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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
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Vシリーズもいよいよ終盤に差し掛かり、とうとうS&Mシリーズの西之園萌絵と国枝桃子が登場する、2つのシリーズが一堂に会することになった。その記念的作品が第8作の本書。
そしてこのVシリーズに仕掛けられた大きな謎について仄めかされる、森氏としても大いに踏み込んだ作品だ。 但しいつものメンバーが西之園萌絵らと逢うわけではなく、保呂草潤平のみが邂逅する。そしてこの3人が出逢う場所が保呂草がずっと追っている美術品エンジェル・マヌーヴァの所有者熊野御堂譲氏のその美術品を保管している別荘である。 今回の事件は2つの密室殺人事件に1つの盗難事件。1つの密室殺人事件と盗難事件はメビウスの輪をモチーフにした棙れ屋敷で起き、もう1つの密室殺人事件は別荘から棙れ屋敷の間にあるログハウスで起きる。 本書で最も目を惹くのはなんといってもメビウスの輪を巨大なコンクリート構造物として作った棙れ屋敷だろう。 36の4メートルの部屋で区切られた全長150メートルにも及ぶ棙れ屋敷。しかもそれぞれ部屋は傾いて作られ、折り返し地点の部屋は床が左の壁となる90度傾いた構造となっている。更にそれらはドアで繋がっており、入ってきたドアが施錠されると他方のドアが解錠される仕組み、つまり必ず1つのドアが各々の部屋で施錠されている状態になる。 そんなパズルめいた趣向を凝らした屋敷で事件が起こらぬはずがない。 そしてもう1つは何の変哲もないログハウスでの密室殺人。しかもそこで殺された熊野御堂譲氏は「この謎を解いてみろ」と発見者に挑戦状を叩きつけているくらいだ。 しかし予想に反してこれら2つの密室は物語のメインではない。謎とされた密室殺人は実にあっさりと解かれる。 そして今回これらの謎解きには推理がない。冒頭のプロローグの保呂草の独白に「探偵が犯人を言い当てる原理として、これほど風変わりな手法によるものはかつてなかったのではないか」と述べているが、確かに今までのミステリにはないかもしれない。 これらの密室殺人が上記の手法によって解かれるということから実は本書における主眼ではない。 本書のメインは保呂草がずっと追い求めていたエンジェル・マヌーヴァがいかにして持ち去られたかという謎だ。 鎖で棙れ屋敷最奥部の部屋の柱に繋ぎ留められた美術品の短剣エンジェル・マヌーヴァ。その鎖自体もエンジェル・マヌーヴァ本体の一部でそれだけでかなりの美術的価値がある代物。それを引きちぎらずに持ち去るのはやはり大盗賊保呂草潤平だった。この時の保呂草の気持ちは正確には書かれていないが、恐らく物凄く感慨深かったのではないか。 その美術品が出てきたのはシリーズ5作目の『魔剣天翔』からで、この8作目にしてようやく手に入れたことになるが、単に間に3作を挟んだだけの年月ではなく、実に長い年月で…と危ない、危ない。このくらいにしておこう。 しかし色々と惑わせてくれる森氏である。この保呂草潤平が今回偽る名前は1作目に保呂草潤平と称して登場した殺人犯の名前である。そして近くの刑務所から殺人犯が脱走したことがニュースで報じられている。 冒頭の保呂草による独白めいたプロローグが無ければ今回の保呂草はいつもの保呂草なのかそれとも1作目の保呂草、秋野秀和なのか、惑わされてしまう。これもシリーズに隠されたある謎を知らなければ素直に保呂草の茶目っ気と受け止めるのだが、知っていることが逆に不穏さを誘うのだ。 特に今回の保呂草の行動が案外いかがわしく、そして危険な香りを漂わせているだけに。 しかしこうやって読み終わってみると森氏にとって密室トリックや犯人やらは本当に些末なことであることが解る。 メビウスの輪を館として実物にした棙れ屋敷。この36の部屋で仕切られ、180度部屋が反転し、しかも両側に扉を設え、一方が施錠されないと他方が解錠されないという特殊な機構を持つ屋敷を提示しながらそこで起こる事件の真相は実に呆気ない物。 ログハウスの密室トリックは建築学の教授である森氏ならではの奇抜なアイデアが光るが犯人については寧ろ明確に語られずじまい。 エンジェル・マヌーヴァ掠奪の顛末は実にスリリングだが、柱に埋め込まれた美術品の持ち出し方法は案外拍子抜けするほどの内容だ。 つまり本書で語りたかった、もしくは読者に仕掛けたかった、もしくは明かしたかった謎は別のところにあるのだ。それについては後述することにしよう。 さて上にもちらっと書いたが、流石は建築学教授の森氏と思わされる内容が随所にあるが、一番感じ入ったのはこの棙れ屋敷が建築基準法に適っていないことが明確に示されていることだ。 二方向避難、無窓階など色々同法をクリアするのに必要な設備や開口が必要であるのだが、それを敢えて排除し、適法でないことを明確に示している。つまりはこれは建築物ではないことになるのだが、しかし部屋はあることで単なるオブジェとして扱われない。つまり違法建築のまま熊野御堂譲氏はこれを置いていることになる。個人の持ち物だから、建築基準法などどこ吹く風といった感じなのだろう。 またS&Mシリーズファンなら喜ぶであろうシリーズ後の近況が解るのも本書の特徴だ。 国枝桃子はN大学から異動になり、那古野市の私立大学の助教授になっていることが本書で明かされる。西之園萌絵はまだ大学院生だからシリーズが終わってすぐのことなのだろう。 また小ネタとして萌絵が国枝桃子に語る山小屋4人の話。寒さで眠らないように4人が四隅に立って真っ暗な部屋の中を壁沿いに歩いて次の角の人にタッチして、タッチされた人が同じように次の角まで歩いてそこに立っている人にタッチして、を延々と繰り返して寒さをしのぐ話が怖いと萌絵は云うが、国枝桃子はピンとこない。これは本当に起きたら怖いです、実際に。 さて本書の題名の英訳は“The Riddle In Torsional Nest”、つまり「捩れ屋敷の謎」という意味だが、HouseやResidenceとせずにNestとしたところに森氏の建築学教授としての矜持を感じる。 また邦題の「利鈍」は「刃物が鋭いか、鈍いかということ。賢いことと愚かなこと」という意味。 捩れ屋敷そのものは果たして聡い者による造形物なのかそれとも愚か者が作った役立たずの代物なのか。それは本書を読むことでそれぞれの読者が判断することなのだろう。 たった250ページ強のシリーズ中最も短い長編である本書を最後まで読んだ時、森氏がこのシリーズに仕掛けられた大きな謎について大いに踏み込んだことが解る。 実は私は既読者によってネタバレされているのでその驚愕を味わえない不幸な人間なのだが―頼むから森博嗣ファンの方々、そういうネタバレは止めましょうね―、逆にそれを知っていることで本書が実に注意深く書かれていることに思わずほくそ笑んでしまった。 まずこの棙れ屋敷が愛知県警管轄外の岐阜県にあること。今回なぜ小鳥遊練無と香具山紫子たちは出ずに保呂草と瀬在丸紅子だけなのか? そしてなぜ瀬在丸紅子は西之園萌絵を知っているのか、いや西之園家を知っているのか? それはあと残り2作となったシリーズ作で明らかにされることだろう。保呂草によって綴られたエピローグに書かれた驚愕の事実。それが解るのももうすぐである―だからネタバレは止めようね、森博嗣ファンの方々―。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2016年、『涙香迷宮』で『このミス』1位を獲得した竹本健治氏。それをきっかけに今過去の絶版となった作品や未文庫化の作品が次々と復刊、文庫化されてきている。
そしてその『涙香迷宮』でも探偵役を務めた牧場智久の初登場作が本書である。これと第2作の『将棋殺人事件』、第3作の『トランプ殺人事件』を合わせて「ゲーム三部作」と呼ばれている。 ちなみに私が読んだのは第2作の『将棋殺人事件』の方が先。なぜなら当時そちらが先に文庫で刊行されたからだ。角川文庫のやることはよく解らん。 さて『涙香迷宮』では数々のいろは歌を用いた超絶技巧の暗号ミステリが展開されるそうだが、最初期の作品である本書も題名に掲げているように囲碁の盤面が暗号になっているという凝りようだ。 本書が発表されたのが1980年。その時竹本氏は26歳でまだそんな年齢にも拘らず囲碁に精通している。 第1作の『将棋殺人事件』でも確か詰将棋の碁盤が出てきたように思うが、本書の囲碁の対局場面といい、珍瓏という盤面全体に及ぶ詰碁に鬼の意匠を凝らしたり、また盤面に暗号を隠す、更には2ページのみだが「囲碁原論・試論」と題した囲碁に関する考察論文を挟むなど、テーマに対して貪欲なまでにミステリを加味し、またそれを可能にする深い造詣を持っていることが窺われる。 本書のあとがきによれば大学時代に囲碁研究会にせっせと通い、10級で入部し、大学を辞める時には5段の腕前になっていたとのこと。その代わりに大学5年間在籍して取得単位はゼロというのだから、実に親不孝な学生である。 さて『ゲーム三部作』の第1作目である本書の探偵役は今に続く竹本作品で探偵役を務める牧場智久であるが、この時はまだ12歳ながらIQ208を誇る天才少年で囲碁の天才少年、昭和の小川道的と呼ばれるほどの人気ぶり、さらに周囲が振り返るほどの美少年ぶりというから天は二物も三物も与えたような誰もが羨む理想の探偵役として登場する。このシリーズは彼と姉のミステリ小説マニアの典子、そして彼女が助手を務める大脳生理学者須堂信一郎の3人が主要メンバーとして殺人事件に挑む。 今回彼らが出くわすのは棋幽戦という囲碁のタイトル戦の最中に首なし死体として発見された対局中の槇野九段と神奈川の村で発見された池袋で眼科医院を開業している斎藤敝二殺害事件。一見関係のない2つの事件と思われたが、後者の遺体の首に裂傷があったことから犯人が首を切断しようとしたところを誰かに見つかったため、途中で投げ出したと推理し、2つの事件を結び付ける。しかしこの2人に共通するのは囲碁をしている、その1点のみ。一方は名人。一方は玄人はだしの腕前を持つアマチュア棋士と普段は何の接点もない。こんな細い糸の連続殺人事件の真相は実に意外。 まず本書で驚いたのは12歳の牧場智久が犯人から危害を加えられることだ。あたかも犯人が被害者のように首を切って殺してやろうかとばかりに棋院で居眠りをしている間に首の周りに赤ペンで線を入れられたり、一人残された棋院で犯人に追いかけられたり、また街を歩いているところを犯人に追いかけられ、真夏の廃工場に閉じ込められたりと容赦ない洗礼を受ける。天才少年と持て囃されて殺人事件にまで手を出していい気になるなよという犯人の、いや世間一般の常識からのお仕置きとばかりの仕打ちである。 これはつまり世間の流布する素人探偵が殺人事件に容易に首を突っ込むことに対する警告とも云えるだろう。人の死が介在する事柄は自身もまたその渦中に入ること。つまり犯人を暴こうとする行為はその者自身もまた犯人の標的となり、そして狙われる危険を呼び寄せることを意味するのだ。 こんな死に目に遭うほどの仕打ちは12歳の少年にとってはトラウマになるだろう。これに懲りず探偵役を仰せつかっている牧場智久にとってこのエピソードは今後何か影響を与えているのだろうか? 盛り込まれた囲碁の歴史に残る名人たちのエピソード、ルールを巡った騒動など単にゲームに留まらない囲碁を取り巻く人間模様が実に面白い。 囲碁の正式ルールが昭和24年まで明文化されていなかったとは驚きだった。歴史が深い競技だと思いきや意外と近代囲碁の歴史は浅かったことが解る。それは囲碁が昔から日本人の生活と共に発展してきたことで口伝で、もしくは暗黙の理解的にルールが形成されてきたことを表しているのだが、それ故に地方性が色濃くなり、それぞれのルールが出来たことで統一ルールが必要になったのだ。それだけ囲碁の世界が発展してきたことの証だ。 本書で感心したのは大脳生理学の視点から犯人を解き明かすこと。 実はこれは第2作の『将棋殺人事件』でもなされていたが―すっかり忘れていた―、島田荘司氏が21世紀本格として2000年以来、御手洗潔をウプサラ大学の大脳生理学教授としてこの脳のメカニズムをミステリの題材に持ち込むことに積極的なのだが、既に1980年の段階でそれを竹本氏が実践していることに驚いた。つまり21世紀どこから20世紀に彼は島田氏が積極的に取り込む新しいミステリの先鞭をつけていたのだ。 正直囲碁に明るくない私にとって詰碁や囲碁の知識を謎解きに盛り込んだ本書を余すところなく楽しめたとは云えない。 本書には囲碁はたった5つの原則で成り立っているから実は覚えるのは簡単と書かれているが、その後に出てくる「石の死活」、「月光の活」、「仮生」などなどちんぷんかんぷんだった。 また槇野九段最後の名勝負の碁石の配置の妙味などもその凄さを全く理解できなかった。やはりまだまだ五目並べが私にとっては関の山のようだ。 しかしそれでも本書は上に書いたようにミステリとして小説としてなかなかに面白く読めた。たった1つの碁石で部分的には否とされていた物が全体的に見ることで有と反転する碁の深さは知識がなくとも解る。首を切られたかのように見えた鬼を模した珍瓏が全体を見ることで生を得る。それは即ちたった1つの手掛かりから全てが反転する美しいミステリを見ているかのようだ。それこそが竹本氏が本書でやりたかったことなのだろう。 さて続く第2作『将棋殺人事件』については既に今から約12年前の2006年に読了しているが、既に忘却の彼方だったので当時の感想を紐解いてみたところ、酷評だった。 私の感想によれば幻想小説風味が加えられており、案外文体も凝っていて私の嗜好に合わなかったようだ。大脳生理学者須堂による脳が人に及ぼす弊害によるミステリでもあるのだが、それは高く評価しているようだ。島田氏の21世紀本格として発表された同趣向の作品も同時期に読んでいながらこの評価をしているということはよほど合わなかったのだろう。しかし今読むとまた評価も変わるかもしれない。 とにかくこの須堂信一郎という「ゲーム三部作」ならびにそれに続く短編「チェス殺人事件」、「オセロ殺人事件」、「麻雀殺人事件」のみに登場する探偵には今回改めて興味を持った。この後の『トランプ殺人事件』もまたいつか読むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人間は感情の動物であるとかつて誰かが云った。本書はそんなことを強く思い知らされる作品である。
リンカーン・ライムシリーズ記念すべき10作目となる本書の敵はなんとアメリカ政府機関の1つ、国家諜報運用局(NIOS)の長官。バハマで隠遁中の政治活動家を暗殺した共謀罪で逮捕しようと計画するNY地方検事補のナンス・ローレルに協力する。 さらにコードネーム“ドン・ブランズ”で呼ばれる凄腕のスナイパーも捜査の対象だ。なんと2000メートルという驚異的な距離から標的を暗殺したほどの腕を持つ。 しかしアメリアによればスナイパーの最長狙撃記録は2500メートルらしい。まだ上の人物がいるのだ。 そしてライムたちの捜査の前に立ち塞がるのが殺し屋ジェイコブ・スワン。彼は秘密裡に情報を盗み取る技術に長けている。従って極秘裏に捜査していると思っているローレル地方検事補率いるライムチームの行動は既に筒抜けなのだ。しかも彼らはサックスの3Gのスマートフォンを盗聴し、ライムたちの捜査の先回りをする。 被害者ロベルト・モレノお抱えのリムジン運転手を先回りして殺害し、NIOSの密告者が情報をリークしたメールを送信したチェーン店のコーヒーショップを突き止めれば、先行してプラスチック爆弾を仕掛け、店内の防犯カメラの録画データをパソコンとサーバーごと破壊し、モレノお抱えの通訳を警察を装って訪ね、アメリアが訪問する前に拷問して殺害する。それはバハマでも同様で、事件のあったホテルの部屋はいつの間にか改修工事がされ、ライムたちが捜査を止めるよう、人を雇って脅したりもする。 更にサックス自身にもその魔の手を伸ばそうと尾行を続ける。 ジェイコブ・スワンは貝印の“旬”ナイフ―これはKAIという日本のブランドらしい―を愛用し、殺害対象を一気に殺さず、まず手刀で喉を潰し、声が出せなくなった状態で拘束し、料理をするようにじわりじわりと痛めつける殺し屋だ。料理を得意とする彼はまさに一流の高級料理を調理するが如く、対象者の肉を丹念に切り下ろす。 今回特徴的なのは犯行現場がバハマということで現場捜査を担当するアメリアもすぐには現場に行くことが出来ず、ライムと共に部屋で捜査を担当し、情報収集に徹する。 一方ライムは現場の遺物の情報を得ようとバハマ警察の捜査担当者に連絡を入れるが、これが南国の後進国特有の悠長さと捜査能力の不足から非常に不十分でお粗末な状況であり、全く有効な手掛かりが得られない。現場検証も事件が起きた翌日に成されているため、新鮮なほど有力な情報が集まる物的証拠が失われた可能性が高く、ライムはその捜査のずさんさに悶々とさせられるのである(しかしこのバハマ警察の担当者マイケル・ポワティエの愚鈍さはそのすぐ後に解消されるようになるのだが、それはまた後述しよう)。 このようにいつものように遅々として進まない捜査に読者はライム同様にストレスを感じさせられるようになる。 従っていつものようにお得意のホワイトボードに次々と新事実を埋めていくそのプロセスも滞りがちだ。しかも書かれた情報は人づてに教えられた情報と憶測ばかり。通常のライムシリーズとは異なる進み方で読者側もなんともじれったい思いを抱く。 そんな膠着状態を作者自身も察したのか、ライム自身がバハマに赴くことになる。 前作の『シャドウ・ストーカー』でライムはキャサリン・ダンスの捜査の手助けをするために自らフレズノに赴いたが、今回は更に海外まで進出する。リハビリと手術により指だけだった可動範囲も右手と腕が動かせるようになったことでずいぶんと活動的になったことが解る。 最新型の電動車椅子ストームアローに乗って野外活動に励むライムの進歩は同様の障害に悩む人々にとって希望の姿でもあるだろうし、また最新鋭の補助器具があれば重篤な障害者でも、介護士の補助が必要であるとはいえ、外に出て行動することが出来ることを示している。 優れたアームチェア・ディテクティヴのシリーズだった本書もまた科学と医学の進歩に伴い、その形式を変えようとしているのが解る。 しかし一方で現実はそんなに甘くないこともディーヴァーは示す。バハマ警察の上層部の意向に背いてライムに協力するポワティエ巡査部長と共に独自で捜査するライムたちを暴漢達が襲い、なんとライムはストームアローごと海に放り出されるのだ。 事件捜査という犯罪と紙一重の活動は健常者にも危害が及ぶ。まして障害者にとっては過分なことだと示すエピソードだが、それでもライムは屋外に、数年ぶりに海外に出たことが非常に楽しいようで、これからも外出したいと述べる。それほどまでに日がな一日屋内生活を強いられるのは苦痛だからだ。 ライムはニューヨークの自宅に戻り、新たな電動車椅子メリッツ・ヴィジョン・セレクトを手に入れる。それはオフロード走行機能も付いた機種で今回のバハマ行で外出の醍醐味を占めたライムの行動範囲が今後もっと広がることだろう。 