出来た。

1作目であることから有栖川有栖の自己紹介、火村英生の氏素性、そして2人が出逢ったエピソードなどが語られている。本当に久しぶりの有栖川作品だったので『ダリの繭』に書かれていたかどうかも定かではないが、このシリーズでは有栖川有栖が本名であること(因みに有栖川の姓は日本に1世帯だけ。このことを知っていたら本当にこの設定にしただろうかと訝しむが)、元印刷会社に勤めていたサラリーマンで脱サラして専業作家になったこと、火村英生の肩書、臨床犯罪学者という呼称は有栖川氏の造語であること、2人の出逢いは英都大学学生時代で講義中にミステリの賞への応募作への執筆をしていた有栖川の作品を偶々横に座っていた火村が勝手に読み始め、授業後もその後を続きが気になると云ってそのまま一緒に昼食を食べたのがきっかけであったことが語られている。
この時のアリスが学生アリスシリーズと同設定なのかはまだほとんど2つのシリーズ作品を読んでいない私には不明だが、学生アリスシリーズで江神と学生時代の火村が邂逅するシーンは今後あるのだろうかと期待をしてしまう設定ではある。

そんなシリーズ第1作は日本ミステリの巨匠の別荘に新人の推理作家と担当編集者が訪れ、一堂に会するという何とも既視感を覚える設定で、そして「日本のディクスン・カー」、「密室の巨匠」と称されたその作家の別荘で密室殺人が起こるという本格ミステリの王道を行くシチュエーション。さらにその場所は北軽井沢という寒冷地。嵐の山荘物の様相を呈しているが、流石にそこまでの孤絶感はなく、警察も事件に介入する。

まず推理作家の面々がベテラン推理作家の家に集まる設定から想起されるのは私が読んでいる中では綾辻氏の『迷路館の殺人』だ。あれは家の中が迷路になっており、その中で創作活動を行って師匠であるベテラン推理作家が最も優れた作品と認めた者に遺産の半分を相続するという特殊な状況であったが、本書はそこまで特別な状況ではなく、恒例のクリスマス・パーティーに招かれた若手推理作家と担当編集者がそこで起きた密室殺人事件に巻き込まれる、と実にオーソドックスだ。

まずやはりこの推理作家の巨匠という設定は、本格ミステリをこよなく愛する有栖川氏にとって自身ミステリの知識と興趣をふんだんに盛り込むために用意されたような趣で、作者の夢と理想が散りばめられている。

現在日本のミステリは英訳の他にも各国の言葉に翻訳されて紹介されて好評を得ているが、本書が発表された1992年当時は勿論そんな状況は願うべくもなかった。しかしここに出てくる真壁氏の諸作は英訳されて英米に出版され「日本のディクスン・カー」の称号を頂いており、その名を証明するかのように23の長編全てが密室物と32の短編中22編が密室物とこれまで45本の密室ミステリを書いているという設定だ。
まず世界において「ディクスン・カー」と称されるほど、世界のミステリ界でカーの名が今なお喧伝されているかはかなり微妙でここはまさに有栖川氏の古典ミステリ好きが起こした勇み足のように思えて、思わず苦笑してしまう。

そしてその密室の巨匠が次の作品を持って最後の密室ミステリにすると宣言してから密室殺人が実際に自身の別荘で起きる。それこそは彼が最後の密室ミステリとすると述べていた最後のトリックなのか、つまり「46番目の密室」なのかというのが本書の設定であり、また題名の意味でもある。

そしてその事件を皮切りに表面上は普通に接している彼らの間に男女関係の縺れが実は隠されていたことが判明し、次第にドロドロとした雰囲気を伴ってくる。

まず独身のまま命を絶つことになった別荘の主で推理小説の巨匠真壁聖一の女性遍歴が彼ら彼女らの関係にある翳を落としていると云えよう。

推理作家の高橋風子と男女の関係だったこと、そしてブラック書院の担当編集安永彩子を単なるお気に入りの担当者以上の好意、もしくは関係があったかもしれないこと、そして後輩作家の石町と安永が交際していることを知らされて、嫉妬心が芽生えたこと、石町は実は安永と真壁の関係をそれとなく知っていたかもしれないこと、更に担当編集者の杉井の元妻との間にも男女の関係があり、それが原因で杉井は元妻と離婚したこと、と彼を中心に男女関係の縺れが露見していく。

それに加えて妹の佐智子が多額の負債を抱えた実業家と付き合っており、真壁の資産を目当てにしていたかもしれないこと、そして真壁の遺産はその娘の真帆に相続されることが決まっていることなど金に纏わる諍いの種も次第に解ってくる。

つまり全ては別荘の主、真壁聖一に対して有栖川と火村を除く全ての関係者が何らかの問題を抱えていたことが判明していく。密室の巨匠、日本本格推理小説の先駆は人格的にはなんとも問題のある人物だったのだ。

そしてそれはそのまま真相に繋がる。

私がここで面白いと思ったのはこれはいわゆる雪の足跡トリックの変奏曲であることだ。

セロテープとテグスによって掛けられる掛け金のトリックについては昔山村美紗氏が数多く考案され、もはや化石とみなされている「糸と針金のトリック」と揶揄される機械的なトリックであることは有栖川自身も自覚的で、作中でも「お前がそんなトリックを小説で使えば四方八方から石が飛んでくるんだろうが、」と火村の口から云わせている。
しかし私はこれこそ古今東西の本格ミステリを読んできた有栖川氏のミステリ愛ゆえのトリックだと感じる。彼は廃れゆく、この「糸と針金のトリック」を敢えて復活させたかったのだと。だからこそ探偵役の火村に上のように云わせてでも、敢えて採用したのだと思うのだ。

だからこそだろうか、本書にはまだ若かりし頃の本格ミステリに対して無限の可能性を信じて止まない有栖川氏の本格ミステリへの理想と夢が随所に込められているように思える。

まずやはり冒頭の真壁聖一の存在。世界に認められた日本本格ミステリの巨匠というのは日本の本格ミステリが世界にいつか通じるだろうと信じ、そんな未来を夢見ていた有栖川氏の理想の存在、いや自身が目指すべき目標であるように思える。先にも書いたがそれは現在実現しており、アメリカのエドガー賞に日本のミステリがノミネートされるまでになっている。

次に真壁氏が次の密室物を最後にまだ見ぬ「天上の推理小説」を書くと云った件だ。
これこそ有栖川氏自身の未来への宣言ではないだろうか。
「新本格」という目新しい呼称で十把一絡げに括られているまだ駆け出しの本格推理小説家ではあるが、いつかはかつて書かれてことのない物語を書いてみせる、といった若者の主張のように思える。そして今なお精力的に本格ミステリを著しては発表し、年末のランキングに作品が名を連ねている現状から見ても、この時抱いた有栖川氏の、高みへと目指す心意気はいささかも衰えていないように思える。
巷間に流布する既存のミステリとは異なる次元に存在する天上の推理小説。有栖川氏の定義する天上の推理小説をいつか読みたいものだ。

そして最後はやはり犯人だけが見た、真壁氏が遺した最後の密室「46番目の密室」だ。
犯人は云う。それは「まるで世界が、世界を守るためによってたかって一人の人間を抹殺するかのようなもの」だと。
これもまた有栖川氏が抱く、いつか書くべき最後の密室ミステリなのではないか。そんなミステリを読んでみたいと彼は思い、そして出来れば自分で書いてみたいと思っているのではないだろうか。

と、このようにデビューしてまだ3年の時に書いたこの作家アリスシリーズには本格ミステリ作家となった有栖川氏の歓びとミステリ愛と、そして野心が込められている、実に初々しくも若々しい作品なのだ。

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46番目の密室 (講談社文庫)
有栖川有栖46番目の密室 についてのレビュー
No.763:
(7pt)

愛もまた幻?

