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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数896

全896件 201~220 11/45ページ

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No.696:
(7pt)

9・11を経たNYでの事件をブロック流に描くとこうなる

ニューヨークに生まれ、マット・スカダーシリーズを中心にニューヨークを描いてきたブロックが9・11後のニューヨークを描いたのが本書。そこにはスカダーは描かれず、ニューヨークに住む人々を描いた群像劇の様相を呈している。

ニューヨークで知り合いや友人の掃除代行をして生計を立てているジェリー・パンコーが出くわす殺人事件を軸にニューヨークに住む人々の生活が語られる。

画廊を経営するスーザン・ポメランスは殺人事件の被害者マリリン・フェアチャイルドに不動産を紹介してもらった縁があった。彼女は彼女の専属の初老弁護士モーリー・ウィンタースを筆頭に男と女区別なくセックスに溺れていた。

殺人事件の容疑者にされた小説家のジョン・ブレア・クレイトンは自分の無罪を晴らすためにモーリー・ウィンタースを弁護士として雇い、保釈金を払って釈放される。事件の話題がホットなうちに次作を物にして、ベストセラーを狙っている。

元ニューヨーク警察本部長のフランシス・バックラムは次期市長選に乗り出そうと画策している。

そして9・11の事件で家族を喪った男は殺人を重ねていた。
ニューヨークの歴史の中で起こった数々の悲劇。南北戦争時に起きた徴兵暴動。ドイツ系移民をぎゅうぎゅう詰めにした遊覧船が全焼して沈没したジェネラル・スローカム号事件。150人もの針子が工場火災で亡くなった<トライアングル・シャツ>社火災事件。ニューヨーク・ギャング、マフィアの抗争。
それらの事件はこのニューヨークという市が甦る為に捧げられた犠牲だと彼は考えた。従って彼が殺人を重ねるのはもまた9・11で破壊された市を甦らせるための人身御供を捧げるためであり、建物に放火していくは再建するためだった。

そんな彼の正体は案に反して早々に判明する。下巻の76ページで彼の素性が警察の捜査で明らかになるのだ。
広告会社の元調査課長である彼はしかし隠れ家を転々としながらニューヨークを離れない。寧ろ自分の痕跡を残すことで彼の名前と偶々犯罪でハンマーと鑿を使用したことから付いた綽名“ハービンジャー・ザ・カーペンター”の存在をニューヨーカーたちに知らせ、畏怖させようとする。

一方でもう1つの物語の軸となるのは美人の画廊主スーザン・ポメランスのエスカレートするセックス・ライフだ。専属の弁護士とたまに情事を愉しむだけだったのが、ボディ・ピアスを開けたことで潜んでいた性に対する飽くなき探求心が高まり、性欲の赴くままに街を徘徊しては男たちを誘い、アブノーマルなセックスに興じる。その相手が当初殺人事件の容疑者とされていたクレイトンへと繋がっていく。

それぞれ関係のないと思われた登場人物が次第に事件とスーザンの夜の活動によって繋がりを形成し出す。

そう、この800万もの人間が巣食うニューヨークで起きる、9・11のある犠牲者によって引き起こされる狂信的な連続殺人はなんと1人の奔放な性活動を多種多様な人物と繰り広げる女性によって解決の糸口が見出されていくのだ。

これはブロックなりのジョークなのだろうか?
アラブ人のテロリストによって破壊されたニューヨークで悲劇のどん底に突き落とされた人々。どうにか傷が癒え、再興に向けて歩き出している人々が再び出くわした悪夢に対して、セックスによってそれまでの価値観を崩され、新たな自分に目覚めていく男たちを生み出す一人の女性がそれぞれの事件を繋げていく。
つまりスーザン・ポメランスのセックスこそは再生の象徴と云っているのだろうか?

率直に云ってスーザンが繰り広げるセックスの開拓はほとんどポルノ小説のようである。いやそのものと云っていいほど詳細に、且つ濃密に描かれている。
これが1人の哀しきテロリストによる狂信的なニューヨークの再生を謳った暗い色調の物語を一変させているのだ。しかもこの2つは物語に上手く溶け合っているとは正直云い難い。このスーザンの物語は本当に必要だったのか、甚だ疑問である。

さてニューヨークを舞台にしていながら探偵は出てくるものの、それはスカダーではなく、全く別の人物である。しかしそれでも本書とスカダーシリーズは同じ世界で書かれていることが明かされる。

それは『死者の長い列』で登場した三十一人の会に所属する不動産会社を経営するエイヴァリー・デイヴィスが登場した事だ。また事件発見者のジェリー・パンコーがAAの会にも出ているなど、随所にスカダーシリーズを想起させる世界観が内包されている。

そう考えるとニューヨークのハイソサエティの世界で奔放な性活動を繰り広げるスーザン・ポメランスはエレイン・マーデルの代役とも考えられる。つまり本書はエレインの側から事件を描いた作品なのだと。

いやこれはやはり穿ちすぎだろう。

ニューヨーカーであるブロックにとって9・11は途轍もないショックをもたらしたことだろう。しかしブロックが紡いだ9・11後のニューヨークは悲劇を乗り越え、それでも強かに生きている人々の姿だった。
9・11は終わりではなく、また始まりでもない。確かに以前と以後では変わった物も事もあったが、それはニューヨークの歴史の中での通過点の1つであった。
それが証拠に我々はまだ生きているではないか。生活を営んでいるではないか。ブロックが人生讃歌の物語を書くとこんな風になる、いい見本だと思った。


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砕かれた街〈上〉 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック砕かれた街 についてのレビュー
No.695: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

単純面白主義万歳!

文庫書き下ろしで刊行された本書はまたもやスキー(スノボ?)シーズンの雪山が舞台となる。そして主人公を務めるのは『白銀ジャック』でも登場した根津昇平と瀬利千晶の2人だ。

しかし彼ら2人が本格的に事件に乗り出すのは物語の中盤185ページごろだ。それまでは今回の物語の核である新種の炭疽菌『K-55』が盗まれた泰鵬大学医科学研究所の栗林とその中学生の息子秀人のコミカルな捜索劇が繰り広げられる。

そう、本書は細菌テロという重いテーマを持ちながらも、雰囲気は軽妙でコミカルな装いで物語は進む。

まず新種の炭疽菌『K-55』の名自体が作者の名前をもじっていることからも深刻さを避けようとしているのが明白だろう。

しかし構成は単純ながらもさすがはベテラン作家東野氏、ストーリーに様々な要素を織り込んでいる。

まず脅迫者が事故死したことで『K-55』の隠し場所が解らなくなるというツイストもなかなかだ―ディーヴァーの『悪魔の涙』に成り行きが似ているという声もあろうが―。
さらに必死になって不祥事を揉み消そうと躍起になる東郷&栗林のコンビとは別に『K-55』を先に手に入れて3億円どころかそれ以上の身代金を請求しようと企む研究員、折口真奈美という第3の影。

そして捜索に同行させた栗林の息子秀人が現地で知り合う地元の中学生山崎育美の同級生高野一家に降りかかったインフルエンザで亡くなった妹の死に絡む母親の昏い情念と、コミカルながらも不穏な要素をきちんと用意している。
いやあ、いい仕事してますわ、東野氏は。

そしてそれらがきちんとクライマックスに向けて二転三転するストーリー展開に寄与していくのだから凄い。単に思わせぶりなエピソードに終わらず、それぞれがそれぞれの事情で正体も知らずに『K-55』の争奪に関わり、利用しようとする。
どうにか被害が広がらないように『K-55』を隠密裏に回収したい栗林。『K-55』を手に入れて脅迫金をせしめて大金を手に入れようと企む折口姉弟。妹の死に悲嘆にくれる母親を改心させようと自分のクラスに再び重病者を出して後悔させようとする高野裕紀。
正体を知っている者たちの思惑と知らない者たちの思惑が交錯して、クライマックスではスキーヤーとスノーボーダーの滑走しながらの一騎討ちといった活劇も織り込んで最後の最後まで息をつかせないノンストップエンタテインメント小説に仕上がっている。

さらには栗林が中学生の息子とのぎくしゃくしていた関係が事件を通じて次第にお互いに理解を深め合っていくといった、思春期を迎えた子供とのコミュニケーションに困っている親子がスキー、スノーボードを通じて親子の絆が深まるといった温まるエピソードまで加味されており全くそつがない。

正直これだけの物語を文庫書き下ろしで出す東野氏のサーヴィス精神に驚くばかりだ。

恐らくおっさんスノーボーダー東野圭吾は経営難で苦しんでいる日本中のスキー場を救わんととにもかくにも爽快で軽快な物語を愉しんでもらいたいという思いで本書を著し、そして多くの人に手に取ってもらうために文庫書き下ろしという形での発刊を選んだに違いない。

従って本書は徹底的に娯楽に徹したエンタテインメント小説である。難しいことは考える必要は全くない。
従来の東野作品の読者ならばこの単純さが、ベストセラー作家の走り書きとか、ストーリーに厚みがなくて物足りないなどとのたまうかもしれないが、単純面白主義の何が悪いと開き直って読むのが吉だ。
逆にこれだけウィンタースポーツとしてのスキー、スノーボードの疾走感やスキー場の臨場感も行間から滲み出てくるような躍動感に満ちていることをきちんと気付いてもらいたい。読みやすいが故にこの辺の技術の高さが軽んじられているのが東野圭吾氏の長所であり短所でもある。

普段読書をしない人たちに「何か面白い本、ない?」と訊かれたら、今はこの本を勧めるだろう。そして『白銀ジャック』に続いてドラマ化されてもおかしくないくらい映像化に向いている。

こうやって東野圭吾氏の読者が増えていくわけだが、それも仕方がないと納得せざるを得ないリーダビリティに満ちた作品だった。

疾風ロンド (実業之日本社文庫)
東野圭吾疾風ロンド についてのレビュー
No.694:
(8pt)

名匠の手による短編は実に心酔わせる

長編のみならず短編の名手であるブロックの久々の短編集。その出来栄えは『おかしなことを聞くね』以来、ファンが渇望していた切れ味が健在であることを証明してくれる珠玉の作品ばかりだ。

まず初めの編はスポーツを題材にした作品だ。

「ほぼパーフェクト」はアメリカの代表的なスポーツである野球だ。
「野球は何が起きるか判らない」とよく云われるが、これはまさにその常套句を逆手に取った異色作だ。

次の「怒れるトミー・ターヒューン」の題材はテニス。
激昂してラケットをへし折るテニスプレイヤーとしてすぐに思いつくのはジョン・マッケンローだ。本書のトミー・ターヒューンのイメージは彼しかなかった。
私自身も短気で怒りの衝動を抑えられない事があり、自分もこの性格を変えたいと思っているが、なかなか上手く行っていない。従ってこの短編は実に興味深く読んだが、やはり抑えられた怒りはどこかに捌け口を求めているのかと痛感した次第だ。
ああ、全てに寛容になれるのはもはや悟りの境地に過ぎないのか。

「ボールを打って、フレッドを引きずって」はゴルフ場が舞台。
淡々と物語が進むため、ローランド・ニコルスンという男の不可解な行動の真意が解らなく、読者はとにかく彼の言動に翻弄されながら物語を読み進めることになる。
タイトルの意味は作中で紹介されるあるゴルフのジョークであるため、ニコルスンがヘドリックに打ち明ける殺人計画もまたジョークなのか本気なのかが解らない不安定感をもたらしているのも上手い。

次の「ポイント」はバスケットボールが扱われているが、それまでの短編とは趣が違い、NBAの試合を観戦しにきた、元バスケットボール選手の親子の対話で物語が進む。
それは久方ぶりに出逢う親子の、今だからこそ云える打ち明け話。こんな夜の対話はどんな親子にもいずれは訪れる。そんなある一夜の物語だ。

スポーツシリーズ最後の1編「どうってことはない」はボクシング選手の話。
格闘家を夫に持つ妻の気持ちとはいかほどなのだろうか?
最初は試合での夫の強さに魅かれ、結婚したのだろうが、結婚することは人生を預けることであり、そうなると人生のパートナーが公然と殴り殴られる姿を見なければならないのはかなり辛い事なのだろう。
色々と興味深い結末でもある。