さてこのバハマ行で彼らの有力な協力者となるのが愚鈍と思われていた捜査担当者マイケル・ポワティエ。経験が浅いながらも刑事という誇りを大事に上司の目を欺いてライムたちに協力する。それが上司にバレて異動を命じられるが、ライムの機転によってそれも解消される。ライムがアメリカに招待して自分のチームの一員に加えたいとまで思わせる好人物だ。 しかし一方でライムの手足となり、フィールドワークを担当していたアメリア・サックスは逆に今回のチームに加わった特捜部のビル・マイヤーズ部長から持病の関節炎を見透かされ、更に健康診断の不備により、捜査を外れることを通告される。 ライムの身体能力の向上と反比例するかのようにアメリアの関節炎は悪化してきており、逆に捜査活動に支障を来たす様になってきている。何とも皮肉な話だ。 またナンス・ローレルとライムたちが対峙するNIOSの長官シュリーヴ・メツガーはいつにも増して短気な人物である。自分の意にそぐわなければ怒鳴り散らし、物を投げつける。気分を害しただけでなく、その人物が気分を害するようなことをすると想像しただけで怒りが沸々と沸き起こる、異常なまでの癇癪持ちだ。店で買ったコーヒーが思いのほか熱すぎれば、店に車で突っ込んで営業できなくしてやろうかと本気で思い、軍人時代では自分たちを罵る酔漢を徹底的に傷めつけ、性的な快感を覚える。 従って他の職員は彼の姿を見ると視線を合わせようとしないし、ある者は方向転換をしさえもする。また家族はその怒りに怯え、離婚し、時たま会ってもソワソワし通しといった具合だ。 その怒りを抑えるために彼は沸き起こる憤怒を精神科医のアドバイスに従って具体的な物としてイメージする。その象徴が“スモーク”。かつて中学生の、まだ太っていた頃にキャンプファイアで隣に立っていた女子に煙から逃れるふりをして近づいて話しかけた時に、無碍に断られたことから想起したイメージである。この“スモーク”がメツガーの怒りのバロメーターとなっている。 キングの作品や他の海外作家の作品にはよくメツガーのような怒りを抑えきれない人物、衝動的な怒りに取り込まれ、我を失う人物というのは必ず出てくる。 どうもこのような癇癪を欠点とする人物はアメリカ人にとっては共通の特徴のようだ。テレビでも大きな声で怒鳴る姿をよく見るし、いい大人がテレビの前で怒りに駆られ暴力を振るい、喧嘩沙汰になったりするのを目の当たりにしたこともあるだろう。感情豊かな国民性は逆に怒りに対しても率直であり、おまけにそんな人たちが合法的に銃の所持を認められているのだから、やはり非常に物騒な国だ。 さて相変わらず真相は二転三転、三転四転する。 ただ振り返ってみれば非常におかしい部分もある。さすがにこれはどんでん返しを考えすぎて物語が破綻したとしか云えないだろう。 さらにディーヴァーはどんでん返しを仕掛ける。 価値観の反転はミステリとしては読書の愉悦を味わえるが、実際面としては実に恐ろしいと思わされる。 高度な情報を扱う仕事は常にその情報に隠された意味を考え、判断することに迫られている。しかしそこに感情が加わるとその情報は右にも左にも容易に傾く。それこそが本書のテーマであろう。 これらの人々は共に自らの信条に従い、正しいことをしていると思っていながら、実は好き嫌いという子供の頃から抱く非常に原初的な感情にその判断を左右されていることに気付いていない。そのことが彼ら彼女らをして情報を読み誤り、また読み誤ったと勘違いしたりする。そんな権力を持つ一個人の感情のブレで対象となる人間の生死をも左右されることが実に恐ろしい。 思えば本書は鑑識の天才リンカーン・ライムが現場から採取した証拠という事実だけを信じ、緻密に推理を重ね、論理的に事件を解決するところが魅力であるのだが、その実理屈っぽく終始不平不満を呟くライムの感情っぽいところ、つまり人間臭さがシリーズの魅力でもある。 そしてそのパートナー、アメリアもまたとにかく動き続けることで自分の生を感じ、またライムからそれを求められていることを生き甲斐にしている。そして気に食わない人には容赦なく冷たく当たる。 特に本書では感情の起伏を見せないナンス・ローレルに嫌悪感を示す。ライムの部屋に自分のパソコンを持ってきて仕事をするその姿を見て、自分の居場所の一部を取られたように感じ、その嫌悪感をますます募らせていく。丁寧な言葉が自分をかえって見下しているように感じる。そんな感情の起伏がローレルのアメリアに対する配慮を見誤り、衝突を繰り返すことになる。 そしてまた本書ではライムがバハマに赴いて地元の警察と捜査をしている間、アメリアはアメリカで捜査を続け、その距離がお互いを強く意識し合い、そしていつも以上に求め合うことになる。 緻密な論理を売りにしているこのシリーズは実は人の感情を実に豊かに捉えた作品であることを再認識させられる。またその感情ゆえに生れる先入観が登場人物のみならず読者の感情を動かし、どんでん返しへと導かれていくのだ。 実は本書は人気シリーズの第10作と記念的な作品ながらシリーズ作で唯一『このミス』で20位圏内から漏れた作品だった。ランキングがその面白さと比例しているわけではないとは解っているが、それはこのシリーズの特色である、ある分野に精通した悪魔的な頭脳の持ち主や超一流の技能を持つ殺し屋が登場しないことが他の作品に比べて魅力がないように思われる。 もしライムの敵が超長距離狙撃を完遂させる技能を持った殺し屋だとすれば、いつどこからでも狙撃する恐れがあるというサスペンスが味わえたはずだが、今回は政府機関のNIOSが相手ということもあって情報戦に終始し、いわゆるいつも感じるヒリヒリとした緊迫感に欠けたように感じた。 当時この作品のランキングを見た時にとうとうこのシリーズも終わりが来たかと、どんな作家でもいつかは訪れるアイデアの枯渇、品質の低下を想像した。 しかしその翌年ディーヴァーは復活する。ライムシリーズ次回作『スキン・コレクター』で『このミス』1位を獲得するのである。 確かに本書では上に書いたような不満を抱いたが、まだまだディーヴァーの筆は衰えていないことは既に立証済み。 どんなシリーズにもある谷間の作品として記憶するにとどめ、次作に大いに期待することにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングは過去の短編で機械が意志を持ち、人間を襲う話を描いてきた。クリーニング工場の圧搾機、トラック、芝刈り機など我々が日常に使う機械の、抗いようのない恐るべき力に対する畏怖をモチーフに恐怖を描いてきたが、この『クリスティーン』もこれら“意志持つ機械”の恐怖譚の系譜に連なる作品となるだろう。しかもこれまでは短編であったがなんと今回は上下巻併せて約1,020ページの大作である。
アメリカ人と自動車との関係の深さは日本人のそれよりももっと深いように思える。今でこそ日本車が世界中に輸出され、一大勢力となっているが、フォードが20世紀初頭に自動車の量産化に成功してから、巨大な自動車産業国となった。20世紀からのアメリカ人は自動車と共に成長し、繁栄してきたのだ。 更にガソリンが安いこともあり、広大な国土を持つアメリカを移動するのに、アメリカ人にとって自動車は無くてはならない生活必需品となった。特に日本と違い、アメリカではカーディーラーに行って気に入った車があると、そのまま乗って帰れるほど手軽に買えるようだ。 今までキングが“意志持つ機械”をモチーフに書いてきた物語においてその対象が自動車になるのはそんな背景を考えると必然的であり、そして満を持して発表した作品だと云えよう。ある意味本書は“意志持つ機械”譚のこの時点での集大成になる作品と云えるだろう。 但しそこはキング、意志を持った車が暴れ、人間たちを襲うと云った陳腐な展開をしない。このクリスティーンと名付けられた1958年型の赤と白の2色に塗り分けられたプリマス・フューリーがその本性を表し、人間に牙を剥くのは上巻の490ページの辺りだ。そこまでの展開は寧ろ少年と車との運命的な出逢いという少々色合いの違った話で物語は進む。 何の前知識もなく、最初にこの作品を読んだ時、これはトップの5%圏内に入るほどの頭を持ちながらも、優等生グループにも入れない、スクールカーストの最下層に位置する17歳の少年アーニー・カニンガムが1台の古びた車と出遭うことで負け犬的人生を変えていく物語であると思うに違いない。彼の自動車のメカに関する優れた知識は天からの授かりものになるだろうが、彼が出遭う58年型のスクラップ同然のプリマス・フューリー、愛称をクリスティーンという車もまた彼の人生を変える天からの授かりものになる。 そのおんぼろ車を自身で少しずつ再生していくうちにいわゆる負け組に属していたアーニーもまた生まれ変わっていく。ピザ顔とまで呼ばれていた吹き出物でいっぱいの顔は次第に綺麗になり、男ぶりも増していく。更に以前よりも度胸が増し、町の不良たちに絡まれても一歩も引かないようになる。更には学校で評判の美人の心も掴み、恋人にすることに成功する。 一人で一台の車を再生することが即ち彼の人生を再構築させていくことに繋がっていく。これはそんな一少年の人生を変えていく青春グラフィティなのだ。 また一方で主人公のアーニーが車中心の生活になっていくことで家族や親友との軋轢が生まれる。クリスティーンに一目惚れしたアーニーは少しでも早くその車を再生させ、走れるようにし、自分のパートナーとすることに執着する。しかしそれは親友であるデニスと過ごす時間が少なくなること、そして両親の懸案を増やすことになる。 大学進学のための貯金は目減りし、上位だった成績も下がっていく。大学講師である両親は自分の息子がいい大学に進学することを望んでおり、自動車の整備に執心して学業や疎かになる息子に不安と不満を抱く。 それらはいつまでも続くだろうと思われた友人関係、親子関係が、実は幻想であり、いつかそんな安定した関係が終わるその時が、アーニーとクリスティーンとの出逢いなのだ。 親友のデニスは子供の頃から一緒だったアーニーが、それまではフットボールの選手でそれなりにモテていた自分の引き立て役のように見えていた親友が、古びれた車をたった一人の力で再生し、そしていつしか犯罪者のような自動車整備工場のオーナーとも信頼関係を築き、更には不良グループにも一歩も引かない度胸を身に着け、終いには学内一の美人と付き合うようにもなり、それに羨望と嫉妬を覚える。 親は子供が自分の手を離れ巣立つことがまだ少し先のことだと思っていたが、実はもう息子はその時を迎えていたことを知らされる。今まで自分の云う通りに従っていた息子がだから車のことに関しては強く反発し、一歩も引かないことに驚きと失望を覚える。一方父親は夜、彼の整備した車でドライヴし、父と息子だけの男同士の対話をし、息子の成長を認めつつ、父として忠告をする。 アーニーの成長を通して変わりゆく生活の変化をそれぞれの心情を交えてキングは訪れるべき変化の時を鮮やかに語る。 それもただ彼の修理する車クリスティーンが命ある車であることを除けばのことだ。 キングが他の作家と比べて一段優れているのは、通常の作家ならば子供の成長時期に訪れる親子と親友との変化のキー、メタファーとしてスクラップ同然の車の修理の過程を使うのに対し、キングはその車自体をも生ある物、持ち主に嫉妬するモンスターとして描いているその発想の素晴らしさにある。 物に魂が宿るのは正直に云って子供の空想の世界だろう。女の子は人形を生きている自分の妹のように扱い、男の子は車の玩具やロボットの玩具に生命があるかのように自ら演じて興じる。 そんな子供じみた発想もキングの手に掛かれば実に面白くも恐ろしい話に変るのだから驚きだ。 更に『恐怖の四季』に収録されているキングの自伝的小説「スタンド・バイ・ミー」で培った青春グラフィティストーリーの手法が、見事に合わさっている。 どこをどうやって考えてもこの異質な2つの成分が合わさるようには思えないのだが、これがキングの手に掛かると実に見事に融合し、奇妙な味わいを持ちながらもほろ苦さを感じさせる小説へとなるのだから実に不思議だ。 さて物語がアーニーの思春期の通過儀礼とも云える親からの自立と反発というムードからホラーへと転じるのはクリスティーンがアーニーを目の敵としているバディー・レパートンたち不良グループにスクラップ同然にさせられるところからだ。そこから前の持ち主であるルベイとアーニーは無残なクリスティーンの姿を見て同調し、以前より増して2人の魂の親和性は強まり、アーニーはルベイの憑代となっていく。そしてクリスティーンもその怪物ぶりをようやく発揮し出すのだ。 そこからのアーニーとクリスティーン=ローランド・ルベイの独壇場だ。 最初は無人の状態で復讐を成していたクリスティーンだが、やがて亡くなった前所有者のルベイの屍が具現化して現れてくる。そこでようやく本書は『呪われた町』、『シャイニング』などのキング一連のモンスター系小説の系譜に連なる作品であることが解るのである。それは本書の献辞がジョージ・ロメロに捧げられていることからも解るように、ゾンビをモチーフにした怪奇譚であるのだ。 ところで今回キングは2つの叙述を使っている。まず第一部は主人公アーニーの親友デニス・ギルダーの一人称叙述で語られるが、第二部は三人称叙述、そして最後の第三部は再びデニスの一人称叙述に戻る。 まずこれは語り手であるデニスが途中フットボールの試合で重傷を負い、入院してしまうことからアーニーと一緒にいる時間がなくなるためであるが、このアーニーとデニスがしばらく疎遠になることがクリスティーンとアーニーの親和性を高めることになり、つまりアーニーが破滅への道を辿っていくのに大いに拍車がかかることになる。 つまりこれはデニスこそがアーニーが狂気に至る、いやクリスティーンに憑りつかれていくことを防ぐ護符のような役割を示しているように思える。 それを示すかのようにデニスが再びアーニーと対峙する第三部ではクリスティーンに魅せられ、そしてその前の所有者のローランド・ルベイの亡霊に憑りつかれ、性格どころか人格までもが変わっていくアーニーがルベイとクリスティーンの支配に抗って自分を取り戻そうとする。理解ある親友こそが墜ちていく自分を取り戻す最後の砦なのだ。 これは怨霊に憑りつかれたアーニーだけに限らず、我々の人生にも関係する部分でもある。自分の人生に躓いた時、支えとなってくれる存在を1人は持つこと。それを描くのにこの3部構成は必要だったのだ。 そういう意味では物宿る怨霊によって自分が自分で無くなっていくアーニーの姿は昔からある幽霊譚の1つのパターンであるが、また一方で私はこのアーニーの変化については我々の日常において非常に身近な恐怖がテーマになっているように思える。 例えばあなたの周りにこんな人はいないだろうか。 普段は温厚でも車を運転している時は人が変わったようになる、という人だ。それはある意味その人の意外な側面を表すエピソードとして、時に笑い話のように持ち出されるが、ある反面、これはその人の二重性が露見し、またそれを他者が目の当たりにする機会でもある。そしてその変貌が極端であればあるほど、それも恐怖の対象となり得る。 つまり本書の恐怖の根源は実は我々の生活に実に身近なところに発想の根源があるのではないかと私は思うのだ。 これはあくまで私の推測に過ぎないのだが、キングがこのエピソードを本書の発想の発端の1つにしていたのは間違いない。なぜなら同様の記述が本書にも見られるからだ。 上巻の406ページにアーニーがこの車に乗るとなぜか人が変わったようになると書かれている。そのことからもキングが本書を著すにこんな身近で、どちらかというとギャグマンガの対象になるような性格の変貌―マンガ『こち亀』に出てくる本田のような―を恐怖の物語のネタとしたであろうことは推察できるし、そのことからもキングの非凡さを感じる。 人の物に対する執着というのは物凄いものがある。 例えば私は読書が最たる趣味なのだが、気に入った作家の本は是非とも前作、それも発表順に読みたいと思うので、一時帰国のたびに古本屋に出向いては求める本がないか探している(家族はもうそれが当然のこととして諦めてくれているのが有難いが)。 私の場合はある1点物に対する執着ではないので、クリスティーンに対する執着とは性質が違うとは思うが、古来死者が生前愛でていた物に所有者の情念が宿るという怪奇譚は枚挙にいとまがない。その対象を58年型のプリマス・フューリーという実に現代的なアイテムに持ち込んだことにキングの斬新さがあると云えよう。 既に述べたが、自動車愛好家たちにとって本書の車に対する執着の深さは頷けるところが多々あるのではないだろうか。自動車産業国アメリカが生んだ意志宿る車による恐怖譚。 しかし車に対する愛情の深さはアメリカ人よりも深いと云われる日本人にとっても無視できない怖さがあった。たかが車、そんな風に一笑できない怖さが本書にはいっぱい詰まっている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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デビュー作である奇想天外な歴史観を綴った連作短編集『邪馬台国はどこですか?』を読んでその面白さを堪能し、その後読んだのは古事記を下地にした鯨版古事記伝の2冊と、異色の近未来小説『CANDY』と、どこかキワモノ感が濃い鯨作品を経て、読んだ本書は比較的まともなミステリであったことにほっとした。宮沢賢治の諸作と生涯をモチーフにした誘拐ミステリである。
