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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数889

全889件 381~400 20/45ページ

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No.509: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

本格ミステリを揶揄しながらもハードルを高く上げる

東野圭吾氏が本格ミステリにありがちなお約束事やコードといったものを痛快に皮肉った名探偵天下一大五郎と大河原警部二人のシリーズ連作短編集。

密室殺人を皮肉った「密室宣言」。Whodunitでお決まりの意外な犯人像を探し当てる「意外な犯人」。「屋敷を孤立させる理由」は本格の王道「吹雪の山荘」の中で繰り広げられる殺人事件を追った物。「最後の一言」はダイイング・メッセージが、「アリバイ宣言」はその題名どおり、アリバイ崩しのミステリ。変わった趣向なのが『「花のOL湯煙温泉殺人事件」論』は二時間ドラマのシステムを踏襲した内容。「切断の理由」はバラバラ殺人事件の「なぜ犯人は死体をバラバラにしたのか」を解き明かす。

「トリックの正体」は作中ではそれを語ることでネタバレしてしまうと伏せられているがここでバラしてもたぶん大丈夫なので書いてしまおう。一人二役トリックを扱っている。そこでは小説が文字でしか読者に表現していないことを逆手に取ったギャグで最後は締められる。
「殺すなら今」は童謡殺人を扱っているが、その中身は便乗殺人である。東野氏の捻くれた物の考え方がうまくブレンドされ、特にタイトルの意味が解る最後の一行は秀逸。

「アンフェアの見本」はどんなトリックは書けない。しかし東野氏がある有名な作品に対して持っている考えが解ってしまった。

「禁句」は首なし死体を扱っているが、まさに禁句のオンパレード。死体に首がない時点で被害者が他人と入れ違っているのは当然だろうとか、特に最後の台詞―ご都合主義はトリック小説には付き物でしょ―は、それを云っちゃあおしまいだよというものだった。

「凶器の話」では消えた凶器の正体がテーマ。これはその凶器の正体よりも最後に判明した新事実を名探偵の推理を守るために警部がもみ消すところが最大の皮肉。

エピローグはシリーズキャラが犯人という意外性を扱っている。これは当時連載されていた推理漫画『金田一少年の事件簿』を皮肉ったものなのか。

そして最終エピソード「最後の選択」は西野刑吾というどこかで聞いたような名前の符号が所有する無人島に天下一含め10人の探偵が集い、連続殺人が起こるという話。それぞれの探偵が古今東西の名探偵を髣髴させるキャラであり、それぞれを辛らつに貶している。そしてタイトルにある「最後の選択」はシリーズ探偵の存在意義を問うもので、案外内容的には深い、かな?

本書はとにかく普通の短編集ではない。登場人物が小説世界にいながらにして途中でメタの存在となり、自らの置かされている状況について色々不満を述べ、時には作者を貶したりする。事件も通常のストーリーのようには展開せず、ミステリにありがちな手続きに関しては省略されるし、時には事件に直接関わりあいのない人物は男性Aだの女性Bだのと簡略化される。
そう、本書で語られるのは物語ではなく、本格ミステリという作り物の世界が抱える非現実的な設定や内容に対する揶揄や疑問のオンパレードなのだ。

しかしそれでも一応トリックはあるし、それなりにオリジナリティも感じられる。自分の知っている限り、他の作家のトリックをそのまま転用した物は見当たらなかった。
もともと東野氏はトリックを創出することに苦労はしないと云っているから、これは東野氏の数あるトリックネタの棚卸しなのでもあろう。

とにかく本格に対する揶揄の連発が非常に小気味良い。エッセイで東野氏のギャグと毒のある語り口は一躍有名になったが本書でもそれは健在。いわゆる本格ミステリのお約束とも云える暗黙のルールについて敢えて鋭いツッコミを入れることを辞さない。
これは東野氏の本格ミステリからの訣別の書なのか?
いやいや逆に本格ミステリを愛するが故の提言と理解しよう。
なぜならこの後、東野氏は敢えて最後に犯人を明かさずに読者に推理をさせる実験的小説『どちらかが彼女を殺した』や『私が彼を殺した』といった野心的な本格ミステリを続けて書いているし、科学とトリックを融合させたガリレオシリーズも書いているからだ。
逆に云えば、ここには本格ミステリが抱える不自然さを敢えてこき下ろすことでその後の自作については決してそんな違和感を抱かせないぞと、ハードルを挙げているような感じさえ取れる。

本書における東野氏には、今まで作者自身が抱いていた違和感を忌憚なく語ることでふっきれた感さえ感じられる。

そしてこの作品を読んで「ああ、面白かった」で済ませてはならないだろう。これは東野氏が今までのミステリではもうダメだと明言しているのだから、今の本格ミステリ作家、これから本格ミステリを書く人たちは本書に書かれた示唆を踏まえてミステリを書かなければならない。
本書が刊行されたのが1996年6月。既に22年以上が経過しているが、果たして本格ミステリは変わっているだろうか?

この“本格ミステリ啓発の書”は本書で終わらず、さらにもう一冊『名探偵の呪縛』が刊行されている。
そちらもまたどんな東野氏の皮肉と歪んだミステリ愛が語られているのか愉しみだ。

名探偵の掟 (講談社文庫)
東野圭吾名探偵の掟 についてのレビュー
No.508:
(8pt)

長すぎる?いやいや。でもやっぱり長いか

あの名作『ゴールド・コースト』から18年。まさか続編が作られるとは思わなかった。期待と不安の入り混じった思いを抱きながら手に取った。

作品内の時間は前作から10年後の世界で9・11テロの9ヵ月後という設定。民族テロという色合いを持つこの事件がデミルに多大な影響を及ぼしているのは昨今の作品からも明らかだが、本書ではそれを上手く『ゴールド・コースト』の作品世界に絡ませている。

即ちワスプたちの世界であったゴールド・コースト一円にいきなりイタリアマフィアという異文化の人間が介入してきて弁護士夫婦の生活に変化をもたらしたのが前作なら、本書はさらにそこに政治的亡命者のイラン人資産家を加え、さらにかつての使用人だったインド人に終身居住権を持たせて単なる召使いという存在からジョンの生活に影響を与える存在に押し上げている。

今回も隣に引っ越してきたマフィアの息子アンソニー、そしてスタンホープ屋敷を除く一円を買い取った怪しげなイラン人アミール・ハシム、もちろん別れた妻スーザン。さらには永遠の宿敵で目の上のたんこぶであるスーザンの父親ウィリアムと帰米したジョンの周辺は何かと物騒で物々しい。

とにかく懐かしい面々が揃った物語は上下巻併せて1380ページという大書だが、全く飽きが来ない。全てのキャラクターに貌があり、全てのキャラクターに血肉が備わっている。
彼ら彼女らのアクの強い面々の織り成す物語は云わばデミル版『渡る世間は鬼ばかり』。ミステリのようでミステリでない、人間喜劇ともいうべき作品なのだ。

やはりこの物語の功績はジョン・サッターの一人称叙述にしたことだろう。
古くから住まうアメリカ高級貴族の生活を、NYで事務所を構える弁護士であり、それなりに身分の高い人物でありながら俗物根性が抜けないジョンの、ワイズクラックに満ち、権威を鼻で嗤い、持ち上げては突き落とすおちゃらけ振りが、一般人には理解しがたい高級階級の人たちの生活や考え方を荒唐無稽な非常識として我々に提供してくれている。

確かにジョンの減らず口の連打には冗長に過ぎるという感を抱く向きもあるだろう。厚さの割りには物語が進まない、長すぎる、という声は至極尤もだと私も思う。
しかしこの作品はその長さを愉しむのであり、ジョンの俗物根性と斜に構えた思考が繰り出す皮肉の数々を味わうのが正しい読み方なのだ。
私は逆にこの作品がこれだけの長さでよかったと思っている。上流社会のおかしさや体面を保つことを重視する面持ちをジョンの下らない洒落や愚痴を通じて長く愉しめるのだから。

そして今回ジョンの心に翳を落としているのは元妻スーザンと彼女が射殺したフランク・ベラローサの件だ。10年経った今、ゴールド・コーストの面々は一応の折り合いをつけ全ては終わったこととして振舞っているが、この地で10年の空白期間があるジョンにとっては彼らの変化を今一つ信用しきれなく、いつスーザンが報復されるのかが心配で堪らないのだ。
その実彼はなかなか彼女と会おうとしない。この妙な自尊心と騎士道精神の葛藤が面白いのだが、それがまたジョンの雄弁さを本書では助長しているような気がする。

しかしそれはスーザンと逢うと全く一変する。いい別れ方をしなかった元妻にどんな顔をして逢ったらいいのか判らなかったジョンだが、スーザンが今なお彼への愛に変化がないことを知ると、以前の如く、仲睦まじく魂と身体で通じ合った絶妙なコンビネーションを発揮するのだ。
この展開になるまで約360ページを費やす。1本の小説分の分量だ。これは確かに長すぎると思われても致し方ないか。

今回はスーザンとの復縁を成就する為に障害となるのが彼女の父親ウィリアム。とにかく彼は支配することを全てとし、彼が支配できないこと、人を忌み嫌う。その存在こそがジョン・サッターその人なのだ。
今回ウィリアムはスーザンが復縁すると彼女を遺産相続人のリストから外し、彼らの子供エドワードとキャロリンをも遺産相続人から外すと脅しをかけるのだ。この絶体絶命の窮地を実に意外な展開で一気に逆転するのが実に小気味よい。この辺はぜひ本書を当たってもらいたい。

そんな物語はやはりこれはミステリではないのでは?と思わせながらも、やはりマフィアの息子アンソニーの登場で実に緊迫したクライマックスが訪れる。

しかし1990年に書かれた作品の続編がなぜ18年後の2008年に書かれたのか。それはこの作品の設定された時間に答えがあると云えよう。
先にも書いたが本書の舞台は9・11の同時多発テロが起きた9ヵ月後。その後のアメリカ人、特にニューヨーカーたちの人生に対する考え方、死生観に変化が起きたことを今までデミルはジョン・コーリーシリーズを通じて語ってきた。
一日一日を大事にする者、家族との絆をより一層深める為に仕事の一線を退いた者、テロ発生の可能性が高い都会を離れた者、そして無力な政府に代わってイスラム社会へ神の鉄槌を下そうと画策する者、などなど。
作中ではジョンの息子エドワードが黒一色の服装をしているせいか、空港で別室に連れて行かれた、なんてことも書かれている。その変化は俗社会から一線を画した建国時代に栄華を誇った貴族階級の人間達が住まうニューヨーク郊外の「ゴールド・コースト」の住人たちにもテロによって何らかの変化が訪れたであろうことを書きたかったのだろう。
つまりこれはデミルが今後ライフワークとして取り組むであろう、「9・11によってアメリカに何が起きたのか」というテーマに沿った作品の一部であるのだ。

そしてやはり最後のアンソニーの襲撃もまた、個人レベルで起きたテロなのだ。そしてスーザンとジョンが取った行動には決してテロには屈してはいけないというメッセージが明示されている。
最後にスーザンがFBI捜査官マンクーゾに次のように語る。

「(前略)あの男はわたしたちを辱め、その後のわたしたちの人生を変えたいだけだったのよ」
「(前略)あの男はわたしたちの魂を殺そうとした……わたしにはそれが許せなかったの」

これは“あの男”をビン・ラディンと読むとデミルの9・11同時多発テロに対する怒りの主張に取れないだろうか?
あのテロを経験したことで価値観や生活がガラリと変わってしまったことを肌身で感じながらも、結局ビン・ラディンは何をしたかったのかが見えてこない。そんな卑劣漢に対する彼の見方と怒りがここに現れているように感じる。
そしてそれを敢えて質さずに認めるマンクーゾもまたデミルの分身だろう。即ち大量破壊兵器があるという大義名分で現地に乗り込んだ当時の大統領ブッシュを支援しているかのようにも思える。

しかしそんな硬いことを考えずともこの作品は楽しめる。
特にスーザンと離婚後、ヨットで世界一周をし、ロンドンに住んでいたジョンやジョンを待って独身を通したスーザン、そして長年スタンホープ家に使えていたエセルらの人生で重ねた後悔への述懐などは我が身を摘まれる思いがする。

云うべき言葉を発しなかったことで人生が変わってしまった、云うべきことを云えなかったのは得てして人は希望よりも恐れを抱く傾向にあるからだ、云々。
なんとも含蓄溢れる人生への教訓ではないか。

読書前の心配は読後の今、全く以って杞憂に終わった。
ただもう少し物語はスリムに出来たかもしれない。ジョンとスーザンの生活に影響するはずだった存在アミール・ハシムがなんとも影が薄くなってしまったりと無駄な設定、エピソードも目立ったからだ。

それでもジョンとスーザンの魅力あるカップルに再び逢えたのは嬉しかった。もう恐らく彼らと逢うことはあるまい。

まだまだデミルからは目が離せない。


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ゲートハウス(上) (講談社文庫)
ネルソン・デミルゲートハウス についてのレビュー
No.507:
(7pt)

主人公強くなりすぎ!