「三人まとめてサイドポケットに」はふらりと入った酒場である男が出くわす典型的な美人局の話だが、ブロックは実に奇妙な余韻を残して物語を閉じる。

16ページと短い分量で語られるのが「やりかけたことは」だ。
主人公ポールは出所したばかりでシンプルに生きることを肝に銘じているが、彼が何の罪で服役していたのかは最後の1行で明らかになる。
それが性というものだと痛感する1編だ。

本書中約120ページと最も長いのが「情欲について話せば」は警官、軍人、医者、司祭の4人がトランプゲームに興じている奇妙なシーンで幕を開ける。
なんとも奇妙さ作品である。
まず司祭、警察官、軍人、医者と全く職業の異なる人物たちが一堂に会してトランプゲームに興じているというシチュエーション自体が奇妙である。そして彼らが語る“情欲”に纏わる話もまた奇妙である。
司祭の話はかつて彼が赴任先で親しくしていた仲睦まじい夫婦に隠されたある不道徳的かつ壮絶な過去の話。その夫婦は実は実の姉弟で弟の夫が13歳の時に父親の折檻から慰めようと姉が施したある癒しから次第にエスカレートして恋するまでに至った姉弟だった。
続く警察官の話は猛烈な性欲を持つ年長の元同僚の話だ。彼には美しい妻がおり、浮気をしていないか日に何度も頻繁に電話をするほどの執心ぶりだったが反面彼は特に犯罪者の妻と寝ることを日常的に行っていた。そしてある日赤毛のジョニーという美しい女性を目にしたことで彼は次第に彼女にのめり込んでいく。しかし一方で彼の妻に男が出来たことを強く疑っていた。そして相棒に自分が不在の時に見張るように頼むと果たして彼女を訪れる男がいたとの報告を受ける。彼は見境なくその男を襲撃しようとするが返り討ちに遭う。
軍人が紹介した男はかつて軍の名狙撃種だった男の奇妙な性欲の話だ。彼はいつしか戦争で人を狙撃する事にエクスタシーを感じていた。退役後、妻も出来、結婚したがセックスでオーガズムに達する事が出来なかったが、戦争中の狙撃のシーンを思い出すと最後まで達する事が出来た。
医者の話に出てくるのは奇妙な女性の話。連続レイプ魔に襲われた女性は自らの命を助けるため、絶頂に達した演技をし、あまつさえ彼に自分の家に来てくれるよう懇願する。
この話には正直オチはない。しかし「情欲」とは一体何なのかを探ろうとしたこの奇妙な四人組同様、知れば知るほど解らなくなるのが情欲の正体であることに気付かされるのである。

さて表題作もまた奇妙な味わいを残す。
ある意味これは前編の「情欲について話せば」に連なる作品と云えよう。
そして最後に明かされる「やさしい小さな手」の意味するところが解ると、果たしてこれが短編集の表題にすべきだったのか、思わず赤らんでしまった。

「ノックしないで」はかつて付き合った男と女の関係の物語。
折に触れ男はかつての恋人を訪ね、自分の近況を語って、泊まっていく。しかしそこに肉体関係は生まれない。
彼女はそれを知りつつも彼の訪問を断れずにいつも彼を受け入れてしまう。彼女は心のどこかで復縁を期待しているのだ。しかしとうとう彼女は2人がかつてのように愛し合う仲ではなく、単なる友人同士で、しかもちょっと都合のいい女になってしまっていることに気付くのだ。そして彼女は新たな一歩を踏み出す。心に刺さった苦い棘の傷みと共に。
ブロックは奇を衒わず、男女の心の機微を淡々と謳っている。

最後の4編はマット・スカダー物。
「ブッチャーとのデート」は長編『慈悲深い死』の原型となった作品でここでは敢えて取り上げないでおこう。

その次の「レッツ・ゲット・ロスト」はまだ警察官だった時代にエレインの依頼で対処したある事件の顛末の回想記の体裁で語られる。
突然巻き込まれたある他人の死をどうにか擬装して逃れようとする男たちを警察官の視点で事件の疑わしい所を浮き彫りにして逆に事件を真の姿に戻すことにする若いマットの熱心さが新鮮だ。
まだ前妻アニタと結婚生活を送っていた頃のマットの話。それが今ではエレインと再婚し、実に豊かな生活を送っているのだから、人生とは本当に解らないものだと感慨深く思わされる1編。

次の「おかしな考えを抱くとき」もスカダーがまだ警察官だった頃の話。しかもまだエレインと逢う前の話。
突然家族の団欒に訪れた夫の銃自殺。スカダーは当時相棒のヴィンス・マハフィとその事件を担当し、ヴィンスが施したある救済の話をする。
それは実際にヴィンスが図った便宜だったのか、はたまた妻が犯した罪を隠した事なのかは解らない。真相は藪の中だが、逆にもはや真相を知ることが目的ではなく、全てが丸く収まるような処置をしたことに満足をしているマットの考えが、己の正義に基づいて生きてきた人生の落伍者だったかつての彼とは真逆であることに感慨を覚える。

そして最後の1編「夜と音楽と」はたった8ページの小編。内容もスカダーとエレインがオペラを観劇した夜に、寝ずにニューヨークの夜を徘徊する、ただそれだけの物語。
事件も起きず、ただ2人の過去を懐かしむ会話が続くだけ。取るに足らない話なのだが、最後の2行にスカダーとエレインの真の思いを見た。


本当に久々のブロックの短編集である。早川書房が2009年に突如企画したハヤカワ・ミステリ文庫での「現代短編の名手たち」シリーズにブロックが選ばれ刊行されたのが本書。名手の名に恥じない傑作が揃っている。特徴的なのは全体的にブラックなテイストに満ちていることだ。

まずはスポーツを絡ませた短編が続く。野球、テニス、ゴルフ、バスケットボール、ボクシングと続く。

そして面白いのはそれぞれ殺人を扱いながらも微妙に時間軸がずれていることだ。

「ほぼパーフェクト」では殺人を“犯した” 男が完全試合を成し遂げようとし、「怒れるトミー・ターヒューン」では殺人を“犯す”までに至った男の奇妙な経緯を、「ボールを打って、フレッドを引きずって」では殺人を“犯そう”と計画している男の奇妙な予行練習を、最後は夫を殺された妻が復讐のために行おうとしている奇妙な殺人を語っている。それらが全て物語の最後の最後でサプライズを以て明かされるのだから、ブロックの小説テクニックは相当に高い。

また本書中最も長い「情欲について話せば」の警官、軍人、医者、司祭と奇妙な取り合わせの4人がトランプゲームに興じているシーンはどこかある有名な本格ミステリのシチュエーションを想起させる。

そして表題作は穏やかな題名にそぐわないエロティックでブラックなテイストに溢れている。このギャップがすごくてインパクトを残す。

そして「ノックしないで」を前奏曲としてマット・スカダー物の短編4編が続く。正直「慈悲深い死」の原型となった「ブッチャーとのデート」を読んだ時は失望感を覚えたが、その後の3編は味わい深く、長い年月を重ねた人生を経た者たちの達観を感じさせる。

さて個人的ベストを挙げるとするとやはり本編で一番長い「情欲について話せば」になろうか。短編4つ分のネタが放り込まれた内容はもとより、トランプゲームに興じる警官、軍人、医者、司祭と云う奇妙な取り合わせが寓話めいていて奇妙な印象を残す。

「ノックしないで」も捨てがたい。ブロックには珍しくシンプルな作品だが、求めつつもそれを自分から求めない元恋人の女性の心の機微が静かに心に降り積もるかのような作品だ。

そしてスカダー物4編から1編を挙げるとすると「夜と音楽と」になる。
なぜ単にスカダーとエレインが夜のデートをするだけの何の変哲もない8ページだけの1編を挙げるのか。それは最後の2行、スカダーとエレインが2人して「誰も死ななかった」ことを喜ぶシーンが妙に痛切に胸に響くのだ。

元警察官で無免許探偵をしていたマットは彼を訪ねる人達に便宜を図って人捜しや警察が相手にしない取るに足らない者たちの死を探る。人捜しであっても彼は誰かの死に必ず遭遇する。しかし警察官であったマットは死自体には何の感慨も抱かず、ニューヨークによくある八百万の死にざまの1つを見たに過ぎないと振舞う。

しかしエレインが襲われることになり、そしてエレインを伴侶とし、安定した生活を得たことで彼らにとって死はもう沢山だと思い始めたのではないか。
探偵をする限り、彼は陰惨なシーンに出くわさざるを得ない。しかし2人で一夜を過ごすときは忘れたいのだという思いをこのたった2行に感じさせる。
しかし初めてこの短編集でブロック作品を読んだ人たちには「何だったんだ?」で終わる話だろう。つまりこれはシリーズを読んできた者だけが行間から読み取れる深い内容だと云える。そういう意味では今回の「現代短編の名手たち」という企画にはそぐわないのかもしれない。

いやはややはりブロックは短編も読ませると再認識した。
確かに上に書いたようにブロック初体験の読者にとって解りにくい作品もあるし、何よりも短編集でしか読めない悪徳弁護士エイレングラフ物が1編もなかったのが残念でもある。

しかし本書以降ハヤカワ・ミステリ文庫でブロック作品が全く刊行されていない事実が非常に残念でならない。ブロック作品再評価の為にも彼の作品を既刊のみならず未訳作品も刊行してくれないだろうか。
毎回早川書房の本を読むとこの締めの言葉に落ち着く現況が哀しい。


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現代短篇の名手たち7 やさしい小さな手(ハヤカワ・ミステリ文庫)
ローレンス・ブロックやさしい小さな手 についてのレビュー
No.693:
(8pt)

まだまだ驚かせてくれる、この作家は!

現代のシャーロック・ホームズ、リンカーン・ライムが対峙する今回の敵は“電気”。正確には電気を武器にニューヨークを翻弄する敵が相手だ。

普段はその有難みが解らないが、いざ台風や地震で停電が起きるとその大事さに気付かされるのが電気だ。
3・11の東日本大震災で計画停電が行われ、当時東京に住んでいた私はネオンサインがない渋谷の街を毎日目の当たりにして、夜闇に乗じて犯罪が起きてもおかしくはないと半ばこの世の終わりのような思いを抱いたものだ。

「電気は、市民の道徳心にもエネルギーを供給しているのだ」の作中の一文には激しく頷いてしまった。

この電気、実は私も仕事で縁がある代物だが、非常に便利であるが反面、非常に恐ろしい物だ。それは本書でも実に詳細に語られている。

いわゆる“見えない凶器”であり、電線のみならず帯電している金属から人間の体内を通って地面に通り抜ける間に絶命してしまうからだ。

最初の被害者は過剰な電流がある特定の変電所に集中することでアークフラッシュを起し、最寄りの金属製品が細かい礫になって人々の身体を突き抜けて、それら1つ1つが高熱を放ち、身悶えしながら死んでいく。

第2、3の被害者は大量の電気を流されたビル、エレベーターの金属部品に触れることで感電し、激しい痙攣をしながらも手を放すことが出来ず、恰も死のダンスを踊りながら全身から煙を出して死んでいく様が描かれる。

アメリアやロナルド・プラスキーたちは現場での惨状を見て、金属に触れることを怖れ、半ばノイローゼになって捜査に携わる。この感覚は非常に腑に落ちた。

今回の事件の首謀者はレイ・ゴールトという電力会社元社員で修理技術者だった男と早々と明かされる。この男が仕事で高圧の電気近くで長年作業することで白血病を患い、その復讐として電力会社に混乱を起こして脅迫を重ねているとライムたちは焦点を絞る。
そして一方で“地球の日(アースデイ)”イベントを控えていることで何らかの環境テロ組織が絡んでいるとFBIは捜査を進める。その結果“ジャスティス・フォー”と“ラーマン”という2つの名前が浮かび上がる。