私が抱いていた宮沢賢治は死後評価された童話作家・詩人というイメージで、有名な『雨ニモマケズ』の詩のイメージから朴訥かつ誠実な、清貧の人と思っていたが、それは全く違った。 質屋の息子として生まれ、裕福な暮らしをしながら、一方でそんな人に借金をさせて取り立てて生計を立てている父親の仕事を忌み嫌っていた。その明敏な頭脳で鉱石の研究から農業指導者、学校の先生に童話作家と様々な分野に手を伸ばし才能を発揮する。しかし農業指導では農家の有機肥料の設計書を無償で作成して渡したり、羅須地人協会なる農民のための勉強会を開いて土壌学、肥料学、植物生理化学から宇宙論にエスペラント語などを無料で教えていたりしていた。更に右翼に傾倒したり、浄土真宗の父親に対抗して熱心な日蓮の法華経信者になったりと特に父親に対しての反抗心が強い一方で逆に東京に出てからは宝石商を始めるために忌み嫌っていた父親から金の無心を何度もしていたというかなり矛盾の孕んだ人物である。 また禁欲主義者で、特に抑えきれない性の衝動と戦っており、代表作『春と修羅』は春、即ち回春、売春といった性欲との戦い、“修羅”をテーマにしているとの解釈がなされる。性欲を抑えるために童話を次々と書いていったが、晩年は禁欲主義は誤りだったと認めている。 そんな宮沢賢治の暗黒面がつぶさに描かれていく。 本書では宮沢賢治とは自分の理想と常に戦っている人と読み解かれる。父からデクノボーと呼ばれ、そのことを自覚しながら、不器用ながらも正直で誠実でありたいと書いた『雨ニモマケズ』は実はデクノボーである自分を讃えた詩であると解釈され、そして父親の強欲に対抗しながらも父のお金に頼る、禁欲と戦いながらも最後はそれを後悔する、童話を次々と発表するが世間には認められない、といった具合に常に内なる自分と戦いながらも結局敗れていった男なのだ。 明晰な頭脳で色んな分野に深い造詣を持ちながらもそれを活かさないばかりに不遇に見舞われた天才。その溢れる才能の使い道を間違った男というのが生前の宮沢賢治だろう。 今や国民的詩人、国民的童話作家と評されているがそれは彼の死後のこと。今なお彼の諸作が読み継がれ、信奉者を生み出していることから最終的にはその才能の使い道は間違っていないようだったが、当時生きていた宮沢家誰一人知らない事実である。 そして思うのはそんな多才ぶりを発揮するほどに昔の人は斯くもよく働いたものだということだ。常に知識に対して貪欲でそれを人に啓蒙することに情熱を燃やす宮沢賢治の意欲たるや、寝る時間をも惜しんで生きていた、そんなヴァイタリティに溢れている。 タイトルにある隕石は宮沢賢治が知っていたとされる七色のダイヤモンドの鉱脈は隕石ではないかという推察による。つまり隕石が持っているだろう幻のダイヤモンドを巡る誘拐事件、隕石誘拐というわけである。隕石から採れる鉱石・宝石は実際にあるようで、本書も一概に夢物語と一蹴できない真実性を孕んでいる。 その誘拐のターゲットにされる中瀬稔美の境遇はなかなか同情すべきところがある。 山師の父親に育てられ、上京して就職した損保会社で中瀬研二と社内恋愛の末、結婚し、主婦業に専念するが、突然童話作家になりたいと夫は会社を辞め創作講座にアルバイトをしながら通う。勿論それだけでは生計が成り立たないからSOHOでホームページ作成などを行っているが、生活は苦しく、下着も変えずにすり切れてボロボロになった物をずっと使っている。しかしその容姿は周囲が振り返るほど美しい。 そんな毎日に嫌気が差し、夫とは口論が絶えない。そんな中、宮沢賢治を信奉するカルト集団に拉致され、監禁され、潜在意識下に刷り込まされた七色のダイアモンドの在処を打ち明けるよう強要され、拉致グループにクスリを打たれ、レイプされてしまう。 ここまで書くと中瀬稔美の境遇には憐みを覚えてならないが、数々の薬を打たれ、性の奴隷に堕しながらも人一倍強きな性格で、どこかあっけらかんとした明るさを保っている不思議なキャラクターである。 そんなどこかエロティックで艶めかしい展開は昔の土曜ワイド劇場のような俗物的サスペンスドラマを彷彿させる。 その一方で稔美を拉致する十新星の会の面々は宮沢賢治を信奉し、<オペレーション・ノヴァ>というアルミニウムを摂取させることで全国民にアルツハイマー病にし、痴呆化を図り、日本全国民を支配下に置くという、秘密結社物のテイストもありと、なんともいびつな設定の下で物語が進んでいく。 いびつと云えば主人公の中瀬研二を助ける面々もまたいびつだ。 彼の隣人で妻稔美にコンピュータの扱い方を教えていた在宅勤務の児玉恭一、中瀬と同じ創作童話講座に通う白鳥まゆみは宮沢賢治に詳しいがゆえにメンバーに加わるが、夫を別れる決意をし、一方で中瀬研二に惚れている。 高校時代の同級生でフリーライターの伊佐土茂は昔中瀬の妻稔美を取り合った仲であり、稔美の窮地に助太刀を買って出る。 そしてもう1人の藤崎優次郎は昔からケンカが強く、今は武術の達人で忍者ショーの忍者を演じるほどの運動神経の持ち主で手裏剣で敵を攻撃する腕前を持つ。彼は中瀬の窮地に仕事を辞してまで協力する。 つまり中瀬を中心に隣人、片想いの女、かつての恋敵、そして仁義に厚い忍者と、通常ならば考えられないメンバー構成で話が進む。 本作が発表されたのは世紀末の1999年。つまりこのような世間に不安感が漂っている時代にオウム真理教に代表される新興宗教が蔓延っていたように、本書もそんな宮沢賢治を信奉し、国民総痴呆化を企むカルト集団による犯行というのは今読めば荒唐無稽だと思われるが、当時の世相を実は如実に反映した作品であると云える。 特に童話作家、詩人として名高い宮沢賢治の諸作を紐解くことで内なるコンプレックスを読み解き、そこから彼を神と崇める<十新星の会>なる狂信集団を案出したアイデアは鯨氏ぐらいしか思いつかないものではないだろうか。 誘拐物でありながら、宮沢賢治の文献から隠された秘宝の在処を読み解く冒険小説的妙味、さらに秘密結社による日本征服計画、そして拉致された人妻の凌辱劇とサスペンスにアドヴェンチャーにオカルトにエロと思いつくものをどんどん放り込んで物語を作った鯨氏の離れ業。その全てが調和し、バランスを保っているとは云い難いがこのような芸当に挑んだ鯨氏のチャレンジ精神は評価に値するだろう。 もう1つ忘れてはならないのは夢を追いかけて家族に貧乏を強いた夫婦の不和からの再生の物語であることだ。現在単身赴任中の我が身に照らし合わせても思うのだが、案外夫婦は距離を置くことでお互いの存在に改めて思いを馳せ、そして大切さに気付かされるのだ。いつも一緒にいると、やはり人間同士、どこか疲れて嫌なところばかりが目に付くようになる。中瀬夫婦のように誘拐されるような事態はごめんだが、離れることで絆が深まる気持ちは実に今ならよく解る。 そしてやはり鯨作品の妙味は過去の文献、史実から読み解かれる鯨流新事実の開陳にある。 本書で描かれる我々の知らない宮沢賢治の世界は本書のサブタイトルにあるようにまさに迷宮である。自由な発想と突飛な設定。次回もこの作者独特の物語を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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作者と同姓同名の登場人物が登場する有栖川有栖氏のシリーズ作品は、その趣向の祖であるエラリー・クイーンと同じくクイーン信奉者で同趣向をシリーズキャラクターにしている法月綸太郎氏と異なり、探偵役は作者と同姓同名の人物ではなく、別の人物が務める。それはデビュー作『月光ゲーム』で登場した英都大学の学生有栖川有栖が登場する、いわゆる学生アリスシリーズでは推理小説研究会の部長江神二郎であり、もう1つが本書がその第1作となる推理作家有栖川有栖が登場するシリーズ、作家アリスシリーズの、臨床犯罪学者の火村英生である。このシリーズはそのまま探偵の名で呼ばれているようだ。
このシリーズは先に文庫書下ろしで出版された2作目の『ダリの繭』を先に読んでいたので、前後したが、これでようやくシリーズの最初から触れることが出来た。 1作目であることから有栖川有栖の自己紹介、火村英生の氏素性、そして2人が出逢ったエピソードなどが語られている。本当に久しぶりの有栖川作品だったので『ダリの繭』に書かれていたかどうかも定かではないが、このシリーズでは有栖川有栖が本名であること(因みに有栖川の姓は日本に1世帯だけ。このことを知っていたら本当にこの設定にしただろうかと訝しむが)、元印刷会社に勤めていたサラリーマンで脱サラして専業作家になったこと、火村英生の肩書、臨床犯罪学者という呼称は有栖川氏の造語であること、2人の出逢いは英都大学学生時代で講義中にミステリの賞への応募作への執筆をしていた有栖川の作品を偶々横に座っていた火村が勝手に読み始め、授業後もその後を続きが気になると云ってそのまま一緒に昼食を食べたのがきっかけであったことが語られている。 この時のアリスが学生アリスシリーズと同設定なのかはまだほとんど2つのシリーズ作品を読んでいない私には不明だが、学生アリスシリーズで江神と学生時代の火村が邂逅するシーンは今後あるのだろうかと期待をしてしまう設定ではある。 そんなシリーズ第1作は日本ミステリの巨匠の別荘に新人の推理作家と担当編集者が訪れ、一堂に会するという何とも既視感を覚える設定で、そして「日本のディクスン・カー」、「密室の巨匠」と称されたその作家の別荘で密室殺人が起こるという本格ミステリの王道を行くシチュエーション。さらにその場所は北軽井沢という寒冷地。嵐の山荘物の様相を呈しているが、流石にそこまでの孤絶感はなく、警察も事件に介入する。 まず推理作家の面々がベテラン推理作家の家に集まる設定から想起されるのは私が読んでいる中では綾辻氏の『迷路館の殺人』だ。あれは家の中が迷路になっており、その中で創作活動を行って師匠であるベテラン推理作家が最も優れた作品と認めた者に遺産の半分を相続するという特殊な状況であったが、本書はそこまで特別な状況ではなく、恒例のクリスマス・パーティーに招かれた若手推理作家と担当編集者がそこで起きた密室殺人事件に巻き込まれる、と実にオーソドックスだ。 まずやはりこの推理作家の巨匠という設定は、本格ミステリをこよなく愛する有栖川氏にとって自身ミステリの知識と興趣をふんだんに盛り込むために用意されたような趣で、作者の夢と理想が散りばめられている。 現在日本のミステリは英訳の他にも各国の言葉に翻訳されて紹介されて好評を得ているが、本書が発表された1992年当時は勿論そんな状況は願うべくもなかった。しかしここに出てくる真壁氏の諸作は英訳されて英米に出版され「日本のディクスン・カー」の称号を頂いており、その名を証明するかのように23の長編全てが密室物と32の短編中22編が密室物とこれまで45本の密室ミステリを書いているという設定だ。 まず世界において「ディクスン・カー」と称されるほど、世界のミステリ界でカーの名が今なお喧伝されているかはかなり微妙でここはまさに有栖川氏の古典ミステリ好きが起こした勇み足のように思えて、思わず苦笑してしまう。 そしてその密室の巨匠が次の作品を持って最後の密室ミステリにすると宣言してから密室殺人が実際に自身の別荘で起きる。それこそは彼が最後の密室ミステリとすると述べていた最後のトリックなのか、つまり「46番目の密室」なのかというのが本書の設定であり、また題名の意味でもある。 そしてその事件を皮切りに表面上は普通に接している彼らの間に男女関係の縺れが実は隠されていたことが判明し、次第にドロドロとした雰囲気を伴ってくる。 まず独身のまま命を絶つことになった別荘の主で推理小説の巨匠真壁聖一の女性遍歴が彼ら彼女らの関係にある翳を落としていると云えよう。 推理作家の高橋風子と男女の関係だったこと、そしてブラック書院の担当編集安永彩子を単なるお気に入りの担当者以上の好意、もしくは関係があったかもしれないこと、そして後輩作家の石町と安永が交際していることを知らされて、嫉妬心が芽生えたこと、石町は実は安永と真壁の関係をそれとなく知っていたかもしれないこと、更に担当編集者の杉井の元妻との間にも男女の関係があり、それが原因で杉井は元妻と離婚したこと、と彼を中心に男女関係の縺れが露見していく。 それに加えて妹の佐智子が多額の負債を抱えた実業家と付き合っており、真壁の資産を目当てにしていたかもしれないこと、そして真壁の遺産はその娘の真帆に相続されることが決まっていることなど金に纏わる諍いの種も次第に解ってくる。 つまり全ては別荘の主、真壁聖一に対して有栖川と火村を除く全ての関係者が何らかの問題を抱えていたことが判明していく。密室の巨匠、日本本格推理小説の先駆は人格的にはなんとも問題のある人物だったのだ。 そしてそれはそのまま真相に繋がる。 私がここで面白いと思ったのはこれはいわゆる雪の足跡トリックの変奏曲であることだ。 セロテープとテグスによって掛けられる掛け金のトリックについては昔山村美紗氏が数多く考案され、もはや化石とみなされている「糸と針金のトリック」と揶揄される機械的なトリックであることは有栖川自身も自覚的で、作中でも「お前がそんなトリックを小説で使えば四方八方から石が飛んでくるんだろうが、」と火村の口から云わせている。 しかし私はこれこそ古今東西の本格ミステリを読んできた有栖川氏のミステリ愛ゆえのトリックだと感じる。彼は廃れゆく、この「糸と針金のトリック」を敢えて復活させたかったのだと。だからこそ探偵役の火村に上のように云わせてでも、敢えて採用したのだと思うのだ。 だからこそだろうか、本書にはまだ若かりし頃の本格ミステリに対して無限の可能性を信じて止まない有栖川氏の本格ミステリへの理想と夢が随所に込められているように思える。 まずやはり冒頭の真壁聖一の存在。世界に認められた日本本格ミステリの巨匠というのは日本の本格ミステリが世界にいつか通じるだろうと信じ、そんな未来を夢見ていた有栖川氏の理想の存在、いや自身が目指すべき目標であるように思える。先にも書いたがそれは現在実現しており、アメリカのエドガー賞に日本のミステリがノミネートされるまでになっている。 次に真壁氏が次の密室物を最後にまだ見ぬ「天上の推理小説」を書くと云った件だ。 これこそ有栖川氏自身の未来への宣言ではないだろうか。 「新本格」という目新しい呼称で十把一絡げに括られているまだ駆け出しの本格推理小説家ではあるが、いつかはかつて書かれてことのない物語を書いてみせる、といった若者の主張のように思える。そして今なお精力的に本格ミステリを著しては発表し、年末のランキングに作品が名を連ねている現状から見ても、この時抱いた有栖川氏の、高みへと目指す心意気はいささかも衰えていないように思える。 巷間に流布する既存のミステリとは異なる次元に存在する天上の推理小説。有栖川氏の定義する天上の推理小説をいつか読みたいものだ。 そして最後はやはり犯人だけが見た、真壁氏が遺した最後の密室「46番目の密室」だ。 犯人は云う。それは「まるで世界が、世界を守るためによってたかって一人の人間を抹殺するかのようなもの」だと。 これもまた有栖川氏が抱く、いつか書くべき最後の密室ミステリなのではないか。そんなミステリを読んでみたいと彼は思い、そして出来れば自分で書いてみたいと思っているのではないだろうか。 と、このようにデビューしてまだ3年の時に書いたこの作家アリスシリーズには本格ミステリ作家となった有栖川氏の歓びとミステリ愛と、そして野心が込められている、実に初々しくも若々しい作品なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これはいわゆるよくある記憶喪失物のミステリを最新の脳医学の知識と技術の方向から光を当てた、島田氏の持論である21世紀ミステリを具現化する作品である。
島田荘司氏が特に2000年代に入って人間の脳について興味を持ち、それについて取材を重ね、次作のミステリにその最新の研究結果を盛り込み、21世紀本格ミステリとして作品を発表しているが、本書もその系譜に連なる作品で、タイトルが示すように幻肢、つまり実在しないのに恰も実在しているかのように感じられる欠損した手足の存在を足掛かりにそれが引き起こす脳の仕組みを解き明かし、そして最新の医療方法によって、失われた記憶を呼び覚ましていく。 まずこの幻肢、つまりファントム・リムよりも幻痛、ファントム・ペインとして以前より知られており、私も興味があったが、本書ではその幻痛、いや現在では幻肢痛と呼ばれるこの現象についても最新の研究結果が盛り込まれており、大変興味深く読むことが出来た。 幻肢痛とは生まれながらに手足が欠損した人々も含めて、事故や病気で手足を喪った人々がその後もないはずの手足に痛みを感じる現象のことを指すが、これは脳が手足がないことを認識していないために起こる現象であると本書では説明されている。手足を動かす指令は脳から出されるが、それらを喪っても脳はそれを感知せずに通常と変わらぬ指令を出すためにこのような現象が起きる。この治療法として鏡を据えた箱に健全な方の手足を入れ、鏡に映った手足を無いはずの側の手足、例えば右手があれば右手をその箱に入れれば右手の鏡像が左手の代わりとなり、右手を動かすことで恰も左手が存在して動いているかのように認識され、その後このような幻肢痛は起こらないことが証明されているらしい。つまり視覚によってようやく脳がそれを感知するのだ。視覚から得る情報は8割にもなるというが、それを実証するかのようなエピソードだ。 しかし島田氏はそこからさらに幻肢の解釈を拡げていく。 幻肢とは即ち手足のみを示すのではなく、人の全身さえも幻視させることが出来るというのだ。心霊現象を人間に見せると云われている側頭葉と前頭葉の間にある溝、シルヴィウス溝に刺激を与えることで幻視が起こるというのが本書での説だ。 このシルヴィウス溝はアレキサンダー大王、シーザー、ナポレオン、ジャンヌ・ダルクといった歴史上の英雄やゴッホ、ドストエフスキー、ルイス・キャロル、アイザック・ニュートン、ソクラテスといったその道の天才らが癲癇もしくは偏頭痛を持っており、それがシルヴィウス溝に強い刺激を与えて、常人にはない閃きや神の啓示などを聞いたとされている。ここに蓄えられているのは過去に経験した、忘れられた記憶も呼び覚ますことになり、それがかつて存在した手足があるように錯覚させたり、もしくは人そのものをも存在しているかのように思わせたりする、そんな仮説から本来ならば鬱病の治療としてその原因とされている左背外側前頭前野のDLPFCに、経頭蓋磁気刺激法、即ちTMSという脳に直接磁気を当てて刺激して血流を促し、脳の働きを活性化させる治療法をシルヴィウス溝に適用させるという方法で遥は雅人の幻を見ようと試み、そして成功するのだ。それはまた遥が失った事故当時の記憶を呼び覚ますことにも繋がる。遥は雅人の幻とのデートを重ねるうちに雅人への愛情が甦り、「あの日」の記憶を懸命に呼び覚まそうとする。 彼女は今日も幻とデートする。 それは大学から自宅までのほんの数キロのデート。 彼女しか見えない彼はいつも彼女のアパートの前で消え去る。 その短い逢瀬が楽しければ楽しいほど、彼女の寂しさは募っていく。 それでも彼女は亡くした彼に逢いたいがために今日も自分の脳を刺激する。 そしてまた刹那のデートを繰り返す。 そんなペシミスティックなコピーが思いつきそうな感傷的な展開を見せるが、そんな切ない幻との恋愛も次第に様相が変わっていく。その展開についてはまた後ほど語ることにしよう。 上述のように遥が失った事故当時の記憶をTMSでの治療を重ね、雅人の幻との逢瀬を重ねることで徐々にその内容を明かしていくのが本書のメインの物語であるが、それ以外にも随所に織り込まれる最新の脳科学の知識のオンパレードが実に興味深く、素人でも理解できるよう非常に解りやすく書いており、内容は実に面白い。 例えば脳はそれ自体が電気を発するので絶縁体である脂肪で出来ていること、そして最も頑丈な骨、頭蓋骨で守られていること、記憶に不可欠な物質グルタミン酸は非常に興奮をもたらしやすい性質があり、神経細胞をも破壊する恐れがあるため、過剰分泌を抑えるため、アデノシンが分泌され、一時的に活動がストップされること、それが恰も電力使用量を超過した際に自動的に遮断される電気のブレーカーと実に似ていることなど、知的好奇心が促される。 そして脳の秘密を解き明かすことで、即ち昔から怪奇現象と思われていた不可解事の正体や上にも書いた神の啓示や天才の閃きなども解き明かすことに繋がる。つまり広い意味で古来から不思議とされていた事象の謎を解いていくことでもあるのだ。 それは脳という複雑でしかもコンピュータのように精緻な仕組みを持った特殊な機関が我々人間たちに負荷をかけないようにそれ自体が人間から都合の悪い事を見せないように騙し、また故意に忘れさせようと自己防衛機能を備えていることが興味を尽きさせないからだ。 