これはいわゆるよくある記憶喪失物のミステリを最新の脳医学の知識と技術の方向から光を当てた、島田氏の持論である21世紀ミステリを具現化する作品である。

島田荘司氏が特に2000年代に入って人間の脳について興味を持ち、それについて取材を重ね、次作のミステリにその最新の研究結果を盛り込み、21世紀本格ミステリとして作品を発表しているが、本書もその系譜に連なる作品で、タイトルが示すように幻肢、つまり実在しないのに恰も実在しているかのように感じられる欠損した手足の存在を足掛かりにそれが引き起こす脳の仕組みを解き明かし、そして最新の医療方法によって、失われた記憶を呼び覚ましていく。

まずこの幻肢、つまりファントム・リムよりも幻痛、ファントム・ペインとして以前より知られており、私も興味があったが、本書ではその幻痛、いや現在では幻肢痛と呼ばれるこの現象についても最新の研究結果が盛り込まれており、大変興味深く読むことが出来た。

幻肢痛とは生まれながらに手足が欠損した人々も含めて、事故や病気で手足を喪った人々がその後もないはずの手足に痛みを感じる現象のことを指すが、これは脳が手足がないことを認識していないために起こる現象であると本書では説明されている。手足を動かす指令は脳から出されるが、それらを喪っても脳はそれを感知せずに通常と変わらぬ指令を出すためにこのような現象が起きる。この治療法として鏡を据えた箱に健全な方の手足を入れ、鏡に映った手足を無いはずの側の手足、例えば右手があれば右手をその箱に入れれば右手の鏡像が左手の代わりとなり、右手を動かすことで恰も左手が存在して動いているかのように認識され、その後このような幻肢痛は起こらないことが証明されているらしい。つまり視覚によってようやく脳がそれを感知するのだ。視覚から得る情報は8割にもなるというが、それを実証するかのようなエピソードだ。

しかし島田氏はそこからさらに幻肢の解釈を拡げていく。
幻肢とは即ち手足のみを示すのではなく、人の全身さえも幻視させることが出来るというのだ。心霊現象を人間に見せると云われている側頭葉と前頭葉の間にある溝、シルヴィウス溝に刺激を与えることで幻視が起こるというのが本書での説だ。
このシルヴィウス溝はアレキサンダー大王、シーザー、ナポレオン、ジャンヌ・ダルクといった歴史上の英雄やゴッホ、ドストエフスキー、ルイス・キャロル、アイザック・ニュートン、ソクラテスといったその道の天才らが癲癇もしくは偏頭痛を持っており、それがシルヴィウス溝に強い刺激を与えて、常人にはない閃きや神の啓示などを聞いたとされている。ここに蓄えられているのは過去に経験した、忘れられた記憶も呼び覚ますことになり、それがかつて存在した手足があるように錯覚させたり、もしくは人そのものをも存在しているかのように思わせたりする、そんな仮説から本来ならば鬱病の治療としてその原因とされている左背外側前頭前野のDLPFCに、経頭蓋磁気刺激法、即ちTMSという脳に直接磁気を当てて刺激して血流を促し、脳の働きを活性化させる治療法をシルヴィウス溝に適用させるという方法で遥は雅人の幻を見ようと試み、そして成功するのだ。それはまた遥が失った事故当時の記憶を呼び覚ますことにも繋がる。遥は雅人の幻とのデートを重ねるうちに雅人への愛情が甦り、「あの日」の記憶を懸命に呼び覚まそうとする。

彼女は今日も幻とデートする。
それは大学から自宅までのほんの数キロのデート。
彼女しか見えない彼はいつも彼女のアパートの前で消え去る。
その短い逢瀬が楽しければ楽しいほど、彼女の寂しさは募っていく。
それでも彼女は亡くした彼に逢いたいがために今日も自分の脳を刺激する。
そしてまた刹那のデートを繰り返す。

そんなペシミスティックなコピーが思いつきそうな感傷的な展開を見せるが、そんな切ない幻との恋愛も次第に様相が変わっていく。その展開についてはまた後ほど語ることにしよう。

上述のように遥が失った事故当時の記憶をTMSでの治療を重ね、雅人の幻との逢瀬を重ねることで徐々にその内容を明かしていくのが本書のメインの物語であるが、それ以外にも随所に織り込まれる最新の脳科学の知識のオンパレードが実に興味深く、素人でも理解できるよう非常に解りやすく書いており、内容は実に面白い。

例えば脳はそれ自体が電気を発するので絶縁体である脂肪で出来ていること、そして最も頑丈な骨、頭蓋骨で守られていること、記憶に不可欠な物質グルタミン酸は非常に興奮をもたらしやすい性質があり、神経細胞をも破壊する恐れがあるため、過剰分泌を抑えるため、アデノシンが分泌され、一時的に活動がストップされること、それが恰も電力使用量を超過した際に自動的に遮断される電気のブレーカーと実に似ていることなど、知的好奇心が促される。

そして脳の秘密を解き明かすことで、即ち昔から怪奇現象と思われていた不可解事の正体や上にも書いた神の啓示や天才の閃きなども解き明かすことに繋がる。つまり広い意味で古来から不思議とされていた事象の謎を解いていくことでもあるのだ。

それは脳という複雑でしかもコンピュータのように精緻な仕組みを持った特殊な機関が我々人間たちに負荷をかけないようにそれ自体が人間から都合の悪い事を見せないように騙し、また故意に忘れさせようと自己防衛機能を備えていることが興味を尽きさせないからだ。
記憶でも思い出の記憶であるエピソード記憶、体得した生活やスポーツでの動きを司る手続き記憶、そして物事の意味を覚える意味記憶と3種類に分かれ、エピソード記憶は海馬に送られ、2年程度保存された後、ある程度、出入力が反復されると大事な記憶として大脳皮質や小脳に送られ、手続き記憶や意味記憶として忘れらない記憶となると述べられている。

この忘れやすいエピソード記憶は即ち我々読書好きの人間にとっては常にその維持との戦いを強いられる。
私がこのように感想を書くのは読み終えた本を極力覚えておきたいからだが、無論それでも忘れてしまう。正直感想を読み返してもどんな話だったか思い出せない作品も確かにある。

だが一方で内容が衝撃的すぎる、もしくは大いに感動した物語は細部は忘れてもその強い印象はずっと残っているのだ。しかもそんな作品でもいつも誰かと話したり、ウェブで感想を読んだりしているわけではなく、インプット・アウトプットの頻度はさほどインパクトの強くない作品のそれとは変わらないように思えるのに、なぜいつまでも覚えているのか。そこの説明が上の内容では成立しないように思えるのだ。
まあ、とにかく読み終わった本を極力覚えているには、どうにか2年の間、海馬にある段階で頻繁にインプット・アウトプットしていくように努めなさいということになるだろうか。

と、このように記憶1つ取ってもこれだけ話が生み出される脳について語られる。従って、通常ミステリならば例えば館の見取り図が欲しくなったりするが、本書では脳のそれぞれの部位が成す役割を詳らかに語るため、脳の各部位を示した図が欲しいと思った。
海馬、大脳皮質、小脳、シルヴィウス溝、側頭葉、前頭葉とここに至るまでにそれだけの脳の部位が出てきた。更には記憶のルートは頭頂葉、側頭葉、帯状回を経由する、恐怖心や不安感をもたらす扁桃体、その中にある背外側前頭前野のDLPFC、等々が続々と登場する。これらそれぞれの部位を示した図があれば、それをもとに自分の頭に照らし合わせて読むとまた格別に理解できただろう。

さて遥が次第に事故当時の記憶を思い出していくごとに不穏な空気が漂ってくる。特に主人公の遥だ。どんどん感情的になっていき、周囲の目を気にせずに幻の彼、神原雅人に嫉妬心を募らせていく。そしてTMSによって思い出した事故当時の記憶はなんとも自己嫌悪に陥るしかない最悪の結果だった。

なんともバカげた真相である。島田氏の女性観はある種、独断と偏見を感じるところがあるが、この主人公糸永遥の性格と行動はまさにその独特の女性観が悪い方向に出たような形だ。
この糸永遥という女性、女性読者から見れば、確かに周囲にいそうな女性ではあるのだけれど、どんな感じで捉えられるのだろうか?