さらにライムはキャサリン・ダンスたちがメキシコ警察と共同してメキシコシティに潜伏しているウォッチメイカーの逮捕にも携わる、いくつもの要素が絡まった物語となっている。

メインの物語の焦点は昨今日本でも3.11以来、物議を醸しだしている電力会社の半ば強引なやり方だ。
火力、水力、原子力と云わば発電所“三種の神器”で大量の電力を賄うアルゴンクイン・コンソリデーテッドは日本に存在する電力会社そのものだろう。
それに対抗するのが風力、太陽光、地熱、波力発電、メタンハイドレードといった再生可能エネルギー、つまりクリーンエネルギービジネス。やり手の“女”社長アンディ・ジャッセンはこれらエネルギー対策に前向きではない。それがこの事件に潜む真の動機になっている。

更にディーヴァー自身もこのシリーズを現代のホームズ物と意識して書いているようだ。特に下巻220ページの次の台詞

考えうる可能性を全て排除したあと、一つだけ排除できなかったものがあるとすれば、一見どれほど突飛な仮説と思えても、それが正解なんだよ

はホームズが短編「ブルース・パーティントン型設計図」での台詞

ほかのあらゆる可能性がダメだとなったら、どんなに起こりそうもない事でも残ったことが真実だ

とまるで同じである。もはやこれは確信的ではないか。

そしてそれら一連の事件の絵を描いたのは意外な人物だったことが判明する。

とにかくすごい犯人だ。どんでん返しの帝王とも云えるジェフリー・ディーヴァーだが、もう騙されないぞと思いながらもやはり驚愕させられてしまった。

また今回『悪魔の涙』で主役を務めた筆跡鑑定のスペシャリスト、パーカー・キンケイドが登場する。これで同シリーズで2回目の登場となった。もはや大事なサブレギュラーになりつつある。

しかし振りかえれば『ソウル・コレクター』から3年ぶりのライムシリーズである。もはやネタは出尽くしたと思ったがこれほどのサプライズをまだ見せてくれるとは、やはりディーヴァーは只者ではない。


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バーニング・ワイヤー
No.692:
(7pt)

原点回帰であるが昔のようではないマットがいる

今回マットが対処する事件は強盗による弁護士夫婦殺害事件。強盗が入っている間に家主が帰って来て強盗によって殺される。
これはもう1つのブロックのシリーズ、泥棒探偵バーニイ・ローデンバーがしばしば巻き込まれるシチュエーションだが、その場合は軽妙なトーンで物語が進むのに対し、マット・スカダーシリーズでは実に陰惨な様子が淡々と語られ、恐怖が深々と心に下りてくるような寒気を覚える思いがする。この書き分けこそがブロックの作家としての技の冴えだ。

今回はマットとTJの機転で警察組織を巻き込んで大規模捜査網が敷かれる。かつて個人が巨大な悪に立ち向かうためにミック・バルーと云う悪の力を借りて対峙したマットだったが、前作でミックの組織は瓦解し、彼を残すのみとなった。
今回総勢12人も殺害したシリアル・キラーと立ち向かうために組んだ相手が警察組織だったことは元警官であったマットにとって自分の立ち位置が原点に戻ったように思える。

原点回帰と云えばシリーズも15作目になって、マットは更なる過去へ対峙する。それはシリーズが既に始まった時から離縁関係にあった元妻アニタと彼の息子マイケルとアンドリューとの再会である。

既に2人の息子は成人となって働いている。齢62となったマットの元妻アニタが心臓発作で亡くなったことを息子の電話で知らされる。
決してシリーズに大きな影響を与えていたわけではない、元家族との意外な形での再会はしかしスカダーにとってもはや遠い日の追憶でしかないことを悟る。
2人の息子の内、次男のアンディは危うい橋を渡るような生活を送っている。長男のマイケルにたびたび無心をしては職を転々とし、そして今回もまた会社の金を横領した廉で警察に突き出されそうになっている。それはかつて警官と云う職に就きながら、心に傷を負うミスを犯して身持ちを崩してしまったマット自身の姿とどこか重なる部分がある。彼も元父親としてアンディに横領金の肩代わりを半分担い、その金でアンディは事を免れるが、マット自身も云っているようにそれが最後になるとは思えない。アンディの厄介事はこれからも続きそうだ。

敢えて証拠を残して警察や探偵に誤った方向へ捜査を導く。証拠から導かれるロジックが完璧であればあるほどそれを信じて疑わなくなる。
これはエラリイ・クイーンが抱えた“後期クイーン問題”から連綿と続くテーマである。現代のシャーロック・ホームズと云われているジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズでも既にこの問題に直面し、ますます捜査の難度と物語の構造の複雑さは増してきている。
まさかこのシリーズでこのようなテーマに出くわすとは思わなかったが、長らくミステリを書いていると作家はこの問題に直面する運命にあるのだろうか?

さて私がこのシリーズを読み始めて足掛け2年4ヶ月の付き合いになる。既に本書までは既刊だったため、シリーズを1作目から本書に至るまで通して読むことが出来たが、この2年4ヶ月という凝縮された期間であっても本書を読むにここまで来たかと感慨深いものを感じるのだから、シリーズを1作目から、もしくは有名な“倒錯三部作”からリアルタイムで読み始めた人々のその思いはひとしおではないだろうか。

本書で語られているように、マットが断酒してから18年の歳月が流れ、作中での年齢は62歳と既に還暦を超えてしまっている。

しかしマットは登場当初の、人生に打ちひしがれた元警官の無免許探偵という社会的には底辺に位置する人々の一員であったが、15作目の本書では元娼婦の妻エレインが蓄財した不動産収入でニューヨークでマンション暮らしをし、安定した生活に加え、エレインが趣味で始めた画廊からの収入もあり、マットは探偵業を気が向いた時に営むといった、人が羨むような生活を送っている。
もはやホテルの仮住まいで定職に就かず、毎日アームストロングの店に入り浸ってアルコールを飲み、時折訪れる人のために便宜を図るように幾許かの金で人捜しや警察が扱わない事件の掘り返しを請け負い、依頼金の1割を教会に寄付して過去の疵を癒す慰みにしている、人生の負け犬のような彼の姿はもはやそこにはない。陰の暮らしから日の当たる世界へ出たマットの姿をどう捉えるかは読者次第なのだろう。

ただマットの生活も変われば彼の捜査方法も変わったのも確かだ。TJにパソコンを与えてから人捜しも市井の人々の間を逍遥することで不意に得られる奇妙な縁から全てが繋がっていく、そんなマットならではの方法ではなく、インターネットによってアーデン・ブリルという本名か偽名かも解らぬ名前を手掛かりに犯人を特定していくようになる。

そして犯人もまた闇サイトでの評判を愉しみにするサイコパスと、現代的な犯人像なのも特徴的だ。いや“倒錯三部作”から既に時代に添った犯人像をこのシリーズは描いていたと云えるので、これは本書での変換点ではない。

ともあれマットが裕福になり、エレインとの夫婦生活が充実していくにつれて、このシリーズ特有の大切なペシミズムやムードが失われていくような気がするのは私だけだろうか。

相変わらず読ませる物語であることは認めよう。
しかし上に書いたようにかつて読んでいたようには私の中に下りてくる叙情性といったような物が薄れているのは確かだ。
しかしそれでも私はいいと思う。エレイン、TJ、ミックと彼を慕う人々の中でマットが事件と対面していくのもやはりこのシリーズの特徴であるからだ。

さて次の『すべては死にゆく』は未だ文庫化されていない。このシリーズ全作読破のために一刻も早い文庫化を望む。
しかしブロックの新作は文庫で出ているのになぜこの作品だけ文庫化されないのだろうか?気になって仕方がない。


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死への祈り (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック死への祈り についてのレビュー
No.691: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

9作目にして作者大いに趣味に走る!?

S&Mシリーズ9作目の本書ではこのシリーズの原点回帰とも云える密室殺人事件を扱っている。しかも同時に2つの密室殺人が離れた場所で起こるが、どちらも容疑者は同一人物だったという、魅力的な謎をいきなり提示してくれる。

一方の密室殺人は大学の実験室で起こる。共同実験者の上倉裕子が扼殺されて横たわっていた。その部屋の鍵を持つのは被害者の上倉裕子と助教授の河嶋、そして研究室の学生用の1つでそれは容疑者の寺林が持っていた。

他方の密室殺人の舞台はオタクの祭典、模型展示会が行われている公会堂の控室。そこにいたのは首のない、しかし体型からコスプレモデルとして来ていた筒井明日香の遺体、そして頭から血を流して昏倒していた寺林だった。そしてその部屋の鍵は寺林と管理人のスペアキーしかなかった。だが鍵を持っていた人物は部屋で昏倒していたので誰がどうやって鍵を掛けたのかが解らない。

さらに筒井明日香の兄紀世都もまた自分のアトリエで萌絵、寺林、大御坊、喜多、犀川ら衆人環視の中で殺害される。死因は感電死だが、浴槽に浸かっていた彼の遺体は白い塗料が吹き付けられていた。それは恰もフィギュアのようだった。

本書で特徴的なのは『幻惑の死と使途』以降付されていなかった登場人物表が復活していることだ。
『幻惑の死と使途』、『夏のレプリカ』、『今はもうない』は登場人物表を付けられない、凝った構成の作品だったからだが、本書でそれが復活しているということはつまり原点回帰的な密室殺人ミステリであることを意味している。

さて本書では森氏の趣味がある意味横溢していると云っていいだろう。
まず事件の舞台となるのが模型作品展示・交換会、つまりモデラー達の集いである。作者自身がかなり本格的な鉄道模型マニアであることから、これは満を持してのテーマだったと思われる。そのためか登場人物が模型やフィギュアに対する哲学を語るシーンがそこここに挟まれており、それらは作者自身の考え・意見であると窺える。

そしてもう1つ特徴的なのはコスプレイヤーも登場するところだ。
モデラー達よりもその色合いは薄いものの、本書では西之園萌絵がコスプレしているところに注目されたい。まずは上記の展示会でのオリジナルキャラクターのコスプレに、事件の容疑者寺林に話を聞くために彼が入院している病院の看護婦に成りすまして潜入する。
コスプレマニアにとってはある意味萌え要素が盛り込まれており、やはり西之園萌絵の名の由来はオタクやマニアにとって馴染みの“萌え”から来ているのかと思わず勘ぐってしまった。

もう少し云えば、本書の章題に注目したい。「土曜日はファンタジィ」、「日曜日はクレイジィ」、「月曜日はメランコリィ」とラノベ的な軽さを持っており、これもオタク要素を盛り立てている。本書の題名に隠されたもう1つの意味、「数奇にして模型」≒「好きにしてもOK」の如く、森氏は奔放に本書で遊んでいるようだ。

さて真相を読めば至極面倒な手続きを踏んだ事件だったと云える。
正直「夜はそんなに長いか?」と疑わずにいられない。この真相のバランスの悪さがカタルシスを感じさせないのが残念だ。

しかし本書では真相に至るまでの経緯も含めて色んなミステリのガジェットに満ち溢れているように思える。

例えば録画好きの大御坊の8ミリカメラの映像で第3の殺人事件、筒井紀世都の遺体が発見されるまでの彼のアトリエで起きたイベントの一部始終を振り返るところはジョン・ディクスン・カーの『緑のカプセルの謎』を髣髴させるし、犯人の動機である理想形の人物をシリコンで型取って等身大のフィギュアを造る件は島田荘司氏の『占星術殺人事件』のアゾートを想起させる。

さてシリーズ9作目になると固定メンバーの知られざる事実が小出しに明かされていく。犀川の友人喜多が鉄道マニアであったこともそうだが、特に今回は萌絵の同級生で同じ犀川研究室に所属する金子勇二が姉を萌絵の両親が遭った同じ旅客機事故で亡くしていることがちょっとしたサプライズだった。これが彼と萌絵との関係にどのように展開していくかは今の段階では解らない。