当初3部作で構想されていたフランケンシュタインシリーズの第1部終了を告げるのが本書である。

元々クーンツはノンシリーズの作品をたくさん書いていたが21世紀の今頃になっていきなりオッド・トーマスとフランケンシュタインという2つのシリーズ物を書き出した。前者も後者もその第1作は近年の彼の作品の中でも出色の出来ともいうべき素晴らしいもので、シリーズの先行きを十分期待させるのだが、第1作に全てを投じてしまうのか、新巻が出るたびに大味になり、物語もオーソドックスな感じになってしまう。オッド・トーマスは今は中断されており、こちらのシリーズは続巻が出されているようだ。

これは多分にこのシリーズではフリークたちが人造人間、新人種という形でどんどん出てくるからで、こういった常軌を逸脱したキャラクターたちはクーンツの十八番である。このシリーズはまさにクーンツのクーンツによるフリークショーなのだ。

そして今回でも特別な能力を与えられているのが犬。本書ではレプリカントであるギトロー夫妻に殺される隣人のベネット夫妻が飼っているシェパード、デュークだ。デュークはかつて燃え盛る家の中から子供を救ったことで街でも有名な英雄犬として知られている。デュークは臭いでその人間が善玉か悪玉かを見分ける(臭い分ける?)ことが出来る。これはこの犬が特別だということを示しているのだろうが、それに加えて恐らく犬を飼っていたクーンツが一緒に生活をしていて感じたことも反映されているのだろう。しかしそれにしても最近のクーンツの犬への偏愛振りはさすがに食べ飽きた感がある。

最後に蛇足めいた補足を。デュカリオンが最後に行き着く場所はセント・バーソロミュー修道院。そう、クーンツ読者ならばこの名を聞いて思い出すだろう。その修道院にはかつてオッド・トーマスがいたのだ。これはクーンツのファンサービスなのだろうか。恐らくこの2つのシリーズが交わることはないだろうが、もしそうなったらクーンツがオッド・トーマスシリーズを止めているのも理由があってのことかもしれない。

まあ、続いて刊行されるシリーズを愉しみに待つことにしよう。


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フランケンシュタイン 対決 (ハヤカワ文庫NV)
No.506: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

West Meets East.

West Meets East。
本作の主題を一言で表すとこうなるだろうか。
中国からの密入国者とそれを抹殺する蛇頭の殺し屋の捜索に図らずも中国から密入国してきた刑事ソニー・リーと協同して捜査することになったライムとリーとの交流が実に面白い。物語の構図は殺し屋対ライムと変わらないが、決してマンネリに陥らないようアクセントを付けているところがディーヴァーは非常に上手い。特にお互いが白酒とスコッチと西と東の蒸留酒を飲み交わしあいながら語り合い、碁を打ち始めるシーンはとても印象的だ。
毎回このシリーズには名バイプレイヤーが登場するが本書ではまさしくこのソニー・リーだ。

現場に遺された遺留品や証拠類、痕跡から快刀乱麻を断つがごとく、犯人の行動を再現し、その正体に迫っていくライムだが、今回は東洋、中国人の思想という壁に阻まれ、いつものように殺し屋の先手を打つ精細さが発揮できない。西洋人の論理的思考が中国人の面子を重んじる精神を上手く理解できず、成り行きで捜査の手伝いをすることになった中国公安局刑事ソニー・リーにイニシアチブと取られてしまう場面が多々出てくる。
あくまで物的証拠を重視し、刑事の勘などを一切認めなかったライム―その頑なさが前作『エンプティー・チェア』でアメリアとライムとの対立を生んでいた―が本書では東洋の―というか中国人の―特異な考え方のために、ソニー・リーに頼らざるを得なくなるのが面白い。世界一の犯罪学者と称され、巻を重ねるごとに全知全能性にますます拍車がかかっていくライムを『エンプティー・チェア』では知らない土地での捜査という趣向で、本書では異民族との戦いという趣向でライムが決して万能神にならないよう工夫を凝らしているのが素晴らしい。
『エンプティー・チェア』と云えば、冒頭に『コフィン・ダンサー』で標的になった被害者のボディガードになったローランド・ベルがいとこが保安官を務めている『エンプティー・チェア』の舞台ノースカロライナで、同書にも登場したルーシー・カーと付き合っているというエピソードがさりげなく挿入されているあたりはシリーズを読む者にとってささやかな醍醐味だろう。とはいえ、前作の結末を知っている者にはいささか複雑なものを感じる話ではあるのだが。

またシリーズも4作目になるというのにまだまだ鑑識の世界は奥深く、今回もディーヴァーは我々一般市民の知らない専門知識や情報を教えてくれる。

例えば証拠物件を扱うのにピンセットではなく日本人や中国人が使っている箸を使うのだそうだ。箸の方が力を上手く和らげ証拠物件を損傷することなく扱えるからだという。
また鑑識捜査で大敵であるのが現場に落とされる捜査官達の頭髪やら皮膚、汗など部外者による余計な証拠なのだが、これを解消すべくフード付の防護服が開発されたこと(しかしその着装姿はとてもカッコいいものではないらしいが・・・)。

鑑識以外にも豆知識はふんだんに盛り込まれていて、例えばライムの半身不随の手術に使われるのがサメの細胞などということも触れられる。これはサメの細胞が人間の物と適合しやすいからだそうだが、今ではこれはiPS細胞になるんだろうなぁ。

またディーヴァーといえばどんでん返しが定番だが、しかしこれには無理があるのではないか?

もう一つディーヴァー作品に欠かせないのが息もつかせぬサスペンス。『コフィン・ダンサー』の時は一部空が舞台になったが、本書では一部海が舞台になっている。
前者が航空機の操縦についての薀蓄が語られ、さらにスペクタクルまで用意されていたが、本書ではスキューバ・ダイビングで沈んだ密入国船の捜索にアメリアが当たる。刻々と無くなっていく残存酸素量がタイムリミットサスペンスを煽り立てるところはさすがディーヴァーといった所か。

しかしメインのゴーストとライム&アメリアの対決は意外にも呆気なく終わる。しかし物語の主眼は今までの敵になかった政府との太いパイプを持った殺し屋をいかに逮捕するかというところに置かれている。
捕まったゴーストは中国へ送還され買収した役人・警察たちの手によってすぐさま自由の身となるのだが、それをいかに阻止するかにライムたちチームの捜査がメインとなっている。したがってアクション性は今までの作品の中ではちょっと大人しく感じた。しかしゴーストは他の敵とは違って逮捕されただけでライムとアメリアの住所も知っているだけに再登場して今後の驚異となる可能性もあるのかもしれない。

さて本書のタイトルとなっている「石の猿」とは殺し屋の名前ではなく実は日本人に馴染みのある西遊記の孫悟空のことだ。細かくいうと密入国者の一人、医者のジョン・ソンがしている首飾りに付けられたお守りのこと。
暴れん坊の猿の妖怪が天竺への旅で知見を増やし、改悛していくというモチーフからソニー・リーという刑事が中国の東の国アメリカに渡って親不孝者と思われていた自分を親に認めさせるという影のテーマに擬えているのだろうが、もっと他にもあったのではないだろうか?

今回は従来のジェットコースターサスペンスの趣向から外れ、異文化とライムの邂逅を軸に中国密入国者の現状とチャイナタウンの陰の部分を描くことでストーリーに濃密さをもたらそうとしたのは解る。確かに密入国者のサム・チャンが車が来るたびに、誰かの話し声がするたびに電灯を消し、息を潜めて暮らさなければならない状況に絶望するエピソードなどはなかなかに読ませ、考えさせられたが、もう少し掘り下げてくれればもっと読み応えがあっただろう。
特に読み応えを感じたのはライムとリーのやり取りの箇所だった。特にライムが脊髄の手術を取止める決心をさせたのがリーの言葉だったというのは重要だし、シリーズの今後の方向を決める部分でもあった。

しかし毎度のことながらこの世は騙し騙されの連続で、賢く立ち回った者が生き残り、素直で世間の怖さを知らない無垢な人間は生きていけないのではと思わされる。
作品の性質上これは仕方ないのだが、蛇頭の魔の手から逃れるために善玉の密入国者サム・チャンの取った行動でさえライムの推理を手玉に取るくらいのフェイクだし、そして真相で明かされるのはまたもや政府高官たちの悪行―ゴーストがわざわざ密入国者を殺そうとしたのは福建省の高官たちが企業の賄賂を受け取って潤っている事実を亡命した反体制活動家から暴露されるのを防ぐ為―だ。
政治と金、権力と金の汚さこそが実はこのシリーズの隠れたテーマになっていることを気付かなければならない。

『エンプティー・チェア』から続いたライムの四肢麻痺からの回復への道もここで一旦終了。そしてアメリアが抱くライムの子を授かりたいという思いも一段落着いたような形だ。次作はまた新たなシリーズのステップの始まりではないだろうか。

もう一度『ボーン・コレクター』や『コフィン・ダンサー』で見せた手に汗握るサスペンスを期待したい。


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石の猿〈上〉 (文春文庫)
ジェフリー・ディーヴァー石の猿 についてのレビュー
No.505:
(7pt)

ちょっと身につまされる思いがしたり

東野圭吾版ユーモア短編集とでも云おうか。その名の通り、ちょっと笑いを誘う短編で編まれている。

まず冒頭を飾るのは「鬱積電車」。これはまさに身に摘まされる。ラッシュアワーの電車の中で各人が抱く不満がつらつらと書かれた群像劇。
ラッシュで諦めていたが思わず目の前の席が空いてラッキーだと思う者。焼肉を食べた隣の酔っ払い親父の息の臭さに辟易するOL、席を譲るのをあえて促す老婆に妊婦、そしてオバサン、さらにそれにどうにか抵抗しようとするサラリーマン、そしてやたらと目の前の女性にいやらしい目つきを配る中年男、などなど。
ここには通退勤で電車を利用している我々が日常に抱くであろうことが書かれている。単に「あるある!」感を誘うだけの話かと思いきや、皮肉な結末が待っている。この結末も含め、実に上手い。

続く「おっかけバァサン」では年金と亡き夫の生命保険で細々と食い繋ぐ老婆が偶然手に入れた芸能人のショーの公演でいきなりおっかけに目覚めた顛末が語られる。
う~ん、真面目一筋、ケチ一筋で生きてきた人が華やかな世界に目覚め、身持ちを崩すというのはよくある。例えば男なら退職の送別会で初めて連れて行かれたキャバクラに目覚め、その後の老後生活を破綻させてしまう、なんて実例もある。
しかしこのオチは悪趣味だなぁ。

「一徹おやじ」はわが子をプロ野球選手にしようと一サラリーマンが独自の英才教育で息子を鍛えていくタイトルどおり『巨人の星』のパロディ。
実に面白い!この手の作品は色んなパターンが考えられると思うが、東野氏は敢えて息子に自身の適えられなかった夢を託した親父の願いどおりに息子がプロ野球選手に選出されるように語っていく。ブラックな結末も面白いが、それよりもこの作品の語り手を息子の姉に設定したことが何より面白い。男の子の欲しかった父親がその代わりに我が娘をプロ野球選手にしようと鍛えるというのはこれまたよくあるから、一歩引いた冷めた視点の語り口がユーモアを醸し出している。

東野氏らしいアイデア「逆転同窓会」はある時期に同じ学年を担当した教師達による同窓会というお話。毎年恒例のその会に当時の生徒を招待することにしたのだが・・・。
教師同士の同窓会。意外とこれは実際にやっているのかもしれない。そして生徒が当時の教師をゲストとして呼ぶように教師も当時の生徒をゲストとして呼ぶという着想の妙。そしてそうすることで起きる意外な弊害。実に考えられたプロット。
幹事の先生が心中で述べる「生徒の同窓会は現在に生きる彼らが過去に戻るためにやるが、教師の同窓会に呼ばれた彼らは過去に現在を持ち込む」という言葉に全て集約されている。しかしそれでもなお最後に意外かつ思わず微笑んでしまうオチを用意しているのは東野氏ならでは。

「超たぬき理論」は幼い頃に和歌山の母の実家でたぬきが空を飛んで去っていくのを見たことをきっかけに在野のたぬき研究家となってUFOがたぬきが化けた姿だという自論で話題になり、メディアでUFO研究家と議論を繰り広げるといった話。
たぬきをモチーフに実にバカバカしくこじつけ理論を展開する東野氏の悪ふざけが横溢した作品。ギリシャ神話からアダムスキー型UFOが文福茶釜と類似しているとかたぬきの語源が英語だったとか、よくもまあ思いついたものだ。最後の一行の脱力物のオチは果たしてあった方がよかったのかなぁ。

脱力物といえば次の「無人島大相撲中継」もまた同じだ。
世界ビックリ人間にいそうな、過去の大相撲の取組を全て暗記し、実況中継として再現する元アナウンサー。ここから話題を膨らませて、賭けのために八百長を強要するのだが、最後のオチが脱力物。まあ、確かに古い家電は叩けば直るというのは布石としてあったのだが。

「しかばね台分譲住宅」は郊外のベッドタウンに突如現れた正体不明の死体を巡って、事件の影響で地価下落を恐れた住民達が同じようなベッドタウンに死体を遺棄して逆に向こうの地価下落を画策するのだが、やがてそれが死体を押し付けあう街同士の抗争に発展していく。
これは最高に面白かった。これが本書の中でベスト。通常の推理小説ならば死体が出れば警察に連絡というのが定石だが、実情はこの作品にあるように風評被害を恐れて街ぐるみでの隠蔽工作に走るのかもしれない。東野氏のブラックユーモアのセンスが色濃く出た作品だ。
しかし住民達の抗争で次第にボロボロになっていく名も無き死体が哀れを誘う。

どこかで聞いたような題名の「あるジーサンに線香を」は若返りの実験体となった一人暮らしの老人の約三ヶ月間の記録を主人公の老人の日記で語った作品。
何も解らぬ妻と死別し、一人暮らしを続ける老人が次第に若さを取り戻し、恋をし、そしてまた老いていくのが日記で綴られていく。その題名からダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』のパロディであるのは想像に難くない。しかし私はフィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の方を思い浮かべた。

最後は「動物家族」。いつの間にか人が動物のように見えるようになったある男の子の話。人間の一番汚い心の部分を醜悪な生き物に例えて表現している。バブル崩壊時によくあった典型的なある家庭の姿なのだろう。今はこの頃よりも子供に対する扱いや対処の仕方が改善されているが、どこかにこういった家族はいるのだろう。
自分の都合ばかり考える父母に兄と姉に振り回される末っ子は誰もが動物に見えるのに自分は得体の知れない生き物としか見えなかった。これが最後の箍が外れることで彼の本性が解き放たれ、何の生き物だったのかが解る。ありきたりな話を寓話的に語ることで最後の結末にピリッと辛い味付けが施されている。


