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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数896

全896件 381~400 20/45ページ

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No.516:
(7pt)

ドイルの違った側面を知ることのできる短編集

創元推理文庫から訥々と刊行されていたドイル短編集もこれで5冊目。どうやら本書で最後になるようだ。

まず冒頭は表題作から。
産業革命喧しい19世紀末に書かれた似非化学を材に採り、もっともらしい錬金方法を発明した無尽蔵の富を誇る男を巡ってそれまで貧しいながらも慎ましく暮らし、いつか生活が良くなるだろうと夢を抱いていた片田舎の人々が彼の登場で狂っていく。その様子をマッキンタイア家を物語の軸として描いたペシミスティックな結末が印象的な作品。
画家で大成することを目指していたロバート・マッキンタイアはその誠実さを買われながらもラッフルズの富を目の当りにして自分の人生に次第に意味を失っていくし、ラッフルズに見初められたロバートの妹ローラは婚約者がいるのにも関らずラッフルズの富に目が眩み、婚約破棄をしようとし、彼らの父は事業に失敗していたが今なお再起を狙っており、ラッフルズの富をその足がかりにしようと虎視眈々と狙っている。
これは恐らく産業革命で爆発的な富を得た人と逆に失った人が実際にいたことから生まれた作品なのだろう。物語としてはファンタジーだが、ここには当時の“狂気の19世紀”という誰もが一山当てようと躍起になっていた世情が鮮明に描かれている。

続く「体外遊離実験」は今でもよく題材として使われる人格交換物の一編。
幽体離脱した霊魂が戻った先は逆の肉体だったという今ではよくある話だが、発表当時の1885年ではかなりぶっ飛んだ話だったのではないだろうか?もしかしたら人格すり替わり物の原型だったのかも?
この話の面白味はそれぞれ霊魂がすり替わったことに気付かずにお互いの生活をするところ。しかし実験が終わった時点で相手を見て気づきそうなものだけれど、そこは目を瞑るべきなんだろうな。

「ロスアミゴスの大失策」は電気による処刑を実施したところ、死刑囚は死なずに逆に不死身の肉体を得てしまうという似非科学物。
当時まだ電気による死刑方法がそれほど知られてなかったからこその1編か。おそらく着想の素になったのはメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』からではないだろうか?電気ショックによって甦った死体から作られた不死身の人造人間が不死の肉体を持つ死刑囚と非常に設定が近似している。この短編が1892年の作品で『フランケンシュタイン』が1818年の作品だから年代的にも合う。ただしシェリーがホラーなのに対し、コミカルな作品にしているのがドイルの味付けの上手さだろう。

「ブラウン・ペリコード発動機」は新発明を巡る技術者二人の争いを描いたもの。
これも産業革命で発明が盛んになっている当時の世相を表した作品と云えるだろう。共同開発者のうちのどちらかが功績を我が物にしようと相手を出し抜いて特許出願するなんてことは日常茶飯事だったのかもしれない。

「昇降機」は奇妙な味わいを残す。
人間というものはその思考が環境に左右されることは今ではよく知られているが、これも昇降機のメンテナンスをすることで高所へ行き来するうちに地上の人間がちっぽけな存在に見え、自分を神と近い者、神の言葉の代弁者だと思い込んでしまった男が起こす狂った所業を扱っている。
おそらくはこの作品には高さを競い合うように高層の建造物を建てている当時の流行を見て、ドイルが神への冒瀆ではないかと警鐘を鳴らしているのが裏のテーマかもしれない。

女の嫉妬も怖いが、男の嫉妬もかなり怖いと思わされるのがこの「シニョール・ランベルトの引退」だ。
黙々と発声法に関する論文を読み、医者に質問し、浮気相手を前に医療器具を出していくスパーターの様子が不気味で話としては単純だが印象に残る。

「新発見の地下墓地」は仲の良い2名の考古学者が一方が発見した新しい地下墓地を見に行くことになるのだが…というお話。
特に何気ない冒頭の会話が復讐者が自身で発見した地下墓地に友人の考古学者を案内するという動機に繋がっていたのが判明するところにカタルシスを感じた。結末の皮肉さといい、短いながらも上手さが光る好編。

最後の「危険!」はヨーロッパの小国がいかにしてイギリスの艦隊を破ったかを語った話。その作戦の中心人物ジョン・シリアス大佐の秘策とはイギリスに航行する食糧貨物船をことごとく潜水艦にて撃沈させることだった。つまりはイギリス国内を兵糧攻めにして内部から疲弊させてしまおうという作戦なのだ。
しかしこの作戦の内容は早いうちから明かされており、あとは延々とその戦いと終戦までの顛末が語られる。馴れない海洋小説ということもあって特に興趣をそそられなかったのが残念だ。


一読した印象は古き懐かしい古典の名品ともいうべき短編集だ。

本書では科学や学問をテーマにした作品が多いのが特徴だ。錬金術に心霊学、電気工学に機械工学、考古学など。学問そのものをテーマにしたものもあれば、学問を巡る人物たちの浅ましさを描いたものもある。

学問そのものをテーマにしたものは押しなべてコミカルなファースになっており、学問を巡る人々を描いた作品は悲劇やホラーといった負の味付けがなされているのが興味深い。
前者でいえば幽体離脱した霊魂がすり替わることで起こる様々なアクシデントを描いた「体外遊離実験」、強大な電気ショックを与えることで不死身の肉体を得た死刑囚を描いた「ロスアミゴスの大失策」などが該当し、後者でいえば無尽蔵の富を生み出す錬金術を目の当たりにした街の人々が堕落していく様を描いた表題作を筆頭に新発明の特許を奪い合う2人の技術者の話である「ブラウン・ペリコード発動機」、昇降機のメンテナンスを請け負っていた男がいつしか万能神と自らを思い込むようになった男の狂気を描いた「昇降機」、そして「新発見の地下墓地」では親友同士の考古学者が片割れが持つ密やかな復讐心が語られる。

これらはやはり産業革命によって劇的に変化した当時の社会情勢が人心へ招いた異様な熱気と狂気がこの作品群には込められているように思えてならない。アイデア一つで誰しもが一攫千金を手にできた時代。だからこそ誰しもが相手を出し抜こうと躍起になっていた。
そんな科学がもたらした社会の歪みを時には滑稽に、時には皮肉なまでに、そして時には陰湿に描いたのがこれらの作品群ではないだろうか?

しかしドイルは実に幅広い作風を持った作家であることか。これまでに刊行されたドイル傑作集も今回で5冊目を数えるが、ドイルがホームズシリーズだけの作家でないことを知るのに実に充実したラインナップだったように思う。特に新潮文庫でも編まれたホームズシリーズ外の短編集に未収録の作品を多く読めたのが収穫であり、ホームズシリーズでは気付かなかったドイルの作家としての姿勢や彼のジョン・ブル魂、騎士道精神などが行間から窺えたのが大きな収穫だった。
本書でこのシリーズが最後だというのは非常に残念でならない。選者であった北原尚彦氏、西崎憲氏、そして影の編者藤原義也氏のきめ細やかな選出に拍手を贈りたい。


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ラッフルズ・ホーの奇蹟 (ドイル傑作集5) (創元推理文庫)
No.515:
(7pt)

事件の真相は我々の日常にも起こりうるものだった

再びのウェクスフォード主任警部シリーズ。縁あって神保町の古本屋で購入した3冊のレンデル作品のうち、2作がこのシリーズの作品となった。
しかし本書はこの前読んだ6作目『もはや死は存在しない』からずいぶん経った作品で11作目となる。この両作品との間には10年の隔たりがあり(『もはや死は存在しない』が1971年発表で本書は1981年の作品)、そのため作中時間の経過が見られる。

『もはや死は存在しない』のラストで亡き妻の妹グレースと結婚を匂わせる幕引きを見せたバーデンだったが本書で判明する再婚相手はジェニーという女性。
『もはや~』から本書に至るまでシリーズ作のうち『ひとたび人を殺さば』と『指に傷のある女』は既読なのだが、全く覚えてなく、どこで彼が再婚したか判らない。グレースとの関係がどうなったのか、『もはや~』の次作である『ひとたび~』で確認する必要があるな。

またウェクスフォードの娘シーラが女優として活躍しており、本書では彼女の結婚式のシーンが盛り込まれている。この娘が有名人という設定が前面に出されているせいか、本書に登場する主要人物はやたらと有名人が多い。

まず被害者のマニュエル・カマルグは有名なフルート奏者であり、莫大な遺産の持主。彼の友人フィリップ・コーリーもまた有名な作曲家であり、さらにその息子ブレーズは人気番組の司会者でもある。
イギリスの片田舎の町キングスマーカムに斯くも芸能人やら文化人が住んでいるというのも実に面白い話ではある。

さて本書のテーマは相続人の前に突如現れた音信不通だった近親者は果たして本人か否かという物。この手の話は古くからあり、例えばカーの『曲がった蝶番』とかがそうだろう。また財産目当ての悪女物となればカトリーヌ・アルレーの『わらの女』が有名だ。
あれが当事者の側から描いたものとすれば、これは捜査側から描いた悪女物と云えるだろう。

そして物語の展開として意外なのは高名なフルート奏者の遺した莫大な遺産をせしめようと周囲を騙し通そうとしたナタリーの素性からどんな手を使ってでも遺産を手中に入れるという悪女ぶりととっかえひっかえ男を換えては誑し込み、恐らく自分の望みを適える手伝いをすらさせていた当の本人が第2の被害者として見つかるところだ。
この辺のストーリーの切返し方は実に上手い。

そして本物か偽者かという二者択一でしか有り得ないシンプルな謎の真相が実に意外で、また実に納得の出来る物であることに驚きを感じた。

こういう状況って確かにあるよなぁと思わせ、それを謎に結びつけるレンデルの上手さ。恐らく作者は友人や知人らと交わす会話の中に同種のエピソードを聞くに及んでこのプロットを生んだのではないだろうか。
単に笑い話に終始しそうな話を膨らませて1冊のミステリを作ってしまうレンデル。さすが英国女流ミステリの女王だ。

今回はある種の先入観を持って聞き込みをすることの危うさを説いている。それは刑事の聞き込みだけではなく、我々日常生活においても同様だということだ。
あの人はあんな感じだからああではないかと思うと自分の見込みに都合のいい情報ばかりを選び、齟齬を感じる情報は例外や何かの間違いだと思いがちだ。実に腑に落ちる形で我々読者に投げかけてくれる。

レンデルの作品は必ずしもページを繰る手が止まらないほどのエンタテインメント性・サスペンス性を備えているとは云えない。寧ろ単純な謎に対するアプローチが長く、やきもきする方もあるだろう。

しかしやはり最後の真相を聞くとそれまでのモヤモヤが雲散霧消する爽快感が得られる。だからレンデルは止められない。

絶版した作品や未文庫化の作品が多いのはなんとも残念なこと。さらに未訳作品も多いのはなんとも嘆かわしい。海外ミステリの出版状況が厳しいのは判るが、版元は最後まで責任を持って出版してほしいものだ。


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仕組まれた死の罠 (角川文庫―ウェクスフォード警部シリーズ)
ルース・レンデル仕組まれた死の罠 についてのレビュー
No.514:
(7pt)

これもまたディーヴァ―

ディーヴァーによる初の歴史小説。舞台は第二次世界大戦前のドイツ。台頭してきたヒトラーの頭脳とも云えるラインハルト・エルンスト暗殺を命じられる殺し屋の物語だ。

リンカーン・ライムシリーズとは違い、最初から目くるめくサスペンスの応酬といった物語運びではなく、主人公ポール・シューマンがひょんなことから任務に就くことを余儀なくされ、ドイツに潜入して現地工作員と落ち合い、標的の暗殺計画を練り、実行に至るまでのプロセスがじっくりと描かれていく。
もちろん稀代のストーリー・メーカーのディーヴァーのこと、ただ単純に経過を辿るのではなく、いきなりナチスの突撃隊員殺害というアクシデントが盛り込まれ、なかなか容易に物事が運ばないようになっている。

それはポールという謎めいた男を追うクルポ(ドイツ刑事警察)の凄腕刑事ヴィリ・コールが徐々に追い詰め、いつもあと一歩というところですり抜けるスリルを生み出している。
この物語運びから私は読んでいる途中、しばしば想起されたのはバー=ゾウハーの作品だ。ギリギリのところで捕まらない、他国へ潜入した者の緊張感は彼の作品に通ずるものを感じた。