記憶でも思い出の記憶であるエピソード記憶、体得した生活やスポーツでの動きを司る手続き記憶、そして物事の意味を覚える意味記憶と3種類に分かれ、エピソード記憶は海馬に送られ、2年程度保存された後、ある程度、出入力が反復されると大事な記憶として大脳皮質や小脳に送られ、手続き記憶や意味記憶として忘れらない記憶となると述べられている。 この忘れやすいエピソード記憶は即ち我々読書好きの人間にとっては常にその維持との戦いを強いられる。 私がこのように感想を書くのは読み終えた本を極力覚えておきたいからだが、無論それでも忘れてしまう。正直感想を読み返してもどんな話だったか思い出せない作品も確かにある。 だが一方で内容が衝撃的すぎる、もしくは大いに感動した物語は細部は忘れてもその強い印象はずっと残っているのだ。しかもそんな作品でもいつも誰かと話したり、ウェブで感想を読んだりしているわけではなく、インプット・アウトプットの頻度はさほどインパクトの強くない作品のそれとは変わらないように思えるのに、なぜいつまでも覚えているのか。そこの説明が上の内容では成立しないように思えるのだ。 まあ、とにかく読み終わった本を極力覚えているには、どうにか2年の間、海馬にある段階で頻繁にインプット・アウトプットしていくように努めなさいということになるだろうか。 と、このように記憶1つ取ってもこれだけ話が生み出される脳について語られる。従って、通常ミステリならば例えば館の見取り図が欲しくなったりするが、本書では脳のそれぞれの部位が成す役割を詳らかに語るため、脳の各部位を示した図が欲しいと思った。 海馬、大脳皮質、小脳、シルヴィウス溝、側頭葉、前頭葉とここに至るまでにそれだけの脳の部位が出てきた。更には記憶のルートは頭頂葉、側頭葉、帯状回を経由する、恐怖心や不安感をもたらす扁桃体、その中にある背外側前頭前野のDLPFC、等々が続々と登場する。これらそれぞれの部位を示した図があれば、それをもとに自分の頭に照らし合わせて読むとまた格別に理解できただろう。 さて遥が次第に事故当時の記憶を思い出していくごとに不穏な空気が漂ってくる。特に主人公の遥だ。どんどん感情的になっていき、周囲の目を気にせずに幻の彼、神原雅人に嫉妬心を募らせていく。そしてTMSによって思い出した事故当時の記憶はなんとも自己嫌悪に陥るしかない最悪の結果だった。 なんともバカげた真相である。島田氏の女性観はある種、独断と偏見を感じるところがあるが、この主人公糸永遥の性格と行動はまさにその独特の女性観が悪い方向に出たような形だ。 この糸永遥という女性、女性読者から見れば、確かに周囲にいそうな女性ではあるのだけれど、どんな感じで捉えられるのだろうか? しかしそんな真相の後にどうにか救いはあった。 しかし島田作品初の映画化作品として選ばれた本書。いや映像化を前提に書かれたのかもしれないが、亡くなった彼の幻との短いデートという儚げなラヴストーリーが、一転して事故の真相を知った途端に視聴者はどんな思いを抱くだろうか? 私は前述したようにもっとどうにかならなかったのかと思って仕方がない。機会があれば映画の方も見てみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングが怪奇コミックスの鬼才バーニ・ライトスンと組んで著したヴィジュアル・ホラーブック。
キングにしては珍しく、全編でたった200ページにも満たない。しかもその中にはふんだんにライトスンによるイラストが挟まれているため、文章の量もこれまでのキング作品では最少だ。 そんな試みで書かれた作品のモチーフは人狼。つまり狼男の物語だ。実にオーソドックスな題材である。 かつて『呪われた町』で吸血鬼を、お化け屋敷をモチーフに『シャイニング』をキングは書いたが、そのいずれもが上下巻の長編だったのに対し、人狼を扱った本書は上に書いた中編の部類に入る分量である。 物語も実にシンプルでメイン州の田舎町に突如現れた人狼による被害について月ごとに語られる。 鉄道の信号手、本屋の経営者、名も知らぬ流れ者、凧揚げに夢中になって犠牲となった11歳の少年、教会の掃除夫、食堂の主人、町の治安官、豚舎の豚、妻に暴力を振るう図書館員。毎月決まって満月の夜に惨劇は起きる。 その中で唯一の生存者が車椅子の少年マーティ。彼はおじから貰った爆竹で抵抗して命からがら逃げだすことに成功する。 1月から12月までの1年間を綴った人狼譚。キングにしてはシンプルな物語なのは話の内容よりもヴィジュアルで読ませることを意識したからだろうか。その推測を裏付けるかのようにバーニ・ライトスンはキングが文字で描いた物語を忠実に、そして迫力あるイラストによって再現している。 1月から12月まで、それぞれの月の町の風景と、人狼が関係する印象的なシーンを一枚絵で描いている。特に後者はキングが描く残虐シーンを遠慮なく描いており、背筋を寒からしめる。特に人狼の巨大さと獰猛さの再現性は素晴らしく、確かにこんな獣に襲われれば助かる術はないだろうと、納得させられるほどの迫力なのだ。 この小説で教訓があるとすれば、まず大人に対しては、子供の話にきちんと耳を傾けるべきであるということだろう。往々にして子供は大人が知らない世界を見ることが出来、そして真実を語ることがあることを忘れてはならない。 一方子供に対しては、大人に頼らず、子供には自分で始末を着けなければならない時があるということだろうか。人狼というまともに立ち向かえば勝ち目がない相手、つまり途方に暮れてしまうほどの困難に直面した時も知恵と勇気を使えば克服できる、既に少年はその能力を秘めているというメッセージが込められているともとれる。 小さな町に訪れた災厄を群像劇的に語り、そしてその始末を一介の、しかも車椅子に乗った障害を持つ少年が成す、実にキングらしい作品でありながら、決して饒舌ではなく、各月のエピソードを重ねた語り口は逆にキングらしからぬシンプルさでもある。そしてキングにしてはふんだんにイラストが盛り込まれているのもまたキングらしからぬ構成だ。 それもそのはずで、解説の風間氏によれば当初イラスト入りカレンダーに各月につけるエピソード的な物語として考案された物語だったようだ。しかしそんなシンプルさがかえってキングにとって足枷になり、7月以降はマーティを登場させ、人狼対少年という構図にしてカレンダーに添えられる物語ではなく、中編として最終的には書かれたようだ。 だからキングらしくもあり、またらしからぬ作品というわけだ。 一方シンプルな語り口と秀逸なイラストの組み合わせということで考えると、少年少女向けのキング入門書とも云うべき作品としても考えられるが、それにしては暴力夫が出てきたり、女性との性行為についても語られるので正直子供に読ませるには抵抗がある。いやはやなんとも判断に困る作品である。 しかしそんな考察は無用なのかもしれない。文章とイラストで存分に狼男の恐怖を味わうこと。それが本書の正しい読み方と考えることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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宮部みゆき氏最初期の短編集。私が彼女の短編を読むのは『我らが隣人の犯罪』以来。宮部氏の実質的なデビュー作であるオール讀物推理小説新人賞が収録されたその短編集には「サボテンの花」という、今なお忘れられない短編が入っており、長編のみならず、短編の巧さは実証済み。そんな期待値の高い中で読んだ本書は実に軽々と私の期待を超えてくれた。
冒頭を飾るのは表題作「返事はいらない」。 作品から時代が平成元年であることが読み取れるが、恐らく本作に書かれている銀行のキャッシュカードによる現金引き落としのシステムはその当時からあまり変わっていないのではないだろうか?本作ではそのセキュリティの甘さが詳らかに説明され、利用者である私たちの背筋に寒気を感じさせる。 主人公の千賀子と森永夫妻が行う犯罪は偽造キャッシュカードを使った現金横領で、それに関しては新味はないものの、果たしてこれほどまでに事細かくATM(作中ではCD機と書かれているところに時代を感じる)のシステムを語った作品はないのではないか?読書量の少ない私がたまたまそのような作品に出くわしていないだけかもしれないが、大抵のミステリでは偽造カードを使った犯罪が横行している、ぐらいの記述ではないだろうか。 本作ではあくまで銀行業界に対して警鐘を鳴らすために元銀行員と女性たちが犯罪を行うが、この安易さには各金融機関に本気でセキュリティに取り組んでもらいたいと痛感した。 本作はそんな銀行の現金引き落とし機に潜む罠が際立って印象に残るが、それだけに終始した話ではなく、ストーリーテラーの宮部氏ならではの、心がどこかほっこりする話になっているのが救いだ。 最後に判明する滝口の真意は罪を憎んで人を憎まずという彼の刑事時代の主義が表れているように思った。 次の「ドルネシアへようこそ」の舞台は六本木。 駅の伝言板に誰宛てでもなく、書いた伝言に見知らぬ相手から返事がある。しかも待ち合わせ場所は今評判のディスコ。 駅の伝言板、六本木のディスコ。まさにバブル臭漂う時代を感じさせる物語だ。今ならば自分のSNSに突然送られてきたメールがモチーフになるだろうか。それと比べると漫画『シティハンター』世代の私にとって駅の伝言板の方が実に魅力あるアイテムだ。 主人公が速記士を目指す専門学校生と、決して華やかな人物でないことに加え、対照的に常に有名人が毎夜集い、毎日がパーティのような六本木という場所が実に対照的であるのに加え、ドルネシアという名前の由来がこのミスマッチに有機的に結びつくところに宮部氏の上手さを感じる。 ドン・キホーテの妄想に出てくる姫の名前がドルネシア。その実態は単なる酒場女。しかしドン・キホーテはそんな彼女に憧れの君を見出す。それは見た目はみずぼらしくても実直な篠原伸治を指しているようだ。そしてまた店のオーナーでもある守山喜子もまた。 最後の一行で温かい気分にさせてくれる筆巧者ぶりが本作でも愉しめるのはさすがだ。 「言わずにおいて」は会社でつい課長に対して暴言を吐いてしまった女性がある事故に巻き込まれる。 上司に暴言を吐いて休職中のOLが自分を誰かに間違えたがために運転していた男が目の前で死んでしまう。その誰かがどうしても気になり、探しだそうとする物語だが、その過程が実に面白い。 一介のOLが果たしてここまでできるだろうかという疑問はあるだろうが、その捜査が女性ならではの視点で繰り広げられ、私には新鮮だった。自分と見間違えた時の写真のヘアスタイルから美容院を特定する辺りは男の私にしてみれば偶然にすぎると思いがちだが、案外流行りの髪型に固執する若い女性ならば評判の美容院へ通い、それがある意味ステータスとなるのだから、決しておかしな話ではないのかもしれない。 そしてようやく辿り着いた自分とよく似た女性の部屋に置かれていた手紙。そこに書かれた一連の事件の真相よりも長崎聡美は上司が自分のことをどのように思っていたかを知ったことが嬉しかったに違いない。こういう事件の核心とは別の部分にハッとさせる要素を入れるところが宮部氏は実に巧い。 しかしそれでも冗談とはいえ、経理課の課長が長崎聡美に放った台詞は今ならばセクハラで訴えられてもおかしくない内容だ。この時代はまだこんなことが自由に云えたのだと思うとさすがに隔世の感を覚える。 宮部作品の特徴の一つに登場する少年の瑞々しさが挙げられるが「聞こえていますか」はそんな長所が存分に活きた作品だ。 引っ越した先に残された電話に盗聴器が仕掛けられていた。こんな経験をすると誰もがぞっとするだろう。 そして前の住人を調べると特高に追いかけられていた経験もある人物。もしかしてスパイだったのではと、頭のいい小学6年生の峪勉が想像をたくましくし、知り合った大学生、鬼瓦健司の助けを借りて事の真相を解明していく過程が実に面白い。 この元三井邸の周囲の住民とそしてその息子夫婦たちを結び付ける数々の糸が有機的に絡んで、ある老人の寂しい気持ちが浮かび上がってくる結末に、なんだか遣る瀬無さを感じた。 師範学校の教師をしていた三井老人が息子に厳しかったこと。勉の母と祖母の間でお互いの価値観のぶつかり合いでなかなか折り合いがつかなかったこと。それぞれの人生で築かれた価値観を崩さないがゆえに生じる衝突。 しかし敢えて離れてみると、今まで一緒にいるのが当たり前だった存在が目の前からいなくなることで逆に相手のことが見え、優しくなっていく。 この人間のある種の滑稽さが起こした行動が勉にはスパイや幽霊のように見えていく。 老人の心境の変化が関わった人、そして後の住民にも予想もしない妄想や現象を引き起こす。まさにこれこそ人間喜劇だ。 ある女性の転落死を追う「裏切らないで」ではようやく刑事が主人公となる。 巨大都市東京に生きる若者の孤独と美しくあろうと努力する女性たちの虚飾の虚しさを扱った作品だ。 多額の借金を重ねながら、高級ブランドの服とバッグ、時計に装飾品に身を固め、綺麗であることが存在意義とした長崎から夢を求めて出てきた女性は、そんな煌びやかな装飾品に包まれながらも、実の無い空虚な人間になっていた。いつしか借金も自分の金と思うようになり、そして身分不相応の持ち物を持つことが自分を表現する手段だと錯覚した女性。そんな女性の末路が歩道橋からの転落死。 彼女の身辺調査を行う刑事の一人がその女性の部屋を見て「なにもない。あるのは借金の匂いだけだ」と呟く。その大量に抱え込んだ借金こそが彼女の正体だった。 しかし外から彼女を見る人たちはそんな彼女の中身のなさに気付かず、男たちは綺麗な女性だといい、女性たちの中には異邦人みたいな女性で、ただただお金を貰い、美味しいものを食べ、着飾り、見てくれのいい仕事に就いて金持ちの男を捕まえることだけを考えている人だといい、ある女性は世間知らずの女性だったという。 しかし若くて綺麗なだけのその女性を羨む女性がいた。その女性もまたかつては彼女のように着飾り、綺麗に見せ男たちの目を惹くことを自分の生きがいだとしていた。しかし30を過ぎて男たちが見向きもしなくなったこと、週末を一人で過ごすことが多くなったことで自分はもう終わった女性だと感じる。 全ては都会のまやかし。しかしそんなまやかしから覚めきれない女性たちが数多くいる。都会の、いや東京という都市の特異性を謳った力作だ。 最後の短編の主人公も宮部氏お得意の未成年。高校一年生の男子が従姉妹の悩みを解決する顛末を描いたのが「私はついてない」だ。 高校生の僕の一人称で語られる本作は語り口もユーモラスで読んでいて楽しかった。 浪費癖のある従姉のOLを助けるために両親の指輪を貸し出したところ、それも盗まれてしまう。しかしそれにはある女性の思惑が潜んでいた。 この裏切られた感はよく解るものの、その女性が自分の役回りはそんなものだと自嘲して諦観の域に達しているのが情けない。 実は私も似たような感情を抱くことがよくあるが、それでも悪意から何らかの報復はしたりしない。それをやれば自分はもう終わりだと思うからだ。周りがどう思おうと、それでも前を向く、そんな風に考えるようにしている。 しかし女性の強かさに溢れた1編だ。玉の輿に乗りながらも、婚約者には内緒で男友達と競馬に興じ、晴れの舞台を取り繕うとする従姉、金遣いの荒い後輩にお灸を据えると見せかけて自分への悪口の仕返しを知り合いを雇ってまで行ったその先輩。しかし実は最も強かなのは最後に出てくる主人公の母親だ。 唯一ほっこりとさせられるのは主人公の彼女だ。主人公よ、既に君は彼女の掌の上で踊らされているぞ! だから最後の一行が色んな意味合いを伴って胸に飛び込んでくる。ホント、男と女って「おかしいよね?」 いやはや脱帽。久しぶりに宮部作品を、それも短編集を読んだが、流石と云わざるを得ない。犯罪や人の妬み、嫉みという負のテーマを扱いながら、読後はどこか前向きになれる不思議な読後感を残す佳品が揃っている。 偽造カード詐欺と狂言誘拐を組み合わせた表題作、後の『火車』でも取り上げられるカード破産をテーマにした「ドルネシアへようこそ」、店の金を持ち逃げされた従業員を追ったレストラン経営者のある決意を語った「言わずにおいて」、盗聴器が仕掛けられた引っ越し先の前の住人の正体を探る「聞こえていますか」、ブランドや装飾品に自分の存在価値を見出した女性の借金まみれの生活を扱った「裏切らないで」、そして最後は借金のカタに婚約指輪を取られた従姉のために一肌脱ぐ高校生の活躍を描く「私はついてない」。 そのどれもが読後、しっとりと何かを胸に残すのである。 80年代後半から90年代に掛けて、狂乱の時代と云われたバブル時代の残滓が起こした当時の世相を映したような事件の数々。そんな世相を反映してか、6編中5編が金銭に纏わるトラブルを描いている。しかしそれらは過ぎ去った過去ではなく、今なお起きている事件でもある。 例えば表題作の偽造カード事件はもはや国際化してきており、ATMは日本に不法滞在している外国人のいいカモとなっており、同種の事件が後を絶たない。既に29年前に刊行された本書で詳らかにATMのシステムとその欠点を指摘されているのに、同様に本書に書かれている、膨大な設備投資のために金融機関の対策が後手後手になっているからだろう。 私は読んでいて他人事ではない恐ろしさを感じた。まずはATMでは絶対伝票は発行しないか、その場で捨てないようにしよう。 またクレジットカード破産や物欲に囚われた女性が多大の借金を抱えるのも現代と変わらない。現代はさらに多様化して仮想コインなども登場し、更に複雑化してきている。 しかし大量に物が溢れた時代だったことが顕著に解る。 誰もが着飾り、そして毎夜パーティーに繰り出すことをステータスにしていた時代。今でもそんな人たちはいるが、やはりバブル時代はじっとしていられない、魔力のようなものが潜んでいた時代だったのだろう。 そしてそんな時代では若さこそが武器だ。当時女性は夜な夜な出かけるための服を勝負服とか戦闘服とか表現していた。そしてもちろん同じ物を着ていては相手にバカにされるので新たに服を買い続けるしかない。しかしバブルとは云え、OLの収入は限られているから、借金が膨らむわけだ。しかしそうまでしても相手に勝たなければいけないという不文律があった。それは若さという武器があってこそだからだ。 彼女たちが周囲から持て囃される時間は実に短い。この頃の結婚適齢期は25歳前後だったそうだ。従って30を過ぎてからは見向きもされない。女性たちはそれまでに高学歴、高収入、高身長のいわゆる「三高」の相手を捕まえて結婚して幸せになるのに躍起になっていた。 こうやって書いていると実に懐かしさを覚えつつ、今になってみれば何もそこまでと思うが、それが彼女たちのステータスだったのだ。 そんな女性たちが牙を剥き、強かさを見せつけた頃の生き様が描かれている。それも宮部氏の優しさというオブラートに包まれているから、全く殺伐とした感じがしない。 返事はいらない。 これは本書の題名でありながら、冒頭に収録された短編の題名である。通常短編集の題名に選ばれる短編はその中でも最も優れた作品である場合が多いが、本書はそれに勝るとも劣らない粒揃いの短編集。そしてこの1編の短編の題名がそのまま収録作全体を通してのコンセプトのようになっている。 