さらに初登場の萌絵の従兄、大御坊安朋もまた実にエキゾチックなキャラクターである。
妾の子という暗い生い立ちにありながら作家にして女装家でオネエ言葉を連発する、1998年と今から17年前の発表当時では実に濃くて生理的に受け付けない人物であっただろうが、オネエタレントが芸能界を闊歩する今では免疫が出来て寧ろ魅力的に映った。あと1作を残すのみとなったS&Mシリーズの終盤では登場するに遅すぎたと残念に思った。

本書はフィギュアにコスプレにとオタクたちの集いと云った趣のある内容、大御坊安朋のオネエキャラは刊行当時ではそれほどこれらの世界が認知されていなかったせいか、比較的その濃度は控えめだが、現在ではもはや珍しくもない題材なので、いささか早すぎたテーマだったのかもしれない。逆に昨年ドラマ化されたことはようやく時代が本書の内容に追いついたことということか。

またこのシリーズのもはや特徴となっているが、殺人を犯すことの動機の浅薄さ、不可解さは逆にネット社会で人とのコミュニケーションがリアルよりも電脳領域での比率がかなり高くなっている現在の方が実に解りやすくなっている。

そして9作目にして初めて犀川は犯人と対決する。犯人の毒牙に落ちようとする萌絵を救うため、身体を張って彼女を護り、怪我を負う。ドライでクールなミステリだったシリーズがホットでフィジカルな色を帯びて正直驚いた。

このようにシリーズの評価は私的には尻上がりに好ましくなってきているが、唯一変わらないのは西之園萌絵に対する嫌悪感である。本書でも彼女は我儘で傍若無人、傲岸不遜であった。萌絵と私には決して近づくことができない斥力が働いていると認識しよう。
いやはや身の回りにいなくてよかった。


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数奇にして模型―NUMERICAL MODELS (講談社文庫)
森博嗣数奇にして模型 についてのレビュー
No.690:
(7pt)

解説本必須の難解作品

SF作家のプリーストが今回取り上げたテーマは第2次大戦時代を扱った改変歴史物語。J・L・ソウヤーと云う名の双子の奇妙な人生譚だ。

第2次大戦時の英国首相として有名なチャーチルの手記が言及する良心的兵役拒否者でありながら現役の英空軍爆撃機操縦士という相矛盾する価値観を内包するソウヤーと云う人物の正体は同じイニシャルを持つジャックとジョウゼフのJ・L・ソウヤーと云う全く同じイニシャルを持つ双子のそれぞれの来歴が混同されたことだったと判明する。
戦争の混乱期にありがちな間違いであるのだが、プリーストの語りならぬ騙りはそんな定型に陥らない。

まずJLとジョーという同じJ・L・ソウヤーという名前の双子が片や英国軍の軍人の道を、一方は兵役拒否者として赤十字で働く道を選んだそれぞれの人生が手記や記事の抜粋などの様々な形式で語られる。

メインとなるのが戦争ドキュメント作家スチュワート・グラットンが興味を示したチャーチル直属の副官となったほとんど無名のソウヤーなる人物で、それが読者の1人が自身のサイン会に持参した手記によってJ・L・ソウヤー大佐であることが高い確率で確認される。

しかしそこに書かれている内容と関係者の証言や手記とは異なる事実が判明してくる。

これらの記述は様々な人物による手記や著作、記事の抜粋によって構成されている。これが全て“信頼できる語り手”であるか否かは不明であり、それらによって物語が進んでいることに留意されたい。
従って前に書かれた内容が新たな事実によって否定され、物語のアイデンティティが揺らいでいく。

これは夢か現か妄想か?この足元が揺らぐ感覚はまさにプリースト作品ならではのものだ。

さて誰が嘘をつき、誰が真実を語っているのだろう?
いやもはや事実の受け取り方はその者に与えられた情報や体験によって構成されるが故に、純然たる真実はあり得ないのか。

一見ストレートな物語と見せかけて読み返すと様々な語り―騙り?―が散りばめられていることに気付かされるという実に複雑な構成を持っていることに解ってくる。
とにかく読書中は付箋だらけになってしまった。しかしそれこそが本書を読み解くのに必要な作法であることは物語の最後に気付かされる。
上に書いたように2人のソウヤーの手記の内容は異なり、さらには挿入される様々な記事や手記においてもまた辻褄が合わないことが多々書かれているため、前に書かれた文章を行きつ戻りつしながら補完していくことが必要なのだ。
しかしそれがまた物語の、いや本書で語られる歴史の真実を揺るがせることになるのだから侮れない。全くプリーストは相変わらず一筋縄ではいかない作家だと思いを新たにした。

この複雑な物語を解き明かす一つの解釈として巻末の大森望氏の解説に書かれた緻密な説明は必読。ホント、この作品には解説本が必要だ。


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双生児 (プラチナ・ファンタジイ)
クリストファー・プリースト双生児 についてのレビュー
No.689: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

過ちの連鎖が哀しすぎる

探偵ガリレオ長編3作目では恐らく神奈川の伊豆辺りと想定される都心から電車で訪れる事の出来る南国情緒のある町、玻璃ヶ浦。深海鉱山開発の説明会に狩り出された湯川がそこで元刑事の殺人事件に巻き込まれる。

帝都大学の研究室を離れて、警視庁の管轄外での事件ということで定型通りに草薙と内海から事件の捜査を依頼されるわけではない。草薙が登場するのは100ページを過ぎた辺りとシリーズの中で最も遅い。
つまり本書では湯川が出張先で草薙達に先んじて事件に出くわす、変則的な構成を取っている。しかも草薙と内海は東京で湯川の援護射撃をするのみ。最終的に2人が合流するのが全460ページ中396ページと最後の辺りとシリーズの定型を崩しているのが興味深い。

さらに本書はある意味、シリーズの約束事を裏切ることで成り立っていると云える。

まず今回のパートナーが柄崎恭平という少年であることが驚きだ。シリーズ当初の短編で湯川は自身が子供嫌いであることを公言しているが、本書では電車で伯母夫婦の許に向かう恭平が湯川に助けられることが発端となっている。子供嫌いの人物ならば恐らく子供が困っていても無視するだろうと思われるのでこの展開は実に意外だった。

そして最も私が驚いたのは湯川が今回事件の捜査に自発的に関わっていることだ。特に旅先で知り合った柄崎恭平と云う少年から事件のことを知らされると自ら遺体発見現場に案内してくれと申し出る場面では面喰ってしまった。
事件に携わることで親友とかつての恩師に手錠をかけるようになってしまった湯川が再び草薙そして内海に協力していく経緯は『ガリレオの苦悩』や『聖女の救済』で語られているが、しかしそれでも湯川は事件が起きた直後は捜査協力に後ろ向きであった。しかし今回は上に書いたように自ら申し出るようになる。

子供嫌いの男性で警察の捜査に興味を示さない男が本書では全く逆の姿勢を見せている。シリーズの基盤が揺さぶられるような展開だ。

元刑事塚原の殺人事件の裏にあるのが、かつて彼が携わった仙波英俊が起こした殺人事件。
それは落ちぶれた小さな会社経営者がトラブルを起こして店を首になった元ホステスを金の縺れで衝動的に殺害した、動機も明確な至極単純な事件だったが、事件現場がそれぞれが縁のない荻窪で起きたことが唯一おかしな点だった。

最先端科学を売りにした探偵ガリレオシリーズだが、長編になると科学よりも、事件に関わった人たちが表面に見せない、人と人の間に起きた齟齬から生じる奇妙な縺れを探ることに主眼が置かれている。
純粋な左脳ミステリであるこのシリーズが長編では右脳ミステリになるのだ。

これは誰にしもあり得る過去のひと時の過ちがきっかけとなった事件。

それぞれがごく普通の日常を護ろうとした。しかし過去の過ちはそれを崩そうと彼らを苛むように忘れた頃に訪れる。
彼らにとって忘れたい忌まわしい過去が、いやもしくはそっと胸に潜めておきたい儚い恋の想い出が歪な形で追いかけてくるような思いがしたことだろう。そしてそんな過去から日常を護るにはもはや殺人と云う最悪の非日常に身を落とすしかなかった。
しかしそれが負の連鎖の始まりだった。普通の生活を続けようとするのが斯くも難しいのか。これが人生の綾なのだろうか。

そして今までの定型を崩し、事件に積極的に関わった湯川。最後に彼の思いを知った時に彼は変わったのだとさらに確信した。
『容疑者xの献身』以前以後と湯川の人物像ははっきり区分けできる。それは作者東野圭吾氏の境遇もまた重なるのが興味深い。

まさに期待通りの作品だった。湯川が解いた真夏の方程式は実に哀しい解を導いた。
しかしその解ゆえに湯川はまたより魅力的に変わる事だろう。シリーズはますます深みを増していくに違いない。


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真夏の方程式 (文春文庫)
東野圭吾真夏の方程式 についてのレビュー
No.688:
(7pt)

殺し屋対殺し屋というテーマながら。

殺し屋ケラーシリーズ2冊目の本書は長編だが、構成は連作短編のように複数の殺しの依頼について語られる。

まずはケンタッキー州の街でごく普通の家庭を持つ男の暗殺だったが、そこでケラーは泊まったモーテルの部屋を替わった後、替わる前の部屋の宿泊客が何者かによって殺害される事件に遭遇する。

次は彼の地元ニューヨークでの依頼で画家の殺害を頼まれるが、ケラーは画家の作品に惚れこみ、また彼の身辺を洗っても恨みを買う節がないため、依頼人が画家が手を切りたがっていることを知って、画家自身を殺して作品の値を吊上げさせようと企む画廊だと悟り、逆にそちらを殺害する。

オハイオでの依頼はビーチで見つけたターゲットをそのまま溺死させ、日帰りで戻ってくる。

次のボストンの依頼では浮気相手と情事を愉しもうとするターゲットを相手の女性とも殺害し、その後、カフェで昼食を採っている最中にコートと傘を盗まれてしまう。ケチがついた形で気を悪くしながらもニューヨークに戻ったケラーは新聞でターゲットの死ともう1人のコソ泥の死の記事に遭遇する。その男こそケラーの着ていたコートと傘を盗んだ男だったと確信する。

つまりこれら一連のケラーの仕事がケラーを狙う男がいることを裏付ける要素を含んでいるという構成になっているのだ。

そしてケラーとドットは一連の仕事の裏側に潜むある企みについて議論を巡らし、ある結論に達する。それは商売敵である殺し屋を殺して廻っている殺し屋殺しがいるのではないかという可能性だ。つまりライヴァルを消すことで自分の依頼を増やそうとしているのではないか、と。
そしてその謎の殺し屋はロジャーという男であることまで突き止める。

しかし物語が面白いのはここからだ。

その後もケラーはシカゴ、ニューメキシコ州のアルバカーキ、オレンジ郡、セントルイスと依頼を受けては行くのだが、実に奇妙な顛末を迎える。

前半はケラーを狙う殺し屋の話が1つの軸として盛り込まれていながらも、謎の殺し屋の正体がロジャーだと判明した後はまたもや連作短編のような構成に戻る。

そしてそこで語られるサイドストーリーの面白い事。

特にケラーが陪審員に選ばれて裁判に参加するエピソードは屈指の面白さを誇る。
警官が盗品のビデオデッキを買ったが、それは確信的な行為だったのかと警官の有罪か無罪かを巡る裁判では次から次へ事件の関係者が現れ、実に複雑な様相を成し、当然のことながらケラーを含む陪審員の議論は右往左往する。
正直読んでいて何が何だか分からなくなるのだが、この訳の分からなさと色んな人種の混ざった陪審員の面々が織りなすドタバタディベート劇が実に面白い。まさに“裁判は踊る”とも云わんばかりだ。

この殺し屋を主人公としながら物語の雰囲気は飄々としており殺伐したものがない。そして殺し屋が主人公であれば当然付き纏う銃器や武器の詳しい説明なども一切ない。
リアリティと云う面では全くそれが欠落していると思われるが、よくよく考えると今の殺し屋とは実は我々の生活に巧みに溶け込んで銃火器などを派手にぶっ放すことはないのではないだろうか?
つまりこれほど静かに殺しが成されること自体が実はリアリティがあるのかもしれない。