しかしこのナチス統治下のドイツの緊張感とはなんと恐ろしいものか。学生たちはヒトラーの信奉者集団であるヒトラー・ユーゲントに入ることを強いられる。それは名目上は自由参加なのだが、非加入者は加入者からユダヤ人呼ばわりされ、蔑まされるのだ。そんな上下関係を打破する為に子供達が誰かを告発しようと考える異常な状況。
ゲシュタポやSDが平気で盗聴器を各家庭に仕掛け、不穏な会話をすればすぐさま逮捕され収容所に連れて行かれる。そのため市民は夜中にノックされればゲシュタポやSDではないかと恐怖に慄くのだ。
さらに近所の気のいいおばさんが実は反政府分子ではないかと疑いをかけ、笑顔で挨拶をしながらもその実いつも監視をしており、確信に至るやSDに通報して逮捕させたり、仕事の同僚や部下だと思っていたら実はゲシュタポのスパイだったり、そして最後の明かされる「ヴァルタム研究」の悪魔のような内容―偽りの理由でアーリア人以外のドイツ在住民や反政府分子を集め、それを虐殺する様を見せる兵士の心理状況を観察して軍事情報とする研究―と、まさに題名どおりナチス統治下のドイツは「獣たちの庭園」なのだ。

しかし本当の題名の意味は舞台となるドイツにある「ティーアガルテン」から採られている。これはそのまま原題の"Garden Of Beasts"の意であり、帝政ドイツ時代の王族が狩りをした場所という由来があるのだが、勿論この言葉には別の意味もあり、ポールが潜伏している下宿屋の女将ケーテ・リヒターの恋人がかつて突撃隊に殺された場所でもある。つまり動物を表す「ティーア」には暴漢、罪人という意味もあるのだ。

しかしそれ以上にやはり私はこの題名には上に書いた作品の舞台となっている戦時下のドイツそのものを指しているように思う。

いつもはジェットコースターサスペンスの如く、ページを捲る手が止まらない物語運びをみせるディーヴァーだが、本書では実にじっくりと語り、ポール・シューマンが標的ラインハルト・エルンストを暗殺するまでのプロセスを描いていく。
派手さに欠けるものの、ディーヴァーならではのどんでん返しもあり、最後のポールの決断ともう一人の主役ヴィリの決断はなかなか渋さを感じる。ディーヴァーはこんなものも書けるのだなぁと思った次第。

ジェフリー・ディーヴァーという作者名からいつもの作風を期待すると肩透かしを食らうかもしれないがこれもまたディーヴァーなのだ。
暗殺者と標的、そしてそれを追う者の攻防に焦点を当てず、敢えてナチス統治下のドイツを克明に描くことを選択したディーヴァーの意図を是非とも汲み取ってもらいたい作品だ。

獣たちの庭園 (文春文庫)
ジェフリー・ディーヴァー獣たちの庭園 についてのレビュー
No.513: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

やはり推理してこそミステリ

あえて犯人が誰かを書かない本格ミステリという野心的な作品である本書は発表当時非常に話題になったものだ。
これは『名探偵の掟』にも登場人物の口から語られていた
「本当に推理しながらミステリを読む読者なんているのか?」
という疑問を解き明かす為に東野氏が読者に挑んだ作品なのだ。

その昔からもエラリイ・クイーンに代表される「読者への挑戦状」という形式で読者との知的ゲームを演出していたが、本書のように真相すらも読者の推理次第で変わるという風に徹底したのは初めて。

しかしそれを成立させる為には読者が真相を解明できるためのヒントは全て開示しなければならないというリスクも発生する。つまり東野氏もまた挑戦者でもあるのだ。

殺人事件の容疑者は2人というシンプルな設定も意気込みを感じる。エラリイ・クイーンも後期は登場人物がどんどん少なくなっていったが、本書はさらにその上を行くシンプルさ。

しかしそれだけでは終わらない。妹和泉園子の仇を討つために兄康正が現場を自殺に見せかけてまで、自身で犯人を捉え、復讐を企む相手に疑問を投げかける加賀。つまり本書はどちらも犯人を捕まえる目的でありながら、自殺に見せかけようとする康正と他殺の線がどうしても拭いきれない加賀との、警官同士の一騎打ちという構図もまた現れる。
やはり東野圭吾はただの推理小説は書かないのだ。

さすがに真相が語られないとなると読書も通常よりも緊張感が増すように感じられる。元々私は推理をしながら読む方なのだが、それでさえなおそう感じる。まあ、推理しながら読むといいながらもその勝率はかなり低いのだから、仕方がないのだが。

さらに感心したのは犯人が誰かを明かさないという読者を突き放した結末でありながらも欲求不満を感じるものではなく、きちんと小説としての結末が成されていることだ。妹を殺され、佃潤一と弓場佳世子の前に立ちふさがる和泉康正の復讐とそれを阻止せんと奮闘する加賀との対決が物語の読みどころになっているところが素晴らしい。
最後に容疑者2人と康正と加賀が犯行現場の園子の部屋で一堂に会して繰り広げるサスペンスフルなやり取りは非常にスリリングで読み応えがある。しかもそこで語られる内容が犯人を特定する重要なヒントになっているのだから読書にも熱が入るのだ。

しかしかような本格ミステリに特化した物語でありながら、東野氏の数少ないシリーズキャラクター加賀恭一郎の存在感が更に厚みを増したように感じる。ディック・フランシスの競馬シリーズでいうならば、東野作品のシッド・ハレーというと云い過ぎだろうか?

また改めて本格ミステリが読者との知的ゲームであることを再認識させてくれた東野氏に感謝したい。本当にミステリは当っても外れても面白い。それが作者の挑戦に真っ向から勝負したとあっては尚更である。同趣向の『私が彼を殺した』では是非ともリベンジを果たしたい。


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どちらかが彼女を殺した (講談社文庫)
東野圭吾どちらかが彼女を殺した についてのレビュー
No.512:
(7pt)

テーマとミステリの融合は実に見事なのだが…

神保町の古本屋で手に入れた久々のレンデル作品はウェクスフォード主任警部シリーズの1つだった。
シリーズ6作目であり、1作目の『薔薇の殺意』を除いて連続してシリーズを読むことになり、また幸運にもこの後の作品『ひとたび人を殺さば』に至るシリーズの空隙を埋めることになった。

今回の事件は失踪事件もしくは誘拐事件だ。12歳の少女と5歳の男児の行方不明事件をウェクスフォード警部が捜査するという構成だが、物語の主軸は寧ろウェクスフォードの部下マイク・バーデンにあるといっていいだろう。

愛する妻ジーンをクリスマスに喪い、失意のどん底にいた彼の目の前に現れたのが失踪した息子を探してほしいと請う女性ジェンマ・ロレンス。母子家庭で一人息子のジョンを育てていた彼女の事件を担当するマイクは次第に彼女に惹かれていくのだ。

一方で亡きジーンの代わりに息子と娘の世話を義妹のグレースに頼みながら、ジーンの思い出に浸って家庭を顧みない一面を見せる。そんな態度に憤りを覚えずにはいられないグレース。彼女は家事を完璧にこなした亡き姉の存在からの見えないプレッシャーもあり、バーデンのサポートを待ち望んでいる。
ジェンマとグレースに対する感情に揺れ動くバーデンは、亡き妻の埋め合わせをどちらに求めるべきか思い惑う。時にはエキセントリックなジェンマに惹かれ、時には亡きジーンの面影を見出し、彼女に代わって家庭を切り盛りするグレースこそ理想の妻と考えもするが、情緒不安定な時期にある彼は鉄のように熱しやすく冷めやすいその感情にほだされ、シーソーのようにどちらに傾いては引いていく。

そんなバーデンに振り回されるグレースの存在が切ない。かつては有能な看護婦として自立していた女性だった彼女が姉の死によって義兄の子供達の世話をするようになった。当初は半年ぐらいの予定だったがそれがどんどん延びていき、今では職場復帰することは諦めてさえいる。そんな彼女がほしいのはバーデンが少しでも家庭を顧み、そして労いの言葉をかけてくれることだ。
しかしそれがバーデンには伝わらず、お互いが誤解を生み、すれ違っていく。この辺の感情の機微が生む男女の齟齬を書かせるとレンデルは抜群に上手い。

さらにバーデンはジェンマの魅力とセックスの快楽に溺れ、ジェンマに結婚を申し込む。さらには失踪しているジェンマの息子がこのまま見つからなければいいとさえ願うようになる。
ウェクスフォードの良き片腕だった彼の凋落ぶりには同じ男として情けないものを感じてしまった。

また今回の子供の失踪事件がウェクスフォードやバーデンの心に翳を落とし、町の人々たちがわが子を肌身離さずに買い物に行ったり、雨天の日には迎えに行ったりしている光景を見て、我々警察の仕事というのは一体何なのかと自問する。

さらに失踪した娘のことはもはや眼中になく、恋人同士の思いに戻ったステラの両親アイヴァーとロザリンドのスワン夫妻の歪んだ感情など、こういう点描を紡いで事件から波及する現代社会の問題を浮かび上がらせるところはただ単純にミステリを書いているわけではないというレンデルの作家としてのプライドだろう。

物語の焦点はやがてジェンマの息子の失踪からステラの死体が見つかったことからステラの失踪事件の方にシフトしていく。そしてステラ殺害の犯人は実に意外な人物なのだが、今までの物語で語られてきたエピソードの数々がパズルのように当て嵌まって事件の構図を描き出す。イギリス本格の構成の妙味を感じさせ、久々に爽快感を味わった。

物語、そしてミステリとしてもやはりレンデルの上手さは感じたが、納得のいかない部分もあったので評価は7ツ星としておこう。


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もはや死は存在しない (角川文庫―ウェクスフォード警部シリーズ)
ルース・レンデルもはや死は存在しない についてのレビュー
No.511: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)
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米版『怪人二十面相』

リンカーン・ライムシリーズ第5作の本書はシリーズの中でも1,2を争う傑作だという下馬評が書評家のみならずネット読書家からも漏れ聞えて来ていたのでものすごい期待値が高い状態で読み始めた。

今回の敵は題名どおり“魔術師”。英語ではイリュージョニストと呼ばれているが、日本では手品師というのが一般的だろう。
しかし早変わり、クロースアップマジック、読心術、腹話術、動物のトリックにピッキング、さらには脱出マジックなどの細かで繊細な物から大掛かりな物まで全てをこなすオールマイティのマジシャンだ。

とにかく今までと違うのは犯人である魔術師ことマレリックが殺害の途中に警官たちに囲まれてしまうところだ。それにもかかわらず逮捕の寸前まで行きながらも逃れてしまうのだ。この顛末が非常にスリリング。
手錠を掛けようとすればフラッシュコットンを使って閃光で目眩ましをして逃れたり、腹話術や目線などで気を逸らせたりと、マジックの手法を巧みに利用して捕まらないのだ。さらには手錠を掛けても脱出トリックで解錠技術に長けたマレリックにしてみれば一瞬に解除出来てしまうからすぐに逃れてしまう。まさに最強の殺人犯なのだ。
毎回その作品でスゴイ!と唸らされる連続殺人鬼を生み出すディーヴァーだが、今回も今までの作品の更に上に行く犯人を送り出してきた。いやはやホントこの作家のアイデアの豊富さには畏れ入る。

原題は“The Vanished Man”。「消された男」だ。つまり見事に他人になりきることでその存在自体を消し去る男のことを云っている。まさに変幻自在の殺人鬼「魔術師」に相応しいタイトルだ。

この魔術師に絡めてカルト集団「愛国同盟」の指導者アンドリュー・コンスタブルの手下によるチャールズ・グレイディ検事補の暗殺計画が並行して語られる。

この2つの事件はやがて複雑に絡み合うのだが、とにかく二転三転するストーリー展開に読者は何が真意なのか、そして誰が魔術師なのか疑心暗鬼に陥ってしまう。

しかしよくよく考えると今回もディーヴァーが創案した魔術師は実は日本のミステリ読者ならば誰もが一度は読んだことがある古典的な名シリーズを思い浮かべるだろう。そう、江戸川乱歩の『怪人二十面相』シリーズだ。
しかし西洋人であるディーヴァーならばやはりここは同じく変装の名人怪盗ルパンがモチーフであるのだろう。つまりディーヴァーは古くからある物語を現代のマジシャンの最新技術とライムの鑑識技術と装置とを使うことで新たなエンタテインメントを紡ぎだしているのだ。
まさに古き器に新しき酒を注いで現代に新たな本格ミステリを生み出すこのディーヴァーの着想の冴えにはただただ感服するばかりだ。