タイトルに偽りなし。まさに「快笑」ならぬ「怪笑」といわざるを得ないブラックなユーモアが詰まった短編集だ。
ここに収められている短編の登場人物はいわゆる「あなたに似た人」。我々の平凡な日常や世間にどこにでもいる、もしくはいそうなちょっと変わった滑稽な人々のお話だ。
ラッシュアワーの電車内での風景、老後生活に入ってからスターの追っかけに目覚めた人、プロ野球選手になれなかった自分の夢を託して息子を鍛える一徹親父、教師同士の同窓会、幼い頃の原初体験をきっかけにトンデモ学の研究にのめり込む者にあるスポーツに異様に詳しい者や甘い言葉にだまされ郊外に家を建てて通勤地獄に苦しむ者たち、身内を亡くして行く当てもなく孤独死を迎えるだけの一人身の老人に家庭崩壊寸前の核家族。通勤中や会社で、飲み屋で見かける人々や新聞の三行記事で書かれていたり、ワイドショーで取り上げられたりするような家族や人。日常というドア一枚隔てた先に広がる空間でいるだろう人々だ。

つまり登場人物が非常に人間臭いのだ。だから例えば殺人事件が起きたとしても警察にすぐさま通報というミステリの定型を取らず、そのことで降りかかる風評被害といった災厄を懸念し、皆で隠蔽しようとする。
しかしよくよく考えるとこれこそが日常を生きる我々が取ってもおかしくない行動であり、思考である。重ね重ねになるがここに出てくる見苦しくも愛らしい人々は私の、あなたの姿だといえる。だからこそ非常に親近感を覚えて作品を楽しめる。

個人的なベストはブラックユーモア色が一番濃い「しかばね台分譲住宅」で、次点で「鬱積電車」か。着想の妙では「逆転同窓会」が実際にありそうでリアルに感じた。

しかし東野氏はユーモアを書かせても上手いなぁ。というよりも関西人の彼の本領は実はここにあるのではないか?
「おっかけバァサン」や「一徹おやじ」、「無人島大相撲実況中継」などはコントとして発表してもおかしくない。この前読んだ『あの頃ぼくらはアホでした』で、本当にしょーもないことばかりを面白おかしく語ってみせ、緻密で流麗で後味がほろ苦い感傷的なミステリを書く作家というイメージを覆した東野氏があのエッセイを書くことで何かが吹っ切れ、地の姿を存分に出したようだ。

この後『毒笑小説』、『黒笑小説』とシリーズ(?)は続くようなので非常に楽しみ。本当は8ツ星献上したかったのだが、それはまた次に取っておくとしよう。


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怪笑小説 (集英社文庫)
東野圭吾怪笑小説 についてのレビュー
No.504:
(7pt)

女の闘いは修羅の道?

打海文三氏は今はもう亡き作家だ。2002年に発表した『ハルビン・カフェ』で注目され、その後『裸者と裸者』に始まる近未来の日本での戦争を描いた『応化戦争記シリーズ』で将来を嘱望されたが2007年に心筋梗塞で夭折。まだ59歳という若さだったから、これはやはり不遇ということになるだろう。

彼の小説はなかなか文庫化にならず、デビュー作で横溝正史ミステリ大賞を受賞してから3作発表したが、初めて文庫化されたのが5作目の本書だった。
なおデビュー作の『灰姫 鏡の国のスパイ』は文庫化されていない。

デビュー作は題名から国際問題を題材にしたエスピオナージュのようなものを得意とする作家かなと想像したが本書は所謂プライヴェート・アイ小説。この作家独自の味付けがされている。

まず鈴木ウネ子(どうやら本名ではないらしい)は60過ぎの元結婚詐欺師という経歴を持つ女探偵。いつも男に飢えているが仕事はデキる。
探偵仲間の野崎は元警官で背の低さと容姿にコンプレックスを抱いているが心に獣を飼っている男。
彼らが追うのは元巡査で元探偵だった阪本尚人。人の人生に関らずにはいられず、仕事と私生活の境界線を引くことが出来ない不器用な男。
そしてもう1人の探偵が13歳の登校拒否児、戸川姫子だ。物語は渋谷の公園で見つかった全裸死体に阪本が関っていることが解り、彼を警察、鈴木ウネ子と野崎、戸川姫子の3組が阪本を巡って奔走するといったもの。

しかしこれは単なる人探しの探偵物語ではない。

これは女の戦いの物語である。

渋谷の公園で見つかった全裸の女性死体の事件に隠された警察の犯罪を描いたこの作品は実は阪本尚人という男を軸にした女同士の激しい戦いなのだ。

戦闘に立つ女性は4人。本書の主人公13歳の戸川姫子は登校拒否児であるが既に精神は大人であり、大人に同等に渡り合う知恵を備えている。

そして阪本の探偵仲間の鈴木ウネ子。

そして被害者の南志保。かつて自分の妹を殺された犯人が阪本の命令を逸脱した行為によって引き起こされたものと思い、糾弾していたがそのうちに阪本に惚れ、同棲していた女。

そして最後は高木伊織。キャリアで阪本の元上司だが、周囲と違う雰囲気を備えた巡査の阪本に惚れ、南志保と三角関係に陥ってしまう。

そう彼女たちの中心に位置する阪本尚人という男は冷めた顔に愛くるしい笑顔が似合うが、一旦仕事でも自分の人生に関ればその後の生き様まで目を見晴らせ、道を誤っていれば更正を促すという、いまどき珍しいほど情に厚い男。警官だったが上に書いた命令違反行為によって懲戒免職になり、その後探偵に身をやつし、その生活に疲れ、山梨の山奥で農家を始めて隠遁生活を送るようになった、一風変わった男。
彼がこの4人に嵐を生み出し、人が死ぬまでになった、いわば災厄の男なのだ。

つまりこれは追われる者阪本が現代版光源氏ともいうべき、出会う女がどうしても恋に、いや欲望に駆られざるを得ないようなフェロモンを漂わせている男なのだ。彼を追う警察の動機はもちろん警察上層部が女性刺殺事件に関った事実のもみ消しだが、他の女性たちはそんな利害よりも阪本という男を我が物にしたいと焦がれる欲望で突っ走っているようだ。
このプロットを可能にしたのが打海氏の設定の妙だろう。前述の姫子とウネ子は割愛するとして被害者の南志保は阪本が警官時代のミスがもとで妹を失い、阪本を社会的に抹殺しようと恨みを募らせていたが、いつの間にか阪本に惹かれてしまうし、高木伊織にいたっては阪本のかつての上司。このキャリアの警官が30代前半の女性だったという設定は他に見たことがなく、意外に盲点で感心した。

しかし本書に出てくる女性は老いも若きも互いの相手を年下、年増と侮らず同等の女性として扱っているのに感心する。特にウネ子の姫子に対する眼差しが温かく、清々しい。いいライバルとして機能していて読んでいて気持ちよかった。

傑作とまではいかないが読後感に一迅の涼風が吹く好編だ。

しかしもう少し題名はどうにかならなかったかなぁ。この題名から想像するのはすさまじいまでの撃合いとか暴力と血の物語だ。
先入観で読むのはいけないことだが、題名のつけ方も逆に云えば読者に先入観を与えるのだから大事なものだ。
もはや新作が読むことの出来ない作家だから、この声は届かないが、遺された作品に期待しよう。

されど修羅ゆく君は (徳間文庫)
打海文三されど修羅ゆく君は についてのレビュー
No.503: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

貴方が今夜泣きたいならこの本を読むことを勧めます

いきなりデビュー作にて2000年版の『このミス』で10位ランクインという快挙を成し遂げた短編集がこの本多孝好氏の『MISSING』。それから約19年を経てようやく読んでみた。

まず本多氏が作家になるきっかけとなった小説推理新人賞を受賞した作品が1編目の「眠りの海」である。
この短編、当時はけっこう話題になった作品だったので興味深々で読んだが、率直に云ってミステリとしての謎は弱い。デビュー作をベテラン作家と比べては悪いが、それでも同じように初期には学園を舞台にした短編も著している東野氏のクオリティに比べれば、真相が透けて見えてしまっている。
しかし本多氏は本書を単なるミステリに留まらせずに最後に一味加えることで幻想小説へと昇華させている。これがこの作品を一段上の高みに押し上げているのだろう。導入部として最も適切な一編だ。

次の「祈灯」は部屋に入ると見知らぬ女性が普通にいたという奇妙な導入部が印象的だ。

続く「蝉の証」は老人ホームが舞台となった作品。老人ホーム『緑樹荘』に入っている祖母から奇妙な依頼をされる。
変則的プライヴェート・アイ小説とでもいうべき好編。
相川老人の許を訪れる孫と思しき、およそ堅気の人物とは思えぬ巨躯で金髪に染めた首にチェーンをぶら下げた男の正体を突き止めるために主人公が捜査で出会う人々から知らされる相川老人の意外な過去。老人ホームでくたばるのを待っているだけと見なされている人たちが生きた道程とは実は波乱に満ちていたのだと気付かさせられていく。確かこれが次作『ALONE TOGETHER』の原点となった作品ではなかったか。
しかし本編にはこの短編集に通底するあるテーマが主人公の口を借りて語られる。それについては後述しよう。
しかしなぜ当時20代の本多氏がこれほどまでに老人ホームに住まう老人達を活写できたのか、それを驚くべきだろう。

ミステリというよりもほろ苦い初恋物という趣のある「瑠璃」は4つ年上のルコと僕の2人の交流を描いたもの。小学校6年生の頃、高校生の頃、そして大学生の頃に僕とルコとのエピソードが綴られる。
この短編では他の作品と違い、ルコがなぜ自殺したかが主人公の中で理論付けられない。その答えが、もしくは手掛かりが残されているルコが遺した手紙の内容についてあえて作者は触れずに物語を閉じる。ある意味、これは作者の中で冒険であったのではないか?また一つここに魅力的な女性を描いた青春小説の傑作が生まれた。

最後の一編「彼の棲む場所」は味わいがガラリと変わった作品だ。
人間の、心の奥底に抱く殺人願望、破壊衝動。そんな昏い情動を実は高校時代から優等生でテレビでクリーンを絵に描いたような有名タレント教授が抱いていたら…。
彼が固執する誰も知らない同級生サトウとは、もう彼の暗黒面に他ならないのは自明の理だろう。そんな読んでいて吐き気の出るような話を聞き手である私が飄々として受け止め、日常に戻るギャップが印象的だ。


MISSING。それは喪失感。
MISSという単語は日本語で云われている「誤り」とか「間違い」という意味は全くなく(日本語のミスはMistakeの省略)、「誰かのことを思って寂しくなる」という意味だ。

本書に収録された5編に共通するのはまさしくこの「誰かのことを思って寂しくなる」、即ち喪失感だ。

そしてこの喪失感ほど残酷なものはない、という作者の主張が行間から見えるほどここにはある特殊な思いが全編に共通して流れている。

それは3編目の「蝉の証」の中で主人公が考える次のことだ。

「欺き、騙され、そうまでして人は自分が生きた証をこの世界に留めずにはいられないものだろうか」

まさしくそうだろう。喪失感という心に与える巨大な負のエネルギーが却って残された人々の心に存在感を浮かび上がらせる。

あの時確かに君はいたのだ、と。

この喪失感について作者は3編目の「蝉の証」で答えを出したかのように、死の間際に取った人間の不可解な行動の意味を探る趣向から、喪失感そのものにスポットを当てて書いているように思える。4編目の「瑠璃」は失った憧れの従姉のお姉さん、5編目の「彼の棲む場所」ではちょっと変わった喪失感だ。

そう、本書の中で異色なのが最後の「彼の棲む場所」。今までの短編が人を失うことの喪失感―恋人、妹、娘、堕胎した赤子、事故の被害者、憧れの年上の女性―を扱っているのに対し、この作品では「人を殺す機会」を失ったことを惜しむ心の暗部を語っている。他の4編が感傷的なのに対し、この作品だけが実に欲望的だ。

また本書の特徴として収録作全てが一人称叙述で書かれ、主人公が全て「僕」と匿名であることが挙げられる。このことで読者は物語の世界に自分を重ね合わせることが出来、したがって主人公が抱く喪失感が密接に感じられるようになっている。

しかしこの本多孝好という作家の人間を描く力、落ち着いた筆致には正直恐れ入った。これがデビュー作だというのだから驚きだ。語り口や時折挟まれるユーモア交じりの比喩など、無理を感じさせなくほどよくストーリーに溶け合っている。

特に感服するのは各編に収められたエピソードの上手さ。
老人の貯金を当てにして、嘘をついて手に入れたお金で旅行に行ったがために、その老人は一文無しになり老人ホームを出ざるを得なくなり、挙句の果てに講演で野垂れ死に同然に死んでしまった話や終業式の日に無免許で買い換えたばかりの新車を運転してすぐにボコボコにし、プールで泳いで遊んだこと。野球部のエース争いに敗れ、マネージャーを任された部員がわざと煙草を吸って甲子園予選出場停止になったことがきっかけでクラスから爪弾きにされ、自殺にいたった話、などなど。
どれもがボタンを掛け違えたことで誰の人生にも起こってもおかしくないような話だ。これらが物語に実に有機的に関わって傷みを伴う結末に深みを与えている。

案外「○○年版『このミス』第×位の傑作」という惹句は当てにならないものが多いが、本書はその数少ない中の例外であった。
特に大切な誰かや守っていた何かをなくした時に読むとこの作品を読んで去来する感慨は殊更だろう。ちょっと泣きたい夜にお勧めの一冊だ。


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MISSING (双葉文庫)
本多孝好MISSING についてのレビュー
No.502:
(8pt)

隠れた名品集

澤木喬という作家がいる。この作家が現在著している作品はこの『いざ言問はむ都鳥』という1990年に出版した4編の短編を収めた短編集1作のみ。しかしこの短編集、一読忘れがたい印象を残す。

本書の主役は分類学者、沢木敬。とある大学の植物学科の平井主任教授の下で助手として働いている。平井教授の周囲には同じく助手の樋口陽一、博士課程の院生で平井教授の研究室に所属しているマドンナ梅咲久美子がおり、この4人が物語の中心となっている。

それぞれの短編で提示される謎とは一見なんともないようなものだ。

まず表題作はご近所の宮本さんの庭に咲いていた季節はずれの都忘れの花びらがなぜ点々と落ちていたのかという謎。

次の「ゆく水にかずかくよりもはかなきは」では沢木の意外な趣味が明かされる。彼はアマチュア・オーケストラに所属しており、そこでヴァイオリンを弾いている。ここでの謎は彼が遭遇した釣り人はなぜ駅の券売機でひたすら子供用の切符をいくつも買い続けるのか。