しかしそんな真相の後にどうにか救いはあった。

しかし島田作品初の映画化作品として選ばれた本書。いや映像化を前提に書かれたのかもしれないが、亡くなった彼の幻との短いデートという儚げなラヴストーリーが、一転して事故の真相を知った途端に視聴者はどんな思いを抱くだろうか?
私は前述したようにもっとどうにかならなかったのかと思って仕方がない。機会があれば映画の方も見てみよう。


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幻肢
島田荘司幻肢 についてのレビュー
No.762:
(7pt)

キングのお話と迫力あるイラストを楽しもう!

キングが怪奇コミックスの鬼才バーニ・ライトスンと組んで著したヴィジュアル・ホラーブック。
キングにしては珍しく、全編でたった200ページにも満たない。しかもその中にはふんだんにライトスンによるイラストが挟まれているため、文章の量もこれまでのキング作品では最少だ。

そんな試みで書かれた作品のモチーフは人狼。つまり狼男の物語だ。実にオーソドックスな題材である。
かつて『呪われた町』で吸血鬼を、お化け屋敷をモチーフに『シャイニング』をキングは書いたが、そのいずれもが上下巻の長編だったのに対し、人狼を扱った本書は上に書いた中編の部類に入る分量である。

物語も実にシンプルでメイン州の田舎町に突如現れた人狼による被害について月ごとに語られる。
鉄道の信号手、本屋の経営者、名も知らぬ流れ者、凧揚げに夢中になって犠牲となった11歳の少年、教会の掃除夫、食堂の主人、町の治安官、豚舎の豚、妻に暴力を振るう図書館員。毎月決まって満月の夜に惨劇は起きる。
その中で唯一の生存者が車椅子の少年マーティ。彼はおじから貰った爆竹で抵抗して命からがら逃げだすことに成功する。

1月から12月までの1年間を綴った人狼譚。キングにしてはシンプルな物語なのは話の内容よりもヴィジュアルで読ませることを意識したからだろうか。その推測を裏付けるかのようにバーニ・ライトスンはキングが文字で描いた物語を忠実に、そして迫力あるイラストによって再現している。
1月から12月まで、それぞれの月の町の風景と、人狼が関係する印象的なシーンを一枚絵で描いている。特に後者はキングが描く残虐シーンを遠慮なく描いており、背筋を寒からしめる。特に人狼の巨大さと獰猛さの再現性は素晴らしく、確かにこんな獣に襲われれば助かる術はないだろうと、納得させられるほどの迫力なのだ。

この小説で教訓があるとすれば、まず大人に対しては、子供の話にきちんと耳を傾けるべきであるということだろう。往々にして子供は大人が知らない世界を見ることが出来、そして真実を語ることがあることを忘れてはならない。

一方子供に対しては、大人に頼らず、子供には自分で始末を着けなければならない時があるということだろうか。人狼というまともに立ち向かえば勝ち目がない相手、つまり途方に暮れてしまうほどの困難に直面した時も知恵と勇気を使えば克服できる、既に少年はその能力を秘めているというメッセージが込められているともとれる。

小さな町に訪れた災厄を群像劇的に語り、そしてその始末を一介の、しかも車椅子に乗った障害を持つ少年が成す、実にキングらしい作品でありながら、決して饒舌ではなく、各月のエピソードを重ねた語り口は逆にキングらしからぬシンプルさでもある。そしてキングにしてはふんだんにイラストが盛り込まれているのもまたキングらしからぬ構成だ。
それもそのはずで、解説の風間氏によれば当初イラスト入りカレンダーに各月につけるエピソード的な物語として考案された物語だったようだ。しかしそんなシンプルさがかえってキングにとって足枷になり、7月以降はマーティを登場させ、人狼対少年という構図にしてカレンダーに添えられる物語ではなく、中編として最終的には書かれたようだ。
だからキングらしくもあり、またらしからぬ作品というわけだ。

一方シンプルな語り口と秀逸なイラストの組み合わせということで考えると、少年少女向けのキング入門書とも云うべき作品としても考えられるが、それにしては暴力夫が出てきたり、女性との性行為についても語られるので正直子供に読ませるには抵抗がある。いやはやなんとも判断に困る作品である。

しかしそんな考察は無用なのかもしれない。文章とイラストで存分に狼男の恐怖を味わうこと。それが本書の正しい読み方と考えることにしよう。


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人狼の四季 (学研M文庫)
No.761:
(8pt)

時には答えなくてよい返事もある

宮部みゆき氏最初期の短編集。私が彼女の短編を読むのは『我らが隣人の犯罪』以来。宮部氏の実質的なデビュー作であるオール讀物推理小説新人賞が収録されたその短編集には「サボテンの花」という、今なお忘れられない短編が入っており、長編のみならず、短編の巧さは実証済み。そんな期待値の高い中で読んだ本書は実に軽々と私の期待を超えてくれた。

冒頭を飾るのは表題作「返事はいらない」。
作品から時代が平成元年であることが読み取れるが、恐らく本作に書かれている銀行のキャッシュカードによる現金引き落としのシステムはその当時からあまり変わっていないのではないだろうか?本作ではそのセキュリティの甘さが詳らかに説明され、利用者である私たちの背筋に寒気を感じさせる。

主人公の千賀子と森永夫妻が行う犯罪は偽造キャッシュカードを使った現金横領で、それに関しては新味はないものの、果たしてこれほどまでに事細かくATM(作中ではCD機と書かれているところに時代を感じる)のシステムを語った作品はないのではないか?読書量の少ない私がたまたまそのような作品に出くわしていないだけかもしれないが、大抵のミステリでは偽造カードを使った犯罪が横行している、ぐらいの記述ではないだろうか。

本作ではあくまで銀行業界に対して警鐘を鳴らすために元銀行員と女性たちが犯罪を行うが、この安易さには各金融機関に本気でセキュリティに取り組んでもらいたいと痛感した。

本作はそんな銀行の現金引き落とし機に潜む罠が際立って印象に残るが、それだけに終始した話ではなく、ストーリーテラーの宮部氏ならではの、心がどこかほっこりする話になっているのが救いだ。

最後に判明する滝口の真意は罪を憎んで人を憎まずという彼の刑事時代の主義が表れているように思った。

次の「ドルネシアへようこそ」の舞台は六本木。
駅の伝言板に誰宛てでもなく、書いた伝言に見知らぬ相手から返事がある。しかも待ち合わせ場所は今評判のディスコ。
駅の伝言板、六本木のディスコ。まさにバブル臭漂う時代を感じさせる物語だ。今ならば自分のSNSに突然送られてきたメールがモチーフになるだろうか。それと比べると漫画『シティハンター』世代の私にとって駅の伝言板の方が実に魅力あるアイテムだ。