今までのシリーズと違うところはライムが何度も魔術師と対面するところだ。その都度ライムは推理を開陳し、戦いを挑む。しかし魔術師はその名の如く逮捕されるたびに誤導や手錠解錠、偽造死などマジックの技法を使って巧みに脱出を繰り返す。

さらに興味深かったのは魔術師が以前火を使ったイリュージョンの失敗で重度の火傷を負い、かつ妻を失った過去を持つことだ。それは捜査で事故に遭い、四肢麻痺に陥ったライムと似た者同士だということだ。
しかし一方は犯罪に走り、一方は正義の道に戻ったこの二人の対照が物語の陰と陽を象徴しており、なかなか考えさせられた。

また今回も他の作品からのカメオ出演があった。パーカー・キンケイド。『悪魔の涙』で主役を務めた文書検査士だ。この辺の演出はディーヴァーの他作品への売り上げを上げるためのコマーシャルなのだろうか。

しかしこれまでの作品の中で最高のどんでん返し度を誇ると著者が豪語した割には読めてしまったというのが正直な感想だ。つまり読者として作者の手筋が見えてきたのだろう。
ちょっと過剰にサーヴィスしすぎた感が無きにしも非ずだ。この辺は哀しいかな、シリーズのマンネリ化を防ぐが故に生じた弊害だろう。
逆にもっと意外なところで不意打ちを食らいたいものだ。そう、作者の企みに満ちた微笑が行間から見えるような不意打ちを。

個人的にはライムシリーズを映像化したような『CSI』シリーズや『ミッション:インポッシブル』などのドラマや映画に触れている小ネタにニヤリとしてしまった。これら実在のドラマや映画に触れるということは逆に作者自身も対抗意識を燃やしているという表れなのだろう。
期待値が高かったせいもあって、10ツ星献上というほどのサプライズは感じなかったが、サプライズよりも今回は魔術師とライムら捜査側の騙し合いの攻防が非常にスリリングで面白かった。
まだまだネタは尽きないディーヴァー。次も読むのが愉しみだ。


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魔術師(イリュージョニスト)〈上〉 (文春文庫)
No.510: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

第2の『Yの悲劇』?

犯人との推理合戦とでも云おうか、連続殺人事件を画策する「Y」なる人物とエラリイの推理の闘いという原点回帰の作品だ。

後期クイーン問題と現在でも称されているように、国名シリーズの後は探偵の存在意義について深く悩むエラリイの姿が作品のテーマになっており、そのためか純然たるパズラーとして読者との知恵比べを前面に押し出した知的ゲームの要素は成りを潜め、登場人物の家庭に潜む問題や人間関係の軋轢などを深く描き、事件は地味ながらも、人間の心がもたらす犯罪を扱っていた。

しかし本書では原点に立ち返ったかの如く、限定された土地に構えられた4つの城に先代の遺言に従って住まう一家の人間達に起きる殺人計画へのエラリイの挑戦という、犯人対探偵の図式を前面に押し出しているのだ。

舞台はヨーク・スクエアなるヨーク家の4つの城が四方に立ち並ぶ一角。そこに住まうそれぞれの城主たち、とおよそ20世紀とは思えない閉鎖的な空間と限られた登場人物たちで構成される、本格ミステリど真ん中な設定。そんな古典的な設定を敢えて晩年期のクイーンが持ち出したことに私の関心は向かってしまう。

しかしこの『Yの悲劇』との近似性は一体何だろうか?
題名にもなっている盤面の敵である匿名の犯人が使う名前はYだし、『Yの悲劇』で一番最初に死体で発見されたのはヨーク・ハッターならば本書の連続殺人の被害者はヨーク一族。そして何よりも両者とも示唆殺人であるところが一致している。
以前私は『Yの悲劇』の感想で「『Yの悲劇』はまだ終わらない」と締め括ったが、本書は舞台を変えた『続Yの悲劇』とも云えるのではないだろうか?

後期クイーン問題を経て、再び『Yの悲劇』の主題に立ち返ったと思われる本作。さて件の作品から約30年経って著されたのだが、そこに何かの発展があったかといえば確かにこの作品にはあるだろう。しかしそれは現代から見れば使い古された設定に過ぎない。

しかし新しい物は生まれた時点で廃れる運命にある。本書は当時の先進性ゆえに現在では逆に古さを感じる内容になってしまった哀しい作品であるのだ。

しかし本書をそれだけで論じてしまうのには早計だ。題名にあるようにクイーンならではの遊び心が横溢している。
チェスに見立てた登場人物設定と、「クイーン」という名が犯人と探偵とのチェス・ゲームにマッチしている妙味はやはり枯れてもクイーンかと思わせる発想の冴えを思わせる。

クイーンの諸作を発表順に読み続けている私はどうしても彼の過去の作品を対照化して考えてしまうため、そこに隠されている作者の意図を考えずにいられない。したがって前述のように本書は第二の『Yの悲劇』として意識して読んだきらいはある。それゆえ自分の中の期待値のハードルを挙げてしまったのだが、それを差し引いても本書が現代に残るべき作品なのか真相を読むだに疑問だ。
しかし作者クイーンがミステリに対していかに新たな血を注ごうかと精力的であったのは存分に窺える。本書を読む人はそんな背景も汲んで是非とも臨んでいただきたい。


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盤面の敵 (ハヤカワ・ミステリ文庫 ク 3-7)
エラリー・クイーン盤面の敵 についてのレビュー
No.509: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

本格ミステリを揶揄しながらもハードルを高く上げる

東野圭吾氏が本格ミステリにありがちなお約束事やコードといったものを痛快に皮肉った名探偵天下一大五郎と大河原警部二人のシリーズ連作短編集。

密室殺人を皮肉った「密室宣言」。Whodunitでお決まりの意外な犯人像を探し当てる「意外な犯人」。「屋敷を孤立させる理由」は本格の王道「吹雪の山荘」の中で繰り広げられる殺人事件を追った物。「最後の一言」はダイイング・メッセージが、「アリバイ宣言」はその題名どおり、アリバイ崩しのミステリ。変わった趣向なのが『「花のOL湯煙温泉殺人事件」論』は二時間ドラマのシステムを踏襲した内容。「切断の理由」はバラバラ殺人事件の「なぜ犯人は死体をバラバラにしたのか」を解き明かす。

「トリックの正体」は作中ではそれを語ることでネタバレしてしまうと伏せられているがここでバラしてもたぶん大丈夫なので書いてしまおう。一人二役トリックを扱っている。そこでは小説が文字でしか読者に表現していないことを逆手に取ったギャグで最後は締められる。
「殺すなら今」は童謡殺人を扱っているが、その中身は便乗殺人である。東野氏の捻くれた物の考え方がうまくブレンドされ、特にタイトルの意味が解る最後の一行は秀逸。

「アンフェアの見本」はどんなトリックは書けない。しかし東野氏がある有名な作品に対して持っている考えが解ってしまった。

「禁句」は首なし死体を扱っているが、まさに禁句のオンパレード。死体に首がない時点で被害者が他人と入れ違っているのは当然だろうとか、特に最後の台詞―ご都合主義はトリック小説には付き物でしょ―は、それを云っちゃあおしまいだよというものだった。

「凶器の話」では消えた凶器の正体がテーマ。これはその凶器の正体よりも最後に判明した新事実を名探偵の推理を守るために警部がもみ消すところが最大の皮肉。

エピローグはシリーズキャラが犯人という意外性を扱っている。これは当時連載されていた推理漫画『金田一少年の事件簿』を皮肉ったものなのか。

そして最終エピソード「最後の選択」は西野刑吾というどこかで聞いたような名前の符号が所有する無人島に天下一含め10人の探偵が集い、連続殺人が起こるという話。それぞれの探偵が古今東西の名探偵を髣髴させるキャラであり、それぞれを辛らつに貶している。そしてタイトルにある「最後の選択」はシリーズ探偵の存在意義を問うもので、案外内容的には深い、かな?

本書はとにかく普通の短編集ではない。登場人物が小説世界にいながらにして途中でメタの存在となり、自らの置かされている状況について色々不満を述べ、時には作者を貶したりする。事件も通常のストーリーのようには展開せず、ミステリにありがちな手続きに関しては省略されるし、時には事件に直接関わりあいのない人物は男性Aだの女性Bだのと簡略化される。
そう、本書で語られるのは物語ではなく、本格ミステリという作り物の世界が抱える非現実的な設定や内容に対する揶揄や疑問のオンパレードなのだ。

しかしそれでも一応トリックはあるし、それなりにオリジナリティも感じられる。自分の知っている限り、他の作家のトリックをそのまま転用した物は見当たらなかった。
もともと東野氏はトリックを創出することに苦労はしないと云っているから、これは東野氏の数あるトリックネタの棚卸しなのでもあろう。

とにかく本格に対する揶揄の連発が非常に小気味良い。エッセイで東野氏のギャグと毒のある語り口は一躍有名になったが本書でもそれは健在。いわゆる本格ミステリのお約束とも云える暗黙のルールについて敢えて鋭いツッコミを入れることを辞さない。
これは東野氏の本格ミステリからの訣別の書なのか?
いやいや逆に本格ミステリを愛するが故の提言と理解しよう。
なぜならこの後、東野氏は敢えて最後に犯人を明かさずに読者に推理をさせる実験的小説『どちらかが彼女を殺した』や『私が彼を殺した』といった野心的な本格ミステリを続けて書いているし、科学とトリックを融合させたガリレオシリーズも書いているからだ。
逆に云えば、ここには本格ミステリが抱える不自然さを敢えてこき下ろすことでその後の自作については決してそんな違和感を抱かせないぞと、ハードルを挙げているような感じさえ取れる。

本書における東野氏には、今まで作者自身が抱いていた違和感を忌憚なく語ることでふっきれた感さえ感じられる。

そしてこの作品を読んで「ああ、面白かった」で済ませてはならないだろう。これは東野氏が今までのミステリではもうダメだと明言しているのだから、今の本格ミステリ作家、これから本格ミステリを書く人たちは本書に書かれた示唆を踏まえてミステリを書かなければならない。
本書が刊行されたのが1996年6月。既に22年以上が経過しているが、果たして本格ミステリは変わっているだろうか?

この“本格ミステリ啓発の書”は本書で終わらず、さらにもう一冊『名探偵の呪縛』が刊行されている。
そちらもまたどんな東野氏の皮肉と歪んだミステリ愛が語られているのか愉しみだ。

名探偵の掟 (講談社文庫)
東野圭吾名探偵の掟 についてのレビュー
No.508:
(8pt)

長すぎる?いやいや。でもやっぱり長いか

あの名作『ゴールド・コースト』から18年。まさか続編が作られるとは思わなかった。期待と不安の入り混じった思いを抱きながら手に取った。

作品内の時間は前作から10年後の世界で9・11テロの9ヵ月後という設定。民族テロという色合いを持つこの事件がデミルに多大な影響を及ぼしているのは昨今の作品からも明らかだが、本書ではそれを上手く『ゴールド・コースト』の作品世界に絡ませている。

即ちワスプたちの世界であったゴールド・コースト一円にいきなりイタリアマフィアという異文化の人間が介入してきて弁護士夫婦の生活に変化をもたらしたのが前作なら、本書はさらにそこに政治的亡命者のイラン人資産家を加え、さらにかつての使用人だったインド人に終身居住権を持たせて単なる召使いという存在からジョンの生活に影響を与える存在に押し上げている。

今回も隣に引っ越してきたマフィアの息子アンソニー、そしてスタンホープ屋敷を除く一円を買い取った怪しげなイラン人アミール・ハシム、もちろん別れた妻スーザン。さらには永遠の宿敵で目の上のたんこぶであるスーザンの父親ウィリアムと帰米したジョンの周辺は何かと物騒で物々しい。

とにかく懐かしい面々が揃った物語は上下巻併せて1380ページという大書だが、全く飽きが来ない。全てのキャラクターに貌があり、全てのキャラクターに血肉が備わっている。
彼ら彼女らのアクの強い面々の織り成す物語は云わばデミル版『渡る世間は鬼ばかり』。ミステリのようでミステリでない、人間喜劇ともいうべき作品なのだ。