「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」では平井教授の講座、生態学講座のアイドルお桂ちゃんこと、篠崎桂子の部屋で起きた小火の謎。

最後の「むすびし水のこほれるを」では梅さんこと梅咲久美子が見た死んだはずの猫が再び生きて歩いているのを見たという謎に沢木のコンサートにいつも来ている矢部という学生がなぜコンサートもないのに花束を買っていたのか、そして沢木のオーケストラ仲間の宮本さんがなぜヤブツバキをサザンカだと強調して平井教授宅から苗木を貰ったのかという複数の小さな謎。

こうやって紹介すると一見「日常の謎」系の短編集だと思うだろう。そのジャンルの仕掛け人である東京創元社から出版されているから尚更だ。

しかし本書はそうではない。人の死が、犯罪が介在するミステリなのだ。

沢木敬が語り手となって進む物語は、上に書いた平井教授とその仲間達の日常風景と大学の学生達のエピソードと沢木の植物に関する薀蓄などが上手く絡み合って実にほのぼのしたタッチで語られる。その話に挟まれる小さな事件、もしくは事件とはいえない、ちょっと変わった出来事の裏に隠された真相は実に魂の冷えるような手触りをもっている。

これらストーリーの牧歌的雰囲気と予想もしていなかった陰鬱さを含んだ暗い真相のギャップが各編に強烈な印象を残していく。この落差はかなり強力で思わず驚愕の声が漏れそうになった。

またそれらの真相を看破するのは実は沢木ではない。彼の友人樋口なのだ。

このように悉くこちらの予想をいい意味で裏切る構成からして一筋縄でいかない作品だというのが解るだろう。

解説の巽昌章氏が一番冒頭に語っているように、このたった220ページ強の短編集に込められた時間は実に濃密だ。

なぜこれほどまでに濃密なのだろうか?
本書の構成は沢木敬が春に経験し、またその翌年の春にいたるまでの1年間での出来事を綴ったもの。作中、沢木が云うように確かに1人の人間が1年の間でこれほど人の生死に関る事件に遭遇するのはおかしいと思えるだろう。

しかしそれ故に濃密だとは私は思わない。私は本書で語られる沢木の日常が実に自分達の生活空間に似ているが故に隠された犯罪が樋口の口から明かされた瞬間、実にリアルに感じられてしまうのだ。
つまり我々の平凡な日常生活にもいつ負の変化が訪れてもおかしくないと思わされてしまうのだ。このことが読者に登場人物に流れる時間を追体験させ、我が身になぞらえることで濃密に感じられる、私はそんな風に思うのである。

さてここで各編の題名に使われている和歌について言及してみたい。

まず表題作は在原業平の有名な短歌、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」から取られている。この短歌の意味は「その名の通りならば問いかけよう、都鳥よ。都に住む私の想い人は今どうしているのか、と」という物。
これは恐らく落ちた花びらが恋占いを予想させるところから来ているのではないだろうか?そう考えると実は題名それ自体がミスディレクションだと云えるだろう。

次の「ゆく水にかずかくよりもはかなきは」は古今和歌集の詠み人知らずの歌「ゆく水にかずかくよりもはかなきはおもはぬ人を思ふなりけり」から。この意味は「流れいく水に数字を書いても書く先から消えていく。それでももっと儚い物は、自分へ振り向いてくれない人をひそかに思うことなのだ」というもの。
これは恋患いの歌なのだが、本編の真相を考えると題名に引用された部分のみを取り出して考えるのが妥当だろう。

「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」は山上憶良の「世の中を憂しと恥しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」からの引用。「世の中を嫌な所、身が細るような耐え難い所だと思っても、鳥のように飛んで逃げ去ることなど適わないのだから」と現状を受け入れ、頑張っていくしかないと詠っている。
これはまさにその物ズバリ。小火事件から推理される驚愕の真相に対するある家族へ向けての励ましの言葉か。

最後の「むすびし水のこほれるを」は紀貫之の「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」から。「立春の日の今日の風は、袖を浸して掬ったあの水が凍っているのを融かすのだろうか」という意味。
これもまさに沢木が経験したこの一年に身の回りに起きた様々な災禍で変わってしまった周囲の人々の状況を春が来ることでいくらか元通りになるのだろうかという沢木の思いが反映されているように思う。

各編は40~80ページといった分量だが、実は謎とそれへの推理に関するページ数は実に少ない。それ以外は沢木の日常や彼の身の回りのことを語ったエピソードと植物に関する知識などに割かれている。
しかしこれらの謎とは関係のない話は決して無駄ではなく、実はそれらに謎を解き明かす手掛かりが散りばめられているのだ。
しかしこれらの描写や情報を謎への推理の材料として活用するのは読者には困難だろう。本書では作者が見せる謎解きの手捌きの美しさに見惚れれば(読み惚れれば?)いいのだ。

久々に誰かに紹介したい作品に出逢った。冒頭にも書いたように作者澤木喬氏が発表した作品はこのたった1冊だけ。恐らく作者の名もこの作品の存在すらも知らないミステリファンもいることだろう。ぜひとも多くの読んでもらいたい。現在絶版状態であること自体、勿体無い。

再び書店の棚に陳列されるためにも適わぬことかもしれないが澤木氏には20数年ぶりに新作を発表してもらいたいものだ。


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いざ言問はむ都鳥 (創元推理文庫)
澤木喬いざ言問はむ都鳥 についてのレビュー
No.501:
(7pt)

専門性の追求が仇になったか

リンカーン・ライムが現代に甦ったシャーロック・ホームズ、即ちアナログ型探偵―最新鋭の分析機器で証拠の特性を探るという手法はあるが―だとすると、本作の主人公ワイアット・ジレットは電脳空間(本書では青い虚空(ブルー・ノーウェア)と呼んでいる)を自由に行き来するデジタル型探偵だ。
彼はかつてハッカーの中でも名を馳せたハッカー中のハッカーであったが、犯罪と紙一重のその行為で刑務所に入れられていた。そんな彼が相手をするのはかつて同じハッカーとして同様の実力を持っていた相手フェイトことジョン・パトリック・ホロウェイだ。

殺人鬼フェイトはかつては誰からも好かれる好青年だったが、悪質なハッカー行為をジレットに告発されて逮捕された経験を持つ。それを契機に彼はジョン・パトリック・ホロウェイという人格を捨て、オンラインゲーム「アクセス」の一戦士となって、現実の人間を殺戮し、ポイントを稼ぐようになる。
つまりもはや彼にとってはオフラインの日常とオンラインの日常の区別がつかなくなっており、現実の人間も作られたキャラクターだとみなしているのだ。また古いコンピュータに愛着を抱く点でもオタク中のオタクだと云っていい。物質主義社会にどっぷり漬かった人間だ。

しかしここに書かれている犯罪の完璧さに戦慄を覚える。なんせ容疑者発見の際に掛けた携帯電話がジャックされて犯人へ繋がり、援助が呼べなくなるのだ。さらには堅牢だと思われた学園のセキュリティシステムにも潜入し、得たい情報を得るとそれを元に身分証明書も作成し、身元照合に役立てるなど、また新聞や雑誌の記事で匿名化された取材対象者に対しても、取材した記者のパソコンへ侵入して個人情報を得るなど、もう何が安全でどうやったら個人情報が無事に守られ、平穏な生活が得られるのか不安になってしまう。
この作品を読むと、自分のパソコンが既に誰かに侵入されていると考えても不思議ではなくなってくる。いや逆に安全なパソコンなんて存在しないのではないだろうか?

そんな世界中のパソコンに侵入し、情報を自由自在に操るフェイト。さらに彼はソーシャル・エンジニアリングの名手。ソーシャル・エンジニアリングとはいわば本当の自分を隠し、実在する人間、もしくは架空の人間を演じて成りきってしまう技術だ。彼は少年時代に演じることで周囲の注目を集めることを知り、ソーシャル・エンジニアリングの名手となった。これはもう史上最高のシリアルキラーといっても云いだろう。

しかしハッカーという仕事ほど私生活を、家庭を犠牲にするものはない。なにしろ常にウェブにアクセスし、世界中に広がる電脳空間を彷徨い続けるのだから。主人公のジレットは39時間ぶっ通しでアクセスしていたという記録を持っている。しかも彼らにとってその行為は甘美な毒であり、強烈な中毒性を備えているから、離れようとは思わないのだ。逆に少しでも離れてしまうと禁断症状のようにさもキーボードがあるかのように宙を指で叩く仕草をしてしまう。これはもうほとんど病気だ。

そして物語巧者ディーヴァーは今回もあれよあれよとどんでん返しを畳み掛ける。
特に今回は匿名性がまかり通った電脳空間での戦いであるがゆえに、本名とハンドルネームの二重の仕掛けとソーシャル・エンジニアリングという他者を偽る技術が三重四重のどんでん返しを生み出している。後半は読んでて誰が誰だか解らなくなってくるくらいだ。

しかし残念ながら今回の物語はパソコンの専門用語がどんどん出てくるし、特にハッカー、クラッカー連中のスラングが頻出しているのでなかなか理解するのに時間がかかってしまった。つまりページターナーであるディーヴァーの巧みな物語展開に上手く乗ることが出来なかった。
これは私だけでなく多くの読者がそうだろう。常にその道のプロを描くことで物語にリアルをもたらし、その上で読者の予想の常に斜め上を行くサスペンスを提供するディーヴァーだが、今回はそのリアルさがかえって仇になったようだ。

さて次はどのような物語で我々を酔わせてくれるのだろうか。まだまだ未読作品があることがこの上もない愉しみとさせてくれる作家だ。

青い虚空 (文春文庫)
ジェフリー・ディーヴァー青い虚空 についてのレビュー
No.500:
(8pt)

もう凄すぎて何が何だか

奇想と民族対立という社会的問題のコラボレーション。
本書を読む際、本格ミステリか民族問題提起の社会派小説か、どちらかに比重を置くことで評価も変わってくるだろう。

本書は大きく分けて3つの構成で成り立っている。
まず表題作の前編があり、その後に『クロアチア人の手』という中編が挿入され、最後にまた表題作の後編が始まるという、そう『帝都衛星軌道』と同じ長編の中に中編が挟まっているという構成だ。

表題作はボスニア・ヘルツェゴヴィアで起きた奇妙な猟奇殺人事件とオンライン・ゲームの話が平行して語られる。
メインの殺人事件は4つの惨殺死体のうち、3つが首を切られ、そのうち1つは心臓以外の内臓が全て取り出され、その代わりに飯盒の蓋やパソコンのマウスなどが内臓に見立てられて入れられているというおぞましい物。しかもクロアチアにはリベルタスという子供の大きさの金属人形の伝説があり、その死体はまさにリベルタスを擬えているという趣向だ。

もう1つの中編『クロアチア人の手』もこれまた奇妙な事件だ。ユーゴスラビアで起きた民族紛争の模様を通奏低音として流しながら、日本で起きた奇妙な密室殺人事件が語られる。
俳句国際コンクールで優秀賞を受賞したクロアチア人ドラガン・ボジョヴィッチとイワン・イヴァンチャンの2人が深川の芭蕉記念会館に宿泊した翌朝、イヴァンチャンの部屋はもぬけの殻となっており、もう1人のボジョヴィッチの部屋では男が密室状態で死んでいた。奇妙なことに部屋の水槽にはロビーの水槽にあったピラニアが入れられ、そこに手と顔を突っ込んだ状態で死んでいたのだ。遺体は右手と瞼と上唇を食いちぎられており、最も奇妙だったのは被害者はボジョヴィッチではなくイヴァンチャンだったということだ。
しかも逃亡したと見られたボジョヴィッチはなんと記念館の前の道路でタクシーに轢かれ、その拍子に持っていたトランクが爆発して死んでしまったというのだった。

いやあ本当に島田氏はとことん奇妙で理解不能な謎をどんどん放り込む。全然衰えないその奇想力に感服する。
この不可解な事件を解決するのがなんと石岡。彼は捜査を担当した寄居刑事が『占星術殺人事件』で知り合って以来御手洗と親交のある竹越刑事の伝手を頼って電話したのをきっかけに捜査に関っていく。

そして御手洗は、というとスウェーデンの大学にいてまたもや電話での出演となる。しかし今回は御手洗の推理が案外長く聞けるので、今までのような不満はないが、やっぱり彼の天才ぶりに現実味を感じないところがあるなぁ。

しかしクロアチアで俳句が盛んだったり、芭蕉記念会館にピラニアを詠んだ近代俳句が傑作だった理由でピラニアが飼われているなんて豆知識が投入されているが本当だろうか?しかしピラニアを詠んだ傑作俳句って一体…。

また余談になるが島田荘司氏の謎のモチーフには生命のないものが血肉を経て奇跡を起こすという幻想的な謎が多い。
デビュー作の『占星術殺人事件』のアゾートがそうだし、それをアレンジした『眩暈』も然り、『龍臥亭幻想』の森考魔王も然り、『ネジ式ザゼツキー』も機械仕掛けの人形が取り上げられている。とまあ一人の作家がこれほど人造人間、人形をテーマに取り上げるのも珍しい。
本書リベルタスもまた同じくブリキで出来た子供人形がクロアチアの前身とされるドゥブロブニクを救ったという寓話がテーマになっている。しかし作者あとがきによればこのリベルタスは全くの作者の創造によるもの。やはり島田氏はこのような人形の持つミステリアスな雰囲気が好きなのだろう。

しかし手垢がついているとはいえ、またこのテーマかと一度は思ってはみてもやはり面白い。

ただ本書はそんなギミックと驚愕の真相のみを評価するには十分ではないだろう。
本書で書きたかった島田氏の主張とはやはり旧ユーゴで起きた民族紛争が落とした暗く深い翳、セルビア人、クロアチア人たちの大きく深い暗黒のような溝にある。一緒の町に住み、一緒に遊んでいた子供達と親、仕事仲間が紛争が起きることでいきなり敵と味方に別れてしまう。それもそれまで深めた親交が全く意味がなかったかのように憎悪の炎を燃やし、家族同士が殺し合い、破壊し尽くし合い、レイプしあう、まさに地獄絵図のような状況に陥るのだ。それを民族の血がそうさせるのだという。
さらに紛争が終わった後も、レイプした者とされた者が以前と同じように同じ町に住み、働いており、顔も合わせるというのだから信じられない。
この民族の神経というものは一体何なのだろうか?感情の針の振り幅が大きすぎ、どうにも理解が出来ない。遠い日本の地でテレビや新聞、週刊誌を通じて伝えられる事実がいかに薄められて我々に提供されているのか、思い知らされた。
しかしそれでいいのだと思う。
世の中には知らなくていいこともあるし、もしありのままにメディアに情報が垂れ流しされていれば恐らくPTSDや人間不信に罹る日本人は増えたであろう。このような書物に触れた人間だけが知ればいいのであろう。
島田氏の世界残酷紀行は今なお続いている。


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リベルタスの寓話 (講談社文庫)
島田荘司リベルタスの寓話 についてのレビュー
No.499:
(8pt)

サーファー探偵はご機嫌だぜ!