主人公が速記士を目指す専門学校生と、決して華やかな人物でないことに加え、対照的に常に有名人が毎夜集い、毎日がパーティのような六本木という場所が実に対照的であるのに加え、ドルネシアという名前の由来がこのミスマッチに有機的に結びつくところに宮部氏の上手さを感じる。
ドン・キホーテの妄想に出てくる姫の名前がドルネシア。その実態は単なる酒場女。しかしドン・キホーテはそんな彼女に憧れの君を見出す。それは見た目はみずぼらしくても実直な篠原伸治を指しているようだ。そしてまた店のオーナーでもある守山喜子もまた。

最後の一行で温かい気分にさせてくれる筆巧者ぶりが本作でも愉しめるのはさすがだ。

「言わずにおいて」は会社でつい課長に対して暴言を吐いてしまった女性がある事故に巻き込まれる。
上司に暴言を吐いて休職中のOLが自分を誰かに間違えたがために運転していた男が目の前で死んでしまう。その誰かがどうしても気になり、探しだそうとする物語だが、その過程が実に面白い。
一介のOLが果たしてここまでできるだろうかという疑問はあるだろうが、その捜査が女性ならではの視点で繰り広げられ、私には新鮮だった。自分と見間違えた時の写真のヘアスタイルから美容院を特定する辺りは男の私にしてみれば偶然にすぎると思いがちだが、案外流行りの髪型に固執する若い女性ならば評判の美容院へ通い、それがある意味ステータスとなるのだから、決しておかしな話ではないのかもしれない。

そしてようやく辿り着いた自分とよく似た女性の部屋に置かれていた手紙。そこに書かれた一連の事件の真相よりも長崎聡美は上司が自分のことをどのように思っていたかを知ったことが嬉しかったに違いない。こういう事件の核心とは別の部分にハッとさせる要素を入れるところが宮部氏は実に巧い。

しかしそれでも冗談とはいえ、経理課の課長が長崎聡美に放った台詞は今ならばセクハラで訴えられてもおかしくない内容だ。この時代はまだこんなことが自由に云えたのだと思うとさすがに隔世の感を覚える。

宮部作品の特徴の一つに登場する少年の瑞々しさが挙げられるが「聞こえていますか」はそんな長所が存分に活きた作品だ。
引っ越した先に残された電話に盗聴器が仕掛けられていた。こんな経験をすると誰もがぞっとするだろう。
そして前の住人を調べると特高に追いかけられていた経験もある人物。もしかしてスパイだったのではと、頭のいい小学6年生の峪勉が想像をたくましくし、知り合った大学生、鬼瓦健司の助けを借りて事の真相を解明していく過程が実に面白い。
この元三井邸の周囲の住民とそしてその息子夫婦たちを結び付ける数々の糸が有機的に絡んで、ある老人の寂しい気持ちが浮かび上がってくる結末に、なんだか遣る瀬無さを感じた。
師範学校の教師をしていた三井老人が息子に厳しかったこと。勉の母と祖母の間でお互いの価値観のぶつかり合いでなかなか折り合いがつかなかったこと。それぞれの人生で築かれた価値観を崩さないがゆえに生じる衝突。

しかし敢えて離れてみると、今まで一緒にいるのが当たり前だった存在が目の前からいなくなることで逆に相手のことが見え、優しくなっていく。
この人間のある種の滑稽さが起こした行動が勉にはスパイや幽霊のように見えていく。
老人の心境の変化が関わった人、そして後の住民にも予想もしない妄想や現象を引き起こす。まさにこれこそ人間喜劇だ。

ある女性の転落死を追う「裏切らないで」ではようやく刑事が主人公となる。
巨大都市東京に生きる若者の孤独と美しくあろうと努力する女性たちの虚飾の虚しさを扱った作品だ。
多額の借金を重ねながら、高級ブランドの服とバッグ、時計に装飾品に身を固め、綺麗であることが存在意義とした長崎から夢を求めて出てきた女性は、そんな煌びやかな装飾品に包まれながらも、実の無い空虚な人間になっていた。いつしか借金も自分の金と思うようになり、そして身分不相応の持ち物を持つことが自分を表現する手段だと錯覚した女性。そんな女性の末路が歩道橋からの転落死。
彼女の身辺調査を行う刑事の一人がその女性の部屋を見て「なにもない。あるのは借金の匂いだけだ」と呟く。その大量に抱え込んだ借金こそが彼女の正体だった。

しかし外から彼女を見る人たちはそんな彼女の中身のなさに気付かず、男たちは綺麗な女性だといい、女性たちの中には異邦人みたいな女性で、ただただお金を貰い、美味しいものを食べ、着飾り、見てくれのいい仕事に就いて金持ちの男を捕まえることだけを考えている人だといい、ある女性は世間知らずの女性だったという。

しかし若くて綺麗なだけのその女性を羨む女性がいた。その女性もまたかつては彼女のように着飾り、綺麗に見せ男たちの目を惹くことを自分の生きがいだとしていた。しかし30を過ぎて男たちが見向きもしなくなったこと、週末を一人で過ごすことが多くなったことで自分はもう終わった女性だと感じる。
全ては都会のまやかし。しかしそんなまやかしから覚めきれない女性たちが数多くいる。都会の、いや東京という都市の特異性を謳った力作だ。

最後の短編の主人公も宮部氏お得意の未成年。高校一年生の男子が従姉妹の悩みを解決する顛末を描いたのが「私はついてない」だ。
高校生の僕の一人称で語られる本作は語り口もユーモラスで読んでいて楽しかった。
浪費癖のある従姉のOLを助けるために両親の指輪を貸し出したところ、それも盗まれてしまう。しかしそれにはある女性の思惑が潜んでいた。

この裏切られた感はよく解るものの、その女性が自分の役回りはそんなものだと自嘲して諦観の域に達しているのが情けない。
実は私も似たような感情を抱くことがよくあるが、それでも悪意から何らかの報復はしたりしない。それをやれば自分はもう終わりだと思うからだ。周りがどう思おうと、それでも前を向く、そんな風に考えるようにしている。

しかし女性の強かさに溢れた1編だ。玉の輿に乗りながらも、婚約者には内緒で男友達と競馬に興じ、晴れの舞台を取り繕うとする従姉、金遣いの荒い後輩にお灸を据えると見せかけて自分への悪口の仕返しを知り合いを雇ってまで行ったその先輩。しかし実は最も強かなのは最後に出てくる主人公の母親だ。

唯一ほっこりとさせられるのは主人公の彼女だ。主人公よ、既に君は彼女の掌の上で踊らされているぞ!

だから最後の一行が色んな意味合いを伴って胸に飛び込んでくる。ホント、男と女って「おかしいよね?」


いやはや脱帽。久しぶりに宮部作品を、それも短編集を読んだが、流石と云わざるを得ない。犯罪や人の妬み、嫉みという負のテーマを扱いながら、読後はどこか前向きになれる不思議な読後感を残す佳品が揃っている。

偽造カード詐欺と狂言誘拐を組み合わせた表題作、後の『火車』でも取り上げられるカード破産をテーマにした「ドルネシアへようこそ」、店の金を持ち逃げされた従業員を追ったレストラン経営者のある決意を語った「言わずにおいて」、盗聴器が仕掛けられた引っ越し先の前の住人の正体を探る「聞こえていますか」、ブランドや装飾品に自分の存在価値を見出した女性の借金まみれの生活を扱った「裏切らないで」、そして最後は借金のカタに婚約指輪を取られた従姉のために一肌脱ぐ高校生の活躍を描く「私はついてない」。
そのどれもが読後、しっとりと何かを胸に残すのである。

80年代後半から90年代に掛けて、狂乱の時代と云われたバブル時代の残滓が起こした当時の世相を映したような事件の数々。そんな世相を反映してか、6編中5編が金銭に纏わるトラブルを描いている。しかしそれらは過ぎ去った過去ではなく、今なお起きている事件でもある。