やはりこの物語の功績はジョン・サッターの一人称叙述にしたことだろう。
古くから住まうアメリカ高級貴族の生活を、NYで事務所を構える弁護士であり、それなりに身分の高い人物でありながら俗物根性が抜けないジョンの、ワイズクラックに満ち、権威を鼻で嗤い、持ち上げては突き落とすおちゃらけ振りが、一般人には理解しがたい高級階級の人たちの生活や考え方を荒唐無稽な非常識として我々に提供してくれている。

確かにジョンの減らず口の連打には冗長に過ぎるという感を抱く向きもあるだろう。厚さの割りには物語が進まない、長すぎる、という声は至極尤もだと私も思う。
しかしこの作品はその長さを愉しむのであり、ジョンの俗物根性と斜に構えた思考が繰り出す皮肉の数々を味わうのが正しい読み方なのだ。
私は逆にこの作品がこれだけの長さでよかったと思っている。上流社会のおかしさや体面を保つことを重視する面持ちをジョンの下らない洒落や愚痴を通じて長く愉しめるのだから。

そして今回ジョンの心に翳を落としているのは元妻スーザンと彼女が射殺したフランク・ベラローサの件だ。10年経った今、ゴールド・コーストの面々は一応の折り合いをつけ全ては終わったこととして振舞っているが、この地で10年の空白期間があるジョンにとっては彼らの変化を今一つ信用しきれなく、いつスーザンが報復されるのかが心配で堪らないのだ。
その実彼はなかなか彼女と会おうとしない。この妙な自尊心と騎士道精神の葛藤が面白いのだが、それがまたジョンの雄弁さを本書では助長しているような気がする。

しかしそれはスーザンと逢うと全く一変する。いい別れ方をしなかった元妻にどんな顔をして逢ったらいいのか判らなかったジョンだが、スーザンが今なお彼への愛に変化がないことを知ると、以前の如く、仲睦まじく魂と身体で通じ合った絶妙なコンビネーションを発揮するのだ。
この展開になるまで約360ページを費やす。1本の小説分の分量だ。これは確かに長すぎると思われても致し方ないか。

今回はスーザンとの復縁を成就する為に障害となるのが彼女の父親ウィリアム。とにかく彼は支配することを全てとし、彼が支配できないこと、人を忌み嫌う。その存在こそがジョン・サッターその人なのだ。
今回ウィリアムはスーザンが復縁すると彼女を遺産相続人のリストから外し、彼らの子供エドワードとキャロリンをも遺産相続人から外すと脅しをかけるのだ。この絶体絶命の窮地を実に意外な展開で一気に逆転するのが実に小気味よい。この辺はぜひ本書を当たってもらいたい。

そんな物語はやはりこれはミステリではないのでは?と思わせながらも、やはりマフィアの息子アンソニーの登場で実に緊迫したクライマックスが訪れる。

しかし1990年に書かれた作品の続編がなぜ18年後の2008年に書かれたのか。それはこの作品の設定された時間に答えがあると云えよう。
先にも書いたが本書の舞台は9・11の同時多発テロが起きた9ヵ月後。その後のアメリカ人、特にニューヨーカーたちの人生に対する考え方、死生観に変化が起きたことを今までデミルはジョン・コーリーシリーズを通じて語ってきた。
一日一日を大事にする者、家族との絆をより一層深める為に仕事の一線を退いた者、テロ発生の可能性が高い都会を離れた者、そして無力な政府に代わってイスラム社会へ神の鉄槌を下そうと画策する者、などなど。
作中ではジョンの息子エドワードが黒一色の服装をしているせいか、空港で別室に連れて行かれた、なんてことも書かれている。その変化は俗社会から一線を画した建国時代に栄華を誇った貴族階級の人間達が住まうニューヨーク郊外の「ゴールド・コースト」の住人たちにもテロによって何らかの変化が訪れたであろうことを書きたかったのだろう。
つまりこれはデミルが今後ライフワークとして取り組むであろう、「9・11によってアメリカに何が起きたのか」というテーマに沿った作品の一部であるのだ。

そしてやはり最後のアンソニーの襲撃もまた、個人レベルで起きたテロなのだ。そしてスーザンとジョンが取った行動には決してテロには屈してはいけないというメッセージが明示されている。
最後にスーザンがFBI捜査官マンクーゾに次のように語る。

「(前略)あの男はわたしたちを辱め、その後のわたしたちの人生を変えたいだけだったのよ」
「(前略)あの男はわたしたちの魂を殺そうとした……わたしにはそれが許せなかったの」

これは“あの男”をビン・ラディンと読むとデミルの9・11同時多発テロに対する怒りの主張に取れないだろうか?
あのテロを経験したことで価値観や生活がガラリと変わってしまったことを肌身で感じながらも、結局ビン・ラディンは何をしたかったのかが見えてこない。そんな卑劣漢に対する彼の見方と怒りがここに現れているように感じる。
そしてそれを敢えて質さずに認めるマンクーゾもまたデミルの分身だろう。即ち大量破壊兵器があるという大義名分で現地に乗り込んだ当時の大統領ブッシュを支援しているかのようにも思える。

しかしそんな硬いことを考えずともこの作品は楽しめる。
特にスーザンと離婚後、ヨットで世界一周をし、ロンドンに住んでいたジョンやジョンを待って独身を通したスーザン、そして長年スタンホープ家に使えていたエセルらの人生で重ねた後悔への述懐などは我が身を摘まれる思いがする。

云うべき言葉を発しなかったことで人生が変わってしまった、云うべきことを云えなかったのは得てして人は希望よりも恐れを抱く傾向にあるからだ、云々。
なんとも含蓄溢れる人生への教訓ではないか。

読書前の心配は読後の今、全く以って杞憂に終わった。
ただもう少し物語はスリムに出来たかもしれない。ジョンとスーザンの生活に影響するはずだった存在アミール・ハシムがなんとも影が薄くなってしまったりと無駄な設定、エピソードも目立ったからだ。

それでもジョンとスーザンの魅力あるカップルに再び逢えたのは嬉しかった。もう恐らく彼らと逢うことはあるまい。

まだまだデミルからは目が離せない。


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ゲートハウス(上) (講談社文庫)
ネルソン・デミルゲートハウス についてのレビュー
No.507:
(7pt)

主人公強くなりすぎ!

当初3部作で構想されていたフランケンシュタインシリーズの第1部終了を告げるのが本書である。

元々クーンツはノンシリーズの作品をたくさん書いていたが21世紀の今頃になっていきなりオッド・トーマスとフランケンシュタインという2つのシリーズ物を書き出した。前者も後者もその第1作は近年の彼の作品の中でも出色の出来ともいうべき素晴らしいもので、シリーズの先行きを十分期待させるのだが、第1作に全てを投じてしまうのか、新巻が出るたびに大味になり、物語もオーソドックスな感じになってしまう。オッド・トーマスは今は中断されており、こちらのシリーズは続巻が出されているようだ。

これは多分にこのシリーズではフリークたちが人造人間、新人種という形でどんどん出てくるからで、こういった常軌を逸脱したキャラクターたちはクーンツの十八番である。このシリーズはまさにクーンツのクーンツによるフリークショーなのだ。

そして今回でも特別な能力を与えられているのが犬。本書ではレプリカントであるギトロー夫妻に殺される隣人のベネット夫妻が飼っているシェパード、デュークだ。デュークはかつて燃え盛る家の中から子供を救ったことで街でも有名な英雄犬として知られている。デュークは臭いでその人間が善玉か悪玉かを見分ける(臭い分ける?)ことが出来る。これはこの犬が特別だということを示しているのだろうが、それに加えて恐らく犬を飼っていたクーンツが一緒に生活をしていて感じたことも反映されているのだろう。しかしそれにしても最近のクーンツの犬への偏愛振りはさすがに食べ飽きた感がある。

最後に蛇足めいた補足を。デュカリオンが最後に行き着く場所はセント・バーソロミュー修道院。そう、クーンツ読者ならばこの名を聞いて思い出すだろう。その修道院にはかつてオッド・トーマスがいたのだ。これはクーンツのファンサービスなのだろうか。恐らくこの2つのシリーズが交わることはないだろうが、もしそうなったらクーンツがオッド・トーマスシリーズを止めているのも理由があってのことかもしれない。

まあ、続いて刊行されるシリーズを愉しみに待つことにしよう。


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フランケンシュタイン 対決 (ハヤカワ文庫NV)
No.506: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

West Meets East.

West Meets East。
本作の主題を一言で表すとこうなるだろうか。
中国からの密入国者とそれを抹殺する蛇頭の殺し屋の捜索に図らずも中国から密入国してきた刑事ソニー・リーと協同して捜査することになったライムとリーとの交流が実に面白い。物語の構図は殺し屋対ライムと変わらないが、決してマンネリに陥らないようアクセントを付けているところがディーヴァーは非常に上手い。特にお互いが白酒とスコッチと西と東の蒸留酒を飲み交わしあいながら語り合い、碁を打ち始めるシーンはとても印象的だ。
毎回このシリーズには名バイプレイヤーが登場するが本書ではまさしくこのソニー・リーだ。

現場に遺された遺留品や証拠類、痕跡から快刀乱麻を断つがごとく、犯人の行動を再現し、その正体に迫っていくライムだが、今回は東洋、中国人の思想という壁に阻まれ、いつものように殺し屋の先手を打つ精細さが発揮できない。西洋人の論理的思考が中国人の面子を重んじる精神を上手く理解できず、成り行きで捜査の手伝いをすることになった中国公安局刑事ソニー・リーにイニシアチブと取られてしまう場面が多々出てくる。
あくまで物的証拠を重視し、刑事の勘などを一切認めなかったライム―その頑なさが前作『エンプティー・チェア』でアメリアとライムとの対立を生んでいた―が本書では東洋の―というか中国人の―特異な考え方のために、ソニー・リーに頼らざるを得なくなるのが面白い。世界一の犯罪学者と称され、巻を重ねるごとに全知全能性にますます拍車がかかっていくライムを『エンプティー・チェア』では知らない土地での捜査という趣向で、本書では異民族との戦いという趣向でライムが決して万能神にならないよう工夫を凝らしているのが素晴らしい。
『エンプティー・チェア』と云えば、冒頭に『コフィン・ダンサー』で標的になった被害者のボディガードになったローランド・ベルがいとこが保安官を務めている『エンプティー・チェア』の舞台ノースカロライナで、同書にも登場したルーシー・カーと付き合っているというエピソードがさりげなく挿入されているあたりはシリーズを読む者にとってささやかな醍醐味だろう。とはいえ、前作の結末を知っている者にはいささか複雑なものを感じる話ではあるのだが。

またシリーズも4作目になるというのにまだまだ鑑識の世界は奥深く、今回もディーヴァーは我々一般市民の知らない専門知識や情報を教えてくれる。

例えば証拠物件を扱うのにピンセットではなく日本人や中国人が使っている箸を使うのだそうだ。箸の方が力を上手く和らげ証拠物件を損傷することなく扱えるからだという。
また鑑識捜査で大敵であるのが現場に落とされる捜査官達の頭髪やら皮膚、汗など部外者による余計な証拠なのだが、これを解消すべくフード付の防護服が開発されたこと(しかしその着装姿はとてもカッコいいものではないらしいが・・・)。

鑑識以外にも豆知識はふんだんに盛り込まれていて、例えばライムの半身不随の手術に使われるのがサメの細胞などということも触れられる。これはサメの細胞が人間の物と適合しやすいからだそうだが、今ではこれはiPS細胞になるんだろうなぁ。

またディーヴァーといえばどんでん返しが定番だが、しかしこれには無理があるのではないか?

もう一つディーヴァー作品に欠かせないのが息もつかせぬサスペンス。『コフィン・ダンサー』の時は一部空が舞台になったが、本書では一部海が舞台になっている。
前者が航空機の操縦についての薀蓄が語られ、さらにスペクタクルまで用意されていたが、本書ではスキューバ・ダイビングで沈んだ密入国船の捜索にアメリアが当たる。刻々と無くなっていく残存酸素量がタイムリミットサスペンスを煽り立てるところはさすがディーヴァーといった所か。

しかしメインのゴーストとライム&アメリアの対決は意外にも呆気なく終わる。しかし物語の主眼は今までの敵になかった政府との太いパイプを持った殺し屋をいかに逮捕するかというところに置かれている。
捕まったゴーストは中国へ送還され買収した役人・警察たちの手によってすぐさま自由の身となるのだが、それをいかに阻止するかにライムたちチームの捜査がメインとなっている。したがってアクション性は今までの作品の中ではちょっと大人しく感じた。しかしゴーストは他の敵とは違って逮捕されただけでライムとアメリアの住所も知っているだけに再登場して今後の驚異となる可能性もあるのかもしれない。

さて本書のタイトルとなっている「石の猿」とは殺し屋の名前ではなく実は日本人に馴染みのある西遊記の孫悟空のことだ。細かくいうと密入国者の一人、医者のジョン・ソンがしている首飾りに付けられたお守りのこと。
暴れん坊の猿の妖怪が天竺への旅で知見を増やし、改悛していくというモチーフからソニー・リーという刑事が中国の東の国アメリカに渡って親不孝者と思われていた自分を親に認めさせるという影のテーマに擬えているのだろうが、もっと他にもあったのではないだろうか?