すこぶる腕の立つ私立探偵なのだが、三度の飯よりもサーフィンが好きなせいでそのためにはどんな依頼よりもサーフィンを優先する。そんな魅力的な探偵ブーン・ダニエルズがウィンズロウの新シリーズの主役だ。

まずもうのっけから作品世界にのめり込むほどの面白さ。ところどころに織り込まれるエピソードが面白く、一気に引き込まれてしまった。
恐らく亡くなった児玉清氏が存命で本書を読んだなら快哉を挙げること、間違いないだろう。

まずブーン・ダニエルズの造形が素晴らしい。

両親ともにサーファーで母親が妊娠六ヶ月の頃から波に乗っていた、「海から生まれた子」。2歳で親父のサーフィンボードに乗せられ、7歳で初サーフィン、11歳で新米サーファーとなり、14歳になる頃には数多のプロサーフチームからスカウトを受ける―この件で登場するブーンの両親たちが実に愛情に満ち溢れていて素晴らしい―。
しかし純粋にサーフィンを愉しみたかった彼はその道を選ばず、刑事になり、その職を辞し、私立探偵業を営む。

そして彼を取り巻くサーフィン仲間“ドーン・パトロール”の面々の造形もまた実に魅力的なのだ。

日系人でサンディエゴ市警殺人課刑事のジョニー・バンザイは仲間のブレイン的存在。

水難救助員のデイヴ・ザ・ラブゴッドはギリシア彫刻のモデルになるほどの美男子でナンパ成功率100%。

チームで一番の若手ハング・トゥエルブはサーファーショップの店員でいいムードメーカー。その仇名の由来がまた実にウィンズロウらしい―なんと足の指が12本あるのだ!―。

海に入ると水位が上がるとまで云われている160キロの巨漢ハイ・タイドはサンディエゴ公共事業課作業監督だが、何しろ食べ物に詳しい。

そして紅一点サニー・デイはブーンを凌ぐサーフィンの腕前でウェイトレスをしながらプロサーファーを目指している、夢に出てくるような“カリフォルニア・ガール”。

もうこの彼らの人物設定だけでこの物語が面白いものになると確信してしまった。

そして彼らがいかにブーンと関りあうことになったのか、それらのエピソードがどれもキラキラとして美しい。
幼馴染の頃からブーンと親しい者や決して幸せでなかった者が彼に声をかけられることでサーフィンというやり甲斐を見つけ、“ドーン・パトロール”の仲間になっていく。

とまあ、ご機嫌な奴らが繰り広げられる物語はオフビートな語り口で軽快に流れていくのだが、ブーンが捜査していくうちに判明する真実は重い。

カリフォルニアの燦々たる陽光の下で繰り広げられた物語に、光が強ければ影もまた濃くなるという犯罪社会の現実をウィンズロウは痛烈に投げかける。

本音を云えば、前作『フランキー・マシーンの冬』のように痛快に物語を突っ走って欲しかった。最後の展開はあまりに重く、なかなかページを繰る手が進まなくなるような描写もあった。
『犬の力』でメキシコの悲惨な社会状況を教えてくれたが、人身売買、少女買春のエピソードが頻出する後半のテイストはそれに似ている。

しかし『カリフォルニアの炎』、『フランキー・マシーンの冬』と(間に『犬の力』を挟むものの)ここ最近訳出された作品には共通してサーファーが主人公になっている。
しかしこれらの作品と決定的に違うのは今回はサーフィンが人生を彩るスパイスに留まらず、サーフィンの申し子のような男であり、また彼の仲間とサーフィンチームを作っており、それぞれも個性的な面々であるという点でサーフィンに対する想いが一層強くなっていることだ。
本書は新シリーズの1作目だと謳われている。恐らく今後もブーンたち“ドーン・パトロール”のメンバー達はサーフィンに興じながら一致団結して事件を、降りかかる災厄を解決していくことだろう。

特にブーンは過去警官時代に解決できなかった少女誘拐事件の犯人の追跡が残っており、これが今後シリーズにどう絡むのか興味深いところだ。

そして今回ビッグ・ウェーヴに見事に乗り、一躍時の人となったサニーの今後もまた非常に気になる。彼女がいるのといないのとではシリーズの彩りが変わることは必定だから、この展開はまさに痛し痒しである。

最後に忘れてはならないのはやはりウィンズロウは名文家だということ。読んでいて思わず心に留めたくなる言葉に満ちている。

“波に乗るのは、水に乗る行為ではない。水は媒介にすぎず、じつはエネルギーに乗っている”
“家系というものはあくまで土台であり、錨であってはならない”

なんと魅力的な言葉たちではないか。
そして今回最もジーンと残る文章は最後の一行にある(“何であろうと、トルティーヤにのっけりゃ旨くなる”)。それがどんな文章かは読んで確かめて欲しい。

しかし今回訳者が東江氏から中山宥氏に代わったが、全く違和感がなかった。ウィンズロウ作品の読みどころを実によく捉えた文章だ。東江はやはり仕事を多く抱えて、手が回らなかったのだろう。

さて中山氏という優秀な訳者を得たことだし、これからもっと短いサイクルでウィンズロウ作品が訳出されることを期待しよう。


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夜明けのパトロール (角川文庫)
ドン・ウィンズロウ夜明けのパトロール についてのレビュー
No.498:
(7pt)

過去のシリーズへの訣別か?

ジョン・ペラムシリーズ3作目。なんと前作『ブラッディ・リバー・ブルース』から9年ぶりの刊行だ。
これほどブランクが空いたのはやはりリンカーン・ライムシリーズが受けたため、そちらにかかりっきりになっていたからだろう。

今回の事件は放火。放火事件では日本と違い、警察だけでなく、それを専門にした火災調査官という職業の人間が現地調査に当たる。
ドン・ウィンズロウの『カリフォルニアの炎』でも詳細に語られていたが、アメリカの火災を装った保険金詐欺の現状はかなり深刻で、調査官はまず起きた火災が所有者の仕業ではないかを疑うらしい。したがってそれを裏付ける証拠や状況が見られるものならば、即座にその前提で調査を進めるのだ。

ペラムが撮っているヘルズ・キッチンのドキュメント映画のメイン・キャストになる女性エティ・ワシントンが自分のアパートを保険金詐欺を図ろうと放火した容疑で逮捕される。彼女の無実を証明するため、ペラムはヘルズ・キッチンを駆け巡る、というのが物語の骨子。

ジョン・ペラムはディーヴァーの他の作品のキャラと違い、女性関係が奔放である。映画産業に関わる人間ということで彼に接近する女性も多いのは確かだが、事件のたびに登場人物の1人と寝る。実にアメリカ的エンタテインメント作品の典型的な主人公だと云えよう。

ディーヴァー初期のシリーズであるこの作品が今や彼の看板作品となったリンカーン・ライムシリーズを経て、どのように生まれかわったのかが興味を惹くところだったが、意外にもディーヴァーはライムシリーズやその他のノンシリーズで売り物にしている息を吐かせぬ危機また危機の連続やタイムリミットサスペンスといったような展開を取らず、このシリーズの前2作同様に主人公のジョン・ペラムがじっくりと訪れた町を彷徨し、町に隠された貌を知っていく作りになっている。
登場人物一覧表に記載されてない人物のなんと多いことか。ディーヴァーはそれまでに培った上記の手法を敢えて取らずにシリーズ全体のバランスを優先したようだ。
しかしこれはディーヴァー作品を読んできた者にすれば、逆行した形になって不満が残るかもしれない。

でも長らく中断していたこのシリーズが、ライムが異郷の地で捜査をした『エンプティー・チェア』の後にこの作品が書かれたことは興味深い。もしかしたら『エンプティー・チェア』を書いている最中にペラムシリーズとの類似性に気付いたのかもしれない。

また真相もどんでん返しというよりも通常のミステリが放つサプライズといった感じだ。

ヘルズ・キッチン―なお現在は正式にはクリントンという名前らしい。これはやはりあの大統領に由来するのだろうか―は裏切りの町。誰もが自分を少しでも幸せにするため、出し抜こうとする。そんな町でまたもやペラムは裏切られる。

今回ペラムがどうして赤の他人の人間のために命を奪われそうになるまで捜査をするのか、その理由が判らなかったが、最後の最後で判明する。

これで恐らくこのシリーズは終わりだろう。彼の売れない作家時代を支えたこのシリーズの終焉を素直に祝福しよう。


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ヘルズ・キッチン (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.497:
(7pt)

リチャード・クイーンの我が世の春

シリーズの主人公エラリイは全く登場せず、純粋にその父親リチャード警視―本作では既に定年退職しているので正確には元警視―が事件解決に当たる物語。
これは現在世間ではエラリイ・クイーンシリーズの1つとして扱われているが、現代ならばスピンオフ作品とするのが妥当だろう。

クイーン元警視が主人公ということで物語の趣向は従来のパズラーから警察小説、いやプライヴェート・アイ小説に変わってきているのが興味深い。つまり証拠を元に推理するプロセスではなく、足と刑事の勘で捜査を進めていき、容疑者を犯人と断定する決定的な証拠がない時点でも直接的に自身の推理を披瀝し、容疑者にプレッシャーをかけるという手法を取っている。これがクイーンのシリーズ作品としては実に珍しいことだ。

そして警察小説ではなく、プライヴェート・アイ小説と訂正したのは既に警察を退職したリチャードがなかなか口を割らない容疑者を落とすため、警察が踏むべき手順を逸脱した捜査方法を取るからだ。
捜査令状を抜きにした不法侵入に証拠捏造。エラリイが活躍する作品では良識という存在だったリチャードがこれほどまでぶっ飛んだことをやるとは思わなかった。

これは思うに作者クイーンが私立探偵小説なるものを書きたかったに違いない。そこで理詰めで考えて行動するエラリイではその趣向には合わないとしてリチャードを退職警官と設定して著したのではないか。

だから肝心の事件の真相は私の予想したとおりだった。これは恐らく当時としてはショッキングな真相かつ驚愕の真相だったかもしれないが、現在となっては別段目新しさを感じないし、恐らく読者の半分くらいは真相を見破ることが出来るのではないだろうか。
もしかしたらそれ故に本書が長らく絶版の憂き目に遭っているのかもしれない。

しかし本書でもっとも面白いのは物語のサイドストーリーとしてリチャード・クイーンとハンフリイ家の保母ジェッシイ・シャーウッドの恋物語が語られることだ。前妻を亡くして30年後に訪れた我が世の春。熟年男女の恋愛が物語の横軸になろうなんてかつてのクイーン作品では考えられなかった演出だ。
63歳という年齢でありながら50代の夫人を魅了するリチャード。やもめが長かっただけになかなか本意を伝えず、不器用で拙い付き合い方を示す彼と看護婦一筋で人生を送ってきたジェッシイのようやく訪れた春を受け入れようか入れまいかと葛藤する熟年同士の恋模様は、今では稀有な純情恋物語としても読め、物語の絶妙なスパイスとなった。

とまあ、今回はリチャードが実は無頼派の気質を持っていることや老境に至ってなお女性を魅了する雰囲気を備えていることなど、シリーズでは垣間見れなかった意外な一面が見れたことで個人的には面白かった。そしてジェシイ・シャーウッドとの関係が次回作以降、どのようにシリーズに関ってくるのか非常に愉しみである。

今までどおり何もなかったかのようにいつもの様子で物語が展開するかもしれないが・・・。


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クィーン警視自身の事件 (ハヤカワ・ミステリ 375)
No.496: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

かつての自分がダブったり

どうやらシリーズ物らしく、『オレたちバブル入行組』の続編に当るようだ。なぜこんな書き方をするのかと云えば、実はこの作家の作品を読むのは本書が初めて。
乱歩賞作家で名前は認知していたが、食指が伸びず、私の読書人生の線上には乗らないだろうと思っていたが、上司から出張先で頂き、そのまま捨てるにはもったいないということで読んだ次第。

率直な感想としては面白かったといえるだろう。銀行を舞台にした経済小説というよりも企業小説で、主人公の半沢の反骨精神が本書のキモだ。

次長の身分で自らの上司、他部署の部長のみならず、各支店の支店長はおろか常務取締役や頭取までにも食いつく。いくら仕事がデキルからといって、こんなあちこちに自分の道理を通して我が道を行き、歯に衣を着せない言動を行うサラリーマンなんているわけがない。ましては旧弊的な風習の残る銀行業界だから何をかいわんや。
一般企業に勤める私でさえ、読みながらこれは夢物語だ、日本とよく似た世界での出来事だと思ってしまう。

しかしこういう風に思ってしまうこと自体、私が年取ってしまったのだろう。
20代の頃は自分の理想に少しでも近づけようと時に横暴にふるまって意志を通してきた。それがカッコいいと思っていた節もあるし、俺がやらなきゃ誰がやるんだ?といった妙な正義感に駆られていたように思う。半沢を見ているとかつての自分がいるかのように思えた。