例えば表題作の偽造カード事件はもはや国際化してきており、ATMは日本に不法滞在している外国人のいいカモとなっており、同種の事件が後を絶たない。既に29年前に刊行された本書で詳らかにATMのシステムとその欠点を指摘されているのに、同様に本書に書かれている、膨大な設備投資のために金融機関の対策が後手後手になっているからだろう。
私は読んでいて他人事ではない恐ろしさを感じた。まずはATMでは絶対伝票は発行しないか、その場で捨てないようにしよう。

またクレジットカード破産や物欲に囚われた女性が多大の借金を抱えるのも現代と変わらない。現代はさらに多様化して仮想コインなども登場し、更に複雑化してきている。

しかし大量に物が溢れた時代だったことが顕著に解る。
誰もが着飾り、そして毎夜パーティーに繰り出すことをステータスにしていた時代。今でもそんな人たちはいるが、やはりバブル時代はじっとしていられない、魔力のようなものが潜んでいた時代だったのだろう。

そしてそんな時代では若さこそが武器だ。当時女性は夜な夜な出かけるための服を勝負服とか戦闘服とか表現していた。そしてもちろん同じ物を着ていては相手にバカにされるので新たに服を買い続けるしかない。しかしバブルとは云え、OLの収入は限られているから、借金が膨らむわけだ。しかしそうまでしても相手に勝たなければいけないという不文律があった。それは若さという武器があってこそだからだ。
彼女たちが周囲から持て囃される時間は実に短い。この頃の結婚適齢期は25歳前後だったそうだ。従って30を過ぎてからは見向きもされない。女性たちはそれまでに高学歴、高収入、高身長のいわゆる「三高」の相手を捕まえて結婚して幸せになるのに躍起になっていた。
こうやって書いていると実に懐かしさを覚えつつ、今になってみれば何もそこまでと思うが、それが彼女たちのステータスだったのだ。

そんな女性たちが牙を剥き、強かさを見せつけた頃の生き様が描かれている。それも宮部氏の優しさというオブラートに包まれているから、全く殺伐とした感じがしない。

返事はいらない。

これは本書の題名でありながら、冒頭に収録された短編の題名である。通常短編集の題名に選ばれる短編はその中でも最も優れた作品である場合が多いが、本書はそれに勝るとも劣らない粒揃いの短編集。そしてこの1編の短編の題名がそのまま収録作全体を通してのコンセプトのようになっている。

表題作では別れを持ち出された元恋人に対して未練を断ち切れない主人公が、自分からさよならという返事無用の言葉を元恋人に投げ掛けるために犯行の片棒を担ぐ。

「ドルネシアへようこそ」では誰に宛てるでもない駅の伝言板に残した待ち合わせ場所を記した伝言に、ある日誰かが返事を残す。それはバブルという虚飾に踊らされた女性だった。そして彼がその正体を知り、その女性を捕まえるために知らぬ間に協力をさせられたことを知った後、駅の伝言板に残されていたのは返事無用の招待の伝言。

「言わずにおいて」に出てくるのは自分を誰かと見間違って目の前で事故死した夫婦。その誰かの許に辿り着いた時に置かれていたのは一通の手紙。それは自分の探し求めていたことに対する答えと自分が暴言を吐いた上司が自分をどのように思っていたかを知らせる内容だった。それを知っただけでその女性にとって、自分の暴言に対して詫びたことに対して、上司からはそれ以上の返事はいらなかったのだ。

「聞こえていますか」では真意を知るために盗聴器を仕掛けようとしたのに、本音を聞くことが怖くて、結局できなかった1人暮らしの老人の寂しさ。厳この知りたいのに聞くのが怖いという心理は心に突き刺さる。

「裏切らないで」は返事をしたがために殺された女性がいる。返事をしなければ、彼女は生き、そしてもう一人の彼女も殺さずに済んだのに。

唯一これに反するのが最後の「私はついてない」か。主人公の僕は恋人からの返事を待っていた。そしてそれは最後に最高の形で返事が貰えるのだ。
返事はいらないというネガティヴな表現で始まり、返事が貰えた物語で閉じられるのはやはり意識してのことだろうか。

こんな出来栄えの短編集だからベストの作品が選べるわけがない。全てがそれぞれにいい味を持った短編だ。
だから敢えてベストは選ばないが、唯一刑事を主人公にした「裏切らないで」が作者がこの時代の特異性を能弁に語っているのでちょっと書いておきたい。

地方から出てきて若さを武器に借金をしながらもいい仕事に就いていい男を見つけようとしていた女性が殺される。その彼女を殺した女性は東京の北千住から引っ越してきた女性なのにそこは「東京」ではないという。当時煌びやかで華やかさを誇ったバブル時代は実際は中身のない好景気で、その正体が暴かれた途端に弾けてしまい、しばらく世の中はその後始末に追われた。そんな上っ面の時代の東京もまたメディアに創り上げられた幻に過ぎなかったのではないかと刑事は述懐する。それは彼女たちの生き方も見た目を着飾ることに終始して、やりたいことがなく、ただ「貰う」だけ、手に入れるだけを目指していた。その中に中身があるかないかも分からずに。

本書はそんな時代の、東京を映した短編集。
しかしバブル時代のそんな空虚さを謳っているのに、時代の終焉を迎え、乗り越えようとする人たちに向けての応援の作品とも取れる。
こんな作品、宮部氏以外、誰が書けると云うのだろうか?

解っている。だから勿論、この問いかけに対する「返事はいらない」。


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返事はいらない (新潮文庫)
宮部みゆき返事はいらない についてのレビュー
No.760:
(7pt)
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歪みに歪んだ兄弟の戦い

これは喪った物を取り戻そうとして奪った男と、奪われた物を取り戻そうとして奮闘し、奪還したが、喪った物までは取り戻せなかった男たちの、哀しき兄弟の話だ。

ランボーと云う戦闘マシーンのような主人公、CIA捜査官、暗殺組織・秘密結社の工作員と常人よりも戦闘に長けた能力を持つ、映像向きな主人公を添えることが多いマレルだが、本書の主人公ブラッド・デニングは一介の建築家。アウトドアもしたこともなければ銃も撃ったこともない、ごく普通の妻子持ちの男である。
そんな男が家族を奪った男に家族の奪還と復讐を誓うのが本書だ。しかもその相手は実の弟となかなかツイストの効いた設定である。

小さい頃、野球を友達としに行くのについてくるのを鬱陶しいと思ったことで追い返した弟がそのまま何者かによってさらわれてしまうという、悔いの残る傷を心に負った男ブラッド。しかしその彼は建築家になり、自分の設計した家がテレビ番組で紹介されたことでその弟と数十年ぶりに再会する。

その空白の時間を埋め合わせるために彼とその妻と息子との心温まる交流が実に眩しい。そしてそんな不遇の時代を過ごした弟ピーティも自らの境遇によって心を病んでいる様子でもなく、むしろどんな状況をも愉しむかのような磊落な性格を見せ、ブラッドの息子ジェイソンの良き遊び相手にもなっていた。

そんなごく普通の家庭に新たに加わった家族との微笑ましいエピソードが続く中、突然災厄が訪れる。
この反転は正直かなり衝撃的だった。裏表紙の紹介文を読まなかったらもっと驚いていただろう。