今回は従来のジェットコースターサスペンスの趣向から外れ、異文化とライムの邂逅を軸に中国密入国者の現状とチャイナタウンの陰の部分を描くことでストーリーに濃密さをもたらそうとしたのは解る。確かに密入国者のサム・チャンが車が来るたびに、誰かの話し声がするたびに電灯を消し、息を潜めて暮らさなければならない状況に絶望するエピソードなどはなかなかに読ませ、考えさせられたが、もう少し掘り下げてくれればもっと読み応えがあっただろう。
特に読み応えを感じたのはライムとリーのやり取りの箇所だった。特にライムが脊髄の手術を取止める決心をさせたのがリーの言葉だったというのは重要だし、シリーズの今後の方向を決める部分でもあった。

しかし毎度のことながらこの世は騙し騙されの連続で、賢く立ち回った者が生き残り、素直で世間の怖さを知らない無垢な人間は生きていけないのではと思わされる。
作品の性質上これは仕方ないのだが、蛇頭の魔の手から逃れるために善玉の密入国者サム・チャンの取った行動でさえライムの推理を手玉に取るくらいのフェイクだし、そして真相で明かされるのはまたもや政府高官たちの悪行―ゴーストがわざわざ密入国者を殺そうとしたのは福建省の高官たちが企業の賄賂を受け取って潤っている事実を亡命した反体制活動家から暴露されるのを防ぐ為―だ。
政治と金、権力と金の汚さこそが実はこのシリーズの隠れたテーマになっていることを気付かなければならない。

『エンプティー・チェア』から続いたライムの四肢麻痺からの回復への道もここで一旦終了。そしてアメリアが抱くライムの子を授かりたいという思いも一段落着いたような形だ。次作はまた新たなシリーズのステップの始まりではないだろうか。

もう一度『ボーン・コレクター』や『コフィン・ダンサー』で見せた手に汗握るサスペンスを期待したい。


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石の猿〈上〉 (文春文庫)
ジェフリー・ディーヴァー石の猿 についてのレビュー
No.505:
(7pt)

ちょっと身につまされる思いがしたり

東野圭吾版ユーモア短編集とでも云おうか。その名の通り、ちょっと笑いを誘う短編で編まれている。

まず冒頭を飾るのは「鬱積電車」。これはまさに身に摘まされる。ラッシュアワーの電車の中で各人が抱く不満がつらつらと書かれた群像劇。
ラッシュで諦めていたが思わず目の前の席が空いてラッキーだと思う者。焼肉を食べた隣の酔っ払い親父の息の臭さに辟易するOL、席を譲るのをあえて促す老婆に妊婦、そしてオバサン、さらにそれにどうにか抵抗しようとするサラリーマン、そしてやたらと目の前の女性にいやらしい目つきを配る中年男、などなど。
ここには通退勤で電車を利用している我々が日常に抱くであろうことが書かれている。単に「あるある!」感を誘うだけの話かと思いきや、皮肉な結末が待っている。この結末も含め、実に上手い。

続く「おっかけバァサン」では年金と亡き夫の生命保険で細々と食い繋ぐ老婆が偶然手に入れた芸能人のショーの公演でいきなりおっかけに目覚めた顛末が語られる。
う~ん、真面目一筋、ケチ一筋で生きてきた人が華やかな世界に目覚め、身持ちを崩すというのはよくある。例えば男なら退職の送別会で初めて連れて行かれたキャバクラに目覚め、その後の老後生活を破綻させてしまう、なんて実例もある。
しかしこのオチは悪趣味だなぁ。

「一徹おやじ」はわが子をプロ野球選手にしようと一サラリーマンが独自の英才教育で息子を鍛えていくタイトルどおり『巨人の星』のパロディ。
実に面白い!この手の作品は色んなパターンが考えられると思うが、東野氏は敢えて息子に自身の適えられなかった夢を託した親父の願いどおりに息子がプロ野球選手に選出されるように語っていく。ブラックな結末も面白いが、それよりもこの作品の語り手を息子の姉に設定したことが何より面白い。男の子の欲しかった父親がその代わりに我が娘をプロ野球選手にしようと鍛えるというのはこれまたよくあるから、一歩引いた冷めた視点の語り口がユーモアを醸し出している。

東野氏らしいアイデア「逆転同窓会」はある時期に同じ学年を担当した教師達による同窓会というお話。毎年恒例のその会に当時の生徒を招待することにしたのだが・・・。
教師同士の同窓会。意外とこれは実際にやっているのかもしれない。そして生徒が当時の教師をゲストとして呼ぶように教師も当時の生徒をゲストとして呼ぶという着想の妙。そしてそうすることで起きる意外な弊害。実に考えられたプロット。
幹事の先生が心中で述べる「生徒の同窓会は現在に生きる彼らが過去に戻るためにやるが、教師の同窓会に呼ばれた彼らは過去に現在を持ち込む」という言葉に全て集約されている。しかしそれでもなお最後に意外かつ思わず微笑んでしまうオチを用意しているのは東野氏ならでは。

「超たぬき理論」は幼い頃に和歌山の母の実家でたぬきが空を飛んで去っていくのを見たことをきっかけに在野のたぬき研究家となってUFOがたぬきが化けた姿だという自論で話題になり、メディアでUFO研究家と議論を繰り広げるといった話。
たぬきをモチーフに実にバカバカしくこじつけ理論を展開する東野氏の悪ふざけが横溢した作品。ギリシャ神話からアダムスキー型UFOが文福茶釜と類似しているとかたぬきの語源が英語だったとか、よくもまあ思いついたものだ。最後の一行の脱力物のオチは果たしてあった方がよかったのかなぁ。

脱力物といえば次の「無人島大相撲中継」もまた同じだ。
世界ビックリ人間にいそうな、過去の大相撲の取組を全て暗記し、実況中継として再現する元アナウンサー。ここから話題を膨らませて、賭けのために八百長を強要するのだが、最後のオチが脱力物。まあ、確かに古い家電は叩けば直るというのは布石としてあったのだが。

「しかばね台分譲住宅」は郊外のベッドタウンに突如現れた正体不明の死体を巡って、事件の影響で地価下落を恐れた住民達が同じようなベッドタウンに死体を遺棄して逆に向こうの地価下落を画策するのだが、やがてそれが死体を押し付けあう街同士の抗争に発展していく。
これは最高に面白かった。これが本書の中でベスト。通常の推理小説ならば死体が出れば警察に連絡というのが定石だが、実情はこの作品にあるように風評被害を恐れて街ぐるみでの隠蔽工作に走るのかもしれない。東野氏のブラックユーモアのセンスが色濃く出た作品だ。
しかし住民達の抗争で次第にボロボロになっていく名も無き死体が哀れを誘う。

どこかで聞いたような題名の「あるジーサンに線香を」は若返りの実験体となった一人暮らしの老人の約三ヶ月間の記録を主人公の老人の日記で語った作品。
何も解らぬ妻と死別し、一人暮らしを続ける老人が次第に若さを取り戻し、恋をし、そしてまた老いていくのが日記で綴られていく。その題名からダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』のパロディであるのは想像に難くない。しかし私はフィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の方を思い浮かべた。

最後は「動物家族」。いつの間にか人が動物のように見えるようになったある男の子の話。人間の一番汚い心の部分を醜悪な生き物に例えて表現している。バブル崩壊時によくあった典型的なある家庭の姿なのだろう。今はこの頃よりも子供に対する扱いや対処の仕方が改善されているが、どこかにこういった家族はいるのだろう。
自分の都合ばかり考える父母に兄と姉に振り回される末っ子は誰もが動物に見えるのに自分は得体の知れない生き物としか見えなかった。これが最後の箍が外れることで彼の本性が解き放たれ、何の生き物だったのかが解る。ありきたりな話を寓話的に語ることで最後の結末にピリッと辛い味付けが施されている。


タイトルに偽りなし。まさに「快笑」ならぬ「怪笑」といわざるを得ないブラックなユーモアが詰まった短編集だ。
ここに収められている短編の登場人物はいわゆる「あなたに似た人」。我々の平凡な日常や世間にどこにでもいる、もしくはいそうなちょっと変わった滑稽な人々のお話だ。
ラッシュアワーの電車内での風景、老後生活に入ってからスターの追っかけに目覚めた人、プロ野球選手になれなかった自分の夢を託して息子を鍛える一徹親父、教師同士の同窓会、幼い頃の原初体験をきっかけにトンデモ学の研究にのめり込む者にあるスポーツに異様に詳しい者や甘い言葉にだまされ郊外に家を建てて通勤地獄に苦しむ者たち、身内を亡くして行く当てもなく孤独死を迎えるだけの一人身の老人に家庭崩壊寸前の核家族。通勤中や会社で、飲み屋で見かける人々や新聞の三行記事で書かれていたり、ワイドショーで取り上げられたりするような家族や人。日常というドア一枚隔てた先に広がる空間でいるだろう人々だ。

つまり登場人物が非常に人間臭いのだ。だから例えば殺人事件が起きたとしても警察にすぐさま通報というミステリの定型を取らず、そのことで降りかかる風評被害といった災厄を懸念し、皆で隠蔽しようとする。
しかしよくよく考えるとこれこそが日常を生きる我々が取ってもおかしくない行動であり、思考である。重ね重ねになるがここに出てくる見苦しくも愛らしい人々は私の、あなたの姿だといえる。だからこそ非常に親近感を覚えて作品を楽しめる。

個人的なベストはブラックユーモア色が一番濃い「しかばね台分譲住宅」で、次点で「鬱積電車」か。着想の妙では「逆転同窓会」が実際にありそうでリアルに感じた。

しかし東野氏はユーモアを書かせても上手いなぁ。というよりも関西人の彼の本領は実はここにあるのではないか?
「おっかけバァサン」や「一徹おやじ」、「無人島大相撲実況中継」などはコントとして発表してもおかしくない。この前読んだ『あの頃ぼくらはアホでした』で、本当にしょーもないことばかりを面白おかしく語ってみせ、緻密で流麗で後味がほろ苦い感傷的なミステリを書く作家というイメージを覆した東野氏があのエッセイを書くことで何かが吹っ切れ、地の姿を存分に出したようだ。

この後『毒笑小説』、『黒笑小説』とシリーズ(?)は続くようなので非常に楽しみ。本当は8ツ星献上したかったのだが、それはまた次に取っておくとしよう。


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怪笑小説 (集英社文庫)
東野圭吾怪笑小説 についてのレビュー
No.504:
(7pt)

女の闘いは修羅の道?