そう考えるとやはり最も特異なのはケラーが依頼される殺しの理由が不明なことだ。
ケラーのターゲットの中には殺される理由が解らない善人が少なからずいる。しかし依頼はあり、それは遂行される。確かに来るべき大きな裁判を控えた重要な証人と云う、まさに狙われるべき理由があるもいるが、実業家や単なるサラリーマンもいる。いや後者が大半だ。そしてそれはいわゆる市井の人間でも殺しのターゲットになることを示している。
ウィットとユーモアに物語を包みながらも、その裏側にあるのはどんな理由であれ、人を殺したいと思っている現代人の荒廃した心であることに気付くべきだろう。

まさにローレンス・ブロックにしか書けない作品。
それが故に最後のロジャーとの決着のつけ方が意外性に凝ったがために爽快感にかけることになったのは残念である。やはり殺し屋物は純粋にアクション物を期待してしまうのか。
私がケラー物のテイストに馴染むのにはまだ時間が足りなかったようだ。


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殺しのリスト (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック殺しのリスト についてのレビュー
No.687: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

密室の謎よりも…

後期になってS&Mシリーズは典型的な密室殺人から離れたかと思ったが、今回は密室物としてはど真ん中の“嵐の山荘”物だ。

台風の接近で電話線が切れ、道路は倒木で寸断されて警察が介入できないという実にベタな設定。

そんなシチュエーションで孤立するのは偶々殺人の起きた他人の別荘に居合わせた西之園嬢。彼女は自身を別荘に誘った40代独身男性の笹木を助手に事件解決に奔走する。事件の渦中には犀川はおらず、彼は事件の後で萌絵によってそこに連れて行かれる道中での登場となる。

隣り合った娯楽室と映写室が共に鍵の掛かった状態で閉ざされており、中にあったのは別荘を訪れていた姉妹それぞれの遺体で、両方とも自殺に見せかけて絞殺されていた。

そんな二重密室の謎に対して語り手の笹木が西之園嬢の助手になり、はたまた推理の相手となって推理問答を繰り広げながら物語は続く。

しかし本書ではこの2人のみが推理を開陳するわけではなく、別荘に滞在している面々がそれぞれの推理を披露する。
本書で作者が試みたのは“嵐の山荘物”だけでなく、『毒入りチョコレート事件』さながらの推理合戦でもあるのだ。
絶対だと思われていた状況が、登場人物たちしか知らない事が明らかになることで新たな方向から光が当てられ、新たな仮説が生まれては、実証し、可否が明らかになってまた消去される。そんな試行錯誤が繰り返される。

しかし毎度思うのだが、隣り合う二室で起きた姉妹の密室での死というたった一つの謎解きに500ページ超の分量は果たして必要だったのかと云う事だ。
実際私はなかなか事件解決に至らず、登場人物たちが堂々巡りをしているようで実に冗漫な印象を受けた。特に語り手の笹木氏はこの事件で初めて会った西之園嬢に一目惚れしてしまい、彼女に対する思いが延々と語られたり、また彼女へのモーションを掛けたりと、恋の駆け引きも物語に加えられている。

最後に至って本書の核は奇妙な密室殺人ではなく、実はこの笹木氏と西之園嬢2人の物語であることが明かされる。

まず密室殺人の真相だが、実は大したことはない。

謎としては小さいながらも非常に捻くれた内容だが、その真相は目を開かせるほどの衝撃はない。

しかし本書はシリーズ読者ならば確実に目が開かされる、もう1つのサプライズが待ち受けている。

しかしこのサプライズについては途中で気が付いてしまった。

個人的には傑作になり損ねた佳作という評価になってしまう。
それはやはり本書に仕掛けられた大きなトリックに比して、物語の中心となっていた密室殺人の真相が実に凡庸だからだ。

左脳系ミステリの書き手である森氏が放った右脳系ミステリという意味で本書はS&Mシリーズで異彩を放つ存在となるのだろう。
シリーズナンバーワンと評する人々がいるのもあながち間違いではない作品だ。


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今はもうない―SWITCH BACK (講談社文庫)
森博嗣今はもうない についてのレビュー
No.686:
(7pt)

これがノンフィクションであることの怖さ

1967年に書かれたこのノンフィクションが2015年になって新装版となって再刊された。
マイケル・バー=ゾウハーによるノンフィクションと云えば2002年に『ミュンヘン』、2012年に『モサド・ファイル』を著し、一貫してユダヤ人に纏わる話を書いているが、本書はそれらの原型とも云えるユダヤ人の血塗られた復讐の物語だ。

本書は3部構成になっており、第1部では個人と有志によって設立された組織によるナチス残党狩りを断片的に語る。

第2部では狩られる側、即ちナチス残党の逃亡劇を子細に語る。

第3部はナチス戦犯のさらに組織だった追跡の模様が語られている。

第二次大戦にヒトラーと云う1人の男の狂気から始まった世界的なユダヤ人大虐殺は本書によれば最終的に570万人以上もの犠牲者を生み出した。

しかし第二次大戦ナチスによって大虐殺と迫害の日々を強いられたユダヤ人は、黙って虐待に耐える民族ではなかった。彼らはその借りを返しに、屈辱を晴らすためにナチスの残党狩りを世界規模で始めたのだった。

日本人ならば第二次大戦でアメリカに原爆まで落とされ、国家を揺るがされる大打撃を受けながらも、かつての敵に復讐しようとはせず、寧ろ国の復興に精を出し、驚異的な高度経済成長によって奇跡的とも云える復興を成し得たが、ユダヤ人やムスリムは過去の遺恨をそのままにはせず、「目には目を、歯には歯を」の精神で執拗な仕返しを行うのだ。

それによって最終的に報復に成功したナチス残党の数は1000~2000人に上った。しかしそれは上に書いたユダヤ人犠牲者の数とは全く収支が合わない。やられたらやり返すの精神であるユダヤ人にしては実に少ない数だ。
しかしそれこそユダヤ人社会が文化的になった証拠だと作者は述べる。そしてこれらの復讐を少なくしたのはイスラエル建国があったからだと作者は指摘する。イスラエル建国が苦難と苦闘の産物であることは同じ作者の『モサド・ファイル』やフランク・シェッツィングの『緊急速報』で語られた通りだ。この障害の多さこそがユダヤ人に復讐に没頭する機会を奪ったと作者は見ている。
しかしこの建国もまた周辺諸国との戦いの日々であったことを知る今では単にターゲットがナチスから周辺のアラブ諸国になったに過ぎないと思うのは私だけだろうか。

そしてこれら俎上に挙げられた復讐譚が果たして是なのかと云えば甚だ疑問だ。それは正義や道徳心から起こる疑問ではない。それぞれの国に様々な民族がおり、彼ら彼女らのDNAに刻まれた価値観は一民族である日本人の尺度で測るのは寧ろおこがましいと云えるだろう。

私が疑問に思うのは上に書いたように過去に生きるのではなく、未来に目を向け、民族の復興と更なる繁栄を目指すべきではなかったかということだ。
暴力が生むのは暴力しかなく、復讐もまた然りである。そんな人的資源の消耗戦としか思えない復讐の螺旋に固執することでこの民族の復興はかなり遅れたのではないかと思えてならない。

前にも書いたがユダヤ人は優れた民族である。映画人や富豪にその名を連ねるユダヤ人も数多い。そんな彼らは血を血で洗う復讐に淫しただろうか?
それは否だろう。彼らは独自の才能と才覚と人の数倍の努力で名を成すまでになったのだ。そしてスティーヴン・スピルバーグが『シンドラーのリスト』、『ミュンヘン』を創ったように、彼らは建設的な方向で復讐を行ったのだ。血を血で以て制裁を下すことをせずに世界の共感を得る方法を獲る方が嫌悪感を抱かず、考えさせられ、議論が生まれ、非常に建設的だ。

本書は世界で隠密裏に起きた暗殺の歴史を綴ったものであるが、大規模に行われたテロの歴史でもある。つまりこれはテロ側から自分たちの行為の正当性を語ったドキュメンタリーでもあるのだ。

ここに書かれているユダヤ人達へのナチスの陰惨な迫害は筆舌に尽くしがたい物があるのは認めよう。アドルフ・アイヒマン、ヨーゼフ・メンゲレらが行った想像を絶する、もはや悪魔の所業としか思えない数々の残虐行為は自分の家族が同じような方法で殺されたならば、私も一生拭いきれない恨みを抱く事だろう。
それでも私は上に書いたように納得できない。いわれのない大量虐殺を強いられた民族の復讐心は解るが、「やられたらやり返す」では蛮族たちの理論であり、近代国家のやるべき方法ではないからだ。

本書では彼ら復讐者が単なる虐殺者に堕せず、それぞれの正義と教義に従って行動したと繰り返し述べられている。

あるジャーナリストはナチスの残虐行為に無関心な諸国への抗議で義憤に駆られて国際連盟の会議場で自殺する。

復讐者たちは押しなべて歴史的な使命を託されたと信じ、自らを民族の代表者だとして、義務を果たしただけだと思っている。

また著者は復讐者全員が正義を愛する高潔であり、彼らの行動は知性、モラル両面におい潔癖であったかを証明していると礼賛している。

総じて述べられているのはこれら一連の復讐が決して私怨ではなく、ユダヤ民族の総意として成されていると正当化していることだ。

しかし虐殺に対して虐殺を行うことに何ら変わりはない。先にも述べられていたが、ユダヤ人犠牲者の数と狩られたナチス残党の数は収支は合ってはいないが、それでも1000人単位で行われた虐殺はもはやテロに過ぎない。

毒入りのパンを仕込んで3万6千人ものSSを殺害する計画を立てるが、あえなく失敗したというエピソードがあるが、私はそれこそが彼らにもたらした神の恩恵であり配剤だと考える。彼らが相手同様の大量虐殺を行うことはどんな理由があれ、彼らと同じ畜生道まで身を落としてしまうことになるからだ。

民族としての高潔さを尊ぶならば本能の赴くままに殺戮を行ってはいけない。大義名分のない殺戮こそはナチスの蛮行となんら変わらないからだ。

最強のスパイ組織モサドを創ったユダヤ人の執念深さを思い知らされると同時にもはや殺戮の無間地獄に陥ったことに気付いてほしいと願わざるを得ない。

一方のナチス残党側では世界の覇者から一転戦争犯罪者に堕した彼らの逃亡譚が詳細に綴られる。
よくもまあこれだけ彼らの足取りを細かく辿れたものだと感心したが、それ以上に第二次大戦以後、世界の敵とみなされたように思っていたナチスのシンパが世界にいたことにも驚いた。

特に南米諸国のナチスへの傾倒ぶりは並々ならぬものがあり、ナチスは戦争終結前にすでに組織立った逃亡支援団体を作り、協力体制を整えていたことはまさに驚愕に値する。

“水門(シュロイゼ)”と“蜘蛛(シュピンネ)”という二大団体によるデンマークに抜ける北方ルートやスイス、スペイン、果ては南米のアルゼンチンに抜ける南方ルートと緻密に構成された世界各国に散らばったナチのシンパたちによる支援団体によって構成されていた。さらに驚いたのはそれら支援団体の中にはフランシスコ会やイエズス会ら宗教団体にヴァチカンの大司教もまたそれらに加担していたという事実だ。当時のナチスの勢力の大きさが思い知らされる事実である。

そして南米のみならずアラブ諸国にも歓迎されていたことにも驚いた。アラブ諸国はユダヤ人を憎んでおり、彼らを徹底的に殺戮したナチスに共感していたのだ。
しかしイスラエル建国によって生み出されたユダヤ人とムスリムの軋轢の歴史を考えれば当然かもしれない。ナチスの人非人的行為よりもユダヤ人に対する憎しみや嫌悪感の方が深かったというのは何とも言葉に言い表せない。

そしてそれら巧妙に仕組まれた逃亡計画を解き明かすユダヤ人の執念も凄まじい。彼らナチス残党は国を変え、身分と名前を変え、各地の生活に溶け込み、元SSの将校や軍人や刑務所の所長だった人物が工場従事者になったり、農夫になったり、全く異なる生活基盤を築いている。
さらには散々ユダヤ人を殺害していながら医師となって開業しては、評判を得たり、最たるものではなんと自らをユダヤ人と名乗ってイスラエルに暮らす者もいる。

これほどまでに複雑化した逃亡劇はアメリカの証人保護プラグラムも真っ青の内容だが、それでも全世界に情報網を持つユダヤ人は何年、何十年もかけて宿敵を、怨敵を探し求め、探し当てるのだ。

小説の題材で隣の老人が実はナチスの残党だったという設定はよくあるが、確かにこの事実1つ1つを読むと、それが単なるフィクションではなく、あり得る設定として感じられるようになった。それほどこのナチスの逃亡劇は凄い。

なぜこのような人間が人間を家畜のように捕らえ、大量に屠殺するような行為が生まれるのか?
なぜヨーゼフ・メンゲレはユダヤ人の母親から赤ん坊を奪ってそのまま燃えさかる炎に入れたり、若い女性たちの血を抜き取ってふらふらになって抵抗できなくなってから焼却炉に投げ込んだり、強酸をかけて苦しみながら死ぬところを“嘲笑って”見ることが出来るのか?