表題作では別れを持ち出された元恋人に対して未練を断ち切れない主人公が、自分からさよならという返事無用の言葉を元恋人に投げ掛けるために犯行の片棒を担ぐ。 「ドルネシアへようこそ」では誰に宛てるでもない駅の伝言板に残した待ち合わせ場所を記した伝言に、ある日誰かが返事を残す。それはバブルという虚飾に踊らされた女性だった。そして彼がその正体を知り、その女性を捕まえるために知らぬ間に協力をさせられたことを知った後、駅の伝言板に残されていたのは返事無用の招待の伝言。 「言わずにおいて」に出てくるのは自分を誰かと見間違って目の前で事故死した夫婦。その誰かの許に辿り着いた時に置かれていたのは一通の手紙。それは自分の探し求めていたことに対する答えと自分が暴言を吐いた上司が自分をどのように思っていたかを知らせる内容だった。それを知っただけでその女性にとって、自分の暴言に対して詫びたことに対して、上司からはそれ以上の返事はいらなかったのだ。 「聞こえていますか」では真意を知るために盗聴器を仕掛けようとしたのに、本音を聞くことが怖くて、結局できなかった1人暮らしの老人の寂しさ。厳この知りたいのに聞くのが怖いという心理は心に突き刺さる。 「裏切らないで」は返事をしたがために殺された女性がいる。返事をしなければ、彼女は生き、そしてもう一人の彼女も殺さずに済んだのに。 唯一これに反するのが最後の「私はついてない」か。主人公の僕は恋人からの返事を待っていた。そしてそれは最後に最高の形で返事が貰えるのだ。 返事はいらないというネガティヴな表現で始まり、返事が貰えた物語で閉じられるのはやはり意識してのことだろうか。 こんな出来栄えの短編集だからベストの作品が選べるわけがない。全てがそれぞれにいい味を持った短編だ。 だから敢えてベストは選ばないが、唯一刑事を主人公にした「裏切らないで」が作者がこの時代の特異性を能弁に語っているのでちょっと書いておきたい。 地方から出てきて若さを武器に借金をしながらもいい仕事に就いていい男を見つけようとしていた女性が殺される。その彼女を殺した女性は東京の北千住から引っ越してきた女性なのにそこは「東京」ではないという。当時煌びやかで華やかさを誇ったバブル時代は実際は中身のない好景気で、その正体が暴かれた途端に弾けてしまい、しばらく世の中はその後始末に追われた。そんな上っ面の時代の東京もまたメディアに創り上げられた幻に過ぎなかったのではないかと刑事は述懐する。それは彼女たちの生き方も見た目を着飾ることに終始して、やりたいことがなく、ただ「貰う」だけ、手に入れるだけを目指していた。その中に中身があるかないかも分からずに。 本書はそんな時代の、東京を映した短編集。 しかしバブル時代のそんな空虚さを謳っているのに、時代の終焉を迎え、乗り越えようとする人たちに向けての応援の作品とも取れる。 こんな作品、宮部氏以外、誰が書けると云うのだろうか? 解っている。だから勿論、この問いかけに対する「返事はいらない」。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
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これは喪った物を取り戻そうとして奪った男と、奪われた物を取り戻そうとして奮闘し、奪還したが、喪った物までは取り戻せなかった男たちの、哀しき兄弟の話だ。
ランボーと云う戦闘マシーンのような主人公、CIA捜査官、暗殺組織・秘密結社の工作員と常人よりも戦闘に長けた能力を持つ、映像向きな主人公を添えることが多いマレルだが、本書の主人公ブラッド・デニングは一介の建築家。アウトドアもしたこともなければ銃も撃ったこともない、ごく普通の妻子持ちの男である。 そんな男が家族を奪った男に家族の奪還と復讐を誓うのが本書だ。しかもその相手は実の弟となかなかツイストの効いた設定である。 小さい頃、野球を友達としに行くのについてくるのを鬱陶しいと思ったことで追い返した弟がそのまま何者かによってさらわれてしまうという、悔いの残る傷を心に負った男ブラッド。しかしその彼は建築家になり、自分の設計した家がテレビ番組で紹介されたことでその弟と数十年ぶりに再会する。 その空白の時間を埋め合わせるために彼とその妻と息子との心温まる交流が実に眩しい。そしてそんな不遇の時代を過ごした弟ピーティも自らの境遇によって心を病んでいる様子でもなく、むしろどんな状況をも愉しむかのような磊落な性格を見せ、ブラッドの息子ジェイソンの良き遊び相手にもなっていた。 そんなごく普通の家庭に新たに加わった家族との微笑ましいエピソードが続く中、突然災厄が訪れる。 この反転は正直かなり衝撃的だった。裏表紙の紹介文を読まなかったらもっと驚いていただろう。 神隠しに遭っていた弟が数十年ぶりに出逢ったら復讐者となっていた。 この設定だけでも衝撃的なのに、マレルはさらに物語にツイストを仕掛ける。即ちブラッドが弟と思っていた男は実はレスター・ダントという犯罪常習者だったという物だ。 しかしブラッドは自分がテレビに出た時に失踪した弟のことを紹介されたがために数多くの嘘つき電話に悩まされていたが、そんな不埒な輩とは違う、弟しか知り得なかった情報を知っていたことでそれを容易に信じない。写真がレスターであることや周囲の人間がそれを証言しようとも頑なに信じず、弟の仕業であると固執する。それは赤の他人の犯罪者ならば連れ去った妻と子供が邪魔になって容赦なく殺害することを恐れていたからだ。まだ妻子が生きていることを信じるために彼は誘拐者の男を弟と信じるのだ。 FBIと警察による捜査が捗々しくなくなり、そして捜査チームが解散して事件から1年経ったときにブラッドはようやく自分で犯人を、弟と妻子を探すことを決意する。自分の経営する会社を畳み、フィットネスクラブで体を鍛え、射撃の教室に通って銃の腕を磨き、護身術のクラスにも通う。そして腕利きの元FBI捜査官の探偵に捜査術と偽りの身分を手に入れる方法を学ぶ。 通常ならばその件は一介の建築家が凄腕の復讐者に生まれ変わるシーンだが、マレルは意外にあっさりと描く。ほんの20ページにも満たない。従って読者はブラッドが生まれ変わったようには思えないのだ。 それを裏付けるかのようにブラッドのその後の捜索もどこか空回りしているように思える。犯人が弟のピーティであることを想定して当時の足取りを探るのだが、それも彼が弟に成り切ったように振る舞って自分の考えで進むだけである。 そこには何の根拠もなく、現場に漂う雰囲気で、もし自分が弟だったらそうしたであろうという薄弱な根拠で突き進むだけなのだ。 おまけに否定していたレスターの存在も意識し、彼の生家のある町に向かう。それはブラッドが弟と生まれ育ったオハイオ州の町の近くであったことから立ち寄ることにするのだが、そこで昔のことに詳しい神父に聞かされるダント家の異常な家庭環境が目を惹く。 このレスター・ダントのおぞましい過去もかなり衝撃的だが、この一見単なる回り道と思われたエピソードが実は意外な物語に意外な展開をもたらす。 物語の結末は苦い。 数十年ぶりに行方知れずとなった実の弟を家族の一員として温かく迎えたブラッドとその妻と息子の末路がこれほどまでに悲惨な変容を遂げたことがなんとも哀しい。 またピーティを無くしたデニング一家も、ブラッドの父親が酒浸りになって会社を首になり、交通事故で亡くなり、母親と2人になったブラッドは他の市へ引っ越して小さなアパートで暮らすようになる。毎年失踪者の絶えないアメリカではこんな悲劇が幾度も繰り返されているのかもしれない。 しかしこのような話を読むと、子供の頃の何気ない弟への仕打ちが起こした代償の重さを感じてしまう。こんなことが起こり得るアメリカの治安の悪さが恐ろしく感じる物語だった。 さて本書は2002年の作品で1972年にデビューしたマレル作品では後期に当たる。その頃の作品に該当するのは本書の2作前が『ダブルイメージ』で本書の次の作品が『廃墟ホテル』とどちらも奇妙な展開を見せる異色の作品なのだ。 『ダブルイメージ』も何が本当の敵かがなかなか解らない、一言で云い表せない非常に特異な作品であったが、『廃墟ホテル』はマレルにとっては全くの異色作でありながら、実に面白い作品であった。 主人公が凄腕のエージェントや元軍人でもない一介の建築家であることも『ダブルイメージ』の主人公が同じく一介のカメラマンであることに通ずるものがある。 この意外に一筋縄でいかないマレル作品、久しぶりに読むと他の作家では味わえない奇妙な味わいがある。 既に彼の作品が訳出されなくなって久しいが、この独自のテイストは年一冊のペースで読むとなかなか面白く感じる。特に後期の『廃墟ホテル』、奇妙な味の短編集『真夜中に捨てられた靴』などは『このミス』にランクインするほど再評価の気運が高まっていただけにこのブランクはさみしい限りである。 『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』をまずは文庫化してほしいとしつこく述べてこの感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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河出文庫が未紹介短編を中心に独自で編んだ短編集。とはいえ幕開けはハメットの長編デビュー作である「ブラッド・マネー」が飾る。
ハメットの長編デビュー作は『血の収穫』であることは広く知られているが、訳者の小鷹信光氏の解説によれば、『血の収穫』の前の習作として本書に掲載された「ブラッド・マネー」が書かれたようだ。この題名、原題もそのままで直訳すれば「血まみれの金」となるが、『血の収穫』とも訳せる。内容は異なるが、題名の近似性からも理解できる。 さて町に全国から悪党どもが訪れ、何と150人による二つの銀行の同時襲撃が起こる。そこからは事件に関わった悪党たちが自分たちの分け前を得るために殺戮ショーを繰り広げるという実に派手で映像的な作品である。 なんとも荒廃した幕切れだ。これが正義の本当の姿なのだと無慈悲な筆でハメットは語った。 真の初長編作は手習いとは思えないほど躍動感と抑揚に満ちたストーリー、そして登場人物たちが織り成す血まみれの祭りだった。 さて次からは短編、いや短さから云ってほぼショートショートのような作品が並ぶ。 訳者の小鷹氏の解説によると「帰路」はハメットの正真正銘のデビュー作らしい。2年間追い求めた男を中国の雲南省でようやく捕えた男と逃げた男のやり取りを描いた6ページの作品。 次の「怪傑白頭巾」は変わった話だ。 なんだかよく解らない作品。 次の「判事の論理」は実際にあった話だろうか。 正直これはアメリカの法律をある程度知っておかないと解らない面白さだろう。 続く「毛深い男」はフィリピンの島々を舞台にした物語。 平和な島に訪れた異分子によって起こる不協和音。これはよくある展開だ。 人間の拠り所について語った作品と云えるだろう。 「ならず者の妻」ならば日常もまた我々のそれとは違うようだ。 強盗稼業で生計を立てている男を夫に持つ妻マーガレットはよくある悪い男に魅力を感じる女性。だから周囲のゴシップの種になっても全然気にならず、むしろそんじょそこらの旦那と違う夫に誇りを持っていた。 そんな彼女が夫の犯罪仲間に自分の取り分を強要され、屈服するところを見た時、彼女の、夫に抱いていた8年間の誇りの塊が消え失せてしまう。 複雑な女心をこんな形で描くハメットは、やはり人間を知り尽くした男だったことが解る1編である。 最後はたった5ページの掌編「アルバート・バスターの帰郷」で締めくくられる。 悪党の世界のどうしようもなさを描いている。息子を誇りに思った父親が息子の仕事を知るとどのように思うのだろうか。 荒くれどものジャムセッション。 ハメットの作品群を読むといつもそんな思いを抱く。 当時殺人や犯罪を扱った小説、ミステリがパズル小説ばかりだった時に、ハメットは悪党どもの犯罪をリアルに描いた。金目当てや怨恨で犯罪を行う人たちの本当の世界を生々しく描いたのだから当時の読者にとってはかなり衝撃的だったことだろう。 そんなハメットの筆は淀みなく、ストーリー展開もスムーズでありながらもサプライズを仕込んでいるところにミステリの妙味がある。しかもそれは単なるミステリとしての仕掛けではなく、闇社会で生きる者たちが生き延びるために行ってきた権謀詐術がサプライズに繋がっているところに本格ミステリと一線を画したリアリティがある。 生き延びるためには平気で嘘をつき、そしてまた自分を殺そうとする人たちを平然と殺す者たち。そんな生き馬の目を抜く輩たちの世界ではいかに一歩先んじて出し抜くかが彼らにとって死活問題になるわけだ。 そんな世界をミステリに持ち込んだハメットの功績はかなり大きいと再認識した。 もう少し踏み込んで書くと、本格ミステリを読んだハメットは本当のワルはこんなまどろっこしい方法で人を殺害しない、ハジキ1つをぶっ放すだけ。そして相手を騙すことに頭を使うのだと思ったことだろう。 そんなリアルをミステリとして描いたのだ。いやワルの生き様の中にミステリがあったことを教えてくれたのだ。 また登場人物たちの心境も非常に深い。特にワルに魅かれる女性たちが生き生きとしている。 品行方正、実直な男よりも少し影があり、危ない雰囲気を纏った男に魅かれる女の心情を描いている。それは恐らくハメットの妻リリアン・ヘルマンの存在が大きいだろう。探偵稼業に身を置いていた彼に魅かれたリリアンこそが彼の作品に登場する女性全てなのかもしれない。 ワルに憧れて共にするが、自分が置かれている境遇の危うさに気付くと逃れようともがくが既に手遅れになってしまっていることに気付く浅はかな女性、突如現れた無類の強さを誇る男に、夫を捨てて走る女性もいれば、絶対のワルと信じて尽くしてきたのに、夫の弱さを見ることで何かが変わってしまった女性もいる。 ハメットの小説に出てくるワルたちをそんな複雑な心理を持つ女性たちが補完していると云っていいだろう。 私がハメットを読んだのは17年前でまだ20代だった頃。その時は正直彼の小説を十分理解したとは云えなく、当時の感想がそれを証明している。 今回十数年ぶりにハメットを読むと、小鷹氏の訳の巧さもあってか、実に愉しく読めた。 いつかまたハメットは読み直さないといけないだろう。 その時がいつ来るかは未定だが、読後、今とは違った思いを抱くことだろう。その時の私がどんな感想を持つか、それもまた愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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かつて東野圭吾氏は『手紙』で殺人犯の家族の物語を描き、『さまよう刃』で娘を殺害された父親の復讐譚を描いた。
本書『虚ろな十字架』ではその両方を描き、償いがテーマになっている。 本書では2つの家族を中心に物語が進む。 まず最愛の娘を強盗に殺害され、犯人に死刑の判決が下り、刑が成された後に離婚した中原道正と浜岡小夜子の夫婦。 もう1つは浜岡小夜子を殺害した町村作造を父に持つ花恵とその夫仁科史也の夫婦。 被害者側の夫婦と加害者を家族に持つ夫婦双方が同時進行的に描かれる。そのどちらの家族も決して幸せではなく、何がしらの問題を抱えている。 この浜岡小夜子の死を軸に不幸な、だがしかしどこにでもいそうな夫婦の抱える問題が次第に浮き彫りになってくる。 物語の主旋律は娘を殺害され、更に別れた妻を殺害された中原道正のパートであるが、次第に対旋律であった仁科史也のパートが重みを帯びてくる。特に仁科史也という人物の気高いまでの誠実さに隠された謎に俄然興味が増してくる。 本書のプロローグで描かれるのは井口沙織という父子家庭で育つ女子中学生が1年先輩の仁科史也と出逢い、相思相愛が成就する場面が描かれている。 しかし本編で出てくる、医者となった仁科史也の結婚相手は花恵という女性で井口沙織ではない。しかも花恵の父親は浜岡小夜子を殺害した町村作造であることが判明する。 更に井口沙織は逆に浜岡小夜子が万引き依存症の記事を書くのに取材した対象者であることが解ってくる。この2人の接点が浜岡小夜子に収束していく。 義理の父親の犯した罪に深く反省の念を込め、小夜子への遺族に手紙を認め、直接お詫びをしたいと告げる仁科史也。一方で町村作造の生涯は実に取るに足らない男として描かれる。 偽造ブランド品を売って東京と富山を往復しているうちに花恵の母と知り合い、そのまま結婚してしまうが、会社が警察に摘発されると職にも就かずに家に居つくが、しばらくすると女を作っていなくなる。とにかく怠けることしか考えない男だ。 そんなどうしようもない男の犯した罪のために代わって遺族へお詫びをしたいという。しかも花恵が生んだ息子翔は史也の実の子でなく、結婚詐欺師によって孕まされた子供であることも判っている。史也が花恵と出逢ったのは花恵が将来を絶望し、富士の樹海で自殺しようとしていたところを史也が思い留まらせたことがきっかけだ。そしてその後の10日間、史也はお金を与え、晩御飯を食べに行くようになって花恵に結婚を申し込む。 このもはや聖人としか思えないほどの精神性はどこから来るのかと非常に興味を持たされた。 そして今の仁科史也を形成する事件が明かされるのは物語の終盤だ。 結婚とは、夫婦になると云うのは、家族になると云うのは、知らない者同士が縁あって一緒になるということだ。一緒に住んでいくうちにお互いのそれまでの人生で培われた性格や癖、足跡などを知り、生活を作っていく。 しかし何十年過ごしても知らない一面があったことを気付かされるのもまた事実だろう。本書にはそんな家族という最小単位の共同体に隠された謎が描かれている。 愛する娘を喪ったことで共に裁判と戦いながらも最終的に離婚という道を選ばざるを得なかった中原道正と浜岡小夜子の夫婦は、地獄のような苦しみの中で共に戦った戦友でありながら、離婚後は相手のことを実は本当に解っていなかったことに気付かされる。 娘を自分の不注意で死なせたと自責の念に駆られていた小夜子はその後犯罪者と被害者について取材を重ね、死刑について自分なりの考えを持ち、原稿を書くまでのライターとなった、ペンを武器にした女闘士の如き女性だった。 しかしそんな彼女がなぜ穀潰しとも云われていたしようのない老人に殺されたのか。 一方有名大学の医学部に入り、そのまま附属病院に就職して順風満帆な人生を送っているかに見える仁科史也は、結婚詐欺師によって孕まされた元工員の女性を偶々自殺を踏み留まらせた経緯で結婚し、他の男の子供を自分の子供として育てる。穀潰しの妻の父が犯した罪を一身に背負い、家族を守ろうとする。 血の繋がった子供を持ちながらも、その実本当の姿を知らなかった夫婦。 血の繋がらない子供を持ちながらも、自ら降りかかった不幸に立ち向かおうとする夫婦。 血の繋がりこそが家族の絆ではないこと、それ以上の絆があることをこの2つの家族の生き様は象徴しているかのようだ。 そしてどうしようもない父親だった町村作造が小夜子を殺害したことは彼が娘夫婦を守ろうとした最後の父親らしい行動だったのだろう。これもまた親と子の不思議な絆の形だ。 タイトルになっている「虚ろな十字架」とは中原の元妻小夜子が生前ライターをしていた時に認めた原稿『死刑廃止論という名の暴力』の中にある一節に由来する。 