打海文三氏は今はもう亡き作家だ。2002年に発表した『ハルビン・カフェ』で注目され、その後『裸者と裸者』に始まる近未来の日本での戦争を描いた『応化戦争記シリーズ』で将来を嘱望されたが2007年に心筋梗塞で夭折。まだ59歳という若さだったから、これはやはり不遇ということになるだろう。

彼の小説はなかなか文庫化にならず、デビュー作で横溝正史ミステリ大賞を受賞してから3作発表したが、初めて文庫化されたのが5作目の本書だった。
なおデビュー作の『灰姫 鏡の国のスパイ』は文庫化されていない。

デビュー作は題名から国際問題を題材にしたエスピオナージュのようなものを得意とする作家かなと想像したが本書は所謂プライヴェート・アイ小説。この作家独自の味付けがされている。

まず鈴木ウネ子(どうやら本名ではないらしい)は60過ぎの元結婚詐欺師という経歴を持つ女探偵。いつも男に飢えているが仕事はデキる。
探偵仲間の野崎は元警官で背の低さと容姿にコンプレックスを抱いているが心に獣を飼っている男。
彼らが追うのは元巡査で元探偵だった阪本尚人。人の人生に関らずにはいられず、仕事と私生活の境界線を引くことが出来ない不器用な男。
そしてもう1人の探偵が13歳の登校拒否児、戸川姫子だ。物語は渋谷の公園で見つかった全裸死体に阪本が関っていることが解り、彼を警察、鈴木ウネ子と野崎、戸川姫子の3組が阪本を巡って奔走するといったもの。

しかしこれは単なる人探しの探偵物語ではない。

これは女の戦いの物語である。

渋谷の公園で見つかった全裸の女性死体の事件に隠された警察の犯罪を描いたこの作品は実は阪本尚人という男を軸にした女同士の激しい戦いなのだ。

戦闘に立つ女性は4人。本書の主人公13歳の戸川姫子は登校拒否児であるが既に精神は大人であり、大人に同等に渡り合う知恵を備えている。

そして阪本の探偵仲間の鈴木ウネ子。

そして被害者の南志保。かつて自分の妹を殺された犯人が阪本の命令を逸脱した行為によって引き起こされたものと思い、糾弾していたがそのうちに阪本に惚れ、同棲していた女。

そして最後は高木伊織。キャリアで阪本の元上司だが、周囲と違う雰囲気を備えた巡査の阪本に惚れ、南志保と三角関係に陥ってしまう。

そう彼女たちの中心に位置する阪本尚人という男は冷めた顔に愛くるしい笑顔が似合うが、一旦仕事でも自分の人生に関ればその後の生き様まで目を見晴らせ、道を誤っていれば更正を促すという、いまどき珍しいほど情に厚い男。警官だったが上に書いた命令違反行為によって懲戒免職になり、その後探偵に身をやつし、その生活に疲れ、山梨の山奥で農家を始めて隠遁生活を送るようになった、一風変わった男。
彼がこの4人に嵐を生み出し、人が死ぬまでになった、いわば災厄の男なのだ。

つまりこれは追われる者阪本が現代版光源氏ともいうべき、出会う女がどうしても恋に、いや欲望に駆られざるを得ないようなフェロモンを漂わせている男なのだ。彼を追う警察の動機はもちろん警察上層部が女性刺殺事件に関った事実のもみ消しだが、他の女性たちはそんな利害よりも阪本という男を我が物にしたいと焦がれる欲望で突っ走っているようだ。
このプロットを可能にしたのが打海氏の設定の妙だろう。前述の姫子とウネ子は割愛するとして被害者の南志保は阪本が警官時代のミスがもとで妹を失い、阪本を社会的に抹殺しようと恨みを募らせていたが、いつの間にか阪本に惹かれてしまうし、高木伊織にいたっては阪本のかつての上司。このキャリアの警官が30代前半の女性だったという設定は他に見たことがなく、意外に盲点で感心した。

しかし本書に出てくる女性は老いも若きも互いの相手を年下、年増と侮らず同等の女性として扱っているのに感心する。特にウネ子の姫子に対する眼差しが温かく、清々しい。いいライバルとして機能していて読んでいて気持ちよかった。

傑作とまではいかないが読後感に一迅の涼風が吹く好編だ。

しかしもう少し題名はどうにかならなかったかなぁ。この題名から想像するのはすさまじいまでの撃合いとか暴力と血の物語だ。
先入観で読むのはいけないことだが、題名のつけ方も逆に云えば読者に先入観を与えるのだから大事なものだ。
もはや新作が読むことの出来ない作家だから、この声は届かないが、遺された作品に期待しよう。

されど修羅ゆく君は (徳間文庫)
打海文三されど修羅ゆく君は についてのレビュー
No.503: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

貴方が今夜泣きたいならこの本を読むことを勧めます

いきなりデビュー作にて2000年版の『このミス』で10位ランクインという快挙を成し遂げた短編集がこの本多孝好氏の『MISSING』。それから約19年を経てようやく読んでみた。

まず本多氏が作家になるきっかけとなった小説推理新人賞を受賞した作品が1編目の「眠りの海」である。
この短編、当時はけっこう話題になった作品だったので興味深々で読んだが、率直に云ってミステリとしての謎は弱い。デビュー作をベテラン作家と比べては悪いが、それでも同じように初期には学園を舞台にした短編も著している東野氏のクオリティに比べれば、真相が透けて見えてしまっている。
しかし本多氏は本書を単なるミステリに留まらせずに最後に一味加えることで幻想小説へと昇華させている。これがこの作品を一段上の高みに押し上げているのだろう。導入部として最も適切な一編だ。

次の「祈灯」は部屋に入ると見知らぬ女性が普通にいたという奇妙な導入部が印象的だ。

続く「蝉の証」は老人ホームが舞台となった作品。老人ホーム『緑樹荘』に入っている祖母から奇妙な依頼をされる。
変則的プライヴェート・アイ小説とでもいうべき好編。
相川老人の許を訪れる孫と思しき、およそ堅気の人物とは思えぬ巨躯で金髪に染めた首にチェーンをぶら下げた男の正体を突き止めるために主人公が捜査で出会う人々から知らされる相川老人の意外な過去。老人ホームでくたばるのを待っているだけと見なされている人たちが生きた道程とは実は波乱に満ちていたのだと気付かさせられていく。確かこれが次作『ALONE TOGETHER』の原点となった作品ではなかったか。
しかし本編にはこの短編集に通底するあるテーマが主人公の口を借りて語られる。それについては後述しよう。
しかしなぜ当時20代の本多氏がこれほどまでに老人ホームに住まう老人達を活写できたのか、それを驚くべきだろう。

ミステリというよりもほろ苦い初恋物という趣のある「瑠璃」は4つ年上のルコと僕の2人の交流を描いたもの。小学校6年生の頃、高校生の頃、そして大学生の頃に僕とルコとのエピソードが綴られる。
この短編では他の作品と違い、ルコがなぜ自殺したかが主人公の中で理論付けられない。その答えが、もしくは手掛かりが残されているルコが遺した手紙の内容についてあえて作者は触れずに物語を閉じる。ある意味、これは作者の中で冒険であったのではないか?また一つここに魅力的な女性を描いた青春小説の傑作が生まれた。

最後の一編「彼の棲む場所」は味わいがガラリと変わった作品だ。
人間の、心の奥底に抱く殺人願望、破壊衝動。そんな昏い情動を実は高校時代から優等生でテレビでクリーンを絵に描いたような有名タレント教授が抱いていたら…。
彼が固執する誰も知らない同級生サトウとは、もう彼の暗黒面に他ならないのは自明の理だろう。そんな読んでいて吐き気の出るような話を聞き手である私が飄々として受け止め、日常に戻るギャップが印象的だ。


MISSING。それは喪失感。
MISSという単語は日本語で云われている「誤り」とか「間違い」という意味は全くなく(日本語のミスはMistakeの省略)、「誰かのことを思って寂しくなる」という意味だ。

本書に収録された5編に共通するのはまさしくこの「誰かのことを思って寂しくなる」、即ち喪失感だ。

そしてこの喪失感ほど残酷なものはない、という作者の主張が行間から見えるほどここにはある特殊な思いが全編に共通して流れている。

それは3編目の「蝉の証」の中で主人公が考える次のことだ。

「欺き、騙され、そうまでして人は自分が生きた証をこの世界に留めずにはいられないものだろうか」

まさしくそうだろう。喪失感という心に与える巨大な負のエネルギーが却って残された人々の心に存在感を浮かび上がらせる。

あの時確かに君はいたのだ、と。

この喪失感について作者は3編目の「蝉の証」で答えを出したかのように、死の間際に取った人間の不可解な行動の意味を探る趣向から、喪失感そのものにスポットを当てて書いているように思える。4編目の「瑠璃」は失った憧れの従姉のお姉さん、5編目の「彼の棲む場所」ではちょっと変わった喪失感だ。

そう、本書の中で異色なのが最後の「彼の棲む場所」。今までの短編が人を失うことの喪失感―恋人、妹、娘、堕胎した赤子、事故の被害者、憧れの年上の女性―を扱っているのに対し、この作品では「人を殺す機会」を失ったことを惜しむ心の暗部を語っている。他の4編が感傷的なのに対し、この作品だけが実に欲望的だ。

また本書の特徴として収録作全てが一人称叙述で書かれ、主人公が全て「僕」と匿名であることが挙げられる。このことで読者は物語の世界に自分を重ね合わせることが出来、したがって主人公が抱く喪失感が密接に感じられるようになっている。

しかしこの本多孝好という作家の人間を描く力、落ち着いた筆致には正直恐れ入った。これがデビュー作だというのだから驚きだ。語り口や時折挟まれるユーモア交じりの比喩など、無理を感じさせなくほどよくストーリーに溶け合っている。

特に感服するのは各編に収められたエピソードの上手さ。
老人の貯金を当てにして、嘘をついて手に入れたお金で旅行に行ったがために、その老人は一文無しになり老人ホームを出ざるを得なくなり、挙句の果てに講演で野垂れ死に同然に死んでしまった話や終業式の日に無免許で買い換えたばかりの新車を運転してすぐにボコボコにし、プールで泳いで遊んだこと。野球部のエース争いに敗れ、マネージャーを任された部員がわざと煙草を吸って甲子園予選出場停止になったことがきっかけでクラスから爪弾きにされ、自殺にいたった話、などなど。
どれもがボタンを掛け違えたことで誰の人生にも起こってもおかしくないような話だ。これらが物語に実に有機的に関わって傷みを伴う結末に深みを与えている。

案外「○○年版『このミス』第×位の傑作」という惹句は当てにならないものが多いが、本書はその数少ない中の例外であった。
特に大切な誰かや守っていた何かをなくした時に読むとこの作品を読んで去来する感慨は殊更だろう。ちょっと泣きたい夜にお勧めの一冊だ。


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MISSING (双葉文庫)
本多孝好MISSING についてのレビュー
No.502:
(8pt)

隠れた名品集

澤木喬という作家がいる。この作家が現在著している作品はこの『いざ言問はむ都鳥』という1990年に出版した4編の短編を収めた短編集1作のみ。しかしこの短編集、一読忘れがたい印象を残す。

本書の主役は分類学者、沢木敬。とある大学の植物学科の平井主任教授の下で助手として働いている。平井教授の周囲には同じく助手の樋口陽一、博士課程の院生で平井教授の研究室に所属しているマドンナ梅咲久美子がおり、この4人が物語の中心となっている。

それぞれの短編で提示される謎とは一見なんともないようなものだ。

まず表題作はご近所の宮本さんの庭に咲いていた季節はずれの都忘れの花びらがなぜ点々と落ちていたのかという謎。

次の「ゆく水にかずかくよりもはかなきは」では沢木の意外な趣味が明かされる。彼はアマチュア・オーケストラに所属しており、そこでヴァイオリンを弾いている。ここでの謎は彼が遭遇した釣り人はなぜ駅の券売機でひたすら子供用の切符をいくつも買い続けるのか。

「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」では平井教授の講座、生態学講座のアイドルお桂ちゃんこと、篠崎桂子の部屋で起きた小火の謎。

最後の「むすびし水のこほれるを」では梅さんこと梅咲久美子が見た死んだはずの猫が再び生きて歩いているのを見たという謎に沢木のコンサートにいつも来ている矢部という学生がなぜコンサートもないのに花束を買っていたのか、そして沢木のオーケストラ仲間の宮本さんがなぜヤブツバキをサザンカだと強調して平井教授宅から苗木を貰ったのかという複数の小さな謎。

こうやって紹介すると一見「日常の謎」系の短編集だと思うだろう。そのジャンルの仕掛け人である東京創元社から出版されているから尚更だ。

しかし本書はそうではない。人の死が、犯罪が介在するミステリなのだ。

沢木敬が語り手となって進む物語は、上に書いた平井教授とその仲間達の日常風景と大学の学生達のエピソードと沢木の植物に関する薀蓄などが上手く絡み合って実にほのぼのしたタッチで語られる。その話に挟まれる小さな事件、もしくは事件とはいえない、ちょっと変わった出来事の裏に隠された真相は実に魂の冷えるような手触りをもっている。

これらストーリーの牧歌的雰囲気と予想もしていなかった陰鬱さを含んだ暗い真相のギャップが各編に強烈な印象を残していく。この落差はかなり強力で思わず驚愕の声が漏れそうになった。