それは彼らがユダヤ人を同じ人間だと思っていなかったからだろう。彼らはそのように教育されてきたからこそ、ユダヤ人たちを動物と同じように見れたのだ。
小さい頃から選民思想という歪んだ教育が成されてきたからこそ、道徳心が失われていたのだ。従ってナチス党員でもない看護婦や医師たちが知的障害者たちを安楽死させることを何の疑問も持たずに行ってきたこともまた歪んだ教育の産物なのだ。

今韓国や中国で反日感情を植え付ける教育が学校でなされており、今の若者に日本に対する抵抗心を持たせているが、これもドイツ人がユダヤ人に抱いた思想に重なる物を感じ、戦慄を覚えざるを得ない。

ドイツ人がユダヤ人を虐殺し、戦争終結後、今度はユダヤ人がドイツ人を追って暗殺する。そして今度はアジアでも同じことが起きようとするのかもしれない。残念ながらマイケル・バー=ゾウハーが本書を綴った60年代から世界は何も進歩していない。

復讐者たち〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
マイケル・バー=ゾウハー復讐者たち についてのレビュー
No.685: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

才能を活かすのも本人次第

東野圭吾公式ガイドブックによれば、本書のテーマは“才能って何だろう?”とのこと。
よく才能があると云われるが、それこそ曖昧な物ではないだろうか、そして後世に残る記録を残し、また世界的に活躍したスポーツ選手の二世が必ずしも大成するとは限らない。

そんな疑問に対して東野圭吾氏は実に面白い設定を本書で設定する。それはかつてオリンピックのスキー選手であった父親の娘がその二世としてめきめきと頭角を現しているが、実は血の繋がりの無い親子だったという物。

一方で遺伝子のパターンを研究する機関からその才能の片鱗を見出された一介の高校生がやったこともないスキーのクロスカントリー競技の選手として訓練を受ける。いやいやながらやりつつもその根拠が正しいことを証明するかのように日進月歩の勢いで記録を更新していく。

私がこの高校生の件を読んで想起したのはサッカーの日本代表選手長友佑都氏だ。
彼の無尽蔵と云えるスタミナはかつて両親の祖父がそれぞれ競輪選手、ラガーマンだったことから、持久力に関して良質な遺伝子を受け継いでいるのではないかと云われている。
この高校生鳥越伸吾は長友にクロスカントリーをさせればこうなるのではないかと私に思わせた。

しかし東野圭吾氏はよくもまあ謎を幾層も重ね合せた話を描くものだと読みながら感心した。

育児ノイローゼで妻を亡くし、男手ひとつで育て上げ、一流のスキーヤーへとなろうとしている娘が実は他人の子だった。
そして妻の遺品の中には娘の生まれた年に起こった新生児誘拐事件。
その記事に書かれていた名前の人物が自分を訪ねてきて、血判を渡され、DNA鑑定をすると果たして娘と一致した。
しかしその血判はその男の妻のものではない。
さらに娘に対して出された脅迫状はその男の手になるもので、さらに当人は娘が乗るはずだったバスに乗って、何者かによって仕掛けられたブレーキへの細工で事故に遭い、意識不明の状態になっている。

さらに妻の過去を調べるうちに、明らかに娘の容姿とそっくりの女性が見つかり、それが妻の友人だったことが判明するが、その女性は娘の生まれた年に赤ん坊の遺体と共に焼死体となって発見される。

なぜ真の父親と思われる人物の奥さんは娘に似ても似つかないのか?

なぜ父親と思われる人物は実の娘と思われるスキーヤーに脅迫状を送ったのか?

なぜその人物は自ら乗るバスに事故に遭う細工を施したのか?

娘の真の母親と思われる女性と発見された赤ん坊とは一体誰なのか?

単に赤ん坊を盗みだし、その罪の呵責に耐えかねて自殺したと思われた妻に纏わる事件は調べれば調べるほど謎が積み重なっていく。まさに謎のミルフィーユ状態だ。

しかしそれら全ての謎が明かされると、単純に見えた物語の構図を複雑にするためにかなり無理があったと感じてしまった。

新生児の誘拐事件から始まった事件は単なる子供のすり替えの話だけでは済まない複雑な構図が隠れていることに気付かされる。

しかし上にも書いたように逆にこれが作られた事件としか思えず、しかも全てが十分解決されたか判断すらできないのだ。
プロットを捻りすぎてしまったが故に本書のような単なる応えあわせになってしまった。まあこんなミステリもたまにはいいか。

さて今回のテーマ“才能”について再び考えてみよう。
先にも述べたように才能は親がスポーツ選手や有能な科学者など、ある能力に秀でた者ならばその遺伝子を引き継ぐだろうが、それによって親のように大成するかどうかはまた別の話だ。

自らの才能に胡坐をかいて努力を怠る者は親が成したような偉業は達成できないし、逆にそれが足枷になって自身の人生に臨むと望まざるとに関わらず、常に付きまとう疎ましい幻影となってしまう。

しかし才能に甘んじず、切磋琢磨し、偉大なる親を超えようと努力する者にとっては才能とは天から与えられたギフトである。
実際に世界陸上で華々しいデビューを飾ったサニブラウンは本書でも挙げられているスポーツの優性遺伝子である黒人のそれを受け継ぎ、日本人離れした記録や成績を次々と打ち立てている。

つまりその才能を活かすも殺すも本人の努力次第なのだ。

人が羨ましがるような才能が逆に苦痛の種となり、本当の夢を諦めざるを得なくなるのは本末転倒だ。しかし才能を見出した側にとっては他者にはない特殊な能力を使用し、伸ばそうとしないことは宝の持ち腐れであり、なんとも勿体ない話だ。
私に彼鳥越伸吾と同じ才能があった場合、私は云われるままに代表選手として日々練習に励むだろうか?
果たしてそれは解らない。鳥越伸吾の選択した道は彼の人生だからこその決断だ。
そこに本書の題名の答えがある。カッコウの卵は即ち持ち主自身の持ち物なのだ。それをいかに孵化させ、育てるかはまた当人次第なのだ。

1人の子を持つ親としてこのことは肝に銘じておかねばならない感がである。才能は親から受け継いだだろうが、それを使うか使わないかは本人の意思次第だ。
しかし親はその才能に気付かせる努力をしなければならない。それが親だからだ。

しかし逆に大人になって思うのは今の私は私の中にある才能を十分活かした職に就いているのだろうか?
私にはどんな才能があり、どんな分野で今よりも活躍できたのだろうか?
そんなことを知る術があればいいのにと本書を読んで強く思った。


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カッコウの卵は誰のもの
東野圭吾カッコウの卵は誰のもの についてのレビュー
No.684:
(8pt)

解っているつもりだった。でも違っていた。それが人生。

今回の事件はかつての倒錯三部作を復活させたかのような動に満ちた内容になっている。もはやマットにとってなくてならない親友となったミックに窮地が訪れ、それにマットも巻き込まれ、共に命を狙われる存在になっていく。

2人に関わる人間が次々と亡くなっていく。

男は幸せと安定を求め、結婚をする。結婚生活はその幸せと安定を持続することだ。
それがいつしか義務になり、手段が目的に変わるのだ。そんなとき、安定しているからこそ不安定を求めるようになる。なぜかと云われればそれが男だからだ。
不安定を求め、それに身を落とすことで自身の本当の生活が安定していることを再確認し、また戻るのだ。逆に不安定な状況にのめり込んで結婚生活を破綻させる輩もいる。それが男と云う生き物であり、性なのだから仕方がない。
私はこの件を読むことでマットの事が一層理解できるようになった。

そんな風に血肉を得た登場人物が衝撃的な死を迎える。さらに追い打ちをかけるようにその毒牙は伸びていく。

貌の見えない敵の正体を探るマットだったが、捜査に同行させたTJにけがを負わせてしまう。マットを狙った暗殺者の流れ弾に当たってしまうのだ。
幸いにしてTJは命を獲られるまでにはならなかった。本書の中での云い方をすれば彼は「リストに載らなくて済んだ」。

そしてミックは仲間を喪い、根城だったグローガンの店を失う。

世界中に伝承される破壊の女神は世界を焼き尽くす。それはまた新たな世界を作るための破壊である。
このマット・スカダーシリーズもまた本書で一旦全てを喪う。

マットもまた例外ではない。

全てを失い、そしてまた新しい日が始まる。恐らくこのシリーズもまた。

哀しい事ばかりが起きた作品だった。
それまで人伝えにしか解らなかったミック・バルーという男の凄まじさを知らされた作品だった。
シリーズを読みながらも驚きと知らないことがあることを気付かされる。それはまさに人生そのものではないだろうか。


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皆殺し (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック皆殺し についてのレビュー
No.683: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

小学生の肝が太すぎる!

今やホラーと本格ミステリを融合した刀城言耶シリーズで新しい旗手として注目されている三津田信三氏の初期の作品である本書は文庫書き下ろしのホラーど真ん中の作品だ。

東京の外れに位置するうっそうとした禍々しい森を湛えた武蔵名護池の盂怒貴町東四丁目に引っ越してきた小学校を卒業したばかりの棟像貢太郎が祖母と移り住んだ2階建ての一戸建ての借家はどこか禍々しい雰囲気を纏っており、彼の不安を裏切らず、次々と怪異が彼を襲う。

2階の自室に入るにはひたひたと彼に迫る得体のしれない足音を振り払わなければならない。

祖母が留守の時に家に帰れば、祖母の部屋からどこまでも伸びる蛇のような老人の手が襖から伸び、キッチンへ逃げ込めば首の無い四つん這いの女性の死体が徘徊する。風呂に入れば赤ん坊のような物が彼を湯船の中に引きずり込もうとする。

他の部屋に入れば死んだと思われた父親が現れ、幼き頃と同じように絵本を読んでくれたかと思えばいきなりおぞましい嗚咽を洩らし、首から鮮血を飛び散らす。

そんな家に住みながら、彼は祖母のことを思って引っ越そうと云わない。恐怖に襲われながらもそれを受け入れ生活を続ける彼の心の強さは只者ではない。
それは祖母と2人暮らしと云う決して裕福ではない家庭環境故に引っ越したばかりの家からすぐに引っ越すための新しい物件探しや、財政的にも苦しいという背景があるためなのだが、そんなことを小学校を卒業したばかりの少年が考えるのが奇妙なおかしみを与えている。

そんな得体のしれない怪奇現象の連続に遭遇しながら貢太郎が考えたことはかつて自分の住んでいる家に起こったであろう事件を調べる事だった。

その事件に行き当たってからのこの小説の内容は実にスリリングで驚愕に満ちている。
特筆すべきは恐怖を煽る小久保家の老人の意味不明な言葉の数々が調べるにつれて次第に意味を帯びていき、彼の家に纏わる忌み事の真相に繋がっていく。
これはホラーでありながら、その因果を解き明かす過程はミステリそのもの以外何物でない。