人を殺害した人間に有罪判決を下して懲役○○年と罰しても、出所すれば再発の確率が高い現実を顧みればその罰はなんと虚ろな十字架を縛り付けているのだろうかと書かれている。 つまり人を殺した人間を罰するには死刑しかないのだと娘を喪った小夜子は訴えているのだ。 娘を殺害された被害者となった彼女がこのような極端に針の触れた結論を出したことは解る。 しかし一方で死刑は単なる通過点に過ぎないことも解っている。なぜなら中原たちの娘を殺害したしがない窃盗犯は最終的には裁判に疲れ、死刑になったことを拒まなかった。 しかしそこには贖罪の念はなく、ただ自分の決定された運命を受け入れただけだったのだ。もはや彼にとって死刑は自分の人生を諦めた行く末に過ぎなかったことが語られる。 そして一方で中原夫妻も死刑になったことで最愛の娘の死が浮かばれたとは思っていなかった。ただ事件が終った、それだけだったと述べる。 しかしそのことを経験しながらもやはり一つの命を奪った人は同じようにその命を死刑によって罰せられるべきだと元妻の小夜子は決意したのだった。 彼女もまた娘を一人家に残したことを後悔し、その後再婚して子供を産もうとは考えられなかった。自分は子供を産んではいけない女性だという罪の意識に苛まれながら、事件や依存症などと向き合う人々を取材してきたのだ。 まだ若い妻の人生のやり直し、殺された娘の代わりの子を産むチャンスを与える意味で離婚を決意した中原の思惑とは全く別のことを小夜子が考えていたとは皮肉だ。 仁科史也は町村花恵を家族として迎えることで過去の罪を償おうと生きてきた。 死刑もまた贖罪であるが、この仁科史也もまた贖罪だろう。 そして作者はどちらが罪の償いとして正しいのかと読者に問いかける。更に法律は矛盾だらけだ、人間に人は裁けないとまで述懐する人物もいる。 お母さんの留守番をしていて殺された子供。 留守番をさせて娘を死なせたことを抱えて生きていく母親。 娘を殺害された虚しさゆえに離婚を選んだ父親。 一文無しで空腹だったために小銭を稼ごうと泥棒に入った家に子供がいたことで通報されるとまずいからと短絡的に子供を殺した男。 他人の子供でありながら我が子として育て、また金に卑しい義理の父親を受け入れながら日々小児科医として子供を救う男。 男に騙され、絶望して死を選ぼうとしていたところを今の夫に救われた女。 無職で怠けることしか考えていないが、ある日人を殺害した父親。 犯罪者の義理の父親を持つことを大いに案ずる母親。 父子家庭で育ち、美容師になって上京し、結婚に失敗し風俗嬢となった暗い過去を持つ女。 男手一つで娘を育て、多忙な日々を送る中でも娘に気を配りながら、事故で死んでしまった父親。 様々な人があれば様々な人生、様々な事情、そして生き様や考え方がある。上に並べた今回登場した人物の人生が等価であるとは決して云えないだろう。 それを人を殺したから罰せられるべきなど単純化したルールで果たして杓子定規的に人を断ぜられるものかとこれまで作者は問いかけてきた。結局人は道理で生きているのではなく、人情で生きているのだとこのような作品を読むと痛感させられ、何が正しくて間違っているのかという我々の既存概念を揺さぶられる。 死刑に値する愚かな犯罪者もいれば、刑に罰せられると等価の償いをし、周囲から必要とされる人もいる。罪を裁くとき、このように違った人生を歩んできた人々を一律のルールで裁くことが本当に正しいのかと考えさせられる。 しかし一方で近しい人を殺されたことで人生が変わってしまった人もおり、その喪失感を思えば加害者側の事情などは関係ないとも思える。 更に死んで当然だった、死んでよかったと思われる人もいる。そんな世の中の秩序を保つためにまた法律も必要なのだ。いやはや難しい。 深く深く考えさせられる作品だった。決して全てにおいて正しい考えなどないことをまた思い知らされた。 人は過ちを犯してもやり直して生きていられる、そんな世の中が来ることを望むのは夢物語なのか。そんな思いが押し寄せてくる作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングが若かりし頃に読んだトールキンの『指輪物語』と映画館で観たセルジオ・レオーネ監督の『夕陽のガンマン』に触発されて書かれた全7部からなるダーク・ファンタジー小説が<ダーク・タワー>シリーズである。本書はその記念すべき1作目。
この度映画化が発表され、それに伴い、かつて刊行されていた角川文庫から再び新刊として現在毎月刊行されているが、私が読んだのはシリーズ完結を機にキングによって手が加えられたヴァージョンであり、2004年に新潮文庫から刊行された版である。 その第1作目である本書の前書きによれば1970年に着手して2004年に完成したとあるから30年以上に亘って描かれたシリーズだ。 一旦4巻まで書かれた後、長らく中断されていたが、キング自身にある大きな転機が訪れる。それは1999年に散歩中にライトバンに跳ねられて交通事故に遭うのだ。それは回復した現在までも片足が不自由になるほどの後遺症を遺すが、その事故で一命を取り留めたキングはファンの声にも支えられてシリーズ完結を目指し、2004年に完結を見せる。 長い前書きには事故に遭った際、シリーズ未完にしてキングがこの世を去るのではないかというファンの言葉や、結末を催促するキングの祖母の手紙、更には自分が刑を執行されるまでには決着をつけてほしいと催促する死刑囚からの手紙を受け取ったというエピソードが盛り込まれている。 それほどまでにファンを、読者を魅了するこのシリーズは果たしてどのような物なのかと興味津々でページを捲った。 物語は主人公である最後のガンスリンガー、ローランド・デスチェインの過去と旅の道連れになった白髪頭の少年ジェイク・チェンバーズが来た別の世界の話とが時折挟まれながら、黒衣の男を追う旅が語られる。途中、夢魔のスキュプスやスロー・ミュータントに襲われながらも黒衣の男に辿り着くのだが、長大な物語の序章である本書ではまだはっきりとしたことがよく解らない。黒衣の男を追い、暗黒の塔を目指すガンスリンガーの物語というだけがはっきりとしている。その目的もまだよく解らない。 物語を形成する世界独特の言葉が時折挿入されるが、それらについての説明は語られない。 ガンスリンガーが話すハイ・スピーチ語、ロー・スピーチ語、邪な抱かせるように思える<カ>の力、烏頭の人間タヒーン、<内世界>、メジスやギリアドという国。 ただそんなファンタジックな世界でありながら、我々の住む世界とはどこか地続きで繋がっているようで、例えばガンスリンガーが訪れる<タル>の町のピアノ弾きが奏でる音楽はビートルズの『ヘイ・ジュード』であり、ジェイクが来た町はニューヨークでタイムズスクエア、ゾロといった映画の登場人物も出てくる。 我々の住んでいる世界とは少し位相の異なる世界がこのガンスリンガーたちが住まう世界のようだ。 本書の訳者であり、書評家でもある風間賢二氏の解説によれば、この<ダーク・タワー>シリーズはキングの作品世界の中心となる壮大なサーガであるとのこと。つまり今まで読んできた作品、そしてこれから読む作品に何らかの形で影響し、また繋がりがあるとのことである。 そして本書はまだ物語の序の序に過ぎないとのこと。従ってまだ作品世界のほんの入り口に立っただけに過ぎず、次の第Ⅱ巻からが本格的な幕開けとなるらしい。 この解説を読んでキングの一読者となり始めた私にとってこのシリーズはやはり読むべき物語であると確信した。 ガンスリンガーが目指す<暗黒の塔>には一体何があるのか。そして本書で登場したローランドが愛した女性スーザンとは何者なのか? 数々の謎を孕んだ壮大なキングのダーク・ファンタジーはたった今始まったばかりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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紀田順一郎氏と云えばビブリオミステリだが、今回は今までの神保町を舞台にした古書収集に纏わるミステリではなく、大学の図書館で起きた殺人事件を扱っている。しかも狂的な古書収集趣味を持っているのは学長の和田凱亮のみで、周囲の人間は大学の費用を稀覯本収集に公私混同して費やす学長に反発する教授たちが取り囲み、学内では派閥争いが起こっているという珍しい設定だ。
しかし事件はなかなか起きない。 主要人物の図書館運営主任の島村、誠和学泉大学の創設者和田凱亮、その養子で図書館情報学部助教授の和田宣雄、そして事件の犠牲者である結城明季子らの関係がじっくりと描かれ、事件が起こるのは100ページを過ぎたあたりだ。それまでは彼らの関係性に加え、大学の図書館の実情と誠和学園大学々長のコレクションが陳列された第三閲覧室なる秘密の図書空間について語られる。この第三閲覧室は大学の施設なのにその閲覧室は学長の許可がないと入れないという、まさに巨大な私的書庫となっている。 まず面食らったのは本書の被害者となるのが結城明季子であることだ。通常上述されたような人物構成の場合、アクの強い人物が殺害されるというのがミステリの定石だろう。つまり本書ならば大学の施設を一部私物化している学長が第三閲覧室で殺害されるという流れになるのが普通ではないか。 しかし被害者は結城明季子。彼女は妻を亡くし、娘が外国で暮らし、そして不肖の息子を抱える島村が大学の図書館運営主任となったことを機に鶴川の自宅から聖和学園大学の教員寮に引っ越しするのに、彼の有する約1万5千冊もある蔵書の梱包と運搬を手伝うために大学の助教授で島村を引っ張ってきた和田宣雄によって派遣された元司書の女性。アラフォーだが、容姿端麗で障害者の子供を持つ母親に過ぎない彼女が燻蒸後の図書館で遺体となって発見される。 一見事故死に見えるこの事件に不審な点を警察が見出したことを聞きつけた新聞記者が古書店主である岩下芳夫に調査を依頼するというのが本書の流れだ。 今回の探偵役を務める岩下の登場も実に遅く、100ページ辺りで登場する。それからは古書に纏わるエピソードと共に事件の調査が進む。 この独特の世界の話がまた面白いのだがそれについては後述するとしよう。 密室殺人、ダイイング・メッセージと本格ミステリの要素を放り込みながらも新本格ミステリ作家たちが描くようなトリックやロジックの追求といったガチガチの本格という空気は実に薄く、正直私自身はそれらのトリックについては読書中ほとんど考慮しなかった。 なぜかと云えば登場人物たちのディテールの方が実に濃密で面白かったからだ。 例えば岩下の調査が進むにつれて、単なる一介の元司書だと思われた結城明季子の存在に謎が生まれてくる。 島村が大学から借り受けて論文をしたためようとしていた『現代日本文学全集』がいつの間にかすり替えられていたこと。そして有休を利用して梱包を手伝っていたはずなのになぜか梱包作業当日も勤務先である福祉科研修センターに出勤していたことなどが明らかになってくる。 一体結城明季子とは何者だったのか? 幻の古書を巡る殺人事件の謎を探る一方で被害者である結城明季子についても謎が深まってくる。 また主要人物たちに関するディテールがとにかく濃い。 容疑者である島村が誠和学園大学の図書館運営主任になった島村が現職に至るまでの和田宣雄との縁について書かれた内容や和田凱亮の生い立ちなどは、かなりのページが割かれて描かれ、一種実在の人物の伝記かと見紛うほどの濃さがある。昭和の混乱期を生きてきた人間の逞しさや強かさを行間から感じるのである。この濃度は戦前生まれである紀田氏のように戦前戦後の混乱期を知る作家の強みというものだろうか。 また本に纏わる蘊蓄も豊かで知的好奇心をそそる。稀覯本の真贋鑑定に関係して紙博士なる府川勝蔵なる人物が登場するが、そこで披瀝される紙やインクに関する知識は実に興味深い。戦前戦後それぞれの時代背景からパルプ材として使用されていたのが針葉樹から広葉樹に替わったこと、繊維と繊維を繋ぐ方法などそれら技術の進歩により、例えば昔の書物の紙は経年変化で茶色に変色しやすいが現在ではそれも解消されつつあること、光に透かして見ることでムラがあるなどの豆知識が得られる。 また書物に淫した人々の話であるから、私も数々の本を所有する者のはしくれとして大いに共感するところもあった。 例えば書庫を見た時に陳列された書物以上に空きスペースがあることを羨ましくなったり、もしくは新しい書庫を手に入れた時の空きスペースの多さに驚喜するといったこと、さらに引っ越しの時に家にある蔵書をいかに理想的に移すかなど、身に覚えのある事柄もあり、面白い。 また昔の文庫などを読んでいると非常に字が細かいことに気付かされるが、作中人物の島村が昔は高齢の読者が少なかったからではないかと述懐するところがあるが、これもなるほどと思わされた。つまり時代が下るにつれ、教育を受けた高齢者が増えてきた今だからこそ高齢者も活字を読むのが当たり前だろうが、昔の人々はまだ教育が不十分であったから書物を読むという習慣がなかったため、出版社は老眼などを気にする必要などなかったのだろうとも推測される。 更にこの作者ならではの古書購入に関する意外な知識も今まで同様に盛り込まれ、例えば昔大ベストセラーになった全集などは古書として出回っているため、高価で取引されない上に嵩張るため、反って古書店が積極的に取り扱わないこと、また全集は後期になればなるほど発行部数が少なくなるため、揃えにくいことなど、私自身がその分野に今後手を付けることはなくとも、興味を覚える内容が盛り込まれている。 さて結城明季子を殺害したのは誰か? これは意外な人物だった。 曖昧と云えばもう1つ。本書のメインの登場人物である島村の私生活の問題だ。 生前の妻が勝手に不動産の名義を夫婦両名にしたことでやくざ者となった放蕩息子から遺産分配を強要され、おまけに彼の一味の者と思われる地上げ屋に付きまとわれ、電気なども勝手に切られる始末。今回の事件解決に駆り出されたものの、これら私生活の問題は一切解決しない。 正直このエピソードは島村が最有力容疑者として連絡不通になった理由のための話であるのだが、それが意外にも重くて無視できないほどの内容になっている。 これらを踏まえると意外な犯人を設定しては見たが動機はさほど練られてなく、またミスディレクションの演出のために余計な設定を持ち込んでしまったように思えてならない。上にも書いたようにディテールが濃いだけに逆にミステリとして犯人の動機という肝心な部分や登場人物のエピソードがなおざりになってしまった感があるのは正直勿体ない。 私も本好きで、できれば図書館などで借りるのではなく、自分で所有したい人間。しかも新刊であることに拘り、読むために手に入れた古本は読了後手放している。従って本とは読むために所有する物と考えており、決して集めて悦に浸る物として考えていないから、これらコレクターの境地が解りかねる。 本は読まれてこそ本であり、保管されているだけでは書物本来の意義がないではないかと思っているので、逆に云えばまだこのような境地に至っていない自分は正常であると改めて認識できた次第である。 ただ絶版を恐れて買ってはいるものの、読むスピードとつり合いが取れていないため、関心のない人から見ると私も大同小異だと思われているのかもしれないが。 紀田順一郎氏のビブリオミステリは一ミステリ読者として自分がまだごく普通のミステリ読み、書物購入者であることを再認識させられるという意味でも良著だ。 このような本に魅せられ本に淫した人々のディープな世界を見ることはしかしなんと面白い事か。どんな世界でも人を狂わせる魔力はあろうが、書物に関しては派手さがないだけに闇の如き深さがあるように思われる。 最近絶版の本は古本を購入して読むようになってきた私も本書に描かれた人々のような闇に囚われないよう気を付けねば。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ノンシリーズの『ザ・ポエット』を経て再びボッシュ登場。時はまだ野茂がドジャースで現役で投げていた時代。
シリーズ再開の事件はハリウッドの丘で遺棄されたロールスロイスのトランクから頭を撃ち抜かれた遺体が見つかるという不穏なムードで幕を開ける。その死体は映画プロデューサーのトニー・アリーソ。 さらに舞台はラスヴェガスに移り、カジノに纏わるマフィア犯罪の捜査へと進展していく。映画産業、カジノと復帰したボッシュが手掛ける事件は実に派手派手しい。 そしてこの事件がボッシュが殺人課に戻ってから初めての事件であることが明かされる。 前回『ラスト・コヨーテ』で自身の母親に纏わる事件を解決した後、強制ストレス休暇を取らされ、亡くなったパウンズの後任として配属されたグレイス・ビレッツ警部補からリハビリ期間として盗犯課に配属されるが、過去最低の殺人事件解決率を記録するとその梃入れとしてボッシュは殺人課に返り咲き、そして迎えたのが今回の事件である。 またかつてはジュリー・エドガーを相棒としながらもほとんど一匹狼状態で捜査をしていたボッシュだが新しい上司が組んだ制度、三級刑事をリーダーとした3人1組のチームとして捜査を進めるようになる。三級刑事のボッシュはリーダーとなり、彼の部下に相棒のジュリーとビレッツが古巣から引っ張ってきたキズミン・ライダーが加わっている。 自分自身の過去と因縁を前作で振り払ったボッシュの、シリーズのまさに新展開に相応しい幕開けと云えよう。 といいながらもやはり前作までの影は相変わらずボッシュを離さない。今回は1作目でパートナーとなった元FBI捜査官のエレノア・ウィッシュが再登場する。 私はエレノアが再びボッシュの前に現れると1作目の感想で述べたが、新しいシリーズの幕開けで合間見えるとは思わなかった。ボッシュの始まりには彼女がどうしても付きまとうらしい。 そして前科者となったエレノアは当然のことながら法を取り締まる側に戻れず、ラスヴェガスでギャンブルをしながらその日を暮らしている身である。さらに彼女にはある繋がりがあり、それがために彼女との再会は少なからずボッシュを再び窮地に陥れることになる。 今回ボッシュが手掛ける事件は明らかにマフィアの手口による、通称“トランク・ミュージック”と呼ばれる制裁方法によって殺された映画プロデューサー、トニー・アリーソ殺害の犯人捜しに端を発し、やがて彼が遊びで訪れていたラスヴェガスに舞台を移すと、そこから映画産業を利用したマネー・ロンダリングが発覚し、アリーソを洗濯屋として利用していたマフィアが浮上する。 更にそのアリーソが国税庁に目を付けられていたことが解り、自分たちの犯罪の痕跡を消すため、マフィアが放った刺客によって殺害された、それがこの事件の背景であることが解ってくる。 一方でメトロ市警はこれを機に長年目をつけていたマフィアの大物ジョーイ・マークスの手に縄を掛ける一世一代のチャンスだとしてボッシュに先駆けて行動し、さらにエレノアもまたジョーイの手下と関係があることが発覚して、そのことがボッシュを苦しめる。 さらには一度今回の事件について連絡した組織犯罪捜査課がアリーソをマークしていて盗聴器を仕掛けていたことも判り、一プロデューサー殺害の事件は各署、各課の思惑を色々と孕んで複雑化していく。 