またそれらの真相を看破するのは実は沢木ではない。彼の友人樋口なのだ。

このように悉くこちらの予想をいい意味で裏切る構成からして一筋縄でいかない作品だというのが解るだろう。

解説の巽昌章氏が一番冒頭に語っているように、このたった220ページ強の短編集に込められた時間は実に濃密だ。

なぜこれほどまでに濃密なのだろうか?
本書の構成は沢木敬が春に経験し、またその翌年の春にいたるまでの1年間での出来事を綴ったもの。作中、沢木が云うように確かに1人の人間が1年の間でこれほど人の生死に関る事件に遭遇するのはおかしいと思えるだろう。

しかしそれ故に濃密だとは私は思わない。私は本書で語られる沢木の日常が実に自分達の生活空間に似ているが故に隠された犯罪が樋口の口から明かされた瞬間、実にリアルに感じられてしまうのだ。
つまり我々の平凡な日常生活にもいつ負の変化が訪れてもおかしくないと思わされてしまうのだ。このことが読者に登場人物に流れる時間を追体験させ、我が身になぞらえることで濃密に感じられる、私はそんな風に思うのである。

さてここで各編の題名に使われている和歌について言及してみたい。

まず表題作は在原業平の有名な短歌、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」から取られている。この短歌の意味は「その名の通りならば問いかけよう、都鳥よ。都に住む私の想い人は今どうしているのか、と」という物。
これは恐らく落ちた花びらが恋占いを予想させるところから来ているのではないだろうか?そう考えると実は題名それ自体がミスディレクションだと云えるだろう。

次の「ゆく水にかずかくよりもはかなきは」は古今和歌集の詠み人知らずの歌「ゆく水にかずかくよりもはかなきはおもはぬ人を思ふなりけり」から。この意味は「流れいく水に数字を書いても書く先から消えていく。それでももっと儚い物は、自分へ振り向いてくれない人をひそかに思うことなのだ」というもの。
これは恋患いの歌なのだが、本編の真相を考えると題名に引用された部分のみを取り出して考えるのが妥当だろう。

「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」は山上憶良の「世の中を憂しと恥しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」からの引用。「世の中を嫌な所、身が細るような耐え難い所だと思っても、鳥のように飛んで逃げ去ることなど適わないのだから」と現状を受け入れ、頑張っていくしかないと詠っている。
これはまさにその物ズバリ。小火事件から推理される驚愕の真相に対するある家族へ向けての励ましの言葉か。

最後の「むすびし水のこほれるを」は紀貫之の「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」から。「立春の日の今日の風は、袖を浸して掬ったあの水が凍っているのを融かすのだろうか」という意味。
これもまさに沢木が経験したこの一年に身の回りに起きた様々な災禍で変わってしまった周囲の人々の状況を春が来ることでいくらか元通りになるのだろうかという沢木の思いが反映されているように思う。

各編は40~80ページといった分量だが、実は謎とそれへの推理に関するページ数は実に少ない。それ以外は沢木の日常や彼の身の回りのことを語ったエピソードと植物に関する知識などに割かれている。
しかしこれらの謎とは関係のない話は決して無駄ではなく、実はそれらに謎を解き明かす手掛かりが散りばめられているのだ。
しかしこれらの描写や情報を謎への推理の材料として活用するのは読者には困難だろう。本書では作者が見せる謎解きの手捌きの美しさに見惚れれば(読み惚れれば?)いいのだ。

久々に誰かに紹介したい作品に出逢った。冒頭にも書いたように作者澤木喬氏が発表した作品はこのたった1冊だけ。恐らく作者の名もこの作品の存在すらも知らないミステリファンもいることだろう。ぜひとも多くの読んでもらいたい。現在絶版状態であること自体、勿体無い。

再び書店の棚に陳列されるためにも適わぬことかもしれないが澤木氏には20数年ぶりに新作を発表してもらいたいものだ。


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いざ言問はむ都鳥 (創元推理文庫)
澤木喬いざ言問はむ都鳥 についてのレビュー
No.501:
(7pt)

専門性の追求が仇になったか

リンカーン・ライムが現代に甦ったシャーロック・ホームズ、即ちアナログ型探偵―最新鋭の分析機器で証拠の特性を探るという手法はあるが―だとすると、本作の主人公ワイアット・ジレットは電脳空間(本書では青い虚空(ブルー・ノーウェア)と呼んでいる)を自由に行き来するデジタル型探偵だ。
彼はかつてハッカーの中でも名を馳せたハッカー中のハッカーであったが、犯罪と紙一重のその行為で刑務所に入れられていた。そんな彼が相手をするのはかつて同じハッカーとして同様の実力を持っていた相手フェイトことジョン・パトリック・ホロウェイだ。

殺人鬼フェイトはかつては誰からも好かれる好青年だったが、悪質なハッカー行為をジレットに告発されて逮捕された経験を持つ。それを契機に彼はジョン・パトリック・ホロウェイという人格を捨て、オンラインゲーム「アクセス」の一戦士となって、現実の人間を殺戮し、ポイントを稼ぐようになる。
つまりもはや彼にとってはオフラインの日常とオンラインの日常の区別がつかなくなっており、現実の人間も作られたキャラクターだとみなしているのだ。また古いコンピュータに愛着を抱く点でもオタク中のオタクだと云っていい。物質主義社会にどっぷり漬かった人間だ。

しかしここに書かれている犯罪の完璧さに戦慄を覚える。なんせ容疑者発見の際に掛けた携帯電話がジャックされて犯人へ繋がり、援助が呼べなくなるのだ。さらには堅牢だと思われた学園のセキュリティシステムにも潜入し、得たい情報を得るとそれを元に身分証明書も作成し、身元照合に役立てるなど、また新聞や雑誌の記事で匿名化された取材対象者に対しても、取材した記者のパソコンへ侵入して個人情報を得るなど、もう何が安全でどうやったら個人情報が無事に守られ、平穏な生活が得られるのか不安になってしまう。
この作品を読むと、自分のパソコンが既に誰かに侵入されていると考えても不思議ではなくなってくる。いや逆に安全なパソコンなんて存在しないのではないだろうか?

そんな世界中のパソコンに侵入し、情報を自由自在に操るフェイト。さらに彼はソーシャル・エンジニアリングの名手。ソーシャル・エンジニアリングとはいわば本当の自分を隠し、実在する人間、もしくは架空の人間を演じて成りきってしまう技術だ。彼は少年時代に演じることで周囲の注目を集めることを知り、ソーシャル・エンジニアリングの名手となった。これはもう史上最高のシリアルキラーといっても云いだろう。

しかしハッカーという仕事ほど私生活を、家庭を犠牲にするものはない。なにしろ常にウェブにアクセスし、世界中に広がる電脳空間を彷徨い続けるのだから。主人公のジレットは39時間ぶっ通しでアクセスしていたという記録を持っている。しかも彼らにとってその行為は甘美な毒であり、強烈な中毒性を備えているから、離れようとは思わないのだ。逆に少しでも離れてしまうと禁断症状のようにさもキーボードがあるかのように宙を指で叩く仕草をしてしまう。これはもうほとんど病気だ。

そして物語巧者ディーヴァーは今回もあれよあれよとどんでん返しを畳み掛ける。
特に今回は匿名性がまかり通った電脳空間での戦いであるがゆえに、本名とハンドルネームの二重の仕掛けとソーシャル・エンジニアリングという他者を偽る技術が三重四重のどんでん返しを生み出している。後半は読んでて誰が誰だか解らなくなってくるくらいだ。

しかし残念ながら今回の物語はパソコンの専門用語がどんどん出てくるし、特にハッカー、クラッカー連中のスラングが頻出しているのでなかなか理解するのに時間がかかってしまった。つまりページターナーであるディーヴァーの巧みな物語展開に上手く乗ることが出来なかった。
これは私だけでなく多くの読者がそうだろう。常にその道のプロを描くことで物語にリアルをもたらし、その上で読者の予想の常に斜め上を行くサスペンスを提供するディーヴァーだが、今回はそのリアルさがかえって仇になったようだ。

さて次はどのような物語で我々を酔わせてくれるのだろうか。まだまだ未読作品があることがこの上もない愉しみとさせてくれる作家だ。

青い虚空 (文春文庫)
ジェフリー・ディーヴァー青い虚空 についてのレビュー
No.500:
(8pt)

もう凄すぎて何が何だか

奇想と民族対立という社会的問題のコラボレーション。
本書を読む際、本格ミステリか民族問題提起の社会派小説か、どちらかに比重を置くことで評価も変わってくるだろう。

本書は大きく分けて3つの構成で成り立っている。
まず表題作の前編があり、その後に『クロアチア人の手』という中編が挿入され、最後にまた表題作の後編が始まるという、そう『帝都衛星軌道』と同じ長編の中に中編が挟まっているという構成だ。

表題作はボスニア・ヘルツェゴヴィアで起きた奇妙な猟奇殺人事件とオンライン・ゲームの話が平行して語られる。
メインの殺人事件は4つの惨殺死体のうち、3つが首を切られ、そのうち1つは心臓以外の内臓が全て取り出され、その代わりに飯盒の蓋やパソコンのマウスなどが内臓に見立てられて入れられているというおぞましい物。しかもクロアチアにはリベルタスという子供の大きさの金属人形の伝説があり、その死体はまさにリベルタスを擬えているという趣向だ。

もう1つの中編『クロアチア人の手』もこれまた奇妙な事件だ。ユーゴスラビアで起きた民族紛争の模様を通奏低音として流しながら、日本で起きた奇妙な密室殺人事件が語られる。
俳句国際コンクールで優秀賞を受賞したクロアチア人ドラガン・ボジョヴィッチとイワン・イヴァンチャンの2人が深川の芭蕉記念会館に宿泊した翌朝、イヴァンチャンの部屋はもぬけの殻となっており、もう1人のボジョヴィッチの部屋では男が密室状態で死んでいた。奇妙なことに部屋の水槽にはロビーの水槽にあったピラニアが入れられ、そこに手と顔を突っ込んだ状態で死んでいたのだ。遺体は右手と瞼と上唇を食いちぎられており、最も奇妙だったのは被害者はボジョヴィッチではなくイヴァンチャンだったということだ。
しかも逃亡したと見られたボジョヴィッチはなんと記念館の前の道路でタクシーに轢かれ、その拍子に持っていたトランクが爆発して死んでしまったというのだった。

いやあ本当に島田氏はとことん奇妙で理解不能な謎をどんどん放り込む。全然衰えないその奇想力に感服する。
この不可解な事件を解決するのがなんと石岡。彼は捜査を担当した寄居刑事が『占星術殺人事件』で知り合って以来御手洗と親交のある竹越刑事の伝手を頼って電話したのをきっかけに捜査に関っていく。

そして御手洗は、というとスウェーデンの大学にいてまたもや電話での出演となる。しかし今回は御手洗の推理が案外長く聞けるので、今までのような不満はないが、やっぱり彼の天才ぶりに現実味を感じないところがあるなぁ。

しかしクロアチアで俳句が盛んだったり、芭蕉記念会館にピラニアを詠んだ近代俳句が傑作だった理由でピラニアが飼われているなんて豆知識が投入されているが本当だろうか?しかしピラニアを詠んだ傑作俳句って一体…。

また余談になるが島田荘司氏の謎のモチーフには生命のないものが血肉を経て奇跡を起こすという幻想的な謎が多い。
デビュー作の『占星術殺人事件』のアゾートがそうだし、それをアレンジした『眩暈』も然り、『龍臥亭幻想』の森考魔王も然り、『ネジ式ザゼツキー』も機械仕掛けの人形が取り上げられている。とまあ一人の作家がこれほど人造人間、人形をテーマに取り上げるのも珍しい。
本書リベルタスもまた同じくブリキで出来た子供人形がクロアチアの前身とされるドゥブロブニクを救ったという寓話がテーマになっている。しかし作者あとがきによればこのリベルタスは全くの作者の創造によるもの。やはり島田氏はこのような人形の持つミステリアスな雰囲気が好きなのだろう。

しかし手垢がついているとはいえ、またこのテーマかと一度は思ってはみてもやはり面白い。

ただ本書はそんなギミックと驚愕の真相のみを評価するには十分ではないだろう。
本書で書きたかった島田氏の主張とはやはり旧ユーゴで起きた民族紛争が落とした暗く深い翳、セルビア人、クロアチア人たちの大きく深い暗黒のような溝にある。一緒の町に住み、一緒に遊んでいた子供達と親、仕事仲間が紛争が起きることでいきなり敵と味方に別れてしまう。それもそれまで深めた親交が全く意味がなかったかのように憎悪の炎を燃やし、家族同士が殺し合い、破壊し尽くし合い、レイプしあう、まさに地獄絵図のような状況に陥るのだ。それを民族の血がそうさせるのだという。
さらに紛争が終わった後も、レイプした者とされた者が以前と同じように同じ町に住み、働いており、顔も合わせるというのだから信じられない。
この民族の神経というものは一体何なのだろうか?感情の針の振り幅が大きすぎ、どうにも理解が出来ない。遠い日本の地でテレビや新聞、週刊誌を通じて伝えられる事実がいかに薄められて我々に提供されているのか、思い知らされた。
しかしそれでいいのだと思う。
世の中には知らなくていいこともあるし、もしありのままにメディアに情報が垂れ流しされていれば恐らくPTSDや人間不信に罹る日本人は増えたであろう。このような書物に触れた人間だけが知ればいいのであろう。
島田氏の世界残酷紀行は今なお続いている。


▼以下、ネタバレ感想
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リベルタスの寓話 (講談社文庫)
島田荘司リベルタスの寓話 についてのレビュー
No.499:
(8pt)

サーファー探偵はご機嫌だぜ!