この次々と起こる怪奇現象と近所に残る忌まわしい事件、そして一家殺害事件を起こした狂える学生上野郡司と、ホラーのおぜん立てを十二分にしながら、ミステリとしてのサプライズも提供するこのサービス精神の旺盛さ。彼は最初から本格ミステリの心をホラーの土壌に立つ作家だったのだと認識させられた。

そしてホラー特有の、全ては終わらず、因果は巡る終わり方も実に好ましい。これが文庫書き下ろしで読めるとは実に贅沢。

本書は三津田信三にとってはほんの自己紹介のような作品だろうが、私は十分にホラーと本格ミステリの妙味を堪能した。いやぁ、怖かったなぁ、本当に。


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禍家 (光文社文庫)
三津田信三禍家 についてのレビュー
No.682: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

管理社会のシステムが生んだ歪み

映画化もされた東野圭吾氏の近未来警察小説とでも云おうか、国民のDNA情報から犯人を割り出すDNAプロファイリングの罠にはまった技術者の物語だ。

幼き頃のある悲劇的な経験から人をデータとしてしか捉えられなくなった主人公神楽龍平は自ら構築したDNA捜査システムで自身を犯人と指摘され、逃亡者となる。

彼の同行者となるのがスズランなる謎めいた少女。彼は二重人格者である神楽のもう1つの人格リュウが現れた時に姿を現し、彼の絵のモデルとなっていた少女だが、彼女は神楽がリュウである彼を愛し、一緒になりたいと願う。しかしその存在は神出鬼没で読者は彼女が実在するのか幻想の賜物なのか、判断がつかないまま物語を読み進めることになる。

本書で取り上げられているDNA捜査システムとは端的に云えば日本国民全てのDNA情報をデータとして取り込むことで犯罪者を特定するシステムだ。それは現場に残された容疑者の遺留物からDNA情報を採取し、進呈的特徴や癖、習慣などを割り出すのみならず、容疑者に近い親族の情報を割り出して人物を特定し、さらにその情報を基に容疑者の顔を画像として作成するほど高度なシステムだ。

但し膨大なDNA情報から容疑者を絞り込むには途轍もなく高速化された演算能力を持つコンピューターが必要である。本書ではサヴァン症候群患者である蓼科早樹という天才的数学者によって開発された画期的なプログラムでそれを可能としたのだ。

このDNA捜査システムを読んで想起したのは住基ネットである。これは単に住所、氏名、年齢といった本人を取り巻く外的情報でしかないが、これもまた警察と政府によって仕組まれた国民管理構想の一端のように思えてならない。従ってもしDNA情報まで保存・管理・検索できるスーパーコンピューターが開発されれば本書のような捜査システムが構築されるのは時間の問題なのかもしれない。

情報を操る者は情報に操られるというのが高度情報化社会での皮肉な現象だが、今回の主人公神楽もまた高度なDNA情報を利用したファイリングシステムを構築していながら、自分自身が容疑者として検出される実に皮肉な運命が待ち受けていた。
かつて高名な陶芸家だった父親が、陶芸ロボットによる贋作が出回った時代に、自らの作品には機械などが再現できない創作者の思いや魂が込められていると断言しながらも、贋作であることを見破れずに自ら命を絶ったことで父もまたデータの1つに過ぎず、つまりデータは間違えない、そしてデータ化されるDNA、遺伝子は嘘つかないと絶対視してきた男がそのデータによって裏切られ、窮地に陥る。

エンタテインメントの手法としては古くからハリウッド映画でも題材にされてきたテーマだろう。しかしこれを絵空事と思っていいものだろうか?
上に書いたように、既に我々の情報は公共機関によって管理されている。それが機械のミスで、いや故意に人為的に操作されて自分がある日突然犯罪者に仕立て上げられる可能性もあるのだ。このデータは嘘をつかない、機械はミスをしないと信じる盲信性こそが現代社会に生きる我々の最大の敵ではないだろうか。

題名となっているプラチナデータは物語終盤になって登場する。

完璧な正義など存在はせず、大なり小なりの悪が存在しながら社会は機能している。
東野氏は自身の公式ガイドブックの諸作の自己解説でところどころで上のようなことを述べている。従って東野作品は個人の力ではどうしようもないことに対して非常に自覚的である。
それが故に彼の作品は勧善懲悪的に悪が必ず罰せられる結末を迎える作品は少なく、どこか割り切れなさと現実の厳しさというほろ苦さを読後に残す。

果たしてこれは来るべき未来に対する東野氏からの警鐘なのだろうか。裁かれるべき者が、巨悪がさらに大手を振って世間に幅を利かせる世の中になっていく。
ここで書かれた未来はなんとも暗鬱だ。


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プラチナデータ (幻冬舎文庫)
東野圭吾プラチナデータ についてのレビュー
No.681:
(7pt)

これほど微笑ましい殺し屋の物語がかつてあっただろうか?

今なお続く殺し屋ケラーシリーズ。本書はそのシリーズ最初の作品であり、短編集である。

まず最初の「名前はソルジャー」は『夜明けの光の中で』にも所収されており、既読なのでここでは感想を割愛するが、この作品は一度目よりも二度目の方がケラーがどうして仕事、つまり殺しを実行する気になったかが如実に解るような気がする。

「ケラー、馬に乗る」では飛行機を乗り継いでワイオミング州のマーティンゲイルへ赴く。
小さな町でケラーが出くわす奇妙な人間関係が本作では面白い。殺し屋のターゲットが浮気相手の女性の父親であり、さらに彼女は亭主を殺したがっている。そしてその亭主にも当然浮気相手がいてそちらを愛しており、結婚したがっている。
この物語に確かな答は出てこない。あるのは結果だけだ。そして些末なことに囚われないのがケラーという男なのだ。

続く「ケラーの治療法」ではケラーは精神科医のカウンセリングを受けている。
ケラーが精神科医とカウンセリングを続けるうちに読者は徐々にケラーがどういう男なのかを知ることになる。彼の本名がジョン・ポール・ケラーであること、1作目でも語られた子供のころに飼っていた犬ソルジャーの話に父親の話と、彼の生い立ちや素性を知るだけでも貴重な一編と云えよう。
そしてこのどこへ向かうのか解らない物語は急転直下を遂げる。何とも云えない読後感を残す作品だ。

そしてその犬ネルソンがケラーに思わぬ効果をもたらすことを知らされるのが次の「犬の散歩と鉢植えの世話、引き受けます」だ。
ケラーの短編は時系列に並べられており、その前の短編で書かれた内容がその後の短編にも関係してくるのだが、本書ではそれが顕著に表れている。

そのアンドリアとの関係に一つの答えが出るのが続く「ケラーのカルマ」だ。
とてもヒットマンが主人公の物語とは思えないほど、人間味が溢れている。

「ケラー、光り輝く鎧を着る」と一風変わった題名の本作では依頼斡旋人のドットがホワイト・プレーンズのオフィスを飛び出し、ケラーを訪ねてくる。
しかしそれよりもケラーの依頼人であるホワイト・プレーンズの男が前作から調子を悪くしているのが気になる。こういう短編同士を貫く軸があるから次が楽しみになるのがこの殺し屋ケラーの醍醐味と云えよう。

「ケラーの選択」は実に面白いシチュエーションだ。
恐らく殺し屋稼業をテーマにした作品ではありえない間抜けな内容だ。これもケラーシリーズだからこその面白さと云えよう。
そして本作ではそれまでの展開から極端に変化が訪れる。それはまた後で述べることにしよう。

そして「ケラーの責任」ではそれまでの殺し屋物には似つかわしいほどほのぼのとしたムードから一転してケラーの苦悩と殺し屋としてのプライドが描かれる。
人を殺す生業の男があろうことか、昔取った杵柄で人命救助してしまう。それが基でケラーはターゲットである名士ギャリティに気に入れられ、さらにケラー自身も彼の事を気に入ってしまう。この殺し屋のジレンマを抱えたこの物語は意外な展開を見せる。
こんな男らしい物語を読まされると実に堪らない。

「ケラーの最後の逃げ場」ではケラーは突然愛国心に目覚める。
殺し屋ケラーも詐欺に掛かるのだということを教えられた。しかしこれはケラーをはめたバスコウムを褒めるべきか。
聡い読者ならすぐにケラーに依頼するバスコウムの胡散臭さが解るところが寧ろ本作の面白さではないだろうか?

そしてこの短編集の最後を飾るのは「ケラーの引退」だ。
ケラーの引退で幕を閉じると思われたこの短編集。新たなシリーズの幕明けを告げ、本は閉じられる。
しかし切手収集が趣味な殺し屋とは、ブロックは何ともおかしな趣味をケラーに与えたものだ。


古くは不眠のスパイ、エヴァン・タナー、そして無免許探偵マット・スカダーに泥棒探偵バーニイ・ローデンバーに短編集のみ登場する悪徳弁護士エイレングラフとブロックのシリーズキャラクターは実に個性的なのだが、そこにまた新たなメンバーが加わった。
それは殺し屋ケラー。
黒い表紙に都会の片隅を想起させる湿った路地の写真と銃痕で穴の開いた窓の意匠に「殺し屋」の文字。装丁から想起されるのは非情で孤独な男の世界なのだが、しかしこの殺し屋に纏わる話は実に奇妙なのだ。どのシリーズにもないどこか不条理感を伴っている。

しかしそれもシリーズを読み進めるうちに読者にケラーの素性が解ってくるに至り、何を考えているのか解らなかったこの男が実に人間臭い人物になってくるのだ。

これが殺し屋の物語かと見紛うほど、ほんわかする内容だ。

つまり読み進むうちにケラーの変化を同時に読者は感じるようになり、次の展開が非常に気になる作りになっている。

しかしそんな読者、いや私の期待を次の「ケラーの選択」で見事に裏切る。
これはシリーズの広がりを期待しただけに非常に残念なシチュエーションなのだが、実はこの作品から物語のトーンが変わり、実に読み応えが増している。

この後に続く「ケラーの責任」はMWA賞受賞作に相応しい傑作だ。本作のケラーは実に深みがあり、孤高の殺し屋としての流儀を重んじる人物になっている。
彼は思いまどいながら殺すのを躊躇うターゲットに対して責任を果たすことこそが餞になると決意するのだ。この心理こそが殺し屋の殺し屋たる仁義とも云えよう。個人的ベストに迷わず挙げよう。

そしてケラーが見事に詐欺に引っ掛かってしまう「ケラーの最後の逃げ場」を経て「ケラーの引退」で一旦幕を閉じる。

しかし殺し屋を主人公にしながらこのヴァラエティーの豊かさはどうしたものだろう。まさにブロックはアイデアの宝庫であり、ノンシリーズのみならず連作短編でさえもその瑞々しさは損なわれることがないことを証明した。

男臭さの宿る装丁で手に取ることを敢えて躊躇っているならばそれは実に勿体ない話だ。この物語世界の豊かさは寧ろ男性よりも女性に手に取ってほしい色合いを持っている。
ケラーの、どことなく思弁性を感じさせる彼独特の人生哲学と、仕事斡旋人のドットとの掛け合いの妙を存分に堪能してほしい。殺しを扱いながらこんなにも明るい物語に出遭えるのだから。
この二律背反を見事に調和させたブロックの職人芸、ぜひとも堪能していただきたい。


▼以下、ネタバレ感想
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殺し屋 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック殺し屋 についてのレビュー
No.680:
(7pt)

邦題は秀逸だが…

戦争小説でデビューし、その後も冒険小説、スパイ小説と様々なテーマを題材にしてきたマクリーンが今回選んだ題材はF1レースの世界。ある日突然トラブルに見舞われるようになったトップ・レーサーを取り巻く不審な事故を巡る物語だ。