正直これだけでも十分お腹いっぱいになる内容だが、更にコナリーは爆弾級の仕掛けを投じる。 ボッシュが辞職の危機に置かれるのはもはやこのシリーズの定番でもあるが、これは実に驚くべき展開だった。それがゆえにこのボッシュの危機もまた引き立つわけだが、いやはやコナリーの物語構成力には毎回驚かされる。 話は変わるが今回の事件で使われている映画制作を利用したマネー・ロンダリングはいかにもありそうな話である。映画制作費自体がブラックボックスであるがために資金を集めて実際その1/10程度しか使っていなくても帳簿上に恰も全額使ったように膨らませて記載すればなかなか発覚しない隠れ蓑である。 最近の政治資金問題と云い、まだまだこの世には色んな抜け穴が存在するようだ。 新生ボッシュシリーズの大きな特徴はやはりチームプレイの妙味にある。これまで孤立無援、一匹狼の無頼刑事として誰も信じず、頼らずに捜査を続けていたボッシュだが、亡くなったパウンズに替わって新しい上司グレイス・ビレッツは相変わらず綱渡り的なボッシュの強引な捜査に一定の理解を示し、後押しする。 またボッシュがリーダーとなったジェリー・エドガーとキズミン・ライダーのチームは個性的で有能で、尚且つ自身のキャリアを危険に晒すことになりながらもボッシュの捜査の正当性を信じ、付いていく忠義心を見せている。 今までボッシュの昏い過去に根差された刑事という生き方といったような重々しさから解放された軽みというか明るみを感じさせる。それは単に久々の殺人事件捜査に携わることからくるボッシュの歓喜に根差したものだけでなく、やはり理解者を得たこと、そして仲間が出来たことに起因しているに違いない。 また忘れてならないのはアーヴィン・アーヴィング副本部長の存在だ。彼もまた警察の規範の守護者として振る舞いながらボッシュに対して理解を示し、彼をサポートする。実に味のあるバイプレイヤーぶりを本書でも発揮している。 私は1作目の『ナイトホークス』の感想でエレノア・ウィッシュはボッシュの救いの女神であったと書いた。それを裏付けるかの如く、エレノアと再会したボッシュにとって彼女はもはや人生の伴侶だと、ただひとりの女性であると述懐する。 前作『ラスト・コヨーテ』で知り合ったジャスミン・コリアンは過去に人を殺したという謎めいた女性で命懸けでしがみつく存在であると云っていたが、その関係は遠距離恋愛のために長く続かなかったと片付けられている。 知り合った時の心情の深さに対して呆気ない幕切れにもしかしてエレノアとの関係もそんな風に終わるのでは?という懸念も拭えないが、自分の手で両手に手錠をかけた女性に対しては他の女性とは違った思いの強さがあるようだと信じたい。 やはり彼女はボッシュにとってウィッシュ、つまり希望だったことを確信した。前作で過去を清算したボッシュが前に一歩踏み出したのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングがリチャード・バックマン名義で出した4作目の作品はアーノルド・シュワルツェネッガーで映画化もされた本書。
その映画が公開されたのが1987年。なんともう30年も前のことだ。当時中学生だった私はテレビ放映された高校生の時にテレビで観た記憶がある。但し細かい粗筋は忘れたが賞金のために1人の男が逃げ、それを特殊な能力を備えたハンターたちが襲い掛かるのを徒手空拳の主人公であるシュワルツェネッガーがなんとか撃退しつつ、ゴールへと向かうと朧げながら覚えている。恐らくこの<ハンター>という設定と制限時間内で逃げ切るという設定は現在テレビで放映されている番組「逃走中」の原型になったように思える。 そんな先入観で読み進めていた本書だが、映画とはやはり、いやかなり趣が違うようだ。 Wikipediaで補完した映画の内容では主人公のベンは警察官で、上司の命令に従わなかったことで逮捕され、脱獄を果たすが、弟のアパートへ訪れるとそこには既に弟はいなく、次の住人が住んでいた。この住人はテレビ局員であり、彼女を伴って空港から脱出しようとするところを機転を利かせた彼女が大声で叫んだことで捕まり、そのままデスレース番組として人気の高い『ランニング・マン』(この表記は解説のまま)に出場させられる羽目になる。 しかし本書の主人公のベンは貧民街に住む男。2025年のアメリカは富裕層と貧困層で二極分離した社会で空気中には汚染物質が漂い、富裕層はそれらの影響のない高い土地で暮らし、貧困層はたった6ドルの材料費で200ドルで売られている安っぽいフィルターを付けないと肺が侵されてしまうような環境で暮らさなければならない。そんな苦しい環境から目を逸らすために政府はフリーテレビを支給し、出場者が脱落して命を喪うゲームを観ては満足する毎日。ベンも1日中働いても雀の涙ほどでしかない稼ぎのため、妻は売春をして日銭を稼いでいる。電話などはもちろんなく、アパートの前にある公衆電話を使って連絡を取るような状況。そんな毎日だからまだ1歳半の娘のインフルエンザの治療費などは到底なく、それを稼ぐためにテレビ局のオーディションを受けるが、その知性と身体能力を買われ、番組『ラニング・マン』に出場するというのが導入部である。 このベンの設定も映画では正義感溢れる警察官だが、本書では知性もあり、体力もありながら反抗的な性格が災いして先生に暴力を働いたかどで退学させられた男。つまりキング作品によく出てくる癇癪を抑えきれない男として描かれている。 また番組『ラニング・マン』の内容もいささか異なる。映画では地下に広がる広大なコースを舞台にそれを3時間以内に各種のタラップやハンターたちの追跡(なお映画ではストーカーという呼称)から逃れてゴールすれば犯罪は免除され膨大な賞金を得ることが出来るという設定。 原作では舞台はアメリカ全土。1時間逃げ切るごとに100ドルが与えられる。ハンターが放たれるのは12時間後、そして最大30日間生き延びれば10億ドルが賞金として得られるという、時間と行動範囲のスケールが全く違う。そのため更にテレビ放送用にビデオカセットを携え、それを自身で録画してテレビ局に送らなければならない。 従って映画のようにまず次々と必殺の武器を備えたハンターが出てくるわけではなく、ベンは犯罪の逃亡者が行うように、闇の便利屋を通じて偽装の身分証明書を作り、ジョン・グリフェン・スプリンガーと名を変え、変装し、ニューヨーク、ボストン、マンチェスター、ポートランド、デリーへと国中を渡り歩いていく。周りの人間が自分を探しているのではないかと疑心暗鬼に怯える日々を暮らしながら。 つまりどちらかと云えば昔人気を博したアメリカのドラマ『逃亡者』の方が設定としては近い。というよりもキングは1963年に放映されていたこのドラマから着想を得たのではないかと考えられる。 四面楚歌状態のリチャーズは逃亡の中で数少ない協力者たちを得る。ボストンでブラッドリーという18歳の青年は図書館でこの世の社会の歪みを知り、そのシステムを打ち砕く希望をベンに託して協力する。 彼の友人の1人、ポートランドのエルトン・パラキスもベンを匿おうとするが、息子の反社会的行動を理解しない母親によって通報され、そのパトカーからの逃走劇の最中、重傷を負う。 そんな協力者の庇護を得る中、やがてベン・リチャーズの中でもこの『ラニング・マン』へ参加する目的が変わっていく。 最初は自分の赤ん坊の治療費を得るためという利己的な目的だった。しかし汚染される空気の中、フリーテレビという娯楽を与えられることでそれらの社会問題から目をそらされ、やがて灰を患い、死に行くだけの人生を余儀なくされている低下層の人々の反逆として彼は行動するようになる。 そのため毎日送る2本のテープには政府の欺瞞に満ちた政策を暴露するメッセージを盛り込むが、これも巧妙にアフレコによって改ざんされ、単にベンが口汚く罵倒するシーンになってしまっている。映像による情報操作により、国民はベンへの怒りを盲目的に募らせるのだ。 また最も大きな違いとして映画で出てきた個性豊かな特殊技能と武器を備えたハンターは実は全く出てこない。警察との命を賭けた逃走劇が何度も繰り返されるだけで、深手を負い、満身創痍になりながらひたすら逃げるリチャーズの様子が描かれる。 さて物語は今までのキング作品と異なり、短い章立てでテンポよく進む。改行も多く、登場人物たちの主義主張や思想などが語られてはいるものの、通常の作品のようにページを埋め尽くすかのようにびっしりと書かれているわけではない。 また特徴的なのはマイナス100から始まる章が進むにつれて1つずつ減っていることだ。つまりこれはゼロ時間に向けてのカウントダウンとなっている。 果たしてこの数字が0となる時に何が起こるのか? それもまた読み手の興味をそそる。 本書の設定は2025年の未来。従って2020年現在よりもまだ5年先の時代だが、1982年に刊行された当時のキングの想像力によって補われた未来像はやはり今の世の中と比べればいささか限界を感じる。 それはやはりウェブの存在が大きいだろう。この新たな通信の画期的な発明はやはり想像力豊かなキングをしても発想しきれなかったようだ。 ベンが逃走中の模様をテレビで放送するためにビデオカメラとビデオテープを携えなければならないというのはやはりどうしても無理が感じる。作中では技術の進歩でかなり軽量化されていると書かれているが、60巻ものビデオテープを持ちながら逃走し、毎日2巻を投函しなければならないというのは滑稽としか思えない。 今ならばウェアラブルカメラやスマートフォンなどで撮影もでき、そのままメールで送付すれば済むことだ。 もう1つはエアカーが登場することだ。このドラえもんにも登場する未来を象徴する宙に浮いて移動する自動車とタイヤのついた自動車の2種類がこの世界では活用されており、カーチェイスにはこの特性を活かした演出が成されている。 とはいえ、恐らく未来において今ではこのエアカーは実用化しないのではないかと個人的には思っている。自動運転技術の方に技術の核心はシフトしているからだ。 またタイヤが不要になる車を発明することはタイヤ業界が黙っていないだろう。 完全なる悪対正義の構図を描きながら、映画は制限時間内で特殊能力を持つハンターたちとの戦いを描いた徹底したエンタテインメント作品となった。そして原作である本書は絶対不利な状況でしたたかに生きる、ドブネズミのようにしぶとい男の逃走と叛逆の物語として描いた。 どちらもメディアによる情報操作され、完全に管理された社会の恐ろしさを描きながら、こうもテイストが異なるとはなかなかに興味深い。 私は高校生の頃に観た映画を否定しない。作者は設定だけを拝借した、いわばほとんど別の作品と化した映画に対して批判的かもしれないが、逆に別の作品として捉えれば娯楽作品として愉しめたからだ。逆にそれから30年以上経った今、大人になって本書を取ったことは両者を理解するのにいい頃合いだったと思う。 公害問題を扱った本書をパリ協定から離脱したトランプ大統領はいかにして読むのだろうか。『デッド・ゾーン』の時にも感じたがキングがこの頃に著した作品に登場する圧政者たちが現代のトランプ大統領と奇妙に重なるのが恐ろしくてならない。 実は今こそ80年代のキング作品を読み返す時期ではないか。アメリカの暗鬱な未来の構図がまさにここに描かれていると思うのは私だけだろうか。 シュワルツェネッガーの昔の映画の原作という先入観に囚われずに一読することをお勧めしたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Vシリーズ7作目の舞台は奥深い山中にある怪しい研究所。しかもそこにアクセスする橋は何者かによって爆破され、電話線も断ち切られ、外部への連絡も遮断された状態となる、まさに陸の孤島物ミステリ。
更にその研究所の創設者は不治の病に侵され、仮面を被り、車椅子に乗ってそこにあるボタンでコミュニケーションを交わす老人と本格ミステリのガジェットに包まれた作品だ。 そして例によって例の如くそんな閉鎖された空間で起きる殺人事件にお馴染みの瀬在丸紅子と保呂草潤平、小鳥遊練無と香具山紫子の面々が挑む。 まず本書において小鳥遊練無が今回パーティに招待されるきっかけとなった纐纈老人との交流は短編集『地球儀のスライス』に収録された小鳥遊練無初登場作「気さくなお人形、19歳」に描かれている。直接的には纐纈老人とのエピソードは本書とは関係ないが、単なるイントロダクションだけでなく短編としてもまた小鳥遊練無の魅力を知る上でもいい短編なのでぜひ一読を勧める。 今回陸の孤島でありながらもなぜか陰惨さが募らず、常にドライな雰囲気なのはこれが森ミステリだからかもしれないが、舞台が一流の科学者の集まる研究所であり、みな自分の研究以外のことにあまり関心を持たない人物ばかりだからだ。同じ同僚でも死んでしまえばただの物とばかり、関心を寄せず、ただ自分の研究する時間を貰えれば刑事の云う通りに研究所の中に留まることを全く厭わない、いやむしろそれが日常である人々の集団。そして彼らの中で超音波という共通のテーマはあれど、それぞれ重なる研究はなく、とにかく研究が大好きな人々たちであるため、金や権力よりも研究ができる環境と時間と予算があれば欲しいものがないのだ。殺人事件なんかのために自分の貴重な時間が取られることを心底嫌う人々、つまりいわゆる一般的な欲求のために犯罪を起こすという動機がない連中というのが面白い。 面白いのだがしかし本書は今までのシリーズの中でもかなり重苦しい雰囲気を持っている。特に紅子たち一行に危難が及ぶところが珍しい。 捜査を共にした瀬在丸紅子と小鳥遊練無、そして祖父江七夏が何者かによって無響室に閉じ込め、睡眠ガスによって昏倒させられるのだ。しかもその上、小鳥遊練無命を奪われそうな危機に見舞われる。彼は人工呼吸で息を吹き返されなければならないほどの窮地に陥る。 また紅子が無響室に閉じ込められた時に幼き頃に愛犬を亡くした記憶を想起させ、打ち震えるところなんかもいつも超然とした彼女にしては実に珍しい光景だ。 そして第1の殺人の次に起こる第2の殺人は前出の仮面の車椅子老人こと土井博士が自室で首なし死体となって発見されるというショッキングな展開。しかもその死体にはさらに両手首が切断され持ち出されていた。 事件の陰惨さとは裏腹に自分たちの研究に没頭する科学者たちという古典的な設定の中に現代的なモチーフが持ち込まれた奇妙な雰囲気のミステリの真相はまたも鮮やかに紅子によって解き明かされる。 いつも思うことだが、真相を聞かされるとなぜこんな簡単なことに気付かなかったのかと思わされる。 また森ミステリ特有の事件のトリック以上のトリックが隠されている趣向は本書でも踏襲されている。 この隠れメッセージが今回一番驚いてしまった。これぞ森ミステリの醍醐味だろう。 今にして思えばこの土井超音波研究所はデビュー作で登場する真賀田研究所の原型だったのかもしれない。 共に自分たちの研究に没頭する科学者たちの楽園であるが、前者は相続という実に詰まらない問題でそれを手放さなければならなくなった砂上の楼閣であったのに対し、後者は大天才真賀田四季によって潤沢な資金によって支えられた理想の楽園となった。 超音波の分野で天才の名を恣にした土井博士は真賀田四季のプロトタイプだったと考えてもおかしくはないだろう。 なぜならプロローグで保呂草は次のように結んでいる。 未来は過去を映す鏡だ。 心配する者はいつか後悔するだろう。 自分が生まれ変わるなんて信じている奴にかぎって、ちっとも死なない。 もしかしたら土井博士は真賀田四季の前世かもしれない。そんな想像をして愉しむのもまた森ミステリの醍醐味の1つだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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宝引きの辰捕者帳も本書で第4集目。辰親分の人情味溢れる裁きは本書でも健在だ。
まずは幕開けの表題作。 悪人の出ない物語。 権威を振るった鷹匠の一行は宿泊した宿の従業員の話では非常に礼儀が正しく、ほれぼれするような男ぶりだったという。そんな一行のうちの1人が貴重な鷹を死なせてしまったことで罰を受けようとなっている。 しかし一方で辰親分は事の真相を見破ってしまう。辰親分の一計は江戸っ子ならではの味な采配。 自分の厄を心配する妻のお柳の不機嫌を番の鷹に擬えた、なんとも粋な1編である。 続く「笠秋草」は神田鈴町で紫染屋を営む内田屋で起きる怪事に辰親分が挑むお話。 妊娠中の妻を置いて夜な夜な出歩く若旦那と云えば江戸の風俗である吉原への女郎屋通いというのは誰もがピンと来る展開だろう。 なお題名の『笠秋草』は紫染屋の若旦那の清太郎が遊女に上げようとデザインした紋を指す。いやはやしかし男は昔も今も懲りないものだねぇ。 紋章上絵師でもある作者の本領発揮とも云えるのが次の「角平市松」。 身体と首を挿げ替えられた男女の死体という本格ミステリならではの奇妙な死体が登場するものの、本作のメインの謎は江戸で流行った角平市松を創った職人角平の行方を探るところがメインだ。しかもそれを探るのが宝引きの辰ではなく、語り手である仕立屋の若旦那であるところが面白い。 彼が一介の職人を調べに神田川にある船宿、新シ橋こと新橋にある古着屋日本橋馬喰町の紺屋と渡り歩き、はたまた板橋で行われる縁日に行ったりとなんとも江戸風情に溢れた道行が興味深い。 自身が職人である泡坂氏のある時は小説を書き、またある時は新たな柄や紋を考える、当時の自由気ままな生活がにじみ出ている作品だ。 次の「この手かさね」も着物に纏わる話だ。 着物に纏わる因縁が同じような悲劇を再発させる。同じような事件が15年前に起き、その事件の犯人が見つからなかったが、可也屋が形見分けで貰った帯がその事件を解決する。 一転して怪奇じみた装いで幕を開けるのが「墓磨きの怪」。 闇夜に乗じていつの間にか墓が綺麗に磨かれているという悪戯か親切かよく解らない珍事が魅力的であり、またその犯人を辰親分ではなく語り手の長二郎が見抜くところも珍しい。 しかし何よりも本作の魅力は物語の中心となる「だからの昇平」というキャラクターにある。 役者の父親を持ちながらも口下手で何よりも馬鹿が付くほどの正直者。従って芝居であっても役名ではなく、その人の名前で呼んでしまうという実に愛すべきキャラクター。そのお人よしな性格を利用されて、馬鹿の上に超が付くほどの正直ぶりを発揮されてはもう愛さずにはいられないではないか。 次の「天狗飛び」では辰親分一行は江戸を離れて大山詣りの道中にある。 昔から信心深い人、迷信もしくは云い伝えを重んじる人はいるもので、本書で登場する建具屋の平八は何かつけて縁起を担ぐ人物。何か誰かに不具合あればどれそれとあれそれを一緒に食べるからだ、この季節にはこの食べ物を食べるとこういう病気になりにくくなる、縁起のいい名前の店には必ず立ち寄る、云々。 一方でお札を高いところに貼ればご利益があると信じている松吉もまた濡れた手拭に札を貼り付けて投げて貼る、投げ貼りなどをし、上手く貼れないがために算治に肩車をしてもらって貼り直そうとしたところ、バランスを崩して足を挫いてしまう無様を見せる。自らに不幸が降りかからぬよう縁起を担ぐのにそのために無茶をして逆に不幸を呼び込んでしまう滑稽な人々を描いたのが本作だ。 