しかしこの年になってくると自分を通すことがいかに周囲の理解と協力の下に成り立ってきたのかが解り、またそれによって犠牲にさせてしまったことも少なからずあることを知ってしまった。
だから若いころのように純粋な気持ちで自分を貫くよりも周囲への配慮を優先してしまうようになっていた。

正直云って主人公の半沢は会社という組織の中では異端分子であり、同じ部署で同僚にしたくもないし、もちろん部下にも持ちたくない人物だ。
作者は銀行マンから作家に転向した人だから、銀行マン時代に云いたくても云えなかったことを彼に代弁させていると容易に推測できる。つまり半沢こそ作者の理想像なのだろう。
そして本書を読むサラリーマン全てが自分ではできない言動をわが身を省みずに行う半沢に日頃の鬱憤を晴らすヒーローとして重ね合わせていることだろう。

さて物語だが、半沢を中心に大きく分けて3つのエピソードから成り立っている。
1つは冒頭から展開する融資した伊勢崎ホテルという老舗ホテルの莫大な損益をいかに解決するかという話。
そしてもう1つは半沢のいる銀行からタミヤ電機という会社に出向になった近藤直弼の再生の話。
そして最後は金融庁の黒崎検査官という凄腕の検査官の検査をいかにしのぐかという話だ。
これらは最初は独立していながらも徐々に漸近していき、密接に関わってくる。しかもそれらは有機的に関係を持ち、一方が一方において致命的な原因になったり、また他方では絶体絶命の窮地を打開する切り札になったりと実にうまく絡み合っていく。この辺のストーリーの運び方とプロットの巧みさには感心する物があった。
特に金融業という一般の人にはなかなか入り込みにくい題材を平易に噛み砕いて淀みなく語って読者に立ち止まらせることなく進行させるのだから、この読みやすさは実は驚異的だと云ってもいいだろう。

この面白さに気付くのは本書を手に取った人のみだというのは至極当たり前のことだが、そういう意味では本書は実に題名で損をしていると思う。

実際私がそうだったのだが、バブルを経験していない社会人はバブル入社組に色眼鏡をかけて見ているところがある。戦後まれに見る好景気で名前さえ書ければ馬鹿でもアホでも入社できた時代、そんな認識があるのだ。
特にその頃もてはやされたのはオツムは足りなくても体力に自信のある、いわゆる体育会系の人物で、実際私の勤める会社にもバブル入社の人間は妙に体格のいい人間がそろっており、しかもそういった人種の例に洩れず、尊大で傲慢な人も見受けられる。そんな偏見と先入観を持っていたため、「バブル組」=「バカ集団」という図式があった。しかし本書を読んで認識を改めた。

実は彼らこそ会社における犠牲者なのだということに気付かされた。作中、登場人物の一人で半沢の相棒渡真利が云うには彼らの世代は全共闘世代が何も考えずに金融業を迷走させたツケを払わされており、しかも同期が大量にいるからずっと出世競争に晒され、戦々恐々としているのだと。
今まで私は彼らをそんな風に思ったことはなかった。確かに競争の厳しい世代であるだろうことは解るが、ここまで逼迫した世代だとは思わなかった。
確かにこれがまるまる私の会社に当てはまるとは思わないが、上に書いたような先入観が長らく私の中にあっただけに、この事実は新鮮だった。

今後この作家の小説を読むとは解らないし、おそらくはないだろうが、本書は読んで良かったと思える作品だった。
やはり本を読むということ、その作品をその時に読むということは何か見えざる者に導かれているように以前から感じていたが、今回も同様の思いだ。
さて次に上司はどんな本を勧めてくれるのか。本書を読んでそれが楽しみの1つとなってきた。

オレたち花のバブル組 (文春文庫)
池井戸潤オレたち花のバブル組 についてのレビュー
No.495: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

題名がそぐわない

リンカーン・ライム3作目はライムのテリトリーであるニューヨークを離れたノースカロライナ州のパケノーク郡なる異郷の田舎町での捜査。
ニューヨークのどこにどんな土があり、どんな建物が建っているか、手に取るように熟知していたライムだが、やはり異郷の地ではそれが通用せず、また現地捜査官の捜査レベルの低さに失望を禁じえない。
作中で例えられているように世界一の犯罪学者と称された彼もそこでは“陸に上がった魚”で、いつものような調子が出ない。

さらにライムとアメリアに捜査協力を頼んだ保安官ジム・ベル―なんと『コフィン・ダンサー』で活躍したローランド・ベルのいとこ!―が殊更に彼ら2人を優遇するものだから、地元の保安官連中は面白くない。そんな軋轢との戦いも今回は要素に加わっている。

さらに今回は今まで師弟関係と愛情を分かち合う強い絆で結ばれていたライムとアメリアの関係に変化が訪れる。なんとアメリアがライムの意見を疑問視し、犯人と思われる少年を留置場から逃がして独自の判断で捜査に臨むのだ。
証拠が全てだという現代に甦ったシャーロック・ホームズとも云えるライムの考えと容疑者に直に対峙したアメリアの直感が錯綜する。云わば理と情の錯綜だ。
そして読んでいるこちらはどちらが正しいのかハラハラしながら読むようになる。

そして今回も追うべき犯人の素性は判っている。ただ前作はライムたちにとって未詳であったが、読者たちにとっては犯人の身元は判っていた。今回はライムたちも判っているところに違いがある。
これがまた曲者で、はてさてどんなサプライズがあるのかと身構えてしまう。

その追われる犯人とはギャレット・ハンロンという16歳の少年。養子として迎えいられたものの馴染めず、浮浪少年のように気に食わない人間がいれば暴力に訴え、拉致したりするという癌ともいうべき存在である。
彼はまた昆虫を愛でる“昆虫少年”と呼ばれており、その知能は年齢にそぐわない専門書を読解するくらい高い。彼はその仇名のとおり、昆虫に関する知識を基に行動し、大人達を手玉に取る。特にハチを味方につけて、生物トラップとして活用し、彼を追う者達へ容赦ない痛手を負わせる。

やはり今回もどんでん返しがあった。それは一概にこれだ!と云えるものではなく、あらゆる要素に亘って読者の予想の上をいく展開を見せていると思う。

特に今回は事件の本質自体が変わっている。前2作が連続殺人鬼対名探偵というシンプルな構成にその正体にサプライズを仕込んでいた。そして今回はライムが協力を依頼されたのは誘拐事件で犯人の居所およびその獲保と監禁されている被誘拐者の救出だったのが、捜査が進むにつれ、本当の巨悪が見えてくるという構図になっている。

しかしなによりも今回のどんでん返しは警官殺しの罪に問われたサックスの処分だろう。これは私も凄いと思った。
どうにもならない事実をひっくり返すのにこれほど得心のいく新事実もない。いやあ、やはりディーヴァーはディーヴァーなのだなぁと感嘆した次第。

またシリーズ3作目になっても更なる鑑識に関する知識を提供しながら、今回は“昆虫少年”ギャレットが作中で色んな昆虫に纏わる習性や特殊な能力について薀蓄を傾ける。

しかし上に述べた様々な手法や技法を駆使してはいるものの、物語としてはいささか盛り上がりにかけるように思えた。
シリーズ物でありながらも作品ごとに趣向を変えるディーヴァー。今回はリアルタイムで殺人が起きるというものでなく、追う者と追われる者の頭脳合戦という構図を描きながら、それを包含する大きな構図を徐々に展開するという趣向だったが、個人的にはライムの唯我独尊ぶりが低減され、逆にこの話ではライムよりも他の人物の方がよかったのではないかと思わされた。
今回は証拠が語る事実を重視する捜査方法よりも捜査経験豊富なベテラン刑事が直感に頼って捜査を進める手法の方が適していたように思う。

さて今回の題名ともなっているエンプティ・チェアーとは「エンプティ・チェアー療法」に由来する。これは空っぽの椅子を患者の前に置き、患者にそこに座っている者を想像させ、色んな質問を投げかけ、それを椅子に向かって応えさせることで、患者の深層心理で抱えている感情を引き出し、更生させるという方法だ。

しかし果たして今回それが題名になるほど物語に大きな役割を果たしていたかというと甚だ疑問だ。私が読んだのは文庫本だが、文庫本の表紙にあるように今回の影の主役は蜂だし、またメインとなるのはギャレット・ハンロンという“昆虫少年”がメインだから、それに倣った題名の方が的を射ていると思う(原文が不明だから憶測でしかないが、やはり『インセクト・ボーイ』か『バグ・ボーイ』なのだろうか?)。

また『悪魔の涙』に引き続いてファンサービスというべき一文があった。ライムがギャレットの隠れ家に来たときに心中でもらす人物、元FBI交渉人アーサー・ポターは『静寂の叫び』の主人公。ここにもまたディーヴァーの作品世界の膨らみを感じさせてくれる演出があった。今回は一行で、しかもライムの心情吐露の部分での名のみでの登場なので気付かない人もいたのではないだろうか。

ということで前作『コフィン・ダンサー』が1作目を超えるエンタテインメント性とどんでん返しの意外性を備えた稀有の傑作だっただけに今回の作品はどちらかといえば“静”のディーヴァーだったように感じた。
しかしこの先の彼の作品がさらに盛り上がりを見せることを知っているがゆえに彼の作品の期待感は高まるばかりだ。


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エンプティー・チェア〈上〉 (文春文庫)
No.494:
(7pt)

これはどんでん返しがない方が…。

今回はノンシリーズの1作だが、嬉しいことにリンカーン・ライムが脇役で登場する。シーンは短いがその後の捜査に関する手掛かりを提示するので友情出演といった趣がある。

ワシントン市を相手取り、市を相手に身代金を要求する恐喝犯。4時間ごとに無差別殺人を起こすと宣言する男はしかし、殺人を犯すのは別の暗殺者と周到な計画で臨む。
この磐石と思われた犯罪計画が、トラックの運転手のわき見運転による信号無視で脆くも崩れ去る。明晰な脅迫者が突然死を迎えることで斯くも素晴らしいノンストップアクション作品が生まれるのか。

この見えない暗殺者に対抗するのが元FBI科学犯罪文書研究室の捜査官で離職後の今は文書検査士として自宅勤務をしているパーカー・キンケイド。彼の文章に隠された秘密を見抜く力、そしてそれらを分析・解析するプロセスは非常に面白い。直筆の文書も書中に掲載され、その中に隠された犯人の意図や性格を作中の彼の言葉を借りれば、パズルを解くが如く、あれよあれよと解明されていく。
例えば本書の題名は恐喝犯が遺した手紙の筆跡のある特徴に由来する。「i」の点が上に尻尾を伸ばし、水滴のような形を残していて、それをパーカーは「悪魔の涙」と呼んでいたのだ。これら文書に纏わるエピソードはたくさんあるが、特にビックリしたのはインクについて一部のメーカーは製造場所が判るように化学的なタグをつけていること。こんな薀蓄が私の知的好奇心をくすぐってしまう。

さらに取り調べ相手に与えた飲み物を入れたマグの表面に圧力を感知する仕掛けがあって、取っ手にマイクロチップ、バッテリーと送信機が仕込まれていて指紋がその場でデジタルデータとしてパソコンに送信されるなどという驚異のシステムがあることを初めて知った。

ディーヴァーはよく息をつかせぬスピーディな展開とどんでん返しが専売特許のように巷間では賞賛されているが実はそれだけではない。彼の精緻を極める取材力が登場人物たちを実在する人物であるかのごとく、読者の眼前に浮かび上がらせるからだ。
彼の作品に登場するFBI、市警の面々の捜査と彼らが交わす会話のディテールはまさしくその道のプロフェッショナルが放つ言葉そのものだ。だからこそ読者は普段垣間見れない世界を彼の作品を通じて教えられ、実際の捜査がものすごく高度な知的労働であることを思い知らされる。

さらに挙げるならば組み合わせの妙。前述したように本書では世界一の犯罪学者と称されるリンカーン・ライムも登場するが、彼は脇役に過ぎない。あくまで主役は文書検査を生業とするパーカー・キンケイドだ。
思うに今回のプロットはライムシリーズとしても全然損色なく最上のエンタテインメントが作れただろう。しかしあえて作者は文書検査士という職業の者を選んだ。この普段我々が接することのない職業の崇高さ、高度な技術と知識を要することを上手く物語に溶け込ませることで彼が主役であるべきだと説得している。
大晦日のワシントンを襲った無札別殺人テロに対抗する相手が文書検査士なんて発想はなかなか、いやめったに浮かばないだろう。この一見ミスマッチといえる組み合わせを用いながら、さも彼が捜査に加わって中心人物となることが必然であるかのように見せる文章運びの巧みさ。これらがディーヴァーを現代アメリカミステリの第一人者として知らしめているのだ。

さらにモチーフとなる業界や専門分野を登場人物たちの心情に絡ませるのも上手い。
『コフィン・ダンサー』では航空業界の人間をターゲットにしつつ、飛行機に対する思いをロマンスに上手く擬え、さらにライムの窓際に巣食っていたハヤブサのエピソードまでも因子として組み込んでいたが、本書でも同じく文書分析を登場人物の心情に上手く絡ませている。特に捜査班のリーダー、女傑のマーガレット・ルーカスの亡き息子が残した手紙から偲ばれる人柄について一度パーカーは筆跡は人柄を示さないと一蹴して、反感を買いながらも、打ち解けるにつれて「筆跡は精神の指紋だ」と述べ、二人の距離を縮めさせるあたりは非常に上手い。
最初はプロとして腕を買われたパーカーが気概もあったのだろう、あくまで感情をはさまずにプロとして放った言葉を、共に修羅場を経験するにつれて同族意識と愛に似た感情を抱くにつれ、本当の感情を吐かせる、この段階的に親和性を深めさせるプロセスが上手いと思うのだ。

しかしとはいってもディーヴァーを語るにどんでん返しを抜きには語れない。今回も大晦日が明ける夜の0時までの殺人予告というタイムリミットサスペンスを展開しながら、どんでん返しが待っていた。技法としてはけっこう、いやかなりあざとい感じがした。

彼が独白する一連の事件の背後に隠れた計画は、どうにもこじつけのように感じてしまった。

また折に触れ物語の表層に浮上するゲリー・モスの存在が逆に事件との関連がないままだったのが残念だった。議員汚職を告発し、テロに遭って家を失い、自身も重症を負って入院中の身である彼のこの事件がなんらかの因子となるのではと思っていたのだが。逆にこういうところがディーヴァーらしくないと思った。

作品の質としては悪くはない。寧ろ標準以上だろう。先に述べたように直筆の脅迫状を掲載してそれについて主人公パーカーに分析させるなど、読者の眼前で実際のFBIの捜査が繰り広げられているようなリアリティをもたらせている。
だからこそ逆に本書はストレートに終息する方がよかったように思う。どんでん返しが逆に仇になってしまった。また既にディーヴァーに高いハードルを課した自分に気付かされた一冊でもあった。


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悪魔の涙 (文春文庫)
ジェフリー・ディーヴァー悪魔の涙 についてのレビュー
No.493:
(7pt)

引っ張るねぇ!