本書ではもはやマクリーン作品の特徴となった、前段がなく、いきなり事件の途中から物語は始まる。そして稀代のトップ・レーサーと称されながらも、最近自殺行為とも云える際どいレースを繰り広げるジョニー・ハーローの一匹狼的な事件の調査をメインに物語は進行する。

マクリーンはジョニー・ハーローに対して外的描写のみで語るため、彼の心中は他の登場人物同様、読者には全く解らない。
本書ではいきなりレース中の事故で他チームのレーサーを死なせてしまう事件から幕を開けるため、まず読者にはジョニー・ハーローが作品で語られるほど凄腕のレーサーとは思えず、寧ろ心理の読めない孤高の、悪く云えばいけ好かないレーサーと映り、正直感情移入がしづらい人物となっている。そんな彼の真意は物語の最後に語られる。

一流レーサーともなると度胸とハートの強さが要求されるが、彼はまさに一つ抜きん出たメンタルの強さを持った人物と云えよう。その裏付けとして一連の事件に加担した人々に対して眉一つ動かさずに非情な制裁を加えることを全く厭わないことが挙げられる。
その冷徹ぶりはもはや一介のレーサーを通り越して、数々の修羅場を経験したエージェントのような趣さえある。

本書はマクリーン作品では実に読みやすい作品で、つっかえるところなく、クイクイ読めるところがいいのだが、その反面、マクリーン特有のメカに対する詳細な描写がほとんどないのが気になった。
ヨーロッパでは有名なモータースポーツに詳細な専門用語を並べることはもはや意味がないとまで思ったのか。いやそれとも晩年の作品は取材する時間をほとんど取らずにテクニックで小説を著していたのか、今となっては解らないが、マクリーンらしい熱が足らない作品だった。題材がそれまでのマクリーン作品の中でも異色だっただけにこれは実に惜しい。

真相も今にして思えばどちらかと云えばありきたりの内容だ。マクリーンの衰えを如実に感じさせる作品だったことが非常に残念だ。


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歪んだサーキット (ハヤカワ文庫 NV (255))
No.679:
(7pt)

チャーリー・マフィンシリーズへの大いなる助走?

フリーマントル4作目の本書ではアメリカ次期大統領の有力候補と目されるアメリカ大使が大統領選を優位に運ぶためにソ連に対して行った駆引きに巻き込まれる老スパイとイギリス人大富豪の姿を描いた作品だ。

フリーマントルの定番とも云えるスパイ物だが、本書に登場するのはナチス時代に収容所に入れられ、屈辱の日々の末に解放され、スパイとなったユダヤ系オーストリア人フーゴー・アルトマン。彼はアメリカとソ連の陰謀の渦中に否応なく巻き込まれる。

しかし本書では各国政府の思惑の狭間に翻弄されるのは老スパイ、フーゴー・アルトマンだけではない。上に書いたように作戦成功のキーマンとしてロシアによって標的にされたイギリスの大富豪でアメリカ次期大統領候補ジェイムズ・マレーの義弟であるジョスリン・ホリスもまた運命と云う名の歯車に巻き込まれる。彼はロシアに仕組まれたアルトマン、チェコ貿易相コーデス、東ドイツ貿易相ユンカースらによって国際的取引を持ちかけられることでスパイ容疑を掛けられる。

今まで順風満帆だった実業家がある巨大国家の思惑によって囮スパイに仕立てられるこの恐怖。知らず知らずに知り合った外交官が実は共産主義国から送り込まれたスパイだったことで自身にも容疑が掛けられる、まさに突然の災厄以外何物でもない。
本書にもちらりと出てくるがいわゆるキム・フィルビー事件に関わった人々は同様の恐怖のどん底に陥れられたことだろう。

ところで2、3作目に続いてフリーマントルは本書でも収容所に入れられた男を題材に選んでいる。恐らくは収容所をストーリーに絡めた2作目を著すに当たり、取材の過程でたくさんのエピソードを手に入れたのだろう。そしてそれらのエピソードを1つの物語に圧縮するには分量が多すぎて、3作も連続して収容所に纏わる男たちを主人公にした物語を綴ったのではないだろうか。

凄腕の、国に貢献をしたピークを超えた一介のスパイが、その実績ゆえにそれぞれの国の暗部を抱えていることを危惧した政府によって抹殺されることを余儀なくされ、どうにか自分の運命に抗う姿を描くのはフリーマントル作品には多々ある構成だ。そしてそのどれもが悲劇的な結末を迎え、読者を暗鬱な気持ちにさせる。

それは本書でも例外ではなく、熟練の老練さでロシア外相の指令に従い、行動し、自らのアメリカへの亡命をも成功させようと企むアルトマンの末路は想像以上に悲惨だった。

こう考えると用無しとみなされたスパイの悲劇的な末路を描くフリーマントル流常套手段を打ち破ったのが今なお新作が書かれている窓際スパイ、チャーリー・マフィンシリーズだろう。
そして同シリーズは第1作目が本書の後に書かれるのだ。

つまりこのフリーマントル的悲劇を知る者にとっては実はチャーリー・マフィンシリーズとは彼の作品群の中で異色の部類に入ると云えるだろう。

さて題名『十一月の男』は原題“The November Man”そのままである。この11月とは即ちアメリカ大統領選挙の行われる月を指す。
しかし一方で陰謀の渦中に飲み込まれようとしている富豪ジョスリン・ホリスもまたこの11月に大きな取引を控えていた。そしてアルトマンは来るべき11月を迎えることはできなかった。“Man”と原題では単数形が用いられているが、本書は男たちそれぞれが迎える11月を指しているのではないだろうか。

しかし毎度暗鬱になる物語を書く作家だ、フリーマントルは。
これらの作品群があって次作の『消されかけた男』が光るのかもしれない。今なお書かれ継がれるそのシリーズのマーケット戦略は見事に成功したわけだ。
それを当時のフリーマントルが実際に考えていたかどうかは解らないのだけれど。


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十一月の男 (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントル十一月の男 についてのレビュー
No.678:
(7pt)

先入観をもたずにどこまで読めるか

今では次世代を担う作家の1人となった道尾秀介氏のデビュー作が本書。ホラーサスペンス大賞の特別賞を受賞して刊行された。ちなみに大賞は沼田まほかる氏の『九月が永遠に続けば』だ。

さてそんな彼のデビュー作は怪異現象を解き明かす霊現象探求所なる物を開業している真備庄介が登場し、そしてそのパートナーは道尾秀介という作者と同姓同名のホラー作家という、探偵=作家の構図を持った作品である。

背中に眼のような物が写った奇妙な写真の被写体になった者たちが次々と変死を遂げる。その事件の発端となった福島県の山中にある白峠村には忌まわしい天狗伝説があり、4人の子供がいなくなるという神隠しの事件も起こっていた。さらには隣の町では霊の視える少年がいて、2人に関わっていく。

物語は怪奇現象としか思えない土俗的な伝奇色を濃厚にしていく。私は上にも書いたようにこの後の作品が続々と『このミス』でランクインされる道尾作品の本作は当時京極夏彦の百鬼夜行シリーズを髣髴させるという世評もあって、本作をホラーと見せかけて合理的な解決が成されるミステリだと思い込んで読んでいた。

しかし物語はすっきりと解決されない。合理的な解決でありながらもどこか割り切れなさの残る、中途半端な読後感が残ってしまった。

この一見合理的でありながらも不確かな物に解決を求める真相に今の私は正直戸惑っている。齢四十を過ぎると人間の心の不思議さや状況が人の心に及ぼす思いがけない効果などに対しても頑なに否定せず、納得できるようになったと思っていたが、それでもなお腑に落ちなさが残る真相、物語の閉じ方である。
そして今さらだが本書がホラーサスペンス大賞の特別賞受賞作であることに気付かされた。つまり本書はやはりホラー小説だったのだ、と。

物語にふんだんに盛り込まれる地方の因習や伝承に加え、実在する童話に少年殺しの意外な真相を絡め、更には東海道五十三次の一幅の絵を福島の山奥に残る天狗の忌まわしい殺戮の歴史に重ねて殺人者の狂気へと導くプロットはとてもデビュー作とは思えないほどの完成度だ。
しかしやはりもやもやとした割り切れなさが残るのは正直否めない。
先入観と云う物は全く恐ろしいものだ。
次こそはまっさらな心で物語に臨みたいものだ。


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背の眼〈上〉 (幻冬舎文庫)
道尾秀介背の眼 についてのレビュー
No.677: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

奇数章である意味は?

S&Mシリーズ後期の始まりと云える本書は実に変わった趣向が施されている。それは奇数章しか存在しないのだ。
では偶数章はどこへ行ったのかと云うと、それは次作『夏のレプリカ』で書かれる。それは冒頭のみ登場する西之園萌絵の高校時代の友人、簑沢杜萌の身に起こった事件だ。
つまり本書と次作は2作で1つの大きな物語を語っていると云えるだろう。

このような趣向はアメリカの海外ドラマで別のシリーズのキャラクターが登場し、各々の作品の話に影響を及ぼす、いわゆるクロスオーヴァーという趣向に実に似ているが、読後の今は次に語られる事件がさほど本作には絡んでいないように感じたので、その是非は次作を読んでからにしたい。

さて本書ではまたもや密室殺人が扱われているが、それまでのシリーズ作品と違い、鍵の掛けられた状態での密室ではなく、衆人環視の中でマジシャンが殺される、いわば開かれた密室である。

本書で提示される謎は4つ。
先述した衆人環視の中での有里匠幻というマジシャンが何者かによって背中にナイフを突き立てられ絶命する事件。

そしてその匠幻の葬式で霊柩車に乗せられた棺から忽然と匠幻の死体が消えうせる謎。

さらに匠幻のトリック製作を担っていた工場の社長菊池泰彦の死。

そして最後は有里匠幻の弟子の1人、有里ミカルが爆破解体されるビルから脱出するマジックで死体となって発見される事件。

4つの謎に3人の死とミステリとしてはこの上もない充実ぶりだ。

そんな陰惨且つ幻想的な殺人事件の犯人は実に意外な人物だった。

そしていつも思うのはこのシリーズの事件解決に至るまでの時間が実に長いことだ。
今回のマジシャン有本匠幻が衆人環視の中で殺害される事件が起きるのが8月の第1日曜であり、事件解決は9月の第2土曜日以降である。つまり最低1か月半は経っているのだ。
これは本書の探偵役である犀川創平は事件解決に積極的でないことに起因するだろう。彼の関心は自分の研究題材であり、そして西之園萌絵であり、決して事件の謎ではない。彼が事件に向き合うのは事件に積極的に関わる萌絵に危機が訪れた時だ。彼は望まざる形で事件に関わり、そして誰よりもその真実をいち早く見抜くのだ。しかし彼の関心が事件にないために事件解決まで、いや西之園萌絵が事件の真相に肉迫するまで解決されないのだ。

そして事件のエピソードには萌絵の大学生活に纏わるイベントが盛り込まれており、今回は大学院受験の真っ最中である。この辺は大学生活を経験した者には案外ノスタルジイを感じるのかもしれないが、大学生活を知らない者や萌絵自身に関心のない読者にとっては全く以て「それで?」と呟いてしまうエピソードではある。

そして色恋沙汰は西之園萌絵と犀川創平の関係だけではない。サブキャラクターである院生の浜中深志にもとうとう我が世の春が訪れる。彼に恋人らしき存在が出来る村瀬紘子という同じN大学の文学部の1年生が彼と付き合うことになる。

そして愛知県警の若手刑事たちで西之園萌絵と定期会合を行う<TMコネクション>なるファンクラブめいたサークルも出来るに至って、ますます西之園萌絵に嫌悪感が増してしまうのは私だけだろうか。

さて前作『封印再度』に続いてまたもやタイトルで唸らされてしまった。
ストーリーとタイトルがマッチするとこれほどまでにカタルシスを感じるのかと再認識した。後は本書で感じた違和感を次作で払拭されることを期待しよう。



▼以下、ネタバレ感想
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幻惑の死と使途―ILLUSION ACTS LIKE MAGIC (講談社文庫)
森博嗣幻惑の死と使途 についてのレビュー