神隠しに遭っていた弟が数十年ぶりに出逢ったら復讐者となっていた。
この設定だけでも衝撃的なのに、マレルはさらに物語にツイストを仕掛ける。即ちブラッドが弟と思っていた男は実はレスター・ダントという犯罪常習者だったという物だ。
しかしブラッドは自分がテレビに出た時に失踪した弟のことを紹介されたがために数多くの嘘つき電話に悩まされていたが、そんな不埒な輩とは違う、弟しか知り得なかった情報を知っていたことでそれを容易に信じない。写真がレスターであることや周囲の人間がそれを証言しようとも頑なに信じず、弟の仕業であると固執する。それは赤の他人の犯罪者ならば連れ去った妻と子供が邪魔になって容赦なく殺害することを恐れていたからだ。まだ妻子が生きていることを信じるために彼は誘拐者の男を弟と信じるのだ。

FBIと警察による捜査が捗々しくなくなり、そして捜査チームが解散して事件から1年経ったときにブラッドはようやく自分で犯人を、弟と妻子を探すことを決意する。自分の経営する会社を畳み、フィットネスクラブで体を鍛え、射撃の教室に通って銃の腕を磨き、護身術のクラスにも通う。そして腕利きの元FBI捜査官の探偵に捜査術と偽りの身分を手に入れる方法を学ぶ。

通常ならばその件は一介の建築家が凄腕の復讐者に生まれ変わるシーンだが、マレルは意外にあっさりと描く。ほんの20ページにも満たない。従って読者はブラッドが生まれ変わったようには思えないのだ。

それを裏付けるかのようにブラッドのその後の捜索もどこか空回りしているように思える。犯人が弟のピーティであることを想定して当時の足取りを探るのだが、それも彼が弟に成り切ったように振る舞って自分の考えで進むだけである。
そこには何の根拠もなく、現場に漂う雰囲気で、もし自分が弟だったらそうしたであろうという薄弱な根拠で突き進むだけなのだ。

おまけに否定していたレスターの存在も意識し、彼の生家のある町に向かう。それはブラッドが弟と生まれ育ったオハイオ州の町の近くであったことから立ち寄ることにするのだが、そこで昔のことに詳しい神父に聞かされるダント家の異常な家庭環境が目を惹く。


このレスター・ダントのおぞましい過去もかなり衝撃的だが、この一見単なる回り道と思われたエピソードが実は意外な物語に意外な展開をもたらす。

物語の結末は苦い。

数十年ぶりに行方知れずとなった実の弟を家族の一員として温かく迎えたブラッドとその妻と息子の末路がこれほどまでに悲惨な変容を遂げたことがなんとも哀しい。

またピーティを無くしたデニング一家も、ブラッドの父親が酒浸りになって会社を首になり、交通事故で亡くなり、母親と2人になったブラッドは他の市へ引っ越して小さなアパートで暮らすようになる。毎年失踪者の絶えないアメリカではこんな悲劇が幾度も繰り返されているのかもしれない。

しかしこのような話を読むと、子供の頃の何気ない弟への仕打ちが起こした代償の重さを感じてしまう。こんなことが起こり得るアメリカの治安の悪さが恐ろしく感じる物語だった。

さて本書は2002年の作品で1972年にデビューしたマレル作品では後期に当たる。その頃の作品に該当するのは本書の2作前が『ダブルイメージ』で本書の次の作品が『廃墟ホテル』とどちらも奇妙な展開を見せる異色の作品なのだ。

『ダブルイメージ』も何が本当の敵かがなかなか解らない、一言で云い表せない非常に特異な作品であったが、『廃墟ホテル』はマレルにとっては全くの異色作でありながら、実に面白い作品であった。

主人公が凄腕のエージェントや元軍人でもない一介の建築家であることも『ダブルイメージ』の主人公が同じく一介のカメラマンであることに通ずるものがある。

この意外に一筋縄でいかないマレル作品、久しぶりに読むと他の作家では味わえない奇妙な味わいがある。
既に彼の作品が訳出されなくなって久しいが、この独自のテイストは年一冊のペースで読むとなかなか面白く感じる。特に後期の『廃墟ホテル』、奇妙な味の短編集『真夜中に捨てられた靴』などは『このミス』にランクインするほど再評価の気運が高まっていただけにこのブランクはさみしい限りである。
『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』をまずは文庫化してほしいとしつこく述べてこの感想を終えよう。


▼以下、ネタバレ感想
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ブラッド/孤独な反撃 (ハヤカワ文庫NV)
No.759:
(7pt)

ワルの生き様にこそミステリが潜むことを知らしめたハメットの功績

河出文庫が未紹介短編を中心に独自で編んだ短編集。とはいえ幕開けはハメットの長編デビュー作である「ブラッド・マネー」が飾る。

ハメットの長編デビュー作は『血の収穫』であることは広く知られているが、訳者の小鷹信光氏の解説によれば、『血の収穫』の前の習作として本書に掲載された「ブラッド・マネー」が書かれたようだ。この題名、原題もそのままで直訳すれば「血まみれの金」となるが、『血の収穫』とも訳せる。内容は異なるが、題名の近似性からも理解できる。
さて町に全国から悪党どもが訪れ、何と150人による二つの銀行の同時襲撃が起こる。そこからは事件に関わった悪党たちが自分たちの分け前を得るために殺戮ショーを繰り広げるという実に派手で映像的な作品である。
なんとも荒廃した幕切れだ。これが正義の本当の姿なのだと無慈悲な筆でハメットは語った。
真の初長編作は手習いとは思えないほど躍動感と抑揚に満ちたストーリー、そして登場人物たちが織り成す血まみれの祭りだった。

さて次からは短編、いや短さから云ってほぼショートショートのような作品が並ぶ。

訳者の小鷹氏の解説によると「帰路」はハメットの正真正銘のデビュー作らしい。2年間追い求めた男を中国の雲南省でようやく捕えた男と逃げた男のやり取りを描いた6ページの作品。

次の「怪傑白頭巾」は変わった話だ。
なんだかよく解らない作品。

次の「判事の論理」は実際にあった話だろうか。
正直これはアメリカの法律をある程度知っておかないと解らない面白さだろう。

続く「毛深い男」はフィリピンの島々を舞台にした物語。
平和な島に訪れた異分子によって起こる不協和音。これはよくある展開だ。
人間の拠り所について語った作品と云えるだろう。

「ならず者の妻」ならば日常もまた我々のそれとは違うようだ。
強盗稼業で生計を立てている男を夫に持つ妻マーガレットはよくある悪い男に魅力を感じる女性。だから周囲のゴシップの種になっても全然気にならず、むしろそんじょそこらの旦那と違う夫に誇りを持っていた。
そんな彼女が夫の犯罪仲間に自分の取り分を強要され、屈服するところを見た時、彼女の、夫に抱いていた8年間の誇りの塊が消え失せてしまう。
複雑な女心をこんな形で描くハメットは、やはり人間を知り尽くした男だったことが解る1編である。

最後はたった5ページの掌編「アルバート・バスターの帰郷」で締めくくられる。
悪党の世界のどうしようもなさを描いている。息子を誇りに思った父親が息子の仕事を知るとどのように思うのだろうか。


荒くれどものジャムセッション。
ハメットの作品群を読むといつもそんな思いを抱く。
当時殺人や犯罪を扱った小説、ミステリがパズル小説ばかりだった時に、ハメットは悪党どもの犯罪をリアルに描いた。金目当てや怨恨で犯罪を行う人たちの本当の世界を生々しく描いたのだから当時の読者にとってはかなり衝撃的だったことだろう。