クーンツ版フランケン・シュタインシリーズ第2弾。実は最近のクーンツ作品ではとびきりに面白い作品だと感じ、新刊が出るのを愉しみにしていた。

物語は前作からの続き。時系列的にもハーカーの死の直後から始まる。つまり連続ドラマを見ているような構成になっている。

本書では前作のハーカーに当たるようなカースンとマイクルのコンビに敵として立ちはだかるキャラクターとしてはヴィクターが生み出したレプリカントの夫婦の殺し屋ベニーとシンディのラブウェル夫妻が登場する。この2人のキャラクターが出色の出来だ。
ハンサムな夫に美しい妻で常に太陽のような笑顔を浮かべている、所謂アメリカの良心とも云うべきような理想のカップルなのだが、その役割が示すように微笑を浮かべながら殺しを履行するのだ。さらにシンディは培養によって生み出された生物でありながら出産願望が常にある。よくもまあこんなキャラクターを次から次へとクーンツは思い浮かべるものだと感心する。

1話完結で紡がれたオッド・トーマスシリーズと明らかに創作作法が違うが、逆に私はこのシリーズの手法の方が先が読めない展開だけに面白く感じた。

またところどころに挿入される小ネタも面白く、その中の1つに登場人物の口から古今東西の小説の名前が出てくる点が非常に楽しく感じた。

例えば前作で読書好きのヴィクターの妻エリカ4に後妻として登場するエリカ5が秘密の培養室に潜り込むときには少女探偵ナンシー・ドルーのように云いながら、いやノラのように勇ましいと訂正する。
前者は恐らく日本の読者でも知っているだろうが、後者は「?」が点灯することだろう。実は私もピンと来なかった。なんとノラとはハメットの『影なき男』に登場する私立探偵ニック・チャールズの妻なのだ。なんともマニアックな選択だ。既読の私でさえ思い出せなかった。

他にもデュカリオンの相棒である映画館オーナーのジェリー・ビッグズがミステリ好きであり、自身の好みを開陳する。曰く
「刑事が先住民だったり半身不随だったり、強迫神経症だったりする話は好きじゃないんだ。それに探偵が料理上手なのも」
それぞれ該当するシリーズが思いつくのではないだろうか。思わずニヤリとしてしまうシーンだ。

また古典『フランケン・シュタイン』の時代から生きてきたヴィクター。彼が今まで生きてきたことで歴史の裏側で時の権力者に関ってきたことがエピソードとして語られる。

スターリンもその中の1人で、彼が行った大量虐殺はヴィクターが自分の意のままに操れる新人類を生み出すことを見越しての行為だったと記される。こういったアクセントは小説好きの興趣をそそる。

そしてやはりキャラクターの妙味を忘れてはならない。
正直に云って主人公のカースン、マイクルのコンビは存在よりもヴィクターと彼が創造したレプリカントや新人種のキャラが立ちまくっている。彼らはヴィクターにあらかじめ人間を殺してはいけない、命令に背いてはいけないというプログラムが施されており、しかも本書では担わされる役割でアルファ、ベータ、ガンマ、エプシロンといった階級分けがされていることが判明する。彼らが旧人種と呼ぶ人間に成り替わって社会生活を営む者からヴィクターの身の回りの世話や研究所の掃除をするだけの役割の者でダウンロードされる情報量が違うという設定だ。
しかし何といってもヴィクターのプログラムゆえに発生するその特異な思考や性癖が彼らのキャラを際立たせているといっていい。前述した夫婦の殺し屋ラブウェル夫妻はもとより、人間の死体を処理する廃棄処理場長、警備主任など、クーンツの奇想のオンパレードだ。
元々クーンツには物語ごとに狂人やフリークを生み出しては読者をハラハラさせていたが、ここに至ってさらにその枠を大きく振り払って、嬉々として健筆を揮っているかのようだ。

しかしその中のキャラクターでも物語を鍵を握ると思われたヴィクターの実験場ハンズ・オブ・マーシーを抜け出した新人種ランドル6が早くも退場するとは思わなかった。しかも主役のカースンの弟に会いに行くという役割的には重要だっただけに、あっさり殺されたのはなんとも呆気ない。
本書を読むとやはりクーンツは三部部作構想だったようで、ヴィクターとデュカリオンの対決を早々に着けようとしているようなせっかちさを感じた。

本書ではレプリカント、新人種の生みの親ヴィクターの制御が徐々に崩壊し、カタストロフィへ向けて様々な事象が描かれる。
細胞分裂を起こし、異形の存在へ変身する者。
抑えていた旧人種すなわち人間への嫌悪感への箍がはずれ、殺人衝動のままに殺戮を起こそうとする者。
レプリカントである自分の存在に絶望し、死を乞う者。
そして前作ハーカーから分離した存在は創造主ヴィクターへの反逆を促し、殺すよう促す。研究所を制御していたコンピュータはバグを起こし、怪物を世に解き放とうとする。
そしてとうとうヴィクターと対面したデュカリオンはどう彼に対抗するのか。色んな謎や不吉な予感を孕みつつ物語は閉じられた。
一刻も早い次巻の刊行を望む。枯れてもクーンツと思わせる次が気になる作品だ。


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フランケンシュタイン支配 (ハヤカワ文庫 NV ク 6-13)
No.492: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

当時のアメリカの世相を色濃く反映した作品

エラリイ・クイーンといえば、名探偵エラリイ・クイーンにドルリー・レーンのシリーズが思い浮かび、それ以外の作品はないかと思っていたが、本作は数少ない彼のノンシリーズ作品。<シンの辻>と呼ばれるニュー・イングランドの過疎化が進む村で起きた事件を扱った作品だ。

ここで起きるのはこの寒村でアメリカの財産とも云われるほどの画家となった村の誇りとも云える老婦人ファニー・アダムスが何者かによって殺されるという事件。そして折りしもポーランドからアメリカに避難してきたジョゼフ・コワルチックなる男がその近くを通っていたことから、村人たちは彼を犯人とみなし、即私刑を下そうといきり立つ。
これほどまでに村が一致団結して異邦人を断罪しようとするのは、その昔、イタリアからの移民で流れてきたジョー・ゴンゾリが村の指導者ヒューブ・ヒーマスの弟レイバンの想い人を寝取ったことでいきり立ったレイバンがジョーを殺そうとし、返り討ちにあって死んでしまうという事件があったからだ。しかし裁判はジョーの行為を正当防衛とみなし、無罪放免となったという忌まわしい事件があった。それ故に今回の事件こそ司法の手に委ねず、自分達の法に則って始末したいという思いが強かった。

人口たった36人の閉鎖されたコミュニティで起きる殺人事件はいわば村の誰もが家族のような者だから、近所同士の結びつきが強い。つまり村民一人一人が家族のようなものだ。
そんな中で起きた殺人事件。しかも殺されたのはおらが村の有名人で古株で誰もが慕う老婦人だから、村人達は狂気にも似た思いで容疑者を断罪せんと裁判に臨む。

一方容疑者コワルチックを守ろうとするのは<シンの辻>の由来となったシン一族のルイス・シン判事と彼の従弟ジョニー・シンの2人。特に戦争から帰還し、軍隊を去った判事の従弟ジョニーは原子爆弾の落とされた広島の惨状を目にし、人生の意味を見出せぬまま、無職の日々をすごし、判事に付き添う。戦争から帰っても普通の生活になかなか戻れなく、放蕩生活を続けるしかない彼の心情は戦争の暗い翳を感じる。

生きる意味を見出せないジョニーと一人の死に固執し、敵討ちに意気込む閉鎖されたコミュニティの連中。この対比がジョニーにある決意を生む。

この閉鎖された社会での事件というテーマを考えるとどうしてもライツヴィルシリーズが思い浮かんでならない。特にスキャンダラスな事件が起きることで村中の人間が一人の人間に怒りの眼差しを向ける展開は、『災厄の町』を思い起こさせる。本作はライツヴィルシリーズで遣り残したことにチャレンジした一冊とも取れる。

クイーン作品にしては珍しくほとんどが法廷シーンで繰り広げられる。しかし内容は村人が総出で参加する私的裁判であるから、実は無効裁判なのだ。
そんな茶番劇であっても判事や弁護士、検察は手を緩めず、真実を追及していく。村人はいつでも容疑者を有罪にして死刑にせんと息巻いている。

法廷シーンばかりであっても、きちんとロジックで容疑者の無実を判明するところがさすがはクイーンである。

特に超写実主義といえる被害者ファニー・アダムスの絵を巡って推理が繰り広げられ、真実が明るみに出るあたりはもう見事の一言だ。実に上手い小道具だ。

従ってなぜ本書にクイーンが出てこないのかが不思議だ。ジョニーの役はクイーンに置き換えても違和感はなかっただろう。なぜこの作品の主人公がエラリイ・クイーンでなく、元軍人のジョニーなのか。
それは作中でも書かれている戦争による大量虐殺の悲劇とそれがもたらすミステリの存在価値を今一度問うために、戦争を経験した者に敢えて一人の個人の死の真相を探らせることが必要だったではないかと個人的に思う。

ここで思い起こさせられるのはやはり笠井潔氏の『大量死と密室』論だ。以前戦争による無名の人間が大量に殺されることの無意味さ、虚しさについてクイーンは『帝王死す』でも明確にメッセージを打ち出していた。
やはりクイーンはあの作品だけでは足らず、戦争経験者を主人公にすることでさらに深く描こうとしたのではないか。広島の原爆の惨状までもが言及されるのには驚いた。

しかしかつて警察捜査のノウハウすら知らないことが作中でも散見されたクイーンだが、本書では証拠品の保護や現場保存について田舎警官を強く追及するシーンを読んだ時は、第1作目の国名シリーズを読んだときと隔世の感を覚えた。
あれだけ無頓着に現場に立ち入り、指紋付着に配慮せず、勝手に遺留品に触り、時には持ち帰って警察に内緒にするという、およそ警官の捜査を扱った作品とは考えられないほどの非現実さを感じたものだが、本書ではそういう行為をきちんと罰しているところが凄い。やはりハリウッドや探偵クラブなどの交流で警察捜査の知識を蓄えていったのではないだろうか。

閉鎖された空間での魔女裁判を描いた本書。題名が示すとおり、一枚岩と思えた村人たちの団結は実はガラスのように脆いものだった。
地味な作品だが、本書に込められたテーマは案外重い。作者クイーンの犯罪とそれに関与する人間たちの謎への探究は今後も続いていく。


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ガラスの村 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-8)
エラリー・クイーンガラスの村 についてのレビュー
No.491: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

リンカーン・ライムは現代のシャーロック・ホームズだ!

とうとうリンカーン・ライムシリーズである。
ジェフリー・ディーヴァーの名声を磐石の物としたこのシリーズ。満を持して手に取った。

知恵と知識を使っての連続殺人鬼ボーン・コレクターとの戦い。次から次へ手がかりを残しては殺人を犯すボーン・コレクターと四肢麻痺で厭世観に持ちながらも、かつてNY市警中央科学捜査部長の座まで登りつめ、ありとあらゆる場所を踏査しては知識として蓄えてきたリンカーン・ライムとの丁々発止のやり取りが実にスリリングで面白い。
いや面白すぎる!