すこぶる腕の立つ私立探偵なのだが、三度の飯よりもサーフィンが好きなせいでそのためにはどんな依頼よりもサーフィンを優先する。そんな魅力的な探偵ブーン・ダニエルズがウィンズロウの新シリーズの主役だ。

まずもうのっけから作品世界にのめり込むほどの面白さ。ところどころに織り込まれるエピソードが面白く、一気に引き込まれてしまった。
恐らく亡くなった児玉清氏が存命で本書を読んだなら快哉を挙げること、間違いないだろう。

まずブーン・ダニエルズの造形が素晴らしい。

両親ともにサーファーで母親が妊娠六ヶ月の頃から波に乗っていた、「海から生まれた子」。2歳で親父のサーフィンボードに乗せられ、7歳で初サーフィン、11歳で新米サーファーとなり、14歳になる頃には数多のプロサーフチームからスカウトを受ける―この件で登場するブーンの両親たちが実に愛情に満ち溢れていて素晴らしい―。
しかし純粋にサーフィンを愉しみたかった彼はその道を選ばず、刑事になり、その職を辞し、私立探偵業を営む。

そして彼を取り巻くサーフィン仲間“ドーン・パトロール”の面々の造形もまた実に魅力的なのだ。

日系人でサンディエゴ市警殺人課刑事のジョニー・バンザイは仲間のブレイン的存在。

水難救助員のデイヴ・ザ・ラブゴッドはギリシア彫刻のモデルになるほどの美男子でナンパ成功率100%。

チームで一番の若手ハング・トゥエルブはサーファーショップの店員でいいムードメーカー。その仇名の由来がまた実にウィンズロウらしい―なんと足の指が12本あるのだ!―。

海に入ると水位が上がるとまで云われている160キロの巨漢ハイ・タイドはサンディエゴ公共事業課作業監督だが、何しろ食べ物に詳しい。

そして紅一点サニー・デイはブーンを凌ぐサーフィンの腕前でウェイトレスをしながらプロサーファーを目指している、夢に出てくるような“カリフォルニア・ガール”。

もうこの彼らの人物設定だけでこの物語が面白いものになると確信してしまった。

そして彼らがいかにブーンと関りあうことになったのか、それらのエピソードがどれもキラキラとして美しい。
幼馴染の頃からブーンと親しい者や決して幸せでなかった者が彼に声をかけられることでサーフィンというやり甲斐を見つけ、“ドーン・パトロール”の仲間になっていく。

とまあ、ご機嫌な奴らが繰り広げられる物語はオフビートな語り口で軽快に流れていくのだが、ブーンが捜査していくうちに判明する真実は重い。

カリフォルニアの燦々たる陽光の下で繰り広げられた物語に、光が強ければ影もまた濃くなるという犯罪社会の現実をウィンズロウは痛烈に投げかける。

本音を云えば、前作『フランキー・マシーンの冬』のように痛快に物語を突っ走って欲しかった。最後の展開はあまりに重く、なかなかページを繰る手が進まなくなるような描写もあった。
『犬の力』でメキシコの悲惨な社会状況を教えてくれたが、人身売買、少女買春のエピソードが頻出する後半のテイストはそれに似ている。

しかし『カリフォルニアの炎』、『フランキー・マシーンの冬』と(間に『犬の力』を挟むものの)ここ最近訳出された作品には共通してサーファーが主人公になっている。
しかしこれらの作品と決定的に違うのは今回はサーフィンが人生を彩るスパイスに留まらず、サーフィンの申し子のような男であり、また彼の仲間とサーフィンチームを作っており、それぞれも個性的な面々であるという点でサーフィンに対する想いが一層強くなっていることだ。
本書は新シリーズの1作目だと謳われている。恐らく今後もブーンたち“ドーン・パトロール”のメンバー達はサーフィンに興じながら一致団結して事件を、降りかかる災厄を解決していくことだろう。

特にブーンは過去警官時代に解決できなかった少女誘拐事件の犯人の追跡が残っており、これが今後シリーズにどう絡むのか興味深いところだ。

そして今回ビッグ・ウェーヴに見事に乗り、一躍時の人となったサニーの今後もまた非常に気になる。彼女がいるのといないのとではシリーズの彩りが変わることは必定だから、この展開はまさに痛し痒しである。

最後に忘れてはならないのはやはりウィンズロウは名文家だということ。読んでいて思わず心に留めたくなる言葉に満ちている。

“波に乗るのは、水に乗る行為ではない。水は媒介にすぎず、じつはエネルギーに乗っている”
“家系というものはあくまで土台であり、錨であってはならない”

なんと魅力的な言葉たちではないか。
そして今回最もジーンと残る文章は最後の一行にある(“何であろうと、トルティーヤにのっけりゃ旨くなる”)。それがどんな文章かは読んで確かめて欲しい。

しかし今回訳者が東江氏から中山宥氏に代わったが、全く違和感がなかった。ウィンズロウ作品の読みどころを実によく捉えた文章だ。東江はやはり仕事を多く抱えて、手が回らなかったのだろう。

さて中山氏という優秀な訳者を得たことだし、これからもっと短いサイクルでウィンズロウ作品が訳出されることを期待しよう。


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夜明けのパトロール (角川文庫)
ドン・ウィンズロウ夜明けのパトロール についてのレビュー
No.498:
(7pt)

過去のシリーズへの訣別か?

ジョン・ペラムシリーズ3作目。なんと前作『ブラッディ・リバー・ブルース』から9年ぶりの刊行だ。
これほどブランクが空いたのはやはりリンカーン・ライムシリーズが受けたため、そちらにかかりっきりになっていたからだろう。

今回の事件は放火。放火事件では日本と違い、警察だけでなく、それを専門にした火災調査官という職業の人間が現地調査に当たる。
ドン・ウィンズロウの『カリフォルニアの炎』でも詳細に語られていたが、アメリカの火災を装った保険金詐欺の現状はかなり深刻で、調査官はまず起きた火災が所有者の仕業ではないかを疑うらしい。したがってそれを裏付ける証拠や状況が見られるものならば、即座にその前提で調査を進めるのだ。

ペラムが撮っているヘルズ・キッチンのドキュメント映画のメイン・キャストになる女性エティ・ワシントンが自分のアパートを保険金詐欺を図ろうと放火した容疑で逮捕される。彼女の無実を証明するため、ペラムはヘルズ・キッチンを駆け巡る、というのが物語の骨子。

ジョン・ペラムはディーヴァーの他の作品のキャラと違い、女性関係が奔放である。映画産業に関わる人間ということで彼に接近する女性も多いのは確かだが、事件のたびに登場人物の1人と寝る。実にアメリカ的エンタテインメント作品の典型的な主人公だと云えよう。

ディーヴァー初期のシリーズであるこの作品が今や彼の看板作品となったリンカーン・ライムシリーズを経て、どのように生まれかわったのかが興味を惹くところだったが、意外にもディーヴァーはライムシリーズやその他のノンシリーズで売り物にしている息を吐かせぬ危機また危機の連続やタイムリミットサスペンスといったような展開を取らず、このシリーズの前2作同様に主人公のジョン・ペラムがじっくりと訪れた町を彷徨し、町に隠された貌を知っていく作りになっている。
登場人物一覧表に記載されてない人物のなんと多いことか。ディーヴァーはそれまでに培った上記の手法を敢えて取らずにシリーズ全体のバランスを優先したようだ。
しかしこれはディーヴァー作品を読んできた者にすれば、逆行した形になって不満が残るかもしれない。

でも長らく中断していたこのシリーズが、ライムが異郷の地で捜査をした『エンプティー・チェア』の後にこの作品が書かれたことは興味深い。もしかしたら『エンプティー・チェア』を書いている最中にペラムシリーズとの類似性に気付いたのかもしれない。

また真相もどんでん返しというよりも通常のミステリが放つサプライズといった感じだ。

ヘルズ・キッチン―なお現在は正式にはクリントンという名前らしい。これはやはりあの大統領に由来するのだろうか―は裏切りの町。誰もが自分を少しでも幸せにするため、出し抜こうとする。そんな町でまたもやペラムは裏切られる。

今回ペラムがどうして赤の他人の人間のために命を奪われそうになるまで捜査をするのか、その理由が判らなかったが、最後の最後で判明する。

これで恐らくこのシリーズは終わりだろう。彼の売れない作家時代を支えたこのシリーズの終焉を素直に祝福しよう。


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ヘルズ・キッチン (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.497:
(7pt)

リチャード・クイーンの我が世の春

シリーズの主人公エラリイは全く登場せず、純粋にその父親リチャード警視―本作では既に定年退職しているので正確には元警視―が事件解決に当たる物語。
これは現在世間ではエラリイ・クイーンシリーズの1つとして扱われているが、現代ならばスピンオフ作品とするのが妥当だろう。

クイーン元警視が主人公ということで物語の趣向は従来のパズラーから警察小説、いやプライヴェート・アイ小説に変わってきているのが興味深い。つまり証拠を元に推理するプロセスではなく、足と刑事の勘で捜査を進めていき、容疑者を犯人と断定する決定的な証拠がない時点でも直接的に自身の推理を披瀝し、容疑者にプレッシャーをかけるという手法を取っている。これがクイーンのシリーズ作品としては実に珍しいことだ。

そして警察小説ではなく、プライヴェート・アイ小説と訂正したのは既に警察を退職したリチャードがなかなか口を割らない容疑者を落とすため、警察が踏むべき手順を逸脱した捜査方法を取るからだ。
捜査令状を抜きにした不法侵入に証拠捏造。エラリイが活躍する作品では良識という存在だったリチャードがこれほどまでぶっ飛んだことをやるとは思わなかった。

これは思うに作者クイーンが私立探偵小説なるものを書きたかったに違いない。そこで理詰めで考えて行動するエラリイではその趣向には合わないとしてリチャードを退職警官と設定して著したのではないか。

だから肝心の事件の真相は私の予想したとおりだった。これは恐らく当時としてはショッキングな真相かつ驚愕の真相だったかもしれないが、現在となっては別段目新しさを感じないし、恐らく読者の半分くらいは真相を見破ることが出来るのではないだろうか。
もしかしたらそれ故に本書が長らく絶版の憂き目に遭っているのかもしれない。

しかし本書でもっとも面白いのは物語のサイドストーリーとしてリチャード・クイーンとハンフリイ家の保母ジェッシイ・シャーウッドの恋物語が語られることだ。前妻を亡くして30年後に訪れた我が世の春。熟年男女の恋愛が物語の横軸になろうなんてかつてのクイーン作品では考えられなかった演出だ。
63歳という年齢でありながら50代の夫人を魅了するリチャード。やもめが長かっただけになかなか本意を伝えず、不器用で拙い付き合い方を示す彼と看護婦一筋で人生を送ってきたジェッシイのようやく訪れた春を受け入れようか入れまいかと葛藤する熟年同士の恋模様は、今では稀有な純情恋物語としても読め、物語の絶妙なスパイスとなった。

とまあ、今回はリチャードが実は無頼派の気質を持っていることや老境に至ってなお女性を魅了する雰囲気を備えていることなど、シリーズでは垣間見れなかった意外な一面が見れたことで個人的には面白かった。そしてジェシイ・シャーウッドとの関係が次回作以降、どのようにシリーズに関ってくるのか非常に愉しみである。

今までどおり何もなかったかのようにいつもの様子で物語が展開するかもしれないが・・・。


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クィーン警視自身の事件 (ハヤカワ・ミステリ 375)