特に日本人は数字には敏感で4とか9とかは特に嫌う。そんな日本人の性質がこの天狗にさらわれるという戯れ事を生み出した。個人的にはこのような関係のないところに関係を見出す日本人の言霊信仰は嫌いではなく、むしろ好きな方なので平八が殊更に説く数々の縁起事は非常に興味深く読めた。しかし何事も程々にってことですな。 ダジャレのような題名「にっころ河岸」はそのユーモアな題名とは裏腹にホラー色が強い作品である。 この不思議な話に対する謎解きはない。つまりこの話があるからこそ、勇次はいつも不思議な出来事に遭遇すると思わせられるのだ。 しかし男と女の間とはいつになっても割り切れぬものよのぉ。 最後の「面影蛍」は他の短編とは異なる展開の物語。江戸川に家族とともに蛍狩りに来た宝引きの辰はそこにいた駿河屋という乾物屋を営む主人、弥平と親しくなり。酒を酌み交わすことに。杯が進むにつれ、弥平は自分が若き頃に経験したある女性との恋物語の顛末を語るのだった。 最終話の本作は全て語り手である弥平の独白で物語が進むため、宝引きの辰との会話が一切ない異色作となっている。 酒を飲みながら弥平が語るのは蛍に纏わる彼の若き頃の恋話。江戸川に蛍狩りに行った夜に出遭ったのは牛込矢来下の米屋島村屋の娘お由。ほんの一時を過ごした2人はそのまま恋に落ちるが、家業が乾物屋で頑固な江戸っ子の弥平の親父は島村屋の番頭が三顧の礼を持って弥平とお由を結び付けたいと頼むが頑として首を縦に振らない。弥平はお由の想いを真摯に受け止め、どうにかこの恋が成就するためにある一計を案じる。その企みは狙い通りで晴れてお由と一緒になったはずだったが、そこには哀しい結末が待っていた。 何とも哀しい江戸の商人のつまらぬ意地っ張りが招いた悲劇の物語。 宝引きの辰も実に久しぶりで前作の『凧をみる武士』を読んだのがなんと約16年前。しかしそんな月日もひとたび捲れば粋な江戸の世界へ迷い込み、ご用聞きの辰親分の人情味溢れる采配に思わずひゅうと口笛を吹きたくなる。 1話ごとに語り手が変わる手法も相変わらずで、1話目は辰親分の子分算治、2話目は事件の舞台となる内田屋の使い伊吉、3話目は仕立屋の沼田屋の若旦那、4話目は噺家の可也屋文蛙、5話目が経師屋の名川長二郎、6話目が木挽町の建具屋の久兵衛の弟子の新吾、7話目は神田鈴町の畳屋現七の弟子勇次、最終話は小日向水道町で駿河屋という乾物屋をやっている弥平と算治を除いて全て商人の目線で語られる。 そのいずれもが宝引きの辰の評判を褒め称えていることで辰が腕利きの岡っ引きであることが解るのである。特に本書では娘のお景のお転婆ぶりと妻の柳の器量が垣間見え、この親分にしてこの母娘ありとどんどん人物像が厚くなっていくところがいいのだ。 さてこれら8編の中には過去の因果が関係している話が少なくない。 「笠秋草」では身籠り中の妻の嫉妬から起こした小火騒ぎの事件を『源氏物語』で六畳御息所の人魂のエピソードを用いて真相をごまかしたり、「この手かさね」では15年前に起きた元役者で玉の輿に乗った笠屋の主人が女房の連れ子と姦通していたことで娘から殺される事件の真犯人が見つかることで現代の事件も暴かれる。「墓磨きの怪」では30年前に起きた江戸中の墓が何者かによって磨かれるという珍事にヒントを得て起こした骨董屋の騒動であり、「天狗飛び」では昔富士登山であった天狗にさらわれるという事件が縁起担ぎというつまらぬ慣習ゆえに大山詣りにも波及する。 つまり今もそうであるが日本人というのは過去の因果というのをいつまでも大事にし、またそれを信じることで目の前に起きている不吉事を擬えて安心を得ようとする民族であることが解る。特に様々な事柄や屋号についても掛詞に興じていた江戸町人などはその最たるものだったのではないだろうか。 しかしほとんどが男と女の恋沙汰に絡む因縁に絡んだ事件である。現代とは異なり、言葉や柄、そして因習や慣習を重んじ、更に家業が宿命とばかりに人生を束縛するこの時代、色んなことを諦めざるを得ないのが通例だった中で、どうしてもそれが諦めきれなかった人々がこのような事件を起こす。 しかしそれは人間が生きる上でごく普通に主張されるべき権利だったのだ。 泡坂氏の各短編には江戸の町人文化と当時の地名や風習が実に色鮮やかにしかも丹念に描かれ、江戸の風流を感じさせるが、一方でその風流さが生きにくい時代の中で見出した娯楽であったこと、そんな中でもがき苦しむ人々がいた事。しかしまた生きにくい時代を愚直に生きる人々にまた素晴らしさを感じるのだ。そんな光と影を映し出している。 さて本書における個人的ベストは「墓磨きの怪」を挙げたい。闇夜に乗じて方々の寺が墓が磨かれているという奇妙な導入部と一連の怪事が骨壺に使われた値打ち物の壺を手に入れるための策だったという謎よりもこの話で出てきた正直者の「だからの昇平」が実に魅力的。騙されているのを知らずに最後まで愚直に墓磨きを続ける、間の抜けた、しかしお人よし。こういう男は放っておけないのだ。 次点は「角平市松」。これもまた商売などは二の次でとことん新しい柄を創作することに意欲を燃やし、最初から最後の工程まで自分でしないと気が済まないという根っからの職人である角平のキャラクターが強い印象を残す。泡坂氏は角平の為人を事細かに描写するわけでなく、その仕事ぶりを語ることで彼の愚直さを語るところが上手い。 この角平の創作した柄がその他の作品でも垣間見えるところも粋な趣向だし、そして何よりも私が驚いたのはこの作品で話題になる「角平市松」という架空の柄を紋章上絵師である作者が実際に創作しているところだ。この柄は本書には収録されていないものの、WEBで調べれば出てくるのでぜひともご覧になって頂きたい。こういう手間が物語に風味を与え、創作上の人物角平への存在感を色濃くするのだ。 幽霊騒ぎに縁起担ぎ、そして迷信。そんな現代人から忘れ去られようとしている昔ながらの云い伝えを物語に見事に溶かし込む。なおかつそんな文化の中で生きてきた明るくも、時に心の闇に取り込まれてしまう町人たちを、時には厳しく、時には優しく守る宝引きの辰。 彼がいるから今日のお江戸も安泰だ。そんな言葉が思わず出るような辰親分の活躍をまたいつか読みたい。また15年後ぐらいかなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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コナリー初のノンシリーズである本書は双子の兄の警察官の自殺の真相を調べる弟の新聞記者が探偵役を務める。従って今までのボッシュの破天荒な捜査とは違った事件のアプローチが描かれ、興味深い。
自分の双子の兄で殺人課の刑事だったショーンが自殺したというショッキングなニュースを知り、そのことを記事にしようと決意した弟ジャック・マカヴォイが事件を調べるうちに他の事件にも似たような符号があることに気付き、一連の警官の自殺事件の背後に潜む連続殺人犯の存在を突き止め、その正体を探ると云うのが大方の物語だ。 しかしコナリーは連続殺人犯“ザ・ポエット”をすぐには出さず、あくまで新聞記者ジャック・マカヴォイの取材を通じて一歩一歩その犯人の存在を浮き彫りにしていく。 そしてこれまで刑事、しかもハリウッド警察という地方の一警察署の一介の殺人課刑事の捜査を描いてきたハリー・ボッシュシリーズとは違い、複数の州にまたがった広域的連続殺人犯の捜査をFBIと共に同行する形が採られており、行動範囲、捜査の質ともに今までよりも濃い内容となっている。 ハリー・ボッシュシリーズが足で稼ぎ、またほとんど違法とも思われる強引な捜査で絶えず警察のバッジを回収されそうになる危うい捜査の中から集めた数々の情報と証拠を長年の刑事の勘による閃きによって事件を解決する、一匹狼の刑事の過程を愉しむ物語ならば本書はFBIという最先端の操作技術を持つ組織がプロファイリングや警察機構の更に上を行く情報システム、鑑識技術を駆使してそれこそ全米にまたがって多数の捜査官によって事件を同時並行的に捜査する、質、量ともに警察を凌駕する広域捜査の妙を愉しむ作品が本書である。 主人公ジャック・マカヴォイは社会部の新聞記者で、一般的な新聞記者と違い、じっくりと取材をしたドキュメントめいた記事を書くのを専門としている。扱うのはいつも殺人について。殺された人の周囲とその人が殺された事件を丹念に調べ、記事にする。そして新聞記者をしながらいつか作家としてデビューすることを夢見ている男だ。 コナリー自身新聞記者からミステリ作家に転身した経歴の持ち主なだけにこれまでの登場人物にも増して作者自身が最も投影された人物のように思える。 物語の合間に挿入される新聞記者としての心情の数々。 大きなスクープを当てて注目され、ピュリッツァー賞を獲り、それを手土産に地方新聞社からLA、ニューヨーク、ワシントンのビッグ・スリーの一つへ移り、名新聞記者へと名を馳せた後、犯罪実録作家としてデビューする。町へ行けばそこで起きた過去の事件を思い出し、その現場にまるで観光名所のように訪れて、その時の事件について思いを馳せ、自分を重ねる。興味があるのはそんな事件現場ばかり。 自分の行動範囲で発行される新聞には全て目を通し、自分が記事にするに足りうる殺人事件を毎日探している。自分の記事の載っている新聞は自宅に取っておく。ただいつも自分も事件の最前線にいたいという思いが募っていた。自分も彼らの捜査に加わることで事件をもっと臨場感持って感じたかった。事件の起きた“後”を追うのではなく、事件をリアルタイムで捜査官と共に追いかけ、一員になりたかったと願っていた。 ジャックのこの心の吐露はハリー・ボッシュシリーズでデビューし、好評を以って迎えられた1作『ナイトホークス』を皮切りに立て続けに3作出して作家としての地歩を固めたコナリーがデビュー前の自分を重ねているかのように読めて非常に興味深かった。 そして本書ではボッシュシリーズとのリンクも見られる。 小児性愛者ウィリアム・グラッデンについて書いたLAタイムズの記者ケイシャ・ラッセルは前作『ラスト・コヨーテ』でボッシュに協力した若手の女性記者である。前作では披露されなかった彼女の記事が本書では読める。ボッシュシリーズから登場するのがこのケイシャの記事だけということから考えても刑事よりも新聞記者にスポットを当てたかったからだろう。 またジャックには幼き頃に姉を亡くした苦い過去がある。 家族で湖に出かけた時に凍った湖の上を走った際に、それを引き留めようとした姉が、体重がジャックよりも重いばかりに氷が割れ、湖に落ちてしまったのだ。それを引き起こしたのが自分であるとその頃から悔恨の念に駆られている。だからこそ兄のショーンを再び喪った彼は犯人に対する強い憎しみを抱き、今度こそ兄弟の無念を晴らそうと躍起になっているのだ。 そして彼にはもう1つの理由があった。それはショーンの妻ライリーがかつての初恋の相手だったことだ。それも自分の不注意で相思相愛になりかけたチャンスを逃したためにその思いはジャックの中で途切れず、今もまだどこかライリーのことが気にかかっている。新聞記者としての名誉、ノンフィクション作家への足掛かり、姉、兄、そして義姉への贖罪、色んな要素が複雑に絡んでジャックの原動力となっている。 その連続殺人犯がエドガー・アラン・ポオの詩を現場に残しているところが文学的風味を与えている。特にジャックが過去の殺人課刑事自殺事件のファイルとポオの詩篇を比べるためにポオの全集に読み耽る件は実に興味深い。ポオの詩はジャック自身の過去の忌まわしい記憶を想起させ、心の深淵を抉り、そこに潜んでいる冷たいものを鷲掴みしてポオその人の心の憂鬱と同化していく。 その様子はなんとも文学的香味に溢れ、深くその詩の世界、いや死の世界へと沈み込んでいくかのようだ。その詩は人々の記憶に眠る死の恐怖を喚起させるとジャックは述べる。 しかし次から次へと矢継ぎ早に妙手を打ってくるものだ、コナリーは。 今回ジャックが一緒に行動を共にすることになったFBI捜査官の主だったメンバーはレイチェル・ウォリング、ボブ・バッカス、ゴードン・トースンの3人。 レイチェルとゴードンは元夫婦の関係で反発し合う関係である。レイチェルは最初は女ながらの凄腕の捜査官として登場し、ジャックを手玉に取ろうとしていたが、兄が殺されたことを知り、捜査に加わるようになってからジャックの世話役となり、やがてお互い恋仲になるまで発展する(逢って間もないのにすぐにベッドインする関係が実にアメリカ人らしいと思うのだが。やはりストレスの溜まる仕事をしている女性はどこかで発散させないといけないのだろうか)。 一方ボブ・バッカスはレイチェルたちの上司で良識派の人物。冷静に物事を判断しながらもジャックを、捜査官にありがちなように見下したような態度を取らず、むしろ今回の連続殺人事件を発見してくれた功労者として対等に扱う紳士だ。 そして最後のゴードン・トースンは典型的な高圧的なFBI捜査官で新聞記者であるジャックを目の敵にしている。おまけに元妻といい仲にあることを気にしてか、いつも嫌味をいい、そして見下した態度をジャックに向ける。ジャックはウォレンに今回の記事が先んじられた原因はこのトースンにあると信じて疑わず、いわば犬猿の仲である。 しかしコナリーは物語の中盤、反発し合う2人をパートナーと組ませて話を展開させていく。共に行動することでジャックはトースンが優秀なFBI捜査官であることに気付かされ、見方を変えるようになる。 このようにコナリーは登場人物をステレオタイプに描かず、意外な側面とミスマッチの妙を用いることで人物と物語に膨らみをもたらすのだ。次第にお互いの有能さに気付いていく展開は実に読んでいて面白かった。 さて物語は小児愛者であるウィリアム・グラッデンの話を合間に挟みながら展開する。<詩人>の特徴である子供を対象にした殺人事件、自分が誰よりも頭がいいと思っている優越感に満ちた人物、そして催眠術を掛ける能力を有していることなど、これらの条件が全てこのウィリアムに当て嵌まるが、私はこれこそ作者の巧みなミスリードであると思った。 人は何かを得ようとすると何かを失う。そして得た物か失った物かいずれかが本当に欲しかったものなのかはその後の人生で答えが出るものだ。 コナリーの紡ぐ壮大なボッシュ・サーガの世界でまた今後ジャックとレイチェルの2人がなんらかの形で登場し、その後の2人を知ることが出来ることを期待して、また次の作品を手に取ろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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モダンホラーの巨匠キング初期の傑作と云われる本書は一般的に狂犬病に罹った犬が車に閉じ込められた人を襲うだけで1本の長編を書いたと評されている物語だが、もちろんそんなことはない。
ただ物語の始まりはちょっと異様な雰囲気に満ちている。 物語の舞台はメイン州キャッスル・ロック。そこは『デッド・ゾーン』でジョン・スミスによって正体が暴かれた連続殺人鬼フランク・ドッドが住んでいた町だ。そして連続殺人鬼の自殺は町に安全と安心をもたらしたが、同時に恐怖と悪夢の影を残し、今なお夜更かしする子供たちを寝かすときに「早く寝ないとフランク・ドッドが来るよ」という脅し文句が生まれるまでになっている。 そんな名残がまだ残る年に物語の主人公一家トレントンの子供タッドの押し入れにフランク・ドッドの幽霊が住まい、夜毎タッドを脅すという怪奇現象が語られる。 更に物語の中心となる対照的な夫婦の関係もクライマックスに向けて実に読ませるアクセントとなっている。 一方のヴィク・トレントンとドナの裕福な夫婦はしかし夫の独立でニューヨークからキャッスル・ロックという田舎町に引っ越した妻が日々の退屈を持て余して、家具修理業の男と浮気をし、それを浮気相手からバラされるという夫婦間の問題を抱えている。 もう一方のジョー・キャンバーとチャリティ夫婦は腕のいい自動車修理工だが、高圧的で暴力を振るう夫を恐れる妻が宝くじで5千ドル当てたのをきっかけに初めて夫抜きで友人宅へ愛する息子を連れて旅行に行く顛末が描かれる。 クージョに関わる二家族のそれぞれの事情を丹念に描き、下拵えが十分に終わったところでようやく本書の主題である、炎天下の車内での狂犬との戦いが描かれる。それが始まるのが233ページでちょうど物語の半分のところである。そこから延々とこの地味な戦いが繰り広げられる。 しかしこの地味な戦いが実に読ませる。 町外れの、道の先は廃棄場しかない行き止まりの道にある自動車修理工場。旅行に出かけた妻と子。残された夫とその隣人は既にクージョによって殺されている。更に閉じ込められた親子の夫は出張中で不在。 そして、これが一番重要なのだが、携帯電話がまだ存在していない頃の出来事であること。またその夫は会社の存亡を賭けた交渉に臨み、なおかつ出発直前に妻の浮気が発覚して妻に対する愛情が揺れ動いていること。 この狂犬と親子の永い戦いにキングは実に周到にエピソードを盛り込み、「その時」を演出する。 これはキングにとってもチャレンジングな作品だったのではないか。 今までは念動力やサイコメトリーなど超能力者を主人公にしたり、吸血鬼や幽霊屋敷といった古典的な恐怖の対象を現代風にアレンジする、空想の産物を現実的な我々の生活環境に落とし込む創作をしていたが、今回は狂犬に襲われるという事件をエンストした車内という極限的に限定された場所で恐怖と戦いながら生き延びようとするという、どこかで起こってもおかしくないことを恐怖の物語として描いているところに大きな特徴、いや変化があると云える。更に車の中といういわば最小の舞台での格闘を約230ページに亘って語るというのはよほどの筆力と想像力がないとできないことだ。 しかし彼はそれをやってのけた。 本書を書いたことで恐らくキングは超常現象や化け物に頼らずともどんなテーマでも面白く、そして怖く書いてみせる自負が確信に変わったことだろう。 だからこそデビューして43年経った2017年の今でもベストセラーランキングされ、そして日本の年末ランキングでも上位に名を連ねる作品が書けるのだ。 これは単なる狂犬に襲われた親子の物語ではない。物語の影に『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドの生霊がまだ蠢いているからだ。 私は本書の結末にキングとクーンツの違いを見る。 どんなに絶望的な状況に陥っても、必ずハッピーエンドをもたらすクーンツの作品はどんな困難でも必ず克服できると物語の裏にメッセージとして込めているからだろうが、逆に云えば結末が容易に付いてしまうのだ。 しかしキングは違う。彼は決して登場人物に容赦をしない。だからこそ物語の先行きが予想不可能で読者は終始心を揺さぶられ続けられるのだ。 こうなるとキングの作品はただ読んでいるだけでは済まない。各物語に散りばめられた相関を丁寧に結びつけることで何か発見があるのかもしれない。 キングの物語世界を慎重に歩みながら、これからも読み進めることとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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