そして健常者だった頃に暇さえあればマンハッタン中を歩き回り、地理や地質、建っている建物やどこにどんな企業や店があるのかを調べては自分の知識の糧としていたライムの推理方法はアメリアが持ち帰った証拠類から見事な犯人の意図を、絵を描き出す。それは指紋や靴の磨り減り方からも職業や趣味を云い当てるほど、人間というものを知り尽くしている。
特にビックリしたのは私の仕事の分野である建設業で用いられるベントナイトに関する記述だ。
世界一の犯罪学者と称されていたとはいえ、他分野の工法にも精通しているとは、どれだけの知識があるんだ、ライムは!いや、正確に驚嘆すべきは作者ディーヴァーの知識の深さか。

このライムの推理の過程や独自の経験に裏付けられた鑑識道具の数々や手法を読むと、私はどうしても世界一有名な探偵を思い浮かべてしまう。
そう、シャーロック・ホームズだ。四肢麻痺というハンデはあるものの、ライムは現代に甦ったシャーロック・ホームズなのだ。

そして身体の動かせないライムの代わりに手となり目となり鼻となり足となって捜査を行うアメリア・サックスは彼のよき助手ワトソンといったところか。

しかしアメリアは原典のワトソンと違い、父親も警官だった女性警官で、自分というものをしっかりと持った女性だ。従ってホームズ=ライムに逆らい、抗いもするし、また彼を凌駕する発想を持ったりする。実に血の通った人物だ。

そう、今回一読してビックリしたのはこれらキャラクターの造形の深みだ。

まずはやはり主人公リンカーン・ライムのキャラクターの深さだろう。かつては大統領さえも一目置いたという凄腕の鑑識員だった男だが、操作中の事故で四肢麻痺になり、自暴自棄な毎日を暮らしている。あらゆることに退屈し、後は自殺して一刻も早く魂が解放されることを望んでいた。
傲慢で不遜だが、その知識と明察な頭脳はいささかも衰えがなく、犯人ボーン・コレクターの意図を読み取り、次の被害者のいる場所と犯人の居所を残された手がかりで推理する。

そして彼の手となり足となるアメリア・サックス。モデルも経験したほどの美貌の持主ながら父親と同じ警察官への道に進んだ彼女。最初の登場シーンはバランスの悪いルーキーといった感じだったが、反目しながらもライムの凄さを認め、彼のやり方を吸収していく。

この2人のやり取りが物語にツイストをもたらし、ページをくいくい捲らせていく。

そしてライムに援助を求めてきた元同僚のニューヨーク市警殺人課刑事ロン・セリットーに彼の若き相棒ジェリー・バンクス。ライムが信頼する市警の鑑識員メル・クーパー。
そして本書の名バイプレイヤーと云えるライムの介護士トムを忘れてはならない。彼のような身障者を腫れ物に触るが如く珍重せず、通常の人間として扱い、ライムのわがままを無視し、揶揄するヘルパーこそ本来介護士のあるべき姿なのだろうと思う。

そして連続殺人鬼ボーン・コレクター。面白い作品には名主役に匹敵する悪役が必要だが、その役割は十分、いや十二分に果たしていると云えるだろう。
ライムの著書を熟読し、それをバイブルにして鑑識の知識を自家薬籠中の物として、かつての世界一の犯罪学者に挑むボーン・コレクターは人の美しい容姿や肢体といった人間を覆う皮膚には興味を抱かず、その中にある骨に異常なまでの愛情と興味を注ぐ。人を傷つけるにも、骨が損傷しないか気になるくらいだ。

彼の性癖の基となるのが20世紀初頭の1911年にニューヨークを震撼させた連続殺人鬼ジェームズ・シュナイダーの犯行だ。これはあとがきによれば作者の創作のようだが、彼が骨を愛でる記述が昔読んだ楳図かずおのある作品の冒頭に書かれた一節を思い出させる。
「骨は美しい。醜いのはそれを覆う皮膚だ」
確かこのような文章だったように思うが、正にボーン・コレクターの心情がこれだ。時代と東西の文化の壁を越え、同じモチーフで全く違う作品が書かれたことがなんとも興味深い。

このボーン・コレクターの正体を私なりに推理した。
下巻の終わりが近づくにつれて、自分の推理が当たっていることを確信していたが、まんまとディーヴァーにやられてしまった。

さてディーヴァーが自作で開陳する専門的な知識、特に登場人物の職業や性癖などに由来する業界人でしか知りえないようなリアルな情報が毎回の読みどころだが、本書もその例外に漏れず読ませる。

まず挙げられるのは鑑識という作業に関する細かいところまで神経が行き届いた仕事ぶりだ。ミステリ番組やミステリ小説では端役に過ぎないこの仕事だが、いやあ、事件後の現状保存に対し、鑑識員がこれほどまでに細心の注意を払っているとは思わなかった。
この鑑識の仕事にスポットを当てたのは正にディーヴァーの着眼の良さであり、功績だろう。本書に挙げられた情報は膨大な物だが、特に印象に残ったのは現場に入る鑑識員は靴に輪ゴムを巻いて入るというもの。その理由は・・・是非本書で確認して欲しい。

そして四肢麻痺の重度の身障者であるライムが語る身障者の生活の苦労だ。毎日同じことの繰り返しがやがて絶望に変わるというのは先にも書いたが、例えばチョコレートなど甘い嗜好品が逆に楽しみの後の苦痛を助長させるということ。そして歯に詰まっても自分で取り除くことが出来ないこと。つまりこんな簡単なことが出来ない自分に気付かされる事実がさらに絶望を生むということ。
これは全ての身障者に当て嵌まることではないかもしれないが、もし自分がライムと同じ境遇に陥ったならば、彼と同じように感じているかもしれないと痛感したエピソードだ。

そして今回ボーン・コレクターが残す手がかりの解明の端緒となるのはニューヨークの古地図だ。その手がかりと共に古きニューヨークの街並みがライムの口から説明されていくのも知的好奇心をくすぐる。通常ならば小説を読む付属的な愉悦に過ぎないこういった薀蓄が次の被害者の居場所を探る手がかりとして物語に有効に働くところがディーヴァーという作家の凄さだ。
いやあ、この作家は読書好きのツボというものを心得ている。堪らないね。

さて事件を解決しながらも自殺願望の火が消えないリンカーン・ライムのその後が非常に気になる。シリーズはこの後巻を重ね、今も書き続けられているのだからライムの命はまだまだ続いていくのだろうが、そんな予断などが意味を成さないくらいに先の展開が非常に気になる。

本書の評価は先に述べたようにボーン・コレクターの正体に納得のいかなさを感じたことと、最後のライムの凄まじいまでの犯人対決シーンが私の中で役割分担されていた“知のライム、動のアメリア”の構図が見事にひっくり返されたことに対する戸惑いと、そして今後のシリーズでさらに面白い作品があることを期待しているという3つの理由から8ツ星としておくことにする。

まだまだ未読の作品があることがこの上もなく嬉しい。
最後にディーヴァー作品をこよなく愛した故児玉清氏に合掌。


▼以下、ネタバレ感想
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ボーン・コレクター〈上〉 (文春文庫)
No.490:
(7pt)
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このBL臭が合わないのだ

建築探偵桜井京介シリーズ初の短編集。桜井の今まで語られなかった若き日に海外放浪をしていた頃に出くわした事件も含めて語られている。

まずは「ウシュクダラのエンジェル」。
正直謎が何なのかわかりにくい作品。そして京介が泊まった時にジブリールと京介の間で起こった何かが夢の内容を表しているようだ。いきなりこんなパンチの弱い作品だということに不安を覚えた。

次はまたもや京介の海外放浪譚である「井戸の中の悪魔」。
パズル要素が強い作品だが、難解なパズルが解けるようなカタルシスは真相には伴わないのが残念。
こういう作品を読むと、元々この作者は謎を作るのが不得意ではないだろうかと思ってしまう。

次はヴェトナムを舞台にした「塔の中の姫君」。
人間消失は本格ミステリでも最も魅力のある謎だが、その魅力ゆえ真相を知るとガッカリしてしまうのが往々にしてある。さて本作は?というとまあ及第点かなと云える。
確かに真相は陳腐だ。暗闇というのはなかなか人には見分けがつかないところなのでこのトリックは十分成り立つことは解る。しかしなんとも大味な感じが否めない。

次の「捻れた塔の冒険」の舞台は日本は福島県の会津若松。
この謎も真剣に考えればアンフェアの誹りを免れない真相だ。恥ずかしながら私は寡聞にして知らなかったが、この二重螺旋のスロープで上れる栄螺堂は実在する建築物だ。WEBで調べると写真が見られるが、それほど大きくない建物で、これは8,9歳の子供が経験した謎というのがミソだろう。
恐らくこの謎は一度行った人ならば解るのかもしれないが、純粋に推理ゲームとして勝負しようとした読者にしてみれば、実に納得のいかない謎だろう。
しかし本書の狙いはそこにはなく、この捻れた塔での幼少の頃の体験がその後2人の女性に落とした昏い翳、つまり自分の悪戯で引き起こした大人まで引きずらなければならない傷を逆恨みした女性の捻れた感情を描きたかったのだ。ちょっと強引な感じもするが、篠田氏の特徴が良く表れた作品である。
また祐美の京介への一方的な愛、つまりストーカー行為が第1作の『未明の家』の冒頭で出てきた建築探偵のチラシに端を発していると推測されるところは感慨深い。

次の「迷宮に死者は棲む」も日本が舞台。広島は尾道と因島をお馴染みの三人が訪れた時に出くわした事件だ。
陰鬱なイメージでいささかホラーめいた雰囲気で語られる作品。深春の高校時代の同級生の過去の因縁話で、深春を好きだった姉の死、同級生松尾の嵐の夜の失踪、そして松尾という人間の不在と、アイリッシュの『幻の女』を思わせるミステリアスな展開はなかなか。
しかし今が幸せな者ほど過去に依存しない、過去を振り返らない。逆に今が不幸な人間は過去の思い出にすがるというのは心に響く言葉だった。
確かにそう思う。この言葉だけでも収穫はあった。

「永遠を巡る螺旋」では再び舞台は海外に。
「捻れた塔の冒険」で登場した相原祐美の怨念が引き起こす事件。まず別の短編の因縁が絡むという趣向が面白い。そして叙述ミステリ的な仕掛けは成されているが、他の作品とは色合いの違った倒叙物であるのが異色だろう。仕掛けは安易で先が読めるため、さほど驚きはないが、収録作中113ページと最も長い作品なだけに物語は読ませる。
また作中深春がBL小説に苦悩し、罵倒するシーンがあるが、これは桜井京介シリーズがBL化された同人誌が多いことに対する作者の心の叫びだろうか?しかし私は原典にもBLの要素が濃いと感じているのだが。

続く2編はいささか趣の変わった作品。「オフィーリア、翔んだ」はある酒場で出くわした初老の男の話。
この作品では桜井京介という名前は一切出てこなく、出てくるのは類稀なる美貌を備えた青年と風貌のみ語られている。しかしそれは最後の幻想小説風味の結末に続くためにあえて作者が仕込んだことだろう。
密室からどうやって出たのか?という逆転的な謎が魅力的なのだが、相変わらず篠田氏の主眼はトリックやロジックの鮮やかになく、あくまで登場人物たちが抱える心の闇だ。

「神代宗の決断と憂鬱」は最も短い25ページの作品だ。
神代教授と京介の一夜の酒盛りで語られる神代教授の真意が面白い。そして少しだけ触れられる京介と教授の邂逅の話も今後の物語への予告として興味深い。
しかしどちらかといえばファンサービスに近いような作品だ。

「君の名は空の色」では深春と蒼の邂逅のときのことについて触れられる。
中身はもはやミステリではなく、蒼と深春の関係性についてシリーズの隙間にあるエピソードを述べたようなものだ。
作中の時期は蒼が成人の日を迎えたときのこと。蒼が虐待されていた忌まわしい記憶の残る邸に行って、特別何かをするわけではなく、過去の記憶が彼にとってすでに終わったこととして片付けられているかを確認しに来たようだ。それは成人の日を迎えた彼にとって避けられぬ成人の儀式のようなものだったのだろう。

最後は桜井京介自身の過去の物語「桜闇」。
神代教授が述べている京介の過去に起きた忌まわしい事件とは別の、高校生の京介が出遭った事件の話。しかし当時の彼はまだウブで殺人方法を看破しながらも女性の色香と魅力に負けてしまう。京介の初体験まで書かれた話。
「君の名は空の色」で蒼が20の時に旧薬師寺家を訪れたように、京介も30を迎えてこの邸を訪れなければならなかったのだろう。孔子は「三十にして立つ」と云ったが、彼が立つためには訣別しなければならない過去の自分があった訳だ。敢えて幻想小説風に耽美に書いているのは桜井京介というキャラクターをイメージしてのことだろう。


冒頭にも述べたように舞台は長編と違い、日本に留まらずトルコ、イタリア、ヴェトナム、フランスへと多彩だが、意外にヴァリエーションは感じない。その理由は後で書こう。

本格ミステリの短編といえば、限られたページ数という制約があるため、物語性よりもトリック、ロジックの切れ味が味わえるが、本書では逆に篠田真由美という作家が本格ミステリにはあまり向いていないことが露呈した作品集となった。

主眼はあくまでもトリック、ロジックの妙味にはなく、長編同様に登場人物の抱える心の闇や建築物に込められた念や思想といった部分に準拠した人の行為が真相になっており、これはもはや本格ミステリではないといえるだろう。
謎自体は非常に魅力的なのにもかかわらず、推理のカタルシスをこれほど感じない短編集も珍しい。

特に似たような謎が多いのが気になった。2作目の「井戸の中の悪魔」、3作目の「塔の中の姫君」、3作目の「捻れた塔の冒険」、6作目の「永遠を巡る螺旋」はどれも細長い建築物や工作物で起きた謎を提示しており、しかもどれもが階段や昇降設備における人間消失を取り扱っている。
あとがきによればこれらは「二重螺旋四部作」と作者自身が名付けているが、要は同じような謎における推理のヴァリエーションで2つも3つも短編を拵えているような感じなのだ。従って個々の作品で開陳される誤った推理が少なく、あえて述べないことで別の作品で使用しようとしていると感じる、とまで書くとさすがに意地の悪い見方になるだろうか。

親切に感じたのは巻末にこれらの短編で述べられている事件の起きた時期と今まで著された長編での事件が時系列に年表として並べられているところ。これを見るとこの短編集は建築探偵桜井京介シリーズ第二部の第1作『美貌の帳』までの事件を全て補完するようになっている。従って本作での時間はすごく長く、蒼が高校に編入する前から浪人生を経てW大学入学の20歳になるまでの期間に遭遇した、もしくは語られた事件(出来事)となる。

そしてそれらは先にも述べたように桜井京介、栗山深春、蒼こと薬師寺香澄、そして神代宗の四者のキャラクターを掘り下げることを主眼にし、さらにシリーズに厚みを持たせることを目的にしているようなので、本格ミステリとして読むとかなり肩透かしを食らうだろう。
逆に云えばシリーズファンが読むとますますのめり込む美酒のような短編集になるということでもある。

しかしそのキャラクターがいまいち私には合わない。深春はこの中で最もまともなキャラクターで好きだが、それ以外はいかにも「作られた」感を思わせる戯画化された造形を感じる。特に蒼は、過去の事件ゆえに学校にも行かなかったことで精神的成長が遅れているのは理解は出来るが、猫のような周囲へのじゃれ付きようは読んでいて怖気が出て鳥肌が立つ。その台詞は「20の男が口にするような言葉だろうか?」と首を傾げざるをえない。特に深春に対する純粋な思いを告げるシーンはほとんどBL小説である。

今までこのシリーズ読んできたが、やはり自分にはどうも合わないようだ。最後を俟たずして次の作品でこのシリーズとは別れを告げよう。


▼以下、ネタバレ感想
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桜闇 建築探偵桜井京介の事件簿 (講談社文庫)
篠田真由美桜闇 についてのレビュー