そんなハメットの筆は淀みなく、ストーリー展開もスムーズでありながらもサプライズを仕込んでいるところにミステリの妙味がある。しかもそれは単なるミステリとしての仕掛けではなく、闇社会で生きる者たちが生き延びるために行ってきた権謀詐術がサプライズに繋がっているところに本格ミステリと一線を画したリアリティがある。
生き延びるためには平気で嘘をつき、そしてまた自分を殺そうとする人たちを平然と殺す者たち。そんな生き馬の目を抜く輩たちの世界ではいかに一歩先んじて出し抜くかが彼らにとって死活問題になるわけだ。
そんな世界をミステリに持ち込んだハメットの功績はかなり大きいと再認識した。

もう少し踏み込んで書くと、本格ミステリを読んだハメットは本当のワルはこんなまどろっこしい方法で人を殺害しない、ハジキ1つをぶっ放すだけ。そして相手を騙すことに頭を使うのだと思ったことだろう。
そんなリアルをミステリとして描いたのだ。いやワルの生き様の中にミステリがあったことを教えてくれたのだ。

また登場人物たちの心境も非常に深い。特にワルに魅かれる女性たちが生き生きとしている。
品行方正、実直な男よりも少し影があり、危ない雰囲気を纏った男に魅かれる女の心情を描いている。それは恐らくハメットの妻リリアン・ヘルマンの存在が大きいだろう。探偵稼業に身を置いていた彼に魅かれたリリアンこそが彼の作品に登場する女性全てなのかもしれない。

ワルに憧れて共にするが、自分が置かれている境遇の危うさに気付くと逃れようともがくが既に手遅れになってしまっていることに気付く浅はかな女性、突如現れた無類の強さを誇る男に、夫を捨てて走る女性もいれば、絶対のワルと信じて尽くしてきたのに、夫の弱さを見ることで何かが変わってしまった女性もいる。
ハメットの小説に出てくるワルたちをそんな複雑な心理を持つ女性たちが補完していると云っていいだろう。

私がハメットを読んだのは17年前でまだ20代だった頃。その時は正直彼の小説を十分理解したとは云えなく、当時の感想がそれを証明している。
今回十数年ぶりにハメットを読むと、小鷹氏の訳の巧さもあってか、実に愉しく読めた。
いつかまたハメットは読み直さないといけないだろう。
その時がいつ来るかは未定だが、読後、今とは違った思いを抱くことだろう。その時の私がどんな感想を持つか、それもまた愉しみだ。


▼以下、ネタバレ感想
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ブラッド・マネー (河出文庫)
ダシール・ハメットブラッド・マネー についてのレビュー
No.758: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

またもや東野圭吾は私を身悶えさせる

かつて東野圭吾氏は『手紙』で殺人犯の家族の物語を描き、『さまよう刃』で娘を殺害された父親の復讐譚を描いた。
本書『虚ろな十字架』ではその両方を描き、償いがテーマになっている。

本書では2つの家族を中心に物語が進む。

まず最愛の娘を強盗に殺害され、犯人に死刑の判決が下り、刑が成された後に離婚した中原道正と浜岡小夜子の夫婦。

もう1つは浜岡小夜子を殺害した町村作造を父に持つ花恵とその夫仁科史也の夫婦。

被害者側の夫婦と加害者を家族に持つ夫婦双方が同時進行的に描かれる。そのどちらの家族も決して幸せではなく、何がしらの問題を抱えている。

この浜岡小夜子の死を軸に不幸な、だがしかしどこにでもいそうな夫婦の抱える問題が次第に浮き彫りになってくる。

物語の主旋律は娘を殺害され、更に別れた妻を殺害された中原道正のパートであるが、次第に対旋律であった仁科史也のパートが重みを帯びてくる。特に仁科史也という人物の気高いまでの誠実さに隠された謎に俄然興味が増してくる。

本書のプロローグで描かれるのは井口沙織という父子家庭で育つ女子中学生が1年先輩の仁科史也と出逢い、相思相愛が成就する場面が描かれている。

しかし本編で出てくる、医者となった仁科史也の結婚相手は花恵という女性で井口沙織ではない。しかも花恵の父親は浜岡小夜子を殺害した町村作造であることが判明する。

更に井口沙織は逆に浜岡小夜子が万引き依存症の記事を書くのに取材した対象者であることが解ってくる。この2人の接点が浜岡小夜子に収束していく。

義理の父親の犯した罪に深く反省の念を込め、小夜子への遺族に手紙を認め、直接お詫びをしたいと告げる仁科史也。一方で町村作造の生涯は実に取るに足らない男として描かれる。
偽造ブランド品を売って東京と富山を往復しているうちに花恵の母と知り合い、そのまま結婚してしまうが、会社が警察に摘発されると職にも就かずに家に居つくが、しばらくすると女を作っていなくなる。とにかく怠けることしか考えない男だ。

そんなどうしようもない男の犯した罪のために代わって遺族へお詫びをしたいという。しかも花恵が生んだ息子翔は史也の実の子でなく、結婚詐欺師によって孕まされた子供であることも判っている。史也が花恵と出逢ったのは花恵が将来を絶望し、富士の樹海で自殺しようとしていたところを史也が思い留まらせたことがきっかけだ。そしてその後の10日間、史也はお金を与え、晩御飯を食べに行くようになって花恵に結婚を申し込む。
このもはや聖人としか思えないほどの精神性はどこから来るのかと非常に興味を持たされた。

そして今の仁科史也を形成する事件が明かされるのは物語の終盤だ。

結婚とは、夫婦になると云うのは、家族になると云うのは、知らない者同士が縁あって一緒になるということだ。一緒に住んでいくうちにお互いのそれまでの人生で培われた性格や癖、足跡などを知り、生活を作っていく。
しかし何十年過ごしても知らない一面があったことを気付かされるのもまた事実だろう。本書にはそんな家族という最小単位の共同体に隠された謎が描かれている。

愛する娘を喪ったことで共に裁判と戦いながらも最終的に離婚という道を選ばざるを得なかった中原道正と浜岡小夜子の夫婦は、地獄のような苦しみの中で共に戦った戦友でありながら、離婚後は相手のことを実は本当に解っていなかったことに気付かされる。

娘を自分の不注意で死なせたと自責の念に駆られていた小夜子はその後犯罪者と被害者について取材を重ね、死刑について自分なりの考えを持ち、原稿を書くまでのライターとなった、ペンを武器にした女闘士の如き女性だった。
しかしそんな彼女がなぜ穀潰しとも云われていたしようのない老人に殺されたのか。

一方有名大学の医学部に入り、そのまま附属病院に就職して順風満帆な人生を送っているかに見える仁科史也は、結婚詐欺師によって孕まされた元工員の女性を偶々自殺を踏み留まらせた経緯で結婚し、他の男の子供を自分の子供として育てる。穀潰しの妻の父が犯した罪を一身に背負い、家族を守ろうとする。

血の繋がった子供を持ちながらも、その実本当の姿を知らなかった夫婦。

血の繋がらない子供を持ちながらも、自ら降りかかった不幸に立ち向かおうとする夫婦。

血の繋がりこそが家族の絆ではないこと、それ以上の絆があることをこの2つの家族の生き様は象徴しているかのようだ。

そしてどうしようもない父親だった町村作造が小夜子を殺害したことは彼が娘夫婦を守ろうとした最後の父親らしい行動だったのだろう。これもまた親と子の不思議な絆の形だ。

タイトルになっている「虚ろな十字架」とは中原の元妻小夜子が生前ライターをしていた時に認めた原稿『死刑廃止論という名の暴力』の中にある一節に由来する。
人を殺害した人間に有罪判決を下して懲役○○年と罰しても、出所すれば再発の確率が高い現実を顧みればその罰はなんと虚ろな十字架を縛り付けているのだろうかと書かれている。

つまり人を殺した人間を罰するには死刑しかないのだと娘を喪った小夜子は訴えているのだ。

娘を殺害された被害者となった彼女がこのような極端に針の触れた結論を出したことは解る。
しかし一方で死刑は単なる通過点に過ぎないことも解っている。なぜなら中原たちの娘を殺害したしがない窃盗犯は最終的には裁判に疲れ、死刑になったことを拒まなかった。
しかしそこには贖罪の念はなく、ただ自分の決定された運命を受け入れただけだったのだ。もはや彼にとって死刑は自分の人生を諦めた行く末に過ぎなかったことが語られる。

そして一方で中原夫妻も死刑になったことで最愛の娘の死が浮かばれたとは思っていなかった。ただ事件が終った、それだけだったと述べる。
しかしそのことを経験しながらもやはり一つの命を奪った人は同じようにその命を死刑によって罰せられるべきだと元妻の小夜子は決意したのだった。

彼女もまた娘を一人家に残したことを後悔し、その後再婚して子供を産もうとは考えられなかった。自分は子供を産んではいけない女性だという罪の意識に苛まれながら、事件や依存症などと向き合う人々を取材してきたのだ。
まだ若い妻の人生のやり直し、殺された娘の代わりの子を産むチャンスを与える意味で離婚を決意した中原の思惑とは全く別のことを小夜子が考えていたとは皮肉だ。

仁科史也は町村花恵を家族として迎えることで過去の罪を償おうと生きてきた。

死刑もまた贖罪であるが、この仁科史也もまた贖罪だろう。
そして作者はどちらが罪の償いとして正しいのかと読者に問いかける。更に法律は矛盾だらけだ、人間に人は裁けないとまで述懐する人物もいる。

お母さんの留守番をしていて殺された子供。

留守番をさせて娘を死なせたことを抱えて生きていく母親。

娘を殺害された虚しさゆえに離婚を選んだ父親。

一文無しで空腹だったために小銭を稼ごうと泥棒に入った家に子供がいたことで通報されるとまずいからと短絡的に子供を殺した男。

他人の子供でありながら我が子として育て、また金に卑しい義理の父親を受け入れながら日々小児科医として子供を救う男。

男に騙され、絶望して死を選ぼうとしていたところを今の夫に救われた女。

無職で怠けることしか考えていないが、ある日人を殺害した父親。

犯罪者の義理の父親を持つことを大いに案ずる母親。

父子家庭で育ち、美容師になって上京し、結婚に失敗し風俗嬢となった暗い過去を持つ女。

男手一つで娘を育て、多忙な日々を送る中でも娘に気を配りながら、事故で死んでしまった父親。

様々な人があれば様々な人生、様々な事情、そして生き様や考え方がある。上に並べた今回登場した人物の人生が等価であるとは決して云えないだろう。
それを人を殺したから罰せられるべきなど単純化したルールで果たして杓子定規的に人を断ぜられるものかとこれまで作者は問いかけてきた。結局人は道理で生きているのではなく、人情で生きているのだとこのような作品を読むと痛感させられ、何が正しくて間違っているのかという我々の既存概念を揺さぶられる。

死刑に値する愚かな犯罪者もいれば、刑に罰せられると等価の償いをし、周囲から必要とされる人もいる。罪を裁くとき、このように違った人生を歩んできた人々を一律のルールで裁くことが本当に正しいのかと考えさせられる。
しかし一方で近しい人を殺されたことで人生が変わってしまった人もおり、その喪失感を思えば加害者側の事情などは関係ないとも思える。
更に死んで当然だった、死んでよかったと思われる人もいる。そんな世の中の秩序を保つためにまた法律も必要なのだ。いやはや難しい。

深く深く考えさせられる作品だった。決して全てにおいて正しい考えなどないことをまた思い知らされた。
人は過ちを犯してもやり直して生きていられる、そんな世の中が来ることを望むのは夢物語なのか。そんな思いが押し寄せてくる作品だった。


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虚ろな十字架 (光文社文庫)
東野圭吾虚ろな十字架 についてのレビュー
No.757:
(7pt)

壮大なる物語のほんの序章

キングが若かりし頃に読んだトールキンの『指輪物語』と映画館で観たセルジオ・レオーネ監督の『夕陽のガンマン』に触発されて書かれた全7部からなるダーク・ファンタジー小説が<ダーク・タワー>シリーズである。本書はその記念すべき1作目。
この度映画化が発表され、それに伴い、かつて刊行されていた角川文庫から再び新刊として現在毎月刊行されているが、私が読んだのはシリーズ完結を機にキングによって手が加えられたヴァージョンであり、2004年に新潮文庫から刊行された版である。

その第1作目である本書の前書きによれば1970年に着手して2004年に完成したとあるから30年以上に亘って描かれたシリーズだ。
一旦4巻まで書かれた後、長らく中断されていたが、キング自身にある大きな転機が訪れる。それは1999年に散歩中にライトバンに跳ねられて交通事故に遭うのだ。それは回復した現在までも片足が不自由になるほどの後遺症を遺すが、その事故で一命を取り留めたキングはファンの声にも支えられてシリーズ完結を目指し、2004年に完結を見せる。

長い前書きには事故に遭った際、シリーズ未完にしてキングがこの世を去るのではないかというファンの言葉や、結末を催促するキングの祖母の手紙、更には自分が刑を執行されるまでには決着をつけてほしいと催促する死刑囚からの手紙を受け取ったというエピソードが盛り込まれている。
それほどまでにファンを、読者を魅了するこのシリーズは果たしてどのような物なのかと興味津々でページを捲った。

物語は主人公である最後のガンスリンガー、ローランド・デスチェインの過去と旅の道連れになった白髪頭の少年ジェイク・チェンバーズが来た別の世界の話とが時折挟まれながら、黒衣の男を追う旅が語られる。途中、夢魔のスキュプスやスロー・ミュータントに襲われながらも黒衣の男に辿り着くのだが、長大な物語の序章である本書ではまだはっきりとしたことがよく解らない。黒衣の男を追い、暗黒の塔を目指すガンスリンガーの物語というだけがはっきりとしている。その目的もまだよく解らない。

物語を形成する世界独特の言葉が時折挿入されるが、それらについての説明は語られない。
ガンスリンガーが話すハイ・スピーチ語、ロー・スピーチ語、邪な抱かせるように思える<カ>の力、烏頭の人間タヒーン、<内世界>、メジスやギリアドという国。

ただそんなファンタジックな世界でありながら、我々の住む世界とはどこか地続きで繋がっているようで、例えばガンスリンガーが訪れる<タル>の町のピアノ弾きが奏でる音楽はビートルズの『ヘイ・ジュード』であり、ジェイクが来た町はニューヨークでタイムズスクエア、ゾロといった映画の登場人物も出てくる。
我々の住んでいる世界とは少し位相の異なる世界がこのガンスリンガーたちが住まう世界のようだ。

本書の訳者であり、書評家でもある風間賢二氏の解説によれば、この<ダーク・タワー>シリーズはキングの作品世界の中心となる壮大なサーガであるとのこと。つまり今まで読んできた作品、そしてこれから読む作品に何らかの形で影響し、また繋がりがあるとのことである。
そして本書はまだ物語の序の序に過ぎないとのこと。従ってまだ作品世界のほんの入り口に立っただけに過ぎず、次の第Ⅱ巻からが本格的な幕開けとなるらしい。
この解説を読んでキングの一読者となり始めた私にとってこのシリーズはやはり読むべき物語であると確信した。

ガンスリンガーが目指す<暗黒の塔>には一体何があるのか。そして本書で登場したローランドが愛した女性スーザンとは何者なのか?
数々の謎を孕んだ壮大なキングのダーク・ファンタジーはたった今始まったばかりだ。


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ダーク・タワー1 ガンスリンガー (新潮文庫)